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世界人口は20世紀初頭の16億5000万人から大幅に増加し、20世紀の終わりには60億人になっていた。地球の人口は今後も、このような驚くべきペースで増え続けるのだろうか。この千年紀に人口爆発は起こるだろうか。こうした複雑な問題に取り組む専門家は人口統計学者と呼ばれ、その研究分野は人口統計学と称される。 「ウェブスター辞典」は人口統計学をこう定義している。「人口集団の統計学的研究。[特に]規模・密集度、分布、および動態統計を対象とする研究」。専門家たちは、人口に多大な影響を及ぼす三つの要素を研究する。つまり、出生(生まれた子どもの数)、死亡(亡くなった人の数)、そして移動(ある地域から別の地域へ移った人の数)である。 歴史人口学は、過去における人口の増加や変動を研究する学問。歴史人口学者は、古代文明の詳細を知るために、文字情報、遺跡、骨、その他の遺物を綿密に調べる。歴史人口学は、憶測と科学という二つの顔を持っている。「世界人口史アトラス」はこう述べている。「歴史人口学者の立てた仮説の真偽は、現在の技術水準では検証できない。よって、統計学で言うところの信頼性を期待するのは非現実的である」。とはいえ、人口統計に基づく推測は聖書を研究する人たちの興味をそそるものである。というのは、多くの場合、そのような推測が聖書の記述と調和するからである。
2005年03月31日
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エイズが広まっているこの時代、乱交は間違いなく危険である。それでも、多くの若者はセックスを単なる無害な遊びと見ているようである。例えば、米国のある若者たちは、“フックアップ”― 行きずりの性行為を無害なように述べた婉曲表現 ―のことをなんでもないことのように話す。また、“都合のよい友人”― 感情面の要求をしないセックスの相手 ― を持つことを話題にする。 著述家のスコット・ウォルターは、郊外に住む若者たちが親の帰宅前に開く乱交パーティーについて書いている。あるパーティーでは、一人の少女が「その場にいる男の子全員とセックスをする」と宣言した。そして「まだ12歳の子どもたちもパーティーに参加していた」のである。 衝撃的だろうか。若者の性行動を研究してきた専門家にとっては、そうでもない。「過去20年間、性行為を行なう若者の平均年齢はますます低下している。12歳で性行為を始める少年少女も今では珍しくない」と、アンドリア・ペニントン博士は書いている。 USAトゥデー紙に掲載された以下の報告は特に痛ましいものである。「国内で、オーラルセックスをする……十代前半の若者が増えている。……子どもたちは、『これは実際にはセックスではない』と自分に言い聞かせている。1万人の少女を対象にしたある調査によれば、「80%が自分は処女だと述べたが、25%はオーラルセックスの経験があった。27%はその行為を『男の人と遊びでやること』と述べた」。 セックスに関するこうした見方は他の国々にも浸透している。「アジアの若者は、以前より若くして性的に活発になる人が多いため、異性との関係を通してHIVにますます感染しやすくなっている。……十代の若者は結婚前に、たいてい複数の相手と性関係を持つことによって、親が持つ“アジア的な価値観”をますます無視するようになっている」と、ユネスコは報告している。 若者が苦悩していることを示す別のしるしがあるだろうか。「16歳から19歳の女性の25%が、大うつ病を経験する」と、カナダの「ウィメンズ・ヘルス・ウィークリー」誌は述べている。とはいえ、うつ病は男女双方がなる病気である。US・ニューズ・アンド・ワールド・リポート誌によれば、米国では毎年5000人もの若者が自殺する。理由は分からないが、その記事によれば「少年の自殺率は少女の6倍」とのことである。 今日の若者の世代は間違いなく、大いに問題にぶつかっている。この危機の背後には何があるのだろうか。
2005年03月31日
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卑わいな話は、何も今に始まったことではない。ほぼ2000年前の使徒たちの時代にも、卑わいな言葉が使われていたと聞くと、驚かれるだろうか。例えばコロサイ会衆には、怒った時に卑わいな言葉を口にする人がいたようである。故意に相手を攻撃するためか、感情を傷つけるためだったのだろう。もしかしたら、仕返しとしてそうしたのかもしれない。同様に今日でも、怒りをぶちまける時に卑わいな言葉を使う人は少なくない。であるから、コロサイの人々にあてたパウロの手紙は、現代にも当てはまる。パウロはこう書いた。「そうしたものを、憤り、怒り、悪、ののしりのことば、またあなた方の口から出る卑わいなことばを、ことごとく捨て去りなさい」。(コロサイ 3:8)明らかに、クリスチャンは、腹立たしい時にしてしまいがちな、怒りを爆発させることや卑わいな言葉を発することをしないように、と訓戒されている。 もちろん、多くの人は、相手を攻撃しようとか傷つけようとか思って卑わいな言葉を使うわけではない。大抵は、軽い気持ちで使うのかもしれない。そのため、下品な表現は日常の話ことばの中に深く入り込む。冒とく的な言葉を使わないと意思を伝えられない、と感じる人さえいる。卑わいな言葉は、他の人を笑わせるためにもよく使われる。では、そのような卑わいな冗談を、大した問題ではない、許容できる程度の悪とみなしてよいだろうか。以下の事柄について考えてみたい。 卑わいな冗談とは、面白がらせようとして際どい話をすることである。今日では、性的な事柄に関係した話が専らである。そして、自分のことを下品とは考えていない人々の中にも、そうした話を面白がる人は少なくない。(ローマ 1:28‐32)であるから、多くのコメディアンが、変態的行為も含め性行動をネタにするとしても驚くには値しない。テレビやラジオ番組だけでなく多くの映画も、卑わいな冗談を売り物にしている。 聖書は、卑わいな冗談の是非に関して何も述べていないわけではない。使徒パウロは、エフェソスのクリスチャンにあててこう書いている。「聖なる民にふさわしく、あなた方の間では、淫行やあらゆる汚れまた貪欲が口に上ることさえあってはなりません。また、恥ずべき行ない、愚かな話、卑わいな冗談など、ふさわしくない事柄があってもなりません」。(エフェソス 5:3、4)明らかに、卑わいな言葉や話は、どういう意図で話されるにせよ、神を不快にさせる。それは道徳に反しており、人を傷つけるものなのである。
2005年03月31日
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米国立薬物乱用対策研究所の報告によれば、同国で十代の若者の約半数が高校卒業前に違法薬物を試す。さらに、「今日の十代の若者の間では、アルコールの使用が依然としてかなり広範に及んでいる。生徒の5人に4人ほど(77%)が高校卒業前にアルコールを(単に一口二口ではなく)飲んだことがあり、ほぼ半数(46%)は8年生の段階ですでに飲んでいた」とある。
2005年03月30日
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ほかにも、インターネット:デートには危険が潜んでいる。毎日接する人たちよりネット上の友達のほうが現実的に思えてしまうかもしれない。そして、家族や友人、それに数々の責任が二の次になってしまう。オーストラリアのある若い女性は、「ネット上で出会う人たちと多くの時間を過ごして、大切な人たちとの関係をおろそかにするようになりました」と言う。そのことに気づいた時、彼女は心が痛み、出会いのためにインターネットを利用するのをやめようと決意したそうである。 もちろん、平衡を取りながらインターネットを用いている人は大勢いる。Eメールは、友達や家族と連絡を取り合うのに非常に有効な手段となる。とはいえ、あなたも、直接会うのが一番だと思われるのではないだろうか。性的な欲求が頂点に達する「若さの盛りを過ぎて」いて、結婚に関心があるなら、あなたは人生における極めて重要な選択を行なおうとしていることになる。(コリント第一 7:36) 「経験のない者はすべての言葉を信じ、明敏な者は自分の歩みを考慮する」と、聖書は述べている。(箴言 14:15)会ったこともない人からのメールの内容をすべて信じるのではなく、自分の歩みを注意深く考慮することは大事である。実際に会って友達になるほうがはるかに賢明ではないだろうか。その人と本当に気が合うか、とりわけ霊的な目標や価値観が一致しているか、確かめることをお勧めしたい。そうした交際は、真に幸福な結婚につながることだろう。
2005年03月30日
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「祝福とのろいが、同じ口から出て来るのです。わたしの兄弟たち、こうした事がこのようにして続いてゆくのは正しくありません」。―ヤコブ 3:10。 話すという能力は、人間の特性の一つであり、他の動物にはない。しかし残念なことに、この賜物を誤用する人がいる。侮辱、悪態、不敬な言葉、冒とく、下品な話、卑わいな言葉は、人の感情を害することがあり、時として身体的な負傷よりも痛手となる。聖書は、「剣で突き刺すかのように無思慮に話す者がいる」と述べている。―箴言 12:18. ののしったり悪態をついたりすることが日常生活の一部になっている人が増えている。学校からの報告によると、子どもたちが汚い言葉を使う頻度は高くなっている。しかし、人の気分を害するような言葉も、感情を発散させる手段としては益になり得る、と言う人もいる。政治学専攻のある学生は、「普通の言い方ではこちらの気迫が伝わらない場合、汚い言葉を使うことは強力な一手になるはずだ」と書いている。クリスチャンは(そうでない人であっても)、人の感情を害する言葉を発することに対してそのような無神経な態度を取ってもよいのだろうか。神はそのことについてどうお考えなのだろか。
2005年03月30日
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米国、15歳の生徒が同級生に発砲、二人が死亡、13人が負傷 ロシア、酔った若者の一団が9歳の少女を虐殺、その父といとこに暴行を加える。 英国、17歳の少年が年下の少年を殴り、ナイフで刺す。「始めは殺すつもりはなかったけど、血を見たら自分を抑えられなくなった」と警察に供述。 こうした衝撃的な事件は珍しくない。特異な事例として片づけるわけにはいかないのである。「若者の暴力は現代社会の大問題である」と、「学校カウンセリング研究」の記事は述べている。統計もこれを裏付けている。 全米教育統計センターは、米国で校内暴力の報告件数は幾らか減少しているとはいえ、「校内で12歳から18歳までの生徒が被害にあった暴行や窃盗など、死者は出ていない犯罪が2001年に約200万件あった」と述べている。学校でのいじめの報告件数も増加している。 とはいえ、米国で若者の暴力は生徒以外にも向けられている。「1997年から2001年までの5年間に、校内で教師が被害者となった、死者は出ていない犯罪はおよそ130万件あり、窃盗が81万7000件、暴行が47万3000件だった」と、同センターは述べている。さらに、「小学校から高校までの教師の9%が生徒から危害の脅しを受け、4%が暴力を受けた」とのことである。 他の国の状況はどうか。「中国で2003年に逮捕された少年犯罪者は6万9780人に上った。これは2002年に比べて12.7%の増加」と一通信社は報じている。同じ記事には、「非行集団による犯罪が少年犯罪の70%を占めている」とある。2003年の日本の報告も、それ以前の10年間の犯罪の半数が若者によるものだった、と述べている。
2005年03月29日
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当然のことながら、ネット恋愛を望む人たちはたいてい自分の良い点は誇張して作り上げ、重大な短所はできるだけ小さくして隠そうとする。さらに、ワシントン・ポスト紙は、「インターネット・デートは害になる場合がある。欺かれてしまうからだ」という著述家の言葉を引用した後、こう述べている。「自分の性別を偽る人も多くいる。……所得額や、……人種、犯罪歴、精神病歴、既婚か独身かなどは、相手との関係が深まるまで秘密にされる場合が少なくない」。インターネット・デートでだまされたつらい経験を語って注意を呼びかける人は大勢いる。 霊的な立場という非常に重要な点でも、うそをつくことがあるのだろうか。残念ながら、そうである。真のクリスチャンではないのにそうだと主張する人もいる。どうしてうそをつくのだろうか。すでに述べたとおり、インターネットではうそをつくのが容易だからである。ある若い男性は、「コンピューターの画面に文字を打ち込んでいる時、別人に成り済ますことなど非常に簡単です」と認めている。 こうしたうそを軽く考え、交際を始める時に多少うそをつくのは当たり前だといって正当化する人は少なくない。しかし、神はうそを憎まれるということを忘れてはならない。(箴言 6:16-19)そのことにはもっともな理由がある。この世の苦悩や不幸の多くは、うそに起因しているのである。(ヨハネ 8:44)不正直さは、どんな人間関係においても、最も貧弱な土台となる。一生続く結びつきを望んでいるのであれば特にそうである。なお、悪いことに、不正直さは霊的な面でも危険を及ぼし、神との関係を損なう。 残念なことに、別の種類の不正直さに屈してしまった若者もいる。インターネットを使って交際を始め、それを親に内緒にしているのである。例えば、十代の息子を持つある夫婦は、自分たち家族と同じキリスト教の信仰をもたない若い女性が突然遠方からやって来たので、おどろいた。息子がその女性と半年もネット上でデートをしていたのに、その時まで何も知らなかったのである。 親は、「一体なぜ」と言った。『うちの子に限って、会ったこともない人と恋に落ちたりするはずがない』と思ったのである。しかし、実のところ、息子は親をだましていた。自分が本当はどんな者であるかを隠していたのである。そうした欺きは人と交際するための良い土台にはならない、と思われないだろうか。
2005年03月29日
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なぜ人々には宗教が必要なのだろうか。人間は不安定な世の中で安心感を得るために、霊的な事柄をよりどころにすると言う人もいるだろう。しかし、宗教にはそれ以上のことが関係している。「アメリカ社会学レビュー」誌の一記事はこう述べた。「安心感を求めることだけが、宗教に引きつけられる理由ではない。我々はどこから来てどこへ行くのか、なぜここにいるのか、という質問の答えを、人々はいつも探してきた」。 これらが極めて重要な質問であることには、きっと同意されるのではないだろうか。そうであれば、信頼できる答えが必要ではないだろうか。これらは、非常に重要かつ重大な問題なので、様々な伝統の中から個人的に気に入った宗教的信条を選ぶだけでは解決できない。人生に関するより深遠な疑問に対するしっかりした信頼できる答えを見いだしたいなら、確かにもっと良い方法が必要である。 もっと良い方法があるだろうか。聖書の翻訳者であるフェラー・フェントンは、その本について注目に値することを述べている。聖書を、「宇宙の神秘を人間に解き明かし、人間の神秘を人間自身に解き明かす唯一の鍵」と呼んだのである。そう、聖書は、過去、現在、未来に関する疑問に答えている。わたしたちがどこから来たのか、人生の意味は何か、どうすれば幸福を見いだせるのか、わたしたちの将来はどうなるのかを告げている。歴史上、聖書ほど影響力のあった本はないし、聖書ほど敵意に満ちた多くの攻撃を生き延びてきた本もない。では、人生に関する疑問の答えを探す際に、この比類のない本を無視する人がこれほど多いのはなぜだろか。 多くの人は、聖書と、自分が知っている教会がどれほど異なっているかについて、じっくり考えることがない。人々は、いわゆるクリスチャンが神の名において殺し合う様子を目にしてきた。ガーディアン紙が述べたように、「今日の牧師たちは、信者訪問よりも寄付集めに関心がある」とこぼす人は少なくない。人々は、聖書ではそのような振る舞いが支持されている、あるいは許されていると考えるかもしれない。事実を言えば、聖書はクリスチャンに、「互いに愛し合う」ように命じ、み言葉を宣べ伝える人には、「あなた方はただで受けたのです、ただで与えなさい」と告げている。(ヨハネ 13:34.マタイ 10:8)では、聖書に敬意を払っていると唱えていてもそれに従っていない人々の行動で聖書を評価するのは、公正なことだろうか。 聖書は科学的でない、自己矛盾をきたしている、時代後れであると考えている人も少なくない。しかし、よく調べてみるとその逆であることが分かる。もちろん、聖書は科学の教科書ではない。とはいえ、生物が地上に出現した順番、地球の形、伝染病の適切な対処法など、科学に関する事柄に触れている場合、聖書は不正確なことを述べていない。それどころか、聖書には何世紀も時代を先取りした記述が含まれている。また、聖書は1600年以上の期間をかけて書かれた66冊の本からなっているが、それらすべてが互いに調和している。さらに、聖書は人間の本質について並々ならぬ洞察を示しているゆえに、現在でも最新の本となっている。 この注目すべき本は、神への崇拝について非常に重要な事柄を述べている。その崇拝は、人間ではなく神が定めた条件に従ってなされなければならないと述べているのである。(ヨハネ 5:30.ヤコブ 4:13‐15.ペテロ第二 1:21)しかし、その原則を本当に守っている人はわずかである。最古の時代から、人は自分の目的に合った宗教を作り上げてきた。木片で神々を彫って崇拝する場合がそうである。宗教団体が自分たちで考え出した教理を教える場合がそうである。自分の好みに合う個人宗教を作り上げる人の場合も同じではないだろうか。 別の方法について考えてみていただきたい。米国最高裁判所長官がしたようにするのはどうか。その人は、裁判所で事件を審理する時と同じようにして、聖書の真実さを支持する証拠と否定する証拠を偏りなく調べた。結果はどうだったか。その人は、「聖書が超自然の本であり、神から与えられたものであるという判定を下すことができた」と述べた。 同様の調査を自分で行なうにはどうすればよいだろうか。一つの提案として、聖書の系統立った研究を行ない、なぜ人々には宗教が必要なのだろうかという質問の答えを探してみることができるかもしれない。 聖書に示されている純粋な真のキリスト教は、単なるお決まりの宗教ではない。神とその目的に関する真理を示しているのである。では、なぜそれ以外のものに甘んじてよいだろうか。―ヨハネ 17:17.
2005年03月29日
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一人の父親は、あるセミナーで、相当数の子どもが親の言いつけを守らずに危険なウェブサイトに接続していることを聞かされ、びっくりした。そして、「小児性愛者がインターネットを使って未成年者を下劣な性行為へ誘っているという衝撃的な事実を知り、いっそう心配になりました」と述べている。若者は、出会いを求めてインターネットを使う時、自分が考えるよりはるかに大きな危険にさらされているのである。 実際、報道によると、性犯罪者が若者を装ってネット上をうろつきまわり、若い人たちを食い物にしようとしている。「インターネットを使っている子どもの5人に1人はセックスをするよう誘われたことがある」という調査結果もある。ある新聞は、10歳から17歳の子どもの33人に1人がネット上のチャットで「しつこく付け回された」経験があると述べている。 若者の中には、ネット上での恋愛相手の“若者”が実は大人の囚人だったと知って驚いた人もいる。また、それとは知らずに性犯罪者とかかわりを持つようになった若者もいる。そのような邪悪な犯罪者はまず、オンライン上での気さくな会話で信頼関係を築き、ねらった相手を“手なずけ”る。そして次に、倒錯した欲望を満たすため、直接会おうとする。悲しいことに、じかに会って殴打されたりレイプされたり、さらには殺された若者もいる。 邪悪な人たちは、ネット上で相手を見つけるために、まさに「自分がどんな者かを隠す」のである。獲物をねらうそのような人たちについて考えると、イエスのたとえ話に出てくる偽預言者を思い出すかもしれない。それら偽預言者は、「羊の覆いを付けてあなた方のもとに来る」が、実際には「むさぼり食うおおかみ」のような者である、と述べられている。(マタイ 7:15)ネット上では正体を隠したまま会話ができるため、そのような欺きを見抜くのはほとんど不可能である。ある若者はこう語る。「だれかと面と向かって話をする場合、その人の顔の表情や声の調子から何かを感じ取れます。でも、インターネットでは、そうしたものが何も分かりません。簡単にだまされてしまいます」。 聖書の次の助言はまさに知恵の言葉ではないだろうか。「災いを見て身を隠す者は明敏である。しかし、経験のない者たちは進んで行って、必ず報いを身に受ける」。(箴言 22:3)もちろん、ネット上で会う人がみな危険な犯罪者だというわけではない。とはいえ、ほかの点で「自分がどんな者かを隠す」人たちもいる。
2005年03月28日
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子どもに必要な関心を払うとは、子供の福祉のために自分の楽しみや都合を進んで犠牲にすることも意味する。聖書はこう述べている。「わたしが今日命じているこれらの言葉をあなたの心に置かねばならない。あなたはそれを自分のこに教え込み、家で座るときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときもそれについて話さねばならない」。― 申命記 6:6、7. 今日、家計のやりくりに追われているため、朝から晩まで子どもと一緒に過ごせる親はあまりいない。それでも、親は子どもと過ごす時間を見いださ「ねばならない」と申命記は強調している。そうするには、犠牲を払うと共に、良い計画を立てる必要がある。とはいえ、子どもはそのような配慮を必要としている。 十代の若者1万2000人余りを対象にした、ある調査の結果を取り上げてみる。研究者たちは、「親との強い感情的な結び付きこそが、ティーンエージャーの健康を最も確実に保証するものとなり、危険な行動を最も強力に阻むものとなる」という結論を下している。そう、子どもは親から関心を払ってもらうことを渇望しているのである。ある母親は自分の子どもたちに、「もし欲しいものを何でももらえるとしたら、一番欲しいものは何?」と尋ねた。すると4人の子ども全員が、「お父さんやお母さんと一緒にいる時間」と答えた。 であるから、親としての責任を果たすということは、要するに、霊的な教育や親との親密な関係など、子どもの必要としているものを確実に与えるということである。またそれは、子どもが仲間の人間を親切に扱い、創造者の栄光となる、有能で礼儀正しく正直な大人になれるように助けることでもある。(サムエル第一 2:26)そう、子どもを神の方法で訓練し懲らしめるとき、親としての責任を果たしていることになるのである。
2005年03月28日
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スウェーデンの主教マーティン・レネボは、スベンスカ・ダーグブラーデット紙のインタビューの中で、「個人宗教はわれわれの時代を豊かにはできない。その価値観を新しい時代に伝えるのは難しい」と指摘した。子育てに関するスウェーデンの親の一般的な態度は、ある程度この意見の裏づけとなる。スベンスカ・ダーグブラーデット紙は、その態度をこう要約している。「好きなものを信じなさい。子どもに無理に決めさせてはいけません。子どもが十分に成長してから自由に選ばせなさい」。 同紙は、子どもに宗教的価値観を教えるのは洗脳と取られるかもしれない、と言っている。しかし結論として、「宗教的価値観を子どもに伝えることは、有益なものとなり得るし、子どもが……自分で決定するための唯一の方法かもしれない」と述べた。実際、現在の若者たちの窮状からすれば、世代から世代へと伝えることができるしっかりした価値観に基づいて家族を一致させることは、個人宗教ではほとんど成功していないと言えるだろう。 であるから、個人宗教は、人生に関する疑問に対して信頼できる一貫した答えを与えることができず、人々を一致させることも、道徳上の導きを求める人類の必要を満たすこともできないようである。個人宗教に対するこの見方は、先に引用したスベンスカ・ダーグブラーデット紙の記事の中で表明されていた。「“信仰”に何でも含まれるというのは、何も含まれていないのと同じである。そして、自由の境界を設ける必要が全くなくなると、自由は弱められる」。 明らかに、個人宗教は、多くの点で人々の霊的必要を満たしていない。実際、理性的に考えるなら、セルフサービス方式やバイキング方式で好きな料理を選ぶかのように、様々な伝統からいくつかの信条を選ぶだけでそのような必要を満たせると、どうして期待できるのか。組織宗教がそのような必要を満たしてこなかったことも明らかなように思える。では、どこに目を向ければよいのだろうか。
2005年03月28日
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インターネット・デートの人気は世界じゅうでますます高まっているようだ。ネット上ではすぐにロマンスが生まれるが、現実が分かるとたいていしぼんでしまうことは以前にも書かれてあったとおりである。さらに、失望感だけでなく、もっと気がかりな点がある。こうしたデートは、身体的・感情的・霊的に重大な危険を招きかねないのである。 家で使っている全く無害で安全に見えるコンピューターが、一体どうして危険を招くのか。危険のいくつかは聖書の重要な原則と関係がある。『わたしたちはすべてのことにおいて正直に行動したいと願っている』と、使徒パウロは書いている。(ヘブライ 13:18)もちろん、インターネットを利用するのが不正直な行為だというわけでも、利用する人が不正直になるというわけでもない。とはいえ、次の点を認める必要がある。相手が不正直であることは少なくない。ネット上ではうそをつくのは容易で、見破るのは困難である。そこに恋愛感情が加わると、不正直さは大変な危険を生む。 例えば、次の聖句が述べている不正直さについて考えてみていただきたい。「わたしは不真実な者たちと共に座りませんでした。わたしは自分がどんな者かを隠す者たちと共に入って行きません」。(詩編 26:4)「自分がどんな者かを隠す者たち」とはどういう人だろう。ここを「偽善者たち」と訳している聖書もある。ある参考文献によると、この表現は「自分の目的やたくらみを他の人から隠す者たち、あるいは、自分の本性や意図を覆い隠す者たち」に当てはまる。では、こうした不正直な行為がどのようにネット上で行なわれているのだろうか。また、そのために、恋愛を求める人たちにはどんな危険があるのか。
2005年03月27日
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著名な教師であり研究精神科医でもあるロバート・コールズは、かつてこう述べた。「子どもの内部では、道徳感覚が発達しつつある。わたしはふと思う、それは神から与えられたものだ、道徳上の規律を慕い求める気持ちがあるのだ、と」。道徳上の導きに対するこの渇望をだれがいやすのだろうか。 聖書はエフェソス6章4節で、「父たちよ、あなた方の子供をいら立たせることなく、Jehovahの懲らしめと精神の規整とをもって育ててゆきなさい」と述べている。聖書が、特に父親に、神への愛や神の規準に対する深い認識を子どもに教え込む責任を課していることにお気づきだろうか。使徒パウロはエフェソス6章1節で、「親に従順でありなさい」と子どもたちに告げた際、父親と母親の両者に言及していた。 もちろん、父親がいない場合は、母親がこの責任を担わなければならない。女手一つでJehovah神の懲らしめと精神の規整とをもって子どもをりっぱに育て上げた母親は少なくない。しかし結婚したなら、クリスチャンの夫が率先すべきである。母親はその指導に進んで従って、子どもを訓練し、懲らしめる。 では、どのように子どもを「いら立たせる」ことなく懲らしめる、あるいは訓練することができるだろうか。秘密の“公式”などはない。子どもは一人一人異なっているので、特にそう言える。とはいえ、親は懲らしめの与え方をよく考え、いつでも子どもに愛や配慮を示すようにしなければならない。興味深いことに、子どもをいら立たせないようにというこの点は、聖書のコロサイ3章21節にも繰り返されている。ここでも父親は、「あなた方の子供をいらいらさせて気落ちさせることのないようにしなさい」と訓戒されている。 子どもに対して怒鳴ったりわめいたりする親もいるが、それは子供をいらいらさせるだろう。しかし聖書は、「すべて悪意のある苦々しさ、怒り、憤り、わめき、ののしりのことばを、あらゆる悪と共にあなた方から除き去りなさい」と強く勧めている。(エフェソス 4:31)聖書はまた、「主の奴隷は争う必要はありません。むしろ、すべての人に対して穏やかで(ある)ことが必要です」とも述べている。― テモテ第二 2:24、25.
2005年03月27日
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宗教を信じる人たちは昔から、仲間意識、兄弟関係、連帯感を大事にしてきた。(Acts 2:42、46)しかし、個人宗教は、まさにその名の通り個人的なものである。そうであれば、どうしてそのような必要を満たせるだろうか。 「各自が自分の教会を」持つ個人宗教は、人々の間の宗教的分裂を増幅させ、深刻化させるだけではないだろうか。「宗教はもはや個人の判断の問題である。……それでわれわれは、数百どころか、数百万の教義を持つ国になった」と、アルバータ・リポート誌は述べた。であるから、個人宗教が一種の霊的無政府状態とさえ描写されてきたのも驚くにはあたらない。
2005年03月27日
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互いのことをほとんど知らないままで慌てて恋愛関係に落ちるのは全く愚かなこと。英国の劇作家シェークスピアは、「性急な結婚は、とかううまくゆかない」と語ったと言われている。聖書の助言はもっと率直で、「性急な者はみな必ず窮乏に向かう」と述べている。― 箴言 21:5. 残念ながら、インターネット・デートをしている人の多くは、この言葉のとおりであることを身をもって経験した。ある女性は、たった1か月メールのやり取りをしただけで念願の結婚相手が見つかったと思った。結婚の計画を立て、婚約指輪の手配までしたが、大急ぎの恋は「深い悲しみ」に終わってしまった。 聖書の次の助言に留意するなら心痛を避けることができる。「災いを見て身を隠す者は明敏である。しかし、経験のない者たちは進んで行って、必ず報いを身に受ける」。(箴言 22:3)とはいえ、コンピューター・デートの危険は失望や心の痛みだけではない。
2005年03月26日
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神のみ子には、子どもたちと一緒に過ごす時間があっただろうか。ないと思った弟子たちもいた。弟子たちはある時、幼子たちがイエスに近づくのを見て、止めようとした。それに対してイエスは、「幼子たちをわたしのところに来させなさい。止めようとしてはなりません」と言い、次いで子どもたちを優しく迎え入れて一緒に話をされた。(Mr 10:13-16)こうしてイエスは、ご自分から進んで子どもたちに関心を示された。今日、親たちはイエスの手本にどのように倣えるだろうか。子どもを正しく訓練すること、また子どもと一緒に時を過ごすことによってできる。 言うまでもなく、責任感のある親は積極的に子どもの福祉を図り、虐待するようなことはしない。親が子どもを大事にし、思いやるのは“自然な”ことと言えるかもしれない。しかし、聖書は、今日「自然の情愛」に欠けた人が多くなる、と警告していた。(2 Timothy 3:1-3)また、子供に愛ある関心を払っている親たちでも、責任の重い子育てに関しては、学ぶべき事柄が常にあるものである。であるから、次に挙げる聖書の原則は、子どものために最善を願う親にとって良い諭しと言える。
2005年03月26日
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多くの子どもにとって、映画、テレビ、ビデオ、DVD、コンピューターゲーム、インターネットは、生活の一部となっている。フィンランド映画調査委員会による約340人の小学生と、その親や教師たちを対象とした調査に基づく「映像番組の年齢制限および児童保護」と題する報告によれば、「青少年が様々なマスメディアに費やす時間は、家族と一緒に過ごす時間の20倍から30倍に達するとの見方もある」ということである。残念なことに、子どもたちは多くの有害な情報にさらされている。 国によっては、当局が年齢制限や等級を設けて子どもたちを保護しようとしている。しかし、報告書によると、子どもや親は等級の意味を必ずしも理解しておらず、それを軽視しがちである。加えて、多くの映画館やレンタルビデオ店は、年齢制限を無視することで知られている。その上、一部のテレビ番組や映画は、審査されることさえない。 アンケートに答えた教師の一人は、「児童たちは流血シーンがなければ必ずしも暴力的とは思わないようだ」と述べている。コンピューターゲームや、子ども向けのアニメにさえ、有害なものが潜んでいる場合が少なくない。 報告書は、「子どもが見る映画やテレビ番組に関するおもな責任」は各家庭にあるとし、結びに人を考えさせる次のような質問を投げかけている。「われわれ大人は、メディアの有害な影響から子どもたちを守る意志、力、手段を持っているだろうか」。
2005年03月26日
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一般大衆に対する組織宗教の影響力が弱まっているので、独自の個人宗教を作り上げる人が非常に多くても驚くにはあたらない。とはいえ、次のような質問が生じる。そうすることによって本当に当人の霊的必要は満たされるのか。「個人宗教」は答えとなるのか。 これらの質問に答えるために、まず次の点について考えるとよいだろう。それは、人間が持つ偉大な賜物の一つ、つまり「理性」による厳密な調査を施しても、個人宗教にはそれに耐える力が本当にあるかどうか、という点である。―ローマ 12:1。 理性的に考える人は、自己矛盾をきたしているものを受け入れない傾向がある。しかし、スウェーデンで行なわれた個人宗教に関する調査では、人々は「どちらかというと無意識のうちに、相異なる(そして、おそらく論理的に両立しない)人生哲学の種々の要素を、自分自身の哲学に結びつける」ことが多い、という結論が出た。 例えば、「自分のやり方に従っているクリスチャン」であると唱える人のうち、歴史上の人物としてであってもイエスに言及したのは2%に過ぎなかった。しかし、生まれ変わりに対する信仰に人々は何度も言及した。では、自分をイエス・キリストの追随者とする一方で、その生き方と教えを無視し、キリストの教えと正反対の教義を受け入れることまでするのは、矛盾ではないだろうか。(イエスは、死者が生まれ変わるとは教えなかった。むしろ、死者が眠りのような無存在の状態にあり、将来の復活を待っている、と教えた。―ヨハネ 5:28、29; 11:11‐14) また、わたしたちの理性は、どうしようもなく曖昧で漠然とした感じのものを避ける傾向がある。しかし、「神あるいは神聖な力」を信じているかと尋ねられた時、インタビューを受けた人の大半は、そのような「何か」が存在するかもしれないと答えた。ある人は、「超自然的なものを信じているが、必ずしも神を信じているわけではない」と述べた。神を本当に信じている人たちも、神は「自分の人生においてあまり重要な役割を果たしていない」と感じていた。それで同報告は、個人宗教を「まとまりのない概念世界」と描写し、特に多かった答えの一つを引用して結論とした。次の答えである。「わたしは何かを信じているが、それが何かはよく分からない」。 カナダでの個人宗教に関する調査も同じような結果を示している。アルバータ・リポート誌は、こう述べている。「今は、想像できるものならほとんど何でも真剣に信じるという状況が見られるが、そこには何の理屈もない。また、こうした個人的な信仰が人々の生活においてどのような導きとなっているかを見極めようとしても、実際には何も見つからない。道徳に関する究極的な権威が存在しない。したがって、個人宗教には全く実体がない」。同誌は「細分化された神」という語を用いた。そのような信仰を奉じる人たちは「伝統的な教義の断片をとらえている」からである。そのような曖昧で不明瞭な、細分化された概念を、宗教的な信念だけでなく、将来の希望の土台とするのは、健全な考え方だとあなたは思われるだろうか。
2005年03月25日
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実際に会わないままでいることには明らかに利点があると考える人もいる。オンライン・デートだと、相手の容姿に気を取られることなく内面に注意を集中できると感じるのかもしれない。確かに、聖書も、人の内面の特質に注目するようにと勧めている。(1 Peter 3:4)とはいえ、ネット上のやり取りでは、相手の身振りや笑顔、顔の表情などを見ることができない。プレッシャーがかかった時に他の人にどう接し、どう振る舞うかを観察することもできない。こうした点は、その人を信頼して愛せるかどうかを判断する上で重要である。お手もとに聖書をお持ちなら、コリント第一 3章4、5節の、愛に関する聖書の説明を読んでみていただきたい。愛の定義が、言葉ではなく振る舞いに基づいていることに注目していただきたい。であるから、時間をとって相手を観察し、言葉と行動が一致しているかどうかを見極める必要がある。 そうした肝要な知識のないまま交際を始め、すぐに内奥の感情や考えを打ち明け合うカップルは少なくない。慎重さをかなぐり捨て、互いのことをほとんど知らないのに、性急にロマンチックで重大な約束をしてしまうカップルもいる。「ネット上では恋は本当に盲目」という記事は、ネット上で知り合ったある男女について述べている。二人は1万3000キロ離れていたが、3週間後、実際に会ったそうである。「彼女は目にマスカラをべったりつけていました。僕はマスカラをしている人とはデートする気になれません」と、男性は言った。交際はあっけなく終わってしまった。また、別の男女も直接会ったが、あまりにも期待外れだったため、飛行機代を出していた男性は女性の帰りのチケットをキャンセルしてしまったそうである。 ある若い女性は、オンライン・デートに関する自分の経験をこう述べている。「わたしたちは信じられないほどうまくいっていて、結婚を考えていました」。しかし、実際に会ってみると、恋はすっかりしぼんでしまった。「彼はわたしが思っていたような人ではなく、あら探しをして不平ばかり言う人でした。うまく行くとはとても思えませんでした」。1週間後に交際は終わり、彼女はひどい幻滅を味わった。 コンピューター・デートの幻想の世界では、感情はあっけなく燃え上がる。そのため、交際がうまく行かないと感情的に深く傷つくおそれがある。そして、実際にそのようなことがよくあるのである。『自分の心に依り頼んでいる者は愚鈍である』と、箴言 28章26節は述べている。幻想や感情に基づいて重大な決定を下すのは賢明なことではない。箴言は続けて、「知恵によって歩んでいる者は逃れることになる」と述べている。
2005年03月25日
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職人として身を立てたいと思っているにせよ、あるいはただ家で役立てたいと思っているにせよ、体を使う仕事を選ぶのは有益である。地元の学校で、さまざまな職業訓練の課程があるかもしれない。また、家庭で幾らかの訓練を受けることもできるだろう。どのようにできるのか。家事のやり方を覚えることによってである。前に触れたプロベンザーノ博士は、「家事を行なうことは、十代の若者にとって極めて重要である。家事を行なうなら、家庭で“うまくやっていくための基本的な技術”を学べるが、こうした技術こそ、親から独立した際にきちんとした生活をしてゆくのに役立つのである」と述べている。であるから、家の仕事を目ざとく探して行なってみてはいかがだろうか。 体を使う仕事は品位を落とすことでも不面目なことでもない。それどころか、多くの点であなたの益となる。敬遠するのではなく、あなたの骨折りによって「良いことを見る」よう努めてはいかがだろうか。伝道の書 3章13節が述べるように、「それは神の賜物」なのである。
2005年03月25日
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ガーディアン紙は次のような所見を述べている。「ローマ・カトリック教会には、20世紀を通じてファシズムと共謀したという嘆かわしい経歴がある。スペイン内乱後にフランコ将軍に祝辞を述べたり、最近ではピノチェト将軍のために尽力したりした」。同紙は、戦時中に法王だったピウス12世が「喜んで[ヒトラー]と協定を結び、ホロコーストに対する糾弾など、当惑を招きかねない事柄は避けた」とも述べた。 ザ・エージ紙はこう述べている。「キリスト教であるとの主張がむなしく響く時が多すぎる。クリスチャンは自分たちの間で平和や一致を首尾よく保てなかった。……キリストへの改宗者を得るという名目で正当化されてきた多くの戦争による略奪や征服が、その証しである。信仰、希望、愛はクリスチャンの顕著な美徳かもしれないが、それらの美徳を熱望していると言われる人たちも、クリスチャンでない人と全く同じようにひねくれており、失望しがちである。また、クリスチャンでない人と同じく思いやりに欠ける、と言ってもよいだろう。……ホロコーストを生み出したのはキリスト教国であり、日本に核戦争の恐怖を解き放ったのもキリスト教国である」。 キリスト教世界は思慮深さ、不屈の精神、節制、公正などの美徳をずっと推進してきたと主張する人がいるかもしれない。しかし、ザ・エージ紙はこう論評している。「ヨーロッパ、北米、オーストラリアのクリスチャンは概して、地球の資源を消費するに当たって公正な取り分をはるかに超え、力の弱い近隣諸国での搾取、抑圧、環境悪化を黙認しつづけて、自分たちの食欲を満足させている」。 キリスト教世界の将来について、ザ・エージ紙はこう続けている。「制度化された健全な体系がなければ、キリスト教が何世紀も前に有していた社会的な影響力を取り戻すことは決して望み得ないであろう。そうした状況が良いか悪いかは、個人の見方によって異なる。しかしそれは、今後キリスト教に現実として立ちはだかる」。 このように組織宗教の世界において衰退が生じた結果、多くの人は既成の教会に背を向けつつあります。しかし、見いだした代替物は本当に人々の必要を満たすのだろうか。その代替物は答えなのだろうか。 忌まわしいといえば、聖職者による児童への性的搾取が挙げられる。肉の欲望のままにその立場を利用するなど最低の行為であることはいうまでもない。これは宗教家だけの問題でもないのだが。とにかくすべての宗教が正しいといえないことは仕える者たちの行動と心に宿るものを見るだけでも判断できるのではないだろうか。まさに忌まわしい経歴を宗教は数多くもっているし今後もそのような悪歴を重ねてゆくだろう。
2005年03月24日
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「ネット上では、だれもが魅力的で正直で、成功しているかのように見える」と、ある新聞記事は述べている。では、本人の提供する情報はどれほど正確だろうか。別のニュース記事には、「多少のうそをつくのは当然とみなされている」とある。あるティーン向け人気雑誌の女性編集者が、この点の関し個人的に調査してみたそうだ。非常に人気のある三つの出会い系サイトに登録したところ、すぐに幾つもの返事をもらい、数人の男性とデートした。どうだっただろうか。全くがっかりさせられたということである。どの人も自分に関して平気でうそをついていたのである。この編集者は、「わたしの経験からすると、みんなうそつき」と警告している。 身長や体重をごまかすのはささいなことに思えるかもしれない。『外見なんて重要じゃない』と言う人もいる。確かに聖書も、「麗しさは偽りであることがあり、美しさもむなしいものとなることがある」と述べている。(箴言 31:30)しかし、ささいに思える事柄でうそをつくことは、交際を始める正当な方法と言えるだろうか。(ルカ 16:10)個人的な目標など、もっと重要な事柄に関して、どれほどその人を信頼できるだろうか。「互いに対して真実を語れ」と、聖書は述べている。(ゼカリヤ 8:16)正直さこそ、親しくなるための基盤なのである。 ところが、ネット上のデートにはしばしば非現実的な幻想が伴う。ニューズウィーク誌はこう述べている。「利用者は、自分のEメールの言葉遣いを注意深く選んで、自分を抜群に良く見せることができる。……こうして、互いに相手が気に入ってやり取りが続く。相手はすてきで、こちらに関心があるようなので、こちらもすてきで、相手に関心があるようにするのだ」。ニューヨーク州のレンセラー工科大学でネット上の人間関係を研究している教授は、そうした状況下ではあっという間に強い恋愛感情が芽生えかねない、と述べている。とはいえ、多くの事例から分かるとおり、それが幸福な結婚につながるとは期待できない。ある男性はオンライン・デートを体験して、「これは罠です。未知の部分を自分の好きなように想像してしまうからです」と述べている。
2005年03月24日
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きつい仕事は、自分自身に対する見方にも影響を及ぼす。フレッド・プロベンザーノ博士は、米国国立精神衛生教育センターへの寄稿文の中で、体を使う仕事を行なうなら、「自立性や自信」を高め、「自己鍛錬や物事を上手に組織する能力を培うことにも役立つ。これらは、職を得るための基盤をなすものである」と述べている。ある若い男性は、「体を使う仕事は辛抱強さを身につける助けになります。また、仕事を通していろいろな問題に対処する方法を学べます」と語っている。 「体を使う仕事を通して、骨折って働くことや勤勉であることを学びました。心と体の両面を鍛えられました」。「体を使って働く楽しさを知りました。自分の技術が向上すると仕事の質も向上し、自尊心が強まりました」。とは他の若者たちの声である。 体を使う仕事からは達成感という素朴な喜びも得られる。とある若者は次のように言う。「僕は大工仕事が大好きです。疲れることもありますが、いつでも自分の仕事を振り返って達成感を味わえます。本当に満ち足りた気持ちになります」。また他の若者も、「僕は車をいじるのが好きですが、壊れた箇所を修理してほぼ元通りになると、自信がつき、満足感も得られます」と語っている。
2005年03月24日
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自分たちの教えはイエス・キリストの教えに基づく、と主張する宗教には、およそ17億人の信者を数える。キリスト教は世界最大の宗教とみなされており、信者の数において、仏教、ヒンズー教、イスラム教などのよく知られた宗教を上回る。しかし、種々の調査報告によれば、キリスト教国であると公言する多くの国で、キリスト教は大衆に対する強い影響力を失いつつある。 あらゆる社会背景の人々が教会を後にしている。ミシガン大学の研究者で、「世界価値観調査」の責任者であるロナルド・F・イングルハートは、先進国では宗教の役割が減少している、と述べた。バイブル・レビュー誌は、イングルハートの次の言葉を引用している。「毎週の礼拝への出席が落ち込んでいるだけでなく、今やラテンアメリカ諸国では、かつて入植した国々の人たちの魂を救うために宣教師を送り出している」。イングルハートは、「宗教の崩壊」は北欧の幾つかの国で特に著しいと主張している。ノルウェーやデンマークで、教会に通うのは人口の5%に過ぎない。その数字はスウェーデンではわずか4%、ロシアでは2%である。 ドイツからの報告によると、カトリック教徒として登録された人たちのうち、定期的に教会に通う人の数は、1984年から1993年の間に25.3%から19%へと減少した。1992年の時点で、日曜の礼拝に定期的に出席しているプロテスタント信者は4%に過ぎなかった。1999年に、「今日のキリスト教」誌は、「毎週教会に通うドイツ人は10人に一人である」と報じた。 英国での信者の減少について、ガーディアン紙は、「キリスト教の旗色がこれほど悪くなったことはない」と述べている。その記事は「司祭と長老にとって1950年から2000年は最悪の50年だった」と述べている。同紙は、英国の宗教に関する特別な報告に言及して、若者だけでなく中高年層も組織宗教に対する信仰を失いつつあることを示し、こう述べた。「年配者は年を取るにつれて神への信仰を失うようになっている。この傾向を裏付ける新しい調査報告は、危機に陥っている英国の教会に衝撃を与えるだろう。今まで教会は、中高年層を、縮小する会衆の不朽の屋台骨とみなしていた」。 同様の傾向はヨーロッパ以外でも見られる。例えば、カナダのアルバータ・リポート誌は、カナダが「制度化された信仰と崇拝の崩壊」を経験しており、「明確な教義に従うより、独自の主観的な想像上の神を好むカナダ人のほうが3倍も多い」と述べている。 多くの人は、教会の礼拝に参列しても、霊的に豊かにされた、あるいは啓発されたとは全く感じない。カナダのマクリーンズ誌によると、ヒマラヤのアーシュラマつまりヒンズー教の遁世僧院でインタビューを受けたユダヤ教徒もカトリック教徒も、「わたしたちはもはや、気の抜けた儀式には心を動かされない。感激もしない」との意見を述べた。実際、幾年も忠実に教会に通った人たちの中にさえ、『教会で一体何を学んだのだろう。教会に通った結果、自分は神に一層近づいただろうか』と考える人がいる。著述家のグレッグ・イースターブルックが述べたように、「西洋では霊的な貧困が物質的な貧困に取って代わり、この時代に最も不足する要素となった」のも不思議ではない。 もちろん、教会の出席者数が比較的多い国も少なくない。とはいえ、教会に通うからといって、必ずしも教会の教えに忠節に付き従っているわけではない。例えば、オーストラリアのザ・エージ紙は次のように述べている。西洋で「信仰を実践するクリスチャンの比率が急減している。アフリカ、アジア、ラテンアメリカの大半の国々には、キリスト教を隠れ蓑とし、その背後で、より風変わりな部族宗教やカルト宗教を信奉しつづけている人が大勢いる。それらの宗教は正統派のキリスト教の教えとは無関係で、たいていキリスト教と矛盾しており、公式にはずっと前に捨てられたものである」。 老若を問わず、それほど多くの人が教会を捨てるのはなぜだろうか。幻滅を味わったことが大きな要因となっているようである。
2005年03月23日
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あなたは内気で、知らない人と話すのが苦手だろうか。ふられてしまうのではないかと心配だろうか。あるいは、結婚相手になりそうな人が身近にいないと感じているだろうか。そうであれば、コンピューター・デートに魅力を感じるかもしれない。一つには、望みどおりの“相手”を選ぶことができると出会い系サービスが約束しているからである。検索メニューには、年齢層、住んでいる地域、性格、写真、ログイン名などが表示される。自分で相手を選べるオンライン・デートは、直接会うより無駄もストレスも少ないように思えるかもしれない。 とはいえ、実情はどうか。ネット上でのデートは、永続する幸福を本当にもたらすだろうか。次の点を考えてみていただきたい。ある出会い系サービスには6年間で1100万人の会員がいたが、結婚できたカップルはわずか1475組だった。100万人を超す会員を有する別の出会い系サービスでは、結婚に至ったカップルは75組しかいなかった。どこに問題があるのだろうか。
2005年03月23日
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かなづちを使うことであれ、芝を刈ることで荒れ、体を使う仕事は健康の増進に役立つ。しかしその益は、健康だけにとどまらない。あなたは、車のパンクの修理やオイル交換の仕方を知っているだろうか。割れた窓ガラスや詰まった排水管の修理はできるだろうか。料理はどうだろう。トイレや浴室を染み一つない清潔な場所にできるだろうか。こうした仕事をこなす技術は、男性であれ女性であれ、若い人たちが学んでおいたほうが良いもので、、いつか親から独立した時に自分一人でもきちんと生活してゆくのに役立つ。 興味深いことに、イエス・キリストは地上におられた時、ある種の技術を習得されたようである。大工と呼ばれるようになったので、きっと養父ヨセフから大工の仕事を学んだのだろう。(Ma 13:55. Mr 6:3)あなたも体を使う仕事をするなら、さまざまな有用な技術を身につけることができる。
2005年03月23日
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人間には食物が必要である。水が必要である。空気が必要である。ある程度、雨風をしのぐ場所も必要である。人間であればだれでもこうしたものが必要だが、この惑星に生息する他の無数の生物もそれらを必要としている。しかし、人間だけに必要なものが一つある。それは何だろうか。 カナダの社会学者レジナルド・W・ビビーは、「人間が必要とする事柄の中には、宗教にしか満たせないものがある」と書いた。また、「アメリカ社会学レビュー」誌の2000年2月号には、「恐らく、霊的な関心は、今後も人間の考え方の一部であり続けるであろう」と述べる記事が載った。 そう。人間は歴史を通じて、何かを崇拝する必要を感じてきた。幾世紀もの間、ほとんどの人はその必要を満たすために、組織宗教に頼ってきた。しかし、状況は変化している。北米や北欧のような産業国の多くで、教会を去る人がますます増えている。この傾向は宗教の終わりを意味するのだろうか。そうではない。 「宗教の終焉を伝える話はあまりに誇張されている」と、スウェーデンのスベンスカ・ダーグブラーデット紙は書いている。何が伝統的な教会に取って代わっているのだろうか。同紙はこう続けている。「どの教会にも属さないというのが新たな傾向である。代わりに、世界的な宗教市場から自分の好きな宗教を選び、混ぜ合わせて、気に入った宗教を作ることができる。……そこには、ヒーリング・クリスタルから仏教の袈裟まで、何でもある。選んだものに飽きたら、すぐに好きなように変更できる」。 宗教社会学の研究者たちは、この傾向を「個人宗教」あるいは「見えない宗教」と呼んでいる。先に出てきた社会学者ビビーは、「宗教アラカルト」という表現を作り出した。そのような信仰を「オーダーメードの」、あるいは「好みに基づいた」信仰と呼ぶ人もいる。伝統的なキリスト教国の中には、今や最大の宗教団体が、事実上自分個人の宗教を持つ人たちで構成されているところもある。 世界でも非常に世俗化した国の一つ、スウェーデンでなされた調査の結果を考えてみる。その調査から、3人に2人が、「自分個人のやり方に従っている」クリスチャンであると考えていることが分かった。「キリスト教に関しては自分なりの見方を持っている」、「教会にいると落ち着かない」、「教会に行って牧師の話を聞くのは嫌い」、「自分の部屋に入って自分で祈ることができる」などと言う人たちがいた。どちらかといえば生まれ変わりや運命を信じるという人も少なくなかった。神聖な力が何らかの形で存在するかもしれないとは思うが、それをきちんと説明することはできない、というのが大半の意見だった。 ほかの調査では、多くの人が、戸外で自然を楽しんでいる時にだけ宗教感情を抱くことが分かった。農業に従事しているある若い女性は、「森や野原にいる時が、神を最も身近に感じる時だと思います」と述べた。自分は宗教心がないと考えている別の人は、インタビューに答えて、こう説明した。「森に出かけると、そこが巨大な寺院のように感じられます。……それを管理しているのがだれかは分かりませんが、その存在を感じます」。自然を、聖なるもの、神聖なもの、畏敬の念を抱かせるものと表現し、自然の中にいると力や平安や調和が取り戻せると言う人もいる。一人のインタビュアーは報告の最後にまとめとして、「神は森に引っ越した」と述べた。 今日この傾向は世界各地ではっきり認められる。宗教社会学の専門家であるアメリカのトーマス・ルックマンは、教会を中心とした宗教が、産業社会で脇に追いやられており、「社交的な形の宗教」に取って代わられていると述べた。実際、一人一人が霊的な事柄に関する様々な考えを選び出して人生哲学を作り出し、それらの考えを組み合わせて独自の個人宗教にしている。 中には『既成の宗教や教会は本当に社会の隅に押しやられているのだろうか。そうであるとしたら、それはなぜだろうか』と考える人がいるかもしれない。これらの疑問を次に取り上げてみる。
2005年03月22日
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あなたは、だれかと付き合いたい、結婚相手に出会いたいと本気で望んでいるかもしれない。そういう相手を見つけようとしたが、これまでのところどれもうまくいっていない。友達や家族は良かれと思って相手を紹介してくれるが、あなたはばつの悪い思いをするだけで、いっそう惨めな気持ちになってしまう。そのため、ハイテクに頼ったほうがいいのではないかと考える。 今はコンピューター時代であるから、マウスを数回クリックするだけで気の合う相手が見つかりそうに思えるかもしれない。独身者向けのウェブサイトやチャットルーム、電子掲示板に接続するだけでよい、というわけである。ニューヨーク・タイムズ紙によれば、米国だけでも1か月間に4500万人がオンライン・デートのサイトを訪れた。ある出会い系サイト会社は、240か国の900万人余りが自社のサービスを利用していると述べている。
2005年03月22日
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肉体労働をつまらない、汚い、したくない仕事とみなす人は少なくない。ある経済学の教授は、肉体労働者の職業について、「地位を重視するこの世の中では、こうした職業はあまり重きが置かれない」と述べている。若者の多くが体を使う仕事を鼻であしらうのも不思議ではないことを察することができる。この見方を皆さんはどう思われるだろうか。 聖書は骨折って働くことに関して次のような全く異なった見方をしている。ソロモン王は、「人にとって、食べ、まさしく飲み、自分の骨折りによって魂に良いものを見させることに勝るものは何もない」と述べた。(伝道の書 2:24)聖書時代、イスラエルは農耕社会だった。耕作や収穫、脱穀などの仕事は、どれも相当な重労働だった。それでもソロモンは、骨折りには豊かな報いがあると述べたのである。 何世紀も後、使徒パウロも次のように述べた。「盗む者はもう盗んではなりません。むしろ、骨折って働き、自分の手で良い業を行ない……なさい」。(エフェソス 4:28)パウロ自身、肉体労働と無縁ではなかった。高い教育を受けていたが、時おり天幕作りをして生計を立てていた。― Acts 16:1-3. あなたは体を使う仕事をどう感じておられるだろうか。気づいていてもいなくても、そうした仕事は多くの点で益となる。
2005年03月22日
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イエスは、神の僕たちは「霊と真理をもって」崇拝しなければならないと語った。(John 4:24)それゆえ、崇拝における聖画像の使用について真実を知ろうとする誠実な人は、この点に関する啓発を求めて神の言葉を調べなければならない。 例えば、聖書には、「わたしは道であり、真理であり、命です。わたしを通してでなければ、だれひとり父のもとに来ることはありません」というイエスの言葉が載せられている。(John 14:6)パウロは、「神はただ一人であり、また神と人間との間の仲介者もただひとり、人間キリスト・イエスであって」、『キリストがわたしたちのために願い出てくださる』と明言した。(1 Timothy 2:5. Romans 8:34)この点は、キリストは「自分を通して神に近づく者たちを完全に救うこともできます。常に生きておられて彼らのために願い出てくださるからです」という記述を読むと、いっそう深い意味を帯びてくる。(Hebrews 7:25)わたしたちは、イエス・キリストの名において神に近づくべきなのである。他のだれも、もちろん命のない聖画像も、もちろんロザリオも、イエスの代わりにはならない。神の言葉から得られるこうした知識は、真理を探し求めているだれにとっても、「霊と真理をもって父を」崇拝する方法を見いだし、その優れた崇拝方式から益を得る助けとなる。イエスが述べたように、「父は、ご自分をそのように崇拝する者たちを求めておられるのです」。― John 4:23.
2005年03月21日
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「500年もの間、敬虔なカトリック教徒はロザリオの祈りを唱えてきた。ロザリオの祈りとは、主の祈りと天使祝詞をマントラのように復唱し、イエスとイエスの母の生涯における15の主な出来事あるいは“神秘”を黙想することを促すための祈りである」と、ニューズウィーク誌は伝えている。「法王ヨハネ・パウロ2世は使徒的書簡を公布し、ロザリオの祈りに第四環を加えた」。この第四環は、イエスのバプテスマから最後の晩さんに至るイエスの宣教に基づいている。「法王の狙いは、第二バチカン公会議以後評判が落ちている、自分の“大好きな”祈りに対する関心を再び呼び起こすことにある」と、同誌は付け加えている。「法王の行動の主な目的は、このカトリック独特の信心業において、ロザリオの祈りと最もかかわりの深い存在であるマリアとの関係によって、キリストをよりいっそう強調することである」。法王によれば、そうすることで、「キリスト教信仰が、東洋の宗教の伝統的瞑想に感化されている」この時代に、カトリック教徒の黙想の習慣が強化されることを期待できると考えたようだ。
2005年03月21日
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聡明な詩編作者は、心を動かされて謙遜にこう認めている。「Jehovahが神であることを知れ。わたしたちを造ったのは神であって、わたしたち自身ではない」。(Psalms 100:3)筋道立てて考える多くの人々にとって、ここで述べられている慎み深い認識は、人間の命が偶然に発生したとする現代の諸説よりもはるかに理にかなっている。 現代科学は時に、人間の論理や知識こそ至上の導きとすべきものであるという傲慢な考え方をはぐくむ。残念なことに、組織宗教もしばしば同じ間違いを犯してきた。しかし、人間の知識は限られたものであり、その点は今後も変わらない。使徒パウロは、霊的な物事に関する豊富な知識を持っていたが、常に謙遜だった。現実に即してこう述べている。「今わたしたちは鏡におぼろげに映るものを見ています。……わたしがいま持っている知識は不完全です」。― コリント第一 13:12. 言うまでもなく、神に対する純粋な信仰は現代の科学に依存するものではない。しかし、識別力をもって物事を観察する人にとって、科学は信仰を強めるものとなり得る。真の信仰と霊的な物の見方は、充実した幸福な生活のために欠かせない。(マタイ 5:3)聖書を用いて、Jehovah神に関する、また人間と地球に対するJehovahの目的に関する詳細な知識を得るなら、人生に真の意味をもたらす基盤と、希望の確かなよりどころとを見いだせるだろう。
2005年03月21日
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人間の思考する事柄は、これまで考えられていたよりはるかに大きな影響を人体に及ぼしているかもしれない、とポーランドのフプロスト誌に載った報告は述べている。同報告によれば、「考えや感情は、神経系、免疫系、内分泌系、循環器系、生殖器系など人体の重要な臓器や系統すべてに影響を与える」。それで、ワルシャワの衛生疫学軍用研究所のマレク・コバルチク教授は、「ストレスの多い生活を送っている人は、風邪やインフルエンザにかかる率が2倍になる」と述べている。また、うつ病の女性は妊娠の見込みが半減するということである。さらに、フプロスト誌によれば、ストレスはがんの原因にはならなくても、「潜在するがんの進行を速める可能性がある」。怒りも健康に良くないかもしれない。攻撃的で敵意を持つ人は冠状動脈疾患になりやすく、心臓発作を起こしやすいと考えられている。
2005年03月20日
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ブリタニカ百科事典は、次のように述べている。「キリスト教会の最初の3世紀間、キリスト教美術は存在せず、教会はおおむね、全力を尽くしてそれに抵抗した。例えば、アレクサンドリアのクレメンスは、宗教(異教)美術は創造者ではなく創造されたものを崇拝するよう人々を促すものだという理由で、それを批判した」。 では、聖画像の使用はどのようにして広まったのだろうか。ブリタニカ百科事典はこう続けている。「3世紀中ごろ、キリスト教会で原初の絵画美術が使われて受け入れられ始めたが、、会衆によっては激しい反対もあった。4世紀初期にコンスタンティヌス帝のもとでキリスト教会がローマの帝国教会になってようやく、諸教会で絵画が使われ、その後、キリスト教一般の信仰生活に定着し始めた」。 クリスチャンを名乗るようになった大勢の異教徒の間では、皇帝の肖像画の崇拝がよく行なわれていた。ジョン・テイラーは、自著「絵画としてのイコン」の中で、こう述べている。「民衆は皇帝崇拝の趣旨に沿って、皇帝の肖像を描いた画布や木板を崇拝した。皇帝崇拝からイコン崇敬に移行する際の隔たりは微々たるものだった」。こうして、絵の崇拝という異教の慣行に代わって、イエス、マリア、み使い、“聖人”の絵が崇敬されるようになった。教会で使われ出したそれらの絵は、次第に大勢の人々の家にも置かれるようになり、そこでも崇敬された。
2005年03月20日
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残念なことに、今日のある人々が追求している科学は、道徳観また健全な価値観や物事の規範を徐々に弱める傾向にあるようである。神の概念を退けるある生物学者は、こう述べている。「やみくもに作用する物理的な力や遺伝的複製で成るこの宇宙において、傷つく人もいれば幸運を得る人もいて、そこに道理や分別、公正などは存在しない」。かなり陰うつな世界観ではないだろうか。人間の社会には、善いことに報い、悪を戒める道徳上の規律が必要ではないだろうか。 この点で、人間に対する聖書の見方と無神論的な進化論の見方との間には決定的な相違がある。神の言葉は、人間が創造物の中で特別な立場にあることを明示している。一方で進化論は、人間は理性の伴わない自然の過程による偶然の所産であるとしている。人間は公正で愛のある神の像に造られており、道徳的で方正な生活を送ることができる、というのが聖書の説明である。一方、生き残るための競争を強調する進化論は、愛を示し他者を思いやる人間の特性を説明できない。 進化論は真の希望や目的を差し伸べることができない。聖書は、わたしたちの将来に関する創造者の偉大な目的を示している。創造者はご自分の意図を明確にこう宣言しておられる。「わたしは、希望に満ちた将来をもってあなた方を祝福する」。― Jeremiah 29:11.
2005年03月20日
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「世界保健機関の予測によると、2020年までに世界的に見て、うつ病は機能障害の主要な原因として心臓疾患に次ぐ第2位の存在となる」と、US・ニューズ・アンド・ワールド・リポート誌は述べている。うつ病という公衆衛生上の深刻な問題は「純粋に精神的なもの」とは徐々にみなされなくなっている。米国立精神衛生研究所の神経内分泌科主任フィリップ・ゴールドによると、「実のところうつ病は、他のほとんどすべての疾患に影響を与える―そして悪化させる―唯一の全身性疾患である」。うつ病は、心臓疾患や糖尿病といった病気を引き起こすことさえある。一例として、研究が示すところによると、うつ病の人の場合「心臓の硬化が起こりやすく、身体が必要とする血液と酸素の需要の変化に対応しにくくなる」と、同誌は指摘している。また、「うつ病の人の脳はエネルギーがもっと必要だという信号を送るので、それが引き金となってコルチゾールが産生される可能性があり、そうなると血糖値が上昇する」。さらに、うつ病は骨粗鬆症やがんとも関連があるようだ。うつ病の治療によってそうした疾患が改善されるかどうか、研究が進められている。
2005年03月19日
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西暦50年ごろに使徒パウロがアテネを訪れた時のことを取り上げてみる。その都市では、崇拝における像の使用がかなり重要視されていた。パウロは、アテネの人々に次のように語る。神は「手で作った神殿などには住まず、また、何かが必要であるかのように、人間の手によって世話を受けるわけでもありません。……したがって、わたしたちは……神たる者を金や銀や石、人間の技巧や考案によって彫刻されたもののように思うべきではありません」。―使徒 17:24、25、29。 実のところ、偶像の使用に対するこのような警告は、新約聖書とも呼ばれるクリスチャン・ギリシャ語聖書によく出てくる。例えば、使徒ヨハネはクリスチャンに「自分を偶像から守りなさい」と訓戒した。(ヨハネ第一 5:21)パウロはコリントの人たちに、「神の神殿と偶像にどんな一致があるでしょうか」と書き送っている。(コリント第二 6:16)多くの初期クリスチャンは、クリスチャンになる以前に崇拝で宗教的な像を用いていた。パウロはテサロニケのクリスチャンにそのことを思い起こさせ、『あなた方は自分たちの偶像から神に転じ、生けるまことの神に奴隷として仕えるようになった』、と書いた。(テサロニケ第一 1:9)それらのクリスチャンは、聖画像についてヨハネやパウロと同じ見方を持っていたに違いない。
2005年03月19日
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使徒パウロは、感動して次のように書いた。「神の見えない特質、すなわち、そのとこしえの力と神性とは、造られた物を通して認められるので、世界の創造以来明らかに見えています」。(ローマ 1:20)これまで幾千年もの間、聡明な人々は、神が存在する証拠を自然界に見いだしてきた。 すでに見たように、科学はこの面で有用な手段となる。宇宙の複雑さや整然たる秩序について知れば知るほど、そのすべてを設計した方に対する畏敬の念は深まる。見方を広げてそうした証拠を受け入れ、それが十分に説得力のあるものであることを知った自然科学者もいる。そのような人たちは、科学が神を見いだすのに役立ったと述べることだろう。一方、どれほど証拠があっても納得しようとしない科学者もいるようである。 もしこの点に関する証拠を吟味してみたいと思われるなら、ぜひともそうされるようにお勧めしたい。 一つ目の証拠がこの創造物である。神への信仰はこの証拠に基づく。 もう一つの証拠は何だろうか。それは聖書である。聖書は、超人間的な理知による霊感のもとに記されたことを示す、たくさんの証拠を収めている。例えば、数多くの預言、つまり事前に記された歴史がある。その中には、現代の世界のありさまを的確に描写しているものもある。(マタイ 24:3、6、7. ルカ 21:10、11. テモテ第二 3:1-5)人間には将来を確実に予告することなどできない。神以外のだれにそのようなことができるだろうか。 聖書は、神が存在するかどうかの問いに答えるのを助けるだけではない。神の固有の名を教え、神のご性格について述べ、これまで神が人類にどのように関心を払ってこられたかを伝えている。神が人間のためにこれから何を行われるかということさえ明らかにしている。こうした分野すべてに関して、科学は答えを見いだす助けにはならないだろう。実際、人間の科学は、わたしたちの生活に永続的な希望をもたらさない。道徳観や健全な価値観を築き上げるわけでもない。
2005年03月19日
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「怒りっぽい人は脳卒中を起こしやすい」と、スペインの新聞「ディアリオ・メディコ」は述べている。医師たちはかねてから、攻撃的な態度と冠動脈疾患の発生率の高さとに関連があるとしてきた。最近の研究から、そうした態度によって脳卒中の危険も増すことが明らかになっている。成人1万4000人を対象にした調査で、60歳以下の怒りっぽい人は脳卒中を3倍も起こしやすかった。なぜそうなるのだろうか。怒りによって血圧の上昇、血管の狭窄、血液凝固物質の増加が「著しくなる」と見られ、それによって「やがては脳内の血液循環に影響が及ぶ」と、その記事は伝えている。
2005年03月18日
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毎年8月15日に、ギリシャのティノス島で宗教の盛大な祭りが行なわれる。大勢の人が集まり、イエスの母マリアとそのイコンを崇拝する。そのイコン、つまり聖画像には奇跡的な力があると信じられているのである。(一般に、聖画像とは特定の宗教の信者が崇敬する絵図もしくは象徴のことである。例えば、東方正教会には、キリストの絵図もあれば、三位一体、“聖人”、み使い、そして先述のようにイエスの母マリアを描いたものもある。幾百幾千万もの人々はイコンに対し尊崇の念を抱いているが、それは多くの人が崇拝で用いられる像に対して抱く態度と似ている。キリスト教とはとなえていない宗教も、自分たちの聖画像や像に対し同様の信念や感情を抱いている。)ギリシャ正教の参考文献はこう述べている。「我々は格別の信仰と敬虔さとをもって、主の母、聖なるテオトコスをたたえ、その庇護と速やかな加護を願い求める。我々は霊的・身体的に必要なものについて、奇跡を行なう聖人―聖なる男女―に依り頼む。……極めて信心深い態度で、聖遺物と神聖なイコンに口づけし、それらを崇敬する」。 クリスチャンと称する他の多くの人たちも、同様の崇拝行為を行なう諸宗派に属している。しかし、崇拝に聖画像を用いることには、聖書の教えの裏づけがあるのだろうか。
2005年03月18日
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慎み深さと誠実さは、宗教指導者たちの間にもあまり見られない。聖書が教えていない事柄を聖書の教えであると唱えることに、誠実さがあるだろうか。個人的な見解や好みの伝承を聖書の上に置くことに、慎みがあるだろうか。特殊創造論者は、まさにそのようなことを行なってきた。 例えば、多くの特殊創造論者は、宇宙全体が約6000年前に、文字どおり一日24時間の6日間で創造されたという。そうした教えは、聖書を誤り伝えるものである。聖書は、神が「初め」に天と地を創造されたと述べている。(Genesis 1:1)それは、さらに限定された創造の『日々』が始まる前の、特定されていない時点のことである。注目すべき点として、創世記(Genesis)の記述は、「日」(day)という語が幅広い意味合いで用いられていることを示している。創世記2章4節は、前の章で描写されている6日間全体を指して単に「日」(day)と述べている。論理的に考えると、これらは文字どおり一日24時間の6日ではなく、一つ一つがかなり長大な期間だった。各期間はそれぞれ幾千年にも及んだようである。 宗教の教師たちは、信仰について話すときにも同じように本筋から外れがちである。信仰とは確実な証拠がそろわなくても熱情的に信じることであるとほのめかす場合もあるようである。多くの理性的な人々にとって、それはむしろ軽信に思えるだろう。聖書の述べる信仰の定義は全く異なっている。「信仰とは、望んでいる事柄に対する保証された期待であり、見えない実体についての明白な論証である」。(ヘブライ 11:1)であるから、真の信仰は単なる軽信ではない。確実な証拠に根ざすとともに、道理に基づく保証の備わったものである。 では、神への信仰は、どんな証拠に基づいているのだろうか。大きく分けて二通りの証拠があり、どちらにも人を得心させる力がある。
2005年03月18日
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「英国人は現代的な科学技術に依存することが多くなっているため、面と向かって会話するとなると不安を覚える人が少なくない」とロンドンタイムズ紙は伝えている。英国ガスが1000人の大人を対象にして行なった調査で、普通の人は起きている時間のうち毎日4時間弱を、「本来は時間のゆとりを増やすために開発された科学技術の利用」に費やしていることが分かった。その調査報告によれば、「英国人は一般に、1日のうち、固定電話に88分、携帯電話に62分、Eメールに53分、携帯メールに22分を費やす」。向かい合って会話するといった対話の技術が衰えている、というのがその調査の結論である。調査の対象になった人々の多くは、「余分な会話をしないですむように、あるいは会話を全く避けるために」携帯メールを使ったことを認めた。 斯く言うわたしもその科学技術を利用し、それを費やす時間という観点では奴隷状態にあるのかもしれない。
2005年03月17日
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フィンランド労働衛生研究所のカリ・レイユラ教授によると、喫煙は喫煙者だけでなく、雇い主や非喫煙者にとっても高くつく。仕事中に一服する時間のロスだけでも、「国民経済に年間1660万ユーロほどの損害を与えている」と、フィンランド放送会社のWebサイトは伝えている。「1日にたばこを1箱吸う労働者は、1年間に17日ほど欠勤する」と見られる。損害は病欠によっても増し加わる。レイユラはさらに、「様々な研究によれば、喫煙する従業員は事故を起こす確率も高い」と述べている。加えて、その報告によると、喫煙によって清掃にかかる費用だけでなく電気代も増える。「換気扇を“強”で付けっぱなしにしておく必要があるからである」。さらに深刻なのは、「たばこを吸わないフィンランド人が、仕事中や自由な時間にたばこの煙にさらされ、それに関連した病気で毎年250人も死亡している」ことである。 たばこの害、(被害)は世界共通のようだ。
2005年03月17日
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著名な博識の科学者で、設計者もしくは創造者の存在を各種の証拠が示していると考える人はこれまでも取り上げてきたように少なくない。さらに踏み込む科学者たちもいる。神の存在を独断的に否定する同僚たちの、科学者としての誠実さに疑問を投じるのである。 例えば、地球物理学者ジョン・R・バウムガードナーはこう述べている。「その可能性がぼう然とするほど低いことを思うとき、多少とも正直さを持ち合わせた科学者が、生物界に見られる精巧さの説明として、どうして偶然の相互作用などに頼ることができるのだろうか。数学的確率をよく認識した上でそのように説明するのは、私の見方で言えば、科学者としての誠実さが甚だしく欠けたことである」。 名高い物理学者のリチャード・ファインマンは、科学者としての誠実さの別の面を取り上げている。ある大学の卒業式の式辞の中で、「一歩進んだ特別の誠実さ」に言及し、それには「振り返って自分は間違っているかもしれないと考え直すこと」が含まれると述べた。そうすることは「科学者としての我々の責任であり、他の科学者に対してはもちろん、一般の人々に対する責任でもあると思う」と語っている。 進化論者が、自説は「間違っているかもしれない」といった言葉を付け加えるのを見たり聞いたりすることがあるだろうか。残念ながら、そのような慎み深さはあまり見られないようである。実際、慎み深さと誠実さがあれば、自然科学というものは物質領域の研究に限定されるため創造者の存在に関する疑問には答えられない、ということを認める科学者はもっと多いはずである。では、特殊創造説を提唱する宗教指導者たちについてはどうだろうか。
2005年03月17日
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「20世紀は、集団虐殺のために歴史上最も血なまぐさい世紀となった」。と、ブエノスアイレス・ヘラルド紙は報じた。集団虐殺とは、国家的、人種的、政治的、民族的な集団全体を、組織的かつ計画的に根絶しようとすることである。20世紀中に4100万人余りが虐殺された、と見られている。近年の例ではルワンダを挙げることができる。そこでは1994年におよそ80万人が殺された。虐殺を行なったのは、ほとんどの場合、「憎しみをあおる宣伝に駆り立てられた一般市民」だった。学者たちによれば、100日間にわたって毎日平均8000人が殺された。そのペースは、「第二次世界大戦中にナチスが使用したガス室の5倍に当たる」と、同紙は述べている。
2005年03月16日
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進化か創造かという議論がしきりになされている現状に多少とも嫌気がさすことはないだろうか。そうだとしても、それはあなただけではない。 何しろ、論議の一方の側には学識のある科学者や研究家がいて、しばしば非常に専門的な用語を使い、教養のある聡明な人なら進化論を事実として受け入れるべきだ、と唱える。もう一方の側にはそれに劣らず高圧的な宗教家がいて、感情に訴える話法で、本当に信仰心があるなら自分たち独自の特殊創造説に同意すべきだ、と述べる。 そうした極端な見解は、多くの理性ある人々を遠ざけてしまう。神が存在するかどうかという問いは、独断的な主張より深い考察に値する。覚えておきたい点として、この問いは単なる討論や知的演習の題材として終わるようなものではない。関係する争点は、あなたの命と将来に影響を与えるだろう。
2005年03月16日
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1.「家で座るとき」:あなたもだれかにしてもらったように、家で子どもと定期的に、例えば週に一度、聖書の教えを話し合うように努める。(子どもの年齢にあわせて教えられる聖書に基づいたものが利用できる) 2.「道を歩くとき」:決めた時間以外にも、子どもに創造者である神のことについて話す(神の固有名詞であるみ名を教えることがまず最初だと思う)。日常の場面で生活上の必要な事柄を教えたり、種々の導きを与えたりするのと同じである。 3.「寝るとき」:毎晩、子どもと一緒に祈る。 4.「起きるとき」:多くの家族は、毎朝一つの聖句を熟考することによって豊かな報いを経験している。 発展途上国では、子どもの一人が世俗の教育を確実に受けられるようにするために、どんな苦労もいとわない親が少なくない。そうすれば、年老いた時に面倒を見てもらえるからである。しかし、あなたが聖書を学び、子どもたち全員にも学ばせるなら、あなたやご家族が永遠に生きるのを可能にする知識を得ることになるのである。(聖書の教えに聞き従うなら、子どもは年老いた親の面倒を見ることに無関心であることは決してない。その正しい良心に基づいて行動しようとするからである。テモテ第一 5:4) あらゆる事柄を知り尽くしてしまう日は来るのだろうか。いいえ、この地球が果てしない宇宙を旅し続けるように、わたしたちも知識を取り入れ続けることができる。実際、聖書の中の伝道の書3章11節にはこう書かれている。「神はすべてのものをその時にかなって美しく造られた。定めのない時をさえ彼らの心に置き、まことの神の行なわれた業を、人間が始めから終わりまで決して見いだすことができないようにされた」。知識を取り入れることは喜びであり、その喜びは決して終わることがないのである。
2005年03月16日
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ポーランドでは、気晴らしのための麻薬がビールより簡単に手に入る、とフプロスト誌は伝えている。「どのディスコでも、またはクラブ、バー、ユースホステルでも、さらには大学、高校、中学校でも手に入る」。それだけでなく、大きな都市では麻薬を「電話で注文でき、ピザより速く受け取れる」という。安くて、どこででも入手できることに加え、同誌によれば、「合成薬物は無害であると考えられている」ため、ポーランドのティーンエージャーの半数以上が「少なくとも一度」は試したことがある。青少年更生施設の所長カタジナ・プワフスカ・ポピエラシュによれば、そうした麻薬の一つである“スピード”の長期使用は、「自殺、心臓発作、精神病、異常にやせ細ること」などの結果を招いている。
2005年03月15日
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多くの科学者がためらうことなく、創造者を信じると公言している。神がどういう方であるかに関しては漠然とした考え方をしている人もいるが、理知ある設計者の存在を数々の証拠は示している、という点では意見の一致を見ている。以下のコメントに注目してみていただければ…と思う。 『科学者として周囲の世界を見て、驚くほど複雑精巧な工学的仕組みを観察するにつけ、このような緻密な秩序は理知ある設計によってもたらされたに違いないという結論に導かれる』。―アンドリュー・マッキントッシュ、英国、ウェールズの数学者。 『自然界の複雑さは、明らかに創造者の存在を示している。すべての生物学的および物理学的体系は、ひとたびそれを理解すると、そこに途方もない緻密さの見られることが分かる』。―ジョン・K・G・クレイマー、カナダの生化学者。 『生物界の整然たる秩序はいかにも明白である。それは、わたしが個人的に神と呼んでいる高位の力によって定められたものだ。この点において、信仰は科学的真理に帰一する。科学と矛盾するどころか、それを補完し、宇宙に関する理解を簡明にしてくれる』。―ジャン・ドルスト、フランスの生物学者。 『宇宙と人間の生命に理知ある始まりがなかったなどとは想像もできない。物質や種々の法則を超越した、霊的な“ぬくもり”の源がないなどとは』。―アンドレイ・ドミートリエビッチ・サハロフ、ロシアの原子物理学者。 『どの動物にも、それぞれ特定の環境に適した独特な設計が見られる。その複雑精巧な設計は、無作為の進化の力によるものではなく、創造者によるものと考えざるを得ない』。―ボブ・ホスケン、オーストラリアの生化学者。
2005年03月15日
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