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正岡子規(まさおか・しき)ベースボールの歌 久方のアメリカ人びとのはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも国人くにびとととつ国人と打ちきそふベースボールを見ればゆゝしも *若人わかひとのすなる遊びはさはにあれどベースボールに如しくものはあらじ九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす九つの人九つのあらそひにベースボールの今日も暮れけり打ち揚ぐるボールは高く雲に入りて又落ち来きたる人の手の中になかなかに打ち揚げたるはあやふかり草行く球のとゞまらなくに打ちはづす球キャッチャーの手に在りてベースを人の行きがてにする今やかの三つのベースに人満ちてそゞろに胸のうちさわぐかな明治31年(1898)、新聞『日本』に発表。歌集『竹の里歌』(明治37年・1904)所収註この歌発表の時点でまだ「野球」という訳語は確立していなかったが、なんと正岡子規自身が、本名の「升(のぼる)」をもじって、「野球(のぼーる)」という筆名を名のっていた。久方の:「天(あめ)」「雨」などに掛かる枕詞(まくらことば)。とつ国人:外国人。ゆゝし(ゆゆし)も:不穏な殺気がみなぎって、ぞくぞくするなあ。「も」は詠嘆。* 「近時、第一高等学校と在横浜米人との間に仕合(マツチ)ありしより以来、ベースボールといふ語は端なく世人の耳に入りたり」と別の随筆にある。さはに:たくさん。打ち揚ぐるボールは高く雲に入りて:揚げ雲雀(あげひばり、ヒバリの雄の求愛行動)に擬(なぞら)えているのだろう。なかなかに打ち揚げたるは~:中途半端に打ち上げた球は結局どうなってしまうのか危ういなあ、草原の中を留まらずに転がってゆくけれども。グラウンダー(ゴロ)。打ちはづす球キャッチャーの手に在りて:ファウル球がキャッチャーの手にあって。ベースを人の行きがてにする:「ホームベースにランナーを行き難くする」の意味の上古語(万葉集)的表現。三つのベースに人満ちて:満塁のチャンスもしくはピンチで。そゞろに(そぞろに):気もそぞろに。そわそわ、わくわくと。
2023.03.31
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正岡子規(まさおか・しき)あらたまの年のはじめの七草を 籠こに植ゑて来し病めるわがため歌集『竹の里歌』(明治37年・1904)新たな年の初めの七草を笊ざるに植えるように並べて持って来てくれた。病に臥した私のために、恢復を祈って。註あらたま:粗玉、荒玉、璞、新玉。土から掘り出したままで磨かれていない珠玉、原石。「あらたまの」は、音と意味から「年、月、日、春」などに掛かる枕詞(まくらことば)。
2023.01.07
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正岡子規(まさおか・しき)ベースボールの歌 久方のアメリカ人びとのはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも国人くにびとととつ国人と打ちきそふベースボールを見ればゆゝしも *若人わかひとのすなる遊びはさはにあれどベースボールに如しくものはあらじ九ここのつの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす九つの人九つのあらそひにベースボールの今日も暮れけり打ち揚ぐるボールは高く雲に入りて又落ち来きたる人の手の中になかなかに打ち揚げたるはあやふかり草行く球のとゞまらなくに打ちはづす球キャッチャーの手に在りてベースを人の行きがてにする今やかの三つのベースに人満ちてそゞろに胸のうちさわぐかな明治31年(1898)、新聞『日本』に発表。歌集『竹の里歌』(明治37年・1904)所収註この歌発表の時点でまだ「野球」という訳語は確立していなかったが、なんと正岡子規自身が、本名の「升(のぼる)」をもじって、「野球(のぼーる)」という筆名を名のっていた。久方の:「天(あめ)」「雨」などに掛かる枕詞(まくらことば)。とつ国人:外国人。ゆゝし(ゆゆし)も:不穏な殺気がみなぎって、ぞくぞくするなあ。「も」は詠嘆。*「近時、第一高等学校(現・東京大学教養学部)と在横浜米人との間に仕合(マツチ)ありしより以来、ベースボールといふ語は端なく世人の耳に入りたり」と別の随筆にある。さはに:たくさん。打ち揚ぐるボールは高く雲に入りて:揚げ雲雀(あげひばり、ヒバリの雄の求愛行動)に擬(なぞら)えているのだろう。なかなかに打ち揚げたるはあやふかり:中途半端に打ち上げた球は結局どうなってしまうのか危ういなあ、草原の中を留まらずに転がってゆくけれども。グラウンダー(ゴロ)。打ちはづす球キャッチャーの手に在りて:ファウル球がキャッチャーの手にあって。ベースを人の行きがてにする:「ホームベースにランナーを行き難くする」の意味の上古語(万葉集)的表現。三つのベースに人満ちて:満塁のチャンスもしくはピンチで。そゞろに(そぞろに):気もそぞろに。そわそわ、わくわくと。
2021.11.22
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正岡子規(まさおか・しき)法隆寺の茶店に憩いこひて柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺海南新聞(現・愛媛新聞) 明治28年(1895)11月8日付
2021.11.10
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正岡子規(まさおか・しき)桜さく上野の岡ゆ見おろせば根岸の里に柳垂れたり雨にして上野の山をわがこせば幌ほろのすき間よ花の散る見ゆ大川の川の堤つつみにさく花の薄花雲はたなびきにけり桜さく隅田の堤人をしげみ白鬚しらひげまでは行かで帰りぬ明治34年(1901)註上野の岡:東京・上野公園。(上野の岡)ゆ:~より。~から。根岸の里:自宅(現・東京都史跡「子規庵」)付近。幌ほろ:人力車であろう。(すき間)よ:「ゆ」に同じ。~より。~から。大川:隅田川の通称。人をしげみ:上古語の「ヲミ語法」。人が多いので。(病身の作者にとって)殷賑に過ぎるので、雑踏を避けて。白鬚しらひげ:隅田川東岸の現・東京都墨田区東向島付近の地名。地名の元となった白鬚神社がある。付近には、隅田川に架かる白鬚橋や向島百花園などがある。この歌では白鬚橋を指すか。 歌川広重 上野清水きよみづ堂不忍しのばずノ池 / 上野恩賜公園ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン * 画像クリックで拡大
2016.03.30
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正岡子規(まさおか・しき) 二荒ふたあらの山のもみぢを白瓶の小瓶をがめにさして臥ふしながら見るかへしこもりゐる病やまひの床に冬ふかみくれなゐの色見らくともしも明治33年(1900)作歌集『竹乃里歌』(明治37年・1904)二荒の山の紅葉を白い小さな花瓶に挿して横になりながら見ている。反歌籠っている病の床にも冬が深まったので今は紅の色を見ることもめったにないなあ。註 子規という俳号の由縁は、血を吐くまで鳴き続けるという壮絶な伝説があったホトトギス(「子規」は、その漢名の一つ)に、病身の自らを擬(なぞら)えたというのが動かない定説だろうが、もしかすると「死期」にも掛けてあるのかも知れないと思う(これは筆者の新説か)。 子規が自らの死期を意識した時期から、創作に批評にその本領が発揮され始めたことは事実でもあり、今でいう「毒舌」や「ブラック・ユーモア」の類いの直截な表現を好んだ子規にふさわしい悲壮な洒落と見えなくもない。二荒ふたあらの山:二荒山(ふたらさん)。栃木・日光。白瓶:「はくへい」と読むのだろうと思うが、あるいは「しらがめ」「しろがめ」かも知れず、詳らかでない。かへし:かえし歌。反歌。万葉集に頻出する形式。見らく:見ること(が)。「いわく」などと共通の語形。ともしも:めったにない(ことだ)なあ。乏しいなあ。 正岡子規ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン *画像クリックで拡大。
2014.12.02
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正岡子規(まさおか・しき)法隆寺の茶店に憩ひて柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺『海南新聞』(現・愛媛新聞) 明治28年(1895)11月8日付
2014.10.14
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正岡子規(まさおか・しき)鎌倉由比が浜天あまつ空青海原も一つにてつらなる星かいさりする火か明治26年(1893)夜の鎌倉由比が浜から見ると天空も青海原も一つであの光は連なっている星かそれとも漁をする火だろうか。
2014.05.17
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正岡子規(まさおか・しき)ある人に代りて韓山に在る某に寄す君が着る羅紗らしゃの衣手ころもでさをあらみ な吹きすさみそ から山颪やまおろし明治27年(1894)君が着る羅紗の衣の袖は紗の目が粗いので、吹きすさまないでくれ韓山からやまの颪おろしよ。註韓山からやま:韓国中部、忠清南道(チュンチョンナムド)舒川(ソチョン)郡・韓山(ハンサン)。古来より苧(からむし)を使った織物産業が盛ん。
2014.05.17
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正岡子規(まさおか・しき)汽車とまるところとなりて野の中に新しき家広告の札明治32年(1899)作歌集『竹乃里歌』(明治37年・1904)註日本の近代化は鉄道の整備から始まった。全国津々浦々まで鉄道が敷設され、駅(停車場)が出来て、その周辺に街が形成されてゆく。この歌は、当時急速に開発が始まっていた東京近郊の光景の写生であろう。まさに、「坂の上の一朶(いちだ)の雲」を見ていた明治人の歌である。鉄道史的に見ると、明治29年(1996)12月に土浦線(現・常磐線)が田端から分岐して、三河島・北千住・松戸・土浦を経て友部まで開通した。ただ、この時のこの路線の始点(始発駅)は何と赤羽で、田端にも止まらなかったという。東京周辺の方は分かると思うが、ずいぶん不便だったろうと思う(現在のような日暮里・三河島間の彎曲ループ区間が敷設されて上野始発になったのは明治38年・1905、もともとの路線も貨物用に残されている)。なお、現・山手線になる路線も着々と出来つつあったが、環状で全通したのは大正14年(1925)のこと。現・鶯谷駅最寄りの東京・根岸の自宅(現「子規庵」)からそう遠くない場所の変容を、子規も具(つぶさ)に見聞していただろう。そういった頃の一首である。広告の札:今でいう「立て看板」のようなものか。
2014.04.18
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正岡子規(まさおか・しき)桜さく上野の岡ゆ見おろせば根岸の里に柳垂れたり雨にして上野の山をわがこせば幌ほろのすき間よ花の散る見ゆ大川の川の堤つつみにさく花の薄花雲はたなびきにけり桜さく隅田の堤人をしげみ白鬚しらひげまでは行かで帰りぬ明治34年(1901)註上野の岡:東京・上野公園。(上野の岡)ゆ:~より。~から。根岸の里:自宅(現・子規庵)付近。幌ほろ:人力車であろう。(すき間)よ:「ゆ」に同じ。~より。~から。大川:隅田川の通称。人をしげみ:上古語の「ヲミ語法」。人が多いので。(病身の作者にとって)殷賑に過ぎるので、雑踏を避けて。白鬚しらひげ:隅田川東岸の現・東京都墨田区東向島付近の地名。地名の元となった白鬚神社がある。付近には、隅田川に架かる白鬚橋や向島百花園などがある。この歌では白鬚橋を指すか。
2014.04.03
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☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆正岡子規(まさおか・しき)真砂まさごなす数なき星の其その中に吾に向ひて光る星ありたらちねの母がなりたる母星ははぼしの子を思もふ光吾を照せり玉水の雫絶えたる檐のきの端はに星かがやきて長雨はれぬ空はかる台うてなの上に登り立つ我をめぐりて星かがやけり天地あめつちに月人男つきひとをとこ照り透とほり星の少女をとめのかくれて見えずひさかたの星の光の清き夜にそことも知らず鷺鳴きわたる草つつみ病やまひの床に寝がへればガラス戸の外とに星一つ見ゆ明治33年(1900)7月註明治の巨人・正岡子規の晩年(といっても32歳)の連作。写生・写実(リアリズム)を鼓吹した子規らしからぬ(?)ロマンティックでファンタスティック、シュールな味さえ感じさせる珠玉のような一連。数なき星:無数の星。数限りない星。空はかる台うてな:観天望気をする台、すなわち気象台・天文台の類い。月人男つきひとをとこ:たぶん月そのものの擬人化。日本神話では、月神(月読神)は、一般的に男神とされている。牽牛星(鷲座アルタイル)と織女星(琴座ベガ)の恋路を邪魔する無粋なお邪魔虫の意か。そことも知らず:どことも知れず。いずこからか。草つつみ:不明。「病」もしくは「山」に掛かる枕詞でもあろうか? なお考究する。
2014.02.28
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正岡子規(まさおか・しき)和歌に痩せ俳句に痩せぬ夏男明治33年(1900)夏和歌に悩んで痩せ俳句に悩んで痩せこけてしまった夏男である。註(痩せ)ぬ:完了の助動詞「ぬ」の終止形。「~てしまった」。
2013.08.21
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正岡子規(まさおか・しき) 「涼し」連作 俳句夜も更けぬ妻も寝入りぬ門かど涼し涼しさや川打ちわたす馬もなし杉木立すぎこだち土につく手のうらすゞしすゞしさや雲湧き起こる海三寸すゞしさや月に二人の亭主あり (友人二人をヨイショした句らしい)盗人ぬすっともはいる此家このやのすゞしさよ網さげて涼しさうなる雫しづくかな涼しさや目高追はへる女の子 (追い合っていた) 白河結城城址(福島)すゞしさや昔の人の汗のあと (芭蕉「夏草やつはものどもが夢のあと」の本歌取り)夏川すゞしさや馬つなぎたる橋柱 福島・浅香沼すゞしさの只水くさき匂ひかな 満福寺に宿りて寺に寝る身の尊さよ涼しさよ 福島公園眺望見下ろせば月にすゞしや四千軒しせんけん 福島忍摺(しのぶずり)の古跡にてうつぶけに涼し河原の左大臣 十綱の橋つり橋に乱れて涼し雨のあし 岩代国(福島)湯野村すゞしさや滝ほどはしる家のあひ涼しくもがらすにとほる月夜かな 笠嶋道祖神にてわれはたゞ旅すゞしかれと祈るなり 塩竃(しおがま)神社より浦辺をめぐりて涼しさの猶なほありがたき昔かな涼しさのここを扇のかなめかな 松島雑詠 五句すゞしさの腸はらわたにまで通りけり (名句、子規の代表作の一つ)すゞしさや片帆を真帆に取直しすゞしさや舟うつり行く千松嶋涼しさや嶋かたぶきて松一つすゞしさの大嶋よりも小島かな 瑞岩寺経きやうの声はるかにすゞし杉木立 松島五大堂涼しさや嶋から島へ橋づたひ立ちよれば木の下涼し道祖神 作並温泉 二句ちろちろと焚火涼しや山の家窓あけて寝ざめ涼しや檐のきの雲すゞしさや関山こえて下り道すゞしさやあるじまつ間の肘枕ひじまくらすゞしさや小舟のりこむ蘆あしの中 王子松宇亭すゞしさの隣をとへば正一位涼しさや子をよぶ牛も川の中牛のせて涼しや淀の渡し舟 白拍子しらびゃうし賛 (遊女)月涼し水干露をこぼすべう (「べく」の古語風音便)明治26年(1893)夏* ( )内は筆者註。
2013.08.20
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正岡子規(まさおか・しき) 「暑さかな」連作 俳句あら壁に西日のほてる暑さかな松陰はどこも銭出すあつさかな (茶店の木蔭のことか)暑さかな八百八町家ばかりぐるりからいとしがらるる暑さかな犬の子の草に寝いねたる暑さかな昼顔の花に皺しわ見るあつさかなやるせなき夕立前のあつさかな雨折々あつさをなぶる山家やまがかな我わが部屋は茶代も出さぬ暑さかな (旅先の宿のチップ)やせ馬の尻ならべたるあつさかな 岩代日本松にて幾曲りまがりてあつし二本松掛茶屋のほこりに坐るあつさかな熱き夜の寝られぬよその咄かな昼時に酒しひらるるあつさかな (強いられる)店先に車夫汗くさき熱さかな道々に瓜の皮ちるあつさかな馬車うまくるま店先ふさぐあつさかな博奕ばくち打つ間のほの暗き暑さかな夕まぐれ馬叱る町のあつさかな腹痛に寝られぬ夜半よはの暑さかなくたびれを養ひかぬる暑さかな昼顔はしぼむ間もなきあつさかな裸身はだかみの壁にひつゝくあつさかな (引っ付く)ひびわれて苔なき庭のあつさかな石原に片足づゝのあつさかな上野から見下ろす町のあつさかな (上野忍ヶ丘、現・上野公園)ぬれ足に河原をありく暑さかな (「歩く」の古語)鍬くはたてゝあたり人なき暑さかな小蒸汽こじょうきの機械をのぞく暑さかな (小さい蒸気機関車)頭陀づだ一つこれさへ暑き浮世かな (頭陀袋、粗末な作りの袋)さはるもの蒲団木枕きまくら皆あつしあつき日や肌も脱がれぬ女客傾城けいせいにいつわりのなき暑さかな (手練手管てれんてくだの遊女が嘘でないことをいうのが暑苦しい)海士あまが家やに干魚ひうをの臭ふあつさかなあつき日や運坐はじまる四畳半 (運坐:句会)此のあたり土蔵の多きあつさかな大仏を見つめかねたる暑さかな気違ひの壁叩きたる暑さかな破やれ垣の隣見えすく暑さかな出立しゅつたつの飯いそぎたるあつさかな 病中猶なほ暑し骨と皮とになりてさへ明治26年(1893)夏* ( )内は筆者註。
2013.08.20
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正岡子規(まさおか・しき)ベースボールの歌 久方のアメリカ人びとのはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも国人くにびとととつ国人と打ちきそふベースボールを見ればゆゝしも *若人わかひとのすなる遊びはさはにあれどベースボールに如しくものはあらじ九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす九つの人九つのあらそひにベースボールの今日も暮れけり打ち揚ぐるボールは高く雲に入りて又落ち来きたる人の手の中になかなかに打ち揚げたるはあやふかり草行く球のとゞまらなくに打ちはづす球キャッチャーの手に在りてベースを人の行きがてにする今やかの三つのベースに人満ちてそゞろに胸のうちさわぐかな明治31年(1898)、新聞『日本』に発表。歌集『竹の里歌』(明治37年・1904)所収註この歌発表の時点でまだ「野球」という訳語は確立していなかったが、なんと正岡子規自身が、本名の「升(のぼる)」をもじって、「野球(のぼーる)」という筆名を名のっていた。久方の:「天(あめ)」「雨」などに掛かる枕詞(まくらことば)。とつ国人:外国人。ゆゝし(ゆゆし)も:不穏な殺気がみなぎって、ぞくぞくするなあ。「も」は詠嘆。* 「近時、第一高等学校と在横浜米人との間に仕合(マツチ)ありしより以来、ベースボールといふ語は端なく世人の耳に入りたり」と別の随筆にある。さはに:たくさん。打ち揚ぐるボールは高く雲に入りて:揚げ雲雀(あげひばり、ヒバリの雄の求愛行動)に擬(なぞら)えているのだろう。なかなかに打ち揚げたるは~:中途半端に打ち上げた球は結局どうなってしまうのか危ういなあ、草原の中を留まらずに転がってゆくけれども。グラウンダー(ゴロ)。打ちはづす球キャッチャーの手に在りて:ファウル球がキャッチャーの手にあって。ベースを人の行きがてにする:「ホームベースにランナーを行き難くする」の意味の上古語(万葉集)的表現。三つのベースに人満ちて:満塁のチャンスもしくはピンチで。そゞろに(そぞろに):気もそぞろに。そわそわ、わくわくと。
2013.03.04
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正岡子規(まさおか・しき)大原の野を焼く男野を焼くと 雉きぎすな焼きそ野を焼く男歌集「竹乃里歌」大原の野を焼く男野良を焼いてもキジまで焼くな野を焼く男よ。註野を焼く : 野焼き。 野火(のび)。 山焼き。 草を焼く。* 京都・大原
2012.03.19
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正岡子規(まさおか・しき)冬ごもる病やまひの床のガラス戸の 曇りぬぐへば足袋たび干せる見ゆ歌集「竹乃里歌」(明治37年・1904)
2012.02.13
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正岡子規(まさおか・しき)猫老おいて鼠もとらず置炬燵おきごたつ明治25年(1892)石川県・九谷焼 井出幸子作 眠り猫 更紗・青【送料無料】価格:8,400円(税込)子規句集 高浜虚子選 坪内稔典解説【送料無料】価格:798円(税込) 子規庵(正岡子規旧居、東京・根岸)
2012.01.29
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正岡子規(まさおか・しき)くれなゐの二尺伸びたる薔薇ばらの芽の 針やはらかに春雨のふる歌集「竹乃里歌」(明治37年・1904)註二尺:約60cm。
2011.03.31
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正岡子規(まさおか・しき) 旋頭歌せどうか霜枯しもがれの垣根に赤き木この実は何なぞ 雪ふらば雪の兎うさぎの眼まなこにはめな明治33年(1900)作歌集「竹乃里歌」(明治37年・1904)霜枯れの垣根に実った赤い木の実は何だろう。雪が降ったら雪で作ったウサギの眼に嵌めよう。註(はめ)な:「・・・しよう」。活用語(この場合は、動詞「嵌む」)の未然形に接続して、話者の意志を示す上古語終助詞。万葉集に頻出する。奈良時代当時の口語だったのだろう。平安期には、推量・決意の助動詞「む」に取って代わられ、滅んだ。* 旋頭歌については、こちら。
2010.12.24
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正岡子規(まさおか・しき) 旋頭歌せどうかすめろぎの日知ひじりの国は竪たてに長きかも とことはに雪ふらぬ島雪消えぬ山明治33年(1900)作歌集「竹乃里歌」(明治37年・1904)天子さまが知ろしめすこの国は縦に長いのだなあ。永久に雪の降らない島 雪の消えない山。* 旋頭歌については、こちら。
2010.12.24
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正岡子規(まさおか・しき) 旋頭歌せどうかいましめの司等つかさら門かどの雪はけといふ 雪はけど女力をみなぢからの掃はきがてぬかも明治33年(1900)作歌集「竹乃里歌」(明治37年・1904)警邏の巡査が門の前の雪を掃けと命令する。雪は掃いても、か弱い女の力では掃ききれないよなあ。註明治時代の警官は、薩長の士族などが多く、威張っていたのだろう。いささかの怒り、嘆きと理不尽への筆誅めいた諷詠の趣もある異色作。いましめの司等つかさら:おそらく、「警察官」や「巡査」という言葉を、子規がやまとことばに直したもの。子規の言葉に対する美意識とともに、言葉遊びの感覚も感じられる。女をみな:根岸の自宅(現「子規庵」)で晩年の子規を看病していた妹・律(りつ)。旋頭歌については、こちらを参照。
2010.12.23
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正岡子規(まさおか・しき) 旋頭歌せどうかガラス戸の外白妙そとしろたへにかがやける雪 小夜さよふけて上野の森のあきらかに見ゆ明治33年(1900)作歌集「竹乃里歌」(明治37年・1904)ガラス戸の外 白妙に輝いている雪。清らかな夜が更けて上野の森があきらかに見える。註上野の森:現・JR山手線の上野駅から鶯谷(うぐいすだに)駅付近の西側の高台の森。上野公園や徳川将軍家の菩提寺である東叡山 寛永寺などがあり、春には桜の名所となる。当時、根岸の子規の自宅(現「子規庵」)から直接遠望できたといわれ、その風景が子規の歌句に散見される。たまたま先日、筆者は子規庵を訪れたが、鶯谷駅から徒歩5分ほどで、さもあらんと思った。あきらかに:明るく。明るんで。くっきりと。*「旋頭歌」については、前記事参照。
2010.12.22
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正岡子規(まさおか・しき) 旋頭歌せどうか足あなやみて室へやにこもれど寒き此この朝 北にある毛けの国山くにやまに雪ふるらしも明治33年(1900)作歌集「竹乃里歌」(明治37年・1904)脚を病んで部屋に籠っているけれども寒いこの朝北にある毛の国の山には雪が降っているらしいなあ。註五七七五七七の形式をもつ旋頭歌(せどうか)による連作の一首。この形式は、子規が傾倒した万葉集に散見され、短歌形式(五七五七七)が確立・席巻する以前の姿を留める上古の歌謡・詩歌の一形式である。こういうのを読んでいると、一種の古拙な味わいは感じるが、やはり短歌形式の完璧さが再認識される。毛の国:上つ毛(かみつけ→こうずけ、上野)の国と下つ毛(しもつけ、下野)の国。ほぼ現在の群馬県と栃木県に当たる古代の行政区分。
2010.12.22
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正岡子規(まさおか・しき) 二荒ふたあらの山のもみぢを白瓶の小瓶をがめにさして臥ふしながら見るかへしこもりゐる病やまひの床に冬ふかみくれなゐの色見らくともしも明治33年(1900)作歌集「竹乃里歌」(明治37年・1904)二荒の山の紅葉を白い小さな花瓶に挿して横になりながら見ている。反歌籠っている病の床にも冬が深まったので今は紅の色を見ることもめったにないなあ。註子規という俳号の由縁は、血を吐くまで鳴き続けるという壮絶な伝説があったホトトギス(「子規」は、その漢名の一つ)に、病身の自らを擬(なぞら)えたというのが動かない定説だが、もしかすると「死期」にも掛けてあるのかも知れないと思う(・・・これは筆者の新説か)。子規が自らの「死期を覚悟した」時期から、創作に批評にその本領が発揮され始めたことは歴史的事実でもあり、今でいう「毒舌」や「ブラック・ユーモア」の類いの直裁でリアルな表現を好んだと見える子規にふさわしい悲壮な洒落と見えなくもない。二荒ふたあらの山:二荒山(ふたらさん)。栃木・日光。白瓶:「はくへい」と読むのだろうと思うが、あるいは「しらがめ」「しろがめ」かも知れず、詳らかでない。かへし:かえし歌。反歌。万葉集に頻出する形式。見らく:見ること(が)。「いわく」などと共通の語形。ともしも:乏しいなあ。めったにない(ことだ)なあ。
2010.12.22
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正岡子規(まさおか・しき)絶筆三句糸瓜へちま咲て痰たんのつまりし仏かな痰一斗たんいっと糸瓜の水も間にあはずをとゝひのへちまの水も取らざりき明治35年(1902)9月18日午前11時頃作新聞「日本」同9月21日付1面「正岡子規子の絶筆」初出。→写真版註翌9月19日が命日で、「子規忌」「糸瓜忌へちまき」と呼ばれる。■ 正岡子規逝去記事(新聞「日本」明治35年9月20日付1面)■ 同関連紙面リンクこの句は、淡々とした日常詠の延長のような詠みぶりもあってか、「辞世」といわず「絶筆」という。また、このような痛々しい悲惨な場面を詠みながら、どこか俳味・諧謔味を漂わせていると感じるのは僕だけであろうか。さすがだと思う。「写生」(新聞「日本」の同僚記者でもあった洋画家・中村不折から学んだフランス語「デッサン」、または英語「スケッチ」を、子規が翻訳したともいわれる)を重んじ、近代的写実主義(リアリズム)を目指した子規にふさわしい三句。咲て:原文のまま。たぶん「さいて」と読むのだろうが、「さきて」かも知れず、不詳。糸瓜の水:当時、痰切り、咳止めとして広く用いられた。効能があったのかどうかは不明。
2010.12.12
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きょう東京に所用があり、久しぶりの上京ついでに、台東区根岸にある正岡子規の住居跡の史蹟「子規庵」に行ってみました。「五七五」に興味があるものなら一度は訪れたい聖地(サンクチュアリ)ですが、実際に行ってみると山手線・鶯谷駅北口から徒歩わずか5分の、あっけないほど交通至便なところにありました。駅前の交番で道を聞いたら、すでに道順のプリントが用意されていて、お巡りさんと思わず見交わす笑顔と笑顔。僕は若い頃は東京に住んでいましたが、その頃は不勉強で短詩形文学に知識も興味もなく、ここを訪れたのは初めてですが、すでにいろいろな映像や画像で見ているせいもあって、何か懐かしいような既知感(デジャヴ)に包まれました。それはもちろん、明治時代の住居そのものである「子規庵」それ自体のもたらすノスタルジーでもありました(・・・建物は戦後の再建だそうですが)。丹精込められた庭などを眺めていると、すごく落ち着いた気分になり、ここが終(つい)の棲処(すみか)であれば、子規もけっこう幸せだったんじゃなかろうかと思いました(・・・ちなみに、この庭も当時の比較的鮮明な写真が残っており、それに基づいてかなり正確に再現されています)。子規が主人公の一人であるNHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」の影響で、やはり来庵者は非常に増えているということでした。このドラマのセットが「子規庵」の間取りその他をきわめて忠実に再現していることに、録画を見ながら改めて気がつきました。気さくな案内係の女性にうながされて、子規の机下(きか)の座布団に腰を下ろして、かの有名な糸瓜棚(へちまだな)を眺めてみました。感激の極みでありました。なお、敷地内部は写真撮影禁止だそうです。が、実を言うと、係の方々の目を盗んでササっと2~3枚撮ったのですが、それをここに掲載してはさすがに叱られると思いますので、やめときます~
2010.12.10
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正岡子規(まさおか・しき)汽車とまるところとなりて野の中に新しき家広告の札明治32年(1899)作歌集「竹乃里歌」(明治37年・1904)汽車が停まるところとなってこの野原の中にも新しい家、広告の札が立ってゆく。註日本の近代化は鉄道の整備から始まった。全国津々浦々まで鉄道が敷設され、駅(停車場)が出来て、その周辺に街が形成されてゆく。この歌は、当時急速に開発が始まっていた東京近郊の光景の写生であろう。まさに、「坂の上の一朶(いちだ)の雲」を見ていた明治人の歌である。鉄道史的に見ると、明治29年(1896)12月に土浦線(現・常磐線)が田端から分岐して、三河島・北千住・松戸・土浦を経て友部まで開通した。ただ、この時のこの路線の始点(始発駅)は何と赤羽で、田端にも止まらなかったという。東京周辺の方は分かると思うが、ずいぶん不便だったろうと思う(現在のような日暮里・三河島間の彎曲ループ区間が敷設されて上野始発になったのは明治38年・1905)。東京・根岸の子規の自宅(現「子規庵」)からそう遠くない場所の変容を、子規も具(つぶさ)に見聞していただろう。そういった頃の一首である。なお、現・山手線になる路線も着々と出来つつあったが、環状で全通したのは大正14年(1925)のこと。広告の札:今でいう「立て看板」のようなものと解される。
2010.11.03
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正岡子規(まさおか・しき)をりふしのいさかひこそはありもせめ 犬がくはずば猫にやれこそ明治32年(1899)作歌集「竹乃里歌」(明治37年・1904)折節(おりふし)の夫婦の諍(いさか)いはありもしようが犬が食わなければ猫にやるがよい。註俳句の弟子・福田把栗(ふくだ・はりつ)の結婚に際して贈った祝いの歌・連作四首の四首目。新婚の弟子に夫婦喧嘩を戒めている、というか、茶化して笑わせつつ夫婦の心得と達観を勧めている佳品。一見ナンセンスな言い草が面白い。ちなみに、この歌は私くまんパパめが金科玉条とし、拳々服膺(けんけんふくよう)する、終生の諳誦歌(あんしょうか)にして座右の一首であります~ありもせめ:「ありもせむ(ありもするだろう)」の、係り結びによる連用形。せめ・・・こそ:普通の係り結び「こそ・・・せめ」を顛倒(てんとう)させた形。洒落た技巧を弄しておどけて笑わせている。子規歌集 (岩波文庫)価格:420円(税込、送料別)
2010.10.14
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正岡子規(まさおか・しき)君が庭に植ゑば何花合歓ねむの花夕ゆふべになれば寝ぬる合歓の花明治32年(1899)作歌集「竹乃里歌」(明治37年・1904)君の庭に植えるならば何の花 合歓の花夜になれば寝る合歓の花註艶笑的なユーモアが微笑を誘う。俳句の弟子・福田把栗(ふくだ・はりつ)の結婚に際して贈った祝いの歌・連作四首の三首目。
2010.10.13
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正岡子規(まさおか・しき)よき妻を君は娶めとりぬ妻はあれど殊ことにかなひぬ君が妻 君に明治32年(1899)作歌集「竹乃里歌」(明治37年・1904)よい妻を君は娶った。妻にもいろいろあるけれども特にかなったね君の妻は君に。註俳句の弟子・福田把栗(ふくだ・はりつ)の結婚に際して贈った祝いの歌・連作四首の二首目。
2010.10.12
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正岡子規(まさおか・しき)米なくば共にかつゑん魚あらば片身分けんと此この妹いも此の夫せ明治32年(1899)作歌集「竹乃里歌」(明治37年・1904)米がなければ共に飢えよう魚があるならば半分に分けようとこの妻 この夫。註俳句・短歌にわたる巨匠だった子規の、俳句の方の弟子・福田把栗(ふくだ・はりつ)の結婚に際して贈った祝いの歌。「坂の上の一朶(いちだ)の雲を見ていた」明治人ならではの、豪快なユーモアと情味が楽しい連作四首の一首目。*「魚」は、普通には「うを(うお)」と読むが、万葉趣味だった子規の場合、上古語の「いを」と読ませるつもりかも知れない。「夫せ」の字は、原文では人偏に夫です。子規歌集 (岩波文庫)価格:420円(税込、送料別)
2010.10.12
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正岡子規(まさおか・しき)漱石へ年を経て君し帰らば山陰やまかげのわがおくつきに草むしをらん風もらぬ釘つけ箱に入れて来こし夏だいだいはくさりてありけり明治33年(1900)夏歳月を経て、もし君が(松山に)帰るならば山かげの私の墓に草が生むしていることだろう。風が入らない釘つけ箱に丁重に入れて送ってよこした夏みかんは腐っていたなあ。註親友・夏目漱石への暑中見舞いの歌。漱石は若い頃、正岡子規の故郷でもある四国・松山の愛媛県尋常中学校(後の旧制・松山中学校、現・松山東高等学校)に英語教師として赴任。その時の経験をもとに、後に中篇小説「坊ちゃん」を、3週間ほどでノリノリで書き上げたといわれる。奥つ城き:墓。
2010.08.25
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正岡子規(まさおか・しき)和歌に痩せ俳句に痩せぬ夏男明治33年(1900)夏和歌がああだこうだと考えては痩せ俳句がどうだこうだと考えては痩せこけてしまった夏の男である。
2010.08.24
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正岡子規(まさおか・しき)ぬば玉の牛飼ひ星と白ゆふの機織姫はたをりひめとけふこひわたる歌集「竹の里歌」(明治37年・1904)射干玉のように精悍な牛飼いの星と白木綿の花のように清楚な機織姫が射干玉のように暗い宵闇を今日恋い渡ってゆく。註ぬば玉:ヒオウギの黒い珠実、または黒い珠玉の類。「ぬばたまの」は「黒」「夜」「夕」「月」「暗き」「寝(ぬ)」「夢」などに掛かる枕詞(まくらことば)。ここでは「ぬば玉の」が、黒光りするような精悍な牛飼いの青年の面影と、枕詞「ぬばたまの」が掛かる縁語の重層的なイメージの両者に掛けられている。「牛飼ひ星」が、明治の世にいち早く牛乳製造販売業を営んだ短歌の直弟子(根岸短歌会→アララギ派)で、艶福家だった伊藤左千夫に掛けられていると見るのは、穿ちすぎだろうか?* 例年の旧七夕は8月下旬頃(今年は8月16日)。現行の太陽暦(新暦)では梅雨の真っ只中となってしまった七夕と異なり、古来の七夕は天候も安定している夏の終わりから秋のはじまりを感じさせる季節の行事。すべての勅撰和歌集の部立てでも、七夕は秋の題の扱いとなっている。
2010.08.20
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正岡子規(まさおか・しき)くれなゐの二尺伸びたる薔薇ばらの芽の針やはらかに春雨のふる歌集「竹の里歌」(明治37年・1904)紅の二尺に伸びた薔薇の芽の棘はまだ柔らかく柔らかに春雨が降っている。註明治33年(1900)4月21日作。短い人生の間に、俳句・短歌に巨歩を標した子規の、短歌における代表作の一つ。二尺:約60cm。「やはらかに」は、「針」と「春雨」の両方に掛かっている。■ 若葉の子規庵 律さんの看護 展東京・根岸 子規庵 5月30日(日)まで(毎週月曜は休庵)■ 同ポスター(PDファイル)
2010.05.24
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正岡子規(まさおか・しき)裏口の木戸のかたへの竹垣にたばねられたる山吹の花小縄こなはもてたばねあげられ諸枝もろえだの垂れがてにする山吹の花(小縄で束ね上げられて、たくさんの枝が垂れにくいようにされた山吹の花。)水汲みに往来ゆききの袖の打ち触れて散りはじめたる山吹の花まをとめの猶なほわらはにて植ゑしよりいく年とせ経たる山吹の花(今はもう妙齢の隣の娘が、まだ幼い子供だった頃に植えてから、何年経ったのだろう、この山吹の花は。)歌の会開かんと思もふ日も過ぎて散りがたになる山吹の花我が庵いほをめぐらす垣根隈くまもおちず咲かせみまくの山吹の花(わが庵いほりを巡らせた垣根に、隈もないほどに咲かせてみたい山吹の花。)*「みまく」は「みまくほし(き)」(見たく思う)の省略形。あき人も文ふみくばり人も往ゆきちがふ裏戸のわきの山吹の花(出入りの商人も郵便配達人も行き違う、裏戸の脇の山吹の花。)春の日の雨しき降ればガラス戸の曇りて見えぬ山吹の花ガラス戸のくもり拭へばあきらかに寝ながら見ゆる山吹の花春雨のけならべ降れば葉がくれに黄色乏しき山吹の花(春雨が連日降り続いて、葉蔭に黄色の乏しい山吹の花。)* けならべ:「日並べ」。「連日」の意味の上古語。明治34年(1901)晩春、東京・根岸の自宅(子規庵)で、不治の病床に臥して詠む。歌集「竹の里歌」(明治37年・1904)
2010.05.23
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正岡子規(まさおか・しき)瓶かめにさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとどかざりけり(花瓶に挿した藤の花房は短いので、とても畳の上までは届かないだろうなあ。)瓶かめにさす藤の花ぶさ一ふさはかさねし書ふみの上に垂れたり藤なみの花をし見れば奈良のみかど京きやうのみかどの昔こひしも藤なみの花をし見れば紫の絵の具取り出いで写さんと思ふ藤なみの花の紫絵にかかばこき紫にかくべかりけり(藤波の花の紫を絵に書くのならば、濃い紫に書くべきだろうなあ。)瓶かめにさす藤の花ぶさ花垂れて病やまひの牀とこに春暮れんとす去年こぞの春亀戸かめゐどに藤を見しことを今藤を見て思ひいでつもくれなゐの牡丹ぼたんの花にさきだちて藤の紫咲きいでにけりこの藤は早く咲きたり亀井戸の藤咲かまくは十日とをかまり後のち(この藤は早く咲いた。亀戸の藤が咲くのは十日余り後か。)八入折やしほりの酒にひたせばしをれたる藤なみの花よみがへり咲く(丹念に醸された銘酒に浸したところ、萎れた藤波の花が蘇って咲いた。)明治34年(1901)晩春、東京・根岸の自宅(子規庵)で詠む。歌集「竹の里歌」(明治37年・1904)註当時としては不治の病であった脊椎カリエス(脊椎の結核)に臥した子規晩年の連作秀歌。一見淡々とした写生(写実)の中に、鬼気迫るほどの気魄が満ち満ちている名篇。
2010.05.22
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正岡子規(まさおか・しき)いちはつの花咲きいでゝ我目わがめには今年ばかりの春行かんとす歌集「竹の里歌」(明治37年・1904)いちはつの花が咲き出して余命少ない私の目には今年限りの春が行こうとしているのだなあ。註いちはつ:アヤメ科の多年草。
2010.05.22
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正岡子規(まさおか・しき)真砂まさごなす数なき星の其その中に吾に向ひて光る星ありたらちねの母がなりたる母星ははぼしの子を思もふ光吾を照せり明治33年(1900)作遺稿歌集「竹の里歌」(明治37年・1904)註真砂なす数なき星:浜の真砂のさまをなすような数限りない星。無数の星々。母星(ははぼし):今の概念でいう「母星(ぼせい、地球)」ではないだろう。寡聞にして知らなかったのでいろいろ検索してみたところ、こちらのブログなどによれば、金星(ヴィーナス)のことなのか? ・・・しかし、よく読むとそうでもないような。あくまで子規の心に宿った観念であって、特定の有名な星ではないのかも知れない。結局未詳、五里霧中。調査を続行する。子規の歌には、こういった暗号文みたいな摩訶不思議な表現がけっこう多いように思う。そこがまた魅力なのかも知れない、とは漱石枕流(負け惜しみ)か 子規歌集
2010.02.16
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正岡子規(まさおか・しき)冬ごもる病やまひの床とこのガラス戸の曇りぬぐへば足袋たび干せる見ゆ歌集「竹の里歌」(明治37年・1904)
2010.01.11
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正岡子規(まさおか・しき)あらたまの年のはじめの七草を籠こに植ゑて来し病めるわがため歌集「竹の里歌」(明治37年・1904)* 子規没後、弟子たちにより刊行。粗い原石のように新たな年の初めの七草を籠(かご)に植えるように飾って持って来てくれた人がいる。病臥の私の恢復を祈って。註あらたま:粗玉、荒玉、璞、新玉。土から掘り出したままで磨かれていない珠玉。原石。「あらたまの」は、音と意味から「年、月、日、春」などに掛かる枕詞(まくらことば)。
2010.01.07
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正岡子規(まさおか・しき)ベースボールの歌久方のアメリカ人びとのはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす打ち揚ぐるボールは高く雲に入りて又落ち来きたる人の手の中に今やかの三つのベースに人満ちてそぞろに胸のうちさわぐかな九つの人九つのあらそひにベースボールの今日も暮れけり明治31年(1898)註久方の:「天(あめ)」、「雨」などに掛かる枕詞(まくらことば)。
2009.12.08
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正岡子規(まさおか・しき)鶏頭の十四五本もありぬべし明治33年(1900)作鶏頭が十四、五本も咲いているだろうなあ。ケイトウ(アカザ科)註子規の俳句の最高傑作の一つ。当時不治の病であった結核・脊椎カリエスに苦しみ死の床に臥した子規が、いつか見た秋の庭の鶏頭のささやかな、しかしながら鮮やかな光景を、万感の思いを以って回想している再晩年の作。天下の岩波文庫の「子規句集」などの編纂に当たって、同郷の高弟・高浜虚子は、明らかな名句であるこの作品を見逃し(・・・もしくは意図的に除外し?)、巨人・斎藤茂吉をはじめ、長塚節(たかし)、加藤楸邨(しゅうそん)、山本健吉らに強く批判されたが、その後も頑なに黙殺し続け、虚子の選句眼は大きく疑われるに至った。こういうことはしばしばきっかけに過ぎず、一事が万事であって、虚子の頑迷固陋で権威主義的な人格攻撃にまで及んだ、曰く因縁つきの名句。私も、何ら虚子に同情しない。現在の岩波文庫「子規句集」(高浜虚子選)にもこの句は収録されていない。この本は、いわば欠陥商品といってもいいだろう。・・・個人的には、洒落の分かる碩学の俳人・坪内稔典(ねんてん、としのり)辺りの選で、初めから全部編集し直した方がいいと思う。
2009.12.08
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正岡子規(まさおか・しき)ぬば玉の牛飼ひ星と白ゆふの機織姫はたをりひめとけふこひわたる歌集「竹の里歌」(明治37年・1904)射干玉のように精悍な牛飼いの星と白木綿の花のように清楚な機織姫が射干玉のような今夜の宵闇を恋い渡ってゆく。註ぬば玉:ヒオウギの黒い珠実、または黒い珠玉の類。「ぬばたまの」は「黒」「夜」「夕」「月」「暗き」「寝(ぬ)」「夢」などに掛かる枕詞(まくらことば)。ここでは「ぬば玉の」が、黒光りするような精悍な牛飼いの青年の面影と、枕詞「ぬばたまの」が掛かる縁語群の重層的なイメージの両者にさりげなく響かせてある。さすがに、近代短歌を切り拓いた明治の巨人の、手練(てだれ)の秀歌というべきであろう。* きょうは太陰暦(旧暦)の7月7日、すなわち七夕。現行の太陽暦(新暦)では梅雨の真っ只中となってしまった七夕と異なり、古来の七夕は、天候も安定している夏のおわりと秋のはじまりを感じさせる季節の行事だったんだなあと改めて思う。すべての勅撰和歌集の部類分けでも、七夕は秋の題の扱いとなっている。
2009.08.26
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正岡子規(まさおか・しき)ぬば玉の牛飼ひ星と白ゆふの機織姫とけふこひわたる歌集「竹の里歌」漆黒の天空の牛飼いの若者と白木綿のような織姫が今日恋い渡る。
2009.07.05
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正岡子規 「涼し」連作 下 瑞岩寺経きやうの声はるかにすゞし杉木立 松島五大堂涼しさや嶋から島へ橋づたひ立ちよれば木の下涼し道祖神 作並温泉 二句ちろちろと焚火涼しや山の家窓あけて寝ざめ涼しや檐のきの雲すゞしさや関山こえて下り道すゞしさやあるじまつ間の肘枕ひじまくらすゞしさや小舟のりこむ蘆あしの中 王子松宇亭すゞしさの隣をとへば正一位涼しさや子をよぶ牛も川の中牛のせて涼しや淀の渡し舟 白拍子しらびゃうし賛 (遊女)月涼し水干露をこぼすべう (「べく」の古語風音便)
2007.08.21
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正岡子規 「涼し」連作 中 福島・浅香沼すゞしさの只水くさき匂ひかな 満福寺に宿りて寺に寝る身の尊さよ涼しさよ 福島公園眺望見下ろせば月にすゞしや四千軒しせんけん 福島忍摺(しのぶずり)の古跡にてうつぶけに涼し河原の左大臣 十綱の橋つり橋に乱れて涼し雨のあし 岩代国(福島)湯野村すゞしさや滝ほどはしる家のあひ涼しくもがらすにとほる月夜かな 笠嶋道祖神にてわれはたゞ旅すゞしかれと祈るなり 塩竃(しおがま)神社より浦辺をめぐりて涼しさの猶なほありがたき昔かな涼しさのここを扇のかなめかな 松島雑詠 五句すゞしさの腸はらわたにまで通りけり (名句、子規の代表作の一つ)すゞしさや片帆を真帆に取直しすゞしさや舟うつり行く千松嶋涼しさや嶋かたぶきて松一つすゞしさの大嶋よりも小島かな明治26年夏
2007.08.20
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正岡子規 「涼し」連作 上夜も更けぬ妻も寝入りぬ門かど涼し涼しさや川打ちわたす馬もなし杉木立すぎこだち土につく手のうらすゞしすゞしさや雲湧き起こる海三寸すゞしさや月に二人の亭主あり (友人二人をヨイショした句らしい)盗人ぬすっともはいる此家このやのすゞしさよ網さげて涼しさうなる雫しづくかな涼しさや目高追はへる女の子 (追い合っていた) 白河結城城址(福島)すゞしさや昔の人の汗のあと (芭蕉「夏草やつはものどもが夢のあと」の本歌取り)夏川すゞしさや馬つなぎたる橋柱明治26年夏( )内は、筆者註。
2007.08.19
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