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6センチもある厚い本です。読み終わるまで何ケ月もかかりました。風と友に去りぬ 愛のバイブル 南北戦争のを背景に展開する一大ロマン。映画も何回も見てきましたが、やはり本は細やかに書かれ読みごたえがありました。何故 このような厚い本を取り寄せたかとの理由は、以前に英語で書かれた本をいただいたからです。下に写真がありますが それはそれは立派な本です。そしてその本に似合う訳した本を取り寄せたのでした。そして日本語訳の本と一緒に英語の本を読んでみたかったからです。最初は並べて読んでいましたが、だんだん英語版はおろそかになり 訳した本だけ読むようになってしまいした。長編小説は昔から好きでした。最初はなかなか読み進めませんが、終わりに近づくと急ピッチになります。でも、これだけ厚い本を読んだのは初めてです。持ち歩き、どこでも読める本ではありません。テーブルの上に置き読みました。読み終わってホットとしたのが正直な気持ちでした。若いころから読んでみたい長編小説本を次々に読んできました。記憶にある本だけですが、源氏物語、 平家物語、 徳川家康、 坂の上の雲 、 胡蝶の夢、 三国志、等々10代のころは ジャン・クリフトフ 魅せられたる魂、などがあります。好きな作家の本は一時は夢中になり、図書館にある本を借りて読みました。新田次郎、宮尾登美子の本は90%は読んでいます。司馬遼太郎の胡蝶の夢は新聞に連載されたものですが面白い本でした。新聞に連載されている小説はいつも必ず読んでいます。今は信濃毎日新聞で連載されている、「親鸞」が面白いです。エッセイスト沢村貞子、阿川佐和子、高峰秀子の本はほとんど読んでいます。芥川賞等受賞した人の本も読んでみますが、あまり印象に残っていません。最近は、スポーツクラブがオープンする前に、早めに行き、駐車場で読書するのが好きになりました。自動車の中が読書室です。寒いときはひざ掛けをして読んでいます。自分だけの世界です。結構読めて楽しいですよ。
March 30, 2011
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2011年2月11日 1版1刷発行されできたばかりの本です。以前に 太平洋の奇跡 をブログに書きました。一緒に読むとよくわかります。本の帯に書かれている内容は、大場栄は蒲群市出身で豊橋の小学校の教師、1937年に妻と一人息子を残して日中戦争に徴兵される。栄は1944年にサイパン玉砕後、残存兵士を組織して、アメリカ軍と戦い続ける。その戦いが2011年に映画化された。映画化の中で、栄が妻と交わした日中戦争時の手紙が発見される。65年前の古びた手紙の束から、二人の青春がきら星のようによみがえった。それは燃えるようなラブレターであった。二人のデートの場所、初めて口吻をした想い出・・。7年間にわたり毎週交わされた戦場とと戦時下日本の具体的な描写は、当時を知る優れたドキュメンタリーになっている。この本が出来上がるまで、 大場書簡を読み解く会 ができ、栄が戦火の中で様々な想いを癒した峯子からの便箋の束は10センチほどに綴じてあり、めくれば破れるのではないかと思われるほどでした。手紙の整理には時間と労力が必要でした。何よりも膨大な量、軍事郵便の特有の伏字、旧仮名遣い、年月日の不明な手紙が多かったと編集者が書いています。発見された手紙は相互で600通ほどで不明の手紙を合わせて千通以上の手紙が海を越えていたことが推定されれる。全体の三分の一のみ本にしている。次男の久充さんのお話私の知る父は仕事熱心で寡黙であり、若い頃の話しや戦争の話しは何十年もの間ほとんど聞くことがありませんでした。ましてや、父が満州にいて、当時日本にいた母と何百通もの手紙のやり取りがあったことは聞いておりません。しかも、晩年の老いた両親からは想像できないような当時のほとばし出るような若い気持ちがあったことに驚いています。まだ生まれていなかった次男の私が妬けるほどの愛情を、長男に注いでいたことに、両親の愛情の深さを感じずにはおられません。1992年6月8日 栄没 、6月25日に峯子没 同じ月にお二人は亡くなられています。 略歴を読むと、サイパン島日本軍玉砕で、栄大尉戦死の通知を受け葬儀。8月15日終戦、12月の年末に 栄 帰郷、翌年10月に次男 久充 生まれる。読み終わって見ると、時代背景は違っても、ラブレターの内容は、今の恋愛感情とひとつも変わらず、ワクワク、ドキドキするような羨ましくなるお手紙でした。発行所は、これから出版 ← お取り寄せ方法が書いてあります。これから出版に寄せられた感想文です。動画1動画2 UPしたものがありました。ご覧ください。
March 25, 2011
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東北関東大震災で、多大な被害を受けられました皆様に心よりお見舞い申し上げます。思いもよらない大地震、津波等、多くに人々が被害にあわれ、テレビや新聞の報道を見るにつけ胸を締め付けられます。知り合いの方が、災害地に親戚がほとんどいる人ですが、連絡がなかなか出来ず、やっと17日に連絡をうけたと知らされてホットしたところです。17日に、ある講演会を聞いてまいりましたことを、少し書いてみたいとブログを更新しました。あるNPO法人で活躍されている方のお話です。講演内容と違った各国の地震、津波、原発にかけつけた当時のお話をまづ話されました。2004年12月にあったインドネシア西部スマトラ島は今回と同じM.9の地震で、亡くなられた人は22万人 行方不明者7万7千人と多くの犠牲者がでています。NPO法人で活躍している講師は現地にすぐにかけつけました。今まで見たことの光景で、今回も同じですが、当時撮った、写真とともに説明されました。その時には、多くの犠牲者を入れる箱がたくさん並び、積み重ねられ、次々に処理をしていたこと。溺れて亡くなった人の顔は水分を含み、顔がわからないくらいに変わっているので、遺体確認はできず、その時に現地に行った時の、臭気の強さはすごかった。また、1986年4月にあったチェルノブイリ原子力発電所の事故は史上最悪の事故で石棺で囲いされているが、この周りはいまだにミリマイクロ級の放射能が出ているとのこと。事故は発電所がストップしないで爆発したので、被害はいまだに残っている。チィルノブイリ原子力発電所この時も講師は何か役に立てないかとすぐに行き、何回も足を運んでいます。講師自身も被曝していて普通のひとよりも多いいそうです。色々お話している中で、小さい子供とお母さんの写真を見せ、お母さんに頼まれたこと、「どうか、この子を日本に連れて治療してほしい」と涙ながらに訴えられたが、何もできなかった。子供は放射能を吸い、甲状腺ガンに侵されていた。吸い込むと白血病などにもなる。日本に帰り、信州大学の医師に相談して、現地に行き、多くの子供たちの甲状腺ガンの手術をしていただいた、お話をされました。今の松本市長さんです。3月16日付信濃毎日新聞で、県も観測態勢を強化を・・松本市長さんよりの記事があります。
March 18, 2011
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富士登山 自分史まさこの窓の1部です。郵便局で働いていました。同僚数人と富士山 3776m に登ったことがありました。遠くから見る富士山は、姿かたちがよく、美しく見える山ですが、そばで見る富士はまったく違いました。夜行日帰りで、五合目までバスで行きました。金剛杖を使い山を登り始めました。五合目からは樹木が少なく殺風景な岩だらけの登山道でした。大勢の人がギグザグに登山している様子が見渡せました。登り始めて下界が見えた時は、さすが富士山 素晴らしい眺めでした。登山道は、決められていて平らな大きな岩や小さい岩を並べてあったりして登りやすくできていました。落石に注意の立札がたっていたので気を付けて登り、一息ついて下界を見るといつの間にか雲海の世界になっていました。雲の上はサンサンと太陽がふりそそぎ晴天です。頂上に向かって登って行くと、気持ちの良い風が吹いてきて、汗がまったく出ません。6合目、7合目・・・の地点では山小屋があり宿泊できるようになっていました。しかし、この地点の近くにくると、トイレの臭気が強く、休憩は合目の中間地点でしました。同僚の若い男の人が、背中に大きな荷物を背負っていたので、夜行日帰りの富士登山に、こんな大きな荷物が必要なのかと思い聞いてみると、ナイショと言って教えてくれないのです。八合目を過ぎてから休憩時間になり、その人は、リックサックから荷物を取り出しました。それは スイカ だったのです。よくぞここまで運んできたと感心しました。温まったスイカでしたが、汁がたっぷりでとても美味しく、いまだに富士山でスイカを食べたことは忘れません。やっと頂上に着いた時は、日本一の富士山の頂上まで登ることが出来て、感慨深いものがありました。観測所の建物や、富士山の火口を覗きしばらく休んでから下山しました。下山道には、岩はあまりなく、砂のような細かい土の坂道を下るのです。ころがりそうになるのを、足で踏ん張りながら一気に駆け下りました。着地点についたついたときは、膝がガクガクして長いこと止まりませんでした。登山中汗をかかなかったのですが、顔が日に焼け真っ赤になっていました。また、高校時代の友だと八ヶ岳にも登りました。何十年の前の20歳代の時です。今は山小屋など設備も良く、変わっていると思います。
March 9, 2011
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御殿場の親戚の家へ用事で出かけました。自動車で日帰りです。住んでいる佐久を午前7時に出発、小淵沢、清里を通りインター須玉で高速道路に入ります。2,3日寒さが続き、小海町を過ぎると気温表示版が マイナス13度になっていました。。小淵沢から清里へドライブすると雪をかぶった八ヶ岳が見えてきました。この八ヶ岳は、私が若い、若~~い頃、4ツの岳を縦走した想い出があります。清里で1泊して、朝早く登り始め、最高峰、赤岳で1泊しました。山小屋に泊まるのは初めて、寝床はじゅたんのように巻いてある敷布団が、ゴロゴロと広げられ、泊り客はくっついて横になります。まだ、上を向くゆとりがありましたが、混んでいるときはギュウギュウ詰めになるそうです。薄い掛布団、やはりロール巻きにした布団でしたが広げ掛けられましたが、結構暖かく山登りで疲れていたので、いつの間にか寝ていました。八ヶ岳を見ながらいつもその時のことを想い出します。須玉から高速道路に入り、いつも決まったところでトイレ休憩をして、大月を経由して御殿場に向かいます。富士山が見えてきました。綺麗に雪化粧して美しいです。2011.3.5 撮影お天気がよくバッチリきれいに写真が撮れました。この富士山も若い、若~~~い頃登山したことがあります。夜行日帰りで登りました。隣の運転手は富士山の近くの村で生まれましたが、富士山が家から見えない場所で、そして富士山に登ったことがありません。私が自費出版で自分史を作り、その中にある富士山へ登った様子のことを書いたのを読んで、富士登山の様子がわかったと言ってました。その富士登山の様子は次のブログに載せます。御殿場で用事をすませ、帰りはまた同じコースを通り、いつも立ち寄る、美味しいお蕎麦を食べて、家に着いたのは午後7時30分でした。手打ちそば 藤乃家 をクリックしてください。ふたつの山々 写真の枚数が少ないのですが、ビデオを作ってみました。
March 5, 2011
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図書館で借りてきた本です。本ができてから5年たってますから介護は15年になる。「パパはマイナス50点」 書いた人は大島渚監督の奥さんの小山明子さん。小山明子さんの夫、大島渚監督がイギリスで脳溢血で倒れたのは64歳の時であった。2ケ月後、小山明子さんがうつ病でになり、夫と同じ病院の精神科に入院する。夫をこのようにしてしまい、自分自身のふがいなさ、申し訳ないとの自責の念でいっぱいで、生きていくことがつらく、家出をするが、何もできず家に戻ると、うつ病と診断される。大島渚監督の病名は左視床下部出血。利き腕のある体の右側が麻痺、そして言語障害があった。それからの監督のリハビリは厳しい厳しい訓練で、本人は必死に耐え頑張り、倒れる前に作る予定だった「御法度」をつくまでに回復し、見事に映画を作りあげた。小山明子さんのリハビリもはじまる。夫が倒れてから、ずーと彼だけを見つめ、その結果、心を病んでしまった。結婚したら仕事はやめることと思ったいたが、「やめるべきではない」「キミならできるよ」と励まされ、撮影がどんなに遅く帰っても起きて待っていた。かけがいのない存在だった。しかし、夫を愛し信頼することと、夫に頼り切って生きることは違うのではないか。また何かあった時は、夫を精神的に支えられるような、そんな強さを身につけたい。水泳を習い、ガーディニングも楽しむようになった。小山明子さんのリハビリは必要なくなり回復し、隣近所の人たちとも仲良くすごしている。。「御法度」を完成してから、大島渚監督は手術などして、介護側も周りの人の協力でなりたっている。介護側の心得など、小山明子さんなりに色々と書かれてある。最後に、澤地久枝作家が、大島さんは青年時代、妻にするならこういう女性と考えていた。僕のえらんだ人といばった日は40代だった。一口で言うならば、まだまだ続く、愛情物語のように思った。お互いに相手を思いやり、心遣い、そして、介護に打ちのめされないように、自分自身楽しみながら、介護をつづける姿勢には敬服する。小山明子さんは長いこと仕事をしていなかったが、講演を頼まれるようになる。夫の介護生活をユーモラスに語り、2部には、「源氏物語」の中の「明石」を朗読している。1度お話をじかに聞いてみたい。
March 1, 2011
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