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1973年に家を建てました。軽井沢の別荘をデザインしたことがある大工の弟さんに設計してもらいました。玄関は吹き抜けになっています。天井はよしず張り、壁はすべて京壁です。選んだ照明が気に入らず、いつかステンドグラスで作りたいと思っていましたが、もう作る気力がありません。でも、ステンドグラスのランプにすると、とても重いので、これでよかったかな~ともおもいます。右側にみえる格子の壁は2階の部屋の飾り棚です。壁には、たくさんの絵を飾れます。階段の上の壁の左に見えるのは、私の作ったニードルポイントの手芸の絵です。すごく手間のかかるもので、アメリカへ渡ったばかりの時に、英語ができなかったので、家にいるときに作りました。非常に時間のかかる手芸です。私のHP クラブ活動 に少し説明が載っています。あと2点は、知り合いの人の日本画と墨絵です。下の写真は玄関から入った時の場面です。真正面は洗面所とトイレ、お風呂場に入るドアです。右側はお雛様を飾ってある下駄箱と、客間に入る引き戸です。居間にはいるドアと洗面所のドア、客間へのドアと同じ木目のデザインです。わが子が小さい頃、友達の子供が来た時、ここで遊べる、ひろ~~いと驚いていました。ここだけは洋風のような和風のような部屋ですが、他の部屋は、全部、畳の部屋で洋間がありません中廊下はなく、階段側、裏の部屋はプライベートの部屋で、居間、寝室、広縁、お台所があります。2階には2部屋あり、私のパソコンの部屋があります。真正面はあまり飾り物がなく、さっぱりしています。
February 25, 2011
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以前に写した写真ですが、毎年私の作ったステンドグラスで作ったお雛様を玄関に飾ります。右側はお友達の家にあったものを真似して作り、左側は私のデザインした立雛です。もちろん右側の作品は非常に手がかかりました。私のは簡単ですっきりしていると、やはり真似して作っている人がいました。台もステンドで上は鏡になっています。UPすると、ボロが見えますので、これくらいで我慢してください。このステンドグラスは壁側に置くので、光を通さないでもいいものを選びました。小さい、小さい お雛様です。顔にはなにも書いていません。玄関が吹き抜けになっているので階段の上から今日写しました。。ゴチャゴチャと壁に飾るものが多くなり賑やかになっています。去年のブログです。もう一つのお雛様
February 22, 2011
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写真は我が家のトイレのドアです。ドアを作りかえた時に、私の作ったステンドグラスのパネルをはめ込んでもらいました。中に入り電気を付けた状態だとステンドのきれいな色が出てきてます。夜だけですが・・・昼間は、残念なことに外のあかりが裏から入らない位置ですので色は変わりません。右側のノレンのかかっているドアは、窓に対面しているので、きれいなステンドのパネルをいれると色が昼間でもきれいに出ますが、古いドアにはめ込んで作ってもらうのが面倒なのでやめました。前のブログの残雪の写真のような透き通ったガラスは使えません。覗かれます。手作りガラスは、厚みがあり、デコボコしたガラスも使い、配色は自分なりに考えました。電気がつかないときや昼間の時の色は、趣味 に載っています。トイレに色々飾るのは好きですが、最近は殺風景です。今は、トイレの法則とかで切り口を見せないで三角に織り込んで取り出しやすくする、心遣いに感心しています。出始めの時、まだトイレの法則と言われていない頃、我が家のトイレもしていました。ところが、お客が来た時に言われたのです。手を洗う前に三角に折りたたむのか、洗ってからするのか、もちろん洗ってから皆さんはたたんでいると思いますが、どうでしょうか。今は三角に折りたためる操作するものが出てきたとテレビでみましたが、やはり、操作するときも、手を洗ってからするのか 洗う前にするのかと考えてしまいます。トイレのドアを開けると目の前に私の作った鏡を飾っています。左側に炭を入れた袋に造花の花を1輪挿しているだけです。そして上の写真の左側は、暖簾を通して玄関の広間です。天井は吹き抜けです。階段が見えます。広々していますが、ここが1番寒いところです。
February 18, 2011
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三連休で大雪が降り、そのあと気温が低いので、雪がいつまでも残っています。広い道路には雪はないのですが、狭い道は両サイドに雪が残り、溶けた雪の水が道に流れて、気温が低いと濡れているところを、気をつけて歩かないとツルッと滑ります。まるでスケート場です。自動車の免許がないとき、歩いて買い物に行きました。自動車が後ろから来たので脇道によけてたっていると、気をつけていたのに、ツルッと滑ったことがありました。自動車は、ゆっくり走っていたので、ひかれないで済みましたが、それからはよけないことにして、安全な場所まで行き、通過してもらいました。自動車を運転するようになり、雪道の時や凍みているときは、この時のことを想い出し、気を付けて運転しています。下の写真は家からとったもので、前方右側に蓼科山が見えます。雪はあまり多くないようです。家から見える景色です。北側に浅間山がありますが、家からは見えません。北に向かって家に帰る道路からよく見えます。浅間山は綺麗な雪化粧をしています。
February 17, 2011
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月曜日は、ジムが定休日で運動ができない。また続けて映画を見にいった。パソコンを使っているので興味を持った ソーシャル・ネットワーク の映画みる。今世紀における最も画期的な社会現象となったフェイスブックが立ち上がるまでの創設の裏側をえがいている。2003年ハーバード大学に通うマーク・ザッカーバーグは親友のエドゥアルド・サベリンと一緒に 女の子にもてたい 知りたい とSNSフェスブックをたちあげた。瞬く間に大学生たちの間に広がり、西海岸のシリコンバレー、そして全世界と広がっていく。「インターネット時代のビル・ゲイツ」と呼ばれ、米フォーブス誌の2010年版世界長者版付けで「世界で最も若い億万長者」となった。息詰まるようなスピード感、若者の動きや興奮度、新しいものを作っていく過程に驚く。アイデアを盗まれたと訴えられるが、乗り越えていく。もっと詳しくはソーシアル・ネットワークを検索するといろいろなことが書かれている。創始者のマーク・ザッカバークを演じるのは若手実力派のジェシーアイゼンバーク、天才ぶりの役どころ、少しボーとしていているが、新しいアイディアを思いつくと夢中でパソコンに向かい機関銃のようにタイピングして行く様子がすごい。親友のエドゥアルド・サベリン役 アンドリューガーフィールド 世界中が注目する俳優。この俳優が私はとてもよかった。この俳優の名前を憶えておこう。
February 14, 2011
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今日は 太平洋の奇跡 の映画を見に行く。こちらの映画館で2月11日の公開になったばかりである。始まる時間より早めにいくと、驚いたことに大勢並んでいた。いつもすぐ部屋に入れるのに・・・いい映画らしい。この映画のチラシの文であるが、1944年、玉砕の島サイパン。 これは、歴史に埋もれた真実の物語であると書かれている。アメリカからも称賛された人物、大場大尉のことが描かれている。サイパン島での玉砕のあと、1945年の8月15日の終戦にも降伏しなかった。上官からの命令書を取り付けてもらい、1945年12月1日に自分以下47士で投降した。大場大尉は、サイパン島に派遣される前の日中戦争の激しい戦火の中、日本にいる、妻や子供たちに、600通の手紙を交わしていたエピソードがある。日中戦争の始まった時に私は生まれた。自分史を書くときに日中戦争のことを調べたとき、残虐きわまりない戦争の記録を書いた本を読んだ。投降したときに大場大尉が言った言葉が意味深いものだった。戦争場面は辛かったが、ひとり一人の人物の個性が浮き出ている映画だと思った。是非、ご覧下さい。
February 13, 2011
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太平洋側を東北東に進んだ低気圧の影響で、11日の県内は中南部を中心に大雪となりました。私の住んでいるところは 中信 になります。軽井沢、松本、とおなじ位置にあります。この地域にしては、珍しく大雪になりました。新潟寄りの北信は雪の深いところです。いままでも雪は降りましたが、すぐに溶けて交通は不便ではありませんでしたが、さすがに雪道を運転するのは自信がありません。雪景色は大好きです。また音も消してとても静かです。今日は朝から日がさして明るいのですが、太陽は輪郭がはっきりぜず ぼんやりと見えます。私の作ったパネルのステンドグラスを通して雪景色を撮りました。我が家の狭い庭には樹木が植えられ 大きくなっているので雪を被った樹が2階のベランダからみると、素敵な造形をつくっています。薔薇のステンドグラスは、軽井沢駅の通路の南北にある素敵なステンドグラスを作った先生に教わりました。下の写真は1階から東側にある門扉のほうを撮りました。雪は柔らく、気温があがりますと自然に溶けるので通路だけ雪かきをして無駄な労力はつかいません。
February 12, 2011
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今年からハーモニカが吹けるように個人指導してもらっています。月に2回30分だけです。私が小学校1年の時は戦争中で学校は閉校して入学式がありませんでした。戦後、何もない時期で、ハーモニカは手ごろな楽器でしたけど、とても高いのでゆとりのある人しか買えなかったそうです。そして女性はハーモニカを吹くと口が大きくなるからといわれていました。急にハーモニカを習おうと思ったのは、ジムで知り合った人が年寄りの養護ホームへ行って、ボランティアで、2人で合奏してましょうと言われて、私も年寄りなのにズーズーしくその気になったのでした。皆が知っている童謡など吹けるようになるといいな~と思ったからです。ところが、とんでもないことでそう簡単に吹けるものではありません。複音ハーモニカは吹くところが2段になっていて、音は出ますが、きれいな音色を出すのが難しいのです。私は丁寧に吹きたい思っていたので、ここでしっかり基礎を習うことになりました。 1回目の教室では ド の音を出す練習だけで30分の時間は終わりました。2回目の教室は 下の段の穴を舌で軽くふさいで ド のきれいな音色をだす練習です。舌で下の穴を軽くおさえると、きれいな高い ド の音色になります。3回目は同じ練習ですが、練習模様を録音しながらしました。四苦八苦しています。ハーモニカをくわえ口の中で舌を動かすのがなかなかできないのです。でも、これが基礎なので、しっかりとできるようにならなければと思うのですが、リラックスできず、肩こりがひどくなりました。気楽に吹けるようになるまでは、まだまだ先のことです。一緒にホームで合奏すなんてとんでもないことでした。本の中にある、 ふるさと の曲を覚えて吹いていますが、きれいな音色がでるように練習しています。
February 11, 2011
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掌編自分史作品集 わたしの宝物 心に染みた唄・詩&忘れられない友・師・家族 かすがい市民文化財団編本を読み終わる。私のは第三章に載っているが、他の人の作品を読むと、それぞれの体験談が書かれいて一気に読む。この文化財団の公募は、8回目になり北海道から九州まで、さらに海外からも原稿が送られてきている。しかし、多くは愛知県からの参加で、財団でしている自分史講座を受けた人もいるようだ。そして年齢は70歳代の人が多くで男性と女性の比率は約55:45ぐらいで男性の方のほうが少し多く投稿していると書かれていた。70代の人の作品は、同じ年齢なので、読むとその時代のことがよく理解できた。最後の審査員からの一言は 読者の存在を意識してかいていますか。 書きたいことを書いただけでなく 、読み手を意識して 読みたくなるようにかいた とはいいがたいことである。辛口の評価だった。私の場合は、全く読み手を意識していないとは思わないが、内容をわかりやすく、そしてこのような経験をしたことを知ってもらいたくて書き綴った。もともと文章を書くことが大嫌いだったのが、いまこのように書いている自分に驚いている。
February 7, 2011
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前ページの続きから 暫くの間、エレンさんがお休みの日が続いたことがあり、思い切って手紙をだしてみました。そして、すぐに返事のお手紙が送られてきました。 素敵なカードとそして何時も私のことお気遣い下さりありがとうございました。私はうっかり転び、顔を激しく打ってひどい顔になってしまいました。シニアセンターに行き皆さんにお会いすることができなくなってしまいました。今はすっかり良くなったので来週には戻りますのでお目にかかれるでしょう。貴方は本当に可愛い女性で好きです。ご一緒に仕事ができてとても嬉しいです。エレンさんからの初めてのお手紙です。それから私から手紙を送ると、必ずお手紙をいただきました。日本に帰国してから頂いたお手紙が多いのですが、私からの手紙は、長女の結婚式の様子や次女の大学の卒業式の様子、家で飼っていた犬や猫のこと、また、プールで泳いでいる事などを書いた英文の手紙を送りました。私の便りをいつも楽しみにしていたことを、エレンさんの息子さんから、エレンさんが亡くなられた時のお手紙のなかに書かれていました。エレンさんは百二歳で亡くなられました。息子さんからお手紙を頂いた時は、胸が熱くなりました。八十九歳から百一歳までに書かれたお手紙をもう一度読み直してみました。そして歳をとってもこれだけのお手紙を書かれたことは、しっかりしたお年寄りだったとおもいました。エレンさんのお手紙の中には、息子さんによく面倒をみてもらっているので、幸せであること、お誕生日には素敵なレストランで、エレンさんの大好きなローストビーフとヨークシャプディングの英国式の食事のお祝いをしてもらって嬉しかったこと、それに、息子さんと一緒にロングドライブで、あちこちの観光地を訪ね楽しかったことなど、便箋に裏表ぎっしりと書かれてあるお手紙もありました。また、何の前兆なく、長男が重い心臓病で亡くなり、大ショックだったこと、そのあと、エレンさんとほぼ同じ歳のお友達が、最後は、介護施設に入り、亡くなったこと。当時、私から手紙を送っても、返事がなく、久しぶりに来たお手紙は、辛いこと悲しいことが続きましたが、何とかこれを克服して将来に進まねばならないと書いてありました。また、私が、驚き感激したことは、イギリスにいるお姉さまが百歳のお誕生日を迎え、女王からお祝いのお手紙を頂いたこと、またエレンさんもアメリカの大統領からお手紙を頂き、姉妹揃って百歳のお祝いをしてもらい長生きなさったことでした。 エレンさんはとても穏やかなおとなしいお年寄りでした。いつも息子さんに感謝して前向きに生きている女性でした。でも歳とともに気管支炎などの病気をすることも多くなり、関節炎で手が麻痺して手紙を書くことができず、コンピュータで作ったお手紙を頂くようになりました。私は、6年前にパソコンを買い、5年間アメリカで過ごしたことを書きたくホームページを作りました。作る前に、エレンさんとの想い出を書くために、息子さんへ、ラストネームなど個人情報に気をつけて載せたいと許しを得る手紙を送ると、 私の母は、貴方が母を大変敬愛くださり、貴方のWEB SITEに、想い出を書き込みたいとお考えであると知ったらきっと喜ぶでしょう。母はシニアセンターでの貴方との楽しかった折々の話をよく私に話しました。勿論、貴方がお好きなように母の写真やお手紙をお使いになっても結構です。の返事のお手紙をいただきました。この広い世界で、イギリス人のエレンさんと日本人の私が、偶然にもアメリカで知り合い手紙のやりとりを交わしたことはおもいもよらないことでした。年齢差を越えて、お互いに引きよせる何かがあったのではないかと私なりに思っています。エレンさんから頂いたお手紙は、わたしの一番の宝物です。おわり
February 5, 2011
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私の投稿した原稿用紙7枚の わたしの宝物 をここで掲載します。。わたしの宝物毎年、バラの花が咲き始める頃、可愛いピンクの綺麗な花びらをみていると、上品なエレンさんの笑顔を思い出します。丸顔でニコっと笑うと周りの人たちを魅了する素敵な笑顔の老婦人でした。エレンさんは、アメリカに住んでいたイギリス人でした。今から二十年前、私は、アメリカ ロスアンゼルスの郊外のニューポートビーチに住んでいました。英語もできず、アメリカで生活するとはおもいもよりませんでしたが、でも嬉しくて、わくわく どきどき、びくびくしながらアメリカへ渡りました。住んでいたアパートは、海の見える景色のいいところでした。日本では、山に囲まれたところに住んでいたので、朝、昼、夕方、気候などにより、海の色の変化に驚いたものです。 昼間は一人で居ることが多く、英語が話せなくても買い物ぐらいはできるので一人で出掛けていました。アパートの近くには、シニアセンターがありました。そこでお年寄りと少しでもお話ができたらと思い飛び込んでみると、私の拙い英語が通じたのか、問題もなく、シニアセンターに通うことができるようになりました。シニアセンターでは、事務職は若い人たちがサラリーをもらい、少人数で、企画、新聞発行などの仕事をして、その他諸々の仕事はシニアの人たちのボランティアで運営されていました。私もここで何かお手伝いをしたいと申し出ると、ランチ時間前のキッチン内でのお手伝いをすることになりました。最初のボランティアをする日には、働いている人たちを紹介されました。そこで初めてエレンさんにお会いしました。その時、エレンさんは八十九歳でした。ランチ時間前のキッチン内のボランティアは、希望した曜日をきめてお手伝いをしていました。私はエレンさんと同じ曜日にきめて、少し早めにキッチンにはいると、いつもエレンはきていました。先ずあいさつからはじまり、少しずつ会話ができるようになりました。エレンさんのご主人は、英独戦争の時に亡くなり、その当時、子供が小さかったので大変だったことを話していました。そして、次男と一緒にニューポートビーチで暮らしていました。私の英語は簡単な質問のみで、聞き取りが出来ず、メモ用紙に書いてもらい、どうにかこうにか話は通じていました。つづく
February 4, 2011
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今日、家に帰ると作品集が届いていました。2月ごろ本が出来上がるとのことでしたが、こんなに早く届くとは思っていませんでした。以前に11月8日にブログに載せた 公募 の中の優秀作品に選ばれた42名の人の書かれた作品集です。ページ数は、発刊に寄せて 春日井市長の挨拶、最後に、審査員からの一言 を入れて258ページの本です。目次は第1章 わたしの宝物~唄・詩~第2章 わたしの宝物~師・学び舎~第3章 わたしの宝物~思い出の品~第4章 わたしの宝物~友・仲間第5章 わたしの宝物~家族~私のは第3章に載っています。題名が「わたしの宝物」は私一人でした。皆、いい題名で投稿していました。もう少し気の利いた題名を考えればよかったと思っています。今晩はゆっくりとこの作品集を読むつもりです。
February 2, 2011
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