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岩崎行親君と私
岩崎行親君を私が初めて知ったのは、明治9年(1876年)でありました。その時、私どもは、今の第一高等学校の前身なる大学予備門の最高級にありて、わが国師範教育の指導者なるスコット氏より、初めて教育らしい教育を受けました。その時、私どもは初めて、教育の、外より知識を注入するにあらずして、内なる知能の開発にあることを知りました。岩崎君も私も、他の多数の同級生と共に、私どもの生涯の全部を通して、米国人スコット氏に負うところ、はなはだ多きを忘るることはできません。
翌年の明治10年に、岩崎君も私も北海道札幌農学校の生徒募集に応じ、同年秋、海路札幌に行きました。ここに私どもにとり、終生忘るべからざる最も楽しき教育を受けました。札幌において私どもを薫陶してくれました最良の教師は、人なる教師にあらずして、生けるそのままの天然でありました。その時、北海道はまだ造化の手を離れたばかりの国土でありまして、いともうるわしき楽園でありました。私どもはここに青春時代の4年を過ごしました。私はたびたび思います。私が私の子供に施してやりたい教育は、私が岩崎君ならびに他の学友と共に札幌において受けた教育であると。しかし、かかる教育は、今望んで受けることも授けることもできません。その理由は、北海の楽園は失せて跡方なきに至ったからであります。人なる教師はいくらでもあります。人の設けし設備はいくらでも設けることができます。しかしながら壊(こぼ)たれし天然は再びこれを取り返すことはできません。北海道もまた俗人の手ゆだねられて、その汚すところとなり、青年の心を潔(きよ)めその志を高ぬるの能力(ちから)を失いました。今や北海道帝国大学は札幌農学校の継続者として存在しますが、その教育上の威力に至っては、とうてい旧(ふる)い小さい札幌農学校に及ばないと思います。それは大学に有り得ないものが農学校に有ったからであります。石狩平野の処女林、その樹木に巣を作りし鳥類、その木影に咲く雑草、石狩、千歳、豊平の諸流に群らがりし魚類、これらが最良の教師でありました。そしてこれらの物が俗人ばらに取り尽くされて北海道は青年薫陶のための最も良き教師を失ったのであります。位階、勲章に誇るこの世の博士らを幾人連れ来たりても、とうてい天然自然が施すような善き教育を施すことはできません。
札幌農学校在学中、私どもは精神的一大事件に遭遇しました。それは、西洋の宗教たるキリスト教の勧誘でありました。私ども同級生20有余人中、半ばはこれに応じ、半ばはこれを拒みました。そして岩崎君は拒みし仲間の一人であり、私は応ぜし者の一人でありました。かくして、はなはだ親密なりし二人の友誼に大なるひびが入りしように見えました。かくして、数年を過ごし、私は東京に出で、明治17年(1884年)に私費で米国に渡り、苦学4年にして帰朝しました。そして、キリスト信者に成りし私がキリスト教国の米国に留学して、一人の友人を作らず、1セントの寄付金を持たずして帰朝したのであります。私は大なる寂しみを感ぜざるを得ませんでした。その時、私を見舞いくれし者は、同窓同級の友、岩崎行親君でありました。君と私とは宗教を異にしましたが、境遇と道徳を共にしました。貧困は、私どもが持って生まれた運命でありました。これに加うるに日本人特有の道徳観念がありました。死すとも外人のパンを食らわずの意気がありました。貧困と日本道徳、この二つの事において、岩崎君と私とは一致しました。そしてこの二つのものが私どもをつないで今日に至りました。友人中岩崎君が最も善く私の日本魂(にっぽんこん)をわかってくれる者であります。それは君自身が日本魂の塊(かたまり)であるからであります。キリスト信者といえば、たいていは日本魂の喪失者でありますにかかわらず、幸か不幸か、私は大切にこれを守って来たつもりであります。私はそれがために、今日外国宣教師や、わが国キリスト信者全体にきらわれます。しかしながら、彼らにきらわるる理由が、岩崎君のごとき人たちに知遇を辱うする理由であります。得失相償うと言いましょうか。私は岩崎君一人を友として持たんためがために、外国宣教師千人に異端者として取り扱わるることを、かえって喜ぶ者であります。
北海道成育(そだち)の私どもは、終生北海道を離れずと決心しました。しかるに運命は私どもを駆って、私どもを思わざる所に追いやりました。岩崎君はわが国の南端鹿児島に追いやられ、その終生の業を遂げられました。私はひとり東京郊外に陣を張り、私の宗教をもって、天下を相手に戦いました。そして天は私どもの不遇をあわれんでくださりまして、私ども相応の成功をもって、私どもの努力に報いてくださいました。岩崎君は薩南の健児を養成して、日本改造の基礎を据えられました。私は東京にありてキリスト教の国土化に従事して、これまた幾分成功をもって恵まれました。骨を北海道に埋めずといえども、霊は少なくとも日本全国をおおいました。岩崎君が古希の祝賀を受くると聞いて、私もまた遠からず同一の年齢に達することを知ります。しかし70が100でも問うところではありません。何か少しでも永遠的事業に携わることができて、世に生まれ出た甲斐があるのです。人は裸にて母の胎を出でて、裸にて逝くのであります。貧も一時であり、富も一時であります。位階、勲章もこの世限りの名誉であります。死して死なざるものは、正義によって生きた生涯であります。今より半世紀前に、東京神田一ツ橋外、大学予備門のスコット氏の教室において、初めて君の気品高き容貌に接せし時の事を思い、うたた感慨に堪えません。
百年(ももとせ)の半ばを共に過ごし来て
うれし涙にむせぶ今日かな
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