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◎紅日杲々(こうこう:日光の明るいさま)として光は欄の東に充ちぬ。板戸の透間より金線天のごとくに射りて、枕頭の観音像を薄暗き中に現前せしめぬ。寝過ごしたりとて起き出でつ、板戸を繰れば、楼はまさに旭日とあい対し、箱根の連山、伊豆に走る処、巒々(らんらん:峰々)霞を帯びて、寝覚めの色、新沐の人に似たり。楼下に瀑園の流末、急端をなして水声石に吼ゆ。嗒焉(とうえん:我を忘れるさま)として物我を忘るもの良久。一月四日なり。
◎一人起き二人起き、宛(さな)がら道者の旅宿に在るの観あり。げにや報徳旅行の道者一行7人とはよくも言いたり。盥嗽(かんそう)を終えて先ず椽下(えんのした)に出でぬ。庭ゲタひっかけて庭に歩す。鈴木氏客と接してありしが、幾もなくして客去り、同じく庭に出でゝ『ここへ来れよ』と導きつ、屋の北側に小澗谷(かんこく:谷)を作りしを指し、そこなる三重の小瀑、流れの上にカヤ葺きの一亭子あるを見よという。西に小瀑を見下しつ、その上に小丘の頂重なりたる間、竹篁(ちくこう:竹林)茂れる上に、富士の絶巓(ぜってん:山の頂)真白きが、鈴木氏の園中をのぞきこみたらん風情『諸君お早う』といわんばかり。
◎導かれて養雞(ようけい)の小屋に行く。鉄網張りし中に西洋種の鶏肥えたるが羽美しく、雛を引きてその中に遊ぶさま、ことに長閑(のど)かなり。鵝鳥(がちょう)の一隊、家鴨(あひる)の一隊、そのあたりに分列式を挙げてわれを迎う。再び庭に来れば、そこにも、塒(ねぐら)を設けたるあり、紅日三竿なれど未だ起き出でず。天の岩戸をおし明けば、幾羽となくうるわしき雞(とり)始めて東天紅となき始め、先を争うて戸の中より跳ね出でぬ。こゝにも雞支隊あらんとは、図らざりき。小鈴木氏曰く、『雞(とり)は十分にねむらする方、もっとも発育によろし。早く起こして寒さに逢わせんは悪(あ)しゝ』と。用意極めて周到、雞を養うこと孫を愛するに似たり。
◎中川望氏と屋後にめぐり、ガチョウ群の陣前を過ぎて門内に出づ。中川友、白石、相田三氏もまた跟して到る。門に対するの小丘、右方斜めに小谷を呀し、筧して水したたる。その上に残雪一面をおおう。いざ登らんとして雪を踏みて丘上を指す。荊棘時に人の足を鉤して痛さを覚ゆ。白石氏最も登るに艱(なや)む。中川友氏ために留まりてその手を引き、丘腹の坂路に引き上ぐるさま、全く溝に陥りし人の助け上げられたらんようなり。
◎坂路をめぐりて頂きに立つ。一亭子あり、踞牀を設けて展望に便す。富士を左方の丘後に望み、前面に佐野の瀑園を指点すべし。鈴木氏の家は眼下に在り。相田氏は賢者なり。倒行逆旅せずして丘麓より坂路の沿い、悠然として登り来る。崖をこゆるほどの愚はあらざるべし。
◎丘を下りて門に入り、再び楼上につきて座を定む。農場の主任らしき人どもに交わりて、静かに農場の説明を始む。まずこの地何の処かと問えば、静岡県駿東郡富岡村字桃園という、それより反別などを語りしを記さんに、総反別78町9反1畝13歩 内 田8畝11歩 畑14町7反9畝21歩 郡村宅地1反19歩 山林63町9反2畝22歩 この買入価格1万8千円にて爾来開墾等に要したる経費を合すれば、3万1千円に及びしとの事なり。(相田氏の手帳による)
◎鈴木氏の語る所によれば、この地はもと幕臣黒田久綱氏ほか4名が共同して、明治6年頃より開墾し始めたるものなりしが、黒田氏はその後東宮武官として久しく在職したるも、他の人々はいずれも零落したるがため、漸く黒田氏の補助によりてこの地の開墾を経営したりしに、漸次に困窮して事業ますます振るわず、さればとてこの地面を分割して売却するにも忍びずとて、いずれも困じあえりしより、(明治)32年駿東郡長の交渉もありて、ついにこの地を買い入れ、開墾に従事することとしたりという。
◎小作人は今10戸を算じ、農事多繁の時には、他より雇るゝこと常に10人。小作人には、まずもって4間半に2間の家屋を建築し、無料にてこれを貸与し、鋤鍬の類を給与す。農場の中につきて5町歩ばかりには、リンゴ、ブドウ、桃、
◎朝食を追えて服装を理(おさ)め、玄関に出れば、農場を
めぐるの用意にとて、馬4頭静かにわれらを待つ。大鈴木氏
その一に乗り、岡田氏その次の一に乗り、われまたその次の一
に乗る。馬背得々として出で立つ。
◎さきに登りし丘に行き、南方なる一丘に馬をつなぐ。小林
ありて林外に一亭あり、林中に小神祠を置き、そのかたわら
に古石碣(いしぶみ)あり、『柾薗貞純親王塔』と鐫(せん)
す。更にそのかたわら近くに一碑(※)を建て、鈴木氏その
由来を書してこれに刻す。白石氏そを写し取れるに曰く、
『古塔発見記。明治三十七年十月。余初巡視農園。距御嶽神社
二町。得一大石于竹林中。抜地五寸。則令人発掘、陰々有文。
桃園貞純親王塔七字。 或曰此石元在神社境内。或曰昔時有計埋
塔者。今不知其何故。然至塔之為神社域中之物。復実不可争也。
則更移之于茲云。明治三十八年四月鈴木藤三郎』
※2011年8月28日裾野市鈴木図書館調査の際に「市史」に移築の記事を見つけ現地で発見した。
◎前宵桃園貞純親王の事、端なく話頭にのぼる。中川望氏曰く、『我が家、もと中川瀬兵衛に出づ。系図によれば遠く貞純親王に出でぬという』と。奇なるかな、期せずしてその後裔たる中川望氏が端なくもその祖先の古塔に礼するの機を得たらんとは。
◎農場を望めば、茶圃つゞき、茶圃連なり、上に富士の霊山厳然たり。丘下に瀑園の流崖に迫って急灘(きゅうたん)を激せしむ。再び馬に登って農場に向かう。途中、鈴木氏その馬をとめて下方を指し、『定輪寺の旧地域は、昔時この辺にも及びしが、今は挙げて農場の中に入る』といいて、寺が一山を隔つるを指し教ゆ。
◎宗祇法師が終焉の地は、桃園山定輪寺に在りしと聞きしが、さてはこの地すなわちこれなりしか。たゞ赴きてその墳を弔い得ざりしを惜しむのみ。宗祇の辞世に曰く、『はかなしや鶴の林の煙にも立をくれぬる身こそうらむる』と。自画賛に曰く、『うつしをくは我影ながら世の憂きも知らぬ翁のうらやまれぬる』と。俳諧に曰く、『世にふるはさらにしぐれのやどりかな』と皆定輪寺に伝えられぬべし。義経の頼朝に対面したる黄瀬川も、程遠からぬ地なるべきか。
馬隊は先に立てよという。予ら馬背の一群先に立ちて農場をめぐる。一小屋あり四面ガラス戸にて、報時鐘(ほうじしょう)などをもそこなる尖頭にかけたり。牛舎をもめぐりしその小屋ある処に憩う。農場監視の場なりとか。茶圃の間を行きぬ。黄牛斑牛そこらに遊び、桃林牛を放つの趣きあり。行き行きて地ますます高し。宛然たる裾野なり。農場の最高処にあたる。地を界するに桜樹一列をもってす。旧この地を経営したる静岡武士が武士の誇りとして植えたるものならめ。右に大野が原を望む。茶褐色にして林木薄黒し。上に富士山咫尺(しせき:距離が非常に短いこと)の前に直立して手に攀(よ)づべきを覚ゆ。馬背得々として引き返す。
◎午餉(ごしょう:昼飯)をおえぬ。汽車発着の時刻も迫りたればとて、倉黄(そうこう:慌てて)暇を告げて立ち出ず。鈴木氏馬背に鞭を横えて来り送る。我が馬その後に従い、一馳せすこぶるはやし。心もとなき馬術なれば、跳ね落とされんとするもの数回、瀑園の南、橋上馬を立てゝ劉備の渓関を飛び越えし当年を想う。馬一散に駆け出して停車場近し。一行皆列りて汽車の発すること間髪をいれず。『サヨナラ』の一声、車轆々(ろくろく:音を立てて走るさま)たり。(をわり)
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