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終日、下絵をキャンヴァスに写す作業。まだ全部を写しきらない。 おやおや、灯油の巡回販売車の売り声だ。数日前、「きょうが最後の巡回販売です。ご愛顧有難うございました」と声が聞こえていたが、さすが商人の機転、少し冷えると思っていたら販売再開。えらいものだ。老人ばかりの坂の町では、こういう商人がいなくては困るのである。 しかしまた、近くにはまったく商店がなくて、車も使えず買い物ができない「買い物難民だ」と訴えるので、これも民生委員の仕事と思い、いろいろ協力をあおいであらゆる買い物に応じる便宜の手段をなんとか構築し、一戸一戸訪ねてビラまで配布したのに、できたとたんに不思議なものでちっとも利用しない。あの訴えは何だったのだろうと、私はキョトンとするしまつ。協力を申し出て準備万端ととのえてくれた人たちに、この老人たちの心を何と説明すればよいやら----。私は笑っているが、ワタシャ ホントニ ワッカリマセ〜ン である。 さて、以上を書いて一旦アップしたあとで、19時から再び制作。22時まで最初の下塗りを一部分やった。この下塗りだけで3,4日かかるだろう。気が入ってきた。
Mar 31, 2018
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昨夜遅くまで下絵をキャンヴァスに写していたが、まだ半分にも到らない。今日は午前中は特殊な紙を買いに外出し、午後は海外への英文手紙を11通書いて終業直前の郵便局へ駆け込んだ。 なかなか新作の制作に集中してとりかかれない。しかし、この制作に関して無為の時間も、まあ、いい。下絵のイメージをどのような具体的な作業で定着してゆくか、頭のなかで手を動かしながら考えることができる。具体的作業のシミュレーションが、無為の時間のなかで更にも具体的になっていく。 我家の裏山は、いたるところで桜が満開である。その煙たなびくような薄桃色の周囲の緑は、じつにさまざまなニュアンスの緑色だ。私は風景画はまったく描かないが、絵描きのこころをそそる緑色の種類だ。 緑色の絵具には、エメラルドグリーン、ヴィリジアン、サップグリーン、カドミウムグリーン、オキサイドクローム、マラカイトグリーン(ヒ素を含有するので現在は無い)、クロームグリーンのNo.1~5, コバルトグリーン、コンポーゼグリーン、テルベルト、タルキーグリーン----が、ある。 テルベルトは古代ローマの時代から絵画材料として使われていたようだ。角閃石族や輝石などが風化してできた、その名のとおり天然の緑色をした土。テル;terre, 土。ヴェルトまたはヴェール;vert, 緑色。化学的には鉄を含む非常に複雑な分子化合物である。私は子供の頃、美しい深い緑色をした柘榴(ざくろ)石や方解石を持っていたが、これらもまたテルベルトの原石といえるだろう。 エメラルドグリーン(仏:ヴェールテムロード)は、有毒であるが、この緑は輝きがあって非常に美しい。透明性絵具である。ただしほとんど混色できない。下にシルバーホワイトを厚く塗って、乾燥後に樹脂で覆い、その上にエメラルドグリーンを塗ると、この絵具の特性を発揮する。ペトロール・オイルに対しても敏感に変化してしまうので、筆はよく洗浄して使わなければならない。 山々の緑のニュアンスはすばらしいが、数多い緑色系絵具を思いのままに塗って風景画を描いても、時が経てば薄汚く黒ずんだ絵になっているかもしれない。アマチュア画家さんはご注意を!
Mar 30, 2018
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新作のための人物像の下絵の手が気にくわなくて、自分の手を角度を変えながら何枚も写真撮影してみた。なんとか良さそうな形の1枚が撮れたので、これを基に修正をしていくことに。 その後は、ほぼ終日、事務。 モデル撮影といえば、私は30年くらい前には大型のポラロイド・カメラを使用していた。使わなくなって、そのままどこか戸棚にしまい込んだままのはずだ。もう、フィルは販売していないだろうなー。
Mar 29, 2018
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午前中は海外への英文手紙をあらたに4通したためる。住所をタイピングしながら、気がついた。アメリカ合衆国では、郵便番号が不動産取引で売買されているようだ。おそらく、住みたい土地や不動産の所在を郵便番号で調べるのであろう。つまり郵便番号が住環境を示唆しているのである。郵便番号(ポスタル・ジップ・コード)を確認するために検索すると、「この番号は現在売りに出されていません」などと出て来る。いままで気がつかなかったので、ちょっとびっくりした。 午後、美術講義のための原稿を加筆。 私の講義は、一般書物などに書かれていることではないし、当該のテーマでは専門研究書にも書かれていない事象をあつかっている。しかも聴講者は一般の方々なので、研究論文とはちがう工夫が必要だと思っている。薄い話ではなく、厚く深く、おもしろい。そんな講義ができたらと、じつは原稿を書きながら楽しいのである。 私は、熱心な聴講者に対して言う。「なんでも聞いてください。聞かれなければ話しませんが、知っていることを墓場にはもっていけませんから」と。
Mar 28, 2018
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午前中は昨日につづく新作の準備。午後から、民生委員の年度変わりスケジュールを踏まえた地区月例会議。
Mar 27, 2018
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あらたに市から依頼された高齢者訪問をし、看護している方をも励ます。 新作制作の準備をはじめる。実物大の下絵をキャンヴァスに仮止めして、3日ばかり眺めていた。完成まで今後数ヶ月間、精神力の持続を、高度にたもたなければならない仕事になるだろう。気のせいではなく、左右の顳顬(こめかみ)の血管がふくれている。獰猛な猟犬のような気分だ。
Mar 26, 2018
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事務的なことでほぼ半日。海外への英文手紙6通。 今朝、垣根越しに隣家の夫人と立ち話。夫人の庭の椿は八重のピンク。我家の椿は深紅。お互いにお互いの椿をうらやましがっている。春うらら、のんきな話しである。 「ヤマダさんは花粉症はなんでもないんですか?」というので、 「まったくなんでもありません。子供の頃に山のなかを植物をさがして駆け巡っていましたので、免疫があるのかもしれません」 ---植物採集ばかりでもない。小学校2年の2学期から4年の2学期まで通学した福島県南会津の荒海小学校は、冬期は薪ストーブで暖をとっていたが、秋に全校児童で近くの杉林に杉の枯枝を拾いに行ったものだ。焚付けにちょうど良いのだ。一抱えの束に結わえて、山のように校舎裏手の物置小屋に積み上げていく。一冬を越すに足るだけを集めるのである。---そんなことを思い出すと、学校の裏手の杉林は春には煙るように花粉が飛散していたにちがいない。誰ひとりとして花粉症と思える症状は出ていなかったので、なんでもなかったのだろう。 花粉症の方は、お気の毒とは思うが、まあ、浦島太郎のような言い方だが「現代病」ですね。
Mar 25, 2018
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ようやく腰の痛みが退いた。こころのエンジンも始動。美術講義の原稿執筆とスライド作り。途中で手を止め、市から依頼されていた訪問一件、自転車で出かけた。 帰宅して、自転車置き場まで曵きながらふと気がついたのだが、庭の椿が大きな紅色の莟をつけていた。合唱コンサートに出演した19日と翌20日の中学校の卒業式出席した後、ずっと家に閉じこもっていたので、椿に気づかなかったし、すでに開花している木瓜(ぼけ)にも気がつかなかった。 そう言えば一昨日、弟が、これから句会に出席するのだが、その前に自作の俳句を見てくれともってきた。椿の莟がいろづいてきたと詠んだ句があった。実景ではなく、想像だと思ったのだが、どうやら私の思い違いだったようだ。---小庭の椿は一両日中に艶やかに開花するだろう。 東京はいたるところで桜が満開だと報じている。例年より少し早い。 19時から再びスライド作り。
Mar 24, 2018
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夕方からまた雨が降り出した。小庭の種々の木々の、新緑の小さな葉が、雨に勢いを得ている。 しかしながら私はなんとなく調子があがらない。腰の痛みはほぼなくなって、無理をしない程度に動き回っているが、こころのエンジンがかからない。 韓国での展覧会の日程が入ってきた。新作の構想はできている。完成までにひどく時間がかかりそうな作品なので、早く描き始めればいいものを---。あれもしなければ、これもしなければと思うだけだ。
Mar 23, 2018
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東京は先日桜の開花宣言をしたというのに、昨日の雨が今日は雪になった。誰かさんの小説ではないが「春の雪」だ。 ところで絶滅を危惧されていたキタシロサイのたった一頭のオスが、20日、とうとう死んだ。キタシロサイは3年前にこの地上に5頭だったのが、その後、次々に死に、昨日死んだ「スーダン」と名付けられてケニアのオルペジェタ自然保護区で10年ほど前から24時間態勢で見守られていたのが、この地球上で文字通りたった一頭のオスのキタシロサイだった。残るは「スーダン」の子と孫にあたる2頭のメスだけ。つまり、キタシロサイは、絶滅した。われら人間の乱獲によって。なんと人類は罪深いのか。 地球からヒトという種が---60億人生存する種が---完全に消滅することを想像してみるといい。ヒトは、いつ、どのように発生し、何億年を生きてきたのだろう。一つの種が、生命が、この地球のみに発生したことは、まさに大宇宙の奇跡。いかに賢しらな人間でも、あたらしい種を産み出すことはできない。「創造神」なんて口にすまい。ばかばかしい。 ヒトが消滅すれば、地球は美しい星になるかもしれない。しかし、なんという恐ろしいことだろう。その恐ろしいことをヒトは他の種に対し、まったく無反省にやっている。 私は、2015年に残り5頭になったときに、『キタシロサイよ』という詩を、日本語と英語で書いた。その詩を再掲載する。キタシロサイよ 山田維史キタシロサイよ私は君等の寂しさを想うこの地球上に いまやたった五頭*になってしまった君等の孤独をキタシロサイよ私は君等の美しい牙を想うその牙を奪わんがために我ら人間どもは殺戮の限りを尽くした事をキタシロサイよ我ら人間の栄華を蔑むがよい生命連環の欠落の意味を理解およばぬ我らの愚かさを君等の命が贖えられぬままにキタシロサイよ君等の何億回の断末魔の叫びを耳に聞いても 我ら人間どもは地上から絶滅する種の哀しみに想いをいたさなかったキタシロサイよ飛び散る血潮のなかの君等の末期の眼を想う悠久の星のまたたきがその中で消えてゆくのをキタシロサイよ今やたった五頭となった君等は互いにまみえる事はない地球はそれほど広かった君等の遠吠えがとどかぬ程にキタシロサイよ 君等の哀しみをせめて私の胸にひろげよう都会の夜が老いた娼婦を覆うように晩秋の濃霧が北の港を埋めるように冬の嵐が化野の竹林をわたるように厚い氷がシベリヤの大地をおおうように乾いた砂がロブロイの湖を押し流すように来る日も来る日も降るチェラプンジの雨のように今日の夕陽が海の彼方に、地の果てに沈むようにキタシロサイよ 君等の怒りをせめて私の胸に刻み付けようトライステートの竜巻のようにネブラスカを襲った雹のようにベスビオス火山の溶岩流のように東北日本津波の黒い魔手のように陝西省華県を破壊した地震のようにバングラデシュ・サイクロンのようにその深い爪痕のように君等の怒りを私の胸にキタシロサイよ46億年の地球史に君等はいくたび生命の世代交替を繰り返したか私は知らぬが君等を絶滅に追い込んだ今我ら人間の罪深さを悔いる我らの絶滅の日数かぞえながら【注】*(CNN) 米サンディエゴ動物園で飼育されていたキタシロサイの「ノラ」が(2015年11月)22日、感染症や老衰のため死んだ。41歳だった。これで生き残ったキタシロサイの個体は世界でわずか3頭になった。 【追記】2018年3月20日、最後の雄の1頭が死んだ。残り2頭。メスであるが、もはや子孫を残すことはできない。キタシロサイは絶滅である。
Mar 21, 2018
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冷たい雨が降っている。中学校の卒業式に出席。 私が民生委員に就任して2年目に小学校の卒業式に出席して送り出した少年少女たちが、きょう、中学校を卒業したのだ。かれらの中学校入学式に出席したとき、制服がすこしサイズが大きくて、袖口から指だけが覗いていた男の子もいたけれど、きょうは逆に少し窮屈げに手首が袖口から見えていた。在校生に模範として残す、3年間クラス対抗の合唱祭で披露してきた歌声は、男声は、もう少年期を抜ける寸前の野太い胴間声。たくましいが、聞いている私の顔には、嬉しいやらおかしいやら、厳粛ぶってはいるものの笑いがこみあげてきた。 毎年のことだが、私の思いに願いとしてあるのは、彼らの送辞答辞のような紋切り型(発展性がない、きまりきった、という意味です)を、いつの日にか捨てきって、もう高校生でおとななのだから、自他を表現するほんとうの思想と言葉をみつけてほしいということ。そして自分の言葉と自分の思想を一層鍛えるために、そのような言葉で世界を語り合える、成熟した人物にめぐりあってほしい。 世界の真相は、けっして紋切り型の言葉では語れないのです。そして、人間が成熟するというのは、年齢では全然ないのです。年上だから老人だからといって、世界を偏見のない平等な視点で考える高度な理念をもっているわけではありません。豊かな人智(ヒューマニティー)をそなえているわけではありません。自分の人生途上でほんとうに成熟した人物に出会うことは意外に難しいものです。しかしあなたが紋切り型のことばを捨てたときに、そういう人物が必ずみつかります。
Mar 20, 2018
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きょうは合唱コンサート。 出演20団体。 わたしたち日野市民生・児童委員混声合唱団「かしの木」の演奏は3番目。 曲目は;「ふるさとは今もかわらず」 作詞・作曲;新沼謙治 編曲;今村康「赤とんぼ〜どこかに帰ろう」 作詞;三木露風 作曲;山田耕筰 作詞:山川啓介 作曲;坂田晃一「あめふりくまのこ」 作詞:鶴見正夫 作曲;湯山昭「切手のないおくりもの」 作詞・作曲:財津和夫 選曲にそれぞれの曲の歌詞から物語の流れをつくったところがミソ。 歌いおわって引き上げるときに、客席から「うまい!」と声がかかった。クラッシック・コンサートで「ブラボー!」と客席が沸くのは、しょっちゅう聞くが、おなじ意味とはいえ「うまい!」という声は初めて聞いた。しかもわたしたちの合唱に対してだったので、びっくりしたけれど実に嬉しかった。その声援、率直に受け止めます。お客さん、ありがとうございます。 というわけで、すばらしいホールで歌えたことも嬉しかったが、ステージから降りたとたんに私の腰が再び痛みだした。それで、団員諸氏のその後のスケジュールより2時間早く帰路につくことにし、長老の車に同乗させてもらってなんとか最悪な状態にならずに帰宅した。 「かしの木」の次のステージは、いまのところ6月3日(日)に「童謡と唱歌のフェスティバル」出演。新曲を入れると言われている。何を歌うことになるやら---- 画像はきょうのプログラムです。
Mar 19, 2018
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腰の痛みは私流の矯正法と湿布薬でどうやら治まってきた。コンサート出演までには完治するだろう。 というわけで作品制作は休み、美術講義のための原稿を執筆。 ちょっと不思議な格好でコンピューターに向かっている。 椅子の座面に、尻が沈まないようにやや固めの高さ10cmほどの尻当てを据え、頭をぐっと上に掲げ、背骨と骨盤のつなぎで腹をつきだし(ということは尻をうしろに突き出すことにもなるが、そのとき背骨が少し引き上げられる)、胸を反らせるようにしてS字を強調する。そして胸郭をひろげて空気を吸い込み、吐き出し、肩をすぼめないのである。 さらに就寝時は、背骨のS字のくぼみよりやや下方、骨盤の骨上縁、尾てい骨のはじまるあたりに、バスタオルのような布を棒状にまるめて入れるのである。つまり姿勢よく仰向いて寝ると、棒状の巻物を支点に身体が 弓なり⌒になる。その状態が、もし腰痛のポイントをついているなら、初めは痛いが、だんだん楽になっていく。 ---と、これが私流の即席の腰痛解消法。要するに作品制作が長引いていると、背筋力が低下し、背骨が沈んでしまうのだろう。ぶらさがり健康器具のようなものとか、家の中の頑丈な梁にぶらさがるだけでも案外効果はある。自分の重みで沈んだ骨を引き上げるわけだ。 こんなことを書いたけれど、いずれにしろ、ひとには勧めません。あくまでも私のやりかただ。
Mar 17, 2018
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ありゃ,ここ半年間つづいた作品制作が一段落し、その疲れが出たのだろうか、腰痛だ! 腰がのびない。ちょっと歩き方がおかしい。 困ったゾ、二日間で治さなければ、月曜日はコンサートのステージがある。 痛みをこらえながら、次の展覧会のための新作の構想を練る。その後、ミニアチュール(5,5×6,5cm)を描く。 エイジェントの画廊から電話あり、ニューヨーク展のための作品がとどき、「いいね!」だそうだ。広島レクイエムとしての "The 250,000 Black Dots For As 250,000 Atomic Bomb Victims Of Death In Hiroshima, In 6th August 1945" と、シリーズ "I Believe Humanity" である。
Mar 16, 2018
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夕方から日野市民生委員合唱団「かしの木」の練習。19日の杉並公会堂コンサートを前にしての最後の練習。 杉並公会堂の大ホールは、音楽演奏のために設計されているので、そのステージに立つのを私は楽しみにしている。もちろんたくさんのお客さんに一番楽しんでいただきたい。ご来場をお待ちしています。
Mar 15, 2018
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宇宙物理学者スティーブン・ホーキング博士が亡くなられた。享年76。 20世紀・21世紀を通じて最高の知性人のひとりを失った。人類にとってその損失ははかりしれない。なぜなら宇宙の発生に「神」の存在など必要ないと公言していたただ一人のひとだったからだ。こんな真理を60億人の誰一人公言できなかったのだから、われわれの暗愚たるや、まさに博士が理論を確立したブラックホールにひとしい。すべてを呑込み出るに出られぬ無に帰してしまうブラックホール。 博士は21歳のときにALS(筋萎縮性側索硬化症)と診断され、余命数年と宣告された。しかし博士の生命力は強く、その頭脳は宇宙物理学や数学において偉大な理論を生んだ。博士の存在は医学の面で、筋萎縮性側索硬化症をめぐって、音声合成装置などあらゆる補助器具の開発をも含めて、大きな前進を育んできたのではあるまいか。 私の蔵書のなかに、26,7年前にニューヨークの書店で買ってホテルで読んでいた、博士のブラックホール理論の御著書がある。いま探してみたが、ちょっとやそっとで本の山のなかから探し出すことができなかった。せめて書影を掲載してご冥福を祈ろうと思ったのだが---- 私はこのブログのなかで何度かスティーブン・ホーキング博士のお言葉を、断片ながら書いてきた。もうその賢明なるお言葉を聞くことができない。 スティーブン・ホーキング博士のご逝去を衷心より悼みます。 "The greatest enemy of knowledge is not ignorance, it is the illusion of knowledge." Stephen Hawking 「知識の最大の敵は無知ではない。知識の幻影である。」 スティーブン・ホーキング (訳:山田維史)【注】 【注】 英語の”knowledge”には「理解」という意味がふくまれている。一方、日本語で「知識」というとき、ごく普通の意識において知識を「物」のように扱う傾向が無きにしもあらず。世界の成り立ちを理解することを切り離しての、役立たずの物という認識である。したがって上記のホーキング博士の言葉は、「理解の最大の敵は無知ではない。理解しているという幻想である」と訳して上の拙訳と合せ技にするなら、より博士の真意が汲み取れるのではないかと私は考えている。
Mar 14, 2018
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ニューヨーク展のための作品を出荷。ほっとしたのもつかのま、午後から次の韓国展のための構想に入る。
Mar 12, 2018
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東日本大震災から7年 犠牲者に哀悼の意を捧げます山田維史《海の鎮め》《海に咲く華》《ひとつ貝》油彩Tadami Yamada "Repose of Souls in the Sea" oil on canvas"Lotus Flower in the Sea" oil on canvas"Lonesome Shell" oil on canvas
Mar 11, 2018
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なんだか一日中ちょこまかと雑用に追われていた。 やっと落ち着いて仕事場に入り、電動サンダーでキャンヴァス表面を磨いでいると、猫のフクがやってきてジーっと見ている。ものすごい音に驚きもせずに見ている。 「どうしたの? フク」と私は言いながら、そこで気づいた。サンダーの長いコードがくねくねと動くのを見ていたのだ。蛇のようなその動きを----。 我家生れの我家育ちで、この4月で19歳。野生でなくても本能には野生が組み込まれているのか---。 仕事場にやってくる前、ベランダにいて、20cmばかり開けててあるガラス戸の向こうから私の様子を見ていたのだ。私はサージカル・マスクを3枚重ね、さらに防塵マスクをし、目はゴーグルでおおうというものものしさ。その私の顔をフクはキツイ目で見つめながら、近づいて良いやら悪いやらを迷っているふうだった。ようやく入ってきたところで、くねくね動く長いものを見つけたのだ。 ときどき私の顔と「蛇」とを見比べている。それから蛇ではないと納得したのか、またベランダへ出ていった。
Mar 10, 2018
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昨夜から今朝方にかけて豪雨と言ってよさそうな激しい降りの雨。眠っていても窓越しに聞こえる雨音に目が覚める。夢のなかにさへ、まるでBGMのように影響していた。 白々明けに再び目覚め、もう眠れないなと思ったので、ベッド・サイドに積み上げた数十冊の本に適当に手をのばした。つかみ取ったのは、ヘミングウェーの短編集原書。もう何度繰り返し読んだかわからない。 持ち重りする本を胸のうえに置き、パラパラとめくって開いた『The Killers』を読む。 何度読んでもおもしろい。つまり、謎なのだ。ただじっと、着の身着のままでベッドに横たわって殺人者が来るであろうことを待っている、スウェーデン人のオウレ・アンドレソンという男。過去に何があったのか、なぜ逃げもせず、殺人者を待っているのか。---誰にもわからないのだ。小説中の登場人物にも、読者にも。 しかし、小説のなかに流れるわずか2時間弱の間のできごとを書いて、これを小説(しかも名作だ!)にしているのは、最後の2行だろう。 すなわち、ニック・アダムス少年が、町のただ一軒の小さなレストランで二人の殺人者に出会い、それを報せにアンドレソンを訪ね、背をむけて壁をみつめて横たわるだけの彼を見たあとで、「この町を出ていく」とレストランの主人に告げて、このごく短い小説は終わる。 ここに再び読者にとっての謎が出現する。まるで点景人物のようだったニック・アダムスの、読者が知りようのない彼のこの町での人生が、いきなり、つかみようがない姿で出現するのだ。---さらにこの小説が凄いのは、登場人物7人、読者の頭のなかで映像を見ているように動き、ほとんど1行にも充たない登場の仕方のアンドレソンの下宿のおかみさんを含めて、みな明確な輪郭を読後に残す。忘れられない人たちになってしまう。 ちょうど読み終わったところで起床時間。雨はほとんど止んでいた。 さて、きょうは今までのばしのばしにしてきた展覧会用の作品解説を、もうぐずぐずしていられず、和文と英文で執筆。作品解説というより、作品が立脚する私の思想を明確にすること。作品をめぐってどんな攻撃をされようとも、私であることの宣言である。
Mar 9, 2018
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昨日来の雨が一日中降りつづいている。 朝、画廊から電話が入った。作品引渡しの件と、別件で秋の韓国での展覧会について。承知する。 話を変えて、 イチローさんが古巣のマリナーズに復帰するという。1年契約ということだが、私には嬉しいニュース。 じつは、私はもうまるまる10ヶ月、TV視聴から遠ざかっている。まったく見ていない。マーリンズをフリー・エイジェントになったイチローさんの去就は気になってはいたが、平昌オリンピックも見ていない。競技結果は、新聞やWebニュースで見ていた。 TVを離れた理由は、----特別なものは何も無いが、しいて言えば、つまらないから。芸人のみならずアナウンサーまで、まるで先端を行く意識でしゃべるヤクザな符牒ことば・崩れた日本語。その氾濫(それは新聞でもそうなのだが)。私の家のなかで、そんな乱れた言葉を聴くきにはなれない。時事論説もたいしたことを言っているわけでない。 さらに、ジャーナリズムの根本精神を喪失したかと疑いたくなるような権力扈従。TVは影響力が非常に大きいのだから、その在り方次第ではファシズム醸成の温床になるおそれがある。TVと似て非なるインターネット、そのWeb上に横溢する偏見や差別、犯罪にもひとしい発言や画像掲載、知的検証がない虚偽やねつ造の意図的な拡散,等等。功あれば罪もあるというべきなのか、しかしその世界を破壊する速度はここ数十年のうちに凄まじい。TVはそこを見据える必要があろう。 さらでだに日本政府は国連人権理事会による「報道の自由」の勧告を拒否した。その勧告は安倍政権が打ち立てた「特定秘密保護法」と真逆の思想だからである。この悪法による規制の中で、TVはもちろん日本のジャーナリズムが権力監視という根本精神を貫けるのかどうか。 加えるに安倍政権は、まさにいま、次なる一手としてTV規制を打ち出してきた。「規制を取り払う」という規制だ。すなわち放送倫理規定にもとづくTVコンテンツを、「言論の自由」の名のもとに倫理規定を取り払ってしまうというものだ。安倍政権の考え方がよくわかる。悪魔の裏階段をのぼるような「おためごかし」の倒錯した論理。この政権らしいなにもかも承知したうえでの、言論の自由の故意のはき違え。野党の貧困なる知性は、政府を追及する鋭敏さも糾弾する論理的な言語能力も無い。表階段をのぼる腕力が無いていたらく。それを見越して、----この政権は国民の陥る精神的な不幸をおもしろがっているかのようだ。 ----10ヶ月間まったく視聴しなくても、全然不足を感じないのだから、やっぱりTV「つまらない」のだ。つまらなくなってきているのだ。本来ならジャーナリズムは政府をどんどん突き上げなければならない日本の社会状況、と私は思う。しかしながら、芸人と芸人まがいの「文化人」のどうでもいいような話ばかり。私は時間の無駄を感じるだけだ。 というわけだが、イチローさんの記者会見の写真。お目をやや赤くして涙ぐんでいられるらしく、私まで感動してしまった。その「思い」を忖度(こういうときに使うことば)して、マリナーズでのご活躍を期待した。またTVを見始めるか。イチローさんを見るために----
Mar 8, 2018
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朝、美術講義をする医療クリニックから電話があり、最終的な打ち合わせをした。日時を変えて同一内容で2回おこなうことに。午後、そのポスターを届けた。 その後、2時間程かけてニューヨークへ送る作品の最終点検。明日、明後日も。
Mar 6, 2018
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小さな作品2点山田維史『白椿』 東京・個人蔵 Tadami Yamada "White Camellia" 2018 oil and gold leaf on canvasCollection of private, Tokyo.山田維史『薔薇』 Tadami Yamada "Rose" 2018 oil and gold leaf on canvas
Mar 5, 2018
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展覧会(国際アートフェア)の事務的なことや美術講座の準備やらで気持は忙しいのに、実際にやっていることは、講座とは無関係な美術論文を400字詰め66ページを執筆したり、小品新作をもう少しで完成のところまで描いたり、これは必要な美術講座のポスターを制作(私は何もかにもひとりでやってしまうのだが)したり、---余計なことばっかりやっている。締め切りまでの日数を、指折りかぞえてやがるのさ。どういうつもりなんだか、こいつめは! と、自分の浮気癖を軽蔑。
Mar 4, 2018
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昨夜来の雨は小降りになったので、少々の濡れるをいとわず自転車でスケジュールどおりの仕事にでかけた。報道による予報がいささかならず大ごとだったので、市内の小学校は保護者向けの注意喚起のメールを発信し、児童委員の私にも着信していた。しかし、予報は、はずれたといってよかろう。昼前にはぱっと明るい日差し。予報のこんなはずれなら結構である。気温はたちまち21℃に上昇した。 春眠暁を覚えず、というが、夜中に熟睡しているのに、帰宅して昼食を摂ると眠くなってきた。ちょっと調べ事をしていながら気がつけば5分10分眠っていた。気をとりなおして小さな作品を描き始める。どこに発表するでもない、楽しみのためである。 ほんとうはやらなければならないことがある。作品についてのsummaryを書かいて画廊に送らなければならない。また、医療クリニックにおける第5回美術講義のための原稿執筆とスライド作成をしなければならない。----自分の楽しみのために絵を描いている暇はないのだけれど---春眠暁どころじゃない、このブログ日記を書きながら、もう眠くなってきた。
Mar 1, 2018
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