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2024年04月24日
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カテゴリ: 戦国





8、「武田信玄」
「武田 信玄」(たけだ しんげん) / 武田 晴信(たけだ はるのぶ)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。諱は晴信、通称は太郎(たろう)。
「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。
甲斐の守護を務めた甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の嫡男。先代・信虎期に武田氏は守護大名から戦国大名化して国内統一を達成し、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。
その過程で越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野および遠江、三河、美濃、飛騨などの一部を領した。次代の勝頼期にかけて領国をさらに拡大する基盤を築いたものの、西上作戦の途上に三河で病を発し、信濃への帰還中に病没した。
「出生から甲斐守護継承まで」
大永元年11月3日、甲斐国守護・武田信虎の嫡長子として生まれる。母は西郡の有力国人大井氏の娘・大井夫人。
甲斐国では上杉禅秀の乱を契機に守護武田氏の権威が失墜し、有力国衆が台頭していたが、信玄の曾祖父にあたる武田信昌期には守護代跡部氏を排斥[4]するなど、国衆勢力を服従させて国内統一が進む。信昌期から父の信直(後の信虎)期には武田宗家の内訌に新たに台頭した有力国衆・対外勢力の争いが関係し甲斐は再び乱国状態となるが、信虎は甲斐統一を達成し、永正16年(1519)には甲府の躑躅ヶ崎館を本拠とした城下町(武田城下町)を開府。家臣団組織が整備され、戦国大名として武田氏の地位が確立されていた。
信玄の出生は信虎による甲斐統一の達成期にあたり、生誕地は躑躅ヶ崎館に付属した城として知られる要害山城である(または積翠寺)。

この際、既に懐妊していた大井夫人は詰城である要害山へ退いていたといわれ、信玄は要害山城において出生したという。
幼名は太郎。傅役は不明だが、『甲陽軍鑑』では譜代家臣板垣信方が傅役であった可能性を示している。
大永3年(1523)、兄の竹松が7歳で夭折した為、嫡男となる。
大永5年(1525)、父・信虎と大井夫人との間に弟・次郎(武田信繁)が生まれる。『甲陽軍鑑』によれば、父の寵愛は次郎に移り、太郎を徐々に疎むようになったと言う。
信虎後期には駿河今川氏との和睦が成立し、関東地方において相模国の新興大名である後北条氏と敵対していた扇谷上杉氏と結び、領国が接する甲斐都留郡において北条方との抗争を続けていた。
天文2年(1533)、扇谷上杉家当主で武蔵国川越城主である上杉朝興の娘・「上杉の方」が晴信の正室として迎えられた。これは政略結婚であるが、晴信との仲は良かったと伝えられている。しかし、天文3年(1534)に出産の折、難産で上杉の方も子も死去している。
天文5年(1536)3月、太郎は元服して、室町幕府第12代将軍・足利義晴から「晴」の偏諱を賜り、名を「晴信」と改める。
官位は従五位下・大膳大夫に叙位・任官される。元服後に継室として左大臣・三条公頼の娘である三条夫人を迎えている。
この年には駿河で今川氏輝が死去し、花倉の乱を経て今川義元が家督を継いで武田氏と和睦しており、この婚姻は京都の公家と緊密な今川氏の斡旋であったとされている。
『甲陽軍鑑』では輿入れの記事も見られ、晴信の元服と官位も今川氏の斡旋があり、勅使は三条公頼としているが、家督相続後の義元と信虎の同盟関係が不明瞭である時期的問題から疑視もされている(柴辻俊六による)。
信虎は諏訪氏や村上氏ら信濃豪族と同盟し、信濃国佐久郡侵攻を進めているが、武家の初陣は元服直後に行われていることが多く、『甲陽軍鑑』によれば晴信の初陣は天文5年(1536年)11月、佐久郡海ノ口城主平賀源心攻めであるとしている。

晴信は信虎の信濃侵攻に従軍し、天文10年(1541)の海野平の戦いにも参加しているが、『高白斎記』によれば、甲府へ帰陣した同年6月には、晴信や重臣の板垣信方や甘利虎泰、飯富虎昌らによる信虎の駿河追放が行われ、晴信は武田家の第19代目の家督を相続する。
「信濃国を平定」
信虎期の武田氏は敵対している勢力は相模後北条氏のみで、駿河国今川氏、上野国山内上杉氏・扇谷上杉氏、信濃諏訪氏と同盟関係を持ち、信虎末期には信濃佐久郡・小県郡への出兵を行っていた。
晴信は家督を相続すると信虎路線からの変更を行い、信濃諏訪領への侵攻を行う。
天文11年(1542)6月に晴信は諏訪氏庶流である伊奈の高遠頼継とともに諏訪領への侵攻を開始し、桑原城の戦いで諏訪氏は和睦を申し入れ、諏訪頼重を甲府へ連行して自害に追い込み、諏訪領を制圧している。

武田方はさらに天文12年(1543)には信濃国長窪城主である大井貞隆を攻めて、自害に追い込んだ。





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最終更新日  2024年04月24日 11時01分51秒
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