歴史の回想のブログ川村一彦

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2024年04月26日
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カテゴリ: 中世




正平一統 (しょうへいいっとう)と呼ぶ。12月23日には南朝方が神器を回収した。実質的にこれは北朝方の南朝側への無条件降伏となった。


尊氏は義詮に具体的な交渉を任せたが、南朝方は、北朝方によって任じられた 天台座主 始め寺社の要職を更迭して南朝方の者を据えることや、 建武の新政 において公家や寺社に与えるため没収された 地頭 職を足利政権が旧主に返還したことの取り消しなどを求め、北朝方と対立する。


義詮は譲歩の確認のために尊氏と連絡し、万一の際の退路を確保するなど紛糾した。


一方尊氏は直義追討のために出陣、12月の 薩埵峠の戦い や相模国早川尻の戦いなどで直義方を破り、翌正平7年(観応3年、1352年) 1 月には鎌倉に追い込んで降伏させた。


その後 浄妙寺 ( 鎌倉市) 境内の延福寺に幽閉された直義は2月26日に急死した。公には病没とされたが、この日は高師直の1周忌にあたり、『太平記』は尊氏による毒殺であると記している。


破談


南朝方はこの和議を受けて増長する。後醍醐天皇の側近 北畠親房 を中心に、京都と鎌倉から北朝と足利勢力の一掃を画策した。


まず閏2月6日に南朝は尊氏の征夷大将軍を解き、これに替えて 宗良親王 を任じる。


すると 新田義興 脇屋義治 北条時行 らが宗良親王を奉じて挙兵し鎌倉に進軍した。


鎌倉の尊氏は一旦武蔵国まで引いたため、同18日には南朝方が一時的に鎌倉を奪回した。しかし尊氏は武蔵国の各地緒戦で勝利し、3月までに 新田義宗 は越後、宗良親王は信濃に落ち延び、鎌倉は再び尊氏が占領した( 武蔵野合戦 )。


一方閏2月19日には 北畠親房 の指揮下、楠木正儀・ 千種顕経 北畠顕能 山名時氏 を始めとする南朝方が京都に進軍、七条大宮付近で義詮・ 細川顕氏 らの軍勢と戦い、翌日には義詮を近江に駆逐して入京した。


24日には 准后 宣下を蒙った北畠親房が17年ぶりに京都に帰還、続いて北朝の光厳・光明・崇光の三上皇と皇太子直仁親王を南朝方本拠の賀名生へ移した。


後村上天皇は行宮を賀名生から河内国東条(河南町)、摂津国住吉(大阪市住吉区)、さらに山城国男山八幡(京都府八幡市の石清水八幡宮)へと移して京をうかがった。


義詮は、近江の佐々木道誉、四国の細川顕氏、 美濃 の土岐頼康、播磨の赤松氏らに加え、足利直義派だった山名時氏や斯波高経らの与力も得て布陣を整え、3月15日には京へ押し返してこれを奪還、さらに21日には男山八幡に後村上天皇を包囲し 兵糧攻め にした。


この包囲戦は2か月にもおよぶ長期戦となり、飢えに苦しんだ南朝方は5月11日に後村上天皇が側近を伴い脱出、男山八幡は陥落した( 八幡の戦い )。


こうした事態を受けて尊氏と義詮は相次いで3月までに観応の元号復活を宣言、ここに正平一統はわずか4か月あまりで瓦解した。



北朝の再擁立


尊氏が南朝に降った時に南朝が要求した条件に、皇位は南朝に任せるという項目があったため、北朝の皇位の正統性は弱められる結果となった。


京都は奪回したものの、 治天の君 だった光厳上皇、天皇を退位した直後の崇光上皇、皇太子直仁親王は依然として南朝にあり、さらに後醍醐天皇が偽器であると主張していた北朝の三種の神器までもが南朝に接収されたため、北朝は治天・天皇・皇太子・神器不在の事態に陥った。


また武家にとっても尊氏が征夷大将軍を解任されたため、政権自体が法的根拠を失ってしまう状況になった。


最終的な政治裁可を下しうる治天・天皇の不在がこのまま続けば、京都の諸勢力(公家・武家・守護)らの政治執行がすべて遅滞することになる。


幕府と北朝は深刻な政治的危機に直面することになったのである。


事態を憂慮した道誉、元関白の二条良基らは 勧修寺経顕 や尊氏と相計って、光厳・光明の生母 広義門院 に治天の君となることを要請し、困難な折衝の上ようやく受諾を取り付けた。


広義門院が伝国詔宣を行うこととなり、崇光上皇の弟・弥仁が 17 践祚、 25 後光厳天皇 として即位した。


9月27日、北朝は正平統一はなされなかったとして従来の 観応 からの改元を行い、 文和 元年とした。


良基は神器なしの新天皇即位に躊躇する公家に対して「尊氏が剣( 草薙剣 )となり、良基が璽( 八尺瓊勾玉 )となる。何ぞ不可ならん」と啖呵を切ったと言われている(『続本朝通鑑』)が、当時、過去に 後白河法皇 後鳥羽天皇 を即位させた例にあるように、即位に当たって神器の存在は必ずしも要件とはなっておらず、治天による伝国詔宣により即位が可能であるとする観念が存在していた。


南朝方が治天を含む皇族を拉致したのはそのためだが、北朝方はその盲点を衝くかたちで 女院 を治天にするという苦肉の策でこの危機を乗り切ったのである。


だが、この一連の流れは正平一統と相まって、後に北朝でなく南朝に皇統の正統性を認める原因の1つとなり、幕府と北朝の権威は大幅に低下した。


時氏離反と道誉の伸長


南朝との戦において一時は旧直義派との協力関係を構築できたかに見えた尊氏・義詮派だったが、正平8年 / 文和 2年(1353)には道誉と山名時氏・ 師義 父子が所領問題で対立し、時氏が再び将軍側から離反するという事態を招く。時氏は 出雲 に侵攻し道誉の部将 吉田厳覚 を打ち破り出雲を制圧、そのまま南朝の楠木正儀と連合し6月、京都に突入する。


義詮は正平一統破談の後に天皇を奪われ足利政権崩壊の危機を招いた経験から、まず天皇の避難を最優先に行なった。天皇を山門に避難させると、自らは京都に残り京都の防衛を試みたが結局打ち破られ天皇共々東へ落ち延びることになった。






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最終更新日  2024年04月26日 06時46分24秒
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