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2005年04月19日
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生後9ヶ月くらいの赤ちゃんは、他の人が注視する方向へ顔を向けるようになるという。そして同時期、あれやこれやといろいろな身近なモノに対して「指差し」が始まるそうだ。これはどこの文化の赤ちゃんでも同じ。教えられたわけでもないのに、人差し指を伸ばし、それを見た母親は、「この子はモノの名前が知りたいんだ!」と思い、積極的にモノの名前を教えるようになり、そして言葉を習得していく。

「ヒトは生得的に「言葉を覚えるための手段」を知っている、非力な赤ん坊の本能ってすごい」とか思ってしまいそうなところだが、実はそうではない説明ができそうだ、と発達言語の研究では、次のように考えているそうだ。

赤ん坊は、なんでも触りたがる。すでに安全が確認されている見慣れたものは「べたーっ」と手のひらを使って触るのだが、新奇なもの安全かどうか確認されていないものは、ちょこっとだけ触ろうとする。そのとき「指」だけを使うのだと。

この仕草をみた大人が、名前を知りたがっているのだと「勘違い」することで、「これは○○だよ」と教えだす。それで赤ん坊は場面と結びついた言葉のシャワーを浴びるようになる、という。これは合理的な説明だ。

繰り返すことで、特定のモノを指差しすると、特定の言葉が返ってくる、ということにそのうち気づくのだろう。そして自分の使うコップも、親の使うコップも「コップ」という言葉が返ってきて、「コップ」がカテゴライズされていくのだ。

ヘレンケラーのような体験は、脳がある程度発達していた少女時代だったから、意識も記憶もでき、後年説明できたのだろう。

サリバン先生に会う前から、アイスクリームがほしい場合は、機械を回す仕草をして冷たいことをあらわすためにぷるっと体を震わせたりして、特定の要求表現はできたとあった。
人形を渡され「人形」という単語を綴る、マグカップを渡され「マグカップ」という単語を綴る。(ここまでは、ボタンを押せばバナナが出てくるということを覚えさせることができるチンパンジーとか「お手」といわれて手を出す犬と同じだ。)

水の入ったマグカップを渡され、「水」と綴らなくてはならないのか「マグカップ」と綴らなくてはならないのかがわからず、かんしゃくをおこす。

コップに入っていようと、手のひらを流れ伝っていようと、水は水なのだということ、つまり「状況と切り離してカテゴライズできるもの」として意識し始めたことで、モノの名前を言葉として獲得できたということだろう。

ヘレンケラーの自伝で、頭に残っているのが、サリバン先生に会う直前「私はスイカズラの葉を撫でていた。」というところ。
スイカズラがどういう植物か、いまだによくわからないんだが、暖かい日差しの中、やわらかい若葉の感触と薫りを感じながらも、鮮やかな新緑を見てはいないのだというギャップが、印象的であった。





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Last updated  2005年04月19日 14時19分09秒


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