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2005年05月05日
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のんびりした3拍子の音楽があちこちで流れる。

♪屋根よーりたーかーいこいのーぼーりー
頭の中で、続きのメロディがめぐりめぐって、トイレから出たときに
♪やーっと羽織の紐のたーけー
というのがきこえ、なんだか一つの曲のようにつながってしまった。
よく似ている曲だ。

「こいのぼり」の方は、作曲者不詳らしい。
「せいくらべ」の方は、中山晋平作曲。歌詞については、以下のやりとりが参考になる。

小学校5年生くらいの兄と、3年生くらいの弟を想像していたんだけど、事実を踏まえているとしたら、大正8(1919)年の発表された年に、兄さん(1896-1925)は23歳だということになる。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~futakoz/versoj/v-douyou/seikurabe.htm

 柱の傷は 一昨年の
 五月五日の 背くらべ
 粽たべたべ 兄さんが
 はかってくれた 背のたけ
 きのうくらべりゃ なんのこと
 やっと羽織の ひものたけ

「ちまき」を食べる地域は、今でも案外限られているのか、「ういろうを笹の葉でくるんだもの」ではなく、「醤油味のご飯を筍の皮でくるんで蒸したもの」と誤解している人がけっこういて驚いたことがある。そんな中華料理では、日本の行事には合わないではないか。

子供時代に記憶していた歌詞は、「きのう~ひものたけ」がメロディごと抜け落ちていた。「柱の傷は~背のたけ」で完結している歌だと思っていた。
後年、「羽織の紐の丈」と続くことを知り、疑問が残った。


http://www.maboroshi-ch.com/edu/extracurricular.htm
「いま(ボクが)着ている羽織」って、無理がある。
おととしのボクは「やっと」羽織の紐を結んでいる位置でしかなかった、今年のボクは大きいなという歌なのだろうか。

(2)羽織の紐というのは、「はかってくれた兄さん」の羽織の紐の位置だと考える。兄さんは成長期を終えた人である。兄さんの羽織の紐の位置におととしの傷があり、今年のボクは例えば兄さんの肩くらいの高さに頭があるというなら、現実的な数値だ。
つまり、この歌の出だしは、ボクの視点で「はかって“くれた”」ということになっているのに、後半は、はかって“あげた”「兄さん」の視点になっているということになる。原曲の背景からすれば、視点のねじれが生じていると考えても不自然ではない。

おととしはどうにか「やっと」羽織の位置であったのに、「弟はずいぶん小さかったのに成長したんだな」という解釈である。

(3)いやいやそうではなく「羽織の紐の丈」を「紐の長さ」と解釈する。子供の羽織の紐の長さってのは、10センチくらいだろうか。2年も経っているのだからとわくわくしてみたけど、「なんのこと」はない。「やっと」それしか伸びていない、というがっかり気分を歌ったものだという解釈もできる。そうなると、2番の解釈も変わってくる。(2番は実際には聞いたことがないが)
 柱にもたれりゃすぐ見える
 遠いお山も背くらべ
 雲の上まで顔だして
 てんでに背伸していても
 雪の帽子をぬいでさえ
 一はやっぱり富士の山
くよくよ伸び率の少なさを悩んでも仕方ない、富士山はもっと高いぞ、ということになる。
不動のトップという地位にある富士山に比べれば、人間の背の高さの比較なんて小さい小さいというはげましの歌になる。

(4)とかなんとか考えていたら、こんなページもあった。
http://www.ne.jp/asahi/sayuri/home/doyobook/doyostudy.htm
これも「兄さんの羽織の紐の位置」という解釈であるが、内容は異なる。
「今の自分の身長と兄の身長を比べてみたら、伸びたと思ったのに、意外なことだが、やっと兄の「羽織の紐の」位置(ちょうど胸乳の位置)まで届いただけだったというものです。
 「やっと」という言葉を受ける言葉は「(自分の身長がそこまで)届いた」ということでなければ、背くらべの意味がありません。」
“届いた”という表現で説明しているが、結局「今年のボク」は、兄さんに比べればまだまだたいしたことがない、という解釈である。
(少々疑問なのは、羽織の紐が「胸乳」とあることだが、羽織って
http://www.ne.jp/asahi/om/takebe/kimono/0403062.jpg
こんな感じだろ、ちょっと高過ぎやしないか?と思ったら、http://homepage1.nifty.com/koshifumi/kimono-o1.jpg
こんな画像を発見!ひー。知らない、こんなの)
柱を背にして、はかってもらったとき、目の前に兄の羽織の紐がぷらぷらとぶらさがっている、ということか。この説でも2番とのつながりに(3)説と同様の整合性はある。


(1)説は、通常の人間の成長を考えると無理があるので捨てる。

(2)説で、子供の成長を素直に喜ぶ、素人らしい兄さんがあるけど、(2)説に2番との関連性をもたせるなら、「大きくなったと思っても、富士山にはかなうまい」という上には上があるぞという戒めのような具合になってしまう。
ちょっとキビシイ。
「そうではない、2番はテキトーに繋げただけのものだ」と考えても、静岡民らしい暢気さがあっていいと思うけど、そんな解釈じゃあ、やっぱり底が浅いよな。
だいたい、そこまで強く事実と結び付けねばならないことか。

2番とのつながりを重視すれば、がっかり感がある(3)説か(4)説が有力になる。
(3)説の「伸び率での比較」は、少々計算が複雑だし、伸びるわけもない山々をひきあいにしているところで、やはり無理があるか。
(4)説の「兄との比較」のほうが無難かもしれない。

もっといえば、背を比べる相手は、おととしの自分自身というより、「遠いお山“も”背くらべ」というのだから、山同士の背くらべのように、ボクと「背のたけをはかってくれた兄さん」だけでなく、別の複数の弟妹同士での背くらべもあると解釈するほうが自然だろう。
弟の一人が、柱に「もたれ」ているというのも、がっかりしている気分をあらわしているようにも思えてくる。「昨日」は落ち込んでいたが、兄弟の誰よりも高い兄が他の山々より抜きんで高い富士山を指し、今日(5月6日?)は明るい気持ちになった。
ただはげますにしても、「いずれお前も大きくなるよ」とか「きっと誰よりも高くなるよ」と、不確定であるはずの未来を無責任な言い方でごまかさないところが、この兄のえらいところ、ということになるのである。







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Last updated  2005年05月06日 19時40分18秒


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