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2005年05月27日
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官房長官のコメントが支持された。


殺人事件の裁判で、犯人に死刑がくだり、執行されたとして、その犯人を立派な人物として扱って、しばしば記念行事が盛大におこなわれているという話をきいたら、被害者遺族の立場からしたら、とんでもない話である。

複雑なのは、「死者をどう扱うか」ということである。
よく比較の引き合いに出されるドイツでは、「ヒトラーさえいなければ、あそこまでひどいことにはならなかった」ということで認識できている。しかもそのヒトラー自身は、裁かれる立場にはなる前に、自ら命を絶っている。

靖国参拝がいかに非常識なことかという例えに、「ドイツはヒトラーを神としてあがめることは決してしない」ということがあげられることがあるが、ヒトラーとA級戦犯は同じものであるのか。

「A級戦犯たちがいなければ、戦争はおこらなかった」と考える人と、「その人たちに限らなくても戦争はおきてしまったことだ」と考える人では、日本人の自分が被害者側にいるか、加害者側にいるかが別れるところである。

国家を代表したものならば、被害者にむかって「私たちも被害者である」というのは、たとえそういう意識があったにしても、それは立場をわきまえていないもので、「私もまた加害者の一員である」という立場を表明するべきである。
A級戦犯は、当時の国家の代表であったことから、時代が違えば自分もまたその立場になったかもしれないのだから、平和を祈り不戦の誓いをたてる対象として扱うことは、加害者側である立場を忘れないということを、積極的に表明しているものである。


「死んだらみな仏になる」「死んだらみな神になる」という言い方に、微妙な違いを感じるかもしれないが、日本人のうっすらぼんやりとした宗教観では、「墓参」も「霊を祀る」も、言葉が違うだけで、やっていることは同じだ。墓に立派な戒名を書くことや、祀る(=神としてあがめる)ことは、死者の偉業を積極的に褒め称えることが目的ではなく、襟を正して死者と向かうためのものだ。

墓参やお祀りは、鎮めることを願っても、死者の生前の力の復活を願うものではなく、同じ能力をわけてもらおうという対象でもなかったはずだ。
GHQに「国家神道」と名づけられた、日帝が国威発揚のために利用した神道では、「軍神」を積極的に扱ってしまった。
このため「英霊を祀る」ことが、戦争を肯定し続け、軍神からパワーをもらって「戦争に勝ちたい」と願うことだと曲解して考えられてしまうことがある。
日本は戦後一貫して「過ちは二度度繰り返しません」という不戦の誓いを繰り返していると思うが、それが広島や長崎でなく、靖国神社だと非常にややこしく解釈される。

最大の問題とされるのは、死者の扱いが平等ではないところだ。
しかし、被害のあった近隣諸国の地に、戦没者慰霊の塔をたて、国家を代表するものがお参りにいくということでもあれば、「わかってもらえる」のだろうか。
それはそれで、腹立たしいことになるのではないか。

この問題を、日本国内で「ある人が、近隣諸国に対して積極的不快感を示した発言をした」と、わざわざ大きくとりあげると、感情悪化を煽るだけになるので、賢明ではない。
「我々はあなたたちに腹を立てていますよ」ということも、
「我々も一緒になって腹を立てていますよ」ということも、

「日本のマスコミを通じて得た情報」をわざわざ与えて、誰が得をするのか。
官房長官の発言に注目したい。





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Last updated  2005年05月27日 14時12分52秒


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