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2007年04月17日
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ああいえば上祐・・・
ということばも流行ったな。再び上祐氏の話。(敬称かえてみる)

アーレフ信者用のメッセージに書いてあったが、上祐氏は、いわゆるマインドコントロールから抜け出すのに、オウムで教えられたことに立脚して考えている。
「予言」は、日本国家の崩壊とあったが、それは日本国家を模したオウムの崩壊についての予言と考えると、その年代が奇妙に符合するというのである。
http://blog.livedoor.jp/motoj/archives/53244814.html

=麻原と全く連絡が取れなくなった。=教団にとってのハルマゲドン
1999年 ハルマゲドンの予言
=団体規制法制定 =教団にとってのハルマゲドン
2003年も 核戦争の予言
=上祐氏修行入り(軟禁だと思われ)、教団の方針が大きく変わった。
2004年は 麻原の復活の予言
=麻原死刑判決、密教のカッピナ師が修行中遭難死
2006年 広島に原爆などが落ちて、ハルマゲドンが起こるという予言
=麻原死刑判決確定、代表派と非代表派の分裂が決定的となった。

麻原の予言:世紀末に日米決戦がある。日本が再び天皇を元首にする。
実際:教団がアメリカを敵とみて米軍の毒ガス攻撃を主張、麻原が教団体制では、法皇(絶対神の化身・キリストとして世界を統治すべき存在)と位置づけられた

大日本帝国が天皇を絶対神として大東亜共栄圏を形成しようとしたのと非常によく似ている。

教団が大日本帝国を模したものには、「進めオウムヤマトのように」という歌や、毒ガス攻撃とコスモクリーナーなど、大日本帝国の戦艦大和の復活版のアニメの『宇宙戦艦ヤマト』に基づいた(上祐氏の記述では「パロディー」)ものがあった。


一般人からすれば、「それがなんだ」と思う考え方なのだが、たぶん同じ信者なら考え方の道筋として、非常にわかりやすい説明になるんじゃないかと思う。

末端信者だった人のかいたもので『麻原はただのオッサンだ』という、タイトルそのままの内容の事件後に出た漫画を読んだことがあるが、そういうレベルに貶めてすべてを否定するのではなく、麻原にはカリスマ性があり、宗教的な力も持っていたが、万能だというわけではなく「すべて正しい」と信じられるものではなかったのに、信徒である自分たちがそのように行動してしまったことで、教団全体がおかしな方向にいってしまったのが間違いであったというのが、いまの上祐氏の考え方である。
そして、「そうした麻原を作り上げてしまった自分たち信徒」として、責任を負って生きて行くというのが上祐氏の決意である。

上祐氏の4月15日の日記 http://www.joyus.jp/diary/10/0012.html によると、上祐氏は、家康が好きで、かの有名な「人生重き荷物を背負いて長い道を行くがごとし、焦るべからず。不自由を常と思えば不足なし。」という言葉に感銘を受けたそうだ。


いかにも理系の人間らしい。そして、自分を基準にして世界を捉えている人なんだな、と思った。

文系の人間の発想だと、「真北」という方角については、まあなんとなく絶対的なものを感じてしまうのは、まあわからないでもない。
真北は、常に同じ軌道を描きながら規則的に回っている地球の軸の片側の方向でしょ。
地球は人間が作り上げたものでもないし、人間がまわしているものでもないし、現象の説明に数字を用いなくても説明できるから。

けれども、メートル法・10進法での100という数字については、基準の違いによってどうとなるもんではないかと思ってしまう。
家康が出てくるのなら、まず当時の尺貫法に置き換えて考えるべきではないかと思ってしまうし、100だからといって「ちょうどの数だ」という考え方もあまり持っていない。仏教の人だったら108という数字でも「ちょうどの数だ」と意味を感じてしまうかもしれないし、整数は循環小数よりかは「ちょうどの数」っぽいなあというのと、非存在をあらわすゼロとそれ以外の数字が違うというのはわかるだけど、もともと数字というのは、宇宙から与えられたものではなく、人間が作り出したもので、人間同士の取り決めで使用されているものではないか。


十数年前、理系の院生で、
「午前4時44分44秒に合わせ鏡をすると、自分でない自分が写るらしいよ。だから僕は夜中に鏡を見ないようにしているんだ」
と大真面目に言っている原義的な意味でナイーブな人がいたが、時間を示すために12進法で数字を割り振って時計を作ったのが人間であるというのに、どうして超人的な現象が一致すると感じるのか、と理系人種(?)との違いを痛感したものだった。
しかも、グリニッジ標準時とか明石標準時とか、そういうものってほんの百数十年の間、長い歴史の中でごく最近決められたもので割り振られた数字だというのに、どうして現代になって急に怪現象を呼ぶようになると考えられるのか。
なぜ4という日本的な数字なのか。日本あるいはアジアだけに起きる現象なのか。

そんなの、
・もし実際に起きるのならいつかは原理が解明できる
・あるいは現象そのものが実は起きないものである
・現象が起きたという人と起きないという人がいるとしたら、個人の脳内で作り出した妄想による幻視で、科学的に存在が証明できないものである
そのどれかである。

「午後4時44分44秒だとどうなの?」
ときくと、
「それは16時44分44秒だから大丈夫だと思うよ。午後四時ならまだ明るいしね。」
というので、おっかしなやつだなーと笑ってしまった。
(が、現在こいつは国家の要職についていて家庭生活でもちゃんと子どももいるような人であるところをみると、もしかすると、当時はいい年齢こいてバカかこいつと思っていたのだが、若い頃にこういう素直で柔軟な姿勢がある人のほうが、社会に溶け込めて上司にかわいがられ、うまくやっていけるのかもしれんなーとも思わんでもない。)

16は4より安心できる数字らしい。
4が4倍になって、ものすごくおそろしい数字になるわけではないらしい。

上祐氏の場合、数字が絶対なものであるという前提を持っているから、それで大好きな家康と自分に強い繋がりがあると感じられる世界が作れ、そういった裏づけが持てることでたぶん何か安心するのだろう。

仮に数字が宇宙の法則だとまでは考えていなかったとしても、長い歴史上での人間社会での共通の取り決めとして定着している数字とも繋がっていられることで、平穏な気持ちになれるのかもしれん。

論理的な思考は、おもしろいなあと思うのだが、前提の設定で惑うものが多いので、なかなかその世界に入っていけないものがたくさんある。
・・・それだから、いろいろとうまく進んでいかんのでしょうけど。





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Last updated  2007年04月19日 15時46分22秒


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