全5件 (5件中 1-5件目)
1
欧米先進諸国に追いつき追い越せと明治維新以来、営々と努力してきた我が日本国でありますが様々な分野で、そうした試みがなされ、実に涙ぐましい人々の奮闘努力が積み重ねられ、今日に至っている。その目覚しい成果は周知の如く主として経済的な方面で発揮されました。また文化的な面では従来の集団主義、大勢順応体質に対する反省がしきりに強調され西洋キリスト教流の個人主義が盛んに鼓吹され、大勢の知識人がそのための懸命な努力を続けてきたし、その流れは現在も尚続いております。私は今更らしく西洋式の個人主義はもう卒業した。私たち日本人は個人主義を完全マスターした、などと主張する心算はありません。これからも或いはこれからこそシッカリとした「個人主義」が必要なのかも知れません。しかし、どんな時代が到来しようとも人間の基本的な生き方の理想型は変化しない、と考えるのです。個人は全体の前に「否定されなければならない」と。現代は、世界中が自己主張を事としすぎている。特に世界が地球村化した今日、地球全体の調和が図られなければならない。個々の「我」は全体の為にすべて否定されるべきなのです。それは国連の様な現実的な国際政治の場だけでは、恐らく解決不可能でしょう。何か現実全体を一様に「否定」するモメント・契機が必要なのですね。具体的に申し上げると、世界宗教のような何かが、如何しても要請されなければならない。話が少し大きくなり過ぎたかもしれませんが、そうしたマクロ的でグローバルな視点・視野を最初に据えて置かないと、個人としての具体的な生き方も定まらない。勿論地域・コミュニティ・国などを単位として考える場合にも、同じことが言える。私は、今日の地球上の大混乱を「世界規模の戦国・乱世」と見做している。その上で、一国の、或いは一個人の生きる道、方向性を見定めていかないと更なる混乱・動乱を将来してしまう危険が大であると思うのです。ピンチはチャンスなのですよ。前向きに、肯定的に明日の理想社会の青写真と理想の姿を、人類全体で創り上げ、その実現に向けて団結して、一体となって努力すべき大切な時なのです、今現在は。その全体的な理想に向けて一人ひとりがそれぞれの資質と能力を、そして惜しみない努力を傾注すべきなのですね。如何ですか、古めかしい「全体主義」の復活などでは断じてない、今日只今に本当に必要な考えを、独立した個人を単位として有機的に構築していく。そういう全体と個人との関係性に皆さん方の関心を取り敢えず引いてみたいと考えた次第です。如何ですか?
2012年04月27日
コメント(0)
義理と人情を秤にかけりゃ 義理が重たい男の世界―映画スターの高倉 健さんが演じるヤクザが自ら進んで命を捨てに行くシーンに流れる映画の主題歌の文句です。任侠・極道と呼ばれるアウトローの世界でさえ、この世で一番大切な命を捨ててまで護らなければならない不文律の掟があった。それもかつての古き良き時代には存在しえたかも知れない幻想かもしれないが。今日では、堅気とヤクザの境目さえはっきりとしなくなって久しい。私たちの真面目な堅気社会ですら「義理」などと言う死語は、薬にしたくとも顧みられなくなっている。それでは義理とは何か?そして人情とは?義理とは「正しい筋道、自身の利害にかかわりなく、人として行うべき道。特に、交際上でいやでも他人に対してしなければならないこと」ですし人情とは「人ならば、誰でも持っている筈の人間らしい心」の意味で使われていました。特に「同情、感謝、報恩の気持ちなど」と辞書には掲載されています。私はここで公(おおやけ)とか社会の規律に対して私(わたくし)や個人の立場の対立を、義理と人情の対比に置き換えてこの二つの概念の関係を考えてみようと思います。そして義理は人情の上位にあり、人情を越えて人情を掣肘(せいちゅう)する物として作用するべき重要な言葉であり、思想だと考える。あの天才・近松門左衛門が描いた人形浄瑠璃の世界、義理と人情の激しい葛藤のドラマ。ともすれば人情に流されようとする個人の余りにも人間的な情を否定して、一段高い社会的な広がりのある義理の為に敢えて死を選び取る作中人物に、劇の観客・見物人たちは同情の涙を流しながらも、深く共感・共鳴した。カタルシスを感じた。それが人間としてあるべき正しいあり方だったから。人の世は大切な、ここぞと言う時人情の自然に流されてばかりいてはいけない。敢えて無理をして、自然に逆らっても真(まこと)の道を踏まなければいけない。そう私たちの心の奥底にある「真心」が教えている。現代は余りにも「自然的人情」ばかりが幅を利かし不自然ではあっても人にとってもっとも大切な理想、義理の思想が欠落し過ぎている。私・草加の爺は敢えてそう断言して、皆さん方の反省を促したいと考える者です、如何でしょうか。
2012年04月20日
コメント(0)
人類の師と称されるソクラテスは「己・汝、自身を知れ」と教えたと伝えられています。私達は普通、他人のことはいざ知らず、自分のことならよく知っているから、今更「おまえ自身を知れ」などといわれても何が言いたいのかと、ソクラテスという哲人の意図が良く分からず訝しい思いに駆られるだけですね。賢明なるあなた様はいかがお考えになられるでしょう。私について申せば、恥ずかしい事に、わたしは未だに自分自身のことを良く分かっていない、理解できないままでいます、本当のところは。天地神明に誓って、嘘偽りなく本音を告白していますよ。そして更に本音の本音を申せば、そのことを本当は「恥ずかしい事」とは思っておりません。そんな事は、土台無理なのですからね、自分自身を知るなどいう「大それたこと」は……。少しばかり難解な、少々込み入ったお話になって恐縮なのですが、私たちに与えられているこの世の人生というものは、根本の所で極めて複雑怪奇に出来上がっていますので例えば私の如き凡人には、理解に余る事柄が多数存在し、命を長らえればそれだけ余計に謎が増える。と言った按配でして、齢甲斐もなく成長ということがないのです、本来は恥ずべき事なのかも知れませんが。ソクラテスの話に戻りましょう。当時の知識人たるソフィスト達は彼・ソクラテスの言分とは真逆に、「国家について知れ、全世界の事柄を学べ」などと教えていたようですが、それは今日の状況とあまり違っていない事は皆さんが良くご存知のとおりです。結論から言いますと、自分を知ることと他人や社会、国家や全世界の事、ひいては宇宙全体について知ることとは全く同意義でありますね。本質的に不可能なのです、ありていに申せば。ソクラテスという偉人は誠に、本当に凄いお方で、生きている人間にとって本当に大切な事柄を、そのものズバリ、指し示したわけですよ。全く。仏教のほうでも、仏陀のような天才は自己の力で悟りを開き人間の本質を把握できたのですが、私たち凡人には自力での開眼など本当に及びもつかない、難事中の最難事。結局、中途半端に己や己を取り巻く世界を「知って」、と言う事は「知ることが出来ないで」中途半端なままであの世に行くことになるし、それで良いのだと結局はソクラテスは言いたかったのでありますね、きっと、間違いなく。自分は全世界であり、全世界は自分である。この真理がソクラテスという特異な偉人の生き方を特徴づけ、根本のところで支えている。かれの誠に驚嘆すべき「自死」もこの確信が揺ぎ無いもの、確固たるものである証左。ですから、私たちもこの偉大なる哲人にならって、自分自身を、凡人は凡人のままに完全燃焼させるような生き方を、進んで、積極的に、揺ぎ無い確信と信念を持って行き切るべきなのですよ、断固として。
2012年04月14日
コメント(0)
小さな子供たちは躾や教育の対象であって大の大人に何かを教えるような存在では断じてない。と言った偏見或いは先入観念が親とか教師とか、その他の年配者たちには抜きがたく牢固としてある。大人が子供を教えるのであって、その逆の現象、年端も行かない幼い子供が一人前の大人たちに、何か価値のある事柄を教える、乃至は現に教えている。などと言っても、誰もまともには聞き入れてはくれないかもしれませんね。しかし、私・草加の爺のブログにまで目を通そうかというような奇特なお方は、世の中の絶対的な少数者ではあっても、中々どうして地の塩とでも称すべき今日では貴重なお人に間違いありませんので、理解していただける物と信じて勇気を鼓して書いてみる事にしました。「教えること」とは、物事をより深く「学ぶ事」に通じているとは古今東西を問わず言い古されている事ですが私のように教師の端くれとして、日々子供たちと接しているとそれが本当の事であったと実感できるのです。子供たちは実に、実に多くの事柄を、無言のうちに私に、そして間違いなくその親や周囲の大人たちに、教えてくれている。驚くべき事と御感じの向きも多いかと懸念されますが、本当に、本当のことなのですね。但し、大人の側が要らない先入観を全部排して虚心に、純粋にして雑念のない真心で彼らにたいした場合にはという、条件がつきますよ。子供たちは、何から何まで「知っている」から。大人になるにしたがって、周囲の「悪い大人」の影響を強く受けるので生前には知っていた事柄を、忘却の彼方に投げやってしまう、残念至極。世の荒波を渡って来て、すっかり「人間嫌い」に成り下がってしまったこの私にさえ、彼らは実に親切丁寧に最も大切な教訓を惜しげもなく洗いざらい教えてくれていますよ、実際のところ。心が洗われるような思いがするのはその所為です、きっと。本当にありがたいことであります、実際。私は誰に対してこの幸せを感謝したらよいのか、最初のころには戸惑いました。しかし、実に簡単な回答が与えられました。素直に神仏に対して、そして我が家がお世話になっている浅草の観音様に感謝の念を捧げればよいのだと気付かされました、ある日突然に。信仰と言う事に不慣れな私ですからこのようなお恥ずかしい仕儀に相至ってしまったのですね、無様でした。どうか皆さん方も、神仏から託された宝物であるお子さん方を大切にしてそのありがたさを、存分に受け止めようではありませんか。どうかくれぐれもお子達を大切に養育なさって下さい。私も及ばずながらも世間の片隅で皆様方の手助けのほんの一部を、懸命に務めていきたいと愚考いたしておりますゆえ。お願い致します、心から。
2012年04月11日
コメント(3)
以前、「最大多数の最大幸福」(ベンサム、功利主義)ということが言われましたが今日では限られた少数者の幸福しか望めないような状況が顕著で有るようですね。しかし、これはどう考えてもおかいしのです。誰もが幸福を手に入れる可能性が有るのですし、もっと言えばだれでもが幸福にならなければいけない。しかしながら現実はそうなってはいない。何故か?私はこう考える。私たちの意識の在り様が間違っている。したがって幸福獲得への努力が断然不足していると。間違ったところでどんなにもがき苦しんでも所期のものは得られない。それどころか不要な猜疑心や疑心暗鬼だけが増幅されるという悪循環を呼び込んでしまっているばかり、残念ながら。自由経済という美名の下に富の搾取と極端な集中とが罷り通っているこれまでの在り方は、様々な方面からの反省と修正とを迫られてはいてもこれに適性に対処する方策が見出せないで居る、グローバル規模でも国内の範囲においても。これは私たち人類全体の怠慢以外の何物でもない。観て見ぬ振りは限界にまで来てしまった。人類に本当に叡智というものがあるのならモウとっくの昔に、適切な方策が果敢に採られてしかるべきだったのに。地球村の内輪もめにはもういい加減でピリオッドを打ち、真の共存共栄を図らなければ、だれもが「村民の誰もが」不幸になってしまうのは火を見るより明らかなのに。一体何時になったら私たち人間達は過去の行きがかりから抜け出ることが出来るのしょうか、本当に愚か至極。しかし、諦めるのはまだ早すぎますね。日本人の、美しい日本語を育ててきた私たち大和民族は、今こそその平和と美と、調和を尊ぶ特性を生かして「村全体の調停者」の役割を演ずべき時なのですよ。その自覚を強く持たなければいけない、一人ひとりが、自信を持って。平和な、調和の取れた地球村実現に向けて頑張るべき時代が到来している。そのために大きな希望を胸に抱いてそれぞれが自分の立場と能力に応じて力を発揮しようではありませんか、なせば成るの精神で以って。如何でしょう。こんなに遣り甲斐のあるミッションと役割が私たちに託されている。本望では有りませんか、嬉しいではありませんか、如何ですか。勇気と希望が湧いてくる、次から次へと。これに勝る幸福はまたとないのではありますまいか。私たち日本人にはそれが立派に出来るし、そうしなければいけない。日本人自身の本当の幸福の為にも。どうです、未来の明るい展望がシッカリと見えてきましたでしょう。太陽と共に歩んできた私達は、太陽と共に着実に歩を進め、明日という明るい未来を太陽と共に築く使命が有るのです、間違いなく。
2012年04月04日
コメント(0)
全5件 (5件中 1-5件目)
1