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7 仕事、あるいは、職業について・その二 前回は、ポップ・キングという現代の寵児が、人気があるという理由だけで、時代の帝王のように君臨している事実を、私は指摘しています。 この「人気がある」と言う一種の権威の拠り所は、現代社会の隅々にまで浸透し尽くしているようですね。しかし、考えてみるまでも無くこの時代の大きな潮流は、当然の事ながら、大きな弊害をも伴っている。 がしかし、何故に人気があれば、全てが許される存在なのでしょう?その理由は恐らく誰にも分からない事ですね、多分。この偏見・迷信も人類の歴史に鑑みて明らかなように、日々、刻々、人気さえあれば何でも許される、といった困った錯覚を増大させ、増幅させ続けている。困ったことに、ですよ。困ったと気付いても手の施しようがないので始末に終えません。 わたし達は、先ずこの事実・現実を、しっかりと見据える必要がある。更に、この事実・現実を肝に銘じなければいけない、実際の話が。 仕方が無いということと、それでいいのだということとは全然違うことなのですし、少なくとも人間の幸福の問題を考える上では仇や疎かには出来ない重大事。私たちの幸福の問題は、とても、とても大切な問題なのですからね。――世の中の趨勢に流される。これは力弱い個々人としては、ある程度、仕方の無いこと。しかし、所詮個人の力で出来ることなんか微々たるもの。時代の大勢に逆らって活きるなんて不可能なことさ、なんて諦めてしまうのは早計にすぎます、はい。 何事においても、「距離感の取り方」ということがとても大切なのです。例えば、人間関係で、夫婦、親子、会社の上司と部下、或いは取引先との間で、ですよ。ここで思い出すのが古代中国の哲人・孔子の説く中庸と言う事。中庸とは、中庸を得るとは、私の解釈によれば「無駄な力・エネルギー・時間などを使わない」ということが中心の命題なのですが世間の俗説では、あらゆる事柄の両極端を避けて中心に近いところを選ぶ、というように受け取られている。これほどに似て非なる解釈も無いのですがそれで済むお人にはそれで用が足りているのでしょう、きっと。 ここでは中庸の問題に深入りするのではなく、それに本質は通じている距離感の取り方のほうに戻りましょうね。時代と、その風潮との間に自分流の距離を置く― このこと、それが銘々に幸せを呼び込むと同時に、個性的な魅力を生み出す原動力ともなる、非常に大切なポイントなのではありますまいか……。誰も彼も、二言目には個性個性と口々に唱えながらその実は流行に流されながら、嬉々としている。大きな矛盾ではありませんかね。 仕事や職業に就いては、追って別の角度から述べる心算ですので、ここではこの程度に止めておきます。
2012年11月26日
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7 仕事、あるいは、職業について 前の章では、今日における様々な迷信・偏見の隆盛振りの一端について、ごくごく簡単に触れましたが、仕事や職業に関しても強い偏見や迷信が蔓延っています、本当ですよ。 そもそも、職業に貴賎上下の隔ては無いと、建前の上では誰もが首肯するのですが、現実は大違いですね。 キャリア・カウンセラー仲間の勉強会の席上で、或るメンバーが語った話です。クライアントの一人が面談の際に、こんな告白をした。自分の勤務する会社は駅などのトイレを専門に清掃するのが業務内容だ。しかし、同僚から聞いたところでは、学校で行われた自分達のお父さんの会社での仕事の内容を調べて報告する、という課題に、自分の息子に対して正直に答えたところ、クラスの皆から軽蔑され、イジメにさえ遭ったと言う。これを聞いた会社側は企業名から「清掃」の二文字を外して、名前を聞いても何を業務とするか分からないようにする検討を始めた。自分も妻も、内心では周囲の思惑に対する不安がある。しかし同時に何も悪い事などしていない、という自負も一方にはあり、どうも釈然としない。どうしたものか、と言うのです。 実際に、この種の根強い偏見は、日本社会のあちこちに数多く存在するものと、思われます。建前は建前として、本音の世界が厳然として同時存在している。それが私たちが生活している社会というものの実体・実相ですね。 「食器洗い」の肉体労働は「食器洗い機」という便利な機械で代替が可能になった。だからといって、「食器洗い」という労働の価値が低くなった事を意味しません。どの様に、人気のスポーツ選手の年俸が一流有名大学の、著名な教授よりも遥かに高かったとしても、頭脳労働の価値が肉体労働に凌駕された証明には役立ちませんし。 これは私の持論なのですが、古代には神の権威を後ろ盾にした王〈sacred king)が、次いで武力による王〈war king)が出現し、現代の今は「人気」という不思議な力による王〈pop king)が世界を支配している。ポップは勿論ポピュラー・popularを意味します。 ポップ・キングが一世を風靡する現代ですから、それが、これまた一世を風靡しつくしている資本主義と相俟って、人気のアスリートや著名なタレントと呼ばれる「現代のエリート」が時代の寵児・英雄として君臨しているのは、皆さんが毎日のように目にされているところ。首肯していただけるでしょうか。
2012年11月24日
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6 現代の迷信・偏見 21世紀の現代社会と「迷信」、「偏見」とはまるで無関係のように、一般には思われている。そうゆう節がある。しかしながら、もし仮にそんな風に考える人がいるとすれば、それこそが現代日本の迷信の最たるものかも知れません、本当ですよ。 事ほど左様に、迷信や頑迷固陋な偏見は社会の隅々にまで行き渡り、氾濫し、猛烈な流行現象を来たしてさえいるのですね。 一例を挙げれば、進歩主義であり、便利第一主義がありますよ。それは、世の中は時代と共に進歩発展を遂げ、ますます便利になっていく。それにつれて、我々の生活も向上し、幸せのほうも無限大に大きくなっていく、と言う謂わば子供染みた夢想は、心ある人々からはさすがに、無条件には信じられないようにはなってきていますが……。 そもそも、何々イズム、何々主義というものには極端に排他的な態度が付き纏い、非常に独善的なのが特徴ですから、行き過ぎた場合には欠点が大きく目につきやすくなります、実際の話。 もう一つ典型的な例をあげれば、資本主義万能の考えに基づいた拝金主義!これなども今では一見、理性による洗礼を受けているかのように見えますが、所がどっこい、心情的・感情的には今後も、圧倒的な崇拝者や信奉者を獲得し続けるでありましょう、必ずや、間違いなく。 また、「地球村の住人」たる世界市民的な意識からは、目下人類の間に大流行を見せている各種の偏見、― 人種的偏見、宗教的偏見、国家間の偏見、民族的な偏見、性差に基づく偏見、貧富に起因する偏見、etc.の存在、それもとても手に負えないような根強い存在がとても気懸り、実際のところ。如何です? 大切なことは、そういった我々自身のあり方に対する、強い反省とそれに伴う、新たな、そして確たる行動なのではないでしょうか……。
2012年11月22日
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新しい女性論の試み・その三 男女がともに忌み嫌い、互いに相手に押し付けようとするような「厭わしい」、また面倒なだけの「労働」の場では、決してないと、私には思われて仕方がありません。家庭での諸々の仕事としての労働は。 これは、私の想像上の産物にしか過ぎないのかも知れませんが、古来からわが国の女性たちは、家事という大切な仕事を中心に家庭と言う「城」を宰領する「一国一城」の堂々たる女王様であった。そして奥床しくも、「政治」の実権は全部バカな男どもに譲り渡して、黙って社会や生活を裏側から支え続けてきた。しかし、戦後は「同権」である男の真似をする女性が大半を占めるようなり現在に至っているのだ、と。ああ、何とまあ……、尊敬すべき日本女性の堕落?! 少しばかり、冗談が過ぎたかもしれませんね。誤解のないように再度ねんのために申し上げますよ。私は一人の男として、世界中の何処の女性より、わが国の女性・大和撫子をいの一番に尊敬しておりますし畏怖すら覚えています。が、しかし、現代を生きるニッポン女性が世界一「チャーミング」かという点では、首を傾げざるを得ません。男の立場から見た、女性の魅力とは何も容姿だけには限りませんね。その生きる姿勢、内面の輝き、魂のオーラなどを含む、全体的な存在感そのものが、即ち女性の人間的チャーミングさ。同じ事は、女性の方からも男性側に対して言えるでしょう、勿論。特に日本女性を語るときに母親というチャンネルを通して眺めた時、殊更にその魅力を増すように感じられます、実際の話が。 ここまで書いてきて、ふと脳裏を掠めたことがありました。その声はたとえば、「世の中には、子供を産みたくとも産めない女性がいる。他にも様々な事情で子供を持たない生き方をしている女性も大勢いる。将来にわたって増える事が予想される、そういった多くの女性たちのあり方を、全否定するような物言いは断じて許されない」と、主張する。所謂識者とか専門家とか称せられる先生方が、したり顔に叱正し、断固として主張して止まない誠に厳しい声。 しかしながら、私の論はそのような女性の存在を無視したり、否定する物ではありません。女性の生き方の中で、その数有る選択肢の一つに母親と言う役割がある。そしてそれは私にとって、とても有難いものだ。と、申し上げることに尽きている。更には時代の趨勢として、不当に軽視・看過されているように思われる、母親や主婦の座にもう一度新たな視点からの見直しを、特に年若い女性たちにお願いしたと切に思っているだけなのですから。ですから、他意は微塵も御座いません。
2012年11月20日
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5 新しい女性論の試み・その二 家事に新しい光を当てるとは、例えば女子大などに見られる「家政学」のようなアカデミックな立場に立つこととも、少し違いますね。もっと素朴に、庶民生活、あるいは庶民感情からスタートする根源的な、生活の智恵的な発想です。 私の母親もそうでしたが、嘗ての一般的な家庭の主婦は、忙しい家事の仕事に毎日を忙殺されていました。掃除・洗濯・買い物食事の支度・その後片付け・子供の世話・家計の遣り繰り・近所付き合い……。その他いちいち数え上げていたらきりがないほどの、細々としたしかし日常生活を営む上では、不可欠な雑事が、それこそ来る日も来る日も、それも山のようにと形容してよいくらい待っていました。ですから、たまに旅行などで、ホテルや旅館などで経験する「上げ膳・据え膳」はまさに至福の時と思えたのです、実際の話が。 かつて家庭の主婦達の大多数が、嫌いなものの筆頭に「炊事」関連の仕事をあげていましたが、最近の若い女性たちの多くも、同様な反応を示すのではないでしょうか。きっとですね。 辛い、本当に辛い「家事」からの脱出・脱走にやっとのことで成功したかに見える、今の女性たちに向って、今更、家事を見直せだ!一体、どんな魂胆なんだ、と仰らずに私の意のあるところをどうかお汲み取りいただきたい、どうぞ。 そもそも人間生活にとって少しでも意味のある仕事で、辛くない仕事などがあるでしょうか?私は、無いと思いますよ。まして、その仕事を強制された時、或いは他人から強制されいると感じている場合は、尚更でしょう。 逆に、自ら進んで、その仕事が好きだから、楽しいからするのだ、ということになれば話は全く違ってきますね。殆どの子供は勉強が大嫌いですが、それは、親や教師から、「勉強しろ、勉強しろ!」と常に強制され続けているからではないでしょうか。又、勉強する楽しさを味わった事がない。つまり楽しさを教えられた事が全然ない。したがって、勉強して何か新しい事を知ることの醍醐味を味わった事が一度もないから、と言えないでしょうか。 それと同様に、家事の楽しさ、家事をする醍醐味を知らない若い世代が、家事を頭から毛嫌いしたとしても、無理もありません。「家事」という、愛する人の為、掛替えのない家族のために、各自の才能と技量、そしてつぎ込む努力の量と、情熱の多少に応じてつまり、銘々の才覚次第で、どのようにも按配できる仕事。「家事」こそは実に豊かで、幅広い仕事の数々を保証してやまない「しごと」の宝庫なのではないでしょうか?いかがでしょう。
2012年11月17日
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5 新しい女性論の試み これは、私一個人の単なる持論にしか過ぎませんが、ニッポンという国柄は、ひとえに女性たちの智恵と努力によって保たれてきたのではないか、と思うのです。 太古の天照大御神然り、邪馬台国の卑弥呼また然り、平安時代の藤原氏は、娘を天皇に嫁がせ天皇の跡継ぎを生ませると言う巧妙なアイディアで政治の実権を手中に収めましたね、ご存知のように。 私は仕事がら日本中の各地を訪れましたが、いずれの土地でも「甲斐性なし亭主と、カカア天下」と言う言葉が今の世に生きていました。ですから、女性の力が大昔から今日まで、庶民の生活を支えていたのではないかと想像できます。武力という主として筋力に物を言わせる武士の世界でも、同様の事が言えるのではないでしょうか……。表向きは、男社会のように見せかけながら、上手く男達を掌の上で踊らせる。実のところ、裏で密かに実権を握っていたのは、賢い女性たちだったのではありますまいか。 この様に考えてきますと、以前の一時期に流行語のように繰り返し言われた「戦後強くなったのは、靴下と女性」なる言葉が疑わしくさえ感じられます、本当に。この言葉をもじって「戦後弱くなったのは、実は女性と、家族の絆」、そんな風に言いたくもなりますね。その上、裏側から支えていた女性の力が全体的に弱くなったせいで、男達もとうとう馬脚をあわす仕儀に立ち至った、と。 男女共同参画時代の到来―、まことに結構なことで、ご同慶に耐えません。が、上述の様に日本社会の歴史的な変遷をたどってきた者としては何か物足りなく、なおかつ不満が少なからず残りますよ。 そこで、新しい提案があります。すぐさま猛烈な反対や、抗議の野次がフェミニストや常に女性の側に立って論陣を張ってきたと自称する方々の口から、飛んできそうですが、敢て申し述べたいと考えます。はい。 何か持って回った、変な口の利き方になってしまいましたが、それほど、一見しただけでは時代錯誤も甚だしい暴論に聞こえるかも知れないとの思いが、つい先立ってしまったのでした、実は。 それは、家事をもう一遍、新しい視点から見直してみたらどうかという事。なんだ、そんなことか、とガッカリされたかも知れませんがもう少しお付き合いと、ご辛抱を御願い致したい、どうか、どうか。
2012年11月15日
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閑話休題 その一 この辺で話題と、切り口を変えて、チェインヂィング・ペースを致します。堅苦しい話ばかりが続いて、読者が退屈を感じ始めているのではないか、という思いがふと私の頭の片隅をよぎりましたので、少し話題を変えてみようと考えました。 以前、新聞の人生相談で、年頃の娘を持つ母親の例が載っていました。高校生の娘にはボーイ・フレンドがいて、頻繁に家に連れてくる。娘とボーイ・フレンドとはすぐに娘の部屋に入ってしまう。母親としてはとても心配心配なのだが、理解の無い親だと娘達から思われたりしないかと心配なので、自分の気持ちを正直に言葉に出来ない。どうしたら良いのか分からないので相談した。なお、投書する前に夫にも相談したが自分同様に良く分からないとのこと。 その時の回答者がどんな内容で答えていたかは、まるで記憶に無いのですが私は強い怒りにも似た感情がこみ上げて、印象に残ったのです。自分の子供から「理解の無い親」と思われることが何故いけないのですか。自分の可愛い娘だからこそ、正直に親としての気持ちを二人に言い聞かせ密室に年頃の男女がふたりきりになるのは許されない事だ。何故そう直ちに宣言できないのですか。それは自分の娘や交際相手の青年を信頼するとかしないとかの問題とは、全く別次元の話ですね。 この種の「親世代の自信の無さ」に関する話題が、私にはとても気懸りなのですが、もう一つ、別の事例をお話しましょう。これも一人の若い母親のケースです。自分の娘ではないが、母親同士の会話で、あくまでも一般論としてだが、中学生の女子から「なぜ援助交際をしてはいけないの。誰にも迷惑が掛からないし、本人が納得していれば別にいいんじゃないの」と質問されたとしたら、どう答えたらよいのか困る。ほかのお母さん達も返答に窮している、というもの。 ダメなものはダメと言下に答えればすむものを、なまじ物分りの良い親や大人を演じたい。そう思わせなければイケナイと勝手に思い込んでいるばかりに、未熟な中学生に、もしかしたら「この屁理屈」は正論なのかも、というイラナイ疑念を抱かせてしまうのですね。 この後は、蛇足なのですが、念のために付け加えておきます。と言いますのも、或る酒席の場での会話の折に、この話を持ち出したところ相手が恐縮したような面持ちで、しかも大層大真面目な態度で、「ところで、そのような質問を中学生から受けた場合、大人としてはどの様に答えたらよいのでしょう」と訊かれましたので、私は次のように答えました。本当はダメなものはダメなのだ、理屈も糸瓜もいらないのだとでも応じておけば良いのだが、どうしても筋道だった「理論」が欲しいと言うのなら、人類は長い時間をかけて、他者からの隷属状態強制の圧迫から逃れようと命懸けの闘いを続けてきたし、今も、その戦いは完了していない。現代社会は自由なる市民を前提として成り立っているので隷属状態にある 奴隷 は人間ではない。とするのが暗黙の了解事項。また。お金と引き換えに自分の身体を売るのは、売春と呼ばれ、その女性は売春婦たる奴隷である。現代のどの様な憲法も法律も、自ら進んで、しかも喜んで奴隷の立場に身を置こうという人間の存在を、全く、頭から想定さえしていない……。いやはや、我ながらまことに野暮な駄弁を弄したものだと、思い出しただけで冷や汗がでます。 私の真意は、小難しい理屈や、理論を振りかざす事には無くて、世の中には理屈抜きで親から子へ、子から孫へと大切に伝えていかなければならない事柄が、沢山あるのではないか。と言う、一事なのです。たとえ他人からは批判や中傷を受けようが、自分達は、自分はこういう考えで、あるいは信念で生きているし、生きて行きたいのだ。と、堂々と胸を張って生きること。そのことこそ一番の、生きる上での証(あかし)なのではないかということです、それだけ。 何処の国の、どんな国民・民族・部族であっても、そんな風に生きてきたしこれからもそんな風に生きていくでしょう。それでよいし、またそれ以外に人間の生き方はない筈ですが、如何?
2012年11月11日
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4 にも拘わらず……。 いじめ、引きこもり、交通戦争、多発する暴力事件、ニート、ホームレス、ワーキング・プア、教師の犯罪、公務員の腐敗・堕落、低年齢化する青少年による犯罪、忍び寄るテロの脅威、地球規模の環境破壊、核兵器拡散の危険、etc.。アット・ランダムに列挙したに過ぎませんが、なんとまあ空恐ろしい世の中に、私達は生きることを余儀なくされているのでしょう……。「にも拘らず」です。問題はここから始まるのです!私たち現代に生きる者、そして次の社会を担っていく、まだこの世に生を享けていない子供や、孫、ひ孫たちにとっても、この現在の厳しすぎる現実を避けて通るわけにはいきません。 前の章で取り上げた「一切唯心造」と説く、仏教の教えによればこうした現実は誰でもない、私たち人間がそう望んだからこそ、先人達を含む現在を生きるみんなが望んだからこそ、その結果として現出している現象なのですよ。 そんなバカなことはない。俺は、わたしは、そんな事を望んだり願ったりしたことは一度だって無い。そんな声があちらからも、こちらからも聞こえてきそうですね。 もし、ご自分の内部から少しでもそれに類した声が立ち上がって来るのを感じた人がいたならば、その方には、人間について、歴史について、人間の生き方について、もっともっと勉強される事を、お勧めいたします。そして、当面は読み始められた本書を、熟読玩味されることを、衷心よりお願い致します、本当に。 ところで、話を本題の方に戻しましょう。私たちは人類史上でも稀に見る大変な時代を生きているのですが、だからと言って、そんな時代や社会に全ての責任を押し付けて、自分の生き方を歪めてはいけない。まして自殺するなど、もってのほかの心得違い。そう御承知置き下さい。 ロシアの文豪・ドストエフスキーの作品の中に、自殺こそ人間に残された最後の自由だと考えて、その考えを実行に移す人物が、グロテスクに、また異様な迫力をもって描かれていますが、作者はその様な人物を生き生きと描写することを通して、自分の心の内部に巣食っていた不健康な衝動を、完全否定することに見事に成功したのであります、実際。 私たちが幸福に、自由に、生き生きとは生きられない理由や原因は社会の中に、現実のあちこちに、それこそ山のようにみつけられるでしょう。しかし、しかし……です。 私が声を大にして、何度でも、何度でも、繰り返し申し上げたいのは、「にもかかわらず」という一言、なのであります。私たちには、最初に述べたように「幸せ」に生きなければならない「天」に対する人間としての大切な努め・義務があるのですから。如何でしょう?
2012年11月09日
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3 いま日本の社会では……。 テレビや新聞などの報道によりますと、実に驚くべき現代社会の実相が浮かび上がって参ります。毎日のように、人間不信を増幅させるような企業の不正が、また凄惨極まる流血事件が、金銭にからむ目をおおいたくなる酔うな残忍凶悪な事件が、と一つ一つ数え上げていたらきりが無いほどの荒廃のきわみにあります。 人の目につかなかっただけで、今の世に起こっているような事は何時の時代でもあったのさ。と、人間通・世間通ぶった、したり顔のニヒリストさんがどこかで嘯く声が聞こえてきそうですね。しかし、それにしても、現代の日本社会は過酷過ぎるとは思いませんか。D.H.ローレンスはその有名な小説の冒頭で、現代は本質的に悲劇的な時代だから、人々は今を悲劇的と見ようとしない、と言うような事を述べていますが、けだし名言だと言わなければならないでしょう。今を生きる私たちにとって、厳しすぎる現実から眼を逸らさず過酷な実相を直視し続けることは、まことに辛い事です。しかし、どこかの国の何処かの国民のように、例えば、旧約聖書に引用されているソドムとゴモラですが、悲惨な現実が存在しないかのように、社会から眼を背けて、自分達だけの狭い世界に引きこもって刹那的な快楽に溺れ、逃避するような振舞いだけは断じて許されないことなのですね。断じて。
2012年11月07日
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第一部 幸せについて2 一切唯心造(心が全てを作る) 埼玉県の草加市役所のすぐ近くに、小さなお寺がありますがその墓地に建てられている卒塔婆には「一切唯心造」と書かれています。木の卒塔婆には普通、梵字(古代インドの文章語であるサンスクリット)で書かれていますので、専門家でもない限り、内容や意味まで踏み込んで行くことはありません。 私・草加の爺は、犬の散歩などの折に、時々この文句を目にしますので、自然と内容について自分なりの考えを、追い求めていくことになりました。 一切は、ただ心が作る、と読むのでしょう。一切とは文字通り森羅万象、全宇宙に存在する、全てのもの、あらゆる事柄を指すのでしょうが、ここでは、「幸せ」との関連で話を進めたいと思うので、人間の苦しみや喜びといった喜怒哀楽の全ての感情と、限定しておきます。 私達は日頃、悩んだり苦しんだり、或いは喜んだり、人を憎んだり愛したりして生活しているわけですが、そのすべての感情はことごとく私たち自身の心がつくりだしたものだ、とこの言葉は主張しているのですね。 当たり前のことだ、と簡単にすまさずに、もう少し考えを深めてみたいのです。 仏教の方では、色即是空・空即是色、つまり、我々の住むこの世界は実体のない世界であり、実体のない世界は取りも直さず、我々の住むこの世界に他ならない、と説きます。と言う事は、私達はどんなに足掻いてもこの実体の無い世界、空虚な世界からは抜け出せない、ということになります。 しかも、この世界は「無常」、つまり、常に変化して止みませんね。 この常に変化して止まないものの一番の代表が、私たちの心だということです。 結論から先に言ってしまえば、私たちの幸福も不幸も、私たちの心の持ち方次第だということになりますよ。しかし、私たちの心は自分の心でありながら、決して私たちの思うようにはなりません。ここに大きな問題が存在しているのです。そしてこの本の中心テーマも、勿論この点にあります。
2012年11月03日
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