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最初のうちは、「学」というほど大袈裟な物でなくても幸福に関する研究でよいのですが、昨今は何々学と言うのが大流行のようですので、時流に乗り遅れてばかりいる私・草加の爺も一寸だけ真似してみようという気になったのです。CDA(キャリアカウンセラー)の資格をとってから、仲間と勉強会に参加して勉強を続けてはおりますが、兎に角この道の専門家ではありませんので自分なりの、つまり素人としての「キャリア論」のようなものをいつか纏めてみたいと腹案を練ってもいたのです。今日になって、ふとああそうか、無理にキャリアに焦点を合わせなくとも、FYC流の人生論というか、人生研究の一試案の様なものでも良いのか、とはたと思い至った次第。つまりそれがタイトルに掲げた「幸福論」乃至「幸福研究」の勧め、ということになるのですね。現代は癒しとか和みとか、とにかく様々なストレスからの開放(― というよりは生きる努力からの一時的な逃避願望)が大きな関心事になっているようですから各自が銘々の幸福獲得法について研究し、実践する必要性が大いにある訳。例えば、今再び大きな問題とされマスコミなどで話題となっている学校での虐めの問題。「私共の学校には虐めは存在しません」とか「虐めかどうかの判定が難しい」、「虐めを証明するのは至難」とか様々に言われる。いちいちご尤もな発言のように聞こえる。そこに欠落しているのは当事者意識である、責任感の欠如。DV(家庭内暴力)にしても、相対的な弱者が何時の場合でも被害者になって、その殆どが弱者の側の「泣き寝入り」に終わっている。人間が複数いれば、そこには必ず権力や力の強弱が生まれ圧倒的強者でない者は、陰に籠ったマイナスの権力誇示行動、つまり弱者虐めをする。これは紛れもない人間性の一面です。虐めは時と場所を選ばず、年齢の如何にかかわらず必ず発生する。少なくとも大前提として、その様な認識が先ず必要なのですよ。人間社会から暴力や、大小の戦争行為が絶対なくならないことと無関係ではない。根本的にそういう人間認識がない綺麗ごとの幸福論は、何の役にも立たないでしょう。識者や世のエリートたちによる平和論や平和へ向けての行動が「無力」に見える原因なのですが。それでは、弱者である個人の立場から、例えば「虐め問題」に如何対処したらよいのか。難しい問題ですが、この世に絶対的な強者が存在しない以上個人としては自分が弱者の立場に立った場合の、対処法について様々に考え、工夫を重ねる必要が、常時あるのですね、残念ながら。そして絶対的な処方箋もありえない。となると、あらゆる状況下で「うたれ強い」人間などいないのですから、36計逃げるに如かずと古人は教えていますからさっとばかり逃げ出す「脚力」を備えておくことが、何よりも有効なのかも。難解な事態に対しては常に、絶対的対処法がない以上、様々な解決策を模索する不断の努力が欠かせない。何とも生き辛い世の中ではありますが絶望するには、及びませんよ。苦労や苦しみを楽しみや、幸福に変える術を、神や天は私たちに与えていて下さる。要は個人の心がけと、努力次第と言う事になりますが、大人も子供も等しく日常生活の中で自分自身を鍛え上げる心構えが必須なのでしょうね、如何しても……。天は自ら助くる者を助く、なのですし、それなりの幸福の代償は金銭ではなく別個の方法で支払わなければならないようですよ。
2012年08月28日
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今回は、私たちが一番に信奉している民主主義のその根幹を成している、多数決の原理について考察してみたい。ご承知のように、多数が叡智を尽くして議論した果てに結論を出さなければならない時には、多数決によって決める。非常に合理的な制度・原理であって、文句の付けようがない。一見してそう思われ、現にその様に私達は行動してきている。現実が、実際が全て上手く行っていれば、目出度し目出度しで何ら問題はない。しかし、しかしです。本当に私たちの政治は経済は、理想の方向に向かって「進歩」の一途を辿っているのでしょうか。多分、大多数の人が否と答える。ちっとも良くはなっていない。それどころか、逆に益々悪くさえなっている。いったい何故か?現実と言うものが複雑すぎるから。なるほど、そうかも知れない……。人間の叡智などと言っても高が知れていて限界があるから。ええ、ええご尤もですね。しかし、原理そのものに何か欠陥の様なものはないでしょうか。つまり、多数は必ずしも正しいとは限らない。少数が一番正しい場合だって可能性としてはあり得る。あるいは、認識されていない、所謂「想定外」の事態があるのに、誰もそれを口にしない。議論に持ち出さない。たとえば本当のことを言えば、パニックがおきるおそれがあるから。などといった私たちがつい最近身に染みて体験した痛切な悲劇もある。一体どうしたらよいのか?政治や、経済の問題は待ったなしで決断を迫ってきて、私たちの生活に直接的に大きな影響を及ぼさずには置かない。仮令、間違った選択であり決断であっても、一瞬一瞬で「勝負」をつけなければならない重要事項ばかり。どうしたら良いのか……。古代ギリシャの賢人は教える。ソフィスト達による説得する術と真理や善、正義を探求する哲学とは本質的に違っていると。ソフィストとは現代の政治指導者や、知的エリートを自称する人々を意味します、私たちに最も必要な努めが、現代では余りにも疎かにされ過ぎていないでしょうかね。人々は今こそ、襟を正して人としての正しい道を真剣に模索すべきで他人を説得する事だけに情熱を注ぐのを、一時的にでもストップすべきなのではありますまいか……。年配者の一人として心配で堪りません。そういえば中国古代の賢人・孔子は当時の権力者からは遂に真価を認められずに、その生涯を終えています。つまり、時の少数者が後代に、他国に多大な影響を与え続けているのにも拘らず、ですよ。少なくとも若者は、根本的な重要な問題からじっくりと取り組む姿勢を身に付けることを、心掛けてもらいたい。そう心の底から念じないでいられない今日この頃です、はい。よく民主主義は愚集政治に堕し易いと言われる。そしてまた一人に権力が集中すれば、最悪の独裁者を作り出すのが落ち、と言う事になりかねない。本当にこの世の中は複雑で、未来の事が予測不能。でも、私達は嫌でも前に歩を進めないわけには行かない。どうするか。伝家の宝刀の様な切れ味鋭い太刀で、複雑にして怪奇な現実を快刀乱麻と処理してみたい。さぞかし胸がすっきりとする事だろう。そう誰しも考えるのですが、そうは問屋が卸してはくれない。じっくりと腰をすえて時には、開かない天の岩戸の前で八百万の神々が飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎをしたように、現実を忘れたかのような無為の時間を共有するのも、一方かも。わが国は古来から「神ながらの国柄」と言われております。ベストを尽くしたあとつまり、人事を尽くした後で天の御加護を待つ、といった謙虚さも必要かも知れませんよ。断固たる行動と、結果に対する真摯な反省とが、同時に必要となるのではないでしょうかね。着実に、慌てずに、地に足を着けて、一歩又一歩と前進するのが人間の務めなのかも。兎に角、目の前の事態から目を逸らさず、真正面から受け止めてこれに対処する覚悟が大切です、本当に。
2012年08月26日
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何だか謎々の様なタイトルになりました。今回は自分、自己と言うものが如何に厄介な代物かと言う問題を少し考えて見ます。自分は頭が悪い、だから「何々する事は無理な注文だ」。私は70歳に近い年寄りだ、したがって「これこれの事は土台高嶺の花。潔く諦めるのが賢明と言うもの」。小生は元来が三日坊主で、根気よく一つの事を続けるのは不可能。あれもしたい、これも試してみたいと、心の中で思ってみるだけで、何も手に付かない……。以上の様に、私・草加の爺を材料にして、サンプルを提示してみましたが、誰しも大同小異、似たような傾向がおありだと思いますがいかがでしょう。私が今回問題にしたいことは自分自身にとって、他人や、環境や、社会などと言った様々な条件が私たちの意欲を殺いだり、邪魔したりと、大きな可能性を育てる為の障害になっていると、普通には考えられているのですが、それに異を唱えるのが主要なテーマであります。実は、私たちを狭い枠の中に閉じ込めて自由に、また伸び伸びと行動させない一番の制約が、実は自分自身なのだが私たちの殆どがその事実に気付いていない。あるいは、気付こうとする努力を怠っている。以前に私は、私たちのこのような心の状態を「精神的な習慣病」の典型例として取り上げた事がある。出来ない理由として私たちが列挙する諸事情こそ、取りも直さず、可能であり出来る根拠となり得る理由なのです。ただ、面倒だったり、迂闊だったり、視野が狭かったり色々な理由で、「より楽な」根拠を、出来ない、ないし困難な根拠として妄信しているだけ。本当に、それだけの事。私達は子供の頃、色々な夢や希望や望みをたくさん胸に抱いていましたが、歳月と共にそれらは儚い泡のように跡形もなく消え去って行く。それは仕方のないことと、力なく諦めているお人好のあなた、諦めるのは早計に過ぎませんか?根拠が薄弱すぎてはいませんか。もう一度、初心に返って、無邪気に、脳天気に猪突猛進してみようではありませんか。案外、案ずるより産むが易しということだってあるのですから。自身の限りない可能性に過大に期待して、頑張ってみて下さい。開け胡麻!の呪文で、開かない筈の扉が、易々と開く時だってあるのですから。
2012年08月18日
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不信心者の私も息子と一緒にお墓参りをして来ました。そこで、夏と言う時節柄「お化けや幽霊」のことが自然に頭に浮かぶのですが、昨今では怪談話がとんと下火のようでして周囲でそのような話題を耳にする機会がめっきり減ったように感じているのは私だけでしょうか。お盆とは盂蘭盆、つまり陰暦の7月15日にする仏教の行事。色々な食べ物を盆に供えて、冥途における祖先の苦を救おうとするものなのですが、日本に土着の祖先崇拝の習俗と仏教思想とが交じり合った形で今日まで伝えられてきており、年間の重大行事の一つで、今日明日はお盆休みを故郷で過ごした帰省客のUターンラッシュのピーク。大昔には死者の霊には善悪両方の性質を持った霊魂が存在すると考えられ善いほうの祖先の霊に対して、非業の死を遂げ恨みを呑んで死んでいった悪霊との、大別して二つの霊が対比的に考えられていた。生霊とか死霊とかの言葉があるように、肉体を離れて魂が勝手に動き回る不思議が深く信じられてもいた。特に恐ろしいのは、所謂「怨霊」で、疫病や恐ろしい天災等はその祟りと考えられ、時の支配者・権力者に大きな恐怖感を与え続けてきてもいる。権力者でない非力な庶民でも、生きている間には意識するしないに拘わらず他人を傷つけ、或いは死に追いやる原因を作っているかも知れず、誰からも恨みを買っていないと断言できる人間は、おそらく皆無であろうと思われる。であるとすると、今日のようにお化け等と言う非科学的な迷信を頭から受け付けない現代人は、人間が宿命的に抱え込んでいる「悪業」などとは全くの無縁な存在に「進化」した結果の素晴らしい、また喜ばしい限りの在り様なのでしょうね、如何。手放しで喜んでいるあなた、心に疚しいところはこれっぽっちも無い。そう無邪気に断言できますか、本当に。私たちが今日あるのは、有難いご先祖さまたちのお陰である。と同時に、不運にして非業の最期を遂げた幾多の「優秀な魂」の余りにも悲しい死の「恩恵」も、同時に蒙っていることにも、深く思いを致さなければならない。私・草加の爺は心の底からそのように考える次第なのでありますが、皆様方の忌憚のないご意見をお聞かせ下さい、是非とも。お待ちしております。
2012年08月14日
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以前にも、雑草について書いた事がありますが今回はもう少し別の角度から書いてみたい。「雑草とは何か?」辞書によると、「農作物・庭木・草花に対して、自然に生える邪魔な草。名前の良く分からない、雑多な草」を言う。結論からいいますと本質的に「邪魔な、或いは、雑多な草」と言う物は自然界には存在しない。人間を形容して、「雑草のように逞しく、踏まれても抜かれても不屈の生命力で、生き残る」などと言ったりしますが、「余りにも人の手に頼りすぎて、人工的に洗練の度を極めている価値ある草花」が兎角脆弱すぎるのに比べて、雑草の生命力の強さが着目される。イエスは言った。栄華を極めたソロモン王ですら、野の百合が身に纏う事を許された豪華な衣装を身に着けたことはない、と。けだし、名言ですが、何故そうなのか?皆さん御自身で先ずは篤とお考え下さい。如何でしょう……。そうです、小賢しい人智等と言うものには余りにも制限された枠があって広大無辺な神の「企み」には遥かに及ばないからですね。人智の限りを尽くす。人間に生まれたからには、そうせざるを得ない。しかし、しかし……。とても絶対者たる神の力には及びもつかない、どんなに足掻いても。そう、雑草のお話しでした。神の目からは、雑草などどこにも無い。全てがご自分のみ手になった愛しい被造物なのだから。どれもこれも、一点非の打ち所も無い完璧な傑作揃い。他人事ではありません。あなた御自身の事を言っているのです、どうですか。今はロンドンオリンピックが当に佳境に入っている。連日、世界を代表するトップアスリート達が素晴らしい技を、ファイティング・スピリッツを競い合って観衆を熱狂させていますが、彼らばかりが偉人なのではありませんよ。平凡な巷の庶民である私たちが、人生という「競技場の英雄」なのですからね。広大な宇宙のオンリー・ワンの存在。そういう自覚を覚醒させて、生き難い娑婆でのひと時を、エンジョイしようではありませんか、ご同輩。
2012年08月03日
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