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第一部 幸せについて 1 タイトルの説明 自分はバカだし、何の取柄も無いからダメだ、と言う人がいたら私はその人に向ってこう言いたい。あなたのその「バカさこそがあなたの貴重な資本だし、資源だ。その馬鹿さを磨いて、幸せにつなげよう!」と。あいつは馬鹿は馬鹿でも、ただの馬鹿じゃないよ。そう他人から言われるようになったら、それはもう立派な生き方ですから。もう一つ、「幸せ」が義務だなんておかしい。「幸せ」という権利なら、文化国家の日本のことだから憲法か何かで保障されていても、少しも不思議ではない。そんな風にお考えの向きも、或いは居られるかも知れません。 「しあわせ」とは「為合はせ」「仕合はせ」と書き、上手く合うようにすること、めぐり合わせる事。運。善悪いずれについても言い、特に幸運だけを意味するように後に変化した言葉です。 ところで、一体何と「上手く合う」ようにすることと、大昔の人々は考えたのでしょうか。ここからは私流の解釈になりますが、人知を超えた大きな存在、神とか、天とか漠然と呼んでいた存在者の意向、つまり、天の配剤などという表現が端的に表わしているものとです。それでは、「天の配剤」とは一体全体どういう意味でしょうか。辞書によれば「とても・偶然(人間業)とは思われないほど、世の中や運命がうまく出来ていること」ですね。この人知を遥かに超えた天のはからいに、上手く合致するようにと、当時のひとびとは考えた。「天のはからい」と合った生き方が、幸運な生き方で、「天の計らい」とミスマッチしたそれが不運と呼ばれたのですよ。この場合、幸・不幸の分かれ目は、人間の側の生き方にあって、天の方にはないことに注目して下さい。つまり、昔の人々の考えの中では、天の意向の中に広大無辺の、絶対的な善意のみを見て、微塵も悪意、或いは、邪まな計らいというものを想定していないこと。もう、お解かりになって戴けたでしょうか。私たちが幸せに生きるということは、天のはからいに添う様に生きるということです。それはつまり、この世に生をうけた者が等しく実践しなければならない唯一の義務の名にあたいする、従って、義務中の義務なのですね。
2012年10月27日
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私の本当に言いたいこと、主張したい事は「ぼやく」事ではなく、励ますこと、またエールを送る事であります。そこで、これから暫くは本にして出版するつもりで書いた原稿を掲載するつもりです。貧乏人ですので大金を出して自費出版するだけのゆとりがありません。もし、気に入っていただける内容でしたら、ご自分で印刷してみて下さい。そんなに酷い文章とも思っておりませんので。本のタイトル:バカを磨け!― 『幸せという義務』 ―著者:最強のハッピーライフ請負人こと、草加の爺 まえがき 何故、私の様なズブの素人が一冊の本という形で、自分自身の考えを広く世間一般に発表しようと思い立ったのか?それはこの本を最後まで読んでいただければ、ご納得いただける筈なのですが、ここでは極手短にお話しします。 私は人生の半分以上をテレビドラマのプロデューサーとして、様々な職種・階層の人々、それも子供から大人まで、男女を問わず、大勢の方々と接してきました。そして現在は高校の講師として(*平成24年10月現在で69歳ですから、今は定年で辞めています)、また学習塾の一講師として毎日を生徒たち、つまり小学生から高校生、そして同僚講師である大学生や大学院生の皆さんと一緒に過ごしています。かつて私は、ある仲のよい脚本家に「自分は物書きではないが、ジャーナリストの端くれとして、人生という戦場の従軍記者のような心構えで、毎日を生きている」と発言して、「お前って奴は、面白いことを言うな」と呆れられたりした経験があります。つまり、私はその脚本家にこう言いたかったのです。私はあなたと同様に、今自分の人生を一日一日を、真剣に生きているのだと。私達はどう生きたところで、いい加減には自分自身の一回限りの人生を生きるわけにはいかない。自分は自分流の、はたから見れば滑稽だったり、ばかばかしく見えるかも知れないが、自分なりに一所懸命に全力を挙げて生きているのだ、という思いを吐露したに過ぎません。実に生き辛い、また大変な時代を真剣・懸命に生きている、現代にっぽんの同時代人に向けて、心から元気が涌くような応援の言葉を、わかり易いエールのメッセージを、どうにかして届けたいものだ。そうした心の底からの切なる強い願いが、この拙い文章を書かせた原動力だと、取敢えずご承知置き下さい。 (以上、まえがき部分終り) 次回以降に続く連載となりますが、今まで同様ご愛読下さいます様に衷心よりお願い申し上げます。
2012年10月24日
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最近、頻りと夢を見ます。というよりは、見ている夢の断片が、夢から醒めた後に残っていて、何故あのような「バカバカしい」夢を見たのだろう、と首をかしげる事が多い、と言ったほうが正確な表現になるのですが。現実生活のあれやこれやについて、色々・様々な解釈が可能なように、夢にも色々な解釈が可能ですが、無意識の片隅に追いやられて「未解決」乃至「不完全処理」扱いされていた諸々の事柄が、夢の中で「必要な」解決を与えられているのだ、と合理的には一応考えられるのですが、考えれば、考えるほど不可解で馬鹿げた内容が、私の場合には多いのです。最近の一例をお話してみますと以下の様です。夢の中で、私は何故か39歳であって、相撲の横綱に勝負で勝ってしまう。相撲界の、プロの横綱に勝負で買ってしまったからにはもうアマチュアのままではいられない。もうプロの世界に入るしかない。と夢の中の私は考えるのです。しかし、それにしても十代ならいざ知らず39歳にもなった今では、常識的に考えて、あまりにも齢をとり過ぎている。格闘技の中でも、最高度に激しく、それこそ裸一環で勝負する相撲。そして、私は自分が実際には39歳ではなく、69歳を過ぎた老人であることに思い至り、愕然とするのであります。しかし、と夢の中で私は思う。こうなったら、いくら常識から外れているとは言え相撲界にデビューするしか仕方が無いのではないか、と。そこまでで、このバカバカしい夢は途切れてしまう。そして、現実の私はその夢のあまりのバカバカしい内容に、しばし呆然とし、何故あのような夢を自分が見たのだろうと、いつもなら少しは考えてみたりするのですが、それすらする気にならないのでした。以上、最近の現実に見た夢と、それに対する私の反応とを、手短に述べてみました。翻って、実人生について考えて見た場合にも、私の実人生は、少なくとも端から眺めてみた場合にはこの夢の内容と同様に、「真にバカバカしく」合理性や一貫性に欠けるそれでありましょう、恐らくは。しかしながら、私にはそれ以外に生き様が無かった。結果的には。それで、私は自分の人生を振り返って全肯定する事にしています。他人の見方や、判断は余り当てにはしないことにしています。自分自身の「内的な真実」を大切にしよう。これでよかったと、支持してあげよう。そう、思い込んでいます。夢は、客観的には、或いは合理的には、心理的なバランスを取る為に必要な、巧みな補償行為なのであるでしょうが、その様な解釈や判断を超えて、わたしたちの人生の、行動・思考の大切な一部なのだと素直に受け止めておけばよいようです。少なくとも、クヨクヨと思い悩むよりは人生にとっては遥かにプラスになることでしょう。必要だか見る夢。解釈などは無理にする必要はないのですね、本当は。完全燃焼を目指して、今日を前向きに生きようではありませんか。如何ですか……。
2012年10月20日
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先日、急逝された知人のお通夜に参列し11年前に築地の聖路加病院のホスピスで息を引き取った妹の葬儀以来、初めての黒いネクタイを使用しました。考えてみると私たちの存在は生まれた瞬間から、死と隣り合わせで生きている。と言うより、死という深い神秘の闇にすっぽりと包まれて、まるで死という大海の中を漂う本当にちっぽけな泡粒のように、儚く、頼りなく寄る辺無く存在しているわけです。それを、殆どの人が普段は自覚せずそんな存在だと言う事を全く忘却してしまったかのように、毎日をあたふたと、せわしなく、何かに憑かれたかの如く生きている。何時如何なる場合でも、死は前触れもなく、突然に私たちを襲ってくるかの様に感じられはしますが、実は生そのものが死によって囲まれ、それ故に瞬間瞬間を、死と戦っていると見ることも可能ですね。自覚はしていなくとも生きている以上は、誰しも常に無自覚のうちに死を恐れ、迫り来る死の「魔手」から逃れようと抵抗している。そう考える事も出来る。しかし反面では、死は救いである。そう積極的に、肯定的に理解することも許される。そう、医師から緊急に手術しなければ半年の命と宣告され、その手術を自らの意志で拒否し、その後五年間生きながらえた妹にとっては、全身にガンが転移し末期癌の激痛と四六時中戦い続けていた、死直前の妹にとっては正にその「突然の」死は救いそのものでした。いや、妹は死の間際まで生き続ける、ホスピスから普通の健康体に戻って生還すると、心に決めていた本人にとっては、まことに残念な「無念の」死であったかもしれない。しかし、兄であり、肉親である私にとっては、医師から癌の全身転移を知らされ、現在の医療では手の施し様が無いと説明されていた者にとっては一種の慰めであり、救いでもあった、確かに。かくして、生は死によってシッカリと保証されている。こんなに確かな事はない。だから私達は安んじて「死を忘却し」、余分・余計な煩いを排して、生の営みに専念すればよい。死のことは、神や仏と言った「絶対者」に委ねきって安心して、死後の事など一切念頭から振り払っていてよい。それが有難い事に私たちに許されている生のあり方なのですよ。今を完全燃焼させればよい。余計な、自分達にはどうしようもない分野には、思い悩んでも手の施し様がない、神聖な領域には立ち入らない、断じて。何故なら神聖な場所には、そこを管理し宰領されている支配者が厳然として存在するのだから。人間の分際を良く弁え、驕り昂ぶることなく、全幅の信頼を寄せればよい。それによって、私達は生かされ、又祝福されても居るのだから。どうですか?無駄な煩悩は、あなたの身内から綺麗さっぱりと消え去りましたか……。死は恐ろしくも、忌み嫌うものでもありません。死は真の意味の救いであり慰安であり、安住の場所なのですからね、その真実の実相自体は!如何ですか?では何故死者との別れを悼み、悲しみ、滂沱の涙を流すのか?ですって。それが我々の、人間の仕事であり、本当の務め、この世での生きている証、生きている確かな証明、となるからですよ、きっと。涙と言えば、最近、私・草加の爺はめっきり涙脆くなりました。何でもないことにさえ予期せずに「不覚」の涙を流す。不甲斐ない、意識はそう感じるのですが無意識はきっとそれを自然に要求しているのでしょう。体・肉体が傷ついた時に血を流すように、心も涙を催す事で悲しみの「傷」を癒そうとするのでしょうか。先日の葬儀でも、夫に先立たれた奥様のご挨拶の言葉を耳にした瞬間思わず涙が零れていました。それまでは知人の死が実感出来ずに呆然としていたのですが。死に対しても、明るく、積極的で前向きな解釈を施してみましたが、何かご異見等ありましたら、お聞かせ下さい。お願い致します。
2012年10月10日
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