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改めて申すまでもないことなのですが、部分と全体の関係は相互に相互を補完するような、そういう 持ちつ、もたれつ の間柄でありますね。 部分が今まで以上に充実し、輝きを増すとすれば、それだけ一層全体は内容を充実させ、これまで以上に光り輝くでありましょう。当然の事でありますよ。ですから、個人の立場からすれば持っている全てを傾注して、努力し、勉強し、発展し、休息し、英気を養い、周囲と協調し、自己研鑽を積み、見聞を広め、そしてまた反省に反省を重ね、更なる努力と勉強を続ける…。こうして、営々と積み重ねられて来た 成果 が今日の、現状のありのままの姿であり、良くも悪くも現実を形作っているわけでありますから、そしてまた、個人の一生と申しましてもたかだか百年にも満たないのが普通でありますから、襟を正し、姿勢を正しく保ってベストを尽くすべく全力を傾注しなければいけないでしょう。いや、そうありたいものでありますね。お互いに。 逆もまた 然り でありますね、当然。しかし、実際問題としては一個の部分からは全体像が把握出来にくいというのが、大部分のケースでありましょうから、例えば一人の人間として 全体 との調和を図るという仕事は言うべくして、それほど簡単な事ではありません、本当に。同じ地球上に生存しているとは言え、それぞれの置かれている立場によって、全く別個の宇宙空間に生息しているような塩梅でありますから。国や地域が違えば、お互いエイリアン同士と考えたほうがより適切である場合が殆どでしょうね、恐らくは。理解・相互理解・自己理解などと、安易な 利己的な「理解」が幅を利かしていることが、事態をより複雑で面倒なものにしている事例が数多く見られます。以前にも強調したことがあるのですが、理解は「不可能なのだ」乃至は「絶望的なのだ」との認識が先ず何よりも大切なのでありましょう。安易な、イージーな理解との取り組みが人間社会を如何に複雑怪奇に紛糾させていることか。胸に手を当ててじっくりと考えて欲しいものです。不可能、絶望だ、と分かっている。十分に認識している。それでも、何が何でも相手を正しく理解したいのだ。少しでも。ほんの僅かでも接近したいのだ。そうした、祈りにも似た切実な願望が萌したときに、本当の理解への道が微かに開かれるのではないでしょうか、如何?
2014年11月29日
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何年か前の自分自身のブログ記事を改めて読み直したところ私は今と同じことを、常に蟹があぶくを吹くように、繰り返し申し述べていることを知りました。当たり前のようで、さにあらず、と申しましょうか……、一種感無量でありますね、実際。 さて、世の中は、当然の如く「銭、銭、銭!」と血眼になって、東奔西走を繰り返して倦む事を知らないようであります。しかし、世の中全体としては一向に良い方向に向かっている様子が見えない。誰か、一部の人間だけが 不当に得をして 大部分は、これまた理不尽にも苦痛や不幸を強いられている。世の中どこか狂っている、間違っている。根本からの 世直し が必要なのだ、云々…。 そのとおり、でありますし、又、見当違いとも言い得ましょう。つまり論の立て方が 適当ではない、とでも今は申し上げるだけに止めておき、話を先に進めさせていただきます。 得をしているのは、全体であり、損をしているとすれば、これまた全体が損をしているのでありましょう。この世は緊密に 組織された 有機体なのでありますから。そのような全体感を欠いた、損得勘定は、それこそ一種の 感情論でしかなく生産的な、あるいは積極的な意見とは見なすことが出来ないのでありますよ、実に。 経済を論じるならば、部分の利益では無く、全体の利益を正しく見積もらなければいけませんね。そこで、部分とは何、全体とはどこ、という事が正しく問題になってきますが、従来の経済論には総体的に、受益者としての全体像というものが正しく把握されていない。もしくは全く欠落している。 経済の専門家でもない私が、偉そうな新経済論を開陳して、世の中を啓蒙しようなどとは夢考えておりません。経済の恩恵を被っている一人の素人として、素朴な 実感を申し述べているにしか過ぎません。それでとても気になること、誰もが儲けのこと利潤の事しか関心がないような様子であることに、異議を申し立てたいだけなのでありますね。その場合の「儲け」や「利潤」は極めて微小な「部分」の もうけ であり、利潤なのでありますから。 地球はすでに「地球村」と化し、ボーダーレスの時代に突入しているのに、人々の意識は、全くこの新しい事態に追いつくことができないでいる。それもある意味では仕方のない事でありましょうが、それならば人類はもう少し謙虚にならなくてはならないでしょうよ、部分としても、全体としても。 そして従来型でない、新時代の 新しいリーダー を待望したいものであります、権力オンリーの War king では無く、真の叡智を備えた Sacred king を!
2014年11月16日
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少々、オーバーな物言いに聞こえるかもしれませんが、私どもが今回のプロジェクトに込めた意気込みは、人類史上でも類のない画期的なものでありますよ。― この様な表現を自らの計画に使用するのは、ある種の勇気を必要としますし、誇大妄想とのっけから拒否されてしまう恐れがありますので、私・草加の爺もこれまでは喉元まで出掛かったこの言葉を、しばしば飲み込んでブレーキをかけておりました、しかし、いずれにしましても、この様な計画に手を染め始めている現在、そして世間の皆様方のご協力を度々お願いしている以上は、どのみち「本音」を吐露せざるを得ないわけでありまして、それも遠慮などしていないで率直に申し述べたほうが、いろいろな点で好都合であることに思い当たりまして今日からは、この点を大胆率直に申し述べたいと思います。 まず 商売 ということですが、個人であれ、中小企業・大企業であれ何か仕事をして社会的な活動を始めるに際しては、儲けになるか、利益が挙げられるかどうかという点が、大きな問題点となります。当然ですね、誰だって損をしてまで「汗を流そう」とはしないからです。殊に、資本主義の現代では 利潤がどれだけ大きいかという点が最大の関心事になっていますよ。 私どもはこの現代の大潮流に 真っ向から勝負を挑もう としているのでありますね、第一に。何を猪口才な、分際を弁えないにも程がある!この、身の程知らずが…! この様な 罵声や怒声 があちこちから雨あられの如く降りかかって来そうでありますが私どもは、甘んじてそれらの非難・強烈な否定に耐える覚悟ができておりますから、少しも怯むことは御座いません。いや、それどころか、そのような頭ごなしの 叱声 に対してこそ敢えて「戦い」を挑もうと考えているのであります、はい。 では、こちらから逆にご質問致します。なぜ、銭にならない事をしてはいけないのか、と。何故に 利潤 ファースト でなければならないのか? 如何でしょうか……。 食っていけないから、ですね?誰だってそんな暇人ではないから、なのですね?しかし、それって 本当に、本当ですか? 如何ですか? あなたご自身が、ご自分の頭や、ハートで真実に考え出した 本当の答えなのでしょうか? 今度は角度を変えて、別のアプローチを試みてみましょうか。 現代の地球上を「恐竜時代の巨大恐竜のごとく」跋扈し、我が世の春を謳歌しているかに見える国際的な大企業たちは、天文学的な巨額な利潤を追求する「一大 利潤 追求マシーン」と化した感があります。これからも益々、その純粋化、巨大化に一層の拍車をかけるに相違ありません。そして、それは合法的な活動であり、誰からも 咎め を受ける筋合いは全くありませんよ。しかし、しかしであります。なにか、途轍もなく不気味であり、空恐ろしさ、さえ感じさせはしませんでしょうか、例えば、人体における「癌細胞」の暴発・暴走のような。
2014年11月15日
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以前から私・草加の爺のブログなどをお読み下さっていらっしゃる方々には、今更詳しい解説は不要なのでしょうが、最近になってお付き合いをいただくようになられた皆様にも、わかりやすくお話を進めたいと思っております。 ローカル・地方性は、セントラル・中央である特性と同義であると申し上げても成程と首肯いただけるだけの準備を、最近の 粗雑な 説明の中で、少しずつではありますが、無理のない論法で推し進めて参っておりますね。一即全、部分=全体個人イコール神 などの意味するところが、おぼろげではあっても納得の範囲に収まるような段階に近づいて来ましたので、最近の 最重要なテーマである「青森県上北郡の野辺地町を大いに売り出す」事の大義名分を明らかにしたいと考えます。 もう、くどくどと弁解がましく 特定の地域だけを大切にして、その他の場所はどうなっても構わないとでもいうのか 式の乱暴な横槍に対して不必要な弁解は、賢明なる皆様方には無用でありましょう。ひとつの限定された場所とその住人が、持てる潜在力を十全に発揮して ある種のセントラル・中央・都 に成り得るとすれば(私どもはその事を固く信じて微塵もうたがわないのでありますが)、日本全国津々浦々もまたそうなりうる。そのような、極めて単純にして明快なる考え方を、何の迷いも躊躇もなく、推し進めてまいろうとしているだけの事でありますよ、実際のところ。つまりは、全人類の 正しい意味合いにおける正義 を虚心坦懐に、また粛々と、何よりも大義の中の大義を実行するに相応しい態度と謙虚さとを合わせ持って事に臨むだけなのでありますね、はい。 建設の、それも健全にして前向きなそれは、いま地球上で猖獗を極めている破壊や殺傷の 愉快・痛快・快哉 などより遥かに 愉快であり、楽しい のだということを如実に証明したいと(― 神々のご加護によってそれは必ず成就するに違いない)心に念じているのでありました。ただそれだけのこと…。皆様方の、有形無形のご声援やご協力がこの大事業には欠かせないのであります、是非とも必要なのでありますから絶大なるご支援を賜りますよう、改めてお願い申し上げますとともに、皆様がたのご家族や友人・知人にもお声かけ賜りますよう重ねて衷心より、お願い申し上げます。情けは他人のためならず―、とはけだし名言中の名言であります。夢、お疑いのなきよう、呉呉もご注意あそばすよう、老婆心ながら蛇足を付け加えさせていただきました。現代の風潮と真逆を敢行する者の、自戒の言でもあります故他意は御座いません。
2014年11月13日
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人類全体といった場合に日本は、あるいは日本人はその一部分でありますね。当たり前のことです、申すまでも無く…。 前言と矛盾するようですが、部分と全体とは 等価 でもあるのですね、勿論、意味論的にということですが。そして、この様な論を立てる際に誰もが失念して憚らない様な顔をしているのですが、現在只今地球上に生存している人々だけを問題にしているわけでは決してありません。気の遠くなるような太古の昔から営々として生存を続けて来た、無数の先祖や先輩たちも、当然ながら仲間として加える。意識の中に大切に思い浮かべている。そう言う、人間として基本的な態度が必須であります、実際。現在の 生者 は過去の 死者たちによってしっかりと 支えられている。その事をしっかりと念頭に置いておかなければいけませんね、当然ながら。現在の我々は謂わば氷山の一角にしか過ぎない、驚くべきことに?! 死者たちは私たちを、生者をしっかりと支え、保護して下さっている。無に帰した などと本気で考えるような振る舞いは断じて許されないこと。姿なき者を我々は 無視 することはできる。或いは、無視して構わないような顔は出来るかもしれません。しかし、我々のそのような独善的な 精神の驕り は必ず、しっぺ返しを受けるに違いない。現に受けているのだが鈍感な我々が 痛みとして 感じないだけなのでしょう、残念ながら。 生は部分であり、死もまたそれだけでは部分でありますよ。生と死が一体となった時に初めて十全な意味での 全体 が現前する、そうなのです、実に! その意味で、生と死を十分に意識した 生存 は個人のものであっても、それはもう一部分ではなく、立派な全体と称すことが可能なのであります。小宇宙としての 自覚した個人 はその意味で、立派に 大宇宙 と対抗できる素晴らしい存在となりうるので敢えて 部分は全体と等価 だと強弁しても許される。いや、許すべきなのであります、はい。ケチくさい個人主義から、一直線に絶対的な絶対に直結する。それが真の意味の正しい 全体主義 と瞬時に変化する。そのような奇跡が起こりうるのですよ、時に…。
2014年11月08日
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