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疑わしきは断定せず 私自身が、ブログコミュニケーションにおいて「大切にしている“基準”」があります。その基準・作法は自分で記事を書いたりコメントをする場合に心がけるだけではなく、他者に対しても強く要求していることが、このたび強く自覚できました。 7月13日の記事『ブログでの発信責任と「批判される側」の姿勢』におけるコメントのやり取り(特に後半から最後のあたり)で実際に私自身が発している言葉「相手の意図は相手の心の問題だから断定すべきでない」がそれです。 実際、私の目から見て「その基準に抵触している(つまり他者の意図を断定している)」と思われる記事や、「断定」を根底にもって書き込まれている「強い意見・コメント」に関して、「それは問題ではないか」「配慮が必要ではないか」という意見を強く出させていただきました。 他方で「その基準」に触れない記事やコメントに関して妥当でないと思われる部分があった場合には、本人のブログ記事のコメント欄や私自身がアップする記事の中でいわば「やわらかく」指摘させて頂いています。 従って、傍から見れば「ある人には厳しくある人には甘いのではないか」と見えるのも無理からぬことだったかもしれません。 私がこのたび「意図を断定すべきではない」ということが自分の中で重要な基準となっていることを明らかにするのは、単なる「弁明」というよりも、積極的な意思を込めています。かなり考えたのですが「この基準」は単に自分自身の判断基準というよりも、ブログコミュニケーションにおいて「できるだけ多くの人が共有したほうがいいのではないか」と考えるからです。 そのように考える根拠のひとつは「立場を入れ替えてみればわかるのではないか」ということであり、もうひとつは(前者と深く関連しますが)「外から人の意思を断定しない」ということが相手の人格・さらには人権を尊重する作法なのではないか、と考えるからです。 確かに、私たちはブログコミュニケーションに限らず、常に相手の意図を想像し汲み取りながら言葉のやり取りをしています。そのことなしにはコミュニケーションは成り立たないといっても過言ではないでしょう。 しかしながら、他方で相手の体験や意思はまさに「その人自身が感じ取っている(あるいは創造する)体験であり」「外から完全に覗き込むことのできないその人自身の“心の問題”」でもあるのです。 先ほど私は「立場を入れ替えてみれば」と書かせていただきましたが、もし仮に自分自身が次のように断定されたらどうでしょうか。「人物Sは常に自己正当化と自らの考えを乱暴に押し付けることを意図しており、その目的のためには絶えず論敵の主張を歪曲しねじ曲がった屁理屈をでっち上げる」 あえて極端な場合を例示しましたが、仮に私自身が「自分の意図はそうではない」と否定しているにもかかわらず、外から「断定され」しかも「記事やコメントの形で不特定多数に向けて発信」されたとすれば憤りを感じないではいられないでしょう。 第二に、「人格や人権の尊重」という観点からこれまたやや極端な例をあげさせていただきます。 それは、警察による「容疑者」への事情聴取と情報公開についてです。 仮に、状況証拠から考えて「極めて疑わしい」と考えられる場合・事例であっても「物的証拠や“本人の自白”」も得られていない段階で「容疑は濃厚」などという情報を外部に流すとすれば、明らかに「人権侵害」として責任が問われることになります。(松本サリン事件など、じっさいにありましたが、そんな情報が流され報道されることは実に暴力的なことです。) 確かに警察の事情聴取・情報公開と「ブログでのコミュニケーション」を同列に扱えるものではないでしょう。しかしながら、現実にネット上の中傷で「人が死ぬ」という事態が起こったこと、「ブログ記事であれコメントであれ不特定多数に発信しているのだ」という事実を片時も忘れてはならないと思います。 ネットの場合、発信責任(どこまでがよくてどこからがいけないか)が新聞や書籍等の場合と比較して曖昧になりやすいからこそ、私たちはいっそう注意・自覚することが大切だと思うのです。 たとえ「極めて疑わしい」と考え「ほぼ間違いない」と確信していたとしても「本人が否定する意図(沈黙・黙秘している場合でもそうです)を「彼・彼女はこのようにもくろんでいる」と不特定多数に発信するべきでしょうか。そこには暴力的な意味はないでしょうか? 相手の人格・人権を尊重することの大切さを真っ向から否定する人はいないでしょう。しかしながら特に何らかの言説を批判する時に「意図の断定」が行われる場合があります。しかしながら、そのように「意図を断定して立論しないこと」が相手の人格・人権を尊重し相互の信頼に基づく「ブログコミュニケーションを創造していく」にあたって大切なことではないでしょうか。 この記事の一行目に書かせていただきましたが、「疑わしきは断定せず」ということを私は訴えたいのです。「批判すべきだ」と判断した場合においても、あくまで「言説の内容や言説がもつ意味」、「理論が提示されればその理論そのものの問題点」を批判すべきであると考えます。 意図そのものを対象としたい場合であっても、前後関係から「このように思われても仕方がない」といった形で表現を慎重に選ぶことが求められるのではないでしょうか。 それこそが、批判する相手の人格を尊重し「通じる言葉」を創造していくために大切な「批判の作法」であると考えるものです。 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)
2008.07.28
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日本経済新聞(7/25)より排出量取引に反対論噴出、経団連夏季フォーラム始まる 日本経団連の東富士夏季フォーラムが24日、静岡県小山町で開幕した。初日は資源高や温暖化対策を議論。排出量取引をめぐって王子製紙の鈴木正一郎会長が「技術革新が起きれば取引価格が暴落する」と指摘。新日本石油の渡文明会長も「百害あって一利無し。経団連として反対すべきだ」と訴え、反対論が噴出した。 新日本製鉄の三村明夫会長が「国別の目標設定が公平でないと産業競争力に重大な影響を与える。唯一の解決手段は(産業・分野別に削減を進める)セクター別アプローチだ」と述べるなど、排出枠を強制的に割り当てる「キャップ&トレード」の手法には大半が反対。大和証券グループ本社の原良也最高顧問が「意味があるやり方」と擁護したが同調者はいなかった。〔コメント〕 正直なところ、 経団連はいつまで「内向きの論議をしているのだろう」と感じます。 過日、取り上げたNHKの番組「日本のこれから(温暖化)」においても、参加者はいかにして未来を打開していくのか、というテーマで真剣に論議しつつ、「排出量取引」の必要性についても合意が成立しました。 「自主的な目標」「セクター別アプローチ」だけでは現状が打開できない。「排出量取引は必要だ」と。反対したのは、電力関係の企業の経営者だけでした。 「国別の目標設定が公平でない」という発言の中には「一人あたりの二酸化炭素排出量はEUと比較しても多くないのに」といった「不満」が見え隠れします。 それでは、経団連は現在一人あたりの排出量が日本の約3分の一であるにもかかわらず、大量の二酸化炭素排出国となっている中国に関しては日本並みの3倍の排出を容認するのでしょうか。 「日本のこれから」でも論議されていましたが、中国に対して「削減(あるいは増加の徹底的抑制)」を求めるのであれば、自ら率先して半減させるぐらいの姿勢を示すべきでしょう。今後も「中国の3倍近くは出し続ける」では話になりません。 どうすれば率先して大幅な削減ができるのかということこそ財界も責任を持って論議すべきではないでしょうか。 かつてブッシュ政権が内向きの論理(「アメリカ経済にメリットがない」)だけで一方的に京都議定書から離脱したことに対し世界の非難が集中しました。 「排出量取引」の導入に反対または消極的な意見というのは、突き詰めていくと「わが国の経済にメリットがない」といった(過去における)米国の主張と同じだと言えるわけですが、こんなことでは2009年段階でその米国にさえも大幅に後れをとってしまうことになるでしょう。 内向きのメリット・デメリットの論議は何としても乗り越えていかなければなりません。 日本が歴史に汚点を残さないためには、財界に対しても私たち国民が明確に意思表示していく必要があるのではないでしょうか。 環境問題に関連する記事 (「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」について考える、「『不都合な真実』に9つの科学的誤りの誤り」等)、 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。) ↑ランキング(日本ブログ村)はこちらです
2008.07.25
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前回の記事は「よたよたあひる言語論」の再検討と言いながら狭義の「批判」に力点を置いたものでした。ただ、彼女の「言語論」やその有効性については評価したい面も多々あります。 私の基本的な立場は次のとおりです。 「おしゃべり言葉」と「議論の言葉」を区分することには一定の意味がある(コミュニケーションに際して色々な示唆を与える)ということを認める。一般論として以下の二点はいずれも大切である。1、「おしゃべり言葉」を発信する個人(または共有する集団)に届く言葉を発していくためには一定配慮すべき留意点がある2、「おしゃべり言葉」を発信する個人もブログなどで不特定多数に公開する場合、当然配慮すべき点があり、批判を受け止め応答することも「発信責任」の一部である 前回記事においては、一連のやりとりの教訓として2、を強調すべきだと主張しました。しかしながら1、は大切でないか、と言えば決してそうではないと思うのです。 私自身、「よたよたあひる言語論」は特に日常のコミュニケーションにおいて多くの示唆を与えるものだと考えますので、以下、そこに焦点を当てながら彼女の「言語論」を私なりに(ある意味では自由に)要約しつつ、その意義について述べてみます。 さて、「おしゃべり言葉」を発する個人(または共有するグループ)に対して「議論の言葉」で批判的に介入することが、何らかの「困難」を伴うということは、よたよたあひるさんの紹介した事例にかぎらず、色々な人たちが体験することではないかと思います。 そこで彼女は二種類の言葉の違いに注目し、「おしゃべり言葉」は“関係性”(さらに発話時の状況)に依存する度合いが高く、さまざまな解釈が生じやすいという傾向を指摘するわけですが、これには一定の説得力があると思われます。〔( )は私が勝手に補いました〕 そして「おしゃべり言葉」は(竹内理論ではその典型が「日常言語」なのですが)1、状況・脈絡・発話者の人格に応じて適切に「解釈」することが重要となる2、一種の「コミュニティー」を前提とするため、それに対して「外部から批判的に介入」することは違和感(攻撃されているという感覚)を伴いやすい ということも一般論としてはほぼ成り立つのではないか、と考えます。 そして確かに、不特定多数に情報発信するブログ記事の場合は「例え相手がすぐ理解しなくても、相手の主張に対する見解・立場を明確にすること」自体にも一定の意味があると言えるでしょうが、日常のコミュニケーションの中では「通じなければほとんど意味がない」ということになりそうですね。 事実、『文化の理論のために』の中で竹内芳郎も次のように指摘しています。 日常生活における圧倒的多数のコミュニケーションにおいては「真理価値(命題の真偽や妥当性)なぞはあらゆる発話(メッセージ)の唯一の価値基準たる〈適切さ〉のなかの一事例でしかない。」 「本当の意味で〈真なる発話〉となるためには、それがしかるべき発話場で〈適切に〉発話される必要があるのだ。」 これは鋭い指摘だと言えます。実際、学校・家庭における教育実践の場面では「論理的に正しい言葉や“正論”」がそれ自体では“全く無力である”という事例には事欠かないでしょう。現実のコミュニケーションの場において「適切な言葉」を発するためには、上記1,2でまとめたような「おしゃべり言葉の傾向性」をしっかり踏まえることも大切なのではないでしょうか。 ただ、念のために補っておきますが、日常の「音声・発話による言語」は「おしゃべり言葉」だ、ということではありません。 「音声言語」であっても例えば会議や討論における発話は「論理的な妥当性」が第一義に追求されると言う点で「第二次言語(論理言語)」的な性格が強いものとなります。 それに対して「おしゃべり言葉は“共同体的な関係性”に依拠する部分が大きい」と言えるでしょう。(ちなみに中・高生の年代で形成する共同体・親密な仲間集団は「馴れ合い・許しあい」的な「空気」に染まりがちな面があると同時に、ふざけたり騒いだり学校や親に対する愚痴を言い合ったりする中で「大人が押し付けようとする価値や論理」を相対化し、ジグザグに歩きながらも子どもたちが少しずつ「自立」していくための拠点にもなりうるものです。) 他方で確かに、前回記事で述べたブログの言葉の場合(特にそれが「○○は○○である」といった「命題」や「主張」を発信する場合)は純粋な「おしゃべり言葉」として位置づけるべきではないと考えます。 しかし、「論理より関係性に依存する傾向を持った言葉」(あるいはそのような言葉を共有するコミュニティー)に対しては、「多様な解釈が生じやすい」ということを踏まえたり、「異論を提示するに際して」(それが「適切な」メッセージとなるためには)一定配慮することが望ましい、とは言えないでしょうか。 よたよたあひるさんは「その2」の結論部分で「書き手の意図を確認する作業は丁寧に行う必要があります」、「書き手自身の言葉がまだまだ未整理な状態であるときには、“批判”が“人格攻撃”として機能してしまいやすい」、「関係をまず作るところからしか批判も指導もなりたたない」などと言い切ってしまったので強い違和感を生み出すことになりました。 また、私自身も上記の主張には問題がある(一般論としては妥当でない)と考えています。 ただ、一般論として言えなくても状況によっては、そのような言葉を発する人の人格や背景も含めて読み取ることが 「届く言葉」を発するために必要な場合も確かにあるでしょう。 そして、ブログの言葉以上に、学校教育・家庭教育の具体的な場面や生身の人間同士の実際のコミュニケーションにおいてはなおさらそうだ、といえるのではないでしょうか。 そのような意味で「よたよたあひるさんの考察」は、適切なコミュニケーションの創造に際して「一つの角度から」貴重な示唆をもたらすものであると考えるのです。 ↑ランキング(日本ブログ村)はこちらです 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)
2008.07.24
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このたびの考察は、よたよたあひるさんが7月11日に書かれたブログ記事『関係性への依存「議論」と「おしゃべり」その3』(およびそれに先立つ「その1」 「その2」)についての批判的再検討を目指したものです。 なお、この再検討を進めるに際しては、竹内芳郎著『増補 言語・その解体と創造』(筑摩書房)および『文化の理論のために』(岩波書店)で展開された「言語論」「コミュニケーション論」に負うところが大きかった、ということを付記しておきます。 私自身は、彼女によって提起された「言語論」の妥当性に主要な関心を持っているのですが、なにぶんいまだに「論争」が続いている問題を含んでいますので、さしあたって私自身の基本的な立場(「再確認」した立場)を明らかにしておきたいと思います。 わたしは上記ブログ記事でよたよたあひるさんが示された仮説の実践的有効性(例えば日常のコミュニケーションにおける留意点が見えてくる等)を一定認めつつも、その仮説からただちに「伝わる言葉」を語るために・・・その2 で示されたような結論を導くことには無理がある、と考えます。 よたよたあひるさんが このたびの一件(「“しょう”のブログ 6月28日の記事のリンク をご参照ください)から「一般的な教訓を引き出そうとした」という点について疑っているわけではありませんが、その教訓の力点は前回述べたように「“言葉”をブログ上で発信する場合の留意点、そしてそれが“批判”を受けた場合の留意点」におくべきであろう、という立場をとるものです。 さて、実は彼女の示した「言語理論(仮説)」は、以前私が愛読していた竹内芳郎著『言語・その解体と創造』で展開されていた理論とかなり似かよったものでした。 私がもっとも尊敬している現代の思想家である竹内芳郎は「書くことにいったいどんな意味があるのか」という真剣な問いを発しつつ上記の書を著わしたのですが、氏は「言語」を(概略)以下のように分類します。1、発話場や関係性への依存度が高い第一次言語・・・典型的なものが日常言語(日常の「おしゃべり言葉」) これは、発話場の状況や関係性によって「解釈」される言語(状況や発話者の個性を読み取ることによって適切に「解釈」される)2、発話場や関係性への依存度が低い(独立した)第二次言語・・・ア、論理言語(論説や哲学書などに用いられる)、イ、文学言語(小説、詩歌などに〃)論理言語・・・言語の「明示性」(「明確に“対象”や “意味”を指し示す」という働き)を生かした言語文学言語・・・言語の「含意性」(言葉そのものが発散するイメージや音調・リズムが創り出すイメージ)を生かした言語Q 第二次言語の意義はなにか?A 日常言語では表現しきれない“沈黙”(=「人間の真実」や「社会の真実」)を表現すること 以上、私流の要約なので不充分ではありますが、『言語・その解体と創造』における言語論の概略です。 実は、私が書いた前回のブログ記事も上記の理論をふまえたもので、そこから発話場や関係性への依存度が高い『おしゃべり言葉』の典型は『ブログ上の言葉』よりも『よく知った人間同士の日常のやりとり』ではないか、と述べたのです。 そうすると、よたよたあひるさんの「言語理論(仮説)」は日常のコミュニケーションや学校教育・家庭教育の具体的な場面でこそ多くの示唆を与えるものだ、と言えるのではないでしょうか。私はそのように受け止めましたし、kurazohさんが「感銘を受けた」といわれるのも「日常の教育実践(子どもや保護者とのやりとり)」を想起されたからではないか、と思われるのです。 そもそも彼女の発想の出発点が「中学生たちの交流の場で、個人情報についてちょっと不用意なところがあったので、おせっかいに介入してかえって混乱させてしまった」という体験だったというのも、決して偶然ではないと思われます。それはまさに日常のコミュニケーションの場(発話場)における「教訓」だったのでしょう。 しかしながら、ブログ上の言葉においても同じことが言えるでしょうか。もともと批判の対象となった“すずめさん”のブログ記事は「典型的なおしゃべり言葉の極」にあると言えるのでしょうか? 実は、「よたよた仮説」として示されたグラフの「グレーゾーン」に当たるのではないか、と私は判断いたします。 竹内芳郎によれば発話行為(広義の「言語」を創造する行為)によって命題も発生します。(『文化の理論のために』) 命題と言えば「三角形とは三つの辺を持つ図形である」といった数学のそれを思い起こす人も多いと思いますが、例えば「人物Aは卑劣漢である」、「アル・ゴアは偉大な人物だ(ペテン師だ)」といった状況判断を伴うものも含みます。 そうすると、 問題のブログ記事の結論部分にあった「○○することは保護者の責任だ」というのも一つの命題であると判断できるわけですが、こと命題となればその「真偽」や「妥当性」が問題になってくるわけです。 典型的な日常言語(とりとめのない「おしゃべり言葉」)は「命題」を発生させない場合が多いのですが、「問題となった記事」は明らかに一つの命題として提起されており、それに対して賛成・反対の意見が述べられるのは当然だと考えられます。(この命題が不特定多数に向けて発信されている場合はなおさらでしょう。) よたよたあひるさんは、 「記事に書かれた内容そのもの」だけでなく、「記事を書いた人の立場を考えた上での発言が持つ意味」というメタ・メッセージに対する批判が一種の「人格攻撃」として受け取られた、という指摘をされています。 しかし、そもそも 「命題」に対する批判というのは本質的にそのような「誰がどのような状況で発信したのか」を含む「総合的な批判」となるのではないでしょうか。 例えば「人物Aは卑劣漢である」という命題も、人物Aが誰であるか、Aのどのような状況における言動を評価するか、ということが当然問題になるわけです。 また、「三角形とは三つの辺を持つ図形である」という命題にしても、それが「数学の授業中」ではなく「駅のホーム」などで叫ばれれば「とんでもない(妥当でない)」と判断されますよね。従って、発信した言説に対する批判が「記事を書いた人の立場を考えた上での発言が持つ意味」や「ある状況における特定の立場の人が発する言説」に対する批判となるのは当然だと考えられるのです。 よたよたあひるさんは「相手に届かなければ意味がない」ということを述べておられますが、そうとも言い切れないところがあります。 『文化の理論のために』の中では、言葉を発することを通して、実現される行為(行為の意味)の重要性が強調されていますが、問題のブログ記事に対する「批判の言葉」を通して実現された(行為の)意味は、二重であると考えられるのです。それは、第一に「批判することで容認できないという立場を明らかにすること」であり、第二に「相手にわかってもらう(通じる言葉を発する)こと」であります。 私は、まずろさんのコメント欄である保護者から受けた指摘(=「本人に理解し反省してもらうのが一番いいが『悪いことは悪い』といってもらうことも大切だ」)がかなり印象に残っています。 そのような観点からすると、多少「厳しい口調・表現」になったとはいえ、書き込まれた批判が無意味だったとは言えないでしょう。確かにいちろうさんも言われるように厳しい口調・表現による「正論」に反発する人は数十人に一人(あるいはそれ以上)いるかもしれません。 しかし、子どもを持つ保護者十人に聞けば九人の人は「批判は当然」と判断されるのではないでしょうか。最初の段階で本人が批判を受け止められなかったのも、コメントを最初に書き込んだ人への先入観や「自分が属する団体(日教組)はとかく攻撃の的になるのだ」といった先入観が背景にあったと考えられます。 とすれば、少なくとも「この事例」に関して「おしゃべり言葉」と「議論の言葉」とのすれ違い、という枠組みで説明・一般化するのは妥当でないと考えられるのです。 確かに、「問題となった元の記事」は典型的な「議論の言葉」というより充分に練れていないという点では「おしゃべりの言葉」のゾーンに入るか接近しているとは言えるでしょう。しかし、そのような言葉で「一種の命題」を発信する場合にはなおさら不特定多数に公開する場合の留意点、そしてそれが「批判」を受けた場合の留意点をこそ意識する必要があると考えます。 よたよたあひるさんは「公平な判定(ジャッジ)」を意図したものではないし、批判した側とされた側のいずれかに責任を負わせることを意図したものではない、と言われます。しかし、その出発点において彼女なりの「一つの判断(ジャッジ)」がすべり込んでいると感じるのは私だけでないでしょう。 すなわちそれは、最初の時点で「すれ違い」ないし「誤読」があったのではないかという判断であり、そのために「感情的な議論」になってしまったのではないか、という判断です。確かに当初の「正論」による「批判」に対して反発があったことは事実でしょうが、厳しい(難しい)現実から出発して何とか「届く言葉」を発信していこうという姿勢・実践は特に「まずろさん」の記事の中に顕著に見られるように思います。 よたよたあひるさんも含めてさまざまな人が「ブログ上での意見発信・意見交換」をする中で、少なくとも「当初問題となった記事」の妥当性については本人も含めて「合意」が成立していった、と考えていいのではないでしょうか。 以上、このたびの記事においては、「よたよたあひる言語論」の批判的検討が中心になりましたが、なにより「適切さ」こそが問題になる日常のコミュニケーションや学校教育・家庭教育の実践においては多くの示唆を与えるものであると受け止めています。いつになるか自信はないのですが、そのテーマについても何とかまとめてみたいと考えています。 ↑ランキング(日本ブログ村)はこちらです 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)
2008.07.22
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よたよたあひるさん 本当にお疲れ様でした。あなた自身の直感や体験を「議論の言葉(論理言語)」で表現していく大変な努力 に敬意を表します。前回の記事よりもわかりやすく納得しやすい内容にまとめておられると思います。>(おしゃべりの言葉は)読み手と書き手の関係性で読み取りに大きな差ができてしまいます。 一般的な「教訓」を引き出す上で、前回記事の表現よりも説得力を感じます。>今回の一連の「議論」がすれ違っていったのは、当初は「その表現は関係性の異なる場では理解されないはずで、立場を明らかにしているものの発言としては不適切」という強い危機感を持った方の批判が、うまく伝わらなかったということに始まっていたと私は考えています。>この当初の批判が、「記事に書かれた内容そのもの」だけでなく、「記事を書いた人の立場を考えた上での発言が持つ意味」というメタ・メッセージに対する批判、だったために、「記事を書いた人への批判・・立場を含む人格攻撃と言ってもいいでしょう・・」として受け止められてしまった、ということが原因なのではないでしょうか。 この点についてもそう思います。「おしゃべり言葉」を発信する個人(または共有する集団)が、「外からの批判」に対してどのように反応しやすいか というこのたびの指摘は前回かかれていた主張と比較しても「より広い観点から留意点を示唆したもの」であると考えます。 「力点」を修正しつつまとめておられるような印象はありますが、あなたが「すれ違い」といわれた意味がある程度わかったように思います。 ただ、それでも違和感は残るのです。 実はあなたの言われる「議論の言葉」と「おしゃべりの言葉」についての説明は「だいたい想像していたとおり」だったのです。が、そこから「引き出すべき教訓」については、別の観点から明確にする必要がありはしないか、ということを感じています。 というのは、あなたが力点を置いて展開しておられるのは 「批判する側が配慮すべき事項」「“おしゃべりの言葉を使っている個人”に対して“届く言葉を”を発していくための留意点」であるように見えるのです。 そして、確かにそのこと自体はとても大切なのですが、わたしは 「おしゃべりの言葉」をブログ上で発信する場合の留意点、そしてそれが「批判」を受けた場合の留意点こそ多くのブロガーが共有すべき重要なポイントであるように思うのです。 もっともあなたの意図は、例えば次の文からも伺えるように、それをも含めて「教訓」にすることだったと思われます。>「立場が発するメタ・メッセージ」は、「おしゃべりの言葉」の場での意見交換を行うときに(そして場の外へ発信するブログの場合)大きな影響力を及ぼします。〔( )内は引用者〕 ただ、不充分になっている印象は受けます。連載の「大作」を書かれるに当たってあらゆる観点を充分展開することは難しいですし、以下に書くようなことはあなたが直接「回答」しておられる「まずろさんやPsycheさん」にとっては「分かり切っていること」だからかもしれませんが・・・。 あなたはブログ上の言葉について分類しておられます。(作成された図「よたよた仮説 ブログの言葉」は秀逸だと思いますね。)ただ「関係性に依存したおしゃべりの言葉」が使われる典型的なケースはブログ上というよりも「よく知った人間同士の日常のやりとり」でしょう。 そこでのコミュニケーション手段は文字ではなく「音声言語」であり、さらに表情や身振り、音調・沈黙などの「副言語的要素」が重要ですね。そこでは例えば「正しい言葉」が発せられなくてもコミュニケーションが成立してしまったり「周りの表情から空気を読む」ことが求められたり、するわけです。 さて、それに対して「文字言語」の場合ですが、例えば発刊される書籍であればそのような「言語場=コミュニケーションの場」から独立しているわけですが、ブログ上では「そのような場」が成立してしまうのですね。(確かにそれがいいところでもあります。) しかし、「おしゃべりの言葉」をブログ上で発する場合、「これくらいいっても大丈夫」とか「大体わかってもらえる」とか「互いに頷きあう関係だから批判など受けない」といった日常的な仲良しグループのコミュニケーションにしばしば見られる「関係性に依存した甘え」の意識を持ったまま、不特定多数に「問題となるメッセージ」を発信してしまうことがしばしば起こりえます。 そして、不特定多数に発信しているにもかかわらず、発信責任を問わない空気を共有してしまうわけです。(ブログ上のコメントにあった「このブログはほのぼのとした気分にさせられる」「空気を読んで・・・」といった趣旨の発言、批判的書き込みが「浮いている」といった発言。また、「このブログのメッセージには論理的な批判はなじまない」といった趣旨の発言等) 私自身が思い起こすのは、普段心地よい関係を作っている「私的グループ」が、「外からの(別の生徒による)批判」や「教職員の指導」に対して過敏に反応・反発し、「論理的」な言葉をなかなか受け入れられない、といった体験です。本人たちはそれこそ「上からの目線」を感じる傾向が強いので「伝わる言葉」を発することが相当に難しい。 しかしながら、「子どもと大人(保護者や教職員)の関係」であればともかく、大人どうしの世界であれば、あなたのブログにも複数の人が書き込んでいるように「責任が問われるのは当然」なのです。心地のよいコミュニケーションの最中に「批判」を受けた場合にも、言わば「シフトチェンジ」して「批判に対して誠実に応答したり討論していくこと」ことは大切だと考えます。 「このたびの混乱」を契機に多くのブロガーが共有すべき教訓を考える場合、むしろそちらに力点を置くことが大切だと思うのです。(なお「総括」の観点とは違いますが、「Authorまずろ」のブログでしばしば見られる「随筆風の美しい文章」は示された表の中に位置づけにくいのでは? と思っています。できればその点も含めて書いてみたい気持ちもあります。) 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)
2008.07.13
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日本のこれから 温暖化3 去る6月7日「地球温暖化」への対応をテーマに、番組での論議が行われました。まず、番組の内容3を紹介します。(これが最終となります。)〔内容3〕2、経済成長と二酸化炭素削減は両立するか(後半)(視聴者へのアンケートでは 経済と環境 両立できるが50% 難しいが50%だった) ・日本の食料自給率が低すぎることも問題だ。経営として成り立たないと農業ができない。 ・北海道洞爺湖サミットも機会に本気で削減するためには投資が必要。50%の削減を進めるとなれば21世紀型のインフラ(水素タンクなど)を整備していかなければいけない。 〔中国人参加者の発言〕・次の点についてはきちんと説明しておきたい。中国では多くの企業が環境保護について考えている。企業に対する厳しい規制もしている。去年、風力発電がもっとも多く増設された国は中国である。・私は日本の友人の考え方に賛同する。 <b>考え方・価値観(大量生産、大量消費、大量廃棄でいい)という価値観の転換を進めていく必要がある。EUやインドの代表を招いて、一緒に討論したほうがいい。EUを含む「先進国」は発展途上国を支援しながら大幅な削減を具体化していく必要がある。 3、日本のこれからスペシャルとして、「低炭素社会の2つのモデル」が示された。CO2の大幅削減と豊かな生活の2つのモデル1、技術志向社会 キーワードは活力(都市集中型) 人口は都市部に集中 技術革新でCO2削減 活発な経済成長 2% しかし地方の人口減少する。食料自給律は低い。2、自然志向社会 キーワードはゆとり(地方分散型) 自分らしいライフスタイルを目指して地方に人口分散 自然エネルギーの普及 ワークシェアリングによって労働時間は短縮される 経済成長率は1%前後で 農業が盛んQ どちらの低炭素社会を目指すべきか? スタジオの中はほぼ同数だった。(視聴者へのアンケート結果は「技術志向社会」が26%、「自然志向社会」が74%)〔参加者の発言〕1、発展途上国に費用を回していくためには技術が必要だが、技術はそう簡単に発展してはいかない。学問としても人材育成においても理系と文系との融合を目指す必要がある。基本は技術が大切であるが、文化についても視野に入れていく必要あり。2、人間は生き物だという原点に立ち返ることが必要 最近 病気が多いのはこの原点を忘れているからではないか。 9歳までの自然体験が人格形成にもいいことも明らかになっている。 周囲から自分の家族が生きるための物をとる、物を作る。それが自然な姿ではないか。〔アラスカの先住民の発言〕 私たちはは何百年にもわたって自然の中で生きてきた。ひたすら活力を追求し、経済成長を目指すことは多くの犠牲を強いる。環境大臣 二者択一ということではなく技術も大切にしながら、考え方や「生活仕方」も変えて行く必要がある。 すべての力を結集して2050年の二酸化炭素を半減していかなければならない藤原紀香 (提案)日本に 世界が注目するエコシティーを作ろう! スウェーデンで実際に造られていたエコシティーを見学できた。出した生ごみ・糞尿はメタンガスにして活用。(ごみ収集車が走らないエコシティー)(参加者)子どもたちの未来を考えないといけない。 世界の環境リーダーになろう すでに北海道でもエコシティーを建設しつつある。 (生ごみ・糞尿・間伐材、バイオガスの活用などを具体化) 「思いやりの精神」を日本に世界に広げることが問題解決の道ではないか。〔コメント〕 重要な問題で比較的弱かったように思えたのが、「我々の生活し方をいかにして具体的に問い直していくのか」「温暖化対策にお金が必要だとすれば、それをどのように確保していくのか」という問題です。 ただ、目標達成にむけての意志さえ明確になれば、様々な方法を具体化していくことが可能です。この意志を共有していくためには、この番組で試みられたような公論が様々な場面で行われる必要があるでしょう。 さて、たった今、「洞爺湖サミット」での温暖化に対する合意事項が報道されました。 長期目標 2050年の二酸化炭素半減という目標は、国連加盟国すべてに努力を求めていく方向で合意した。 中期目標 米国が初めて国別総量目標の設定に賛成した。 はたして「先進国が率先して成果を挙げることが本当にできるのか」「“途上国”も納得できるような取り組みをいかにして進めていくのか」 課題は様々あると思いますが、私たちが生活しているそれぞれの場において微力を尽くしていくこと(学習し公論を形成していくこと、具体的に実践していくこと)が大切なのではないでしょうか。 私も通勤にJRを使うようになって2年目ですが、「地方でほとんど車を使わない生活」をしていくことはその気になれば結構できます。健康にもよく、車内で読書をしたり、気持ちも少しゆったりできますよ。 環境問題に関連する記事 (「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」について考える、「『不都合な真実』に9つの科学的誤りの誤り」等) を次のページにまとめておりますので、よろしければおいでください。 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。) ↑ランキング(日本ブログ村)はこちらです
2008.07.08
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日本のこれから 温暖化2 もう旧聞になってしまいましたが、去る6月7日「地球温暖化」への対応をテーマに、番組での論議が行われました。まず、番組の内容2を紹介します。〔内容2〕 NHKの司会者は、次の話題として排出量取引制度(キャップ&トレード制度)を取り上げる。 1、排出量取り引き制度についてどのように考えるかQ 排出量取り引き制度とは? 国が企業(事業所)ごとに、許容排出量の上限(キャップ)を決めて、排出量を取り引きできる制度 〔目標以上に排出削減を行った企業は、達成以上の排出量(排出権)を販売でき、達成できなかった企業は他の企業から排出権を買うことで目標を達成する制度、つまり排出量削減に成功した企業は得をし、うまくいかなかった企業は損をする制度〕 〔目標以上に排出削減を行った企業は、達成以上の排出量(排出権)を販売でき、達成できなかった企業は他の企業から排出権を買うことで目標を達成する制度、つまり排出量削減に成功した企業は得をし、うまくいかなかった企業は損をする制度〕 導入は問題という意見・・・計画経済を取り入れていくことになる(電力会社の社長)導入は必要という意見・・・現状を考えれば自主的な取り組みだけでは不十分だ。大幅削減が可能な方策としてこの制度を取り入れていく必要がある。2、「経済成長と二酸化炭素削減は両立するか」について出された意見(前半)・今までとは違う経済発展、新しい(持続可能な経済発展)を追求していく必要がある。 産業構造も変えていくことが必要である。・生ぬるいことを言うのではなく、日本も米国も中国も本気で削減していかなければ未来はない、ということを政府は明確に示していく必要がある。・環境大臣・・・残念ながら国の中で意見は分かれている。本日のような論議の積み上げが大切ではないか。・経済発展、技術発展を前提に考えていてはいけない。今までの経済発展ではない別の経済発展を求めていく必要があるのではないか。・経済発展がほんとうにいいことなのか わたしたちのように田舎で生活したい人間も生きていけるようにしていってほしい・・・。都会に行かなければ生きていけない今の社会とは別の社会を築いていくことが大切だ。・経済発展はしなければいけない⇒しかし、廃棄物の問題や二酸化炭素排出の問題等、組み込んだ形で経済発展を目指していくことが大切である。※いまは、討論のテーマとして温暖化の問題しか取り上げていない。しかし、そのほかにも貧困・病気・飢餓・・・等、現代の世界には様々な問題がある。 その場合、資源をどのように配分するか。当然資源は、今生きている人の幸福のためにも使わなければならない。現実にマラリアで年間200万人の人が死んでいる。貧困・病気・飢餓で苦しんでいる人たちのためにも資源を使い、我々の後の世代のためにも資源を残していかなければならない。 要するにバランスをとってやっていくことが大切だ。仮に「経済発展は不要だ」と我々が言ったとしても、それを「途上国」も含めて世界全体に押し付けることは無理だ。 (貧しさ・食糧不足のために内乱が起こるような状況があるとすれば、どちらが緊急の課題なのか・・・。) 経済発展と環境とを両立している例がある。例えばスウェーデンの場合、1990年から今までのあいだにGDPは44%増加しているが、二酸化炭素は8.7%削減している。 どうして削減したのか、とスウェーデンの担当者に聞くと「ガマン大会はしていない。化石燃料を自然エネルギー・バイオマスエネルギーに転換するなど、削減に有効な政策を行っている。 (その他に二酸化炭素税やエネルギー税の導入なども行っている)」( )は引用者。 経済発展の内容を考えていくことが大切。犯罪が多発し多くの対応をすれば、GDPは増えていく。 私たちの幸せにつながるような経済発展を追及していくという視点が大切 ではないか。 求めていくべきはGDPの数値ではなく、私たちの生活の質がどれだけ豊かになっているかだ。スウェーデンでは生活の質は向上させるが環境負荷は減らすという道を追求している。〔コメント〕 多くの方が発言されましたが、全体としては「地球環境や万人の幸せにとって今何が大切なのか」という観点で真剣な討論が行われ、よりよい方向を探っていくための「公論」が成立していたように思います。 参加者だけでなく、「意味ある討論の場を創造・成立させていこう」というNHKや担当者の真剣さも感じることができました。すでに旧聞といいつつも、討論内容を要約・記録しておこう、と私が考えた動機は上記のようなことです。 そのような「公論」は現在の日本において極めて貴重であると考えるからです。 それに反して日本の国会では、国民の税金によって支えられている論議の場において、「選挙目当ての駆け引き」としか思えない「引き回し」が横行し、まともな「公論」を成立させていないかに見えるのは残念なことです。 議論の中にも出てきたスウェーデン「絶対多数の政党が存在しない中、粘り強く論議し合意の形成を積み上げてきた」 (『スウェーデンの挑戦』岡沢憲芙著) における議会運営や討論態度に少しは学んでもらいたいものだ」と考えます。 トップページに書かせていただいているように、私の大きな二つの関心事は「自然環境」と「教育環境」です。先日、「携帯インターネットを巡る教育環境」についてPTA研修会を行いましたが、いずれも子どもたちの現在と将来にとって大切な問題でしょう。 「自然環境と環境配慮活動について小学校区単位の研修会」を実施し、ともに行動に乗り出していくといった実践はすでに「緊急の課題になっているのではないか」と考えています。 NHKの番組の中だけではなく、全国各地のさまざまな場において「現実の問題と対応」に関する研修や論議⇒合意を積み上げ実践していくことが求められているのではないでしょうか。 環境問題に関連する記事 (「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」について考える、「『不都合な真実』に9つの科学的誤りの誤り」等) を次のページにまとめておりますので、よろしければおいでください。 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。) ↑ランキング(日本ブログ村)はこちらです
2008.07.05
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