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(二)どう対応するか-生活指導と生徒指導(Kさんの講演より) 「生活指導」に関しては、こういうことを合い言葉にしようと話し合いました。1、即決主義でなく放任主義でなく 高校の現場では、上記のどっちかにいきやすいのです。 そこで、即決でなく放任でなくということを合い言葉にしました。なぜ、即決でないのか。だって、15歳で私たちの目の前に現れるまでには、彼らは15年のキャリアがある。15年間かかって様々な生き方というものを身につけている。 それを一片の説教で分かるなどと思わない方がいい。教師はいろんな癖をもっています。何かあるとすぐ呼んで説教をします。「分かったなあ」。生徒はしょうがないから「分かったよ と言って出ていく時に、ドアーをピッシャツと閉めていきます。そうすると教師は直ぐにドアーを開けて追っかけていって首ねっこをつかまえて「何だ、今のは」と。 でも、そういうやり方では、ぜんぜん、子どもたちは変わらないのです。こういう議論をしました。 だから、即決でなく、です。じゃあ、ほったらかしていいのか。そうではない。やはり、それは違うと思うよと、教育要求はきちんと出す。しかし、そこのところに遊びをつくる。このことが大切な「こつ」だということを私たちは考えた。 その時々で教師は直ぐ頭にきやすいけれども、「即決でなく放任でなく」を口癖にしよう。それを一言つぶやいてみると、ずいぶんと気持ちは変わるのです。こんな話を実践的にやってきました。2、「きまり」 は必要だが 「きまり」で鯵負をかけない とりあえずは、きまりは必要です。「8時半から学校が始まるよ」ということがなければ、学校にならないのです。 でも、そのことだけで、勝負をかけようとすると、どこかの学校みたいに、時間になって門を閉めたら生徒が死んじゃったという、そういう問題になります。 だから、私たちは、きまりは必要だけれども、きまりで勝負をかけない。きまりがなければ、学校にならないのだけれども、「きまり」は「時押さえ」と考えよう、と話し合いました。 きまりだということで、ギューッと絞めると、子どもを殺してしまうのです。そうじゃなくて時押さえと考えよう。これは「とりあえず」ということです。 じや、何をするの?時押さえをしている間に、子どもたちが自分たちで、自覚的に、そういうことが出来る人間になっていくよう育てていこうということなのです。そこに指導性があるのではないか。〔コメント〕 U高校ではさまざまな取り組み(4700人の学校祭など)の手ごたえを確認しながら、日常的な生徒とのかかわりについて、ていねいに何が大切なのかを論議していきます。 結局、このような論議と実践こそが、「学校の力を高めていく」ことにつながるのです。そして、「力をためた」U高校は他校にはとてもできないようなことを実現していくのです。 その出発点となる考え方について、さらに詳細な実践について、少し時間がかかるかもしれませんが、ぜひ紹介したいと考えています。 続く ↑よろしければ投票していただけますか(一日でワンクリックが有効です)(教育問題に関する特集も含めてHP“しょう”のページにまとめています)
2008.02.29
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ここ数回、ヘーゲル思想を取り上げました。 人間の体験の中で共通する部分を「取り出し」(抽象し)て、普遍的な人間の本質や条件に迫ろうとするのが哲学です。 このたびはヘーゲルに導かれながら「抽象した」人間の本質(人間の中には「今ある自分ともう一つ自分との葛藤」「自らを価値ある存在として確認しようとする意思」が存在し、それが「成長・発達」の原動力である) について、Kさんの講演の中から具体例をあげてみたいと思います。(一) 子どもは成長、発達する まず子どもの見方です。子どもたちを「成長、発達するもの」という見方で一貫してとらえていこう。子どもたちが成長、発達するということに確信を持たなければ私たちの取り組みは、ひじょうに、虚ろなものになってしまう。・頭髪-茶髪 たとえば頭髪。茶髪、真赤赤になっている。それと発達をどう観るのか? 一見困った状況、放置できない状況ですね。 しかしたとえば、そういう子どもは、引きこもるという子どもと比べてどうなのだろうか? 自分を人と違ったものに見せようというところにエネルギーがある。たとえばそんな議論が出ます。 15歳から18歳までの子どもで、スポーツでも駄目、成績でも駄目といわれる子どもたちが、何もなくて生きていられるはずがない。どこかで他の人よりも俺は出来るというところを見せたいという気がある(何らかの自己表現をしたい)のは当たり前じゃないか。 だとすればそれを頭の髪の毛を変えるということよりも、もっと進んだこと、もっと創造的・文化的なことで代替することが出来るということを教えていけば、エネルギーの向けどころを変えられるはずだ。 そういう話です。・中抜け あるいは、中抜けはどう考えるの。たとえば、 いまある自分よりも良いものになりたいから学校に来る。けれども、勉強がサッパリ分からなくて、つらくて、困るから帰りたいと思う。立派になりたい自分と帰りたいという自分がはげしく心の中で闘争する。 そして負けた時には、たまたま、中抜けをする。少しでも自分が学校に行って立派になりたいという思いがあるから中抜けが起こる。 というふうに考えたら、そこにあるエネルギーを私たちは評価して、そこに働きかけていけばいいじゃないか。こういうふうな議論をいっぱいしたのです。 だから子どもたちは、様々に、疎外されているけれども、心の底には成長したい、より大きな人間になりたい、という発達意欲・意思をもっている。この見方を一貫させよう。これが論議しつつ確認した一番基本的な子どもの見方でした。〔コメント〕 「子どもたちの現状をどのように見ていくのが必要か」という論議の中で、柔軟なとらえ方が出来ているように思います。それが約200年前に行われたヘーゲルの洞察と通じ合うのは興味深いですね。 さらにU高校の場合は、それが個人的な考察ではなく、教職員集団で論議し、合意が成立した点がすごいところです。〔記事をアップして数ヵ月後(11月17日)に文月さんから下記のようなコメントをいただきました。それに対する返答はこちらです。〕 続く ↑よろしければ投票していただけますか(一日でワンクリックが有効です)(教育問題に関する特集も含めてHP“しょう”のページにまとめています)
2008.02.28
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昨日、『精神現象学』末尾で描かれている「行動する精神(個の精神)」と「評価する精神(共同体精神)」の対立と和解について要約しました。 しかし、「自分自身の中にある矛盾や他者との対立が成長(発展)につながらず、堂々巡りの悪循環を生み出す」という現実についてどのように考えるべきなのでしょうか。 20世紀の思想家JPサルトルはヘーゲル思想を高く評価しつつも、「人間関係」の問題については一種の「楽観主義」があるとしています。そして、サルトルは初期の哲学書『存在と無』の中で「相克(あらそい)」こそが人間関係の実相である、というのです。 サルトルは、「“私”の魅力や卓越性を“主体である他者”に認めさせようとする態度」(愛、言語による誘惑、虚栄など)と「“私”を自由に評価・意味づける“主体としての他者”を否定しようとする態度」(無関心、憎しみ、暴力など)を例示します。 彼は、人間関係の様相を具体的に描きつつその本質に迫ろうとしていますが、その考察は極めてリアルで私たち自身の経験とも重なり合う部分が多々あるのです。 教育現場において 「生徒が荒れたり自己を閉ざして指導が成り立たない状況」を体験した教職員も、「堂々巡りの相克(あらそい)」としか言いようのない体験 をしているでしょう。(逆に、尾崎豊の「卒業」の内容から、生徒たちの体験や心情もうかがえます) ヘーゲリアンであった故 鞠川了諦氏は1984年の高生研大会基調で「指導困難な状況」の背景にある子どもたちの「もがき」について指摘しています。 「重要なことは、この〈ゆがみ〉が、生徒たちの主体(個)における、成長しようとするちからとこれをおしひしぐちからとの相克の所産にほかならないということである。その意味でこの〈ゆがみ〉はむしろ〈もがき〉Struggleであり、固定的な静態と見るべきではなく、生きた動態としてとらえるべきだろう。」 「すぐれた実践(指導)は、かならずそのよるべき仮説を持っているが、それは子どもの存在把握における成長可能性の確信である。」(子ども・人間の中に「いま現れている否定的な自分」とは異なる「成長したいというもう一つの自分」が存在し、もがき葛藤しているという見方はまさしくヘーゲル的です。) さて、「堂々巡りの相克」を乗り越えていく道としてヘーゲルが示唆していることは何か。昨日はポイントの“2”として、自分の中に「相手と相互承認しあう関係」を求める意思(共同性への意思)があることに気づくこと、を挙げました。 それに加えて、 人間には「現在あらわれている否定的な自分」を越えて「成長しようとする意思」が存在すると“確信する”こと、成長可能性と同時に小さな一歩を“承認”していくこと、が大切ではないでしょうか。 確かに、生徒の中にも同僚の中にも自分自身の中にも「否定的な面」は数多く存在します。(特に大人の場合、必ずしも健全でない「プライド」が強固に形成されていることもあり、それが成長の妨げとなっています。) この「否定的な面」に向き合わざるを得ない場合は多々ありますが、人間の中に「相手と相互承認しあう関係を求める意思」、「成長しようとする意思」が存在することを信じるところから“実践”を出発させることが大切なのではないでしょうか。ご訪問いただきありがとうございます。ワンクリックしていただけるともっとうれしいです。 ↓(教育問題の特集も含めてHP“しょう”のページにまとめていますのでよろしければ…)
2008.02.26
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「自分自身の中にある矛盾や他者との対立が成長(発展)につながらず、堂々巡りの悪循環を生み出すこと」は往々にしてありますが、そこから抜け出す道についてヘーゲルはどのように考えたのでしょうか。 『精神現象学』の末尾でヘーゲルは「行動する精神(個の精神)」と「評価する精神(共同体精神)」の対立と和解の「ドラマ」を描き出します。 「行動する精神」というのは「ただしく行動すること」を目指します。それは、そのつど具体的状況の中で「これをなすべきだ」と決断し行動できるのは「この私自身」だということを自覚している個人なのです。ただ、一つ間違えば独善や偽善に陥りかねない危うさを持っています。 他方、「評価する精神」というのは「行動する精神(個の精神)」に対していわば共同体の立場からその問題点を突いていくような精神です。しかし、自らは行動もせずに評価していることや、その評価に絶対的な根拠がないことを自覚していません。 この二つの精神は激しく対立しながら最終的には「相互に相手を承認する」ことになります。そこに至る過程でヘーゲルが描いていくのは、「相手の中にある問題点を自分の中にも見出す」という契機です。 行動する精神(個の精神)は最初「評価する精神(共同体精神)」の自分への「判断」(行動する精神の決断は勝手なものであり偽善である)に対して反発します。 しかし最終的に、行動する精神(個の精神)は「評価する精神の判断が(時には偽善もともなう)一つの判断でしかない」ことを認めると同時に、自分が行動に際して下した決断についても、絶対的根拠のない「自らが選んだ一つの判断」(独善や偽善とも無縁ではない)であることを認めるのです。 こうして「行動する精神」は「評価する精神」に対して「自分も相手と同類である」ことを告白し、互いに承認しあう関係になることを期待します。 この告白に対して「評価する精神」は最初「行動する精神」と同類であることを認めようとしないのですが、最終的には相手の中にある要素を自らの中にも見出して「相互に承認しあう」ことを選ぶのです。 このような「自由の相互承認」の段階をヘーゲルは「絶対精神」というのですが、これはいかにして成立したのでしょうか。 ポイントは二つあるように思われます。1、独善や弱さや矛盾は自分に対峙する相手の中にあるだけでなく自らの中にもあることに気づくこと、 2、自分の中に「相手と相互承認しあう関係」を求める意思(共同性への意思)があることに気づくこと、です。 確かに、深い部分で人間というのは、「他者と承認しあいたい」という願いを持っているように思います。 その願いを自ら感じ意識しながら、相手の中にあるのと同様の問題点を自覚し乗り越える方向へ一歩踏み出すとき「相互承認」や「相互の成長」が実現していくのではないでしょうか。 職場の同僚との関係にせよ、子どもたちとの関係にせよ、様々なトラブルを「相互の成長」や「相互承認」の機会にしていこうという意思、これこそが「教育」を成り立たせ「自他の成長」を促していく大切なポイントであるように考えます。(教育問題の特集も含めてHP“しょう”のページにまとめていますのでよろしければ…)
2008.02.25
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「弁証法の永遠のふるさと」(竹内芳郎)であるといわれたり「意識の成長物語」(西研)であるといわれるヘーゲルの『精神現象学』について、昨日私は次のように述べました。 「(ここで述べられていることは) 意識はものごとを認識したり、他者と争ったり相互に承認したり、といった様々な経験をつみ、それを反省すること(振り返ること)をくりかえし行いながら視野を広げ、成長していくということです。(・・・)」 さて、弁証法というのはダイナミックな「運動・発展(成長)の理論」だといわれます。(弁証法の説明に良く使われる定式〔正→反→合〕は、むしろこのダイナミックな面を背景に押しやってしまうところがありますので、ここでは使いません。) この弁証法において強調しなければならないのは精神の「分裂や対立が運動・発展(成長)の原動力である」(弁証法とは「分裂や対立を原動力とする運動・発展・成長の理論である」)という点です。 例えばU高校のS子の場合ですが、 彼女の意識体験は、1、「U高校の生徒であることをどうしても肯定できない自分(体験)」と2、「現実にU高校の中で“仲間”を再発見し、価値ある活動に取り組んだ自分(体験)」とに“分裂”しています。 このS子はKさんから 「自分の高校生活はいったい何だったのか」という強烈な“問いかけ”を受けることによって自らの体験を反省し(振り返り)「過去の劣等意識を乗り越え、誇りの持てる価値ある体験をした自分」を意識化していくことになります。 反省(振りかえり)のきっかけとなったのは「U高校を最終学歴から消したい」というS子とKさんと対立(Kさんが行った「対決」)でした。この点で「対立(対決)」がS子の成長にとって重要な役割を果たしているといえます。 さて、それぞれが自分自身の人生(体験)を振り返ったとき、 「情けないと思う自分」と「こうありたいと思う自分」との葛藤を体験したり、「他者と激しく口論したような体験」が自己成長にとって大切な意義を持っている場合は数多くあるでしょう。 このような意味において、意識(精神)の運動・発展(成長)は「因果律」のモデルでは説明できず、意識の弁証法として理解するべきだ、とヘーゲルは主張するのです。 しかしながら、自分自身の中にある矛盾や他者との対立が成長(発展)につながらず、堂々巡りの悪循環を生み出すことは往々にしてあります。それを、どのように考えるべきなのでしょう。そこから抜け出す道についてヘーゲルはどのように考えたのでしょうか。 このテーマは、「自己実現」においても「教育」においても重要なテーマであると思われます。ご訪問いただきありがとうございます。ワンクリックしていただけるともっとうれしいです。 ↓(教育問題の特集も含めてHP“しょう”のページにまとめていますのでよろしければ…)
2008.02.24
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ヘーゲル思想と教育 1 ひとことで言って「教育とは子どもたちの成長を促していく営み」いえるでしょう。 ただ、そもそも人間の行動(行動傾向)や成長についてどのように理解するのがいいのでしょうか。 理解するときの枠組みとして例えば「刺激→反応」といったモデルを含む「原因→結果」のつながり(「因果律」)として理解しようという考え方があります。 (古典的な心理学においてこの図式はよく用いられました。) それに対して ヘーゲルは人間の意識(精神)の活動に注目して「弁証法」という「運動・発展(成長)の理論」を提唱したのです。言い換えれば、人間の意識(精神)の活動を「原因→結果」のつながりよりもはるかにダイナミックなものとして理論化したのです。 ヘーゲルの主著『精神現象学』は副題が「意識経験の学」となっていることからもわかるように、人間の意識がさまざまな経験を積み上げ大きく成長していく様子を描いています。 この書は「弁証法の永遠のふるさと」(竹内芳郎)であるといわれたり「意識の成長物語」(西研)であるといわれたりするわけですが、それは何を意味するのでしょうか。 簡単に言えば、意識はものごとを認識したり、他者と争ったり相互に承認したり、といった様々な経験をつみ、それを反省すること(振り返ること)をくりかえし行いながら視野を広げ、成長していくということです。 例えば、U高校の実践でくりかえし紹介したS子は「挫折感を持ってU高校に通学し、はじめはクラスメートと交わろうともしなかった」のですが、「赤点学級」や「U高祭」の取り組みを通して様々な交わりを体験し、仲間を「再発見」していきます。 そして「U高校を最終学歴から消したい」という発言に対してKさんから「そのような考えを乗り越えていくためにこそ色々な取り組みをしてきたのではなかったのか、自分の高校生活は何だったのか」という強烈な“問いかけ”を受けることで、あらためて自分自身の体験を振り返り、U高校が自分にとって持つ意味を「意識化」し「言葉」にしていったのです。(このような自己意識の活動の根底には「自分自身を自立した存在として受け入れ承認したい、他者からも承認されたい」という願いが存在することをヘーゲルは洞察しています。) さて、このような体験の積み上げによって人間は「自己を社会的な存在として自覚することになる」とヘーゲルは言います。 彼によれば「人間は育っていくに従って、(・・・)自分自身の何であるか、自己と社会の関係の何であるかをいっそう深く知っていくようになる。 子どものころは誰でも自己中心的な世界像を持っているが、大人になるに従って、大なり小なり自分の存在が社会によって支えられていくことに気づく。そして、そういう認識が適切にたどられれば、誰しも自己を社会的な存在として自覚(・・・)するにいたるだろう 。」 (竹田青嗣『現代思想の冒険』) 「そういう認識が適切にたどられる」ように促していくことが、教育の大切な課題のひとつだといえるのではないでしょうか。ご訪問いただきありがとうございます。ワンクリックしていただけるともっとうれしいです。 ↓(教育問題の特集も含めてHP“しょう”のページにまとめていますのでよろしければ…)
2008.02.23
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S子がU高校で体験できたこと 2「U高祭」を中心にした学校づくり 16日の日記で4700人を集めた学校祭の取り組みを紹介 しましたが、それはS子が卒業した後のことです。ここではKさんの講演から「S子も体験できたU高祭」を紹介します。 秋になりました。そういう努力を、是非、地域に見てもらおう。あの暴力事件はひどかったけどその後、クラス・学年を通じて学校を建て直す努力を見てもらおうよ。学園祭を一般公開しよう、というふうに、呼びかけたのです。 私の学校はそれまで6年間、一般公開を止めていました。なぜか。見せるものがないのです。もう、ほんとうに荒れていて、とても見せられる状態じゃなかったのです。なかなかか勇気が出なくて、子どもたちはうんと言いませんでした。でも、ようやく私たちの説得を受けて一般公開をすることに決めたのです。 そこで私たちは、どうせ一般公開するならばお客さん3000人に来てもらうという目標を立てようよ、といいます。いろんな曲折がありましが、そういうことになりました。 私のクラスのことについて言いますと、じや、3000人の1割、300人を引き受けようよということになりました。何をやったらいいか。考えついたのが、身の回りにある、竹で作った玩具をみんなで作って、その作り方を展示したりして、子どもを集めようということでした。 竹とんぼを作って、竹とんぼ教室をして、子どもに賞品を出すって宣伝をすればいいという話になったのです。それがいいということで、竹とんぼが作れないといけないという話になりました。 ところがHRで、竹とんぼを作らせたら、ぜんぜん、飛ばないのです。ヒョロヒョロと上がって、直ぐに落ちてしまう。ナイフを使えないということが話題になった時期でした。 たまたま、クラスの役員の男の子のお父さんが竹細工の職人だったのです。よしこれだ、というわけで、来ていただいて、1時間HRで指導してもらったら、これはもうすごいです。 今度は、たとえば、体育館でやると、横に飛ぶのは、ここから後ろまで飛んでいく。まっすぐに上がるのは、しばらく天井に張り付いて落ちてこないのです。 こうなるとおもしろいのです。体育の先生も、自分で一生懸命に竹とんぼを作っているのです。そんな状態が、ズーッと広がっていってブームになったのです。 いよいよ当日になりました。子どもたちは入り口のところに机を出して、一人入ってくると“正”の字を一つずつ書いているのです。12時に300人を突破しました。そして終わりの2時半のところで532人になったのです。これは感激でした。 後で分かったことなのですが。彼らは子どもたちを集めるために一生懸命にやっていたのです。中学の先生のところへビラを持って行って「配ってください」とお願いしたり、幼稚園に行って、10月ですから朝寒いのですが、ビラを配っていたり本当によくやっていました。 その結果、全校では1700人になりました。これは、来てはくれないと思っていた子どもたちに、ひじょうに大きな励みになりました。〔コメント〕 「うちの学校祭なんか誰も来てくれない」とKさんの提案に対して渋っていた生徒たちでしたが、具体的な取り組み・事実によってそのような認識を乗り越えていきます。 これが、生徒にとって大変な自信となり、そしてそのことに教職員集団が大きく励まされ、生徒・教職員の実践がさらに進んでいくことになるのです。 続く ↑ランキング(日本ブログ村)はこちらです
2008.02.22
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道路特定財源の環境税化を求める要望書(続き)〔要望の内容〕1、「道路特定財源」を(少なくとも税率上乗せ部分は)「環境税化」していく方向で議論を進める。2、年度内の結論が困難な場合は法案に1年後の見直し条項を加え、時間をかけて上記の論議を進めていく。3、その場合、2008年度の「道路特定財源」も、できる限り自転車道路の整備や「環境対策」などを重視して支出する。4、「道路特定財源」として揮発油税の暫定税率を10年間延長することは認められない。4に関して 〔要望の内容〕4で述べましたが、私たちは「道路特定財源」として揮発油税の暫定税率を10年間延長することは認められない、と考えています。 一刻も早く「道路特定財源」を「環境税」に切り替えることが必要だと考えるからです。政府の案では「道路特定財源の趣旨」を受けて「大部分は道路建設に充てる」ということになっていますが、道路建設などの「インフラ整備」は多くの二酸化炭素を発生させることが明らかになっています。それを10年間継続することのマイナスは計り知れないでしょう。〔 橋本賢氏(『日経エコロミー』)は二酸化炭素の排出の原因を検討した結果、最終消費財を作り、使う際のエネルギーよりも、「生産インフラ(設備、工場)の整備」「交通インフラの整備」「自動車等の製造」「原材料や最終消費財などの輸送」で消費するエネルギーの方が大きく、二酸化炭素を排出していると述べています。〕 高速道路などを今のペースで建設していくこと」は今以上に自動車による移動を促進し、建設によって大量の二酸化炭素を排出していくことになります。そのような政策は「全人類的な緊急の課題」に背を向けるものであると言わなければなりません。口先だけでなく「二酸化炭素削減の数値目標」を達成していく「実践」を進めていくためには、これまでの建設計画の見直しは不可欠であると考えます。 まさに環境対策は急を要する全人類的課題であり、まず「暫定税率10年間の存続を決めて」(又は廃止して)「環境税」については何年もかけてゆっくり検討していく、といったことが許される状況ではないと考えます。 国会も含めて国民的な論議が求められているのは、 この「道路特定財源」の議論を、長期的な社会の発展ビジョンや温暖化対策という観点から論議し、暫定税率の環境税への転換へと一歩踏み出すことではないか、と考えます。 このたびの「道路特定財源」に関する論議を機に、日本、そして世界の将来を開いていくような建設的な論議を進めていただくよう重ねて要望いたします。※以上の「要望書」は修正のうえ各政党、首相官邸などに送付したいと考えています。 環境問題に関連する記事(「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」について考える等)を次のページにまとめておりますので、よろしければおいでください。“しょう”のページへジャンプ ↑ランキング(日本ブログ村)はこちらです
2008.02.22
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S子がU高校で体験できたこと 1◎U高校の「実践報告」より 学校存続をかけて教師たちがようやく結束し、「一糸乱れぬ教職員の取り組みが教育力」などを合い言葉に校門指導などいくつかの実践をはじめたものの、力で押さえる傾向の強かった指導は子どもたちの心に届かず 「荒れ」は潜在化し、学校はついに地域全体に大きなショックを与える「集団リンチ事件」に見舞われることになった。 (…)私達に「生徒の心に響く指導でなければ指導にならないこと、そして企業主義的学校づくりからいってもこの点を抜きにしての学校づくりはありえないこと」を強烈にわからせてくれた契機として重大な出来事であった。ここから教師と生徒の誇りを賭けた学校づくりの挑戦が始まった。 リンチ事件を「差別に苦しむもがき」と捉えた。だとすれば子どもたちの心の中に彼等の求めてやまない「誇り」を生徒の現実に合わせてどのように築きだすことができるのか。 リンチ事件の分析で「集団解体」の情況が明らかになってくる中で、本格的な「クラスづくり」の必要性をようやく私達は考えるようになっていった。(…)◎Kさんの講演の内容(関連する部分)ですHRづくりの開始(…)私たちは、HRを作ろうと、いろんな民間教育団体の実践などを読みながら考えるようになりました。(A)「赤点学級」 たとえば、私は何をやったのかと言えば、当時、「どぶ川学級」というのが、映画になって有名になっていましたが、その真似をしました。 3学期がいよいよ終わるという段階になって、まだ、私のクラスに数学で7、8人落第の候補者がいました。(24点しか取れなければ落第) みんなに話しました。赤点ってクラスのみんなの借金だよね。これをどうする? 子どもたちに討議をしてもらいました。 そして、始業の前に、1時間、みんなで赤点学級をやると決めるのです。 S子という子がいました。この子は、うちの学校に来るなんて、全然予想しなかったのに来てしまった。もう、この私学差別に耐えられないから、勉強をして一刻も早くここから抜け出したいと考えている子どもです。 ですから、一生懸命に勉強をし、ガリ勉をしますが、クラスの子とは交わりません。勉強はいつもトップでした。一方、Yという子どもを中心に、様々な非行を犯す子どもたちがいました。彼らは落第の候補者です。で、早朝学習に、この落第候補者が集められる。そしてS子が、勉強ができるということで、「小先生」になって数学を教えます。1週間続きます。 1週間やる中で、どのようなことが起こったのかということです。たとえばYという子どもたちから見ると、先生、 S子は今までガリ勉でクラスのことなど何もしないと思っていたけれども、今度はよくやってくれた。ああいうところがあるのだね、と言うようになるのです。 S子の方は、いつもデタラメばかりやっていて嫌な人たちと思っていたけれども、この1週間に一生懸命やったよね、と思う。こういうふうに、お互いが交差する中で、相手を発見するというふうになっていきました。〔コメント〕 18日の日記で私はU高校の実践を、「人(仲間)に対する信頼を培うような体験によって、お互いの素晴らしさを承認しあい、そのことによって“傷つけられていた誇り”を取り戻していく」実践と述べました。 「人に対する信頼⇒相互の承認⇒誇りを持って生きる力」を培っていくことが問題の本質にある、とも。 この実践は、上記のKさんの講演で紹介したように「地道なクラス作り」から出発します。子どもたちにとって、クラスとは「人とのつながりをつくり、仲間への信頼を培っていく場」となりうるのです。 続く ↑よろしければ投票していただけますか(一日でワンクリックが有効です)(教育問題に関する特集も含めてHP“しょう”のページにまとめています)
2008.02.21
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私たちは「環境税」導入の趣旨は次の2点に整理できると考えています。1、化石燃料などを消費して環境に負荷をかける「経済主体」が、「環境対策」にかかる社会的費用・環境政策の財源を支えることは当然である。2、消費者のライフスタイル転換や省エネ新技術の普及促進を図るための、経済ツールとしての役割が期待できる。 1の論点は、車を利用することが「環境への負荷」を含めて様々な対策・費用を必要とする問題点を生み出すという事実(「外部不経済」)に関わるものです。この「外部不経済」の大きさを試算すると、現在倍率課税されている「揮発油税」を含めて考えても、実際に負担している額をはるかに越える(負担している額の3倍!)とも言われています。 そしてまた、私たちは「環境税」に関して2の論点を強調したいと考えます。例えば 「環境税(炭素税)」によりガソリンの消費者価格を高め、車の利用コストを他の商品に比べて相対的に高くする一方で、ハイブリッド車などを税制面で優遇したり、補助金を出して公共交通を安価で充実したものとすることで、各消費者の行動転換に経済的インセンティブ(動機づけ)を与える、ということです。 そのような「政策」により国民の消費行動が変化していけば、それがさらに「環境に負荷をかけない技術」の開発・普及を促進していく、という側面を見逃してはならないと考えます。 この点から考えると、「税率は半分にして一般財源化していく」といった野党の主張は、二酸化炭素排出抑制策としての有効性が疑わしい、と言わなければなりません。ガソリン等の価格が今より25円安くなったとすれば、その消費量、そして二酸化炭素排出量は現在より増えることはあっても減ることはないでしょう。 (2)「環境税」の使途について 私たちは、現在の「揮発油税」を一切道路関係に使うべきではない、といっているのではありません。橋梁の点検・補強、残されている生活道路の整備、都市部での歩道や自転車道路の整備、さらには自治体の除雪作業など、必要な事業を「道路特定財源」によって進めることができます。 そのような現実も踏まえ、私たちは 「道路特定財源」を性急に全廃するのではなく、「暫定税率部分の環境税化」を主張するものです。 「環境税化」が実現されれば、現在、環境省や農林水産省が打ち出しているさまざまな環境対策に積極的に支出することができます。それは、地域の振興にとってもプラスの影響をもたらすものと考えられます。 また、EU諸国では「二酸化炭素税(環境税)」によって得た財源は「環境対策」と「福祉」の両方に活用する、という考え方が一般的のようです。いずれも重要な政策であることはいうまでもないことであると考えます。(3に続く) 環境問題に関連する記事(「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」について考える等)を次のページにまとめておりますので、よろしければおいでください。“しょう”のページへジャンプ ↑ランキング(日本ブログ村)はこちらです
2008.02.21
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道路特定財源の環境税化を求める要望書 本格的な国会論戦が始まった「道路特定財源」に関する下記のような「要望書」(私案)をまとめてみました。修正のうえ「送付」する予定ですが、色々なご意見をいただければ幸いです。 このたびの暫定税率延長問題も含め、「道路特定財源」について私たちは以下のように要望をいたします。〔要望の内容〕1、「道路特定財源」を(少なくとも税率上乗せ部分は)「環境税化」していく方向で議論を進める。2、年度内の結論が困難な場合は法案に 1年後の見直し条項を加え、時間をかけて上記の論議を進めていく。3、その場合、2008年度の「道路特定財源」も、できる限り自転車道路の整備や「環境対策」などを重視して支出する。4、「道路特定財源」として揮発油税の暫定税率を10年間延長することは認められない。(仮に2008年度予算に直接かかわる1年間の「暫定税率延長」については容認するとしても)。〔要望の理由〕1、2、3に関して(1)「環境税」導入の有効性と緊急性 福田首相が、ダボス会議で「国別削減目標」の設定に踏み込んだ発言をされましたが、 「温暖化対策」はまさに急を要する全人類的課題となっています。 二酸化炭素排出の負の連鎖(永久凍土の溶解⇒二酸化炭素やメタンガスの大量放出、あるいは海水温の上昇⇒海水中に溶解している二酸化炭素の大気中への放出)は、産業革命を基点に2℃上昇した時点で後戻りできなくなる、ともいわれています。(EUの試算より) このような全人類的課題の解決にとって、京都会議の議長国であった日本、洞爺湖サミットで中心的役割を果たすべき日本の「実践」は大きな意味を持っていると言えます。 しかしながら、現状においては充分な成果をあげる有効な「実践」ができていない、と言わなければなりません。 日本の2007年の環境白書によると、民生部門、運輸部門の二酸化炭素排出量は、1990年と比較して大幅に増加しています(業務その他:45%増、家庭:37%増、運輸:18%増)。自家用乗用車は運輸部門に含まれ、この部門の排出量の半分近くを占めています。 従って今後、産業部門における省エネの努力はもちろんですが、民生・運輸部門においてより積極的な省エネ努力や、各消費者のライフスタイル転換、そして、新技術の導入が重要だと言えるのではないでしょうか。 それでは、実際にその技術の普及をいかにして奨励・促進していくか。有力な手段は、「環境税」などの税制や補助金制度を効果的に活用することであると考えます。私たちは「環境税」導入の趣旨は次の2点に整理できると考えています。(ア)化石燃料などを消費して環境に負荷をかける「経済主体」が、「環境対策」にかかる社会的費用・環境政策の財源を支えることは当然である。(イ)消費者のライフスタイル転換や省エネ新技術の普及促進を図るための、経済ツールとしての役割が期待できる。(2に続く) 環境問題に関連する記事(「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」について考える等)を次のページにまとめておりますので、よろしければおいでください。“しょう”のページへジャンプ ↑ランキング(日本ブログ村)はこちらです
2008.02.20
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Kさんの講演より U高校に行ったときには、第1次のベビーブームの時期ですが、私が入った時には、17人新任の教師が入って、その前に17、8人が退職をしているという。ガラガラと教師も替わるという時代でした。やはり居心地が悪くて、若い教師はだいたい私学に勤めていても3年くらいで公立学校に移っていくという、そういう状況でした。 組合もなくて職員会でものを言うと、すぐに校長室に呼ばれて、「そんなことをいっていると来年は居られないぞ」と言われるような状態でした。 これでは、教育にならないということで、その年の5月に、先輩たちといっしょに労働組合をつくって、それから後1年は私が書記長でがんばったのですが、いくつかの成果をあげてすぐに、次の3月に委員長が解雇攻撃にあいました。 これを1ヶ月ほどの闘いで取り戻したのですが、2年目から私たちは全部執行部をおろされてしまって、御用組合化してしまいました。3年目に私が復帰して執行部を全部取ったら、今度は第2組合が結成されて真二つに割れるといった状況になったのです。 1973年から78年の間、私たちの職場は大変荒れました。生徒減というのがはじまったということと、それから組合が分裂したということで、学校の教育になかなかならなかったのです。職員会も空中戦ではげしくやりあうのですが、決まっても誰も守らないという状態が広がりました。 生徒減ですから経営者の方は、いっきに、生徒が減ってくるのを、経済的に防ぐために、いろんな子どもをどんどん入れてくるようになりますし、その状態に私たちが追いつかない。気がついた時には1000人いた生徒が500人に減っていました。 そしてまともに全校集会さえも成立しない、どうにも仕方がない状況が生まれていったのです。ある時、その全校集会が行なわれた後、私たちは職員室に戻ってきて、誰からともなくボソボソとこんな話をするのです。小学校の時には、きちんと聞けたはずだ。中学校の時にだって、全校集会の時には、しつかりと聞けた。ところが高校になって、飯を食えば食うほど、そのことができなくなってくる。これはいったいどうしたことなのだろう、と。 組合は分裂して、職場は割れているのですが、さすがに教師ですから、みんなそこが痛いのです。そこでこんな議論をしました。それじゃもう1回1週間後に同じ全校集会をやってみようと。 子どもたちには、「飯を食えほどこんなふうになってしまうのは情けない。もう1回1週間後に、きちんとしたのをやってみよう」と呼びかけながら。教師の方は、その日は、廊下に名簿順に並べて、先頭に教師がついて、体育館につれていくという、そういう小学校とまったく同じにやったのです。ところが、これが、ピタッと決まるのです。 たぶん、子どもたちも、残念だと思っていたと思うのです。で、一週間の後にやった全校集会はきっちりと決まったのです。 これが荒廃した状態の中から、私たち教師が「教育の営み」を考えようとした最初でした。そして、そのことを私たちは、整理しながら、次の4月からいくつかのことについて実行していきました。 「教師が団結して子どもたちに教育要求をつきつけることができれば、子どもたちもー生懸命に考えてくれるのではないか」と問題を立てたわけです。そして、そのことが、ある意味では成功し、2年くらいかかて、それまでの荒れた状態が引いていきました。〔コメント〕 U高校の素晴らしい「学校づくり」の実践が、「職員集団が分裂して教育どころではない状況」から出発したのだ、ということは心に留めておきたいと思います。たとえ「最悪の条件」であっても、それは出発点だと考えるべきなのでしょう。前途多難ではありますが、現状を「逆転」させていくための「学校づくり」がこうして始まったのです。 続く(教育問題の特集も含めてHP“しょう”のページにまとめていますのでよろしければ…) ↑ランキング(日本ブログ村)はこちらです
2008.02.19
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「生きる力」について考える “よたよたあひる”さんから素晴らしいトラックバックをいただいたので、今日はそのこと(「生きる力」)について書きたいと思います。 これまで紹介してきたU高校の実践はなぜ子どもたちの心を揺さぶったのでしょうか。そして、なぜ実践記録を読む私たち自身の心をも揺さぶるのでしょうか。 それは、「人(仲間)に対する信頼を培うような体験によって、お互いの素晴らしさを承認しあい、そのことによって“傷つけられていた誇り”を取り戻していく」実践だったからではないでしょうか。 「生徒の言葉」のところで私は「人間(自己意識)は人から認められること(承認)を求める存在であり、それが満たされない状態に置かれると、深く傷つくのが人間だ、と書きました。 そのことは、『ワーキングプア3』の中でも鮮明に投げかけられていたように思います。 12月17日に放映されたNHKスペシャル『ワーキングプア3』は見事なドキュメントでした。キャスターの鎌田氏は「ワーキングプア問題の根源に迫ることができた」と語っていましたが、それは同時に人間の本質に迫っていたと思います。 番組の最後にNHKは「ゴミ箱から拾った雑誌を売って生き延びていたホームレスの若者」を登場させます。彼は路上生活を続けていたのですが、現在は「臨時採用の職員」として路上の清掃や街路樹・植栽の草取り・整備などを仕事としていました。 「顔も覚えてもらって声をかけてくれたり差し入れをしてくれる人がいる」「今のほうがいい」という若者は、仕事のない日にも一種のボランティア活動(ホームレス向けの炊き出しの手伝い)をしていたのです。 「みんなとつながること。つらい時はつらいとか、こうしてほしい時はこうしてほしいといと言えるのがいいんじゃないかな。一人で生きて全部できるってことは絶対にないからね。人とのかかわりは切らない方がいいと思う。」 そして、「以前『生まれてこない方がよかった』と言っていたけど今はどうなの?」というインタビュアーの質問に対して彼は次のように応じるのです。 「基本的には今もその気持ち(生まれてこない方がよかった)はある。今の姿は本当の意味で誇りを持って出せる姿じゃないからね。ちゃんと社会復帰してから(みんなに認められるような人の役に立つことをして)はじめて生まれてきてよかった、生きててよかった、ということになるんじゃないですか」と語りながら彼は声を詰まらせて泣きます。 そのあと「やっと“普通の感情”がよみがえってきたんじゃないですか。」 「以前だったら絶対泣かなかった」「今は人を信じられるから」と再び泣きながら語るのです。 キャスターは語ります。誇りを持てない生活を強いられることは「人間的な感情さえも押しつぶしてしまうものなのです」と。 ドキュメントのなかで最後に浮かび上がってきたのは、「厳しい現状にあきらめ、人間的な感情さえ抑圧していた自分」から何とか抜け出そうとする若者、「社会の中で一定の役割を果たしつつ“人とのつながりと誇り”を取り戻そうとする」若者の姿だったのです。 『ワーキングプア1』では「あえて人とのつながりを絶ち、(人間らしい生活を)あきらめるよう自分に言い聞かせている」若者だったのですが、その意識のなかには「本当は人とつながりながら“誇り”のもてる生活をしたい」という叫びがあったのです。 大切なことは公教育を含むさまざまな場面で、このような人間の根源的な叫びを受け止めることではないでしょうか。「人に対する信頼⇒相互の承認⇒誇りを持って生きる力」を培っていくことが問題の本質にあるように思います。 ↑ランキング(日本ブログ村)はこちらです
2008.02.18
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U高校の学校づくり(Kさんの講演より) 「他の学校ではなかなかできないような取り組み」についてKさんの「報告」から引き続き紹介します。 「権利としての自治」を発展させる観点 からは主に三つの実践をあげたい。 一つは、「禁止踏み切りを通学路にかえる」という自由拡大の取り組みである。正式には駅から学校まで15分かかる通学路。禁止されている近道を利用すると8分という現実。 幅90センチの作業道で、危険度が高いためJR関係(当時)から厳重に禁止され続けてきた踏み切り。しかし、観光により通行が許されている地元の人びとの存在と便利さから、毎朝多くの生徒が通行し駅とのトラブルが絶えない。 「西高生通るべからず」の駅側の立看板に対して生徒会は全校生をまとめ、踏み切り通行の自主的ルールを確立し、それを条件に駅側と交渉を重ね、自分たちが踏み切り指導を徹底させることを条件にJR側に踏み切り通過を認めさせた。 さらに学校・PTAと共に交渉を発展させて、将来の“跨線橋”建設と駅前開発、通学路整備の展望までつなげた取り組みは全校集団が「世界に向かい世界を変えた」自治本来の闘い として重要であった。 この取り組みは現在さらに発展し、生徒会は「D-プロジェクト」(ドリーム・ステーション・パーク・プロジェクト)を発足させ、市長との交渉、地元自治会との共同など多面的に活動を組織し、自由横断道路と駅前広場を早期に完成させること、その広場づくり活動に西高生の意志を反映させる権利を要求し、学校ぐるみ地域づくりに参加していく活動に広げていった。 この取り組みの中で「世界は変えられる」と確信を持って発言する生徒が数多く登場してくる。 もう一つは「全校タバコ討議」の実践である。駅、通学路、校内を問わず散乱するタバコの吸い殻。(…)こうした現実を「現実を変え自分たちへの評価を変え、誇りを取り戻す自治の実践」と位置付けて全校で3カ月をかけて取り組んだタバコ討議は、生徒たちを喫煙をめぐって2つに分裂させ、泣きながら討議を進めるクラスの出現に見られるように幾つかの価値争奪のドラマを生みだした。 各クラス決議が廊下に張り出され、全校のタバコ追放決議が採択されて再び全校は統一する。駅からも地域からも学校からも以後3年間全くタバコは姿を消し、地域の評価は一変する。このようにして彼らは再び自らの誇りを取り戻し、自治を前進させたのであった。(…) 三つには「三者懇」の取り組みである。 三年前、一つの学年の取り組みとして発足した生徒・父母・教職員の学年内での懇話会を翌年から全校の取り組みに発展させた。 二年目の総括で、「話し合いに結果が返されてこなければ話し合う意味がない」という要求を受け入れ、三年目からは「合意できた案についてはこれを職員会にあげて審議し、三者懇に返してさらに生徒からの要求があれば、その事項について協議会を持つ」ことを職員会が承認し、その結果、本年度からは学内協議会が設置され生徒の学校運営への参加が一部ではあるが開かれつつある。 三者の代表で構成する実行委員会では先に行なわれた懇話会の協議が行なわれたが、対等に渡り合う生徒の姿が印象的であった。〔コメント〕 学校における生徒の「自治」というのは、例えば生徒会行事など一つの枠の中に限定されたいわば「教育としての自治」なのですが、U高校の場合は実践が学校をつきぬけ地域へと発展したり、学校そのものを三者懇で問うような取り組み(生徒の「意見表明権」を実質的に保障するような取り組み)が行われていきます。このような取り組みに向けての「合意」が職員集団の中で成立していったことは驚くべきことではないでしょうか。 長年にわたる「学校づくり」実践の積み上げがその背景にあったことは疑いありません。しかし、このU高校においても「不毛な対立」を乗り越えられず、「教育どころではなかった」時期もあったのだそうです。次回はそのことにも触れたいと思います。 U高校の実践の大まかな全体像はこちらです 続き ↑ランキング(日本ブログ村)はこちらです
2008.02.17
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U高校の実践(Kさんの講演記録より) S子のこの問題提起(発言)を私たちは、1万人の学園祭をつくろうと子どもたちに戻すのです。 次の年の生徒総会は、例年になく活発になって、延長して2日間やりました。執行部が出した「1万人集める」原案に対して、いろんなところから、反対意見(「それで失敗したら逆にがっくりしてしまうじゃないか」など)が出るのです。 そういうことを提案する本部と、2年のあるクラス(集団づくりを意識しながら鍛えられていたクラス)との間で少し議論をしながらやったのです。体育館で「コ」の字形に総会の場を作って、発言者は真中に出てきて発言します。 今までみなの前で発言なんかしたことのない子どもたちですが、そのクラスの子どもたちは、次々に出てきて発言するのです。格好がいいのですよ。ものすごく。みんなの前でそういうふうに見られるということが。 だから、ボスたちが、もうじりじりして、自分たちが、出てきてマイクを独占しようとするのだけれども、そういう勉強(考えていることをきちんと言葉にすること)をしていないから、トンチンカンなことを言ってしまう。 ますます、そういうことがきちんと出来るクラスの権威が上がるのです。 この年は8000人というに修正案が出て、可決されるわけですが、決まったことがそれだけ皆に定着し、子どもたちがいろんな学校に行って、客があつまっている催物などを偵察してくるのです。 そしてそれをとことんやったところで、4700人までになるのです。子どもたちは、ものすごく、自信を持つようになりました。 そうして、そんなことがあった年の後夜祭が一気に激変します。後夜祭というと、いろんなものを真中で燃やすのですが、それまでの学校祭は誰もいないのです。役員30人くらいが周りにいるだけ。 ところが、アッと驚きましたね。4700人を集めた学校祭の後、後夜祭に行ってみたら薄暗いグランド一杯に残っているのです。子どもたちが。そして、さんざん、フォークダンスを踊った後で、いよいよ終わり。火が小さくなって終わりになった時に、生徒会長のE君が動きました。 机を持って火の側にかけて行って、その上に飛び乗ると、「みんな、座ってくれー!」というのです。そして、みなが、スーッと座っていくと、そこで、「これで第何回U高祭を終わります。ご協力ありがとう」と言って、そして、飛び降りて、私たちのところにきて、周りにいた教師全員に泣きながら握手していくのです。 その後に総括を50人ぐらいの役員会でやりましたが、子どもたちは、みんな泣いていて、ほとんど話にならないのです。周囲で見ている私たちももらい泣きしてしまったのでした。〔コメント〕 受験学力が低く「馬鹿にされていたU高校」でしたが、学校祭の大成功は「U高校で本当によかった」という誇りと確信を創りだします。いわゆる困難校で、このような素晴らしい学校祭を創っていく実践は多いのです(私の前任校もそうでした)が、U高校の場合保護者、さらには地域と連帯しながら「他の学校では実現したことがないような取り組み」を成功させていきます。 U高校の実践の全体像はこちらです(特に後半部分にご注目ください) 続く ↑よろしければ投票していただけますか(一日でワンクリックが有効です)(教育問題に関する特集も含めてHP“しょう”のページにまとめています)
2008.02.16
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S子はなぜ「言葉」を発することができたのか kurazohさん、コメントありがとうございました。昨日の「生徒の言葉」と貴方のコメントに関連したテーマで今日は書かせていただきます。>自分の感情や考えを言葉で表現することが苦手な子どもが非常に多い。荒廃した家庭でも教室でも、「言葉」を使った問題の整理や解決が行われていない。自分に対して本気で向き合うための「道徳」の時間が、全くいい加減である。 上記コメントで述べられたこと(「何が大切か」)については基本的に賛成です。自分の気持ちなどを「言葉で表現すること」、「自分に対して本気で向き合うこと」がどれほど大切か、ということは昨日ご紹介した「S子の言葉」からも明らかでしょう。 S子は、自分自身の中で 「他者に語れないままわだかまっていた体験」を言葉にすると同時に、 「U高校での自分自身と本気で向き合うこと」「そこで得られた体験の意味を真剣に振り返ること」で 自分にとって「U高校は心の翼をくれた場所」「この学校を誇りに思って生きていけるだろう」という言葉を発しています。 S子が「自らを振り返り」「言葉を発することができた」背景にはS子自身がKさんとかかわりながらつかみ取った「総合的な力」「体験そのものに培われた力」(単なる言語能力を越えた力)があったと思われます。 S子が「言葉」を発していったきっかけは「三年時の進路指導だったのだそうです」KさんはS子と進路の話をするのですが、どうも話がおかしい。そこで思い切って「なぜ大学に行きたいんだ」と聞いたところ「U高校を最終学歴から消したい」という本音を引き出すのです。 Kさんは「そのような考えを乗り越えるためにこそ、いままでさまざまなことに取り組み、価値のある体験をしてきたのではかったのか」とS子に迫ります。そして、さまざまな話をした後で、S子自身も高校生活を本気で振り返りつつ発した言葉が、昨日紹介した言葉だったのです。 このような言葉を、つむぎだすことができた要因としては次のことが考えられます。1、S子自身が体験を「言葉」にしていく「言語能力」を持っていたこと。2、Kさん(担任)がS子と真剣に向き合い、「自分自身の体験を振り返り、その価値を確認していくよう」強く迫ったこと。3、S子自身が「学園祭」、「赤点学級」など(行事やクラス活動)を通して新たな人間関係を作り、仲間への見方を変えることができたことも含め「その価値を確信できるような豊かな体験」を得ていたこと。 です。 さて、上記の場合、一見「問題がないかに見えるS子」も見えないところではげしくもがいていたわけですが、「困難校」で出会う「指導の難しい子どもたち」の多くは「いらいらする自分」「傷つき情けないと思っている自分」と、「誇りを持ってまっとうに生きたいと思っているもうひとつの自分」との間で激しくもがき、葛藤しているように思われます。 そのような子どもたちが「両方の自分としっかり向き合う」ためには(言語能力の指導や「道徳」などの時間における「振り返り」が大切なことはいうまでもないのですが)Kさんが行ったような一種の「対決」、「豊かな体験」を得るためのチャンス(舞台)を創っていくことが大切なのではないでしょうか。 続く ↑ランキング(日本ブログ村)はこちらです
2008.02.15
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なぜ「翼をください」なのか U高校の「誇り」をテーマにした「学校づくり」実践にせよ、前回述べたような日常的で地道な「教職員集団づくり」にせよ、踏まえておくべき真実(共通点)があると私は思います。それは、「人間(自己意識)は人から認められること(承認)を求める存在だ」ということです。それが満たされない状態に置かれると、深く傷つくのが人間だ、と思うのです。(この点については前世紀の初め『精神現象学』の中でヘーゲルが深く洞察していました。) U高校の出発点は「集団リンチ事件」だったことを、前々回の日記で述べましたが、さらに新たな学校づくりを展開していくきっかけは一人の生徒(S子)の次のような言葉だったのだそうです。 「私にとってU高校とは、何だったのかを考えてみよう。中学時代から、それは、ひじょうに、印象の悪い学校であった。エンジ色のネクタイをしている人を見ると、『ねえ、あれ、U高校』と言った具合に偏見の目で見ていたのだ。 人間を人間として見ていなかったのだ。しかし、私は希望していた学校に落ち、考えてもみなかったこの学校に入ることになり、一挙に、その立場が逆転してしまった。その立場に立って、はじめて、その悲しみを知ったのである。 高校が人生のすべてであると思い絶望して、このU高校に通っていた。エンジ色のネクタイが嫌で、嫌で、何度、取って帰ったか分からない。どうして、こんなに目立つ色をしているのだろう。黒とか柑なら目立たないのに。この色は、世間に私は馬鹿ですと言っているようなものだ」。 担任のKさんが、それまでの取り組みを振り返りながら色々S子と話をした後で、彼女が班ノートに書いた文章を手直ししたもの、それが卒業文集に残された次の文章です。 「私にとってU高校とは、心を鍛えてくれた場所だろうか。悲しみの中から人間とは何であるかを教えてくれた場所だろうか。何事も相手の立場に立って考えなければ、真の気持ちは分からないこと。友だちの大切さ、努力を惜しまずに前進するすばらしさ。相手を思う優しさ。プラス強さ。人間は1人の力で生きているのではないこと。人間は成績などで計りしれないこと。 この学校であればこそ学べたことだ。もし、ストレートに公立高校に入っていたら、どんな人間になっていただろう。人間とは何なのかを得たことによって、U高校である悲しみが消えたのだ。この学校を誇りに思って生きていけるだろう。 そう、私にとってU高校とは、人間のすばらしさを教えてくれ、心の翼をくれた場所。この翼を大きく、果てしなく広げていきたい。はばたく鳥のように」。S子は、この言葉を残して卒業していったのだそうです。(この言葉が「翼をください」というドラマの表題になったのです。) しかし、S子が残していった言葉は職員にとってひじょうに重い課題だったのでした。なぜなら、彼女は、「この学校の中にいてはダメだ。この学校の中でなにをしても言っても駄目だ」という叫びを言葉にしたのです。つまり、学校差別というものは、社会的に外から襲ってくる。だとすれば社会的に押し返す以外にない。これがSさんたちの考えでした。 ならば、どうしたらいいのか。出来ることで彼らの悔しさに火をつける。そこのところを学校改革、「誇り」を取り戻すために現状を「反転」させていくエネルギーにしたい。この論議がまた、さらなる「学校づくり」の出発点になっていったのです。 続く ↑ランキング(日本ブログ村)はこちらです
2008.02.14
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前回ご紹介した「U高校の学校づくり」についてです。 U高校の教職員集団は「集団リンチ事件」を機に「“一糸乱れぬ生徒指導”が“時おさえ”として必要な場合もあるが、生徒の心を揺さぶるような指導でなければ教育としては成り立たない」という共通認識から再出発します。 そして、職員集団と子どもたちがさまざまな実践を展開し、いくつかの「ドラマ」を生み出す中で心揺さぶられた生徒は、時に「素晴らしい心からの言葉」を発します。そのような子どもたちの言葉が教職員集団のさらなる強力な実践の力になっていくのです。 U高校は「何が子どもたちの発達課題に応えていく道なのか」徹底論議し、実践していく学校であり、まさに、民主的な集団作りを通して職員集団の力を高めていく様子が「報告」から感じられました。 しかしながら、行事もない日常においては「心揺さぶるドラマ」が毎日連続して起こるわけではなく、地道な指導を展開していく必要があります。 私はKさん(U高校の学校づくりを中心になって進めてきた)に対して「日常の中で職員集団が力を高め、職場がよくなっていく要素は何でしょう」と質問したことがあります。 職場の中で同僚に対して「あの人いいよね」というプラスの評価・言葉が多くなっていくと職場全体が伸びていく、とのこと。Kさんの回答は実にシンプルなものでした。「時に批判することも必要だけどそれで相手が変わると思ってはいけない」「人はやっぱり批判されることではなくほめられ評価されることで変わっていくんじゃないですか」と。 まさに教育の原点が「学校づくり」「教職員集団の力を高める道」にも当てはまる、と言われるのです。 考えてみれば、熱心な教職員ほど同僚に対して厳しい傾向があります。時に「あいつはだめだ」といった言葉が本人のいないところで数多く発せられることもありますが、そのような職場はその人を本当の「ダメ教師」にしてしまう危険性があると思うのです。 ここで、私自身の経験も一つご紹介します。 多くの同僚から「ダメ教員」というレッテル貼りをされていた職員の「副担任」をしたことがあります。その時決意したことは、1,家庭訪問も含めた指導を担任とともに積極的に行い、機会を多く作って具体的指導・教育について真剣に話をすること、2,本人の悪口を第三者の前では絶対口にしないこと、逆に「良くやっている」と思われる点を積極的に言葉にすること、でした。 幸い、「勘のいい同僚」が私とともにその職員を「かまったり評価したり」するなかで、その職場における彼に対する評価もだんだん変わっていきました。そして、前任校から一緒に勤めていた職員が「彼は本当に変わった(教職員としての姿勢も指導も)」と言うまでになったのです。 企業コンサルタントの仕事をしておられる船井幸雄氏の講演を聞いたことがありますが、次のような話が印象に残りました。「その企業経営の長所を見つけてとことん伸ばしていく方向でアドバイスすることが大切だ。 長所を伸ばしていく過程でその企業の欠点は自然に克服されていく。欠点を具体的に指摘しその克服を迫るようなやり方で、経営者の力とエネルギーを引き出そうとしてもうまくいかない」と。 この話、私にはKさんの話と深く通じ合うところがあるように思えるのですが、いかがでしょうか。教職員間で指導力や姿勢に「格差」が存在することは疑いないところですが、教育現場を「指導力不充分な職員」が鍛えられ一人前になっていく場にしていくことこそが大切だと思います。その道筋についてもU高校の「報告」は多くの示唆を与えてくれるのではないでしょうか。 続く ↑ランキング(日本ブログ村)はこちらです
2008.02.13
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学校の力(教育力)を高めるためにはどうすればいいのでしょうか。 前回まで高生研の取り組みをご紹介してきましたが「学校づくり」に関しても素晴らしい実践が報告されています。私たちはそのような実践をめぐって論議しながら「学校づくり」の展望について考えてきました。そのような報告⇒論議が広く行われていけば、日本における「学校の力」を高めていくことにつながるものと確信しています。 このたびはNHKのドラマ「翼をください」のモデルとなった長野県のU高校の実践を紹介します。 U高校の「学校づくり」の実践は、学校・子どもたち・教職員が「人間としての誇りと尊厳を回復していく取り組み」から始まりました。深いところで「子どもたちの発達課題・発達欲求」をくみ上げ、それを実現していく「学校づくり」であるといえるでしょう。その根底には「人としての誇りを回復したい」という子どもたちの願いと、それを可能にするような「学校」をつくっていこう、という教職員集団の強い思いがあったと考えられます。 この取り組みの中で注目できる点は数多くありますが、「経営側によって新たに設置された進学・情報コースやスポーツ特奨で入学してきた生徒の力を全校に開放し、今までにないスケールと質をもつ全校集団づくりに挑戦させていった」という点も注目に値すると私は考えています。 単に「進学実績をあげる」「スポーツ大会の入賞者を増やす」(これはこれで大切だともいえますが)だけでなく、そのような生徒たちのエネルギーを活かしながら、「子どもたちの全面的な発達課題」に応えるような「学校づくり」を進めている、という点です。 いま、「夜スペシャル」が話題になっています。それは、「公立学校と私立学校との“学校間格差”を埋めていく一つの取り組み」であるといえるでしょう。ただ、(手続きや進め方等、さまざま指摘されている問題に加えて根本的に)「誇りを持って“平和的な国家・社会の形成”を実践していくような個人が育つ教育、学校づくり」にどのようにつなげていくのか、ということが重要な視点であると考えます。 取り組みを進める中で、私学との進学実績競争そのものが目的化され、校内における格差の意識(これは「誇り」を踏みつけにしかねない要因)を深刻化させていくような「危険性」を「本来の学校づくり」の方向へ乗り越えていくことが大切なのではないでしょうか。 続く ↑ランキング(日本ブログ村)はこちらです
2008.02.12
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教職員の「指導力量」を高めていくことは大切です。それは言うまでもないのですが、問題は、そのための有効な方法でしょう。 民間教育研究団体である「全生研」や「高生研」は、研究会や「ゼミ」での「実践報告→実践分析」を大切にしつつ、実践の課題や展望を互いに共有する営みを進めてきました。 私が「高生研全国大会」で報告した実践「水車の回る店造り」は『高校生活指導』の中で次のように「分析」されています。(一部) 「…生徒の成長が意識されている実践である。それぞれの係りの責任者に語りかけることでリーダーとしての意識を育てようとしている。(…)文化祭の成功と同時に生徒の成長を強く意識していることが、この実践から学ぶことである。」 そして、一人ひとりに働きかける具体的な場面を取り上げながら、その「適切さ」を検証していくのです。 「課題」として指摘されたことは、例えば次のようなことです。 「谷田はこの文化祭での取り組みを通して成長していると思う。(…)しかし、より成長させる手立てはどうだろうか。(…)生徒同士の対立などが見えてこないということは、担任が調整をしすぎていたのではないだろうか。(…)もっと谷田にどろどろした部分を体験させることで、より成長を促すことができたのではないだろうか。」 上記のように「実践報告→分析」の目的は、実践の「いい面」と「課題」を実践者に対して返していくことです。私自身は、(他者の実践も含めて)この実践報告・分析を繰り返していくことで少しずつ「力」(自分の実践を分析し、「生活指導」や「学校づくり」の展望を見出していく力も含めて)をつけていくことができたと思っています。 いま学校現場に導入されつつある「成果主義」もしっかりと自分たちの実践を分析し、展望を見出していくことにつながれば、一定の意味はあるかもしれません。 なお、『いまこそ学校で憲法を語ろう』で紹介されている二つの実践に対する私なりの分析を“しょう”のページに載せておりますのでよろしければごらんください。 ↑ランキング(日本ブログ村)はこちらです
2008.02.10
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「日本の生徒の学力低下は本当か 5」で私は以下のように述べました。 青年期の男女(全人口)の90%以上は高校を卒業していく。欧米と比較しても群を抜いて大きいこの数字の背景には、上記のような学校の「特質」(例えば、特別活動を通した「学びあい」や「自己実現」を大切にし「集団の中での個人の活躍や成長」を柔軟に評価しつつ、個人と同時に「クラスが成長する」という視点を持った「生活指導」)があるだろう。 そのような「生活指導」を追求してきたのが、民間教育研究団体である全生研(主に小・中学校の教職員が中心)と高生研(高等学校の教職員が中心)です。 私も高生研の会員ですが、その理論と実践に学びながら「学校祭」などの特別活動も含めて「指導」してきました。 『高校生活指導』にも投稿した私の実践記録〔高生研(高校生活指導研究協議会)の全国大会で報告した「実践記録」〕です。「教室で造るうどんと団子の店、スケールの大きな企画にしよう」ということで、教室内に池を作り二連の水車を回しました。おとなしいクラスでしたが、子どもたちもずいぶん成長したと思います。よろしければ、お読みください。 「水車の回る店作り」の記録『高校生活指導』に掲載されたもの(短縮版)「高生研全国大会」で発表したレポート(詳しいもの) ↑ランキング(日本ブログ村)はこちらです
2008.02.08
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以前も述べましたが、『週刊東洋経済』(1/12号)は「北欧はここまでやる ~格差なき成長は可能だ!~」というテーマで本格的な特集を組んでいます。 「労働権」、「生存権」や「教育を受ける権利」などを明記した日本国憲法をどのように「実現」していくか、を考える上でも大変示唆に富んだ情報満載! 素晴らしい特集です! 一部ですがその引用とコメント〔「北欧はここまでやる」〕です。 「学力世界一」のフィンランドの教育「スウェーデン家庭に見る福祉国家の真実」 そして、現在スウェーデン在住のYoshiさんがまとめられた「スウェーデンの大学改革」 これは、「教育を受ける権利」に格差を持ち込ませない制度について考えていく上で極めて貴重な資料です。 引用文とコメントを掲載しています。ぜひ、ご一読ください。 ↑ランキング(日本ブログ村)はこちらです
2008.02.07
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生徒を「憲法制定」「憲法解釈」の判断・行為主体にしていくために 2 NHK「日本の、これから」の次回3月8日(土)テーマは「学力」とのこと。 (前回の確認と続き) 「人権思想」「民主主義思想」が明文化された日本国憲法の「制定」「解釈」の判断・行為主体になっていくような学習を成り立たせていくためには、「憲法に息を吹き込む」取り組みがリアルな可能性として実感できなければならない。 さて、それを実感できる「歴史学習」の事例として私はガンジーとキングの生涯、そして、NHKで放映された『ラストメッセージ』(糸賀一雄らの生涯「本来一人ひとりが光り輝く存在であり、“障がい”を抱えた人たちも分けへだてなく共に生きることのできる社会こそが『豊かな社会』であること」を確信しつつ実践していったドキュメント)などをあげておいた。 事実、「障がい者」に関わる取り組みは、それに伴って「街全体が目に見えて変わって行く」という生徒の実感にもつながっていく事例であろう。(現代社会の教科書などには必ずこの問題につながるような写真が掲載されている…「福祉社会」「豊かな社会」に関連して) さらに、「特別支援教育」をめぐってこれまで行われてきた「解釈改憲」の動きを学ぶというのも有効な方法であると思われる。 憲法第26条〔教育を受ける権利、教育の義務〕には「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」とある。 この条文は、憲法成立の当初は「普通教育を受ける能力のないものについては保障されなくても仕方がない」という解釈が一般的であったようだ。 ところが、「障がい児」への教育保障を求める運動が、「能力に応じて」という言葉を「能力の面で困難を抱える児童・生徒にはよりいっそう厚く支援し教育を保障する」という方向へ解釈するという「解釈改憲」によって現在の特別支援教育の体制が作られてきたのだという。まさに日本国憲法を「解釈」し「創造」していった取り組みというべきではないか。 この事情については『自治体から創る特別支援教育』渡辺昭男・新井英靖編著(クリエイツかもがわ)を参照されたい。 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。) ↑よろしければ投票していただけますか(一日でワンクリックが有効です)
2008.02.06
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生徒を「憲法制定」「憲法解釈」の判断・行為主体にしていくために 1 NHK「日本の、これから」の次回3月8日(土)テーマは「学力」とのこと。 NHKが多くの人たちを対象に行っている「アンケート調査」の項目にあった「学力とは何か」に対して私は第1に「具体的経験」の中で生きる知であり、第2に「公的・社会的な問題に対する判断力」と回答した。そして、このような判断をしていく一つの基準として重要なものが歴史の中でかち取られていった「民主主義思想」や「人権思想」であると思われる。「日本国憲法」の条文の多くはそのような歴史・思想を受け止めつつ明文化していったものだともいえるだろう。 さて、『今こそ学校で憲法を語ろう』(青木書店)の中で竹内常一氏は次のように述べる。 たとえ憲法知識を教えるとしても、それをできあがったものとして教えるのではなく、憲法の言う「不断の努力」に参加するものとして憲法条項が教えられなければならないということになる。つまり、その「教えと学び」が「憲法制定行為」(または憲法改正行為)として行われなければならない、と。 しかし上記の「目的を達成する」ためには、まさに憲法を作り「息を吹き込む」社会的な取り組みが「意味と有効性」をもっていることがリアルに実感できなければならないのではないだろうか。 「法」や「憲法」そして社会のあり方は自分たちで作り変えていけるものだ、というリアルな実感はいかにして獲得できるのだろうか? 以前『高校生活指導』(青木書店)に掲載された「高校生が駅前に広場を作る」という実践報告では「社会は変えられる」と確信を持って発言する高校生が登場してくる。確かに自分たちの取り組みを通してそのような確信を獲得していくのが理想ではある。ただ、授業実践としては、「間接的に体験を学ぶこと」や「模擬的に体験すること」を通してそのような「確信」を生み出していくしかないであろう。 「間接的に体験を学ぶ」ためには広義の(現代も含めた)歴史学習が重要だと思われる。ここでは竹内氏が示した以外の事例を自分の体験をもとに提示してみたい。 まず、第1次世界大戦後の闘いのなかで、生徒の認識と心を揺さぶったものとしては「ガンジーとキング」(非暴力運動によって南アフリカの「暗黒法」の撤廃、イギリス帝国主義からの解放を達成したガンジー、およびアメリカの公民権法成立に成功したキング)の取り組み(ドキュメント)があった。 また、NHKで放映された『ラストメッセージ』(糸賀一雄らの生涯「本来一人ひとりが光り輝く存在であり、“障害”を抱えた人たちも分けへだてなく共に生きることのできる社会こそが『豊かな社会』であること」を確信しつつ実践していったドキュメント)や『太陽の仲間たち』(講談社)で描かれている「障害者スポーツ」の普及や「障害者の働く場(太陽の家)」を創りながら街を変えていった中村裕氏らの取り組みが挙げられる。 なお『ラストメッセージ』の内容については、 「特別支援教育の現状と課題」(私の「小論文」)の冒頭に触れているので参照されたい。 ↑ランキング(日本ブログ村)はこちらです
2008.02.05
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NHKは、多くの人たちを対象に「アンケート調査」を行うようですが、私のような教職員からの意見も大切と考えて、アンケートに答えることとしました。項目は多いので、一つひとつ質問項目と「私の回答」を紹介します。(このたびが第7回) 幸いにして文部科学省は「フィンランドの教育」に注目している。「学力世界一」のフィンランドは、「教育の市場化」政策は一切とっていない。 福田誠治著 『格差をなくせば子どもの学力は伸びる 驚きのフィンランド教育』の内容を任意に列挙すると 「格差をなくす それが共通理解」「逆行する日本の教育」「すべての権限を現場へ」「フィンランドでは学校間格差はほとんどない」「底上げすれば上も伸びる」等々。基本的に成績上位者を伸ばすための「特別な措置」は行われずもっぱら「遅い子も追いつける授業」に力を入れているのであり、そのための条件整備をしっかりと行っている。 このような「世界一」の教育に学びつつ「追い立てる発想」を根本的に変えていく必要があるのではないか。ただし、総合的に果たしている役割は日本の教育も負けていないかもしれない。 (『悲鳴をあげる学校』の最終章を参照されたい)〔質問項目〕 めざすべき教育についてお聞きします 日本の教育は、今後どうあるべきだと思いますか?〔私の回答〕1, 学力格差をなくす (ただしこれと「2,将来国を担う学力の高い人材を育てることを重視する」とは両立する。) なぜそう思うのか、ご自身の体験などをふまえ、詳しくお聞かせください。 フィンランドの教育がもっぱら「底上げ」に力を入れていることは前述したが、フィンランドの世界一の携帯メーカーであるノキアについて『週刊東洋経済』(1月12日号)には次のような記述があった。 「日本の端末メーカーが攻めあぐねた新興市場を寡占し、力強く成長するノキア。(…)いまや、世界指折りのグローバル企業だ。海外売り上げ比率は実に99%あまり。自国市場への依存度はゼロに近づく。 だが、ひとたび組織に目を向けると、ノキアは驚くほど“内向き”だ。そう従業員数52488人のうち、3割弱が今でもフィンランドで働く。国別従業員数では最多だ。自国内にはヘルシンキ郊外本社などに加え、工場も工業都市サロなどに4箇所ある。(…) 高福祉のフィンランドでは労務コストが高い。給与や福利厚生費など製造業における労務コストを国際比較すると、フィンランドは米国の1.3倍。日本はほぼ米国並みだから、フィンランドの高さがわかる。 市場は圧倒的に海外にあり、コスト面でも国内は不利というのに、なぜノキアは母国にこだわるのか。その答えを、ノキア本社広報は「母国にはR&Dの素地がある」と言う。フィンランドではノキア社員の6割弱がR&D(研究開発)に従事しており、工場の製品も欧州向けの多機能端末などハイエンド機主が主だ。」 以上は一例だが、「学力の底上げ」に力を入れる教育体制と、先端での技術者の育成が両立可能だ、と言うことは注目するべきであろう。 ただ、社会保障制度の充実しているフィンランドは「家庭教育の基盤」も日本よりしっかりしていると思われる。「学力」の問題を窓口にしながら、社会全体の問題・課題を総合的に考えていくことが求められているのではないだろうか。 コメントを下さったかたがたへ ていねいなコメント、ありがとうございます。 遅くなりましたが、「回答」させていただきました。(教育問題の特集も含めてHP“しょう”のページにまとめていますのでよろしければ…) ↑ランキング(日本ブログ村)はこちらです
2008.02.02
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NHK「日本の、これから」の次回3月8日(土)テーマは「学力」だそうです。 NHKは、多くの人たちを対象に「アンケート調査」を行うようですが、私のような教職員からの意見も大切と考えて、アンケートに答えることとしました。項目は多いので、一つひとつ質問項目と「私の回答」を紹介します。(このたびが第6回)〔アンケートの項目〕 公立の小中学校を自由に選べる学校選択制や、教師の人事評価に成果主義を導入するなど、 学校や教師の質を高めようという動きが始まっています。 公教育の現場に競争原理を導入することをどう思いますか?〔私の回答〕 反対である なぜそう思うのか、ご自身の体験などをふまえ、詳しくお聞かせください。 市場に任せてしまうこと(教育の市場化)が格差の再生産につながっていくことは自明である。それは、学校間格差も個人間の学力格差も確実に増大させていくであろう。 また、教育の成果主義にも根本的な問題がある。その理由はつぎのとおりである。1、教育の仕事は、前述したように一面的なものさしで数値化できるようなものではない。かといって、総合的な評価をあらゆる側面から納得できる客観的なやり方で実施することはまず不可能である。2、教育の成果は教職員集団の「チームとしての力」が作り出すものであり、無理やりに個別の評価をして賃金に差をつけるようなことは百害あって一利なしである。個別に「打率」や「防御率」が出るような野球の選手とはちがう。教育現場のチームワークを壊す力を加えるだけのことである。(具体例を挙げよう。例えば、高校入試の合格率や大学進学率を高めた教員の賃金を上げる、といったやり方が果たして妥当なのか。上記の「率」を個人で高めることは不可能である。また、「賃金が上がるから進路指導に力を入れる」といった制度を導入することは、教育そのものをねじ曲げてしまうことになるであろう。) そもそも教職員の「動機づけ」とは何か。何が教職員をやる気にさせるのか。もちろん進路の実現を含めてであるが、広い意味で生徒が成長したり目標を実現していく姿である。もっと言えば、そのような教育の営みを保護者や社会がしっかり見た上で評価することである。 思うに、「教育の市場化」の根本的な問題は、それが「教師はなってない、という不信感をあおるような形で」推進されてきたことである。(特に、安部元首相は「免許法の改正」なども含めて「選挙対策の実績作りの一環として教育への不満をあおりつつ」それを強引に進めていった。) しかし、大切なことは「無責任なバッシング」ではなく「客観的な評価や課題の提示」ではないのか。 少なくとも社会全体でバッシングして教育をダメにするような愚は犯すべきでない。 しかし、「無責任な批判」によってその愚を犯しつつあったのではないか、と問うことが必要だろう。 次へ(教育問題の特集も含めてHP“しょう”のページにまとめていますのでよろしければ…) ↑ランキング(日本ブログ村)はこちらです
2008.02.01
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