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ジャン=ポール・サルトルの思想と実践が多くの人々に対して生き方を左右するほどの影響を与えたことについて前記事で触れましたが、概略でもそれを紹介することはなかなか困難です。 ここでは、学生時代に書いた文章(最後の部分)を以下に紹介・転載します。よろしければご一読ください。 〔以下、転載〕 サルトルはまず、想像意識の研究を通じて意識(人間)の自由について論じた。彼は、想像意識が目前の現実からはなれて非現実の世界(想像界)を志向するということに注目し、このような意識の「現実離脱のはたらき」を(現実に埋没している事物とは異なる)意識の自由としてとらえたのである。 だが、想像意識が現実世界から離脱するといっても、現実とのかかわりを断ち切ってしまうわけでは決してない。現実世界は像(イマージュ)がその上に成立する土台として常に想像意識を背後から支えているのである。そしてサルトルは、意識によって生きられる現実世界を〈状況〉(シチュアシオン)と名づける。 このように、『想像力の問題』においてすでに〈自由と状況〉ということが主題となっているのである。だが、想像(イマジナシオン)という特殊な意識を扱ったこの著作において、中心的な主題は「想像意識の現実からの離脱」といった抽象的な自由であって、意識(人間)によって生きられる現実世界(状況)の問題ではなかった。 自由な意識存在(人間)とそれをとりまく現実世界(状況)とのからみあいを正面から扱ったのが『存在と無』である。意識は現実世界(および自己自身)に対して距離をおくことによって、それぞれ固有の仕方で現実世界とのかかわりを形成していく自由な存在である。 ところが、世界内存在である意識(人間)は、常に特定の場所に、特定の事物や他者に囲まれて存在するのであり、サルトルはこのことを「意識の事実性」としてとらえる。 行動というのはまさに人間の自由の表現なのであるが、ここにおいて事実性というのは行動の状況として把握されるのである。サルトルによれば、「自由は状況のうちにしか存在しないし、状況は自由によってしか存在しない。(注1)」 つまり、人間の自由な行動というのは何らかの状況でしか実現されず、常に現実世界によって規定され、拘束されているが、しかし、まさに人間はこの現実世界を土台として自らの行動を実現するのであり、そのことによって所与の現実世界を私の状況として意味づけるのである。 このように、『存在と無』においては、自由と状況との絡み合いが正面から扱われる。しかしながら、『存在と無』における状況というのは、それ自体では意味・構造を持たない所与であり、私の自由な意識によって「私の状況」として意味づけられるものにすぎなかった。つまり、『存在と無』においては状況というものが抽象的にしか扱われておらず、「状況における自由」としての人間も、真に具体的レヴェルで解明されてはいないのである。 具体的な状況というのは既に何らかの意味を持った社会的・歴史的状況なのであり、具体的な人間というのはこの状況によって深く規定された社会的・歴史的人間なのである。第2次世界大戦後サルトルは(状況への)アンガージュマンという思想と実践によってさまざまな曲折を経ながらも、しだいに社会的・歴史的状況に対する認識を深化させていく。そして、そのことによってしだいにマルクス主義の真の意義を理解し、評価していくことになるのである。 1960年の大著『弁証法的理性批判』においてサルトルは、実存主義とマルクス主義を統合することによって構造的(社会学的)人間学を構築した。この仕事によって彼は、教条主義的マルクス主義を根底から克服していく道を開いたわけであるが、同時に旧著『存在と無』における自らの哲学をも乗りこえたのである。 つまり、『存在と無』において、状況というのはそれ自体では無意味・無構造的な所与であったが『弁証法的理性批判』においては、それが客観的な意味・構造をそなえた社会的・歴史的状況としてとらえられている。 後半に続く(注)1)『存在と無』 187頁 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。) 〔 「しょう」のブログ(2) 〕もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など)
2013.02.25
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大島渚の死去から一ヶ月が経とうとしています。私は有名な映画監督だったということ以外、ほとんど彼のことを知りません。しかし、ネット上で調べていくだけでも、かなりの人々が「人生を左右するほど大きなものだった“大島渚との出会い”」について触れています。 大島の映画もそうですが、彼自身の生き方・人生そのものが「本当にすごいものだったのだろう」と感じられるのです。 私がなぜ、よく知りもしない映画監督のことを知りたいと思ったのか、ということなのですが、大島の死去が報道されたとき、彼の人生に大きな影響を与えたと思われる出会い(ジャン=ポール・サルトルとの出会い)があったことを思い出したからです。 以前読んだ『同時代人サルトル』(長谷川宏著)で私の印象に残った一部を引用しておきます。 サルトルの反逆性を、おなじく芸術上の反逆者というべき映画監督大島渚は、こう表現している。自作の映画『絞死刑』のパリ封切の日、自身、上映後の質疑応答にちなむ一文だが。 「どんな作家を尊敬しているか」 そう聞かれた時、私の胸は高鳴った。 「ジャン=ポール・サルトル」 そう答えた時、私は目に涙がにじむのをおぼえた。この一言をいうために、十年、私は映画を作ってきたのではなかったか。監督になるための、映画をつくりつづけるための、あらゆる努力はこの瞬間のためにしてきたのではなかったか。私は『自由への道』の第三部『魂の中の死』の第一章の一文を思い出していた。 「彼は手すりに近づいて、立ったまま射ち出した。一発一発が昔の躊躇への復讐だった。(・・・)かれは射ちつづけた。法律は空中に飛び散った。汝は殺すべからず。あの正面のイカサマ野郎に、バン・・・」 そう、私の映画も、昔の躊躇への復讐の一発一発だった。俺は射つぞ! 射ちつづけるぞ! バン、バン、バン。 演技過剰の文章という印象なきにしもあらずだがサルトルへの熱い思いにいつわりがあろうとは考えられない。 大島渚のいう十年は、1959年から69年にかけてのことで、それはもう、民主国家や文化国家の理念がまぶしくゆく手にかかげられる時代ではなく、高度経済成長がしだいに享楽ふうの文化を生み出す時代にあたっていて、だから、大島渚はうしろむきにサルトルと向き合うほかはなかった。 が、うしろむきにせよサルトルとむきあうことができたのは、大島渚のうちで、残影としてであれ、未だ知と思想の力が信じられたからで、上映会場で大島渚をおそったせつない思いには、ひょっとすると時代の動向にたいする無念さがにじんでいたかとも推測される。 いずれにせよ、おのれの映画製作とサルトルへの思いをこのように情熱的にむすびつける大島渚のなかに、戦後民主主義という時代のはぐくんだサルトル像が生きていることは、うたがいようがない。 (引用は以上) 大島渚の人生にとってジャン=ポール・サルトルの思想と実践が大きな影響をあたえていたことがうかがえますが、「大島渚と出会った人々」も含め、人生を左右するほどの出会いがあること、その大きな意味をあらためてかみしめています。 映画監督大島渚以外にも、哲学者の竹内芳郎、長谷川宏、演劇人の唐十郎、津野梅太郎、鈴木忠志、作家の大江健三郎、デザイナーの粟津潔などをはじめとする様々な人たちがサルトルとの出会いの大きさを振り返りつつそれぞれの文章・コメントを残しています。 ずっと下の世代ではありますが、私にとってもサルトルとの出会いが、「人生を左右するほどの大きな意味を持った」のでした。そして、同じ人物との出会いを通して、真剣に時代と向き合い実践する多くの人々が存在すること、存在してきたことは私にとって大きな励みになっています。大島渚の死をきっかけに彼の人生の一端に触れることで、「そのこと」をあらためて実感することができたのでした。 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。) 〔 「しょう」のブログ(2) 〕もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など)
2013.02.11
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