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とある学会があり、今日から松江に出かける。先日、恩田陸の「三月は深き紅の淵を」を読んだばかりなのにだ。このタイミング、なにかを予感させる。 そう、小泉八雲記念館には足を運ばなければなるまい。松江の駅前にあるというジャズ喫茶にも、立ち寄らねばなるまい。そして何よりも、2人の女性が旅に出た八雲神社。その路地の奥にある廃屋の鏡に、自らの利き手を映して見なければならないだろう。それが今回の私の旅にゆだねられた、謎のミステリー本を探しだす鍵なのだろう。 などと自分かってに導入を思い浮かべつつ松江に向かえるのは楽しみだ。松江には、かつて一度立ち寄ったことがある。とある女性を訪ねて立ち寄った。もうずいぶんと昔のことで、その後に私と、そしてその人に起こった数々の事柄のゆえにか、そのときどこで何をしたのか、あまり思い出せない。ただあのときの、せつなく、やるせないような思いと、松江から倉敷へと向かう列車を見送りにきてくれたあの人の姿とだけが、やけに鮮明に記憶に残っている。そういえば彼女の家も、出雲大社の近くだっただろうか。なにやら、ラフカディオ・ハーンの怪しい物語の中に、ずるずると引きずり込まれているような、そんなわくわくする感覚を抱いているのは、私だけに違いないのだろうが、学会などという集まりに、こんなにわくわくと出かけられるのだから、それこそがまさにミステリーなのだろう。
2005年09月30日
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かつて外務省に勤務していた雅子さんが、皇室に輿入れすると聞いたとき、あの快活な語り口調の雅子さんなら、きっと新しい皇室のイメージを作り出してくれるかもしれないと、特に普段はこれといって皇室に興味を持たない私でさえ、なんとはなしに期待をしたことを覚えている。残念なことに、その後に姿を現した女性は、なんの教育を受けたのか、はたまた洗脳されたのかわからないが、かつて私が期待を寄せた人物とはまるで違っていた。 タイゾーが世間をにぎわしている。私もタイゾーに似ているといわれることもあり(といっても私の場合はネプチューンのほうだが)、興味深く彼の言動を見ていた。個人的には、とても面白いと思っていた。たしかに、ああいった人材を候補として立てた理由や責任はしっかりと党本部が説明できなければならないはずだが、あるいみ大衆的で、感覚的には庶民に近いのではないかと思っていた。彼がどれだけヒラリーマンの厳しい暮らしに貢献できるのか、それともただ私服を肥やすだけで終わるのか、見ものだとも思っていた。 しかし、昨日出てきたタイゾー君は、いつぞやの雅子さんを思わせる能面。どうしてこうも、個性を削り落としたがるのか。せっかくのよさが、まるで台無しになっていく。タイゾー君の場合、那須の御用邸で静養するところまでは上り詰めていないようす。慣れない立ち振る舞いで体を壊して欲しくはないし、その他もろもろのつまらぬ議員と同じような議員にだけはなってもらいたくもない。 料亭、私だって行ってみたい。年収2500万、世のヒラリーマンなら、誰だってもらってみたい。そんなギャップをしっかりと代弁できる個性を、えらそぶった連中にむけてみてほしい。国民はきっと、タイゾー側につくはずだ。そんな責任が自分の肩に乗っていると理解できれば、能面の目に火がともる。。。かな。期待は高まるばかりだ。
2005年09月28日
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鏡の中に誰かの姿を見るとき、自分がその人を見つめているのと同じように、その人も、自分のことを同じように見つめているのだという。誰の言葉だったか忘れてしまったし、こんな文章であったかどうかも定かではないが、そんなことが書いてある文章を読んだことがある。 自分の心と体がまったく別物であるように感じられる時、もしかしたら、私たちが支配権を有しているのは、心と体と言う2つの異なる次元ではなく、あくまでも「我思う」部分でしかないのではないかと感じてしまうのは当たり前だ。では問題は、この身体は誰がコントロールしているのか、ということだ。そう考えながら鏡を覗き込むと、紛れもなくその身体の支配権を有しているかのような人物がいる。やけに鋭い視線を私に投げかけつつ、君の思うようには、その体は動かせないよ、と言っているかのようだ。 認知症の高齢者が、鏡の中の人物に語りかけることがある。何気なく見つめていると、ただおかしな行動をとっているだけのように見える行為ではあるが、鏡の中の人物の意志の存在に気がつくとき、彼らの行為は、あまりにも的確な行為であることに気づかされる。 この体のコントロールを許されないまま、ただひたすらにこの体にとどまっていなければならないとは、人間はなんともやるせない生き物だ。
2005年09月26日
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日曜の朝、子供たち2人を連れて、汽車に乗って出かけた。東京で30年暮らしていたときには、電車に乗って、などという言葉が当たり前であったのに、北海道にきてから、汽車に乗るのが当たり前ということに気が付くまで、ずいぶんとかかった。そう、ここでは汽車が、つまり電気ではなく、ディーゼルで列車が走るのだ。黒い煤を吹き上げながら。 電車と汽車との違いはあるものの、乗り込む乗客にはそれほどの違いはないのだろう。乗り込んだとたん、4~5人の若い女性たちが、おもむろにみんな鏡を取り出して化粧をし始めた。個人的には、公衆の面前で化粧を直すのは良いマナーではないと教えられて育ってきた私だ。はっきり言って、そういう女性を見ると、いくらきれいな女性でも、興ざめだ。口紅を鏡で確かめるぐらいならば、まだいいかもしれない。昨日の女性たちは、眉毛から口紅からまつげから、塗るわ、描くわ、反らせるわ。あっけにとられて、思わず見とれてしまった。この間など、毛抜きで抜いている女性までいた。それも鼻毛をだ。確かにオッサンが鼻毛を抜いて、ふぅ~っと吹き飛ばしたりする場面を見ないことがないわけではない。でも、列車の中で女性が鼻毛を抜いていれば、おっさんか?きみは。それでいいのか?とびっくりしてしまう。若い男が鼻毛をふ~っとしていたとすれば、サイアクゥ~などときりすてるのではないだろうか? ひとたび鏡と向かうと、その中の自分の姿しか見えなくなってしまう。それが列車の中であろうが、銀座の街中であろうが、愛知万博の会場であろうが、周りの人の多さとかに関わりなく、私と公の境が一体化してしまうのだ。そのうち、人前で着替えをするのではないかと思っていたら、高校生の女の子が、列車の中で制服の下からジャージの膝下を切ったようなパンツを脱いでいた。列車の中は女性にとってのトイレと化している。 下の娘は3歳。窓の外を見ながら鼻くそをほじっている。似たようなものなのかもしれないが、娘よ、お父さんは、人前で鼻毛を抜くような女性だけには、なって欲しくない。。。いや、鼻くそもだけど。。。そして、鼻くそは、食べないでくれ。。。
2005年09月26日
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高校と大学が連携をする授業ということで、高校に講演に出かけた。高校や中学に行くと、懐かしいなぁという思いよりは、大学にはない雰囲気に、どちらかというと緊張してしまうことが多い。今日も、土曜日で学生たちはそれほどいないのだが、どこか、妙に、張り詰めた気持ちにさせられてしまう。 かつて中学や高校に通っていたとき、自分のクラス以外のクラスは、同じ学校ではあっても、何か居心地が悪く、何か張り詰めた緊張感があったが、それとおんなじ様な緊張感を、あらゆるクラスというか、学校全体から感じてしまうのだ。 確かに、そこに所属しているわけではないのだから、よそ者として感じる緊張感があって当然なのだが、よその大学に学会などで行っても、それほどの排他的な疎外感というか、張り詰めた感じはしないものだ。中学、高校といった学校の、独特のにおいというか、文化というか、確かにあったよなぁ~と、よそ者となってしまった自分がさびしくもあり、懐かしくも感じた今日だった。 ちなみに講演そのものは、校長先生がど真ん中に陣取っていたので、かなりプレッシャーを感じつつではあったし、高齢者向けの話だったが、高校生も3人ほど最後まで付き合ってくれていたので、話の焦点をどこにもって行こうか、微妙だった。とはいえ、頭の働きが最近どうも傾いていると感じる、とすばやく手を上げていた高校生。その行動、確かに傾きかけているかもしれないと感じさせる。途中で退出していった何名かは、レポートのようなものを先生に出していた。きっと欠席した授業の代わりか何かだったのだろうか。それが私の授業だったのなら、大変申し訳なかったなぁ~。 今月の講演は今日で終了。今月はきつかった。来月は自分の仕事ができますように。。。。それは、今は待っている時計の分解。むふふ。。。あー忙しくなりそうだ。
2005年09月24日
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初めて腕時計を身に付けたのはいつだっただろう。たしか、クリスマスか何かに、青いミッキーマウスの腕時計をもらったのが最初だったと思う。それも、たしか銀座のバー「クール」でマスターをしていた古川さんにもらったように思う。なぜなら、古川さんからは、クリスマスに何度も万年筆や時計といったプレゼントをいただいたからだ。今思うと、当時の我が家は、生活保護を受けているような貧しい暮らしではあったが、暖かな人たちに囲まれた、恵まれれた暮らしをしていたと感じる。 ネットでオークションのページを眺めていると、ボーズがやってきて、「時計かって。ムシキングの時計。」と言って来た。そんな時計があるのかと、オークションで探してみると、確かにムシキングのデジタル時計が出てはいる。どうせ、友達が持っていたのを見て刺激されたに違いないとおもい、今度ね、と流しておいた。 そんなことがあった午後、ボーズと娘を連れてジャスコに出かけた。例によって子供たちはムシキングゲームにへばりついている。1回だけだよと100円しか渡していないのに、マーよくもそこまで時間をつぶせるね、というぐらいへばりついている。仕方がなく、ぶらぶらとゲームセンター内をみていると、UFOキャッチャーの一つに、時計が並べてあるものがあった。時計が高級品から景品程度の価値に落ちてしまうなんて、ミッキーの時計を大はしゃぎでつけていたころの私には、まるで想像もできなかったことだ。そこで、ふと、よっしゃぁ~ という気持ちがむくむくわいてきた。そんな大していい時計ではないのだが、こんな時計が取れたなら、ムシキングの時計よりはよっぽどいいのではないか、などとも思え、100円玉をつぎ込んでしてしまった。それでも、5枚で運良く一つの時計を吊り上げることができ、しっかりと帰りにはボーズの腕には時計が巻かれていたのだ。 しかし、時間が読めないボーズの腕に時計が巻かれている意味がどこにあるのか、私にはわからない。こういう状況をして、無駄、贅沢などというのかもしれないし、「今何時?」と腕時計を見せにくるボーズを見ると、かえって面倒を自分で作り出してしまっているようにも感じるが、ボーズが大切そうに肌身離さずつけているのを見ると、ま、よかったかな、などともおもえてしまう。とりあえず、5時になると鳴るアラームが、彼の家に帰る合図となっている。 彼が時計を読めるようになるまで、彼の腕に巻かれているのだろうか。父おやの趣味がわかっている彼は、すでに、「後ろからコチコチ動いているのが見える時計が欲しいなぁ~」などといい始めている。ジャスコの時計屋でも、NOMOSを指差して、「これがいい!」 そりゃいいだろう。お父さんも欲しいもの。時間が読めるようになる前に、物の価値がわかるようになるほうが先だな。。。
2005年09月24日
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人間がフィクションにあこがれるのは、創造力という第4の本能のゆえだ、と言っていたのは誰だっただろうか。確固とした現実の中から生み出されてくる、確固とした空想の世界。その無限性は、身体という限られた世界からの超越を求める魂のよりどころとしてはうってつけの玩具だ。 その一方で、人間はあまりにも正確な機械的世界への憧れをも抱く生き物だ。何の創造性も刷り込まれていない、ただ歯車から歯車へと、エネルギーが正確に伝達されていく機械の世界だ。無限の中に放り出された魂が、その開放感をもてあましたかのように、緻密に計算されたかみ合わせの中に吸い込まれていく。そして、限りなく続く時間という無限性を、計算尽くされた形として切り取っていこうとするのだ。魂の無謀さのゆえに、切り取られたはずの時間は、果てしなく切りちぎられ、切断された断片的時間のみに自らの身体を置く羽目になる。 コチコチと回転運動を続けていたムーブメントを解体している。複雑に連なりあっている歯車は、ばらばらに独立させてしまうと何の役にも立たなくなる。もはや時を切り取る力を持ちえなくなる。しかしその瞬間、私の魂が創造性を求めて激しく打ち震え始める。この歯車を自分の身体につなげ、コチコチというエネルギーを送り込めるのではないかと。
2005年09月21日
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講演の依頼があれば、基本的にお引き受けすることにしている。そんなこともあってか、今月は連日違う場所での講演続きになってしまった。仕事があるだけいいご時世、私が考えているようなことを話して欲しいと、声を掛けてもらえるだけでもありがたいことではある。だが、ガタイはでかいが根っからの小心者である私にとって、困ることがある。何を隠そう、聴衆の反応だ。依頼されて出かけていくわけだから、それなりに得るものがあった、といって帰ってもらいたい。聴衆の反応がよく、盛り上がって終わると、満足してくれたかな、とちょっと安心することが得できるのだが、これが反応が鈍いと、帰る道々、違う話をしておけばよかったかな、あそこでこういう話をすればよかったかな、とっいった、くらーい一人反省会状態になってしまうのだ。 そうした意味において、今日の仕事はきつかった。どだい、専門職の人たちを前に話をするときは、きついことが多いのだ。自分が話を聞いているがわに回ってみても、話をはなっから斜めに構えて聞いていたりするわけだから。話すほうも、話づらいとは思う。それが、自分にも回ってきているのだろうとは思うのだが、やはりきついのだ。色々なネタを振るのだが、これがことごとくすべる。すべるごとに、冷や汗が流れてくる。いつもそこそこな反応が来るネタでさえ、会場全体が能面をつけているのではないか、と思えるぐらいの静けさだったりするのだ。のっけからそんな状態で、俺はこの後1時間以上どうすればいいのだろうか。。。と言葉をつなげながらも泣きたくなる。そんな中、何人かの人がうなずいていたり、笑ってくれていたりする。そうすると、もう、今日はあなたのためだけに話をしています状態で、その人を中心に講演が展開されていったりするのだから、そんな人も迷惑だろう。申し分けない。思わずすがりつきたくなってしまうのだ。 今日は真駒内から家までたっぷり2時間の帰路を、サザエのおにぎりをかじりながらの一人反省会で悶々と費やしてしまった。テレビのバラエティーみたいに、徐々に「駄目だ」と思う人が札を上げてゆき、一定の数に達したら講演者が舞台の下に落ちていくような、そんなサバイバル講演会ならば、まだ諦めがつきやすいかもしれない。講演料もなし。見事最後まで生き残れたときには、満足度も高かったということで、講演料もドーン、みたいな。 小心者の私です。イェー!といったら、イェー!と帰ってくる、そんなのりが好きなんです。講演会でイイェーイとは言いませんが、かえって気持ちを落ち着かせるために飲んでいる黒唐焼酎の量が、あまり多くなりすぎない程度の講演でありたいと、願ってやまない私でありました。
2005年09月20日
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温泉とカレー。その組み合わせに納得しているわけではないのだが、火事を起してまでインド人が作るカレーだけあって、やはりうまかった。当然温泉は源泉かけ流し。いいもの同士のタッグなわけで、ある意味無敵には違いない。 敬老の日だからなのか、豊平峡温泉は大賑わいであった。というよりは、カレーショップが大賑わいだったのか、温泉目当てでにぎわっていたのか、それはわからない。とにかく、玄関あたりはごちゃごちゃだった。 カレーショップには、外が見られる座敷のようなスペースが新設されていた。今日は風が心地よく流れ込んでいたし、庭と背景の山も眺められ、とても気持ちよかった。もう少し紅葉していてくれると、もっと良かったのだが、黄ばんでいくのは、カレーをこぼしまくるボーズと娘の服ばかり。 インド人、恐れ入りました。温泉に負けるとも劣らない、うまい味です。ナンがまた、パン好きの私にはたまらないのです。また行きます。今日は久しぶりに、のんびり美味いを満喫しました。
2005年09月19日
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シゲという既婚の友人がいる。いつだったか、浮身はするが浮気はしない、といっていたことがある。男が女を欲してしまうのは当たり前のこと。それが既婚者だろうが、独身だろうが、男の体は女を欲するようにあらかじめ設定されているのだ。だが、そのレベルはまちまちだ。シゲのように、いわゆる出会い系サイトで女性を探し、「実際会ってみて帰ろうかと思うぐらい悲しい不細工」な女性とでも、「裸を見ると悲しいかな反応しちゃう」ぐらいにして、それなりに頻繁に浮身を楽しんでいる男性もいれば、女房一筋というか、別に女房も必要ないかも、ぐらいの性欲って何ですか?レベルの男もいる、らしい(別に男色であるわけではないらし)。私がどちらの部類か、というか、どちらかに属さなくとも、どちらよりなのかということは、あまりにも明らかなのでさておき、浮身はするが浮気はしない、といった彼の言葉が、デカルトの心身二元論に関するものを読んでいて、ふと頭に浮かんだのだ。思いと、それを表現形として表そうとする身体とは、どうしてこうも意見が異なるのだろう。「裸を見ると、悲しいかな反応しちゃう」と言っていたシゲの切なげな表情は、自らの身体を突き動かす本能的な情動に、好き勝手に翻弄されている悲しさを、みごとに表した顔であった。そう考えると、われわれはなんとも困った器に住みついたものだと思う。だから人間は、自分で完全にコントロールできる身体であるロボットにあこがれるのかもしれない。
2005年09月18日
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忙しさにかまけて、ずいぶんと日記をサボってしまった。 「三月は深き紅の淵を」を読んでいる。そう、読んだ方はご存知だろうし、うわさを聞いただけの方もいるかもしれない。あの真っ赤な背表紙のミステリィだ。これが、うわさどうり、はまってしまう。私の場合は、誰からか借りたわけではない。どういうわけか、手元にあったのだ。 明日この本を返さなければならない理由はない。いくらそれがルールであったとはいえ、返す相手がいないのだから。本は、私の手元にあったのだ。そんな気軽さからか、電車の中で立ったまま、没頭してしまった。棚にカバンを上げ、その上に新たに買ったミステリィを乗せ、爆読してしまった。気が付けば目的地。あわててカバンにしまおうとした瞬間、カバンの上に乗せておいたミステリィがずるりとすべり、棚の間から抜け落ちた。ミステリィはそのまま下に座っていた女性の頭を直撃。私はあわてて「あーぁすみません。大丈夫ですか?」と声をだしたのだが、ミステリアスなことに、その若い女性は口を尖らせたまま私と目もあわせず、ミステリィが直撃した部分の頭をなでている。明らかに顔つきはふてくされている状態のようにも見える。直撃したのがミステリィでよかった。哲学書などであれば、堅すぎて彼女の頭では受け止め切れなかっただろう。ミステリィですら、あの程度にしか受け止められていないのだから。年がら年中携帯に向かってコチョコチョとするだけで、まったく活字を追うことのない、もっとも私が嫌いとする女性のタイプの上に、まさに活字が束となって振っていったわけだから、わらってしまう。女性の反応に危うく逆切れしそうになった私であったが、そんなことよりも、早く家に帰って「三月は深き紅の淵を」を読むのが先決だ。そういえば、あの女性の横に座っていた茶色い帽子をかぶった男性、日本人ではなかったような。。。などという展開があれば、それこそミステリィ。。。なのだが、ただのジーさんだったような気もする。。。が。。
2005年09月17日
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上のボーズがまだ幼稚園の年少だったころ、札幌のステラに出かけたことがある。普段からチョロチョロとするもので、気をつけてはいたのだが、楽器屋で買い物をしていたほんの一瞬に、ボーズを見失ってしまったことがある。あわてて店の外に出てあたりを見渡すも、ボーズの姿は見えない。店の前にはエスカレーターがあり、階下に下りたのかもしれないと思いつつ、まさか一人でエスカレーターには乗らないだろう、とも思われ、とりあえず隣の店や、その階を見て回るがまるで姿がない。やはり階下か、と下の階、その下と、走ってみて回るも、まるで姿が見当たらない。しまったなぁ、という思い。誰かに連れて行かれないだろうか、という不安。いったいどこいってんだよ、という憤りなどなどが入り混じりながらも、上から下から走り回ってみるが、やはり見当たらない。しかたなく、インフォメーションのオネーチャンのところに行き、迷子のアナウンスを頼むことにした。「リュックをしょった3歳の男の子が迷子になっています」オネーチャン、かわいいなぁ~と思いつつ、とりあえずもう一度楽器屋の前に戻ってみることにした。楽器の前に戻って考え直してみると、やはり一人でエスカレーターを降りていくとは考えにくかった。そこで、ステラから大丸まで、もう一度じっくり眺めてみるか、と思って歩き出したところ、大丸のほうから大きなリュックをしょってぽこぽこ歩いてくる男の子がいる。そう、うちのボーズだ。「どこ言ってたんだよー!」きょとんとしているボーズに、ため息交じりの言葉を掛けると、「むこうのおもちゃやさん」と答えが返ってくる。彼は一人でぽこぽこと歩き、大丸の中のおもちゃやさんで遊んでいたのだという。 基本的に迷子は、道がわからなくなった、親からはぐれたという自覚があって、初めて迷子になるのだともう。つまり、自覚があるから、泣き叫ぶのだ。だが、いくら親が必至になって捜していても、探されている本人にその自覚がなければ、誰も迷子だとは思わないのだ。ボーズが泣きもせず、一人でリュックをしょって悠々と歩いているわけだから、いくらアナウンスが流れたとしても、誰も迷子だとは思わない。見つからないはずだ。 ふと自分のことを考える。自分は道に迷っているという自覚はない。時に悠々と、時にポコポコと、それなりに道を歩いているように思っている。だが、それは自覚がないだけで、もしかしたら誰かが必至になって捜し求めているほどに、道に迷っているのではないだろうか。自分の進むべき道は、本当にこの道でいいのだろうか。いまさらのように自覚のない自分に自問する。でも、振り向いたところで、そこに親父が立っているわけでなく、どこに行ってたんだよ、といさめてくれる人物がいるわけではない。「わたしは道であり、真理であり、命です。わたしを信じるものは、死んでも生きるのです」という言葉があった。それはまさに、私に自覚を促す言葉なのかもしれない。
2005年09月13日
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土曜日の朝九時。うちのボーズにとって、逃してはならない大切な時間だ。なぜならば、テレビでジャスティライザーをやるからだ。朝から新聞を私のところに持ってきて、「今日やってるかみて!」と興奮する。「やってるよ、9時からだ」とつたえると、いつものように、「もう9時?」「もう9時?」と5分おきぐらいに聞いてくる。だから、長い針が、上を向いたら9時だから。とおしえると、「オー、ジャスティライザー!」と叫びながら、待ち遠しくてたまらぬ様子。そのうち何を言い出すかと思えば、まだ30分も前だというのに、「テレビ見る準備してていい?」というのだ。 はて、テレビを見る準備?体操か?椅子でも置いておくのか?と思いきや、テレビをつけて、その前の番組を見ている、というだけのこと。結局テレビ見たいだけか、と思いながら、「まだ駄目」「まだ駄目」と5分前ぐらいまで駄目だしを続けるのであった。 物はいいようだと思うが、テレビを見る準備とは考えたものだ。私も子供のころに、この方法を知っていれば、色々な準備ができたのになぁ~と、少しうらやましくおもいつつ、今日も駄目だしを続けるのでありました。
2005年09月10日
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札駅構内のロッテリアで昼飯を食べた。このところ、午前中にサテライトキャンパスでの仕事が続き、午後の13時発を逃すと大学までしばらく戻れないほどに電車がないため、駅構内のハンバーガーショップは、駆け込み詰込みには丁度いいのだ。 基本的にロッテリアへはよほどのことがない限り入らない。なぜだかわからないのだが、どうしてもマックやモスに比べると、どことなく劣るイメージが付きまとっているからだ。マックとモスとロッテがあれば、間違いなくモスを選ぶ。マックとロッテなら、これもマックに入るだろう。ロッテとラッキーピエロなら、これも間違いなくラッキーピエロだ。そんなわけだから、それほど期待していたわけでなく、とにかく腹に入れようとはいったのだ。そこにあったのが、野菜たっぷりデラックスバーガー。これが、うまいかどうかは別にして、でかいのだ。というか、アメリカで食べていたバーガーを思い出させるサイズなわけで、それがとってもうれしくなってしまい、またロッテリアに足を運んでしまったのだ。 アメリカのハンバーガーで一番好きなのは、バーガーキングだ。バーガーキングのワッパーがあれば、モスに入るかどうかも迷うだろう。それぐらいうまいというか、すきだ。そのワッパーを思わせるデカサイズ。アメリカでは普通のサイズだが、日本で見ると、やたらデカク感じるのだから不思議だ。このデカバーガー。味はともかく、腹が膨れる。アメリカでは良くこんなバーガーと、日本で言うポテトのL、さらに日本で言うところのドリンクのLを食っていたのだから、なれというのは恐ろしい。というより、アメリカの連中がああも太っていくのはバーガー屋のせいだろう。デラックスバーガーが1日にいくつぐらい出ているのかはわからないが、味はともかく、なつかしさ一杯なのだ。 そんなことを書こうと思っていたわけではなかった。今日は、バーガーやで、むちゃくちゃ気になったことがあったのだ。それはずばり、店員のスマイル。何が気になるのかって、気持ち悪いぐらいのスマイルなのだ。それも、目線をしっかりと合わせてくるスマイル。こちらでお召し上がりですか(スマイルゥ)。お待たせいたしました(スマイルゥ)。いちいち目線を合わせて気持ち悪いスマイルをするなぁ、と叫びたくなった。そして、マニュアルどおりに体の前で小さく手を重ね合わせ、お辞儀をする。何じゃそれ。そんな気も悪いことやってるから、ロッテリアは所詮ロッテリアでしかないのだろう。ラッキーピエロを札幌駅に構内に誘致しよう運動でも展開してみようかなぁ。って、おばさんウェイトレスがあふれても、いやか。
2005年09月09日
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今年もまた台風がやってきた。それも、去年の台風と変わらぬ日程で、きっちりと北海道に上陸していった。 去年の台風では、企画していたイベントが行えなくなり、そのための準備がすべて無駄になってしまった。今年も同じ日程で準備をしていたならば、危うく今年もお流れになりかねなかった。ったく、といった感じだ。 台風がやってくるという情報は、インターネットや天気予報などで入手できる。だが、動物たちはどうやって知るのだろう。なんだか風が強くなってきたぞ、などというレベルでなく、これはやばいだろう、といったレベルの情報を、どのように入手しているのだろう。というのは、台風の時には、確かに動物たちの姿が見えなくなるのだ。中でも疑問なのは、台風のときは、鳥たちはどこに避難しているのだろう。木に必至にしがみついているのだろうか?それとも、台風を避けるようにどこかへと飛んでいってしまうのだろうか。それとも、サーファーのように、台風の風の中で、「ヤッホーイ!」と強風をエンジョイして飛び回っているのだろうか。 今年の台風は、去年ほどひどい爪あとを北海道には残しては行かなかったが、今日はまだ鳥たちを見かけていない。どこかに吹き飛ばされているのか、はたまた木に必至にしがみつきすぎて、疲れ果てているのか。いずれにせよ、無事を祈ってやまない私である。
2005年09月08日
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学校が始まる。ブルーだ。限りなく真っ黒に近いブルーである。もっと前から準備しておけばよいのに、なんだかんだと言い訳をつけて放って置いた授業の準備やらが、気が付くと依然山のようにそのまま放置されているのだ。自分で放って置いたのだから、誰かがやってくれない限りそのままなのは当たり前なのだが、どこかで「もうやってあるんじゃない?」「まだだいじょうぶだよ」「忘れちゃいな」といった誘惑に、自分で期待しつつ、今日まで来てしまったのだ。 ふとカレンダーを見れば、今日から授業。。。そりゃ学生さんはむっちゃブルーなのかもしれないが、教員だって負けず劣らずむっちゃブルーだ。 学校に行きたくないと思い始めたのはいつごろだっただろう。上のボーズは幼稚園に行っているが、時々「今日幼稚園行きたくなーい」などとごねているときがある。「何言っていんだ、ちゃんと行きなさいよ」などといっている自分が一番仕事に行きたくないのだが、幼稚園を休んで家にいられても余計困るのと、お父さんは仕事に行きたくない、といった気持ちがばれないように、とりあえずそう言うことにしているのだ。だが息子よ、君の気持ちはよくわかる。今日は二人して、ずるっこ休み、してしまおうか。急にお腹が痛くなった、といえば、学部長も許してくれるかな。。。 あ、お腹、痛くなってきた。。。いい調子だ。この痛みでは、今日はとても仕事にいけそうにない。
2005年09月07日
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大通り公園の「ふるさと市」に行った。道内の“うまいもの”がずらりと並び、お天気に恵まれたせいもあったのだろう、大勢の人でにぎわっていた。 それにしても、北海道という一つのエリアの中に、これだけたくさんの“うまいもの”があるのだから、やはりさすがは北海道、食の宝庫とうなってしまう。 腹ペコな子供たちをつれて地下鉄から公園に上がると、すでにホタテか何かを焼いているような、そんなおいしそうなにおいが立ち込めている。公園内も人でごった返している感じ。ふとみれば、うまい店の前には、長蛇の列。子供たちも「お腹すいたー」とじれはじめる。そこで椅子を確保して海鮮丼、ジャンボソーセージ、きのこ汁などを食べた。うまい。そこそこ小腹も満たされたので、よっしゃ次に行こう、と公園を移ったところ、こちらの公園にも色々なうまいものが。海鮮お好み焼きに、鳥ラーメン、カリカリたこ焼きに、ミルクソフト。かなりお腹が膨れてきた。。。さらに公園を移ると、まだまだうまいものが溢れている。カリカリコロッケ、ハスカップゼリー、ツブ貝・ホタテ・カニの磯焼き、ステーキ丼にイカごろ焼き。うー、食べられない。。。 公園はさらに続き、うまいものもまだまだ続いているのだというから、北海道の大きさを知らされる。公園の脇で大きな声を上げていた選挙の候補者には目もくれず、ひたすら北海道の味を満喫した午後であった。っつーか、来年は、手当たり次第に食べるのはやめよう。。。食べ過ぎた。
2005年09月05日
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大阪からコーさんが来てくれた。われわれをガイドしてくれるためにだ。とはいっても、別に羊蹄山に上ろうというわけではない。登るというならば、もっと険しい自らのライスステージの回顧という山に登るガイドとなってくれたというべきだろう。 シカゴでガイデッド・オートバイオグラフィー(GAB)のDr. Birrenにおあいしたとき、Agingとは何ですか?と聞いた私に、It's a mistery. と答えてくれたことを覚えている。そのビレン先生から直接指導を受けていたコーさんに、ミステリアスなエイジングの手ほどきと共に、オートバイオグラフィーの何たるかを教えていただけたのは、なんとも感激であった。 加齢は発達の鏡像ではなく、相補しつつ完成されていくものだという。そこには、自らが過ごしてきたそれぞれのライフステージを、どのようにインテグレートしていくのかといった、重要な鍵があるように感じる。エリクソンが言うような、老年期に至り自らの人生という織物を折り返していく統合の過程。それによって、エイジングはいかようにも織物の柄を変えていくことができる、まさにミステリアスなものなのだろう。 コーさんなどと、気安く呼ばせてくださっている先生のお人柄がすきである。われわれのような無知な教員と学生を、ユーモアを交えてしっかりとガイドしてくださったその忍耐強さは、感謝仕切れない。GSAで偶然意気投合したのが、スピリチュアリティーの発表をしていた高橋先生のポスターの前であったのも、何らかのスピリチュアルな導きであったのかもしれない。また、来年も、何とか札幌にGABの授業をしに着ていただきたいと、ひそかに今から期待しているわたしである。
2005年09月01日
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