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雪虫とは、よく言ったものだ。どんよりと曇った空の上から、風に巻き上げられ、うねり、流れ、落ちてくる雪々のフレーク。その後ろに目を向ければ、また異なるうねりや流れによって巻き上げられては、向きを変えつつ落ちてくる、幾層もの雪々が舞っている。雪の到来を告げるかのように群がりながら乱舞するあの小さな虫は、確かにこんな風に見える。降りやまない薄グレー色の空を見上げつつ、ため息が出る。 今年は雪が多い。あの雪虫が気味が悪いぐらいに舞っていた理由が、今になってよくわかる。降っても降ってもまだ降り止まぬと、歌い終わっても止む兆しがない。そんな雪が、隣の家の屋根にドッかとつもり、先日の突然の気温の変化に耐え切れず、ズルッと滑って、ドカドカドカァ~~~っと、落っこちた。 隣の家は、我が家が立った後に立てはじめた家だ。ずいぶんと、変わった立て方をするなぁ~と眺めていた。というよりも、ちょっと不安になりながら見上げていた。この屋根の向きだと、雪は我が家に落ちるのではないだろうか。隣の家を建てていたミサワハウスの現場監督さんにそう聞いたところ、「そうかもしれませんが、落ちてみないと、わからないんです。」といった答えが返ってきた。落ちる可能性のある雪が、どんな具合に落ちるのかは、現場監督の知る由ではない、ということなのだと理解した。恐るべしミサワホーム。 仕方がないので、冬の雪の落ち方を見ることにした。その家が建った年の冬、屋根にいっぱい積もっていた雪が、ドカドカァ~っと落ちた。その家の庭にきれいに作ってあったウッドデッキが、みるも無残に砕け散った。現場監督さんは、落ちてみないとわからんといっていたが、私は、雪を待つまでもなくわかっていた。 今年の雪は、その年の雪の類ではない。ドンどこドンどこ、降っては積もる。隣の家の屋根にも、積もる積もる。そして先日の、ドカドカドカァ~である。家に帰ってみて驚いた。隣の家と我が家との庭の間に、大人5~6人分ほどの巨大な雪が突き刺さっているのだ。庭を隔てて立てている我が家の塀はへし折れ、石油タンクのパイプも折れてしまっている。あらあらあらあら。。。ミサワホームの現場監督は、落ちてみないとわからないといっていたが、私は、今年の雪を待たずとも、いつかはこうなるとわかってはいた。 幸いにして、灯油屋さんが埋もれることもなく、子供たちが下敷きになることもなく、巨大な雪が植木をなぎ倒してしまったわけでもない。ミサワホームの現場監督は、死傷者が出て初めて、やっぱり危なかったですね、というのだろうか。 お隣さんとは、修理をしていただくことで話はついている。しかし、降っても降ってもまだ降り止まぬ今年の雪だ。もう1回ぐらい、ドカドカドカァ~があってもおかしくはないだろう。憂鬱な気分で空を見上げる、今日この頃なのである。
2006年01月31日
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実習で「めじから」の話になった。「先生、めじから、ありますよねぇ」めじから。そう、眼の力のことだ。見つめられて話をされると、眼力(めじから)に飲み込まれてしまうのだという。「だから、そんなに見つめないでくださいよー」と学生が言う。めじからがあるなどといわれたのは初めてのことだ。確かに、物欲しそうな顔つきで実習先の某師長を見つめていたかもしれないが、学生を嘗め回すような視線で見つめていた覚えはない。滲み出すいやらしさや、人間性の低俗さが、眼に現れてしまったかと、一瞬、やべっ、とおもったが、どうもその種の部分が漏れ出ていたわけではないようだ。よかった。。。。たぶん、眼球そのものだけを取り出してみても、そこに何らかの力を読み取ることはできないのだろう。つまり、めじからを、表情としての眼のことだと考えるならば、眼をうまく活用した顔全体による表現力のことなのかもしれない。ただ、こちらが何かを表現しようと思っていなくても、勝手に眼を中心とした顔が何かを表現してしまっていることがあるのだろう。何かを学生に教えようとする真摯さが表現されていればよいが、いやぁ~きれいだわぁ~、お茶しにでも行きましょうよ~な気持ちが、次の実習の打ち合わせを師長としているときなどに表現されてされていたりする可能性も否定できない。知らずに発している瞳のレイザービームには、十分気をつけようと思う。
2006年01月28日
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別に大学のトイレなのだから、大きいほうだろうが、小さいほうだろうが、学生でも職員でも、たまたま通りかかってもよおしてしまった人でも、使わないでほしいと思うことはあまりない。 また、別にトイレだからといって、排泄ばかりが目的でなくたってよいとも思う。歯磨きだったり、衣服の乱れをチェックしたり、談笑したり、気が向けばお茶したりする人がいても、別にそれを咎めようとは思わない。 ただ、何をしているのだろう。。。と疑問に、ないしは不安に駆られる時は、この例ではないような気もするのだ。 トイレに小用をたしに行ったときのことだ。1つしかない個室を誰かが使用しているところだった。別に私は個室必要としていなかったので、立ったままでタンクを空にしていたのだが、なんだか個室の様子がおかしいのだ。医療者の性分か、具合が悪いのか?などといった思いがわきあがり、具合が悪いならば、何とかする必要があるかも、などといった思いもわきあがり、別に趣味ではないのだが、聞き耳を立ててしまった。すると、個室の中から笑い声が漏れているのだ。。。笑い声?最初は携帯で誰かと話しでもしているのかと思ったのだが、もれてくるのは、くっくっく。。。ひひひ。。。といった笑い声ばかり。なっ、なんだ? 何してんだこいつ? ケラケラと笑いが出てしまうほど、大学のトイレの個室が楽しいものであった記憶は私にはない。むしろ、冷たくて、くさくて、さびしくて、無機質で、とっとと用を済ませて出てしまいたい部屋でしかない。その中で、いったい何が彼をそこまで笑いに駆り立てるのか、まるで見当がつかない。というか、気持ち悪い。 用を足したにもかかわらず、なんか後ろ髪をひかれるような、なんか残尿感を抱かせるような、後味の悪いトイレとなってしまった。個室の扉には、ただいま漫画読みながら用たし中とか、漫才鑑賞にて排便促進中といった看板でもぶら下げていただきたい。
2006年01月25日
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誰も自分の将来の姿として、老人ホームや療養型の病院などで生活していることを想像する人はいないだろう。その可能性が0ではなく、むしろわが国の現在の状況を鑑みるならば、その可能性のほうが高いことは、なんとなくわかっているものの、あえてわからないようにしている人は多いのだろうが。 療養型の病院に実習に行っている。将来の自分の姿をそこに写し見ることは、可能性の問題ではなく、心情的な問題として難しい。日々、自らに訪れるはずの死について目を閉ざすように、自らに訪れ来る老いの行く末にも、目を閉ざしてしまう。 療養型の病院で、歌の会なるものが行われている。入居者へのレクリエーションとして、ボランティアさんたちが開いている。いつしか、わたしも車椅子が必要となり、はたまたオムツが必要となり、歌詞の書かれた紙を見つめながら、1日の終わりのなんとあっけないことかを呪いつつ、その他の同胞と、嘆きを分かち合おうにも肩寄せ合うことすら難儀な自らの姿を笑い飛ばす日が来るのだろうか。そんな夢想を続けつつ、歌の会を聴いていた。・通りゃんせ ・湖畔の宿 ・銀座かんかん娘 ・星影のワルツ ・母さんの歌・りんごの歌 ・男の純情 ・お富さん ・妻恋道中 などなど今日歌われていた歌。。。あと30年、頑張ったとして40年、私はどんな歌を歌っているのだろう。私と同じ時代を戦い抜いてきた、いかなる戦士たちと共に、声を合わせているのだろう。願わくば、ボランティアさんが私に握らせてくれるであろうマイクには、エコーを少し効かせておいて欲しい。
2006年01月24日
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それがいつからだったのかは覚えていない。突然来た、といったほうが確かなような気もするが、40を超えてからだ、といっても、間違ってはいないような気がする。 最初は言葉だった。以前なら、ポンポンと冗談を切り返すことができるはずだった。それが、言葉が詰まって出てこないのだ。あ、あれ。。。冗談で切り返すタイミングを逸することが多くなり、あせって切り返そうとすると、呂律が回らなくなるのだ。 その次は文字だった。朝に新聞を読んでいるとき、妻から何かを話しかけられた。ところが、妻への返事に、突如としてまったく関係のない言葉が混じった。たとえばこんな感じ。 「○×先生のお歳暮どおする?」 「豪雪にしたら。。。。あれ?」読んでいた記事の文字が、会話に割って入ってきたのだ。そんなことが何度か経験されたと思った矢先、次は車の運転だった。右の後ろ部分を、立て続けにこすってしまった。バックで下がるときに、視界に入っていると思っていたのだが、まったく見えていなかったのだ。 こんなことは今までまったくなかったのだ。 たしかに20代、30代を振り返るに、 こんなことはまったくなかったのだ。まったくなかったのだ。。。。 ちょっと凹んでいる。それが着実に訪れていることはわかってはいたのだが、こうして形あるものとして実感させられると、やはり凹む。今後、ますます新たな発見が積み重ねられていくのだろうが、はっきり言って微妙な感覚だ。老年看護を教えるうえで、ますます深みのある実体験を積み上げていくことになるだろう。。。
2006年01月22日
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徳島大学の教授がセクハラで訴えられただか、捕まっただか、といった記事が朝刊に出ていた。なにやら、女性職員へのメールにハートマークをつけたのがセクハラ行為とみなされたらしい。 はっきり言って、やばいと思った。基本的に、美しい女性に宛てるメールには、常に私の下心を「気」の形として添付ファイルに添えようと努力している。文章の端々には、飲みに行きましょう、素敵ですね、お美しいですね、好きだぁ~といった思いを、満遍なく思念しつつ綴るようにしている。 しかし、未熟な念じ方であるためか、一向に私の思いは届かず、いつもそっけない事務的な返信しかえられないのだと思っていた。ないしは、私の思いを受け止めて、顔を赤らめつつ、震える指先でやっとのこと事務的な部分でだけメールを返しているのだろうと思っていた。 そういえば、以前とある女性の教授からもらった年賀状に、ハートマークがついていたことがあった。いやぁ~な冷たい汗が出た。きっと徳島大学の女性職員も、似たようないやぁ~な汗を何度となくかいていたに違いない。そして私からメールを受け取っている女性職員たちも、飲みに行きましょう!なんて私を誘っておきながら、セクハラ委員会に打診しているかもしれない。 今日からは、私の怨念を「気」の形で添付ファイルとして添えていこう。
2006年01月21日
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東京都立新宿高校という学校がある。ずいぶん昔に私が通っていた高校だ。旧制中学からの歴史があり、何人もの優秀な人材を輩出してきているのだという。そうした歴史ある学校だからか、優秀な人材が集まっていたからなのか、かつて学園紛争が激しかったころ、この高校もご他聞にもれず、校長室を占拠したり、ロックアウトをしようとしたりといった動きがあったのだそうだ。 昭和38年という年は、東京オリンピックや新幹線の開通など、日本の高度経済成長を肌で感じることができた時代らしい。そんな年に生まれた私たちは、3無主義といわれ、無気力、無責任、無関心と表現された。そんな私が新宿高校に通っていたとき、心を寄せていた田辺由香という女性から「あなたはすべての事を斜に構えてみている」といわれたことがあった。なんとなく自分でもわかっていたので、そんな言葉がうれしくも感じられたことを覚えている。 いまだに斜に構えつつ、何事にも無気力で、関心を持たず、特に責任を持たされることが嫌いな私ではあるが、高校の当時、かつての高校の歴史を聞くにつけ、一つだけうらやましく感じられることがあった。それは、かつては学園紛争という、ないしは安保という、誰もが熱くなれる憑き物があった、ということだった。 樺美智子を読んだ。奥浩平をよんだ。高野悦子を読んだ。熱くなってみたいと思った。コーラの空き瓶を集めては火炎瓶を投じる自分の姿を想像してみたりもした。壇上からアジびらを撒きつつ、高らかにアジる自分の姿を想像してみたりもした。あまり意味もわからずに、オルグする、などと友人に捲くし立てたりもした。でも、駅前で細々とアジる○青だかや、大学のキャンパスの中で4-5人で大きな旗を振り回したかと思うと一升瓶の酒をあおって職員に連れ出されていた連中をみては、憑き物はどこにいっちゃったのかなぁ~と、さびしくも感じられた。 友人のHPを見ていたら、だれだかかのライブに行って熱く飛び跳ねたのだと書いてあった。私よりも1つ年上だが、同じ世代だ。何かに、それがたとえ誰かのライブとかでも、熱くなれるってうらやましいと思う。すべてのことを斜に構えてみては、熱くなっている連中をうらやましく感じつつも、「へっ」なんて言ってしまう私がいる。
2006年01月19日
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欲張りマダムさんから、早速のトラックバックをいただいた。なにやら今度は仕事を紹介してくださるという。とりあえず常勤職を持っているので、今のところ仕事に困ってはいないのだが、そんなかたがたも私のぶつぶつを読んでいるかも知れず、そんな方々のお役に立つかもしれないかもしれなくもなくもないかと思い、とりあえず削除せずに、皆様方にごらんいただくこととした。しかし、条件が厳しすぎる。18歳以上で、童貞で、セックス好きでなければならないという。私が童貞であることは、先日のブログでご紹介したとおりであるが、さらにセックス好きでなければならないというのだから、今回はハードルが高い。セックスが好きであるかどうかを如何に判断するか、難しいところだろう。本人が好きだ、と言えばいいのかというと、必ずしもそれで条件を満たしているというわけではないだろう。私が童貞であることをきっちりと証明したような、明確なセックス好きの証明がなされて初めて、この職への応募資格があるといえるだろう。というわけで、応募条件があまり明確ではないため、トラックバックは、2-3日で削除することとしましょう。
2006年01月17日
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「なぜかは知らないけど、神は人間に好奇心という起爆剤を与えたんだ。 人間が得た最大のギフトは知能じゃない、好奇心だ。 好奇心、それ自体が目的となって、 人間は冒険を続ける。 好奇心が、理性も倫理も道徳も飲み込み、 人間をそれまで見たこともない地平へと押しやる。 その対象が宇宙であれ、 生命であれ、 歴史であれ。」 ねじの回転 -恩田陸-
2006年01月17日
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がっつりと実習中である。 学生のころ、実習が嫌いだった。友人は、円形脱毛症になるほどに嫌いだったようだが、彼に負けるとも劣らず、みんな実習が嫌いだった。何が嫌いって、かつて学生指導に当たっていた看護師達の態度やら指導やら虐めやら。 いったい何故にわれわれ学生にそこまで当たらなくてはいけないのか、と思えるぐらい、ただの嫌みったらしいネチネチイビリを受けなければならなかった。 それに比べれば、今の学生の実習など、屁の河童である。 それにしても、いまだに実習が好きになれない。何が好きになれないのかといえば、やはり自分の居場所がないことだろう。わたし、ここにいても、いいでしょうかぁ~~?状態なのだ。 せめてもの楽しみは、かわいらしい病棟師長に会えることぐらいだ。かつて学生だったころ、こんな師長が指導に当たってくれていたら、私の実習も、さぞ楽しかったことだろうに。。。などと考えつつ、口をあけて師長を眺めている日々。たまに涎をたらしそうなほどに、物欲しげな顔で口をあけて見つめていることがあり、学生達に見られてはしないかと、ひやひやしている。 いずれにせよ、学生達はそれなりに実習をこなしているようで、今日も、さも忙しそうに、病棟内を歩き回り、学生達の様子をチェックする振りをして時間をつぶしている。はやく師長さんとの打ち合わせの時間にならないかなぁ~、などと考えつつ。 あぁ~、明日も実習だぁ~。いやだなぁ~。早くあいたいなぁ~。
2006年01月16日
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前回、素敵なコメントをいただいた。私の童貞を売ってほしいという。それも10万も支払ってくれるのだという。 まさに、身体をもっての愛の証明に、金銭をもってその愛の証に応えようという、美しい愛のキャッチボールだ。ぜひお譲りしたい。 何を隠そう、私は童貞だ。誰がなんと言おうと、童貞に違いないのだ。なぜなら、ここ何年かを思い返すに、童貞を買ってもらったり、奪われたり、ささげたような覚えがない。何十年も前の話になると、私の記憶そのものが怪しいので、やはり私は童貞だと考えるほうが無難だろう。 しかし問題は、10万円を支払ってくれる相手もわからず、如何に私の燃え滾る愛を証明できるか、ということだろう。ツールはそろってはいるが、状況が整っていない。願わくば、10万円も支払ってくださる方が、黒木瞳のような、いや、黒木瞳本人であってほしい。童貞ばかりではなく、私のすべてをささげてもいい。「愛がなくたって、今挙げた四つのツール、どれでも使える。…」 「女はどうするんだ? 今の四つのツールは、 常識的に見て男側の意見だろ?」彰彦が口を挟んだ。 黒と茶の幻想 -恩田陸-
2006年01月14日
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「まあ、愛を証明できると世間一般で言われているものには幾つかのツールがあるわけだ― 言葉、身体、金、時間。 好きだよ、愛しているよという言葉。 キスしてセックスにいたるスキンシップ。 靴にバッグに高級レストランに給料三か月分の指輪。 そして、結婚して共に費やす時間。」「本当に愛があるかどうか気にしている人間はそうそういないよ。 いかに愛がお互いの間に存在するかのようのように思い込み、 周りにもそう信じさせられるかどうかが問題なんだから。 四つのツールがこんなにも社会的に発達したのはそういうわけだろう。」 黒と茶の幻想 -恩田陸-
2006年01月13日
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3歳の下の娘が画鋲を飲んだ話をした。結局どのようにして出したのか?という問い合わせがひっきりなしに届くに違いないので、1通いただいた時点で書き添えることとした。 北大に搬送されたわが娘は、担当の医師の到着を待って再度X線にて画鋲の確認をしたらしい。妻の証言を信じるとするならば、そういうことなのだそうだ。で、医師が言うに、画鋲が胃にあるうちに、内視鏡でとってしまいましょう。ということになったという。内視鏡、つまり胃カメラを飲み込み、その先端からにゅにゅにゅっと出てくる触手のようなものでつまみ出してしまおう、ということなのだろう、とその話を聞いた私は判断した。 がしかし、われわれでさえ胃カメラを飲んでニコニコとしていられたためしはない。胃カメラを飲んだことがない私が言うのだから間違えない。胃カメラを飲んだ事がある連中の話を聞くと、検査中オエオエ大変だったのだ。そんなオエオエに、3歳のわが娘が耐えられようはずがない、というか、そんな状況下にわが娘をさらすわけにはいかない。どうするのか?と思いきや、全身麻酔下でやるのだという。オエオエもかわいそうだが、3歳にして全身麻酔をかけられてしまうのも、なんだかかわいそうでならない。家でボーズと留守番していなければならなかった私としては、「いやぁ~もぉ~」「何で飲むかなぁ~」と、ぶつぶつとつぶやきながら家の中をうろちょろとするしかなかったのだが。 娘の胃袋に落ちた画鋲は、無事摘出された。翌朝、救急センターに向かった私とボーズを出迎えたのは、元気いっぱいで廊下を走り回っていた娘と、付き添いで寝不足のために頭痛と嘔気をおこし、代わりにベッドに倒れこんでいた妻だった。病棟から出てきたわれわれの姿は、間違いなく具合が悪くなったお母さんを迎えに来たパパと子どもたちの図であった。いずれにせよ、もうお父さんは、二度と君の北大1泊胃カメラの旅のために3万円もの大枚を払うつもりはないことだけを明記して、この話題を終わりにしようと思う。
2006年01月11日
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3歳になる娘が画鋲を飲み込んだ。何でまた画鋲なのか、私には皆目見当がつかないが、画鋲を5つほど口に入れて遊んで?いたところ、誤ってそのうちの一つを飲み込んでしまったらしい。なきながら口をあけて妻の下に駆け寄ってきた娘を見て、妻がパニクッたのは間違いない。あわてて背中をたたいたり口に手を入れたりして、口に入っていた画鋲を取り出したのだという。さらに、本人が「一つ飲んだ」といったため、無理やりはかせたがだめだった、、、のだそうだ。あわてて職場から飛んで帰ってきた私がまず目にしたものは、居間にそのままにされていた娘のゲボだった。 娘は妻に連れられて近隣のクリニックへいったのだが、X線写真にはしっかりと画鋲が写っていた。何でまたこんなものを飲んだのだか。だが、長さにして針の部分が1センチほどある画鋲である。ほっといても便と一緒に出てきそうな気もするが、腸管の蠕動にあえば、間違いなく刺さるような気もする。結局救急車で大きな病院へと移送されることになったのだが、ここでお決まりの受け入れ拒否にあう。札幌市立病院などは、胃に穴が開いたら来いなどという最低の対応。結局北大病院にお世話になった。 子どもがいろいろなものを口に入れたくなるのは、子どものうちは指で捕らえるよりも、口で捕らえる感覚のほうがもっと敏感に捕らえられるからだ、などといった説明を聞いたことがあるような気がする。それにしても、画鋲の質感やとがり具合などは、口に入れて見なくてもわかりそうなものだが。 娘はといえば、「もう絶対、いろんなものを口に入れちゃだめだからね!」などと、しこたま絞られたにもかかわらず、いまも何かのネジを口に入れていて、私にしばかれている。大きくなったら世界びっくりショーにでも出るつもりなのだろうか。のんびりとすごすはずの連休が、あっという間にドタバタ連休となってしまった。
2006年01月08日
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論文を書くよりは、ブログを書くほうが好きだ。小難しい専門書を読むよりは、ミステリーを読んでいるほうが好きだ。SPSSやエクセルを開くよりは、エクスプローラーやituneを開いているほうが好きだ。机の前にじっとしているよりは、ボードに乗って雪山を滑り降りているほうが好きだ。誰かに何かを教えるよりも、何かを誰かにもらうほうが好きだ。会議で居眠りをしているよりは、居眠りをしていて会議をすっぽかすほうが多い。学生に道を説くよりも、人に道を聞くほうが多い。「40にして惑わず」よりは、「40にして早期退職」がいい。大学の教員としてこき使われるよりは、芸能界で歌手として華々しくデビューしてみたいものだ。どだい私にとって学校などというところは、友達と遊びの約束をする場所か、飲み会の待ち合わせ場所にしか過ぎなかったのだ。 今年も仕事がはじまってしまった。1月4日よりは、12月29日のほうが好きだ。9月1日よりは、7月30日のほうが好きだ。4月1日よりは、2月30日のほうが好きだ。でも2月に30日はない。こんなことを書き連ねつつ、仕事場へとむかう気持ちを高めていこうと努力する私なのである。
2006年01月06日
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正月に家にいても、うるさく子どもたちにまとわりつかれるか、あまりの激しさに子どもたちをシバキ倒しているか、食べてるか、寝てるかしかない。仕方がないので、どうせギャーギャーとうるさいのならば、いっそつれて出てしまおうと、街に出た。 失敗だった。普段人が多いといえども所詮札幌の街。渋谷や新宿などの込み具合とは比べ物にはならない。しかし、昨日の札幌は尋常ではない混み具合だった。だいたい、車が札幌駅付近で動かない。すこしはなれた駐車場まで空き待ちの長蛇の列。こりゃたまらんと、1時間近くでやっとこさ渋滞を抜け出して、麻生まで車を置きに戻り、地下鉄で札幌に向かった。 それも失敗だった。札幌駅に降りたとたん、人人人人人。。。。両手に子どもたちの手つかんではいるものの、ほとんど子どもたちは埋もれてしまって姿が見えない。気がついたら素敵な女性の手を間違えてつかんでいた、なんて事が起こらないかなぁ~、などというはかない期待を抱きつつも、東京にいたときの朝のラッシュを思い出していた。「そういえば、毎朝こんな状態でホームに降り立っては、ギューギューと車内に押し込まれて運ばれていたなぁ。。。ある意味QOLの低い生活だったなぁ~」などと。 改札を出たものの、大丸にいけども、ステラにいけども、ヨドバシにいけども、人人人人人。。。お目当てのipodはヨドバシもベストもビッグも在庫切れ。これだけの人がすべて私が買おうとしていたipodを求めて殺到してきていたのか?などと、一瞬考えもしないでもなかったが、それよりも何よりも、へろへろだった。子どもたちはといえば、そんな中、お互いにちょっかいを出し合いつつ、人ごみの中でちょろちょろとしつつ、私にはたかれ、しばかれ、「いい子にしていたら、なにかかってあげよう」などというお約束も、「お前らぜーんぜんいい子じゃない!」とチャラにされてしまったのだから、散々な1日だったのは、私ばかりではない。 やはり正月は、おとなしく家で暴れる子どもたちをシバキ倒してすごすの一番なのかもしれない。
2006年01月03日
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大晦日の夜は紅白歌合戦、というのが定番だったはずなのに、いつからそうした個人的黄金率が崩れていったのかと思い起こすと、たしかコント55号の「紅白歌合戦をぶっ飛ばせ!」といった番組を見てから、裏番組も面白いといった思いを抱き始めたようにも思う。裏番組にどんな企画が入ってくるのか、それはこちらの思いとはあまりかかわりのないところでの作業のようにも思われるが、ここ何年かの大晦日を振り返ると、108つの煩悩を払うかのような殴り合いに興じている自分がいる。 はっきり言って格闘技が好きだ。かつてトヨノボリの快音?にプロレスを魅せられたときから、体と体でぶつかり合い強さを競う事が好きになった。実際に自分がやるとなると、殴られるのは好きではないので、もっぱら見て好き勝手なことを言っているだけの好きさ加減ではあるが。 そして昨晩も、男臭いシバキあいに興じてしまった。吉田VS小川や五味VS桜井といったカードは、見てみたかった試合の一つだったし、吉田VS小川戦のスポコンドラマを思わせるような柔道からの伏線の引っ張り方と試合後の握手などは、個人的に「俺好きだわー、こういうの!」状態で盛り上がらせてもらった。ところが、二股をかけた私が悪いのか、9時ごろからもう一方の格闘技番組もちらちらと見ていたのだが、矢沢は出てくるは横綱とボビーだとか、奇をてらったような企画にがっかりしてしまった。唯一、所のファイトには大満足だったのだが、最悪だったのは、メーンに出てきた勝者の態度だった。別に彼のことが個人的に好きだとか嫌いだとかではないし、確かに強いファイターだとは思う。個人的には街であっても決して目線など合わせたくない。だが、勝ち名乗りを受けた後に敗者の頭をなでながら、「よくやった、よくやった」はないだろう。おなじ決勝戦の舞台に立っているファイターとして、勝つか負けるかの50%の立場に立つ者として、敵をリスペクトする態度があってもよいだろう。万物を創りたもうた神の子ならば、敵を愛することを知らぬはずがない。一番最後に胸糞悪い思いをさせられてしまった。 ま、そんなこんなで今年の大晦日も変に興奮しながらすごしてしまった。この新しい年も、リングの上での熱い戦いが繰り広げられることを期待するとともに、個人的にも熱い生き方をしていきたいものだ。
2006年01月01日
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