2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全12件 (12件中 1-12件目)
1
友人の結婚パーティーがあり、十年以上ぶりに吉祥寺に出た。以前は京王線沿線に住んでいたことや、シティーバンクの吉祥寺店に口座を持ていたことや、井の頭公園にデートに来たことや、上智大学に通っていた年上のYOKOという彼女と最後に会った場所だったりしたことなどもあり、吉祥寺はそれほど知らぬ街ではなかった。しかし、十年以上もご無沙汰すると、見るものすべてが新しく感じ、こんな街だったっけかなぁ~と、浦島気分になってしまう。 それでも、駅前のアーケードにはいると、以前と変わらないその雰囲気を感じることが出来る。立ち並ぶ商店と賑わい、そして人、人、人。そして吉祥寺のアーケードを歩きながら、札幌の狸小路に思いをはせていた。狸小路も、吉祥寺と同じようなアーケードだ。商店が建ち並び、雨が降っても歩けるようなアーケードになっている。しかし、決定的に違うのは、人。狸小路には、人がいないのだ。。。 ここ何年か、札幌の人は大通りから札幌駅周辺に移動してきている。札幌駅ビル、駅前の開発、大丸デパートの進出など、かつて大通りにやられていた集客力を、しっかりと取り返している。逆に、客を取られる一方である大通りは、かなりの危機感を感じているに違いない。狸小路はと言えば、札幌に人を取られていることの打撃はあるにせよ、観光客とすすきのから流れくる客を相手に、何とか踏ん張りを見せているかのようにも感じられる。しかし、吉祥寺のあの賑わいを見ると、「おまえはすでに死んでいる」という殺し文句がぴったり来るようにも思う。 人の流れを呼び込むことは容易なことではない。しかし、あれだけ人通りが多く賑わっている吉祥寺でも、すべてのお店に客が入っているかというと、必ずしもそうでもないのだ。並んで20メーター以上もの行列を作っていたコロッケ屋、人がごったがえしながら商品を脇に抱え込んで並んでいた衣料品店。人を呼び込んでいる店に、やはり“売り”があるのだ。ということは、狸小路でも、“売り”によっては人を集めることが可能だ、ということだろう。 大学は全入の時代だと言われる。下手をすれば、うちのような地方の私立大学は倒産の危機にも直面するような時代だ。そういう意味に於いて、大学も自らの“売り”を明確に打ち出すことが求められているのだろう。しかし、大学でゴルフが出来る事を売りにした学校が潰れてしまったように、“売り”は何でも言い訳ではないし、それがいつまでも“売り”になるわけでもない。常に新しく、ニーズにあった形での自分の“売り”をアピールしていくことが必要なのだろう。 私の今の“売り”は何だろうか。買ってもらえるような“売り”が果たしてあるだろうか。そう自問すると、狸小路のような集客力しかないようにも感じる。 瓜売りが、瓜売りに来て、売り残し。
2005年11月28日
コメント(0)
先日とある先生から、何故にブログなどを書くのか?と聞かれた。自分の日記を他人に見せるために書くなどという行為は、露出狂的であり、作為的であり、操作的であり、情報の垂れ流しであり、あほちゃうかぁ、なのだそうだ。(意訳し過ぎ?) たしかにその指摘どおり、ここにつづられていく私のぶつくさは、明らかに不特定の人々に向けられたぶつぶつであることは間違いなく、個人的なぶつくさを、まるで知らない人たちからこのアドレスを知る良く見知った人たちまで、とりあえずばらまいて語っているのは間違いなく、それを露出狂的、作為的、操作的、垂れ流し的、あほだ、というのであれば、そうなんだと思う。 しかし、考えてみれば、我々大学の教員などというものは、自分が研究した内容をシコシコと論文にまとめて公に向かってパブリッシュするわけで、そういう意味では、自分の考えていることを他人に見知らせるために露出狂的であり、作為的であり、操作的であり、垂れ流してきな行為を続けているようにも感じられる。違いは、私のブログに記される内容が下世話な内容であって、まるで学術的要素が含まれていないということなのだろう。 いずれにせよ、誰かが読んでいることはカウンターからもわかるわけで、その人が楽しんでいようがなかろうが、とりあえず日々私的なぶつぶつが蓄積する以上、とりあえずそれを吐き出さざるを得ない私なのである。ま、言ってしまえば私のマスターベーションのようなもので、これを呼んでいる人々は、私のマスターベーションを覗き見しているようなものなのかもしれない。踊る阿呆に見る阿呆、といったところで成り立つブログなのだろう。
2005年11月26日
コメント(0)
今年の学会は、フロリダはオーランドで開かれたため、マイルをためているノースウェストのデトロイト経由でいってきた。 しかし、ノースは相変わらずのサービスのひどさ。倒産しかかってるんだから、もうちょっと乗客重視のサービスを考えた方がいいんじゃないかと思うのだが、カートを足にぶつけても「sorry」ひとつ言わないわ、相変わらず機内食はまずいわ、アテンダントは定年前のようなおばさんばかりだわ、蒸しタオルはむちゃくちゃ熱いわ、挙句の果てにスーツケースに大きな凹までこさえて、補償はしないというんだから頭にくる。今回のマイルを使い切ったら、他の航空会社に乗り換えようと思う。といっても、マイルを使うにも、航空券を予約しようとしても空きがない、と言われっぱなしなのだから、とことんノースには愛想が尽きた。 まあ、値段の安いのが売りなんだろうから、それぐらいのサービスの低さは我慢しなければならないのかもしれないが、年々エコノミーでの10時間以上の移動が辛くなり、日本を飛び立った1時間後ぐらいから、ひたすら横になりたいなぁ~といった思いを抱き続ける私には、もうちょっと気の効いたサービスがあっても、良いのではないかとも思ってしまう。同じサービス業としての看護を見れば、お前らよりかはよっぽど利用者サイドに立ってサービスを考えているぞ、と思えてしまう。あまりにも、できの悪い喫茶店の学生アルバイトか、場末のスナックにいる厚化粧のオバちゃんママみたいなサービスで、身も心も10時間ちょっとの間にボロボロにされてしまうのだ。 全ては、エコノミーであることが悪いのだ、といわれればもともこうもなく、貧乏人は水を飲め、ってことなんだろうけれど、エコノミーでもサービスに改善の余地ありと感じる。 1.アテンダントは全て30以下とするべし。 2.機内食のオブザーバーに、道場六三郎または服部先生を入れるべし。 3。クラスJを作るべし。(って、JALにいけばいいのか?) 4.隣り合う座席の並びでは、体格を考えて並べるべし。(190近い男が3人もならびゃ、そりゃ狭いだろう。しかも、中央のアメリカ人、でかすぎだ) 5.札幌にノースのハブを置くべし。この改善点がクリアできたらノースを使い続けよう。
2005年11月24日
コメント(0)
約1年ぶりのアメリカである。毎年、とりあえずこの学会で発表することを目標にがんばるためのニンジンでもあるアメリカだ。今年は当初、ニューオリンズでの開催が予定されていたため、夜はバーボンストリートあたりでジャズでも聴きながら弾けられると思っていたのだが、先日のハリケーンでそれどころではなくなり、急遽オーランドに変更になっている。 かれこれ10年以上前になるが、初めてアメリカにわたったとき、いきなり成田で飛行機が4時間遅れ、ダラスでの乗り換えに間に合わなかったことを思い出す。まだ英語もろくすっぽ話すこともできず、次の飛行機に乗れるのか、のっけから不安いっぱいだった。何とか聞き取った言葉が、これから飛ぶ飛行機はなく、その日はどこかのホテルにステイしなきゃならないというもの。なんだかわけもわからず、自分がどこにいるのだかもわからず、あわあわあわ。。。と、あらゆることの進行にただ身を任せていた。 そんなドタバタで始まった私のアメリカ流がだったから、その後アメリカの留置場にぶち込まれるなどという波乱万丈な生活が待っていたとしても、今考えると納得もできてしまう。毎年、必ずといっていいほど何かが起きるアメリカ行き。昨年は、パスポートがコンピューターで読み取れる新しいものではないので入国できないと入国管理で3時間以上捕まり、乗り継ぎをのがしている。挙句の果てに、いったんカナダの施設を見学に出かける予定にしていたところ、一度アメリカ国外に出てしまうと、このパスポートでは2度とアメリカには入国できなくなるという。つまり、帰りの飛行機がデトロイト経由なので、そこでの経由がさせてもらえなくなるのだという。結局、ワシントンDCの日本領事館に電話したり、写真を撮りに行ったりと、学会に行ったのか、パスポートを新しくしにいったのか、まったくわからない状況でのアメリカだった。 どーも、わたしとアメリカとのリズムがうまくあっていないのか、今年はどんなハプニングに巻き込まれるのか、楽しみでもあり、めんどくさくもあり、全てひっくるめて、取りあえず、GSAを満喫してこようと思う。
2005年11月18日
コメント(0)
ここにこうして確かに存在しているように感じられなければならないはずの身体が、そこに在るように感じられず、時間という次元に絡め盗られ消えていくだけの、はかない存在にしか感じられないことがある。確かに在るという感覚が、衰え消えていくというその瞬間にだけ感じられる。ないことだけが在ることを際立たせていく。 リストカットを繰り返す子供たちは、まさにこうした自らが在ることを確かめようと、消えていく瞬間に身を投じていくのだろうか。消え果ていこうとする瞬間に感じられる、確かに自分はここに存在しているんだという感覚を、掴み取ろうとしているのだろうか。 何かを標本にするということは、本来朽ち果ててなくなっていくものを、そのままの形で在りつづけさせることだ。それが物であれ、身体であれ。いつか医学部の解剖標本室でみた人体の標本は、確かに標本としての身体としてそこに在ったことを覚えている。昨日までの自分の姿を標本として残し、新しい自分がその標本を眺めることができるならば、われわれはもっと楽に生きていけるのかもしれない。 こうしてブログに自らの排泄物を溜め込んでいるのも、一つに自らの標本を残していくことに近いのかもしれない。しかし、わたしはちっとも楽に生きられるようには、なれていない。標本技術士の弟子丸氏を、訪ねて見る必要があるかもしれない。
2005年11月16日
コメント(0)
今月の26日に、友人の結婚パーティーがある。高校時代からの友人だ。年齢は私や重松清と同じ(と重松清を並べる必要などまるでないのだが)s38年生まれの42歳だ。42歳で初婚。世間的に見れば「なぜに今まで独身だったのだ?」とか、「男好き?」とか、「マザコン?」とか、いろいろといわれてしまう年での結婚だろうが、それはそれ、本人たちが良いのなら、世間がなんと言おうと幸せなのだろう。 彼と私とは都立の新宿高校で同級だった。2年、3年とクラスが一緒だったわけだから、16ぐらいから四半世紀の付き合いになる。16歳といえば、同級生の女の子を刺し殺した事件が耳に新しいが、僕や彼が16,7だった頃、誰かを刺し殺したいといったおもいとなどとは、まるで無縁だったようにも感じる。 もともと3無主義の世代といわれて育ってきた私たちだ。無気力、無関心、無責任の3無なのだという。そういわれてきたからか、実際にそうだったからか、僕も彼も、すべてのことを斜めから眺め、「関係ない」と鼻で笑って流していたようにも感じる。だからといって、女の子からそでにされようが、大好きだった後輩の大西佐恵子ちゃんに振られようとも、「関係ない」と鼻で笑っていられたわけではない。彼にしたって、好きで好きでたまらなかったマッティーこと松浦さんに酷って散った時には、それはそれは大変な落ち込みようだった。でも、だからといって殺意がそこから生まれていくことは、間違いなくなかった。 今日の毎日新聞に、子どもは大人になっていく前に、深い深い森を抜けていかなければならないのだ、と書いてあった。16,7という年齢は、まさにこうした深い森の出口付近にいるのだそうだ。重松清などが描き出す物語も、まさにこうした森での迷い道を描いているのかもしれない。新宿高校時代の自分の森を振り返るとき、確かにわけも分からずに体の内部から突き上げてくる衝動やエネルギーを、身体が受け止め切れずにだらだらと垂れ流しながら森をさまよっていたようにも感じる。ただ、そこに同じように垂れ流しながら、無様に、けなげに生きようとしている友人たちの姿があって、迷いそうになるお互いの方向を示し続けあっていたようにも感じる。 事件を起こした16歳の彼が、彼自身の森の中でどの道を選び、誰にであい、何を感じていたのかは知るよしもない。当然、重松清が描くような少年たちが、衝動やエネルギーを垂れ流しながら森をさまよっていても、それも別段不思議ではない。それは誰もが、大人になるために通り抜けていかなければならない森なのだから。ただ、その森で誰に出会うのか、出会えないのか、という偶然は、あまりにも大きな運命を決定する要因であるのかもしれない。例えば、朝寝坊していつもの電車に乗り遅れるという偶然が、大事故に巻き込まれずに命を落とさずにすんだ、といった運命の分かれ道を生み出すような。 42歳の彼の結婚相手は、彼よりも16歳ほど年下だという。なんともうらやましいような、憎たらしいような。既に森を抜け出てしまった私と彼だが、随分と年下を捕まえた彼への憎まれ口と一緒に、森にいた頃の思い出を語ってこようと思う。我々は無事に森を抜け出てきたのかといった疑問と、それでは今の我々は、いったいどこで道に迷っているのか、といった疑問も含めて。
2005年11月15日
コメント(0)
「以前ここを利用したことのある、 私の遠い親戚から、 話しを聞いてやってきました。 標本にしてもらうと、 とっても楽になれるって…」 「ええ。確かにその通りです。 ここは標本的救済の場所ですから」 -薬指の標本:小川洋子-
2005年11月10日
コメント(0)
アメリカで、なんと400億円相当の宝くじが当たったのだという。70代の親と、その子供夫婦の4人家族なのだそうだ。「1億使ってもまだ2億!」程度の日本の宝くじでさえ、まったくといっていいほど円のない、いや縁のない私なもので、400億といわれても、100億使っても、まだ300億ね、ぐらいにしかわからないのが実際のところで、いったい400億ももらったら、何をしたらいいのか、見当もつかない。 というか、70代を迎えて400億ももらったところで、世界旅行とか、月面旅行なんて、疲れちゃって嫌だわさ~状態だったりするんだろうし、近くの温泉でも、みんなで行こうか?ぐらいでいいような気がする。っていうか、400億もあれば、みんなで行くかではなく、温泉買うか?ってないきおいなんだろう。 そりゃ、400億なんて金、当ててみたいものだけど、もって生まれた貧乏性で、そんなものの使い道なんて、まるで浮かんでこない。そういえば、先日の選挙で当選したお若いセンセーも、貧乏性の男が400億円当てちゃった、みたいな乗りだったなぁ~。だいたい、宝くじを当てた人間は幸せにはならないというから、あのセンセーも、とりあえず自民党の広告塔としていいように使われて、後はポイって感じだろうなぁ。宝くじ当てて羽振りがいいときはわんさか友達が集まってくるけど、金回りが悪くなると潮が引いていくようにみんないなくなるのと似ている。 一晩で使いきれるお金の額って、いくらぐらいだろう。飲み屋でお客全員に、俺のおごりだーと叫んだところで、、、もとい、銀座の高級なスナックで、きれいどころはべらして遊んでいる客全員に、俺のおごりだーと叫んだところで、500万で足りないだろうか?だめだ。すでに現実味を失っている。 400億。ムシキングゲームを1日10回やったとして、1月3万円。1年で36万円。10年で360万円。100年で3600万円。。。 息子よ。君の代だけでは使い切れないかもしれないぞ。。。400億円
2005年11月09日
コメント(0)
11月だというのに、なんだか生暖かい気候が続いていた札幌の空のせいで、例年の雪虫が飛ばないかわりに、アブラムシ?(と、近所のガキンチョが騒いでいたが、アブラムシとはゴキブリのことではないか?説明すると、これはショウジョウバエ程度の大きさの羽蟻のようなちっちゃい虫なのだ)が大量発生し、ここ2週間ほどは先が見えないほどの多さでぶよぶよと飛び回っていた。東京に住んでいたときには、全身虫まみれになるほどに大量発生している虫など見たことがなかったが、白色のシャツなどを着ていると、よってくるわよってくるわ。駅につくころには、黒いシャツと化している。気持ち悪いと叩き落とそうとしようものなら、つぶれてシャツにしみがつくしまつ。口やら髪の毛やらに、いっぱい入り込んでいるのではないかと気味が悪くてしょうがなかった。 そんな今年の札幌だったが、明日からは急に冷え込むらしい。といっても、例年並の寒さというか、明日は雪になるのだそうだ。今、かなりの勢いで雨が降っているので、このまま雪になるのかもしれない。ついに雪の世界がやってくるのだなぁ~と、これから来年の5月ぐらいまでは埋もれてしまう雪の生活を思い、気持ち悪かったアブラムシも、それなりに懐かしく思えなくもない。 もともと東京で育った私は、札幌に来て7年になる。雪の生活は、個人的に嫌いじゃない。車で少し走ればスキー場に行き着ける生活は、それなりに楽しいものであったりもする。しかし、年々、家の前に積もり積もり積もる雪を投げて積み上げ、また投げて積み上げていくのが、だんだんときつく感じてきている。冬場に東京などに帰ると、やっぱり雪がない冬はいいなぁ~、と思えてもしまう。 なんだかんだと、うだうだと書いてはいるが、ようは、そろそろ雪がやってくるのだなぁ~と、腹を据えた私であったことを書きたかっただけでした。明日当たりは、朝からモッサモッサと降っていてくれないだろうか。。。
2005年11月08日
コメント(0)
大学院の授業に、中島紀恵子先生が来た。新潟県立看護大学の学長だ。 中島先生と初めてあったのは、東京駅のビヤホール。まだ院生で、博論に向けたデータ収集を行っていたときだった。 データ収集に疲れ果てていたとき、突然携帯(といっても、当時のまだ画面が2センチ四方ぐらいしかないやつだったのを覚えている)が鳴り、誰かと思ったら中島と名のる良くわからない女性からだった、というのがことの始まりだった。大学院終了後の身の振り方の一つとして、大学のポジションを考えていただけに、中島先生の「会いませんか?」という問いかけに、ンじゃ会ってみようかな、といった気になったのだ。当時、恐れ多くも、中島先生のことは、まったく知らなかった。というのも、もともと社会福祉系にいたため、看護業界の情報はほとんど知らなかった。合うと決めた後に、福祉系の何人かに、中島紀恵子って、どんな人?とリサーチしたのを覚えている。 「私はすぐわかると思いますから」という中島先生に、「私のこともすぐにわかると思いますから」と応えたような気がする。東京駅での待ち合わせは、お互いが言ったとおり、おたがいすぐに相手がわかった。お互い、見た目が濃かったのだ。東京駅のビヤホールの誘われ、色々と聞かれるのかと思いきや、話していたのはずーっと中島先生だった。私は、ぽつぽつと受け答えをしつつ、勧められるがままに、ひたすらビールをしこたま飲んでいただけだったように思う。先生の倍ちかいガタイの男が、耳にはピアスをあけ、髪の毛は茶色。先生にはどんな風に映っていたのだろうか。 結局、とりあえず学校を見にいらっしゃい、と誘われて、気が付いたら北海道に住み着いている。 そんな出会いからかれこれ10年。会うたびにパワーを増していくようで、会うたびに、ますます力強く精神注入棒で尻を叩かれる。今年の授業も、院生、教員ともども、ガッツリ注入された授業だったが、まだまだ注入されたりないわれわれがいるようにも思う。いい加減に自立しなさい!と起こられるかもしれないが、吸い尽くせるものは、今のうちに吸い尽くしておきたいとも思う。ご迷惑かもしれませんが、ひとつ、ますます、ケツバット、よろしくお願いします。先生!
2005年11月05日
コメント(0)
先日うちのが携帯を買った。近くのベスト電器で2時間以上も手続きに待たされた挙句、やっとこ手に入れたといった感じ。貴重なことに、彼女にとっては初めての携帯。30年生きてきて、初めて手にする携帯に、ほほが緩みっぱなしの彼女。とはいえ、色々と機能を確認したり、設定したりするのが苦手な彼女。面倒くさいのである。私が手を出さなければ、いまだに箱に入ったままにちがいない。とりあえず、初期設定と電話の掛け方、メールの仕方等を教える。ちょっと、メール送ってみ?というも、え”~、いま忙しくて、そんな気分じゃない、と取り付くしまがない。んじゃおすきに。とりあえず私の電話とメールをいれ、おいておいた。翌日、仕事場から電話を掛けてみる。しばらく鳴って、やっと彼女が出る。初めて電話かかってきた! っていうか、他の人に誰も電話番号教えてないでしょ。それじゃ、掛かってきようがない。。。いまだに、携帯に登録されているのは私だけ。さらには、いまだに誰にも携帯の番号を連絡していないという。だって、面倒くさくって。。。って、夫婦のホットラインなんかにして、どうすんだ?!
2005年11月02日
コメント(0)
子供のころ、父親と母親のことを「パパ」「ママ」と呼んでいた。別に意識していたわけではなく、気が付いたら、そう呼んでいた、というか、呼ばされていたのだろう。だが、中学に行き始めたころからだっただろうか、さすがに「パパ」「ママ」では、なんとなく気恥ずかしくなってきた。友達と遊んでいるときなど、「ママー。でかけてくるわぁ~。」などと、身長が180センチを超えた大男が叫ぼうものなら、どうしちゃったの?といった感じでもある。しかし、気恥ずかしいのは「パパ」「ママ」と呼ぶことだけではなく、「パパ」「ママ」から他の呼び方に変えるのも、また気恥ずかしいのだ。いまさら、なんて呼ぶのだ?「おとーさん」「おかーさん」? 呼びなれていれば恥ずかしくもないだろうが、突然そう呼ぼうとすると、なんとも赤面してしまうのだ。 私のばあい、結局高校にあがるまで、呼び方を移行できず、かといって「パパ」「ママ」とも呼べず、「ね~」とか、「ちょっと~」とかいった言葉が、「パパ」「ママ」に置き換わっていた。 ところが、4つ上の兄は、つい先日、はっきり言うと結婚するまで「パパ」「ママ」が移行できていなかった節がある。さすがに、大学生になって「ママ」などという兄を見て、おいおいおい、と思ってはいたが、大学を卒業しても続いていく彼の様子に、やっちゃったか?といった思いを募らせていた私であった。しかし、彼も気にしていなかったわけではなく、さすがに「ママ」などと人前では呼べないようで、「ママ」が「ナナ」ぐらいの発音だったり、「アア」ぐらいの発音だったりと、それなりに気を使ってはいたようだ。幸い?今現在は「ママ」などと呼んではいないようで、うまく移行期を迎えたのだろうと、弟としてもうれしく思っている。 うちのボーズと娘は、私のことをダディーと呼ぶ。ちさいうちは、ダダとかダデとか、その発音がかわいかった。でも、さすがに最近、わが子の移行期が心配になり、先日子どもたちに宣言をした。「ダディーは今日から、お父さんになります!」子供たちは、ふ~ん、といった顔をしているが、ダディー、ダディー、と呼んでくる子供たちに、お父さんです、というと、おとーさん、おとーさん、と呼んでくるので、これでこの子達の移行期は問題なく進むだろうと、勝手に考えている私である。
2005年11月01日
コメント(0)
全12件 (12件中 1-12件目)
1
![]()
![]()