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昨今、看護大学が乱立し、生き残り競争が少子化のあおりを受けて激化していることは周知の事実である。その中で、当大学における看護教育が何処へ向かって行くべきかを考えるとき、レトロスペクティブな視点でばかりその答えを求めていたのでは、移り変わる時代の中で袋小路に迷い込んで行くばかりだろう。今日の大学における看護教育が目指すべきは、看護の現場においてその技術と能力を発揮するだけではなく、日本の看護の進むべき道に対しても提言を行っていける優れた看護専門職を生み出していくことであると考える。そうした大学として機能し、かつ生き残るためには、医療・保健・福祉・教育従事者をして北海道にこの大学在りと言わしめるだけの、ないしは、ここを出ていれば間違いないと言われる社会的な認識を勝ち得るだけの、質の高い看護教育を提供していかなければならないだろう。 しかし、乱立した多くの看護大学の社会的評価の関心が、国家試験の合格率といった物差しにばかり集中するあまり、受験生の獲得と大学の名誉のためだけに、国家資格の取得ばかりが看護教育の前面に押し出されつつある昨今の社会傾向を否定できない。確かに、看護師・保健師の養成機関である以上、国家資格の取得は目標の一つに他ならない。だが、個人的に大学の予備校化を憂慮するのは、先にあげた大学が目指すべき教育の理念を信じるからである。学生から寄せられた「大学に予備校の講師を呼んで講義をしてもらっては…」とのコメントは、当大学の教員に突きつけられたある種の挑戦状であり、この大学が進むべき道の再検討と再確認を喚起していると感じる。アメリカに留学していた5年弱の経験のなかで感じた看護教育の違いとは、プロとしての意識教育の違いである。アメリカにおける看護は、チームを構成するメンバーとして、ドクター他のスタッフと対等な関係で役割を担っているばかりではなく、さらにCNS、ナース・プラクティショナーといったアドバンスト・ナースとして、自立し、自らの責任において臨床で活躍している。また、アカデミカルな分野においても、看護を専門として多くの著名な研究者が活躍をしている。そうした先達たちの活躍を見て学生たちは、将来に向けてのビジョンを持ち、チャレンジを受けるのである。また教育者も、そうした学生達の期待に答えるべく、より高度な技術・知識の提供へとチャレンジを受けている。一方わが国の看護の状況はといえば、往々にして「自分は所詮看護師」といった否定的な意識や、または、医師を頂点としたヒエラルキーに隠れた無責任的意識であることを否めない。そして追い討ちを掛けるように、教育に関しても、国家資格を取らせることだけがすべてであるかのような雰囲気を宿し始めている。つまり、アメリカと日本の大きな違いとして横たわる看護者のメディカル・プロフェッショナルとしての意識の違いは、先輩たちが後輩たちに示してきたビジョンの違いであり、教育者が学生たちに対して行ってきた意識教育の違いであり、日本の看護が何処を見つめて、何を見据えて教育を導いてきていたのかの違いではないかと感じるのである。 質の高い看護教育とは、看護者が、看護者としての熱いハートと、時代を見据え、これからの看護の在り方を確立して行こうとするクールな頭脳とを持ち、その上で、技術的な習熟がなされた巧みな手を身につけることが出来る、バランスのとれた教育なのであろう。アメリカの看護教育が、必ずしも質の高い教育であるとは思わない。しかし、10年、20年先の看護を考えてみても、現在のような意識を持ちつづけていては、日本の看護は世界の舞台で恥をさらすことになりかねない。必要なのは、今目の前にいる学生たちに、何を見せ、何を聞かせ、何を伝えるべきなのかという認識を、教員がまずしっかりと持つことだろう。だが、本学においてそうした教育を提供するべく、一個人として何ができるのかといえば、残念ながらわずかな経験と知識とネットワークとを用いるような、あまりにも小さなことばかりでしかない。しかし、ごく小さな歯車でも、それが確固とした原動力に導き出されている力を伝えるならば、巨大な歯車をも動かしうる力になると確信している。そして、そのような原動力を学生達の歯車に伝えて行くことこそが、教育者として私が積極的に貢献していきたいと願っているところであり、ゆくゆくは、当大学の、北海道の、そして日本の看護という大きな歯車を動かす力となっていくものであると考える。
2005年05月31日
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人によって物の見方が違うのは当たり前だが、どうしてこの人はそうした物の見方をするのだろうかと言うことが、まったく理解できないことがある。こちらが意図していることを理解しようとするのではなく、自分の物差しで無理やり推し量っていこうとする人だ。当然のこととして、こちらの意図しない理解にいたるわけで、結果として私と言う人物の評価がそれなりの評価として下される。あの人は何を言っているんだ、と言う発言から引き出される人物評価。窮屈だ。あほか、と相手にしないでいられるのならばよいのだが、そういう人に限ってわけの分からん仕事を一緒にしなければならなくなる。結果、ものすごいストレスと倦怠感と頭痛に悩まされたあげく、もっとうまく立ち回れと上からどやされる。どこに問題があるのかは、私にとっては明白なのだ。物差しを改めよ。そこにしかない。メモリが狂っているよ。単位が間違っているよ。私がいくら投げかけても、それに対してすら同じ物差しをあてていくわけだから、発展する要素がない。ますます疲労がかさむばかりだ。なんだかまたパチン(過去の日記を参照されたし)という音が聞こえそうだ。今日はシズカに癒しの液体に体を浸そう。あほか。あほか。と連発しつつ。
2005年05月30日
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「圏外」と冷たく携帯が告げている。ものすごく無機質な響きに、誰からも到底見つかりえない僻地に来てしまったような感覚を覚える。むしろ、お前はわれわれの管轄から外れた、という最後通告的な脅迫すら感じる。そう、圏という言葉が輪を表す言葉ゆえに、仲間からのけ者にされたような、きわめて日本人的な感覚に訴えかけられているように感じるのだ。次に携帯を見たときには、「論外」などと表示されるのではないかと不安になる。ふと携帯を見たときなど、「門外」と見えてしまうことすらある。私は何に恐怖しているのか。外に出てしまうことへの恐怖だ。こんな北海道の田舎に住んでいながら、外へ出てしまうことが怖くてたまらない。つねに輪の中にいたいのだ。だが、何の輪なのか、自分にもわからない。もしろ、一方的に端末を通じて「外」に出た、と通告されることが怖いにちがいない。ベースから離れてボーっと立っていたときに、後ろからいきなりタッチアウトを食らったように。自らが属しているという幻想を抱いている社会から、「外に出ましたから、アウトです」といった、きわめてリアリスティックな通告を受けてしまうことが怖いのだ。なぜなら、そのことが幻想をそれ以下の現実へと昇華していくからだ。いや、それ以下ならば消化のほうが正しいかもしれない。 私は今、電波の届かないところにいる。あやまって外に出てしまったのだ。ついうっかり携帯をもってトイレに入り、携帯の受信状態を確認してしまったのだ。こんなタイミングで最後通告を受けるとは、思っても見なかった。
2005年05月29日
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砂川で蛇を見た。地べたから木の幹へ、するすると体を這わせたかと思うと、木の枝に体を巻きつけ、しゅるしゅると歩みを進める。ヌメッとした体の湿度が、視覚だけでも十分に伝わる。薄青いテカリを見せながら、眼球だけをぎょろりと私の目に向ける。とんだところで見つかっちまいましたね。そう言いたげに、舌をチョロリと出しては、またぬったりと歩みを進める。 蛇に日の光は似合わない。降り注ぐ太陽の光を受けて輝く元気一杯な蛇は、どうもイメージできない。蛇はアンニュイでなければいけない。偏頭痛もちであってもいい。時に気を失って木の枝から落ちるぐらいが蛇らしくてよい。木陰にもっさりと積み重なった木の葉の下を、ぬたりぬたりと体をくねらせながらいるのがよい。 蛇だというだけで、砂川の蛇は多くのギャラリーを集めていた。蛇だ蛇だと、老若男女が集まってくる。ぬるりとその湿感を漂わせるだけで、ギャラリーが右へ左へと感性を上げながら揺らめく。そんな魅力は、人間の最愛の友人といわれるいぬにだってない。やはり蛇なのだ。 わたしは蛇が嫌いだ。ひやりとした体温が、死体の冷たさを連想させるからだ。とはいっても、実際に蛇をつかんだことはない。嫌いなものをつかめるはずがない。クールすぎる存在そのものも気に入らない。いるならいるとその存在をアピールすればいいのに、ふと気が付くと顔を数十センチのところに近づけていたりする。全て計算づくなのだ。 砂川の蛇は、ギャラリーの歓声に送られて、配管の中へと消えていった。自信たっぷりな歩みで。その後姿を見つつ、やっぱり蛇は嫌いだと、背中にいやな汗をかきつつ感じた。犬の愛らしさを持つ蛇がいたら、好きになれるだろうか。
2005年05月28日
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ばたり、ばたりと倒れていく。もう半分ぐらいが倒れてしまっただろうか。さすがに気がめいる。救いは前方かぶりつきで聞いていてくれる編入組み。そりゃ、テレビを見るような面白さに欠けてもいるだろう。げらげらと笑えるような、そんなギャグ満載でもない。だからと言うわけではないのだろうが、バタバタと面白いようにやられていく。一番後ろがやられていないと目を向けてみれば、男子グループが別のことに興じて盛り上がっている。 そんななか、一人の男の子がすたすたと教壇に歩み寄ってくる。私の話しの真っ最中だ。私は刺されるのか?と不安になりつつ彼を見つめていると、無言でレポートを突き出してくる。正確には、ポツリと「出席カード」と言った。 授業のさなか友達とおしゃべりをすることは私にもあった。だが、授業の進行を妨げて、正面きって、期限遅れのレポートを突きつけつつ、遅れて入ってきた上で出席カードをくれとまで教員に言い寄って行った記憶はない。彼の頭には、どのような思考が組み立てられていたのだろう。 そんなことを考えていたら、さらにぱたり、ぱたりとやられていく。昼食後の3時限目。そりゃ眠いでしょう。そりゃかったるいでしょう。わかるわかると、こちらの気力もなえていく。あと何人やられたら、授業を中止してしまおうか。もし全員やられてしまったら、みんなを起こさないように、こっそり教室を抜け出し、研究室で大きく一つ、ため息をつこうか。 授業が終わった後の妙なけだるさと、いやぁ~な汗。体に悪い仕事だと、つくづく思う。
2005年05月27日
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何をどれくらい忍耐できるのかといった閾値の個人差は、何によって決まるのだろう。家に帰り着くと出迎えてくれる子供たちの声は、一日の疲れを癒してくれるヒーリングサウンドではある。ただ、帰り着いた5分後には、それが私の神経に突き立てられた悪魔の爪のようにしか感じられなくなる。「ねぇ、おとーさん。」2歳の娘が問いかけてくる。「なんだい?」私が答える。「ねぇ、おとーさん。」「なんだい?」「ねぇ、おとーさん。」「なんだい!?」「…ねぇ、おとーさん。」「だから、なんだい!?」こんなやり取りの間に、「ねぇねぇ、おとーさん。きょうね、幼稚園でね、お隣のね、けい君がね…」上のボーズが話しかけてくる。「ん?あ、そーか。」ボーズの話を聞きつつ、相槌を打ちつつ、娘の「ねぇ、おとーさん。」に答えていく。気が付けば、キッチンの後ろでは、うちのがなにやら私に話しかけていたらしい。私は聖徳太子ではない。聖徳太子になりたいわけでもない。ただ、ちょっと、ゆっくり、食事を、させて、もらいたいだけだ。そんな思いを抱きつつ、何度も私への呼びかけから先へと進むことのない娘の言葉と、ボーズの幼稚園話と、妻の今日の出来事を聴いていると、ついつい、リミッターが振り切れてしまうことがある。彼らも、爆発的な勢いを持って何かを私に伝えたいほどに、一日を一生懸命走りきってきた故なのだろうが、そうした勢いを受け止めるには明らかに閾値が下がりきった状態で帰宅する私にとっては、それはまさに天国から地獄へといざなわれていく悪魔の合唱となるのだ。おとうさんの安らぎはどこにあるのだろう…
2005年05月26日
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いつまでもこのままでいられたらいいのに どおして時の流れだけが僕らの背中を押していくのだろういつまでも変わらないものなどないとあきらめていた僕はただこの街の中で移りゆく波にのまれ何一つ確かなものなどないと呟いていた君はあてもなく夢をふくらませ遠い空を見あげているどこまでもこのままでいけたならいいのに どおして果てしないひろがりだけは僕らの存在を規定し続けるのだろう
2005年05月25日
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身長が186センチある。普段はそれほど自分の背が高いと言うことに気がつかないでいる。だが、ひょんなことでそれを気づかされることもある。例えば、「うわぁ~こいつでけ~」と思う男性などとすれ違うとき、「あ、俺のほうがでかかった…」などと、気づかされてしまう。また例えば、家にぶら下がっている洗濯したシャツなどを床に座って眺めていると、「でけぇ~」と自分でもあきれてしまうことがある。今朝は円山公園駅からバスに乗って山の上の方へと出かけた。バスは学生がわんさか乗っていて、すでに座る場所がない。仕方なくたってつり革をつかまっていることに下のだが、このバスで立つという行為が、長身者にとっては自殺行為に近い。わかっていただけないかもしれないが、頭のやり場がないのだ。と言うのも、天井が低いだけでなく、頭の前後に鉄の棒が張り巡らされているのだ。つまり、ちょうど座席の上あたりについているつり革がある手すりのほかに、バスの丁度センターの天井に、もう一本手すりが走っている。長身者は、この2本の手すりの間に頭を突っ込んで立つこととなり、バスが左右に揺れるたびに、頭を手すりにぶつけて回るのだ。はっきり言おう。バスには長身者優先シートが必要だ。座らないと、目的地に着くまでにいくつコブをこさえればいいのかわかったもんじゃない。さらにはっきり言おう。バスに備え付ける長身者優先シートは、前の座席までの空間を少なくとも80センチはとることが必要だ。さもないと、目的地に着くころには、膝が前のシートに圧迫されて血流が止まり、ビリビリしびれて立ち上がることすらできない。そんな状況でも同じ料金で乗らされるのだから、たまったもんじゃない。長身者乗車料金優待割引だってあってしかるべきだろう。まったく、札幌のバスはわかってない。
2005年05月24日
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札幌は朝から小雨。そんな中を、ぽつぽつとラッシュアワーを避けた時間に駅まで歩く。札幌といえども、外れの無人駅には私のほかには誰もいない。はらはらと舞い落ちてくる小雨を見つめていたら、小さな雨粒が頬を濡らしていることに気がついた。なぜだか、ココロがガランとして、なぜだか、ムネが息苦しくて、何とはなしに淋しくて、何とはなしに空しくて、小雨が頬ばかりを、濡らしては流れ落ちていく。ホームのベンチに腰を下ろし、小雨にうたれたまま一本の汽車をやり過ごす。このまま小雨と交じり合って、大地のおくへと滲み込んでいけはしないだろうか。そして石狩の流れを経て、日本海へと流れ出でてはいけないだろうか。大きな流れに飲み込まれるならば、そんな流れのなかに、小さな雨粒と一緒に取り込まれていたい。
2005年05月23日
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肩に降り注ぐ星ボシの雫あふれ出した涙と交わりきらめきながら流れ落ちていく両手で救い上げた雫の数だけの思い出と同じ数だけ流されたナミダ手からあふれ地面に届きつく前に懐かしい未来の風にざわめきたつ新しい過去の波にあらわれていくもうナミダは流さないそう思ったことさえ今は跡形もなく星ボシの雫のきらめきだけが輝いている
2005年05月22日
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ここを立ち上げてから1ヶ月がたった。3日ボーズで終わらずにすんでよかった。とりあえず、時間が許す限り何かを書き付けようと思ってきたが、読み返してみるとくだらないことがやはり多い。日記なんてそんなものだろうから、あえて気にもしてはいないが、先日良識がないと指摘された私としては、内容が品位あるものとなるよりは、良識ある内容となるよう、いっそうの努力をして行こうと思うのでありました。マル。祝1ヶ月継続。これでほぼ満足なので、あとは気楽に行こう。
2005年05月21日
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今まで気になって気になって仕方がなかった人や物が、ある日突然、まったく気にならなくなる。好きで好きでひと時も離れたくない、いつも会っていたい感じられていた人が、突然メールもしなくなれば、メールが来なくても、さびしいとも感じない。メールが来ていなかったことにさえ気が付かない。また例えば、欲しくて欲しくてたまらず、何度も店頭に見に行ったりカタログを眺めていた高価な腕時計も、ある瞬間からどうでも良い時計に見える。買わなくて良かったと感じる。 何かのスイッチがパチンと入るのだ。それが何なのか、よくわからない。ただ、太宰が書いたトカトントンという音のように、ある瞬間から急激にさめていく。 最近、そのスイッチがやたらと切れる。パチンパチンと面白いように切れるもので、いままで興じていた多くのことに、急激にさめ始めている。先日、仕事に関するスイッチの一つがパチンと切れた。それに関しては、意図的にスイッチを切った感もある。また、心を寄せていた女性のスイッチも、パチンと切れた。わりとあっけなかった。このままパチンパチンとスイッチを切っていくと、最終的に何にも残らず、最後には自分自身に対するスイッチをも切ることになるに違いない。 これがディスエンゲージメントなのか?これが老いるということなのか?ただの移り気で、熱しやすく冷めやすいだけならばいいのだが、最近トンと熱くならない。最初からさめている。 そういえば高校のときに好きだった女の子に田辺由香という子がいた。あなたはいつも斜に構えてみてる。と言われたことが会った。斜に構えてみている事が続いて、あらゆることに冷め始めたのか。冷めていたから斜に構えていたのか、自分ではわからない。パチン! パチパチパッチン。そういえば、もうあの指パッチンは見れない。彼も、パチパチやりすぎて、ついには自分に対するスイッチもパッチンだったんだろう。 合掌。
2005年05月21日
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昨日の肌寒さが嘘のように晴れ渡った札幌の空。こんな陽射しを浴びるために、もっさもっさと降り積もった雪の中で絶えてきたのだと実感する。石狩の川から車の窓の流れ込む匂いが、血肉に滲みこんでは体中の臓器を無作為に刺激し始めているようだ。あれだけ辟易としていた冬の生活も、この陽射しがあっさりと「思い出」へと昇華させてしまうのだから、なんともおき楽過ぎる自分だ。朝からなんだかそわそわとして仕事が手につかないのは、この陽射しのせい。海まで車を飛ばしたいと言う欲求に駆られる。今日は早く帰ろう。もとい、今日も早く帰ろう。この陽射しが傾いてしまう前に。
2005年05月20日
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夜の札駅に座っている。黒糖焼酎でぼやけた頭を抱えながら、汽車の時間を待っている。前のベンチでは、生殖の営みに全力を注ぐ青年が、今夜の獲物を必至に落とし込もうとしている。そんな時代があったよなぁ~、とふわふわとしていたら、急にメールがしたくなった。女友達だ。なぜか酔っ払うとメールしたくなる。そうメールしたところ、それはすけべぇだからでしょう、との返信。よった頭がすーっと晴れていくのを感じる。あー、すけべぇだ。改めて言われると納得してしまう。すけべぇということは、おれはその女友達とのセックスを望んでメールしていたのだろうか?ないとはいえないところがすけべぇばかりではないところだ。すけべぇなうえに、へんに酔った頭で駆け引きをしようとする。こうでれば、こうくる。そこでこういくと、こうなるだろう。そこでこういくと、これで積みだ。積んだ先はセックスか?どーもちんけだ。すけべぇなんて、セックスしかないんだから、生殖の営みに全神経を集中させる若者と大差はない。そうかんがえると、この42年、いったい何を積み上げてきたのだろうかと不安にもなる。だいたい、酔った頭で考えるのだから、ろくな回答は出てはこないのだが、女友達とセックスすることになっていたら、何か違う回答が得られただろうか。結局、若者の全力投球に駆り立てられた性欲が、行き場を求めてさまよっているだけなのか?プリミティブだ。と言うよりは、箍が外れてる。またしても黒糖焼酎だ。これがうまいからたちが悪い。だいたい、研究科委員会で私の良識のなさが問題になることが問題だ。良識のなさをしてきして反省しろと研究科委員会なんぞでいわれるから、腹が立って深酒してしまうのだ。私が女友達とセックスしたくなるのは、研究科での議題の問題なのだ。ないしは、良識がないから、いつでもセックスのことしか頭にないのだ。もう、どうでもいいわい。
2005年05月19日
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本人にその気がないのに、何かをやらせるのは大変だ。いくらこちらがセッセコセッセコお膳立てして盛り上げて見たところで、本人にとっては、動機も目的も定かでないどころか、行為そのものに意味を見出せなかったりする。その冴えたる行為が生きることだ。生活することと言い換えてもいい。もう、ズタボロなのだ。本人はどうでも良くなっているのだ。なんせ、ほとんど義務的に朝を向かえ、無機質な約15時間をため息に費やし、残りの時間で生きることを忘れるために眠るのだ。もしかしたらこのまま生を終えることができるのかもしれないと願いつつ。だが、そんなはかない願いが夢と消えた朝を、かれこれ10年近くも迎え続けている。脳梗塞を起こしたことが始まりだった。いままでバリバリと働いてきた壮年が、急に身動きもろくに取れない体と頭を与えられた。自分には起こり得ないとどこかで勝手に思っていた障害が、突然目の前に、というよりも、自らの体の中心で自らの存在を規定し始めたのだ。ありえない。と言う思いは今でもある。だが、そんな思いは、もうどうでも良くなってもいる。なんせ、もうズタボロなのだ。本人をその気にさせるには、何が必要なのか。にんじん。目の前にぶら下げるにんじんだ。生きていこうかな、と思わせるにんじんとは何だろう。そう問いかけてみると、自分にもそんなにんじんがあるのか不安になる。むしろ、にんじんが何なのかわからず、そんなものがぶら下がっているのかすら知らず、ただひたすら突っ走っている連中も多いだろう。むしろ、何かがきっかけで立ち止まって初めて、自分のにんじんに注意を向けることも多いきがする。毎日毎日、目の前のにんじんにすら目を向けられず、もっと手間いの足元ばかり目を向けて、何とか足元が崩れていかないように踏ん張って生きている。踏ん張らなくていい、と言われたとき、にんじんを見てもいなかった私も、きっとズタボロになっていくのかもしれない。
2005年05月18日
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愛だろ、愛。そんな台詞が10年だか20年ぐらい前につぶやかれていた。40を過ぎた今も、あの頃一緒になってつぶやいた愛が何なのか、まるで分かっちゃいない。 すきよ、と言うと、好きだよ、と答える。まるい、と聞くと、まるい、と答える。のど、と聞くと、のど、と答える。むらさき、と聞くと、むらさき、と答える。解散総選挙、と聞くと、解散総選挙、と答える。紅郎はかくのごとくかんたんに私をいだき、私は西日やむらさきやら解散総選挙やらあらゆることに煩わされながら、最後の力をふりしぼって集中力を高め、紅郎の下で顔をゆがめる。これをもって恋というのだろうか・・・ そう川上弘美はマリエに語らせた。 愛だの恋だのが、全てセックスと同じ言葉でしかなかった時分なら、マリエのこんな疑問には違和感すら感じたかもしれない。しかし、猛り狂うように湧き出していたかつてのリピドーが影を潜め、たゆたうように溢れ出す感情の波が全ての支配権を掌握し始めたころから、愛だの恋だのは、むしろセックスの後の、ないしはそれを介する必要もなく横たわるだけで交わされる、たわいもない会話の中に感じることがある。 「あ、雨降ってたんだ・・・」「雨だね」「うん、雨だ」「雨・・・」「めだか」「めだか?」「そう。雨ーめだか。次は“か”だよ。」「か・・・課長」「はげ」「フフ。しりとりになってないじゃない。」 腕枕をしたままに交わされる会話は、とりとめもなく愛だの恋だのを紡ぎ出していく。紡ぎ出された糸に雁字搦めになりながら、なおいっそう肌と肌とを寄せ合って横たわりつづける。そして満たすべき器が満たされていく。そんな感じ。 これが愛だの恋だの言っているものなのか。わからない。たぶん、この先も分かることはないだろう。別に愛だの恋だのが分かりたいわけではなく、そこにある心地よさを感じられればいいだけなのだから。 愛だろ、愛。まさにそう言うしかないのだ。
2005年05月17日
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ある意味想定内ではあったが、ひとたび角度が付いてしまった2つの線分は、いかなる角度であろうとも、その開きが大きくなるばかりだと言うことが、確認されたような結果だった。そもそも、われわれが対する理解が、得られていなかった感がある。即戦力の採用が我々を取り込んだことの効果と言った考え方なのだから、勘弁してくださいと言わざるを得ない。いくら学校に頭を下げにきたからと言って、学生がその気にならないことにはどうしようもない。その気になるとは、勤めようと言う気になることであり、何がそういう気にさせるのかと言えば、それは経験の有無でしかない。いい経験をした、うれしい体験があった。あんな仕事ができるようになりたいとおもった、ような経験。そうした体験をさせたいがために、我々も数を増やしてまで臨んでいる。なぜならば、そうした体験は、学生一人一人の感性にもしっかりと働きかけるからだ。だが、実績で示せと言わんばかりの考え方では、ないしは、学生がいい体験をできるような環境作りには力を注がずに、邪魔だ、うるさい、挨拶がない、感謝の言葉が聞かれないなどと言ったレトロスペクティブなものの考え方では、教育の場としては最悪としか言いようがない。何をどう実績で示せるのか、こちらが教えてほしい。愚痴ばかりになってしまったが、兵隊がほしいと考えるならば、何も自分で考えることなく、忠誠心に長けた絶対服従に鍛え上げるのが確かにいいだろう。上官の命令に従うことがその目的となれよいのだから。だが、その行き着く先は見えている。そうした反省の元に今の教育が展開されているのだから。そして、私が考え目指すものも、そこにはない。随分と線分が離れてしまったのか、それとももともと平行線であったのか。今となってはどちらでもよいことだ。
2005年05月16日
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パイプオルガンのビルダーに会った。ドイツから来ているビルダーは、自分のワークショップでパイプオルガンを作成するのだという。日本には、とある教会に搬入されたパイプオルガンを組み立て、オーバーホールするために来ているのだ。知らなかったが、パイプオルガンには、600以上ものパイプがあるらしい。大きいものだと1000本以上のパイプがあり、その一本一本を調律していくのだそうで、その工程を考えると、気が遠くなる。機械式の腕時計が好きでいくつか持っているが、あの小さな世界の中に凝縮されている技術が美しく、心をそそる。パイプオルガンビルダーの働きを見ていると、同じ職人として、機械式腕時計を製作する職人の姿にかぶる部分が多い。機械式の腕時計も、パイプオルガンも、わたしはずぶの素人でしかないのだが、唯一つ、共通して私が感じることは、「かっこいいなぁ」という思いだ。教師というサラリーマン生活をしているためか、手に職を持って、自分に表現できない世界を、形としてあらわしていくことにあこがれる。言語によって自らの思うところを表現するのではなく、形を作り出すことによって、そしてそれを他者が動かし機能させることによって、製作者の意思を表現させていくのだ。時にそれは時間といった誰もが所有しつつも支配されていくものであり、時にそれは音といった単発的な振動でありつつも、その連続によって作り出される旋律であったり、まったくをもって、そこに携わるかっこよさが、製作の過程にびんびんと感じられるのだ。あと20歳若ければ、「弟子にしてください」と土下座していたかも、しれない…
2005年05月15日
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男性トイレでの実験で、となりの仕切りに他人がいると、排尿開始までの時間が長くなるらしい。これはパーソナルスペースに他人が入り込むストレスが原因となっているとのことだ。確かに電車の中や、エレベーターの中での立ち居地や、他人との距離は微妙なものがある。気が付くと、よく腕組をして自分を守っていることもある。他人と距離を置く。人にかかわる仕事をしていると、この距離をしっかりととりたくなることが多い。講座の仲間は良く連れ立って昼飯を食べに学食へ行く。時々一緒に行くこともあるが、一人で食べたい、と思うことも多い。一人の食事はつまらないのだが、他人がいることでのストレスを感じながら食べるよりもいいと感じることもある。人のパーソナルスペースは、大体両手を広げた円程度のスペースだといわれる。こうしたスペースの個人的な差はどの程度あるのだろう。ものすごく近い人は、きっと距離感が違うがために、なんかすぐ近寄ってくるのよー、と嫌われているだろうし、ものすごく大きな人は、ほとんど街中を歩くことはできないだろう。そういう意味では、東京で暮らすことは、パーソナルスペースの矮小化を余儀なくされるのかもしれないし、私のように北海道にいついてしまうと、もう東京へは帰れないと感じられてしまうのは、私のパースなるスペースが牧歌的なレベルでひたすら拡大しているためかもしれない。いずれにせよ、トイレの大の方でも、となりの囲いに人の気配を感じてしまうと、なんとなく落ち着かない気分になるのだから、顔が見える見えないといった視覚的な問題ではなく、そこに誰かいるといった心理的な圧力が、自らのパーソナルスペースバリアーを張り巡らせようと、守りの体制をとらせるのだろうから、北海道暮らしといった土地の広さだけでは、どうにもならないのかもしれない。草原の真っ只中で、ただ一人野糞をたれていたとしても、神の視線を感じていれば、「あー、排泄開始までの時間が延長してしまうので、ちょっとあっちに行っててくれませんか。。。」と訴えざるを得なくなるだろう。どこに行っても、住みにくそうだ。
2005年05月14日
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今日はゼミの飲み会だった。うちのやつの負担が軽くなることもあり、時々上のボーズをゼミの飲み会に同伴することがある。昨日もそうだった。上のボーズは「おねーちゃんとカンパイ、いきたい!」と、飲み会参加が大好きである。なんせ、大好物のから揚げ、ポテト、甘エビのお刺身があり、ドリンクは飲み放題なのであるから、行きたがるのも無理はない。学校からボーズを拾いに帰ってみると、おなかをすかせたボーズが、今か今かと私の帰りを待っていて、ドアを開けたとたんに飛び出してきた。「カンパイにいきたい!」ボーズはそそくさと虫キングのカードを何枚かポケットに放り込み、準備完了である。飲み会に虫キングカード?ま、いいか。学生たちが待っている居酒屋のつくと、またしてもボーズは人気者だ。ゼミの飲み会でさえもモテル。おねーちゃんたちを、なんと虫キングのカードで落としていくのだ。「このカブトの必殺技はダイシャリンなんだよ」おいおい、そんなのありか?と思っているうちに、オネーチャンたちも変化を見せる。「えー、そおのぉ?」「これはなーにぃ?」おいおい、そんなやさしい視線、私に投げかけたことがあったか?いつも、汚いものを見るような視線しか投げかけないゼミのおねーちゃんたちが、なんともかんたんに変貌を遂げていく。だんだんと調子付くボーズ。慣れてきたところでオネーチャンたちの膝のうえにチャッカシ座っている。私がそんなことをしたら、セクハラで間違いなく訴えられるだろう。などとおもっていると、今度はテーブルの下にもぐって、あっちのおねーちゃん、こっちのおねーちゃん、と渡り歩き始めた。やつが飲んだオレンジジュースは、まさかファジーネーブルか何かじゃなかったのか?素面での行動とは思えん。う、うらやましい。。。2人分の飲み代を置いて帰り道、なんだか納得できない思いで一杯なわたしだった。今度は自分の飲み代ぐらい出せよなぁ…
2005年05月13日
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今日の札幌はとても天気がよく、千歳での仕事の行きかえりも、車を飛ばして走るのがとても気持ちよかった。だけど、それだけ、千歳から恵庭を抜けて北広島に向かう国道が、やばい感じを漂わせていた。往きはよいよい帰りは怖い。丁度3時前、一仕事終えて国道を飛ばしていた。こんなところでネズミ捕りにつかまったら、今日の仕事で稼いだお金、全部持っていかれちゃうようだなぁ。そんなことを考えつつ、見通しの聞く直線では、ネズミ捕りも隠れにくいだろうなぁ~などと考えていた。と、目の前には左カーブ。なんだかやーな予感。レーダーなんてしろもんが付いていない私の車では、わたしの感だけが勝負。とそのとき、対向車線の一台の車のライトが、丁度すれ違いざまにピカッと光ったのを私の目が捉えたのです。うわぁ!あわてて左車線に移り速度を落とすと、私の後ろにいたブルーのイストが左カーブで私の車を追い越して車一台前へ出た、と思った瞬間、出てきた出てきた。旗を持ったおっさんが。うわぁ。やっちまったー。。。。。私の頭は一瞬真っ白になったのですが、おっさんの目線は明らかにイストをみている。おっ。。そっちか?おっさんは旗を振り振りイストを指差し、左に寄せなさーい!と叫んでいる。た、たすかったぁ~。ほんの一瞬早く、対向車のパッシングが見えたおかげで、今日の千歳での講演料がパーにならずにすんだ。パッシングしてくれた対向車のあなた。名乗り出ていただければ、使ってしまった講演料の残りの半分ぐらい差し上げたい。ほんと、たすかりました。去年はゴールドまであと1ヶ月だったのに、スピードで切符を切られてしまった。あれも豊平川沿いの左カーブだった。左カーブ。恐るべし。潜んでいる。潜んでいる。潜んでいる。
2005年05月12日
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戦争を民間企業が請け負う時代。確かに戦争は金のなる木なのかもしれない。どこまでが資本主義の名の下に金によって動かされていくのだろう。実は、われわれの知らないところでは、すでにさまざまな事柄が民間に委託されて、金によって動いているのかもしれない。あの小泉何とか郎にしたって、実は国務を委託されたナショナル・リスク・マネージメント・カンパニーからの派遣社員かもしれない。そう考えてみれば、さまざまなことに対する煮え切らない態度は、どうせ民間企業の一サラリーマン、国家傭務員なのだからと考えれば納得できる。つまり、どうでもいいのだ。いつのまにそんな委託がされていたのだ。まったく気づかなかった。イラクの民間軍事企業よりも、わが国の民間国務企業の運営方針を、株主総会で正す必要がありそうだ。まてよ、あの国会中継。すでに総会屋が入り込んでいたのか…
2005年05月11日
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いつものように早々と家に帰りつくと、ご近所のリカちゃんが遊びに来ている。最初はおっかなびっくり近寄りもしなかったリカちゃんだったが、このところ随分と私に気を許し始めている。ソファーに座っていれば膝の上に乗ってくるし、パソコンに向っていれば、脇で私に寄り添いながら眺めることもある。何がリカちゃんに変革をもたらしたのか、私には皆目見当がつかないが、リカちゃんも大人の男のよさがやっと分かり始めたに違いない、と勝手に思うことにした。そんなリカちゃんであるが、相変わらず「リカは惟くんと結婚する」と、ボーズへの逆指名を続ける。ご指名を受けた当のボーズはと言えば、プラスチックの蓋を口の周りにあて、中の空気をチュウチュウと吸っていたものだから、唇の周りが赤黒く、タラコ唇のような、コントのこそ泥の様な顔になっている。こんなボーズのどこがよいのか。おじさんだって、もとい、お兄さんだって、まだまだリカちゃんの結婚相手になると思わない?? そう言い寄ってみようかと思っていたところ、オヤジの下心を見透かされたか、「リカ、帰るわよー」と、お母さんに呼ばれて行ってしまった。下の娘を膝に乗せ、「宥菜ちゃんはお父さんと結婚する?」と聞いてみる。「いーちゃんと(にいちゃん)。」きっぱりと拒否された。西原家のボーズとさほど変わらないボーズだが、奴ばっかりが何故もてる。合コンには絶対ボーズを連れて行かないつもりだ。女心を虜にする方法ぐらいなら、聞いてやってもよいが。
2005年05月10日
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今日は死んだ親父の誕生日だ。生きていれば79になる。自分が年を重ねるにつれ、自分と同じ年の親父だったら、どう思うだろうか、などということを考えることが多くなった。仕事に関して、子育てに関して、恋に関して。親父はなんていうだろうかと。親父が死んでしまったことは、確かにさびしいことではある。一番の友を失ったような気もする。生きているときはうざくて、少しでも距離をおきたくて、逃げ回っていたように思うが、結局いなくなってみると、いないことがさびしくてしょうがない。いないという存在のなさではなく、そのことで話ができないことがさびしいのだ。今までろくに話もしなかったくせに。いなくなって初めて言語的なやり取りがしてみたくて仕方がない。こんな俺を、親父はなんと言うだろう。無言でニヤッと笑うだろうか。言葉なんて、ただの媒体にしか過ぎないと。大切なのは、その媒体に何を乗せて送るのかだと。今日は死んだ親父の生まれた日。生きていればガミガミと、文句を言われていたに違いない。そしてうぜーと、顔も見せなかったに違いない。
2005年05月09日
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5歳になるボーズが私の手を引き、ひそひそ声で話し掛けてくる。スーパーマーケットの中だ。どうせまた、マジレンジャ-のお菓子があるよ、なんて、買ってほしいなぁ光線を浴びせてくるのだろうと思っていたところ、「今日はお母さんの日だから、こっそりプレゼント買うんでしょ。あっちにお花があるよ。」と、思いがけない台詞を吐く。私の手をぐいぐいと引いて、スーパーの一角に位置する花のコーナーへと導いていく。「これにしよ。」いきなり目の前にある花束をつかむ。仏花…。「あー。ほら。他にもいろいろなお花があるんだから、良く見て決めたら?」と私が言うよりも早く、「じゃこれ」と目の高さにある次なる花をつかむ。「ほら、もっと下がって全体を見てごらんよ。ほら、いろいろなお花がたくさんあるでしょ。この中からお母さんに似合いそうなお花を選んであげて。」やっと全体を見回し、「あれ」と指差したのは、薄い赤に近いピンク色のカーネーションだった。いつもやんちゃで怒られてばかりの君。キズだらけで泥んこで、甘えん坊で、バブちゃんで、泣き虫な君。いつの間に、そんな優しさを身に付けたの?君がお母さんに花束を渡したときの、あの君の目。とてもキラキラとしていて、きれいだったよ。そして、君の目の輝きがまぶしくて、お母さんの目もキラキラとしていたね。今年の母の日は、そんな君の優しさに触れることができた、素敵な父の日にもなりました。
2005年05月08日
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機械式の腕時計が好きだ。チッチッチと小刻みな音を立て時間を切り取っていく、その小さな体の中には、精密な機械職人の技が詰め込まれていて、未来と過去とをつなぐ境界線の秘密をじっと守り続けている。2時元的な動きに惑わされていると、いつまでたっても無数の円を描き続けることになる。時計の中で動き始める3次元的なトゥ-ルビヨンの動きを見つめつつ4次元的な時空間に思いをはせる。そこに神が仕掛けた自転と地軸のずれのヒントが隠されているからだ。私をとりこにした初めての時計には、5つの腕が埋め込まれていた。まさに阿修羅のごとく、その腕を巧みに用いながら、時間に封じ込められた生活の呪縛を、ゆっくりと、しかし正確に刻み解く。それはまさに表現と行動の同時性。老いることでしか得られない英知の表現系と、肉体の鼓舞によって現される若者の行動系の共存。所有しつつも、支配することを峻拒され続けることの快感。それは、地球上のあらゆるものの存在を空無化する凄まじい悪意を内在する。ゆえに、時を刻み付ける機械にまた惹かれていく。自らの過ちによって作り出された轍を何度も踏みつけつつ、悪意に導かれていく。
2005年05月07日
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学校の裏山にカタクリが咲いている。エゾエンコサクと一緒に、群生している。こんな近くにカタクリが咲いているとは知らず、わざわざ旭川の男山まで出かけて行ったこともある。さすがにあれだけの規模はないものの、人があまり入らない学校の裏山だけあって、あらされていないカタクリの中をゆっくりと散策できる。カタクリがかわいいと愛でていたところ、コゴミを見つけた。よくみると、結構あるものだ。ケバケバしたオス、つるんとしたメス。羊歯ですからね、と先生が言う。オスのいるところにメスが寄り添っているのか、メスのいるところにオスが群がっているのか。いずれにせよ、羊歯ですからね。オスがいれば、メスがいるものなのです、と言うことらしい。いたって人間的だ、と思いつつ、メスばかり集中的に襲い掛かる。なんとなく、オスの視線を感じるようだ。今宵は君に群がっていたメスで、いっぱい飲ませてもらうよ。そう思いつつも、自分がものすごい悪党に感じる。むごいが、うまい。久しぶりの春の味を楽しめる。裏山も捨てたもんじゃない。食べれるものがあるというだけで、カタクリだの、水芭蕉だのがどうでもよく感じられてしまう自分は、やはりオスだなと思う。むごい部類のオスだ。だから合コンに行っても、女の子を連れに持っていかれてしまうのだろう。そんなことより、今日は仕事を早く終え、家に帰ろう。裏山を長時間散策して、足が疲れてしまったので、仕事どころでもないことだし。
2005年05月06日
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お洒落な大人の男。それは魅力的な言葉だ。自分がどうすればそんな男になれるのか、いろいろと考えることがある。というよりも、だいたいのことをカタチから入る私は、まず私の形がお洒落な大人の男ではないに違いないと思い、そんなお洒落な大人の男が載っていそうな雑誌を購入し、学習することにした。雑誌の名前はブリオ。それがお洒落な男を作るための雑誌なのか何なのかは知らない。ただ、そんな雰囲気をたたえて、本屋の雑誌棚の中に納まっていたことは間違えない。中をぱらぱらとめくると、なるほどお洒落な男性中年たちが、お前もこんな身だしなみをしてみろよ、と挑みかけてくる。仕事のスーツを脱いだ後はこんなカジュアル。確かにお洒落だ。そんな雑誌を眺めている私は、上下ばっちりジャージ。一応アディダスだ。そんなところで見栄を張っているから、お洒落な大人の男にいつまでたってもなれないに違いない。だが、本当にこういったお洒落な大人の男たちは、こんないでたちで生活しているのだろうか。おおきなクエスチョンマークが浮かんでは消える。同じような疑問符が、加納姉妹を見ているときにもよく現れる。この人たちは、ほんとうに毎日こんな生活をしてるんだろうか????? きっとしているに違いない。そう考えると、私が住んでいる世界には、お洒落な大人の男は存在しないに違いない。周りを見渡しても、ブリオな大人の男は一人もいない。まわりでいちばんお洒落な大人の男といえば、何をかくそう、この私なのだから。となると、私はどんな世界に住んでいるのだろう。大衆。いい響きだ。私の世界。そう、それは大衆。なにも、お洒落な大人の男にならなくてもよいのだ。大衆の世界にいるならば、むしろいなせな大人になればいいのだろう。イナセ銀杏の髪でも結ってしごとばに出向いてみよう。せんせー、かぁ~いなせだねぇ~。なんて、威勢のいい声で出迎えられたいものだ。
2005年05月05日
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いつだったか、京都の銀閣から哲学の道を一人ぶらぶらと歩いたことがある。学会で京都に赴き、時間を見て銀閣を眺めに行った帰りだった。天気がよく、ぽかぽかとした日差しの中を歩いていると、あれやこれやと、さまざまなことが頭に浮かんでは消える。哲学と呼べるほどの思考が浮かぶわけではないのだが、緑の中を、川の流れを眺めつつ歩く心地よさは、さまざまな思いに、新たな解決を与えてくれるような感じがした。京都から、メールが届いた。結婚式に参加するために京都に出かけた女性からのメールだ。今ねねの道を歩いているという。この時期の京都も綺麗だろうな、と思いをはせつつ、一緒に京都の道を歩きたいと思う。のんびりと、テクテクと、道端の花などに目を留めつつ、語りながら歩きたいと思う。そんな時間を一緒にすごしたくなる女性からのメールだ。一緒に見れなくて残念です、と言う文面。素直にうれしく思う。私もあなたと一緒に京都の道で、新緑を見て歩きたかった…
2005年05月04日
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今日はうちのが上のボーズを連れ、私が下の娘を連れ、それぞれが子供たちとのデートを楽しむ、という無謀な企画。大方の予想は、それぞれにクタクタとなり、イライラとなり、モー絶対行かない!となるという予想。私と娘は、無謀にも二人して千歳にオープンしたアウトレットへ行くことに。とはいっても、高速は間違いなく渋滞するだろうから、裏道で行くことに。とはいえ、道は結構込んでいた。それでも、1時間ちょいで千歳に入ったのは、やはり下道を選んで正解。と思ったのもつかの間、大駐車場完備だなんていうから、駐車で待たされることなどないだろう、と思った私が浅はか。1時間待ちの表示。目の前には駐車場の空きをまつ長蛇の車の列。あかん。南千歳の駅前に回ってみて、車を路駐できなければ、千歳まで戻ってどこかに車を止め、電車で一駅乗ってこよう。とあっさり決断し、南千歳の駅前まで長蛇の駐車待ちの列を追い越して抜け出る。と、駅前は路駐出来ないように警備員がしっかりガード。そりゃそうだろうなぁ、と思いながら車を進めると、くるまが通り抜けられるのかとと思いきや、駐車場の中へと、あれよあれよという間に入ってしまう。駅まん前の絶好の駐車場。え?え?とおもっていると、ゲートのまん前のスペースに車はぜんぜん止まっていない。ここ、とめちゃっていいの?いいの?と思っていると、係員に誘導されて、難なく車を最高のポジションに駐車できてしまった。いやぁ=、あの長蛇の列に並んでいる人たちは、怒るだろうなぁ~。と思いながら、早速繰り出したのでした。でも、さすがに中はひと・ひと・ひと。どこに入っても、ひと・ひと・ひと。でもさぁ~、ここって、冬場はどうするんだろう?とおもいながら、ひと・ひと・ひとを押し分けて、娘の手を引っ張りながら、ブルックスを流す。しばらくブルックスでシャツだのパンツだのを見ていたが、パンツのレングスが33までだといわれ、それじゃ短いんじゃぁ~と思いながら買わずに出た。そろそろ娘が腹をすかしてぐずりだす時間だ。とおもい、レストランエリアへ行ってまたびっくり。こりゃイモ洗いレストラン。あかん。人の多さに疲れてしまった私と娘は、帰るか?と、いいポジションに車を止められたにもかかわらず、30分足らずで帰途に着いたのでした。車の中、ジャスコに行こ!と盛り上がった父と娘は、千歳から1時間で東苗穂のジャスコまでかっ飛ばし、プリキュアショーを見て、あーやっぱジャスコは落ち着くねぇーといいながら戯れたのでありました。一日疲れた。
2005年05月03日
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仕事に出かける日になると、なぜかよく晴れる。休日の雨が嘘のようにピーカンだ。学生の頃、試験間近になると、やたらとよい映画がテレビで放送されていたときから、なんとなく気がついてはいた。彼女との初デートの時だってそうだ。綿密に計算された私のデートコースが、あえなく最初の場所から店内改装のため休業。焼肉をすれば、さあ食べるぞーと言う段になって、焼肉のタレがない。久しぶりにゆっくり温泉でも行こうと思っていると、熱が出る。鼻をかめばティッシュが破けて手にべったりと鼻水がつく。パンをかじりながらパソコンで仕事をしていれば、間違えてマウスにかじりつく。合コンの行けば、かわいい子はみんな連れに持っていかれる。声をかけられたかと思えば、口元にうっすらと青いものが生えている。今日はワインでも飲みながらビデオ、なんてしゃれ込んで高めのワインを買ってくれば、オープナーがない。仕方なくマイナスのドライバーで何とかならないかと突き刺してみると、案の定コルクがカスごとワインの中へ。拍子にワインが飛び散ってシャツにシミをつける。当然の結果としてうちのに小言を言われる。なぜ?と問うと、そういうことになっていますから、と言われる。この☆の王様。この☆の対称には、休みになるとぴーかんで、合コンに行けばオネーちゃんたちに囲まれ、焼肉すればカルビ・カルビ・またカルビ、ティッシュは御鼻に優しい素材な日々の☆があるに違いない。彼らの生活を支えるために、私たちが負け犬な日々を続けているに違いない。連休の合間に仕事なんかに出てくると、☆に願いを掛けたくなるようなことばかりが思われて仕事にならん。いつもならば、5分ぐらいは仕事に集中しているはずなのに・・・ 焼肉のタレを買って帰ろう。
2005年05月02日
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医者の知り合いがいる。驚くにはあたらないが、金を持っている。しこたま。あまりうらやましいと思うこともなかったが、ゴールデンウィークにずっと家にいる我が家の様子を見ていて、今度のゴールデンウィークにでも、××に行ってみるか、なんて言葉を発したことがないことに気が付いた。医者の家族は、愛地球博にでも行ってみるか、で行って見ているようだ。やっぱり金か…グーの根も出ない。ない袖はふれない。貧乏人は水を飲め。そのとおりかもしれない。しょうがないから何か娯楽がないかしらん、と考えあぐね、うちのにいいよってみたりもする。貧乏人の子沢山。納得できる。我が家的愛地球博。あまりに短絡的だったからか、風邪気味だったからか、娘にディープなキスをされたことを妬いているからなのか、うちのにも袖にされる。こんな袖ならふれるのに。こんなことなら医者にでもなっておくんだった。あの時親父が変なことさえ言わなければ、今頃私は医者になって大金持ちになっていたに違いない。親父がなんていったのか、そんなことが実際にあったのかはすでに忘れてしまったが、今の貧乏暮らしを見れば、間違いないことだという確信だけはしっかりと持てる。今度のゴールデンウィークには、こんなたわごとを家で日記に愚痴っているようなことだけはやめようと思う。
2005年05月01日
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