全4件 (4件中 1-4件目)
1

久々に小津安二郎監督『晩春』を見た。どれくらい久々か思いだせないので、相当前だったはず。『東京物語』は何回か見ているので、いろんなシーンが結構蘇るのだが、『晩春』はぱっと浮かぶシーンがない。というか、小津安二郎の一連の作品をまとめて観たので、どのシーンがどの作品かこんがらがっているせいもある。小津安二郎作品は、シリーズだと思っていい。ただ、小津安二郎作品が世界レベルで評価が高い、ということに少し疑問を持っていた、というのも正直な意見だった。ところが、今回改めて鑑賞してみて、自分の浅学菲才を思い知ることとなる。年齢を重ね、人生をいろいろ経験して、たどり着いた立ち位置で観てみると、今までの印象と全く違う感銘を受けた。『晩春』の公開は昭和24年、物語はほぼ同時期の設定で描かれている。つまり、終戦後5年目の話である。父娘の住まいは「北鎌倉」だが、生活圏として東京も舞台となる。空襲で焼け野原であった東京が、5年で見事に復活を遂げていた。驚いたのは、北鎌倉を原節子と宇佐美淳が自転車で走るシーンで、「コカ・コーラ」の標識が大きく映し出されていたカットだ。以前見たときはそんなところは気が付かなかったなあ。僕は昭和31年生まれなので、この物語の7年後の誕生である。この差は大きいと、団塊世代の先輩からよく聞いたが、この映像からはあまり違わないと思う。「コカ・コーラ」というのは、ひとつのアメリカの象徴で、このシーンは作品の方向を示している。『晩春』には、戦後の悲惨さはみじんも描かれていない。翌々年(1951年)に公開される小津作品の『麦秋』では、同じようなシチュエーションで、娘の2番目の兄が出征したままもどらないという、戦争の影が少しあらわれる。この帰らない兄の存在が、妹の選択に影響を与えるわけだが、それにしても戦争の火薬臭さはない。昭和24年(1949年)というのは、”ベビーブーム”最後の年である。日本中で、子どもが生まれた。「サンフランシスコ平和条約」は1951年だから、このころはまだ日本の将来が確定したわけではない。日本の統治方針に影響を与える「朝鮮戦争」も1950年だから、それすらない。今思えば、ベビーブームの1946~49年の3年間は、日本の将来は全然安定してなかっと思われるが、この映像を見る限り、日本は現在に続く道をすでに歩み始めていたことがわかるさて物語に戻ると、世の中はベビーブームなのに、原節子演じる娘は27歳になっても結婚するつもりがない。友人のアヤも、結婚はしたがすぐ離婚をして子供はいない。総じてこの映画に子供は登場しない。ラストの嫁入りの自動車に、近所の子どもが数人群がっているシーンだけだ。ちなみに『麦秋』では、兄夫婦に二人子どもがいるが、大人にとっては面倒で迷惑な存在として描かれている。『東京物語』にも、長男夫婦に子供がいるが、まったく同じ、聞き分けのない勝手な兄弟だった。小津安二郎が個人的に子供が嫌いだったのかもしれないが、当時の感覚としては、子どもはそれほど可愛いくもなく、半分お荷物という感覚が普通だった。子どもは大人の目には、”ガキ”なのだ。思えばいつから今風に子供が、大切に扱われるようになったのだろう。たぶん高度成長期を経て、生活に余裕が生まれたことにより、徐々に生まれた変化だったのだと思う。少子化によって、一人一人が大切になり、大切にしなくてはならないために、少子化に進んだ。そんな考察をむまえて、『晩春』から少子化問題を紐解いてみたいと思う。まず、笠智衆扮するこの物語の父親は大学教授である。(ちなみに1904年生まれの笠智衆は、この時はまだ45歳だった。役の父親は56歳。27歳の娘の父親を全く違和感なしに演じていたが、実年より12歳年齢を重ねた役を演じていたことになる)部屋の調度を見る限り、質素な暮らしをしているが、大学教授であれば裕福な家庭といえる。風光明媚な北鎌倉で、父親の世話と少数の知り合いに囲まれて、不自由なく暮らす生活は、それほど嫌なものじゃない。出戻りの親友の話を聞いても、結婚はさほど羨ましいものだとも思えない。だったらこのままでいいから、結婚もしない、子どもも作らない、という選択ををしても不思議ではない。ひるがえって僕の娘も今年33歳になるが、一向に結婚する様子はない。むしろ自由な独り暮らしを楽しんでいるようだ。僕の職場にも独身の女性が何人もいるが、たぶん彼女たちもこのまま独身なのではないか。住むところと仕事があれば、生きていける。贅沢を望まなければ、女性が独身で生きていくことは困難ではない。一方、結婚にまつわる苦労の方は枚挙にいとまない。僕も娘には、結婚を強いたりしない。無理に結婚しなくても、幸せな毎日を過ごせれば、それでいい。結婚により、面倒が沸き起こる方が厄介だ。孫がいなくても寂しいということはない。まして日本の将来など、背負う気もない。岸田総理は、記者会見において「異次元の少子化対策に臨む」と方針を明らかにした。支持率低迷の岸田政権の、人気挽回のための秘策らしい。少子化対策といえばみんな賛成だろう、という単純な狙いだろうが、そうだろうか。少なくとも、僕は賛成ではない。共稼ぎ夫婦や、貧困家庭を援助するのはいいことだろう。ただそれが、出生率に効果があるかどうかについてはエビデンスが薄い。北欧やEU諸国は押しなべて子持ちに対して優遇政策を施しているが、出生率は日本よりやや高い程度で、けっして功を奏している風ではない。やや高いのは、移民の出生率が高いせいもある。裕福な自国民の、出生率は上がってはいない。そもそも出生率をあげなければならない、ということは正しいことなのか。昭和の頃の認識では、日本の国土に適正な人口は5000万人ぐらいだと言われていた。国土の割に山岳地帯が多いので、農地換算も含めて、人が住める分を換算すればそうなる。高度成長で、1億人突破したころに警鐘が打たれた。それが気が付けば、逆の危機が叫ばれている。5000万人が適正ということが覆されたのなら、いったい何人が適正なのか。人口は突然変わるものではない。その時の人口に合わせての方策を考えればいいだけのことだ。子どもを増やすために、効果があるかどうかわからないことに金を使うより、人口が少なくなってもやれるような策に金を使うべきだ。将来の年金資金のことだけを心配しているように見える。行政が何かをするときは、必ず利権が生まれる。現在NET民を騒がせている「colabo事件」「太陽光発電詐欺事件」も、ふりだしは政府の方針からだ。詐欺師が政府にパイプを持って焚きつけたか、政府の方針に金の匂いを嗅ぎつけた詐欺師が、ハエのように政策利権にたかったのか。とにかく悪い奴の悪知恵は、善良な民には計り知れない。騙されたことに恥じることではないので、詐欺と分ったからには、担当者はすべて明らかにして、詐欺師を重く罰することを望む。『晩春』も『麦秋』も、娘は結局結婚をする。しかし、その後がどうなったかは定かではない。多分幸せな家庭を築くだろうが、それは結婚したためではなく、娘自身の個人の資質によるものである。子どもが欲しいのに、生活費のために作れないと思うのも早計である。出生率の高いのは、アフリカなどの貧困国だから。国が国民の幸せを援助したいなら、出生率をあげることに税金を使うのは無駄かもしれない。どんな家族スタイルにも対応できる、自由な生き方を選択できる、様々な援助政策を目指すべきだろう。映画のラスト近く、一旦は嫁に行く決心をした娘が、やはり父と暮らしていたいと言い出す。父は娘にこう言って諭す。笠智衆の。3分にも及ぶ長いセリフがこちら。「だけどそれは違う。そんなものじゃないさ。お父さんはもう56だ。お父さんの人生はもう終わりに近いんだよ。だけどお前たちはこれからだ。これからようやく新しい人生が始まるんだよ。つまり、佐竹君と二人で作り上げていくんだよ。お父さんには関係のないことなんだよ。それが人間生活の歴史の順序というものなんだよ。そりゃぁ結婚したって初めから幸せじゃないかもしれないさ。結婚していきなり幸せになろうと思う考え方がむしろ間違っているんだよ。幸せは待ってるもんじゃなくて、やっぱり自分たちで作り出すもんなんだよ。結婚することが幸せなんじゃない。新しい夫婦が新しい人生を作り上げることに幸せがあるんだよ。1年かかるか2年かかるか5年先か10年先か、つとめて初めて幸せがうまれるんだよ。それでこそ初めて本当の夫婦になれるんだよ。お前のお母さんだって初めから幸せじゃあなかったんだ。長い間にはいろんなことがあった。台所の隅っこで泣いとるのをお父さん幾度も見たことがある。でもお母さんよく辛抱してくれたんだよ。お互いに信頼するんだ。お互いに愛情を持つんだ。お前がこれまでお父さんに持ってくれてたようなあったかい心をこんどは佐竹君に持つんだよ。いいね。そこにお前の本当に新しい幸せが生まれてくるんだよ。わかってくれるね。わかってくれたね。そうかいわかってくれたかい」人生というもの、夫婦というものの道理を聞かせる父親。父親の言葉に、人生の真実を悟る娘、というシーン。しかし、物語りのテーマを、セリフで言わせてしまう、野暮なことをするような監督ではない。これは見せかけの大団円。娘の落胆と決心にこそ主題がある。大好きな父親のために結婚を決意する。娘がどんな人生を過ごすかは今後の未知数だが、娘を失った父親が哀れなのは確かである。多かれ少なかれ結婚は、社会の風習に合わせたものという側面がある。社会のお仕着せを拒否する若者が、結婚というしがらみを避けるようになっていくのも当然だ。社会はその時代の人間の構成で築かれる。その時のことは、その時のその人たちが決めればよい。
2023年01月31日
コメント(0)
![]()
今回でこのブログの投稿、1000回を数える。2005年5月7日に第一回を投稿して、あしかけ18年。あの日には、1000回をむかえることなど想像すらしていなかった。書き始め当初は、世相を反映させることがなかったので、あの頃がどんな社会だったのかは、読み取れない。内閣は小泉純一郎首相5年目、この年8月に“郵政選挙”が行われる。僕が選挙に行ったかどうかは覚えていない。この間ブログも更新していない。たぶん丸の内周辺の高層ビルの工事で、心身共にすり減らしていた時期と思われる。記念すべき第一回目の記事はこちら病は気から 健康は気の持ちよう?48歳の春、なぜかパソコンに興味を持ち、なぜかブログを書こうと思った。YUMIさんが、一足早く3月に始めていたので、その影響だったと思う。今日からデビューします。あちらはもう4525件挙げているので、レベルが違う。350万アクセス達成だそうで、すごいのひとこと。妻や子供がやっているパソコンというものを、なんだか羨ましく見えたのだろう。自分のノートパソコンを買い、インターネットの扉を開いて、もう一つの世界がディスプレイの向こうにあると知ると、すごく感動した。まさにパラレルワールドがそこにあり、もう一人の自分の人生がそこに生まれる希望を感じた。当初は、健康についての蘊蓄を語ろうと思っていた。自分の持っている知識の中で、人に語れるものは、栄養の話だとか、健康についての話だとかしか思いつかなかった。昔から健康とか、病気とかに知識の方向が向いていた。20代で親友を膠原病で亡くした経験が、色濃く影響していると思う。それでいろいろ研鑽を重ね、たどり着いた「体の健康のための要素」は、ブログ冒頭に記したこれ。1.血流 ―若さと健康は血の巡りです 《ヨガ呼吸、20分浴、ウォーキング》2.食事 ―健康とダイエットのために正しい食事 《腹七分、糖質控え、よく咀嚼》しかし、自分がそれで健康だった、というわけではない。むしろ心身ともに最悪で、腰・肘・膝・手首・体中に痛みがあり、頭痛持ちで、毎朝吐き気があり、精神も病みつつあった時期だった。痛みは職業(OAフロア張り職人)柄致し方ないもので、もう治らないものとあきらめていた。体の痛みが先か、仕事上の精神的苦痛が先か、今となってはわからないが、振り返ると10月の記事に、はやくも体の不調を訴えている。老化現象 ?体の不調からか、仕事が忙しかったからか、この後しばらく空白期間がある。この間、近所の病院へ行き、ある診断が下されていた。そして翌年2月には、体の不調が”うつ病”によるものだったと書いている。謎の病気は「うつ病」だった”うつ病”といっても、重度のものではなく、仕事は続け(今思うとやたら間違いが多くなって、若い者に文句を言われていた)、辛いながらも生活はできていた。なんとかせねばという思いもあり、それから”脱うつ病”に向かっての、匍匐前進のような日々の記録が続く。記事にしてはないと思うが、この間”希死念慮”に囚われていたことも事実だ。あの頃を思い出すと、結構辛い。それでもうつ病克服のため、何冊も本を読んだ。本が読めるだけ軽症だったことが、脱出を可能にした。税所弘 著 『うつ病はよくなる』そして、たどり着いた心の健康のための要素。3.幸福感 ―幸せは考え方で手に入ります 《受けいれて、感謝の心、怒らない》1.2.3.とそろうと「心と体の健康のための三要素」となる。これが、このブログの根幹となる指標である。さらに進んで、どの本だったか「自分の好きなものを楽しむことのすすめ」というテーマに出会い、新たな楽しみが生まれた。自分の好きなものって何だろうと考えたとき、高校から20代前半に通っていた『文芸座』を思いだした。「文芸座」との出会いそれで、あの頃見ていた洋画のことを書こうと思った。さらに映画の記事を100本書こうと目標を決めた。それが達成するころにじょじょに体調も復活すると決めた。書くためには調べることもあり、テーマを見つめる作業もあり、集中できた。辛い時もあったが、積みあがっていく結果を見て喜びの感情が蘇ってきた。この作業が無かったら、うつに寄り添い過ぎて、闇に飲み込まれてしまったかもしれない。読み直して感じることは、書くことで日常で使われない脳が活性化し、硬直した細胞が復活しだした。blogに命を救われた、といっても大げさではない。映画の話100『青春時代アメリカンシネマ』が終わってからは、様々な社会時評のようなものも書き始めた。好きな映画を書きながら、他のことも書きたいという欲求がわいた。もともと僕は、”コラムニスト”というものになりたくて、ブログを使ってコラムめいたものを書くことに快感を抱いていた。ワシントンポストのコラムニスト、アート・バックウォルドが憧れだった。実際は、凡庸な僕の頭脳では無理な憧れ。といっても、書いているときは常にいっぱしのコラムニストなので、気分はいい。小さいながらも、夢がかなった。そうこうするうちに、次のテーマになる、義父の介護問題が起きる。自分のうつ病も人生のターニングポイントだったが、介護によって学んだことも大きな糧となった。人生、結婚して子供を育てて一人前だ、などとよく聞くが、言わせてもらえば、介護をしてこそ一人前と言える。足裏を揉め義父の介護とうつ病リハビリ、その中で、次の楽しみとして短歌を選択。短歌が好きだったわけではないが、多分俵万智の『サラダ記念日』のインパクトが大きかったと思われまる。『サラダ記念日』『チョコレート革命』書き始めのころは、影響を受けて恋人の影がちらついている。こちらがそれ駄歌凡歌 (1)短歌と並んで2010年から、書評というか、本の紹介というか、本に書かれている内容に触発された僕の考えを書くことを始めた。読書日記なのだが、一つの指標として『幸せ読書日記』と、幸せのための読書というくくりにした。だんだんそうでもなくなったが、初めは心の栄養になるものを選択していた。あなたの夢はなんですか?このころはBOOKOFFにもよく通い、100円コーナーで手あたり次第買いあさりった。宝探しの気分。本を読んでの感想なのだけれど、僕の意見に一致しないと書かないというスタンスなので、作家がやや偏っているきらいは否めない。本の内容より、己を探るということが目的だったと言える。それから、昔のことを思い出すのは脳にとっても体のとっても良いので、昔の話、または昔の歌謡曲の話も書いた。このころはYouTubeが載せられたので、記事が華やか。昭和歌謡探索(1)『落ち葉の物語』僕の体は、昭和の空気で出来ていると納得するシリーズだった。そして、2011・3・11東日本大震災が襲った。僕の平凡な人生においては、間違いなく最大級の事件。被災した方々にとっては、100分の1にもならないほどの衝撃だろうが、僕の脳内リセットには十分だった。津波による2万人の命が失われたことにも悲嘆したが、もう一つの災害”原発事故”に憤慨せずにいられなかった。これにより、反原発の記事をかくことになりる。原発事故を考える原発についての見解は、今現在書き直さなければならない部分があるのは確かである。ロシアによるウクライナ侵略が、考えを修正するきっかけなのは当然のこと。この前までは、「原発は絶対だめ」の陣営だったが、今は認めるところは認めるという考えである。その前に記しておかなければならないのは、「二酸化炭素による地球温暖化説」は批判している、石油石炭発電は継続すべきと考えている。温暖化問題 武田邦彦メルマガただ、その石油石炭が高騰して、いかがわしい”自然エネルギー”に傾くぐらいなら、休止している原発を稼働すべきと考えを改めた。原発村の利権集団も嫌だが、太陽光発電の暗部の方がもっと危険で醜悪なのだ。太陽光発電を推進する連中は、無知の民と詐欺師。それと中国からの侵略者。政府は速やかに方向転換すべき。ただし、僕の一番の推進するエネルギー源は、地熱発電であることは変わらない。地熱発電は温泉が出るところならすべて可能。これにより温泉が枯渇する可能性があると反対する者もいるが、世界中でそんな事実は存在しない。うまくいけば、地熱発電が進化してマグマ発電に達して、日本の電力は以後全く心配いらなくなることもあり得る。そして2015年から、「羊毛フェルトアート・カントリー木工」というカテゴリーが加わり、僕の作品を載せることになった。作品自体はずーと前に作り始めていて、ブログに載せるのがこの時以来ということだった。明けましておめどとうございます 2015実は、手作りのブログは別に書いていた。木工屋さん【WOODYPAPA FACTORY】カントリー家具注文製作byテディベアテラス - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)分けるのが面倒くさくなって一つにしたということだった。「羊毛フェルトアート・カントリー木工」のカテゴリーは、231本を数え、このブログのトップ。そして2020年、新たなカテゴリーが生まれた。『新型コロナウイルス騒動』の違和感 1)武漢封鎖sゆく新型コロナ騒動はまだ続いているので、まだ書くことがあるかもしれないが、25本と読書日記で3本、計28本を上梓している。新型コロナ騒動は、間もなく2類から5類に引き下げられ、これにて終了になるだろう。『新型コロナウイルス騒動』の違和感 18)指定感染症18年間いろいろあって、これからもいろいろあるだろう。僕としては、書いているときは結構幸せだということがわかったので、なるべく書き残そうと思っている。今回昔の記事を読み返すことになり、懐かしくも面白く、blogは僕にとっては最良の友であったと知る。ということで、久々に詠む。健康を 求めて探す 知の大海 たどり着く島 平穏の日々長生きを すれば見る目も 変わりおり 小さき者の 小さき秤1000までを 数えるだけでも 成しがたし 到達せしは 誰かの導きひとりきり 無人島で 暮らすなら なかっただろう 対人ストレス病名を 聞けば病気に 寄っていく 病気にすがる 逃げ出したいとき一時の 怒りにまかせ 人を責め 毒を飛ばして 知らぬ阿呆よ動かない 手足を恨み 情けなく それでも生きて 行かねばとは天災を 受け入れるのは 叶えども おのれの落ち度を 許すは難し原発に 群がる利権 魑魅魍魎 今は太陽光 発電が闇しみじみと 昭和を思い 懐かしむ 生きてるさなかは 見えなかった風景
2023年01月27日
コメント(0)
1月17日。僕の誕生日。誕生日は毎年来るので、この歳でどうこう思うこともないのだが、ある時期から、このけじめの日が、振り返りの場であるより、行く末のぼんやりしたゴールを見据えている気がした。過去の誕生日については、こんな風に記している。誕生日誕生日につき1956年を考える過去の記事で、若いころの思い出話を書いたこともあるが、さまざまな経験が今の自分を形作る材料になっていることは間違いない。過去の様々な出来事、巡り合った人々、すべてに感謝。今年の年賀状はついに一葉になってしまった。僕の方が書かないからあたりまえだ。貴重なその主は、学生時代バイトの新聞配達で一緒だったF君だ。F君は北海道出身で、早稲田大学に通っていた。彼の年賀状を見るたび、20歳前後の青春時代がよみがえる。若気の至りで様々なしくじりもしたが、今思うと、あの頃に考えていたことは、とんがって目指していたことは、すべて間違っていた。”すべて”は言い過ぎだが、根幹となる思考は、甘えの体質から生まれる独善で浮薄なものだった。20代は結構自分の潜在能力に目覚め、ブイブイかましていた。と思っていた。錯覚だった。手痛いしっぺ返しを食らい、ドーンと落ち込んだ。30代以降は、水面に浮いたり沈んだり、ばたばた溺れる寸前の毎日で今日まで来た。濁流の中、水を飲んだり、葉っぱが口に入ったり、もう駄目だと力が抜けてしまったこともあった。その間に、学んだこと知ったことが、僕の今を支えている。苦しかった時代に感謝。F君とは40年以上会ってないし話もしてないので、今再開したらどう見えるだろうか。すっかり変わったと思うだろうか。それとも、変わっていないと映るだろうか。僕の若いころの失敗は、自分を客観視できていなかったことに尽きる。主体的な視点でしか判断できず、他人を傷つけたり周りを振り回りていた、と考えている。それをそばで客観的に見ていた人に、どうであったか尋ねてみたい。会いたいと思うが、北海道は遠いし寒い。今の自分に目を移すと、ちょっと違う感慨がある。67歳になってみて、はたと気が付いたことがあったのだ。それは、僕の父親の享年が68歳だったということ。父を亡くしたのは、僕が23歳の時。僕が誕生したときに、父は45歳で、病弱だった父は、この子が二十歳になるまで自分は生きられないと、生むことに反対したと母が言っていた。我が家には、すでに男子が二人おり、後継ぎ問題は解消していたが、たぶん母親は女の子も欲しかったのだと思う。結局僕は生まれることになったのだが、もしかしたら僕の二十歳が父のゴールだったのかもしれない。まったく親孝行も出来ず、申し訳なく思っている。その僕が来年父と並ぶ。男子が父を超えるというのは、一つの目標であり、年齢というのはわかりやすい数字化できる指標である。改めて父とはどんな人間だったのかを思うと、あまりエピソードが出てこない。僕の記憶にある父は、すでに老人だった。『サザエさん』でいえば、磯野浪平(54歳)とワカメ(9歳)の関係だ。(改めて考えると『サザエさん』の家族設定もすごい。)僕の記憶にある父は、定年後日がな1日テレビを見ている老人だった。父の思いで喫茶店でバイトをしていたとき知り合った友人(彼は福岡出身だった)に、「君のお父さんは、動物に例えるとどんな人?」と聞かれたころがあった。友人は深く考え込むタイプの人間で、あの時も家族に悩みを持っていて、話を振ってきたのかもしれない。しかしその時の僕は、まだ他人に配慮する能力が欠けていたので、単純に父親の姿を考えて答えた。「蝉の抜け殻」この答えを友人はいたく喜び、以後何度となく話題にしていた思い出がある。今思い返しても、父はそんな人だった。そして僕は、そんな父のようにはなりたくないと思っていた。ところが昨今、僕の中で父の評価が変わってきた。父は文部省の役人だった。戦争中は樺太で秘書官をしていた。文部省を退官してからは、天下り先で数年間を過ごした。そこも退任してからは、家でゴロゴロしているだけだった。あの頃は60歳を超えて仕事をする人は少なかった。公務員だったので年金はあるので、働く必要もなかった。それで家でごろごろするしかなかったわけだ。父の現役というものを知らなかった。知ろうともしなかったが、もし僕が父と同じく公務員で定年を迎えて、60歳以降に自由を手に入れていたら、今はどんなに楽しかっただろうかと想像する。若いころは、定年後の話をする奴はバカだと思っていたが、こっちの方がバカだった。公務員だって、嫌なこと辛いことはたくさんあるはずだし、そこに学びの場はあるはずだ。人は何をしたかが問題ではなく、日常の経験を通じて、何を考え学んだかが重要なのだ。どれだけ稼いだか、どれだけ出世したか、どれだけ名誉を得たか。煙になってしまう身であれば、もはやどうでもいい。若い日の目標は、最終的に目標になり得ない空虚な幻想だった。父は68歳で亡くなったが、残念とも思えない。その後の母のいきいきぶりがすごかったからだ。母もそれは言っていた。姑も風邪で寝込んですぐに亡くなり、父も何回か入退院を繰り返したが、最後はあっけ亡くなくなった。看病介護の苦労がなかったことを喜んでいたのだ。写真見合いで、強引に嫁がされた母は、結婚生活を楽しんでいなかったらしい。父を亡くしてからは好きな裁縫や手芸に励み、ほうぼう旅行もし、人生を楽しんで94歳で天寿を全うした。生きていても家族にも社会にも貢献できないのなら、いなくなった方が喜ばれることもある。自然の摂理とは、そういうことだ。知力・体力・精神力は、老化とともに著しく劣化している。それを見て見ぬ振りができぬ今日この頃だ。母の日と認知症父の享年68歳は、僕にとって一つのポイントであることは間違いない。自分の親の劣化度を見ていた記憶は、自分にも当てはまってしまう。ああはなりたくないと思っていた自分が、ああなっていく必定。来年の今日、僕は何を思うだろう。案外何も思わず、その日の問題にきゅうきゅうとしているかもしれない。それがいい。先を見据えてもたかが知れてるし、過去を飾って考えても恥ずかしい。毎日湧き上がる問題に向き合って、その日その日をじたばた生きているのが、結局健全な生き方なのかもしれない。
2023年01月17日
コメント(0)
![]()
あけましておめでとうございます今年もよろしくお願いします令和5年の干支は「うさぎ」。ということでうさぎと鏡餅昨年の「まねきトラ」君と、引継ぎのツーショット。トラ君ご苦労様でした。いつもの通り、teddybearterraceに飾っています。お近くにお越しの際は、ちょっと覗いて行ってください。仲間と一緒に歓迎します。
2023年01月03日
コメント(0)
全4件 (4件中 1-4件目)
1
![]()
![]()
