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100回を目指して始めたこのコラムもついに最終回。アメリカンニューシネマ時代に映画に目覚めて、夢を描き、青春を生きたあの頃に、区切りをつける一作。「E.T.」’82年の、スティーヴン・スピルバーグが一つの頂点にたどり着いた作品です。「未知との遭遇(第53回)」で果たせなかった「スター・ウォーズ(第50回)」超えを達成し、歴代興行成績1位を奪取しました。この記録は、スピルバーグ自ら「ジュラシック・パーク」で破るまで持ち続けます。この映画が何故これほどまでに支持を受けたかと言うと、子どもから大人まで幅広い年齢層で楽しめ、特に若い女性に受け入れられて、デートニーズにも利用できたと言うことです。僕もそうでした。物語は、“友好的宇宙人”と“地球人”の子どもが交流すると言うもの。「未知との遭遇」の続編、子どもバージョンと言う感じで受け止められたでしょう。でも、意外なことに、スピルバーグの当初のプランは、“友好的宇宙人”ではなく、従来の“凶悪宇宙人”と子どもの戦いというものでした。「グーニーズ」の宇宙人篇を作りたかったのでしょうか。方向が180度変わったのは、脚本家のメリッサ・マシスンの進言によります。メリッサは当時ハリソンフォードの恋人で、二人は後に結婚しています。なんとこの二人で登場しているシーンも撮られていたのですが、残念ながらカットされてしまいました。ハリソンは同時期に「ブレード・ランナー(第78回)」にも出てるのでややこしくなるからでしょうか。たぶん、大人世界の方へ観客の意識を持っていかせたくなかったんだろうと思います。この映画の不思議な所は“悪人”が出てこないんですね。E.T.(宇宙人の事。EXTRA-TERRESTRIALの略です)を追いかける、NASAの科学者も10歳の心を持ついい奴でした。だから、悪人との戦いや、はらはらドキドキ感よりも、子どもの宇宙人と子どもの地球人の心の繋がりが中心で、エピソードがショートコントのように繋がります。それで場が持つから不思議です。子どもと動物には勝てないといいますが(E.T.も動物?)、まさにはまった感じ。一緒に見た彼女はこのE.T.を、かわいいかわいいと言ってましたが、僕にはそうは見えませんでした。グロテスクですよね、爬虫類のようなミイラのような。ちょうど彼女の誕生日が近かったので、E.T.のぬいぐるみを買うことにしたのですが、それもなかなかかわいいのが無くて、苦労しました。映画が秘密裏に撮られて、情報が外に出なかったせいで、ぬいぐるみ屋も間に合わなかったのでしょう。それでも彼女は頬を摺り寄せて、すごく喜んでいました。スピルバーグは宇宙人オタクだったので、ずーと宇宙人の事を考えていた人の結論なのでしょうが、僕にはちょっとかわいいとは…でも、子どもはすんなりと受け入れるので、心の汚れなさ加減で分かれるのかもしれません。このときはまだCG(コンピューターグラフィック)がなく、E.T.も人形です。ただ、かなりすごい動きのできる人形で、その精巧さには驚きました。今はCGで何でも出来てしまうので、その手の工夫的楽しみは過去のものです。この映画は、日本に二つのものを運んできました。一つは“宅配ピザ”主人公のエリオット君がE.T.にはじめて遭遇するシーンに登場します。はじめて見ました、“宅配ピザ”今じゃ当たり前に注文してますが、あの時はまだ無かった。出前と言えば、そば・ラーメン。ピザなんて、贅沢品でしょ。レストランで食べるもんじゃないですか。それを、ごく当たり前の日常にしているアメリカってすごいなあ(ピザはイタリアのものだけど)遠い国の話としてみていましたが、商才のある人間はこれを逃しませんでしたね。早速日本にも現れました。そして現在は、ごらんの通り完全に定着してますモンね。教訓“今日の贅沢は、明日の日常”もう一つは、少年たちの乗っていた“マウンテンバイク”山道走行用の自転車です。それまでの子どもたちの憧れの自転車は、ドロップハンドルのツールドフランス風スポーツタイプの自転車でした。大人のマニアは今でもそちらでしょうが、はっきり言ってあれは乗りにくい。子どもには危ない。さすがアメリカ、スタイリッシュで乗りやすい自転車を普及させていました。子どもたちが縦横無尽に街やら山やらをマウンテンバイクで走り回るのを見て、アメリカにはすごい自転車があるんだなあ(後でわかったら日本製でした)と思いましたが、あっという間にこれも日本に定着しました。僕も買いました。マウンテンバイクで走って走って子どもたちはE.T.を守るため逃げ回ります。しかし、ついに追い詰められてしまいます。絶体絶命のその時、なんとマウンテンバイクが空に飛び立つではありませんか。高らかに響くジョン・ウイリアムスのテーマソング。あのシーンは感動したでしょう。ありえないでかさの月をバックライトにしている、E.T.を前カゴにのせたマウンテンバイクの図は、スピルバーグのプロダクション“アンブリン・エンターテイメント”のシンボルマークに使われています。夢の象徴ですね。自転車で空が飛べたら…確かに僕も考えました、子どもの頃。みんなも考えた記憶があって、甦ってんだろうなあ、このシーンを見て。ピュアだったあの頃。なんで大人なんかになっちゃたんだろう。子どものままでいれば、無邪気に夢を追えたのに。今じゃ逆さに振っても、夢のかけらも出やしない。「E.T.」と聞いて目に浮かぶのは、この月と自転車のシーンともうひとつ、E.T.とエリオットの人差し指を繋げるアップのシーン。ポスターはこのシーンだったかな。やっぱり不気味ですね、E.T.の手。白雪姫の老婆の手のようです。とても高度な文明を持った宇宙人の手には見えないんですけど。まあ、念力ですべて事足りるので、手はあまり使わないのかも。そして、楽しかった時間に、ひとつの台詞が暗雲を漂わせます。『E.T.おうちに帰りたい』解っているけど、悲しい結末へ物語りは進行しなければなりません。無事、「未知との遭遇」のようなマザーシップを呼ぶことに成功し、E.T.とエリオットは別れのシーンを迎えます。宇宙人と地球人、ふたりに共通の素晴らしい想い出が、一生輝き続けるのでしょう。実は、僕がこの映画を共に見た人は、「愛と青春の旅立ち(第99回)」をドタキャンした彼女です。彼女も、楽しかった日々の思い出を残して、おうちに帰ってしまいました。僕の人生の楽しかった思い出であり、つらい想い出でもあります。彼女は僕にとっての“E.T.”でした。まあ、そんなこともありました、ってさ。そんな訳で、100回を完遂しました。ぱちぱちぱち。誰が読んでいるのか解らないまま書いていました。読んでくれた人、ありがとうございました。次回からは、違う方向で何か書きますので、よろしければつづけてご覧ください。さて、100回かけば願いが叶うという、“願い”なのですが、実は決めていませんでした。借金がなくなるとか、逆に大金持ちになるとか、はたまた運命の人にめぐり合うとか、いろいろ考えてはいたのですが。ドラゴンボールを七つ揃えた気で、なにか願い事を言うとすれば、今一番願っているのは、少しずつ弱っている、義父の足が良くなって欲しいと言うことです。昨年、胃の手術をして、胃は良くなったのですが、入院以来歩くのが困難になってしまいました。時間がたてば戻るかと思っていたのですが、最近芳しくありません。出来ますれば、義父を元のように歩けるようにしてください、シェンロン様(祈り)僕の欲望は次の100回に持ち越します。
2007年01月28日
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100回を目指して始めた「お百度コラム」ラス前にたどり着きました。今回は、僕の思い出深い「愛と青春の旅立ち」思い出といっても、それは苦く辛いものなのですが。’82年暮れの公開でした。アメリカンニューシネマ好きの僕としては、80年代になってから、何か物足りない、新鮮味の無い作品に少しせつなさを感じていました。70年代の成功パターンが、情熱が薄まって繰り返されているような気がして。新しいものと言えば、CGを使った、ありえないものをコンピューターで作ってしまうと言う方向のものだけ。その頃は、まだどんなものになるか楽しみではあったのですが。そんな中で、久々にいい映画を発見した喜びがありました。鮮やかな新しさは感じませんが、しっかりした価値観が根底におさまった、完成度の高い作品だと思います。リチャード・ギアは「天国の日々」「アメリカンジゴロ」と大作をこなし、順調に80年代のスター街道をまい進している時です。でも、この作品をきりりと締めた存在は、海軍士官候補生リチャード・ギアをいじめのごとくしごきまくる、鬼軍曹ルイス・J・ゴセットでした。一般に映画は、始まりと終わりで、主人公の成長が描けているものに、素晴らしいものが多いですが、まさにこの作品ははまりです。リチャードを成長させるルイスは、悪魔のように登場して、天使の姿を仮面の奥に見せます。卒業式での二人の短い会話、そして立場が変わったことを如実にしめす最敬礼にシーン。原題「AN OFFICER AND A GENTLEMAN」を象徴するシーンです。(日本でこの題名だったら当たらなかったでしょうね)作品全体に、説明台詞が少なく、映像で伝えようとする意図があり、映画を高いレベルに上げています。その、台詞なしシーンの最たるところはラストシーンです。屈折した過去を持つ小悪党のリチャードが、成長して卒業していきます。残った問題は、期間限定の彼女をどうするのか。どうするかは、流れで見えていますから、どう表現するのか。くさい台詞と芝居で台無しにしてしまいそうな展開です。自分だったらどう撮るか。僕と、テイラー・ハックフォード監督の密かな戦いが始まります。結果は僕の惨敗。台詞も、芝居も一切なしで、表現してしまいました。海軍士官の白い制服の足元と、彼女の働く工場の同僚の視線だけで、すべてを語らせてしまいます。見事です。そして、言葉の無いままお姫さま抱っこの後姿でストップモーション。止まる直前で、彼女がリチャードの制帽をかぶりますね。言葉以上に大きいしぐさ。素晴らしいです。よかったよかった…という話をしたかったのですが、僕はひとりで見ていました。一緒に見る約束していた相手にドタキャンされてしまったのですね。その時お付き合いしていた彼女なんですが、映画のドタキャンどころか、その後会えなくなってしまいました。急に故郷に呼び戻されて、戻ってこなかったのです。最後に僕の職場に電話がありました。帰ってみたら見合いが決まっていて、その人と結婚しなくてはならなくなっていたそうです。早口でそう伝えて「ありがとうございました」と言って、切られてしまいました。何がなんだかわからない別れでした。
2007年01月26日
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僕の中学1年の時(’69年)、アポロ11号が月面着陸に成功しました。あの時の感動は比類ないものでした。ボーとした子どもだったので、世の中に“宇宙計画”なるものがあることすら知らなかったのですが、大人たちの騒ぎに巻き込まれて、はじめてその壮大なオペラに出会います。すごい緊張と興奮が漂っていました。宇宙シーンに関しては、「宇宙家族ロビンソン」などで予備知識はありましたが、“リアル”ということにおいては、禁断の扉を開けるがごとき高揚感を覚えました。アームストロング船長が、歴史的第一歩を踏んだ時の言葉は感動でした。「これは一人の人間には小さな一歩だが、人類にとっては大きな一歩だ」この言葉に感動したと言ったのはウソです。いかにも、用意してあった台詞で、がっかりでした。宇宙飛行士名言としては、「地球は青かった」とか「わたしはカモメ!」というソ連製のものが知れ渡っていたので、アメリカは芸術性では負けたなと思いました。後に、立花隆の本で、宇宙飛行士は文学的な人間ではダメだ(危険だと言うことです)という内容が書いてあり納得しましたが。月面着陸は“アポロ計画”と呼ばれるものですが、この物語は“マーキュリー計画”という、前の前のミッションの話。計画は、’59年に始まりますが、物語は’47年に遡ります。なぜ遡るかというと、主人公のひとりである、チャック・イエーガーがこの年、音速の壁をついに破ることに成功するのです。’47年?日米戦終結からまだ2年でないの。それじゃあ負けるよな、ゼロ戦。このチャック・イエーガー(もちろん実在の人物です)の音速の壁挑戦の話が前半の柱なのですが、彼は宇宙へは行きません。「カプセルに入れられたモルモットなんて」と、宇宙飛行士になることを拒否します。それで話は、伝説の男たちに憧れていた、次の世代の男たち七人の物語に転換していきます。原作がそうだったからでしょうか、この二つの話を一つに収めてしまうのはもったいない。構成上前座扱いになってしまうチャック・イエーガーがあまりにもかっこいい。演じるサム・シェパードが素晴らしく、申し分ない存在感を示します。音速を超えるジェット機に乗るのに、馬を疾走させて現れるなんて、例えばトム・クルーズがやったら、んなわけねえだろ!、って突っ込まれそうなシーンも、そうだったのかと納得できます。で、後半の七人の話も、それはそれで素晴らしいのです。でもこの二つの話は相反するのです。一匹狼のかっこいい男の話と、七人の選ばれた男たちのユニゾンな話と。対比させることに意味があるのでしょうが、途中で対比しきれなくなってしまいます。まあ、二本のいい映画が一本で楽しめると思ってください。題名の「ライト・スタッフ」ですが訳せば、“正しい資質”ちょっとやな感じしません?あくまで宇宙飛行士としての“正しい資質”なんでしょうが、宇宙飛行士というものが、心技体すべてに優秀な人間がなるので、まるで選ばれしエリートとしての“正しい資質”といわんばかりです。確かに、体力知力精神力が備わっていないと、こなせない職業ではありますが、そうなりたいかと言うと少し違ってきます。ライトスタッフの選ばれた7人は、それぞれ人間味もあり魅力的ではありますが、やっぱりかっこいいのは一匹狼のチャック・イエーガー。もしかしたら、この作品が作られた80年代前半は、一匹狼的ヒーローから、チーム協力型ヒーローに世の中が変わっていく過渡期だったのかもしてない。はぐれ物ぞろいのアメリカンニューシネマのヒーローたちは、もう舞台から去らなくてはならない時期がやってきたのでした。ってことなのでしょう。
2007年01月25日
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このコラムで、幾度となく邦題の拙さをかいてしまいましたが、この「テキサスの五人の仲間」という、一見平凡な印象薄い題名は、見事のひとことです。その意味は、ラストシーンで、“あっ”と言う声と共に忽然と判明します。そうです、これは大どんでん返し映画なのです。どんでん返し物の代表と言えば「スティング(第7回)」ですが、人によってはこちらに軍配を上げる人も多いです。僕も、だまされたということではこちら。’66年製作で、この頃は、クリント・イーストウッドがマカロニウエスタンで派手にガンファイトをぶっ放している時で、本家のアメリカの西部劇が、ドンパチのない映画を撮っていたのが不思議な気がします。決闘の替わりにポーカーをします。それに夫婦愛が重なります。夫婦愛というより、だめな夫に代わって妻が奮闘する話。その姿を見て、感動する中年親父たち。原題「A Big Hand for the Little Lady」はその意味。でも「テキサスの五人の仲間」のほうがいい。普段はネタバレも平気で書いてたりするのですが、これは書けません。主演はヘンリー・フォンダ。本コラム第1回の「イージーライダー」主演のピーター・フォンダのお父さん。第86回「チャイナ・シンドローム」主演のジェーン・フォンダのお父さん。この姉弟は、アメリカンニューシネマ時代のスターで、このコラムでも本来もっと取り上げなければならない存在でした。そして、父ヘンリー・フォンダとの確執も、ドラマチックでなにかと話題になったりしていました。僕の子どもたちはまだ高校生と中学生ですが、いずれ父親と確執を持つようになるのでしょうか。たぶんならないでしょう。僕はヘンリーのようなスターでないし、まわりも特別な目で見ることはないでしょうから。今のところ、親子は仲悪くないし、僕も過大な期待を押し付けたりしないし、本人のやりたいことには応援する旨伝えてあるし、どっちかっていうと、友達として付き合ってますから。贅沢もさせられないから、恩も着せられないし、困ったことがあったら言ってね、って感じです。でも、親子って何だろうって、これから考える時間を持とうとは考えています。それは次の機会にでも。
2007年01月24日
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’08年生まれのジェームズ・スチュアートは「スミス都へ行く(第94回)」の時は31歳、「グレン・ミラー物語(第95回)」は46歳。そして「飛べ!フェニックス」を撮った時が57歳という、長きに渡ってトップスターを守ってきました。この他にも、「素晴らしき哉人生」や、ヒッチコックの「ロープ」「知りすぎていた男」「めまい」、リンドバーグを演じた「翼よあれがパリの灯だ」その他数多くの作品に主演しています。素晴らしい作品群ですが、芝居のうまさと言う見方をすればどうかな、と思ってましたが、これだけ並ぶとやはりすごいです。演劇学校同期のヘンリー・フォンダの方が、役者としては上かなと思ってましたが、これだけ実績を残せば、考えを改める必要があるかもしれません。“アメリカの最も優れた伝説男優”では、ハンフリー・ボガード、ケリー・グラントについで堂々の3位です。かなりアメリカ人に好かれている役者です。さて、その数多い作品の中でも、僕がNO1にお勧めなのが「飛べ!フェニックス」ジェームズ・スチュアート作品のNO1と言うより、アメリカ映画の僕好みNO1にしてもいいかもしれない。何が好みかともうしあげれば、まず人間模様。限られた空間に登場する人物が個性豊かで、しかも一辺倒でなく、状況に応じて変化を見せてくれる。そして、プロットの巧みさ。難問が次々と主人公に襲い掛かります。ばらばらだった登場人物の心が、ついに一つになり、クライマックスに突入します。ある意味、あの名作「ポセイドン・アドベンチャー(第8回)」の原形になってるかもしれません。物語は、双発の輸送機が、砂嵐に巻き込まれ砂漠に不時着します。同時に、機体は損傷し飛行不可能に。生存者12人に残された水は10日分しかありません。この極限状態で、人間の葛藤が起こります。ジェームズ・スチュアートはこの飛行機のパイロット、というより操縦手。今まで彼が演じていたスマートな人物ではなく、がさつでガンコな職人肌の操縦手です。他の人物も皆、クセモノで、この面々がまとまって困難の解決に努力するとは思えません。この状況作り、うまいですね。そして時間経過と共に、ジェームズ・スチュアートの心が右に左に揺れ動きます。その間、死んでゆく仲間もあり、徐々に追い詰められていく。この運びも見事。ついに始めは反対されていた期待を修繕して再飛行に挑戦するため、一同協力することに。模型飛行機の設計者の指図に従って。シナリオとしては、贅肉の無い、きりりと筋肉質なつくりです。このシェイプアップされた進行の先に大団円が待っています。そして叫ぶのです「飛べ!フェニックス」と。僕の高校の親友であるJUN君もこの映画が好きで、文化祭の準備が暗礁に乗り上げそうになった時、「飛べ!フェニックス!!!」と呪文のように叫んでいました。懐かしいな、文化祭。話し逸れましたが、あの気持ちを語るには、欠かせないエナジーを持っていました。熱い気持ちにさせる映画です。ソウイウサクヒンヲワタシハカキタイ
2007年01月22日
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グレン・ミラーの伝記映画です。高校から予備校時代、僕は友人のJUN君とよくジャズ喫茶へ行くことがありました。と言っても、ジャズが好きだったわけではありません。ジャズが好きだったのはJUN君の方で、そのJUN君と「文芸座」へ行く時の待ち合わせ場所だったのです。コルトレーン、チックコーリア、マイルスデイビス…名前は覚えましたが、そのよさのほうはもう一つ理解が出来ませんでした。フォークギター抱えて「あなたは~もう~わすれたかしら~」って方でしたから。そのジャズ音痴の僕でもグレン・ミラーの曲は聴き覚えがありました。もちろんジャズ喫茶でかかることはありません。果たしてこれがジャズなのかどうかも、今の音楽センスでは不明です。スイングジャズってジャンルになるらしいので、やっぱりジャズなのかなあ。まあ、万人受けする、スタンダードなメロデイですね。当時としては、斬新な革命的な音楽だったのかもしれませんが。「グレン・ミラー物語」はその数ある名曲の誕生秘話風エピソードが連なり、音楽とストーリーの絡みが素晴らしく、音楽と映画を同時に楽しめる仕組みになっています。でも、この映画が、僕の心を離さないのは、グレン・ミラーと愛妻の物語だからです。“夫婦”と言うのはいいものらしいと、独身の僕たちは夢を見ました。数ある名曲の中に、「真珠の首飾り」「ペンシルバニア6-5000」そして「ムーンナイト・セレナーデ」、二人の愛の物語がこめられています。こういう夫婦、こういう人生に憧れていました。僕よりもJUN君のほうがそう思っていたかもしれません。JUN君は恋愛に関しては“純愛”派で、とてもピュアーな愛し方をする人でした。アフロヘアーで缶ピースを吸ってジャズにスイングする彼にしては、ちょっと異質な恋愛観でした。あの年代の友達は、ピュアーでない恋愛をする奴も多く、本当の男と女の姿を見失いがちな時期でした。いや、あの頃だけでなく、ずーと見失っています。この歳になってもまだわからない。歳を重ねるに連れ、新たな謎に遭遇するような。そして、“結婚生活”というものは、あの頃の夢をずたずたに切り裂いて踏みにじってしまいます。今年は夫婦の愚痴はこぼさないようにしようと、年頭に誓いを立てたのですが、あっという間に破戒してしまったので、来年からにします。とにかく、あの頃は憧れていて、自分も結婚したらそうなるんだと思ってました。ソウイウヒトニワタシハナリタイそう思うんなら、今からでも、心入れ替えて、愛情豊かな夫婦になる努力をしてみては?って思うでしょ?何度も試みてはいるんですよ、僕なりに。だけど、去年心を病んで、はっきりわかりました。無理なものを望んではいけない。自分を変えればなんとかなるなんて、考えてはいけない。自分は自分。自分は自分のままでいいんです。無理なものは無視しましょう。映画の中に、自分の憧れがあるのなら、憧れている自分がそこにいることで満足しましょう。映画を鏡にして、自分を探すのです。そこには、僕の愛すべき、僕の姿があります。あの時の、そして今の…
2007年01月20日
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’39年の作品で、僕の生まれるずっと前、戦前の映画です。こんな古い映画はやめとこうかと思ったのですが、「風と共に去りぬ(第61回)」と同じ年の公開でした。あらためて「風と~」はすごいですね。「風と~」のオールカラー、大スペクタクル巨編感に比べると、「スミス都へ行く」は、モノクロだし、見た感じも古っぽく、その意味では見劣りします。カメラアングル、ライテイング、せりふ…全部アナクロくて、テーマもまっすぐすぎて、純真です。それでも、僕はこの映画が大好きです。戦前のアメリカの、田舎っぽい“正義感”が柱に合って、国民がアメリカを信じているという、理想がにじみ出ています。物語は、スミス(若き日のジェイムズ・スチュアート)という地方の純朴なボーイスカウトの青年が、ある思惑から、選挙に担ぎ出されて議員になってしまいます。小泉チルドレンみたいなモンです。しかし、このスミス君、純真で真面目だモンだから(小泉チルドレンと違って)、政治の腐敗を暴こうとしてしまいます。ところがそれは、彼を担ぎ出した者達には望ましい行動ではありませんでした。それで妨害を始め、スミスを窮地に追い込みます。でも純真で真面目なスミス君は、正義のために、徒手空拳ながらも、議会で戦います。最初は彼を小ばかにしていた秘書嬢の応援と知恵を授かり。なんと、議会で24時間ぶっ通しで演説を続けると言う、愚直な戦法で。アメリカの心に呼びかけます…ある時、ある人から、なにか面白い映画のビデオを貸して、と言われてこれを貸したことがありました。この人なら、この映画の素晴らしさを共感できるのではないかと思ったからです。でも、その感想は、「TOIさんらしいと思ったわ」とだけで、映画については何もコメントはありませんでした。あの時は、ちょっと期待がはずれて、少し残念な感情がのぞきました。これをきっかけに、映画つながりで交際を深めようとおもったのに。僕のイメージはスミスなの?もうちょっと知的でクールに振舞っていたつもりだけど。あの時は、複雑ながっかり感を覚えたのですが、今だったらとても嬉しい感想です。純真、素朴、愚直…、ソウイウヒトニワタシハナリタイ。人間は、枯れてきて初めて、心が実ってくるものです。「風と共に去りぬ」の日本での公開は戦後でしたが、「スミス都へ行く」は1941年。この年の12月、日本はこの純真で愚直なアメリカ国民に戦争を挑んでしまいます。「スミス~」以外にもジョン・ウェインやチャップリンやいろんなアメリカ映画を日本人は見ていました。だから、きっと日本人は、アメリカが好きだったと思います。「鬼畜米英」なんてのは、一時的な、戦時社会主義時代だけの感情だったと断じます。もともとアメリカ好きだったから、戦後すぐに「ギブミーチョコレート」とアメリカ兵に近づいたし、パンパンガールは喜んで身を捧げたんでしょう。それが、イラクと違うところです。ベトナムも違ってました。日本だけが特殊だったということを、アメリカはしっかり記憶してなければなりません。
2007年01月19日
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シドニー・ルメット監督の映画デビューは’57年の「十二人の怒れる男」’24年生まれだから今年で83歳ですか。アメリカ映画を語る上で欠かせない監督です。「十二人~」の前はTVの演出家で500本の作品があると言うので、ぽっと出の新人ではありません。TV自体もまだ創成期で、かなりの試行錯誤をこの間に経験できたのだと思います。映画は、映画館に入ってもらえば、とりあえず最後までみてもらう暗黙の了承がありますが、TVは少しでも飽きさせると、チャンネルを変えられてしまいます。それでストーリーに細かいえさを仕込んで、食いつかせる必要があります。物語の興味をを引っ張り続けるテクニックは、この作品にも遺憾なく発揮されています。というか、そのテクニックがなければかなり辛い素材なのです。“法廷劇”なのですが、法廷シーンはほとんどありません。すべてが“陪審員室”で進められます。舞台で言う一場劇。陪審員室と言う密室で、十二人の陪審員のやり取りだけでストーリーが展開します。初めてあったよそよそしい十二人が、徐々に人間性を現し、個性を発揮していきます。シナリオのお手本にされる名脚本です。映画や舞台を目指すものには、ある意味“理想”と呼べるほどなのです。その憧れが高じて、三谷幸喜は「十二人の優しい日本人」というパロデイ作品を創っています。こちらは日本に陪審員制度があったら、という前提で作られてますが、日本でも’09年より“裁判員制度”が始まります。量刑が甘い日本の判決に対し、民意が少しでも反映されればいいと思いますが、いざ自分が選任されたらどうしよう、ってことも考えてしまいます。はっきり言って迷惑です。生活リズムがそこで完全に断ち切られてしまいますから。だいたい法廷で被告人を目の前にして、“死刑!”と言えるかどうか。日ごろ「10万円盗んだら、10万円返すのは最低あたりまえでしょ。殺人罪はイコール死刑でないと辻褄合わないでしょ」なんて言ってるモンで。裁判なんて、組織のルール違反者に対する報復行為なんだから、甘くしたんじゃ見せしめになりません。犯罪抑制には“一罰百戒”にすべし。それは、他人事だから言えること。人の“情”は理屈ではありません。特に日本人には復讐は似合わない。そんな、自分の矛盾に向き合うのが、ちょっとやだな、って思います。そもそも、死刑を宣告するのって、後引きそうでないですか。やーな気持ちが残りますよね、ずっと。って考えると、こんな腰の引けた状態でできるのかしら。やっぱり迷惑だな。「十二人~」の方は、ほとんど死刑になりそうだった被告の少年を救うんだから、これならいいんです。人助けをしてるのですから。でも、僕はヘンリー・フォンダみたいには出来ないだろうな。すぐ空気に反応するタイプだから。そもそも、常に自分は間違っているんじゃないかと不安でいる、“自己疑心暗鬼症?”の僕には、無理ですよ。陪審員をテーマにした映画に、デミ・ムーアのその名も「陪審員」がありますが、こちらはマフィアにおどされて、有罪の犯人を無罪にしてしまうもの。こんなのを見ても嫌になりますね裁判員制度。まあ、選ばれちゃったら、なんとか好奇心を鼓舞して、務めさせてもらいますけどね。
2007年01月17日
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ダメな奴が、一念発起、がんばって勝利するシリーズ、弁護士編。弁護士役はポール・ニューマン。落ちぶれたダメ弁護士が、病院の医療ミスで植物人間になってしまった女性の家族からの依頼で、訴訟を起こします。植物人間になってしまった被害者に接し、ふつふつと正義感が甦り、勝ち目の薄い戦いに立ち向かいます。監督は社会派の巨匠、シドニー・ルメット。「十二人の怒れる男」「セルピコ(第39回)」「狼たちの午後(第40回)」と、かなり骨太な作品を残している監督です。僕は、アメリカの裁判劇が大好きで、TVの「七人の弁護士(L.A.LOW)」「プラクティス」「アニー・マイ・ラブ」なんかも大好きでよく見ます。驚いてしまうのは、CNNなどで、本物の裁判の模様が出ると、ドラマそっくりなんですね。O.J.シンプソンの事件や、ジョンベネちゃん事件などは、ドラマよりドラマチックでした。アメリカ人の好きなところ、嫌いなところが凝縮されていて、傍で見ている分にはほんとに面白い。最後は、哲学的な重みを残す展開になることもしばしばです。人は、“神の元に、平等に迷っている”、という感じ。学生の時、法学の授業で「裁判とは、裁判官が、検察側と弁護側の両方の言い分を聞いて、どちらの言い分に分があるかを判断する所」という定義を聞き、ちょっとショックでした。“正義”とか“真実”とかを追求するものではないそうです。それじゃあゲームじゃないか、と思いましたが、実際そのようです。日本では、一審と二審がひっくり返って、憤ったりしてますが、ゲームだから勝ったり負けたりして当たり前です。いい選手を抱えている方が有利というところも同じ。「評決」の対戦相手の弁護士は、ジェームズ・メイソン。いかにも凄腕のやりて弁護士然としています。ジェームズ・メイソンは「天国から来たチャンピオン(第89回)」のベテラン天使役でも、聡明で冷静な役柄にフィットしていました。その強敵に、ダメ弁護士が挑みます。ロッキー同様、前半はダメぶりの連続で追い込まれますが、不屈の根性で逆転の望みを託します。昨日、『行列のできる法律相談所』を見ていたら、北村弁護士の忘れられない事件を再現していました。それが偶然、「評決」と同じシチュエーションだったのです。医者のミスで植物人間になってしまった被害者の家族のために戦います。北村弁護士は呑んだくれのダメ弁護士ではなかったでしょうが、大病院相手の訴訟はやはり勝ち目の限りなく薄いものでした。こういう事例に触れると、弁護士っていいなあと思います。弱者の力になってあげる、ってところがうらやましいです。実際にはそういう弁護士は少ないってことは解ります。弱者はたいがい貧乏ですから。弁護士だって職業ですから、報酬なくして働くわけには行きません。それが仕事のルールです。無償で人のために尽くすのが最善ですが、有償でも人のためになる機会が持てるなら幸せです。話がこんがらがってしまいましたが、誰かのために戦えるって幸せです。でもそれは、勝った場合に言えること。負けたら人助けにならないですもんね。そこは難しい所です。
2007年01月15日
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涙ボロボロシリーズ。だめな奴が、あるきっかけで目覚め、復活する。そんな話、ありましたね。「ロッキー(第15回)」がそうでした。「チャンプ」も同じモチーフです。ボクシングが舞台と言うことも同じ。違うのは、モティベーションの違い。ロッキーは恋人エイドリアンのため。チャンプは息子T・Jのため。『チャンプ(息子は父親をこう呼びます)、もう一度チャンピオンになってよ!』という息子の声に応えるため。背中を押す人は違っていても、目指す所は同じ、“自分の発見”。僕の哲学の師匠、洋先生は常々言っていましたっけ、『己とは何ぞや!』と。ロッキーもチャンプも、自分を信じて、再生に成功しました。“人事を尽くして、天命を待つ”というのは間違いで、“天命を信じて、人事を尽くす”というのが成功者の思考パターンなのだそうです。信じることが、一番重要です。「ロッキー」が’76年、「チャンプ」が’79年、僕は20歳と23歳、結婚前の汚れ無き青年でした。人生に夢を持っていたかどうかは忘れましたが、生き方の正しさは求めていました。ただ、正しさの基準があいまいでした。絵空事の正しさと、生きていく上の正しさにはギャップがあると思ってました。サクセス話の裏側の、“馴染めなさ”が、青春の屈折率に曲げられて、冷ややかな目に映ってしまった部分もあります。あの頃、ああすればよかった、こう選べばよかったと、いろいろ思いますが、一番必要だったのは、“己に正直であれ”ということだったのではないでしょうか。まどろっこしいですが、あの頃の「チャンプ」を見たときの感想が、素直なものでなかった気がします。「ロッキー」の展開は、単純に楽しめたのですが、「チャンプ」の方は、人生の重荷をずっしり抱えているがゆえに、何で?という雑音がどうしても頭を掠めてしまいました。訳知り顔で、突っ込みを入れたりしてました。でも、今は僕にも愛する息子がいます。昨年いろいろなことがあって、一番大切なのは“家族”だとわかった今、たぶん違う思いで見ることができるでしょう。人間は、環境と言う鏡に写してしか自分を見ることは出来ません。そして、一番根源の自分を知るのは、自分の子どもに自分を写してみた時です。それが、僕です。僕が、チャンプなのです。子どもに対峙した時の自分を見て、様々なことを発見しました。そして、その発見した“自分らしく”生きていこうと思いました。今「チャンプ」を見直せば、初めて見た時の100倍ぐらい泣くでしょう。あの時の涙は、息子に感情移入したものでした。今のそれは、父親の魂が乗り移ったように。父親のチャンプ役は「真夜中のカーボーイ(第37回)」のジョン・ボイド(アンジェリーナ・ジョリーのお父さんです)父子を捨てて出て行った母親は「俺たちに明日はない(第2回)」のフェイ・ダナウェイ。アメリカンニューシネマを代表する二人でしたが、こういうべたな作品で顔を並べるということは、一つの区切りに差し掛かった思いがします。同じ年に「クレイマー・クレイマー(第46回)」がアカデミー作品賞を取り、同主演男優賞がやはりアメリカンニューシネマの申し子ダスティン・ホフマン。アメリカンニューシネマのヒーローが、そろって女房に逃げられ、子育てをしているって、やっぱり時代は変わりました。
2007年01月11日
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アメリカンフットボールの映画といえば、忘れてはいけない「ジョーイ」「天国から来たチャンピオン」でウォーレン・ビーティが買収する、“ロサンゼルス・ラムズ”のランニングバック、ジョン・キャパレッティとその弟ジョーイの話です。こちらは実話。ジョンがペンステ-ト大学の学生の時、11歳の弟ジョーイは白血病に罹りました。“白血病”は今では骨髄移植で渡辺謙のように治る可能性のある病気ですが、あの頃は不治の病です。去年はカンニング中島氏が、入退院を繰り返して力尽きました。その前は本田美奈子さん。夏目雅子さんの命を奪ったのも“白血病”です。昔から、お涙系定番で“白血病”は使われます。「世界の中心で、愛をさけぶ」が新しい所でしょうか。山口百恵さんの「赤い疑惑」もそう。僕のメモリーシーンではやはり「ある愛の詩(第12回)」ドラマで“白血病”というフレーズがでれば、イコール“死”“死”は悲しく、それを見送る人は、その人を最も愛している人であるだけに、本当に悲しくて辛い。でも、本当に辛いのは、病気と闘っている本人です。だから支えが必要で、回りの人は出来る限り希望の支えになりたいと願います。兄のジョンは弟のために、アメリカンフットボールにまい進します。弟ジョーイが兄の活躍を希望として生きているから。ランニングバックと言うポジションは、ボールを抱えて前へ前へと走っていき、最後はタッチダウンと言う得点を取る役割です。当然、花形ポジションなのですが、アメリカンフットボールという競技は花形ひとりでどうなるというスポーツではなく、複雑な要素が絡む物なのですが、ジョンはお構いなしに走ります。ジョーイのために。ある日、ジョーイの誕生日にタッチダウンをプレゼントする約束をします。それも、4つ。不可能に近い困難な約束。野球で言えばホームラン4本、サッカーならハットトリック・プラス・ワンの4ゴールでしょうか。でもジョンは走ります。そしてやり遂げます、フォータッチダウン。本当の話です。更に走って走って、ついに学生最優秀選手のハイズマントロフィーを獲得してしまいます。そしてドラマのクライマックスはトロフィー授賞式のジョーのスピーチ。学生最高の成績を残したジョーは言います。食事や雑談でざわつく会場の客に向かって。「僕が戦うのは、フットボールの時だけです。でも、弟のジョーイは毎日不治の病と闘い続けています。このトロフィーは、ジョーイが受け取るべきです!」嬉しそうなジョーイの顔。ああ、今も書いていて、涙が止まりません。映画はエンドマークが出ても会場の明かりはしばらくつけませんでした。涙を拭くための時間を用意していたのです。ジョンはその後、冒頭に書いたロサンゼルス・ラムズに入団し、この映画公開の後、日本にも来日しています。ジョーイはその時には、残念ながら天に召されていました。
2007年01月10日
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Jリーグが始まる前は、僕はアメリカンフットボールが大好きでした。高校のとき、10チャンネルでマイアミ・ドルフィンズの試合を放送していて、夢中で見ていました。O.Jシンプソン(前妻殺人事件、灰色無罪の)が活躍していたのもあの頃です。’72年のドルフィンズのスーパーボウル優勝から、毎年スーパーボウルは録画していたのですが、そのコレクションも去年、うつ病の発作で、映画のコレクションと共に全部捨ててしまいました。たぶん、持っていても見直すことは無かったと思いますが、コレクションと言うのは手にしていることに価値があるので、今となっては残念です。その分部屋が広くなって活用しているので、良しとしてはいますが。さて「天国から来たチャンピオン」のクライマックスはスーパーボウルです。この作品は、’41年の「幽霊紐育を歩く」というひどい邦題のリメイクです。オリジナルの主人公はボクサーだったのですが、リメイク版ではアメリカンフットボールのクォーターバックに変わっています。たぶん、主演・製作・監督のウォーレン・ビーティがQBをやりたかったんだと思います。邦題が“チャンピオン”となっているのは、オリジナルのボクサーの名残でしょうか。ということで、本作品はウォーレン・ビーティのものです。ウォーレン・ビーティといえば「俺たちに明日はない!(第2回)」です。アメリカン・ニュー・シネマという名前が誕生した、記念すべき作品の主演者です。あれから10年。あのショッキングな、先端を切り開くような斬新な作品から、一転このようなハートフルな名作を作るようになりました。このコラムは、僕が青春時代に見たアメリカ映画の中で、大好きな100本を選んでいるのですが、本当は“重い映画”は好みではありません。いい映画と好きな映画は違うものです。で、この「天国から来たチャンピオン」は大好きです。死ぬ前に一本見せてやる、と言われたらリクエストするかもしれません。話はスーパーボウルを目前に控えたQBのジョーが交通事故にあってしまい、天国へ向かう途中、それが見習い天使の間違いと言うことが判明します。急いで下界へ戻ると、体はすでに火葬されてしまっていた、ということから代わりの肉体探しが始まると言うコメデイです。コメデイの場合、筋を説明しても面白さはなかなか伝わりません。プロットのしっかりした、心が温まる作品といっておきましょう。さて、ここで問題にしたいのは、題名にもある“天国”についてです。原題は「HEAVEN CAN WAIT」天国は待ってくれる、でいいのでしょうか。キリスト教徒は、死ぬと天使に連れられて天国へ行きます。TVアニメの“フランダースの犬”のネロも、天使に囲まれて天に昇っていきました(涙)本作品のジョーも見習い天使に連れられて、雲の上で何か乗り物を待っていました。その待合所には他の人たちもいたのですが、おしなべて暗かった。少なくとも楽しそうではない。ということは、彼らは“天国”を楽しいところだと思っていないのでは?考えてみれば、聖書の中にも天国についての記述はないような気がします。日本人は天国について“帰ってきた酔っ払い”のように、♪酒はうまいし姉ちゃんはきれいだ~と思っていますが、これは間違いです。キリスト教における天国(=神の国)はまったくの未知数。それも、そこにいけるのは、最初から選ばれた者のみ。生前、良いことをしたとか、信仰に励んだとか一切関係なし。そもそもキリスト教では、人は皆“罪びと”。その罪を償いに天国へ行くのなら、そこは“刑務所”じゃん。そりゃ、死ぬのはやだよね。先ほどの♪酒はうまいし~はむしろイスラム教。現世では酒は禁止なのに、天国では飲み放題。姉ちゃんも飛び切りの別嬪。その他娯楽設備完備。歌のように神様に怒られる事もない。天国へ行くには、イスラムの戒律を守ってさえいればいい。聖戦(ジハード)で命を落とすのは尚いい。どうせ死ぬんだから、死ぬ時はイスラムに改宗してから死のうかしら。昨今、自爆テロとかはやってますが、彼らの死後はこんなに楽しいことが待っているから、喜んで死にますよね。出来ればジハードのお墨付き付きで。“輪廻転生”思想のベトナムに負け、今度はイスラムにもやられて、アメリカはまず敵を研究した方がいいんでないの?
2007年01月08日
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あけましておめでとうございます。昨年はひどい年でした。でも、そのひどさを演出していたのが、自分自身であったという真相にたどり着いた時、体中にピシピシとひびが入り、バリバリと殻が剥がれ落ちるのを体験しました。今は、つるんとした気持ちで新年を迎えております。現在抱えている問題は、いずれ解消するでしょう。体に棲みついた悪魔が自分自身だとわかったからには、仲良くなって、天使に変ってもらいましょう。さて、正月ですのでおめでたい作品を考えていましたら、たどりついたのが「フォレスト・ガンプ」’94年アカデミー作品賞(他主要5部門受賞)作品。「一期一会」という邦題がついているのですが、つけた意図がわかりません。たいがいの物語は一期一会にはなるでしょうが、それほどその意味と合致している内容ではないと思うのですが。あまり軽々しく“茶道”用語を使って欲しくないと思います。と言っても、作品は軽々しくはありません。むしろ重くて、広くて、深い。トム・ハンクス演じる知的障害者のフォレスト君が、それこそ“猪突猛進”的人生を送ります。アメリカンフットボールの学生スターになり、ベトナム戦争の英雄になり、ビジネスで大成功し、マラソン教祖になり…あれよあれよと人生を好転させていきます。『人生には困ったことは起こらない(斉藤一人)』を地で行くような人生。“成功法則”にありがちなポジティブ・シンキングのなせる業、というわけではありません。むしろ究極の受身人生、訪れる人生を100%“素直な心”で迎えます。そんなわけないでしょ、の連続ですが、心に染みます。心を病んだ経験を持つ人なら、純真無垢の心を持つフォレストの素晴らしさが煌煌と映ります。僕の求めるものがここにありました。監督は「バック・トゥー・ザ・フューチャー(第75回)」シリーズのロバート・ゼメキス。ゼメキスは、他にも「ロジャーラビット」でCGを駆使した合成画面を作り出していますが、「フォレスト・ガンプ」でもそのワザを遺憾なく発揮します。フォレストとジョンレノンやJ・Fケネディと会話させるのです。古いフィルムに合成して。ニクソンからも、ベトナム戦争の勲章をもらいます。今はTVコマーシャルでも使われる見慣れたトリック撮影ですが、当時は驚きでした。本物だと思っている人もいるのでは?ただ映画史的には、このCGによってどんな映像でも創れるようになったことが、逆に見るものをちょっと淋しくさせる時もあります。様々な縛りの中で創意工夫するのが面白いってこともありますよね。まあ、創意工夫の方向が時代と共に変わっていくだけで、創意工夫がなくなったわけではないのですが。話が逸れましたが、「フォレスト・ガンプ」は恋愛ドラマでもあります。フォレストには、ジェニーという“運命の人”がいます。小学校のスクールバスで早々にめぐり合ってしまいますが、人生の節目節目で再会を果たします。うらやましいです。憧れます、“運命の人”でも、僕にもきっといたんですよね。ただ気づかなかっただけで。“DNAの指令”にしたがって、次々新しい恋人を求めていったために、薄っぺらな人生になってしまいました。でも、考え方としては、すべての人が“運命の人”であるわけだから、すべての人を愛して、包み込んでいたいと思います。新年の想い。すべての人を愛で包み込もう!追記映画には出てきませんでしたが、小説ではサダム・フセインも友達ということになっています。サダムは、去年の暮れ(12月30日)、何かを急ぐように死刑を執行されてしまいました。独裁者の死刑は、ルーマニアのチャウシェスクのケースがありました。この時は、国民の報復の色が濃く、そんなもんかなあとしか思いませんでしたが、今回はどうでしょう。形は同じような物ですが、裏にひかえる糸が複雑にこんがらかっていて、誰が引っ張ったのかわかりづらくなっています。少し時間を待たないと、どう評価すべきなのか判断がつきません。結果が過去の行為の正邪を決めてくれるものなのでしょうか。
2007年01月02日
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