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ご機嫌がよいというのはそれだけで宝物だと思う。子どもの頃は、相当ひどい環境でなければ、だれでも無邪気な笑いを保てる。だけど大人になると、どうしてみんな不機嫌が常になってしまうんだろう。多分、色々心配するようになったり、トラウマが増えてくるからだろうな。今日は「不機嫌」についてあれこれ考えていた。そしてこれから私は、意識的に機嫌よくいるよう気をつけようと思っている。今の時代のせいなのか、私が住んでいる首都圏では、ストレスを溜め込んでいて、機嫌が悪い人たちが多い。無理もないことかもしれないけど、たとえば、常に何かを心配することで機嫌が悪くなったり、心配ゆえに人に期待をし、その期待がかなえられないことに怒りや悲しみを溜め込んでしまい、自分でも気づかずに不機嫌で怒りっぽくなる。不機嫌でいることで、何か得るものがあるのだろうか?失うもの、得られないものの方がずっと多いのではないだろうか?と、あれこれ考えてみた。もし、このブログを読んでいる方で、自分の感情のコントロールが出来るほど、気持ちに余裕がある方であれば是非、機嫌よくいてくださることをお願いしたい。その人は世の光 です。世の中全体が不機嫌なムードの中で、機嫌がよい状態を保つのは、大変だと思う。ましてや家族に不機嫌族がひとりでもいればそのブラックホールのような人は周囲のご機嫌をことごとく不機嫌に変えてゆく。だけどそれに負けず、挑発にのらず、刺激されても気づきの状態を保って、是非、感謝と喜びとワクワクと優しさの気持ちを保ってほしい。それこそが見えない世界の戦争。霊的な世界大戦だと思う。機嫌の悪さを、どうにもコントロールできない人状況にいる人はどうか自分を責めないで欲しい。どうしようもないことなど、誰にでも当たり前にあるし、助けに現われる人や機会は、必ず用意されているから絶望しないで、今日一日を生き延びて欲しい。お互いそれぞれの立場で、今日一日と向き合って頑張っていきたいですね。
2011.02.22
「犠牲」という言葉は、とてもネガティブな言葉だと思っていました。でも、最近「愛する」ということと相手のために「犠牲」になるということは、見方ひとつ、実際は紙一重なのかもしれないと気がつきはじめました。キリスト教の教えの中にはイエスキリストは私たちを愛するがために十字架の死を受け入れ犠牲になったという風に言われています。正直なところ、私にはイエスキリストの十字架上の死と私の人生がどう関わっているのか、感覚的には全く分かりません。そういうことに思いをめぐらしたこともないので。ただ、誰かの生命、(肉体的な生命と霊的な生命 両方ともですが)その生命を生かすためには、他の誰かが世話をしたり、養い育てるために、労苦を引き受ける必要があることは分かります。時には文字通り自分の健康な身体やまだまだ残されている寿命などと引き換えに、別の生命が生き延びる機会を提供するということもあります。人間だけでなく、動物でさえも親は本能的に自分の生命を投げ出しても子どもを守ろうとします。これは、どういう仕組みでこういう本能が働くようになるのか、子どもをもたない私は感覚的に分からないのですが、それは、自己犠牲そのものです。でも、親というのはそれを喜んでそうしたいと思ってしまうんだそうです。(もちろんそうでない親もたまにいますが)私には理解できないですが、とにかくそういうことが出来てしまうらしい。しかし、同時に親子関係というのは、悲惨な傷つけ合いや一方的な虐待が起こりやすい最も危険な関係でもあります。人間の愛というのは、人間の弱さと無知ゆえに本物と偽者の愛が入り混じっているものだと思います。「犠牲」ということについてはとても慎重に考えないといけないと思います。自分が「犠牲」になる相手を「犠牲」にする私にとってはどちらも決して心地よい言葉ではありません。どういう形であっても「犠牲」になる存在をつくらないよう、最大限に気をつける必要はあります。「犠牲」というのは、いくつかの条件を満たした時のみにそれは「愛」と呼べるものとなり、それ以外の時は、「恨み」「憎しみ」「怒り」「悲しみ」「絶望」などをもたらす可能性のある、毒になってしまう気がします。「犠牲」がどんな時に、「愛」、それも他者に対する最も深い「愛」になるのか?誰かのために、喜んで犠牲を払うしかも見返りを求めずに・・・ということは、無条件の愛 と 関係がありそうです。でも、わたしの自己満足の場合もあるし、見返りを求めてないつもりで、実は相手の方が、わたしの犠牲について、とても負担に感じ苦しんでいる場合だってあるでしょう。すぐには考えがまとまらないのですが、「犠牲」は基本的には毒なのだと思います。だけど、全ての薬は毒から出来ています。「犠牲」の毒を最高の癒しの薬にするには、尋常の量でない「喜び」「感謝」「赦し」のような感情を同時に調合する必要があるのかもしれません。人間というのは、実に複雑で繊細で傷つきやすいものだからこそ、面白くもあり、また愛おしいのかもしれません。
2011.02.20
今日は個人的な自分の近況をちょっと書きます。最近、生命エネルギーが高まっているのか何かに熱中したい気分が高まってます。今はその熱中するものを探している最中で、心のアンテナをたてて情報を集めてます。インターネットでは、シーズンズという占いのHPを時々見るのですが、今回、今の自分の時期(季節)についてしらべてみたら、この2月4日から、「秋の2年目」に入ったとのこと。この時期は、「やりたいことを片っ端からやってみる」のにいい時期だそうな。今の気分を後押ししてくれる言葉がもらえて嬉しいです。少し前から何か、今までにない変化が起きる予感がしています。この時期、何かテンションが上がるのでいい緊張感があります。何かよいご報告がブログができたらいいな。
2011.02.18
ここしばらく、音楽関係のイベントのお手伝いに行く機会が多く、様々なことを経験させてもらっている。3月11日(金)には今年最初のコンサートを開催する。友人関係も音楽つながりの人がほとんどなので、いつの間にか音楽がわたしの生活の中心軸になっている。そんな風な生活を送りたいと自分で願っていたんだろうかと時々振り返りながら、考えてみるのだけど、少なくても自分の意思でこういう方向にもってきた自覚は無くて、運命によって、今ここに流れ着いてるという感じがする。これから先も、人生で何が起こるか、どんな風に展開してゆくのか、自分自身のことでも全く分からない。ましてや、世界の流れなんて分かるはずもない。でも私は分からなくて全くかまわないと思ってる。分からないから面白いし楽しいと、思えるから。よく、TVで先行き不透明で不安感を与える時代なんていわれるけど、先のことが見えない、分からないなんて、いつの時代であっても当たり前のことだよね。不安になるのは、本当は外側の環境のせいじゃない。その人の心が不安という名の雲に覆われてしまって光が届かなくなっている。問題は、今まで多くの人たちが信じていた「安心神話」みたいなものが崩壊してしまったことなのかな。「どうにかなるさ」とか、「そのうちきっと良くなるさ」という、証拠や根拠のない楽観や希望。それがもてなくなってしまったことが、結果的に心の支えを失うことになってしまった一因だろうと思う。それは言い方を変えれば、神仏との精神的なつながりが消えてしまったということでは?そんなことを、最近あれこれ考えていて、で、今のわたしの考えとしては、いま地上に必要なのは「愛と赦し」だと思ってる。いや、それはきっとずっと昔からそうなんだよね。今に始まったことではない。愛と赦しは神仏とのつながりを意識的につくるための道筋。それをもっと感覚的な言葉でなく、説明できるようになれたらいいなと思っているところです。
2011.02.13
今週は、色々なことがありました。2月3日の節分も過ぎたので、私もようやく天中殺の年から抜け出たようです(苦笑)天中殺といっても、結局何事もなく、無事1年を過ごすことが出来ました。「生かされていること、そのものが有難い。」最近は、その実感がますます強くなってきてめでたすぎて周囲から浮いてしまうことがよくあるので、有難い話はあまりしないようにして、ただ感謝を心に秘めていることにしています。それぞれの時代で、幸福と不幸の原因の特徴があります。今の日本の幸福は何でしょうか。戦争がないこと、めったに餓死する人がいないほど食べ物の豊かさ日常生活に必要なもの、欲しいものはほとんど手に入ること。ほとんどの人が教育を受ける権利が与えられていること。などなど。では、不幸は何でしょうか?与えられている環境や、ものや、機会(チャンス)に感謝できないこと。どんなものも満足することが出来ず、常に欠乏感にさいなまれていること。助け合う仕組みが壊れてしまったために、経済的にも心理的にも富める者と欠乏している者との差が開き、それが埋めにくくなっている。その結果、人間通しが仲良くいられなくなっている。などなど。私は、今この瞬間は、心理的には富める者です。生かされているだけで幸せだと感じる状態にいます。具体的に追い詰められるような状況にもありません。それでもちょっとしたことで悲しみのどん底に落ちる可能性はいくらでもあります。人生には大波も小波もきます。人との助け合いが信じにくくなった現代の私たちは不安が強すぎて、感謝する気持ちをもてずにいます。不安と感謝は同居できません。また、富めるもの同士、幸せな者同士の人間関係しかもっていないと、この豊かさが当たり前だと思うので、不幸な人の感覚に対して鈍感になり、自分がいかに恵まれているかもわからなくなってくるので、幸福感を感じにくくなってきます。確かに同じ程度の経済的なレベル、幸福感や価値観をもっている人間同士だけで関わっていた方が、幸福で安心感があり安全です。卑下する必要もなく、うらやましがる必要もないからです。でも、あえて別の世界に生きている人と関わってみたり、自分が味わったことのない不幸感に共感し、ともに痛み、傷つくことを自分に許すと、そのリスクや痛みと引き換えに、想像外の贈り物を受け取ることがあります。そして自分が想像していた豊かさよりもっと別の豊かさを知ることができます。でも自分の心の中に出来た傷はなんらかの方法で癒されなければなりません。自分を傷つける状況やものをあえて見ることで傷と痛みをわざわざ引き受けること。その傷を癒し、また傷ついても大丈夫な状態に回復させること。この「痛みと癒し」とも呼べるプロセスを繰り返し、霊的に豊かに強くなってゆくことは、多分キリスト教の本質的な教えなんだろうと思います。あこやがいが大きな真珠を生み出すようにこの心の傷からもっともっと大きな真珠(霊的な祝福)を生み出せるよう私も取り組んでゆきたいです。
2011.02.06
2月1日、映画ファンデーこの日は入館料が1000円になるので、人から勧められた映画を観てきました。「ハーモニー 心をつなぐ歌」という韓国映画です。最初から最後まで泣きどおしまた目が腫れあがってしまいました・・・・本当にいい映画でした。皆さんにお勧めします。これは、韓国の女子刑務所内の合唱団のお話。実話に基づくストーリーなのだそうです。といってもかなり美化・脚色されている部分もあるでしょうが、深く人の心に触れる感動的で素晴らしい作品でした。刑務所に収監されている今だけでなく、この先の彼女たちの人生も非常に限定され、苦難の人生になるということははっきりしていて、それを想像するだけでも胸が痛みます。そして、受刑者の家族、被害者やその関係者のそれぞれも、深く傷つき、その傷と格闘しながら塀の外の世界でなんとか今日を生き延びています。社会の表舞台ではなく、目立たない社会の片隅でひっそりと身を隠して生きている人たち。自分の素性、家族の素性を知られないようにと怯えながら生きる人たちがすぐ隣にもいる。その状況の外にいる自分の立場がどれほど自由で恵まれているのかを知り、感謝し、何か自分の立場で力になれることは何かと探しはじめました。映画では主にそれでもめげずに生きる底抜けに明るい受刑者が主人公です。これ自体もしかしたらありえない話なのかもしれませんが、こんなにも暗いテーマなのに、観終わった後に、人に優しくなれるような心が震えた映画でした。1月30日のミュージカル、この映画、フィリップヤンシーの本 と立て続けに深い感銘を受けてます。そして「恵み」について考えるようになり、「恵み」を与えられる人になりたいと願うようになってきました。恵み(愛)というのは、クリスチャンであるフィリップヤンシーの『誰も知らなかった恵み』という本でで使われていた言葉で、ギブアンドテイクではなく、ギブアンドギブ の愛のこと。何の代償もなく一方的に与えられる愛と赦しのことです。裁かない、批判しない、攻撃しない、奪わない、駆け引きしない、見返りを求めない、期待しない、執着しない・・・愛のことです。言うは簡単、実現は奇跡に近いと思われます。人間の動物的本能は自分の子ども(しかも赤ちゃんの時期)にのみ、その種の愛を与えることができるように創られているような気がします。それは自分とイコールだからだし、赤ちゃんには自我がないからでしょう。子どもが成長するにつれて、親は子どもに対して様々な期待をするようになり、その結果、恵みの愛ではなくなってゆきます。子ども以外の愛する存在、恋人、夫や妻や親たちに対して期待しないことはもっと難しいし、敵と思えるような他人に対してとなると殆ど不可能とも思えます。意外とペットの動物に対してならもっと実現しやすいかもしれません。犬は全身全霊をかけて主人を愛し慕い従うので、人間も安心して自我を越えられます。そして私たちは犬に対しては人間にするような期待はしません。「恵みの愛」を「人間関係の中」で実現するには、発信する側がエゴ(自我)を越えないと難しいだろうと思います。エゴを越えるって何さっ!?一体全体どうすることよっ!?というのが私の今の疑問です。実にワクワクする素晴らしく挑戦しがいのある課題だと思います。これから、沢山考え、周囲から情報も得たいです。ではまた。
2011.02.03
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