2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全6件 (6件中 1-6件目)
1
山に行こうって言う場合なら弁当。おやつ。雨具。水筒。それらを持っていく。登山をするために最低必要なものだからだ。どうしてもしなくてはいけないよ。ということだからだ。そしてこれがルールというものになる。やぶると人に迷惑のかかるものがルールだ。守って当然のことがルールだ。 弁当を持ってこない。するとどうだろう。先生のもってきた弁当をゆずる。とか、少し気のきいたことをいうと、みんなが少しずつ弁当をわけてくれたおかげで友情が深まった。こんなこともあるだろう。ただ、幼い頃から、こういうことがあたりまえで、まるで叱られない。注意されない。という育ち方をしてきてはどうだろう。荷物のチェックが甘くなる。もしくは親が全てを用意してくれる。確認を頼むのはあたりまえかもしれない。だから、五年生くらいになったら親にみつかってはまずいものを持っていくくらいになれば逆に自分で準備もするようになるだろう。そのしぐさを妙だと思ったらそれに対して親も考えねばならないと思う。 いい歳になってから、海外旅行にいくとして、空港についてからパスポートがないと騒ぎになる。誰もわけてくれないし、これが修学旅行ならみんなに迷惑をかけて、慰め、かばう友達もいるだろうが、せめられて当然だ。たまたま忘れることもあろうが、普段からあほら口をあけて生活する習慣があるとそうなっても不思議じゃない。まるで波のない、同情すればいい人的な考えを捨てないかぎり、そいつは何も変われないし、ルールを限りなくやぶっていく。 ルールをやぶったあげく、そのことに対し嘘をつく。よくドラマやなんかでみると、それを親に注意した先生がそのPTAから逆ギレされる傾向がある。それでは指導はできない。そして、集団万引きで補導されたときなんかには自分の子がしたのにもかかわらず、先生にくってかかる親。別の子になすりつけようとする主犯格の子の親。現実は小説より奇なり、などというが、そういう面をまだまのあたりにしたことのない私ではあるが、そうなったらと考えただけで逃げたくなるほどゾッとする。 先生はお巡りさんと同じだと最近感じる。スピード違反やシートベルト、つかまったときは「クソオマワリ」「人の税金でくってるくせに」なんていうが、いざ自分に火の粉がかかるようなときは「お巡りさんたすけてください」「ゆるしてください」に、かわる。 とうとう、自分の子が手におえなくなると「先生だけが頼りです」なんていう。お調子者なのか、嘘つきなのか、それはわからないが、親の無責任の被害妄想と同じで、その昔に言われたほうの先生は忘れないと思う。 自分が高校生のころ、こんな話があった。体育の授業でマラソン大会の練習をやった別のクラスのやつ三人が先生に鼻血がでるほどなぐられた。おきまりで、親が登場。先生は謝罪させられた。そして学校を辞めた。辞職だった。「ばかばかしくなった」といっていた。殴った理由は決められたルート以外を通ったからだ。「それだけで?」というふうに思うかもしれない。これは大変なことだ。躰道で、指導者が言ったことと違うことを故意に行った場合はそれはきびしく処罰されるし、それを続けるようなことがあれば破門だ。大人の世界でもあるだろうが、通勤ルートが決まっていて、近道かなんかのつもりでそれ以外の道路をを通り事故をおこした場合は保険がおりない。労災もおりない。そんなことと同じだ。それを未成年のうちだからと危機感を持って指導しようと思っている教師をつぶすのはかなり乱暴な世の中だ。汚い金の匂いをかぎわけ、周囲に良く思われることだけを考え、そっちに進めとばかりに育てる親ばかりいる、この世で、どのようにして、人を認め、そして信じあうかがわからなくなっている。 本当のひとつかみだけの人間でわかりあっているマスターベーションにはもうあきた。 二十歳もすぎて、親の嘘、悪いこと、自分がやられていやだったのに矛先が誰かに向けばすぐ傘下に入ろうとする。そんな人間が人より立場が上になりたいと考えているのが私にはよくわからない。そういうのは末代まで、しっかりつづく。偽善者とはいわないが、嘘はつくな。とは言いたい。ただ、そういう人間に力でぶつかりあってもいけないという宗家のの教えに基づいて、ある程度言ったところで「はいはい、そうですか」というようになってくる。 そういうのが一つふえれば、信じあえる仲間の増えてくるから、かまっていられなくなるのだろうか。体は一つで、時間も止まってはくれない。ルールにそむく奴、嘘をつくやつには道場では時間を与えない。 それが、例え道路であっても教室であっても同じではないだろうか。 ただ、家庭に限定すれば、こんなルールもあろう。親が嘘をつけというえば、子供はゲームを楽しむように忠実だ。 テレビでやっている問題はこんな些細な、しかし、それらやっているものは気づかないほど夢中になっている。もしもにでも、自分にそんなことがふりかからないようにと願うのは無責任だろうか。
2006年11月27日
コメント(3)
「かーい、かいかい、かーいかいかい」で始まる【怪物くん】のオープニング曲。 曲か進んでいくと、狼男、ドラキュラ、フランケンを紹介するような歌詞がつづいていく。 「フンガ、フンガ、フランケン。ザマス、ザマスのドラキュラ」 フランケンの口癖は『フンガー』ドラキュラは話の語尾に『ザマス』をつける、これまた癖がある。それを歌詞にもってきたのだろう。ここで、この曲の替え歌を考えた私。ただし、宮城県の方言に詳しい方と、今まで話した怪物くんの存在を知っている人にしかわからないので、ご了承いただきたい。 では、発表します。「フンガ、フンガ、フランケン。しゃます、しゃますの宮城県」 以上。
2006年11月17日
コメント(1)
長部日出雄 著 『支倉常長』 時代物で伊達家の家来がヨーロッパへいく話。上巻は全然その匂いがないけど、おもしろい。こんなにおもしろいのに聞いたことない作家で、だした作品のほとんどが重版未定どがってぇ。 古本屋へいったときさがしてみてちょうだい。
2006年11月13日
コメント(4)
同じ時に収穫した蕎麦を水、気温湿度、それらすべての分量とを一緒にしても同じ蕎麦はつくれないという。だから最高のものを常にめざせるし、いつも新鮮。そのような気持ちで基本技の稽古をしてみようと思う。 イチローいわく、ミスは気持ちの問題ではなく技術のなさだという。つまり結果にたいしていいわけをしない。ということだろう。失敗したことを気持ちのせいにし、体調のせいにし、その前に練習で気持ちをしっかりもとう。
2006年11月12日
コメント(0)
セブンイレブン、ファミリーマート、ローソン、ホットスパー、ミニストップ、サンクス、……。そういった店をひっくるめてコンビニとよぶ。 うちの田舎町にはじめてコンビニが登場したのは約、二十年前。今はコインランドリーとしてだが建物はまだのこっている。そこはホットスパーというコンビニで、父がよくホットスーパーと読んでいて三年くらいして「スーパー」から「スパー」に慣れさせた。慣れたころにスパーはなくなり、近くにセブンイレブンとローソンができた。スパーがなくなってからもよく私に「ホットスパーで競馬新聞をかってこい」とかいう。私はセブンイレブンのことをいっているのをわかっているのでむやみに反抗しないで買ってくる。 ある日、煙草の銘柄でセブンイレブンに置いていないものを吸い始めた父が私にこういった「あっちのホットスパーにはケントの一ミリはないから違うほうのホットスパーで買って来い」 コンビニという言葉を慣れさせるのは、ビデオをようやく知った人にDVDやらHDDやらを教え込む難しさがあるので、よしとする。父より十二も年下でホットスーパーと呼んでいる人がいるからなおさら、その変な習慣をいじりたくない。知人がきたときに自然とそれがでたら楽しい気がする。 ヘッドホンステレオをソニーの商品名ウォークマンとよぶのと同じ理屈だろう。「サンヨーのウォークマンは厚い」とか。電気グルーヴの石野卓球がDATのデッキを使っているからファンの人もその機械を買う。そして何を聞くのかというと電グルのオールナイト日本をデジタル録音。本人の「音がいい」のセリフは十二万円も払った負け惜しみのようにも聞こえた。三年くらいでこわれて苦笑いの本人。
2006年11月12日
コメント(6)
いじめ。いじめを無くすためには、などをいうつもりはない。人をいじめるほど暇がないならそんなのはない。 金魚を数匹飼うと必ずといっていいほど、いじめられるのがいる。突っつかれたりして、次第に弱くなって死んでしまう。ただ、飼い主が他の水槽にうつして単体で買う場合は長く生きられる。 このことを人間にあてはめるとどうだろうか。あくまで私個人の考え方ですが(苦情や批判は匿名希望でもうけつけます)、弱いものや嫌われ者が集団からいじめをうけるのは水槽も教室も一個の組織も同じだ。そこで、みんながみんなで弱いものをいじめるのは本能だろう。肉食動物が足の襲い草食動物の子供を狙うのとおなじだ。ただ、野生生物のそれは生活のためだからあたりまえだ。しかし、金魚はどうだろう。餌を食っていてもつっついてみたくなる。そう。ストレスだ。水槽の広さに対し、混泳する金魚の数が多いため縄張り確保の行動だ。サル山の場合はボスがいてそれが支えでなりたつ。 人間は金魚とサル山の融合体だと思う。自分は大将になりたい。自分の考えを通したい。だけど、自分より力のある奴にははむかわない。悪いところをみせない。金八先生でも、女王の教室でも、あれだけやっても自分を客観視できないのは、これまで家庭での生活にすべてがある。三つ子の魂百まで。とあるが、三つまでの記憶はその頃の写真を見ても、写真の自分に記憶がよみがえらない。それはなぜか。ストレス(刺激)がないから。二歳の記憶を持つ人間は少ないと思うが、こういうのはどうだろう。二歳のときに犬に襲われた。そして、それからその子が四歳になるまで犬の存在をあたえないようにした。四歳を迎えて犬を見せる。どうなるだろう。そういったストレスはよみがえるのだと思う。三歳までは家族親戚にかわいがられ、ちやほやされる。そうされれば本人は嬉しいし、家族もうれしい。ただ、そこで、わるいことをしてもかばうか、見ぬふりをして育ってしまうとどうだろう。叱られるストレス、刺激がなく、恐怖が蘇ることがない。もしくは、恐怖があっても、だれかにしがみつけば、その人が何らかの力で解決してくれる。と、そういう習慣がついた人間は将来どうなるだろうか。悪い政治家がみんなを裏で口止めし、悪い教育者が裏で口裏を合わせて嘘のことを通してしまっている。そういうことになる。悪いことを他人に言われるとムカつく親が親のうちは子供は将来一人ぼっちのピノキオ君になってしまう気がする。ここいらで、変えていかないといじめる側にたっても、られるほうになっても、末恐ろしい。 少年犯罪と騒ぎ立てるが、まず、大人の犯罪をなくしてから言わないと説得力がない。子供の嘘はがまんできるが、大人になってからの嘘は虚偽罪となってしまう。 振り込め詐欺もは相手を同情させて、だまし金を奪い取る。心をのっとられる。魔術のようなものだ。 いじめた側に意識がなくとも、いじめられた側に被害妄想だろうと、そういう意識があればいじめにあてはまると私は思う。ただ、問題なのは、あくまで、本人対本人がそう思えばのことで、周囲からいじめと判断するのは早計だ。だから、その辺の判断は難しい。 学校の先生にしてみれば、いじめをみつけても、それを解決しようとしても、いじめたほうの子の親が強気でむかってくるにちがいない。そして、子供が認めても、親が無理矢理口裏あわせをし、認めさせない。弁護士をたてたあとに答えが一変する大人の犯罪と同じだ。 報道する側は何を書いてもいいが、おもしろおかしく編集するのではなく、解決策を代議士を通じて発表するとかしたほうがいいような気がする。教師にばれないようにするのが、いじめの鉄則であるし、ばれたら素直に認めないのがいじめをする人間だから、学校の管理といわれてもこまる気がする。いじめた生徒の親の顔をテレビで公表するほうがよほど効果が出るし、家庭崩壊するくらい生活管理に親は力をいれると思う。 体造りと同じで、飯を食うところでいじめをするか、されるか、はたまた、見てみぬふりをするかの人間になると思う。嘘をつくのがあたりまえのところに育った人間と、嘘は絶対にいかん、いかん、いかん、いかん。どっちも同じ気がする。ようは伸縮。私は時に嘘をつき、ときに正直に。というふうに、感情を素直に表し、カッコいい人間をみつけてまねたり超えたりして、金と栄誉におぼれずに、気がついたらそういうのや、人が集まってくるというふうになっていればいいと思う。それにはそう意識をするのでなく、ガムシャラに一生懸命でなくっちゃあならないと思う。どうか、かっこいいものをみてそれを追いかけてもらいたい。テレビっ子のこの世の中、五歳、まではほとんどが正義のヒーローの素質があるはず。どうか、嘘をみやぶる子をしからず、みやぶられた親は改善を意識していただきたい。それをしないと、生活にストレスがでる子供は、嘘に合わせて褒められるのが習慣になってしまう。そうなると、いじめられるか、いじめるかの人間になる確率がグンとあがる気がする。そこで、どちらにもならぬよう、巧く立ち回る人間に私は興味をもたない。「ハウルに心がないですって!!たしかにわがままで、臆病で、何を考えているかわからないわ。でもあの人は真っ直ぐよ!!!」 ジブリをみて自分を客観視して、そして、改善を。 大人、つまり親がそのままのかぎり絶対にいじめや、学校の立場つぶれは今後増してくる。私はその逆を、川をのぼる鮭のごとく傷だらけになっても次世代に期待をするつもりだ。期待、呼んで字のごとく、その時期を信じて待つしかない。 こういうことにうまく話だけあわせて相槌をうつ人がいるというのは私の被害妄想だろうか。その人間の現状をみてありのままに、つい思ってしまうのだが。 いじめ、と、ぐれるの違い。それはない。どちらも、親やへっぽこ先生に愛想をつかす人生の行事なり。
2006年11月06日
コメント(0)
全6件 (6件中 1-6件目)
1


