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相手を十倍くらい肯定する。 相手の注文が大事で、個性は二の次。 箭内道彦(ヤナイ ミチヒコ) 自分がやりたいこと?美大に入って。とりあえず、自分にしかかけないことを描くしかない。ダンボールでの創作をする奴。パソコンでする奴。 解りやすいものより、そうじゃないものが芸術と思われてた仲間内の会話。その逆をしよう。解りやすいもの。箭内はこう思った。 広告代理店に入社。カッコいいものをつくりたい。箭内は思う。かっこいいものをデザインをしたいと日々考える。忙しいこともなく、草野球をしたりしていた。月曜にその野球新聞を作成したり……。 木村透。人生ではじめて逢った、だめだしをすることができる。これまではだれにでも「肯定することしかできなかった」木村さんには「ちがうんじゃない?」とか言えた。運命の出会いだった。 クライアントが、もっとじっくりやってくれる人をつれてきてと営業に言った。音楽のある生活の素晴らしさ。スローガンは「ノーで始まったら」 「ノーミュージック、のー この仕事で変われたこと。自分に個性がなかった二十代のころ。 自分のコンプレックスだったことが仕事として存在していることに気がついて楽になった。 服を買う店を決めない。ウロウロしているときに買う。タクシーをつかまえやすい服装がスキ。 将来は?広告。 広告しないことが広告。企業がアピールするよりも、口コミで広がることのきっかけをすることをしたい。 お菓子屋の父がお客に「それ、おいしくないよ」という。すると、「じゃあ、どれが美味しいの?」と聞いてくる。そして他のお菓子を指をさすと必ず買ってくれる。それって、広告的だなー。 いいとか、わるい、とかじゃなく。スキだなーという感覚。『トップランナー』から。
2006年05月28日
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演じるようにしむけられて、まさに「女王の教室」のように役作っているのならそれは初代の思惑道理だろう。ただし、それらの人間が本当の厳しさと優しさをのちに表現できなければ、実戦で相手を制した、制するの自己満足にすぎない。 躰道は、法形、実戦、展開で表現し武道としてだけではなく武芸のなんたるかを考える時期を必要とする。 例えば死ぬまでのことを考えるとするならば、その気持ちは初代に対し、向こうでなんと説明することができるだろうか。
2006年05月15日
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個々の考えは唇の動きからでてくるものだが、それまでの経過は袋に入れたつかまえた鼠のように動きもがき、やがてその心の葛藤が大気に現れたときにその鼠が躍動したものか、憎悪が渦巻いているものかが解る。 言葉を発する前には「言ってやるぞ、逃げ道を塞いでやるぞ」みたいにいきまいていると、そのあと無性にむなしくなる。本当に悪いもの(嘘つき人間、人のせいにして逃げまくる人間、まずいと思うと話をそらそうとする人間)に対していうのと、本当に一生懸命やっている人間にむりやり非になるような言い方、立場を逆手にとったり立場を利用したり、そういったことをする人間は孤独になる。組織の孤独はよその組織の孤独に結びつく。 いっつも孤独なものは別な孤独と引き寄せあう。そしてそれらは、それに対しても不満をもち、それでも正義と結びつくのよりもましと思い、軽薄と軽薄の間に損得勘定だけのつながりが、なんとも立派に出来上がる。 もうちょっと嘘つきと正直者の違い、それらの発する言葉ではなく心を感じなくては大事な人間が散る花びらほど時は待たずして去っていく。 悪は感情をあらわにして当然の意識を持つ。そして、正義が感情の片鱗をだすものなら、爪楊枝でほじくりだしてまでその感情を逆手に取り、鬼の首をとったように臭い仲間同士で自慢しあう。 それらの行動、真理は本気ですか?
2006年05月15日
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中学生二人と小学生が組んだ団体法形。全日本で何度も優勝している実力者の法形。そして、黒豹と天空の鯨の実戦。演武の種目はこの三つ。 武道家として戦うことよりも、武道を演ずるということのほうが気が楽ではない。あの場というのは、言葉にできない緊張があって大会では考えない神経の集中がある。神経衰弱といのは、逆に言えば回復までの加速は、ある程度保った位置よりもゼロに近い状態から絶頂まで伸び上がったほうが大きく威力があると思う。 そういう意味では団体法形の呼吸はなかなかの加速力があった。 終始、平然として本来の迫力をそのままだしていた女性演技者はさすがだった。 そして我々、特に我。バクテンカラミが失敗!ただ、その後のアドリブでなんとかしのいだ感じだったかな。 そのあとは着替えて、美味しい料理を次々にいただいた。おいしかった。私は蟹をバクバク食べた。黒豹とSHOHはマグロの脂ののりがいいとこばっかり食ってた。まんず食ってた。まるでその食う姿ナイルワニのごとし。syunは遠慮してて、あんまり食ってなかった。あんまし食ってなかった。あんまりだったから、ついめんこくて蟹の殻をむいでけだ。 そのあと2次回へもご招待いただき黒ベー共々会場を移動。そこには二人の範士と、宗家代行のお姿もあった。このとき私が代行を話をしたのはほとんどはじめてだった。 と、あるときどんな流れからか、仙台まで代行を送る手伝いをわたしがすることになった。当初は石巻の指導部長が車でおくるという内容だった話が、いつのまにか私のかわいいビッツでドライブしていた。プレミアついた。 車内で忙しいやり取りを電話とメモ帳を交互に持って行う代行。二の宮金次郎が本をよみながら捻陰の法形をしているもようほど。(いいすぎ) 代行の仕事がひと区切りし、三人での会話になった。話の内容はざっくばらんとし、終始リラックスムード。ただ、ゴールデンウィークだったこともあり、風景のよい松島を心いくまで堪能できなかったことが残念。それでも、逆に見ないことで代行の創造は15%アップし松島を描いたことだろう。と、思う。 改札口で挨拶をした。エスカレーターから手をふる代行をみて石指導部長、「かっこえぇ」
2006年05月08日
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たとえばブドウが生長するのに必要なものは何か、となった場合にでてくるのが、日光、水、土、だろう。その他、肥料や消毒。そうだろう。ブドウには虫がつきやすく、それがついてしまうと木が枯れてしまう。 人間とブドウの違いは、食う側か食われる側かだ。天然物は別として、育てる側の人間は、経験を基にし育てていく。枝を切ったりの剪定、肥料や、消毒散布の時期をその季節のタイミングをみて行う。雨が少なければ水を与え、過保護と言える育て方をし、やがて収穫の秋を迎える。 同じ苗木で、同じ地域。そして同じ薬剤使用割合でも、育つ固体に違いが生じる。 子供の育て方がそのようにでてくると思う。 ブドウでは何が違うか。それは土だ。いくら環境をよくしたつもりでも、天候悪化で支えのきかない土壌ではブドウへ負担がつのる。なにかしらの抵抗力もなにもないと、そうなるに違いない。私の思い込みであるが、ではどうすればよいのか。よいブドウのなる土をそのまま真似てみる。だ。 母なる大地という文句を聞いたことがあるが、そのままそうだな、と私は思った。大地は家族で、その性質が悪ければそのブドウには悪影響があって当然。ただ、そのよくない土にちょっとした化学反応をさせてみると、ブドウにいい影響があったということもあると思うのだ。 つまり、普段の生活から一変した何かの性質、考えを取り入れてみるというのが植物栽培にも人の成長を魅力あるものにむけていくきっかけになると思う。もう、すでに考え方が固執し、どうにもならない人間が五万といるが、そんな津波にうかうかとのまれるつもりは、さらさらない私はどうやって、おバカなリズムを変えようかと考える。 すっかり土を入れ替えないとダメなものもあるし、聞く耳一つ、私利私欲を拭い去る考え、自分の子供しか見ていない(消毒によってほかの自然や人に迷惑をかけていることに気づかない)、ということをやっていることに意地をはって、家族に嘘までついてだまし、だれかを悪者にでっちあげるといったドラマや漫画でしかありえないような人物はその存在を否定されてもしかたのないことだと思うが、思想、思考を変えさえすれば何かしらの変化はあるだろう。「うちのブドウ(子)はいいのがならない。どうもだめだ」目に見えて実がなる前までは、自分の育て方が最高だと思っていた人が特に言いそうだ。くさった土壌には虫もよらない。風もその土に触れたがらない。絶対的に孤独は言葉巧みに人を寄せようとし周囲も腐らせる。そいつを守るやつはいなくなる。ただ、心の片隅に自分に疑問を感じれたら、かろうじて伸びるその子をいい土に住まわせてやりたい。けして甘くはないけど、自然というその土に。我らが武道がその自然と信じている。
2006年05月07日
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悪い。の一言でこれまでの歴史をガラッとかえる。いっときのカイワレ大根もそう。ここ何年かその姿をみていない。 世代の古い層が、「脱脂粉乳にくらべ、今の牛乳は栄養があるしうまい」という。ところが、そのものを今度は悪いと言う。 毎日、人が殺される。人間が殺されることにまだ慣れない我々にしてみるとニュースになるが、道の真ん中に寝転がって死んでいる猫や犬、カラスなどのニュースは一つもない。そろそろ人が死んでも保健所へ通報するのもおっくうだ、という時代になるやもしれん。 これまでのよかったと思われたことが悪いにかわることを皆うけいれられない。武道ならば、表裏一体、陰と陽。というふうにものごとの二面性をみわけ、そして認めてうけ入れてきた。ところが一度に片方しかみれない軟弱な独眼流的視野は事の問題が起こると、個人の抑制能力を棚にに上げ、飲みたい放題、したい放題、食べたい放題に暗幕をかけ、生産者の首を掻っ切る。「酒は百薬の長」というが、では飲みすぎたらどうだろう。体質が拒否したらどうだろう。一般の淡水魚が海水域で長く生きられないのと同じだと思う。牛乳が体に悪いだの、排ガス規制だの言っている連中にかぎって「俺のついだ酒がのめねぇのか」などといったり、無駄にタクシーを呼んでいるのだと思う。 私の考えは真っ向からそれらを否定し逆を走る。何でも程よくとればいいし、果物が体にいいといっても病気によっては柑橘類を止められている患者だっている。その人の状況によってよかったり悪かったりするもので、体から表れる傷みやなんかの信号のとおりに生きていけばよいと私は思う。そしてさらに抵抗力をつけていきていくべきと考える。以前にもこのブログで書いた気がするが、カラスの生きる術(すべ)を見習うことが勉強になると思う。カラスはマヨネーズなどの脂肪を多分に摂っている。それは常に次のことを考えそして動いているから、どうしても糖分、脂肪分が必要なのだろうと思う。 アリは甘いのが好きだ。人間もそう。ここで問題なのは消費カロリーよりもためる物のほうが多いというだけ。 脂肪もそうだ。アザラシや、大間の黒マグロ、脂をかける時期がある。渡り鳥だってそうだ。必要に応じて各々が摂取し、時期が来れば脂を落とすのだ。 カイワレ、牛乳、体罰を批判する前に、もう一度自然をみならえ。年々、自然を脅威と見、科学を身近に感じている。素はといえば、科学も自然の単体で、それらのドンパチが化学反応としてある。だったらなおさら自然のほうが科学で、不自然だ。 思想の崩れは「死相」なり。だからゆえに表裏一体。良し悪しは人の心によって決まる。何かに責任をかぶせた時点で、おまえは死ねだ。
2006年05月05日
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さくら祭り大会の余韻がさめやらぬ中きてくださった三名。()引加くん、ウッヂィ、一分経過さん、の三年生。 稽古内容は、たっぷり渡波エキス100%で、彼らにとっては異質な空間だったにちがいない。 初日は土曜の夜七時から九時までの万石浦中の武道場で、この日ホールをつかう空手のかたがたが休みだったため広く道場をつかえた。基本技稽古と四方構えをおりまぜて、特殊捜査部隊にでもなったつもりで神経をすりへらしながら一本一本をうってもらった。 その効果はいかほどか?それについては本人の問題だと思うが、ゲンタイに戻れなければ死に直結するといった緊張感をもってとりくんでいたように私は思う。 この日集まったメンバーは渡波、福島のほかに石巻、東北福祉大、東北学院からのお集まりいただいた。実戦の稽古ではなかなか熱の帯びたものになって、まさに試合の雰囲気がただよっていた。むしろ、先輩方の「何かを伝えたい」という気持ちがあり、同情が気の集中ではじけていた。 その翌日、河北町のビッグバンで行われた稽古は午前10時から午後一時までの三時間だった。少人数のこともあり、ゆとりをもって稽古をおこなえた。この日は我が副理事長の世界に包まれての稽古だった。独自の見解があり、しかし、そのどれもが納得できるものであった。そしてなにより超武道だった。ただ、その考えにはルールにしばられない柔軟さがあって、稽古参加者本人に考えさせる稽古であった。思考させ……、というところで言葉をきり、あとは自分の頭の中、自分の道場にもちかえってから、というふうな話の区切り方だった。ただ、その人のそのタイミングはそれぞれだったが、動きの中で、さっき言ったことを体で感じ取った!というような動きもみることが数回あった。 私も学生と共に稽古をうけたかたちで話をきいていたが、ひさしぶりに「納得」したという感をもった一日だった。
2006年05月02日
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試合では対戦することもある互いではあるがその後はこういった光景である。 鋭 柔 剛 さくら法形で共に協力してくださった学生と己錬館の館長。 濃すぎる。 ジョッパルだったかアジャラだったかと何度も迷う。
2006年05月02日
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