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怪我人続出の大会だった。救急車が本会場を二往復。 渡波の子供たちの成長はまさに波の動きだったように思う。波は一つではなく、一つのあとにまた一つが押しよせてくる。どんな見方もできる成長は、展開競技、団体法形競技をみていてよくわかる。団体展開競技はAチームBチームが出場し、何度かの試合でAチームが勝ってきていた。小差ではあったが、そのほんの少しが勝敗をわけるのが勝負。そこで、気を落とすのか、それとも次の東北大会、さかな祭り大会で意地をみせるのか、そこは本人達のこれからに期待する。チーターが哺乳類最速なのに狩りに失敗するのは最高速を維持できる時間が少ないから、仕掛け始めから間合いが遠くては計算が成り立たなくなる。 人間の最高速は集中力だと思う。ただ、躰道の集中力はそこに変化を必要とすると私は考える。自らの変化だけではなく周囲の変化に流されないことも一つの動きだし、周囲が変化をするよりも先に動き出すことも変化と思う。反省と後悔は違う。反省のあとには思考がやってくるが、後悔ののちには絶望しか訪れない。 団体法形にはどんな実が生るか。それを考えていただきたい。これまで個人技でやってきた人間が根腐れをおこすか、それとも周囲にも活力を与え、最終的には自分に還元されてくる。指導者ははじめて道場に入ってきた子供をどのようにしたいかを考える。稽古を重ねるうちに絶対に取り除かねばならない場所がその人間の心にあれば去られる覚悟で修正をかける。さまざまな障害とぶつかりながらも道場の核がそだってきているなと思った。それぞれが同じことをする中で息を合わせることが動きにつながり、そのゆとりが抑制にもつながると思う。 私は幼いころ団体法形で育ってきたので、とくに思うが、ポジションがないのに見えない心の中に何らかの位置づけがある。それは本人と指導者のみが分かることかもしれない。父兄や兄弟もわかることかもしれないが、ほんの少しの違いは確実に生じる。今、今、ではなく一年後、三年後、将来、という具合の見方をできてはじめて本当の団体があるように私は思えてならない。レギュラーをとる感覚よりも、集団遭難したときに、それをどうやってくぐりぬけるか、このことが私の団体法形を考える骨格になっている。試合を全部みれたわけではないが、それぞれの稽古での輝きは忘れられることができるものではないからそれに等しいかそれをものり越えたかで結果と照らし合わせる。 個人戦はどうだったろうか。目標の団体入賞の達成、そこまでいかなくとも努力ががそのまま個人にもあらわれたのだと思った。勝負に運はつきものだが、躰道は運に始まる。運とは読んで字のごとく自分自身が何かを運ばねばなにも影響しない。だから、周囲から何かを期待することは難しい。 以上、少年少女の部感想。 団体法形二位、Bチーム 四位、Aチーム 団体展開二位、Bチーム 三位、Aチーム 女子個人中階法形 二位 男子個人初階法形 二位 女子個人中階実戦 優勝
2006年06月26日
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フォワード二人を変える。柳沢に代えて玉田。高原にかえて高坂。後半終了まぎわ、高坂のTKで日本が一本を先取。ただし、相手が怪我をして高坂はレッドカード。
2006年06月24日
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明日の日曜日は宮城県武道館で躰道の県大会が行われる。 どんな選手がどういう勝ち方をするか、どんな武道家が何をみせるか。そのさかえの人間がどう変化していくか。 夢のことを話すだけなら寝言だし、行動に移すならば夢になると思う。それもこれも思うことから始まる。これから過ぎる時間はすべてが事実で、その事実が思いの基導線上ならば、どんな形であれ夢のつづきである。
2006年06月24日
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【さかな祭り大会】のお知らせ。『九月十六日、十七日(土、日)』に石巻総合体育館にて行われます。くじ引き抽選での団体実戦。それによって組まれたチームで優勝することができたならば、新鮮な魚介類がクール宅急便で届きます。花より団子ならぬ武よりも団子?初代宗家に叱られそうですが、そのときはホヤをだしてご機嫌をうかがいます。 各団体へ書類は郵送されていると思いますが、参加希望のお答えをいただいた団体様、協会さまへの大会要項をお送りする考えでおります。昨年は東北各地はもちろん、関東の有名大学からも参加いただいており、充実した大会になりました。すでに参加申し込みがどしどしきております。第二回大会は大会も、予選と決勝のさかえに行う懇談会で各士の熱意を再確認できること間違いなし。躰道をならっていないかたも観戦にいらしてくださいまし。 少年少女、一般、躰道に興味のおありのかた、個人的に参加したいかた、メールをいただければ、相談にものりますので、ふるってご参加ねがいます。
2006年06月21日
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社会還元の意味を理解しようと思うと私は偽善錦になっていた。ところが、無意識のうちに自分の行動がわずかながら還元されていよういならば、社会は自分をみとめ、さらに自分は本当の意味で他人を認めるのだと思う。 言動の良し悪しを一線で直情的な悪や正義と決めつけるのではなく、他を『良』とみるか、本人を悪と思いつつも、だからといってその周囲も同じ種類の悪ではないと思うのだ。 退職した会社から仕事の依頼がきた。ただ、これは会社の私を知る人間からの依頼でなくして、まったくといっていいほど携わり少ない企業間のやり取りが私の携帯をならせたという。 人の心に火をつけることのできる指導者は最高と師の師が申すが、私は大きく火をともし、火気のつくすかぎりこれからも燃え上がる。本当にうれしいのは自分が好意をよせていない人間が自分によくしてくれたときだ。 するとみんなによくすることができそうな気がする。
2006年06月08日
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漫画、ナルトを読んで好きなキャラはときかれたら迷わずに『シカマル』だ。 ナルトにでてくる『チャクラ』や、ハンターハンターの『念』、コインロッカーズベイビーの『ダチュラ』はまた意味が違う。 ダチュラは置いといて、チャクラもしくは念というのは何か?と私は考え、ふと思いついた。恋人や友人ではないだろうか。 恋人はたぶん結婚前の好きな人間か、結婚していても他に好きになった人で、むこうも同じように心から愛し合う二人のことと思う。今日はあえて辞書をひかない。 常に希望に満ち、勝手気ままにワクワクし、迷惑なほど矛盾した思い込みによる思い込みのための絶望を背負い込む。それが恋人をゲットする前の大事な片思いである。片思いとは想像で、ときには切なく傷つき、またあるときは究極な思い違いで薄気味悪い笑みを漏らす。と、こういったことというのはものすごいエネルギーになるもので、ときには死をも忘れることができる。 友情も同じくある一定の条件が充たされると発生し、動向におよぶ。ときには恋人への想いも凌駕することだってあるだろう。でも、それというのは実のところ同じものだと私は考える。 恋人にも、友人にも、もちろん家族にも愛情をもっているだけのこと。 なんらかのできごとがきっかけで、膜をおおってしまった愛もあるだろう。それでも、逆にそういったことがエネルギーになる場合もある。『怨み』が、そうだ。怨みも片思いと同じで、事実以外のことでつくられることが多いような気がするが、まずもって片思いと同じく強烈に固執し心の中を塞いでいるものがある。それもまた巨大にふくれたマグマには違いない。 エネルギーとは普段の神経ではないもの。思考が自身に火を灯しやがてその熱い領域を広げていく。チャクラ、念はそういったことのなかから特許的なものを生み出すのだと思う。 家族がチャクラ、念の場合は自身を補う何かを夫婦間、親子間でもとめるのだろう。そして、他の組織と関わりあう中で、隅に追いやられがちの思考を持った者、まるで思春期の片思いの少年少女のように被害妄想で怨みを練ってしまう者がいる。 だからこそ、正義が正義とし必要とされるからドラマがある。自身のチャクラ、念の質はどういうのだろう。八方美人で、こういう場面はこう、あーいう場面はあー、これでは良くも悪くもエネルギーはわかない。その場しのぎの思いつき。信念もなく、ただただ、何かの狭間で、誰かの名の陰で。 夢に向かうエネルギー。ガムシャラの無我夢中。これもまたエネルギーの分泌。
2006年06月07日
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