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「タコさん、この国は法律で離婚ができないことになっているんですよ。」炭火焼の日本式焼き肉店で、煙にむせびながらマリーさんがいった。この超暑いフィリピンセブで、汗をかきながらの炭火焼というのが面白い。なんでもマリーさんのご両親はすでに別居して10数年、しかし離婚はできない。1年別居していて、片方が離婚申請すればできてしまうオーストラリアから来ている私は、なんともコメントできないトピックで肉も喉を通っていかない。「息子が、どうしてうちのお祖父ちゃんとお祖母ちゃんは一緒に住んでないの?って訊くんで返答に困るんですよ。」とマリーさんは続けた。「私の父親、実は女好きで、それが原因なんですがね。」そういえば私も、なんて思ったわけではないが、父親の形容に素直にこんな言葉が出てくるのがこの国らしいということか。フィリピン歴は短いが、この国では結構プライベートな話が躊躇なく飛び交うことがあり、私も脇をしっかり締めて生きていかないと、押し出しで土俵をあっさり割ってしまいそうな感じもしないでもないので注意が必要だ。6週間、オランダ系の連れ合いとこの国の不思議な魅力を安全に探っていきたい。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2013年05月30日
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「ずっと前から学校をやるのが夢だったんです。」夢を語った。去年の8月15日のことだった。フィリピン、セブの海沿いにある学校でスタッフ全員の前でのことだった。実は、1984年の新聞の切り抜きをいつも離さず持っている。65歳で、私財を投げ打ってアフリカのケニアに、日本人を対象としたスワヒリ語の学校を設立した星野芳樹さんのことを書いた記事だ。その記事の当時は75歳になられていた。あの東条内閣で国務相だった星野直樹の弟さんだ。この記事に大いに刺激を受けてきていた。スタッフの前で、この星野さんの話をした。自分でも、目が潤んでくるのがわかった。フィリピン人のスタッフも、みんなしっかり聞いていてくれた。だが、この学校は続けることができなかった。シャボン玉のように、夢があっという間に弾け飛んでしまった。今年、その夢を繋ぎ直して再出発することにした。間もなく、その新しい学校が始まろうとしている。セコンドチャンスを実現させてくれた最高のスタッフ、支えてくれた家族、皆に感謝。ところで、星野さんは80歳近くまで学校をやられたようだ。私は、まだ始まったばかり。来月の61歳の誕生日は、学校のスタッフがお祝いしてくれるという。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2013年05月19日
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「ちょっと済みません。向こうの窓口に行ってください。」フィリピンのマニラ空港の入国手続きの担当者が席を外してしまった。ちょっと先になんだか人だかりがしている。この暑いのに真冬のオーバーコートを着て汚い髪を長く伸ばした人の回りを人が取り囲んでいる。もしかしたら、国際手配で捕まった犯罪者の護送なのかななどと見ていたが、どうも様子が違う。すぐに近くの人が教えてくれた。エアロスミスのリードボーカルだった。そういえば、メルボルンの空港でびっくりするほどのスーツケースなどを手配しているグループがいたのを思い出した。音楽大国のフィリピンでの人気も絶大で、どうやら入国手続きの担当官は彼の写真を撮るために退席したことが判明。彼らは、メルボルンでの講演の後フィリピンに飛んできたらしい。それにしいても、担当官たちのはしゃぎようにはびっくりした。これが、日本の成田だったらどうだろう。担当官が席を外して写真を撮りに行くとかは絶対にないだろうし、手元のパスポート審査を中断してそちらを見たりすることさえないだろう。日本という国は、一事が万事規定通りに動く国。フィリピンは、規定は日本と同じだろうが、その応用の仕方に幅がある国、とでもいったらいいのだろうか。私は、33年間日本に住んでいたし、オーストラリアに移り住んだ後もずっと日本人をしいているので、そういった規定に従う日本に慣れ親しんできたし、その中にいると心地よささえ感じてしまう気質。ちょうど一年前からフィリピンにどっぷりと浸かる生活になって、フィリピン流にびっくりしたり目覚めたりしている。しかし、来るたびにフィリピンやフィリピン人が愛おしくなってきている。もしかしたら、元々この国の人たちの生き方に潜在的に共鳴するものを自分の中に沢山もっていた人間なのかも知れない。どっちがいいとか悪いとかの問題じゃない。そんなことを論っても何の意味もない。私は、オーストラリアにしてもフィリピンにしても、私が生まれ育った国ではなく外国人としていさせてもらっている立場。それが嫌なら、日本に帰るしかない立場の人間だ。この年になって、こんな風に新しい国に順応してしまう、または順応しようとしている自分を見るにつけ、これも自分のごく少ない能力の一つかな、などとも考えてしまう。そんなことを考えていると、もしかしたらもう一か国くらい未知の国が待っていてくれるのかな、なんて思ったりもする。でも、この年からして、それは「あの世」である公算が非常に高いような気もするが、、、、毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2013年05月12日
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「オーストラリアから手紙が来ているよ。」外出から帰ると、炬燵に入ってテレビを見ていた母がそう言った。父はすでに床についていた。1986年9月、私は1年以上住んでいたメルボルンで、オーストラリアの永住権を申請して日本に帰国していた。その年の暮頃から、私はオーストラリア大使館からの連絡がきていないか、毎日郵便受けをチェックする日々が続いていた。気持ちだけが、遥かな南半球にか弱く飛んでいっていた。手紙は、メルボルンでマネージャーとして働いていたレストランオーナーからのものだった。一度は蹴られた永住権申請に、何とかもう一度移民局に話をしてもらえないかと頼んでいたのだ。「タコ、今日移民局から特別のケースとして永住権を与える連絡が入ったよ。この知らせは日本のオーストラリア大使館に伝わってそこからタコに連絡がいく筈だよ。」手紙を読んでいた私の様子から、母もいい知らせだと感じていたようだ。私は、母の手を取って、「お母さん、永住権が取れたよ。」とやや上ずった声で喜びを伝えた。「良かったね、本当に良かったね。」あとは言葉が続かなかった。6年ほど前から、甥っ子のイカが私の住んでいるメルボルンに来て仕事をしてくれている。ワーホリ、学生、そしてビジネスビザを取ってフルタイムでやっている。叔父さんと違って金髪好みではなく、そちらでの永住権は望めないようなので、会社がスポンサーになって彼の永住権を申請した。私のときにはなかった英語の試験もクリアーできたようだ。今は、申請から審査の結果が出るまで半年はかかるという。半年後に、母に、いやお祖母ちゃんに朗報を伝えることができるように願っている。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2013年05月02日
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