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一月も無事に乗り切れた。遅い社内新年会を昨夜催行した。スタッフの1人が馴染んでいるタイ料理屋さんだった。今は社員6人の会社となりこじんまりしてきているが、その内ほとんど飲まない人間が2人、あまり飲まない人間が2人、可也飲む人間が3人の体制になっている。その体制下で、白ワイン2本、赤ワイン2本空けた。私は、3人の内に入っている。気持ちがいいときはお酒も美味しい。今年も、あと11ヶ月頑張ろうという気にしっかりとなっていく。昔だったら、ここからカラオケコースと決まっていたが、最近は私の体を労わってくれるスタッフのお陰で二次会がなくなってきている。仕方なく、車の中でJ-Walkして帰った。
2008年01月31日
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他の人が頼んだものは、余計おいしそうに見える。
2008年01月30日
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「タコさん、ご面会。ずごい美人ね。どこでああいうの見つけるの。」永住権を求め勤めていた日本食レストランのオーナー夫人が言う。これが嫌味でなくて何が嫌味かと思えるほどの言葉遣いが気になったが、その視線を背中に受けて、私は急いで階下で待っているダニエラのもとに走った。「ごめんなさい。来ちゃいけなかったみたいね。でも、会いたかったの。」白いトップとスラックスの上に、茶系の透き通ったショールを羽織って自慢の体の線をしっかり強調している。艶かしいという言葉は彼女にためにある言葉かと思えるほどだった。「今晩、店がはねたら行くから。」1985年の12月の初めの頃のことだった。その4週間ほど前に知り合ったダニエラには、既に子供が二人あった。下は7歳になる男の子でデリックと言った。この子は、ほんとうにいらずら坊主だったが、どことなく憎めないところを持っていた。9歳の姉は、まったく私を無視していて、会話はほとんどなかったし名前も覚えていない。ダニエラは、私より2つ年上の35歳、今が旬。しかし、出会った時、その身なりからは想像もつかない程生活が苦しい様子は、私を驚かせた。その後も彼女はいつも身なりだけは良くしていた。「私の別れた主人は、週に1000ドルは軽く稼いでいたわ。」今から20年以上前のことだから本当に裕福だったのだろう。「そして、フランスに身よりはわたししかいない叔母がいるの。だから、将来は心配してないわ。」自分の置かれている立場をまったく無視しながらダニエラは私にそう囁いた。金持ちはあまり住まないと言われているフッツクレイの小さなフラットに親子3人で住んでいた。壁には、日本のラーメン屋さんにあるような中国の風景画が掛かっていた。恐らく、最初私を裕福な日本人だと思ったのだろう。その頃の日本は、これからバブル経済に突入しようとしていたころだった。日本人なら誰でも金持ちだとでも思ったのだろうか。自分の思惑が外れた隙間風が吹き始めていたのがわかった。打算が二重三重にもおんぶしたような彼女の愛が、行き場を失うのは時間の問題だった。私は、純粋な気持ちを持とうとすればするほど、自分はここで何をしているのだろうと空しくなっていった。そんな日が続き、だんだんと連絡が途絶えがちになっていった。しばらく間があって、ある日曜日の午後、連絡なしにダニエラが娘と二人して私のワンベットフラットにやって来た。「私、シンガポールに行くことにしたの。ずっと前から知っていた中国人にどうしても、と言われてね。これが、その人。」私は、アジア趣味、中国趣味のダニエラの家を思い出していた。写真には、白子を思い切り膨らませたような50がらみの中国人が、一人でレストランと思われる所で座りながら上目遣いに見つめている姿が写っていた。この男とは、以前から関係があったのだろう。「本当に貴方とうまくいかなくて残念だったわ。でも、私は子供もいるし、、。しっかり、生活していかなければならないし。タコ、貴方は幸せになって。」それから、5分くらいして頬に乾いたキス残して彼女は帰っていった。彼女がまったく手の届かない所に行ってしまう淋しさを感じた。しかし、本当は最初に会った時から最後まで、一度も彼女に届いたことはなかったのではないかと思う。オーストラリアに発つ前に父が言った。「エイズだけには気をつけろよ。それから、子持ちの女とは付き合わない方がいいと思うよ。」あのとき、父の本意がどこにあったのかは確かめてはいないが、今のところエイズに関してだけはしっかりクリアーできている。
2008年01月28日
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「その時はどうやって来られたのですか。」「船でした。日本からシドニーまで2週間でしたよ。」1月26日はオーストラリアデー、日本の建国記念日だろうか。隣のクリスさん夫妻の友人宅でのパーティーで、オーストラリア在40の日本人のMさんという女性とお話した。「当時は1ドルが400円の時代でした。1966年に初めてこの国にきました。でもね、一度も差別されたとか嫌な思いをしたことがないんですよ。」1966年といえば、まだオーストラリは白豪主義を掲げていた頃のこと。大卒の初任給が1万3千円、そしてこの船の料金が16万円だったそうだ。「実はね、その時シドニーからメルボルンに遊びに来たの。そして、主人にであったわけ。日本に帰っていた半年間、主人から毎日、本当に毎日手紙が来たのよ。私は、3日に1度くらいしか返事を出さなかったけど、主人からは毎日で、兄がこの人は他にすることがないのかって言ってたわ。」当時は手紙しかない時代、好きになったら男はマメにしないと駄目なようだ。出した手紙の返事が来ない、と怒りにも似た落胆の日々をおくっていた学生時代の自分が思いだされた。フランスに半年行っていた彼女に対してのことだったが、自己愛の裏返しじゃなく愛は一途じゃないと実らないのだろうなんて思ったわけではないが、自分には足りないものがあったとはいえるようだ。私とオランダ系の連れ合いが一番若いカップル、という落ち着いたパーティーだったが、それでも昼の12時から始まって11時に帰宅となった。こちらの中高年、年寄りも元気がいい。Mさんとはすっかり日本語で話し込んでしまったが、いろいろと面白いお花を伺わせていただいた。「2度目に結婚に来たときは飛行機でしたけど、羽田から香港までの間、ずっと泣き放しでスチュアデスさんが慰めてくれたんです。54歳になる父の泣くのを飛行場で初めて見て、それで私も泣けて泣けて。実はね、それが父との最後になっちゃったんです。2年後に父は病で亡くなったんですよ。」今も昔も、移住ということの重みは変わってはいないように思われる。
2008年01月27日
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「どのくらいで回るんですか。」20代中ごろだろうか、日本人で上背が170センチはあろうかと思われるフンワリとした感じの女性に聞いてみた。ゴルフをやるというので。ちょっと答えに戸惑っているようなので、「2時間くらいですか。」と振ってみた。言った後で思わず自分も笑ってしまった。彼女も、変な中年のオジサンと思っただろう、苦笑いしていた。もう少し打ち解けてからわかったのだが、ベストスコアーがなんと73だというのだ。ちょっと待って欲しい。私のハーフとあまり変わらない。彼女のあの躊躇の意味が分かった。今までに、何度も何度も置かされた立場だったのだろう。易しい方なのだろう。中高年の男は傷つきやすい。但し、私のようにラウンドの時間を聞いた人間は初めてのようだった。オランダ系の連れ合いが2月からゴルフのレッスンを受けることになった。これは大ニュースだ。今まで、考えもしなかったことだ。年を取ってからも一緒にできるスポーツとして一緒にやらないかと今までに何度も誘ってきていた。昨年末に念願のニュークラブを購入することができた私だが、それまで使っていたのが女性用の長さだったことがわかった。もし、連れ合いがレッスンを受けてコースに回りたいと言い出したら、22年前にもらったこの短めのハーフのセットをプレゼントしようとおもっている。何にも捨てない、私が捨てたものまで拾って使いなおすオランダ気質の連れ合いだから、間違っても新しいクラブを買うなんて言い出さないだろうと確信している。私も、22年もかかっている。ということで、我が家でもこれから狂い咲いたかのようなゴルフやゴルフクラブの話が舞うのかもしれない。
2008年01月25日
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メルボルンで「恙無い会」という飲み会を企画して、本日第一回を居酒屋で開催する。会社を興してから、なんらかの名目を考えて飲み会を続けている。最初は、「唯飲み会」だった。唯飲むだけの会ということで気取らずに集まることができた。只で飲めると勘違いしてくる人が増えて止めることにした。次は、「上心会」といやつで、下心がない人が集まる会だった。最初は、そういう流れだったが、途中から日本人女性を狙うオーストラリア男が急増して、なんのためにやっているか分からなくなり、下心が爆発して止めることにした。それから、「中高年集まろう会」を始めた。自分も中高年になって座りのいい会をやりたかったこともある。ただ、名前が悪く途中から「気楽会」と名前を変更して若い人にも来ていただくことにした。会社が激動の時期に入り気楽でなくなったので止めた。激動は続いてはいるが、血圧も安定してきたので、またぞろ飲み会をすることにした。今度はバリバリとメルボルンで活躍する若手のかたがたを中心に、こちらがエネルギーをいただく会になるようだ。基本的には、どんな名目でもいろいろなシガラミを忘れて飲めれば文句はない。なんだか、飲み会の話しに勢いがついて止まらない日記になっている。まっ、葬式の話しとかが続くよりはいいとは思うが。
2008年01月24日
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昔、1930年代の映画だったと思うが、「女だけの都」という映画の試写会に申し込んで見に行ったことがあった。確か、高校2年生の頃だったと思う。下心いっぱいにして臨んだその映画、まったく期待はずれであった。昨夜の我が家でのパーティー。本当に狂乱が続いているが、こんなパーティーなら毎晩でも文句はない。
2008年01月23日
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16日はオランダ系の連れ合いの父親の誕生日。74歳になった。夜、親類家族が集まりお祝いをした。帰ったら12時近かった。18日はオランダ系の連れ合いの妹の誕生日。48歳になった。同じく、夜お祝いの酒盛りに参加。そして、19日は、オランダ系の連れ合い自身の50歳の誕生日の前祝。同僚の50歳になった男性との合計一世紀の誕生会。朝の2時半までの長丁場。飲んだり踊ったりの大騒ぎ。日曜日は、昼に友人達とのパーティーがあり、シャンペンでお祝い。これでアル中にならないでどうする、てな感じの毎日だ。こちらの人はどうしてこんなに誕生日が好きなのだろう。平日の仕事が終わってから車で40分も運転して出向く家族の会。どんなことがあっても外せない。家族が第一だろう、と言われる。日ごろ、お世話になっていることもある。「君のお母さんの誕生日はいつ?」先日、ある日本人の青年にきいた。「いつだったかな?月は覚えているんですが、正確な日にちが?」こと誕生日に関しては、私は日本人方式がいいような気がする。因みに、連れ合いの誕生日は2月3日。都合でホンチャンの誕生会は9日に50人を招いて行う。当然、3日にも何かある。赤ワインを死ぬほど飲めるのは嬉しいし、連れ合いに何の不満もあるわけでもないし、大いに楽しみたいとは思っている。今から手が震えている。
2008年01月21日
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10年ぶりに、オランダ系の連れ合いの友人夫妻と4人で会食。月曜日の夜、8時から11時半まで続いた夕食会。こちらの交友は体力がいる。ラムシャンク。ラムの骨付きに込み料理イカのカラマリ、割とあっさり味
2008年01月19日
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「55歳で生んだ子供が今4歳で、来年定年になりますが、それ以降も生半可な定年延長などでは耐えられず、しっかりとした仕事をしていかないとなりません。」サラリーマン時代の先輩が、今住んでいる上海からメールくれた。今、55歳の私にもまだ望みがあるのだろうか、犬のプードルを飼おうと思っていたが、人間の赤ちゃんもいいななんて思わせてくれる一瞬ではあった。オランダ系の連れ合いは、犬には反対のようだ。毛が抜けないで散歩がいらない、というズボラな私にはプードルは最高の犬のように思えるのだが。かといって、今更人間も難しい。インコとかにしようか。連れ合いに聞いてみることにする。犬と赤ん坊とインコ。同じ土俵に上がるのが哀れを誘う、なんて言っていないで今年はしっかりと決断の年としていきたい。
2008年01月17日
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「木綿のズロース」とか「木綿のフンドシ」とかだったらあれほど流行らなかっただろう。1976年4月、私は石川県小松市にある建設機械製造工場で新入社員研修を受けていた。毎日工場の製造ラインで汗を流していた。「俺な、実は婚約者がいるんだよ。その彼女がな『木綿のハンカチーフ』を歌っていうんだよな。ちゃんと帰ってきてねってな。」阪大を出た同期の研修員山谷がブルドーザーの運転実習を終えた帰り道に言う。粟津温泉で有名な粟津工場での研修を受けながら、私はそこで同期らと2ヶ月間を過ごした。弁当忘れても傘忘れるな、と言われる程天候の不順な小松の土地で、私はサラリーマンになるべく第一歩を踏み出していた。大学時代の恋に大きく破れ、その後渋谷の下駄屋の娘に横恋慕していた私だったが、もう失恋の苦しみは味わいたくないと、北陸の片田舎で隠れるようにして生活していた。「タコよ。俺、来年結婚することになっているんだ。」そんな私の心を逆撫でするように笑顔で筆谷が言った。「そうか、おめでとう。」幼稚園の時から男女交際に励んできていた私は、この時はまるで真空管の中のノシイカならぬ燻製タコみたいな枯れた日々だった。「でもなこの歌、『都会の絵の具に 染まらないで帰って』って歌詞だろう。大阪からの俺には、『田舎のニオイに 染まらないで帰って』ってとこかな。」満面笑顔の筆谷は、そう言って私を笑わせた。私は、「木綿」という響きはなんとなく好きだけど、この歌を聴くと切なかったあの頃が蘇ってきてしまう。早朝ウォーキングのときに聴く曲は、なるべく感情移入されないロシア語の歌とかがいいのかもしれない。
2008年01月15日
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こういう風呂が、我が家にも欲しい!
2008年01月14日
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冬の凍てつくような思い出も溶けてしまいそうな気温、本日41度、明日40度の予想。クーラーのないビルで仕事をしていて、今日、一つの部屋だけに念願のポータブルエアコンを設置することになった。残念ながら、私の部屋は熱帯扇風機。明日の午後にはCool change があるといい、土曜日の予想最高気温が25度。これが、メルボルンの天気の典型。日本では、まずこういうことはないだろう。気温が、一気に下がるのがこのCool changeという有難いやつ。本当に僅か数分の間に変わることもある。とはいえ、明日の午後までは灼熱のメルボルン。体がだれる分、気を引き締めてやっていきたい。今日は二日酔いもあり更に拍車をかけないと。
2008年01月10日
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日本でもよく目にする4頭立て。近くのイタリア人移民ヴィトリアさん。ウンチ処理しないと500ドルの罰金。人間の場合はどのくらいなのだろうか。
2008年01月06日
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「にいちゃんね、もうちょっとテキパキやってくれよ。」包丁を持ちながら板さんがドスの利いた声で言う。1974年1月元旦、私は当時巣鴨にあった浅野配膳会という所でアルバイトをしていた。表向きは配膳のプロを派遣するという会社だが、実のところはほとんど研修のようなものはなく、入ったその日からあちらこちらのレストラン、宴会場などに派遣されていた。時給がいいのでやっていたが、派遣を依頼するほうはプロを期待していて高給を出しているのに、仕事がしっかりできないので可也きつく言われることもあった。池袋パルコの8階にあった「七耀亭」という高級日本食レストランの板前にどやしつけられながら、それでも私は元旦からせっせと働いた。何せ相手は包丁を持っている。太刀打ちできない。大学の3年生になっていた私は、その年の6月に知人とアメリカ3ヶ月の旅行に出ることになっていて、その資金稼ぎで躍起になっていた。その前の月、12月に当時としては破格のアメリカ往復料金を支払うことになっていて、金詰まりから当時付き合っていた好江という女性から11万7円を借りていて、一日も早く返さないとならなかった。一緒に、巣鴨信用金庫に行ってお金を下ろし借りた。彼女は理系に強く家庭教師で随分と稼いでいたようだ。一方私は、肉体労働で稼ぐのを得意としていた。これは、基本的には今も変わっていない。「あなたが、アメリカにいくから私はフランスに行くことにしたの。半年、ソルボンヌ大学の講座に出てくるわ。」「そうか、みんな海外に出て行くんだね。大西洋をはさんで手紙書くよ。」正月もなく働いて生まれて初めての海外に出ることができた。その年の6月4日、私は白地に黒のストライプの入った夏用のジャケット姿、好江は黄色の半袖の上着とスラックス。まるで新婚旅行にでも出るような姿で、父の運転する自家用車スバル360で母と4人羽田に向かった。目の前のアメリカのことで頭が一杯で、この旅行が二人の恋を終わらせることになるなどということにはまったく考えが及ぶ余地さえなかった。好江は、フランスからの帰国後私の元を去っていった。後で聞いた話では、私が乗った今はなきエアーサイアムのジャンボが視界から消えるまで、友人達と一緒に好江は走って私を見送ってくれていたという。元旦の話しを書こうとしたら、今年もやっぱり縁起良く振られた話に落ち着いてのスタートとなってしまった。
2008年01月02日
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謹賀新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。大晦日、そして元旦と大根を切り、刻み続けている。日本で母の作る大根サラダを毎日食していて、それをこちらで披露したところ、オランダ系の連れ合いがいたく気に入って、作るように私にせがむので、調子に乗って作っている。「おろし」というソースが切れたので、ポン酢に大根おろし、生姜おろし、わさびを加えて自家製ソースを作った。これが結構いける。一応、オージーも変わった味と、健康的ということで食べてくれていて、昨日からこのレシピを何人にも聞かれている。私は、幼年期、少年期を「大根」で有名な東京の練馬で過ごした。大根には縁があるのかもしれない。こちらの人は、太くて長いいわゆる日本の大根を知らない。中国の店で見事な大根が手に入る。因みに、オランダ系の連れ合いは、母の作る大根の煮付けが大好きだ。そんな訳で、今年は積極的に「大根」で人気を取りたいと願っている。大根料理、何か他にお薦めがあったら教えていただきたいです。
2008年01月01日
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