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「海岸線の絶壁で景色のいいところがあるの。行ってみない?」ドナが私を誘った。顔全体の三分の一もあるような大きな目をしたおとなしいドナと知り合った。まだ18歳だが既に怪しい色気を漂わせている。1974年6月から8月にかけて、私は生れて初めての海外旅行でアメリカに来ていた。私は22歳になっていた。縁あって、帰国するまでの数日をカリフォルニアのサンタバーバラにあるドナの家族の家に投宿することになっていた。 免許取りたての彼女の運転でドライブとなった。前年のオイルショックで、ホンダの小型車がアメリカで売れていた。ドナの車は、日本ではあっち系の人しか乗らないようなバカでかいフォードで、高速道路でホンダの車に出会うとその余りの小ささにビックリして、思わず二人で笑ってしまった。それにしてもすごい馬力だった。 崖の淵に二人で座りながら太平洋を見つめていた。この海の向こうには、50代前半の東村山の両親が待つ日本がある、なんてことはこういう時には絶対に思わない。ドナが私のスニーカーの紐と戯れている。何かのサインだろうか、単なる癖なのだろうか。明後日はもう帰国しなくてはならない中で、今二人でここにいることが世界からまったく隔離されたように大きく浮いていた。何も起こらないような、しかしなんでも可能なように思える時が流れる。胸は高鳴るばかりで、その動悸が周りの人にも聞こえそうで抑えようがない。下を向いているドナにゆっくりと近づいた。 ドナのうっすらとピンク色の頬に触れようとする瞬間だった。良く見ると、彼女の顔中の金髪の小さいウブ毛が太陽に照らされて燦々と輝いている。やはり金髪は光に映えて夏に相応しい。こういうときにはスペイン娘の濃いめのウブ毛は似合わない。金髪は得だな、という思いが過る。一体なんでこんな時に、、、。このウブ毛がしっかりと成長したとしても、よほど接近しないと目立たない。足でもどこでもそうなのだ。こういう発見は思いもしなかったときにやってくるもので抗しがたい。こうして紺碧の海に輝きたなびくドナの金髪のウブ毛を、ただただ厭きることなく眺め続けていたいと思ったのだが、、、毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2013年12月30日
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セブからメルボルンに戻った。「私の誕生日1月なの、香水お願いね。」「2月はバレンタインデーね。」「チョコレート沢山、忘れないでね。」フィリピンセブで良く行く近所のBBQ屋の店員、オバサン、日本レストランのウエートレス、高級イタリアンレストランのウエートレス、、、、どこへ行ってもちょっと会話があると、お土産の話になる。初めて行った店でよく知らない人にでもおねだりされる。オーストラリアや日本の店では経験したことがない。何なのだろう、これは挨拶代りか、100人に言えばそのうち1人くらいは買ってきてくれる、といった類の常套句か。私が、日本人のバカでかい女性だったとしたら、男性スタッフからそう言われるのだろうか。いろいろと思いめぐらしてしまう。「中国人のビジネスーパートナーとインテリアデザインの仕事をしているの。ほとんどの高級ホテルのクリスマスデコレーションは私がやったのよ。」ゲイのフィリピン人男性が誇らしげにそう言う。何人かでホテルで会食した時の話。彼は、フィリピン人の30代の大成功者。自分の話しかしないのが気にはなったが。会食が終わって会計になると、この人全く支払おうとしない。その素振りさえ見せない。あれだけ大きなことを自慢していた人だったが。別れ際に、「Thank you my friend !」だと。You aren’t my friend. と言い返したかったが。「日本人は、限度のないATMマシーンと思われています。」長いことセブにお住いの日本人の方が依然言われていた。たまたま、私が出会った人がそうだったのかも知れない。到底、一般化はできない話なのだろうが。どうこう言いながらも、私は次回のセブ入りには香水はさて置き、チョコレートは山ほど買っていくことにはなるだろう。サラリーマン時代、銀座のバーのホステスさんに「タコさん、香港行ったらお土産ね。」何て言われて鼻の下を長くした経験とはちょっと違ったものであろうが。ホステスさんたちは、間違いなく私より金持ちだったろうし。全てはご愛嬌の内であれば、オランダ系の連れ合いにもそれほど怒られることもないとは思っている。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2013年12月20日
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建設機械メーカー海外営業部に所属していたサラリーマン時代、担当はインドとパプアニューギニアだった。どうして、金髪大柄の多いアメリカとか、美人の多いことで知られているポーランドとかじゃいのだろう、と文句の一つもいいたいところだったが、仕事も覚束ない新米社員の頃で口答えできない。もっとも自分の行きたい所には行かせないのが会社というもの。仕事はそこそこ面白かったのだが、あるときインドの大プロジェクトで直属の部長と課長の板ばさみになり、課長が死ぬの生きるのといっているような状態のなか、正直仕事に冷めていってしまった。「脱サラして、オーストラリアで日本語教師になろう。」と自分で自分に辞表を出し、ついでに辞令も出した。これからは自分の人生の進路は自分で決めようと格好よく言ったりしていたが、実のところは会社の組織から完全に脱落した負け犬の遠吠えだったのだろう。やり直し人生をオーストラリアに賭けた。まず、体の悪い所を直そうと考えた。命には別状ないがあっても邪魔なものは、前も後ろもきれいにさようならした。脱サラして規則的な生活をし出したら、体重が10キロ減った。飲んでから最後にラーメン、餃子、ゆで卵なんかが定番だったサラリーマン時代。それが終わっただけで痩せた。これには驚いた。それにしても、当然ながらオーストラリアにはビザがないと観光には行けても住めない。日本語教師だけでは弱い。何か、日本人ならではの技術を、俄か作りで習得しようとした。「そうだ、指圧をやってみよう。」熱しやすいことは天下一品、特に異性に関しては、池の鯉にでも恋してしまう性格。決めたら即実行。シャネルの5番だけのマリリン・モンローを隈なく指圧しまくったという伝説の指圧師が日本にいた。彼女は、私の金髪憧れの元祖原点の方だ。因みに、秋田生まれの母とモンローは同じ年、彼女が生きていれば今年87歳か。更には、エリザベス女王が秋田で生まれていたら同級生。母の場合は、シャネルとかじゃなく桃の花とか、もっと身近なものだったような気がするが。この伝説の指圧師、浪越徳治郎さんが立川の朝日カルチャーセンターで家庭指圧教室をやられていたので、失業保険を取りに行くついでに資料をもらい即断で入会した。こうして、いろいろ準備して1985年6月にオーストラリア入りした。贅肉も無くなったが金も無く、あるのはどデカイ夢だけの33歳。結局、永住権は指圧でも日本語でも取れず、すったもんだのあげく、日本食レストランのマネージャーとして奇跡的に取得できた。今は、セブで時々一時間500円でマッサージに行くことがある。まかり間違えれば、自分がやっていたのかも知れないなどと思うとパンツ一丁で思わず苦笑いしてしまう。ご希望の方にはやって差し上げたい気持ちもなきにしもあらずだが、気持ちはあっても指がついていかないので話だけに留めておく。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2013年12月09日
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