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身体が強張る。身体が小刻みに震える。息すら満足にできなかった。貧血で思うように動かない身体をもどかしく思いながら、何かを考える余裕もなく咬(ぜん)は走った。ただただ逃れたかった。背に追ってくる気配を感じる。その気配が近づいてくる、と気づいた途端身体がビクリ、と揺れた。咬のその反応は強い恐怖に晒された子供のように痛々しい。「『元虎様・・・・・。』」臓腑に毒を直接注ぎ込むような、甘美な女の声・・・・・・。だんだん強くなるその声に咬の足は次第に確かさを増して進んだ。遠くで微かに水音が響いたのが聞こえた。いつの間にか背に感じていた気配は消えている。咬はただ地の果てに追い詰められたように感じた。未だ続く恐怖が胸を抉る。(たまらない。)血を吐くように言葉を放ってしまいたかった。あの男に。(頼むから近づかないでくれ、それ以上。)夢だけでもお前の気配は俺を殺す。(毒のようなその気配と言葉を俺に・・・・・・。)何もかも棄てるから、それ以上向けないでくれ。上がった息を無理やり整える。闇に沈むその路地裏に咬は立ち止まった。・・・・・・道の先は闇で見えない。行き止まりかもしれなかった。・・・・・ピチャン・・・・ッ・・・・・。再び微かな水音が聞こえた・・・・。今度は少し近くで。寒い・・・・・。臓腑まで侵す夜気の冷たさに、思わず身体が震えた。冷えた身体を両腕で抱く様にコートの前を閉じ合わせる・・・。・・・・・・見知った光景だった。疲れた頭で身体が自由に動かないことを何時もの様に悟った。闇に紛れて何かが凝り、“何か”が自分の身体を這いずるのを感じた。甘い腐臭がする。響く水音がひどくなった。「『元虎様・・・・・。』」風がビルとビルの間に木霊する。その風に乗っておかしな香りが鼻腔に運ばれる。その香りの意味を咬は知っている。その意味も分かる。視線を上げる。白い着物を着た美しい女が其処に佇んでいた。『助けて・・・・・助けテクださィ、元虎様。』『思い、出シテくださりマセェェェェ、元虎様あああアアアアアッ!』『元虎殿ォォ・・・・・ッ。』『思ィ出ィィィいいいいいいいいいい・・・・!!!!!』その女の後ろに腐れ落ちた皮膚と腐臭を撒き散らした死人たちの群れが在った。幼い頃に見た狂夢だった。それを咬は静かな瞳で見据えた。今更ながらに此処は白炎(びゃくえん)と狂夢で初めて会った場所だったことを理解した。同時にこれから行われることを咬は理解する。「白炎・・・・・。」声になる筈のその言葉は、けれど自分の唇の上で空回った。代わりに、喉の奥でヒューヒューと音を立てて呼気が通っていく。・・・身体はやはり自分の意志で動かなかった。そっと目を伏せる。背後にあの気配はない。其れだけが救いだった。前を再び見据える。ただ浅く息を吐いた。
2005年07月25日
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彼の瞳が好きだった。直に魂に肉迫するような金の瞳が。目を合わせる度、彼の感情が、皮膚のない剥き出しの・・・・血を滲ませた彼の肉が、直に感じられるようだった。其の時だけ、自分は彼を理解できた。街の雑踏から遠ざかったその薄暗い路地は、消えゆく暮色により一層影を濃くしていた。「咬(ぜん)・・・・・?」押し殺した声がそっとその場の空気を震わせる。その声に顔を上げ、カチリと音がするほどキツく泰然と視線を合わせてくる人影があった。夕闇で此処は見えないはずだが其の瞳は外されない。其の視線に有家清綱(ありえ きよつな)は思わず呻いた。(元虎様・・・・・・・・っ。)最後のあの瞬間からずっと捜してきた人だ。幻かと清綱は自分の目を疑った。ここに居ていいはずの気配ではない。だが奇妙な幻の人は消えない。それどころかよりリアルに生々しい其の瞳は強い光を増した。獣のようにしなやかな身体が、沈み行く夕日の最後の残光に愛しげに照らされている。闇に凝る路地裏にはその人のみが鮮烈な存在感を放っている。上がり始めた月までもが其の凍えた光を撒き散らして、己のただ唯一の存在と知る様にその人に自分の煌きを背負わせだしている。太陽と月の輝きを一心に受け止めながらもその人は気負うことなく一人立つ。まるでこの空を統べる者のように。(この人はっ・・・・・・・・・。)咬であった。この路地裏への道を塞ぐように咬は其処に、居た。気が狂うほど、捜し求めた人だ。この人だけを、ずっと捜していた。磨耗していく頭で、もう自分が見境が無くなっていることを清綱は悟った。(この人がいない時間を生きてきた。)そして其の毒は他の何よりもはるかに多く清綱を殺した。あれほど手酷い苦しみは無かった。胸が潰れそうに痛むのを堪え、清綱は其の瞳を見返した。一度苦しく奥歯を強く噛む。そのまま声は出さず、殺気さえ籠めるように・・・真率な眼で咬の、・・・・元虎の瞳を見返した。清綱の眼と元虎の視線がまともにぶつかる。(元虎様。)限りなく強い瞳が其処にあった。自制の利かない頭で、腕を差し伸べようとした。けれどそれより先に足が動いていた。左足が無機質なコンクリートの地面を蹴ろうとする。が、視線の先に思わぬものを見て清綱は足を止めた。「咬・・・・・。」声が震えた。元虎はただ清綱を見つめていた・・・・・ただ、ひたむきに。其の毒のように強すぎる瞳が、柔らかくまるで慈しむように笑んだのだ。(・・・・・・有家・・・・・。)声は届かない。けれど確かに元虎の口唇は昔日と同じ名を上らせた。清綱は眼を見張った。元虎の瞳からは涙が落ちていた。「・・・・元、と・・・・。」清綱の言葉は続かなかった。突如元虎の表情が変わったからだ。其の身体がグラリとよろめく。思わず駆け寄ろうとしたが、其の途端元虎が目を合わせてきた。其の目は清綱を激しく拒絶した。そして其の目が清綱を認めた瞬間、元虎の唇は蒼白に小刻みに震え始めていた。息を詰め、恐怖で身体が強張っている。目じりが切れるほど見開かれた其の目には先程宿っていた感情はまったく無い。ただ恐怖で此方を見ていることが清綱は分かった。「おまえ、なのかっ。」疑問と確信と鋭い拒絶と恐怖が其の声に乗せられる。呼吸することすら忘れたように瞬きもせず此方を血の気の引いた顔で見返している。(咬!)咬だった。元虎の状態から一気に記憶の無い状態へと戻ったらしかった。「咬。」深い声で清綱は名を呼ぶ。が、咬は其の声に弾かれた様に走り出す。同時に重く凝った甘い闇から、女の声が聞こえた。「『元虎様・・・・・。』」咬の行く手は路地裏の奥・・・・。「そっちは・・・・・・!」(いけない・・・・・っ!)清綱は切迫した眼差しで其の女の声のした宙空を睨み、踵を返した。後は何も考えず咬を追った。其の清綱の姿を嘲笑うように女の淫靡な美しい声が何度も元虎の名を呼んだ。
2005年07月17日
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雑多で無機質なその路地は、消えゆく暮色により一層影を濃くしていた。誘い込まれる様にして其の異界に足を踏み込んだ咬(ぜん)は、一瞬意識が飛んだ心地がして足を止めた。否、意識が飛んだのではなく、いつもの自分が自分ではない感覚だった。脳に無理に入り込んでくる其の感覚は咬には拒む術がない・・・。じりじりと心臓を鷲掴みにされる様に精神が痛む。精神が軋みを上げて叫び続けている・・・・・。(何がそんなに痛い・・・・・・?)子供にするように柔らかい口調で己の内に言葉を落とす。けれど咬の精神は千切れ飛びそうになりながらも、苦しく堪えるだけだった。ああ、と咬は息を止める。夢の中の金の瞳の男は俺だったのだ、と。(生きて生きて、生き抜いて死ぬことを確かに望んだのに・・・・。)しかし、掴み掛けた“何か”は咬の手から滑り落ちた。叫びが咬自身を喰らう・・・。死にそうになる其の痛みに咬はキツく瞳を閉じて堪えた。眩暈が一層強くなる。内臓をどろどろに溶かす熱が内奥に生まれる。堪え切れず、咬は叫びたい衝動に凍てつく。“誰か”の名を呼びたい衝動に駆られる。けれどそれを夢の中の咬は知っていても今際の自分は知らない。「・・・・・・・・っ。」気が、狂う。痛いのだ、・・・・・・痛い。だが、其の痛みも徐々に記憶の底へと消えていく。深淵へ沈んでいく際、咬は懐かしい声を聞いた・・・・。『俺は死にません。・・・・・決して、・・・あなたを一人には・・・・・・。』疲れた様に、最後に思う。一人に、している、と・・・・・・。此処はどこか、と思った。薄暗く、薄汚い路地が眼前に広がっている。この忘れ去られた楽園は微かに生ぬるい風に腐臭を香らせている。自分は図書館に居たのではなかったか?読んだ本たちを思い返しながら咬は記憶をたどった。・・・・思い出せない。こんなに若いのにもう物忘れだろうか・・。若いだけが取り柄なのに。(・・・・・じゃなかったら、いつもの狂夢の白昼夢版の方か・・・・。)あまりにも応用の利く狂夢に近頃振り回されぎみの咬は、溜め息をつく。こんなのに夢を安売りするなら、不眠症の人の方にいって欲しい。訳の分からないことを願っている自覚はあったが、本当に冗談ではなく迷惑しているのだ。眩暈が残る身体が、少し気だるい。自分の状況を把握するためと、頭をはっきりさせるため咬は真っ直ぐ顔を上げ、前を見据えた。・・・・と、少し場の空気が揺らぐ。「・・・・・・・?」ほんの微かな揺らぎだったが、人一倍気配に敏感な咬には見逃すはずもない空気だった。(誰か居るのか?)別に誰か居ても不思議ではない。咬だけの路地裏ではないし、それは人も居るだろう。こんな所に、とは思うが、咬も人の事は言えない。だが関わり合いになりたくないのも確かだった。こんな時刻に、こんな場所に居る連中など碌な者が居ない。複数なら決定的だ。気配は複数あるし、何故か敵意のある視線が向けられているのを感じる。幸い、夕闇で此方から向こうは見えない。さっさと引き返そうとした所で、振り返る間も無く足を留めさせられた。「咬・・・・?」真率な、泣きたくなるほどの温かい声が戸惑うように咬の名を呼んだ・・・・。まるで全てから守ろうとするように。「・・・・・!?」息が止まるかと思った。否、それより先に心臓が止まるかと思った。(この声はっ・・・・。)『白炎(びゃくえん)、知っているだろう?』飄々とした刺桐(しどう)の声音を思い出す。其の声音が言葉で、はっきりと狂夢は夢ではない、と告げてきた。・・・・ならば・・・、この一ヶ月見続けてきた男の夢は・・・?静まりかけていた眩暈が、確かな悪意を持ってぶり返す。それほどまでに先程咬の名を呼んだ声は夢のものに酷似していた。「おまえ、なのかっ。」驚きと理由の分からぬ怒りに駆られ、低く呟く。其の声は届く前にちょうど吹いた風が攫って行った。けれど驚きと怒りだけが湧いてくるのではない・・・・・・。・・・・涙が、流れそうだった・・・。温かい其の感情に、自分が柔らかく瞳を笑ませたことに、咬は気づかない・・・。(・・・・・有家・・・・。)哀切が心を呪縛するのに、咬は激しい恐怖を感じた。(怖い。)この気配を知っている。駄目だ、いけない。思考する能力が落ちている頭で其れのみが回る。此れ(この感情)はいけないものだ。(俺はまた同じ事を繰り返す・・・。)他に救いを求めて上がる息を抑える。「『元虎様・・・・・。』」其れを狙ったかのように頭に直接、美しい女の声が響いた。其の声に咬は足を進める。この場で唯一の救いだったのだ。「『元虎様・・・・・。』」其の声を追い、咬は進行方向を変え、走った。行く手は路地の奥・・・・・。甘く深い闇が凝っていた。
2005年07月09日
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人は容易に嘘をつく。自分にも・・・・・・・。『どうして・・・・どう、・・・・してッ、俺は生きてるんだ・・・・。』何度も何度も・・・・・咬(ぜん)は死んで生き返る・・・・。呪いの言葉と己の吐瀉物と血反吐にまみれながら。こうまでして、まだ・・・・・俺は生きている。己の記憶と心を騙して。人は容易に嘘をつく、自分と、自分の記憶にさえ。咬はただ一つの大切なものを守るために己の心に一つ・・・・大きな嘘をついた。『・・・・いや、だ・・・・・やめっ・・・・見たくな、い・・・・・見たくないっッ・・・・・、やあぁぁ・・・・・・。』死ぬ、痛い、死んでしまう!どんなに願っても叶わないことを。『泣かないで。・・・・・悲しい夢を見たんですか?』かすかに瞳を細め、返る温かな血の通う声はもう二度と返らない。夢じゃ、ない・・・・・。(おまえが、いない・・・・・・・。)温かな声も、思いやりに満ちた其の腕も、二度と帰らない。涙も血も渇いてしまうほど叫んでも、悲嘆が哄笑へと代わっても。喪失の痛みで、死んでしまう・・・・・・・。どちらかの死での決着など、自分は願ってはいなかったのに。だが其の悲痛な願いから咬は・・・・・・・元虎(もととら)は直ぐに解放された。奇妙な安堵を伴って、元虎は自分の喉に血塗れた刃が埋め込まれるのを感じていた。己の温かな血潮が、自らの身体を徐々に濡らしていくのをひどく安らいだ瞳で追った。自分の血の温かさがただ一人を・・・・・・、夕闇の瞳のただ一人を思い出させたのだ。ただ其の事にのみ、元虎は安堵した。そしてゆるゆるとやって来る眠りに、幼子の様に身をゆだねた。(あのとき、死ねばよかった。)いや、確かに元虎は死んだ。けれど消滅は、<喚魂者>たる元虎には許されなかった。今までの記憶も、想いも全て引きずってまた元虎は新しい生を選ばなければならなかった。<喚魂者>の死は死ではない・・・・・・半ば強制的に“守り人”としての生を永劫の時と共に与えられる。元虎は先に道のない生を歩み続けなければならなかった。けれど堪えられないことは分かり切っていた。絶対に失えないモノ・・・。堪え切るより先に死ぬ、痛くて死ぬ。過去だと忘れることなど、できない。去るものは日々疎くなる、など・・・・・。(怖い。)何時かこの痛みも忘れるのだろうか。(できない。)何時か過去だとこの痛みを癒す者が他に現れるのか。(・・・・・・・・・ッ!!!)此れを考えるたび元虎は身体を裂かれる様な恐怖を覚える。違う。唯一だった、あいつだけが・・・・・っ。あいつだから心に入れることができた、あいつだから唯一だった・・・・ッ。過去だと認めるぐらいならっッ・・・・・・・・!そして元虎は全てを無に帰した。魂の記憶を封じ、<喚魂者>の力を手放し、其処とは違う異界に転生した。やり直そう、と思ったのだ。死んでしまった存在は決して帰ることはない。けれどそれでももう一度・・・・・・、自分の生を・・・・。死による決着ではなく、生による答えを。新たに生き直そう、と。そう願っての大きな嘘と忘却だった。<界のほとり>と呼ばれる新たな世界は、元虎に生を与える場所のはずだった。(あの時、諦めていればよかったのか・・・・・・・・?)喪失は消えなかった。幼い頃から、狂夢を見る度身体中の血が涙に代わるほど泣いた。夢への恐ろしさに、では無く“誰か”の微笑と喪失に。泣いて泣いて、泣き疲れても涙は止まらなかった。分けの分からぬ喪失の痛みに幼い身と心は血を流した。泣いて泣いて、病弱な母の手には負えぬほど一日中泣き続けた。病院に連れて行かれ、何かの薬を打たれる日が続いた。現実からに逃げたツケを払うのは元虎の・・・・・・・咬のこの涙だった。成長と時と共に封じる力は育ち、記憶は思い出されることは無かったが、喪失感は失われなかった。朝目覚める時、夕暮れの街の雑踏にむせぶ時、夜眠る時、咬は必ず“誰か”を探した。唇に名も乗せられぬ“誰か”を何度も呼んだ。・・・・・・・・死にそうだった。こんなに失えないと叫ぶのに。(・・・・・新たに生き直そう、などと思うべきでは無かったのか?あのまま・・・・・、同じ痛みにのた打ち回るのなら、全てを負ったまま生きるべきだったのか?・・・・・けれど思い出した今でも自分は変わらなかった。)全てからの忘却は逆に咬の首をじわじわと真綿で絞めていった。自業自得だ。此処まで愚かだったのか、と嘆くよりも嘲笑えた。此処までくれば他に自慢でもできるのではないか、道化のほうが自分のしていることが分かっている分はるかにマシだった。束の間の目覚めに其れでも元虎は咬の身体と心で慟哭する。もう少し経てば、完全な目覚めは来る。・・・・・・“刻”は近かった。まどろむように元虎は思う。(もう・・・・・・・・・。)・・・・・そして代わりに咬が目覚めた。
2005年07月07日
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場面は変わり、時は少し溯る。咬(ぜん)はふと夢から覚めた様に文学書から顔を上げた。空調が利いて適温が保たれた図書館の室内は居心地が良く、人は居たが程よい静寂さを持続している。その心地よさに咬はほっと息をついた。読み終えた本を閉じ、思い出した様に窓の外へ目を向けた。美しい青に染まっていたはずの空は今は夕暮れの茜に潤んでいる。いつの間にか朝が夕方に取って代わられている。どうやら昼食を摂るのも忘れて熱中していたらしい。御蔭で気になっていた本をかなりの数読めたが。目の前の机上には数時間前に借り出した本が山と置かれている。既に四時半を回っていた。早朝、担任と話した時の苦虫を噛んだ思いは跡形も無く消え去っている。未だ貧血のせいで身体はだるいが、無責任な他人のいらぬ御世話にずっと頭を使うほど咬は繊細でも無く、学習能力が無くも無い。そんな馬鹿馬鹿しい事はしない。何より、咬は本に向き合うこの空間と時間が好きだった。人の肉声の言葉は咬の心を打ったことは無い。声に乗せられる言葉はいつも何か嘘臭く、体面と偽善とエゴを含み、咬の内をすり抜けていった。けれど本は違う。同じ言葉なのに何故、と咬は不思議に思う。語る人の違いだろうか、それとも自分が向き合う度合いが問題あるのだろうか。本はいちいち咬の内奥を抉り、今まで見たことも無い世界を眼前に広げる。自分の生きていなかった時代の空気や風潮さえ感じさせる。読むのが“痛い”と感じさせる文章もあれば、呻くほど生々しいものを綴ったものもある。本の影響で自殺した人もあると言う事も頷ける。自分が知らないほどの己の内奥を暴かれる心地がするのだ。本からは肉声よりも力のある、もっと血の滲んだ皮膚の様な生々しいものを感じる。だから、何よりも興味深く、面白い。本が持つ独特の空気も好きだった。自然、其の空気が最も感じられる此処には、一度入ると何時間も居てしまう。だが今日は少しのんびりしすぎたかもしれない。閉館が近い。咬は立ち上がり、机上の本を手に取った。其の本たちを元の棚に戻しながら、未だ読んでいない文豪の本を棚から抜いていく。全部戻し終え、本棚から四冊抜いた所で受付に向かった。残念ながら、ハードカバーを何冊も買う余裕は咬には無いので。聞き慣れた手続きを終え、図書館を出た。外に出た途端柔らかい暮色が街を包んでいるのが目に入る。同じ姿勢をとり続けた身体は少し動き辛く、身をほぐす様にして家への帰路を歩いた。重度の貧血から立ち直っていない身体は重く、度々眩暈が襲う。人の流れが更に眩暈を誘発する。少しふらついた。「・・・・・・・ふ、・・・・うっ・・。」浅く息をつき、家へは少しほど遠くなるがビル街を離れた。いつもの通学路にある、海の見える高台の坂道を思い出す。今の時刻ならとても美しいだろう、と少し悔しく思う。尤も、其れに気づいたのもつい最近で、気づいた其の時に刺桐(しどう)達に会ってぶっ倒れたので其の日以来見ていないが。(そうか・・・・・・、俺はまだあの美しい景色を一度しか目に映していない。)何故か其れが悲しかった。自分はもうあの景色を二度、見る事は無いだろうことを知っていたから。“私”は帰るだろう、あの恐ろしくも懐かしい処へと。夜の水淵に浮かんでくる様な不気味な想いに咬は支配された。(“刻”は近い。)怨気が己が身を探し狂っている。もう、遅い。見つかる。一瞬淡く、咬の瞳に黄金の炎光がよぎった。けれど其れは海の泡のように虚しく消えていく・・・・・・・・・・。“見ツケ・・・・・・・。”「・・・・・・・・・。」後に残るのは陰鬱さを孕んだ沈黙。そして咬は“咬”から自らの支配下の身体と精神を取り戻した。「・・・・・・何・・・・・・・・?」驚愕する心からの声に応える者は、無い。分けの判らぬ焦燥にどっと疲れる。何故だか判らない“此れ”はもう幾度も体験した・・・。毎日昼夜問わず訪れる狂夢と同じ様に。(怖い。)恐ろしいのは奇妙な事を不思議にも思わない自分に対して。(どうして・・・・・。)この問いはもう飽きて腐ってしまうほど。疲れに足を止める。見るとも無しに傍の壁に寄りかかり、キツく眼を閉じる。じんじんと吐き気がした。と、生ぬるい風が夕闇の昏さを含んで何処からか流れ込んできた。眼を開けもたれていた壁から身を起こす・・・・・視線を転じると、直ぐ横には細い路地があった。影が暗く夕闇のせいで奥までは見えない。温度を感じないぽっかりとした世界はこの街には余りにも不自然だった。其れでも其処は此方より多少涼しげに見えた。当たり前だ、影しかない。家の近くだという気安さもあっただろう。少しでもダルさと吐き気を冷ましたい咬は何も頭に浮かばず其の世界に足を踏み入れた。・・・・・・いや、本当は分かっていたのだ。無意識下で、其れは陽炎の様に不確かで、実の無いものだったが。咬は知っていた。砂漠で渇いた旅人が水を求めるのと同じ切実さで、咬は其れを求めていた。もう、ずっと長い間。咬は意図せず其れを見つけたのだ。咬は更に足を進めた。暗い路地裏が束の間の邂逅の場所だった。
2005年07月02日
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