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真冬、早朝の草原ほど美しい場所はない。瑞々しい翠には、朝日に照らされて白銀に光る霜が降り、この世の全ての穢れを払拭したように“錯覚”させる。穢されたものを許し、再生させる神聖な空気。まるで身体に染み渡るような、草や木々のひとつひとつに至るまで生きる神の息吹。凍る大地は静謐と純白に満ちている。みんながみんな白く生まれ変わる。美しくもむごいそれは、神の傲慢。新しい明日を思わず喚起させるそれは、希望。・・・・あるいは、渦。絡めとり、飲み込まれ、堕ちてゆく、“それ”・・・・・・・。けれどそれは、“明日”という日に強迫観念を持つ自分ならではの発想だろうと思いつつ、睡眠不足でチリチリと痛い目を氷翠王【シャナオウ】は細めた。夜明け前ほどから馬で駆け続けた身体が、少し熱をもっている。木枯らしが荒れる冬枯れの空の下、白銀の草原しか見えないのを瞳に映し、氷翠王はゆっくりと目を閉じた。「お久しぶりですね。」その時唐突に、穏やかな。けれど氷翠王の心を絡めとろうとする声が背後から掛けられた。ことさらに、ゆっくりと。蛇が鎌首をもたげるような。逃げ道をゆっくりと歩き潰して行くような。男の声、が。「雪灯【セツガ】。」静かに声の主の男の名を冬の空気にすっかり冷たくなってしまった唇に乗せた。だが振り返ることはしない。木枯らしが物寂しげな音を立て、通り過ぎる。氷翠王が振り向く気が無いことを悟ったのだろう、男が近づいて来る気配がする。と、思うと耳朶に暖かい熱が触れた。「可哀想に。凍えていますよ。寒い思いをしていたんですか?」「寒くなんかない。熱いんだ。離してくれ。」どの宝石よりも美しいプライドを孕む声は、雪灯が心の琴線に触れることを許さない。この姿を他の連中は知っているだろうか、と雪灯は一瞬考える。が、やめた。知るはずが無い、と分かり切っているからだ。雪灯はゆっくりと微笑した。その気配に気づいたのだろう、氷翠王は静かに振り向いた。目が、合う。氷翠王の、その金色のギリギリ一歩手前の琥珀の瞳に自分の姿がくっきりと映っている。その色素の薄い、獅子のような瞳に雪灯は再び微笑を返した。だが雪灯の眼は剣呑な光を宿している。「その洋装、とても似合っていますよ。誰の好みですか。」穏やかな笑みを浮かべ、聞く。氷翠王はいつもの着物姿ではなく、異国の服を身に着けていた。伸びやかで美しい身体の線に沿った黒のズボンに、上も黒の合わせ。いつもの絹糸の刺繍の美しい着物に比べてかなりシンプルだが、腰には触れてもそこに在るのか分からない位の細く華奢な銀の鎖の装飾を身に着けていて品が良い。それに一つだけ付けた装飾具は、かえって周りに染まらない氷翠王の華(ソンザイカン)を際立たせ、その細腰を強調して艶気まで添える。ここまで計算し尽くしてやられると、誰かが氷翠王のために用意したものだと分かる。氷翠王は装飾具を自分から身に付けることは無いし、ほとんど鎖国状態で“異質”を徹底的に厭うこの国では、異国の物を手に入れることすら難しい。そんな手間と時間、金がかかる事を氷翠王は自分のためには行わない。となると、誰かが氷翠王のために用意したものでしか有り得ない。まあ、遠駆けで馬に乗って走らせるのに、着流しや小袖で・・・・・・、とはいくまい。その点でいえば、この洋装は馬に乗りやすいだろう。それに用意してやれば次、遠駆けに出る時も使える。雪灯は氷翠王があの閉鎖された<禁足地>の村から出て、街に行く日の度に夜明けにこの遠い草原まで遠駆けに来ることを知っていた。まるで自由を希求するように。それを知っているから一ヶ月に一回の氷翠王が村から出るこの日に、雪灯はこの場所へ赴くのだが。氷翠王の臣下にこのことが知られたら間違いなく自分が殺されるか、氷翠王は二度と外に出られなくなるだろう。それを思い、雪灯は可笑しくなり、笑った。氷翠王は何も言わず、為されるがままにさせ、ただ前を見据えている。まっすぐに伸ばされた背筋。張り詰めたまなざし。全てを背負ってなお、揺らがぬ鋼鉄のそのまなざし。しかし、孤独な・・・・・・・・。「あなたは変わりませんね、少しも。」自分は無関係だと告げるような笑みを雪灯は浮かべる。それを再び氷翠王は視線を返して、まっすぐに見据える。「あなたも変わらない、少しも。」「辛辣ですね。」氷翠王が何の他意もなくそう言ったのが判っていたが、自分の言ったことを棚に上げ、穏やかに雪灯は笑い直し、それから手招きをした。かなりの細心の注意を払わなければ判らないほど微かに氷翠王の瞳が揺れる。敵との距離を測るように。だが雪灯は氷翠王が自分に決して叛かないことを知っていた。違う。したくても、できないのだ。けれど誇り高いこの相手故に、自分の手を取らせるのは雪灯にとっても命懸けだった。この二つが、お互い判っているからこの喜劇的な再会はいつも一つの制約を持って繰り返される。だからここに来れば雪灯に会うと判っていながら、氷翠王はいつもの慣習どおり、ここに来る。それはこの国の最も古い慣習にあたる、番【つがい】が、氷翠王にとっては自分だと定められているからか。番とは、今ではその慣習も廃れ、意味もほとんど夫婦と同意義になっているが本当はそんな替えの効くものではない。ごく極端な一部分を除けば、ほとんど夫婦と変わらないが。けれど氷翠王が雪灯に叛かない理由はそれが一番大きいものではない。雪灯は朱樺【シュカ】家を取り潰し、取り込もうとし氷翠王を十二年間もの間人質にとっていた蒐【シュウ】家の次期宗主だった。朱樺家唯一人の後継者だった氷翠王を取り込もうと一応、番の誓いをたて祝言を済ました夫婦でもある。今氷翠王は十九歳のはずだから、五年前、氷翠王が十四歳になった日のことだ。だがその三年後、氷翠王が朱樺家に一時帰郷した時、氷翠王が蒐家に謀叛を謀っていると拘束され、拷問の末、死亡・・・・・・・・・とされるが、実際は死亡と見せかけて出奔。見た者が失神するほどの酷い拷問を兄から氷翠王が受けたのは本当だが、氷翠王の臣下がその中で造反し、氷翠王を助け出したのだ。よほど氷翠王は臣下の忠義に報いていたのだろう、少なくともずっと朱樺家に居て臣下を指揮していた氷翠王の兄に逆らってまで氷翠王を立てるほどには。氷翠王は拷問の最中、ただの一言も弁解をしなかったと聞いた。ただ苦悶のえずきと声を堪え、狂ったように自分自身が倒れるまで毎日拷問を繰り返す兄を見ていたと聞いた。なんの真実も含まれていない罪のための罰を受けたのは、言っても無駄だと思っていたからか。それは判らないが、兄との確執が深いことだけはその事で判った。それから氷翠王は、造反した朱樺家の三分の一ほどの家之子と共に出奔・・・・・・・行方は杳として知れなかった。それだけの大人数の出奔ならば、いくらでも情報は入りそうだったが、それは東国一の陰陽師と符術師が共にいるからだろう、有力な情報など皆無に等しかった。雪灯が氷翠王を見つけたのはただの偶然だ。氷翠王が雪灯に叛くことが無いのは、自分という駒のせいで臣下に害が及ばないようにするためだ。好かれても、ましてや愛されていないことなど百も承知だ。そんな甘ったるい吐き気がするような感情は求めていない。求めているのはもっと、血腥い香りがするような、もっと惨く深い本心だ。氷翠王は人質時代の頃より、自分が臣下たちの心の支えであったことを身に沁みて分かっていた。それ故に痛く自分を律してきた。柔らかく慈悲深い、神の許しのような、菩薩のような微笑を浮かべることは多々あっても、怒りや不安、悲しみなどの負の感情を面に出すことはなかった。暖かく、水のように柔軟に姿を変え相手の心におさまる。時には激しく、それでも優しく。悠然と誇り高く、強く揺るがず。不可能どころか、奇跡のような、その在りよう。澱むところのないそのまなざしは、ほとんど驚嘆するべきものだった。たとえ泥の中でも地獄の底でも、菩薩のようにあれるとさえ思った。その心が無理に律されているものだと、知っていても。けれどだからこそ、皮膚を剥いた惨くとも血腥い本心からの想いを引き摺り出したいと思うのだ。それは一部、成功している。他の誰の前でも、自分に危害を加えた者に前でも決して崩されない慈悲深い微笑は雪灯には向けられない。それはあまりにもあまりだった人質生活のことと今の関係、その他もろもろの良いとは言えない感情面によるだろうが、時々、本音めいたことを誰にも向けたことの無い瞳で氷翠王は語った。深沈とした、どこか寒さを堪える痛い瞳で。それが少なくとも真実を含んでいるように感じる。だから、逃げ道を潰してやった。氷翠王の耳朶に触れていた指で、そのまま氷翠王の髪を梳く。手の中で蜂蜜のように溶けて逃げそうな、漆黒の柔らかく流れる髪。「雪灯・・・・・・。」草原を静かに揺るがす声に呼ばれる。その海に溺れる。「そうだ。星、いりませんか?あなたのせいで露店で買ってきてしまったんです。」「ほ、し・・・・・・・?」突然楽しそうに笑った雪灯に、氷翠王は戸惑ったように少し首を傾げる。その様子は始めて見るもので、余計雪灯は笑った。(露店で、星・・・・・・・・・・?)戸惑いながらも、この人なら何でもありかもしれない、と氷翠王は妙な納得をするが雪灯には知られない。「手を出してください。」と請われ、素直に両手を差し出していた。それを微笑ましく思い、雪灯は始めて氷翠王の前で屈託の無い目を見せた。その手の上に、美しく桜色に染められた布に包まれているものを置かれる。それを広げると、その布と同じく桜色や、空の青、雪の白などの彩がさまざまの可愛らしい金平糖が転がった。その思いがけなさと金平糖の綺麗で愛らしいのに氷翠王は目を奪われた。「可愛いでしょう?甘くて美味しいですよ。」口を開けて、と言われその通りにすると、口の中に金平糖を一つ放り込まれる。その際唇の端に雪灯のひやりと身体が震えるほどの体温の指がかすった。口の中の少し冷たい金平糖を舌の上でころがす。すると、とろり、と暖かい甘さが口の中をひたした。「甘い。」思わず目を上げて微笑むと、雪灯と目が合った。そのことが最も世界で大切であるかのように雪灯は、氷翠王に口付けた。
2005年11月29日
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慎ましくも和やかな村のすみずみまで橙に染まる頃合。その間、夕日の色そのままに潤む空は、三度の“赤”に焼ける。淡く美しい橙に空が染まり始めたと思うと、次の瞬間には夕日の暮色は温かなどこかまろみのある朱(あけ)の色にしたたるように潤んでゆく。そしてしばらく、夢のような間(あい)の時間が過ぎると、空と夕日は同時に血の如く赤い“深紅”の残照にそのままの色の絵の具をお湯に溶かさずに落としたように一面に染まり、夕空と村の景観が溶け合うような心地がする・・・・・・・・。そして後には夕闇の美しい“藍”が残る。「いつもながら美しい・・・・・。」氷翠王【シャナオウ】は、柔らかく息を呑み、笑ませた。静かに透る声が周囲の空気を心地よく震わせる。その声に、一歩下がって後ろを歩いていた男が静かに言葉を乗せて返してきた。「はい。格別に・・・・・・。今宵の月もさぞ美しゅうありましょう。」いつもは切れすぎる利刃が一閃するような、と言われ、続く間に散って咲く血の花まで見えるようだと言われた男の武人の声は、けれど今は暖かでまるで守るように、村を包み込むように響いた。それを男自身も自覚し、夕日が美しいとゆう言葉に頷きながらも、その劇的な変化を与えた人の後姿だけをその目に映し続けた。その視線はいつものことだったが、その人は振り返った。「九鬼【クキ】。」どうした、とも何だ、とも聞かずにその人は柔らかく唯一人の男の名を呼んだ。何かを聞こうとしている九鬼の様子をその視線に感じ取ったのだろう、静かで柔らかい口調にうながされる。「氷翠王様・・・・・・・・大事ありませぬか?」「・・・・・・・・・・。」村の子供たちが童歌を歌いながらそれぞれの家に帰るのを、柔らかに瞳を笑ませながら見ていた主君(氷翠王)がそれを聞き、わずかに首をかしげる。「大事、とは?」子供たちから視線を外し、こちらに向けられる瞳は淡く微笑してその輝きを強めた。(儚さが。)と、九鬼は心の中でつぶやく。気になるような儚さが、この若い主君には付き纏っている。それでいて、常に利剣の如く鋭い光を宿すのだ。『例え一時であっても朱樺【シュカ】の指揮官が入れた者は我が家の子だ。ましてや、お前たちは朱樺家に心血を注ぎ尽くしてくれたいた。お前たち在っての朱樺家だ。・・・・・・・成人し、国に帰れることが許されれば、私は全てを捨てよう。この身も心も全てお前たちのために生きると誓う。・・・・・許せ。辛いことを言っていると分かっている・・・・・・・、だが、・・・・・今しばらく、堪えてくれ。』それは切るような真剣さと血を吐くような切実さで、この人が告げた言葉。たった五歳からの十二年間もの人質生活の中、氷翠王が自分たちの家臣たちに言った言葉だ。この言葉を氷翠王が告げたのはまだたったの十四の時だったと思う。長い間続いた朱樺家も氷翠王の祖父と父の死で滅びかけていた。その際、氷翠王はまだ四歳だった。それから氷翠王は十二年間もの間人質として、蒐【シュウ】家に送られていた。この間の朱樺家の家臣の状況は悲惨だった。すでに氷翠王の父が亡くなった今、当主は氷翠王だったが、その幼い当主すらも蒐家に奪われ、なまじ勇猛と唄われる朱樺家の武将だったばっかりに、ほぼ毎日のように戦に駆り出された。敬愛し、忠を尽くした御当主の御形見である氷翠王が成人し、再び帰参することだけを希望にし、日々多くの者が戦で死んでいった。土地に残されたのは、若い男を除く、老人や女、子供で、田畑を耕すことすら覚束無かった。その朱樺家代々の土地すらも、大半を蒐家に奪われながらも、『氷翠王様の御為。今は堪え忍ぶ時ぞ。氷翠王が御成人なさるその時こそ・・・・・・・。』と、激しい飢えと貧困、身体を酷使することに十二年間堪えてきた。皆、文字通り、血と泥にまみれながら、死に物狂いで生き、姿を見ることさえ叶わぬ氷翠王に希望を繋いできた。そんな中で与えられたのが氷翠王のこの言葉だ。会う事もできぬ中で、かなりの苦労を強いて氷翠王が送ってきた文だった。この言葉が、氷翠王の自筆のこの文がどれだけ朱樺家の家臣の心を支えたか・・・・・・。我らの心は氷翠王様に届いていた、と家中の者は皆一晩中男泣きに盛大に泣いた。これが、さらにその後強く強く、家中の者を支えてくれた。よくもここまで立派に育ってくれたと。初めて氷翠王に会ったことを思い出す。九年前だった。『氷翠王様でございまするか・・・・・・?』言いながら声音が震えた。否、声だけではなく、全身が震えていた。(・・・・・・・ようやく・・・・、ようやく・・・・・我が願いが・・・・・。)あまりの感情の高まりに、気さえ失いそうだ。相手はそれに応えず、『其は何者ぞ。』と、よく透る涼やかな声で言った。九鬼は、この子供の声、姿に、空に鳴る北国の雪の嵐のような凛冽さを感じ、(なんと御子柄の優れたることよ。)とひたひたと感じつつ。なかば祈るように、これがもし、ずっと探し求めていた御方ならばどれほどか・・・・・・・・。(どれほどか嬉しいであろうか。)と、心中で何度も請うた。『九鬼、と申しまする。』言い、面を上げる。そして、その稚児の視線を正面から受け止めた。『・・・・・・・・・。』九鬼は言葉を失った。(・・・・・・・・・なんという・・・・・・。)血の青いすじが透けて見えるような薄く、白い肌が、烏の濡れ羽のような漆黒のその中に蒼ささえ含む髪に映え、凄まじいばかりの清らかさ・・・・・・。九鬼は呆けたように稚児を見つめた。鮮やかなまつげがしっとりと潤む朱(あけ)の瞳を縁どり、白い柔肌の清やかさがこの稚児を非常な美貌に見せている。(・・・・この清やかさは一体何であろうか・・・・・。)九鬼には戦慄が芽生え始めている。『・・・・・御子の名は・・・・・・。』自然と請うような眼差しで聞いた。やがて、稚児の声が聞こえた。『氷翠王。』で、あった。現か、と自分を疑い、“もう一度”と請う。その御子は拒まず、再びその名を重ねた。その声の涼やかさは、九鬼の耳には天上の御声のように聞こえた。その時にはもう、九鬼は両膝を折り、御子の前に身を伏せてしまっている。泣いていたのかも知れない。「どうか、したか・・・・・・・?」やはり、同じく涼やかな声に過去の記憶から引き上げられる。「・・・・・・いいえ、随分とお疲れのようなので・・・・・・。もうお休みになられては。」「そうだな・・・・・・・・、皆はもう休んだか?」「いえ、まだ数人は事後処理に。」言いながら、九鬼はしまったとほぞを噛んだ。この方は臣下の誰よりも朝早くから仕事を始め、夜は皆が休むまで眠らない。これが破られたことは一日たりともない。気の荒い朱樺の武者を“鉄の結束”とまでいわしめたのは、こういう氷翠王の心があってこそのものだ。一見目立たず、簡単に見えるこれらの事は、実は何より得難く、困難なことか九鬼は知っている。そしてそれが家中の者の心にどれだけ沁み渡り、激励し、誇りに在らせたか。では、氷翠王はどうだろうか。決して氷翠王は自分の身体のことを疎かにすることは無いが、その心は果たして一人で心労を抱えていることはないだろうか。この村には氷翠王にとって臣下しかいない。自分たちは氷翠王の後ろをついて走ることはできるが、氷翠王には其れは許されない。一人走り続けなければならない。弱さや孤独は臣下の前ではさらけ出すことはできない。それでも九鬼は、氷翠王の身だけではなく、その心を、その志を守りたかった。氷翠王を守るために自分で切り落とした利き腕の部分を見る。そこには何も無かったが、あの瞬間から自分はもっと大切なものを得た事を知っていた。「九鬼。明日は獅吼【シコウ】と外に出る。」涼やかな声がそれでも柔らかく気遣うように九鬼を包む。だから大丈夫だ、とでも言うように。九鬼の考えていることなど、とうに察しているのだろう。獅吼が、捨て置けば休みもしない氷翠王のことを気遣って、息抜きだ、と村の外に何回か連れ出しているのを知っている。「だから、後のことはお前に任せるぞ。」そのどこまでも九鬼を気遣う言葉に、目が熱くなる。故に、九鬼は打てば響くような返事を返した。「はっ。」その応答に、氷翠王は輝くばかりの笑みを、向けた。
2005年11月26日
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ひんやりとした外気と共に、エントランスホールに入って来た人物を見て、柏木昂陽(かしわぎ こうよう)は驚きに目を見張った。約二週間ぶりに見る顔だ。伸びやかな身体のラインにぴったり沿ったジーンズと、目に痛いほどの白のコットンシャツを身に着けている。ラフでシンプルな格好だったが、逆にそれが本人独特の魅力を引き出しているようだった。陽の光を吸い込んだような肌に。激烈にキツイ、まなざし。大地を思うさま駆けるためにある様な伸びやかな足と、灼熱の太陽よりはるかに激烈な瞳とは裏腹な細腰に、思わず目を奪われる不埒な輩が後を絶たないのも頷ける。だが別に昂陽はそれに目を奪われたわけではない。目を奪われたのは、その人物の腕や頭、それから首にまで巻かれている包帯に、だ。顔色も少し悪く、憔悴しているように見える。(あの怪我のせいで二週間も休んでたのか?)と、エントランスに入って来たその人物と目が合った。「よう。」その視線を受け止め、昂陽は軽く片手を挙げた。「柏木。」どこかまろみのある、異国の楽器を思わせる美しい声が返された。大きな買い物袋を下げた左手から、たぶんかなり重いのだろう、一旦床に荷物を降ろして、志砂咬(しずな ぜん)は言葉を続けた。「悪い。待たせたか。」と、少し目を伏せ謝り、たかが買い物にこんなに時間が掛かると思わなかったと言い、疲れた、と咬は投げ捨てるように言う。よほど身体の調子が悪いらしい。動きも何処かぎこちないかった。身体を動かすと痛みが走るのだろう、呼吸を浅く深く、何度も繰り返している。この調子で買い物に出掛けていたらしい。「おい、大丈夫か?」目が少し熱っぽく、顔がいくぶん上気している。さすがに心配になって腕を貸した。それをなんとなく不思議そうな目で見つめ、咬は「大丈夫だ。」と言って、腕を外させた。(どういう意味だよ、その目は。)意外だ、と言わんばかりの目で見られ、さすがの昂陽も少しムッとする。それでも届けてくれと頼まれていた荷物を差し出すと、咬はありがとう、と礼を言い、受け取った。もう用は済んだが、なんとなく離れがたい。その思いが咄嗟に口を開かせたのではなかろうが、我ながら脈絡のないことを口走った。「そんなにたくさん何を買い込んだんだ?」言ってすぐに後悔したが、もう遅い。だが咬は気にした風もなく、他意なく声を返してきた。「今夜の夕飯の材料。ここのところほとんど食べてないんだ。この前まではそんなでもなかったけど動けるようになると腹が減って・・・・・。けど冷蔵庫にろくなもん入ってなかったからな。買い込んできた。」と言って咬は床に下ろしていた買い物袋を拾い上げ、昂陽に目を合わせてきた。漆黒の、星夜を思わせるその目に吸い込まれるように感じる。なぜかその目は、美術の教科書で一度しか見たことのないゴッホの“星月夜”の絵を思い出させた。あの独特のうねるような、美しいが不気味なほどの“何か”を感じさせる・・・・・・・・。熱気のような、それでも静けさに潜むような、“何か”。その瞳に以前放課後の教室で感じたような、底知れない恐怖は湧かない。昂陽はその瞳を目で追った。夢を見ているように思う。現実味がない、全く。ただの夢のように思う。ただの、夢。目を開ければそれで消える、ただの夢。(本当にそこに、居るのか?)手を伸ばし、目の前の相手の手首を掴んでみる。振り払うかと思ったが咬は何もしなかった。少し力を入れてみる。熱と、確かな脈動が伝わってきた。突然の昂陽の行動に、咬はなにも言わない。その顔に戸惑いも何も浮かべなかった。ただ少しの間の沈黙を置いて、思いがけず柔らかく、笑った。そして一言。「ガキ。」いつもの美しい声だったが、自分的に意味にかなりの問題がある。その言葉が正確に頭に回るまで、少しの時間を有した。「・・・・・・誰が、なんだって?」笑んで見せたが、たぶん目が笑ってないだろう。けれどそれを見て、咬は更に吹き出し、面白くてたまらないというようにからかい半分に言葉を続けた。「母親に見捨てられた迷子みたいな顔してたぜ、お前。」「・・・・・・そりゃどうも。」思わずぶすむくれる。それが悪かったらしい。「拗ねるなよ。」どこか恋人に掛けるような言葉を口にし、咬は苦しくてたまらないと弾ける様に笑った。ここまで豪快に笑われるといっそ小気味いい・・・・・・・わけがない。自覚が無い事ならなおさらだ。「てめえは・・・・・・・、荷物届けてやった礼がこれかよ。」掴んでいた咬の手を離し、もう帰るからなっ、と捨て台詞を吐いて踵を返す。なんかもう、泣きたいぐらい情けないが、頭を抱えるのは家に帰ってからすることにする。これ以上からかわれるのは遠慮したい。「柏木。」無視する。「柏木。」・・・・・・仕方が無く振り向いた。(・・・・・・・なんか俺、かなりこいつに弱くないか・・・・・?)とんでもなく嫌なことに今、初めて気づく。今はじめて気がついた。「・・・・・・なんだよ。」地鳴りのような低く不機嫌な声だったが、咬は声の調子を全く変えず、さらりと言った。「上がってけよ。荷物届けてくれた礼に、夕飯食わせてやるから。」返ってきた言葉に驚く。「お前が?」「他に誰が居るんだよ。」笑いを引っ込め、咬はいつもの切る様なまなざしに戻って言った。「どうする?」向けてくる目が不敵に笑っている。その言葉の通り、どうする、と。声が艶を増す。自在に色を返る声・・・・・・もちろん、意識的にやっているのだろう。(なるほど。)その声で相手を思い通りに嬲るわけだ。なら、その声で他人を慰めたり、救い上げたり・・・・・もしくは切り捨てたりもできるのか。(ふざけんなよ。)受け入れる気も無いくせに誘い込むな。分かってんのか。入り込まれてからじゃ遅いんだぜ。違うか。分かっててやってんだろ、おまえは。たちが悪い、いや、悪すぎる。お前は分かってるのか。その目・・・・・・・・。放課後、・・・・・あの時見たまなざしだった。「何が作れる。」昂陽の言葉に、咬は自然に視線を買い物袋に移し、答えた。「この中にあるもんで作れるものなら何でも。好きなの言えよ、作ってやるから。」すっ、と声の調子がいつもと同じに戻り、視線が買い物袋から昂陽に戻される。見事な間だった。それに気づかないふりをして、笑みを向けた。「へえ・・・・・・、けど、いいのか?」「ああ、むしろ助かる。一人分の量の料理作るの逆に面倒なんだよ、材料かなり余るし。それに病み上がりだからそんなに食べれないだろうしな・・・・・・、腐らせちまう。」「なら、上がらせてもらうぜ。」「じゃあ行こうぜ。」と言って咬はエレベーターの方に踵を返す。それに続こうとするが、突然振り返った咬に財布を投げて寄越された。「・・・・・・・?」何だよ、と視線を向けると、文句の付け所の無い笑みを浮かべられた。「酒、買ってきてねえんだよ。すぐ近くにスーパーがあるから、ビールかなんか買って来てくれ。」言ってさっさと咬はやってきたエレベーターに乗ってしまった。それを見送り、手の中の財布を見て思わず呟く。「・・・・・荷物届けた礼じゃなくて、単に買い忘れたもんを自分で買いに戻るのが面倒だっただけじゃないのか・・・・・・?」それに答える相手は、もちろんのことながら此処に居なかった。
2005年11月24日
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夕暮れ時。橙色に染まる空が、徐々に血の様な真赤に色を代え、大きな夕日が溶けるように潤んで沈みかける頃合い・・・・・・。高層ビル群の一角にある、マンションのエントランスホールに背の高い学生服の男子がどこか落ちつか無げに立っていた。そしてうろうろと歩き回った挙句、立ち止まって呟いた。「・・・・・・・まずい・・・。」何やってんだ。ふっと思った。引き返そうか、とも思う。だが、右腕に持った二つ分の学生鞄の重さが暗にそれは無理だと告げてくる。昨夜の事を思い出し、柏木昂陽(かしわぎ こうよう)はふと学生服のポケットに入れっぱなしの携帯を取り出し、手の中で回した。いつも通りの一日、退屈で平坦な教師の授業に、代わり映えのない同級生の他愛もない会話、家に帰ってきてからもいつもと何かが違うでもなく・・・・、そのまま一日が終わるはずだった。ちょうど、風呂を出た直後だった。濡れそぼった頭のままで鳴り続いていた携帯を掴んだ。ディスプレイに非通知の文字。髪から落ちる水滴を払って、構わず通話キーを押した。『柏木?』低く、美しい声だった。瑞々しく、張る、声。まともに口を聞いた事もない、同級生。けれどそれを一声だけでそいつだ、と分かったのは、時々授業中に当てられて英文なり古典の教材を読むそいつの声が、稀に見るほどの美しくて、独特のトーンを持っているのを覚えていたからだ。(そうじゃない。)端整な顔の同級生の姿が思い浮かぶ。息を整えた。『どうしたんだよ?お前が俺に電話かけてくるなんて、何事だよ。』『お前、俺の席の隣だったよな?』艶気さえ含んでいる声に、一瞬気をとられる。『あ?ああ・・・・。』『明日、放課後から暇か?』美しい声だ。これを聴きたいためだけに、電話を引き延ばしでもしそうだよな、本気で。『おい、聞いてんのかよ?』目を閉じて聴いてみる。『・・・・・・・・・・。』電話口でため息をつかれた。分かったよ。『聞いてる。どうした?何かあったのか?』『ああ。悪ぃけど、学校の俺の机の中の荷物、届けてくれないか?』『・・・・・家に、か?』『ああ、・・・・・できれば。頼む。』真剣に頼んでいるのが分かった。別に、明日は何もない。喉が渇く。何か、予感がした。『いいけど?』『なら、夕方、頼む。』『分かった。』『うん。ありがとう。』その妙に素直な言い方に、思わず笑ってしまった。おかしい。その後、そいつが住んでいるマンションの場所を聞いて、携帯を切った。意外に軽いそいつの荷物を片手に提げ、此処まで来たのはいいが、肝心の本人がいない。中に入るには住人にインタフォンでロックを外してもらうしかない。のに、いない。だから、このエントランスで待ちぼうけだ。・・・・・何でだよ。何でも頼まれたからといって引き受けてしまうほど、自分はお人好しでは断じてない。ましてやその相手が意識的にも無意識的にもずっと避けてきた相手なら尚更だ。志砂咬(しずな ぜん)、この美しい声の持ち主はあまり関わり合いたくない相手だった。嫌い、とか苦手とかいうのではなく。どこか違和を感じるのだ。何処にも隙を感じさせない優等生。そつなく何でもこなし、他人が思わず引くぐらいのバリバリの存在感を持つ、男・・・・・・けれど近寄らない限り、自分には毒にも薬にもならない。そう思っていた。けれど、放課後、確か明日提出の課題を取りに戻って、誰もいない教室で志砂を見つけた時・・・・・・・・・。声を掛けようと、動かした自分の視線が志砂の横顔にぶつかった時・・・・・。寒気がした。なんにもない、なにもない表情だった。怒りも悲しみも安堵も喜びも、無い、無表情。まるで息をしているのが不自然なような、・・・・その、目。人を殺す様にさえ思えた。他の誰にも覚えた事の無い、その、恐怖。・・・・・・・それから、もっと見てみたいと、思った。いつもの教室で見せる外面のような物ではなく、もっと違う、今のような表情を顔の皮を剥いて、見てみたい。ゾクリ、と喉が鳴った。自分の物ではない様なそのおぞましい感情の動きに、思わずゾッとした。それからだ。それから、ずっと避けてきた。けれど、今自分がいる場所は何処だ。近づかないと言いながら、お前は今何処にいる。あのまま近づかないはずだった。実際、昨夜志砂から電話が掛かって来なければ、二人は今までのまま、ろくに口も聞かないまま、高校を卒業しただろう。そうして時々会う同級生の話に出てくる限り、思い出しもしない相手だったはずだ。何故俺なんだ?志砂だったら荷物ぐらいいくらでも届けてくれる奴が大勢いるはずだ。何故俺を呼んだ。気づかれたのか?放課後の教室、あの時心臓から滲み出た異常な感情を、知られたのだろうか。(馬鹿かよ。)思わず笑い飛ばす。考えすぎだ。あの時、志砂はこちらに気づきもしなかった。こんな考えは、被害妄想じみている。と、その時建物の中であるのに、冷涼な風が吹いた。顔を上げると、外からエントランスホールに入ってくるすんなりと伸びやかな肢体が見えた。志砂咬だった。
2005年11月19日
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気がつくと、静まり返った夜気の底に、何故かとても穏やかな虫の音がしていた。「・・・・・・・・・・?」冷ややかな夜気の底に沈むような木の匂いと、沈丁花の香りがする。けれど目覚めたばかりの頭と眼は十分に働かず、ただ咬(ぜん)の身体と頭はのたのたと眠りと目覚めの間を惑い、時間を浪費するばかりだった。・・・・・・なのに。痛みだけは時間と共に増してきて、チリチリと疼く。どうしてか、全身が、痛い。熱くて。横たえられているシーツすら熱くて。掛けられている上布団すら重くて。身体の内奥が・・・・・・内臓すらキリキリと痛みを生んで、・・・・・・・熱くて。とても、熱くて。何も見えなくて。何も聞こえなくて。熱くて。・・・・・誰も、いなくて・・・・・。眼が、喉が、指が、唇が、吐く吐息すら熱くて、重い。このままどんどん身体の全てが熱くなって、腐り落ちるように感じた。その想いが歪んで、何かひどく冷たいものが目尻を伝って落ちた時、初めて自分が泣いていることを知った。その涙がこぼれる音が聞こえそうなほど、自分のいる“此処”は静かで、自分以外に人がいるとは思えなかった。(誰も いない。)それが何か、とても嫌なことを、・・・・・・・怖いことを思い出しそうで。指がガクガク震えた。熱さが一気に冷水をかけられたように痺れていく。冷たい痺れが唇を縛って、吐息が切れ上がる。一度味わった、身体を二つに裂かれる様な怖気をもう一度、今、再生されるような・・・・・・・その、・・・・恐怖。『嘘、だ。・・・・・・・あいつが・・死んだなんて、有り得な、い・・・・。あいつを殺せるのは俺だけだ・・・・。俺を殺せるのもあいつだけ・・・・・・・ッ!』続く言葉が息の根が止まるような慟哭に砕け散ったのを、咬は覚えている。二度とは帰らない、温かな血の通う声も、思いやりに満ちた其の腕も、咬は覚えている。絶対に失えないモノ・・・・・。それを失った痛みに、泣いて泣いて、身体中の血の全てが涙に変わるように泣いたことも覚えている。(・・・・・だっ。・・・・・・イヤ・・・・だっッ!!)『・・・元、・・・・・虎様・・・・。』喪えない。二度と、思い出したくはない。堪え切るより先に死ぬ、痛くて死ぬ。(お前が、いない。)切り刻んで捨てたはずの想いと痛みが、今、再び熱を帯びゾクリ、と身体の内を走り抜ける。けれどそこまで思い出しても、呼びたい名はちらりとも思い出すことはできない。そのことが更に痛みを倍化させる。涙は、止まらない。いっそ死んでしまいたかった。と、ふいに視界が真っ暗になる。「・・・・・・・・・っ。」急すぎる変化に咬は一瞬痛みを忘れた。が、それも本の一瞬で、咬は再び苦い記憶の底に引き戻されそうになり、恐慌に陥りそうになった。「泣かないで。・・・・・悲しい夢を見たんですか?」驚嘆するほどのタイミングの良さだった。ひたむきで咬を抱き締めてくるような、温かい声だった。その声は咬を現実に引き戻し、けれど驚き故か、怯え故か、自分でも分からない新たな心の痛みを咬に与える。そしてまた、ズルズルと引き摺られそうになる。「もう、いいから・・・・・。」泣きたくなるほど温かな声に、呼ばれる。「何も考えないで。・・・・・・ゆっくり休んで、・・・眠って。」柔らかく叱り付けるように、温かく思いやるように、声は咬を撫でる。視界が暗くなったのは、この声の主の手の平が置かれているせいだと、ようやく気づく。こんな奇跡のような思いやりは、自分は知らない。ふいに怖くなった。こんなものを知れば、後で自分は一人で立てなくなる。なし崩しに、自分を拾い上げてくれるこの手を、声を求めてしまう。しかも、この手も、声も聞き覚えがあった。ならば余計に、自分はこの腕を求めてしまうだろう。縋ってしまう。(自分を救うのは自分しかいないのに。)生半可な優しさなど、俺はいらない。そんなものは信じていない。だから近寄るものは全て退けてきた。張り巡らせる鉄条網は自身を深く傷つけるものと分かっていたが、咬はそれで満足だった。傷つけられる前に、その傷の深さを想定し、それに堪えるために敢えて自分に牙を剥いた。裏切られる前に裏切り、他の誰かに心を殺される前に自らでその心臓を引き摺り出す。哀しいほどの防衛本能は、幼い頃咬が自分で必死に築き上げた防波堤だ。それでも温かいこの声は皮膚に溶け込んで、身体の内にしみる。(こんなのは、痛みと熱のせいで弱気になってるだけだ・・・・・・。・・・・・・本気で求めてるわけじゃない。)未だどかされない手の平をよけようと、頭を振る。少し視界が戻り、手の平がずれるとそれを拒み、咬は自分の手で目を覆った。「・・・・・もういい・・・・・、やめてくれ・・・・・・・・みじめで、たまらない・・・・・・・。」一度与えられたぬくもりは、必ずこの胸を焼き、その温かさを思い出させる。“それ”を与えられたら、野生の獣でも、甘ったれた子供のようにそれをどこかで求め、心の中で夢見るだろう。そして、死ぬのだ、・・・・・否、殺される。厳しすぎる生に。そして後悔し、憎むだろう。温かみにほだされ、弱くなった自分を。強く立てなければ、生き残ることすらできない。(少なくとも、俺は・・・・。)「そうやって強がって・・・・・。」声と共に、咬が自分で目を隠していた手を、温かい手にどけられる。夕闇の藍色の瞳と咬の黒瞳の視線がかち合った。その瞬間咬は凍りつく。「あなたはほんの少し求めれば癒される傷があるということさえも知らない。」静かな声がかすかに熱を孕んで真上から落ちてくる。「何が欲しいですか。何でも与えてあげる。・・・・・・人のぬくもり、ですか。」静かな声に、内臓まで探られる気さえする。知らず、顔に血が上がった。「っ・・・・・・何もっ・・・・・いらねえ!・・・・・どけっ。」「嘘をつかないで。」図星を突く声が、痛い。(俺は、馬鹿だ。)キリキリと唇を噛む。目でギリリ、と睨む。見間違えようもない、あいつだった。ここ一ヶ月間、毎晩毎晩見続けた夢の・・・・・男だ。けれどそれより以前から、咬はこの男を知っていた。この眼だ。この眼が俺を殺す。「強がらないで。俺に求めてください。あなたの強がりも辛さも孤独も忘れさせてあげる。全てなし崩しにして求めさせてあげる。あなたの全てを拾い上げる。」息もできない真率な、神を愛する殉教者のようなひたむきな、殺気すら秘める声に、言葉に、灼かれる。なし崩しに、と言った通りに壊されてしまいそうになる。「・・・・・どうか、許して・・・・・。」正面から抱きしめられる。その肩が、かすかに震えていた・・・・・・・泣いているのかもしれない。許して、というのはその言葉の前に告げた行為を許容して受け入れろ、ということなのか・・・・・・、それとも・・・・・別の何かなのか。「会いたかった・・・・・・。」簡潔なその言葉に、どれだけ多くの意味がこめられているのか、咬は何故か分かっていた。「あなたを、愛している。」その男のひたむきな言葉を感じ取ろうとするように、咬はただ、一筋に男を見つめ返す。言葉は、ない。が、静かに咬が声を向けた。「おまえか・・・・・・・。」まるで噛み締めるようにつぶやき、ふいに柔らかく笑みを浮かべる。突然のことに驚き、男は目を丸くした。それに視線を返しながら、咬は続けた。「小さい頃、よく誰かの面影を母さんとか周囲の人に重ねて、けどちっとも似てなくて癇癪起こして泣いてた。“誰か”なんて顔もはっきり分からなくて、何者かも分からないくせに、“泣かないで”って言うあんたの声とあんたのその表情だけ覚えてたんだ。・・・・・・・よく、寝る前とか外に出かけたとき、探してた。でやっぱり、見つからなくて一日中泣いてた。」懐かしむように目を少し細め、咬は笑う。本当に懐かしいのだろう、表情がさっきより柔らかかった。「あれはおまえだ。その表情だけ、覚えてる、今も。」(・・・・・・・この人は・・・・・・。)その言葉が自分にどれだけ影響をおよぼすか、分かっていない。有家(ありえ)は咬を見返しながら、心中で言葉を返した。今のこの体勢も、おそらくは分かっていないだろう。有家はそう思いながら片手で咬の髪を梳いた。「・・・・・・・・・・・。」幼い頃、咬の母が生きていた幸せだった記憶に、有家の残影があることが分かったからか、よほどその頃は幸福だったのだろう、あの時に有家を知っていたとゆうことが今の咬をほっとさせるぐらいには。先ほど向けられていた、野生の獣のような警戒心は向けられない。(あなたは変わっていない。)一度心を許した者にはこちらが心配するぐらい無防備になるところも。それとも、咬が今も覚えていると言った自分の表情が、彼を安心させているのだろうか。“あなたを、愛している。”と言った時の表情が咬の指している表情なら、あなたは此れほどまでに俺の前で無防備をさらけ出すべきではない。「・・・・・・・・・。」髪を梳かれるのが心地良いのだろう、咬は息をつき、目を細めた。緊張し、強張っていた身体から、力が抜かれるのを感じる。(あなたは俺の前でこんなに無防備になるべきではない・・・・・・。)たまらなかった。髪を梳いていた手を止め、その手で咬の顎を上向かせる。静かに、唇を重ねる。永く、深く、口づけた。
2005年11月04日
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「妾はそなたを呼んだ覚えは、無いのだがなあ・・・・・。」生ぬるい恫喝を孕んだ声は、それでも艶やかに美しく・・・・・・・。白炎(びゃくえん)は、弄ぶ調子でその紅い唇の上で、呪詛を紡ぐ。明らかな憎悪とどす黒い妬心を、白炎は有家(ありえ)に向けながらも、その視線だけは咬(ぜん)から外される事は、無い。まるで、救いを求めて祈る殉教者のように。其れ故に白炎の憎愛の情は異様さを増して見える。「・・・・・・・・。」それを眼に捉え、有家はぎりり、と白炎だけに視線を引き絞った。こころなしか咬を抱く腕に力がこもるのを、有家は自覚する・・・・・・。応えぬ有家に白炎はほんの少し目を細め、何を思ったのか、コロコロと鈴の鳴る様な声で笑った。そして、はんなりと白い指を、有家に向かって伸ばす。其の手を動かし、やんわりと眼の前で握りこんで見せた。有家の身体を握り潰す様に。「そのむごい姿、・・・・・・・妾の血界を破って来たのかえ?」この路地には誰も入って来れないように、白炎は自らの血で結界を張り巡らせてあった。<喚魂者>である白炎の結界は強く、何者であろうと、容易には破る事はできない。だが有家は此処に、居る。どこをどうしたらそんな風になるのか、と聞きたいほど服は乱れ、其れにはおびただしい血が付いていた。其の血は全て、有家自身の血であろう。有家は自身の身体で、白炎の結界を破る代償を払ったのだ。髪型も崩れ、額に掛かり落ちる男の前髪はけれど、真性の殺気を生み出す獣のような有家の眼を隠し切れていない。だが、其の片方の眼が焦点が合っていない事に白炎は気づいていた。其れだけではなく、有家の左の肩がぐずぐずに潰れている事も。(あれでは、左腕はほとんど動かないであろうに・・・・・。)それでも其の腕で、有家は咬を抱き上げているのだ。不可能、どころではない。正気の沙汰でもない。(そうまでして、妾の手の内から元虎様を・・・・咬様を助け出したかったか。)一瞬息を詰めて、白炎は眼を見張る。睨み据える有家の視線の真率さに。其の腕の中で意識を手放している“唯一つ”の人の姿に。心臓を割って滲み出る、苦さ。それを、厭というほど白炎は味わう。こんな筈ではなかった。こんな筈ではなかったのだっ!!(今生でもまた・・・・、今また再び妾の邪魔をするか!!有家っ!!)「そうまでして、元虎様の御為に此処まで参ったのか?これは・・・・・さすがの忠臣・・・・・・元虎様の懐刀とまで云われただけはある・・・。」白炎は激情を瞳のみに表し、有家の血まみれの姿を指して、やんわりと口唇を笑ませ、褒めて見せる。そうして指を取って返し、「じゃが、今生のそなたの主は・・・・・・妾ではなかったか。」と、有家に眼を向ける。「そなたの今の身体、妾が与えたが忘れたか。」白炎の其の瞳に真性の憎悪が宿るのを、有家は冷たく底光りする眼で一瞬見やる。「そうかもしれませんね。」冷静に、と言うには怖すぎて、憎しみに、と言うには獣の本性のような殺気に満ち満ちている声が、有家から静かに発せられた。其の声に、白炎と咬の伯父である男は思わず背筋が凍りつく。それを気にもせず、有家はけれど、と続けた。「其の事で貴女に縛られるのなら、今直ぐにでもお返ししますよ。」何とはなしに告げられた暴言に、白炎ではなく、咬の伯父の方が驚愕した。其の驚愕のまま、伯父は得体の知れない眼の前の男に、掠れる声で叫んでいた。「貴様・・・・自分でっ、自分で何を申しておるか判っているのか!?」「其の身体を失えば貴様は・・・・・・・っ!!!」分けの判らぬ懼れに、伯父は駆られ空転する言葉をそれでも振りかざす。其れを見、初めて有家は表情を動かした。唇を歪めて、笑う。「“分からないのか?”可哀想な男だ。」何かを暗示させる言葉を有家は紡ぐ。そして束の間、有家は腕の中の咬に視線を落とした。「自分の命より、大切な人だ。」囁く様に、祈る様に、そして白炎と伯父に告げるようにしながらその実、咬だけに捧げられる言葉だ。「けれどこの人を守る為にある自分のこの身体も、俺にとっては大事だ。だが、この程度の想いではこの人には、届かない。」(この強い人は振り向かない・・・・・けれどこの人はいつも自分の後ろから抱いてくれる手を求めている。)助けを、求めている。其の時に手を差し伸べられないなら、自分に生きている意味など無いのだ。今が其の時だ。其の為には自分が死んでも構わない、否、生き続けなければならない。けれどこの与えられた身体が、この人を守る枷になるのなら、こんな物はいらない。それならいっそ、この身体を殺し、他の人間から奪ってしまえばいい。この街の人達を皆殺しにしても良いほど、愛している。この人が、男でも女でも、植物でも機械だったとしてもどうでもいい。“この人”を愛している。この人に対して以外、良心は働かない。この人を傍で守る為なら、俺は何千、何万という人の身体を奪うだろう。自分は紛れも無く狂人だ。心中で密かに自嘲する。故に白炎を裏切ることなど、自分は何とも思わない。必要があれば、この人自身でさえも俺は・・・・・・・。「・・・・・・清、綱・・・・・。」掠れた、けれど比較を絶する声がすぐ近くで有家の名を呼び、呪縛する。咬だった。身体の激痛に膿んだ熱っぽい声だ。(・・・・・・手当てをしなければ。)と、其の声に有家は思考を引き上げられる。「・・・・・・・・・・。」未だ絶句している伯父を無視し、有家は咬を抱き上げこの路地裏から出ようと踵を返す。そのまま歩き出し、その場から段々と遠ざかるが、ついに白炎から引き止められることは無かった。強く吹いた一陣の風が、まだ止まらぬ有家と咬の血を吹き攫い、二つの血を交じらせる。強く香る血の匂いが、何かを暗示していた・・・・・・・・。
2005年11月03日
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