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穏やかな暮色が、その雑多で無機質な路地を緩やかに包み込んでいく・・・・。それだけで、このビルとビルの間に忘れ去られた薄汚く細い路地は何かの絵画のような温かさと敬虔さを纏う。それを何処か不思議に思い、青年はコンクリートの壁に凭れたまま思わず微笑した。この優しい暮色が、青年の一番大切な人に何処か似ていたのだ。青年の其の瞳も今の時刻の夕闇と同じ色をしていた。其の空気を乱すように何かが唸った。赤茶の髪の少年である。(予想より早いな・・・・。)苦笑したくなったのを慌てて抑え、少年の短気に心の中で感心する。「来たのはいいけどどうすんだよ、これから。」凶暴なまでに不機嫌な声が少年から低く発せられた。けれど狼が唸るような其の声に、連れである青年は平然と応えた。「さあ?」・・・・・此れほど人の神経を逆撫でする返答を、少年は他から貰った事はない。連れの声は余裕を含む穏やかな声であったが、この青年の本質が声と同様でないのは、返答の仕方からも分かる様に、少年は厭になるほど知っていた。無論、青年の返答に少年は血管が半分千切れかけた。「てめぇ・・・・・やる気はあんのかよっ!?山蛾(さんが)っ。」連れがこの呼び方を嫌うのを知っての罵倒だったが、青年はけろりとした微笑でそれに応える。「もちろん、あるさ。」其の小憎たらしいほど爽やかな笑みに少年は辺りかまわず地団駄を踏みたくなった。「なら早く元虎を探せっ!」もとより、<界のほとり>に来るのは例え命令とはいえ、かなり厭なのだ。しかも連れが山蛾・・・・・有家清綱(ありえ きよつな)となると、半ば以上もう此れは迷惑でしかない。「刺桐(しどう)達がついているんだ。咬(ぜん)を探しても仕方ない、ルカ。」心底機嫌の悪い少年の名を呼び、清綱は目元に苦笑を浮かべた。「・・・・・なら、どうするんだ?今の元虎から“蒐一族”の念の気配がしたんだろ。接触してるにしろ、してないにしろ、傍にいねぇと・・・・・。」と、突如少年は言葉半ばで考え込むように沈黙した。「・・・・・・ルカ?」ルカの顔から不機嫌な色が消え、妙に真剣な顔になった。そのまま真っ直ぐに目を向けられる。清綱は黙って言葉を待った。「お前、恨んでねぇのか?」驚くほどキツく低く声が呟く。「お前、あんな魂だけの身体にされて恨んでねぇのかよ。」声は責める色を帯びる。「元虎の話しなくなっただろ。恨んでるから、全部分かってやってるのか?」「ルカ。」「じゃなかったらこんな事しねぇだろ?元虎がわざわざ<界のほとり>に転生したのはこっちに二度と戻りたくないからじゃないのかよ・・・。現にお前、会いに行かないじゃねぇか。」「今だって元虎が“蒐”の奴らに先に捕まったら殺されるんだぜ。傍で守ってやらないと、力も使えない弱くなってる奴なんざ、たやすく捕まる。」清綱は言葉を遮った。「彼は特別だ。」静かに強い、けれど優しい慈しむ様な声にルカは目を見張った。「弱くない。」一ヶ月間、夢で接触してきたのだ・・・・・あの人の強さなど自分が一番知っている。彼は生前と変わらず、一人立ち続けている。孤独を抱き、誰にも縋る事のない彼の立ち姿は悲しいほど変わっていない。抱き締めたかった。本当は会って其の熱を確かめたかった。彼は確かに生きているのだと。けれどそれは許されていない。『そなたの其の情念が<あの御方>を殺したのじゃ・・・・。』誰に言われなくとも分かっている。清綱は自嘲気味に笑った。自分は失くしてはならないものを喪ったのだ。「清綱・・・・。」声を掛けかけてルカは驚きに固まった。「おい・・・・。」ルカに促がされ清綱は其の視線の先を追う。黒い上下に薄手のコートを羽織った少年がこの路地に入って来たところだった。華奢ではないが肉の薄い身体の少年が迷わずに路地の奥へと歩みを進めてくる。夕闇のせいで此方は暗く、幸い見えていないようだ。少年の足がふ、と止められる。ゆっくりと、少し戸惑ったように少年の顔が上げられ、此方のほうを見据えた。沈みかけた夕日が其の最後の残光を撒き散らし、少年の姿を闇に刻み付けるように愛おしそうに照らした。整った容貌が分かった。気高い、では生ぬるい不屈の瞳が此方に向けられている。目が、合った。声が静かに震えた。「咬・・・・。」少年の目が微かに柔らかく笑った気がした。少年が歩を進める。と、此方に辿り着く前に少年は進行方向を変え、路地の奥に向かった。「そっちは・・・・!」(いけない・・・・っ!)清綱は何も考えずに駆け出し、少年を追った。
2005年06月28日
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己の身さえ焦がす様に、まるで憎しみさえ其の声に籠めている様に、お前は俺を呼ぶ。まるで敬虔な殉教者の様に。一片の偽りも疑心も持たないお前の言葉は俺の醜い心を抉り出し、同時に俺をひどく怯えさせる。『元虎様。』そうしてまだ俺を呼ぶのか。俺はもう死んでいるのに。今生きているこの魂は、既に俺のものではないのに。これ以上俺に何を請うんだ。俺は全てを捨てたのに。自分が自分で在ることすら捨てたというのに。これ以上俺に何を請うんだ。<お前は・・・・・・・・。>死してなお、眠ることすら許してくれないのか・・・・・。『元虎様。』裏切り者。殺してやる。この魂に触れることはお前は二度とない。お前が唯一欲しがるものなど与えてやらない。馬鹿が。お前は愚かだ。愚かすぎてもう、云うことがない・・・・・・・。(お前が与えるべきであったのは、俺ではない。)俺は何度も機会を与えた。此れがお前が選んだものだ。・・・・・・狂い、死ねばいい。俺を呼ぶ代償に失うものを、お前は判っている。判っていてやっている。諦めればすぐに手に入る幸福を、お前は知っている。其れを知ることができるほどお前は利口で、そして其れを承知で其れに見向きもしないほどお前は愚かだ。『元虎様。』もう・・・・、いい。もう・・・・、判った。それほど請うならば。来い。殺してやる。それほど狂わせたいのなら。来ればいい。(・・・・・・・・。)呼べ。
2005年06月26日
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厭な朝だ。まだ午前10時であるのに、咬(ぜん)はもう今日一日を終えてしまった様に疲れ切っていた。一週間ぶりに見る校舎の、割と重い扉を押し外へ出る。そしてずっと呑み込んでいた重い息を吐き出した。春の柔らかい陽光が降り注いでくる。其れすら、今の咬には毒だった。重度の貧血からまだ回復していない身には陽光はクラクラとした眩暈しか与えない。何処からか鳥の囀りまで聞こえて、爽やかさを演出していたが咬の気分はとても爽やかとは云えなかった。学校から家までの帰路で初めて刺桐(しどう)達と出会い、非常な出血を起こしてぶっ倒れたのが一週間と三日前。あれから四日間眠り続け、覚醒したのが六日前。目覚めると何故か自分の寝室に弾城(だんじょう)が居て、訳も分からず甲斐甲斐しい看病を受けて三日間。(この間のことは意識が朦朧としていてあまり記憶がない。)ようやく立てるようになったのが、三日前。それでも歩くのは至難の技で、自然ベッドに張り付かされていた。だがあれだけ眠っているのにダルさはとれず、顔は青白く、目の下には薄っすらとクマさえある。まるで病人だ、と思ったところで咬は自分に突っ込んだ。否、自分は病人であった。何も考えることもできず、弾城達が何故か自分の家に入り浸りになっていることを不思議に思うこともなく・・・・・(ようやく気づいたのは昨夜だった)。世間から離されて眠ってばかりいた咬を現実に引き戻したのが、昨夜の電話だった。連絡も入れず、一週間以上も学校を休んでいたのでさすがに気になったらしい担任からの電話だった。本調子ではない身体を引き摺って、わざわざ休日である学校に足を運ぶ羽目になったのはこのせいである。昨夜の電話の様子で、あのまま放って置けば担任がマンションにまで押し掛けて来そうだったし、何より碌に物も考えられない頭でも、あの監視者の様な刺桐の視線を向けられているのが分かり、これ以上あれを浴びるのに疲れ切っていたのが要因だった。元よりそばに他人がいるだけで苦痛なのだ。この一週間以上、自分だけの空間が無かった咬にとって其れは拷問にも等しかった。学校に行く少しの間だけでも良い、独りになりたかったのだ。けれど其のささやかな願いに従った行動も咬は直ぐに後悔することになった。教師からの話など、碌な事がない。担任がやけに熱心に話し出したのは休んでいた一週間のことではなく、大学への進学のことだった。電話で言っていた“大事な話”とは、この事だったのだ。何度も大学へは行かないと言った筈なのに、である。そもそも肉親も頼るべき縁者もいない咬にとってこの高校に通えていることすら奇跡なのだ。亡くなった母が咬にお金を残してくれてはいたが、父も居ない、親族に頼ることもできない、しかも病弱な母が貯めたものなのであまり多くは無かった。それに病弱だった母が自分のために貯めてくれていた、と思うと其れでは意味がないと分かっていても使うことはできなかった。だから自分でどうにかしなくてはならず、実際生活費と学費をどうにかするだけで精一杯で、大学に行くほどの余裕などあるはずも無かった。ここ一週間生死の境を彷徨っておきながら、咬が心配した事と言えば(自分の身のことではなく)、無断で何日も休んでしまったバイトが首になっているだろう事と、太腿と右腕の部分の布地が見事に裂かれた血染めの学生服のことだ。あと一年も着ない学生服を買うのも馬鹿らしかった。いっそ学校を辞めてしまおうかと思う始末だった。其の考えがまだ消えていないから、未だ私服だった。休日とはいえ、学校に来るのに私服はどうかとは思ったが、まさか夏の制服で来る訳にも行かず・・・・・(春と言っても、まだ肌寒く近頃は特に冬に逆戻りしたかの様に寒いのだ)。仕方なく目立たぬ様に下は黒いものを履き、上は見えない様に薄手のコートを羽織った。病院の帰りだと言うと担任は特に何も言わなかった。それで、彼此一時間も担任と問答することになった。よほど咬を偏差値の高い大学に行かせたいらしかった。何度も惜しい、を連発する。そんなことを言われても、行けないものは行けない。生徒のことを思っているようで其の実、教師としての見栄とエゴしか考えていない言葉を聞くのが厭で、仕舞いには自分で持ち出したくも無い“家庭の事情”を自ら話す事で担任の口を止めた。途端に同情的な悲痛な目で訴えてくる担任を、咬は見詰める事しかできなかった。内心舌打ちを抑え、ウンザリする。可哀想だとでも言いたいのか。そんなのは貴方のただの偏見だ。咬は自分を不幸だと思ったことは一度も無い。いつも咬をイラつかせるのは自分の境遇ではなく、こういった貧相な想像力しか持たぬ周囲の無遠慮な他人だった。・・・・・・・・何もかもが余計な御世話だ。其の無責任な言葉で俺を救ってくれるとでも言うのか。そんな実の無い言葉と態度で。そんなものは偽善者ぶって自分が安心したいだけだ。じんじんし始めた頭を押さえ、ため息をつく。気分転換のつもりが、身体の重みがさらに増していた。此の侭、家に帰るのも気が引けた。家には刺桐か弾城かのどちらかがまだ居るだろう。前者には今の精神状態のまま会いたくなかった。冷涼な風が咬の頬をくすぐる・・・・・・。ふ、と久しぶりに図書館でも行こうか、と思い至った。
2005年06月22日
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夜・・・・。高い柵に挟まれた門が幾つもの篝火に照らされている。木で造られたこの館は、その炎に彩られ、凄まじいばかりの剛健さを其の身に誇っていた。庭園にも灯火が入れられ、夢幻の火が闇一杯の花を艶めかしく浮かび上がらせている。其の庭園を見渡す離れに、女は居た。白い着物を着た美しい女だ・・・・・・白炎(びゃくえん)である。白炎はきつく目を閉じ、結跏趺坐(けっかふざ)している。其の紅い唇からは歌の様な奇妙な旋律が紡がれていた。其れは此の世のものとも思えぬほど美しく、其の場に控えていた数人の臣下達も思わず役目も忘れて彼女の声に陶然となった。・・・・・・・が。「・・・・・・・・っ!!」突如、嵐の様な風が白炎の身の内から起こり、柱を抉り、灯火の全てを吹き消し薙ぎ払った。其の風は白炎さえも・・・・・・と言うより、白炎のみ、目掛けている様だった。臣下が庇おうとしたが、白炎の身の内から湧き上がってくるものを如何し様も無かった。「白炎様っ!」宙に、血の花が散った。白炎の首筋と腕に血の筋が走っている。「白炎様ああっ!!」臣下が慌てて寄って来ようとするのを、白炎は鋭く制した。「大事ないっ!掠っただけじゃ。」風は既に止んでいる。「手当てを・・・・・・。」「よい。それより誰か山蛾(さんが)を呼んで参れ。」「しかし・・・・・・。」「よいと申すに・・・・。・・・・山蛾、山蛾は居らぬか!」痛みを振り絞り声を上げると、暫らくして再び部屋に灯火が燈され、一人の男が現れた。「御呼びになられましたか。」傷に柔らかく溶け込む様に心地よい声が、炎も美しい庭園から響いた。「・・・・・山蛾。・・・他の者は皆下がりや。」其の言葉を聴きながら、山蛾は庭から部屋に上がってくる。其の目に白炎が映ると、山蛾は間を置かず、下がろうとしている臣下の一人を呼び止めた。「待て。」そして足早に白炎に近づき、おもむろに其の前に膝をついた。「・・・・・怪我を・・。」振り返り、臣下を咎めはせずに告げた。「手当てを。」臣下が其れに従おうとするのに、白炎は手を上げて其れを留め、「よい、早く下がれ。この者に話が有るのじゃ。」と、言ったが、山蛾は静かに遮った。「ならば私が手当てをします。御話は、しながら聞きましょう。」其れよりは何も言わせず、山蛾は臣下に御湯と包帯を持ってくるよう告げた。「其の新しい身体の方はどうじゃ。」白炎の傷口から静かに目を上げて、山蛾は応える。「この通り、何の不自由も有りませぬ。感謝し申しております。」実体が無く、魂だけで存在していた山蛾に白炎は五日程前、身体を与えたのだ。そうしてやらねば、元虎・・・・・志砂咬(しずな ぜん)を“此方側”に引き込むのが難しい、ということが理由だった。けれど、こうして静かに感謝の意を告げてくる声音は温かく、白炎をどこか安堵させた。静かだった。灯火の炎が揺れる音しか聞こえない。山蛾も白炎の手当てに集中して、言葉を発することは無かった。白炎は静かに山蛾を見遣った。(この、男は・・・・・・。)白炎の傷口に向けている瞳は、夕暮れを少し越した空の藍色をしている。其の深い、妙に美しい色合いの瞳は柔らかい光を宿している。長身の端整な顔立ちの男だ。けれど、其の夕闇の優しい瞳の方に目はいく。この瞳がこの者の魂を表しているからだろう・・・・・優しく温かな色をしている・・・・・。(この目に、我が君も・・・・・・元虎様も癒されたのであろうか・・・・。)「山蛾・・・・・・いや、今となっては有家清綱(ありえ きよつな)、と呼んだ方が良い、か・・・・・・。」独り言のような白炎の言葉に、有家清綱、と呼ばれた山蛾は応えなかった。返事を求められていない事が判ったからだ。目も上げずに、手当てを続ける。其の慣れた手つきを見ながら、白炎は尋ねた。「手馴れているのう・・・・・・、元虎様もこうしてよく手当てを受けていたのか?先程の手当てはいらぬと申しておった妾の扱い・・・・・めっぽう上手かったぞ。同じ様に手を焼かされていたのだろう?」白炎のぼんやりとした、何かを思い出しているような声に清綱は微笑した。「御明察、恐れ入る。」「・・・・・さもあろうなあ・・。」白炎も其れに笑みを交えながら応えた。其れを見、清綱は静かに聞いた。「この傷、咬様に負わされましたか。」一瞬白炎は肩を揺らしたが、其れだけだった。「接触を拒まれたのじゃ、大した事ではない。」話を打ち切ろうとする白炎を見つめる。白炎は其れを見返し、確認のための言葉を紡いだ。「そなたには、<界のほとり>へ行ってもらう・・・。」
2005年06月21日
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不吉な名に踏み出した足が凍りつく。白炎(びゃくえん)、と言わなかったか・・・・・・。(嘘だ・・・・・・。)強い拒絶は疑心という鬼を呼び覚ます。頭の芯が冷えていくのを感じる。(そんなはず、ない・・・・・・・・。)たかが夢だ。・・・・・・・・朝目を覚ますと枕元が血でべっとり濡れていることがある。そんなことは知らない。・・・・・・・・朝気づくと首筋や胸元に軽い疼きと赤い痕が残っている。ありえ、ないっ。・・・・・・・・感触も、覚えている。夢には香りも鮮やかな痛みも快楽もある。・・・・・・・・はっきりと、覚えている。やめっ・・・・・・・!!・・・・・・・・夢だと思うから、お前は正気でいられる。夢だと思うからっ、俺は正気でいられるっッ!!疑心の声と、咬(ぜん)の精神の叫びが重なる。ギリギリだった。ほぼ水面張力の危うさの中にあったのだ。自分が自分ではない・・・・・・その感覚が常にあった。夢を見る度にそれは強くなっていく・・・・・。自分の意思で身体が動かない、・・・・・・見えて聞こえて、皮膚は思わず悲鳴を上げるほどの生々しさを伝えるのに。『あんた、俺が邪魔だろう・・・・・刺桐(しどう)。』『思い出されたのかっ、元虎ぎみ!』『違う、俺が入り込んだときに逆に意識を読んだんだ。そうだろう?』(あれは俺じゃない。)名も知らない男を咬は余裕を交えて呼んだ。口があまりにも自然に言葉を紡いだから最初気づけなかった。他の誰かが言ったのかと思った。けれど声も言葉への感情の込め方も咬自身のものだった。「咬」と咬の交感はごく自然に違和感なく行われた。「君に、話がある。咬。」『貴公に話がある、元虎殿。』踏み出した足が凍った咬の隙を、まるで今の今まで狙っていたとばかりに背後から言葉の刃が襲う。刺桐だった、・・・・・・振り返らずとも判る。次いでカチッと奇妙な音がする。(あのクセ、か。)咬ではない「咬」はおかしな冷静さの中で自覚する。武器を持っていない時の刺桐の悪癖だ。無意識に手が武器を探して、爪をかち合わせる。その回数は対峙する相手への警戒と不信の高さに比例する。それは一見弱点のように見えるが、その実、これは明らかな威嚇と示威行為なのだ・・・・・・この賢い獣の。「咬」はそれを知っている。だから本人にも知れず、そっと艶めかしく微笑った。「咬」は振り返りはせず、そのゾッとするほど美しい微笑を声のみに乗せた。春の夜風がその音色を運ぶ。「“私”が恐ろしいか。」咬の背後にいる刺桐たちは思わず身じろいだ。内臓をゆっくり剥いていかれるような、人の劣情を引きずり出していくような“魔性”の声だった・・・・・・・声だけで欲情すらしそうだ。明らかに先程までの咬の声ではない。刺桐は一瞬でカラカラに渇いた喉の奥から声を振り絞った。「元虎、殿か・・・・・?」その言葉に咬は我に返った。「・・・・・・あっ・・。」咄嗟に指で己の唇に触れる・・・・・・そしてそのまま凍りつく。震える身体をなだめる術を咬は知らなかった。「あ・・・・ああぁ・・・・い、・・・やだッ・・・・・・・・やああぁ・・・・。」怯えに、助けを求めるように喘ぐ。気が狂いそうだった。だから、甘く凝った闇が己の傍らでとぐろを巻いているのに、咬は気付けなかった。「違、う・・・・俺じゃな・・・・・・俺は知らな、いっ・・・・。」息が上がる、血流がザアッと音を立てて巡る、頭に錐を刺したような激痛が間断なく襲う。息ができない。瞳には何も映らない。『元虎様・・・・・。』女の淫靡な呼び声が聞こえた。やめ・・・・・て、くれ・・・・・・・“俺”じゃなくても、いいくせに・・・・・。(呼ばないで。)「どう、して・・・・・。」堪え切れず地面に膝をついたことも咬は自分で気づかなかった。驚いたのは刺桐たちの方だった。急にくず折れる様にうずくまった咬に慌てて駆け寄る。弾城(だんじょう)が咬を抱き起こすと、ムッと濃い血の匂いが広がった。(何っ!?)何が起こったのかと青ざめながらも弾城は、咬の身体をざっと調べる。すると咬の太腿の部分の服の布地がぐずぐずに血濡れていた。「元虎様っ!」切羽詰った声で呼ぶが咬は応えない。けれど苦しそうに喘鳴している。と、ブツッという異様な音がした。同時に咬の右腕が激しく震える。その腕から間をおかず、見る見る血がしみてくる。「元虎・・・・元虎さまッ。」焦りが弾城の身を焼いた。元虎の死の際が思い出された。血の気を失った唇に、生前の覇気の欠片すら見当たらない、・・・・けれど今まで見たどの顔より安らかな表情・・・・・、かすかに微笑んですら見えたその顔は菩薩の様に見えた。顎から首筋、肩までの滑らかなラインは無惨にもおびただしい血が散っていた。それが泣くに泣けなかった彼の最初で最後の精神の涙に見えてならなかった。ちょうど今と同じように。(冗談ではないッ。)そう、冗談ではなかった。あの時の想いだけで自分は何回も死ねた。それでも今生きているのは・・・・。(貴方がここに在るからだ。)二度と失うことなどさせない。血を吸って重くなった黒い学生服を弾城は引き裂いた。夜の闇のせいでよく見えないのに構わず、手で直接患部を確かめる。自分の気を咬の身体に直に叩き込むつもりだった・・・・・・が、弾城の手は途中で困惑を表し、止まった。「どうした。」ただならぬ様子に刺桐が隣に膝をつき、尋ねた。「・・・・・傷がない。」「傷が?」それ以上何も聞かず刺桐は咬の腕に触れ、確かめるように血の出ている部分を撫でた。「・・・・・確かに、ないな。」確かめてみると、太腿の方にも傷はなかった。けれど血は皮膚から湧き出るように流れ出ている。止まる気配はない。他に血が流れている箇所はなかったが、すでに半身が血に沈む様になっている。その上にこってりとした闇が凝っていた。咬の身体に異様な念が絡みついている。「血が・・・・、止まらんぞッ。」(どういうことだっ、この波動は・・・・・・白炎殿か!!)どうする、と刺桐に視線をやる。刺桐はこちらを見て軽く肩をすくめ、そして苦々しくため息をついた。白炎は直接の主ではないが、一応刺桐と弾城の主筋に当たる。そのため、白炎が相手では下手に逆らえない分動きにくい。(だが・・・・・・。)自分の腕の中の人物を見る。咬は熱にうかされているように喘いでいる。その指が痛みの他に縋るものを求め、わずかに宙を掻いた。それを躊躇わずに握ってやりながら、弾城は咬の左腕に視線を走らせる。先程咬に呼応した数珠が接触を拒んでいるはずだ。(上手く順応していたから余人は近づけまいと思ったが・・・・・甘かったか。)覚悟は決まったとばかりに動く弾城を見やり、同じ事に思い至ったのだろう刺桐が咬の左腕を取った。そして次の瞬間、鋭く目を細める。刺桐の片目だけ青い眼が、抜き差しならない笑みを深めた。「弾城、仏影が五体死んでいるぞ。」馬鹿な、と思わず言葉にし、咬の腕の数珠を見る。すると仏の御姿を彫り込んだ数珠玉の大方半分がひびが入り白濁していた。(まさかっ・・・・!)弾かれたように咬を見やる。苦しげに喘鳴し、瞳はほとんど閉じるように伏せられている。はっと胸を突かれるほど痛々しいその姿に、放心した虚ろな瞳だけがどこか異様な光を宿している・・・・・そう思えてならなかった。(確かめねば・・・。)「咬様・・・・・・。」元虎ではなく、今際の名を呼び、咬の手を一層強く握った。・・・・・と、それに応えるように、伏せられ、まつげに隠れていた瞳が、ゆるゆると上げられた。その瞳は黄金の美しい光炎に染まっていた。(やはりっ・・・・・!!)<喚魂者>としての力が目覚めかけている。いくら白炎でも、十二もの仏の眷属の宿った数珠玉を殺すなど不可能だ。それを成すには、これらの眷属と血の誓約(うけい)を結んだ者が内側から喰らうしかない。つまり咬しかいない。白炎の接触を自力で拒んでいるのだろう、自らを守る力すらも拒絶して、今にも食い殺さんばかりに容赦なく責めたてている。区別がついていないのだと、と弾城は青くなった。ならば、このおびただしい出血は咬自身のせいだ。敵味方の区別もつかず、力のコントロールもできぬまま、自らの精神を守るために、自らの身を焼いているのだ。気付いて然るべきだった、精神的にまいっていない筈がなかったのだ。自分の情けなさに臍を噛む。同時に咬の凄まじい拒絶に肝をつぶした。血は止まらない、どころかどんどん出血の激しさを増している気がした。まるでその血で全てが洗い流せる、とでも言うように。堪らず、咬の身体を掴んで揺さぶった。「しっかりなされよッ、咬様っっ!!」しかし咬の瞳は弾城の眼を捉えない。ただ虚ろに宙を見つめるだけだった。「貴方はまたッ、また死ぬおつもりか!白炎殿の元でここ一ヶ月貴方に接触していたのは、有家 清綱(ありえ きよつな)ですぞっ。同じ人間に二度もその御命くれてやるおつもりなのかっ!!」血を吐く思いで叱責する。もはや自分でも何を言っているのか分かっていなかった。「・・・あり・・・・、え・・・?」掠れた声で咬が呟いた。(反応した。)弾城は思わず眼を見張った。「ありえ・・・・・きよ、つな・・・。」咬の瞳の黄金の炎光が徐々に消えていく。逆にその瞳に凛々しい意志の光が戻って来た。「違う。あいつが俺を殺したんじゃない・・・・俺が・・・俺が追いつめたから・・・・。」無理矢理喉から声を出し、強い瞳で咬が弾城を見据える・・・・・が、徐々に続ける声に疲れと苦痛が宿り、途中で言葉は途切れていった。そしてそのまま、咬は疲れ果てたように気を失ってしまった。当たり前だ、あれだけ力を使い、出血もおびただしい。これで生きている方が謎だった。後ほんの少し遅ければ、実際死んでいただろう。その咬を繋ぎ止めたのは、元虎を殺したはずの男の名だった。憎んでいるのか・・・・、いやそんな感じではなかった。弾城は密かに驚きに堪えていた。たかが名一つであの状態の咬を引きとどめたのだ・・・・・・まるでその言葉こそが楔だと言うように・・・・・。「・・・・・・・・・。」咬を見る。存外、幼い顔で眠っている。(己を殺した敵ではないのか・・・・?)咬の血は完全に止まっている・・・・・・・・・。
2005年06月18日
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すいません。更新がかなり遅れています・・・・。まだ一章も終わっていないのにっ!!・・・・す、すいません。構想は大体決まっているのですが・・・・。今は舞台が現代の日本ですが、もう少し話が進めば世界観がガラリと変わります。人物の方もまだ半分も出できていないので、話はこれから本格的に動き出します。あまり話も進んでおらず、世界観も詳しく伝わっていないと思います。拙い文章で申し訳ありませんが、なるべく早く続きを書き上げるように頑張りますので・・・・。それでも読んでいただければ、幸いです。今週中には更新する予定です。
2005年06月15日
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(何だ・・・・・?)どくん、と大きく心臓が脈打つのを咬(ぜん)は感じた。奇妙な二人組みの男が坂の上からこちらを、咬をじっと見据えていた。奇妙な、というのは姿形のことではない。男たちの容姿は特に目を引くものではなかった。それでも奇妙な、と感じるのは男たちの持つ雰囲気だ。上手く言えないが、無理に表すと、“堂々としすぎている”というところか。二人とも他を圧する気配を放っている。何というか・・・・・、血生臭くて、生々しい眼をしているのだ。戦に赴く兵士の様な、独特の荒んだ殺気を放つ一方で、けれど不思議な余裕と覇気をも持つ。そんなに長く生きているわけでもないが、こんな眼は今まで見たことがなかった。と、ふいに男の一人がこちらに歩を進めてきた。手を伸ばせば届くところまで近づいて来、咬の真正面で立ち止まった。驚きよりも不審の方が先にたつ、それを隠しもせず目に不快を表し、咬は男を睨み付ける様に見上げた。すると男は本気で楽しげに声を上げて笑った。「・・・・・・・・・。」反して咬は醒めた眼に戻る。あの時と場所を選ばぬ狂夢のせいで、死にそうなほど疲れているのだ。わけのわからぬ男の、しかも面識もない奴らなど相手にしてやる気も、義務もこちらにはない。男をよけ、坂を上ろうと横をすり抜けると突然後ろから腕を掴まれた。「っ、いいかげんにっ・・・・・・!」その腕を振り払おうと振り返ると、男の顔が間近にあった。咬が坂を上がったせいで目と眼が同位置になる。思わず息を詰めた。夕闇で今まで判らなかったが男の片眼が青い。その眼に引き込まれる様に咬は無意識に、今まで統御していた意識の深層を手放した。男の意識がそれに無理に肉薄する。其の行為は咬に耐え難いほどの屈服感と可笑しなほどの陶然感をもたらした。其れは表皮以外の組織から発生する悪性の肉腫の様に咬を蝕んだ。このまま其れに身をまかせれば、全てから奪われ楽になれる気がした。疲れきった身体と精神には堪え切れぬ誘惑だった。男の意識はもう一息のところまで、激しく迫ってくる。もう少しで堕ちる、という時だった。この一ヶ月で嫌になるほど突きつけられた、炎かと見まごうほど激しくひたむきな声が咬の頭の中をかき乱した。脳を直接手でかき回される様な衝撃の嵐に目が眩む。けれど頭ははっきりとクリアになった。男の意識を意志の力で力ずくで追い出す。そのままの勢いで咬は男の胸倉を掴み、地面に引き倒した。男の上に覆いかぶさる様にして咬は憎悪に近い感情を叩きつけた。「・・・・・どいつ、も・・・こいつも、人の中に勝手に・・・・、入り込みやがってっ。」意識内に手加減もなく無理やり入り込まれ、ほんの一瞬で体力が激減した。其の事実を表す青白い顔で、咬は抑え切れぬ激情を口にした。其れは自分を手放そうとした己の脆弱さへも向けた怒りだった。「今度・・・・・同じことをして、みろ・・・・・俺が、・・・・殺す。」咬の指がじりりとコンクリートで削れた。咬の血で男の肩口が汚れたが、咬は気づいていないようだった。見ると、咬の唇にも血がこびりついていた。唇を噛み切ったらしい。本気だった。真性の殺気が男に向けられる。一切のまがい物が混じらぬ純粋な殺気が眼に宿っている。其の眼は二十も過ぎていない者がもっていい眼ではなかった。夕闇を切り裂いて現れた凍った月がその咬の姿を蒼白く照らしている。蒼白い顔にこれ以上はない血の紅が彩られた咬の姿は凄惨なほどに美しく、扇情的だった。怒りと呼ぶには生ぬるい激情に震える身体を男から離し、乱れた息を堪えるように整えると咬は静かに立ち上がった。引き倒した男には見向きもせず、教科書の入った鞄を拾い上げると咬は坂を上るために歩を進めた。その咬を、今までずっと沈黙を守っていたもう一人の男が見下ろしていた。其の静かな瞳が何か告げているような気がし、咬は足を止め、真率な目で男を見つめ返した。青い眼の男の方とは違い、穏やかな温かい目をしている。燃えるような褐色の肌に、服を押しのける隆起した胸、驚くほど逞しい巨躯をしている男だった。「夢を・・・・・。」其の身体に合った低い声が親愛の情を含んで言葉を紡ぐ。「恐ろしい夢を、見ているのではござりませぬか、咬様。」驚くほど古典的なしゃべり方も、なぜか名を知っていることも、咬はどうしてか不思議に思わなかった。暗黙の呼吸が自分とこの者の間にはあった。怖いほど呼吸が合うのだ。言葉を紡がなくともこの男が自分の意を介することを咬は何故か知っていた。懐かしさすら覚えた。「これを。」男が何かを差し出してくる。咬は迷わず受け取った、・・・・・この男からはあの青い眼の男に感じた不審感も警戒も湧かなかった。「・・・・・これは?」見ると数珠だった。月光を映して輝く数珠は美しく、其の数珠玉の一つ一つにはそれぞれ違う仏の姿が彫られていた。「これが御身をお守りいたします。これを身につけていれば悪夢も遠ざかりましょう。」男の真摯なまなざしを咬はじっと受け止める。紡ぐべき言葉は咬の内には見つからなかった。代わりに自分の左腕に数珠をはめる。すると数珠玉の一つがしめやかに金の光炎を放った。やがて其の光炎は咬の皮膚に溶け込み、馥郁とした香りが広がった。充溢した気が自分の内に流れ込むような温かさに、咬は思わず満足の息をもらした。其れを見、男の目は敬愛の念を深め、温かく微笑する。「・・・・弾城(だんじょう)、と申します。」其の言葉の意味がすぐには分からず、困惑する。けれど、弾城という言葉の響きが男にあまりにもしっくりきたので、やがて分かった。「お前の名前か・・・・?」囁く様に言ったのに、聞こえたらしい・・・・・男ははっきりと頷いて、それから嬉しそうに笑った。咬は咄嗟に応えが出なかった。弾城が自分にここまで向けてくる感情の意味が分からないのだ。そして、性質が悪いことに受けた瞬間はパズルのピースが嵌まる様に理解できるのだが、次の瞬間には其の感覚は宙に浮いてしまっている。(分からない。)この言葉をここ最近で何回、心中思っただろう。半ば居心地が悪くなった。其の空気を読んだように、突然背後で声が上がった。「やれやれ・・・・、少しは手加減してくれてもいいだろうに。」飄々とした声に振り向くと、青い眼の男がすぐ近くまで歩み寄ってきていた。コンクリートでしたたか打った頭を手でおさえながら、咬に笑いかける。「容赦がないな。」「貴殿のは自業自得であろう。」咬が醒めた目を男に再び向けると、咬を庇う様に弾城は男に向かって言った。それに男は肩をすくめて返し、咬に向き直った。「悪いな、君を試させてもらった。・・・・・本人だという保証が欲しかったんでね。」「保証?」初めて咬が男の言葉に反応を返した。「そうだ。」「嘘つけ。本気だったくせに。」錐のように鋭く言葉を切り返し、咬はまなじりが裂けるように目を細めた。「あんた、俺が邪魔だろう・・・・刺桐(しどう)。」そして咬は露骨に笑った。他の二人は揃って咬の言葉に目を剥く。けれど其の驚嘆の理由は二人とも違っている。「思い出されたのかっ、元虎ぎみ!」弾城の言葉をさえぎり、刺桐は咬を見た。「違う、俺が入り込んだときに逆に意識を読んだんだ。そうだろう?」咬は答えない。反して弾城が弾かれた様に咬を見た。(記憶も戻ってない、<喚魂者>としての力も戻っていないこの状態からそこまでできたというのかっ!?)驚きを通り越して、空恐ろしくすらあった。咬はそれらを無視し、時計を見た。もう、七時を過ぎている。「待つんだ。」去ろうとした咬を刺桐は引き止めた。聞く気はない、と咬は踵を返す。その耳に不吉な言葉が投げかけられる。「白炎(びゃくえん)、知っているだろう?」思わず立ち止まる。それを逃すまい、と声が続けられた。「君に、話がある。咬。」
2005年06月04日
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夕暮れの茜色が勾配のゆるい坂道を染め上げている。夕暮れ時に静かに潜む夜の底から、盛りを過ぎてなお香る沈丁花の甘い香りが、どこからか漂っていた。その自分の通う高校から家に帰るまでにある坂道を、咬(ぜん)は一人で上っていた。坂の頂上が近いところで、小波の音が聞こえ、潮の香りを含む冷涼な風が咬の足を止めさせた。誰かに呼ばれたような心地がし、咬は自分が登ってきた坂道をゆっくりと振り返った。「・・・・・・・・・・。」あまりの美しさに息を呑む。坂を見下ろす先には、夕日に煌めく海原が広がっていた。空の茜と哀しいほどの深い海の碧が溶けて交じり合い、波に合わせて揺らめいている。夕焼けに映える、美しい海を見ることしばし・・・・・・・。「・・・知らなかったな・・・・・・。」身体の内奥に籠もる熱を逃がすように咬は唇から声を絞り出した。もう何年もこの街に住んでいるというのに、夕暮れ時のここの景色がこれだけ美しいものとは・・・・・・・。自分では見ているつもりでも、この目は何も見ていなかったらしい。咬は苦い笑みを浮かべ、細く息を吐いた。(・・・・それだけ余裕がない、ということか。)自らの未熟を見せ付けられたようで、情けなくなった。誰一人として弱みを見せるまいと気を張っていたが、ここ最近は特にそうなっていることに咬は自分で気づいていた。(あの、夢が・・・・・・。)そのことを考えた途端、心臓が誰かに掴み取られるような圧迫感がし、冷や汗が流れる。それを押し切るように咬はキツく目を閉じた。白炎(びゃくえん)という女に人肉を喰らわされる夢を見てから、一週間がたった。あれから毎日、内容の違うあの狂夢を見る。それからは、絶対だと思っていた咬の日常はやけに空虚で色のないものになりつつあった。自分という皮がやけに希薄に感じられる。見せかけだけで、実がないような・・・・・・。この手も、この指もこの爪も、この皮膚も、肉も毛細血管の一つ一つまで、“志砂 咬(しずな ぜん)”という人間のものなのに、この身体も、・・・・・・精神さえ借り物のような気がするのだ。代わりに、狂夢が見せる蜜のような甘い闇と濃厚な血の香りが咬に現実と生を感じさせ、欲をもたらす。(・・・・・自分が自分でなくなりそうで。)(もう一度寝入ってしまえばそのまま戻れなくなりそうで。)(眠れないのだ、恐怖で。)訪れる睡魔との闘いは咬の身体と精神を疲労させ、磨耗していく。眠れなくて、眠れなくて、ようやく網膜が朝の光を映すと、それを嘲笑うかのように、昼間・・・・・・・これが代わりだ、とばかりに、起きたまま白昼夢を見るようになった。今では現実と夢の区別さえつきかねる。良将はそんな咬の様子を見るに見かねたのだろう、ずっと咬のマンションに泊り込んでくれていたが、つい先日『大学はどうした。』と追い出した。二歳年上のこの幼馴染は咬のこととなると、大学どころか家族までも笑って突き放し、見向きもしなくなる。飄々としていつも遠くから見ているだけのあの男は、けれど咬が声にしない悲鳴を聞き逃すことはない。そしていつも咬を助けようと無償でこちらに手を伸ばす。其の手はいつも一番辛い時に差し出され、だから思わず其の手に掴まりたくなる。けれど結局、いつも咬の延ばした手は良将の手に触れる前に凍りつく。空恐ろしくて。良将が、ではなく、自分の甘さと狡さが。一度其の手に縋ったら、一度其の楽さと味を知ってしまったら、自分はもう手放すどころか、一人で立てなくなる。それは死ぬことより怖かった、そしてあの狂夢より。だから今度もこれ以上関わられる前に有刺鉄線を引いた。唯一の助けの手を振り払うことで、痛みと負う傷はかなり深くなることは経験上知っていた。けれどそうでないと駄目だ、そうでなければならない。「『元虎、様・・・・・。』」突如、何の前触れもなく、妖しく淫らな女の声が頭の中に響いた。(また、か。)と、ほとんど諦めににも似た想いが浮かんだが、反して例の狂夢は現れなかった。それともすでに取り込まれていたのだろうか。やはり、現実と夢の境界の区別がつかない。それでも正気で在れるのは何故だろう、と妙なことを咬は不思議に思う。幼い頃にもこんな事があった、と暮色に染まる海を見つめながら思い返した。血と肉と、湯気溢るる臓腑と、歓喜に叫ぶ狂気と。およそ幼子が見るには程遠い其の狂夢を毎夜、何度も何度も見た。咬は毎夜、狂気の只中にあった。夢の中で、心は幼子の咬のものだったが、身体は自分のものではなく成人した誰かのものだった。生きたまま、両手足の指を切断された。体中の肉と骨がグズグズにつぶされ、血ではない体液が流れ出た。それでも、切り刻まれても、焼けた火箸を押し付けられても、何度死に絶えても、すぐに息を吹き返した。咬の身体を責め苛むのは、死人だった。其の中には蛆のたかった首のない鎧武者もいたし、溺死したと思われる、水を吸って膨張し、皮膚がドロドロの着物の女もいた。其の死人らに咬は何度も殺され、其の腕の中で生き返り、そして、何度も陵辱された。幼い頭では何がなんだか判らず、けれどあってはならない痛みと感覚に半狂乱になって抵抗した。死人の目を指で抉り、押さえつけられながらも首を絞め・・・・・・・・・、けれど死人達の腐れ落ちた皮膚には、ただ咬の指は沈み込むばかりで、死人達は鼻につく腐臭を咬の上で撒き散らしながら力は一切緩まなかった。そしてそうしながら、おかしなことに死人らは咬に請うのだ。『助けて・・・・・助けテクださィ、元虎様。』『思い、出シテくださリマセェェェェ、元虎様あああアアアアアッ!』『元虎殿ォォ・・・・・っ。』『思ィ出ィィィいいいいいいいいいい・・・・!!!!!』にごり腐った目に涙さえ流しながら怨念をぶつけられる。それに咬は瞠目し、血を吐くように言葉を放った。どす黒い憎悪が一気に湧いた。助けてほしいのはこちらのほうだった。敬語に、敬称さえ咬につけて呼び、其の目には畏怖さえ浮かんでいるというのに、このやりようはいったい何なのだ。(自分が助かりたいだけか。己さえ良ければ俺に何をしてもいいとぬかすかっ!なれば、己が死ね!!)何度も咬を犯し殺しながらそう請う姿は異様で、理解などできなかった。そうして永劫にも似た時の後に、目が覚める。其の夢の後は、現実に戻ってきても必ず偏頭痛と微熱の土産つきだった。それは段々エスカレートし、仕舞いには痙攣を起こすようになって、死に掛けた。其の数日後に母が亡くなり、それから今までは其の狂夢を見ることはなかったが・・・・・・・・・。今見ている夢はしだいに当時の狂夢と色を同じくしていっている。けれど咬が気になっているのは、ここ一ヶ月ほど見ていた男の夢の方だ。今でも、狂夢の合間に、まるで其の侵食をくい止めるように入り込んでくるときがある。現にあの夢を見た其の日一日は狂夢を見ることはなかった。(・・・何が言いたいんだ、・・・・・何がしたい?)抱いてくる腕は信じ難いほど熱を持ち、咬を全てから守ろうとするように緊迫し、周囲に殺気すら孕む。けれど熱を通して咬に向ける感情は一筋で、哀しすぎるほど優しい。「・・・・・・っ。」ふと冷たい風が吹き、思わず身体を震わせた。かなり長い間考え込んでいたらしい、夕焼けの茜にだいぶ夜の藍が染み込んでいた。もう少し見ていたい気がしたが、さすがに少し肌寒い。帰ろうとし、元の方向を振り仰ぐ。と、何故か、ぞくり、と奇妙な違和感がした。目を凝らすと、いつの間にいたのか、狭い坂の途中妙な二人組みがいた。夜風が不穏さを孕んで散る。身体の奥が警鐘を打ち鳴らすのを感じた。この出会いが後に咬の運命を大きく左右することになる。
2005年06月01日
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