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サザンのライブへ行った。2003年夏のツアー最終日の今日のコンサートの模様は横浜国際競技場からWOWOWで全国に生中継されるという。週間天気予報ではこの日大雨の予想だったが運良く、雲の切れ目から青空を臨める程度に天気は回復した。電車を乗り継いで新横浜駅を目指した。池袋を起点としたときの横浜はかなり遠く感じる。真夏の秘宝館でしか売られていない赤いTシャツを着て出かけることにした。渋谷から横浜に近づくにつれ、サザンのコンサートTシャツを着た人は増えていったが、オレと同じ赤いTシャツを着た者には1人も出会わなかった。しかしコンサートに向かう人の中には、もっと派手なお揃いの服を着たグループや、フェイスペインティングをした女などがいたりして、オレの赤い人魚の絵のTシャツは、集団の中にあえなく埋没してしまった。開演は午後5時半だった。座席は東側2階6列目。ステージは南側に設置されていて、向かって左側からちょうど斜め45度の方向を向いて演奏を聴くことになる。周りの客はほとんどがなんらかのサザンTシャツを着ていた。いよいよもってオレの赤い人魚は地味どころかむしろみすぼらしくさえ見えてきた。5時半の開演直後から、ステージの後ろに備え付けられた大型のスクリーンには往年のヒット曲のPVが映し出されていて、サザン25年の軌跡を象徴するような選曲は観客を大いに喜ばせていた。その証拠にスタンドの2階席や1階席ではウェーブが何度も起こっていた。客層は30代から40代が圧倒的に多く、20代は全体の2割だった。10代にいたっては皆無といってよく、あとは家族連れが幼い子どもを連れてきているケースがわずかにいる程度だった。日が沈みかけ辺りが暗くなりはじめた午後6時、W杯のファンファーレとともにメンバーがステージに現われた。桑田佳祐が現われたとき歓声は最高潮に達した。やがて演奏が始まった。サッカー競技場に収容された7万人もの観客は一斉に揺れだしたが、オレは聴いたことのない曲が連続して演奏されたため、揺れることが出来ずにいた。しばらく取り残されたように、ただじっと演奏を聴いていた。サザンのチケットはそのほとんどがファンクラブ会員によって取得され、一般経路での入手は極めて困難だといわれている。開演前に立ち寄ったビアレストランでも、「茅ヶ崎のライブは何万も払っていった」という隣の客の声も聞いた。サザンのライブには何度も足を運び、盛り上がり方も熟練しているような客の中で、これといった盛り上がり所を知らない我々は、なんとなく所在のないような感じだった。オープニングの3曲が終わり、桑田佳祐によるMCが始まった。アリーナと1階スタンドと2階スタンドの3つに客席を分割し、パーティション毎に「げんきですかー」のようなエールを送って、部分的に盛り上げながら全体を盛り上げていくといった煽動が行われた。そして25周年によせた彼のメッセージは、我々サザンオールスターズを25年応援し続けてくれてありがとうといったようなファンを労う暖かい言葉だった。デビュー当時の曲を中心に編集されたメドレーの演奏が始まった。スクリーンには、曲目とともに発表された年代も表示されていて、そのほとんどが1978年とか1980年とかの曲だった。サザンがデビューした1978年といえばまだオレがヨダレをたらしてウーとかアーとかいっている頃だった。感慨深かった。表示される曲名がわからなくても、流れてくるメロディーには全て聴き覚えがあった。どこかで聴いたことのある曲ばかりだったのだ。メロディーとともに昔の記憶も蘇ってきたりした。我々は子どものころから無意識のうちにサザンの曲に慣れ親しんできたのかもしれなかった。サザンの曲は日本人のスタンダードだとこのとき改めて思った。メンバー紹介が終わった次の曲からコンサートの最後の曲まで、ほどんど息をつくひまもないといっていいほどの疾走感に溢れたステージングが繰り広げられた。ハードな演奏と、きらびやかな照明や映像は、横浜国際競技場に集まった7万人の観衆に一体感とか高揚感のような快感を押し付けて止まることはなかった。ステージの圧力に反発しようと観客も気が狂ったように踊りだしたりしていて、オレは最高のライブ感を味わったといえる。ボディスペシャル2のところではオレも思わず、「Oh!Yeah!」と叫んでしまったし、勝手にシンドバッドでは、「ラララーララララララー」の大合唱に参加した。最初こそ少し気後れしてはいたものの、最終的にそんなことは全く気にならないどころか、圧倒的な一体感の中にいることで恍惚としてきて、気持ちよくなった。それほど多くのコンサートを見てきたわけではないが、これは間違いなく国内では最高レベルのショーといえるだろう。チケットが入手困難な理由がわかったような気がする。これほどのショーが毎年見られるのなら、年会費を払ってファンクラブに入会してもいいかもしれない。多めに手配したチケットを、きわめて良心的な価格でさばけば、みんなが幸せになるに違いない。
2003.08.31
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スエツグ選手が世界陸上男子200㍍で3位に入着しメダルを獲った。夜中に目覚しをセットして起きてスエツグ選手を応援したし、メダルが決定した瞬間は非常に感動的だった。短距離走でのメダル獲得は日本人初の快挙ということらしい。とてもすばらしいことだと思う。翌朝のニュースは全て、スエツグ選手の走りを称える映像から始まっていた。日本中が彼の走りに注目し感動したし、全ての日本人がまるで自分のことのように喜んでいた。オレもその中の一人である。確かにスエツグ選手は、日本に初のメダルをもたらした。世界選手権男子200㍍の銅メダルは日本人の手に渡り、日本国民は総動員で今、大喜びしている。しかしこのメダルは、日本人が獲ったものではない。スエツグという、個人の選手が獲ったものなのだ。陸上の短距離種目でメダルを獲得するためには、才能と努力と練習が欠かせない。日本人に、走る才能があると勘違いしてはいけない。日本人が、努力したからむくわれたのではない。日本人全員で、練習を重ねてきたのではない。才能があるのはスエツグ選手ただ一人だし、努力し、練習を重ねてきたのは、日本人ではなく、スエツグ選手だ。スエツグ選手が200㍍を走りきってゴールし、着順が決定するまでの間オレは複雑な気持ちでテレビを見ていた。どうにか3着に入っていてくれ、というような安直なナショナリズムと、もがいてた割にカッコよすぎるんじゃねえの、という嫉妬を含んだインディビジュアリズムが秤にかけられている感じだった。そしてオレにとっては、同じ日本人としてスエツグ選手の快挙を素直に喜ぶということよりも、スエツグ選手への嫉妬という気持ちのほうが、重要だという結論に達した。オレが彼と対等になるためにはオレは何をしたらいいのかとか、オレの才能は果たして彼にたちうちできるのだろうかとか、努力やトレーニングはどういったプランで行えばいいのかとか、そんなことを考えた30の夏。
2003.08.30
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8月がもう終わろうとしている。例年より日照時間が極端に短い8月として騒がれていたわりにはそれほど涼しいとは思わなかったし、海やプールへ行かないから冷夏の影響は特に感じなかった。今年も残りあと、4ヶ月である。2002年つまり去年の12月からこの楽天日記を書き始めた。「日記」の本質は、日常の「記録」だと思っている。出来事やそのとき思ったことなどを書き記しておくことが、記録だ。書き始めた当初、なんとなく1年ぐらい続けばいいな、と思っていた。しかし「記録」という地道な作業を1年も継続させるのことは非常に困難だ。日記を書き始めて8ヶ月とか9ヶ月とか経つが、これだけの期間、継続して書き続けられたのは、この楽天日記というシステムに、記録のほかにも、誰かに伝えることと、誰かの反応を受け取れるという機能が備わっていたからだとも思う。あと3ヶ月とか4ヶ月ぐらいは、続けられそうな気はしているから、当初の「1年」という目標は達成しそうだ。1年を目標にしていたから、1年でやめるということも当初から考えていた。12月から始めたから、12月でやめるのが本当は正しいのかもしれないが、師走でなにかと忙しそうだから、終了は、11月末日にしようと思う。面倒になったり嫌になったりしたからやめようと思ったわけでは全然ない。最初から終了時期は設定していたわけだけれども、なぜ期間や時期などを決めていたかというと、それは仕事に納期が設定されるのによく似ていて、例えば家を建築するにしてもクルマを製造するにしても納期は必ずあって、その日までに必ず、「完成」させなければならない。サイトを一つの作品として見立てオレは、開設する前に完成予想図をイメージした。サイトは、完成に限りなく近づいてきていると思っている。おそらく完成形は予想図とは全く違うけれども、それも納得済みである。ともあれゴールラインを自分で意識するために、結了日を明示してみた。「リバース」は、2003年11月末日をもって、結了します。
2003.08.29
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昨日から今日にかけて、自転車をめぐるトラブルが立て続けに2件発生した。1件目は昨日、つまり水曜の夜の会社から家へ帰る途中のことだった。江戸川橋から目白通りへ入るいつものコースで帰宅していた。最近、プライマリーバイクとしてよく使っているのはロードタイプの自転車だ。マウンテンタイプに乗りなれていたから、その軽い車体と高速用のギア比が織りなす快適さや疾走感のすばらしさを改めて感じている。ブリーフケースを搭載できるようにと、2kgほどの重量があるリアキャリアを装着した。車体重量は10kgから12kgになり重くなったはずだが、走りへの影響はほとんど感じない。おっと話がそれた。2車線の目白通りの左側のレーンは路駐で閉ざされているためクルマの通行は極めて困難だ。しかしクルマが通行しないため、自転車にとっては非常に走りやすくなっていることも確かである。3分の2を路駐で閉ざされたわずかな隙間を、自転車やオートバイが、クルマの渋滞を尻目にすり抜けてゆく。目白駅を過ぎ、山手通りにさしかかる200メートル手前のところをオレは悠然と走っていた。とそのとき、後方から甲高いトーンのクラクションがけたたましく鳴った。クラクションは「パパパパパ」と小刻みに連射されていて、オレはその音にたいして理不尽な悪意や暴力性を感じた。ブレーキをかけて自転車を路上に停めてスタンドを立てた。オートバイの進行を完全に塞いでから自転車を降りてオートバイに詰め寄ってこういった。「なにならしてんだよ、あ?」大きいサイズのスクーターのようなオートバイに乗った青年は金色のネックレスを翻しサングラスの中からオレを睨んで冷静に、「は?だってここ車道だぜ?」といった。「チャリンコは車道走ることになってんの。」この若いオートバイ乗りに交通ルールを説明しなければならないと思うとうんざりした。しかし若者は煮え切らない様子で、「は?誰が決めたわけ、いつからそうなってるわけ?」と自分の考えを揺るがそうとはしなかった。「そんなもん知らねえよ、そう決まってるんだよ、教科書読め勉強しろ」「ちょっとじゃあおまわりさんに聞きにいこうよ、それでチャリンコが車道走っていってことになったら、あやまるからさ。」若者は交番にオレを誘導しようとした。非常に面倒だった。なぜこの若者のためにオレの時間が使われなければならないのか全く理解できなかった。しかしそうする以外に、このトラブルは収束しそうにもなかった。交番へ行ったが警官はいなかった。若者はヘルメットを脱ぎ坊主頭をさらけ出し、備え付けの直通電話でパトカー無線を呼び出した。「あーあのさ、ちゃりんこって、車道走っていいことになってるわけ?ダメなんでしょ?は?いいの?でもあぶねえじゃん、おう、おう、」坊主頭の若者は勝手に電話を切った。結論は出ていてもよさそうだったが、パトカーがこちらへ向かってくるという。我々は2人でしばらく待つことになった。「だいたいさ、あぶねえだろうよ」「あぶねえじゃねえだろうよ、オレは飛び出したか?急に針路変更したか?ただまっすぐ走ってただけだろうよ、おまえがいってんのはあぶねえじゃなくて、邪魔ってことだろうよ」「ああ邪魔だよ、轢いたらこっちのせいにされるからな」「邪魔なら避けて通れ、クラクション鳴らされると、ものすごくむかつくんだけど」「あっそ、お前とは話しになんね、帰るぞ、いいか、帰るぞ」「帰る前にさ、チャリンコが車道走ってもいいってことになってたら、あやまったりしてくれるわけ?」「おおいーよ、あやまってやるよ」そういった話をしている最中にようやく警官がやってきた。若者は警官に向かって、「あのさ、ちゃりんこって車道走っていいわけ?な、この人がさ、車道走ってて、危ないからクラクション鳴らしたら怒っちゃってさ」「いいんだよ自転車は車道走って」警官は言った。若者はなおも食い下がろうとしたが、若者に有利な証言は警官の口からは一つも出てこなかった。やがて全ての話が終わった。若者の口からは謝罪の言葉はなかったが、そんなものは必要なかった。ここで謝ってもらったところで、何の生産性もないからだ。オレも、なにもならないことをしたものだと思った。虚しさだけが残った。そして今日、客先から戻る途中の水道橋から飯田橋へ外堀通り。後ろから、パトカーが迫ってきた。「自転車は歩道走りなさーい」スピーカーフォンで一方的に告げられたオレは、自転車が歩道を走らなければならない理不尽さと、体制側の高圧的な姿勢に憤りを感じた。それに昨日、車道を走っていいというお墨付きを警官から得ることで、若者に対する虚しい勝利を手にしていたオレは、全てを翻されたような気持ちになった。過ぎ去ろうとするパトカーに追いつき、助手席側の窓を叩いて停車を命じた。パトカーは路上に停車した。そして助手席から、高圧的な警官が出てきた。「どういうことになってるわけ?ここ自転車走っちゃいけないわけ?」「歩道に書いてあるでしょ、自転車用のマークが。わざわざこっちを走ってくださいって書いてるのはどういう意味かわかる?交通量の多い道路を、自転車が走ったら危ないからでしょう」「でも車道走っていいんだよね?自転車通行禁止のマークないよね?」「そういうことを言ってるんじゃなくてね、ここを自転車が走ったらあぶない、っていってるわけ?ちゃんと歩道にも、自転車用のレーンがあるでしょ?そこを走ってくださいよ、っていってるの」「走りなさい、っていってたよね?そういう言い方されるとね、むかつくわけよ、わかる?」オレと警官との話は全くかみ合わず、泥仕合の様相を呈してきたところで運転席側から初老の警官が降りてきた。「まあそんなにむかつかないでくださいよ、こちらを走ってくださいってお願いしてるわけですから」潮時のようだった。オレは引き上げることにした。確かにクルマ側から見た場合、自転車が車道にいると邪魔だし、行動が予測つかない面もあり危険だから余計に神経を使う。それはわかっている。とはいえ、チャリンコ側から見たクルマは非常に邪魔だし暴力的だし恐怖の対象でもある。お互いの言い分は平行線をたどり、いつまでも妥協点が見つかることはない。
2003.08.28
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甲子園大会準々決勝、埼玉県代表聖望学園対島根県代表江ノ川高校の対戦は、息の詰まる投手戦の末、江ノ川高校が辛勝した。mimiの出身校である聖望学園はベスト8にて敗退。優勝の夢ははかなくも崩れ去り、球児たちの夏が終わった。1回戦シードの聖望は2回戦3回戦と勝ち進んでいた。母校が勝利するたびにmimiはメールでその喜びを伝えてきた。ところがというか当然というべきか、聖望が負けたとたん、mimiからのメールが途絶えたのだった。オレは母校の優勝を信じて疑わないmimiと、ある賭けをしていた。「聖望が優勝しなかったらデートしてくれ」それがオレの、大当たりの条件だった。mimiはオレが出した条件を呑む代わりに、優勝した場合の景品として、デジカメを要求してきた。デジカメによる出費は微妙に痛烈だったが、「mimiとデートできるかもしれない権利」の代償として、負けた場合にはきちんと支払うことを覚悟した。この時点で、オレとmimiとの契約は成立したのだった。オレがこの楽天日記を書くようになったのは2002年の12月からだが、当初からの友人以外で、初めて掲示板に書き込みを残していってくれたのがmimiだった。オレは嬉しくなってしまい何の断りもなしに日記リンクにmimiのサイトを登録した。mimiが持つ独特のにぎやかさと周囲の空気を完全に無視したような狂った自己アピールのスタイルは、我々を大いに楽しませてくれたし、フランスか誰かの誘いによって登場するようになった我々の基盤であるともいえる2ちゃんねる自転車板でも彼女は、絶大な人気を誇るようになっていった。一方、仲間でもありオレの大切な友人でもあるカラコとこすりつけ最高が大阪で一緒に暮らすことになった。非常にめでたいことなのでオレは、2人を祝福するために大阪へ駆けつけたいという思いを伝えた。その日付は9月6日に設定され、関西辺りに住むメンバーを中心にささやかな宴が繰り広げられることになった。関東あたりからはオレと副主将が駆けつける予定になっていた。甲子園での賭けに負けたmimiは、オレからの催促のメールに返信するといったカタチでアクセスしてきた。どうやらこの負け分を、チャラにして欲しいということを伝えたがっているようだった。つまりオレとはデートしたくないということだった。デートしたくない相手に、賭けに勝ったからとはいえ無理矢理強要するようなデリカシーのない男ではなかったから、オレはすんなりと引き下がった。オレの対応があまりにも淡白すぎたのか、今度はmimiは、いきなり約束を反故にするのは本意ではない、というようなスタンスに切り替わった。なあなあデートしようぜ?エー考えてみるもしかするとmimiはそういったやり取りを楽しみたかったのかもしれなかったが、オレはどちらかというと、結論を先送りには出来ないタイプだった。そういった流れの話の中で、今般のオレの大阪行きの話が浮上した。ネット上の「mimi」というキャラクターは、カラコもこすりつけもフランスも知っているし、共通な話題は豊富にあるだろうことが予想された。送られてくるケータイの写真などでその容姿は認識できていたとしても、まだ一度も会ったことはなく、常々会ってみたいとは思っていたことは確かだった。・甲子園の賭けでmimiが負けたこと。・大阪の友人たちと会う機会があるということ。・オレがmimiに会ってみたいと思っていること。・mimiも我々に会いたいと思っていること。それらの要素が今回、偶然重なり、オレはmimiに、大阪行きを勧めた。普段態度の大きいmimiは一転し、不安そうな口調になった。チャットでも散々説得を繰り返していたが、mimiはなおも煮え切らない態度を示していた。「電話していい?」そのメッセージをオレが確認した1分後、ケータイが鳴った。そういえばmimiの声を聞くのは初めてかもしれなかった。mimiは非常にリラックスした話し方をした。オレはというと酔っ払っていて、ほとんど何を話したかは憶えていない。ただ、不安がるmimiを必死になだめていたような気もするし、あるいは酔いにまかせて口説こうとしていたかもしれない。いずれにしてもmimiは、自ら不安をひとつずつ解消させてゆくことによって徐々に、我々に会いたいという意志を固めていった。やがてmimiは大阪行きを決断した。初対面の女と長い時間隣の席で移動するという非日常的なシチュエーションに置かれることにたいしての不安は確かにあるけれども、意外とリラックスできそうな気もしていて、どちらかというと、非常に楽しみであるといえる。
2003.08.27
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なんという名前のビルかは知らないが、小香港とか台場商店街とかジョイポリスなどがあるビルの5階とか6階で、唯一行列に冒されていないタイ料理屋で、茶だけ飲んだ。もうこの台場にいるのが嫌になってきて、しかしせっかく来たからということでサザンのイベントだけは見て帰ることにして、いよいよ行列の最後尾に並ぶ意志を固めた。待ち時間は相変わらず25分と表示されていて、入場者は続々と増えていった。真夏の日差しが容赦なく照りつける中25分待った。仮設ドームを覆うテントには、「サザンオールスターズ 真夏の秘宝館」と書かれていた。スタッフがウォーキートーキーでどこかからの指令を確認した。やがてタダ券と入場チケットを交換できる順番になり、我々は施設の中へ入ることができた。入場するとすぐに電車のようなものが現われた。この電車は江ノ電で、ここは鎌倉らしい。入場チケットには鎌倉→茅ヶ崎と書かれている。茅ヶ崎でさまざまなアトラクションやイベントを楽しませるというシチュエーションのようだった。江ノ電を模した施設の中に押し込まれると、電車は走り出した。正確には、窓にテレビモニターが貼り付けられていて、映し出される背景が動いてるだけだった。背景だった映像が急に暗くなり、騒がしい音楽が流れた。「勝手にシンドバット」サザンのデビュー当時、テレビに出演したときの映像だった。やがて演奏終了とともにアナウンスが流れた。仮設の江ノ電は茅ヶ崎に到着した。暗がりの中に縁日の風景が浮かび上がった。屋台にはサザンゆかりのアイテムが飾られていた。おみくじや射的などのアトラクションもあった。アトラクションを進行しているのは、なんとビキニの水着姿のおねいちゃんだった。暗がりの中に浮かぶビキニや女の肌は非常に背徳的だった。おねいちゃんたちは陽気に働いていたが、客のテンションが低かったため宙に浮いて空回りしているようにも見えた。オレは女の胸元や腰つきをずっと見ていたかったが、嫁が一緒だったため視線には気をつかわなければならず、混雑していて立ち止まるをことがあまり許されない状況だったこともあり、思うようにビキニを観察することは出来なかった。床や壁や天井にはモニターが備え付けられていて、ヒットした多くのシングル曲が年代を表す映像とともに流されていた。稲村ジェーンのモニターの周囲にはミゼットや風車が飾られていて映画の雰囲気を味わうことができた。ただしオレは稲村ジェーンという映画を観たことはなかった。そういった順路にしたがって進んで行くと、最終的に赤い広間へ案内された。赤い広間は「お宝博物館」という看板がついていて、デビューから今日までの、サザンゆかりのレアグッズが飾られているのだった。ガラスケースの中には例えば実際に使用したプロレスマスクとか販促のギターピックとかバックステージパスとかTシャツなどがあった。熱狂的なファンには興味深い博物館かもしれなかったが、買えないグッズを見てもしょうがないと思った。15分おきに上映されるバーチャルライブの開演がさし迫っていた。お宝グッズを見飽きた客たちはアトラクション入り口に長蛇の列を作っていた。やがてカーテンが開きバーチャルライブの会場へと案内された。「いとしのエリー」の演奏が始まった。4方向に備え付けられた大画面のモニターには結成25周年によせたメンバーのメッセージが映し出された。場内にはシャボン玉が舞い、レーザー光線が飛び交っていた。最後は、「勝手にシンドバッド」だった。桑田佳祐が派手に立ち回るライブ映像とともに、ライブさながらの大音響で「いまなんじ」とかそういったメロディーが流れた。終盤のライブ映像では、桑田佳祐が水の入った紙コップを客席に投げ入れるというパフォーマンスが映し出された。その瞬間、映像のコップが我々のいる客席へ飛び出てきたかと思うと、左右から激しい水しぶきが上がった。髪の毛や服は水によって大いに濡れたが、何度も何度も左右から水しぶきが上がった。客は大喜びとも苦笑いともどっちともつかない態度を示していたが、コップの水で濡れることを、心から楽しんでるようでもあった。
2003.08.26
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今年はサザンオールスターズ結成25周年の年らしい。台場で記念イベントが開かれているということを、偶然入手したタダ券からの情報で知った。8月31日にサザンのライブコンサートが控えているから気分を盛り上げるためというよりも、他に何もすることが無かったことから、嫁と2人でこの猛暑の中、台場まで出かけることにした。朝9時とかに起きたが、結局出かける仕度が出来たのは正午をまわった時刻だった。猛烈な暑さで動作が緩慢になっていたことと、それほど急ぐ必要が無かったことなどが、出発が遅れた主な原因だった。池袋から有楽町線は東京のど真ん中を皇居の左側をかすめて縦に走っていて、終点の新木場まで30分かかる。電車に乗っている30分はかなり長く感じる。新木場から東京湾の埋立地域に向うため、りんかい線に乗り換えた。東京テレポート駅から徒歩10秒のところに、イベント会場があった。なにがテレポートなのかよくわからなかったし、出口のすぐ近くに「秘宝館」と銘打ったイベント会場があったが、徒歩10秒なわけがなかった。 「只今の待ち時間25分」サザンの秘宝館には、入場制限が布かれていた。一気に気持ちは萎え、帰りたくなったのだったが、家から1時間以上かけて来て、すぐに帰るというわけにもいかなかった。とりあえずどこかで茶でも飲んで落ち着いてから、行列に並ぶなら並ぼうじゃないかということでコーヒーショップやレストランなどを探したが、周囲には何も無く、仕方なしにジョイポリスとか書かれたビルのあるメーンストリートの方へ向うことにした。東京テレポート駅からそのメーンストリートへ続く歩道も人だかりにより大混雑していて、うまく前へ進むことができなかった。暑さと混雑でオレの苛立ちはこのとき最高潮へ達していた。路上を走る車は一向に進まず、渋滞に苛立った1台がしきりにクラクションを鳴らしていた。オレはそのクルマのボンネットに飛び乗り、フロントガラスを叩き割ってやりたくなった。メーンストリートの交差点にようやくたどりつき、目の前の歩行者用信号が青に替わった。信号を待っていた集団はゆっくりと横断歩道を渡りはじめた。そのとき、視界の右側から猛スピードで歩行者の群れに突き進んでくるクルマを確認した。歩行者は既に横断歩道上を渡り始めている。クルマは一旦スピードを緩めたものの、今度はクラクションを鳴らして歩行者をかき分けようとした。恐れた歩行者たちの人垣は2つに割れた。そしてその間をすり抜けるようにしてクルマは過ぎ去ろうとした。オレは瞬間的に、キレた。クルマへ向って、とっさに蹴りを放った。蹴りはクルマにヒットしたが、当たったのがドアの中央の柔らかい部分ではなく、フレームが這っている硬い部分だったため、おそらくダメージを与えるには至らなかっただろう。クルマを停めてドライバーが降りてくることを想定し身構えたがが、そのまま逃げるようにして過ぎ去っていってしまった。苛立った荒い呼吸を整えながら、レストランなどがあるビルの中へ入ったが、どの店にも行列が出来ていて、並びたくないオレはまた苛立ってしまった。
2003.08.25
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フランスからの、贈り物が届いた。勘違いしないで欲しいのは、花の都パリあたりから空輸便でこだわりのワインとかが届いたというわけではなく、暴君おおフランスから、宅配便で書類が届いたということだ。書類の中身は、コンサートチケットだった。時は少しさかのぼる。2003年正月、1本の怪しげなビデオテープが家に送られてきた。背ラベルにはいかがわしくも力強く、「フランス闘魂ライブ2002」と書かれていた。値段は、「\6,900」。まだ支払っていない。おせちやおとそやおぞうにがテーブルの上に並べれていた時期、嫁が見守るなかおそるおそる、デッキにテープを指し込んだ。乱れた映像と、調子のはずれた打楽器の音が現れた。香港ゴールデンハーベスト社の映画のオープニングが流れたとき、オレは思わず苦笑いしてしまった。ライブは急に始まった。誰かが暗がりのステージでなにか声を出していた。よく見ると、フランスだった。ビデオの音声と、聞き手の気持ちが安定してきたとき、どんな曲が演奏されているのかわかった。桑田佳佑とか、サザンオールスターズの曲だった。「HOLD ON」は少しアンニュイすぎるかなとも思ったが、フランスの歌声やリズムに客が引き込まれているようだったし、「マンPのGスポット」のときにフランスはハゲづらをかぶり、ピコピコハンマーで客を殴りたおし、興奮と熱狂を巻き起こしていた。オレはそのビデオに、釘付けになった。場所や時間を替えながらも、ビデオには主にサザンの曲を演奏するバンドと、バンドの中央に立ちあるいは一人でアコースティックギターを演奏しながら、まるで桑田佳佑さながらに歌うフランスが映し出されていた。送られてきたのは、サザンオールスターズのチケットだった。サザンをこよなく愛するフランスは、サザンのライブチケットを容易く入手できるネットワークを持っていたのだった。オレもサザンは嫌いではなかった。子どものころに始めて買ったLPレコードは「kamakura」だし、その後CDもかき集めたし、「ミスブランニューデイ」はオルガンで演奏しようとしたし、「いなせなロコモーション」や「C調言葉にご用心」や「女呼んでブギ」なんかも大好きだったし、とにかくサザンは好きでよく聞いていた。ただ最近、音楽自体をあまり聞かなくなっていた。サザンへの関心が薄れたというよりも、音楽への関心が薄れていって、結果サザンを聞くことも、あまり無くなってしまっていたのだった。昨年9月、京都へ行った。2ちゃんねる自転車板のオフと称して開かれたイベントだった。主にフランスたちと遊ぶのが目的のイベントだった。オレはフランスのクルマで流れている桑田佳佑に反応した。ちょっとカッコよかったから、そのイベントが終わった後すぐに、同じCDを買ってしまった。そしてまもなく発表された、サザンのベスト盤のようなCDも買った。そういったことがあって、オレのサザンへの熱が復活していったのだった。桑田佳佑を海外のアーティストにたとえると、ポールマッカートニーにあたるのではないかとオレは勝手に思っている。ポールは、誰が聞いても心地よいメロディーを、誰よりも多く作れる才能を持っている。桑田佳佑が作る曲は、おそらく誰が聞いても楽しくなるし、いつどの曲を聴いても楽しい。サザンデビュー25周年だという。お台場で、「サザンオールスターズ夏の秘宝館」というイベントが開催されていた。偶然招待券を手に入れていて、今日行ってきた。台場は相変わらず混雑していて不愉快な思いもしたけれども、イベントはなかなか楽しめた。そこで買った赤いTシャツを着て、8月31日横浜、サザンのライブコンサートへ行ってくる。
2003.08.24
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土曜。目が覚めた瞬間、体調が非常にヤバいことに気づいた。一旦起きてキッチンへ降りて、冷蔵庫を開けた。水を飲んだ。午前10時とかそんな時刻だった。嫁はリビングを薄暗くして、長椅子で爆睡していた。階段の音にも、冷蔵庫の音にも、オレの気配にも無反応だった。オレはそのまま、もう一度寝ることにした。3階のベッドルームは、この夏一番の暑さを記録していた。エアコンを点けながら寝るのは好きではなかったが、エアコンを点けないと寝られそうにもなかった。部屋を涼しくして、二度寝にかかった。目が覚めたときはまだ、正午前だった。まだ体調が悪かった。外は快晴のようだった。肉眼で確認したわけではなく、寝室に射し込む陽射しがそう判断させた。なんだかまぶしくて寝ていられなくなって、起きることにした。外に出て汗をかいて、昨日の酒を全て抜きたかったが、メシを食ったら眠くなってしまった。第85回高校野球甲子園大会決勝が、テレビ中継されていた。常総対東北。東北を応援することにした。東北の2年生投手ダルビッシュは、今井翼のいとこの会社の同僚に似ていたし、対する常総の投手飯塚はにやにやしていて神経に障った。長椅子に横になってうとうとしながら、甲子園決勝をみていた。どうやら東北は負けそうだった。そのとき急に、甲子園大会に興味を失ったし、テレビを見ているのが面倒になった。甲子園の放送は終了したが、チャンネルを替えると踊る大捜査線の特番の再放送をやっていたから、出かけようと思っていた気持ちは萎んだ。結局世界陸上も見てしまったし、この日はずっと体調が悪くて他になにもやる気が起こらなかった。飲みすぎたつけがまわってきた。借金は必ず返さなければならない。
2003.08.23
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金曜の夜は飲みすぎた。ようやく豊島ケーブルネットワークが復旧したらしい。5日ぶりのネット回復である。5日もかかったのである。「会社でネットワークが何日使えなくなると困る?」アメリカのとあるアンケート調査の結果によると、大半の回答者は「1日」と答えるそうだ。さらに、3日使えなくなるなると、会社は存亡の危機に陥るという報告もある。それが5日もまともに使えなくなった。社会的大問題であるにもかかわらず、豊島ネットは、「原因がお客さまのパソコンに感染したウイルスにあるため」と自身の非を認めようとしない。そういうスタンスで来るならそれはそれでいい。但しオレは絶対に認めない。とはいえ5日ぶりに回線がネットワークに繋がってうれしくなって、何通ものメールを書き、何件もの取引をオンラインバンキングで行った。それは主にファミコンの中古カセットを手に入れるための手続きではあったが、何日も遅れたら信用にかかわるし、オレは一日も早く、「ポパイ」や「パックマン」をプレイしたかった。酔っ払いながらチャットや電話をして気づいたら明け方になっていた。幸い土曜はなにも予定が無かった。明日の体調のことを考えるより、久しぶりに繋がったネットワークを楽しむことのほうが重要だった。泥酔して意識がなくなりかけて、やっと眠ろう、と思った。「復活祭」という祭りの意味が少し、わかりかけた。
2003.08.22
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巨人戦を見に行った。嫁の会社の年間予約席のチケットが、年に1度か2度ほど抽選で当たる。3塁側内野席のオーロラシート、前から7列目だ。3塁コーチャーズボックスにいるコーチの背中がよく見える。ジャビッツという、若いチアリーダーたちが7回の攻撃が始まるまえに踊るイベントがあるのだが、彼女たちの小さい顔もよく見える。オレは彼女たちの踊りをいつも、非常に楽しみにしている。小さい顔といえば、スタンドの通路を往復しているビールの売り子も皆一様に顔が小さい。顔の小ささで採用しているのではないかと思うほど、皆揃って顔が小さい。短パンからは白い素足がむきだされていて、オレは彼女らの裸を想像してしまう。野球を見に来ているのか、小さい顔の女を見に来ているのかよくわからなくなる。我々が観戦した日に、巨人が負けた事はない。熱狂的な巨人ファンというわけではないし、テレビではほとんど野球中継を見ることはないけれども、他のチームを応援する理由がないことなどから、巨人を応援している。選手では清原と仁志が好きだ。「今日も絶対巨人勝ちますから」と高らかに宣言して会社を後にした。飯田橋の会社から水道橋までは徒歩10分程度でいける。ただし水道橋からドームの中に入るまで10分以上かかる。ビールとチキンと枝豆を買って席についた。ビールを置くホルダーはあるのだが、つまみを置くテーブルがない。仕方なく食い物を地べたに置いて観戦を始めた。1回表、先発の林は制球が定まらず、ヒットやフォアボールなどで相手横浜の出塁を許した。オレはこの林という名前の投手を知らない。選手紹介用のパンフレットを見ると、2年目20歳と書かれていた。ハタチのぺーぺーが巨人の勝ち負けを背負って大丈夫なのかよという不安がよぎった。横浜の4番は、T・ウッズというプロゴルファーと同じ名前の野獣のような容姿のでかい黒人だった。林が不用意に放った外角のスライダーをT・ウッズは見逃さなかった。ふわふわと弱弱しく上がったフライは外野席スタンドのフェンスぎりぎり内側に入ってしまった。1回の表、3対0。はやくもオレの不敗神話が崩壊の危機にさらされてしまった。ところがその直後の1回裏。デッドボールで出塁した高橋を1塁に置いて打順は4番ペタジーニを迎えた。オレはこのとき、ペタジーニが巨人にいるということを初めて知った。横浜の先発秦の内角へのストレートをペタジーニのバットは正確に捉えた。打った直後にそれとわかる打球は、ドームの屋根ぎりぎりを通過しながら、迷うことなく外野席スタンドへ吸い込まれていった。ドーム中が歓声と拍手と興奮と熱狂に包まれた。スコアはまだ3対2で、巨人1点ビハインドの状態ではあったが、このときドームの中の8割の人間は今日の勝利を確信したのだった。2回裏、巨人の攻撃。清水はデッドボールを受け乱闘寸前で怒りをこらえて出塁した。清水の怒りに動揺したのか横浜は、続く村田によるボテボテの内野ゴロを捕球後、1塁送球のタイミングでエラーをした。この間にランナーは進塁しノーアウト2,3塁。ピッチャー林はあえなく三振に倒れるも、打順は先頭に戻り、二岡の初球打ちである。ライナー性の速い打球はレフトスタンドのポールめがけて伸びた。スタンド直撃は間違いなかったが、ファールかどうか迷える弾道ではあった。ドームが揺れたことで、ニ岡の打球がホームランだとわかった。ホームランが出ると、ドームは独特な揺れ方をする。多くの歓声がこだまして、竜巻のように渦を巻いて上昇するような感じになるから、一体感のようなものもうまれる。オーロラビジョンにはHOMERUNの文字が躍っていた。二岡自身は、自分が打ったのがホームランであることを確信していたらしく、気付くと2塁ベースをゆうゆうと回っているところだった。3対5。二岡のホームランにより巨人は逆転に成功した。オレがビールを飲むペースも、急速に速まっていった。以降、0対0の攻防が続いた。若干ハタチの2年目投手林は、初回こそ制球に苦しんだものの2回以降は非常に落ち着いた投球をした。速いストレートとキレのあるスライダーを武器に横浜マシンガン打線を力強くねじ伏せていた。一方横浜は1回毎に投手をころころと変えていった。めまぐるしく変わる投手の球筋に巨人打線は翻弄されていた。横浜の攻撃になるとオレは、用を足すためと一服するために席を離れることが多い。ドーム内に立ち並ぶ売店を散策していると、選手グッズが売られている店を発見した。急に、Tシャツとかメガホンとかそういった記念になるものが欲しくなった。居間に飾りたいわけでも、街で着て歩きたいというわけでもないが、そういえばジャイアンツを象徴する商品を持っていないということに気付いて、ふと店の前に立ち止まってしまった。結局選んだのはメガホンでもTシャツでもなく、サインボールとリストバンドだった。我ながら、この選択はちょっとセンスがいいかもしれないとも思った。サインや刺繍の背番号は、もちろん清原選手のものである。意気揚揚とスタンドに戻って、買ってきた清原グッズを嫁に見せると案の定、「なにまたそんなもん買ってきて、いらないよ」といわれた。負けずにオレは、「いいんだよ。これは清原への投資だよ。」と答えたりしたのだった。その直後である。5番清原の打席が回ってきた。オレはまだ彼のホームランを生で見たことはなかった。太い腕、厚みのある身体、太い回転軸、圧倒的な存在感、王者の風格。清原は、打者としての最高の資質や威厳やそういったものを全て持っている。横浜の投手は清原が放つオーラに萎縮してしまっているようにも見えた。弱々しく投げ込まれたカーブはキャッチャーミットに収まることなく、清原の黒いバットにジャストミートした。客が立ち上がり、ドーム中が熱狂の渦に巻き込まれたのは、清原の天高く上がった打球が、ライトスタンドへ吸い込まれる前だった。力強く、しかし硬い表情でダイヤモンドを1周している王者清原に、他のどのシーンよりも熱い歓声が贈られて、なかなか止まなかった。オレが買ったサインボールに込めた祈りが、彼に通じたのかもしれなかった。
2003.08.21
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ISP。インターネットサービスプロバイダ。多分。我が家がプロバイダとして選んでいる豊島ケーブルネットワークは、ブラスターの被害により18日夜から現在21日の昼に至るまで、回線が不安定な状態のまま復旧の見通しもなく満足なアナウンスもなく、利用者に多大なる損害とストレスを与えつづけている。昨夜オレは、キレた。キレてなにをしたかというと、ただ酔っ払いながら、白い画面に無機的に書かれる「ページが表示できません」や「取り消されたアクション」などの文字に腹を立てて、ただひたすら毒づいていた。30分に1度だけ、5分程度の接続が可能になる。そのわずかな時間を利用して2ちゃんに怒りの投稿をしようと思い、作文を書いていた。投稿してみたが、食いつきはあまりよくない。範囲が、狭すぎるからだろう。■□■豊島ケーブル■□■ (ケーブルテレビ) http://tv.2ch.net/test/read.cgi/cs/1013066353/ 【プロバイダ】豊島ケーブルネットに障害 (ニュース議論) http://news3.2ch.net/test/read.cgi/news2/1061390892/ スポーツ新聞各社に、告発のメールも出した。サンスポやzakzakや夕刊フジやzdnetなどだ。とりあってくれる可能性は極めて低いかもしれない。これから新規のプロバイダを探さなければならない。豊島ケーブルネットを解約するための費用は一切支払うつもりはない。さて今朝は久しぶりに晴れた空を見ることができた。気温も上がっていて、起きたときに薄く汗をかくほどだった。今日は東京ドームに巨人対横浜戦を見に行く。ドームなので夏の夜空は見られないが、ビールとから揚げと枝豆と、清原か誰かのホームランで、夏を満喫してくるつもりである。ところで最近、つなみ嬢のところがホットだ。彼氏へのラブラブな気持ちを綴った日記が、連日掲載されている。あまねく全ての女の愛がオレに向かっていると信じていて止まないオレはどことなく複雑な心境でもあり、かける言葉の一つも見つからないけれども、毎日日記を読んでしまっているのもまた事実で、つまり幸せだということは、けして悪いことではないということだ。仕事や生活やその他の雑事などを全てひっくるめて100%とした場合、恋愛にかかる電圧は女の場合、90%にものぼるという話をカラコから聞いた。オレは驚き、一旦は納得したものの、にわかには信じられなかった。オレはカラコの証言を検証するために、キュートな銀行員を直撃した。「女って、恋愛がアタマの中の90%だって聞いたんだけどホント?」「うーんそうかも。買い物いって、自分の物とか買うつもりでも、ちょっと男の人の服とか見ると、あ、これなら似合うかも、とか思う」恋愛90%カラコ説の、裏が取れたのだった。そしてラブラブなつなみ嬢の日記を読むにつけ、その仮説は多くの女に当てはまるものなのかもしれないという確信が芽生えたのだった。
2003.08.20
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プロバイダがトラブっていてインターネットに接続できない。月曜の夜に起こったトラブルは火曜の夜にもまだ解消されていなくて、今朝もモデムのランプは不安定なままだったが、なんとか繋がったみたいだ。しかしまだなんのアナウンスもないということは、予断を許さない状況だということだろう。最近無線LANを導入したが、それでもわけのわかならない理由でよく繋がらなくなったりしていた。ようやく無線LANが安定してきたと思ったら今度はプロバイダが不安定になった。こういったインターネット接続における回線障害は、よくあることとして我々顧客が泣き寝入るケースが多い。プロバイダもそういう風潮に甘え、特に危機感もないまま復旧が終わると、原因やどう対処したかということや、迷惑をかけて誠に申し訳ない旨のメッセージをサイトの隅の方に小さく掲げるだけの処理でいつも済ませている。例えばドコモやNTTの回線に障害が起きた場合、その影響範囲は絶大だから、ニュースで取り上げられたりして大問題になる。銀行のシステムがトラブった場合も同様に大きく取り上げられる。この場合、個人の金やキャッシュフローにも影響を及ぼすし、信頼も失われるからもっと深刻だ。それに例えば医療や交通管制など、世の中には、決してミスが許されない決してトラブルを起こしてはならないシステムが存在する。だからそういったコンピュータサービスを提供する側は、ミスを防ぐ体制やマニュアルを作ったりして、徹底した危機管理を行っている。それはサービスを提供する者の責任として、当然のように行われている。雪印によるずさんな衛生管理も、三菱のクルマのリコールも、みずほ銀によるシステムトラブルも、全てニュースとして大々的に扱われ、社会問題になった。ところがインターネットプロバイダのミスやトラブルは、めったに表だった所には現われない。むしろ、トラブルが起こって当然、というような風潮さえある。全くどういうことだ。「情報の流通」という概念の社会的な価値観や位置付けが軽んじられている。電力や水の供給と同じように、「情報」も常にスムーズに流れるべきで、けして滞ってはならない。ミスは許されないのだ。豊島ケーブルネットワークhttp://www.toshima.co.jp/
2003.08.19
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欲しくて欲しくてたまらなくなったら、何が何でも手に入れなきゃならないという性質でもない。財布の具合と、欲求の切実さを秤にかけたりもするし、本当にその欲しい対象が自分自身にとって必要かどうか見極めたり、入手後の生活は合理的かどうかとか、合理的でないと予測した場合、物欲が解消されないことで生じるストレスとどう折り合いをつけるかといったようなことを延々と考えた挙句に、買うかどうするか決める。このとき、金銭と商品の交換レートが等価であることを納得したうえで買う決断をするのと同じ理屈で、欲求にかかる全てのコストが解消のベネフィットとも等価でなければならないとも思っている。金銭以外の欲求にかかるコストとは、情報収集する時間や買いに行く労力や強い欲求が生活に及ぼす影響などのことで、解消のベネフィットとはまさに、商品がもたらしてくれる利益つまり快楽や所有する喜び、他人にたいする優越感などである。コストに対するベネフィットは常に等価かそれ以上でなければならない。ファミコンを買いに行った。1983年の発売開始より20年、多くのユーザーに親しまれ続けてきたファミリーコンピュータは2003年9月、部品調達の困難を理由にメーカーは生産を終了する。一方オレは、古本屋チェーンのジャンクコーナーで、ファミコンのカセットが売られているのを偶然見かけた。ベースボールとだけ書かれたシンプルな青いカセットを見てオレは、急に懐かしくなり、心を奪われてしまった。同時期に起こったこの二つの出来事がオレに示したのは、ファミリーコンピュータへの強い憧れと、所有したいという欲求だった。衝動的に向かったビックカメラには、同じく生産中止となるスーパーファミコンの方しか置かれていなかった。欲しいのはスーパーファミコンではなく、ただのファミコンだった。通販のサイトでは、在庫切れで注文できないようだった。間違ってケーブルだけ購入してしまった。ネットで調べた。秋葉原にあるマニア向けのゲームショップでファミコンが売られているという情報をつかんだ。8月18日、定時で仕事を切り上げて、ロードバイクで秋葉原へと向かった。JR秋葉原駅から徒歩1分のところに存在する目的の店はすぐに見つかった。店の前には、アニメの女の絵が書かれたポスターがいくつも貼ってあって、ワゴンでは最新のゲームソフトが格安価格にて売られていた。階段を使って2階の中古ゲームコーナーへ上がったとき、2階の踊り場で男の歌声が聞こえた。聞いたことのない歌だった。見ると体重80kgもありそうなメガネの坊主頭が、アニメの女のポスターを見ながら一人で歌っていた。ぶよぶよとした体格のおとこは赤いリュックを背負いチェックのシャツをきちんとズボンの中へしまっていた。その男を不気味に思ったと同時に、本当にここでファミコンの本体が売られているのかどうか不安になった。奇妙な坊主頭が1人で歌を歌っている2階をなんとなく素通りし4階まで上がっていってしまった。しかしどうやらファミコンが売られているのは2階で間違いなさそうだった。降りるとまだ、奇妙なデブが歌を歌っていた。「ファミコンの本体、あります?」店員に聞いた。「只今新品しかございませんが、」店員が答えた。中古でも新品でもどちらでもいいと思っていた。中古というのはあの、白と赤の古い昔ながらのタイプを指すのだろうか。1993年、販売開始から10年目の秋、ファミコンはモデルチェンジした。筐体は小型化し、デザインに無駄がなくなった。テレビへの接続方式はアンテナ線ではなく、AVケーブルになった。しかし全てが合理化された結果、ハードの外観は、すっかり味気のないものになってしまった。味気のない、しかし合理的な新品を買った。AVケーブル、アダプターは別売りだった。総額で、1万円をわずかに超えた。次にソフトを探した。夕方から夜にかけて暗くなる途中の秋葉原には、オタク以外にもいろいろな人種がいた。アジア人、メルセデス、ホスト、サラリーマン、キャンペーンガール、卸業者、街を歩く人をまとめて表現する言葉が見つからなかった。無国籍でも、雑多でもない。ここは紛れもなく日本東京だし、歩行者たちは一様に、はっきりとした目的を持っているように感じられた。雲行きが怪しくなってきていた。いつ降ってもおかしくない空模様だった。8月、東京はいつまでたってもパッとしない。スターフォース、ドンキーコング、テニスなどを買った。箱や説明書も付属していた。欲しかったロードランナーやパックマン、ゼビウスなどは見つけられなかった。1本1000円や、良品になると5000円クラスの値が付けられているソフトもあった。もっと100円や高くても500円で買えるものだと思っていたから、予想外の出費を強いられた。ハードが生産終了となる今後は流通の絶対数も減り、価格が高騰していくのかもしれない。早く必要なソフトをかき集めておかなければならないかもしれない。ロードバイクの荷台にファミコンを乗せ、秋葉原から御茶ノ水を経て飯田橋経由で家へと向かった。子どもの頃はよく、新しいゲームを買うと、家までの道のりですでに興奮していた。今、そういった高揚感が湧いてくるといったようなことはめったにない。このときもそうだった。まずは事故なくこのおもちゃを家に運び入れることが重要だ。家へ帰り、実際に懐かしいゲームをプレイすることを想像した。思ったほど懐かしくないだろうことや、昔ほど興奮しないであろうことも、買ってしまった時点でなんとなく、予想してしまっていた。それでもいつもより慎重に運転したし、路面からくる振動にも必要以上に気を使った。やがて家に着いた。慎重に開封した。箱は大切にしまっておこうと思った。使っていなかったテレビをひっぱりだして設置した。ファミコンを接続し、その配置を決めるのに時間を費やした。書斎兼物置部屋は、ファミコン導入のためにレイアウト変更を余儀なくされた。全ての設置と接続と、配置が完了した時点で初めてドンキーコングのカセットをセットした。テレビのチャンネルを外部1にセットし、ファミコンの電源を入れた。画面は暗いままだった。テレビ側の設定には間違いはない。リセットボタンを何度も押した。それでも画面は暗いままだった。電源を切りカセットを抜いた。赤いカセットの下のほうの、端子が露出している部分に向けて、息を吹きかけた。思わず、苦笑いをしてしまった。これは、儀式だった。20年変わらない儀式をファミコンは、ユーザーに課し続けている。感慨深かった。儀式を終えたファミコンは、巧くドンキーコングと接続した。黒地のあの懐かしいタイトル画面と、ピロピロした音が、鳴った。
2003.08.18
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祖母にねだってファミリーコンピュータを買ってもらったのが1985年の秋、たしか小学6年の秋だった。当時おもちゃ屋では常に品薄の状態が続いていて予約してようやく入荷したと思ったらソフトを何本か一緒に買わないと売ってはもらえなかった。本体と同時に購入したカセットは、ロードランナー、ベースボール、パックマン。一番欲しかったのはロードランナーで、金塊を強奪しながら、追っ手を埋めていくという強欲で残忍なゲームシステムによく心躍ったものだった。対戦プレイが可能なベースボールは弟や友だちとよく遊んだ。一番必要ないと思われたパックマンに実は一番ハマった。単純なゲームシステムだったが、1面2面とクリアして行くにつれて上がっていくスピードに興奮したし、クリアしなければ見られないおまけ映像を見るために真剣になってプレイした。当時は一つのゲームに対して貪欲にというか、飽きるまでとことんやらなければ気がすまないというほど何度もプレイしたし、繰り返しプレイすることで当然上達したりもした。ゼビウスやスターフォースではもうどこまでも進めるような気がしていたし、隠れキャラの位置も出現方法も全て把握していた。スターフォースのために特別な形をしたジョイスティックを買った。ジョイボールという名前のジョイスティックは、方向操舵をレバーや十字キーではなくボールで行うというスタイルだった。容赦なく浴びせられる敵の弾や自爆攻撃をオレはそのジョイボールを使って巧みに交わしたものだった。地元で一番優秀なパイロットという称号をオレはほしいままにしていた。ドルアーガの塔やスパルタンXにも熱中した。やがて月日が経ち、グラフィックやゲームシステムは複雑化していった。新しいゲーム機も続々と登場した。ファミコンはスーパーファミコンになった。複雑で高速な新方式のグラフィック機能を持つ新しいゲーム機の出現に伴い、我々はあの赤と白の筐体の、ファミリーコンピュータへの情熱を失っていった。ふと、古本屋の前を通ったとき、店先のワゴンに、昔のファミコンのカセットが、箱も説明書もないままただビニールで包装され、無造作に置かれていた。ベースボールの青いカセットには100円の値札がつけられていた。燃えろプロ野球’88は300円だった。スペランカーや、アイスクライマーなどもあった。急に昔の記憶が蘇ってきた。それらのゲームの中の地味で小さいキャラクターが踊る画面の映像が蘇ってきたのだった。なぜか胸がきゅんとしめつけられるような変化が身体に起こった。好きな女と一緒にいたいと思ったときに現われる体内の変化とまるで同じだった。猛烈にファミリーコンピュータが欲しくなってしまった。ファミリーコンピュータのことしか考えられなくなった。ふと気付くと、ゲームショップを数件回っていた。しかしファミリーコンピュータは、どこにも売られていなかった。昔祖母に買ってもらったあのファミコンは今どこにあるのだろうか。オレは今、スターフォースを巧くコントロールできるだろうか。
2003.08.17
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関東の南岸から西日本の南海上にのびている活発化した前線により昨日から降り続いている雨は、今夜には次第に弱まる見込みらしい。神宮外苑の花火大会は中止になった。チケット制だったため、日刊スポーツのサイトでは、どうにか開催したいという主催者側の思惑のため開催中止の発表が遅れに遅れた。一方このイベントの情報交換のためのBBSでは、強行されても雨の中嫌な気持ちで花火を観覧したくない客による、チケットの払い戻しに関する希望的観測や、主催者側の対応の悪さや、遠方から来場する予定だった客による「雨のバカヤロウ」という呪いの言葉などが多数寄せられていた。金曜から土曜に順延され、結局今日も荒天のため中止が決まった。チケットは全て払い戻される。主催者側の金銭的リスクは大きいだろう。客の心情としてみれば、開催されないライブのチケットが払い戻されるのは当然のことだろう。BBSにも、中止の発表が遅れたことによる批判の言葉が殺到していた。世論では全て主催者が悪いということで統一されていた。確かに主催者は、利益を得るためにイベントを企画してチケットを売った。客はサービスを受けるためにチケットを買った。しかしこのとき客は、一切のリスクまでチケットの代金に込められているような気になっている。たかだか4千円の代金でリスクを放棄しようとし、放棄したリスクを、主催者側に委譲しようとしている。結局、花火大会は雨により中止された。決行か中止かの発表を待っていた客は、混乱した。これが決行されていたとしても、おそらく客は混乱したはずだ。客は混乱の原因が主催者側にあるものとして、主催者を批判した。このとき客は、混乱しているのが自分自身なのだということを知らない。あらゆる危機に備えてリスクに対処する方法を自分の頭で考えていれば、混乱する必要のないことを、この客たちは知らない。全てのリスクを、主催者に委譲しているからだ。客の理屈でいうと、雨が降ってしまったのも、主催者側の責任となる。「謝罪」を求める声まであがっている。たった4千円の代金で、わがままをいうにもほどがある。
2003.08.16
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パソコンを立ち上げるとまず自動的にYahoo!メッセンジャーが立ち上がる。次にブラウザを起動すると既定のページに設定しているMyYahooのページが出てくる。トップページはニューストピックスになっていて、トップニュースに続き、国内、スポーツ、エンターテイメント、海外、経済、サイエンス、コンピュータと各カテゴリのニュースを一通りチェックする。あまり深刻な影響はないが、株式の動向や経済の浮き沈みを把握しておくために、ポートフォリオには日経平均とYahooおよび他何社かの株価が表示されている。今日の占いは95点である。「憧れの異性からステキなアプローチが期待できます」。Yahooの占いは当たった試しがない。天気も同様にめったなことでは当たることはない。今日はたまたま雨マーで正解だ。ニュースも天気もサブカルチャーも、あらゆる一般的な情報がこの画面から入手できるような気にオレはなっていて最近はほとんど新聞を読まなくなった。インターネットがあれば、新聞などもう必要ないのではないだろうかとも本気で思っていたりする。ひとしきりニュースを読んだ後に、メールソフトを立ち上げる。次に楽天日記の管理画面を開き、新しいメッセージが届いてないかとか、掲示板に書き込みがないだろうかとか、今日のアクセスはどれぐらいだろうか、ということを確認する。アクセス数が他の日よりも少ないと不安になる。掲示板にメッセージが書き込まれることはあまりない。そもそも、アクセス数を伸ばすためや、盛り上がった雰囲気を作る行為は一切放棄していた。減ったところでもとに戻っただけだと思えばいい。気にすることは無い。そう思うことにしている。とはいえ、少ないと本当に悲しい。友人たちの情報を知るためにいくつかの個人的なホームページを見る。更新されたり、誰かの書き込みがないとよくがっかりする。ということは自分のサイトも、更新されていないとがっかりされるんだろうかと思う。がっかりしてくれる人がいるならそれは非常にありがたいことだと思う。自分に興味を持ってくれる人が1人でも多ければ誰だって嬉しいに決まっている。だから毎日時間の許す限り例えば訪れてくれた客を満足させるために日々新しく日記を更新する。書けば書くほど客が減っていくような感触もあるがどういうわけかアクセス平均は減らない。なんとなく借金が増えつづけているみたいで、オレの書く日記はまるで自転車操業のようでもあるが、これがオレにとって苦しい状態かというと、そうでもない。パソコンに向かって、ニュースやメールや友人の情報をチェックしたら何をしたいかというと、ただひたすら書きたい。オレのネット生活は今この楽天日記サイト「リバース」が拠点になっていて他にはあまり興味がなくなっている。しかし楽天の日記は1日1つの作文しか書けないシステムになっている。書きたいことを後から思い出したときに日記を書ける日付スペースが全部埋まっていて困ることがよくある。そういうときはガマンして他の誰かのところで長いやつを書いて欲求不満を解消したりしている。このサイトには、例えば仕事仲間とか、仕事仲間から派生してできた友人とか家族とか親戚がやってくることはない。この存在を、教えていないからだ。だからオレの対外的な交際のパターンは、大きく二つに分かれている。ネットを介してコミュニケーションするパターンと、そうでないパターン。バーチャルと、リアル、という棲み分けが簡単に出来そうだという向きもあるかもしれないが、ネットを介してコミュニケーションする側の友人たちは、ちゃんとリアルな個人であるということが前提となっている。けしてバーチャルではない。なぜオレの仕事仲間や家族が、ここをみられないかということについてはまだ、オレは多くを語りたがってはいない。例えばネットを介していない仕事仲間がオレの日記を見た場合、おそらくオレがまるで日記通りの人物であり、表の顔とは別の裏の顔を持っていて、そしてどうやらそっちが本性であるらしいと思うかもしれない。それはあながち嘘ではないけれども、彼らはきっとこんなオレの姿を見て戸惑うだろうし、驚くかもしれない。彼らに対して説明する工程や理解してもらう時間が一切省略されているからだ。初対面とか通りすがりの女に向かって「セックスしよう」といっているのと同じようなスタンスのオレの姿は、申し訳ないがアウターネット側の人間には曝せない。実際5年くらい前だろうか、家族だろうが昔の友人だろうが仕事仲間だろうが、全ての周囲の人間を自分のサイトに取り込んだことがあった。もちろんそこにはネットで知り合った友人もいた。中でも一番盛り上がっていたのはやはりネットで知り合った友人で、仕事仲間たちは、彼らと実際に合ったりするまで、決して会話しようとしたり、交わろうとしたりはしなかった。やがてオレが仕向けて、両者が合間見えることになっても、あまりうまくはゆかなかったし、いくつかのトラブルに発展したりもした。そのトラブルについて一応の原因は把握しているしメカニズムもだいぶ究明できてはいるがまだ、オレは多くを語りたがってはいない。過去の経験をふまえたオレは、ネット仲間とそれ以外の仲間、この両者の接近には細心の注意をはらっているといえるし、あれいら未だ、両者の接触を試みたことは一度もない。
2003.08.15
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昨日はリフレッシュ休暇だった。リフレッシュ休暇という休暇が割り当てられているわけではなく、勝手に、リフレッシュしようと決めて休みを取った。これをリフレッシュ休暇と呼んでいて、2ヶ月に1度ぐらいのペースで1日だけ会社を休むことにしている。そのリフレッシュ休暇に何をしていたかというと、ほとんど寝ていた。朝一度目を覚まし、起きた。水曜な燃えるゴミの日だった。この季節、生ゴミを放置しておくとものすごい腐臭がたちこめるから、面倒だからといって逃すわけにはいかないのだった。ゴミを出して朝食を摂り、スーパーモーニングが終わるのを見届けて、また寝た。2度寝して目が覚めて、起きたのが午後1時半だった。もっと寝ていられるとも思ったが、銀行に行く用事を思い出して、無理矢理起きることにした。このごろ、睡眠に関することをよく書いているような気がする。睡眠に、一番神経を使っているからかもしれない。シャワーを浴びて出かける支度を済ませたら、午後2時を過ぎてしまった。銀行の営業時間は午後3時までだったから、慌てて出かけた。自動送金の申し込み用紙に必要事項を記入して待合室の長椅子に座った。窓口では先日、住所変更をしたときに担当になったテラースタッフがいた。前回オレは30分も待たされたことに腹を立て、ふてくされ気味に応答した。なんとなく気まずくて、あのおねいちゃんにあたらなければいいなと思った。番号を呼ばれた。違うおねいちゃんだった。自動送金の手続きは、5分で終了した。この5分のために支度してわざわざ街へ来たかと思うと悲しい気持ちになった。腹が空いていたからドトールを探した。空腹を満たすだけならマックでもラーメン屋でもなんでも良かったが、ドトールのコーヒーを飲みたいと思った。そしてドトールといえばAサンド。コーヒーによく合う。オレが座った席のすぐ後ろには男の2人組がいて、そのうちの1人が低い声でしかもものすごい早口で、延々ともう1人の男に向かって喋り続けていた。こいつはアタマがおかしいんじゃないかと思うほどくだらない話を楽しそうにべらべらべらべら喋っていた。やがて話を聞いていたほうの携帯が鳴って2人は席を立ち店の外へでた。うるさい男の声がしなくなると今度は、中国語を喋る女の声が聞こえた。声のするほうを見てみると女2人組だった。ともすればいなくなった男2人組よりもエキサイトしながら中国語で会話していたのだったが、どういうわけか全く気にならなかった。それは言葉が理解できなかったからに違いないと思った。なんとなく近くにあったから風俗店へ入った。水曜の午後で客の数は少ないらしく、待合室には誰もいなかった。セーラー服を着た女のところへ案内された。小柄でスタイルは悪くなかった。顔は幼いようにも見えたが、暗い照明とメイクのせいでよくわからなかった。個室に入り制服に手をかけ少しずつ脱がしていくと、ところどろにタトゥーが彫られていた。全ての服を脱がせて現れた背中のほぼ全面に極彩色の絵が描かれていた。「見事だね、スジもん?」「違う違う、趣味で入れてたらね、こんなになっちゃったの」「お客さんなにしてる人?」「普通に仕事。今日は会社休んだ」「へえお休みかいいな。わたしはね、別に家で仕事してるんだけど、全然お金にならないから、こういうことしてるの」「どんな仕事してるの」「音楽系?つくってる。ハウス系の、打ち込みとか、あんなの。 機材とか買うと、もう高くて」「パソコンに繋げたりとか、してるわけ?」「そうそう、そうだ新しいパソコン欲しいんだけどね、いいのないかな、 持ち運べるやつ」「ああ、オレもね、新しいパソコン欲しいと思ってたんだ」「いくらぐらいの?」「15万ぐらいかな」「高いよねー」「高いね」そういえば新しいパソコンを買わなければならないことを思い出した。古いノートパソコンはファンが壊れて、熱を持ちすぎるといきなり電源が落ちてしまうのだった。その状態で、半年以上使っている。女の口の中で射精した後、少し世間話をして服を着て、パソコン専門店へ向かった。
2003.08.14
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フラジャーが届いた。正式には「おおフランスジャージ」というらしい。おおフランスというキャラクターをモチーフにした、サイクルジャージである。仲間同士で、制作やデザインを全てこなした。製造だけ、業者に発注した。まず「おおフランス」とは何か、というところから説明をしなければならない。彼は、彼というからには男性であるわけだが彼は、2ちゃんねる自転車板の象徴的存在、とでもいうべき存在だ。話はさかのぼる。オレが自転車に興味を持ち出したのは確か2,3年前のことで、その当時知った2ちゃんねるという専門的カテゴリが豊富な掲示板システムでオレはよく、技術や部品に関する質問をしていた。結果的には、オレのニーズに沿った有効な情報を、合理的に得られるといったケースはあまりなかったがそれよりも、2ちゃんねるの文化というか、例えばあけすけな悪意や欺瞞や、例えばありふれた正義感や自覚のない偽善といった、人の中に秘められた世にも醜い一面にオレが触れたということのほうが重要だった。本質的には憎むべきこれらの醜さを持った2ちゃんねるを、オレは気に入ってしまった。嫌いではなかった。以降オレは、この自転車板とともに暮らすようになった。話はそれる。「Q.スタイルシートについてわかりません。よかったら教えてください。」「A.『スタイルシート』で検索かけたらすぐわかりますよ、それぐらい常識でしょう」各分野で専門的な話をするweb掲示板でよく見られていたやりとりだ。アンサー側には、もっといくつかの回答パターンがあって、「A.わかりません、だけじゃ回答する方も困ります、なにがよくわからない のか考えをまとめてから質問してください」 などといったものもある。アンサー側に共通していることは、質問者にとって不愉快な応答であることと、質問者の質問に全く答えていないということ、そして想像力が著しく失われていること、などがあげられる。つまり一切前向きではないということだ。オレがweb掲示板をよく見ていたころ、こういった不愉快なやりとりをよく目にした。見ているだけで会話には無関係なオレまで、不愉快になってしまったりしていた。2ちゃんねるは、そういった不愉快なシーンが、よく現れるサイトでもあった。確かに有益な情報をスムーズに交換している部分も存在した。しかしそれは、花火大会における「花火」の部分であって、「混雑」とか「混乱」とかいったマイナスな部分に目がいってしまうオレにとっての注目は当然、不愉快なほうへ不愉快なほうへと向けられていった。しかしオレには、不愉快なものに対して必ず反発しなければいられない性質があって、ここでもその反発したい気持ちを発揮したがっていた。オレは2ちゃんねるに、ハマってしまった。オレのそういった時期にちょうど、おおフランスが現れた。おおフランスは、「荒し」専門の、非常に性質の悪い人間だった。しかしどういうわけか彼には、不愉快さはまるで感じられなかった。おおフランスは「荒し」として活躍した。罵られ、蔑まれた。しかし攻撃され続けても彼は、専門的な話とは無関係な会話を、延々と繰り広げていた。やがて数ヶ月経った。フランスは、まだ荒し続けていた。蔑みや哀れみといった彼にたいする呪いの言葉が徐々に沈静化して行くにつれて、荒しフランスを擁護する立場のグループが勢力を増していった。フランスに反対する勢力は攻撃を諦めたようなスタンスに切り替わったが、なおも呪いの言葉を吐きつづけていた。やがてBBSの中の、対立の構図が明確になっていった。フランス擁護派対、フランス否定派。派閥に加わることが嫌いだったオレ自身は、どちらともつかずという態度を示してはいたが、どちらかというと否定派の理屈のほうが心の底から嫌いだったし、フランス自身が持つバイタリティやポテンシャルに興味があったし、フランスをとりまく熱狂に嫉妬したりもしていた。どうにかフランスを取りこみたいという願いというか野望のようなものがあった。しかしオレは彼に迎合するといった安直な手段を採るのはやめることにした。例えばフランスを取りこむにしても傘下に組みいられるとしても、彼とは、「対等」でなければならないと思っていた。そのためオレは独自に、「中村不思議」というブランドを早急に開発し、確立させなければならないとも思った。オレが「中村不思議」というブランドを確立させていこうとしていた過程の中で交流を深めていったもう一人のサブキャラクターがいる。「こすりつけ最高」である。彼は当初、こすりつけ最高という名前ではなかった。「おおフラソス」当初そう名乗っていた彼は、まぎれもなくおおフランスに憧れていた中の一人だった。オレは「おおフランス」よりも、この「おおフラソス」と最初に接近することになった。我々は、接触した。ふとしたきっかけで、メールを交換するようになった。こすりつけに向けた最初のころのメールに、こう書いた記憶がある。「バーチャルを、リアルにしてやるよ。」今思えば安っぽいセリフだが、彼らと出会うことで芽生えたスリルや快楽への欲求について、オレは文字通り現実感をともなったビジョンをイメージできていたし、イメージとして湧いたことを相手に伝え、約束に変えることでオレは責任とか縛りみたいなものを自分に課そうともした。まずオレはフランスやこすりつけに会わなければならなかった。オレが彼らと会うことで何が起こるかということはちゃんと明確なイメージとして自分の中にあったし、そのイメージはとてもスリリングで刺激的だったから、あとは実現に向けて、オレがどれだけ努力できるかということだけが問題だった。我々は、派手に立ち振る舞った。多くの仲間が追従してきた反面、多くの批判にもさらされた。フランスは独自のリズムで客を取りこみ、批判をかわした。こすりつけは明確になってゆくレーサーとしての資質で、憧れを呼んだ。オレは主に、追従してくる客をねぎらうより、批判を処理する仕事が好きだった。それぞれの仕事を推し進めていくなかで我々は、実際に会うことにも成功していた。そして何度も、会った。あれから2年ぐらい、経ったかもしれない。フランスは、特製オリジナルジャージ2号を完成させた。フラソスだったこすりつけは、エースとして、仲間に影響を与えつづけている。2人は今でも、人気者である。オレはというと、もうずいぶん2ちゃんねる自転車板には書きこんでいない。フランスが、自転車に乗っているかどうかは定かではないが、フランスよりもオレのほうが、自転車に乗る回数ははるかに多いはずだ。フランスジャージは、8月9日に届いた。とてつもなく下品な仕上がりになっていた。30男が何人も真剣になって作ったと思うとばかばかしくて涙が出てきた。「おおフランス」という文字も、「おおフラソス」という文字も入っていた。大笑いしすぎて、泣けてきた。
2003.08.13
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花火は嫌いだ。確かに、真夏の夜に咲く大輪の花火は美しいし、眺めているだけで自然に涙が出てくるほど感動する。しかし、花火会場の混雑や、混雑が生む数々の不快さには耐えられない。他人との近すぎる距離とか、人が進まないときに発生する苛立ちや抑圧、執拗に繰り返される警官のアナウンス、長蛇の仮設トイレ、無秩序な集団、ショートカットする少年、急に立ち止まるカップル。苛立つ、そして疲労する。単純な損得勘定で言えば、花火の美しさや感動が、これらのマイナスな要素で全て打ち消されてしまうと思っている。花火観覧者には、2通りの人種がいる。「花火行ったよかったすごいキレイだった」まず花火のすばらしさを人に伝えたがる人と、「駅から1時間書けて歩いて進まなくてどこそこの橋からちょっとだけ見た」混雑の状況を説明したがる人の、2通りである。オレは紛れもなく混雑状況を説明したがるほうの人種であり、ということは花火に行っても、花火より混雑の方が印象に残っているということだ。混雑は楽しくない。だから花火は嫌いだ。とはいいながら今週末、花火大会に行くことになっていて、しかも非常に楽しみにもしている。「神宮外苑花火大会」は、チケット制になっていて、外苑で繰り広げられる花火を、神宮球場であるとか、国立競技場であるとか、秩父宮ラグビー場などのスタンドやアリーナから観覧しようというイベントで、例えば神宮球場は4500円で、スペシャルゲストにはあゆが来るといったように、花火以外の企画も充実していたりする。ちなみに我々が予約したのは、軟式テニス場で、入場料は1000円と安いが、ゲストが東京プリンなのが泣けてくる。チケット制ならば、殺人的な混雑に巻き込まれる不安はないと踏んでいる。本当は森のビアガーデンでバーベキューを楽しみながら観るという企画もあったが、1ヶ月前に予約した時点で、空席は3だった。キュートな銀行員たちと凧揚げした時のメンバーが基本になり、人の入れ替わりはありつつも総勢11名が今回も参加する。勢いよく仲良しグループとして成長していきそうだったが、大勢で集まるのは、これで最後になるかもしれない。何度か一緒に遊ぶうちに、グループとしての新鮮さがなくなっていったのも原因の一つだが、この春から夏にかけて、何人かの女に彼氏が出来てしまった。女にとっての彼氏は常に最優先事項だから、なかなか時間に都合がつけられない。男も、男同士で集まる理由は何一つない。という流れをたどって、全員が揃ってこのグループに合流する確率が急激に減ってしまった。このグループは今週末をもって、「仲間」としての機能を失う。ただ、仲間でいつづけることはあまり重要ではないとも思っている。10人の「仲間」の中のたった1人でも、「友人」に発展することのほうが重要だし合理的だ。または発展しなくてもいい。それはそれで疎遠になるだけだ。
2003.08.12
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「ナカムラさーん、私今大阪にいる。」ケータイメールが着信した。7月18日。差出人は、カラコ。本来カラコは、福岡に住んでいるはずだった。旅行かあるいは、なにかイベントでもあるのかと思った。いきなりだね、何かの宴会?そんなような返信をした。「私大阪に住むんだよ」突然だった。オレは言葉を失った。なななななんで?どうしてまた?慌てて返信した。タイトルには、「Re:」がいくつも並んでいた。カラコには2人の幼い子どもがいるはずだった。離婚調停が成立したという情報は知っていた。心配になった反面、ひとつの推測も同時に湧いた。大阪には、こすりつけ最高や、おおフランスがいた。我々は、2ちゃんねるの自転車板を通じて知り合った仲間だった。今は仲間ではなく、友人になっている。かけがえのない友人、といっていい。今になって思えば、友人を頼って新しい生活を始めようとする意欲や行動力を秘めたポテンシャルが確かに、カラコにはあった気がする。外へ向って拡散していきたい彼女の意欲に関して、彼女の書いた楽天日記を読んでいくうちにオレは、感じ取っていたといえる。後先を考えず、周囲の戸惑いを省みず、思いきった行動に踏み切る危うさのような雰囲気も確かに発していた。しかし同時に、絶対的な芯の強さや、経験に裏打ちされた自信のようなものもカラコは持っていて、彼女の対外的に危なっかしく見える部分において、見た目ほど危なっかしいとは思っていなかった。「いやなぜか大阪なんだよね。深い意味はあまりないかも。 もうすぐネット復活するよ。」カラコは既に決断していた。ホントかよ?オレはそう表現したかもしれないが、カラコならありえる、とも思っていた。7月18日。カラコのこの日のオレへのメールは、新しい生活のための手続きを全て済ませた後の、ただの報告のためだけのものだった。へへん、という控えめな自信を浮かべた彼女の顔が浮かんだ。オレはカラコの行動力に、ひたすら感動し、嫉妬した。「もしもし、起きてますか?どうぞ」7月27日の深夜だった。起きていた。たまたまケータイもそばにあったから、メールの着信を知ることができた。こすりつけだった。起きてるし、メッセンジャーも繋がってる、なにか用か。そういった内容の返信をした。ケータイが鳴った。メールの着信音ではなく、電話の呼出音だった。おう久しぶり、こんな夜中になんだよ。不機嫌そうにオレはいった。「なんだ、てなんやねん、今ションベンしとんねん、いいらかまっとけ」呼び出しておいて待たせるという理不尽なことをこすりつけはしてオレを苛立たせようとした。しかしいつものことだった。いいから早く用件いえよ、切るぞ。苛立ったような言い回しをするのがオレの役回りだった。「あわてるなや、ちょっと待っとけ。」待った。沈黙が流れた。「あんな、カラコと、一緒に暮らすことになったから、それだけ伝えとこう思て。」沈黙が流れた。つまりボールを投げられた方のオレが沈黙した。「ぅえ?どどどどういうこと?ちゃんと説明しろ説明」とはオレがいった。こすりつけはその経緯を説明しだした。しかしその説明を、オレはほとんど聞いていなかった。カラコと一緒に暮らすことになった、という言葉だけで、オレは全てをイメージしてしまっていたからだった。こすりつけの長い説明は、オレのイメージの裏付けでしかなかった。つまりオレが想像していたことと、カラコとこすりつけの間に起こったことは、全てが一致したということだった。ひとつ、こすりつけがオレに対して説明していないことがあった。カラコの、子どもとかどうしてるわけ?元気なのどうなの?「おう、ちっちゃいのおるで、そのへんにころがっとる。」こすりつけのその言葉を聞いて、オレはなぜかものすごく安心した。カラコの子どもを、「その辺に転がっている」という表現するこすりつけのことが、オレは嫌いではない。カラコとこすりつけ最高、この2人が今必要としていて、かつオレや我々に出来ることは、「祝福」だ。もしよければなんとなく、オレの大切なこの2人の友人に、祝福の言葉をかけてやってほしい。http://plaza.rakuten.co.jp/?user_id=3443934 「うのはな」が、ここでいうカラコのことです。我々が見守っているかもしれないというプレッシャーはきっと、2人のリズムを育むことになるだろう。
2003.08.11
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結局南極、家でダラダラ冷房にあたるっているのはやめて、出かけることにした。約半年も乗っていなかったロードバイクを引っ張り出して、埃をはらう作業から始めた。チェーンとかギア用の部品などはところどころ錆びていた。鉄製のペダルは腐食がひどく、これではあまりにも恥ずかしいからということで交換することに決めた。後輪はブレーキと接触してうまく回転しなかった。ちゃんとまっすぐにしてもらう必要があった。自分でやろうとは思わない。メカニカルな部分を補正したり調整したりするような作業はオレには向いていないからだ。自転車屋に持っていくにしても、あまりにも埃だらけだと恥ずかしいからということで、磨いたり、ポンプで空気を入れたりしていた。汗が何滴も落ちてきた。正午過ぎ、おそらくこの日、一番暑い時間。Tシャツを一枚ボロ切れにして、ごしごし磨いた。思うようにはキレイにはなってくれなかった。池袋マルイのフィールド館へ行った。久しぶりに見る店長は変ってなかった。即席で磨いたことがすぐにわかりそうなオレの黒いロードバイクについて彼はなにも言わなかった。フレ取りと、ペダル交換を頼んだ。今すぐには出来ないから、少し預からせてくれとのことだった。時間が空いた。ちょっと散歩がてら、池袋で買い物することにした。サンシャイン通りには、肩や足や胸元や、腰や腹やヘソを露出させた若い女があふれていた。女とほぼ同じ量の男もいたはずだが、オレは女しか見ていなかった。ノースリーブのワンピースから出ている肩の部分とか、デニムのミニスカートから生えている足とかがすぐ間近に現れたりして、目のやりばに全く困らなかった。背中の大きく開いた服が透明なヒモで吊るされていたり、その背中から大粒の汗が流れて薄く焼けた地肌を伝い、綿の素材を濡らしていく様子とか見て、変な気持ちになってる男は絶対にオレだけではないと思った。オレも含めたこの池袋のストリートにいる男の中には、露骨にスケベそうな顔をしているやつはいない。しかし潜在的にはかなり高い確率で、女の露出されている部分に目を奪われているに違いない。派手な女とすれ違うとき、必ず目がいってしまう。ものすごくいい女だったとしても、見たからといって得になることはなにもない。採点しているわけでもないし、口説くわけでもない。しかし見ないで過ごすと、なんとなく損をしたような気持ちになる。だから必ず、女に目がいく。街はふやけきっていた。池袋西武の真正面で、右翼の街宣車が鬱陶しい演説を繰り広げていたが、傍らにいた迷彩服のスタッフの一人は、ケータイで長電話をしていて、顔は弛緩しまくっていた。ハワイとかグアムの人は、あまり戦争をしたがらないのではないのだろうか、と思った。沖縄県の犯罪発生率が、他の例えば長野とか福岡などに較べて、少ないかどうかはわからない。でも、沖縄の人は温厚で温かいという話をよく聞くから、きっと人同士でいがみ合うということも少ないに違いない。ハワイやグアムなどの、亜熱帯気候下の土地に住む人も、統計的に見ればきっと同じタイプかもしれない。もしオレの仮説が正しければ、暑さと戦闘意欲は反比例しているということになる。南の島で戦争は、始まらないような気がする。イラクは、暑い土地だけれども戦争が好きな国だが、暑いのになぜ戦闘的であるという例外が成立するか考えてみるとたぶん、女性が肌を露出していないからだ。ということは、暑さにまかせた開放的なファッションを楽しむ女性は、平和のシンボルだ。女性はじゃんじゃん肌を露出したほうが、平和のためにもなるし、オレのためにもなる。
2003.08.10
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台風の接近による集中的な豪雨と強い風に東京が診まわれた土曜、家の中にたてこもることをオレは決意した。雨風で外出が困難を極めていたことと、平日の疲労を回復するための時間が必要だったことなどなから、午後2時、少し早めではあったが冷蔵庫から1本目のビールを取り出し、後ろめたさを含ませつつオレは350ml缶のプルタブを開けた。ビデオを借りに行くことも許されない状況下の中で、どうこの立てこもりを充実させるかが当面の問題ではあったが幸いなことにテレビでは、「踊る大捜査線」の特番が放送されていた。テレビシリーズのころよりこの「踊る」を好んで見ていた。ビデオや再放送で何度も見た2時間スペシャルの再放送だったが、前回見た日から結構な時間が過ぎていたこともあり、新鮮な気持ちで興奮して見られることができたのだった。久しぶりに踊る大捜査線に熱狂してしまったオレは上機嫌になった。以降、ビールを何本飲んだか憶えていない。台風一過により関東甲信越地方にはからっとした晴天が到来した。十分な睡眠に満足したから起きたというよりも、暑くて寝ていられなくなって仕方無しに起きた今日は日曜。サンデージャポンを見ながら、嫁が用意してくれていった味噌汁をすすっている。納豆と、明太子。嫁はもう仕事に出かけた。嫁がいないのをいいことに、エアコン無しで汗だくになるといったようなマゾ的な休日を過ごそうと思ったが、あまりの熱気でなんだか気持ち悪くなってきて、耐え切れずその企画は断念させられた。エアコンの無機質な風にあたってようやく精気を取り戻したオレは重い腰を上げ、水に近い温度に設定したシャワーを浴びるところまで到達した。今は扇風機にあたりながらこれを書いている。ものすごく悩んでいることがひとつだけある。このまま家の中でだらだらと過ごすか、あるいは外へ出て汗をかいて、帰ってきてからおいしくビールを飲むかどうするかということである。自転車を用意するのが面倒だ。自転車を用意するだけで汗をかいてしまいやる気がそがれてしまう可能性がある。かといって家の中だけで過ごすのは、昨日と同じ行為だし気がひける。今、ものすごく悩んでいる。
2003.08.09
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今朝、寝坊をした。目覚ましを止めたという記憶もなく、ふと目を開けたとき、周囲の光の加減や気温がいつもより遅い時間のもののような気がして、少し慌てて枕もとの時計をつかみ、目のすぐ近くまで寄せて時間を確認すると、すでに起きなければならない時刻を超えていた。慌てて飛び起きて急いで支度することと、遅刻した言い訳や遅刻するとして何時まで寝ていられるかということを考えること、この2点を秤にかけた場合、選ばれるのはいつも後者のほうだ。仕事のピークが過ぎて抜け殻のような状態になったまま、昨日は予定通り早く家に帰って、早い時間から飲み始めた。最終的に幼児なみの記憶力しかない脳の状態になって、昨今寝苦しいベッドに入り、1分もしないうちに意識が吹っ飛んだ。この頃よく眠れる。眠れなくて苦しんでいた自分自身が嘘のようにぐっすりと深く眠れる。遅刻気味に会社に着いても、眠気はずっと取れなかった。目を開けているのが億劫だ。なぜ会社に仮眠室がないのだろう。15分だけ眠らせてくれれば、最高の仕事を毎日してやるのに。今、これを書いているオレはものすごい眠気に襲われている。あまりにも眠すぎるときに書き物系の仕事をしていると、ふと覚めて読み返したときに、書いた憶えのないことが書かれていたり、酔っ払いのように何度も同じことが繰り返し何度も同じことが書かれていたりしてぞっとすることがある。15分だけ眠らせてくれれば、最高の仕事をしてやるのに。経営者出て来い。今5人の方をリバースより日記リンクさせていただいている。mimi、まるみちゃん、つなみ嬢、うのはな、イザビ。個性的な面々のそれぞれの個性的な日記を、いつも楽しみにしている。みんなそれぞれ個性的で、行動パターンも生活ロジックも違う。もちろん考え方や日記の文体も全然異なるが、2つだけ、共通点がある。1つ目は、全員が女性であるということ。「中村さんのホームページでリンクしてるの、みんな女の人だよね」と副主将にいわれたことがある。確かに、男の日記はあまり好んで読まないかもしれない。それに、女性が大好きだ。そして2つ目の共通点は、言葉を飾らないところ、だと思う。言葉を飾らない、というか、気持ちを飾らず、体験したことや考えをストレートに表現してるというところで、この5人は共通しているような気がすると勝手に思っていて、といことはオレがそういう飾らない文体や飾らない精神が好きで、飾らない文章を書く人を尊敬しているということでもある。おっと、書いた憶えのないことが書いてある。書きながら、いつのまにか眠ってしまっていたようだ。少し居眠りしたら、すっきりした。
2003.08.08
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うのはなが発案した。オレが体裁を整えたかもしれない。まるみちゃんが盛り上げてくれた。「コラボ日記プロジェクト」は広がった。完成したといっていい。さて、リリースしたい。つまり誰かがこの企画をやりたくなったら、身内とか周囲だけに呼びかけてやってもらってもいいし、あるいは大きな流れを自発的に作ってもらってもよくて、ようするに、「みんなでコラボったらいいじゃん」ということ。「誰々さんのお誘いにより、参加させていただきます」なんとなくそんなような雰囲気を感じとって、でもオレはなんとなく違うんじゃねえか、とも同時に思った。誰かを誘って、より多くの人が同じテーマに向って進むということの気持ち良さは果たせたが、なにか違う、と気持ちもあった。たとえば「参加させていただく」というようなスタンスの言葉に、オレはなんとなく反発したがっていた。これは単なる破壊衝動かもしれない。オレはよく、完成されたものを破壊したくなることがある。もの、というか、いわゆるカタチのあるものではなく、カタチのあるものを破壊するのは犯罪なだけだけれども、この場合、概念とか考え方とかいったカタチの無いもの、例えば古いしきたりだとか、メディアによって植え付けられてきた愚かな価値観だとかそういったものだ。このプロジェクトは、「参加する」ものではないと思う。じゃあなにをするものかといわれると、はまる言葉は見つからないけれども、もっと局所的に、たとえばサイト内で呼びかけて、おすすめ新着を同じ色に染めるといったような目標に向けてもいいし、もっとおおごとにしたいなら、大々的に宣伝してもらってもかまわないとも思っていて、それは「参加」するだけじゃ味わえない種類の快楽だ。局所的なところでたとえば5人とか10人とかで、これと同じようなことをやったら面白いんじゃないだろうか。その場合、諸先輩方々へ向けた挨拶もいらないし、この概念を構築した我々は、著作権を放棄するから、負い目とか金銭の授受は発生しない。このテーマのところを使ってくれてもかまわないし、使わなくても別にいい。気に入らないテーマへの不参加も自由だし、参加不参加に至る経緯を説明する必要もない。でも、我々は独自に、このテーマスレを使った盛大なプロジェクトをやるかもしれない。おそらく、他のどの局所的なイベントよりも、盛大なことになるだろう。そんなような自信や信頼や実績が、ここにはある。さてみんなでじゃんじゃん、「コラボ」してみよう。
2003.08.07
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先週の木曜からだからほぼ1週間、かなり仕事がハードだった。仕事が終わって家に着くのは毎日深夜0時を過ぎていたし、それから飲み始めると、酔うまで2時間ぐらいかかるから、寝るのはいつも2時過ぎで、9時からの始業に備えるため7時起床だから、睡眠は5時間ということになる。仕事の間は集中と緊張が断続的に起こっていて、おそらく脳内麻薬はいつもの3倍分泌していた。そのため眠りたいという欲求はあまりわいてこなくて、疲労も感じなかった。何万通りもの数値がぴたっと合って、全ての作業が終了したのが昨日8/6。責任を果たした達成感が興奮を呼び、極度の集中と緊張から解き放たれたという解放感が狂喜を生んだ。18時、仲間6人は八重洲通りと中央通りの交差点そばにある居酒屋「天狗」に入り、全員が一律同じニヤニヤした顔つきで「いえーい」を連発した。キュートな銀行員と恋愛観やセックス観について話をした。この日はもう一つのビッグイベントであるコラボ日記プロジェクト当日でもあった。日付が5日から6日に切り替わった深夜に大急ぎで日記を書いてUPしたからなんとか責任は果たせたと思っている。そしてこの作文に書いたこととほぼ同じ内容のことを、キュートな銀行員に向けて語った。コラボ日記まつりの雰囲気を物理的に体験できない状況下にいたオレは、アタマを祭りモードに切り替えて、キュートな銀行員に向かって「セックス」という言葉を連発することで代替的に昇華させようとしたのかも知れない。まだ日記リンクしてる人以外の日記を読めていなくて、でも一両日中には、ちゃんとゆっくり拝見したいとも思っていて、リアルタイムで祭りを味わえなかったことを後悔しつつ巡回したい。今まさに抜け殻のような気持ちになっている。次の仕事に取り掛かる気は今さらさらなくて、ただぼーっと口を開けてこれを書いている。今日は早く帰ろう。そういえば謝辞を忘れていた。今回幹事としてプロジェクトを盛り上げてくれたまるみちゃんグッジョブ。そしてリバースから日記リンクしているつなみ嬢、mimi、イザビ、うのはな。今回もまた、1人も欠けることなく参加していただいた。全てのオススメ新着が、同じ色に染まった画面を再び目撃することができた。この感動は忘れない。そしてコラボに参加した全ての人に、ありがとう、というのも少し筋違いかもしれないけれども、というのも、宴会の最後で一本締めするような意味の言葉が思いつかなくて、「お疲れさん」というのも味気ないし、でもとりあえず、みんなどうもありがとう。
2003.08.06
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一日中狭い部屋にこもって女の肌に触れずっと体液で汚れていたいような欲求は、中学3年の秋から二十歳をわずかに過ぎるぐらいまで確かにあって、例えば女とつきあっていても、オレはずっと部屋の中にいてダラダラと抱き合ったりしていたいのに、女は外へ出かけて食事をしたがったり買い物に付きあわせたりしたがっていて、オレはとても面倒だなと思ったが、カラダだけが目的なんじゃないの?とか言われた場合に、うまく言い逃れられる言葉をそのころは知らなかったし、外へ出てデートらしいことをするのが本当はニガテなタイプの人間と思われて嫌われて別れることになったら、またイチからセックスの相手を探すのも面倒だと思い、妥協できる範囲の中でデートのようなことをしたことがあったがそのころは、本当にセックスだけを女には期待していたし、セックス以外のことをしていた時間というのは本当は楽しくなくてあまり憶えていないし、でも楽しいということを相手に伝ようとしていたことだけははっきりと当時の意識として憶えていて、なぜ楽しくもない食事やデートの時間を楽しいことにして女に伝えたかったかというと、女のリクエストに応えることで、セックスできるかもしれない、ということを実感していたからかもしれない。そのセックスできるかもしれないという予感はあるいは損得勘定や金銭感覚に似ていて、メシをおごったり遊園地や水族館に連れていったりすることで、例えば今日のサービスの内容が変ってくるとか足の開き方が違ってくるとかいった直接的な利益につながるものだと思っていたし、実感や実績としてげんに、ホットドックプレスやブルータスを読まなくてもわかることだった。この場合、愛情とセックスはあまり関係ない。セックスしたい、という欲求を達成したいから、女の愛情に訴えかけるということはあるかもしれないが少なくとも、愛情を表現したいからセックスしたいのではない。クルマに似ている。欲しいクルマがあったとする。少し高い。でも乗りたい。乗っているとことを想像する。このクルマがある生活を想像する。快適かもしれない。思い通りに走ってくれないかもしれない。よく故障するかもしれない。曲線が美しい。いい音を出す。スピードがある。クルマを選ぶときにもっとも重要なのは、デザインや性能や仕様や一体感であり信頼性とかアフターサービスの充実だったりするかもしれないが、けして愛情ではない。誤解して欲しくないから言うが、愛情のないセックスがいいといっているわけではない。セックスしたいという欲求の発端が、愛情ではなく、女の肌や、曲線的なデザインへの憧れであるとかそういったものだということだ。愛情がないともいっていない。3回目ぐらいで、乗り心地がつかめる。愛情は、あとからじわじわとわいてくる。
2003.08.05
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このごろ帰りが遅くなっている。今日も12時過ぎになってしまった。先週までは、他人のミスをフォローしていて遅くなったが、今日はオレのミスが発覚して、それで遅くなった。ミスを発見するための工程の中で見つかったミスだから、影響はそれほど無かったが、自分の時間や仲間の時間を必要以上に使い迷惑をかけることになるから、やはりミスを出すと落ち込んでしまう。今日は少し落ち込み気味に仕事をしてきた。明日までに、終わらせなければならない。そしてかなり早い時間に終わらせないと、6日にはコラボ日記プロジェクトが待っていて、オレは何も書いていないし、何を書くか考えてさえいないから、時間に余裕を持たせる必要があって、そのため明日はかなりスピードを出して仕事をしなければならない。うまく仕事が早めに終わったとしても、果たしてアタマが、数字からセックスに切り替わってくれるのかどうかも心配のタネだ。前回のコラボはだいぶ準備期間があったから、それなりに労働力を注げ、納得いく作文が書けたと思っている。忙しくても、前回と較べて品質を落とすようなことはしたくない。それから、みなさんの日記は毎日読んでいます。読んでばかりでなかなか書き込めなくて申し訳ない。でもちゃんと、読んでいます。
2003.08.04
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「日にちを決めて、みんなで同じテーマの日記を書いたら面白いんじゃない?」うのはなは、いった。「すると同じ日に、同じタイトルの日記がずらっと並ぶわけだ。つまり『コラボ』、ってわけだね?」中村は、完成図をイメージしてしまった。身体が、震えた。風の中の昴、砂の中の銀河。一大プロジェクトだった。全員が賛同するか、自信がなかった。中村は、打診のメールを送り続けた。思うように、返信は届かなかった。全員が承諾しなければ、このイベントは無意味だと思っていた。「コラボ日記プロジェクト」。旗揚げさえ不安な状況のまま、プロジェクトの名前だけが決められた。不安を抱えたまま、当日をを迎えた。朝、楽天を見た中村は、目を疑った。mimi、つなみ譲、まるみ、うのはな。全ての日記が、出揃っていた。全ての日記に、同じタイトルがついていた。中村は、身体が震えた。まるみが、独自のネットワークを使った。すると記事が、膨れ上がった。このプロジェクトには、チカラがある。中村は、身体が震えた。つばめよ、地上の星は今何処にあるのだろう。http://plaza.rakuten.co.jp/dir.phtml?action=theme&theme_id=33123 (これまでの経緯や足跡の全記録)これは、全ての愛すべき仲間たちが、同じテーマから羽ばたく物語である。
2003.08.03
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あごひげのドライバーは獲物を捕らえたときのような嬉しそうな顔をして「ゲームオーバー」といって飛びついてきて、アスファルトに自転車ごとオレを倒した。オレは転がったがすぐに立ちあがりあごひげの攻撃に備えた。オレとあごひげはもみ合ったまま車道から歩道へと移行した。歩道のすぐ横にはマンションの駐輪場があって、駐輪場の蛍光灯に2人は照らされたままお互いの腕や髪の毛や顔や服をつかんだまま至近距離で打撃し合った。オレがあごひげの下半身めがけてタックルして倒れこませ、馬乗りの状態になろうとしたところであごひげは必死に抵抗した。オレのワイシャツのボタンは上から3つがはじけ跳んだ。マウントポジションをめぐる攻防がしばらく続き、やがて膠着した。あごひげは下になっていたが、まだ不敵な笑みを浮かべていた。後ろから金髪が近づいてくる気配を感じた。引き剥がされて2対1になったら圧倒的にオレのほうが不利だった。万事休すか。しかし金髪は攻撃には参加してこず、逆に2人を制止しはじめた。潮時。オレとあごひげは離れた。呼吸を整えた。身なりを整える気にはなれなった。車道にはオレの自転車やライターや時計が散乱していた。金髪は自転車を起し上げてガードレールに立てかけてくれた。時計やライターなどのこまごまとしたものを拾いに行こうとして車道へ出た瞬間、黒いセダンが近づいてきてオレはいやな感じがした。黒いセダンのタイヤはオレの小物をなぞるようにして踏みつけて、そのまま過ぎ去っていった。「待てこらおい、セダンちょっと待て」オレはかなり大きな声でセダンを止めようとしたが止められなかった。オレは金髪に制止された。金髪はオレが大声を出すことを恐れているようだった。セダンに踏み潰された時計は0時半で止まっていた。ジッポーはひしゃげてゆがんでいて、ふたがうまく開かなくなっていた。2人に囲まれて、これまでの経緯を説明した。自転車の右横スレスレを猛スピードで掠められて恐怖を感じたこと、恐怖を感じたことを相手に伝えたかったということ、そのために挑発ししたし、助手席から殴られたから信号で追いついたときにクルマを蹴ったのだし、それで逆上するのはちょっと筋が違うと思っているということなどを冷静に説明した。「で、どっちが悪いの?」相手が非を認めるとは到底思えなかったが、話を終わらせる必要があったからオレは聞いた。「そりゃどっちもどっちでしょう」あごひげが答えた。「じゃあしょうがないね、警察呼んで話をしようか」「いいよじゃあ警察呼ぼうよ」あごひげは開き直った。オレが携帯を取り出して電話をかけようとすると、「ちょっと電話、待ってもらえますか」金髪が止めた。この2人は、酒を飲んで運転していたのだった。「酒、飲んでるわけ?」「はあ、まあ」このとき、ゲームの主導権はオレに移った。 ------土曜は江戸川の花火大会に行ってきた。近所に住んでいる友人が、1週間前から特等席をとってくれていた。開始2時間前にJR小岩駅から河川敷へと続く道は大混雑していた。たどりついた特等席は、打ち上げ場所の正面だった。そのため視界いっぱいに、いろとりどりの花火が広がった。ビールを飲んで感情が昂ぶっていたこともあり、自然に涙が流れてくるほど感動した。いろとりどりの花火よりも、色の無い花火のほうがより感動的だった。カラダが震えた。いよいよもって、夏である。
2003.08.02
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深夜自転車で、クルマとケンカした。御茶ノ水から水道橋へと下る長いだらだらとした坂をオレは猛スピードで駆け下りていた。さらに猛スピードなクルマがオレの横を掠めた。オレは恐怖と苛立ちを憶え、怒りをそのクルマに向けて表現したくなった。交差点を過ぎ飯田橋へ向う直線の赤信号で白いライトワゴンを捕らえた。ライトワゴンは信号待ちの先頭になっていて、オレは自転車でライトワゴンの先へ着けて、赤信号が青に変わっても動こうとせず、クラクションを受けながらのろのろと発信してライトワゴンをもっと苛立たせた。クルマに乗っていたのは若い2人連れの男で、オレが運転席に視線を送るとドライバーはサイドブレーキをひいて下りる仕草を見せて挑発した。髪の毛を逆立たせていてあごひげを生やしていた。助手席の男は短い髪を金髪に染めていた。クラクションが鳴り響いていた。それでもオレは3車線の中央のレーンの中央を自転車でのろのろと走り出して、苛立ちを表現した。ライトワゴンはクラクションやエンジンの音をさらに上げたがオレはかまわなかった。ようやくライトワゴンが、3車線のうちの一番中央よりのレーンにスライドしようとしたとき、助手席の窓が開いて金髪のほうがオレを殴った。殴ったというよりは軽く触れた程度で、痛みも損傷もなにもなかったが、その行為自体悪質と思いオレは怒りを憶えたのだった。白いライトワゴンはオレを殴ったまま過ぎ去ろうとしたが、幸いにもまた信号に捕まっていた。オレはクルマの右側からまわりこんで、蹴りを放った。ライトワゴンは急激に怒り出した。オレは自転車でそのまま過ぎ去ろうとしたがライトワゴンはオレの前に立ちふさがろうとした。ブレーキやシフトレバーを上手くコントロールしてスピードを調節したくみに追跡をかわし、暗がりの路地に入ったところで一息ついたのだった。うまくかわせた。そう思った瞬間、後ろからあのライトワゴンが近づいてくる気配を感じた。おそらく助手席や運転席側の窓も全開になっていて、そのため車中にいる2人の若者の怒号が聞こえてきたのだった。自転車の前に無理矢理クルマをつけられて、逃げる術もなくなってあえなくオレは、あごひげのドライバーにつかまってしまった。
2003.08.01
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