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クロニクル 立川基地返還1977(昭和52)年11月30日あれから44年になるのですね。この日、米軍の立川基地が接収から32年3ヶ月振りに全面的に日本側に返還されました。基地内に多くの土地を持つ立飛企業や昭和飛行機といった上場企業の株は、基地返還が噂されるたびに、思惑的に買われ、この時期も高値にありましたが、現実に返還の日を迎えると、見事に材料出尽しで安くなりました。立川基地に続き、横田や朝霞の基地も縮小、返還されて行くのですが、神奈川県の厚木基地は、市街地に隣接しているにもかかわらず、夜間の離着陸訓練が繰り返されるなど、住民感情を刺激する事態が続いています。日本政府の米国と米軍に対する弱腰のなせる業です。この現実を見るにつけ、72年に核抜き本土並みの歌い文句で、祖国復帰を果したにもかかわらず、相変わらず基地の大波の中に、住民の居住地が存在するが如き状況に置かれている、沖縄の皆さんの思いはいかばかりかと、思わずにはいられません。普天間返還問題ひとつ、23年たっていまだに決着できず、移転を巡ってまたもや沖縄の皆様の心を傷つけている政府のやり口に、憤りを感じています。なお、基地の跡地には、昭和記念公園が建設され、多くの市民の憩いの場になっていることはヒットでした。
2021.11.30
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クロニクル 足利銀行一時国有化2003(平成15)年11月29日18年前のことです。この日金融庁は、足利銀行を債務超過と認定し、一時国有化する旨を発表、即日実施しました。地方銀行の一時国有化ははじめてのケースでした。金融庁は4月に、極度の経営不振に陥っているりそな銀行への公的資金の投入を決め、5月に同行に対し2兆円の公的資金を投入しています。竹中平蔵金融大臣は、りそな銀行に対しては経営責任を問うことなく、りそなの債務超過説を一蹴、あくまで健全行に対する資本注入スキームによる公的資金の投入であるとの、立場を崩しませんでした。それに対し、経営規模が小さく、営業基盤が主として栃木県内に限られ、影響力が限定的な足利銀行には、破綻処理を実行するという、どうみても二重基準としか思えない処理策が実行されました。影響力の大きいりそなは救済する。今後は大手行は潰さず、資本不足と認定したら、貸し渋りを防ぐために、経営責任は問わない事で、経営者の抵抗を防ぎながら、積極的に公的資金を投入するという決意を、間接的に表明したに等しい行為でした。このメッセージを積極的に受けとめた外資は、長かった日本の金融不況も、ようやく脱出の糸口を掴んだと評価し、13年振りに、積極的な日本株買いのスタンスをとるようになりました。ここに株価は底打ちし、折からの中国市場の急速な成長にも助けられて、日本経済はようやく、バブルの後遺症から抜け出すきっかけを掴んだのでした。国有化された足銀は、その後野村証券を中心としたグループに売却され、国有化を脱却し、その後隣県茨城県を拠点とし経営内容の良い常陽銀行との合併を選び、現在は同行中心の『めぶきフィナンシャルグループ』に属しています。
2021.11.29
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クロニクル 足利銀行一時国有化2003(平成15)年11月29日18年前のことです。この日金融庁は、足利銀行を債務超過と認定し、一時国有化する旨を発表、即日実施しました。地方銀行の一時国有化ははじめてのケースでした。金融庁は4月に、極度の経営不振に陥っているりそな銀行への公的資金の投入を決め、5月に同行に対し2兆円の公的資金を投入しています。竹中平蔵金融大臣は、りそな銀行に対しては経営責任を問うことなく、りそなの債務超過説を一蹴、あくまで健全行に対する資本注入スキームによる公的資金の投入であるとの、立場を崩しませんでした。それに対し、経営規模が小さく、営業基盤が主として栃木県内に限られ、影響力が限定的な足利銀行には、破綻処理を実行するという、どうみても二重基準としか思えない処理策が実行されました。影響力の大きいりそなは救済する。今後は大手行は潰さず、資本不足と認定したら、貸し渋りを防ぐために、経営責任は問わない事で、経営者の抵抗を防ぎながら、積極的に公的資金を投入するという決意を、間接的に表明したに等しい行為でした。このメッセージを積極的に受けとめた外資は、長かった日本の金融不況も、ようやく脱出の糸口を掴んだと評価し、13年振りに、積極的な日本株買いのスタンスをとるようになりました。ここに株価は底打ちし、折からの中国市場の急速な成長にも助けられて、日本経済はようやく、バブルの後遺症から抜け出すきっかけを掴んだのでした。国有化された足銀は、その後野村証券を中心としたグループに売却され、国有化を脱却し、その後隣県茨城県を拠点とし経営内容の良い常陽銀行との合併を選び、現在は同行中心の『めぶきフィナンシャルグループ』に属しています。
2021.11.29
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クロニクル 国鉄民営化関連8法案成立1986(昭和61)年11月28日35年前のことです。もうこんなに経ったのですね。この日、参議院で国鉄民営化関連8法案が賛成多数で可決成立しました。ここに、国鉄の分割民営化が確定しました。こうして、翌年4月1日、国鉄は本州部分を、東日本、西日本、東海の3社に、そして北海道、四国、九州が各1社、JR貨物に、国鉄清算事業団の合計8社に分割して、再出発することになりました。赤字はすべて国鉄清算事業団に押し付け、資産を売却してなお残った赤字はほとぼりの覚めた後に、こっそり税金で穴埋めしました。結果、本州3社と、必死に知恵を絞って、列車利用の観光客の呼び込みに成功したJR九州は黒字化を達成、ストも打たず運賃の値上げも最小限に抑えて、国民に喜ばれました。しかし、過疎化の進むJR北海道と同四国、そしてJR貨物は、黒字化は難しいと判断した政府や元国鉄幹部に見捨てられ、路線の縮小と減便を繰り返し、赤字を累積し続けているため、新規の設備投資も出来ず、必要な補修も十分に行えないため、JR北海道などは列車事故を繰り返し、益々利用者を減らしています。JR貨物は、まだ必死の努力を続けていますが、北海道と四国は、現経営陣を追放して、やる気とアイデアに満ちた気鋭の経営者をスカウトして、若い力を結集した新機軸を次々に打ち出していくことが望まれますね。北海道も四国も人口減に歯止めをかけ、地域に仕事とお金と人を呼び込むには、鉄道の力の再活用が欠かせないのですから…
2021.11.28
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クロニクル ミッチーブーム1958(昭和33)年11月27日63年前になりますね。この日、宮内庁は、当時の皇太子明仁親王と正田美智子さんの婚約が整ったことを発表しました。天皇家にとって、初めての民間女性との婚約ということで、大きな話題となりました。マスコミは、お2人が夏の避暑先の軽井沢のテニスコートで知り合い、交際を深めたことなどを報じ、中流層を中心に、テニスブームと軽井沢ブームが起きたのですが、それ以上に美智子さんブーム、通称ミッチーブームが、日本中で沸き起こりました。お2人の結婚は翌年の4月10日、慶祝ムードで日本中が臨時のお休み、多くの人がテレビで放映された式後のお2人の馬車パレードを、昼下がりにテレビ桟敷で見物したものでした。高校2年生になりたての私もその1人でした。この放映をテレビで見るために、テレビを購入した家庭(まだ白黒テレビでしたが)も数多かったようですね。そのお二人、その後30年少々天皇・皇后を務めあげて、公務を卒業され、今は上皇夫妻として老境の日々をお過ごしのようです。悠々自適にお気楽にお過ごしだと良いのですが…
2021.11.27
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クロニクル 公労協スト権ストに突入1975(昭和50)年11月26日もう46年前の話になります。今では信じられないほど労働組合の力が強かった時期の話です。当時、公共企業体等労働協議会(略称 公労協)を組織する三公社、五現業(国鉄・電電公社・専売公社、郵便・林野・印刷・造幣・アルコール専売)の総評系の9組合(当時の組織人員は総計86万人といわれました)は、この日、ストライキ権の奪還を目指して、統一ストライキに入りました。三公社・五現業に属する労働者たちには、企業の公共性に鑑み、労働三権のうち団結権と団体交渉権のみが認められ、争議権(その最終形態がストライキです)は認められていなかったのです。そのため、公労協の諸組合にとって、彼等が奪われていると考えていたスト権の回復は、長年の悲願だったのです。当然スト権回復にかける組合員の意気込みも半端でなく強かったのですが、当時の三木首相は「スト権ストは政治ストであり、一切の妥協はしない」と言明、12月3日まで、8日間192時間に及んだストライキは、結局何の成果もなく終息したのです。スト権ストの敗北を1つの大きな曲がり角として、戦後の労働運動は退潮に向いました。若者の労組放れも著しく、現在では8日間の連続ストなど、今や昔といったところです。しかし、後日談として三公社はその後民営化され(国鉄は分割の上での民営化でした)、現在は夫々、JR各社、NTT,JTとして、各組合にはスト権も認められています。しかしストを打つような気配は現在では少しも見られません。五現業に関しては、2005年の郵政解散と郵政の民営化が記憶に新しいところですが、林野や造幣等については、なお今後に議論が残されています。
2021.11.26
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クロニクル 共同募金始まる1947(昭和22)年11月25日74年前のことです。この日、初めての共同募金の募金活動がスタートしました。当時で総額6億円近くが集ったと記録されています。戦後の混乱期、いまだ食糧不足が続く中でのことです。戦争で親や兄弟を亡くした戦争孤児も多かった時代です。貧しいながらも気持の温かい人々の浄財が集まったのでしょう。共同募金のスタートは、翌年からは10月1日となり、同時に赤い羽根も使われるようになりました。当初は良かったのですが、次第に習慣化し、春の共同募金に、10月1日からの赤い羽根募金、そして年末助け合い募金と役所が声をかけて社会福祉協議会などを動かし、そこから町内会などに声をかけて戸別訪問を要請したりと、当初の趣旨とは大きくそれてかなりの大金を積み上げ、人件費その他の事務経費にかなりの額が回されている事実が明るみに出て、最近は集まる金額もじり貧になっているようですが、それでもなお慣例として続いています。何とかしたいですね。世界規模でも、大手団体の募金は、共通して使途に問題があるようです。私自身はユニセフや国境なき医師団など、大手団体への寄付は、両団体がテレビCMまで初めて資金集めを展開しだした時点で、バッサリと寄付を打ち切りました。高価に就くCMを打つ感覚では、事務経費にどれだけ金をかけているのか?口コミでしかカンパを要請できない中で、歯を食いしばって頑張っている小さくても志の高いボランティア団体こそ寄付に値すると考え、そうした団体を見つけては、募金することに決めています。
2021.11.25
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クロニクル 山一証券自主廃業 1997(平成9)年11月24日24年前になります。この日の2日前、11月22日土曜日の日本経済新聞朝刊がスクープした、「山一証券自主廃業へ」の記事は、当日朝のワイドショーなどで大きく報じられ、その日のうちに、既定のコースとなって行きました。そして、この日、24日振り替え休日の月曜日に、山一証券は、正式に自主廃業を届け出ました。預かり資産24兆円、連結負債総額6兆7千億円という巨大企業の倒産劇でした。後日談を記します。山一証券は自主廃業を届け出ましたが、自主廃業に向けた98年6月の株主総会は、経営陣に対する株主の不満から、委任状が集まらず不成立になりました。そのため、山一は自主廃業ができず、99年6月、東京地裁に自己破産を申請して、破産処理されたのです。なお、大蔵省の甘い査定で、当初は債務超過にあらずとされていたのですが、事務処理の遅れと、その間の景気低迷による資本の劣化もあり、日銀の予測通りに債務超過に陥り、その額は何と1602億円もの巨額に達しました。当初日銀は、「債務超過ではないから、焦げ付きの心配はないので、必要資金を日銀特融として出してやってほしい」と大蔵省から要請され、「もし債務超過だった場合、戻ってこない特融分は政府が日銀に弁済する」条件で、融資したのです。そのため日銀への負債分は、当時の小渕首相と宮沢蔵相が「大蔵省のとりわけ、大蔵大臣の責任である」と答弁して、特融は完済されることになりました。この分は結局税金が使われたのです。投資家保護の名目で、保護する必要などない高額所得者が保護されたのです。
2021.11.24
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クロニクル 心斎橋誕生1909(明治42)年11月23日112年前のこの日、大阪南に心斎橋が完成しました。阪神タイガースが優勝すると、熱狂的なトラファンがここから飛び込むことで知られた橋です。 当時、大阪で初めての石造りの眼鏡橋として、浪速っ子の話題を呼んだと聞きます。何だか、当時の大阪にタイムスリップしてみたいですね。ただこの心斎橋、元々は1622年に岡田心斎という人が架けた木造の橋でした。そこで彼の名をとって心斎橋。その後明治の初めに鉄の橋に架け替えられ、112年前に石造りに変わったのです。 最初は橋幅4mでしたが、架け替えのたびに広くなりました。
2021.11.24
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クロニクル カイロ会談始まる1943(昭和18)年11月22日78年前のこの日、エジプトのカイロで、アメリカ合衆国大統領フランクリン・ローズヴェルト、イギリス首相チャーチル、中華民国総統蒋介石の3国首脳によるカイロ会談が始まりました。会談の目的は、対日講和方針の摺り合わせでした。この年9月8日には、イタリアが降伏しており、対独、対日戦線でも、連合国の優勢がはっきりしてきた時期でした。すでに10月末には、対独講和方針が米・英・ソ3国外相によって協議されていました。カイロ会談は、27日まで行なわれ、最終日の27日に3首脳は「カイロ宣言」に調印、調印後ただちに、「宣言」の全文が発表されました。カイロ宣言は、日本に対し、第一次世界大戦開始以降に日本が奪取した全ての地域の返還、並びに日清戦争で清国から獲得した、台湾・澎湖島の返還を指示していますが、尖閣諸島については、一言一句も言及していません。即ち、中華民国は蒋介石を含めて、尖閣諸島を中華民国領と認識していなかったことが、ここに示されています。このカイロ宣言が重要である理由は、後出だされた日本への降伏勧告であるポツダム宣言に置いて、カイロ宣言の履行が降伏条件となったことにあります。日本がポツダム宣言を受け入れて降伏したことにより、カイロ宣言の条項はに日本は履行義務を負ったことになったのです。
2021.11.22
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クロニクル 三原山大噴火1986(昭和61)年11月21日35年前のことです。この年11月15日に噴火し、その後小康を保っていた伊豆大島の三原山が、この日午後4時過ぎ、209年振りと言われる大噴火を起こしました。噴煙は3700メートル、火山弾は2000メートルまで噴き上げました。流れ出た溶岩は、島の中心の元町地区に1キロメートルの地点まで迫り、全島民10,300人と、2000人の観光客に避難命令が出されました。避難する人々は、大島航路の客船、海上保安庁の巡視船、海上自衛隊の艦船などで、翌朝までかかって、東京や伊豆方面に脱出しました。この模様は夜の各テレビ局の報道番組で報道されました。迫り来る溶岩の中で、子どもや高齢者、婦人達を優先的に乗船させる、島の人達のチームワークに心打たれたことが,今でも甦ってきます。こうして、しばらくの間、大島は島に残った保安要員を除くと、無人の島になりました。避難の解除は、12月22日となったため、島の皆さんは、1ヶ月の避難生活を余儀なくされました。 でも、その後に起きた諸々の出来事を考え合わせると、1ヶ月で帰村できて、本当に良かったですね。
2021.11.21
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クロニクル 国連、子どもの権利条約を採択1989(平成元)年11月20日32年前のこの日、第44回国連総会は、「子どもの権利条約」を採択しました。条約は前文及び54条からなる本文からなり、18歳未満を子どもと定義としています。本文は、「国際人権規約」が定めた子ども達の基本的人権を、その生存・成長・発達の過程として、特別な保護を必要とする子どもたちを、子どもの視点から詳説したものです。この「子どもの権利条約」は、翌年春には発効し、日本はさらに4年遅れて、94(平成6)年4月22日になってようやく批准しました。
2021.11.20
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クロニクル 岩波新書刊行1938(昭和13)年11月19日83年前になりますね。この日、神田神保町の古書店から出発して、出版業に進出した岩波書店が、大ヒットした岩波文庫に続いて、岩波新書の第1号を出版しました。というわけで今日は新書の日です。記念すべき第1号の出版は、斉藤茂吉の『万葉秀歌上』と『万葉秀歌下』の同時出版でした。新書は文庫と違い、新規書き下ろしが原則でした。版型はイギリスのペーパーバックやフランスの文庫クセジュを真似て決めたとされています。当初の表紙は、現在復活して使われているのと同じ赤色でした、赤色が百点を超えた(101点でした)ところで、青版に替え、さらに赤版に替えて現在に至っています。私の学生時代、岩波文庫は☆1個が40円でした。厚さの関係で文庫は2個が多かったのですが、新書が80円でした。確か大学1年生の1月に値上げとなり、文庫が☆1個50円、新書1冊が100円となりました。随分高くなったなと思いましたが、その後の値上がりに比べると可愛いものでした。今や、岩波新書は800円を超える時代ですから…。
2021.11.19
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クロニクル 官営八幡製鉄所本格操業開始1901(明治34)年11月18日八幡製鉄所の操業開始は、一般的には同じ1901年の2月5日とされています。私もそのように理解しています。第1溶鉱炉に火が入り、操業を開始したと社史にも記されています。勇んで生産が開始されたのですが、しかしその後の道は平坦ではありませんでした。産みの苦しみとでもいうのでしょうか、次々と発生するトラブルの解決に追われ、日産160トンの生産能力(それまでの日本の製鉄業では、釜石製鉄所の日産25トンが最高ですから、その6倍強の規模が売りでした)を生かすには、ほど遠い状態にあったのです。技術陣は試行錯誤を繰り返しながらも、試練に耐え、そして遂に120年前のこの日、日産100トンの大台を達成したのです。溶鉱炉に火を入れ、生産を開始してから9ヶ月半近く、ようやく技術陣が第1関門を突破し、本格操業に漕ぎ着けたのが、この日だったのです。しかし、八幡製鉄所は、銑鉄の生産から製鋼・圧延までの一貫生産を目指していましたので、今後は一貫工程の完成に向けての第2、第3の関門への挑戦が待っていたのでした。全ての難問が解決し、一貫生産が軌道に乗るのは、1904年の日露戦争開戦頃のことだったのです。この八幡製鉄所の高炉も、今はありません。
2021.11.18
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クロニクル 公明党結党大会開催1964(昭和39)年11月17日57年前のこの日、公明党の結党大会が開かれ、原島宏治委員長、北条浩書記長を選任しました。公明党は創価学会を母体として結成された、日本ではじめての宗教政党です。この日の結党大会以前に、既に1959年の参議院議員選挙に6名の候補者を立候補させ、全員の当選を果たして、信者票の威力を見せつけ、3年後の1962年の参院選では、公明政治連盟という団体を結成して、9名の立候補者全員を当選させました。その結果参議院の議員は計15名を数え、当時の自民・社会両党に続く、参院での第3勢力にのし上がっていたのです。余勢をかって、衆議院への進出を目指し、この日の政党結成となりました。衆議院への初進出は、黒い霧解散後の1967年1月の総選挙になりましたが、いきなり25名を当選させて、自民、社会、民社の3党に続く、第4党の地位を掴んだのです。それから半世紀、今や自民党の友党として、権力の中枢にちゃっかりと座り、何か秘めた狙いがあるのでしょうが、国土交通相の椅子は、しっかり公明党の枠になっています。
2021.11.17
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クロニクル 石油緊急対策要綱決定1973(昭和48)年11月16日48年前になります。この日政府は、石油危機対策として、石油緊急対策要綱を閣議決定しました。第4次中東戦争に端を発した、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)の石油戦略によって、原油の生産が大きく削減されたため、各国は石油不足に陥り、特に工業生産への影響は大きく、消費生活もまた脅かされていました。日本でも、石油製品や石油化学製品の不足が目立ち、洗剤やトイレットペーパーの買い溜め騒動も起き、一種のパニック状態に陥っていました。そのため、政府としても何らかの指針を発表して、危機乗り切りに向けて、国民の協力を得る必要があったのです。こうして発表された緊急対策で、1、マイカーの自粛2、石油及び電力消費の10%削減などが企業や国民に呼びかけられました。ここから、暖房は22度、冷房は28度に設定することや、都市部のネオンサインは、夜10時を持って、電源を落とすことなどがまとめられ、危機脱却まで継続することになりました。2011年の原発事故での節電要請よりも厳しいですね。
2021.11.16
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クロニクル 第一回先進国首脳会議(ランブイエサミット)始まる1975(昭和50)年11月15日あの日から46年になるのですね。46年前のこの日、フランスのパリ近郊の古城、ランブイエにおいて、米・西独・日・英・仏・伊6ヶ国の首脳による、先進国首脳会議(サミット)が始まりました。首脳同士が泊り込んで胸襟を開いて語り合うことで、現下の関心事に共通の理解・認識を持とうという主旨で始まったのですが、この試みの背景には、73年のオイルショックに端を発した戦後初めての資本主義世界の同時不況がありました。オイルショックまでは、当初は米・英・仏のどこかが不況に陥っても、どこかが好景気で助けることができたのです。そのうちには西ドイツが、さらに遅れて日本がこの隊列に加わり、暗黙裡に助け合う態勢が出来ていたのです。それが不可能な世界同時不況。お互いが勝手に自国優先で他国を顧みずに、手前勝手な行動に出れば、需給のバランスを崩してしまい、いたずらに世界同時不況を長引かせることに繋がって、最悪の結果に行き着くことになります。それを回避するには、経済先進国が一致団結して、不況を乗り切るしかありません。そのため、イタリアというお邪魔虫も入りましたが、ともかく首脳同士が互いにツーカーの間柄にならねばならない。こんな危機意識が共有されたことで、サミットはスタートしました。スタグフレーション(不況下の物価高)に苦しむ先進経済諸国が、相互に勝手な行動に走るのではなく、互いに協調しながら不況克服という統一目標に邁進することを申し合わせることに、大目標があったのです。3日間にわたって、6ヶ国の首脳を缶詰にしたこの会議は、15項目に及ぶ合意事項をランブイエ宣言として発表、成果をアピールしたのです。 ところで、この会議は当初イタリアを除く5ヶ国の会議として計画されたのですが、途中で計画を察知した同国の猛烈なアピールでイタリアの参加が実現したのです。それならGNPの規模からいってカナダも有資格ではないかと、翌76年からは、アメリカの後押しでカナダの参加も認められて、参加国は7ヶ国になったのです。さらに77年からは、EUも参加することになりました。サミットは当初は、経済問題を首脳だけで討議する場だったのですが、経済の立ち直りと共に、次第に政治問題のウェートが高まり、官僚たちによる事前会議も周到に行われるようになって、次第に現在のような大掛りな政治ショーに堕していったのです。現在のサミット、当初の目的とは、かけ離れてしまっていますね。
2021.11.15
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クロニクル 「新しき村」スタート1918(大正7)年11月14日103年前のはなしです。数日前にドイツが降伏して台地次世界大戦がようやく終わった直後にあたります。そんなこの日、白樺派文学の旗頭、武者小路実篤が、宮崎県児湯(こゆ)郡木城(きじょう)村に生活共同体の建設を目指して「新しき村」を開所しました。 会員=村民は平等互恵の原則の下に、皆が平等に働き、平等に余暇を楽しみ、農業等の生産物は平等に分配するという、一種のユートピア社会主義の試みでした。会員は武者小路夫妻を含む15名でした。 武者小路はトルストイに私淑し、彼の人道主義的な世界観を実践しようと試みたのですが、トルストイが範としたロバート・オーウェン流のユートピア社会主義の試みは、既にアメリカにおいて失敗、挫折しており、武者小路の試みもまた、成功に至る社会的基盤を欠いた空想的な試みに留まりました。 失敗に終わりはしましたが、彼の試みは、後に農本主義の思想と結びついて、農本主義思想を広める役割はしっかり果たしました。
2021.11.14
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クロニクル 反タリバン勢力カヴール占領2001(平成13)年11月13日20年前のこの日、アフガニスタンで、反タリバン勢力の北部同盟が、首都カヴールを制圧しました。アフガニスタンでは、1988年のソ連軍撤退後、各地に割拠した軍閥勢力による争いが絶えず、内戦状態が続きましたが、この状態に終止符を打ち、内戦を終らせて治安を回復したのが、イスラム神学生を中核としたイスラム原理主義勢力のタリバンでした。9・11事件後、米国はアフガニスタンのタリバン勢力への報復を決意、10月7日から同国への空爆を開始、北部同盟などタリバンとの戦いに敗れて武装解除されていた、各地の軍閥に武器を供与して、タリバンとの戦いの先兵に仕立てたました。しかし,アメリカのこの行動は、時計の針を逆戻りさせ、折角誕生したタリバン政府の、治安回復の努力を否定して、軍閥割拠状態に戻してしまったことにつきます。結果はどうなったか。再び内戦状態に逆戻りしてしまって、米軍が撤退できない状況が続きました。そして、そんな状況で、シリアやイラクで暴れていたIS(イスラム国)勢力が台頭し、そうしたウルトラ過激派を抑えるためには、タリバンの力を借りるしかなく、時の経過と共にタリバンが復活、今年夏の米軍の撤退と共に、首都カブールもタリバンの手に落ちました。結局2001年の米国によるアフガン侵攻は、20年に及ぶ混乱をアフガンに齎し、飢えに苦しむ人々を大量生産する結果に繋がりました。
2021.11.13
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クロニクル 反タリバン勢力カヴール占領2001(平成13)年11月13日20年前のこの日、アフガニスタンで、反タリバン勢力の北部同盟が、首都カヴールを制圧しました。アフガニスタンでは、1988年のソ連軍撤退後、各地に割拠した軍閥勢力による争いが絶えず、内戦状態が続きましたが、この状態に終止符を打ち、内戦を終らせて治安を回復したのが、イスラム神学生を中核としたイスラム原理主義勢力のタリバンでした。9・11事件後、米国はアフガニスタンのタリバン勢力への報復を決意、10月7日から同国への空爆を開始、北部同盟などタリバンとの戦いに敗れて武装解除されていた、各地の軍閥に武器を供与して、タリバンとの戦いの先兵に仕立てたました。しかし,アメリカのこの行動は、時計の針を逆戻りさせ、折角誕生したタリバン政府の、治安回復の努力を否定して、軍閥割拠状態に戻してしまったことにつきます。結果はどうなったか。再び内戦状態に逆戻りしてしまって、米軍が撤退できない状況が続きました。そして、そんな状況で、シリアやイラクで暴れていたIS(イスラム国)勢力が台頭し、そうしたウルトラ過激派を抑えるためには、タリバンの力を借りるしかなく、時の経過と共にタリバンが復活、今年夏の米軍の撤退と共に、首都カブールもタリバンの手に落ちました。結局2001年の米国によるアフガン侵攻は、20年に及ぶ混乱をアフガンに齎し、飢えに苦しむ人々を大量生産する結果に繋がりました。
2021.11.13
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クロニクル さよなら燈台守2006(平成18)年11月12日「おいら岬の 燈台守は 妻と2人で 沖行く船の 無事を祈って 灯を灯す灯を灯す…」佐田啓二と高峰秀子が主演した映画『喜びと悲しみも幾歳月』の主題歌、御存知の方も多いと思います。三島由紀夫の『潮騒』にも、燈台守の御夫妻と娘さんが脇役で登場しますね。この燈台守ですが、灯台信号の自動化の進行につれて、次第に無人灯台に置き換えられ、オートメ化に職を奪われていきました。こうして、15年前の今日がやってきます。この日、長崎県の五島列島、五島市に属する男女群島の一つ、女島の灯台が自動化されました。この女島の灯台は、日本各地の灯台の中で、最後まで自動化されずに残っていた灯台だったのです。ここに、国内の灯台全ての自動化が完了し、燈台守は姿を消すことになったのです。女島の灯台守氏は、この日をもって点灯業務を終えましたが、なおしばし、残務整理に日を費やし、12月5日に全ての業務を終え、灯台を離れました。またひとつ、自動化という名で、人の職場が失われました。
2021.11.12
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クロニクル 吉田首相単独講和容認示唆 1949(昭和24)年11月11日72年前になります。この日、吉田茂首相は、参議院での質疑の中で、「たとえ単独講和であっても、それが全面講和に導く1つの道であるならば、喜んで応じる用意がある」と発言、単独講和の容認を示唆しました。この発言がきっかけとなり、政府は東西冷戦が激しさを増す中、西側陣営との単独講和に、大きく舵を切っていきます。講和=占領状態からの脱却と考えた、国民の多くは早期講和を歓迎しましたが、マスコミや言論人の多くは、「平和憲法の精神を貫くとすれば、全面講和への道をあくまで希求すべきであろう」と、平和問題懇話会を組織して、単独講和反対の論調を次ぎ次ぎに岩波書店の『世界』や改造社の『展望』などの雑誌に寄稿、当時の学生らに大きな影響を与えました。私は当時小学生でしたが、13才上の長兄から、後にこの時期の学生の雰囲気、論壇の模様などを、良く聞かされたものです。
2021.11.11
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クロニクル 初の営業用原子力発電に成功1965(昭和40)年11月10日56年前のことです。この日、茨城県東海村の東京電力の原子力発電施設で、初の営業用の原子力発電に成功しました。東海村に実験用の原子力発電施設が建設され、実験用の発電に成功し、日本で初めて原子の火が灯ったのは、1957(昭和32)年の8月でしたから、それから8年の歳月をかけて、ようやく営業用の原子力発電に成功したのでした。実際に本格的な発電を開始し、原子力で発電した電気を売電するようになるのは、翌66年の8月8日のことでした。あの頃、原子力の平和利用という声が幅を利かし、私たちの間でも原子力発電を容認する空気が広まっていたように記憶します。チェルノブイリやフクシマ第1の事故を受け、そして使用済核燃料の無害化がなお出来ない現実が知れ渡った結果、原子力発電は、とんでもない厄介者ではないかとするとする空気が広まり、今では原子力発電は大変な嫌われ者になり果てた感があります。
2021.11.10
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クロニクル 第2次橋本内閣成立1996(平成8)年11月7日25年前のことです。細川内閣の下で成立した小選挙区制によって、10月20日に行われた衆院選挙では、500議席のうち238議席を自由民主党が確保しました。この過半数に近い議席をバックに、この日開かれた特別国会において、社会、さきがけ両党との連立内閣を解消し、自民単独で第2次橋本内閣がスタートしました。社会、さきがけ両党が閣外協力する形でした。ここに3年3カ月ぶりに、自民党単独内閣が発足しましたが、それは短期間に終わり、小渕内閣に代わると、再び連立時代へと移って行きます。
2021.11.08
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クロニクル リンカーン大統領に当選1860(万延元)年11月6日161年前のこの日、アメリカ合衆国で行われた大統領選挙で、共和党候補のエイバラハム・リンカーンが他の2人の候補を破って大統領に当選しました。当時の共和党は、今とは違い、南部では支持されることの全くない政党で、北部及び西部での支持に頼るしかない、地域政党でした。その地域政党に過ぎない共和党の推薦候補だったリンカーンが予想を裏切って当選することが出来たのは、民主党が分裂し、2人の候補を立てるという失策を犯したからでした。2人の候補の票の食い合いの結果、得票率で50%どころか、40%に満たない得票しか得られなかったリンカーンが当選したのです。南北戦争が始まるのは、この翌年のことでした。
2021.11.06
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クロニクル こんにちはパンダさん 1972(昭和47)年11月5日49年前のこの日、上野動物園でパンダが公開されました。ランランとカンカンです。2頭のパンダは、この年9月に田中角栄首相が中国を訪問、日中間の懸案を解決して中国との国交を回復したことを記念して、周恩来首相の肝いりで、日中間の平和と友好の証として、日本に贈られたものでした。上野動物園では、冷暖房完備の専属のパンダ舎を建設。飼育担当者を中国へ派遣して研修させるなど、事前準備を続け、VIP待遇でパンダを迎え入れたのです。この日の上野動物園では、早くからパンダを見たい人の行列が出来、大変な盛況でした。パンダのぬいぐるみが飛ぶように売れ、しばらくは生産が間に合わない事態になったという話も、残っていますね。あれから49年、残念ながら日中関係は、あの当時より冷え込んでしまっています。
2021.11.05
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クロニクル イランの大学生米国大使館を占拠1979(昭和54)年11月4日 もう42年も前のことになったのですね。この日テヘランの駐イラン米国大使館が、イランの最高指導者ホメイニ師を支持する学生たちによって占拠され、外交官とその家族を含む70人近くの米国人が人質とされました。イランでは、同年1月16日に、高まる一方の革命運動におされ、国王パフレビーが国外に退去、2月1日には、革命運動の精神的支柱のホメイニ師が亡命先のパリから帰国、革命の勝利はここに決定的となりました。パフレヴィーの王位は剥奪され、新政府を組織した革命派は、パフレヴィー前国王を裁判にかけることを決定、流浪の前国王の逮捕協力を関係各国に依頼したのです。やがて前国王は病気治療を理由にアメリカへ入国しました。アメリカは人道的見地から滞在を認め、イラン政府の引渡し要請を無視し続けたのです。学生による米大使館占拠は、このような状況の中で起こりました。学生等は人質解放の条件として、前国王の引渡しを要求、即時解放を求めるアメリカと対立し続けました。ホメイニ師が学生たちを庇う姿勢を見せたためもあって、米大使館の占拠は1年以上も続き、ここにアメリカとイランの対立は決定的となって行きました。この情勢が翌年9月のイラクのイラン攻撃(イラン・イラク戦争)に繋がり、さらにイラン・イラク戦争が第2次オイルショックの因となってゆきました。そのイランと米国の関係、ここへ来てようやく雪解けの雰囲気が濃くなってきましたね。シリア内戦とIS対策を兼ね、ロシアと米国、そしてシリア、イラク、イランにトルコ、エジプト、サウジアラビアさらにはイスラエルまでもが、同じテーブルについて協議を始めるとは、半年前には考えられないことでした。
2021.11.04
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クロニクル スプートニク2号打ち上げ 1957(昭和32)年11月3日64年前のことになります。この日、ソ連は機内にライカ犬を乗せた人工衛星「スプートニク2号」の打上げに成功しました。。史上初の生物打上げ実験に成功したのです。気の毒なのはライカ犬で、実験の犠牲となって機内で亡くなりました。当初は、打ち上げ10日後にクスリ入りの餌を与えられ、安楽死するに至ったと報じられたのですが、その後、打ち上げ4日後にキャビン内の気温がコントロール不能となって上昇し、死亡していたことが明らかにされました。公式発表はこうなのですが、死亡はもっと早かったという情報もあって、正確なことはわかっていません。分かっていることは、この日以前に動物を乗せての打ち上げ実験は、米ソ共に全て失敗に終っており、この日の打ち上げが、間違いなく最初の打ち上げ成功例だったということだけです。ユーリイ・ガガーリン氏が、有人宇宙飛行に成功し、地球に帰還したのは、それから3年半後の61年4月の事でした。
2021.11.03
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クロニクル トイレットペーパー買い溜め騒動、遂に怪我人1973(昭和48)年11月2日ところは、兵庫県尼崎市のスーパーでした。48年前のことです。アラブ諸国の石油戦略に端を発した第1次オイルショックは、戦争終了後も、原油価格の高止まりという形で続いていました。OPECが価格維持を狙って減産体制を継続したため、翌74年からは戦後初の世界同時不況に突入し、日本でも盛り場のネオンの夜10時以降の自粛。デパート等では、夏の冷房の温度設定は28℃にするなどの自主規制が行われることになりました。その目標は、フクシマ第1の事故後の節電よりもはるかに厳しいものでした。さて、73年の今日に戻ると、当時原油のみでなく、石油化学製品や石油関連商品も、品不足から、いずれ高騰する。値上り前に買い溜めしておこうという消費者心理から、洗剤、トイレットペーパー等の生活必需品がスーパーの店頭から姿を消しました。そしてこの日、尼崎市のスーパー(名前は忘れましたが、多分元気な頃のダイエーでしょうか?)が、朝からトイレットペーパーを売り出すと報じたところ、開店前から行列が出来、買いに殺到した主婦らが、売り場で将棋倒しになるという、事故が起こり、老女が大怪我を負う惨事になりました。4ロール入りのトイレットペーパー、600パックが僅か10分足らずで売り切れたと報じられています。口コミ情報が消費者心理を煽り、そこに商機を見出した企業が巧みに付け入り、巧妙に物価高騰を仕掛けたというのが真相だったのでしょう。政府は増産も指示しているし、品不足はないと火消しに懸命でした。事実品不足はなかったようなのですが、火のついてしまった消費者心理を冷やすことは出来ず、トイレットペーパーも洗剤も、大幅に値上りした価格が定着していくことになりました。どこかの油脂会社(洗剤メーカー)の社長が、社員や販売店に向かって「石油ショックは千載一遇の儲けのチャンス」とゲキを飛ばした事実が、動かぬ証拠と共にマスコミに漏れて、大騒ぎとなったことは、年配の方ならご記憶かと思います。同年12月のことだったでしょうか。世界的にスタグフレーション(不況下の物価高)状況に陥るのは、翌74年からのことでした。
2021.11.02
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クロニクル 山手線の環状運転始まる1925(大正14)年11月1日96年前のこの日、東北本線の上野~神田間に高架線が開通しました。その結果、山手線電車の環状運転も合わせて可能になりました。顧れば、2年2ヶ月前、大正12年9月1日の関東大震災で、首都は大打撃を受けたのですが、その直後から粛々と工事を進めて、建設を遂行し、開業に漕ぎつけた努力は大変なものだっただろうことが、推察できます。当時の国鉄幹部、先見の明がありましたね。
2021.11.01
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