紀ノ川の万葉 犬養 孝
こんにちは、草ぼうぼうになった古い小道をくだると、土地の古老らが、“神代の渡り場”と称している、落合川(真土川)の渡り場に出る。ふだんは水の少ない涸川だから、大きな石の上をまたいで渡るようになっている。ここがおそらく古代の渡り場であったろう。
白栲 に にほふ 信土 の 山川 に わが馬なづむ 家恋ふらしも
-作者未詳-(万葉集巻七 - 一一九二)
(副碑)
橋本の万葉歌碑
歌の意味
信土山の川(落合川)で私の乗る馬が難渋している。家人が私を心配しているらしい。
第八回橋本万葉まつりと併せて JR 和歌山線の全線の開通百周年を記念し、大阪大学名誉教授 甲南女子大学名誉教授 文化功労者 文学博士 故犬養孝先生著書「紀ノ川の万葉」よりその遺墨を刻し 郷土のためにこれを建つ
二〇〇〇年十一月 第八回 橋本万葉まつり実行委員会
駅前の喫茶店で昼食。(弁基 万葉集巻 3-298 )
(左注)右は、或いは云はく、「弁基とは春日蔵首老の法師名なり」といふ。
この歌の「角太河原」というのは、この隅田地区の紀ノ川の河原ということなんだろう。廬前は隅田町あたりの総称とみられる。
隅田駅から200mほど南に行くと紀ノ川である。また、400mほど東に行くと、紀ノ川に流れ込む落合川である。
現在は、この落合川が和歌山県(橋本市)と奈良県(五条市)との県境になっている。
その落合川にある「飛び越え石」が、橋本駅前の歌碑に刻されていた犬養先生の著書「紀ノ川の万葉」で「古老らが”神代の渡り場"と称している渡り場・・ここがおそらく古代の渡り場であったろう。」とされている場所である。そこは、「真土万葉の里」という公園になっている。
今日の銀輪散歩の目的地である。
その万葉の里へは、隅田駅から細い急坂を上って行くことになる。
(隅田駅から万葉の里への坂道)
自転車には辛き急坂であるが、猛暑の炎天下を走って来た身には、心地よい木陰の道でもありました。
上り切った四辻を右に行くと万葉の里の入り口である。尤も、国道24号側からの入り口の方が本来の入り口なんだろうが、ヤカモチは裏から入るのが習いとなっているから、これでいいのである。
(万葉の里入り口の万葉歌碑)
真土万葉の里の入り口にあったのは笠金村の歌碑。
万葉集巻4-543の歌である。この歌の題詞には、神亀元年(724年)冬10月、紀伊国に行幸のあった時、お供の人に贈るために、或る娘子に依頼されて作った歌1首
(神亀元年甲子の冬十月、紀伊国に幸したまひし時に、従駕の人に贈らむが為に、娘子に誂へられて作りし歌一首)
とあるが、聖武天皇の紀伊国行幸の折に笠金村が詠んだ歌である。
大君の 行幸 のまにま もののふの 八十伴 の 男 と 出でて行きし 愛 し 夫 は 天飛ぶや 軽の道より 玉だすき 畝傍 を見つつ あさもよし 紀伊路 に入り立ち 真土山 越ゆらむ君は 黄葉 の 散り飛ぶ見つつ にきびにし 我 は思はず 草枕 旅をよろしと 思ひつつ 君はあるらむと あそそには かつは知れども しかすがに 黙 もえあらねば 我が背子が 行きのまにまに 追はむとは 千度 思へど たわやめの 我が身にしあれば 道守 の 問はむ答へを 言ひ遣らむ すべを知らにと 立ちてつまづく (笠金村 万葉集巻 4-543 )
<天皇の行幸に従って、文武の百官たちと共に出発して行ったいとしい我が夫は、(天飛ぶや)軽の道から(玉だすき)畝傍山を見ながら、(あさもよし)紀州路に進み入り、今頃は国境の真土山を越えているであろうそのあなたは、色づいた葉が風に散り飛ぶのを見ながら、馴れ親しんだ私のことは思わず、(草枕)旅も悪いものではないななどと思ってあなたはいるだろうと、うすうすは承知しているけれど、それでも黙っても居られないので、あなたの行った道のままに、追いかけて行こうとは何度も思うのだが、かよわい女の身なので、途中で道の関の番人が咎めた時の答えを、何と言ってやればいいのか、そのすべも分からず、進みかねためらっています。>
続日本紀によると、聖武天皇はこの年の10月5日に紀伊国に行幸し、和歌の浦の景色を愛で、同月23日に平城京に帰っている。
歌碑には刻されていませんが、上の歌の反歌2首も次に列記して置きましょう。
後
れ
居
て 恋ひつつあらずは 紀伊の国の
妹背
の山に あらましものを
(万葉集巻 4-544
)
わが
背子
が
跡
踏み求め 追ひ行かば 紀伊の関守 い
留
めてむかも
(同巻 4-545
)
歌碑の左側に狭い急な階段道がる。これを下ると万葉の里のようだ。トレンクルを肩に担いで行くことも考えたが、階段を少し下った処に駐輪して置くこととする。
木立の繁る狭い階段道を抜けると開けた田畑のような空間に出る。
オニユリも咲いている。
(万葉の里のオニユリ)
ここにあった犬養万葉歌碑はこれ。
(万葉の里の犬養万葉歌碑)
碑文は次の通りです。
紀ノ川の万葉 犬養 孝
まつちの山越え 大和の万葉びとが紀伊の国にはいる最初の峠は、紀和国境のまつち山である。そこは五条市の西方、和歌山県橋本市(旧伊都郡)隅田眞土とのあいだの山で、昔は山が国境であったが、現在は、山の西方、落合川(境川・眞土川)が県境となって、その間に両国橋が架けられている。
石
上乙麻呂卿配土佐国之時歌
石上
布留
の
尊
は たわやめの まとひによりて 馬じもの 縄取りつけ ししじもの 弓矢かくみて 大君の みことかしこみ 天ざかる
夷
へに
退
る
古衣
又打山
ゆ 還り
来
ぬかも (巻六 -
一〇一九)
(副碑)
真土の万葉歌碑
第八回橋本万葉まつりを記念し、又永く橋本の万葉が受け継がれる事を祈り大阪大学名誉教授 甲南女子大学名誉教授 文化功労者 文学博士 故犬養孝先生の著書「紀ノ川の万葉」よりその遺墨を刻しここ万葉のふるさとにこれを建つ。
二〇〇〇年十一月二十三日
橋本万葉の会
歌の現代語訳は次の通り。
石上の布留の君は、たわやめゆえの心惑いによって、馬のように縄を取り付け、鹿や猪のように弓矢で取り囲まれて、大君の仰せを畏れ多くも承って、(天ざかる)遠くの国に流されて行く。(古衣)真土山を越えて帰って来ないものかなあ。
続日本紀
(天平11年3月28日条)
によると、石上乙麻呂は藤原宇合の未亡人、久米連若売と密通し、乙麻呂は土佐へ、若売は下総へ流罪となっている。万葉集にはこの時の乙麻呂の配流に同情した誰かが詠んだのであろう歌が3首掲載されているが、そのうちの1首である。
犬養万葉歌碑から少し下ったところにも万葉歌碑。
(万葉の里の万葉歌碑)
橡之 衣解洗 又打山 古人尓者 猶不如家利
橡
の
衣
解き洗ひ
真土山
本
つ人には なほしかずけり
(万葉集巻 12-3009
)
<つるばみで染めた衣を解いて洗い、真土山、本の妻にはやっぱりかなわぬものです。>
(注)橡=クヌギのこと。橡で染めた衣は普段着。
又打山=衣を洗うには砧で打って洗うから、「又打つ」で「又打山(真土山)」を導き、「まつち(真土)」の類音で「もとつ(本つ)人」を導いている。
万葉歌碑の後ろはハス畑。
ハスとスイレンも咲いていましたが・・。写真はイマイチ。
(同上・スイレン、奥にハス畑)
奥のハスが大賀ハス(古代ハス)だということは、帰宅後のTVで、ここのハスが見頃になっているということが紹介されていて知ったもの。
スイレンの池の前に「飛び越え石」の説明碑。
(飛び越え石の説明碑)
ここから更に狭い石段を下ると落合川の河原になる。そこに飛び越え石がある。深い谷となっているので、両岸に繁る鬱蒼とした木々に囲まれて薄暗い。その所為でもあるか、写真のピントが甘くなってしまいました。
(飛び越え石)
この石を跨いで向こう岸に渡れば、もう奈良県五條市である。
折から雨がパラつきだし、石が濡れているので、渡るのは差し控えて引き返すこととする。
(落合川、飛び越え石の上流側)
薄暗く感じたのは、いつの間にか空には黒い雲が広がり、雨が降り出し、雷も鳴り出したという天候の急変の所為もあったのかも。
戻る途中の石段脇にあったのが、この歌碑。
(飛び越え石近くの歌碑)
いで
我
が駒 早く行きこそ
真土山
待つらむ妹を 行きてはや見む
(万葉集巻 12-3154
)
<さあ、我が駒よ、早く行け。真土山、その名のように待つだろう妻を、行って早く見よう。>
右面には、新千載集の807番の歌が刻してある。
誰にかも 宿りをとはむ 待乳山 夕越え行けば 逢ふ人もなし
作者不詳の歌ではないかと思うが、新古今集の小野小町の歌、「 たれをかも まつちの山の 女郎花 秋とちぎれる 人ぞあるらし
」
(巻4-336)
を思い出させる歌である。
反対の左面には「 いつしかと 待乳の山の 桜花 まちてもよそに 聞くが悲しさ 」 (作者不詳 後撰和歌集) という歌 が刻されているようだが、写真には撮っていない。
いよいよ、雨が本降りになって来たので、急いで、万葉の里にある休憩所に駆け込む。
雨と雷に気を取られていた所為か、休憩所の建物の写真を撮り忘れ。ということで、他者のサイトの写真を借用転載です。
(とびこえ休憩所 和歌山歴史物語100から転載。)
(同上 トヨタカローラ和歌山橋本店「真土万葉の里プロジェクト」から転載)
しばらく雨宿りするうちに、天気は回復。
階段途中にとめて置いた自転車・トレンクルのもとに戻る。
雨にすっかり濡れているのではと心配したが、幾重にも重なる枝葉が濡れるのを最小限にとどめてくれたようで、サドルを拭く必要もなしでありました。来た道を引き返し、国道24号線へと向かう。少し上った後は急坂を下ることになる。下りきったところが国道24号で、橋本浄水場への進入道路の前である。ここに犬養万葉歌碑が道路を挟んで向き合う形で存在する。浄水場入口側の歌碑は、こちらに向いて居らず、南西方向を、つまり横を向いているので、正確には向き合っているとは言えないのではあるが。
そこにあった犬養万葉歌碑は真土山の万葉歌の中でも最もよく知られている歌のそれである。
(国道24号沿いの犬養万葉歌碑)
朝毛吉 木人乏母 亦打山 行来跡見良武 樹人友師母
あさもよし
紀人
羨
しも
亦打山
行
き
来
と見らむ 紀人羨しも
(調首淡海 万葉集巻 1-55
)
<(あさもよし)紀伊の人は羨ましい。真土山を行き来に見るのだろうから。紀伊の人は羨ましい。>
(同上)
この歌碑の右隣に、大師井戸という碑があったが、詳しくは探索せずでありましたので、詳細は何とも存じ上げず、であります。
(大師井戸)
まあ、この地は、高野山のお膝元みたいなものですから、弘法大師が掘った井戸があっても不思議ではないが、通りがかりに弘法大師が掘った井戸や杖を突き立てると水が湧き出したとか、これに類する伝説は全国各地にありますから、珍しいものでもありません。
国道24号を橋本浄水場入口側に渡ったところにあるのが、もう一つの犬養万葉歌碑。
(橋本浄水場入口の犬養万葉歌碑)
碑文の全文は次の通り。
紀ノ川の万葉 犬養孝
こんにちは、国道24号線が山の北側を通り、鉄道が南側の山裾の川べりを通っているが、古代は川べりを避けて、現、国道より南の低い、川ぞいの丘辺を越えていた。峠の上は、東方は五條一帯の吉野川の広い流域を望み、一方西方には紀ノ川(和歌山県にはいると吉野川は紀ノ川と呼ばれる)の明るい河谷を望む。紀路にあこがれる旅人のエキゾチシズムを刺激するのは当然のことであろう。
あさもよし 紀へ行く君が
信土山
越ゆらむ
今日
そ
雨な降りそね
作者未詳(巻九 -
一六八〇)
副碑の文面は、上掲の「万葉の里の犬養万葉歌碑」と同文なので省略しました。
歌の意味は下記の通りです。
<(あさもよし)紀の国へ行くあなたが、真土山を越えているであろう今日あたり、どうか雨よ降らないでほしい。>
以上で、目的は一応果たしたので、橋本駅前へと戻ることとする。
国道24号を下って行くと、往路で道を尋ねたガードマンの青年にまた出会った。軽く会釈して、そこから大和街道に入る、
(紀ノ川南岸の山々)
真土山がどの山とも分からず仕舞いで帰途についてしまい、真土山の写真がありません。大和街道を走りながら、紀ノ川方向(南側)の山々を撮ったのが上掲の写真です。
雨上がりとあって、盛んに雲が立ちのぼっています。
隅田八幡神社にも立ち寄るつもりでいたのに、やり過ごしてしまったので、これは翌日の銀輪散歩で立ち寄ることにします。
炎暑の中を走っていると注意力が散漫になるようです。年齢による認知機能の衰えだろうという声も何処かから聞こえて来そうですが、それは聞き流すこととしましょう。
(紀ノ川 橋本橋の少し上流付近 奥に見える鉄橋は南海高野線)
橋本市街に戻って来て、少しばかり市街を「徘徊」。
紀ノ川沿いのポケットパークのような場所で休憩。今日(27日)は紀ノ川の写真も撮っていなかったことに気づき、1枚撮影。
明日(28日)は、この写真の奥、上流側へと再び走り、恋野地区で橋を渡って紀ノ川左岸に移り、下流の九度山橋まで走り、九度山大橋で右岸に移り、今度は右岸を上流側へと走り、橋本駅前まで帰って来るという計画であるが、寄り道次第によってはどうなるか分からない。
(旧橋本町道路元標)
(同上・説明碑)
橋本橋の少し下流まで走って、この日の銀輪散歩は切り上げとし、ホテルに戻りました。今日はここまでとします。( つづく
)
<参考>銀輪万葉・和歌山県、三重県篇は コチラ
。
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