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前回、大雄宝殿の十八羅漢像が安置されている全景をご紹介しました。ここでは十八羅漢像を個々に眺めてみたいと思います。その前に、やはりまず「羅漢」とは? ですね。羅漢は「阿羅漢の略で、敬われるべき人の意」(資料1)です。そして、阿羅漢ですが、これはサンスクリット語(梵語)のアルハンを漢字で音写した言葉だそうです。漢訳すると、<応供(おうぐ)>で、「尊敬・施しを受けるに値する聖者(しょうじゃ)を意味する。インドの宗教一般において、尊敬されるべき修行者をさした。」(資料1)とのこと。釈尊は10の別称(十号)を持っておられて、その一つに<応供>があったそうです。ところが、後になると、仏の別称であることとは区別して、仏の弟子に<阿羅漢>の称が当てられるように変化しました。仏の十大弟子は勿論最高の阿羅漢ということになります。「原始仏教・部派仏教では修行者の到達し得る最高位を示す」(資料1)ことになり、一方、大乗仏教では「批判的に声聞を阿羅漢と呼び、仏と区別した」(資料1)という経緯があるそうです。声聞はサンスクリット語では「教えを聴聞する者」を意味し、もともとは出家、在家を問わずに使われる言葉だったのですが、後に仏教では、出家の修行者だけを意味することになり、出家の修行者は阿羅漢を目指すということになります。次に、十六羅漢、五百羅漢、という言葉を見聞されたことはありませんか?そこに、さらに十八羅漢・・・・・です。まず、<十六羅漢>ですが、これは「中国・日本では仏法を護持することを誓った16人の弟子」を称する言葉だそうです。一方、<五百羅漢>は、「第1回の仏典編集(結集)に集まった500人の弟子」を尊崇するのに使われる言葉となったそうです。尚、異説もあるそうですが・・・・。(資料1)また、五百羅漢のおのおのについてその名称を記した経典はないそうです。(資料2)とくに禅宗では修行の過程にある者の姿として十六羅漢を尊び、唐時代末から五代にかけてもっとも信仰が盛んになったと言います。日本には、東大寺の奝然(ちょうねん)が中国より十六羅漢図をもたらしたと伝えるとか。(資料2)十六羅漢、五百羅漢については補遺に載せた事例をご覧ください。そこで、<十八羅漢>です。こちらは、鎌倉・室町時代に盛んとなっていった<十六羅漢>に対して、明時代の寺院の形式を受け継いで、「慶友(けいゆう)尊者」と「賓頭盧(びんずる)尊者」を加えて<十八羅漢>を祀っていると言います。(資料3) 大雄宝殿の堂内に入ると、すぐ右側、南側壁面に沿って、羅漢像が安置されています。大雄宝殿に居並ぶ十八羅漢さんを一人ずつ眺めていきましょう。尚、当日逆光ぎみだったりうまく撮れなかった羅漢像については、2013年6月に探訪した時に撮っていたものに一部代替します。(☆マークを付記)後日に学んだことを補足しながらのご紹介です。羅漢さんを意識的に考えたのはこれがまあ初めてに近いです。私にとっていい機会。お付き合い下さい。 慶友尊者 十六羅漢にさらに加えられた「慶友(けいゆう)尊者」が西端です。 十六羅漢を説く経軌には玄奘訳の『大阿羅漢難提密多羅(だいあらかんみたら)所説法住記』という典籍があるそうです。この『法住記』の著者が慶友尊者です。 十八羅漢について、調べていて興味深い伝えに出会いました。以下、引用します。”「法住記」には十六羅漢の姿に対する具体的な描写はないのですが、唐の末期に「張玄」「貫休」という二人の僧侶が、「法住記」をもとに想像を加えて十六人の大羅漢の絵を描きました。完成後、「法住記」の作者である「慶友尊者」を記念して、十七番目の羅漢として描き加えました。しかし、中国人は偶数を好むので、十七では座りが悪いとして、「賓度羅尊者(ひんどらそんじゃ)」という名前を勝手に作り、作品に書き加えてしまったのでした。宋の時代の大詩人「蘇東坡(そとうば)」は、在家弟子として深く仏教に帰依していましたが、「張玄」と「貫休」が描いた十八羅漢の絵の下に、この絵をほめたたえる詩を書きました。それから、中国では十八羅漢が広まるようになったのです。十八羅漢の名前と姿形がこのようにして世の中に広められた後、「慶友尊者」と「賓度羅尊者」は、「張玄」と「貫休」が自分達の都合で勝手に増やしたものなのだから、後世の自分達も好きなようにしていいだろうということで、様々なバリエーションが出てきました。”(資料4)歴史的な経緯があるのですね。おもしろい。 阿氏多尊者阿氏多(あした)尊者。梵名はアジタ。鷲峯山(じゅぶせん)にあり、弟子1500人と『法住記』に記されていると言います。以下、所在地と弟子の数を同様に記します。(資料2) ☆ 因掲陀尊者因掲陀(いんかだ)尊者。梵名はアンガジャ。広脇山(こうきょうせん)、1300人 逆光! ☆ 羅怙羅尊者羅怙羅(らごら)尊者。梵名はラーフラ。畢利颺瞿(ひりようく)州、1000人。手許の二書では、最初の「羅」という漢字の代わりに「囉」がつかわれています。どちらもルビは「ら」なのですが。(資料1,2)仏の十大弟子の一人、羅怙羅(ラーフラ)だけが、十六羅漢の一人に入っています。ラーフラは釈尊とヤショーダラーの間に生まれた子。出家後「智慧第一」の舎利弗(しゃりほつ)に就いて修行したそうです。「密行第一」、学習第一の比丘と呼ばれました。(資料1)強烈な造像です。ここで逆光だったのが実に残念・・・・・。 ☆ 戍博迦尊者戍博迦(じゅはくか)尊者。梵名はジーヴァカ。香酔山(かすいせん)、900人。 迦理迦尊者迦理迦(かりか)尊者。梵名はカーリカ。僧伽荼(そうぎゃだ)州、1000人。 諾詎羅尊者 諾詎羅(なごら)尊者。この羅漢名に該当する尊者は資料により使われる漢字がことなります。参照資料の一つは「諾矩羅(なくら)」(資料1)、他は「諾距羅(なくら)」(資料2)としています。この2つの梵名は同じナクラです。南瞻部(なんせんぶ)州、800人。同じ尊者をさすと思うのですが不詳です。課題が残りました。 迦諾迦跋釐惰闍尊者迦諾迦跋釐惰闍(かなかばりだじゃ)尊者。梵名はカナカ・バーラドヴァージャ。東勝身(とうしょうしん)州、600人。 賓度羅跋羅惰闍尊者賓度羅跋羅惰闍(びんどらばらだじゃ)尊者。梵名はビンドーラ・バラドヴァージャ。西瞿陀尼(せいくだに)州、1000人。 南側壁面の東端には、達磨さんが置かれています。その前には、香炉と小さな梵鐘が置かれています。 お堂の南東隅側から眺めた南側の羅漢像の全景です。それでは、本尊の背面の通路を歩み、北側壁面の羅漢像を東端から拝見していきましょう。 迦諾迦跋蹉尊者迦諾迦跋蹉(かなかばっさ)尊者。梵名はカナカヴァッツァ。加湿弥羅(かしつみら)、500人。 蘇頻陀尊者蘇頻陀(すびんだ)尊者。梵名はスビンダ。北俱盧(ほっくる)州、700人。 手許の二書は、「そびんだ」とルビをふっています。(資料1,2) 跋陀羅尊者 跋陀羅(ばっだら)尊者。梵名はバドラ。眈没羅(たんもら)州、900人。 伐闍羅弗多羅尊者伐闍羅弗多羅(ばじゃらふっだら)尊者。梵名はヴァジラプトラ。鉢刺拏(はらな)州、1000人。この尊者名のルビは参照資料により異なります。一書は「ばじゃらほったら」(資料1)、他書は「じゅばじゃらほったら」(一字目に戎の文字が付いています)(資料2)です。 半託迦尊者半託迦(はんたか)尊者。梵名はパンタカ。三十三天、1300人。 那伽犀那尊者那伽犀那(なかさいな)尊者。梵名はナーガセーナ。半度波(はんどは)山、1200人。 伐那婆斯尊者伐那婆斯(ばなばし)尊者。梵名はヴァナヴァーシン。可住山(かじゅうせん)、1400人。 注荼半託迦尊者注荼半託迦(ちゅだはんたか)尊者。梵名はチューダパンタカ。持軸山(じじくせん)、1600人。 賓頭盧尊者賓頭盧(びんずる)尊者は上掲の賓度羅跋羅惰闍尊者と同一であるとも考えられているそうです。(資料2) お堂の北西隅側から眺めた北側の羅漢像の全景です。上記の『法住記』は十六羅漢を説明していますので、参照資料1,2では、賓度羅跋羅惰闍尊者を第一尊者に、注荼半託迦尊者まで同じ順番で表記されています。それと対比すると、萬福寺の十八羅漢の並ぶ順番はかなり違っています。この辺りも興味深いところです。賓頭盧尊者は一番なじみがあるかもしれません。お寺の仏堂の外陣や外縁に安置されていることが多い尊者です。病者が患っている箇所と同じ賓頭盧尊者の部分を撫でると治るという信仰があり、「撫(な)で仏(ぼとけ)」として信仰されてきました。多くの賓頭盧尊者像はテカテカと光った部分が残る像です。衛生上の観念も浸透し、今では撫でるということが減ってきているようですが・・・・。また、中国では『請賓頭盧法』に「法会を設けるときは、必ず賓頭盧尊者を請じて食事を供養する」という記述があることから、寺院の食堂に彫像の賓頭盧を安置し、聖僧として祀ることが行われたと言います。(資料2)羅漢像は群像として造られることが一般的です。賓頭盧尊者だけが単独で造立されるというのも興味深いと言えます。賓頭盧尊者は、「コーサンビーの優塡王(うでんおう)の大臣の子で婆羅門(ばらもん)の出身。神通力に優れていたが、それ以上に説法に優れていたので獅子吼第一と呼ばれた」(資料1)そうです。一つご紹介しておきたい像があります。2013年6月に萬福寺を探訪したとき、この大雄宝殿の本尊から南西側に隠元禅師像が安置されているのを拝見しました。 ☆ ☆ ☆ ☆ 「隠元倚騎獅像」の画像を彫像にしたものを間近に拝見できました。今回、南側の羅漢像群を眺めた後、一瞬あれっと感じたのです。隠元禅師像が以前のようにはなかったのです。そのときはそのままで、北側の羅漢像群の拝観に行きました。記録写真を整理し、まとめながら、改めてなぜだろう、と考えていて気づきました。 上掲の画像から切り出した部分図です。その位置に厨子が設置されていたのです。多分、現在はこの隠元禅師像がこの厨子に安置されているのではないかと思います。厨子の扉が閉じてあり、意識せずに通過してしまったのか・・・・定かではありません。残念。それでは、三門、天王殿、大雄宝殿と一直線上に配置されたその先にある法堂に向かいましょう。つづく参照資料1)『岩波仏教辞典 第二版』 中村・福永・田村・今野・末木[編集] 岩波書店2)『仏尊の事典 壮大なる仏教宇宙の仏たち』 関根俊一編 学研 p198-2093)『最新版フォトガイドマンプクジ』 萬福寺発行 萬福寺売店にて購入した小冊子4) 30.十六羅漢と五百羅漢(3) :「全日本少林寺気功協会」補遺十六羅漢像 :「e國寶」紙本淡彩十六羅漢図・全16幅 久隅守景 筆 :「臨済宗建長寺派 金徳山光明寺」阿羅漢 :「Web版 新纂浄土宗大辞典」十六羅漢 :「Web版 新纂浄土宗大辞典」十八羅漢 :「Web版 新纂浄土宗大辞典」羅漢(阿羅漢)とは?羅漢像のある有名な寺院や施設など :「よりそうお葬式」聖者のかたち -羅漢- :「福岡市博物館」苔むす百面相 無常説く 石峰寺の五百羅漢像(時の回廊):「日本経済新聞」愛宕念仏寺 1200羅漢の寺 :「4travel.jp」彦根の粋なスポット、名庭と五百羅漢~天寧寺・龍潭寺~ :「トラベルjp」五百羅漢 :「川越大師 喜多院」富山の宝 長慶寺 五百羅漢 :「NHK」天恩山五百羅漢寺 ホームページ世界遺産 五百羅漢 石見銀山 :「羅漢寺」廣田寺木造十八羅漢像 :「松本市」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -1 総門と門前点景 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -2 総門(2)・影壁・放生池・三門ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -3 三門(2)・菩提樹・鎮守社・天王殿前境内 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -4 天王殿(ほていさん・韋駄天・四天王)へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -5 売茶堂・聯燈堂・鐘楼ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -6 伽藍堂・斎堂(禅悦堂)・雲版 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -7 斎堂の開?・月台・大雄宝殿ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -8 大雄宝殿 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -10 法堂・東西の方丈・慈光堂・禅堂ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -11 祖師堂・鼓楼・合山鐘・石碑亭・寿蔵ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -12 開山堂・松隠堂・通玄門 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -13 文華殿と塔頭(天真院・万寿院)へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -14 北西周辺の塔頭(萬松院・龍興院・宝蔵院・宝善院)へこちらもご覧いただけるとうれしいです。一覧表 宇治(探訪・観照)一覧
2022.01.15
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再び斎堂を経由して左折し回廊を進むと、南東隅の柱に「大雄寶殿」(重文)の木札が掛けてあります。堂内に入る前に、まずは大雄宝殿の正面の拝観です。 大雄宝殿の正面、左右には白壁の壁面にスッキリとした円窓が設けてあります。円窓は「日・月」を象徴しています。(資料1) 円窓下の腰板のところに、案内文の額が掲げてあります。順次参照しつつご紹介します。 (2013.6.9 撮影)2013年6月に探訪したときには、円窓が開放されていてこんな景色を眺めました。円窓の左の柱に、最初の聯が目に止まります。第5代高泉禅師の筆による「碧水丹山設長生之画」の聯が掛けてあります。北側の柱には、高泉筆で対となる「光輪白月献無尽之煙」の聯が掛けてあります。こちらの写真は撮り忘れました。(資料2,3) 正面五間の中央には、前回触れた「萬徳尊」(木庵禅師筆)の扁額が掲げてあります。正月なので、桁には左から「場・道・懺・禮」の文字を記した幡が掛けてあります。大雄宝殿は萬福寺の本殿であり、ここは礼拝し懺悔する道場ですよという意味でしょうか。 回廊に大きな鼎の香炉が置かれています。 部分図として切り出しました。「壽」の字がデザイン化され要所に描かれ、様々な花模様を細やかにし、描き込んだ意匠です。ケバケバしくはなく、華やかな雰囲気を感じさせて素敵です。 正面の北側には、即非禅師の筆による聯が掛けてあります。向かって右側は「世豈無主人」です。『都名所図会』では左側には「仏是良事漢」が対になっているという説明があります。(資料2,3)しかし、改めて写真を見ると、文字数が一致しませんので、不詳です。 大雄宝殿の北側面には、花頭窓が設けてあります。 正面、左(北)の円窓傍から大雄宝殿正面の回廊を眺めた景色です。 回廊を引き返し、南側面の入口に戻ります。大雄宝殿は「歇山重檐式(けつさんじゅうえんしき)」の建物ということに前回触れています。外見上は二重構造に見えます。しかし、下方の屋根(檐)は装飾としての屋根で、堂内は単層構造になっています。下方の屋根が回廊部分になります。(資料1)法隆寺金堂の屋根の裳階(もこし)を連想しました。 (2013.6.9 撮影)回廊の天井を見上げますと、蛇腹天井の形式です。龍の腹を表しているそうです。中国、チベットには同様のものがあり、「檐廊(えんろう)」と称されるそうです。(資料1) (2013.6.9 撮影)日本の寺院では、束と蟇股が見られます。大雄宝殿にはそれらの中間的なイメージを持たせる形が使われていて、興味深いところです。 堂内に入ったところからの景色柱は角柱で、床面は敷瓦(甎 せん)を四半敷にして舗装されています。本尊を祀る須弥壇に向かって、内陣に円座が並べてあります。 装飾法具が中国式です。本堂の柱には数多くの聯が掛けてあります。 堂内中央の須弥壇には三尊像形式で本尊が祀ってあります。その上に「真空」と記した額が掲げてあります。明治天皇の宸筆とのこと。(資料1,案内額) 中尊は釈迦如来坐像が祀ってあります。釈迦牟尼仏が本尊です。従来、范道生作と伝えられてきました(案内額)が、近年の研究で范道生が離日していた時期の事実により、京大仏師兵部作が有力な説になっているそうです。寬文9年(1669)造立。像高250.0cm。 後日、記録写真をよく見ると、胸の部分に卍が刻されているのに気づきました。脇侍として、向かって右には迦葉(かしょう)尊者、左には阿難(あなん)尊者が立っています。 摩訶迦葉は、サンスクリット語でマハーカーシャパ(大迦葉)と称し、仏十大弟子の一人です。頭陀(衣食住に関して小欲知足に撤した修行)第一といわれたで、教団の長老にもなりました。釈迦が摩訶迦葉に法を伝える契機になった「拈華微笑(ねんげみしょう)」の故事が有名です。(資料4) (2013.6.9 撮影)阿難は、サンスクリット語でアーナンダと称し、釈尊のいとこであり、十大弟子の一人です。釈尊の侍者として25年つかえ、釈尊の説法を聴聞することが特に多かったので、多聞第一と呼ばれています。経典の結集の会議おいては大きな役割を果たしたと言います。(資料4) 北側面から 南側面から 堂内中央正面の手前には高い位置に7つの幡が吊り下げてあり、「南無○○如来」と七仏に念じる形に記されています。右から見ていくと、多宝、宝勝、妙色身、広伝身、離怖畏、甘露王、阿弥陀と、それぞれ読めそうです。 堂内の南と北の壁面沿いに、十八羅漢像が安置されています。 こちらは出入り口のある南側壁面です。 羅漢像を端から眺めつつ、反時計回りに進みます。 北側壁面を東端から眺めた景色です。 こちら側には、この木造の虎像がガラスケースに収めて展示されています。虎らしくない(?)かわいい感じです。猫をモデルに想像を駆使して彫像したのでしょうか。 堂内で「東日本大震災被災犠牲者諸精霊位」の位牌が目にとまりました。 布袋尊の小像も安置されています。萬福寺で特徴的な聯。この堂内で目にする聯をいくつかご紹介しておきましょう。この大雄宝殿では、堂内の柱に掛けられた聯について、簡略な説明用の木札が聯の傍に掲示されています。 堂内への出入口に一番近い柱の正面の聯は、第7代悦山禅師筆の「万徳殿中移来一会耆閻崛」です。説明木札は[まんとくでんちゅう、うつりきたるいちえ、きじゃくつ]と読み、<万徳尊(お釈迦様の別名)のお堂の中は、耆閻崛(きじゃくつ)山のお説法をここに移して来たようである>という意味と記されています。以下、同様です。この正面に対して、左側面の聯は第2代木庵筆の「一茎草現紫金容赴感流慈道祓三千世界」[いっきょうそう、しきんようをげんじ、かんにおもむき、じをながして、どう、さあんぜんせかいにこうむり]<一本の草が仏のお姿をあらわしていて信心を感じるところ慈悲心をもって三千世界(世界中)に仏法をひろめ> 木庵筆の聯は、北側の柱の右側面が対応します。「万徳功円浄妙智随機化物恩加百億人天」[まんとくこう、まどかにして、じょうみょうち、きにしたがい、ものをけして、おんひゃくおくにんてんにくわう]<万徳(仏のお徳の多いこと)を円満にお積みになってその知恵は人間(機)や衆生(物)の中に教化して沢山(百億)の人達にその恩を及ぼしておられる>この左柱の正面の聯は、 これです。上掲悦山筆の聯に対応するものだと思います(末尾一文字欠落)。ところが、説明木札に撮影に失敗していました。残念! 次の機会に確認したいと思います。 釈迦如来の脇侍・迦葉尊者の斜め前の柱には、隠元禅師筆の聯が掛けてあります。「宗門肇啓廓天心祗樹林中十聖三賢皆景仰」[しゅうもん、はじめてひろげ、てんしんかくたり、ぎじゅりんちゅう、じつしょうさんけん、みなけいぎょう]ここまでは記録写真で判読できましたが、訳文にあたる箇所が鮮明でなくて、お伝えできません。上掲左の写真の聯も撮影は失敗。課題が残りました。読み下し文がわかりますので、語句からの類推で少し文意を理解できそうです。宗門をはじめて確立したという意味では、釈尊が悟りを啓いて教えを広められたことか、隠元禅師が日本に渡来され黄檗宗の基を啓いて教えを広められたことかのいずれかを意味するのでしょう。祗樹林は釈尊が教団を営まれた祗樹給孤独園(ぎじゅぎっこどくおん)、つまり祇園精舎という場所のことだと思います。そこで仏の十弟子をはじめ多くの僧が修行に励みました。(資料4) その場所を比喩的に例示したとも受けとめられます。三賢十聖は「大乗仏教で、菩薩の修行階位のうち、聖位である十地(十聖)と、それ以前の十住・十行・十回向(三賢)のこと。三賢十地。」(『デジタル大辞泉』)を意味する といいます。(資料5)最後の「景仰」は「したいあおぐ」(『角川新字源』)という意味です。いずれにしても、十聖三賢として修行の階位にいる先人を仰ぎ見て、修行に励もうという主旨なのでしょうね。大雄宝殿の堂内を眺めますと、 堂内で、この鐘が本尊の背後の壁面の南の柱に設けてあることに目がとまりました。特定の目的でこの鐘も叩かれるのでしょう。 本尊の背後の堂内の通路部分ですが、見上げた部分は下方の屋根(檐)の棰(たるき)の整然とした列が見えます。屈曲した海老虹梁も使われています。 堂内の一隅の天井部分です。かなりの高さがあることで、このお堂が単層の建物とわかります。細見と言いながら不十分さが残りました。次回は大雄宝殿拝観の最後に、十八羅漢像見仏に絞り込んでご紹介します。つづく参照資料1)『最新版フォトガイドマンプクジ』 萬福寺発行 萬福寺売店にて購入した小冊子2)『都名所図会 下巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p106-1103) 黄檗山萬福寺(万福寺) 都名所図会 :「国際日本文化研究センター」4)『岩波仏教辞典 第二版』 中村・福永・田村・今野・末木[編集] 岩波書店5) 三賢十聖 :「コトバンク」補遺黄檗宗大本山 萬福寺 ホームページ隠元 :「Japan Knowkedge」隠元禅師と黄檗文化 :「旅する長崎学」(長崎県文化振興課)隠元 生活の中の仏教語 :「読むページ」(OTANI UNIVERSITY)隠元倚騎獅像 :「神戸市立博物館」木庵禅師 :「恩林寺のぶろぐ」(岐阜県)木庵禅師物語 記事一覧 :「黄檗宗宝林寺」(群馬県)木庵禅師頂相 :「姫路市」木庵禅師書 三幅対 :「長崎市」高泉性潡 :「コトバンク」高泉性潡 :ウィキペディア高泉和尚襍話 侍者編 :「黄檗宗慧日山永明寺」(滋賀県)高泉禪師一滴艸 (こうせんぜんじいってきそう):「新日本古典籍総合データベース」【県指定】紙本隠元画像 1幅 :「北九州市」拈華微笑 :「コトバンク」「拈華微笑」とはどういう意味なのか :「禅の視点 -life-」拈華微笑《ねんげみしょう》 (無門関) :「今月の禅語」黄檗宗 梵唄(ぼんばい) YouTube黄檗宗・萬福寺 梵歌 YouTube萬福寺 お施餓鬼(令和2年 中元法要) YouTube令和3年【中元法要】施餓鬼 YouTube令和3年 仏供講法要 YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -1 総門と門前点景 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -2 総門(2)・影壁・放生池・三門ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -3 三門(2)・菩提樹・鎮守社・天王殿前境内 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -4 天王殿(ほていさん・韋駄天・四天王)へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -5 売茶堂・聯燈堂・鐘楼ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -6 伽藍堂・斎堂(禅悦堂)・雲版 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -7 斎堂の開?・月台・大雄宝殿ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -9 大雄宝殿の十八羅漢像と隠元禅師像 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -10 法堂・東西の方丈・慈光堂・禅堂ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -11 祖師堂・鼓楼・合山鐘・石碑亭・寿蔵ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -12 開山堂・松隠堂・通玄門 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -13 文華殿と塔頭(天真院・万寿院)へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -14 北西周辺の塔頭(萬松院・龍興院・宝蔵院・宝善院)へこちらもご覧いただけるとうれしいです。一覧表 宇治(探訪・観照)一覧
2022.01.14
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斎堂の正面、東側にはこの大きな魚の形をした魚板が回廊の梁に吊されています。 柱には、「開梆(かいぱん)」という名称で説明が掲示されています。 回廊の東側から眺めた姿です。開梆は、魚梆、魚鼓とも呼ばれるそうです。 この魚梆は萬福寺における日常の行事や儀式の刻限を報じるために叩いて音を境内に伝えるための法器です。 西に延びる回廊を眺めると、開梆の向こうに雲版が見えます。どちらかが音を発すれば、その音が何を意味する合図(信号)であるのか。日常の修行の行動に直結しているのでしょう。上掲の案合掲示に記されていますが、こおちらもこれを叩いた音をスマホ、携帯電話で聴くことができるそうです。私は試していませんが・・・・。(掲示説明文より)現在の魚梆は三代目と言います。これは木地のままですが、先代(二代目)は全体に丹塗りが施されていたそうで、現在文華殿に蔵されているとか。(資料1)この魚梆が木魚の原型とされています。 この魚板を斜め下から見上げると、こんなスリットが刻まれていて、内側が刳り抜かれていることがわかります。叩けば音が反響することになります。 木魚はこんな形ですね。インターネットからわかりやすい画像を引用しました。(資料2)木魚の原型だということがわかりやすくなるでしょう。 なぜ、魚が珠を口にくわえているのでしょう?この珠、「煩悩の珠」を意味するそうです。口の部分に珠をあしらうのは、木魚を叩くことで、煩悩を吐き出させるという意味があると言います。(資料3) 「昔は、魚は昼夜を問わず目を開けているため寝ないものと思われていました。」(資料3)「魚は不眠不休でいるところから、怠惰を戒めるためにこれを叩く」(資料1)「寝ない魚のように、修行僧は常に怠けずに修行に励みなさい、という意味が込められて魚の形になっています。」(資料3)そんな意味が込められているのですね。 ちょっとマニアックに部分撮りを・・・・・。室町時代の禅宗寺院では、大衆を集める合図として木製の鳴り物が用いられたそうですが、江戸時代に隠元禅師が開梆/魚梆を用いたことから、今の形の木魚となり本格的に仏事に根付いていったと言います。木魚は現在では諸宗派の仏事で使われています。(資料3) こんな新聞記事が掲示してありました。コロナ禍のご時世を反映していますね。 魚梆を潜ると、 左には、「大雄宝殿」に到る回廊が北方向に延びています。西側には長椅子が並べてあります。春先にはここで一休みするのもよいかも・・・・。 この回廊への入口、東側の水槽に、なぜかミニ盆栽が並べてあります。大雄宝殿に進む前に、斎堂の南東側を少し探訪してみました。斎堂の東側には通路を挟み、売店があります。『最新版フォトガイドマンプクジ』を購入したのはこの売店です。 近くで目に止まった巡照板。「無常迅速」の文字が叩かれ続けてほぼ消滅しています。まさに、「無常」を示す如くに。 境内の南東角のエリアには、「萬福寺寺務所」の建物と「双鶴亭」の木札を掛けた建物があります。 斎堂の南側には、「香福廊」の扁額を掲げた建物があります。この建物の西側が前々回に屋根だけの景色を載せた「典座」と表示される建物です。外観を一瞥して、いよいよ大雄宝殿に向かいます。 大雄宝殿に向かう回廊の途中に、東に延びる回廊が分岐します。「法堂」に向かう回廊です。 大雄宝殿の正面前、つまり西側には「月台(げったい)」があります。探訪したときには、正月の飾りつけがなされていました。 一旦、天王殿の東側面に戻り、天王殿から大雄宝殿に繋がる参道を進みます。参道から眺めた景色です。大雄宝殿の前に、白砂の基壇が設けてあります。これが「月台(けったい)」です。 参道の両側に一対の石灯籠が設置されています。 月台には、献花が飾ってあります。 弘原未生流家元・小林秀加作です。 大雄宝殿前からの景色 月台の南東隅からの景色生花と青竹の組み合わせが、オブジェの世界に繋がっているようです。生花が隠されてしまうような、守護されているような雰囲気の現出がおもしろい。青竹の緑と提灯の赤のコントラストも鮮やかです。インドでは陰暦で仏教行事を行い、中国では仲秋節を三大節句の一つに位置づけて、明・清時代には月をお祭りする行事が行われました。「黄檗山では1日(新月)と15日(満月)には特別の法要を執り行い、その前日の14日と晦日に半月間の罪を懺悔するお経を誦みます」(資料1)。月台は仏教と戒律と月を象徴する場所だそうです。花器が月台の中心である長方形の平石のところに置かれています。この平石を「罰跪香頂石(ばっきこうちょうせき)」と称し、「叢林の共住規約を守らなかった者が罰として線香を立て、この石上に跪き礼拝して懺悔します」という場所でもあるそうです。また、萬福寺の中心線上に位置し、月台の核となる石、結界の戒碑でもあるのです。(資料1) 回廊には、大きな絵馬が置かれています。今年は寅年。睦まじい虎の親子が家族として描かれています。「勝運」まずはコロナに勝ち抜きたいものですね。 回廊の傍からも絵馬を撮ってみました。柱間いっぱいですから、大きさが想像できることでしょう。数えてみますと柱間は四半敷の敷瓦8枚。絵馬底辺は7枚+αくらいの長さのようです。大雄宝殿は、萬福寺の本堂で、最大の伽藍になります。日本では唯一最大のチーク材を使った歴史的建造物になるそうです。歇山重檐式の建物で、寬文8年(1668)年に建立されました。 大屋根の棟の両端には、摩伽羅(まから)が見えます。 棟中央には、二重の宝珠が置かれています。 上層には隠元禅師の書による「大雄寶殿」の扁額が掲げられ、 (2013.6.9 撮影)下層には第2代木庵禅師の書による「萬徳尊」の扁額が掲げてあります。中国の禅宗寺院や韓国の曹渓宗の寺院では、お釈迦さまを奉祀する仏殿を大雄宝殿または大雄殿と呼ぶとか。「すべての徳をそなえた尊いお方」という意味でお釈迦さまのことを万徳尊と称するそうです。(資料1)それでは、回廊を戻って、堂内を拝観しましょう。つづく参照資料1)『最新版フォトガイドマンプクジ』 萬福寺発行 萬福寺売店にて購入した小冊子2) 木魚 :「株式会社浅野太鼓楽器店」3) 木魚とは 木魚の意味・由来 :「いい仏壇」(株式会社鎌倉新書)補遺黄檗宗大本山 萬福寺 ホームページ木魚 :ウィキペディア念仏と木魚/知恩院サウンドセラピー YouTube「日本一」巨大木魚の響き 小樽・龍徳寺 YouTube月台 :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -1 総門と門前点景 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -2 総門(2)・影壁・放生池・三門ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -3 三門(2)・菩提樹・鎮守社・天王殿前境内 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -4 天王殿(ほていさん・韋駄天・四天王)へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -5 売茶堂・聯燈堂・鐘楼ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -6 伽藍堂・斎堂(禅悦堂)・雲版 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -8 大雄宝殿 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -9 大雄宝殿の十八羅漢像と隠元禅師像 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -10 法堂・東西の方丈・慈光堂・禅堂ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -11 祖師堂・鼓楼・合山鐘・石碑亭・寿蔵ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -12 開山堂・松隠堂・通玄門 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -13 文華殿と塔頭(天真院・万寿院)へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -14 北西周辺の塔頭(萬松院・龍興院・宝蔵院・宝善院)へこちらもご覧いただけるとうれしいです。一覧表 宇治(探訪・観照)一覧
2022.01.13
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回廊を東に歩むと、 「伽藍堂」(重文)があります。第2代木庵禅師の書による「伽藍堂」の扁額が掲げてあります。 「萬福寺全景図」の右側(南)の赤丸のところです。伽藍堂は左側(北)の祖師堂(左の赤丸のところ)と相対する形で同時期、寬文9年(1669)に建立されました。単層入母屋造り、本瓦葺きの建物です。伽藍堂は伽藍を守護する伽藍神を祀るお堂だそうです。(資料1) 扉の両側の柱にも聯が掛けてあります。 堂内中央に本尊が祀られていて、その手前の左右の柱にも同様に聯が掛けてあります。これらの聯について、資料がなく不詳です。 本尊には華光菩薩像が安置されています。像容としては顔に三目があり、中国の文官の服装です。范道生作で、寬文3年(1663)の造立だそうです。木造彩色。像高163.5cm。(資料1) 華光菩薩像の前には、椅座する男性の像が安置されています。 この像、なかなか厳めしい相貌です。手許の参照資料には残念ながら明示されていません。『百丈清規證義記』の附加伽藍の項についての補足説明があります。(資料1)そこで、その説明の文脈と他の資料を合わせこの像を関帝像と推察します。間違っているかもしれませんが・・・・。(資料2,3)神戸と横浜には関帝廟があります。中国の人々の信仰の一端であり、そこからの類推でもあります。 これはウィキペディアから引用した関帝像の一例です。(資料2)雰囲気は似てますよね。 祭壇の手前には、把手付き鼎の形の大きな香炉が置かれています。まさに中国という感じ・・・・。 祭壇に掛けられた赤地の刺繍布には、唐子たちが楽しげに音楽を奏でている図柄が見えます。 本尊に向かって右側の厨子には、八臂の弁財天坐像が安置されています。木造、像高74.0cm。(資料1) 本尊に向かって左側の厨子には、三面大黒天立像が安置されています。塑造、像高74.0cm。三面六臂の像で、右に毘沙門天、左に弁財天の顔を併せ持つています。余談です。ふと、思い出しました。宇治川傍にある曹洞宗の興聖寺にも、僧堂北側に三面大黒天が祀られています。もう一例は京都・東山にある圓徳院の三面大黒天。こちらは豊臣秀吉の出世守り本尊として有名です。 ふと、堂内の北西隅に目を向けると、こんなものが置かれています。何でしょうか。不詳。 伽藍堂を過ぎて振り返った景色 回廊を進み、次のお堂の正面に向かう前に目に止まるものがあります。 これです。青銅製で雲の形をした「雲版(うんぱん)」と称される法具です。QRコードが見えるので何かと思えば、スマホ、携帯電話でこの雲版の音を聴くことができるそうです。お寺も進歩している。工夫していますね。雲版は「主にお堂への出頭を促す合図を送るために鳴物」とここには説明されています。「雲版は、朝と昼の食事と朝課の時に打つもの」(資料1)だそうです。なぜ雲形なのか? 「雲は雨を降らせることから恵みの象徴であるとともに、火事や災害を防ぐ意味もあるといわれて」(転記)いるからなのだそうです。 この雲版の西面には年月が陽刻されています。「寬文元年 歳在辛丑□□月吉日」(二文字不詳)と読めそうです。十干十二支による紀年法で、辛丑(かのとうし)の歳は、寬文元年(1661)に該当します。(資料4)寬文元年は第4代将軍徳川家綱の時代。萬福寺の創建年でもあります。整合します。この雲版には天女の姿がレリーフされています。 雲版の反対側(東面)です。 「黄檗山萬福禅寺住持 隠元□□」(末尾二字不詳。琦と置の二字か?)という文字が読み取れます。左側に落款の形も見え、こちらの面にも天女のレリーフが施されています。 両側には太陽と月、そして雲が象られています。 こちらのお堂は「斎堂」です。萬福寺全景図に青色の丸を付けた位置になります。 正面の扉の上に第2代木庵禅師の書による「禅悦堂」の扁額が掲げてあります。 扉の両側の柱に聯が掛けてあります。これも木庵禅師の書だそうです。こちらもまた資料がなく判読できかねます。 正面右側の腰板部分に「斎堂」の案内額が掲示されています。「斎堂」は萬福寺本山の僧衆の食堂です。約300人が一堂に会して食事をすることができるそうです。(案内文より)扉が閉ざされていますので、内部は分かりませんが、堂内には緊那羅王菩薩立像が祀ってあり、高脚飯台と腰掛が並んでいるそうです。緊那羅王菩薩立像は范道生作で寬文2年(1662)に造立されたもの。八部衆の一人で、楽器を演奏し歌を得意とする音楽天であり、僧衆の食事を見守る火徳神とされています。斎堂が寬文8年(1668)に建立されるまでは法堂に安置されていたそうです。(資料1)一つ疑問があります。八部衆なら、仏像としては天部に分類され、菩薩とは区別されています。なぜ、緊那羅王菩薩と称されているのか、今ひとつ私には理解できていません。 斎堂の正面から「大雄宝殿」が間近に見えます。この景色の右下にある駒札が目にとまります。 それがこれです。駒札には「生飯台(さばだい)」と記されています。 「堂前の生飯台は食前に一箸の飯を餓鬼や鬼子母神などに施しをする台です。」(掲示の説明文転記) 大雄宝殿に向かう回廊の南端に溝が設けられているのが目に止まりました。広大な伽藍ですので、境内の排水の流れも伽藍配置の一環として組み込まれていることがわかります。斎堂正面の東端寄りに、上掲の雲版と対になる「開梆(かいぱん)」のご紹介から始めます。説明としては、上記「斎堂」の案内説明に触れられています。つづく参照資料1)『最新版フォトガイドマンプクジ』 萬福寺発行 萬福寺売店にて購入した小冊子2) 関帝 :ウィキペディア3) 関帝図 :「文化遺産オンライン」4)『歴史探訪に便利な日本史小典』 3版 日正社補遺黄檗宗大本山 萬福寺 ホームページ「范道生」 長崎往来人物伝 :「長崎Webマガジン」【曹さんぽ】番外編!神戸・関帝廟をご紹介します YouTube横浜 関帝廟 ホームページ緊那羅王 仏様の世界 :「Flying Deity Tobifudo」緊那羅 :「owlapps」乾漆八部衆立像 :「法相宗大本山 興福寺」八部衆 :「isumu」三面大黒天 尊像 :「曹洞宗 仏徳山・興聖寺」三面大黒天 :「圓徳院」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -1 総門と門前点景 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -2 総門(2)・影壁・放生池・三門ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -3 三門(2)・菩提樹・鎮守社・天王殿前境内 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -4 天王殿(ほていさん・韋駄天・四天王)へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -5 売茶堂・聯燈堂・鐘楼ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -7 斎堂の開?・月台・大雄宝殿ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -8 大雄宝殿 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -9 大雄宝殿の十八羅漢像と隠元禅師像 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -10 法堂・東西の方丈・慈光堂・禅堂ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -11 祖師堂・鼓楼・合山鐘・石碑亭・寿蔵ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -12 開山堂・松隠堂・通玄門 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -13 文華殿と塔頭(天真院・万寿院)へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -14 北西周辺の塔頭(萬松院・龍興院・宝蔵院・宝善院)へこちらもご覧いただけるとうれしいです。一覧表 宇治(探訪・観照)一覧
2022.01.12
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もとは敷瓦を四半敷にしていたと思われる天王殿前の回廊を南の方向に歩みます。 三葉葵の紋を使った燈籠が回廊に吊されています。萬福寺のホームページをあらためて見て、徳川家と同じ三葉葵の紋が宗紋となっていることに気づきました。つまり、当時の徳川幕府が萬福寺に同紋の使用を認め、庇護したことにつながることと推察します。1975年1版発行の文庫本が手許にあります。それを読み返すと、江戸時代に隠元禅師がそれまでの宋朝禅とちがった明朝禅の新風をふきこんだことが改めてわかります。「隠元は浄土教同様、念仏によって禅的境地に到達すべきだと高唱し、また言語・衣食住にいたるまで故国の風習をまもった。」「十三世まで山主はすべて中国僧だった。」「黄檗禅は、詩文にはしり安逸にながれた当時のわが禅界に大きな波紋を投じた。妙心寺派の鉄牛道機、竜渓性潜ら、曹洞宗の鉄心らが隠元の門にはしった。」「各行事から梵唄(読経)はもとより、建物の配置から用材(チーク材)のほとんどにいたるまで中国式、もちろん言語も中国語だった。」(資料1)と記述されています。徳川幕府にとって、隠元禅師の渡来は宗教政策的にも庇護する意図が大いにあったのでしょう。この書の説明をふまえて当時をイメージすると、菊舍の詠んだ「山門を出づれば日本ぞ茶摘うた」の句が一層鮮やかなものとなり、その心象風景を感じさせます。南に直進する回廊は、直角に東に向かう回廊と、少し先で南端となる部分に分岐します。 これは回廊を西側から撮った景色です。直進の回廊の南端近くに額が吊り下げてあります。「売茶堂 有聲軒」についての案内です。 ここで回廊を外れ、右折してこの参道を西に歩み窟門を潜れば、「売茶堂」「有聲軒」に至ります。窟門前の右方向の下り坂の手前に、一木が円形の石囲みの中に見えます。傍に駒札が立ち「黄檗樹(きはだ)」と記されています。中国福建省、福清の黄檗山には黄檗樹が多く繁茂していたことから、山号が黄檗山と称されたと言います。黄檗の甘皮部分は黄色で苦みがあり、漢方の原料になる一方、染料として用いられるそうです。(資料2) 窟門の手前右側に「賣茶堂」の石標が立っています。賣は売の旧字です。窟門の上部には名称が記されていますが、残念ながら私には判読できません。 窟門を潜ると、南方向に寄棟造りのお堂が見えます。 左側の築地塀の先に竹垣が続き、その前に「賣茶翁顕彰碑」と横書きに刻された碑が建立されています。正面にあるお堂には「茶禅」と記した扁額が掲げてあります。「賣茶堂」です。「煎茶道の祖、賣茶(まいさ)翁(高遊外、月海元昭禅師)が祀ってあります。 翁は当寺開寺禅師の曽孫にあたり晩年洛東洛北名勝の地に茶席を設け行人に茶をすすめ風流三昧に余生をおくりました」(上掲の案内額の説明文転記)売茶翁は「他人からの布施をこのまず、晩年法弟に寺をゆずり、路傍で茶を売った煎茶道の名人」(資料1)という説明もあります。余談ですが、ノーマン・ワデル著『売茶翁の生涯』(思文閣出版)という翻訳本が出版されています。この本の読後印象をもう一つの拙ブログ(遊心逍遙記)でご紹介しています。こちらからお読みいただけるとうれしいです。 売茶堂の正面の扉に見える開口部から堂内を垣間見ますと、賣茶翁月海禅師像が祀ってあります。加納鉄哉作の禅師像です。(資料2) 売茶堂の北西方向、一段低い位置にこの建物が見えます。入口の上部に「喫茶去(きっさこ)」の扁額が掲げてあります。たぶん、ここが「有聲軒」の玄関なのでしょう。売茶堂から北方向に戻り、窟門傍からさらに北にゆるやかな傾斜地を下って行くと、 「茶具塚」と刻された供養碑が曲がり角に建立されています。 この庭の樹木の先に見えるのは「文華殿」です。庭の左側に見える建物が、上掲の玄関に続く建物「有聲軒」ということでしょう。「有聲軒は煎茶席、庭園は太湖石芭蕉梧桐竹を配した煎茶趣味の庭園です。 社団法人全日本煎茶道連盟の本部がここにおかれています」(同説明文後半を転記)さて、「喫茶去」についての余談です。この語句に使われている去は助字で「去る」という意味はないそうです。「喫茶去」は「お茶を一服おあがり」ということを述べているフレーズなのです。ところが、この「喫茶去」というのが禅では大問題なのだとか。「趙州(じょうしゅう)喫茶去」の公案と言い、禅では有名な公案だそうです。趙州禅師は、たずねてきた僧がかつて来たことのある僧にも、初めてきた僧にも、まず「曽(か)つて此間(すかん)に到るや」と質問し、僧が返答すると、どちらの僧にも「喫茶去」と言われたのです。この両方の様子を見ていた院主が変に思い禅師に質問したところ、禅師はこの院主にも「喫茶去」と言ったとか・・・・。趙州禅師はなぜ三人に一様に「喫茶去」といわれたのか? これが公案の眼目なのだそうです。千利休は、趙州喫茶去の境地こそ茶の真精神であるという主旨のことを語っていると言います。(資料3)元に戻ります。 天王殿から南進した回廊の真っ直ぐ先にあるのが、「聯燈堂」です。燈は灯の旧字。 ここも正面の柱、堂内の柱の双方に聯が掛けてあります。残念ながら、これらの聯と堂内の扁額についての資料がなく、私には判読できません。不詳です。現在の建物は昭和47年(1972)の再建だとか。「本尊は釈迦牟尼佛。千手観音像、室田夫人観音像を祀っています。過去七佛より西天東土の歴代祖師、黄檗宗流下の法を継ぐ僧侶を祀り・・・・・・近世においては、黄檗宗の流れを受け継いだ末寺の和尚や檀信徒篤志者も過去帳に記載して一切有縁の方々を祀るようになりました。」(資料2)ちょっと関心を抱いたのは、堂内天井の装飾画と、 降棟の鬼瓦(般若とは珍しい・・・・)および建物正面の桁の上の束の造形です。 天王殿から南進してきた回廊から左折し東に延びる回廊の角で、この木札が順路を示す役割を果たしています。魚梆の絵です。この先にこれがありますよという案内表示でもあります。 聯灯堂からでは、右折して東方向への回廊を歩みます。この回廊も重要文化財です。柱にその旨の木札が掲げてあります。回廊には、「京都最古 都七福神 毘沙門天 東寺」の幟が立ててあります。ここ萬福寺の布袋尊はこの「都七福神」の一つに入っています。「古来より民衆の間で信仰の篤い七福神は京都が発祥の地とされ、『都七福神』の巡拝は古くから行われているものです」(資料4)ということをこの探訪で知った次第です。毎月7日は都七福神のご縁日とされています。(資料4) 最初の建物には「鐘楼」の木札が掲げてあります。 この部屋は自由写経のために開放されているようです。回廊から眺めていた時は、部屋の奥に置かれているものは何か判然としませんでした。後日、写真を見て、仏像が安置されていることがわかりました。 聯灯堂側から見れば、この建物が二階建てとわかります。上層に梵鐘が吊されているのでしょう。長崎の元奉行だった黒川与兵衛が寄進し、寬文8年(1668)に建立された入母屋造、本瓦葺の建物です。梵鐘は戦後に再鋳されたものと言います。 棟には総門と同様の摩伽羅(まから)と鬼瓦が見えます。 鬼瓦と軒丸瓦。軒丸瓦の瓦当面には「萬福禅寺」の文字が陽刻されています。 鐘楼の北東側から回廊を眺めた景色回廊の柱に耐震補強がされているのが目にとまりました。 巡照版朝夕打たれ続けているためでしょう「無常迅速 各宜覚醒」の文字がかなり消滅しています。 鐘楼の東側の空間から南東方向に見える建物の屋根「萬福寺 七堂伽藍」図を参照すると、「典座(てんぞ)」と称される建物のようです。(資料5)典座は「禅宗寺院で、僧侶の食事を司る役職」(日本語大辞典・講談社)という意味ですので、食事の準備、食事等に関わる建物なのでしょう。 さて、回廊を先に進みましょう。つづく参照資料1)『京都府の歴史散歩(下)』 山本四郎著 山川出版社 p146-1482)『最新版フォトガイドマンプクジ』 萬福寺発行 萬福寺売店にて購入した小冊子3)『茶席の禅語(上)』 西部文浄著 タチバナ教養文庫 p136-1404) 日本最古 都七福神まいり ホームページ5) 境内の建造物と文化財 :「萬福寺」補遺黄檗宗大本山 萬福寺 ホームページキハダ(植物) :ウィキペディアすぐわかる生薬 おうばく(黄柏) :「漢方薬師堂」喫茶去 今日の言葉 :「臨済宗 円覚寺派大本山 円覚寺」喫茶去 <五灯会元> 今月の禅語 :「安延山 承福禅寺」[禅語] 喫茶去の意味・解釈ー原典ノエピソードから解説 :「mame-sadou.com」 典座 :ウィキペディア宇治市の朱印:黄檗山 萬福寺 :「家紋研究家が行く!京都御朱印巡り」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -1 総門と門前点景 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -2 総門(2)・影壁・放生池・三門ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -3 三門(2)・菩提樹・鎮守社・天王殿前境内 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -4 天王殿(ほていさん・韋駄天・四天王)へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -6 伽藍堂・斎堂(禅悦堂)・雲版 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -7 斎堂の開?・月台・大雄宝殿ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -8 大雄宝殿 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -9 大雄宝殿の十八羅漢像と隠元禅師像 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -10 法堂・東西の方丈・慈光堂・禅堂ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -11 祖師堂・鼓楼・合山鐘・石碑亭・寿蔵ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -12 開山堂・松隠堂・通玄門 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -13 文華殿と塔頭(天真院・万寿院)へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -14 北西周辺の塔頭(萬松院・龍興院・宝蔵院・宝善院)へこちらもご覧いただけるとうれしいです。一覧表 宇治(探訪・観照)一覧
2022.01.11
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天王殿(重文)は萬福寺の玄関にあたる位置づけで、中国では一般的な建て方ということは前回ふれました。五間三面、単層、屋根は入母屋造り、本瓦葺きのお堂で、寬文8年(1668)に建立されました。正面の石段を上り、右に右折して堂内に入ります。萬福寺でありがたいことは、境内も堂内もオープンに写真を撮れることです。お陰で私なりの細見状況をちょとマニアックかもしれませんが、できるだけ具体的にご紹介できることです。ご興味があればお付き合いください。 入口側から眺めた景色 堂内の中央、正面に「ほていさん」が鎮座されています。ひらかなで書いてあるのがいいですね。親しみがわきます。 布袋は弥勒菩薩の化身といわれているそうで、萬福寺では弥勒仏とされています。前回、順路表示の上の額の内容は次回にと記しました。この説明額の内容に触れておきしょう。冒頭に「正面は弥勒菩薩釈迦滅後五十六億七千万年後この世に現れ釈迦の救済にもれた一切衆生を救うという使命をおひて待機している菩薩です布袋和尚は弥勒菩薩の化身であると申します」(転記)と句読点無しの説明文です。布袋は名を契此(けいし)と称し、中国・南北朝末後梁の高僧で、定応大師と号した人だそうです。范道生が隠元禅師の命を受け、寬文3年(1663)11月末に造立し、松隠堂に安置された後、天王殿の建立に際し移されたと考えられているようです。像高110.3cm。(資料1)契此はいつも大きな袋を担ぎ国中を行脚し、貧しい人々に救いの手を差し伸べ、大きな袋の中から必要な物を与えたと言います。また救われた人々からいただいた布施を袋に入れて旅を続けたとか。いつしか人々は契此を「布袋」さんと呼ぶようになったそうです。布袋さんは七福神の一人に数えられます。唯一、実在した人物といわれています。(資料2) 重複しますが、『岩波仏教辞典』(第二版)の「布袋」を引用しておきましょう。「中国、唐末、五代後梁に実在した禅僧。明州奉化[浙江省]の人。名は契此(けいし)、号を長汀子(ちょうていし)という。福々しい面相で、巨腹をもち、布の袋を背負って旅をする修行僧として知られ、大きな袋にはさまざまな財貨が入っていて、布袋の行くところ幸運がもたらされるという信仰も生じた。弥勒の化身ともされ、中国の寺院ではその像が入口に安置される。日本には室町時代、禅画の渡来とともに受容され、七福神の一つとして民間に広まった。」 南側からの眺め 北側からのながめ 弥勒菩薩(布袋)坐像の背面に巡ってみますと厨子があります。 「韋駄天立像」が伽藍守護神として安置され、天王殿の東側に位置する「大雄宝殿」を見守っています。三十二将軍神の筆頭に置かれる護法善神です。(資料1) 非情に早く走ることを「韋駄天走り」と称します。韋駄天は「仏舎利を奪って逃げた鬼を追いかけて捕らえ、また、僧の急難を走って行って救ったと言われる神」(『新明解国語辞典』三省堂)です。「ご馳走」という言葉は「韋駄天の俊足をもって各地より食物を集めるということに由来します。」(資料1)この像は、康煕43年(1704)頃、清で造立されたものを請来したもの。木像。像高200.0cm。ほていさんとともに、范道生が韋駄天像を造立していて、その像は現在文華殿に蔵されているそうです。(資料1)(冒頭で触れた説明額には、「菩薩の背後には范道生の作にによる韋駄天を配す」という説明のままで、時が止まっています。ご注意を。)上掲の写真に写っていますが、南北の壁面際に四天王像が安置されています。四天王は『金光明経』四天王品などに説かれる仏土守護の神像で、東西南北の方位に配置されます。(資料2)奈良の法隆寺金堂の四天王像、並びに東大寺・戒壇院の四天王像が特に良く知られていると思います。これらと対比してその造形表現の違いをご覧いただくと、一層興味深いと思います。北面から巡ってみます。 向かって右(東)に多聞天(北)、左(西)に広目天が安置されています。 多聞天立像(北) 多聞天は単独で毘沙門天としても信仰の対象になっている天部の仏像です。少し、マニアックにこの立像の部分を眺めてみましょう。 この多聞天は左手で宝塔を捧げています。法隆寺と戒壇院の多聞天は右手に宝塔を捧げています。 右手の槍は背面に回して斜めに槍先を上げる形で握っています。槍先は三叉になっています。法隆寺の多聞天は左手に槍を直立させて握っています。戒壇院の多聞天は左手には巻物を持っています。 この腰のベルト辺りの造形は、三者三様の表現です。 この多聞天は台座の上に立っています。法隆寺と戒壇院の多聞天は共に足下に邪鬼が居て、その上に立っています。しかし、邪鬼の向きや造形は全く異なっています。勿論、これは事後に手許の本に掲載の写真やネット情報で対比してみたものです。四天王像だけでも興味深くておもしろい。他の三像も同様に対比的に眺めてみるとおもしろいですよ。 広目天立像(西) それでは入口に近い南側の壁面に移ります。こちらは、向かって右(西)に、増長天(南)、左(西)に持国天(東)が安置されています。 増長天立像(南) 持国天立像(東)これら四天王立像は、伊勢の福島信士などの喜捨により、延宝2年(1674)に造立された木像です。像高は各223.0cm。「着衣・甲冑に施された装飾的文様など明代彫刻を忠実に踏襲していますが、下半身が詰まり、衣の裾を重厚に強調しているなどから日本人仏師の手になるものと推察されます」(資料1)とのことです。四天王像について、冒頭に記した説明額には、「護国安眠の守護神」と説明されています。 天王殿の方柱はチーク材が使われているそうです。堂内の中央部になぜか2本だけ円柱があります。なぜ、円柱なのか? これが黄檗の七不思議の一つといわれているそうです。円柱の礎盤は、三門と同様に太鼓形の礎盤が用いられています。方柱の方はご覧のように礎盤の形が立方体が使われています。 天王殿の背面、つまり建物の東側面は韋駄天立像が大雄宝殿に対面している方です。こちらには、即非の書による「遺徳荘厳」の扁額が掲げられています。そして、第6代千呆禅師の書による聯が掛けてあります。右側(北)には「首冠兜鍪感応三洲功不宰」、左側(南)には「臂横宝杵護持正法徳難磨」と記されています。(資料4,5)説明額には、額と聯が誰の書によるものかという点の説明が最後に記されています。説明文の左下、末尾の一文をご紹介しておきます。「即非禅師は木庵と共に隠元禅師の高弟で世に隠木即と称せられています。」(転記)調べてみますと、「隠木即」は「いんもくそく」と読み、「隠元・木庵・即非を<黄檗の三筆>、また<隠木即(いんもくそく)>と呼ぶ」(資料6)とのことです。なるほどです。序でに、前回、購入した小冊子に即非禅師が福岡の福聚寺住持と記していました。ネット検索で調べてみますと、勿論黄檗宗のお寺で現存します。福聚寺は寬文5年(1665)小倉小笠原の初代藩主が菩提寺として創建し、開山が中国僧の即非如一禅師だそうです。(資料7)広壽山福聚寺は「九州四十九院薬師巡礼」の第6番札所でもあるそうです。(資料8)玄関である天王殿から、回廊を反時計回りに巡ります。つづく参照資料1)『最新版フォトガイドマンプクジ』 萬福寺発行 萬福寺売店にて購入した小冊子2) 布袋さまのお話 :「萬福寺」3)『図説 仏像巡礼事典 新訂版』 久野健[編] 山川出版社 p54-554)『都名所図会 下巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p106-1105) 黄檗山萬福寺(万福寺) 都名所図会 :「国際日本文化研究センター」6) 隠木即 :「コトバンク」7) 【県指定】広寿山福聚寺 :「北九州市」8) 広壽山福聚寺 :「九州四十九院薬師巡礼」(九州四十九院薬師霊場公式サイト)補遺黄檗宗大本山 萬福寺 ホームページ四天王像 :「法隆寺」美を語る「薬師如来坐像」「四天王立像 広目天・多聞天」:「Japan Art & Culture」四天王像 四軀 国宝木造 彩色・切金 :「新美術情報2017」四天王像-天平に息づく守護神たち :「うましうるわし奈良」戒壇堂 四天王立像 :「なら・観光ボランティアガイドの会」九州四十九院薬師霊場公式サイト福聚寺 (北九州市) :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -1 総門と門前点景 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -2 総門(2)・影壁・放生池・三門ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -3 三門(2)・菩提樹・鎮守社・天王殿前境内 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -5 売茶堂・聯燈堂・鐘楼ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -6 伽藍堂・斎堂(禅悦堂)・雲版 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -7 斎堂の開?・月台・大雄宝殿ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -8 大雄宝殿 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -9 大雄宝殿の十八羅漢像と隠元禅師像 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -10 法堂・東西の方丈・慈光堂・禅堂ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -11 祖師堂・鼓楼・合山鐘・石碑亭・寿蔵ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -12 開山堂・松隠堂・通玄門 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -13 文華殿と塔頭(天真院・万寿院)へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -14 北西周辺の塔頭(萬松院・龍興院・宝蔵院・宝善院)へこちらもご覧いただけるとうれしいです。一覧表 宇治(探訪・観照)一覧
2022.01.10
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三門を潜りつつその周辺を眺めることから始めます。三門には円柱が用いられています。正面の中央戸口の外柱(控柱)に聯が掛けてあります。右側には「祖席繁興天広大」、左側には「門庭顕煥日精華」と記され、第2代木庵の書だそうです。(資料1,2) 三間三戸の門ですので、本柱が4本で柱間3間、前後に4本ずつの控柱があり八脚門です。下層の天井、梁並びに柱周辺に飾りはなく、質朴そのもの。中央の戸口両側の柱には、隠元禅師の書による聯が掛けてあります。右側には「地闢千秋日月山川同慶声」、左側には「門開万福人天龍象任登臨」と記されています。(資料1,2) 三門にも「萬福寺全景」図が右側に設置されています。 三門の左右にある「山廊」。上層に上る階段とその覆いとなる建物を内側から撮りました。 山廊周辺の鬼瓦 内側の中央には、第6代千呆(せんがい)の書による「栴檀林」の扁額が掲げてあります。たとえば白檀は栴檀の一種。堅くて芳香もつ心材が仏像彫刻の材に使われています。「栴檀林」の略が「檀林」です。「栴檀は香木で、徳のある仏や仏弟子の住所が栴檀の林のようであるという意味から寺院のことをいい、転じて僧徒を教育する機関を指すようになった。」(『岩波仏教辞典 第二版』)<檀林>の名称は近世になって一般化したそうです。この意味で使われているのでしょう。 こちら側にも聯が掛けてあります。こちらの聯も第6代千呆の書だそうです。右側には「大道没遮欄進歩真登兜率殿」、左側には「法門無内外飜身投入栴檀林」と記されています。(資料1,2) 三門の円柱には、太鼓形の「礎盤」が用いられています。ここにも中国風の特徴が見られます。この迹に続く諸建物の礎盤にも注目してみてください。 三門に設置された拝観受付所の背後(南側)にこんな休憩コーナーがあります。大木の幹を輪切りにしたものにご注目! 巨大な老木があったのでしょうね。 三門からは東に一直線に参道が延びています。正面の建物が「天王殿」です。 三門から少し境内の南東側に進み、南側の地点から北を眺めた景色参道を進むと、 途中、左の北方向に「開山堂」の「通玄門」が見えます。 逆に、右の南方向に目を転じれば、中国風白亜の門が見え、その南西側に「文華殿」が見えます。これらの後に巡ります。 先に歩むと、左に石柵で囲われた大樹があります。柵内の南西隅に「開山大師帯来菩提樹」と刻された石標が立っています。左には駒札が立ち、「宇治市名木百選 ぼだいじゅ」で、「しなのき科 樹高 12m、幹周 0.6m」。昭和57年(1982)3月に宇治市名木百選選定委員会が認定と記されています。 菩提樹の東には、「鎮守社」が祀ってあります。「八幡宮祠堂」(重文)です。寬文7年(1667)建立。一間社流造で、祭神は八幡大菩薩。「寬文4年に放生池を開鑿する資金を喜捨した原田佐右衞門が、天王殿と伽藍建設に先立って、境内守護と法門隆盛を祈願して寄進、建立」(資料3)と言います。 天王殿の手前、北西側で、鎮守社からは東側にこの宝篋印塔が建立されています。基礎に家名が刻されていますので、この位置に建立されているところから推察すれば、たぶん萬福寺の大檀越の一人なのでしょうね。 塔身には四仏がレリーフされています。 基礎を拝見していて、南面に回向文が刻まれているのを見ました。私が知っているのは、浄土宗の総回向偈「願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国」です。(資料4)既知の回向文と異なり、また判読できかねた文字があるので、ネット検索で調べてみますと、「願以此功徳 普及於一切 我等與衆生 皆共成仏道」と刻されているようです。(がんにしくどく ふぎゅうおいっさい がとうよしゅじょう かいぐじょうぶつどう)「法華経‐化成喩品」にある梵天王の願文が典拠となった回向文とわかりました。また、私が知っているのは善導の「観経四帖疏‐玄義分」が典拠とわかり、一つの副産物となった次第です。(資料5) 参道を挟み、「天王殿」前の南側にはこれがあります。 蓮華を象った大きなブロンズ製の水瓶が置かれています。 その南側には長方形の池があります。 正面に「天王殿」の扁額が掲げてあります。第2代木庵の書によるものです。この建物(重文)はこの寺の玄関という位置づけだそうです。中国では一般的な建て方だとか。正月だからでしょうか、総門と同じ形式の幡ですが、こちらには「金運来福」と記されています。ストレートで中国的というべきか・・・・・・。思えば、伏見の稲荷大社も、えびす神社もまあ大方の祈願は同様と言えるでしょうね。 正面の両側の柱に、即非の書による聯が掛けてあります。即非は福州出身で福岡の福聚寺の住持だったそうです。準世代に位置づけられている禅僧のようです。(資料3)右側には「福地鍾霊特感四王護国」、左側には「慈門現瑞大欽三舍度人」と記されています。手許の本(資料1)は、なぜかここだけ聯ではなく額と表記しています。(資料1,2)一旦、石段を降りて、 右側に立つ石標他に触れておきます。1つは、天王殿の基壇が二段になっていることがまずわかります。2つめは、基壇上の回廊に設けられた勾欄(こうらん)です。X型の組子を入れた勾欄の形式です。これは、日本では見かけない得意な「襷(たすき)勾欄」が使われています。チベット・中国で使用されているデザインがここに取り入れられているそうです。大阪の八兵衛信士による寄進だとか。(資料3)3つめが、この石標(誌碑)です。次回にご紹介する天王殿内に祀ってある弥勒仏像と韋駄天像についてです。天王殿に祀られているこれら仏像が年久しく破損した状況にあったようで、それを昭和時代に大阪華僑の梁兆如大善士が資金を寄進し修理を助けたとのこと。それを顕彰した石標です。萬福寺には華僑の人々の墓地があります。このお寺と華僑の人々との繋がりの一端がここにもうかがえます。 天王殿前から北方向への回廊を眺めた景色 石段を上がってから、天王殿に入るには右折する順路になります。順路表示の上には、この案内文の額が掛けてあります。次回の内部のご紹介の折に触れたいと思います。つづく参照資料1)『都名所図会 下巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p106-1102) 黄檗山萬福寺(万福寺) 都名所図会 :「国際日本文化研究センター」3)『最新版フォトガイドマンプクジ』 萬福寺発行 萬福寺売店にて購入した小冊子4)『お経 浄土宗』 藤井正雄 講談社 p1525) 願以此功徳 :「コトバンク」補遺回向文。漢字の棒読みと日本語読み、どっちが心地いい?。:「お気楽、お四国巡り」東福寺 三門 :「京都観光Navi」 山廊がよくわかる画像の事例です。大徳寺の山門(三門) :「京都観光Navi」 こちらも同様です。宝篋印塔 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -1 総門と門前点景 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -2 総門(2)・影壁・放生池・三門ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -4 天王殿(ほていさん・韋駄天・四天王)へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -5 売茶堂・聯燈堂・鐘楼ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -6 伽藍堂・斎堂(禅悦堂)・雲版 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -7 斎堂の開?・月台・大雄宝殿ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -8 大雄宝殿 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -9 大雄宝殿の十八羅漢像と隠元禅師像 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -10 法堂・東西の方丈・慈光堂・禅堂ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -11 祖師堂・鼓楼・合山鐘・石碑亭・寿蔵ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -12 開山堂・松隠堂・通玄門 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -13 文華殿と塔頭(天真院・万寿院)へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -14 北西周辺の塔頭(萬松院・龍興院・宝蔵院・宝善院)へこちらもご覧いただけるとうれしいです。一覧表 宇治(探訪・観照)一覧
2022.01.09
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総門を潜り、境内に踏み入ると中央に正方形の板石を四半敷(菱形)に一直線に敷き連ね、左右の砂地を長方形の石條で挟んだ形式の参道が真っ直ぐに東に延びています。これは龍の背の鱗をモチーフ化したものと言います。この形式の参道が、萬福寺の境内を縦横に走っています。「中国では龍文は天子・皇帝の位を表し、黄檗山では大力量の禅僧を龍像にたとえるので、菱形の石の上に立てるのは住持のみです。」(資料1) これは拝観の受付所でいただいた「拝観のしおり」です。後ほどご紹介する三門を背景にした景色が撮られています。参道の中央をあけて両側に禅僧が並んでいるのは何でだろうという疑問が解けました。参道の正面は築地塀に突き当たります。これは「影壁(えいへき)」と呼ばれる魔除けの壁だそうです。 総門からまっしぐらに突進してきた邪鬼はこの影壁に激突し退散するようにということだとか。智慧のある者は手前で右折することを知り三門に至ることができる仕掛けです。(資料1) 右側には「看門寮」と称する建物が見えます。門衛詰所ということでしょうか。 総門を振り返った景色 よく見ますと、「第一羲」の額が掲げられていた位置の裏側、中央上部の内側には漆喰壁の中に円相が型どられています。これは風水的モチーフの一つ「白虎鏡」だそうです。(資料1) 看門寮の西側、総門を入ってすぐ右側の参道を進んでみました。 看門寮の南西隅近くでまず石碑が目に止まり、その背後に大きな池が広がっています。「放生池」です。右上の「水廊」という文字は読めますが中央の文字列は「山□放光」でしょうか。二字目が私には判読できません。残念。「放生」は捕らえられた生き物を放してして功徳を積むという、仏教の不殺生の思想を意味します。この池で放生会が行われます。放生会は「通常、陰暦の八月十五日に行われる」(『日本語大辞典』講談社)儀式です。 放生池の東側に三門が見えます。 探訪の時は意識していなかったのですが、この池の形は半月型だそうです。風水上の機能を有しているか。(資料1)そういわれれば・・・・。撮っていた写真で少しその形に近づけました。池の南辺からも三門の方に巡ることができるようですが、池の西側を眺めて総門側の参道を歩むことにしました。 総門前の道路に面した築地塀と放生池の間は小川が流れる空間に作庭されているようです。放生池と一体となった広い庭園空間になっています。 看門寮の東側に「萬福寺全景図」が掲示されています。 参道の左側は途中から築地塀となり、上記「影壁」の少し手前に石段が見え、奥まったところに入口があります。この建物は不詳。その手前、築地塀の向こう側に竹林が見えます。「隠元やぶ」と呼ばれています。隠元禅師が請来され植えられた孟宗竹の薮だそうです。 影壁の側から総門を眺めた景色 猛進する邪鬼ではありませんので、直角に曲がる参道に沿って右折します。左の石條が直角に曲がっているところで左折すれば三門です。 影壁は直角に東に折れ込んで三門の北側(左側)の築地塀とで、この空間を作っています。 「白雲関」と名付けられた開いた「窟門(くつもん)」があります。明和5年(1788)に設けられたそうです。通り口です。ここの聯も第5代高泉の書です。(資料1) 菊舍尼という山口出身の俳人が寛政2年(1790)に参拝した時に詠んだ句が「菊舍句碑」として建立されています。大正11年(1922)。 参道の西側は、放生池です。 放生池東辺からの景色 三間三戸。重層の楼門造り。左右に山廊が設けられています。 三門(重文)大棟の中央には火焔付宝珠が置かれています。この三門は、延宝6年(1678)横田道補信士による建立だそうです。 上層階の正面には「黄檗山」の扁額が掲げられ、 下層中央の門戸の上部には「萬福寺」の扁額が掲げてあります。これらは共に隠元禅師の書だそうです。 三門の右側手前には、「禁牌石(きんぱいせき)」が建てられています。(資料1)「葷酒(くんしゅ)山門に入るを許さず」薫とは臭気のある野菜、たとえば、ニラです。そして酒。仏道修行の邪魔になる代表例と考えられていたのでしょう。禅寺の山門を潜るにあたり、修行者としての自覚、自省を促す典型的な例示。禁止事項を掲げるのは、逆に破る修行者も居た・・・・ということかも。 三門にむかって右側には「通霄路(つうしょうろ)」と名付けられた窟門があります。こちらの聯も第5代高泉の書だそうです。「三門」について、その意味を再確認してみました。(資料2)三門は「禅宗寺院の仏殿の前にある門。”南都六宗寺院”の中門にあたる。三門は、空・無相・無願の<三解脱門>を象徴するといわれる。これは、仏殿を”解脱”・”涅槃”にたとえ、そこに到達するために通らなければならない門である三解脱門にたとえたものである。」(資料2)三門は寺院の山号にならって、山門とも書かれます。山門と書く方が多いかもしれません。山門は「寺院の正式な門の呼称として一般に広く用いられている。」(資料2)それでは、三門を眺めて、三門に設けられた拝観受付所を経由して、先に進みます。つづく参照資料1)『最新版フォトガイドマンプクジ』 萬福寺発行 萬福寺売店にて購入した小冊子2)『岩波仏教辞典 第二版』 中村・福永・田村・今野・末木 編集 岩波書店補遺黄檗宗大本山 萬福寺 ホームページ放生池 :「コトバンク」放生会 :ウィキペディア黄檗宗大本山萬福寺 蛍放生会・夜間拝観 :「京都イベントなび」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -1 総門と門前点景 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -3 三門(2)・菩提樹・鎮守社・天王殿前境内 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -4 天王殿(ほていさん・韋駄天・四天王)へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -5 売茶堂・聯燈堂・鐘楼ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -6 伽藍堂・斎堂(禅悦堂)・雲版 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -7 斎堂の開?・月台・大雄宝殿ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -8 大雄宝殿 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -9 大雄宝殿の十八羅漢像と隠元禅師像 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -10 法堂・東西の方丈・慈光堂・禅堂ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -11 祖師堂・鼓楼・合山鐘・石碑亭・寿蔵ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -12 開山堂・松隠堂・通玄門 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -13 文華殿と塔頭(天真院・万寿院)へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -14 北西周辺の塔頭(萬松院・龍興院・宝蔵院・宝善院)へこちらもご覧いただけるとうれしいです。一覧表 宇治(探訪・観照)一覧
2022.01.08
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5日、久々に地元宇治市の黄檗に所在する「黄檗宗大本山萬福寺」を訪れてきました。日本三禅宗の一つ。あとの2つは臨済宗と曹洞宗です。 門前及び道路を挟んで西側の広場にこの幟が掲げてあります。宇治市の東宇治図書館に向かう坂道の東側から萬福寺の塔頭があり、萬福寺周辺には昨年から幾つもの幟が立てられています。今年、令和4年(2022)4月3日が、宗祖隠元禅師350年大遠諱にあたるのです。たぶん、春になると多くの参拝客が訪れることでしょう。正月三が日を外して訪れたので、境内は静かなもの。参拝客を時折見かける程度でした。久々に静謐さの中で拝観できました。静かに眺め得た萬福寺を細見風にご紹介したいと思います。 門前の道路から少し奥まった位置に「総門」が見えます。現在の門は元禄6年(1693)に再建されました。中央の屋根が一段高く、左右を一段低くした中国門の牌楼(ぱいろう)式だそうで、漢門と呼ばれたとか。(資料1) 総門の右斜め前には、この「由緒」が掲示されています。栄西が47歳より5年間二度目の入宋より帰朝して、臨済宗を広め始めたのが鎌倉時代の1191年。道元が入宋から帰国し、曹洞宗を広め始めたのが鎌倉時代の1227年です。それに対して、長崎の興福寺の僧逸然性融(いつねんしょうゆう)に請われて決意し、明僧隠元隆琦(いんげんりゅうき)が長崎に渡来したのが江戸時代(第4代将軍家綱期)、1654年です。隠元禅師63歳の時に弟子20人他を伴って来られたと言います。将軍家綱より1659年に宇治大和田に約9万坪の地を賜り、寬文元年(1661)に禅寺が創建されます。隠元禅師は、中国明時代末期に臨済宗の法統を受け継ぎ、臨済正伝32世となり、中国福建省福州府福清県の黄檗山萬福寺の住持でした。そこで、この地に創建された寺を黄檗山萬福寺と名付けられました。それ故、中国の方は「古黄檗」と呼ばれるそうです。(由緒、資料1,2) 総門に張られた幕に葵の紋が描かれている意味が納得できます。 総門の正面には、第5代高泉和尚の書「第一羲」の扁額が掲げてあります。(資料1) お正月だからでしょうか、門の頭貫には「天・開・泰・運」の四文字の幡が吊り下げてあります。横書きとして素直に読めば「天開泰運」。「泰運」が「安らかなる気運。泰平の気運」(デジタル大辞泉/小学館)を意味するので、天は安らかな気運を開くという意味で受けとめれば良いのでしょう。新しい年への祈念、寿ぎですね。 総門の左右の柱には、高泉和尚筆の聯(れん)が掲げてあります。(資料3,4)左には「聖主賢臣悉仰尊」、右には「宗□済道重恢廊」(第二字不詳)と。「聯」は柱や壁などの左右に相対して掛けられた書の板のことです。この本山萬福寺には聯44対、額40面(重要文化財)が掛けてあるそうです。(資料1)屋根に目を転じましょう。 屋根の棟の両端には、「摩加羅(まから)」が置かれています。摩加羅はガンジス河に生息するワニをさす言葉だそうで、ガンジス河の女神の乗り物だと言います。(資料1) 低い屋根の棟の鬼瓦 こちらは高い屋根の方ですが、鬼瓦の鬼の部分が鬼ではありません。おもしろい造形です。余所のお寺で見た記憶がありません。 総門前の道路を挟んで西側の広場周辺を眺めておきましょう。まず最初に、 南北方向の離れた位置に2つの井戸「龍目井」があります。右(北側)の井戸の背後に案内板「龍目井」が掲示されています。「この井戸は寬文元年冬、隠元禅師が掘らしめられたもので、萬福寺を龍に譬へ、これを龍目となし、天下の龍衆、善知識が挙って此處に集まらんことを念願されたもの 禅師曰く『山ニ宗あり水に源あり龍に目あり古に輝き今に勝る』」(転記) 左右の龍目井の中間あたりの更に西側にこの大きな木が茂り、木の向こう側に立石があります。お寺の売店で購入した小冊子には、「龍目井は龍の眼を、周辺の小川は口を、松は口ひげを表しています」(資料1)という説明があります。この木と並びその南側には松の木がありますので、これらが龍の口ひげに照応しているということでしょう。 また、周辺に不規則に少し大きめの石が散在しています。これらもまた、龍の顔の一部を表象させているのかも・・・・・。ここには想像力を広げた見立ての次元が広がっています。この広場空間には他にもいくつかのものを目にすることができます。 この広場の北東隅には、現代風の道標が建ててあります。 切り出した地図を拡大したものがこれです。右方向が北になる地図です。西へ行けば、JR奈良線黄檗駅と京阪電車宇治線黄檗駅。門前の道を北に少し歩めば「宝蔵院」、逆に南に進めば「蔵林寺」と表示されています。 向かって右側(北)の龍目井から南西方向に地蔵堂があります。格子戸から拝見すると、お地蔵さまはきれいに彩色されていました。 地蔵堂の南西方向、広場の西端にこの一画が見えます。手前に「宇治市の史跡紹介 駒蹄影園碑(こまのあしかげえんひ)」の掲示があります。 左側に「駒蹄影園趾」と刻された石標が建てられ、右側には「駒蹄影園記」と上部に横書きし、下に銘文を刻んだ顕彰碑が見えます。「鎌倉時代の初めごろ、宇治の里人たちが茶の種の蒔き方がわからず困っているところへ、通りかかった栂尾高山寺(とがのおこうざんじ)の明恵上人が馬を畑に乗り入れ、その蹄の跡に種を蒔くように教えたと伝えられています。この碑は、明恵上人への感謝とその功績を顕彰するため、大正15年(1926)に宇治郡茶業組合により建立されたものです。」(宇治市の史跡紹介文を転記)黄檗山萬福寺が創建される前のこの辺り、宇治郡大和田村には茶園が広がっていたということでしょうか。 中央に明恵上人の歌碑が建立されています。碑文の歌の文字は異なりますが、上掲紹介文に歌も掲載されています。 栂尾の尾上の茶の木分け植えて 迹(あと)ぞ生(お)ふべし駒の足影 明恵 広場の南西端には、築地塀の門に「白雲庵」の扁額が掲げてあります。隠元禅師が草庵に与えられた筆蹟だそうです。白雲庵は元大本山萬福寺の塔頭の一つで、自悦禅師の開山だそうですが、現在は普茶料理(精進料理)の老舗になっています。(資料5)門前には、赤枠の白地に普茶と墨書された旗が風に揺らめいています。ちょっと風情を感じます。敷地には酒樽で作られた茶室があり、現在は「自悦堂」として自悦禅師木像を安置して祀ってあるそうです。(資料5) 門前から庭を眺めると目の前に七重の石塔が見えます。塔頭だったという雰囲気は残っています。 石塔の軸部には僧像がレリーフされています。 この広場でもう一つ目に止まったのが、この観光案内板です。こちらには「黄檗山萬福寺」について説明すると共に、道標を兼ねた表示があります。併せて地図が掲示されています。それでは、総門を通り、萬福寺の境内に入りましょう。つづく参照資料1)『最新版フォトガイドマンプクジ』 萬福寺発行 萬福寺売店にて購入した小冊子 2)『岩波仏教辞典 第二版』 中村・福永・田村・今野・末木 編集 岩波書店3)『都名所図会 下巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p106-1104) 黄檗山萬福寺(万福寺) 都名所図会 :「国際日本文化研究センター」5) 白雲菴 ホームページ補遺隠元隆琦 :ウィキペディア隠元 :「コトバンク」萬福寺 :「臨黄ネット」(臨済禅 黄檗禅 公式サイト)万福寺(福清市) :ウィキペディア福清市漁渓鎮 黄檗宗 黄檗山万福寺 :「4travel.jp」中国福建省の福清萬福寺から長崎の興福寺へ梵鐘が寄贈されました。:「長崎県」東明山興福寺 :「東明山興福寺」明恵上人 :「栂尾山高山寺」第二話 お茶の伝来と拡がり :「綾鷹物語」普茶料理 :「黄檗宗大本山 萬福寺」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -2 総門(2)・影壁・放生池・三門ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -3 三門(2)・菩提樹・鎮守社・天王殿前境内 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -4 天王殿(ほていさん・韋駄天・四天王)へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -5 売茶堂・聯燈堂・鐘楼ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -6 伽藍堂・斎堂(禅悦堂)・雲版 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -7 斎堂の開?・月台・大雄宝殿ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -8 大雄宝殿 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -9 大雄宝殿の十八羅漢像と隠元禅師像 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -10 法堂・東西の方丈・慈光堂・禅堂ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -11 祖師堂・鼓楼・合山鐘・石碑亭・寿蔵ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -12 開山堂・松隠堂・通玄門 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -13 文華殿と塔頭(天真院・万寿院)へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -14 北西周辺の塔頭(萬松院・龍興院・宝蔵院・宝善院)へこちらもご覧いただけるとうれしいです。一覧表 宇治(探訪・観照)一覧
2022.01.07
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京都と奈良を結ぶ国道24号線が通る伏見区豊後橋町まで出かけてきました。 宇治川に架かる橋が「観月橋」です。北詰の欄干、東側には「観月橋」、西側には「うぢかは」の銘板が嵌め込まれています。かつて指月の森と呼ばれた桃山丘陵台地の南端に陵墓「大光明寺陵」(伏見区桃山泰老長)があります。昔、この近くに北朝の持明院統の御所(伏見殿)があったと言います。伏見殿は応永8年(1401)7月、失火によって焼失し、その後再建されたそうです。しかし、戦国時代には荒廃するに至ります。この伏見殿があった頃には桂橋と称する橋が架けられていたそうです。(資料1)手許の本によれば、文禄年間に豊臣秀吉は伏見城を築くとき、大友豊後守宗麟に命じて、ここに新たに橋を架けさせました。そこから豊後橋の名が由来するそうです。一説には、橋の北側に豊後守の屋敷があったからとも言われています。(資料1) 江戸時代に出版された『都名所図会』には「伏見 指月 豊後橋 大池」と記し、橋と周辺の景色を挿画にしています。(資料2)秀吉は豊後橋の先に、巨椋池を縦断する太閤堤(巨椋堤/小倉堤)を築き、その堤の上を新大和街道としました。豊後橋が新大和街道の起点になります。指月の南にかつて巨椋池の広がっていたこの地は、観月の景勝地として愛されてきました。それをゆかりとして、明治6年(1873)に「観月橋」と改称されました。(資料3)前回、近鉄京都線大久保駅の近くで目に止まった道標をご紹介しました。そのとき、調べていて、この観月橋の北詰に道標があることを知ったのです。寒いけれど天気が良かったので、午後(26日)に運動を兼ね自転車で探しに出かけてきました。 観月橋の北詰、東側に京阪電車宇治線「観月橋駅」があります。7163その北西角、歩道橋の傍に、ひっそりと道標が立っていました。今では意識しないと道標の存在に多分気づかないでしょう。北詰と知っておて出かけたので、どこだろうと周辺をキョロキョロ眺めていて見つけた次第です。 道標の上部に方向を示す指の形が彫り込まれています。道標の北面に「やまとかいどう」、西面に「きょうみち」と刻されています。観月橋は東側から歩道、自転車道、車道、歩道と区分されています。 これは橋を渡って南から北を眺めた景色。茶色の部分が自転車道です。 この橋は、昭和11年(1936)年に架橋された鉄筋コンクリート造りの橋です。長さは四条大橋の2倍以上、約179mですが、道幅はせまくて12mだそうです。交通量の増加に対応するため、昭和50年(1975)、東側に車両専用の高架式の新橋が建設されました。(資料1,2) 南を向くと、その高架下に 「向島道路通称名称案内図」と 「向島地域東西道標」が設置されています。 こちらは東西方向に位置する町名を並べて表記してあります。 高架下の東側の道路の反対側の角地に、駒札が設置されています。 駒札には、1594年(文禄3)に「豊臣秀吉が豊後国大名大友吉統(よしむね)に命じて架橋させた」と記されています。ネット検索で調べてみますと、大友宗麟の長男、義統(よしむね)は1576年(天正4)に父宗麟から家督を相続した(一説に79年)とのことですので、秀吉が直接命じたのは吉統(義統)という方が適切なのかもしれません。「江戸時代には幕府直轄で管理がなされた公儀橋であったが、幕末に鳥羽伏見の戦いで焼失した。」新橋の完成が明治6年ということで、上記の通りこの時点で橋名が改称されました。 駒札の傍にこの板碑が建てられいます。線刻がそれほど深くなく風化が進んでいるため何が彫られているか判断しずらくなっています。最初は文字かと思っていたのですが、全体を眺めていると、ぼんやりとですが地蔵菩薩像が線刻されているのかな・・・・という気がしてきました。ご存知の方がいらっしゃればご教示ください。再び観月橋の北詰に戻ります。上掲道標傍の陸橋への通路の脇から歩道を少し東に行き、京阪電車の高架下を潜り抜けて、宇治川の堤側に回り込みます。観月橋の下を潜って西の欄干側に行くためです。 宇治川の堤側に行く前に、歩道から回り込む角に地蔵堂があります。地蔵堂の右に見えているのは歩道橋(陸橋)への階段です。 堤防傍から西方向の眺め。一番手前に見えるのが、高架式の観月橋の新橋です。そして、観月橋があります。宇治川の北側堤防沿いに坂道を下り、観月橋下を通過して西側に出ます。観月橋の先には、「単純トラスト橋として、日本で最長の径間長(165m)を誇る近鉄澱川(よどがわ)橋梁(国登録、1928<昭和3>)が架かり、現在の宇治川の鉄道景観を代表している」のです。(資料3) 現在の観月橋北詰、西側の傍に欄干の遺構と思えるものが一部残っています。その右(西)側に、石標が立っています。北面に「明治天皇御駐輦所観月橋」、東面には「明治十年二月七日 御駐輦」と刻されています。明治6年に観月橋の新橋が完成した後、明治10年に天皇がこの橋に立ち寄られた記念碑ということでしょう。 その西側には、この石標が建てられています。北面に「淀川維持区域標」、西面に「淀川 縦是下至海」と刻されています。素直に解釈すれば、観月橋の東側までが宇治川として維持管理され、橋の西側から淀川としての維持管理区域になるということなのでしょう。現在も生きている区域標かどうかは不詳。 すぐ傍に、この河川名の表示板が設置されています。この位置は、「大阪湾から約44km」の地点になるようです。 これは宇治川の堤防上の東側から、西方向の宇治川と観月橋の全景を眺めた景色です。この後、宇治川の堤防上を利用し帰路につきました。自動車を気にせずに自転車で走れる点がメリットです。少し寒かったけれど・・・・。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1)『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p136-1372) 観月橋 :ウィキペディア3)『京都府の歴史散歩 中』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社 p2344) 大友義統 :「コトバンク」補遺大友義鎮 :ウィキペディア大友宗麟 :「コトバンク」指月 :ウィキペディア【橋梁の基礎知識 その1- 橋梁の構造と種類について】 :「株式会社長野技研」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2021.12.27
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先日、JR奈良線の新田駅で下車し、近鉄京都線の大久保駅近くまで用事があって出かけました。その時、新田郵便局の傍で目に止まったのがこの道標です。古風なスタイルなのにまだ真新しい感じの大きな道標、そのギャップに違和感と関心の双方をかき立てられました。そこで要件を済ませてから、この道標の傍まで出向き写真を撮って帰ることに・・・・・。そのご紹介です。 道標の南面には、上部に観音菩薩坐像がレリーフされていて、その下に「右 うぢみち」と刻されています。自宅でインターネットの地図「Mapion」でこの場所を確認してみました。「広野町東裏」交差点の北東角になります。手許にある『京の古道を歩く』を参照するとこの道標のある位置は、大和街道の一地点と分かりました。(資料1) 掲載地図(p200-201)から切り出した部分図を引用します。部分図に赤丸を追記したところがこの道標の位置です。つまり、この道標から右(東)方向に行けば、宇治に至ります。宇治街道です。地図を見れば、宇治街道は東裏の東端のT字路から先が府道15号となります。府道15号はこのT字路で左折して南進するルートになっています。 宇治街道を西に進んで来ると、この道標の位置で左折すれば、南に向かい「なら道」つまり大和街道を歩むことになります。 奈良から大和街道を歩み、この道標の分岐に至れば、右(東)は宇治へ、左(北)に進めば京都に至ることになります。「左 京」の下はかな文字での「みち」でしょうか? 豊臣秀吉が宇治川の流れを付け替え、伏見城を築いた時に、その宇治川に豊後橋を架けさせました。そして、南に広がる巨椋池の中に向島から小倉まで縦断する巨椋(小倉)堤を築きます。その堤の上を奈良への最短距離の新しい大和街道にしました。豊後橋があったところが、現在の伏見区の観月橋です。(資料1)江戸時代に出版された『都名所図会』には、「巨椋の入江」という項が載っています。「巨椋の入江は豊後橋の南、向島より渺々たる水面なり。(土人小倉のお池といふ)中に大和街道ありて五十町の堤なり。(夏は蓮花河骨生じて、炎暑を避くるの江なり。冬は水鳥多く集りければ漁猟をなす)」と記されています。昭和の時代に干拓されて巨椋池が消滅してしまった現在では想像することも難しくなっていますね。観月橋を経由する道路、つまり新大和街道は現在国道24号と称されています。国道24号は向島を南東方向に進み、槇島で南進して、現在の国道1号に至り、国道1号と併走する道になります。一方、国道1号との交差点を起点に、大和街道は府道69号に切り替わります。府道69号は槇島、小倉を縦断し、近鉄京都線とほぼ併行に南進していきます。近鉄京都線伊勢田駅の少し南で、道が分岐しています。その分岐点が東裏地区の北西角あたりになります。分岐した東側の道路が大和街道だったのです。大和街道を南下すると、上記した「広野町東裏」交差点で、この道標が立つところです。かつてこの地点は、交通の要となる場所の一つだったと言えます。 なぜ、この道標が真新しい感じなのか?道標の北面を見て、理解できました。平成9年(1997)11月に交通災害事故が起こり、道標が破損したそうです。そこで、広野三丁目町内会が、平成10年5月にこの道標を再建されたということが刻されています。オリジナルの道標がたぶんこのスタイルのものだったということでしょう。重要な役割を果たしてきた古道の歴史の記憶を維持しようとされる思いが伝わってきます。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1)『京の古道を歩く』 増田潔著 光村推古書院 p196-2082)『都名所図会 下巻』 竹村俊則校注 角川文庫補遺奈良街道(京都府) :ウィキペディア観月橋 :ウィキペディア豊後橋 :「コトバンク」京都府-巨椋池干拓事業- 国内初の国営干拓事業 :「水上の礎」幻の巨椋池(おぐらいけ) 昭和初期に干拓、大雨で現れた大池の面影 :「月桂冠」消えた巨椋池の謎 :「淀緑地周辺の散策手帳」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2021.12.17
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寄り道話から始めます。慶流橋を渡り神宮道を北に進めば、平安神宮の応天門前に至ります。交差点で左折すると冷泉通です。この通りを西に歩めば、冒頭の武家屋敷のような門構えが見えます。その東側の脇門傍に、句碑が建立されています。 風薫る左文右武の学舎跡 野風呂 傍にこの案内板「薫風句碑」が設置されています。西側の脇門を通り、敷地内に入ると中央部は広い空間となっていて、 正面前方に大きな建物「旧武徳殿」が見えます。途中左右に「武徳薫千載」「高専柔道之碑」と刻された石碑が建立されています。 武徳殿は明治28年(1895)年に、大日本武徳会の演武場として建設計画が持ち上がり、明治32年(1809)に武徳殿が竣工したそうです。後に武術教員養成所(後の武道専門学校)も開設され、西日本での武道の中心的存在になったと言います。第二次世界大戦後は、時代に翻弄され、この武徳殿は様々な利用が行われるという変遷を経ているとか。現在は、毎年5月に「全日本剣道演武大会」(旧京都大会)がここで開催されているそうです。(資料1)この旧武徳殿の北側に、丸太町通に面した「武道センター」があります。 千鳥破風の正面の鬼瓦。古風な意匠の鬼瓦です。 棟の鬼瓦と降棟の先端部の鬼瓦冷泉橋を渡り、琵琶湖疏水沿いに南に下り、二条通に右折して東山二条の交差点に出ます。 この交差点の南東角は、築地塀を角切りし鉄柵を設けて境内が見える形になっています。廟堂と日蓮聖人立像の全体がよく見えます。 今春(2021.3.24)の探訪を遅ればせながらですがまとめています。丁度桜が満開の時季でした。台座には、「立正安国」という日蓮著『立正安国論』に由来する語句の銘板が掲げてあります。日蓮聖人の眼差しは北西に向かっています。京都御所を見つめていらっしゃるということでしょうか。ここは、「新洞学区寺院案内図」で言えば、右上角の番号1の位置になります。その南の番号8が前回ご紹介した本妙寺です。ここも本妙寺と同じ北門前町に所在します。「法鏡山正法華院妙伝寺」という日蓮宗勝劣派の本山です。(資料2) 本堂当寺は文明9年(1477)日意上人が、現在の下京区西洞院通綾小路上ル西側、妙伝寺町に創建したそうです。甲州身延山が京都から遠隔地にあり参詣するには不便であることを思ったことによるとか。(資料2,3,4) 本堂正面にこの「写西身延」の扁額が掲げてあります。本尊は法華主題牌。身延七面大明神の同木同像を勧請し、かつては七面堂に安置されていたようですが、お堂が廃絶となり、今は本堂に遷座しているそうです。(資料2,3,4)この寺もまた、豊臣秀吉の命により京極二条の北に移り、その後、例の「宝永の大火」で類焼し、大火後に現在地に三転するという経緯を辿っています。現在の本堂は、明和元年(1764)の再建とのこと。(資料2,3,4) 正面中央部には蔀戸が設けられていて、両側の桟唐戸の連子に五七桐紋が取り付けてあります。 本堂の屋根には、棟・降棟・隅棟・稚児棟のすべてに獅子口が使われています。獅子口には一条藤の紋が象られていると判断します。(九条藤という説も・・・)。軒丸瓦の瓦当にも同紋が使われています。 向拝の木鼻 向拝の蟇股(獅子と龍) 二条通に面した築地塀に近いところに、もう一つのお堂があります。このお堂の正面には「高祖舎利」の扁額が掲げてあります。廟堂です。宗祖日蓮聖人の骨舎利を移したことに由来する扁額なのでしょう。そしてこれが「関西の身延山」と呼ばれる起りとなります。(資料2,3,4)本堂正面の扁額がそのことを意味するのでしょう。 降棟の獅子口獅子口には、井桁に橘の紋が象られています。 廟堂屋根の飾り瓦 2つのお堂の間にあるのがこの建物。何だろうと近づいて眺めると、 鐘楼でした。 鐘楼屋根の鬼瓦 自由に拝見できる範囲の境内で目に止まったのが、本堂の向かいにあるこの「片岡碑」です。碑の頭部に紋が載っていて、碑の左側面に「十一代目」という文字が見えます。石碑の手前には、燈籠を兼ねていると思われる一対の石柱が立てられ、右の石柱には「片岡」、左の石柱には「我童」と刻されています。これらの語句からは歌舞伎役者の十一代目片岡仁左衛門を思い浮かべます。後で調べてわかりました。この定紋は「七ツ割丸に二引」と称するそうです。(資料5)明治から昭和初期にかけて活躍した十一代目の松嶋屋・片岡仁左衛門を記念する碑でした。また、妙伝寺は片岡家の菩提寺だそうです。(資料6,7)その縁もあり、例年、十二月に京都の南座の正面に掲げられる吉例顔見世興行の「まねき」は、この妙伝寺の本堂の背後に位置する客殿で書き込みが行われるそうです。(資料6,7) 妙伝寺の南隣りは「聞名(もんみょう)寺」です。門前の右側には「洛陽第十七番 地蔵尊」の大きな石標が立ち、その石標の左側面に「大炊道場 聞名寺」と刻されています。その背後に「身代地蔵尊」の石標が並立します。一方、門前の左側には、「贈正五位香川景樹大人墳墓」と刻された石標が立っています。 山門屋根の棟の鬼瓦 本堂 光孝天皇の遺勅により宇多天皇は、光孝天皇の皇宮小松殿を小松寺(天台宗)とされたと言います。寺は後に荒廃し、弘安2年(1279)一遍上人によって再興され、時宗となり、地名にちなんで大炊道場と称したそうです。場所は室町大炊御門大路でした。だが、例の秀吉の命で移転、さらには宝永の大火で類焼し、現在地に再転するに至ったそうです。(資料2)この聞名寺は時宗の清浄光寺、つまり時宗総本山遊行寺に属します。本尊は阿弥陀如来像で、光孝天皇の位牌が安置されているそうです。(資料2) 本堂屋根の稚児棟の獅子口。菊紋がレリーフされています。本堂前に2つの石造層塔が並んでいます。正面に向かって左(北)側の七重塔が「光孝天皇塔」です。軸部(室町)だけが古く後は後補されているそうですが、花崗岩製で約3.5mの高さだとか。(資料2)十三重塔を挟み、右隣り(南)にある小社は台座に「金剛稲荷大明神」の木札が取り付けてあります。 稲荷社の左斜め背後、本堂の手前に、地蔵菩薩坐像が安置されています。近年に造立された感じです。 境内の南辺に宝形造りの「地蔵堂」があります。京都では、六地蔵巡りが有名です。併せて「洛陽四十八願地蔵霊場」と「洛陽二十四地蔵霊場」という2つの霊場巡りがあるそうです。この聞名寺は「洛陽二十四地蔵霊場」の第十七番となっています。補遺をご覧ください。 お堂の拝所のところに石造の地蔵菩薩立像が安置されています。 堂内には、「明眼地蔵大菩薩」と赤地に墨書された提灯が吊りさげてあります。「明眼地蔵」と称され、眼病平癒のご利益があると信仰されているそうです。門前に身代地蔵尊とあります。眼病平癒もまた身代わりの一部と言えますね。(資料8,9) 拝所の地蔵菩薩立像の左斜め背後に、石造の観音菩薩坐像も安置されています。一方、地蔵堂の右側傍には「大日如来」の扁額を掲げた小祠があり、格子扉から拝すると石仏が安置されています。 地蔵堂の西側、山門を入ってすぐ右側、境内の南西隅の景色です。地蔵菩薩立像の周囲に整然と小さなサイズの地蔵菩薩立像が安置されています。彫像にはいくつかのスタイルが見受けられます。地蔵信仰の供養仏でしょうか。中には光背に水子供養と刻されている地蔵菩薩像もあります。水子供養が主体かもしれません。門前に立つ石標の香川景樹は、「(1768~1843)江戸後期の歌人。号は桂園。鳥取の人。『万葉集』支持の賀茂真淵に抗して、和歌の本質を『調べ』とし、清新な歌風を特色とした。桂園派を樹立。その歌風は明治まで隆盛だった。歌集『桂園一枝』、歌論『古今和歌集正義』など。」(『日本語大辞典』講談社)と説明されています。墓所は未訪です。東大路通のこの辺りも、若い頃から幾度も通ってきましたが、今春初めて境内を訪れました。事後学習を含め、いくつも新たな発見がありました。境内の一部の拝観ですが自由に拝観できるのはありがたいです。これで探訪の整理と記録を兼ねてのご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 武徳殿について :「京都府剣道連盟」2)『昭和京都名所圖會 洛東-下』 竹村俊則著 駸々堂 p212-2133) 妙傳寺 (京都市左京区北門前町) :ウィキペディア4) 妙伝寺 :「神殿大観」5) 片岡 仁左衛門 (15代目) 歌舞伎俳優名鑑-現在の俳優編-:「Kabuki on the web」6)「まねき」の寺、妙傳寺へ :「遊民悠民」7) 京都・南座 吉例顔見世興行 まねき書き 2021.11.6 :「KBS京都」8) 聞名寺(明眼地蔵) :「京都に乾杯」9) 聞名寺 (京都市左京区) 明眼地蔵 :「お寺の風景と陶芸」補遺野風呂記念館 :「現代俳句協会」洛陽二十四地蔵霊場 :「ニッポンの霊場」洛陽四十八願地蔵 :「京の霊場」京の六地蔵巡り :「京都観光チャンネル」片岡仁左衛門 :ウィキペディア吉例顔見世興行 南座 :「歌舞伎美人」光孝天皇 :「コトバンク」光孝天皇 :ウィキペディア香川景樹 :「コトバンク」香川景樹 :ウィキペディア香川景樹 :「千人万首」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・左京 新洞学区内の寺院 -1 仁王門通の清光寺と寂光寺 へ探訪 京都・左京 新洞学区内の寺院 -2 本妙寺 へ
2021.12.03
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仁王門通と東大路通の交差点を横断し、東に進むと仁王門通の北側、水道会館の手前にお寺があります。北門前町です。山門前、西側に設置されたお寺の掲示板に「祥光山本妙寺」と記されています。日蓮宗妙覚寺派のお寺です。(資料1)向かって右側の柱に、「京都義士會」の木札が掛けてあります。岡崎の美術館に行く時はこのお寺の前を通過していくのですが、今春初めて境内を訪れました。 山門の右側、仁王門通の北側歩道近くに2つの石標が立っています。左側の角柱石標が、上記の木札と関係しています。「赤穂義士墓 當山ニアリ」と刻されています。義士ゆかりの寺であり、通称「赤穂義士の寺」と呼ばれています。境内墓地まで行けませんでしたので、墓は参拝していませんが、手許の本によれば、赤穂浪士吉田忠左衛門・吉田沢右衛門・貝賀弥左衛門の遺髪および弥左衛門の妻おさんの4人を合した墓(合祀石碑)があります。宝永元年(1704)綿屋善右衛門によって建立されたと言います。この綿屋善右衛門は「歌舞伎の『忠臣蔵』に登場する天野屋利兵衛のモデルといわれ、貝賀が江戸へ下るとき、その妻子を託されたという。彼が義士とのあいだに交した書翰文や古文書等が、今のなお寺宝として所蔵されている」(資料1)そうです。右側の石標には、「鬼子母善神」と刻されています。当寺の鎮守として鬼子母神像が祀られていて大覚上人の自作だとか。安産守護で広く知られています。(駒札) 本堂本堂は南面しています。天正2年(1574)に新烏丸丸太町付近に日典上人が創建したお寺ですが、前回触れた寂光寺と同様に、「宝永の大火」で罹災し、後に現在地に移ったそうです。(資料2)日典上人は妙覚寺18世です。(資料3,4)本堂の屋根はよく見ると前回ご紹介の清光寺と同様の二段構えの重層造りの屋根になっています。今まで境内の景色を意識せずに素通りしていて、気づきませんでした。この本堂は、享保13年(1728)に日正上人により再建されました。(資料3,4,駒札) 本堂屋根の棟の鬼瓦 降棟の先端傍にこの飾り瓦が置かれています。何を形象しているのでしょうか。不詳です。 稚児棟の鬼瓦は顔全体が分かりますが、隅棟の鬼瓦は額と角あたりが見えるだけです。 本堂の西側の奥に、「祥光山荘」と記した扁額を掲げた建物(玄関口)があります。 山門を入った右側(東側)で本堂の南側には、鐘楼があります。 撞座の上の縦帯部分に「南無妙法蓮華経」の題目が陽刻されています。縦帯左側の池ノ間には、発願の銘文が陽刻されています。梵鐘全体を撮りましたので、判読は出来ません。下帯には、唐草文が見えます。 鐘楼屋根の棟の鬼瓦 降棟の鬼瓦 境内の東側に「義士堂」があります。宝物館です。昭和5年(1930)に建立されたとか。ここには目賀弥左衛門の手槍、義士たちの手紙など赤穂義士の遺品や四十七義士の木像が祀られているそうです。また、上記の合祀墓は平成5年(1993)に改修されていて、元の合祀墓石がこの義士堂に奉安されていると言います。(資料2,3,4) 義士堂玄関屋根の鬼板12月14日には元禄義挙記念祭が行われ、法要と併せて義士堂(宝物館)を特別公開する行事が行われています。(資料3) 境内にはこの大きな「矢ツ車留吉碑」が建立されています。明治時代に京都相撲に関わった人です。京都相撲の末期、1907年には取締2人のうちの一人だったと言います。相撲の興行組織の中枢に居たのでしょう。力士として活躍した人とは思いますが手軽にわかる資料がありません。(資料5)つづく参照資料1)『昭和京都名所圖會 洛東-下』 竹村俊則著 駸々堂 p2102) 本妙寺 :「京都観光Navi」3) 本妙寺 :「京都通百科事典」4) 本妙寺 赤穂義士の寺 :「photograph.pro」5) 京都相撲 :ウィキペディア補遺妙覚寺 :「本山を巡る」妙覚寺 :ウィキペディア鬼子母神 由来と歴史 :「鬼子母神へようこそ」鬼子母神 :ウィキペディア赤穂義士 貝賀弥左衛門友信の一部始終 :「忠臣蔵」(赤穂においでよ) ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・左京 新洞学区内の寺院 -1 仁王門通の清光寺と寂光寺 へ
2021.12.02
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先日、頂妙寺・大光寺・信行寺という仁王門通に面したお寺の紅葉(黄葉)をご紹介した。併せて冒頭の新洞学区の寺院案内図も掲載しています。遅ればせながら、今春(2021.3.24)に探訪していたお寺で記事にまとめていなかったものをここでご紹介したいと思います。まずは、頂妙寺と大光寺の間に位置する2つのお寺です。 最初の頂妙寺からだと東に三筋目「新間之町通」から少し先に「霊照山清光寺」があります。浄土宗のお寺です。(資料1) 山門の屋根の鬼瓦 降棟の鬼瓦 口は阿形、吽形の対に。 この清光寺は、山門を入るとすぐ正面に本堂があり、正面は格子の障子戸で、左右に花頭窓が設けてあります。屋根は、私にとってはあまり見かけたことのない二段構えになった興味深い形です。 左の鬼瓦の右縁には、寄進者の住所氏名が彫ってあり、私には「長兵衛」という名を何とか判読できる程度です。 右の鬼瓦は、鬼ではなく龍が彫り込まれていて、左縁には「元文元年丙辰十一月」と読めそうな日付が刻されています。元文元年は江戸時代で1736年です。多分右縁には寄進者名が彫られていることでしょう。 こちらも同様に寄進者名が見えます。 花頭窓の手前に宝篋印塔が建立されていて、塔身には「萬霊供養塔」と刻されています。衝立の左に安置されているのは賓頭盧(びんずる)尊者像だと思います。このお寺、冒頭の案内図では29番の位置です。案内図と地図をみると、本堂の背後に寺地があり南北に奥行の深いお寺のようです。 更に東に歩むと、仁王門通の南側に同様に定規筋の入った築地塀のお寺が見えます。手前に「碁道名人 第一世本因坊算砂𦾔跡」の石標が立っています。山門の右柱に「顕本法華宗本山 寂光寺」の寺号札が掲げてあり、左の柱には「碁道 本因坊 元祖之道場」と記された木札が掛けてあります。 山門屋根の棟の鬼瓦 降棟の鬼瓦 山門の蟇股には獅子が丸彫りされています。 蟇股の背面を見ると、まったく異なる植物文様が彫刻されています。 梁の上の板蟇股はシンプルな彫刻が施されてえいます。この位置でよく見かけるのは飾り彫刻が一切無い分厚い板蟇股ですが。 本堂は西に向いています。山門を入ると、参道は南北方向ですので、直角に左折することになります。 本堂の正面に「寂光寺」と緑字で記された扁額が掲げてあります。 参道の角に立つ駒札 こちらは通りに面した石標と門柱の寺号札の間に建てられている案内駒札です。 本堂の右側の高欄傍の駒札に、「寂光寺だより」のページが掲示されていました。算砂上人の肖像画が特集の一環として載っています。文字が小さくて見づらいでしょうが、ご紹介しておきたいと思います。上掲の諸資料と手許の本とを併せ総合して以下ご紹介します。寂光寺は「妙見山」と号し、顕本法華宗の寺院で、京都日蓮聖人門下十六本山の一つ。顕本法華宗の総本山は、洛北に位置する妙満寺です。天正6年(1578)に室町出水(京都御所の西、上京区)にて日淵上人により創建され、当初は「空中山久遠院」と号したそうです。日淵上人は総本山妙満寺第二十六世です。その後、寺町二条(中京区)に移ります。この移転は、天正18年(1590)に豊臣秀吉が聚楽第を建てるために町割を行い、半町ごとに南北に道路を付け、町中の寺々を「寺の内」と「京極」付近に集めました。この影響を受けたことが原因だそうです。(資料2)現在の寺町二条から少し北、寺町通の西側に「久遠院前町」という町名が残っていますこの頃には、東西59間、南北37間という広い敷地で、その境内には本因坊を含め7塔頭が建っていたそうです。(資料2)天正の頃、日淵上人の法弟で、二世となる日海が寺内塔頭「本因坊」に住んでいて囲碁に優れた僧だったとか。本因坊算砂と号しました。日海は囲碁の基技を仙也に学び敵手がいなかったと言います。算砂は信長・秀吉・家康に碁を教え、信長からは「名人」の名を贈られました。「秀吉からは四石を賜り、棋士の俸禄制に先例を残した。また家康からは幕府の碁所に補せられ、将軍家の指南や全国棋士の昇進査定を行なった。毎年3月頃には、旗本格の行列をつらねて江戸に上り、江戸城に於いてお城碁を行ない、金銀を賜って帰洛したという。」(資料3)「本因坊の名称は、碁界家元の地位を持ち、技量卓抜な者が襲名継承することになった」(駒札)そうです。「算砂の没後、本因坊は碁道の家元の姓となり、その門弟によって代々襲名された。二代目以降は住職ではなかったが、算砂の遺徳を偲び、得度し袈裟を纏って碁を打ったという」(資料3)とのこと。「二世算悦、三世道悦を経て四世道策の時、本因坊は当寺から江戸に移った」(駒札)とか。「昭和14年(1939)二十一世秀哉に至り、かかる世襲制を廃し、日本棋院に於ける試合に勝った実力者が本因坊を襲名することにあらためた」(資料3)そうです。二世日海(本因坊一世)は元和9年(1623)5月、64歳で没します。「それよりのちは、天性囲碁に通ずるものが、当寺の住職となった」(資料3)とか。徳川五代将軍綱吉の時代、宝永5年(1708)3月8日に、油小路姉小路下ルの民家より出火したことで「宝永の大火」が発生しました。寂光寺もこの大火で焼失。そしてこの宝永5年(1708)寂光寺は現在地に移りました。第七世住職・日證上人の時代です。本堂・客殿・庫裡・鐘楼堂・山門などが再建されました。現在の本堂は安永5年(1776)建立の建物。上掲の山門は享保6年(1721)のものとか。 降棟の鬼瓦 向拝の蟇股 向拝の頭貫両端の木鼻 本堂前の右側に、「仏足石」があります。傍に「仏足石の由来」説明が掲示されています。「釈尊ご入滅後、仏陀礼拝の形式として、人々はその御足に対して接足作礼を行い、哀心慕情の誠を示しました。 <ご参詣の皆さま、お釈迦さまの御足に対して、合掌礼拝をいたしましょう.>」(説明文転記) 本堂の北西側に鐘楼堂があります。 鐘楼堂屋根の棟の鬼瓦 降棟の鬼瓦とその右手前に飾り瓦 山門から真っ直ぐに南に向かうと、「本因坊歴代墓所」と大きな木札を掛けた門扉があります。境内墓地への入口です。引き戸が閉められていましたので、墓所を拝見していません。本因坊算砂をはじめ、二世算悦・三世道悦・四世道策・五世道知の墓がここにあるそうです。(資料3) また、山門を入って東側で、近くにこの石碑が建立されています。「第一世本因坊報恩塔」と刻されています。本因坊算砂つまり日海上をの顕彰する報恩碑です。序でに調べて見ますと、本因坊歴代墓所は、東京都豊島区の本妙寺にあります。(資料5) 3月下旬の探訪でした。山門傍で、異なる色の花を咲かせる一本の木を眺めて、寂光寺を辞しました。最後に、余談ですが調べていて得た事項を孫引きでご紹介します。(資料6)第一世本因坊算砂は、 碁なりせば劫(こう)など打ちて生くべきに 死ぬるばかりは手もなかりけり という辞世を残したそうです。また、以下の狂歌を残しているとか。狂歌の形で訓戒を詠んだ感じですね。 1 石立(いしだて)は相手により打(うち)かへよ さて劫(こう)つもりの時の見合(みあわせ) 2 作り物ありとをり入り案ずれば 心にそまぬ手をや打つらん 3 上手(じょうず)とてあまりの気過(けすぎ)恐るなよ 又おそれぬも悪しきなりけり 4 囲碁はただ下手(へた)と打つとも大事なり 少事と思う道のあしさよ 5 わが芸を見かえることは打忘れ 人のくもりをいふぞをかしき 6 身の上のまけになるをばしらずして むかふばかりを見るぞ下手(へた)なり 7 番数を勝(かつ)ほど後をしめてうて すこしも心ゆるしはしすな 8 かりそめも諸道の非難無益なり 手前の義理を詮さくはよし 9 嗜(たしなみ)はかげにて絶(たえ)ずつとむれば 面白き手を見分けうつなり 10 智案先早きは悪ししこまやかに 始末目算手うちだてすな 11 他度法度(はっと)かたくまもらば其外(そのほか)も 堪忍するは道の道なり囲碁の世界の訓戒に、人生での訓戒に通じる示唆が含まれているように感じます。つづく参照資料1) 清光寺 :「浄土宗寺院紹介Navi」(浄土宗)2)「寂光寺だより」第46号 <あの日・あの時 寂光寺のあゆみ>3)『昭和京都名所圖會 洛東-下』 竹村俊則著 駸々堂 p2174)「寂光寺だより」第33号 乾坤窟<本因坊をたずねて>のページ5) 本因坊歴代墓所(本妙寺) :「東京豊島区の歴史」6) 碁の名手(本因坊算砂)ゆかりの寂光寺(京都)、寺宝の唐桑の碁盤、碁石、碁笥、算砂の囲碁狂歌、とは(2010.8.6) :「歴史散歩とサイエンスの話題」補遺囲碁ブーム再燃を巻き起こした棋士らプロも参拝する聖地[寂光寺] :「からふね屋」本因坊算砂 :ウィキペディア本因坊 :ウィキペディア徳栄山惣持院本妙寺 ホームページ顕本法華宗総本山 妙満寺 ホームページ日本棋院 ホームページ日本棋院 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2021.11.30
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玄関先の踏み石脇に 小菊たちが群れ咲いて淡いピンク、白、ピンクの群がりできて 通せんぼうするのもちらほらと咲く花切ることできませぬ雨ふりゃしばらく通行注意 群れ咲く花に目をやれば我ら仲間と顔向けあって 中にゃ、ちょっと離れて集まる花も 同行二人あり 孤高の一輪あり花の世も、人の世と相い似たり 白い花、ちょっと声高、我ここに・・・・・そんな雰囲気、感じさせ 次世代、既に控えてる 紅い色、葉のグラデーションがおもしろいハツユキカズラというそうな デュランタの花がわずかに咲き残る夏の日射しを遮って緑のカーテンさまさまの、お役目果たした オーシャンブルー 咲く花数は減ったれど今も健在 今しばし、花色変化をみせながら 目を楽しませてくれているご覧いただきありがとうございます補遺小ギク(小菊) :「みんなの趣味の園芸」★キク(菊)の花の画像 小菊、夏ギクの育て方 :「育て方.jp」日本小菊 混合 :「サカタのタネ」デュランタ :「みんなの趣味の園芸」デュランタ :「ヤサシイエンゲイ」ハツユキカズラ :「みんなの趣味の園芸」ハツユキカズラ(初雪カズラ)の育て方|剪定時期や増やし方は? :「Green Snap」ノアサガオ :「みんなの趣味の園芸」琉球朝顔(オーシャンブルー)の育て方と花言葉 :「HORTI」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2021.11.27
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頂妙寺を出て仁王門通に戻ると、築地塀の傍にこの「新洞学区寺院案内図 新洞仏教会」の掲示板が設置されています。北から二条通、仁王門通、三条通と大きな通りがあります。左上の大きな寺域が頂妙寺です。本山と8つの塔頭の番号が帰されています。新車屋町通を隔てて東側が新洞小学校です。この辺りには、寺院がこのように密集しています。仁王門通を東に進みます。今回も春(2021.3.24)に撮った写真を併せて載せたいと思います。☆印を追記します。 ☆ 通りの北側にある「大光寺」の山門からチラリと紅葉が見えました。 山門から眺めた境内 常緑樹の間に紅葉した木が一本。それだけで晩秋を感じさせるのもこれまた風情があります。心象としての秋を広げ深める端緒になるからでしょうか。大光寺は「古徳山偏照教院」と号する浄土宗のお寺です。(資料1) ☆ 大光寺の東隣りは「信行寺」です。 ☆ 降棟の鬼瓦 鬼瓦の傍に獅子の飾り瓦 ☆ 山門屋根の棟の鬼瓦 新行寺は、東大路通に面していて、仁王門通との交差点の北西角に位置します。東面するこちらが表門になるのでしょう。門の右側に「開運出世 毘沙門天」の石標が立っています。 表門から境内を眺めると、ここも紅葉している木々がいくつか見られました。春にこの寺の境内を訪れることができましたので、少しご紹介します。(両門とも普段は柵が設けてあると記憶します。) ☆表門を入ったすぐ右側(北側)に唐破風屋根のお堂があります。 ☆「身代(みがわり)毘沙門天」の扁額が掲げてあります。毘沙門天堂です。毘沙門天は梵語の音写で、四天王の内の多聞天のことであり、独尊として祀られて毘沙門天信仰が広がっています。 ☆正面の拝所の唐破風屋根には獅子口が使われていて、丸軒瓦の正面と同一の藤文様の内側に信行寺の文字が陽刻されています。 ☆お堂の切妻屋根の棟の正面に鬼瓦が見えます。 ☆石敷参道の先に本堂が見えます。境内のあちこちに大きな岩が配されています。 本堂の正面には、「信行寺」と記された扁額が掲げてあります。「道源山」と号する浄土宗のお寺です。洛陽四十八願巡りの一寺院でもあるそうです。当初は摂津国西宮にあり、天正16年(1588)願誉順公の開山により建立された寺だそうです。その後移転を重ねて現在地に。左京区仁王門通新高倉東入北門前町にあります。(資料2,3)本尊は阿弥陀如来です。 ☆本堂の屋根に特徴があります。屋根が二段構えになっています。専門的にはどういう名称か存じませんが、裳階が付いた屋根というのでもなさそう。ご存知の方、ご教示ください。もう一つ、鬼瓦にも特徴があります。 ☆ ☆本堂の屋根の大棟には鬼瓦が見えます。しかし、 ☆ ☆この屋根ではたぶん降棟と称することと思います。後部は鬼の頭部ですが、先端部は鬼ではなくて龍が彫刻されています。 ☆ ☆ これは下側の大きな屋根でも、後部は鬼の頭部、先端部は龍です。 しかし異なる姿が彫刻されています。 これらの鬼瓦を間近に眺められればもっと興味深いと思うのですが・・・・残念。調べていて、この本堂の格子天井に、伊藤若冲最晩年の花卉図が見られるということを知りました。元は若冲と所縁のある伏見・石峰寺の観音堂に描かれていたものだそうです。江戸末期に人の手に渡り、この信行寺に寄進されたと言います。(資料4)特別公開される機会がもしあれば、拝見したいものです。東大路通の交差点を横断し、更に東へ。 仁王門通沿いの北側を琵琶湖疎水が東から西に流れ、ここで北に流路を転じます。東の方向を眺めた景色ですが、紅葉した葉はかなり散ってしまったようで、今年は少し寂しげな景色を眺めることになりました。 とはいえ、紅葉した木々をズームアップして撮ると、それなりに紅葉の印象が少しましになります。全景と部分景の関係っておもしろいですね。朱色の橋は神宮道の慶流橋です。その先には、京都市京セラ美術館と京都市動物園の間の岡崎通で、広道橋が架かっています。 左(北側)に見えるのは「京都国立近代美術館」です。この景色をはずれた左側(西隣り)には、「みやこめっせ(市勧業館)」があります。 北に方向を転じた琵琶湖疏水の景色 疎水に架かるのは二条橋です。その先には冷泉橋があり、冷泉橋を過ぎた少し先で疎水は再び西に流路を転じます。 仁王門通の南側歩道を歩みながら、京都観世会館の少し手前で撮った景色です。やはりかなり落葉した姿が、ちょっとわびしい・・・・。これでご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 大光寺 :「浄土宗 浄土宗寺院紹介Navi」2) 信行寺 :「Web版 新纂浄土宗大辞典」3) 信行寺 :「浄土宗 浄土宗寺院紹介Navi」4) 天才絵師 伊藤若冲の”最晩年の傑作”を貸し切りで鑑賞! 2018.2.25:「そうだ 京都、行こう。」補遺仁王門通 :ウィキペディア仁王門通 :「京都岡崎コンシェルジェ」信行寺 花卉天井画 牡丹 :「伊藤若冲」(伊藤若冲の作品の紹介)京都国立近代美術館 ホームページみやこめっせ ホームページ京都市京セラ美術館 ホームページ京都市動物園 ホームページ京都観世会館 公式Webサイト琵琶湖疏水記念館 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 京都 洛東の晩秋 -1 檀王法林寺、大きな銀杏が見頃 へ探訪&観照 京都 洛東の晩秋 -2 川端通の紅葉、頂妙寺(1)銀杏とともに へ探訪&観照 京都 洛東の晩秋 -3 頂妙寺(2)境内巡りのつづき へ
2021.11.26
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ここからは晩秋から時を春に溯り、3/24に初めてこの頂妙寺の境内を訪れた時の探訪で境内散策を補い、ご紹介します。冒頭の石塔は基壇に「経塔」と刻されています。塔身の軸部に独特の書体で「南無妙法蓮華経」と刻されています。背後は本堂です。本堂の東南方向に建立されています。本堂の南西方向、前回ご紹介した妙雲院・菊井稲荷社の北方向にこのお堂が位置します。今回の再訪では、シートで覆屋を設け建物の修復工事が行われていました。 「鬼子母神堂」です。この写真はいずれ修復工事前の状態を示すということになります。鬼子母神堂の南側に見えるお堂は、手許の本に所載の境内俯瞰図を参照すると「妙見宮」です。こちらは未訪。(資料1)正面左の柱に「鬼子母尊神祭」の案内が掲示されています。「鬼子母尊神は法華経信者の守護神であるとともに、子供の守護神です」と記されています。 掲示文に載せてあるのがこの姿です。この鬼子母神像がお堂に安置されているのでしょう。 入母屋造り本瓦葺の屋根の棟には鬼瓦が見えます。古風なスタイルの鬼瓦です。 隅棟の鬼瓦 降棟の鬼瓦同じスタイルの鬼瓦ですが、並べてみると微妙に違う感じ。手作りということでしょう。 鬼子母神堂の北、本堂の西側に、「鐘楼」があります。本堂の背後には書院があり、その西側に庫裡があります。こちらの方には足を向けていません。 本堂前のこの銀杏からは 鐘楼が銀杏越しにこんな感じになります。近くに駐車されていなければ、鐘楼全景を撮りたいところですが、屋根だけを撮りました。(2021.11.21) 鐘楼・切妻屋根の棟の鬼瓦。屋根は葺き替えられたようです。 鬼瓦は古鬼瓦を写したものなのでしょうか・・・・。関心が向きます。 降棟の鬼瓦 梵鐘自体は下帯に唐草文様のレリーフが施されているだけのシンプルなものです。巨大というものではありません。そこで梵鐘を吊す竜頭の箇所が比較的見やすかったので、 こんな風に撮ってみました。 鐘楼の西側、境内の西辺には、塔頭が並んでいます。こちらは「本立院」です。その北側に、善立院、真浄院が連なっています。(資料1,2)本堂の東側を巡ってみました。 手許の本の図での位置関係でみれば、これは本堂の東に位置する「納骨堂」です。納骨堂の北に見える朱塗りの鳥居と瑞垣の場所に進んでみました。 小社には「威徳善神」の扁額が掲げられています。威徳善神堂です。2020年末からこの威徳善神堂の修繕がおこなわれ、「その際に棟札が見つかり、寛政6年(1794)の建立と判明」(資料3)したそうです。 威徳善神堂の西側の垣の傍に、この墓石がぽつんとあります。「有鄰軒輔信」と刻されているのが判読できます。調べてみますと、鷹司輔信という江戸時代前期~中期の公家で茶人。関白鷹司房輔の3男で、号が有鄰軒。晩年には剃髪して、この頂妙寺境内の蓮乗院に住したと言います。(資料4,5)蓮乗院は今はありません。少し離れた西側にこの一画が設けてあります。 一番左の石碑は文字が刻まれているようですが風化が進み判読できません。その右の石仏は如来形の坐像のようです。石仏の後には小さな五輪塔が置かれています。その右には五輪塔を象った板碑が置かれていて地輪の部分に仏がレリーフされています。右端の石碑には蓮華座がレリーフされています。その上に文字が載るのか仏像なのか・・・・・・写真からは識別できません。次の機会にまた眺めてみたいと思います。 威徳善神堂の少し手前、納骨堂に近いところに、2人の名を併記した塚があります。少し調べてみた範囲では不詳。どのような所縁がある2人なのでしょうか・・・・。 その東側にあるのがこの一画。墓所ですが詳細不詳。背後は境内地の東辺で、こちら側にも塔頭があります。すぐ後に見えるのが「善性院」で、その南側に大乗院・法輪院・真如院が連なっています。 墓所の南に生垣で囲まれたもう一つの一画があります。 近づいて拝見すると、「妙蓮」と刻された下に、天文19年6月22日の日付と蓮池平右衛門尉秀明が旧敷地を寄進した旨が記されています。蓮池英明は当寺、扇座と機織座の代表で豪商だった人だとか。今まであまり考えていなかったのですが、俵屋宗達で有名な俵屋は扇の生産を扱う店の屋号です。その名乗りは蓮池あるいは喜多川であり、俵屋一門の元祖が蓮池秀明だそうです。(資料6)この石碑は顕彰碑の位置づけなのでしょうか。頂妙寺は土佐守護代細川勝益から洛中の地を寄進され、日祝上人により創建されたことは前回触れました。その後移転を重ね、大永3年(1523)には高倉中御門(高倉椹木町、御苑内)に移っています。「天文5年(1536)、法華の乱で京都を追われ、同11年に許されて高倉中御門に戻る。天正元年(1573)4月4日、織田信長による上京焼き打ちに遭い、鷹司(下長者町)新町に移る。天正15年(1587)に豊臣秀吉の命で三度、高倉中御門へ移った。かくして寬文13年に川東の現在地に移る」(資料2)という変遷ですので、この石碑に記載の旧敷地とは、たぶん高倉中御門の敷地を指しているのでしょう。妙蓮の石碑と祖師堂との間に、大黒天堂が位置します。前回載せた二天門を南西側から撮った景色には遠景としてこの建物が写ってはいますが建物を単独で撮るのは忘れています。 最後にこの紋について補足します。まとめている時、補遺に掲げた動画を拝見して、獅子口に見える紋は「月星紋(がっせいもん)」と称されることがわかりました。日祝上人は下総国の千葉氏の出身で、この紋が千葉氏の家紋であるとともに、この頂妙寺の寺紋だそうです。この辺りで、探訪の補足を終えて、仁王門通に戻ります。つづく参照資料1)『昭和京都名所圖會 洛東-下』 竹村俊則著 駸々堂 p218-2222)『京都史跡事典 コンパクト版』 石田孝喜著 新人物往来社 p191-1923) 威徳善神堂の修善 寺ブログ :「聞法山頂妙寺」(日蓮宗ポータルサイト)4) 鷹司輔信 :「コトバンク」5) 鷹司輔信 :ウィキペディア6) 動画「頂妙寺と蓮池家、俵屋家」-chapter20- 制作:日本文化芸術の礎補遺日蓮宗 「日本文化芸術の礎」を設立 :「文化時報プレミアム」京都町衆の歴史と文化を歩く video :「日本文化芸術の礎」 このページに頂妙寺についての次の動画を閲覧できます。 「田中日淳猊下のお話し 日蓮宗本山頂妙寺とは」 -chapter17- 「二天門について」 -chapter18- 「頂妙寺の宝物」 -chapter19- 「頂妙寺と蓮池家、俵屋家」-chapter20-細川勝益 :ウィキペディア細川勝益 :「コトバンク」史料にみる扇屋 :「京扇堂」俵屋宗達 :「コトバンク」づしづくし 32 高倉辻子 :「洛中洛外 虫の眼 探訪」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 京都 洛東の晩秋 -1 檀王法林寺、大きな銀杏が見頃 へ探訪&観照 京都 洛東の晩秋 -2 川端通の紅葉、頂妙寺(1)銀杏とともに へ探訪&観照 京都 洛東の晩秋 -4 大光寺、信行寺、岡崎・琵琶湖疏水の紅葉 へ
2021.11.25
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檀王法林寺西門(川端門)脇から出て、川端通の歩道を北に向かいます。午後1時すぎだからか、17日の夕刻に散策路を歩きながら眺めていたときよりも、この辺りの紅葉が少し良くみえました。御池大橋の少し北にある仁王門通に右折します。一筋北は二条通です。 仁王門通に南面した「頂妙寺」の総門から銀杏の大木が目に飛び込んできます。 ☆「聞法山(もんぽうざん)」と号する日蓮宗一致派の本山です。(資料1)仁王門通は岡崎の美術館に行く時のルートとして久しく歩いてきたのですが、頂妙寺境内を訪れたのは今年の3月下旬が初めてでした。そのまとめができていませんでしたので、春に撮った写真も併せて使いながら、ご紹介したいと思います。(2021.3.24に撮った写真には適宜☆マークを付記します。空の色でも見分けがつきますが。) 総門を入ると、左斜め前方に銀杏の木が見えます。手前には妙雲院と菊神稲荷社が並んでいます。 春に訪れた時には、この辺りの桜がきれいでした。春は桜、秋は銀杏の境内です。 妙雲院は頂妙寺の塔頭の一つです。 銀杏を眺め、移動しつつ右方向に目を移すと「二天門(仁王門)」が見えます。 ☆総門から石敷の参道の正面に二天門が見えます。参道の両側に生垣が設けてあります。手許の本ではこの辺りにかつての拝堂址だそうです。(資料1) ☆二天門は、三間一戸、切妻造り、本瓦葺で、中央の一間を通路とし、右に持国天像、左に多聞天像を安置するそうです。 江戸時代に出版された『花洛名勝図会』東山之部三には、「頂妙寺二天門」が手前の拝殿とともに挿画として載っています。また、同書には、「東 持国天 長七尺許 運慶 西 多聞天 安阿弥の両作」と記しています。(資料2)もと和泉国にあったものを日珖が移したと伝えられているそうです。(資料3)往時はこの二天像に対する信仰があつく、老若男女の諸人が参詣し、徒はだしで門を巡るお千度をおこなったと言います、仁王門通という名はこの二天門に由来するようです。(資料1,2) 二天門の正面に掲げられた扁額 ☆屋根の棟と降棟先端の獅子口には、小円と三日月様の陽刻が見えます。軒丸瓦の先端面には「頂」の字が陽刻されています。 二天門の北東側から西を眺めた景色 二天門の西側から本堂をあらためて眺め、本堂に向かいます。 銀杏の大樹を背景に日蓮聖人立像が建立されています。 ☆ ☆ 本堂 文明年間(1469~1487)に下総国千葉郡中山法華経寺から上洛した僧・日祝が明応5年(1496)に洛中の四条柳馬場に頂妙寺を創建しました。細川勝益が日祝上人に帰依し、明応4年にその地にあった自邸を喜捨したことによります。足利将軍も日祝上人に帰依し、大いに庇護したと言います。頂妙寺はその後、各所に移転を繰り返します。そして、江戸初期の寬文13年(1673)に加茂川東のこの地に移ります。天明8年(1788)の天明大火で類焼し堂宇は灰燼に帰します。その後天保8年(1837)に再建が果たされたようです。(資料1,3,4) 本堂正面、向拝の蟇股の丸彫りの彫像がいい。 正面頭貫の木鼻 手挟み本堂の屋根には、棟も降棟も獅子口が使われています。 本堂前から南東方向に見えるお堂 正面に近づくと、「祖師堂」の扁額が掲げてあります。 ☆正面6間、側面5間の入母屋造り、瓦葺の建物です。本堂が獅子口を使っているのに対し、祖師堂では鬼瓦と飾り瓦が使われています。 ☆ ☆ 祖師堂の南に見える土蔵造りの建物は「宝蔵」です。この日は、境内の銀杏を中心に境内を散策して、頂妙寺を出ました。次回は「紅葉」からは外れますが、春に訪れた時に境内を巡った他の箇所を補遺として、ご紹介します。つづく参照資料1)『昭和京都名所圖會 洛東-下』 竹村俊則著 駸々堂 p218-2222) 花洛名勝図会 東山之部 三 p22 :「古典籍データベース」(早稲田大学図書館)3)『京都史跡事典 コンパクト版』 石田孝喜著 新人物往来社 p191-1924) 洛東本山 聞法山頂妙寺 :「日蓮宗ポータルサイト」補遺三祖 佛心院日珖上人 其の一 :「聞法山頂妙寺」(日蓮宗ポータルサイト)日蓮宗の本山 京都の本山 :「広済寺」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 京都 洛東の晩秋 -1 檀王法林寺、大きな銀杏が見頃 へ探訪&観照 京都 洛東の晩秋 -3 頂妙寺(2)境内巡りのつづき へ探訪&観照 京都 洛東の晩秋 -4 大光寺、信行寺、岡崎・琵琶湖疏水の紅葉 へ
2021.11.24
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日曜日(11/22)、岡崎の京都観世会館に行く時、少し早めに出かけました。道すがらの紅葉具合を眺めるためでした。17日にあまり冴えない鴨川沿いの紅葉を眺めてはいたのですが・・・・。三条大橋東詰めから川端通をはさむ北東角に京阪三条北ビルがあります。ここから三条通をほんの少し東に進むと、冒頭の大きな石標の立つ表門(三条門)があります。三条通に南面する建物群は東山区の北端で、その北側は左京区になります。檀王法林寺の表門と参道の途中までは東山区で、その先の境内地は左京区です。寺号標の傍に駒札が建ててありますが、後でご紹介します。三条通はけっこう往来する人々がいましたが、この寺の表門の前を大半の人々は通り過ぎるだけ。三条門から入る人を数名はみかけただけです。 表門は高麗門の形式です。 表門を入り参道を少し北方向に歩むと、西側にこのおもしろい石像が置かれています。ちょっと異質な石造物。一見猫のようで猫でない。なぜって二本の角が立っています。何なのでしょう。後で調べてみますと、この寺には、「日本最古の招き猫伝説」があるそうですが、関係があるのかないのか・・・。(資料1) 三条門を振り返った景色 参道の正面に「楼門」が見えます。右側に「派祖望西楼」と刻した石標が見えます。手許の本には、挿画に「四天王楼門」と記されています。明治21年(1888)に建立されたそうです。三間一戸、入母屋造り、本瓦葺きで、中央の一間が通路になっています。(資料2)正面の軒唐破風の下に山号の扁額が掲げてあります。北側にも軒唐破風です。 石標の東側に銀杏の木が見えます。 楼門から少し下がって東寄りに見上げるとこんな感じです。楼門には両側前後に四天王立像が安置されています。当檀王法林寺のホームページに掲載されている四天王像の写真で像の配置を確認してみました。(資料1) 南から楼門の網状の囲い越しに眺めた右側(南東側)に「増長天」 こちらは向かって左側(南西側)で「持国天」 虹梁や蟇股などが楼門をがっしりと支えています。楼門の北側を眺めてみましょう。 本堂に面した北西側には「多聞天」木札が掲示されているのに気づいたのはここだけでした。残り三躯は意識していませんでした。仏教的世界観で須弥山をめぐる四大州のうち、北俱盧州を守護するのが多聞天とされています。北を守護する多聞天は、単独で毘沙門天としても信仰されています。(資料2)多聞天は梵名ヴァイシュラヴァナの漢訳です。普聞とも訳されるとか。毘沙羅門と音写され、それが訛って毘沙門と称されるようになったとか。(資料3) 北東側には広目天」網目に一箇所ほころびがあり、広目天だけ網目なしで撮れました。「境内楼門内に安置される四天王像は、二十二世譲誉玄亮(じょうよげんりょう)上人が明治21年(1888)の楼門新築に伴い購入したもので、大阪和泉の興善寺旧蔵ものと伝えられている。」(資料1)広目天が平安時代後期の作で、増長天・持国天・多聞天の三躯は鎌倉~南北朝の作だそうです。四天王は各方位を守護する役割を担っています。持国天(東方)、増長天(南方)、広目天(西方)、多聞天(北方)です。これを方位に配置します。東大寺戒壇院及び東寺立体曼荼羅の四天王は 広目天(西) 多聞天(北) 増長天(南) 持国天(東)という形で配置されています。時計回りに方位の軸を回転させた形になっています。戒壇院・東寺の配置と比較すると、こちらの楼門では、左右を逆転させて、 多聞天(北) 広目天(西) 持国天(東) 増長天(南)南側から眺めると、こういう配置になっています。本堂側から楼門に向かって眺めれば、北側の二躯は 広目天・多聞天 という並び方になります。意図的にこのように配置されているのでしょうか。楼門の配置の方向に回転させると、北側に多聞天と持国天、南側に広目天と増長天の配置になると思っていたのですが。ちょっと不思議・・・・。四天王の配置について課題が残りました。 楼門の北側には、「望西楼」の扁額が掲げてあります。 楼門を通り抜けると、南面する本堂があり、本堂の南東側に大きな「南無阿弥陀仏」と刻された名号碑が立っています。これは、袋中上人が4mを超える料紙に書かれた大名号を、入手できた大石に、昭和11年(1936)に実物大で刻印して建立されたそうです。両側に支持柱が設けられたのは近年のようです。ホームページに掲載の写真には支持柱はありませんので。(資料1) 本堂の正面には、山号「朝陽山(ちょうようざん)」の扁額が掲げてあります。 現在は浄土宗鎮西派で金戒光明寺に属するお寺です。正式には朝陽山栴檀王院無上法林寺と号し、略して「檀王」「だん王」と称するそうです。(資料1,4,5)寺伝によれば、初めは丸太町通鴨川東、現在の聖護院蓮華蔵町にあり、天台宗蓮華蔵院(または華蔵寺)と称したとか。鎌倉時代の文永5年(1268)に亀山院が、望西楼了恵上人道光に勅して現在地に移転し、浄土宗悟真寺と改称されました。応仁の乱及び鴨川の洪水により寺は荒廃し、一時期三条東洞院に移りましたが、再び現在地に戻ります。慶長16年(1611)袋中(たいちゅう)上人により再興され、栴檀王院と号し、現在の名称となったそうです。駒札には「本堂は、元文3年(1738)から寛延3年(1750)頃にかけて再建された」と記されています。手許の両書によれば、宝暦12年(1762)に修復されているようです。その後、天明の大火に罹災することもなく、現在に至るとか。(駒札、資料1,4,5)本尊は阿弥陀如来立像で、恵心僧都作と伝わり、二世團王の時代に本尊として祀られるようになったと言います。併せて本堂の西側に阿弥陀如来坐像(京都指定重要文化財)が祀られていて、こちらは旧蓮華蔵院の遺仏と伝わるそうです。(資料1) 本堂の木鼻 本堂正面の階段の左右に、異なるスタイルの石灯籠が配されています。かつて当寺には、主夜神(しゅやじん)堂があったようです。(資料5)現在そのお堂があるかどうかは調べた範囲では不詳です。左の屋形型の笠の石灯籠の竿の正面に「主夜神寶前」と刻されているのはこの主夜神堂前に建立された石灯籠だったことに由来するのでしょう。また、右の石灯籠の竿の正面にも「主夜神」という文字が判読できます。左側面には「長夜燈」と刻されています。一方で、檀王法林寺には主夜神が祀られていると言います。ホームページには「主夜神信仰の歴史」のページがあり、主夜神は、もとの名を婆珊婆演底主夜神(ばさんばえんていしゅやじん)といい、華厳経入法界品に説かれる神様だとか。この主夜神のお使いが黒猫だそうです。「檀王法林寺では、主夜神祭礼そのものが、長い間途絶えていましたが、1998年に約50年ぶりに復活を果たしました。現在では毎年12月の第1土曜日に招福猫・主夜神大祭が行われています。」(資料1) それでは、一旦楼門の前に戻ります。これは東側の銀杏の傍から楼門を眺めた景色です。銀杏の黄葉が見頃でした。銀杏の傍に雲梯や滑り台が置かれています。境内案内図を見ると、東辺に児童館や乳児室が運営されていますので、その関連施設なのでしょう。また本堂の背後(北側)には、保育園もあります。 楼門の南東方向に見える景色です。南端に宝篋印塔が立ち、 その北隣りに「鳥之供養塔」と刻された碑が建立されています。その北隣りの碑は建立記念の銘文だろうと思います。未確認ですが・・・。 さらに北側には、3mほどの大きな石造地蔵菩薩立像が立ち、その傍に石仏群があります。江戸時代に造像された地蔵菩薩で、「昔この像に安産の祈願をする婦人が多かったという」(資料1)。地蔵菩薩の光背に掘られた地蔵菩薩の頭の上の梵字はキリークで阿弥陀如来の種子かと推測します。(資料2) 石仏群を眺めますと、様々な石仏が集合しています。 右奥の阿弥陀仏坐像は、花崗岩製、室町中期の作で、「阿弥陀の両脇に梵字で観音、勢至の両菩薩、上部には阿弥陀をあらわす梵字が刻まれた珍しいもので、背面の銘から徳山盛長なる人物が親族の往生の願いをこめて寄進したことがうかがえる。 」(資料1)とのこと。 かなり風化摩滅している石仏がいくつかあります。左奥の石仏は一見冠あるいは頭巾を被っているようにも見えます。右のような双体仏も複数あります。 一番奥の北端はまだ新しいお地蔵さまです。台座の正面には碑銘が「供養地蔵尊」と刻され、「平成24年4月12日 縄手通交通事故犠牲者 一周忌追善建立」と併記されています。2013年4月の建立です。 本堂前から西を眺めると、こちらにも銀杏の木があります。「大銀杏」の場所に次世代の若木が生長してきているようです。樹齢300年を超える大銀杏は戦前に台風の被害で倒木したそうです。その切り株残っていて、さらにそれを残す補強が施されているようです。 若木が、補強された切り株に寄り添うように枝を伸ばし、葉を茂らせている感じです。 この銀杏の西側傍から、本堂の方向を眺めた景色本堂の西側に保育園への門が見えます。ホームページの境内案内図を参照すると、本堂の西側に観音堂があります。この御堂を見過ごしてしまいました。三条に出る機会はありますので再訪してみたいと思っています。平安時代後期の作で、半丈六の大きな十一面観音菩薩が祀られているそうです。 その西側にあるのがこの「龍神堂」です。 お堂の前に、正面に「加茂川龍神」と刻し、龍神像が彫刻された石造の台が設けられ、供花と香炉の祭壇になっています。ここに安置されていた「加茂川龍神立像」は現在本堂に移されているそうです。(資料1)お堂に向かって右側手前に「加茂川龍神 縁起」の碑が建立されています。「檀王法林寺に祠られる龍神は、加茂川龍神または八大龍王とよばれる神様であり、『一滴の水をもって普く四天下に渡って日照りを抑え、萬頂の水をもって水難を治める自在な神通力を持ち、信心帰依するものに如意宝珠の所願円満を授ける。』という霊験を持ち、晴雨を司る神様として、仏法を守護し、民衆を日照りや水難から守ってくれる大きな役割を古来より担ってきた。 当寺の龍神信仰の歴史は古く、当寺創建以前の大昔、加茂川が大氾濫を起こした際、糺(下鴨神社)の社がこの地に流れ着き、その縁により、この三条の地に加茂大神宮を鎮座させ給い、お祠りしたことに始まる。 また、干ばつや水害が重なったある年、その天変地異を引き起こすのは、諸々の悪事を働いている加茂川東岸に住む大蛇と考え、この悪蛇を成敗し、その霊を祠るお堂を新たに建立したことも龍神信仰の寺伝となっている。 そして、寬文6年(1666年)6月、度重なる加茂川の氾濫を治めるために、霊元天皇の勅令によって現在の龍神尊像が勧請され、正式に加茂川龍神として大銀杏の下にお祠りして以来、多くの信仰を集めるようになった。 加茂川龍神の御霊験益々顕れ、諸々の厄難悉く消滅させ、またこの御威光が遠く末代まで伝わりますことを願い、ここに龍神尊の石碑を建立する。 合掌 2000年6月1日 龍神法要厳修記念 朝陽山 檀王法林寺 第27世 道誉雅文」(碑文転記) 龍神堂の前には東西方向にこの参道が設けてあります。勿論本堂への参道でもあります。西側から撮った景色です。 川端通の歩道に面して、この西門(川端門)があります。この西門が京都市指定有形文化財になっています。西門の南側が駐車場になっていてオープンですので、川端通の歩道からここを通って檀王法林寺境内に入ることもできます。さて、川端通を北上し、仁王門通に右折して岡崎を目指します。つづく参照資料1) 壇王法林寺 ホームページ2)『図説 歴史散歩事典』 監修 井上光貞 山川出版社 p204、p338-3393)『仏尊の事典』 関根俊一編 学研 p150-1534)『昭和京都名所圖會 洛東-下』 竹村俊則著 駸々堂 p219,2225)『続・京都史跡事典』 石田孝喜著 新人物往来社 p135補遺四天王 :ウィキペディア四天王 :「コトバンク」東大寺戒壇院の四天王像の配置は? 広目天は多宝塔の北西に安置:「まったりと和風」東大寺戒壇堂四天王 :「はなこの仏像大好きブログ」立体曼荼羅の空間配置と階層構造 :「発想法 -情報処理と問題解決-」四天王寺の四天王の配置は、1300年間変則だった。 :「note」現場に車止め、法要も 京都・祇園暴走事故4年 :「産経ニュース」鳥之供養塔 檀王法林寺 :「asahi net」 ⇒ 追記 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 京都 洛東の晩秋 -2 川端通の紅葉、頂妙寺(1)銀杏とともに へ探訪&観照 京都 洛東の晩秋 -3 頂妙寺(2)境内巡りのつづき へ探訪&観照 京都 洛東の晩秋 -4 大光寺、信行寺、岡崎・琵琶湖疏水の紅葉 へ
2021.11.23
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17日の午後、新京極通にあるジムに7ヵ月余ぶりに足を向けました。その後、歩いたことのない御幸町通を二条通まで上り、二条大橋から鴨川を渡ることにしました。二条大橋もほとんど渡ることのない橋です。冒頭の景色は二条大橋南西詰めで東方向の眺めです。元治元年の京都古地図を見ますと、二条橋の北西詰には川沿いに二条通と一筋北の夷川通までの間に「角クラヤシキ」があり、南西詰の少し西に川原丁通(河原町通)までが「角倉与一」と記されています。角倉家の邸宅があったところです。その南側が一之船入で、一之船入の南側には高瀬川沿いに、河原町通に面する長州、加州等の藩邸が隣り合っていました。(資料1)現在の地図を見ますと、「角クラヤシキ」のところに「ザ・リッツ・カールトン京都」があり、「角倉与一」の邸宅跡は、東から「がんこ高瀬川二条苑・島津製作所創業記念資料館・銀行会館・日本銀行」が連なっています。一之船入は史跡として保存されていて、そこには高瀬舟がもやっています。序でに一之船入付近を今年の3月末に撮った景色をご紹介します。 木屋町通に面して石標が建てられています。 2021.3.29撮影小橋詰に角倉氏邸址の石標があります。北から高瀬川を眺めた景色。この景色の右側(西)が日本銀行の敷地です。 二条大橋南西詰めから鴨川下流側の東岸を眺めた景色(16時頃)です。東岸の並木の紅葉はスッキリしない色合いです。冴えない感じ・・・・。 鴨川の西側の幅の狭い流れは「みそそぎ川」です。 川の途中に分岐が設けてあります。この分岐を見るのは初めてです。右(西)側が一之船入を起点とする高瀬川への取水口になるのでしょう。現在は「がんこ高瀬川」の庭園部分を経由して、一之船入りに繋がっているようです。つまり、かつては、この二条通付近で鴨川に樋が設けられて水流がここにあった角倉家の庭園に流れ入り、高瀬川の一之船入につながっていたということになります。(資料2)このみそそぎ川は、鴨川の一部で、賀茂大橋の下流取水口が起点となる水路です。この起点から鴨川東岸の園路沿いに、府立医科大学・荒神橋・丸太町橋の傍を通過して二条大橋傍に至ります。ここまでの途中は一部暗渠になっているようですが、現地の確認はしていません。(資料3) 鴨川の上流側。東岸の紅葉もくすんでいます。夕方に近くなってきたせいもあるかも・・・・。 下流側、西岸の紅葉もわすか。がんこ高瀬川二条苑の庭園とその背後に銀行会館のビルが見えています。 二条大橋東南詰めから下流を眺めた景色 東岸の散策路を通り、三条に下ります。鴨川と併行して東側を流れる琵琶湖疏水にかかる木の枝を間近で眺めると秋の紅葉らしさを感じます。琵琶湖疏水は第1疎水の鴨川合流点から伏見区堀詰町までは「鴨川運河」とも呼ばれています。(資料4) 鴨川の水鳥をあちこちに眺めつつ散策路を進みます。並木の秋の風情はちょっと乏しい・・・・。御池大橋西詰方向の景色も、紅葉具合はあまり感じられません。 琵琶湖疏水の水門をズームアップで。紅葉がくすんで見えるのは、暮れなずみ行くせいでしょうか。 下ってくる琵琶湖疏水の流れと間近の枝の紅葉で、街中での晩秋を感じることにいたしましょう。嵐山や高雄の紅葉は冴えているのでしょうか・・・・・。余談です。参照資料にこんな記述があります。ご紹介しておきましょう。「鴨川では、江戸時代より川の中に床几をならべて夕涼みをするようになったとされています。大正時代に入り治水工事により中洲が取り除かれ流れが速くなったことから、床几の床が禁止になりましたが、 その後の河川改修などで高水敷に人工水路の「みそそぎ川」が開削され、納涼床は現代のようにみそそぎ川の上に出される高床形式になりました。」(資料3) これは、江戸時代に出版された『都名所図会』に掲載された「四条河原夕涼之図」です。これができなくなって、納涼床に変化したということになるようです。(資料5)ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 京都古地図 元治元年(1864) 所蔵地図データベース:「国際日本文化研究センター」2) 高瀬川源流庭苑 高瀬川とみそそぎ川 :「親水紀行 ~水とのふれあい~」3) 鴨川真発見記<37から42> ⇒ 38号参照 :「京都府」4) 鴨川運河 :「日本遺産 琵琶湖疏水」5) 都名所図会 6巻 2巻 12コマめ :「国立国会図書館デジタルコレクション」補遺みそそぎ川 :「AGUA」四条河原夕涼図 :「文化遺産オンライン」琵琶湖疏水のご紹介 :「京都市上下水道局」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2021.11.19
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藤代小学校の東隣りが「伏見北堀公園」のメイン・ゲートです。レンガ塀に「伏見北堀公園案内図」が設置されています。 正面から案内図を撮りましたが、鏡面反射してうまく撮れません。図を切り出して拡大し追記しました。図の右下(北西隅)の黒丸が現在位置、メイン・ゲートです。冒頭の景色に案内標識が設置されていますが、図の赤色の箇所が「京都市伏見北堀公園地域体育館」です。この建物の区域は、深草大亀谷五郎太町になります。そこから東の区域、つまり「伏見北堀公園」は「桃山町大蔵」です。「伏見城周辺」のご紹介をした折に、「大蔵丸」という郭名でご紹介しました。「長束大蔵大輔正家」に由来します。「伏見城図」(資料1)には、郭の位置に「少輔」とあり、現在の地名との対比の注釈には「大輔」と記しています。昇位したのでしょう。案内図には、「公園の沿革」が次の通りに記されています。「この公園は伏見城築城の当初からの北側の外堀の遺構を利用したもので、一時水道局浄水場の貯水池となっていました。 昔は梅の名所で、浄水場の時代は桜やツツジの花が市民の目を楽しませてきました。 公園は健康運動公園として、昭和63年度から整備を行い、平成5年度に完成しました。」 体育館の南側には、テニスコートとふれあいひろばが設置されています。先に触れておきます。それでは、整備された北堀公園をめぐりながら、北堀遺構を感じていただきましょう。 体育館へのアプローチ通路を進み、少し先で左方向への道に入ります。この辺りが「風致地区」に指定されている旨の掲示板がまず見えます。上記の部分拡大図では、黄色のドットを付けた散策路を東に歩くことになります。 北堀の南北両側(黄色のドット追記)の道が公園化にあたり「武者走り園路」として整備されました。この景色の左側石垣は公園整備によるものです。武者走りとは、「城壁や城のまわりの土手の内側に設けた通路」(資料2)です。堀の土居部分の傾斜地に設けられた通路ということになります。実際の伏見城北堀にこのような武者走りがあったかどうかは不詳です。多分公園化の整備で散策路として設けられたのかもしれません。また、左側(北側)はかなりの高さの斜面になっていて、その上は上板橋通です。 武者走り園路から北堀の底を眺めた景色 堀底には一部に池が設けてあります。堀の深さ感をイメージしてみてください。北堀底はこの後、東から西に歩いてみます。 北側の武者走り園路を東端まで歩み、右折して南側の園路と合流する空間に至ります。南側園路寄りの景色です。中央の木の斜め左奥に京都一周トレイルの道標が設置されています。この道標とその場所は「伏見城周辺」の最後あたりでご紹介しています。 それでは、北堀の底を歩きましょう。左は南側の武者走り園路を東端にでてくるあたりです。これから進むのは右側です。坂道を下って北堀の底を歩き始めるあたりのカーブです。 堀底に「流れ」が造られています。 流れを渡るコンクリートの板橋が掛けてあります。上端左には、堀の南側に整備された堀底内の通路で少し高くなっています。南側の武者走り園路はさらに高い位置になります。 「流れ」の傍に点在する石。伏見城の石垣に使用されていた石材でしょうか・・・・。 「芝生の広場」が広がっています。 手前は「しょうぶ池」です。斜めのコンクリート舗装路から右折すると、北側の武者走り園路に出る階段が設けてあります。舗装路の西側の池の先に四阿(休憩所)が見えます。 休憩所の西側の「ジャブジャブ池」です。 少し西側で、「池」沿いの通路と、少し高い位置で西に向かう通路があり、北側の高い位置の通路を歩きます。池を見下ろす形になります。 前方には、メイン・ゲート、つまり体育館の方向に上って行く幅の広い坂道が見えます。この坂道を上れば、最初に触れた、ふれあい広場やテニス・コートの見える景色になります。 北堀の底側に下り、南側の武者走り園路に向かいます。 南側の武者走り園路の西端、北堀の遺構で言えば南西端から「ふれあいひろば」方向を眺めた景色です。 今度は、北堀南側の武者走り園路を東方向に歩みます。こちらは本丸や諸郭のある城内側になります。 園路の左側に北堀の底を眺めつつ進むことになり、ここから先は、既に「伏見城周辺」の終わりあたりでご紹介した景色になります。 そして、北堀公園の東端部に至ります。前回はここから、南東隅の公園入口から外に出ました。(上掲案内図の南東隅の黒丸の位置)今回は、この景色にみえる北方向への坂道を上ります。 坂道は途中でカーブしています。振り返った通路の景色です。 伏見北堀公園の北東隅の入口です。上掲案内図の北東隅の黒丸の位置になります。公園名を表示する碑の右に京都一周トレイルの道標が設置されています。その右側は上板橋通が東西方向に通っています。左手前の道標には、柱に「深草トレイル」と表示され、上板橋通を西に向かい「京阪電車・近鉄電車 丹波橋駅」まで2000mと表示されています。反対に東へ回り込んで行けば、大岩山展望所まで1500mと記されています。 この入口を出て、上板橋通を東に進みます。 突き当たりがT字路です。突き当たりにこの石標があります。「伏見城武家地 黒田長政下屋敷跡参考地」と刻されています。「伏見城図」には、ほぼこの位置に「黒田甲斐守」の屋敷名が記されています。その北隣りが「小西摂津守」、南隣りが「中川修理太夫」の屋敷が連なっていたようです。(資料1)右折して南進します。 少し先で道が分岐しています。右の坂道を下るのですが、右側の民家に目を止めましょう。 立派な民家の入口一対の獅子石像が置かれ石段の先に門構えが見えます。南東側から撮りました。 門より北側にこの道標が設置されています。「八科峠 右京みち 左六ぢぞう」と刻されています。俗に「八科(やしな)峠道」「大亀谷街道」と称される南北方向の道で、藤森より山科六地蔵に通じる道です。大亀谷とは、深草山と伏見山(桃山)とが接するところにできた一渓谷で、その名のいわれは諸説あるそうです。(資料3)「伏見城図」を見ると、この街道沿いに大名屋敷が連続して並んでいたようです。「豊臣秀吉が伏見城築城の際、旧道を廃して新たに付けた道といわれ、京都より木幡・宇治をむすぶ近道として利用された」(資料3)とのこと。 道標の左側には、逢坂山の「車石」が置かれています。また、ここの石垣にもその車石が使われています。 さらにその左側には2つの石碑が建てられています。正面から撮っても両石碑に記された文字の半ばは繁茂する植物で見づらくなっています。右側は銘碑で左側は歌碑のようです。ネット掲載情報を検索すると右側の碑の内容がわかりました。感謝です。孫引きします。(資料4) 歌の作者名が冒頭に記され、略歴が刻されています。 浜田陽子 1919年 神戸市出生/ 1936年 植田敏郎に師事作歌/ 1992年 伏見桃山正宗にて永眠 「秋冬記」の歌集5册あり 八科峠から六地蔵を目指して坂道沿いに下りました。これで終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1)「豊公伏見城ノ圖」 藤林武監修 作成・発行 吉田地図販売株式会社 (太閤摂政関白太政大臣正一位豊臣秀吉公泰平御代御旗本諸大名御屋敷之圖)2) 武者走り :「コトバンク」3)『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p93-944) 道標伏0079 八科峠 歌碑 車石 京都一周トレイユF13 蔵:「アートプラス京めぐり」補遺犬山城天守・武者走り(むしゃばしり):「犬山城を楽しむためのウエブサイト」全国的にも珍しい武者走りが通行可能な府内城 外川淳 :「BEST T!MES」八科峠【道標】 やしなとうげ HU168 :「フィールド・ミュージアム京都」狼神話 八科峠 :「来福@参道」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・伏見 伏見城址周辺その2 -1 津知橋筋と栄春寺 へ探訪 京都・伏見 伏見城址周辺その2 -2 海宝寺(伊達正宗屋敷址)へ探訪 京都・伏見 伏見城址周辺その2 -3 伊達街道・上板橋筋・清涼院 へ
2021.11.09
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海宝寺前の南北の通り(伊達街道)を南に進みます。桃山最上町側に地蔵堂があります。格子扉から内部がうまく見えません。お地蔵さまに化粧はなさそうです。 南進すると、上板橋筋(現上板橋通)との交差点です。ここで左折して上板橋通を東に坂道を上っていきます。 目の前に、JR奈良線の踏切が見えます。これは踏切から北方向の景色。現在、奈良線は複線化の工事が進行中です。 通り沿いの南側は「国立研究開発法人 森林研究・監督機構 森林総合研究所関西支局」の広い敷地が、桓武天皇陵の北西側に隣接しています。この森林総合研究所の辺りは現在の地図を確認すると、桃山長岡越中東町とその東隣りの桃山町永井久太郎という地名です。「伏見城図」(資料1)を参照しますと、上記の交差点の南西角に「長岡越中守」と記され、その西隣りは「伊達陸奥守」の屋敷地となっています。南東角は「山内土佐守」、その東隣りが「松平伊豆守」で、松平伊豆守」の屋敷の南隣りが「堀久太郎」の屋敷。この屋敷は丹波橋筋(現丹波橋通)に面しています。松平伊豆守の屋敷の西側には南北の通りを挟んで「永井右近太夫」の屋敷となっています。つまり、桃山長岡越中東町は長岡(細川)越中守忠興、桃山町永井久太郎は永井右近太夫直勝と堀久太郎秀治の名前に由来するそうです。(資料1)坂道をさらに上ると、 「農林水産局近畿農政局 淀川水系土地改良調査管理所」があり、桓武天皇陵墓域がつづきます。 その続きに「京都市立藤代小学校」があります。つまり、天皇陵の北側一帯は、公共機関の敷地・建物が立地しています。 小学校のグラウンドあたりで、道路(上板橋通)の北側はひろい空地が設けられていてその先に、周囲に生垣を巡らせた一画が見えます。 生垣だけで山門はありません。入口手前に「車止」と刻した石標が建てられています。近くに、駒札が建っています。ここは「清涼院」です。 生垣の入口を入ると、丸い小島の趣きの所に「清涼院」と刻した碑が立っています。その北側に本堂が見えます。 右側の石畳を進むと庫裡があります。 庫裡の入口の上部に「清涼菴」と記された扁額が架けられていて、入口の左右の柱には偈を記した木札が掛けてあります。私には判読できないのが残念です。 右側の踏石を辿っていくと、 木の傍に、「福寿かんぜおん」と刻された石標と、「袖形」と称される石灯籠が立っています。このスタイルの石灯籠もあまり見かけたことがありません。手許の本を参照してこの名称を知りました。(資料2) 観音堂の東側面です。福寿観音がこの御堂に祀られていて、大和長谷寺の本尊の模刻と伝えられているそうです。 寄棟造の屋根の棟に「福」の字を陽刻した鬼板が使われています。降棟の先に鬼瓦が見えます。 本堂です。本尊は阿弥陀如来坐像が祀られているそうです。現在は、至心山と号する浄土宗知恩院派の尼寺です。清涼院は福寿庵とも呼ばれるとか。寺伝によれば、徳川家康は、石清水八幡宮の神職志水加賀守宗清の娘・お亀を愛し、伏見城内の御花畑山荘に一宇の草庵を建てて住まわせたのが起こりと伝えているとか。その草庵で一人の男児を生みます。名は五郎太丸。家康の第九子にあたり、長じて徳川義直と改めます。御三家の筆頭62万石、尾張大納言義直です。清涼院は深草大亀谷五郎太町に所在します。五郎太町は徳川義直の幼少年期の名前に由来します。(資料3,4)尚、五郎太丸は大坂城の西の丸で生まれたという説もあります。(資料5)草庵は「その後八幡町の正法寺に払い下げられて”福寿菴”といわれたが、寬文2年(1662)に黄檗宗万福寺の清涼了観の隠居所となり、清涼庵と改称された。そして安永7年(1778)には知恩院派に属する尼寺となり今に至っている」(資料4)清涼院では、五郎太丸像とお亀の方の像を所蔵されているそうです。また、上記の福寿観音はお亀の方が生前ふかく信仰されたものと伝わるとか。(資料3) それでは一旦入口に戻ります。入口からすぐ右折する方向に進みます。 通り過ぎて、南東側から撮った御堂の景色です。 「秋葉山大権現」の扁額が掲げてあります。秋葉権現は、火防の霊験で知られた神です。静岡県浜松市にある秋葉山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神だそうです。(資料6) 秋葉権現の祀られた建物を通り過ぎて、突き当たったところに、石仏群が祀ってあります。 かなり風化が進んでいます。どこからここに集まってこられた石仏なのでしょう・・・。 石塔も木々の間に見えます。諸石塔の残闕を集めて五重石塔に組み立てた印象を受けます。五輪塔とその大小の笠、宝篋印塔の一部が五重石塔としてバランス良く建てられた感じ・・・・という印象です。だけど良い感じの層塔になっていますね。 近くにこの案内板が設置されています。保存樹そのものを撮り忘れました。 最後に目に止まったのがこの石碑です。これもまた私には判読できませんでした。こんなところで、清涼院を後にして、いよいよ北堀を再び違う角度から眺めることにしました。つづく参照資料1)「豊公伏見城ノ圖」 藤林武監修 作成・発行 吉田地図販売株式会社 (太閤摂政関白太政大臣正一位豊臣秀吉公泰平御代御旗本諸大名御屋敷之圖)2)『和の庭図案集』 design book 建築資料研究社3)『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p95-974)『新版 京・伏見 歴史の旅』 山本眞嗣著 水野克比古撮影 山川出版社 p1435) 徳川義直 :「コトバンク」6)秋葉権現 :ウィキペディア補遺袖形石灯籠 :「茶道百字辞典」お亀の方 :ウィキペディア相応寺 (名古屋市) :ウィキペディア秋葉山 (静岡県) :ウィキペディア秋葉山本宮 秋葉神社 ホームページ三尺坊 :「コトバンク」徳迎山 正法寺 ホームページサルスベリ :ウィキペディア百日紅 (さるすべり) :「季節の花 300」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・伏見 伏見城址周辺その2 -1 津知橋筋と栄春寺 へ探訪 京都・伏見 伏見城址周辺その2 -2 海宝寺(伊達正宗屋敷址)へ探訪 京都・伏見 伏見城址周辺その2 -4 北堀公園(北側の外堀遺構)・八科峠 へ
2021.11.08
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津知橋通は津知橋を東に渡ると坂道となります。これは東の突き当たりの景色です。自動車で乗り入れができる開口部があり、駐車場は北側(左方向)にあるようです。開口部の正面奧は石垣が積まれ、一段高くなり白い築地塀が見えます。 石積みの斜面に、お地蔵さまを安置した祠が組み込まれています。 右折して少し南に歩むと、「海宝寺」の山門があります。石段の右側手前に、駒札が立っています。 山門右側の門柱には、「普茶 大本山 開祖道場」の木札が掲げてあります。福聚山と号する黄檗宗のお寺で、黄檗宗萬福寺開祖・隠元禅師が中国から伝えた精進料理「普茶料理」を供するお寺として知られ、「普茶開祖道場」と呼ばれています。 山門の板蟇股、鬼瓦と獅子を彫刻した飾り瓦 山門を入ると正面方向、境内の中央に西面する「本堂(仏殿)」が見えます。 「海寶禅寺」と刻した扁額が掲げてあります。享保年間(1716~1736)に、萬福寺12代・杲堂禅師により創建され、萬福寺13代・竺庵淨印禅師の隠居所となったそうです。京都伏見に店を開き、当初は大文字屋福助と号した下村彦右衛門正啓は竺庵禅師に帰依し、浄財を投じ伽藍を築いたと言います。(駒札、資料1,2)竺庵禅師が「中国から来日したさい持ち込んだ多くの織物や器物を商わせ、大もうけさせたのが下村彦右衛門」(資料1)だったとか。下村彦右衛門は古着屋から身を起こし、現在の百貨店・大丸の基礎を築いた人です。(駒札、資料1,2) 正面から本堂(仏殿)内を拝見しました。 色鮮やかな幕には、火焔宝珠の両側に黒龍が向かい合う姿で刺繍されています。 本尊は聖観音座像です。 本堂から北西方向に白壁の宝形造の御堂が見えます。 本堂と上記の御堂との間にこの「伊達正宗の伏見屋敷」と題した案内板が設置されています。「この海宝寺境内を含む『桃山町政宗』は独眼竜の異名をとった仙台藩の藩祖・伊達正宗の伏見上屋敷があったところである。 政宗は文禄4年(1595)、豊臣秀吉からこの伏見に屋敷地を与えられ多くの重臣やその妻子などを住まわせた。その数は常時千人以上にも及び、屋敷一帯は『伊達町』とも称されたという。政宗自身は慶長4年(1599)ころまでここに住み、慶長6年に上洛した際にも約1年間を過ごしている。 政宗の伏見屋敷は、この地のほか、上屋敷の南西にほど近い場所と深草の地に下屋敷があり、□□箇所であったとされる。深草の下屋敷付近には現在も、『深草東伊達町』『深草西伊達町』の地名があり、その名残を留めている。 仙台市」(転記、二文字不明。「計三」か)伊達正宗は「この地に屋敷を構え、伏見城濠の樋門の守備役をつとめた関係上、寺の背後には今なお樋の址というのが残っている。またその傍には開山杲堂と竺庵禅師の石塔がある」(資料2)そうです。手許の「伏見城図」(資料3)を見ると、「仙台中納言政宗」の屋敷地に添ってその北側と東側は堀が描かれています。屋敷地の南は上板橋筋に至るまでの広さです。また、現在の地図を見ますと、この海宝寺から南は上板橋通まで、そして東に広がる区域が「桃山町政宗」です。かつて堀があった場所は、全て埋め立てられて住宅地化しています。 木斛(もっこく)の木は伊達正宗遺愛の木とか。(資料1)「区民の誇りの木 モッコク」と記された木札が傍に立っています。 右隣りには「次世代樹 政宗の木斛」が育ってきています。 本堂の北側には奥(東)に導く通路があります。 多分、客殿の玄関でしょう。その背後に方丈があるようです。伊藤若冲が寛政2年(1970)に方丈の襖絵「郡鶏図」を描きました。「この画は若冲が、かつて竺庵禅師に画を描きたいと申し出てことわられ、次代の僧を待って描いたといわれる若冲晩年の作品である。またそれよりのちは画を描かなかったというので、この部屋を『若冲筆投げの間』とも呼ばれる」(資料2)とか。この「群鶏図障壁画」は現在、京都国立博物館所蔵となっています。手許の特別展覧会図録「若冲 没後200年」を確認しますと、この時展示されています。若冲は、方丈に水墨で群鶏図を描きました。「右回りに襖四面、壁貼り付、襖二面、床壁貼付からなっており、床壁貼付の中央部60cmほどが何ゆえあってか喪われているが、ほぼ往時の状態のまま残存したものといえよう」(資料4)と説明されています。一方、同年に若冲は大阪府・西福寺の「仙人掌(さぼてん)群鶏図」を金地着色という濃密さで襖六面、そして水墨で「蓮池図」(旧襖六面、現在は掛幅六幅)を描いています。晩年といえども、若冲は旺盛な制作意欲に溢れていたようです。尚、図録に併載の若冲の略年譜を読みますと、それ以降も群鶏図をいくつか描いていますが、襖絵としての群鶏図は描いていないことがわかります。(資料4) 玄関屋根の鬼瓦 振り返った景色。 境内に井戸が設けてあります。屋敷があった頃からのものでしょうか。そんな想像をしたくなります。左側が本堂の屋根。右側がこの後拝見する御堂です。 ブルーのシートで覆われている箇所を傍で見ると、大きな「魚鼓(魚板)」が吊り下げてあります。「魚鼓は食堂・庫裡の軒先などに吊して、木槌で打ちならして告知に用いた。魚は日夜眼をひらいているので、寝をわすれて努力するいましめとした。」(資料5)という禅宗の法具です。軒先ではなく、独立して設けてありますので、この北側に庫裡が位置するのでしょう。冒頭の景色でいえば、開口部から左(北)に回り込んで行った先にあたります。 魚鼓の西側に建つのがこの御堂です。宝形造の屋根に漆喰壁の土蔵造りのようです。正面に唐破風の屋根があり、両側に同様に宝形造の小屋根の覆屋が付いています。 扉の上にこの扁額が掲げてあります。残念ながら私には判読できません。 宝形造の屋根の鬼瓦。 唐破風屋根の正面の鬼板。中央の開花した花の立体的な彫刻が印象的です。軒丸瓦には「丸に並びの鷹の羽」の家紋がレリーフされています。寺紋? 不詳です。この紋は武人に好まれ、「浅野家や肥後の菊池一族の紋であったことでも有名」(資料6)なようですが・・・・。 御堂の西側に設けられた小祠。素朴ですが頭貫の上に龍が彫刻されています。 その西隣りには、拝所が設けられた稲荷社があり、 覆屋のあるもう一つの小祠も祀られています。何を祀るのか詳細は不詳です。自由に拝観できる範囲を巡ってみました。 それでは、伏見城周辺めぐりを続けましょう。 海宝寺の前は、南方向への道路が真っ直ぐにのびています。この道は「伊達街道」と称されたそうです。(資料1)海宝寺から道路を挟んだ西側は上板橋通(上板橋筋)まで桃山最上町の区域です。つづく参照資料1)『新版 京・伏見 歴史の旅』 山本眞嗣著 水野克比古撮影 山川出版社 p142-1432)『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p97-983)「豊公伏見城ノ圖」 藤林武監修 作成・発行 吉田地図販売株式会社 (太閤摂政関白太政大臣正一位豊臣秀吉公泰平御代御旗本諸大名御屋敷之圖)4) 文化財保護法50年記念事業『特別展覧会 没後200年 若冲』 京都国立博物館 2000年5)『図説 歴史散歩事典』 監修 井上光貞 山川出版社 p3786) 【家紋名】 丸に並び鷹の羽 :「家紋ドットネット」補遺海宝寺 :ウィキペディア竺庵浄印 :「コトバンク」西湖図 山本若麟筆、竺庵浄印題 :「文化遺産オンライン」普茶料理について :「萬福寺」海宝寺 :「一休.com」下村彦右衛門 :「コトバンク」下村彦右衛門 :「企業家ミュージアム」大丸の歴史 :「大丸松坂屋百貨店」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・伏見 伏見城址周辺その2 -1 津知橋筋と栄春寺 へ探訪 京都・伏見 伏見城址周辺その2 -3 伊達街道・上板橋筋・清涼院 へ探訪 京都・伏見 伏見城址周辺その2 -4 北堀公園(北側の外堀遺構)・八科峠 へ
2021.11.07
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11月3日、伏見に所用があり出かけた序でに、伏見城址周辺の続きとして北辺部を歩いてみました。伏見城の外堀の北辺にあたる位置に近いのは、京阪電車墨染駅または近鉄京都線伏見駅です。手許の「豊公伏見城ノ圖」(以下、伏見城図と略す)によれば、伏見城外堀の北辺部で堀の内側に添う道路の南に「津知橋筋」があり、外堀に「津知橋」が架けてあります。現在の伏見区の地図では「津知橋通」と表記されています。(資料1)「津知橋」を西詰から撮った景色です。この辺りでは近鉄京都線が高架として斜めに横切っています。この橋を東に渡れば伏見城の城郭内に踏み入ったことになります。当時は武家屋敷の間に一部町家の地域が並存していたようです。 津知橋西詰からの眺め、左は北東寄り、右は南西寄りの方向の流れになっています。この川がかつての外堀に相当します。北側は近鉄京都線架橋の先で東方向に川筋(堀)が曲折します。現在は、京阪電車墨染駅の南、桃山町丹下で琵琶湖疏水伏見運河と繋がっています。ここにかつては琵琶湖疏水伏見インクラインがあったそうです。関西電力墨染発電所が稼働しています。かつての外堀は疎水の延長線としての川になり、「濠川」と称されています。マピオンの地図をこちらからご覧ください。 伏見城下を南北に通る両替町通、京町通を横断し、東に延びる坂道を上って行きます。 津知橋通の南側の民家敷地内に、東向きに地蔵堂が祀ってあります。 さらに東進すると、京阪電車本線の踏切傍の民家敷地にも小祠が南向きに祀ってあります。カーポートの先が玄関です。その手前にあるので、ちょっ失礼して正面から拝見すると、 地蔵堂ではなくて稲荷社でした。こういう形で稲荷社を見るのは初めてです。 踏切を横断し更に進むと、国道24号線との交差点です。桃山最上町の交差点。国道の左側の少し下がる道路沿いにカーブして北に向かえば、直違橋通・本町通と名前が変わって行く、旧伏見街道になります。国道を横断して、津知橋通を東進する前に、国道の東側を少し北に入ります。 石標の南面に「栄春寺」と刻されています。道路に面した西面には「長沼澹斎先生墓所 従是東三丁 栄春寺墓地」とあります。 石標傍に立つ駒札手許で常用する数冊の京都案内書にはこの寺についての記載がありません。この駒札とネットで得られた情報から要点を箇条書きにします。(駒札、資料2)*栄春寺は、泰澄山と号し、永禄11年(1568)に傳養和尚が開創された。*道元禅師が越後に赴かれた後、320年後に京・伏見に建てられた最初の曹洞宗寺院*現本堂は天保10年(1839)の改築、*本尊は釈迦如来坐像、脇侍 文珠・普賢坐禅坐像。三尊とも泰澄大師の作 徳川家康家臣・酒井重勝が本尊と脇侍を寄進*元禄時代には赤穂藩との繋がりがあり、忠臣蔵関係寺院 浅野内匠頭長矩四十七士、並びに吉良方の供養位牌をまつる栄春寺の所在地は桃山町丹下です。伏見城図をみますと、このあたりに本多丹下成重の屋敷があったそうです。(資料1)丹下はここに由来するのでしょう。 石畳の参道の先に二本の竹で入口を封じた「総門」があります。駒札には、この門を伏見城の遺構と記してあります。総門の手前、左(北)側の築地塀にオープンな出入口があります。そこで、境内を拝見することにしました。境内に入ると、砂利敷きの広場になっていて、北方向にお堂が見えます。 東方向に門があります。 門を入ると参道の傍に置かれた手水鉢 本堂 本堂の鬼瓦 本堂の左斜め手前に小祠があり、石造の薬師如来坐像が祀ってあります。一旦、参道を引き返し、広場に戻ります。 広場の西側に、待合所のような休憩所が寄贈されています。 これが「観音堂」のようです。文化11年(1814)の建立で、西国三十三所観音と聖観音が祀られています。また、この観音堂の天井には、1600年(慶長5年)に東軍・徳川家の家臣・鳥居元忠らが西軍・石田三成に破れ、自刃した伏見城の遺構が使われていて、血天井と言われています。余談ですが、東山七条にある養源院にも、血天井として遺構が残されているそうです。(資料2,3) 観音堂屋根の鬼瓦観音堂の西側を北に向かいます。 「慈母観音立像」が建立されています。その手前に石標が建てられています。「昭和46年2月管長岩本勝俊禅師に随行して印度の釈尊佛跡巡拝の折、誕生の地ルンビニ、成道の地ブダガヤ、初転法輪の地サルナート、入滅の地クシナガラの四大佛跡の石を頂き、釈尊の分骨として、ここに納めた観音様である。お釈迦様の大きなお慈悲のもとに安らかに眠るように水子の霊を祭り且檀信徒の納骨所と定める。 入竺沙門 当山十七世守塔 竺雲昭延 謹書」(転記) その北側には、無縁仏を集めたと思われる一画があり、境内墓地への階段があります。この階段のある高まりが、「伏見城城下町の惣構えの唯一原形をとどめる土塁の遺跡」の端にあたる感じです。階段を上ると、東の方向に墓地が広がっています。駒札によれば、「中央に江戸時代の代表的兵学者、長沼澹斎の墓と文化3年(1806)会津藩主建立の碑誌がある」と言いますが、今回は墓地の入口から墓地全景を眺めるだけにとどめました。 階段を上がったすぐ近くに石塔と南面する大きな墓碑が見えます。私には判読不可。詳細不詳です。 そのすぐ近くに、もう1基、西面する形で同規模の墓碑があります。こちらは家名を記した先祖累代墓でした、墓域前の石灯籠の形に関心を抱いた次第です。この辺りで、栄春寺を辞し、 津知橋通を更に東に上っていきます。通りの突き当たりに「海宝寺」があります。突き当たりまでの通りの両側は桃山最上町です。 地蔵堂が一箇所目に止まりました。ここのお地蔵さまには化粧がみられませんでした。伏見城図を見ますと、このあたり比較的小さな屋敷の地割りと町家が記入されています。その中で一番大きな屋敷が最上駿河守義光です。最上はここに由来するようです。つづく参照資料1) 「豊公伏見城ノ圖」 藤林武監修 作成・発行 吉田地図販売株式会社 (太閤摂政関白太政大臣正一位豊臣秀吉公泰平御代御旗本諸大名御屋敷之圖)2) 泰春山栄春寺 ホームページ3) 栄春寺 ;「京都 kyoto」補遺豊臣秀吉が築いた「伏見城」と伏見の街 :「三井住友トラスト不動産」伏見城と城下町 :「月桂冠」長沼澹斎 :ウィキペディア長沼宗敬 :「コトバンク」兵要録. 巻之1-22 / 長沼宗敬 著 :「古典籍総合データベース」(早稲田大学図書館) ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・伏見 伏見城址周辺その2 -2 海宝寺(伊達正宗屋敷址)へ探訪 京都・伏見 伏見城址周辺その2 -3 伊達街道・上板橋筋・清涼院 へ探訪 京都・伏見 伏見城址周辺その2 -4 北堀公園(北側の外堀遺構)・八科峠 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都・伏見 伏見城址周辺 -1 川傍の道標・お地蔵さま・大善寺(六地蔵)・御陵へ 5回のシリーズでご紹介しています。
2021.11.06
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最初に慶沢園マップ(追記版)で場所をご紹介します。左下に慶沢園の入口があり、茶室「長生庵(ちょうせいあん)」は池の北側、北端にある出口に近い、東側で少し小高くなった場所にあります。以前に慶沢園を訪れたときには、垣根越しに眺めただけでした。この長生庵は別途料金にて茶室や句会に利用できるそうです。再び訪れた日は、たまたまですが建物内を展示会場にした企画で使用されていたようです。お陰で建物近くを巡り外観を撮る事ができました。ラッキーでした。 長生庵へのゆるやかな坂道を上ります。 道なりに進むと、「お茶室 長生庵」と記した駒札が立っています。 そして、垣根の門が開いていましたので、意識せずに門をくぐりました。 建物の玄関口。玄関の間には屏風が立ててあり、関係者の人の姿が見えました。特に声をかけられることもなかったので、玄関口を拝見して建物の外周を拝見することに・・・。 玄関に向かい左斜め前から撮った全景です。 建物の左方向に回り込むと、茶室の躙口のある側面が見えました。 玄関口を眺めた建物の側面です。こちらが母屋になるのでしょう。茶室「長生庵」は武者小路千家様式の茶室だそうです。母屋の障子が開放されていますので、室内を縁側から拝見。 八畳間の広さのようです。炉が切られていますので、書院式茶室として使われるのでしょう。 この時は、様々な作品展示の企画で使用されているのだと推測しました。 草庵式茶室の方に近づいていきましょう。 茶室の床の間にはオブジェ風の作品が展示されていました。茶室を左側に回り込み、向こう側まで歩みます。 戸が開けてあったので、茶道口側から茶室内を眺めることができました。 茶室近くの露地には、「濡鷺形(ぬれさぎがた)」の一種と思える石灯籠が置かれています。(資料1)茶室の建物周辺と室内の一部を露地から拝見し、咎められることなく茶室傍から立ち去ることができました。 北門(出口)を出てから振り返って撮った景色。旧藤田家正門がこちらに移築されたそうです。 北門は白い築地塀が周囲を囲み。美術館側敷地の北側の境界の築地塀と一帯になっています。 北門の外、北側も公園風の緑地があり、その外側の境界がこの築地塀です。こちらはあくまで出口側ですので、入園はできません。 北東方向の景色外に出ると、一段高いところに居ることがわかります。前方眼下には「河底池」があり、朱塗りの橋「和気橋」が見えます。平安時代に、和気清麻呂(わけのきよまろ 733-799 )が大和川や河内湖の排水と水運のために上町台地を横断する開削工事として堀川を掘ったのですが失敗したとか。その名残りがこの池だと言います。諸説あるとも・・・・。(資料2,3)地図を確認しますと、朱塗りの橋の先、彼岸の北東方向には「堀越神社」があり、朱塗りの橋の此岸の近くに「統国寺」があります。 目の前にあるのが茶臼山古墳です。 美術館の前に戻って来ました。慶沢園を散策する形で、美術館の周囲を反時計回りに歩いてきたことになります。 美術館の正面を通り、天王寺の駅にもどります。このとき、作家・林芙美子のモニュメントに気づきました。「めし」という作品に出てくる通天閣についての一節が刻されています。冒頭の文の書き出しが過去形になっている訳は、以前にご紹介した記事でふれています。 慶沢園の南側の築地塀沿いの道路を歩いて天王寺駅に向かいます。白い築地塀に知ってほぼ真っ直ぐな道路を歩く途中で、立ち止まり、歩いてきた道を撮り(左)、これから歩む先を眺めて撮ってみました(右)。あらためて敷地の広さを実感しました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*入園時にいただいたリーフレット*『図説 歴史散歩事典』 監修 井上光貞 山川出版社1)『和の庭図案集』 design book 建築資料研究社 p122) 河底池 :「Deep Experience」3) 茶臼山古墳 :ウィキペディア補遺長生庵(茶室) :「大阪市」濡鷺型灯籠濡鷺型灯籠 :「広島ぶらり散歩」天王寺公園 河底池と水生花園 :「レトロな建物を訪ねて」堀越神社 ホームページ統国寺 ホームページ林 芙美子 :ウィキペディア通天閣 公式サイト ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 大阪・天王寺 慶沢園をふたたび散策 -1 へスポット探訪 大阪・天王寺 慶沢園をふたたび散策 -2 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 大阪・天王寺公園内 慶沢園 睡蓮の咲いている時季に訪れたまとめです。
2021.11.04
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飛石を伝い小島に移って、東岸を眺めます。 東岸に、小石が敷かれた州浜が見えて、その先に大きな石が見えます。州浜は、「本来は、土砂の堆積により出入りの多い海岸線の持つ浜辺を指すが、庭園では池の水辺にゆるい勾配をつけて小石を敷き詰めた護岸手法をいい、これは庭の景観の重要な構成要素ともなる。」(資料1)州浜の手法は、奈良時代の平城京の発掘で発見された庭園で使われてることが確認されています。類似の手法は、中国・唐時代の庭園遺構でも発掘されているそうです。しかし、その手法が発展した形跡はみられないらしく、「州浜の定着・発展は日本独自のものとみなすことができる」(資料1)そうです。 ズームアップしてみますと、「龍頭石」です。 州浜の南端に石灯籠が置かれています。雪見灯籠です。 小島と岸に架かる切石橋 岸に降り立ち、四阿から右方向に目を転じていきます。 橋のそばから石段を上りと園路は石敷です。切石橋を振り返った景色です。ゆるやかな石敷道を上りきり、 四阿側を眺めた景色。石敷道は小島へ導き、真っ直ぐに進めば四阿に導く園路です。 東岸の方へ園路を歩みます。 マップで位置関係をイメージしてください。 龍尾石がどこかが解りづらいのですが、岸辺のこの岩辺りがそれかも・・・・。 園路は石段道で少し上りになります。西岸の広場の西に現在は大阪市立美術館が建っています。住友家があった頃は、本邸がその辺りに位置したそうです。つまり、西岸からみれば、ほぼ反対側の東岸に築山が位置したことになり。石段の園路である理由が頷けます。 池側を眺めると、樹木の間に、龍頭石が垣間見えます。慶沢園マップよれば、この東岸は躑躅(つつじ)が咲くエリアのようです。 木々の間から中島を眺めると、島に石灯籠が見えます。 少し歩み位置を変えて眺めると、石燈籠の姿が一層分かりやすくなります。石灯籠は池中の礎石と中島の地面を跨ぐような形で立っています。「琴柱形(ことじがた)」の石灯籠です。(資料1) 「舟形石」が岸辺に見えます。 園路は、一部、飛石の道になります。右奥を眺めると、樹木が繁茂し薄暗くてみづらいですが、滝が設えてあります。池に水が流れ入る淵源となる滝です。滝は池の北東側にあります。 北東側の岸から、中島と西岸を眺めた景色 美術館の建物が西岸の広場の先に見えます。 北岸に設けられた休憩所 北岸から眺めた龍頭石と州浜 舟形石が見える 滝近くの飛石の園路 池中の石と薄 円を刳り抜いた石が立っています。蝋燭を立てて燈籠代わりに使われるのでしょうか。 池辺が小さな入江状になった箇所に橋が架かっています。池の岸辺に変化を生み出しています。 この辺りには花菖蒲が咲くそうです。 中島の先にアベノハルカスの高層ビルが見え、池面にその姿を映じています。 園路を進み振り返った景色中央奧の樹木の枝の下、生垣との間に、上掲の円を刳り抜いた石が見えます。 池の北西隅はゴツゴツとした岩山風の景色が造られています。 西岸の北端側から眺めると、池はほとんど写らず広場の先の樹林の中に四阿があり、背後には間近にアベノハルカスが迫っている感じの景色が現出します。西岸の州浜の傍まで行かなかったのが少し心残りです。この後、北にある茶室を経由して出口(北門)に進みます。つづく参照資料*入園時にいただいたリーフレット1)『岩波 日本庭園辞典』 小野健吉著 岩波書店2)『和の庭図案集』 design book 建築資料研究社 p14-15補遺雪見灯籠 :「コトバンク」雪見灯篭のサイズの違い2.0尺2.5尺を比較 :「杉田石材店」琴柱灯篭(国産) :「株式会社杉田石材店」兼六園の徽軫灯籠(ことじとうろう)の由来は?実は何度も倒されている!? :「おくりびより。」脚付型石燈籠 :「京都の庭園資材」(京都府造園協同組合)石灯籠類 :「京都の庭園資材」(京都府造園協同組合) ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 大阪・天王寺 慶沢園をふたたび散策 -1 へスポット探訪 大阪・天王寺 慶沢園をふたたび散策 -3 へ
2021.11.03
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庭園入口 2018.6.1に慶沢園をご紹介しています。異なる時季の慶沢園を再訪し、あらためてその景観を楽しんでみました。 この慶沢園入口手前、右側に受付所があります。入園チケット代わりにいただいたのがこのリーフレットです。これを参照しつつ、ご紹介します。 入口手前の左側にこの案内板が設けてあります。ここはもと住友家茶臼山本邸内の庭園です。住友家第15代吉左衛門により、この慶沢園が造営されました。木津聿斉(きづいっさい)が設計し、第7代小川治兵衛(植治)が施工したそうです。植治は平安神宮神苑、円山公園などの庭園を手掛けている有名な庭師です。明治41年に着工し、大正7年(1918)に完成しました。ところが、大正10年に住友家が転宅することになったそうです。その後、昭和元年(1925)に、住友家がこの慶沢園を含む茶臼山一帯の土地を大阪市に寄付されたと言います。慶沢園の名の由来は、案内文の末尾に記されています。 庭園に入り、入口の門を眺めた景色 入口から少し北側にこの庭園マップが掲示されています。「現在地」のところです。そのマップに、上掲リーフレットに掲載のマップを参照し各箇所の名称を追記しました。この庭園は大名庭園風の林泉回遊式庭園で、白い石の州浜が東西の両岸辺に設けられています。池泉回遊式庭園という用語があります。池泉は「庭園の池」のこと。「大規模な池庭を中心に、露地・枯山水の様式を総合した江戸時代の庭園様式」が回遊式庭園と称され、池泉回遊式庭園とも呼ばれます。「広い敷地に大きな池を中心として、築山・平場などをしつらえ、御殿や茶室・四阿などの建物を随所に配する構成を持つ。それらの建物を結ぶ園路は、飛石や階段を交えながら池岸や築山をめぐる。」という庭園です。(資料1)一方、林泉は「中国に起源を持つ池庭の雅称」で飛鳥時代には既にこの言葉が用いられていたそうです。「江戸時代には庭園の雅語として比較的よく用いられ、『都林泉名勝図会』(1799年)の所載庭園からもうかがえるように、池庭に限らず枯山水をも含む庭園一般を指す語として用いられた。」(資料1)と言います。つまり、池泉回遊式庭園と林泉回遊式庭園は意味合いは同じということになりますね。 入口の近くから北方向を眺めると、砂利敷の広々とした広場が広がっています。池の周りの園路を反時計回りに散策していきます。 まず目に止まるのが、この長い「切石橋」です。切石は「整形に加工された石材の総称。・・・・形状としては直方体の角石と板状の板石との分類できる。」(資料1)つまり平面が長方形の板石を使っている石橋です。画像上端の中央に小さく見えるのが、庭園の出口(北門)です。これは旧藤田家の正門を、慶沢園が再整備されて1958年4月に再開されるにあたりここに移築したとか。(資料2) 切石橋西側の池部分 切石橋近くから東側に広がる池を眺めた景色色 池の南辺沿いの園路を進みます。 四阿(あずまや)の手前の景色。左に四阿(休憩所)が見えて来ます。 「あずまや」は、「庭園内で、小休憩を兼ねて眺望や談話、時には飲食などを楽しむための小建築物」(資料1)です。ここでは四阿と記されています。東屋と書いて「あずまや」と読みます。「『四阿』(『阿』は、ひさし、のき、の意)は本来、四方に屋根を葺き下ろした建物一般をさし、日本での用例は、『続日本紀』天平14年(742)正月1日条までさかのぼる。」(資料1)そうです。「東屋(あずまや)」は、「東国(関東地方など)の田舎屋の意味で発生したと考えられる語である」(資料1)とか。「庭園内の『あずまや』に『四阿』の文字をあてるようになったのは、四方葺き下ろし屋根のものが多くを占めることによるものであろう」(資料1)とのことです。 四阿の正面に立つと、右手前に蹲踞(つくばい)が設けてあります。 石臼が利用されています。 リーフレットから切り出してみました。四阿に入って、ガラス窓越しに北方向に広がる景色を撮った全景です。当日、先客が中央窓際に座っていたので、写真が撮れませんでした。その代用です。天井は矢羽根の網代、土間は那智黒が敷き詰められています。 西寄りの窓辺から北西寄りの池面の眺め。大きな鯉がたくさん遊泳しています。水面には睡蓮が。窓辺から北方向には、池の中央に中島が見えます。訪れた時は中島に脚立を置き、数名の庭師さんたちが黒松などの剪定作業を行われていました。作業中の景色になるので、写真は撮りませんでした。 東寄りの窓から、中島の東辺部を含む北方向の景色です。 東寄りの窓辺から北東寄りに眺めた景色 東側の窓から東南側を眺めると、園路から四阿の東側にある小島に渡る飛石が設けてあります。 小島の一部四阿を出ます。 四阿前から東への園路 四阿の先に、大阪市立美術館のベージュ色の建物が見えます。 四阿の東側面です。四阿は池中に張り出して建てられていることがわかります。池中に置かれた大きな礎石の上に柱が立っています。 飛石を踏み渡り、小島に入ってみます。その途中、東方向に小島と園路を繋ぐ切石橋が見えます。 小島の切石橋を撮った景色です。 園路に戻ります。つづく参照資料*入園の折にいただいた案内リーフレット1) 『岩波 日本庭園辞典』 小野健吉著 岩波書店2) 慶沢園 :「Tenyu Sunjo.jp」補遺慶沢園・茶臼山 :「大阪市」慶沢園 :「大阪市」数寄者・住友春翠と茶 ― 住友コレクションの茶道具と香道具 ― :「泉屋博古館東京」藤田邸跡公園 :ウィキペディア旧藤田邸庭園 :「大阪市」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 大阪・天王寺 慶沢園をふたたび散策 -2 へスポット探訪 大阪・天王寺 慶沢園をふたたび散策 -3 へ以前にご紹介した記事です。時季が違うこちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 大阪・天王寺公園内 慶沢園 睡蓮の咲いている時季に訪れたまとめです。
2021.11.02
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地下鉄御堂筋線天王寺駅でおりて、天王寺公園エントランスエリアから大阪市立美術館に向かいます。「てんしば」という看板がまず目に止まりました。こちらに来るのは久しぶりで、以前に見かけた記憶がありません。 公園内を西方向に進みながら、北方向で見に止まったのがこれ。天守閣を模しているのがおもしろい。目的は何かは不詳。これもまた初めて気づきました。 東西方向に、芝生の広場が広がっています。東南方向にアベノハルカスの高層ビルが見え、広場の西端には動物園の入口の建物が見えます。やがて、右方向に 「旧黒田藩蔵屋敷長屋門」です。 石標の側面に刻された説明「現在中之島三井ビルの場所がおおむね福岡黒田藩の蔵屋敷で、これはその長屋門である。数少ない蔵屋敷遺構の一つで昭和8年三井ビル建設に際し、大阪市に寄贈された。」(説明文転記) 長屋門を通り抜け、振り返った景色。アベノハルカスがすぐ傍にある感じに・・・。 美術館へのゆるやかな坂道を上ります。10/13に訪れたのは、標題に記した「聖徳太子 日出づる処の天子」を鑑賞するのが目的です。特別展の会期は10/24に終了しました。覚書を兼ねてのご紹介です。 坂道の左(南側)にはこの「いのちいきいき」と題するブロンズ像が展示されています。 大阪市立美術館は西面する形で建っています。 正面の石段を上って、会場へ 入場チケットの半券 こちらはこの特別展のPRチラシの表紙。A4サイズの二つ折です。会場内は撮影禁止でした。このチラシの掲載画像を後ほど引用しご紹介に加えます。 図録の表紙これは当日購入した図録。ここまでで繰り返し出ているのは、「聖徳太子童形像・四臣像」(大阪・四天王寺蔵)の部分図です。室町時代・15世紀の絹本着色の掛幅。童形立像の下部に、4人の人物が座して太子を礼拝しています。右側に蘇我馬子と新羅聖人日羅(にちら)、左側に百済博士学哿(がっか)と高句麗法師慧慈(えじ)です。 図録の裏表紙こちらは桃山時代・17世紀の作で、太子立像の下部には、六臣が太子を礼拝する姿を描いています。図録には掲載されていますが、出品目録には掲載なし。ここでは展示予定外だったか変更されたということでしょう。参考にご紹介します。こちらには右に小野妹子、左に聖明王太子阿佐の2人が加えられています。いずれも聖徳太子との関係が深かった人々です。会場で数多くの聖徳太子像を眺めていくと、相対的に眉毛が吊り上り気味に表現されているのが多いという印象を抱きました。 館内に入ると2階が第1会場で、1階が第2会場になっています。第1会場を巡り終えて、1階に移る前に撮った館内の景色です。今回は5章構成で展示されていました。章順にご紹介します。令和4年(2022)、聖徳太子(574-622)が没して1400年を迎えます。「100年に一度の節目にあわせ、太子の生涯をたどり、没後の太子信仰の広がりをご紹介する展覧会」(チラシより)という位置づけで、この特別展が開催されました。鑑賞した全体の印象として絵伝と様々な年齢・時期の太子像をメインに据えて展示されているなと思いました。太子を偲び信仰の対象とすることの結果、それだけ多くの作品が作られてきたということなのでしょう。<第1章 聖徳太子の生誕-太子の面影を追って-> 最初に展示の「聖徳太子絵伝」(重文、大阪・四天王寺蔵)は、鎌倉時代・1323年.遠江法橋筆の掛幅です。150.3cm×83.5cmというサイズの掛幅が6幅ずらりと壁面に掛けられています。聖徳太子の生誕から埋葬までの重要な場面をびっしりと描いてあるのは、やはり壮観です。絵伝を前にして、太子の生涯を諄々と説かれていくと、聖徳太子のイメージが脳裡に定着していくだろうなと思います。この場面は、聖徳太子が27歳の時、黒駒に乗り富士山を駆けあがったと伝わる場面です。 同じ絵伝での最後の場面。聖徳太子が50歳で没し、大阪・磯長廟へ葬られる場面です。この絵から太子は円墳で横穴式石室の中に埋葬されたということがわかります。磯長廟は大阪府南河内郡太子町に所在する叡福寺境内にあります。太子廟には、「前年に亡くなられた母后に続いて太子と妃の二体も埋葬され、三骨一廟」となっているそうです。(資料1)この第1章だけでも、掛幅形式で鎌倉・室町時代の絵伝が3点、絵巻物形式の「聖徳太子絵伝」(江戸時代、大阪・叡福寺蔵)、絵草子形式の「聖徳太子伝」(江戸時代、大阪・四天王寺蔵)が展示されています。木彫像では、立像の二歳像、童形半跏像、摂政坐像(重文)、勝鬘経講讚坐像(重文)がまず展示されています。四天王寺蔵の「丙子椒林剣」(国宝、飛鳥時代・7世紀)、「鳴鏑矢」(重文)や、「十七条憲法」(重文)、「法華義疏」「維摩経義疏」なども展示されています。<第2章 聖徳太子信仰の広がり-宗派を越えて崇敬される太子>ここには勿論、様々なタイプの聖徳太子童形像が展示されていました。1つめは、「聖徳太子童形坐像・二王子像」(平安時代・12世紀、兵庫・鶴林寺蔵)と「聖徳太子童形立像・二王子像」(鎌倉時代・13世紀、大阪・大聖勝軍寺蔵)です。脇侍の二王子とは太子の弟・殖栗王(えぐりおう)と太子の子・山背大兄王(やましろおおえのおう)です。2つめは、「聖徳太子童形立像・二王子像・二天像」(重文、鎌倉時代・13世紀、兵庫・鶴林寺蔵)で掛幅の画像となっているもの。さらに二天がくわわるというヴァージョンです。 3つめはこれ。童形立像ですが、生身信仰に基づき頭部に毛髪を植えてあります。植髪太子とも称される像(鎌倉時代、13・14世紀、兵庫・鶴林寺蔵)です。髹漆(きゅうしつ)厨子(重文、室町時代・1436年、鶴林寺蔵)の中に安置されています。 4つめは、柄香炉を手に持つ童形立像(重文、鎌倉時代・1286年、大阪・道明寺蔵)です。これは16歳の像と言います。同様に柄香炉を持つ童形立像が拡幅として描かれています(重文、南北朝時代・14世紀、西本願寺)。5つめは、童形立像ですが、「孝養像」(鎌倉時代・14世紀、東京・坂東報恩寺像)と称される木像です。6つめは、掛幅の「聖徳太子童形像・二童子像」(室町時代・12世紀、奈良・薬師寺蔵)です。三尊の形式で描かれています。 「聖徳太子勝鬘経講讚図」が4点展示されていました。35歳の時、太子は勝鬘経を講義し讃えられたと言います。これはその内の一つで、鎌倉時代・13世紀の作で三重・西来寺蔵の掛幅です。一方、「厨子入 聖徳太子坐像」(鎌倉時代・1295年、東京国立博物館蔵)という形で、聖徳太子が勝鬘経を講義する姿を表したものも展示されていました。「聖徳太子摂政像」(南北時代・14世紀、大阪・四天王寺蔵)は聖徳太子が成人し、漆紗冠(しっしゃかん)を戴き、薄朱色の袍を着して佩刀して坐す姿の掛幅です。この太子摂政像が「釈迦三尊十六羅漢図」(室町時代・15世紀、奈良・発志院蔵)の三幅をセットの中に描き込まれているという図もあります。興味深い信仰の広がりです。この第2章にも、聖徳太子絵伝が5点展示されています。さらに、円伊筆「一遍聖絵」巻2(国宝、鎌倉時代・1299年、神奈川・清浄光寺/遊行寺蔵)中の四天王寺の場面が展示されていました。<第3章 大阪・四天王寺の1400年-太子が建立した大寺のあゆみ> 四天王寺は聖徳太子が推古天皇元年(593)に建立した日本最古の官寺です。1400年のあゆみを名宝とともに紹介するセクションでした。四天王寺境内から出土した飛鳥時代から江戸時代にかけての丸瓦が展示されています。 「四天王寺縁起(後醍醐天皇宸翰本)」の巻末に天皇が捺された手形です。ここにも絵伝が2点、展示されています。四天王寺の仏像としては、「菩薩半跏像(試みの観音)」(重文、白鳳時代・7~8世紀)「阿弥陀如来坐像・両脇侍立像」(重文、平安時代・9世紀)「阿弥陀三尊立像(閻浮檀金弥陀)」(阿弥陀:室町時代・12世紀、脇侍:鎌倉時代・13世紀)「千手観音二天箱仏」(重文、平安時代・12世紀)が展示されていました。変わり種として伝左甚五郎作「虎像」(江戸時代・19世紀)が出ていました。 聖徳太子は勝鬘経を講讚されました。釈迦にまみえ経典に登場する古代インドの女性「勝鬘夫人坐像」(江戸時代・1694年、大阪・愛染堂勝鬘院蔵)が展示されています。「元禄7年に亡き女性を供養するために勝鬘夫人像として造立された」ことが、像底部の朱書銘で判明する類い希な像だそうです。(図録より) 如意輪観音半跏像宮城・天王寺蔵の仏像で平安~桃山・12~16世紀の作。この仏像は『別尊雑記』巻18にその姿が伝わる四天王寺金堂救世観音像の模刻とされるそうです。「本像の尊名は、12世紀頃に太子信仰と如意輪観音が結びつくことで四天王寺救世観音像が如意輪観音とも称されるようになったことをうけてのものであろう」(図録より)とのこと。この像に併せて宮城・天王寺の「四天王立像」が展示されています。これも大阪・四天王寺の四天王像を模した像と言われています。この四天王の相貌は関西で見馴れている四天王像の相貌とは少し雰囲気が異なり、印象に残る像です。宮城・天王寺の寺伝によれば、「聖徳太子が摂津、伊勢、出羽、奥州にそれぞれ建立した四天王寺のうちの奥州四天王寺にあたる」と言います。聖徳太子が4ヵ所に四天王寺を建てたというのは私には初めての見聞です。単なる伝承でしょうか。少し関心が湧きますが、公式の記録はなさそうです。伝承を生み出す何らかの要素はあったのでしょうね。ネット検索で調べますと、宮城県大崎市岩出山に所在し、現在は浄土真宗のお寺だそうです。(資料2)「扇面法華経冊子」(国宝、平安時代・12世紀、大阪・四天王寺蔵)の中から「無量義経」の扇面が展示されていました。扇面に下絵が描かれその上に経文が写されています。華麗さが漂う作品です。<第4章 御廟・叡福寺の聖徳太子信仰-太子が眠る地>複数の古い時代の境内図や白鳳時代・666年の小さな「弥勒菩薩半跏像」(重文、大阪・野中寺蔵)が展示され、ここにも絵伝が2点出ています。江戸時代・18~19世紀の作ですが「聖徳太子童形椅坐像」(大阪・野中寺蔵)は、童形とはいえ、私は少し大人びた雰囲気すら漂わせていると感じました。<第5章 近代以降の聖徳太子のイメージ・・・そして未来へ -つながる祈り>明治・大正・昭和に造像された聖徳太子の木像3躯と堂本印象筆「聖徳太子・二王子(模写)」(大正~昭和時代、京都府立堂本印象美術館蔵)が展示されています。昭和5年(1930)から昭和33年(1958)にかけて聖徳太子像が使われた日本銀行券が展示されていて、千円札はなつかしさを感じます。山岸涼子作「日出処の天子」の原画が展示されています。昭和の晩期から平成時代において聖徳太子にこの作品を通じてまず親しんだ年代層が生まれていることでしょう。また、蘭陵王、納蘇利という舞楽面をはじめとして、四天王寺舞楽所が舞楽を奉納する際に使用する諸用具が展示されています。現在使用されているものを含めて間近に見られるところが最後のおもしろいところでした。 最後の会場の一角に、江戸時代に制作された「玉輿」と、この「鳳輦」(桃山~江戸時代・17世紀)が置かれています。鳳輦の内に、松下宗琳佛所作「聖徳太子童形半跏像」(令和3年/2021年)が載せてあります。聖徳太子像の造像もまた1400年の時を迎えて、連綿とつながってきていることがわかります。なぜ1年前の特別展かと思っていて、図録をみれば、この11月17日(水)から来年、令和4年1月10日(月)に、サントリー美術館を会場に、東京展が開催される予定が組まれています。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*図録『千四百年御聖忌記念特別展 聖徳太子 日出づる処の天子』 2021-2022*出品目録「千四百年御聖忌記念特別展 聖徳太子 日出づる処の天子」大阪市立美術館1) 上之太子 叡福寺 ホームページ2) 大崎市岩出山:天王寺 :「宮城県の町並みと歴史建築」補遺聖徳太子 :ウィキペディア和宗総本山 四天王寺 ホームページ 聖徳太子とは 聖徳太子絵伝 :「e國寶」絹本著色聖徳太子絵伝(法隆寺献納) :「e國寶」5Gで文化財 国宝聖徳太子絵伝 東京国立博物館・文化財活用センター・KDDI大阪市立美術館 ホームページてんしば ホームページ<アートプロデューサー・彫刻家 田村務さんのページです>:「Human の 会」天王寺(宮城県大崎市) YouTube四天王寺 聖霊会舞楽大法要 YouTube四天王寺聖霊会: 舞楽大法要_打毬楽 YouTube 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2021.10.28
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京都国立博物館で「畠山記念館の名品」を鑑賞し、庭とロダン作「考える人」を眺めた後、JR東福寺駅までいつものルートを戻ります。京博に行く時に長年この道を通りながら、道沿いにある地蔵堂とお地蔵さまを意識して撮ったことがありません。今回はちょっと意識して、道沿いに設けられた地蔵堂で立ち止まってみました。京博の南門入口を出て、七条通を横断し、三十三間堂の東側の道路を南に南大門まで下がります。南大門を通り抜けると右折し、三十三間堂の築地塀前の柵沿いに塩小路通を数十m西に少し進みます。築地塀の西南角辺りの南側に、南方向に抜ける小路があります。左折してこの道を進むのですが、この小路よりほんの少し南に 地蔵堂が見えます(蒔田町)。 このお地蔵さまにはお化粧無しです。 塩小路通の西方向の景色。道路は先で下っています。道路の先には京都タワーが見えます。少し戻り、小路を南に進みます。 小路に面した空き地の角に設けられた地蔵堂。上池田町です。 近づいて格子扉越しに拝見すると、こちらのお地蔵さまは化粧されています。小路は東海道本線・新幹線沿いの東西の道路に出ます。 道路の反対側に橋が架かっています。 東方向 西方向谷底になっている部分に、東西方向に東海道本線(JR琵琶湖線)と東海道新幹線の線路が並んでいます。橋を降りた東西の道路は東に進めば、東大路通の「今熊野」交差点に出ます。通りを横断し、道沿いに南への坂道を下ります。この道路は本町通から東側の一筋目です。 左側に見えるのは大谷高校・中学校のグラウンド。 坂道を下った右側(西側)の町内(本池田町)に地蔵堂が祀られています。 格子戸越しに拝見すると、堂内の石仏は頭部が如来形です。お堂には卍の印が見えますので、如来形石仏がお地蔵さまとして祀られているのでしょう。石仏が転用されることはよくあることです。 少し先、左側には大谷高校の建物の南隣りにグラウンドがあります。このグラウンドの北西隅には、池が設けてあり、かつての一之橋の橋脚の遺物が保存されています。この橋は、かつては本町通10丁目と11丁目の境に今熊野川が流れていて、そこに架けられた石橋です。今熊野川は暗渠化され、そこは道路になりました。 少し先で振り返って北方向を眺めた景色。東側(右)はグラウンドのフェンスです。 東西方向の道を右折しますと、その先が本町通との交差点になります。この建物は、京都市立東山泉小中学校の校舎です。先ほどの池のあるグラウンドはここのグラウンドです。校舎の南側のこの道路を東方向に進めば、東大路通の「泉涌寺道」交差点に至ります。 本町通に入り南に進みます。「泉湯」の看板が見える電柱脇に地蔵堂があります。ここは本町10丁目の南端です。 ここにはお地蔵さま5,6体がまとめて祀られています。 ここにも頭部が如来形と思える石仏が混在します。こちらもまたお地蔵さまにお化粧はみられません。この地蔵堂は辻の北東角に祀られています。辻の南西角は浄土宗西山派の「宝樹寺」、南東角には「瀧尾神社」があります。深草の藤森神社の境外末社だそうです。JR東福寺駅まで、徒歩数分です。結局、この歩き馴れたルートには、地蔵堂が4つ祀られています。ご覧いただきありがとうございます。参照資料『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p49-54こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 京都・下京 京都国立博物館 特別展「畠山記念館の名品」スポット探訪 京都・洛東 瀧尾神社細見 -1 拝殿(天井の龍) 3回のシリーズでご紹介しています。探訪 [再録] 京都(洛東・洛南) 旧伏見街道を自転車で -1 五条大橋、本町通を南へ 4回のシリーズでご紹介しています。
2021.10.25
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七条通に掲示の特別展案内パネル先日、10月9日から始まった掲題の特別展を見に出かけました。 チケット売り場で入場券を購入し、入口で検温手続きをへて、博物館の庭に入ります。 平成知新館前のウェルカム・パネルです。 こちらは平成知新館に入った正面の壁に設置された大きな案内パネル。 いまなら手軽に入手できるこの特別展のPRチラシこうして並べてみますと、今回の展示でハイライトになる作品が様々な組み合わせでデザインされ、案内媒体となっていることに気づきます。思えばいつものことなのですが、今回は特にその点を意識してしまいました。名称はどこかで見聞し記憶にありましたが、関東の立地なので簡単に行くこともできません。今回、関西初の特別展という機会なので鑑賞してきました。現在、畠山記念館は改修工事のため長期休館中とのこと。そのコレクションの中から古美術の名品を京博で特別展として企画紹介できることになったそうです。関東の人には馴染みがあるのかもしれません。畠山記念館は東京・港区白金台の閑静な住宅地に立地しています。創設者は畠山一清(1881~1971)。大正時代に、荏原製作所というポンプの会社を創業した人。金沢生まれで、能登国主畠山氏の後裔だとか。事業のかたわら能楽と茶の湯を嗜み「即翁」と号しました。50年をかけて美術品の蒐集をされたと言います。即翁は蒐集した美術品に押す愛蔵印に「即翁與衆愛玩」(即翁は皆とこれを楽しみます)という言葉を刻んでいます。その思いが、「畠山記念館」となったのでしょう。特別展の副題は「能楽から茶の湯、そして琳派」となっています。この副題に表れていますが、会場全体は、「1章 蒐集の始まりと金沢」「2章 能楽-美意識の支柱」「3章 名品との出会い」「4章 琳派」「5章 與衆愛玩の思い」「6章 畠山即翁と茶の湯」という構成です。展示会場は3階から順次1階へと下る形の巡覧になっています。コロナ禍での警戒宣言が解かれた後のためか、平日に鑑賞に出かけたのですが、警戒宣言下での企画展の時と比べると鑑賞者の数はやはり増えてきていると感じました。それでも以前一部屋にせいぜい数人というのが、5,6人から十数人くらいに増えているという感じでした。特別展の会期が始まった間なし(10/12)に出かけたので、来場状況の一例にしか過ぎませんが。それでは、少し印象を交えつつご紹介します。案内パネルやチラシの作品を部分引用します。<1章 蒐集の始まりと金沢>即翁は、茶道具を中心に東洋古美術を蒐集されたそうです。大正4年(1915)に古九谷の大鉢を購入したのがその始まりと言います。会場には江戸時代の古九谷の皿と鉢が3点展示されています。それに鍋島の皿が2点。その中で、私は「鍋島色絵更紗文皿」の細やかな文様に惹かれました。実際の茶会で使われたという江戸時代の作「猿猴筒釜」と「鉄鍋形風炉」の取り合わせをおもしろいと感じました。即翁が石川県美術館に寄贈したという沢庵宗彭筆「沢庵和尚自画賛」が印象的です。自画像の眉毛が太く黒々と描かれた目に惹かれます。相貌は市井のオジサン風なところがおもしろい。沢庵さんはこんなお顔だったのか・・・・。<2章 能楽-美意識の支柱>能面と能装束の展示です。能面は4点。3点は前期後期で入れ替えされます。室町時代の伝福来作「翁(白色尉)」(前期展示)は満面の笑みが心地良い位です。昭和時代の鈴木慶雲作「景清」の面は通期展示。即翁は能「景清」を生涯に6回演じたと言います。そのときに使った能面のようです。この面は能「景清」にのみ使用されるとか。「平家の侍大将、景清が流人として日向の国で盲目となり、乞食同然に暮らした姿を表した面」(図録より)という説明を読むと、なるほどな・・・と感じる相貌に彫られています。悪七兵衛景清は屋島での「錣(しころ)引き」の武勇で有名な人物。「景清」は能百番の一つで、作者は不詳。四番目物(人情物)に位置づけられています。宮崎市生目、亀井山の生目神社に景清の伝説が伝わっているそうです。(資料1) 上掲の諸媒体で使われているこの加賀前田家伝来の「雲に雪持椿文様唐織」(部分)は後期展示ということで、残念ながら拝見できませんでした。出品一覧をみれば、能装束は前期・後期で総入れ替えの予定です。前期の展示品では、萌黄繻子地金襴の「亀甲鳳凰丸文様袷狩衣」と、加賀前田家伝来品という「雪輪菊青海波文様唐織」が印象的でした。<3章 名品との出会い>この章には国宝や重要文化財が数多く展示されています。前期は国宝が2点。一つは、中国・元時代の因陀羅筆「禅機図断簡(智常・李渤図)」で右側に賛が墨書されています。老松を背に岩座に坐る南宗禅派の法嗣・智常に、中唐の江州の刺史・李渤が『維摩経』の説く難題を問いかける場面だそうです。その難題とは、小さな芥子粒に無限世界の須弥山を納めるというものだとか。この掛幅は即翁が大茶人・原三渓から購入したものと言います。この特別展では。茶道具の名品が茶人間で売買され移転したり、名品を茶人たちが競って購入した経緯のエピソードがいくつか例示されています。こんな側面が見えるのもおもしろいところです。 2つめがこれ。中国・南宋時代の伝趙昌筆「林檎花図」です。「南宋院体花卉画の高水準を示す優品である。」(図録より)と説明されています。丁寧に描かれているなと思いますが、それ以上のことは私には分かりません。 「伊賀花入 銘からたち」(重文)は桃山時代のもの。これは通期展示。焼成時に自然が加える造形結果が器の色合いを含めて思わぬ風趣を出しているのでしょう。焼成時に口が割れたとのこと。鎌倉時代の作品「清龍権現像」(掛幅、重文)は、醍醐寺の鎮守、清瀧権現を垂迹神形に描いたもの。右下に侍立する童女が小さく描かれ、掛幅の中央に白衣を纏った清瀧権現(龍女)が大きく描かれています。この大きさのコントラストが権現の偉容を表象しているのでしょうか。白衣は清浄性の象徴だそうです。目を惹きつける画像です。通期展示品の中に、朝鮮半島・朝鮮時代の「割高台茶碗」(重文)が出ています。ごつごつした割高台がまず目に止まります。素朴さを漂わせる茶碗。目の利く茶人が見れば見どころの多い名物茶碗なのでしょう。当初は古田織部が所持したものだとか。昭和15年(1940)、大卒の初任給が100円にも満たなかった時代、鴻池家所蔵品の売立の際に、即翁が野村得庵らと競り合い、破格の20万円で落札したという逸話のある茶碗だそうです。「即翁の数寄者としての名を世に知らしめる出来事」(図録より)になったとか。一見の意義はあるでしょう。<4章 琳派> 伝本阿弥光悦作「能面 山姥」(通期展示)を筆頭にして、俵屋宗達・尾形光琳・尾形乾山・酒井抱一・鈴木其一の作品が前期・後期の入れ替えで展示されています。乾山焼9点と御室焼2点が通期展示です。山姥の面は能「山姥」で用いられ、山に棲む鬼女の面です。落ちくぼんだ眼窩の奥の目に金輪が描かれています。怪しい目とこの相貌に彫られた面を付け、蝋燭の燈の中で演じられたら恐ろしさが一層際だって感じられるでしょうね。現代の照明のもとでは、その怪しさは少しマイルドになるかもしれません。能百番の一つである「山姥」は五番目物(夢幻的劇能物)に位置づけられています。新潟県西頸城郡青海町上路(あげろ)に山姥神社があります。(資料1)通期展示では、本阿弥光悦筆、俵屋宗達下絵「小謡本」や本阿弥光悦筆「素紙千載集和歌巻」が展示されています。光悦の書が判読できないのが残念ですが、光悦書の雰囲気を感じることはできます。 これは当日購入したこの特別展の図録です。 表紙に使われているのは、「四季草花下絵古今集和歌巻」(重文)で、これも本阿弥光悦筆、俵屋宗達下絵の作品。残念ながら後期の展示予定であり見ることができませんでした。図録を眺めています。 こちらは渡辺始興筆「四季花木図屏風」(重要美術品)で、六曲一双の屏風の左隻です。渡辺始興ははじめ狩野派で学び、晩年に尾形光琳に師事したと考えられているそうです。会場で眺めていて、何種類の花が描かれているのか数えてはいません。図録の解説によれば45種余りが描かれているとか。琳派の流れを汲む描法であるとともに、本草学的な関心が草花の特徴を描き分ける姿勢に現れているそうです。一つ一つの草花を見ていくと、手書きの植物図鑑のような精細さで軽やかに描かれている気がします。色彩のバランスがいいですね。渡辺始興の代表作の一つと言います。この作品も原三渓の旧蔵品だったとか。前期展示では併せて酒井抱一筆「四季花木図屏風」が出ています。こちらは四曲一隻です。同じ四季の花木を題材にしながら、描かれている花木の種類があまり重なっていないのがおもしろい。渡辺始興は右隻に松・桜を描いていますが、全体でみると左隻の楓(紅葉)を木として大きく描いています。一方、酒井抱一は桜の木をメインにしながら草花を描いています。乾山焼の展示の中では「色絵絵替土器皿(黒手)」という5枚で一組の皿が私好みでした。おもしろいのは御室焼の「水玉透鉢」です。胴部に大小二種類の穴が全体にあけられています。この鉢何に使うのだろう・・・・。飾り鉢? <5章 與衆愛玩の想い>ここから1階の展示です。彫刻の展示室フロアーの東端に平櫛田中作「畠山即翁寿像」が置かれています。等身大より少し大きく、仕舞の所作の一つで左膝を立てて坐った姿が写実的象られています。武士の雰囲気を感じさせる像でもあります。中国・明時代の「青花龍濤文天球瓶」(重文)が目に止まります。景徳鎮窯で作られたもので、波濤文様を背景に天に昇る白龍の外形が白地抜きで描かれています。コバルトの青の色が素敵です。 この「蝶牡丹蒔絵螺鈿手箱」(国宝)は鎌倉時代の作。牡丹が咲き誇り蝶が舞う春の姿が蒔絵螺鈿細工で作られています。蝶の姿が様々に象られています。前期展示。もう一つ、前期展示で室町時代の作「三室山蒔絵硯箱」は、川辺に柳と楓の木が茂り、神社の鳥居と境内が近くに見え、烏帽子を被った男と童子が川に架かる橋を渡るところを蓋に描いてあります。三室山の題から推測すれば傍を流れるのは竜田川ということに。三室山と竜田川から推測できるのは、「延喜式」にも載る「神丘神社」です。(資料2)<6章 畠山即翁と茶の湯>最後の章では、23点が通期展示され、前期の30点が後期には入れ替えられる予定です。通期展示の作品からまずご紹介します。 本阿弥光悦作「赤樂茶碗 銘 石峯」(重文)は、厚めの赤楽茶碗の胴が火割れし、そこに金紛繕いが施されています。口縁から胴に白釉がかかっており、この白釉を山巓に降り積もる雪に見立てた所から「雪峯」と光悦自ら命名したと言います。火割れを失敗作とみずに、そこに風趣を見つける逆転の発想が茶の湯の世界のおもしろさなのでしょう。長次郎作「赤樂茶碗 銘 早船」もまた、胴に貫入が幾本入っています。そこに黒漆繕が施されています。利休の所持していた茶碗だとか。 朝鮮半島・朝鮮時代の作で、この「井戸茶碗 銘 細川」(重文)は天下の三井戸のうちの一碗だそうです。細川三斎の所持からこの銘が付いたとか。松平不昧所蔵を経て即翁が入手した茶碗です。 「唐物肩衝茶入 銘 油屋」(重文)です。中国・南宋~元時代の作。銘は元の所有者が堺の町衆、油屋常言・常祐親子が所持していたことに因んだと言います。この名物茶器は秀吉に渡りその後様々な所有者を経て松平不昧の所蔵となっていたものだとか。この茶入の興味深いところは付属品一式が展示されている点です。仕覆が一緒に展示されるのはよくみかけますが、こちらはなんと「計六つの仕覆と四枚の牙蓋、挽家やそれを含む革袋、そして錠前のある外箱など豪華な付属品が添っている」(図録より)のです。こんな展示は初めて見ました。茶入一つの背後の広がりを感じた次第です。花入2点を挙げておきましょう。一つは「古銅象耳花入」で中国・明時代の作。象耳の形が楽しい。少し太く長めの首とちょっと押しつぶした様な胴部とのバランスが絶妙です。もう一つは昭和時代の大野鈍阿作「鶴首花入 鶴の一声写」。細くて長い首を持つ瓶の姿が美しい。利休旧蔵と伝わる金属製の名品花入を陶製で再現したという趣向がおもしろいところです。釉の色調が素敵です。最後に前期展示で私の惹かれた品々の名称等を列挙してみます。 音羽裂蒔絵提重 伝山本春正作 明治~大正時代 19~20世紀 朝鮮唐津手鉢 桃山時代 17世紀 五彩菊牡丹唐草文香炉 中国・明時代 17世紀 住吉蒔絵平棗 江戸時代・19世紀 梅花文筒釜 室町時代 16世紀 「與衆愛玩」の思いと即翁の好みの一端が感じ取れる名品展です。 平成知新館を出ると、次回の特別展の予告パネルがやはり目に止まります。「最澄と天台宗のすべて」(2022.4.12~5.22)伝教大師1200年大遠忌記念の特別展だそうです。さて、「考える人」をやはり撮ってから退館することに。 ウェルカム・パネルを左端に入れての恒例の撮影です。 今まであまり撮らなかった位置から撮ってみました。 庭の木々の紅葉はもう少し先になりそうという頃に訪れたひとときでした。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*図録『畠山記念館の名品』 京都国立博物館 2021*「特別展 畠山記念館の名品 出品一覧・展示替予定表」1)『能百番を歩く』 京都新聞社編 杉田博明・三浦隆夫 京都新聞社 p96-98,p321-3232) 神丘神社・三室山 :「いかすなら」(奈良県歴史文化資源データベース)補遺畠山記念館 ホームページ畠山記念館について :「荏原製作所」松平治郷 :ウィキペディア松平不昧公 :「松江の茶の湯」原三渓 :「コトバンク」横浜本牧三渓園 美のコレクター原富太郎(三渓)日本の美・自然美を愛した原三渓 YouTube琳派 :ウィキペディア琳派とは?知っておきたい琳派の巨匠と代表作 :「This is Media」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2021.10.24
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伏見桃山城から、伏見桃山運動公園の野球場に向かいます。 途中に、京都一周トレイルの道標があります。野球場に向かう道は南側が網状のフェンスになっています。右折して、野球場に向かう道に入ってみました。 野球場越しに眺めた伏見桃山城野球場と多目的グランドの間の道路を南端まで行き西方向に歩いてみましたが、抜ける道はありません。もとの入口に戻り西に進みます。 多目的グランドの北側を通り過ぎ、振り返った景色現在の地図を見ると、伏見桃山城のエリアからこの運動公園の野球場、多目的グランド全体が、「桃山町大蔵」です。かつての伏見城では、御花畠山荘址・徳善丸・大蔵丸という郭に相当する場所になります。「伏見城図」(略称)には、「長束大蔵少輔」と記されていて、町名との対比注釈には「長束大蔵大輔正家」と記しています。町名の大蔵は長束正家の屋敷があったことに由来するようです。(資料1) そのまま進むと、公園を出たところの通路傍にかなり高低差のある滑り台が設置されています。 傍の階段を下って、下から眺めたのがこの景色。「伏見城図」を見ますと、大蔵丸と橋で連結された東側の郭に「山岡道阿弥」の屋敷名が記されています。手許の本に掲載の地図には大蔵丸の東の郭には弾正丸と記されています。滑り台のあるこの場所は堀切だったということでしょう。この景色の右方向、つまり北方向はさらに斜面を下って行くことになります。その途中で、この記念碑「京都・ケルン友好の森」が目に止まりました。京都市はドイツ連邦共和国ケルン市と姉妹都市提携をしているそうです。平成26年(2014)に提携50周年を迎えた記念として、「京都・ケルン友好の森」づくりが実施されたと言います。(資料2)斜面を下ると、東西方向の歩道に出ます。 歩道から眺めると、かなりの深さになる堀が見えます。伏見城北側にあった外堀の遺構です。現在は空堀で堀底が公園として整備されています。この歩道は、郭にある武者走りをしのぶ道として整備されたそうです。(資料3) 歩道を東方向に進みます。 本丸の北に位置する上掲の郭を囲む堀の一部です。伏見城のこの堀は水堀だったのでしょうか。それとも空堀だったのでしょうか。手許の本に掲載の国土地理院の地図には堀部分に「貯水池」という記入があります(資料4)。これがいつ頃のことなのか。調べていて資料を見つけました。「明治41年に陸軍第16師団が深草に設置されましたが、北堀が運用の貯水池となりました。水は東側の宇治川からポンプアップされたそうです。貯水池はその後昭和13年に京都市に移管されて昭和52年に廃止されました」(資料5)とのこと。この伏見山(木幡山)の水源問題と上記の宇治川からポンプアップして貯水池にしたということから推測するなら、空堀だったと考えられそうです。 堀に沿った歩道が南に半円を描く中間点に京都一周トレイルの標識が設置してあります。 歩道の東端です。「伏見北堀公園」碑が設置されています。こちらは南側の出入口です。この出入口で右折し、南東方向に丘陵地の斜面を下っていきます。ここから目指すのは探訪起点の京阪六地蔵駅です。坂道を下り始めると、東側に京都市の広報板があり「伏見区深草大亀谷東安信町」と表記してあります。一方、下り坂の反対側(西側)にも広報板があり「伏見区深草大亀谷安信町」と記されています。「伏見城図」を見ますと、「浮田安心」という屋敷があります。そして、「桃山町安信町・東町」の町名に「浮田(宇喜多)安心忠家」と注記がありますので、安心が安信に転じてはいますがその由来はここにあるようです。(資料1) さらに南に下ると、「紅雪児童公園」があります。桃山紅雪町です。「伏見城図」には、「岡紅雪」の屋敷が、浮田安心の屋敷近くに記されています。「桃山紅雪町」の町名には「岡紅雪子孫は旗本岡野氏」と付記されています。ここも町名は人名に由来します。(資料1)ネット検索すると、ウィキペディアに「板部岡紅雪斎」の項あります。手許の本に、岡紅雪が北条氏の遺臣とあり、上記旗本岡野氏という付記を勘案すると、岡紅雪は板部岡紅雪斎と同一人物のように思われます。(資料6,7)もう一点、現在の地図で見ますと、桃山紅雪町の西側には、深草大亀谷古城山、塚草大亀谷安信町、桃山町三河が南北に隣り合い、その西側に池があります。地図に名称の表記はありませんが、「紅雪池」と称されています(資料3,5)。 現地はアクセスできるかという点も含めて未確認です。位置を考慮すると堀の一部だったと推測します。桃山紅雪町の南隣りは「桃山町遠山」です。広報板に町名が記されています。「伏見城図」を見ると、この付近に「金塚山遠山」の記載があります。「桃山町遠山」の町名には、「遠山民部利景」と付記されています。この名が町名の由来のようです。(資料1)金塚山が何を意味するのか。調べた範囲では不詳です。桃山町遠山の町内を道沿いに下って行くと、府道7号線に出ます。 右(南)方向少しにJR奈良線の高架が見えます。正面(東)には、「イズミヤ」の建物が見えます。終着点の京阪電車六地蔵駅までは後少しです。これで伏見城址周辺の探訪のご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1)「豊公伏見城ノ圖」 藤林武監修 作成・発行 吉田地図販売株式会社 (太閤摂政関白太政大臣正一位豊臣秀吉公泰平御代御旗本諸大名御屋敷之圖)2) 京都とケルンの更なる友好を祈念 「京都・ケルン友好の森」植樹式 :「京都市市民活動総合センター」3)「~文化財と遺跡を歩く~京都歴史散策マップ 9 伏見 桃山」 発行 京都市・(財)京都市埋蔵文化財研究所4)『新版 京・伏見 歴史の旅』 山本眞嗣著 山川出版社 p835)「伏見城の発掘調査」前田嘉明氏 2010年2月27日 第214回京都市考古資料館文化財講座 京都市考古資料館開館30周年記念連続講座「京都 秀吉の時代」第3回6)『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p1287) 板岡部紅雪斎 :ウィキペディア補遺山岡景友 :ウィキペディア歴史散歩 三井寺・光浄院を復興した道阿弥の足跡を検証する。 :「三井寺」長束正家 :「コトバンク」第35回 【構造】堀にもいろいろな種類があるの? :「城びと」宇喜多忠家 :ウィキペディア遠山利景 :ウィキペディア伏見城跡 :ジャパンナレッジ伏見城 都市史 :「フィールド・ミュージアム京都」京都一周トレイル 東山コース紹介 :「京都観光Navi」京都一周トレイルのご案内 :「京都観光Navi」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・伏見 伏見城址周辺 -1 川傍の道標・お地蔵さま・大善寺(六地蔵)・御陵へ探訪 京都・伏見 伏見城址周辺 -2 桃山御陵(明治天皇陵・昭憲皇太后陵) へ探訪 京都・伏見 伏見城址周辺 -3 御陵参道・伏見城の石材・桓武天皇陵への参道 へ探訪 京都・伏見 伏見城址周辺 -4 桓武天皇陵・伏見桃山城 へ
2021.10.19
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前回少し変形的な十字路と書きましたが、X字形の辻と呼ぶ方がわかりやすいかもしれません。左の景色はこの辻から西方向を眺めたところで、道路はすぐに分岐しています。地図を確認すると、左の広い方の道は、桃山町下野の区域を通り南下する道路です。右側の道は、まず桃山町島津と桃山町下野との境界道路となり、その先各区域との境界道路の役割を担いつつ西方向に転じて行きます。手許の「伏見城図」(資料1)を見ますと、この辺りには「島津右馬頭」の屋敷地とあり、現町名に対し「(嶋津)島津右馬頭以久」と付記してあります。島津の地名はここに由来するのでしょう。桃山町島津の北辺の境界が丹波橋通です。「伏見城図」にも「丹波橋筋」が島津屋敷の北端を東西に通るの道として明記してあります。右の景色が桓武天皇陵へ向かう北方向の道です。 参道は分岐します。右折して御陵に向かいます。分岐で道なりに直進すれば少し先で左折し、現在の丹波橋通に繋がる参道部分になります。つまり、この御陵を直接訪れるには、丹波橋通を東に上ってきて、正面参道を歩むということになります。 砂利敷道を進み 北側を眺めると、 南面する桓武天皇柏原陵です。御陵前広場の南東隅からこの広場を撮った全景です。 広場に面した玉垣に近づき、正面を眺めた景色 東から西に目を転じていくとこんな景色です 第二の玉垣の手前に、御陵名を刻した石標が立っています。陵は円墳だそうです。(資料2)桓武天皇は延暦13年(794)に平安京遷都を行いました。奈良時代最後の天皇であり、平安時代の最初の天皇です。この御陵の区域は、現在の地図を見ると桃山町永井久太郎という町名です。「伏見城図」を見ますと、永井久太郎の名はありません。しかし、このあたりに「永井右近太夫」「堀久太郎」の屋敷が記されています。注記として、現町名に対し、「永井右近太夫直勝と堀久太郎秀治」と付記されています。つまり、2つの屋敷址を併せて町名にしたという由来になります。地図にはこの付近、屋敷名で埋められています。逆にいえば、豊臣秀吉の時代には、この地に陵墓はなかったということになります。桓武天皇は806年3月、70歳で崩御。「葛野郡宇太野(うだの)を山陵の地と定められたが、そこが賀茂神社に近く、不敬であったために、洛中にしきりに災異が発生したので、改めて紀伊郡柏原の地に奉葬された」(資料2)と言います。「柏原とは一に栗崎ともいい、深草より伏見につづく茫漠たる原野をいい、天皇は在世中、この地にしばしば遊猟された」(資料2)とか。『延喜式』巻21(諸陵寮)には、広大な面積の表記をして柏原陵のことが記録されています。しかし、朝威の衰えとともに陵墓は荒廃し中世以降にその所在が不明になったのです。「元禄以来、種々調査検討が行なわれ、明治13年(1880)このところを以て柏原陵と決定されるに至った。」(資料2)と言います。さて、先ほどの十字路まで戻りましょう。 十字路を東に行けば、伏見桃山城です。伏見桃山城は昭和38年(1963)3月に遊園地とともに開設されました。そして遊園地は平成14年末に閉園となりました。(資料3)閉園後はこの伏見桃山城にも近寄れないだろうと思い、足を向けたことがありませんでした。そこで、ここまで来たのだから、どこまでアプローチできるか行って見ようと思いつきで足を向けました。この道の突き当たりに行ってみると広い駐車場です。 お城の門は開いています。中に入れそう。朱塗りの橋の右側に駒札が立っています。 平成19年(2007)4月に運動公園の開設により、このエリアが引き継がれたと帰されています。 もう一つ、目にとまったのがこの「伏見桃山城運動公園案合図」です。このエリアを自宅で参照資料で調べてみて、次のことが理解できました。(資料1,3)*伏見城本丸の位置に現在は「伏見桃山御陵」がある。 ここは本丸から堀を挟み北西側にあった郭の場所に伏見桃山城が建てられた。*伏見桃山城は、伏見城の「御花畠山荘址」に建てられている。*御花畠山荘址の東には「徳善丸」、その北東に繋がって「大蔵丸」という郭があった。 「徳善丸」「大蔵丸」に今は「野球場」と「多目的グラウンド」が設置されている。 それでは、門を通って城内に入りましょう。 この伏見桃山城は鉄筋コンクリート製で、大天守閣と小天守閣との連結式城郭の形式です。「大天守の方は、姫路城を参考にし名古屋城と同じ大きさにつくられ、小天守の方は彦根城に模して作られた。」(資料3)と言います。つまり、当時の天守閣の姿とはまったくことなります。時の経過を経て、遠望したときに伏見城のイメージを伝える上では城として定着しているのではないかと思います。伏見城が元和9年(1623)に廃城となった後、この古城山に伏見の人々により桃の木が植えられたそうです。元禄時代(1688-1704)には桃の名所として有名になったと言います。『伏見鑑』には、古城山域の広さを記したあとに、「此所のごとく数万株一所にむらがりあつまりたるはあらず、無双絶景といふべしと貝原益軒もいへり」と記されているとか。この地はいつしか「桃山」と呼ばれるようになりました。 天守閣に近づき石垣近くから見上げることもできますが、周囲には黄色のテープが張られ立入禁止になっています。 振り返って門を眺めた景色 天守閣そばを反時計回りに半周する形でポジションを変えて撮ってみました。 石垣の傍に、「樹霊碑」が建立されています。「昭和の子規」と称えられたという引野収氏の短歌が刻まれています。 その傍にこの案内板も設置されています。1973年に建立された碑がここに移設されたそうです。 樹霊碑から少し離れた位置に、矢穴のある石材が立っています。伏見城の石垣に使われていた石材なのでしょう。 もう一つ、石垣の傍には「京都一周トレイル東山コース案合図」が設置されています。 近鉄「桃山御陵前」駅あるいはJR奈良線「桃山」駅を起点に、伏見桃山城、大岩山、任明天皇陵、稲荷山等を経由し、月輪陵傍までのコース路が掲示してあります。 勿論、近くにこの京都一周トレイルの道標が設置されています。 露とおち露と消えなん我が命 浪花のことも夢のまた夢秀吉の辞世として有名です。この歌のことはかなり以前に何かで知りました。この歌「実は聚楽第が完成したときに詠んだものを大蔵卿局に預けておいたもので、臨終にさいして改めてこの歌に署名をして辞世にしたものだった」(資料3)そうです。ブログ記事を書くにあたり、資料を参照していてこの裏話のことをはじめて知りました。さらに余談ですが、伏見城の沿革に触れておきたいと思います。(資料2,3,4,5)*文禄元年(1592)に指月の森に伏見屋敷が作られます。*次に桃山丘陵南西部に本格的城郭の築城を開始します。文禄3年(1594)時点です。 これが「指月伏見城」と通称で呼ばれています。平地居館として築いた城郭段階です。 この時淀城の天守・櫓を移築したと言われています。 しかし慶長元年(1596)閏7月12日夜半に大地震が起こり城の建物はことごとく倒壊。 後にこの地震は慶長伏見地震と称されます。 このとき加藤清正が一番に秀吉のもとに駆けつけたという逸話が有名です。 指月伏見城の確実な遺構が見つかったのは2009年です。発掘調査は継続されます。*慶長元年(1596)の震災後、直ちに木幡山の山頂に再び築城を開始します。 「木幡山伏見城」と通称される第三段階です。聚楽第の建物・比蘇寺五重塔などを移築。 天守閣を始め建物は順次完成していきます。慶長3年(1598)3月に全体が完成したとか。 しかし、同年8月18日、秀吉は伏見城で亡くなります。*徳川家康が伏見城を預る時代となった後、慶長5年(1600)8月に豊臣方連合軍の攻城により、落城。その後再建されて、徳川の拠点になります。これが第四段階です。 家康・秀忠・家光は伏見城で征夷大将軍の宣下を受けます。秀忠が伏見城廃城を決定し、家光が将軍宣下を受けた後に、伏見城は完全な廃城になります。指月伏見城と木幡山伏見城との位置関係の図を『指月城跡・伏見城跡発掘調査総括報告書』から引用します。思わぬことから、桃山御陵北側の伏見城址を巡ることになりました。伏見城址の北堀の方に出られるという予測のもとに、運動公園を通過し道を探索することにしました。つづく参照資料1)「豊公伏見城ノ圖」 藤林武監修 作成・発行 吉田地図販売株式会社 (太閤摂政関白太政大臣正一位豊臣秀吉公泰平御代御旗本諸大名御屋敷之圖)2)『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p123-1293)『新版 京・伏見 歴史の旅』 山本眞嗣著 山川出版社 p81-844)指月城跡・伏見城跡発掘調査総括報告書 2021年3月 京都市文化市民局5) 伏見城 :ウィキペディア補遺指月 :ウィキペディア豊臣秀吉が築いた「伏見城」と伏見の街 :「三井住友トラスト不動産」第24回【指月城】大地震で失われた城の姿を探る :「城びと」伏見城図 :「ADEAC」豊公伏見城之図 :「伏見通信」日本の名城を訪ねる|第1回 洛中洛外図屏風に描かれた伏見城 「歴史人」 YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・伏見 伏見城址周辺 -1 川傍の道標・お地蔵さま・大善寺(六地蔵)・御陵へ探訪 京都・伏見 伏見城址周辺 -2 桃山御陵(明治天皇陵・昭憲皇太后陵) へ探訪 京都・伏見 伏見城址周辺 -3 御陵参道・伏見城の石材・桓武天皇陵への参道 へ探訪 京都・伏見 伏見城址周辺 -5 伏見桃山運動公園・伏見北堀公園・町名の由来 へ
2021.10.18
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桃山御陵参道を西方向に、現在の地図の表記で桃山町治部少丸という地名区域を横断して行きます。治部少丸というのは、伏見城があった時、石田三成の郭があったところです。しばらく進むと、 参道の左(南)側に駒札と石が見えてきます。 駒札には「伏見城石垣に使用されていたと思われる石材 宮内庁」と記されています。桃山御陵を造成する際に、未だ残されていた石材が出て来たのでこの参道脇に集めて保存したということなのでしょう。豊臣秀吉が伏見城にいたのは僅か5年の間だそうです。その後、徳川家康が城を預ります。関ヶ原の合戦では、その前哨戦として伏見城は落城し主要な建物は焼失。その後家康が修築して、近畿における徳川の本拠地となります。しかし、豊臣氏を滅亡させると、徳川幕府にとって伏見城の存在価値はなくなります。「元和9年(1623)城をとりこわし、おもな建物は京都の社寺に給付し、併せて城中の一木一石に至るまで徹底的にとりはらってしまったから、伏見城は完全に地上から消滅した」(資料1)と言います。京都にとどまらず地方に移された建物もあるようです。余談ですが、伏見城から移築され、京都・滋賀に現存する建物といわれるものを列挙します。(資料1,2) 高台寺の傘亭・時雨亭・方丈・表門、豊国神社の唐門、知恩院の黒門、二尊院の総門 西本願寺の書院・玄関・能舞台・唐門、常寂光院の本堂、実相寺の庫裡・方丈 天龍寺の勅使門、南禅寺の小方丈、南禅寺金地院の方丈、上御霊神社の南門 養源院の本堂・血天井、御香宮神社の表門・拝殿・城石、源空寺の表門 平等院の養林庵書院 近江竹生島の都久夫須麻神社本殿、西教寺の客殿、大通寺の本堂大広間元に戻ります。 柱の礎石用石材か? この石材にはマークが彫り込まれています。誰が工事担当かの識別用刻印でしょうか。 西側から眺めた石材保存の状態 その先にはかなり大きい石材が並んでいます。 少し離れて、もう1ヵ所目に止まりました。 こちらに保存された石材はかなり大きめであることと、その多くに石を割った痕跡となる「矢穴」が穿たれています。矢とは石を割るために打ち込むクサビです。 同様に西側からの全景正確な位置は定かではありませんが、「伏見城復元図」(輪湖俊樹氏作成)を参照すると、この石材が保存されている近くで、参道の南側の方向に伏見城の大手門があったようです。(資料3)西から東方向に大手筋を上ってきて、左折し坂道を北方向に上ると大手門に至るという形だったようです。 石材保存場所から少し先に、砂利道と舗装道の境界があります。参道並木は鋪装道路のさらに先に伸びています。南側の並木が切れるところがこの参道と南寄りにカーブする大手筋との分岐点です。そのまま直進すれば大手筋に入り、JR奈良線「桃山御陵前」の踏切を越え、「御香宮」の門前を通過し、近鉄線線の「桃山御陵前」、大手筋商店街に至ります。 左の景色は、砂利道と舗装道路の境界を通りすぎ鋪装道路側から御陵への参道を眺めたものです。一方、右の景色は坂道を下りながら大手筋に合流していく道路です。 この境界で北方向に目を転じると、「桓武天皇御陵参道」の道標が目に止まります。この参道が、東側の桃山町三河、その北隣りの桃山町下野と西側の桃山町治部少丸の境界線になっいます。「伏見城図」(資料4)には桃山町三河に相当するあたりに「池田三左衛門」と記されています。三左衛門は池田輝政の別名です。天正18年(1590年)の小田原征伐・奥州仕置後には、三河国、三河吉田城の城主となり、さらに江戸時代には播磨姫路藩初代藩主となります(資料5)。一方、「伏見城図」にはその北西側に、「徳川様御上屋敷」を挟んで、「松平参河守」と記されています。こちらは「(松平)結城三河守秀康」のことで、直接的には「三河」の地名は結城秀康の屋敷があったことに由来するようです。(資料4)いずれにしても、池田三左衛門、徳川様御上屋、松平参河守はすべて「三河」に所縁がありますね。「伏見城図」(資料4)は、三河の北隣りの下野の場所に「下野様」と記し、葵の家紋を併記して、欄外の付記に「松平下野守忠吉」と記しています。つまり、「下野」の地名は松平忠吉の屋敷があったことに由来するようです。 参道を進むと、左側に石標が立っています。残念ながら私には判読不可です。ちょっと気になりますが・・・・・。 さらに進みます。 参道の右(東)側の樹間から先に堀か池があるように見ます。 現在の地図を確認すると「治部池」がその辺りに位置しています。この池が垣間見えたのでしょう。少し先で変形的な十字路となります。 この辻の北東側に、「京都一周トレイル」の道標が立っているのが目に止まりました。 横断して北に向かえば、桓武天皇陵。東に向かえば「伏見桃山城」。西に向かえば、道は枝分かれしていきます。まず、向かったのは桓武天皇陵です。つづく参照資料1)『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p125-1282) 伏見城のモノがあちらこちらに :「城をしろう・城はおもしろい」3)『新版 京・伏見 歴史の旅』 山本眞嗣著 山川出版社 p81-844)「豊公伏見城ノ圖」 藤林武監修 作成・発行 吉田地図販売株式会社 (太閤摂政関白太政大臣正一位豊臣秀吉公泰平御代御旗本諸大名御屋敷之圖)5) 池田輝政 :ウィキペディア補遺第19回【構造】こんなに大きな石材をどうやって運んだのか? :「城びと」甲府城跡の石垣にみられる矢穴 :「山梨県」富山城の割石技術 (3)矢穴を彫る 富山城の石垣 :「『富山城研究』コーナー」 結城秀康 :ウィキペディア松平忠吉 :ウィキペディア二尊院 ホームページ常寂光寺 ホームページ洛東 養源院 ホームページ伏見城 移築城門(知恩院黒門) :「日本の城写真集」平等院 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・伏見 伏見城址周辺 -1 川傍の道標・お地蔵さま・大善寺(六地蔵)・御陵へ探訪 京都・伏見 伏見城址周辺 -2 桃山御陵(明治天皇陵・昭憲皇太后陵) へ探訪 京都・伏見 伏見城址周辺 -4 桓武天皇陵・伏見桃山城 へ探訪 京都・伏見 伏見城址周辺 -5 伏見桃山運動公園・伏見北堀公園・町名の由来 へ
2021.10.17
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明治天皇伏見桃山陵の正面石段を眺めた後、東方向への参道を進みます。 この参道は、桃山町百軒長屋の区域を通過し、参道が分岐するところで右に進みます。 昭憲皇大后伏見桃山東陵の正面石段が見えます。石段前を通り過ぎ東側から撮りました。 東南隅側から石段前の空間を眺めた景色 石段を上ると、正面北方向に御陵が見えます。石の玉垣の手前は砂利敷きの広場です。 この長方形の広場と御陵を東から西へと眺めてみるとこんな景色です。前方の石の玉垣まで近づいてみます。 第一黒木鳥居が手前に立ち、その奥にさらに石の玉垣が設けてあり第二黒木鳥居が見えます。 ズームアップして撮ってみました。陵墓は上円下方墳だそうです。明治天皇陵より東へ200mの所に位置し、墳丘の規模は明治天皇陵よりやや小さめと言います。昭憲皇太后は明治天皇の皇后。名は美子(はるこ)。左大臣一条忠香の第三女で嘉永3年(1850)降誕、大正3年(1914)4月に崩御され、同年5月にこの地に奉葬されたそうです。(資料1)御陵を囲む形で第三の石の玉垣と第三黒木鳥居が設けてあります。この御陵の位置は、伏見城の「名護屋丸」の南端辺りになります。(資料1,2,3)つまり、背後の樹林が名護屋丸址ということになります。この伏見桃山東陵は、桃山町丸山に位置します。 広場を西に歩み、明治天皇伏見桃山陵に向かいます。 伏見桃山東陵を振り返った景色です。右端が広場の入口あたりになります。上掲の参道分岐地点で、左の参道に進めば、この景色の手前あたりに上ってくることになります。 カーブした坂道の参道を上っていきます。 「明治天皇伏見桃山陵」前の砂利敷の広場に東側から入ります。 南西方向を眺めた景色です。 冒頭に再掲したこの伏見桃山陵の正面石段を広場の南端から眺めるとこんな景色です。この石段は結構な高さがありますので,アスリートが駈け昇り、駆け下りる姿を幾度も見ています。訪れた時間帯に、トレーニングする人を一人見かけました。 正面石段の上端部に立ち、南を眺めると、伏見区の向島の先に、宇治市域が遠望できます。 伏見桃山陵の第一黒木鳥居の前から御陵内を眺めた景色です。この第一黒木鳥居のある敷地あたりが、伏見城の「四の丸」にあたるようです。(資料2)「豊公伏見城ノ圖」では、増田右エ門の屋敷があったあたりに相当します。(資料3)明治天皇伏見桃山陵は、伏見山(桃山)のほぼ中央に南面して設けられています。かつては木幡山と称されていました。こちらの伏見桃山陵一帯は、現在の地図では桃山町古城山という地名です。 陵墓をズームアップして撮りました。陵墓は上円下方墳で、天智天皇の御陵に模した形だそうです。「外装はすべて光沢のある小豆島の礫砂をもっておおわれ」(資料2)ているそうです。明治天皇は明治45年(1912)7月30日に崩御。大正元年(1912)8月1日にこの地が陵墓と決定し、9月11日にはすべての工事が完了したと言います。東京での御大葬を経て、9月14日、この陵墓に奉葬されたそうです。(資料1,2)手許の本によれば、「上円の内部に石室を設け、中に木郭をおき、石灰をつめて柩(ひつぎ)が保護されているといわれる。」(資料1)「上円の内部に東西約4.2m、南北約5.4mの石室が設けられ、そのなかに厚さ66cm、高さ約1.8m、長さ約2.5m、幅1.8mの木郭をおき、石灰をつめて柩を保護している」(資料2)との説明があります。こちらの御陵の広さは東西127m、南北155mの広大なものだそうです。(資料1,2)陵墓が設けられた位置が、伏見城本丸の南端部にあたり、背後の樹木に本丸址が広がり、陵墓のやや西寄りの北方向に天守閣が聳えていたと推定されています。(資料2) 御陵前の広場を少し西に進み、南西寄りから陵墓を眺めた景色 石の玉垣の先に黒色の鉄製門扉があり北方向への参道があります。 通り過ぎて振り返った景色。JR奈良線の桃山御陵駅から参道沿いにくると、伏見桃山陵の広場に至る前に見る景色がこれです。 南西側にある建物群。奥の大きな建物は「宮内庁書陵部 桃山陵墓監区事務所」です。 参道沿いに少し進むと、東方向に伸びる同様の参道があります。北東方向に、上掲の南北方向の参道の先に見えた屋根の建物のほぼ全景が見えます。何の建物かは不詳です。 この後、カーブを描く参道沿いに西方向に進みます。普通の参拝行路を逆行することになります。地図を確認すると、この辺りは桃山町治少丸と称する地域に移っています。この地区を東から西に通り抜けて行くことになります。この地名、「伏見城図」(略称)を見ると、「石田治部少輔三成」の屋敷名が記されています。本丸の西側に、堀を挟み西ノ丸(二の丸)があり、その西側に、石田三成の屋敷が廓(治部少丸)として位置していたのです。地名の由来はここにあります。また、石田三成の廓の東南側で、西ノ丸(二の丸)の南側に、「伏見城図」は日下部丸と記されています。ここが三の丸に相当するようです。(資料2,3)この参道の北側に三の丸や治部少丸が位置していたようです。つづく参照資料1)『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p124-1272)『新版 京・伏見 歴史の旅』 山本眞嗣著 山川出版社 p79-843)「豊公伏見城ノ圖」 藤林武監修 作成・発行 吉田地図販売株式会社 (太閤摂政関白太政大臣正一位豊臣秀吉公泰平御代御旗本諸大名御屋敷之圖)補遺明治天皇 :「コトバンク」明治天皇 :ウィキペディア昭憲皇太后 :ウィキペディア明治天皇伏見桃山陵 :「天皇陵」(宮内庁)第二節 伏見桃山御陵の造営 :「大林組八十年史」桃山御陵への道 WALK03 :「RUNNER'S INFO」桃山丘陵 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・伏見 伏見城址周辺 -1 川傍の道標・お地蔵さま・大善寺(六地蔵)・御陵へ探訪 京都・伏見 伏見城址周辺 -3 御陵参道・伏見城の石材・桓武天皇陵への参道 へ探訪 京都・伏見 伏見城址周辺 -4 桓武天皇陵・伏見桃山城 へ探訪 京都・伏見 伏見城址周辺 -5 伏見桃山運動公園・伏見北堀公園・町名の由来 へ
2021.10.16
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11日(月)の祝日に、運動不足解消を兼ねて少し歩き回ることにしました。長らく足を向けていないので、伏見城址周辺を巡ってみることに。京阪六地蔵駅が起点です。京阪六地蔵駅の改札を出て、前の道路を左(西)へ少し行けば、京都アニメーションのスタジオの敷地があります。あの痛ましい京アニ放火事件が起こったところです。はや2年有余の時が経ちました。合掌・・・・・・。道路を右に、山科側沿いの坂道を上ります。 ここから見える北方向の景色には橋が4つ架かっているのが見えます。一番手前が自動車用、すぐ隣りに歩行者用の橋があります。数十m先に緑色に塗られた歩行者用の橋がもう一つあり、更に先にJR奈良線の鉄橋が見えます。 上掲の横断歩道を横切り、堤防沿いに北に進めば、コンクリート階段の傍に、道標が立っています。「(指さしマーク) だいご一言寺 是より十七丁」「左 おぐりす道 (以下不詳)」階段を上り、歩道橋を渡って進めば、旧宇治街道とのT字路となります。東に直進すれば、醍醐寺に向かう道です。途中で一言寺への分岐路に出会います。 山科川傍に立つ道標地点で左折すると西方向に向かう道です。伏見城があった頃は、大名屋敷の連なる地域です。この道は手許にある「豊公伏見城ノ圖」(以下、伏見城圖と略す)(資料1)に記載されています。道の両側には町家が建ち並んでいたようです。まずはこの道を西に進みます。 道の左(南)側に「出世地蔵」と明示された地蔵堂が最初に目にとまります。 その先に、「浄土真宗大谷派 聖財寺」の寺号標が立っています。(桃山町中島町) 二体のお地蔵さまを祀る地蔵堂。「桃山町東町」の住所表示が取り付けてあります。さらに先は外環状線との「六地蔵」交差点です。 外環状線を横断すると、右前方に道標石柱が「大善寺」前に見えます。「[東] みき京みち [南]ひたりすしみみち 」と読み取れます。今進んでいる方向の道が伏見道ということになります。 伏見道の北側に「大善寺」の山門前の参道がありその東南隅に地蔵堂が祀られています。ここは桃山町西町。京都の「六地蔵」発祥のお寺。以前に拙ブログでご紹介しています。 ちょっと、地蔵堂だけ立ち寄って拝観してみましょう。(桃山町西町) 京の六地蔵巡りの基軸になります。浄土宗のお寺です。桃山町西町の西隣りは桃山町大津町です。「伏見城図」には、道路沿いに町家が並び、「大津町新町」と記載してあります。(資料1) 道路の右側に地蔵堂。その近く京都市の広報掲示板があり桃山町和泉と地名が記載されています。伏見城図に「藤堂和泉守(高虎)」の屋敷名が記されているあたりです。たぶん和泉はこれに由来するのでしょう。 さらに先、道路の左側にも地蔵堂があります。ここまでのお地蔵さまのお顔には化粧が施されていました。 左は進行方向の道筋。右は振り返り眺めた景色。進行方向前方に、次の交差点「桃山南口」が見えてきます。交差点を含めて、この辺りは桃山町丹後です。伏見城図によれば藤堂和泉守の屋敷地の西側が伏見城の「お船入り」の場所です。つまり、この辺りがその跡地に相当しそうです。現在の地図を見ますと、桃山町和泉の南東角、京阪宇治線の南側には公園が設置されています。この公園名は「桃山舟泊公園」です。船入りとの繋がりが連想できる名称です。桃山南口交差点で右折し山側に向かいます。 左は前方に見えるJR奈良線の高架です。右は交差点の北東側、外環状線傍に立つ大善寺(六地蔵)への道路標識です。750mと距離が明示されています。 高架下を通り抜け、カーブを描く坂道を上ります。伏見城図と対比すると、この道路は「大手筋」に相当する道路です。 ちょっと急な坂道となり、道路沿いの歩道を上って行きます。進行方向右側に車両通行止めが見えます。今は「桃山御陵」に東南側からアプローチしていることになります。 車両通行止めで右折して、坂道沿いに上って行きます。幅広い砂利道に出ます。 砂利道の反対側に道標が立っています。この桃山御陵はかつての伏見城の中心地域であり、明治天皇と昭憲皇太后の御陵が並んでいます。 少し左に歩めば、北方向に石段が真っ直ぐに延びています。「明治天皇陵伏見桃山陵」の正面階段です。この辺は伏見城本丸の南側にあたり、現在の地図では桃山町駿河で、その東隣は桃山町百軒長屋という地名になっています。「伏見城図」で対比すると、桃山町駿河には、山口駿河守直友の屋敷がありました。この屋敷の東隣は「御茶山」でその北に「百軒長屋」があり、百軒長屋の東半分位の南隣りにに「学問所」があったようです。この学問所の南西側がお船入りの北端でした。 桃山町百軒長屋の南隣が上記した桃山南口交差点を含む桃山町丹後です。お船入りが埋め立てられた地域を含む地域になります。正面のこの階段を上らずに、昭憲皇太后伏見桃山東陵への参道を歩み、反時計回りに進みます。つづく参照資料1) 「豊公伏見城ノ圖」 藤林武監修 作成・発行 吉田地図販売株式会社 (太閤摂政関白太政大臣正一位豊臣秀吉公泰平御代御旗本諸大名御屋敷之圖)2) 京道/伏見道【道標】 :「フィールド・ミュージアム京都」補遺京都アニメーション放火殺人事件 :ウィキペディア現在の伏見桃山城と豊臣期の伏見城の場所比較 :「伏見・お城まつり2019 公式サイト」伏見城 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・伏見 伏見城址周辺 -2 桃山御陵(明治天皇陵・昭憲皇太后陵) へ探訪 京都・伏見 伏見城址周辺 -3 御陵参道・伏見城の石材・桓武天皇陵への参道 へ探訪 京都・伏見 伏見城址周辺 -4 桓武天皇陵・伏見桃山城 へ探訪 京都・伏見 伏見城址周辺 -5 伏見桃山運動公園・伏見北堀公園・町名の由来 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 京都・伏見 大善寺-六地蔵めぐりの原点 -1 道標、本堂、六地蔵堂 2回のシリーズでご紹介しています。スポット探訪 京都・六地蔵尊 -2 洛南:大善寺・恋塚浄禅寺、徳林庵、洛中:上善寺
2021.10.15
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上珠数屋町通を西に歩み、間之町通で右折すると「文子天満宮」が通りの西側、光久寺の北隣りに見えます。天神町に所在します。 石鳥居の南側に「天神信仰発祥の神社」と刻された石標が立っています。 石鳥居の北側には駒札が立っています。 石鳥居を潜ると、門の左右の塀前に臥牛が配されています。門を入ると、 正面に拝所があり、その奥が一段高くなっていて、本殿の流造の銅葺き屋根が見えます。拝所と本殿の間を西高で少し傾斜した切妻屋根が繋いています。この箇所が幣殿になるのでしょうか。祭神は菅原道真です。洛中二十五天神の1つです。 本殿側面の眺め 「社伝によると、道真が太宰府へ左遷される時、自分の姿を彫刻し、乳母・多治比文子(たじひのあやこ)に与えたという」(資料1)「社伝によればこの地は道真の乳母多治比文子の宅址とつたえ、道真の没後、邸内に小祠を建てて祀ったのが起こりとつたえる。」(資料2)とのことですが、「北野天神縁起によれば、天慶5年(942)右京七条二坊に住む多治比文子に託宣があり、『われを北野の右近の馬場に祀れ』とのことであった。彼女は貧しくて社殿を作ることが出来ず、自分の家に祀ること5年、天慶9年にようやく北野に社殿を移したという」(資料1)右京七条二坊は、西靭負(ゆきえ)小路七条にあたり、現在の七条通西大路東入・西七条西野町北部という位置になります。ここが文子の旧宅地のようです。ここにも行衛天満宮が創祀されていたと言います。この旧宅地にあった社殿が明治6年に北野天満宮内に移された結果、北野天満宮境内の北門に近い場所に文子天満宮の小祠が祀られています。こちらの方は、北野天満宮をご紹介した時に併せてご紹介しています。行衛天満宮自体は、東方100mほどにある網敷天満宮に合祀されています。所在地は下京区西七条御領町(御前七条上ル東側)です。(資料1,2)当社には「慶長7年(1602)東本願寺創建の際、その寺領地となり、宣如上人より自筆の神号と名号を奉納されたことがあり、今も什宝として所蔵」(資料2)されていると言います。また、東洞院以東で六条・七条間の土地は徳川家光が東本願寺に新屋敷地として寄進された以降、そして本願寺の別荘枳穀邸(現渉成園)が承応2年(1653)から着手されることで、その開発に伴い発展した町地だそうです。寛永年中の洛中図にはこの一帯は未開地として描かれていて、木版図「新改洛陽並洛外之図」に「天神町」の名が初めて載ると言います。官制の中井家系の手描図上では、寬文12年(1672)の「洛中洛外大図」に「天神町」が記されているそうです。(資料1)つまり、この文子天満宮はある時期に東本願寺によって勧請されたものではないかと推測されるようです。(資料1,2)いずれにしても、文子天満宮は北野天満宮の創設にあたり、「文子の託宣」という形で影響を与えたのは事実だと言えます。天神信仰を発祥させるトリガーの1つとして寄与したのはまちがいなさそうです。横道に逸れました。元に戻ります。当社は、天明・安政・元治の大火で類焼し、その都度再建されてきました。現在の社殿は大正7年(1918)に造営されたそうです。(駒札より) 門を入ると左側(南側)に手水舎があります。 境内の南側に大きなパネルが設置してあります。上部には「菅原道真公年表」が掲示されています。 その下に当社宮司・中小路宗広氏が記された「天神縁起」の説明が掲示されています。さらに多くの絵図が並べて紹介されています。自宅に戻ってから、一枚ずつ観察しますと、各地の天満宮が所蔵されている縁起の中に描かれた「文子託宣図」を集められたものです。その幾つかをここでご紹介します。 防府天満宮蔵(山口)・松崎天神縁起 太宰府天満宮蔵(九州) 大阪天満宮蔵(大阪市) 北比良天満宮蔵(滋賀) 於保田天満宮蔵(富山) 社殿の南隣りに朱塗りで、唐破風屋根を備え、「文子殿」の扁額を掲げた建物があります。柱に「良縁成就」の木札が掲げてありますので、神前結婚式に使われる建物のようです。 社殿の北側の景色 拝所に近い手前に「多治比の文子」託宣の姿像が建立され、 この案内が傍に掲示されています。その北奥には覆い屋の中に2つの小祠が祀られています。 左側の小祠には三社が祀られています。傍の説明文を転記します。「老松社(植林林業の神) 御祭神 島田忠臣(ただおみ)翁 祭神 島田忠臣は菅公の家臣と伝えられ、又菅公の夫人の父ともいわれる。 忠臣は、菅公が配流先の太宰府で、自らの無実を天の神々に訴えるため天拝山に祀られた時、公の笏を預かってお供した人で、後に菅公は忠臣に松の種を持たせ今の北野の地に撒くように託された。公のご神霊がこの地に降臨される時、多くの松が一夜にして生じたという説はこのことにもとずくものといわれる。 福部社(開福招福) 御祭神 十川能福(そがわのうふく) 十川能福は、菅原道真公に仕えた舎人(牛車の世話役)であるが、その祭神名より金運と開運招福をつかさどる[福の神]として崇敬されるようになった。 火之御子社(雷除け、五穀豊穣) 御祭神 大雷神 」右側の小祠は「白太夫社」(子宝の神)で、祭神 渡会(わたらい)春彦翁を祀っています。 「文章博士菅原是善卿は世継ぎの誕生を伊勢神宮の神官渡会春彦に託して豊受大神宮(外宮)に祈願された。 そしてお生まれになったのが道真公である。それ以来数十年にわたって守役として、菅公に仕え忠誠を尽くした翁は若い頃より髪が白く人々より白太夫と呼ばれた。各地の天神宮に白太夫と称えて、必ず翁を祀るのはこのようないわれによる。」(説明文転記) 社殿の北側を回り込むと、「北野天満宮遙拝所」と刻された円柱が建てられています。この前に立つと、北野天満宮の方向ということでしょう。この石標の左奥には、 「菅公腰掛石」と記された駒札と石があります。「菅原道真公が太宰府へ御左遷の途次お立寄の際腰掛けられた腰掛石」と説明されています。仏光寺通西洞院東入ルに管大臣神社があります。菅大臣町という町名の辺りで、菅公の邸はこの辺りにあったそうです。道真は京の都の中をどのようなルートを通って進み、太宰府に赴いたのでしょうか。当時は未開地だと想像するこの辺りを通ることになったのでしょうか。それとも、その行路で立ち寄り腰掛けられたという伝承の石をここに移したのでしょうか・・・・。 上掲の覆い屋の南東側に、この大きな木が聳えています。「区民の誇りの木 オガタマノキ」と記された木札が木の幹に取り付けてあります。 この木と門との間、塀沿いの一画に、石鳥居に「白瀧稲荷大明神」の扁額を掛けた稲荷社があります。文子天満宮のこじんまりと整った境内を一通り拝見して、想定していた最後の探訪地を後にしました。余談ですが、北野天満宮と文子の託宣という史実を背景にして、澤田瞳子さんが『腐れ梅』というフィクション化した歴史時代小説を上梓されています。北野社の創建に綾児(あやこ)28歳がかかわっていくという顛末を描くというフィクションです。当時の時代状況をイメージでき、興味深い切り口でのストーリーを楽しめる小説です。もう1つの拙ブログで読後印象記を書いています。こちらもお読みいただけるとうれしいです。後はこのまま間之町通を南下し、七条通を経由してJR京都駅に戻ることになります。 間之町通を南に下りますと、覆い屋の設けられた小祠が目にとまりました。 格子戸近くで小堂内を拝見すると、ちょっと不思議!衣をまとい、赤い頭巾を被って、向こうをむいていらっしゃる印象を受けます。お地蔵さま? それとも何か別の石仏像? 台座にも小祠にも卍の印はありません。何が祀られているのでしょうか。 その先の門傍には、「六條道場」と刻された石標が立っています。地図で確認しますとここは「佛願寺」。真宗大谷派のお寺です。平安時代には、この辺りに源融が営んだ「河原院」がありました。その跡地に、時宗の善導寺(歓喜光寺の前身)が一時移転してきていて、「六條道場」と呼ばれていたそうです。この石標の名称はそれに由来するとか。善導寺は、藤原是善(道真の父)の旧邸の天満宮とその神宮寺・歓喜光寺を合併し、聖戒を一世として、ここに六条道場河原院歓喜光寺が建立されることになります。この歓喜光寺は、応仁・文明の乱後に、高辻烏丸移転していきます。その後に、佛願寺が建立されたようです。(資料3) 佛願寺の南隣りの築地塀には二本の定規筋が引かれています。ここが上記の東本願寺の新屋敷地で、「渉成園(枳穀邸)」です。この渉成園を数度訪れています。その探訪記を拙ブログで既にご紹介していますが、北隣りにお寺と「六條道場」という石標があるのを知りませんでした。ここもまた北方向には足をのばしたことがなかったのです。 下珠数屋町通との交差点でこの小祠が目にとまりました。北東角の西向きの小祠です。 格子戸越しに中を覗くと、石塔が祀ってあります。地蔵石仏等の集合地に五輪塔や石塔の残欠が並存するのをみかけますが、地蔵堂と思える小祠に石塔が祀られているのはめずらしいと思います。私には初めて見るケースです。台座の正面に卍の印はありません。初めて見る表章が取り付けてあります。謎が残りました。ご存知の方がいらっしゃればご教示ください。 交差点を横断し、南に下ると、東側に「京都市立下京渉成小学校」の校舎があります。校門に行くまでの建物脇に「皆山中学校の碑」が建立されています。明治以降の学校史の一端がここに記録されています。七条通との交差点がすぐ近くに見えています。これで今回の探訪を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1)『京都史跡事典 コンパクト版』 石田孝喜著 新人物往来社2)『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂3) 佛願寺(京都市下京区) :「京都風光」補遺文子天満宮 ホームページ六條道場 紫苔山河原院 歓喜光寺 :「京都観光Navi」歓喜光寺 :「コトバンク」渉成園 東本願寺(真宗大谷派) ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都 下京の史跡巡り -1 名水跡の碑、堀川の痕跡、不可思議な造形、親鸞像ほか へ探訪 京都 下京の史跡巡り -2 景観重要建築物・石垣・天之真名井・蓮光寺・長講堂ほか へこちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 [再録] 北野天満宮細見 -2 文子天満宮、北門、顕彰碑、地主神社、老松社、十二社スポット探訪 [再録] 京都・下京 「渉成園」(枳穀邸)細見 -1 高石垣・園林堂・傍花閣ほか 6回のシリーズでご紹介しています。『腐れ梅』 澤田瞳子 集英社 もう1つの拙ブログ「遊心逍遙記」に2018年1月に書いた読後印象記
2021.10.06
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親鸞聖人立像を見て、さらに花屋町通を東に進みます。西洞院通との交差点に至ると「西洞院新花屋町」の標識が出ています。地図には花屋町通と記されていますが、こちらは新花屋町通になります。そこで、西洞院通で右折して、一筋南の元の花屋町通(旧花屋町通)を歩いてみることにしました。旧花屋町通を東に進むと、新町通に突き当たります。正面には町家が並んでいて、北側に「宇野鳳翔堂」という扁額を軒下に掲げたお店。後日ネット検索してみますと、和ろうそくの製造卸販売のお店です。昔ながらの和ろうそくの製造を継承されているお店です。(資料1)このお店の南隣りは、 入口の格子戸の右に、「景観重要建造物」の銘板が掲示されています。京都市の公表によれば現在120件が登録されています。この建造物は9番目、和田邸として登録されています。 新町通の南を眺めると、少し先に東に入る道路が見えます。そこを左折してみることにしました。近辺にある京都市の広報掲示板に「京都市下京区花屋町下がる東若松町」と表示されています。 左折した道路の景色 確認したかったのはコレ!行き止まりがどうなっているのかというのが1つの関心事でした。行き止まりには石垣がかなりの高さで屹立しています。ナルホド!です。旧花屋町通より一筋南にある正面通は、かつては西本願寺から東山の豊国神社のところまで行く事ができる道路でした。現在の豊国神社とその南の京都国立博物館の辺りは、豊臣秀吉が建てた方広寺が建立されていたところです。江戸時代になり、東本願寺が烏丸通の西側に建立されたことにより、正面通が分断されてしまいました。そこには、徳川幕府の政治的並びに宗教政策的な意図もあったのでしょう。この石垣は、東本願寺の西側の境界となっています。大きな建物がそれほど無かったと推測できる江戸時代には、この石垣が東山の景色を遮る大きな障壁に見えたかもしれません。西本願寺にも石垣を高く積んだ壁面が見られますので、巨大な本山が境界に石垣を利用するのは、それぞれの伽藍の防備のためには当然のことだったのでしょうけれど。だが、ここにもまた歴史の局面が垣間見えます。 新町通を北に上り、花屋町通に戻ります。右折して、花屋町通を更に東へ。花屋町通からは、東山の山並みが少しですが遠望できます。かつての正面通も同様だったことでしょう。地図を確認しますと花山屋町通は東本願寺の北側に沿い、烏丸通を超えたあと富小路通と繋がるところまでのびています。 東本願寺境内の北側の出入口の1つ。乾町に面する内事門です。 境内を囲む堀沿いに、漆喰壁の長い建物(蔵)は風情があり美しい。 外壁の腰回りは海鼠(なまこ)壁で仕上げてあります。45度立ち上げた正方形の模様で各辺は高く山形に漆喰を盛り上げてあります。手許の本では、「平瓦を貼り付け、目地を漆喰でかまぼこ型に盛り上げて納める仕上げ方法。土壁の雨掛かりの部分の保護と耐久性を上げるための手法だが、外壁の意匠としても使われ」ると説明しています。(資料2)私はこの形の海鼠壁を見知っているだけですが、参照本によれば、この四半貼り(と称するとか)以外に、「馬乗り目地、七宝模様、亀甲模様などのデザインがある」(資料2)そうです。 堀沿いの道路縁にヒガンバナの咲き残りが少し見られました。 花の枯れたヒガンバナの列を眺めながら、烏丸通を横断し、そのまま花屋町通を東進します。東本願寺境内もまた幾度か探訪してますので、今回は素通りです。高倉通を横切ると、南東側に「稚松公園」がありその先はT字路です。左折して北に進み、次の六条通で右折して河原町通に出ます。河原町通に面して北側角にあるのが「延寿寺」です。 浄土宗西山派のお寺です。本尊は阿弥陀如来、釈迦如来、大日如来の三尊を祀るとか。石標に勅願所とあるのは、「文治年間(1185-1190)に後白河上皇の命により丈六金銅の三尊(阿弥陀如来、釈迦如来、大日如来)を安置するため院御所六条殿内に仏堂が安置された」(資料3)ことによるそうです。中世(鎌倉時代~室町時代)に、金の仏像を安置したことから金佛殿と寺号を改称したといいます。金佛殿はそれに由来するようです。尚、現在は金仏は焼失してしまい、金仏を模した木像が祀られているとのこと。(資料3,4)以前にもこの寺の前に来たことがありますが、門前の柵により境内は不詳です。こちらの方に来た目的は、ここから少し北に位置する「市比賣神社」を訪ねるため。神社そのものは以前に探訪していて、拙ブログでもご紹介しています。再訪の目的はここに京の七名水に数えられる名水があることを再認識したためです。 外観はビルのような建物で、社務所の前を通り境内に入ると、石鳥居があります。右側に本殿が見えます。 左奥に、「稲荷神社」の扁額を掛けた石鳥居が立っています。これを潜ると、右奥にもう1つの小社が祀ってあります。その手前(南)に、 「御神水 天之真名井」と表示され、 今も、滾滾と清水(御神水)が湧き出ています。天正年間に西隣りの金光寺とともに市比賣神社は現在地に移ったそうです。「清和天皇から後鳥羽天皇に至る二十七代のあいだ、皇子降誕のあるときは、この水を汲んで産湯に用いたと伝える。もっともそれは旧地にあった井戸のこと」(資料5)と言います。この天之真名井はその井戸の形を伝えているようです。一方、江戸時代に出版された『都名所図会』の巻之二・平安城尾には、「市中山金光寺」の項に、「初めは堀川七条の北にあり。今の本願寺境内なり」という説明の後につづけて、「市比売社(当寺にあり。この辺のお産沙(うぶすな)とす。祭は五月十三日)天真井(あまのまない)(本堂の西にあり。洛中の名水なり)」と説明されています。(資料6)現在地の天之真名井も江戸時代には名水として理解されていたことがうかがえます。下京区には、京の名水と称された箇所を跡地を含め3ヵ所巡ってきました。余談ですが、七名水というものは、撰者により様々な組み合わせがあるようです。そこにバラエティが生まれています。撰者は詳らかではありませんが・・・・・。以下はネット検索で得た知識の受け売りでのの要約です。(資料7)茶の七名水 観阿弥が選んだという七名水 御手洗井、水薬師の水、大通寺の井(誕生水)、常磐井、醒ヶ井(左女牛井) 中川井、芹根水都七名水 天之真名井、芹根井、古醒井、醒ヶ井(左女牛井)、六孫王社(誕生水) 中川井、滋野井都七井 常盤井、縣井、石井、少将井、鴨井、山井、松井洛陽七名水 芹根水、醒ヶ井、中川の井、誕生水、滋野井、菊水の井、柳の水市比賣神社を出て、道沿いに西方向に歩むと、富小路通に出ます。左折して道沿いに南西方向を目指します。今回の最終探訪地は文子天満宮です。以前訪れたことがあるのですが、その時の記録写真が見つからず、いっそ再訪してみようと思った次第。富小路通のこの辺りは「本塩竈町」でお寺が集まっています。北方向に進めば、以前に探訪し、拙ブログでもご紹介した「上徳寺」ほかがあります。 南方向に歩き始めて、最初のお寺が「蓮光寺」です。西本願寺の近くに本願寺派の蓮光寺がありました。同名ですがこちらは浄土宗のお寺です。 門前の石標に刻されていますが、このお寺には長宗我部盛親の墓があります。安阿弥快慶作といわれる本尊の阿弥陀仏には「負別(おいわけ)阿弥陀仏」「負別如来」と称されるエピソードが伝えられています。また、六条河原で平清盛の駒を止めたという「駒止地蔵」が祀られているそうです。(資料5,駒札) 門前から境内を拝見した景色です。 南隣りのお寺の門前には、大きな石標が立っています。門前に車が駐めてあったので、これだけを撮りました。「元六條御所 長講堂」、上記の後白河上皇の院御所があったことがこれでよくわかります。西山浄土宗の長講寺です。左端に駒札が立っていますが、褪色して説明文が読みづらくなっていますのでここでは省略します。 (観光都市京都を標榜するなら、駒札は定期的に読みやすいものに更新してほしいものです。愚痴りたくなる・・・・。) 門前から眺めた景色 右の方、築地塀の前方に「後白河法皇御影殿」の石標が立っています。築地塀内の御影堂に後白河法皇坐像が安置されています。かなり以前に一度訪れ、拝観したことがあります。 道なりに進むと、稚松公園の東側の通りに戻ってきました。公園の南東隅にこの地蔵堂が祀られています。内部のお地蔵さまを見られないのが残念。近くに京都市の広報板がありました。「下京区富小路通上ノ口上る唐物町」と表示されています。南に向かうこの道路を歩むと、上珠数屋町通に至ります。T字路になっています。上珠数屋町通の南は東本願寺の「渉成園(枳穀邸)」の築地塀です。余談ですが、普通「じゅず」は漢字で「数珠」と書きます。京都のここの通り名は「珠数」と表記して「じゅず」と読みます。この通りを西に二筋行くと、最後の探訪地「文子天満宮」です。つづく参照資料1) 京都 宇野鳳翔堂について :「京都 宇野鳳翔堂」2)『木造建築用語辞典』 小林・高橋・宮越・宮坂[編著] 井上書院 3) 延寿寺 :「京都風光」4) 延寿寺 :「京都通百科事典」5)『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂 p360、p3586)『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p1437) 七名水 :「京の霊場」補遺3つの花屋町通 ~仁丹町名表示板に見る近代史~ :「京都仁丹樂會」景観重要建造物について :「京都市情報館」市比賣神社 ホームページ金光寺(京都市下京区) :「京都風光」長講堂 :「京都観光Navi」長講堂(京都市下京区) :「京都風光」長講堂 :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都 下京の史跡巡り -1 名水跡の碑、堀川の痕跡、不可思議な造形、親鸞像ほか へ探訪 京都 下京の史跡巡り -3 文子天満宮、六条道場の碑、渉成園、皆山中学校の碑 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 [再録] 京都・下京 西本願寺細見 -1 御影堂門、総門、灯籠と大水盤 7回のシリーズでご紹介しています。スポット探訪 京都・下京 東本願寺細見 -1 阿弥陀堂門・総合案内所・阿弥陀堂ほか 5回のシリーズでご紹介しています。スポット探訪 [再録] 京都・下京 「渉成園」(枳穀邸)細見 -1 高石垣・園林堂・傍花閣ほか 6回のシリーズでご紹介しています。探訪 京都・下京 歴史と源氏物語の出会う場所 -3 市比賣神社・本覚寺・上徳寺ほかスポット探訪 [再録] 京都・下京 上徳寺~冠翁堀内雲鼓句碑・世継地蔵・阿茶の局墓所~
2021.10.05
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JR京都駅の中央改札から北に出ます。階段を下ると、なぜかペンギン像がお出迎え。この土台が道路標識を兼ねています。西側の中央郵便局前の歩道を北に進み、塩小路通に右折し、まずは塩小路堀川の交差点に向かいます。 塩小路通西洞院交差点の南西角側に「此附近 新撰組最後の洛中邸跡」碑が立っています。以前、新選組関連史跡巡りでご紹介しています。一筋西側に明王院不動堂があります。塩小路通堀川の交差点にある陸橋を渡ると、リーガロイヤルホテル京都があり、この正面入口へのアプローチ手前(北側)に新選組関連碑が建ててあります。同ホテルの北側の道路を通り、一筋目の西堀川通を北に上がります。この西堀川通は、1982(昭和57)年に押小路以南の堀川が暗渠化されたときにできた道路だそうです。(資料1) 「梅逕中第二教育施設」のフェンスの傍に、「関根水の碑」と「文房四神之碑」が立っています。かつて安寧小学校が所在したところです。古い写真ではブロック塀が背景になっています。 芹根水(せりねのみず)は、平安時代より知られていて、室町時代に観阿弥により、京の七名水の1つに数えられたと言います。かつては生酢屋橋(木津屋橋)の南、堀川の西岸にあり、清水に井筒を入れて、書家烏石葛辰(うせきかつしん)が隷書で芹根水の文字を彫刻したと言います。(案内文、資料1,2) 江戸時代に出版された『都名所図会』には、木津屋橋が「月見橋」と呼ばれ、堀川の南にに「芹根水」が描かれています。(資料2,3)「大正3年(1914)堀川改修に際して濁水混入し、井筒も失われ、独り碑のみが護岸にのこされていた」(案内文)という状態になっていたと言います。その標柱石を元の場所から掘り出し、この場所に移したそうです。全長2.5mの半分ほどを地上に出して建てられているとか。(資料1)地図を見ますと、この碑が建てられているのは御方紺屋町。道路の西側が「清水町」です。 大きな木の南側に「文房四神之碑」があります。 枝葉の陰になり、全体が見づらいですが、上部に「文房四神」、下部に碑文が彫られています。 江戸時代の書家烏石葛辰の書と伝えられているそうです。(案内文より)北に少し歩むと、木津屋橋通と交差します。かつてはこの交差点に生酢屋橋(木津屋橋)が架かっていて、江戸時代には、その生酢屋橋が月見橋と呼ばれていたのです。「この橋の上から眺めた東山に月のかかる風景が、あたかも鏡台山(信濃国埴科郡、1269m)に昇る名月を、姥捨山(同国更科郡)からみたような風情があったという。」(資料1)残念ながらあ、それは高い建物がなく視界を遮るものがなかった頃の話ということになります。この木津屋橋通が平安時代の塩小路通にあたるそうです。(資料1) 木津屋橋通を横断すると、フェンスの外側にこの手水鉢がぽつんと立っています。案内は何もありません。手許の本の記載から、これが「梅ケ枝の手水鉢」と判断できそうです。(資料1) 交差点の少し先で道路が分岐しています。この景色の左側が南北の西堀川通。通りの西側は川端町、東側は鍵屋町です。鍵屋町を南西から北東方向に斜めにゆるやかに逆S字形を描く道路がかつての堀川です。暗渠化されてその上が道路になったのです。古地図をみると、堀川が流れていたことがはっきりとわかります。ゆるやかなカーブを描く道路に入るところに、郵便ポストが設置されていて、「京都市下京区堀川通木津屋町西入ル鍵屋町」と所在地が明示されています。 ポストの北側に、地蔵堂があります。小祠の台座正面の左下には「町内安全 川端町」と刻してあります。 暗渠化された堀川上の道路を進みます。 歩いていて、南側のマンションらしき建物の前の一隅にも地蔵堂が祀ってあります。 逆S字形を描く道路は下魚棚通と交差します。そして堀川は北方向に転じます。この景色は下魚棚通を横断し、堀川通沿いの歩道から、つまり北側から南を撮ってみました。一筋北が七条通になります。この景色の右側、左右に生垣がある道路が暗渠化された堀川上の道路です。北から見れば堀川はここで南西方向に曲がって、さらに先で南に方向を転じて流れて行きます。 七条通を横断すると興正寺があります。築地塀や門の前に堀があり、 この堀は北側にある西本願寺の堀に繋がっています。興正寺と西本願寺は拙ブログで既にご紹介しています。この景色の歩道の右奥に見えるのが、堀川通を横断する地下歩道です。ここで、先般ご紹介した龍谷ミュージアムの特別展「アジアの女神たち」の鑑賞で一旦中断します。その鑑賞後に史跡巡りを続けました。龍谷ミュージアムの北には、近年毎年訪れている「風俗博物館」があります。風俗博物館は「井筒佐女牛井ビル」の5階です。何度も訪れながら、このビルの北側を意識したことがありませんでした。先日、友人のブログ記事でその北側の景色の一部を遅ればせながら知りました。ある意味でこれも新探訪箇所に加え得るおもしろスポットといえるでしょう。一見してきた景色をご紹介したいと思います。 ビルの北側は、ガラス壁面で、中央に円窓が設けてあります。大きな柳の木が茂っています。円窓から内側を覗くと、 こんな景色が広がっています。池があり、様々な植栽が見られます。その中にちょっと異世界を感じさせる造形物を眺めることができます。 手前には不可思議な大きい人形風の造形物がこちらを眺めています。 この作品の手前、足元に説明板が置かれていますが、植物が茂り読めません。 さらに、この作品の背後におもしろい造形物が2点置かれています。 一見、燈籠を現代風にデフォルメした造形のような印象を持ちました。上部が細かい網目状火袋風で、竿にあたる部分が三本足という感じ・・・・。これにも案内板が置いてあり、こちらはかろうじて一部判読できました。「左女牛 samegai NONF.C.,2006 三対足根-Male 三又足根-Female」という部分まで判読できました。こちらも不可思議なおもしろい形です。柳の枝葉が茂り全体をスッキリとみられないのがちょっと残念! 冬季に眺めると全体がもっと見えておもしろいかもしれません。 北隣りが「一行寺」というモダンなビルのお寺であることも、今回初めて認識しました。浄土真宗本願寺派のお寺です。立地から考えてもそうですよね。 これら2つのビルを、北西側から眺めた景色です。さて、ここから堀川通を西側に横断して、旧跡巡りを続けます。下京にあるもう1つの京の名水跡に参りましょう。 堀川通の西側歩道を北に進みますと、京都東急ホテルの少し手前の歩道脇に「左女牛之跡」碑が建てられています。右画像は北側から眺めた景色です。現在、この石碑が立っているのは柿本町ですが、堀川通の東側が左女牛町です。南北の通りである堀川通と油小路通の間に、醒ヶ井通があります。この通名の由来は、「下京区醒ヶ井通六条上ル佐女牛井町に、村田珠光が将軍足利義政に献茶するときに汲んだという名水、左女牛井があったことによる。」(資料1)と言います。左女牛町あたりは、源氏の六条堀川邸跡にあたるそうです。 石碑の北面には、重複しますが、次の碑文が刻されています。「源義経堀川御所用水と伝えられ足利時代既に名あり。元和二年在銘の井の枠とも 第二次世界大戦に際し昭和二十年疎開の為撤去さる。当学区醒泉の名は之に由来する 井筒雅風 記」西面には、「醒泉小学校創立百周年記念事業委員会」と建立者の名が記されています。ここで、一番近い交差点・堀川楊梅で堀川通を東に横断し、先ほどの一行寺まで戻り、花屋町通に左折します。この通りを歩くことがありませんので、ここを経由することにしました。 花屋町通に至るまでに、東側歩道傍で目に止まった地蔵堂です。格子扉から内部を眺めますと、めずらしいことに双体石仏像が祀られています。向かって左側の像には、赤い線で頭光が線描されているように見えました。花屋町通に左折し、東に進みます。 油小路通の一筋東は東中筋通です。花屋町通と交差する辻の北東角に「本願寺国際センター」があり、その角部分に大きなブロンズ製の「親鸞聖人立像」が西本願寺の方向に向かっ立っています。 ふと、通りの南側に目をむけると、ドーム型の屋根が見えました。後ほど地図で確認すると、「蓮光寺」です。こちらも浄土真宗本願寺派のお寺です。さて、ここからもう少し花屋町通を東に進みます。つづく参照資料1)『京都史跡事典 コンパクト版』 石田孝喜著 新人物往来社 2)『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p188-1913)「都名所図会6巻」[2] 46コマ目 :「国立国会図書館デジタルコレクション」補遺風俗博物館 ホームページ油小路通 :ウィキペディア芹根水 :「フィールドミュージアム京都」文房四神碑 :「フィールドミュージアム京都」左女牛井跡 :「フィールドミュージアム京都」浄土真宗本願寺派国際センター ホームページ 沿革 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都 下京の史跡巡り -2 景観重要建築物・石垣・天之真名井・蓮光寺・長講堂ほか へ探訪 京都 下京の史跡巡り -3 文子天満宮、六条道場の碑、渉成園、皆山中学校の碑 へ
2021.10.04
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それでは再び、復元回廊の入口に戻り、右側(内周側)の壁画(誓願図)を眺めて行きましょう。 左側 右側これは「主題1」です。中央の仏は左下の菩薩に右手をさしのべているようなしぐさで描かれています。ご覧の通り、片足ずつを蓮華座に乗せた立像として描かれています。私には左手が肘掛けに腕を乗せたような感じで描かれているのがなぜなのかちょっと不思議です。椅坐像で肘掛けに腕を置いているならこの左手は違和感がないのですが・・・・・。 左側から斜めに撮ると、さしのべられた右腕を奇妙に長く感じるのがおもしろい。右腕の肘から先が胸部につながり1つに見えるからでしょう。真っ正面から仏の全身を撮れれば、腕の長さのバランスはとれていることと思います。主題1という表記は、この15窟の誓願図全体にストーリーがあると考えるならば、最初の場面ということになります。少し調べてみましたが、番号を振られた主題がどういう意味を持ち、どういう場面が描かれているのかについての情報は「主題11」以外見つけることができませんでした。 左側 右側主題1の左側に復元された「主題4」です。中央の仏は、その描き方から主題1の仏と同じと推測します。 これは最初の概説でご紹介した画像です。回廊が90度折れ曲がる内周側壁面の角の部分になります。上掲主題4の左側とリンクしているのがお解りいただけるでしょう。 左側 右側 こちらは「主題5」です。内周側の壁画としては最後の壁画になります。この先は回廊の出口です。この壁画には、前回のご紹介とはまた違った地域からやって来て仏に供物を捧げ布施をする人々が描かれています。それは、人々が異なる帽子を被り、異なるタイプの服装であることからの推測です。シルクロードにあるトルファンには様々な人々が交流していたことでしょう。馬や駱駝も描かれています。 左側で仏の前に臨み布施する人々。仏は施無畏印、与願印の印相を示して人々を迎えています。これをまとめながら1つ気づいたことがあります。日本で見る彫像や図像の仏(如来)は基本的に1枚の衣をまとうだけで、装飾品を身につけることはありません。大日如来は例外的に胸に瓔珞(ネックレス)、腕に臂釧や腕釧(ブレスレット)という装飾品を身にまとっています。一方、このベゼクリク石窟の壁画に描かれた仏はいずれも大変長い瓔珞を身につけた姿で描かれています。 復元回廊模式図復元回廊における誓願図の位置関係を改めてご確認ください。最後に、過去世の仏と前世の釈尊に関連して調べていて、学んだことを少し覚書として記します。*ゴーダマブッダすなわち釈迦牟尼仏の現れる前に6人の仏が現れた。併せて7人を「過去七仏」とされる。釈尊の伝えた教え(法)は普遍的なものであり、釈尊以前のはるか昔から、これら諸仏によって順次説き継がれてきたものである。こういう過去仏信仰がある。 この七仏が共通に伝えた戒が「七仏通戒偈」である。つまり、「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」の一偈である。 (資料1)*過去世の仏・燃灯仏に関わる「燃灯仏授記」は『ブツダヴァンサ』という過去仏の系譜を説くパーリ小部にある韻文聖典の中に収載されている。(資料2)*釈尊の前世が語られている。「ジャータカ」と称され、釈尊が「前世において菩薩であったとき、生きとし生けるものを救ったという善行を集めた物語」である。「パーリ語聖典にはジャータカとして547の物語が収められている」という。日本では「本生話」「本生譚」と訳され、漢訳経典には『本生経』がある。ジャータカは、「その形式は、現在世物語・過去世物語・結び、という3要素から成り立っている」という。(資料1) たとえば、国宝の玉虫厨子の側面に描かれている薩埵(さった)太子の捨身飼虎図はジャータカに出てくる捨身布施の物語である。*前世における生という考え方は、今生・後生とあわせて「輪廻思想」にもとづくものである。(資料1)これで終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1)『岩波仏教辞典 第二版』 中村・福永・田村・今野・末木 編集 岩波書店2)「燃灯仏授記と『ブッダヴァンサ』の成立」 勝本華連著 印度學佛教学研究(2010.3)補遺燃燈仏授記図浮彫 :「MIHO MUSEUM」燃燈仏授記図浮彫 2 :「MIHO MUSEUM」燃燈佛 :「Wikidharma」仏種姓経 :「ウィキペディア」ジャータカ :ウィキペディアジャータカ物語 :「日本テーラワーダ仏教協会」玉虫厨子 捨身飼虎図 :「アーサーバイオ株式会社」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・下京 龍谷大学龍谷ミュージアム ベゼクリク石窟の回廊壁画復元 -1 へ観照 京都・下京 龍谷大学龍谷ミュージアム ベゼクリク石窟の回廊壁画復元 -2 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 京都・下京 龍谷大学龍谷ミュージアム 特別展「アジアの女神たち」
2021.10.03
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復元回廊は、ベゼクリク石窟の15号窟がコの字形であるのに対し、逆L字形です。15号窟の回廊をほぼ原寸大にして部分復元されています。前回触れた通り、回廊幅は1.5mに広げられました。高さ約3.5m、長さ約15mの回廊にです。(資料1)ここに、約3mの仏教壁画が9面復元され、配置されています。その復元回廊模式図がこれ。それでは、回廊入口からあらためて壁画を眺めて行きましょう。進行方向左側、外周側の壁画からご紹介します。回廊に描かれているのは「誓願図」です。その意味は、後ほどご紹介します。つまり壁画の中央部には仏が大きく描かれ、仏を取り囲むように左右に様々な人々その他が描かれています。それが共通する構図になっています。回廊幅が1.5mに対し、壁画の高さは約3mですから、全体図を撮ることはできません。壁画の左側から右側へ。左右は上部から下部へという部分図のご紹介になります。 左側 右側入口に立ち、左側(外周側)の最初の壁画です。「主題7」です。中央の仏は説法印の印相を示し、背後には頭光と身光の二重円光部が描かれています。左下の童子を除き、人々には頭光が描かれていますので比丘(羅漢)と菩薩たちが周囲に居るということでしょうか。 左側 右側その右隣りは「主題8」です。左右には、日除けの傘(?)を捧げ持つ人々も描かれています。 左側 右側その次は「主題9」です。左側下部には、今まさに得度の儀式を受ける青年が描かれて居ます。青年の頭髪を剃り落とそうとしているのは先に出家している比丘でしょうか。仏は左手で説法印、右手は下にさげ降魔印(触地印)を示しているようです。左右の足を蓮華座に乗せて立たれています。 左側 左側壁面の最奥がこの「主題10」です。左側の下部には、馬と馬の手綱を握り正坐する従者が描かれ、右側下部には、仏に供物を捧げ、布施する二人の人物が描かれています。被っている帽子の形が全く異なりますので、異なる地域からはるばると仏の御許に訪れたところなのでしょう。仏の右手は施無畏印のようですので、左手は与願印なのでしょうか。日本の仏像の与願印は下げた手の掌を見せる形と思いますが、仏の手の甲が描かれています。降魔印(触地印)なのか・・・・。私には判断できません。仏が立たれる台座は磐石座(岩座)のように見えます。 この主題10が前回ご紹介した外周側の角の画像にリンクします。入口から見て丁度正面の突き当たりの壁面に描かれた「主題11」に続きます。 主題11の全体図がこれです。「誓願図」としてはたぶんよく知られていて「燃燈仏授記」と呼ばれる場面です。 「誓願(または本願)とは、自分が将来仏(ブッダ)となって、一切衆生を救済しようという誓いを立てること」(説明パネルより) 今までの壁画同様、中央に大きく描かれているブッダは「燃燈仏」という過去世のブッダです。燃燈仏は、「灯火を輝かす者」の意で、「錠光仏」「定光仏」「提和竭羅仏(だいわかつらぶつ)」とも訳されるとか。(資料2) 燃燈仏の足許に跪き、長い髪を泥水の上に敷き詰めている青年は過去世において「儒童菩薩」「スメーダ仙人」と称される人。釈尊の前身、つまり過去世において修行中の釈尊とされています。(資料3,4)説明パネルにわかりやすく記されていますが、手許の辞典には、「この仏に会った時、釈尊は5茎の蓮華を献じ、また自分の髪を解いてぬかるみに敷き仏を渡した。ために釈尊は授記を受けたという」(資料2)と。燃燈仏はスメーダの行為を見られて、スメーダつまり釈尊が将来ブッダになることを予言されたと言います。この予言が授記と称されています。 右側 案内パネルには、この壁画の左右の下部に立つ人も「前世の釈尊」が描かれている旨付記されています。時間の異なる行為・行動を同じ画面上で表現するという手法を使って、場面構成されているということなのでしょう。 「主題11」に続いて、「主題12」が描かれています。少し暗い画像になりましたが、回廊の出口側から撮ってみました。左奥に見えるのが主題11、つまり燃燈仏授記の場面です。外周側の壁画を順に眺めてきました。それでは、内周側の3面の壁画に移りましょう。つづく参照資料1) ベゼクリク石窟大回廊復元展示 :「龍谷大学龍谷ミュージアム」2)『岩波仏教辞典 第二版』 中村・福永・田村・今野・末木 編集 岩波書店3) 燃燈仏 :ウィキペディア4) 燃燈仏授記本生図 :「コトバンク」補遺トピックス 幻の仏教壁画が鮮明な画像でよみがえる! :「龍谷」トルファンの仏教信仰:ベゼクリク千仏洞 :「貴重書で綴るシルクロード」ベ ゼクリク千仏洞の壁画・誓願図 山名清隆先生のページ :「シルクロードの旅」 ~失われた9号窟の壁画はどのような壁画であったか~ベゼクリク千仏洞の歴史と沿革 :「シルクロード日誌」(日本シルクロード文化センター)「誓願図」 :「シルクロード日誌」(日本シルクロード文化センター)⑩菩薩の誓願 :「学びの森」(中山身語正宗)授記 :「新纂 浄土宗大辞典」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・下京 龍谷大学龍谷ミュージアム ベゼクリク石窟の回廊壁画復元 -1 へ観照 京都・下京 龍谷大学龍谷ミュージアム ベゼクリク石窟の回廊壁画復元 -3 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 京都・下京 龍谷大学龍谷ミュージアム 特別展「アジアの女神たち」
2021.10.02
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龍谷ミュージアムの2階展示会場の一画に「ベゼクリク石窟」の回廊壁画が一部復元されていて、過去に幾度かこの回廊を眺めつつ巡っています。最近、この回廊の撮影ができるということを知りました。そこで、「アジアの女神たち」を鑑賞した後で、復元された回廊壁画を撮ってみました。案内パネルの説明他を利用しながら、復習を兼ね、大凡をまとめてみます。そのご紹介です。「ベゼクリク」とは、ウィグル語で「絵のある所」「美しく飾られた場所」を意味するそうです。このベネクリク石窟は、中華人民共和国の北西端、天山(テンシャン)山脈の南側に位置する新疆(シンチャン)ウィグル自治区・トルファンの近郊、火焔山と称する山脈の麓にあります。「6世紀頃に造営が開始され、11~12世紀には西ウィグル王国のもとで最盛期を迎え、多くの仏教壁画が描かれました。現在は、およそ80個の石窟が残されています。」(案内パネルより) この地域にも各国の探検調査団が訪れ、石窟内調査を行うとともに、洞窟内の壁画を収集して持ち帰るという活動が一時期行われました。その結果、このベゼクリク石窟群内の壁画はかなりの部分が各国に分散して行ったそうです。宗教の違いから石窟内の壁画等が一部破壊されたという歴史も重なります。 ここに「ベゼクリク石窟15号窟回廊壁画」の一部が復元展示されました。龍谷大学古典籍デジタルアーカイブセンターが中心となって、各国に分散所有されている15号窟の断片的壁画情報を集積し、それらを統合して壁画を復元する研究が行われました。その成果が回廊壁画を間近に見て体感できる形に復元された次第です。「ベゼクリク石窟15号窟に描かれた壁画を復元して配置し、仏教石窟の雰囲気を体感していただくために制作されたものです。」(案内パネルより)と説明されています。 ベゼクリク石窟15号窟の回廊の模式図15号窟は中堂(内陣)をコの字形に囲む形で幅1.2mの回廊が巡らされ、その回廊が壁画と装飾文様で彩れています。模式図を見ると、壁画は合計15面あり、15の主題が描かれていることがわかります。内周側に主題1~6の6面、外周側に主題7~15の9面です。 復元された回廊は逆L字形で、壁画9面が復元されています。本来の位置から移し復元されたものが含まれます。また、回廊幅も安全性を考慮し、幅1.5mに広げられています。いずれにしても、ベゼクリク石窟内の回廊の雰囲気を体感することが身近にできるのですから、百聞は一見に如かずです。シルクロードである天山北路と天山南路の間、北路寄りの山脈麓にあるという石窟の雰囲気を直に現地で体感してみてください。まず全体を眺めてみましょう。そこはまさに異空間です。 回廊に入口から眺めた全景正面の突き当たりを右折する形になります。 回廊を進み、振り返った全景 アーチ形天井の装飾文様 回廊の内周側(進行方向の右側)の角を上部から下部へ見下ろして行きます。 外周側(進行方向の左側)の角を同様に・・・・。 右折して、出口側を眺めた全景案内パネルには「資料不足から、壁画の内容を充分に検証できない場合もあるため、各壁画の復元は暫定的なものです」という留保が記されています。 回廊入口に立って、左側(外周側)の壁画の左端です。上掲の模式図でいえば主題7を斜めから眺めていることになります。この15号窟の壁画には何が描かれているのか? 案内パネルによれば、「誓願図」だそうです。それでは回廊を歩み、個々の壁画を眺めて行きましょう。つづく参照資料案内パネルの説明文補遺新疆ウイグル自治区 :ウィキペディアトルファン(吐魯番)とその郊外 :「西遊旅行」火焔山 :ウィキペディアベゼクリク千仏洞 :ウィキペディアシルクロード :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・下京 龍谷大学龍谷ミュージアム ベゼクリク石窟の回廊壁画復元 -2 へ観照 京都・下京 龍谷大学龍谷ミュージアム ベゼクリク石窟の回廊壁画復元 -3 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 京都・下京 龍谷大学龍谷ミュージアム 特別展「アジアの女神たち」
2021.10.01
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一昨日(9/28)、堀川通を隔てて西本願寺の前にある龍谷大学龍谷ミュージアムに行ってきました。9/18(土)から始まった特別展「アジアの女神たち」を見るためです。冒頭の景色は、龍谷ミュージアムを西本願寺側から撮った全景です。堀川通の西側歩道を歩き龍谷ミュージアムに行くことはあまりないのですが、今回は別稿としてご紹介したい探訪との関係で、西側歩道経由になりました。ミュージアムの手前に見えるのは堀川通の下を潜る地下歩道です。西本願寺とミュージアムとの間はこの地下歩道があるので便利です。龍谷ミュージアムの正面壁面は、風をうけて巨大な簾がすこし波打つ感じの装飾が施されています。 正面の案内パネル このパネルの北端傍から、一旦地階の入口に向かいます。 特別展のPRチラシ。今なら各所で入手できることでしょう。 (龍谷ミュージアム・ホームページの特設サイトではチラシのpdfファイルをダウンロードできます。)展覧会場は撮影禁止ですので、案内パネルやチラシ裏面等に掲載の図像を後で部分拡大して引用したいと思います。 入場券の半券これらを並べてみると、ハイライト展示品の一端がここに表れています。今回はミュージアムの2階と3階に跨がって展示されていました。いつもの様に先に3階に上がると、後半第4章からの展示になっていました。ここでは、2階の展示から順にご紹介します。今回の特別展は5章構成で展示されています。<第1章 太古の地母神とその末裔> 太古、人々は大地の豊穣と多産を願い、豊満な女性の形を土偶の形で表現しました。これは小さな女性土偶(平山郁夫シルクロード美術館蔵)で、北シリア、紀元前5500年頃の出土品。「地母神」と呼ばれるそうです。ここにはシリアの女性土偶、イランやメソポタミアあたりの「アスタルテ女神像」など小さな作品ばかりですが、アジアの女神の始まりが展示されています。 こちらは、山梨県の鋳物師屋遺跡から出土した「円錐形土偶」(南アルプス市ふるさと文化伝承館蔵、重文)です。上掲同様、粘土焼成されたもので、縄文時代中期・前3000年頃だとか。初めて見るタイプの土偶でした。他に、ガンダーラ周辺出土で2世紀のカニシュカ1世金貨・銅貨や山海経、淮南子なども展示されています。7~8世紀のアスターナ古墳群(中国)出土の「伏羲女媧図(ふっきじょかず)」(龍谷大学図書館蔵)という図像(絹本着色)が印象的でした。中国神話の男神女神を描いたものと言います。これを見て私は棟方志功の版画に描かれた女性の容貌を連想しました。後期は同じ名称の別図と入れ替えが予定されています。日本の女神坐像が2躰展示されています。その1躰は後で立ち寄る予定にしていた市比賣神社蔵のものです。神社を訪れても見ることができない像をここで見ることができました。<第2章 インドの地母神からヤクシーへ>ここには、バローチスタン(パキスタン)で出土した前3000~2500年頃の粘土焼成による小さな女性土偶(平山郁夫シルクロード美術館蔵)が数多く展示されています。やはり胸部が豊満に強調された造形です。丸く穿たれた瞳が印象的でした。サーンチをはじめとしたインドのストゥーパの写真は幾度も見ています。しかし、「欄楯柱」の実物(一部分)を見たのははじめて。2世紀頃のマトゥラー周辺のものだそうです。女神ヤクシーが彫刻されています。ヤクシーはもともと聖樹に宿る精霊的な神だそうです。併せて、ヤクシー奉献板や化粧皿(ケートスに乗るネーレーイス)などが展示されています。ケートスはギリシャ神話に登場する海獣で、ネーレーイスは海の聖霊だそうです。ガンダーラ出土、前2~後1世紀のものだとか。ガンダーラ出土と知り、ナルホド・・・です。最初にギリシャの影響が及んだ地域。仏像発祥地の1つです。<第3章 インドの女神たちと仏教>まず、インドの「ラクシュミー奉献板」(粘土焼成、平山郁夫シルクロード美術館蔵)と「ガジャ・ラクシュミー浮彫」(木造、国立民族博物館蔵)が展示されています。前者は前1~後1世紀)、後者は19~20世紀のものです。ラクシュミーは『リグ・ヴェーダ』に登場する吉祥・福徳を司る女神です。ヒンドゥー教では、ヴィシュヌの妃として知られているとか。この女神が仏教に取り入れられて、吉祥天になります。『金光明懺法』(京都・泉涌寺蔵)など、吉祥天が記述される経典類が計3点でています。 奈良・薬師寺蔵の木造「吉祥天立像」(重文)が展示されています。平安時代・10世紀の作。どっしりと重厚感のある体躯の像です。「わが国では鎮護国家の根本経典である『金光明最勝王経』に基づく吉祥悔過(けか)の本尊として、奈良時代より吉祥天に対する信仰がはじまった。」(図録より)と言います。鎌倉・嘉禄元年(1225)に書写された「十巻抄 巻第九」(京都・笠置寺蔵)は、「平安末期に成立した十巻抄は、最古の図像集」(図録より)とされるもの。鎌倉時代の書写ですが、淡く彩色された吉祥天女の色が鮮やかに残っています。また、鎌倉時代、13~14世紀に描かれた「毘沙門天・吉祥天・善膩師童子像」(滋賀・園城寺蔵)も出ています。この三者は、毘沙門天の后が吉祥天で、善膩師童子が子という関係にあります。三尊形式で描かれるものが散見されるそうです。 仏教に取り入れられたもう一人の女神がハーリーティという豊穣・多産の女神です。 訶梨帝母像これは三曲の背障と勾欄付きの台座に右足を踏み下げて坐す図から像だけを抜き出したものです。ハーリーティを音写したのが訶梨帝です。「鬼子母神」とも呼ばれています。このセクションには、『妙法蓮華経 巻七』(龍谷大学図書館蔵)が展示されていて、「陀羅尼品第二十六」に「十羅刹與鬼子母幷其子及眷属」と記されています。鬼子母神の他に十羅刹女がでてきます。羅刹とは、「[暴悪で恐ろしい意の梵語の音訳](仏教で)空中を飛行し、人を食うといわれる、男女の鬼。」(『新明解国語辞典』三省堂)です。この鬼女が10人、十羅刹女として仏教に取り入れられ、法華経を読誦・受持する者の守護神に転化します。上記のフレーズの直前に、十羅刹女の名前が列挙して記されています。ここには、「普賢十羅刹女像」(奈良・能満院蔵)、「鬼子母神十羅刹女像」(愛知・長満寺蔵)の図像が展示されています。また、平安時代後期・12世紀に作られた「十羅刹女(十種供養菩薩)立像」(京都・実光院)という像高が40cmに満たない小像十躰も展示されています。私は十羅刹女の木彫像を初めて見ました。3階の会場に移ります。<第4章 『デーヴィー・マーハートミヤ』と大女神>『デーヴィー・マーハートミヤ』は、5~6世紀頃にインドで編纂された女神信仰の根本聖典だそうです。この聖典には悪魔を打ち倒す戦闘女神が登場すると言います。 物語に出てくる「ドゥルガー」の立像(国立民族学博物館蔵)で、20世紀のインドの作。ドゥルガーは「行くことの困難なもの。近づき難いもの」という意味で、美しい姿でありながら凄惨な殺戮を行うそうです。(図録より)同じく、「水牛の悪魔を殺す女神像(マヒシャースラマルディニー)」(国立民族学博物館蔵)が展示されています。この女神は、「魔王マヒシャーを退治するためにヴィシュヌをはじめとする神々の威力を結集して生み出された女神(ドゥルガー)」(図録より)だとか。ガンダーラ周辺の5世紀頃のもので、ストゥッコの「マートリカー像」(平山郁夫シルクロード美術館蔵)断片がいくつか出ています。「マートリカーは母神の意味で、地母神的な性格を持つ土着的な信仰に由来する女神」とみられていて、「ヒンドゥー教において7体の母神を並べて七母神として信仰される(八母神とすることもある)」(図録より)とのこと。 「ヴァイシュナヴィー立像」ガンダーラ周辺で出土した7~8世紀の作。「ヴァイシュナヴィーは、ヴィシュヌの女性形の女神(妃ともいわれる)で、一般に七母神の一人として造形される」(図録より)そうです。このマートリカーやヴァイシュナヴィーが『大日経 巻第一』『般若理趣経釈』(龍谷大学図書館)の展示に繋がっていきます。前者に「七母」、後者に「七母女天」という形で登場しています。2躰の小さなサラスヴァティー坐像が展示されています。「『水をもてるもの』という意で、もともとは河を神格化した女神」(図録より)であり、『リヴ・ヴェーダ』はその存在を3篇の単独讃歌で示しているそうです。 このサラスヴァティーが仏教に取り入れられて弁才天となります。この「弁才天像」(愛知・乾坤院蔵)は鎌倉時代・13世紀のの作。前期として、琵琶湖の竹生島にある宝厳寺の「弁才天像」図も展示されています。ここには『金光明最勝王経 巻第七』(奈良・西大寺蔵)が展示され、そこには8本の腕に武器などを持つもう一つの姿の弁才天が登場します。この記述の箇所は、研究の結果「実は戦闘女神・ドゥルガーを讃えるヒンドゥー教の文献からの引用だったことが判明しました」(図録より)とのこと。弁才天はドゥルガーでもあったのです。図像集の「十巻抄 巻十」(岡山県立博物館蔵)所載の八臂の弁才天像が展示されています。これも彩色がきれいに維持されています。 この八臂の弁才天坐像(滋賀・宝厳寺蔵)は、室町・弘安3年(1557)、重清作です。他にも図像や木像が並べて展示されています。 これは当日鑑賞後に購入した図録です。裏表紙の上部の左に上掲二臂の弁才天が使われています。右部分を取り出すと、 これは「荼柷尼(荼吉尼)天曼荼羅」(大阪市立美術館蔵)です。室町時代・15世紀の作。ダキニ天は、ヒンドゥー教の鬼女・ダキーニーが源流です。仏教に取り入れられたダキニ天は日本で稲荷信仰と習合して行きます。そして、水や稲作を司る農耕神としての側面をもつようになります。<第5章 観音になった女神-性を超えた聖->最初に、『妙法蓮華経 巻第八』(香雪美術館蔵)、『観世音菩薩普門品経』(龍谷大学図書館)が展示されています。観音菩薩について説いた妙法蓮華経の観世音菩薩普門品経第二十五は良く知られたところです。ここでは仏教に取り入れられた女神が様々な菩薩として位置づけられる経緯を扱っています。いくつかのターラー坐像、ターラー像が展示されています。ターラーという語は「瞳」を意味するとか。そこから、「ターラーの起源は『観音の瞳から放たれた光明から出現した』あるいは『観音の瞳から落ちた涙がたまって池となり、そこに咲いた蓮華の花の中から生まれた』と説明されることがある。」(図録より)とのこと。ターラー女神=多羅菩薩となり、胎蔵界曼荼羅にある蓮華部院の中に多羅菩薩が描かれるようになったそうです。「インドにおいては、ダーラニー(陀羅尼)を称えて特定のほとけや神々の加護を受けるという考えが発展し、多くの女神が誕生しました。」(図録より)その女神の一人に、チュンダー女神がいます。チュンダーとは鼓舞するという意味だとか。この女神が仏教に取りいれられ、「准胝観音」と称されます。准胝はチュンダーの音写です。平安時代10世紀の木造「准胝観音立像」(文化庁蔵)と、厨子に納められた准胝観音坐像(京都・泉涌寺蔵)が展示されています。前者の立像は今回の展示品の中では大きな作品のひとつです。後者の坐像は、江戸時代・17世紀の作。興味深いのは、准胝観音の坐す蓮華座の茎が池中から両脇侍より高い位置まで伸びています。その太い茎に龍が絡み付いているという意匠です。脇侍は二龍王でその装束は中国風に見えます。 図録表紙の左上に使われています。パンダラー女神は東アジアでは白衣観音と呼ばれるようになります。そして、三十三観音の一尊とみなされるように。 こちらは図録表紙の左下に使われています。左手に籠を持っています。籠の中に入っているのは鯉魚。この「魚藍観音像」(香雪美術館蔵)は中国の作品で後期の展示予定です。前期は別の「魚藍観音像」が展示されています。紙本墨画淡彩で室町時代・15~16世紀の作です。 最後に興味深い3点の小像が展示されています。「観音菩薩童子像(マリア観音)」(東京国立博物館蔵)です。これは17世紀の作。3点とも明~漢時代の中国のもの。福建省の徳化窯で焼成された白磁の像。安政3年(1856)の「浦上三番崩れ」で奉行所が押収した79点のうちに含まれていた作だとか。マリア観音と括弧書きしてある意味がよくわかります。今回、一番印象深いことは、観音の女性化という表現でした。観音(または観自在)菩薩は、インドのサンスクリット語の原語では必ず男性として認識されていたという説明を会場で読みました。サンスクリットでは名詞は男性・中性・女性に区分されていて、男神か女神かが明確に区分されているそうです。仏教の伝搬の広がりの中で、インドの女神が仏教に取り入れられて行きます。観音菩薩になった女神も生まれます。東アジアに仏教が伝搬してくると、東アジアには名詞に男女の区別がないことも影響してか、中国での大衆信仰の広がりの中で観音が女性化するという変容が生まれてきたと言います。最後に展示されていたマリア観音がまさにその典型といえそうです。勿論、そこには意図的な擬制がなされたとはいえますが。一方、女性化した観音を制作することに抵抗感がないという次元に至っていたと言えるかもしれません。この辺でご紹介を終わります。参考資料*図録『アジアの女神たち』 龍谷大学龍谷ミュージアム編集 2021*出品リスト「アジアの女神たち」補遺龍谷大学龍谷ミュージアム ホームページデーヴィー・マーハートミヤ :ウィキペディアリグ・ヴェーダ :ウィキペディア三十三観音 :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2021.09.30
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京阪宇治線・六地蔵駅の少し東側を山科川が流れ、このあたりで南下してきた川筋が西方向に屈曲し六地蔵駅の南側を流れ、やがて宇治川に合流します。 山科川に架かる京阪電車の架橋に近い左岸で赤く咲く花が目にとまりました。近くまで堤を下りてみました。 彼岸花です。友人のブログ記事で、亀岡の彼岸花の里に咲き誇る花の写真に魅了されました。古本市場を久しぶりに覗く序でに、山科川の堤防を少し散歩してみようと思いたちました。川沿いに彼岸花が見られるかもしれない・・・・・と。やはり、咲いていました。最初に目に止まったのがここです。 わずかですが、彼岸の時季にあわせるように咲き誇っています。植物学者は和名でヒガンバナと称するそうです。「曼珠沙華(まんじゅしゃげ)」という名でも知られています。国語辞典には、曼珠沙華をヒガンバナの異名、別名と説明しています。 京阪六地蔵駅側から山科川の右岸(西岸)沿いに、モモテラスというショッピングセンターを目指します。こちらの堤にも彼岸花をみつけました。手許にある歳時記の索引で「彼岸花」を引くと、秋の季語「曼珠沙華」に導かれます。その説明の中に彼岸花が併記されています。そして、「まんじゅさげ」とルビが振られている歳時記(資料1,2)、「まんじゅしゃげ」とルビを振る歳時記(資料3)、両方を併記する歳時記(資料4)があります。曼珠沙華はサンスクリット語の音写だそうです。サンスクリット語の綴りを見ますと、「さが」が音に近いのかもしれませんが、参照本自体は「まんじゅしゃげ」とルビを振っています。(資料5)諸本を併読しますと、曼珠沙華は梵語(サンスクリット語)で赤い花という意味と説明を加え(資料3,4)ているものと、一方で、色には触れずに、「柔軟花」「円華」と漢訳されるとだけ説明するもの(資料5)があります。彼岸頃には符節をあわせるように、曼珠沙華の花が咲きます。花茎だけが30~40cmくらいに伸びその頂に蕊(しべ)の長い真っ赤な花が輪状に咲いています。花が散った後に細長く深緑色の葉が出てくるそうです。(資料1~4)ネット検索をしてみて、白い曼珠沙華が存在することを知りました。私は実物は未見です。補遺をご覧ください。一度、実物を眺めてみたいものです。諸歳時記から句を引用します。 ちらほらとありどつとあり曼珠沙華 山本多可史 彼岸花光りあかるき橋のうら 赤岡俊江 曼珠沙華どこそこに咲き畔に咲き 左右 彼岸花の傍に咲く花。白い花はゼフィランサス(タマスダレ)かも・・・・(自信はありません)。その手前の花は何だったか・・・不詳。 JR奈良線の高架下をくぐり、その先で対岸をみますと、繁茂する雑草(?)の中に、赤いものがちらりと見えます。 デジカメでズームアップして撮ってみますと、ここにも彼岸花が緑のただ中に咲いています。 対岸の火として眺む曼珠沙華 野村登四郎 火の国の火よりも朱し曼珠沙華 清水徹亮 空澄めば飛んで来て咲くよ曼珠沙華 及川 貞モモテラスの敷地を横断して、古本市場に立ち寄った後、再び山科川の堤防に戻ります。京阪六地蔵駅から川沿いにあるショッピングセンター、モモテラスの少し先辺りまでは、山科川が京都市と宇治市の境界線になっています。それより北は伏見区のエリアになり、その北が山科区になります。川を遡行する形で、右岸(西岸)の堤防上を北に歩みます。 対岸にみえるのは現存する京都市の東部クリーンセンター跡地の建物のようです。この手前の堤にも、わずかですが赤い色が見えます。 さらに北上しますと、対岸にかなり距離を隔てて、赤い部分を見つけました。 これらもズームアップしてみますと曼珠沙華(彼岸花)です。激しさすら感じる赤い色。美しい花。しかし、お彼岸の頃に、墓地近くによく咲くからでしょうか、忌み嫌われがちの花だとか。死人花、幽霊花、捨子花、天涯花、狐花、狐の嫁子などとも呼ばれるといいます。(資料1~4)また、リコリンを含む毒草でもあるそうです。(資料4)一方で、「アルカロイド系のかなり強い毒を有することは事実であるが、この毒は水に晒すことによって容易に除去することができ、球根からは極めて良質の澱粉がとれる。」といい、「曼珠沙華は山林原野にほとんど見られず、水田の畦に群生するが、これは飢饉への備えとして先人が植えたからである。」という説明にも出会いました。(資料6)一転してほっとする思いも湧きますね。 西国の畔曼珠沙華曼珠沙華 森 澄雄 遠き畔近づけてをり曼珠沙華 山田閏子 バス降りて徒歩で十分曼珠沙華 河村玲波 遠くから妻の墓見え彼岸花 鶴原虎児 曼珠沙華かたまって燃え飛んで燃え 夏秋仰星子 むらがりていよいよ寂しひがんばな 日野草城 燃えうつることなく燃ゆる彼岸花 桔梗きちかう対岸に市営大受団地の建物群を眺めつつさらに進むと、山科川に東北側から川が流れ込む合流地点があります。 その合流箇所には、川中に飛石の渡りが設けてあります。そこで、さらに北の橋まで歩かずにここで左岸に渡ることにしました。 河原に下ると、飛石はコンクリート製で、1つおきに蟹の形に似せてあります。 最初の蟹さん お尻側が先に目に止まる2つ目の蟹さん 合流する川側の飛石の渡り 左岸(東岸)に出て、ここから引き返します。北西方向には府営北後藤団地の建物群が見えます。 堤防上の防護柵のこちら側にはエノコログサの一種が群生しています。 「エノコログサは狗尾草と書く。これは花穂を子犬の尾にたとえたものだが、花穂で猫をじゃらすと猫が喜ぶんのでネコジャラシともいう」(資料7)とか。イネ科の植物。 アオサギでしょうか。 一羽がぽつねんと川面を眺めているように感じました。獲物の有無をウォッチングしているのでしょうか。彼岸花を見つけながら歩いてきたせいか、その佇まいをわびしさにむすびつけたくなります。 草茫々の左岸河原を眺めていくと、僅かに赤点が見えます。 防護柵に臂を固定させて目一杯ズームを拡大してみました。 曼珠沙華の大輪の赤い花の姿が見やすい写真が撮れました。参照資料2を読んだとき、季語解説の末尾に「仏の説教する時分にまんじゅさげが天から降ってきたということが御経にある」という一文が記されています。どの御経なのか?その関心の波紋でネットを検索して得たのが、参照資料6です。そこから原典に辿ってみました。「妙法蓮華経序品第一」の冒頭の経文から、最初の偈(詩頌)に入る前の一区切りの経文範囲の後半に、この曼珠沙華という言葉が出て来ます。「仏はこの経を説き己って結跏趺坐し、無量義処三昧に入りて、心身動じたまわざりき。この時、天は蔓陀羅華・摩訶曼陀羅華・蔓殊沙華・摩訶蔓殊沙華を雨(ふら)して仏の上及び諸(もろもろ)の大衆に散じ、普(あまね)く仏の世界は六種に震動す。」(資料8)天がマンダラケ、マカマンダラケ、マンジュシャケ、マカマンジュシャケの四華を供養したと述べています。この四華は音写された言葉です。注を転記してみます。曼荼羅華とは「適意華と訳し、その色美妙にして見る者の意を悦ばしめる天の華」曼珠沙華とは「柔軟華と訳し、見る者をして剛毅を離れしめるという天の華」を意味する想像上の華です。摩訶は「大いなる、非常の」という意味です。「摩訶不思議(まかふしぎ)」という使い方でも出てくる言葉。これも音写です、仏が法華経を説かれた時に天が瑞兆を示されたことを表現しているそうです。 右岸には彼岸花を見かけないな・・・と思っていたら。やはりぽつんと咲いているのを発見! 右岸から見ている時に気づかなかった左岸の箇所に最後に見つけた彼岸花です。まさにこのわずか一、二本咲く曼珠沙華からは、次の句と重ねてイメージを広げることができました。 うたたねや野に一本の曼珠沙華 島 みえ 曼珠沙華二本づつ立ち雨の中 阿部みどり女 曼珠沙華赤衣の僧のすくと立つ 角川源義 同じ赤い花ですが、この花も咲いています。対岸から眺めていました。左岸に回れば近くで撮れそうだったので、巡って来てから最後に撮りました。 ランの一種でしょうか。私には判別できません。手許の小図鑑でヒガンバナの項を読みますと、「中国原産の多年草で、古い時代に日本に入ったと考えられている。」と。上掲歳時記にも触れているのがあります。また、上記のネット検索で得た情報と重なることとして、「有毒植物だが、鱗茎をすりつぶして、水でよくさらせば食用になる。昔、飢饉のときに利用した。」と説明されています。畔にヒガンバナが植えられているのも大きな意味があったのですね。(資料7)これらは初めて知った知識です。また、小図鑑に「ヒガンバナの白花」の写真が収録されていました。大昔に買った本。今、初めて読んだ項です。ちょっとなさけない・・・・・。最後に、手許の歳時記で曼珠沙華の句を読んでいると、天空と曼珠沙華を対置した雄大な句も収録されています。 つきぬけて天上の紺曼珠沙華 山口誓子 咲きそめて雲のつめたさ曼珠沙華 野見山朱鳥やはり、彼岸花は美しい花です。 ご一読ありがとうございます。参照資料1)『改訂版ホトトギス 新歳時記』 稲畑汀子編 三省堂2)『季寄せ 改訂版』 虚子編 三省堂3)『合本 現代俳句歳時記』 角川春樹編 角川春樹事務所4)『吟行版 季寄せ 草木花 秋[上]』 加藤楸邨 選・監修 朝日新聞社5)『岩波 仏教辞典 第二版』 中村・福永・田村・今野・末木 編集 岩波書店6)「曼珠沙華」:「教員エッセイ 読むページ」(大谷大学)7)『山渓ポケット図鑑3 秋の花』 山と渓谷社 p308-3098)『法華経 上』 坂本幸男・岩本裕訳註 岩波文庫 p18補遺白い彼岸花 白花彼岸花(シロバナヒガンバナ)の特徴や様子珍しい!純白の曼珠沙華、見る者の悪業をはらう 埼玉・熊谷の石上寺に400本咲いて見頃にゼフィランサス :「花と緑の図鑑」ゼフィランサス(タマスダレ)の花言葉と育て方|球根の植え方や時期は?:「HORTI」山科川 :ウィキペディア山科川/山科音羽川 [8606040774] 淀川水系 地図 | 国土数値情報河川データセット源流(起点)を訪ねる 『山科川~その18』 :「Open Matome」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2021.09.26
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それでは、郡部に移ります。愛知郡東郷町 涼松(スズミマツ)、諸輪(モロワ)海部郡大治町 なし海部群蟹江町 なし海部郡飛島村 なし北設楽郡設楽町 荒尾(アロオ)、神田(カダ)、西納庫(沖ノ平)(ニシナグラ(オキノタイラ)) 三都橋(ミツハシ)北設楽郡東栄町 なし北設楽郡豊根村 なし知多郡阿久比町 阿久比(アグイ)、植大(ウエダイ)知多郡武豊町 会下(エゲ)、上起(カミオコシ)、廻間(ハザマ)、壱畝町(ヒトセマch)知多郡東浦町 生路(イクジ)知多郡南知多町 なし知多郡美浜町 古布(コウ)、河和(コウワ)、布土(フット)西春日井郡豊山町 なし丹羽郡大口町 大御堂(オミド)、河北(コギタ)、御供所(ゴゴショ)、伝右(デンネ) 外坪(トツボ)丹羽郡扶桑町 斎藤(サイト)、南山名(ミナミヤナ)額田郡幸田町 上六栗(カミムツグリ)、逆川(サカサガワ)、深溝(フコウズ)参照資料郵便番号検索 愛知県付記1)郡部を眺めて行きますと、かなりの町村が市域に統合されて郡部が縮小しています。 現在の郵便番号簿で、郡部からは消えた町村名の統合状況を列挙してみます。 愛知郡 長久手町⇒長久手市 海部郡 佐織町・佐屋町・立田村・八開村 ⇒ 愛西市 七宝町・甚目寺町・美和町 ⇒ あま市 十四山町・弥富町 ⇒ 弥富市 西春日井郡 清洲町・新川町・西枇杷島町・春日町 ⇒ 清須市 師勝町・西春町 ⇒ 北名古屋市 額田郡 額田町 ⇒ 岡崎市2)郡部内で統合された町村もあます。 北設楽郡 津具村 ⇒ 設楽町、 富山村 ⇒ 豊根村3)郡部名が市制化により消滅したところもあります。7つの群名が廃されました。 渥美郡 赤羽根町・渥美町・田原町 ⇒ 田原市 中島郡 祖父江町・平和町 ⇒ 稲沢市 西加茂郡 小原村・藤岡町 ⇒ 豊田市、 三好町 ⇒ みよし市 葉栗郡 木曽川町 ⇒ 一宮市 幡豆郡 一色町・吉良町・幡豆町 ⇒ 西尾市 東加茂郡 旭町・足助町・稲武町・下山村 ⇒ 豊田市 南設楽郡 作手村・鳳来町 ⇒ 新城市ご一読ありがとうございます。補遺渥美郡 :ウィキペディア中島郡(愛知県) :ウィキペディア西加茂郡 :ウィキペディア葉栗郡 :ウィキペディア幡豆郡 :ウィキペディア東加茂郡 :ウィキペディア南設楽郡 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)今までに難読地名さがしをした地域は、こちらの地域一覧をご一読いただけるとうれしいです。観照 私的に難読地名さがしを行った地域一覧
2021.09.24
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愛知県のカ行以降の都市の地名について、私的な難読地名さがしの机上旅を続けたいと思います。春日井市 味美上ノ町(アジヨシカミノチョウ)、杁ケ島町(イリガシマチョウ)、内津町(ウツツチョウ) 上田楽町(カミタガラチョウ)、高座台(タカクラダイ)、廻間町(ハザマチョウ)刈谷市 一色町(イシキチョウ)蒲郡市 西迫町(ニシハサマチョウ)、拾石町(イロイシチョウ)北名古屋市 鍜治ケ一色(カジガイシキ)清須市 下津町(オリヅチョウ)、西枇杷島町一反五畝割(ニシビワチョウイッタンゴセワリ)、北二ツ杁(キタフタツイリ) 下砂入(シモスイリ)、廻間(ハサマ)、春日上須ケ田(ハルヒカミスカタ)、小松生(コマツバエ) 砂賀東(スカヒガシ)、大河戸(タイコウド)、江南市 小杁町一色(オイリチョウイッシキ)、高屋町中屋舗(タカヤチョウナカヤシキ)、野白町葭場(ノバクチョウヨシバ) 東野町鐘鋳山(ヒガシノチョウカネイリヤマ)、宮田町生原(ミヤタチョウハイバラ)、小牧市 春日寺(カスガンジ)、久保一色(クボイシキ)、下小針天神(シモオバリテンジン)、新小木(シンコキ)新城市 有海(アルミ)、玖老勢(クロゼ)、出沢(スザワ)、作手荒原(ツクデアワラ)、田原(ラバラ) 黄柳野(ツゲノ)、富岡(○○屋敷)(トミオカ(ヤシキチク))、富栄(トミサカ) 瀬戸市 汗干町(アセビチョウ)、海上町(カイショチョウ)、上半田川町(カミハダガワチョウ)、小空町(コノソラチョウ) 西印所町(ニシインゾチョウ)、西十三塚町(ニシトミヅカチョウ)、巡間町(ハザマチョウ) 刎田町(ハネダチョウ)高浜市 碧海町(アオミチョウ)、田原市 越戸町(オットチョウ)、神戸町(カンベチョウ)、古田町(コダチョウ)、波瀬町(ハゼチョウ) 馬伏町(バブシチョウ)、日出町(ヒイチョウ)、六連町(ムツレチョウ)、吉胡台(ヨシゴダイ)知多市 佐布里(ソウリ)知立市 谷田町(ヤタチョウ)津島市 杁前町(イリマエチョウ)、鹿伏兎町(カブトチョウ)、新開(シンガイ)、立込町(タテコミチョウ) 椿市町(ツバイチチョウ)、莪原町(バイバラチョウ)、東海市 なし常滑市 飛香台(カスカダイ)、奥夏敷(オクナチキ)、乙田(オコダ)、北古千代(キタゴチヨ) 小鈴谷(コスガヤ)、社辺(コソベ)、蛇廻間(ジャバサマ)、堕星(ダタボシ)、飛渡川(トンドガワ) 花狭間(ハナバサマ)、斧口(ヨキグチ)豊明市 大久伝町(オオクデチョウ)、栄町(姥子)(サカエマチ(ウバコ))、豊川市 国府町(コウチョウ)、三蔵子町(サンゾウゴチョウ)、蔵子(ゾウシ)、千両町(チギリチョウ) 当古町(トウゴチョウ)、御津町赤根百々(ミトチョウアカネドウドウ)、谷田入(ヤダイリ) 大草神場(オオクサカンバ)、西分莚(ニシフンムシロ)、金野足見(カネノタルミ)、徳寒(トクサブ 下佐脇洗出(シモサワキアライダシ)、引通(ヒキトオシ)、豊沢払田(トヨサワハライデン)、泙野(ウナギノ) 広石越川(ヒロイシオッカワ)、金堂(カナドウ)、豊田市 浅谷町(アザカイチョウ)、安実京町(アジキョウチョウ)、明賀町(アスガチョウ)、明川町(アスカワチョウ) 蘭町(アララギチョウ)、有間町(アンマチョウ)、一色町(イシキチョウ)、上八木町(ウワヤギチョウ) 上挙母(ウワゴロモ)、大ケ蔵連町(オオガゾレチョウ)、乙ケ林町(オカバヤシチョウ) 鴛鴨町(オシカモチョウ)、国閑町(カイゴチョウ)、上渡合町(カミドアイチョウ)、苅萱町(カルカヤチョウ) 榑俣町(クレマタチョウ)、挙母町(コロモチョウ)、篠原町(ササバラチョウ)、閑羅瀬町(シズラセチョウ) 枝下町(シダレチョウ)、李町(スモモチョウ)、葛町(ツヅラチョウ)、手呂町樋田(テロチョウトイタ) 百月町(ドウツキチョウ)、百々町(ドウドチョウ)、中垣内町(ナカガイトチョウ)、成合町(ナライチョウ) 迫町(ハサマチョウ)、林添町(ハヤシゾレチョウ)、東渡合町(ヒガシドアイチョウ)、平折町(ヒロリチョウ) 簗平町(ヤナダイラチョウ)、山谷町(ヤマガイチョウ)、豊橋市 飽海町(アクミチョウ)、飯村北(イムレキタ)、雲谷町(ウノヤチョウ)、曲尺手町(カネンテチョウ) 東雲町(シノノメチョウ)、下地町(大圦)(シミジチョウ(オオイリ))、操穴(クリアナ) 嵩山町(スセチョウ)、仁連木町(ニレンギチョウ)、橋良町(ハシラチョウウ)長久手市 茨ケ廻間(イラガバサマ)、杁ケ池(イリガイケ)、榎ノ下(エノシタ)、香桶(コオケ) 小深(コブケ)、松杁(マツイリ)、岩作石田(ヤザコイシダ)、欠花(カケハナ)、三ケ峯(サガミネ) 床寒(トコサム)、泥亀首(トチクビ)、長筬(ナガオサ)、向畑(ムカエバタ)、櫨木(ロウボク)西尾市 家武町(エタケチョウ)、大給町(オギュウチョウ)、吉良町乙川(キラチョウオッカワ)、駮馬(マダラメ) 宮迫(ミヤバ)、花蔵寺町(ケゾウジチョウ)、巨海町(コミチョウ)、志籠谷町(シコヤチョウ) 新渡場(シンドバ)、西小梛町(ニシコナギチョウ)、西幡豆町(ニシハズチョウ)日進市 なし半田市 阿原町(アワラチョウ)、乙川一色町(オツカワイシキチョウ)、北滑草町(キタナメソウチョウ) 吉田町(キッタチョウ)、東雲町(シノノメチョウ)、清城町(セイシロチョウ)、滑楚町(ナメソチョウ) 成岩東町(ナラワヒガシチョウ)、西生見町(ニシハエミチョウ)、兀山町(ハゲヤマチョウ) 岩滑北浜町(ヤナベキタハマチョウ)、碧南市 沢渡町(サワタリマチ)、葭生町(ヨシオイマチ)、みよし市 莇生町(アザブチョウ)、福谷町(ウキガイチョウ)弥富市 桴場(イカダバ)、稲狐町(イナコチョウ)、鯏浦町(気開)(ウグイウラチョウ(キトク)) 加稲(カイナ)、三稲(サント)、平島町(喜右味名)(ヘイジマチョウ(キアジナ)) 楽平(ヨシヒラ)参照資料郵便番号検索 愛知県補遺*尾西市は2005年4月1日に一宮市に編入され、同日廃止となった。 尾西市 :ウィキペディア 一宮市 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)今までに難読地名さがしをした地域は、こちらの地域一覧をご一読いただけるとうれしいです。観照 私的に難読地名さがしを行った地域一覧
2021.09.15
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コロナ禍で、探訪に出向くのを控えています。そこで、久々に・・・・郵便番号リストを検索してみました。私基準の地名判読、私的な覚書です。地名はやはりおもしろい。甲信越地方から、西南方向の東海地方に移ります。一般には愛知県、岐阜県、三重県、静岡県をさしますので、この順番で私的な難読地名さがしの机上旅を続けたいと思います。おつきあいくださるとうれしいです。名古屋市 [熱田区] 尾頭町(オトウチョウ)、木之免町(キノメチョウ)、切戸町(キレトチョウ)、神戸町(ゴウドチョウ) 須賀町(スカチョウ)、波寄町(ナミヨセチョウ)[北区] 織部町(オベチョウ)、垣戸町(カイドチョウ)、楠味鋺(クスノキアジマ)、猿投町(サナゲチョウ) 憧旛町(ドウバンチョウ)、八龍町(ヤチリュウチョウ)、真畔町(マグロチョウ)、[昭和区] 御器所(ゴキソ)、[千種区] 猪高町猪子石猪々道(イタカチョウイノコイシシシミチ)、稲舟通(イナフネトオリ)、香流橋(カナレバシ) 田代町(瓶杁)(カメイリ)、(蝮ケ池上)(マムシガイケガミ)、千種(チクサ) 仁座町(ニザチョウ)、猫洞通(ネコガホラトオリ)[天白区] 菅田(スゲタ)[中川区] 一色新町(イシキシンマチ)、尾頭橋(オトウバシ)、供米田(クマイデン)、五女子(ゴニョウウシ) 富田町包里(トミタチョウカノサト)、富田町千音寺(トミタチョウセンノンジ)富田町榎津(ヨノキズ) 長須賀(ナガスカ)、新家(ニイエ)、八剱町(ハチケンチョウ)、東起町(ヒガシオコシチョウ)[中区] なし[中村区] 乾出町(イヌイデチョウ)、猪之越町(イノコシチョウ)、栄生町(サコチョウ)、長筬町(ナガオサチョウ) 鈍池町(ニブイケチョウ)[西区] 稲生町(イノウチョウ)、上小田井(カミオタイ)、栄生(サコウ)、十方町(トホウチョウ)[東区] 主税町(チカラアマチ)、[瑞穂区] 御莨町(オタバコチョウ)、大殿町(オトドマチ)、佐渡町(サワタリチョウ)、春敲町(シュンコウチョウ) 十六町(ソロチョウ)、直来町(ナオライチョウ)、仁所町(ニショチョウ)[緑区] なし[港区] 土古町(ドンゴチョウ)[南区] 駈上(カケアゲ)、堤起町(ツツミオコシチョウ)、呼続(ヨビツギ)[名東区] 香流(カナレ)[守山区] 上志段味(カミシダミ)、吉根(キッコ)、愛西市 後江町(ヒツエチョウ)、二子町定納(フタゴチョウジョウノ)、日置町(ヘキチョウ) 持中町(モッチュウチョウ)あま市 甚目寺(ジモクジ)、安城市 篠目町(ササメチョウ)、城ケ入町(北立出)(キタタテダシ)、(団戸)(ダンド)一宮市 浅井町河田(アザイチョウコウダ)、今伊勢町新神戸(イマイセチョウシンカンベ)、宮後(ミヤウシロ) 起(オコシ)、萩原町築込(ハギワラチョウツキコミ)、真清田(マスミダ)、柚木颪(ユギオロシ) 枠杁町(ワクイリチョウ)稲沢市 朝府町(アザブチョウ)、一色青海町(イシキアオカイチョウ)、下津油田町(オリヅアブラデンチョウ) 北麻績町(キタオウミチョウ)、木全(キマタ)、陸田一里山町(クガタイチリヤマチョウ) 国府宮(コウノミヤ)、平江向町(タイラエムカエチョウ)、中之庄堤畔町(ナカノショウツツミグロチョウ) 生出上山町(ハイデカミヤマチョウ)、生出河戸町(コエドチョウ)、平和町(下起北)(シモコシキタ) 増田北町(マシタキタマチ)、目比町(ムクイチョウ)、梅須賀町(メスカチョウ)、矢合町(ヤワセチョウ)犬山市 杁下(イリシタ)、倉曽洞(クラソボラ)、継鹿尾(ツガオ)、羽黒摺墨(ハグロスルスミ) 前原味鹿(マエハラアジカ)、藪畔(ヤブグロ)、岩倉市 大山寺町(タイサンジチョウ)大府市 一屋町(ヒトツヤチョウ)、岡崎市 生平町(オイダイラチョウ)、小美町(オイチョウ)、上衣文町(カミソブミチョウ) 上六名(カミムツナ)、木下町(キクダシチョウ)、 桑谷町(クワガイチョウ)、菅生町(スゴウチョウ) 千万町町(ゼマンジョウチョウ)、鶇巣町(トウノスチョウ)、冨尾町(トンビュウチョウ) 百々町(ドウドチョウ)、仁木町(ニッキチョウ)、保久町(ホッキュウチョウ)、花崗町(ミカグチョウ) 明大寺町大圦(ミョウダイジチョウオオイリ)、矢作町(ヤハギチョウ)、米河内町(ヨナゴウチチョウ) 蓬生町(ヨモギュウチョウ)、六供町(ロックチョウ)、渡通津町(ワツヅチョウ)尾張旭市 北原山町鳴湫(キタハラヤマチョウナルクテ)、六田池(ムタイケ)、下井町刎内(シモイチョウハネウチ) 東大道町曽我廻間(ヒガシダイドウチョウソガサマ)、向町(ムカエチョウ)参照資料郵便番号検索 愛知県付記「愛知県の郵便番号」を利用しています。行政上の地域統廃合の状況がわかります。ア行の範囲でみると、次回以降の都市名を含めて、次の統合が進んでいます。 愛知郡長久手町 ⇒ 長久手市 渥美郡 赤羽根町・渥美町・田原町 ⇒ 田原市 海部郡 佐織町・佐屋町・立田村・八開村 ⇒ 愛西市 海部郡 七宝町・甚目寺町・美和町 ⇒ あま市 海部郡 十四山村・弥富町 ⇒ 弥富市今までに難読地名さがしをした地域は、こちらの地域一覧をご一読いただけるとうれしいです。観照 私的に難読地名さがしを行った地域一覧
2021.09.11
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8月初旬、天気が良く暑い中を、京都国立博物館に行きました。恒例ですが、七条通沿いに設置された特別展「京(みやこ)の国宝」開催の大きな案内パネルを撮りました。 チケットの半券 2017年には、京都国立博物館120周年記念特別展覧会「国宝」が実施されました。手許の図録を久しぶりに見ますと、関西では41年ぶりの国宝展ということでした。「縄文から近世に至るまで、日本の悠久の歴史と美を伝える210件の国宝が集結します。」と「ごあいさつ」に記されています。前期・後期の入れ替えがありましたから、実際に鑑賞した件数は少し少なかったと思います。今回は「京(みやこ)の」という言葉が冠されています。 これは、当日会場で入手した「京都国立博物館だより 2021年7・8・9月号」。掲載記事を読みますと、今回の特別展には少し経緯があるようです。当初は昨年(令和2年)の春に文化庁主催のもとで京都市京セラ美術館での実施が予定されていたそうです。ところが新型コロナウィルス感染拡大防止のために中止となったのです。展覧会名をそのままで会場をこちらの平成知新館に移し、「内容を大きく拡大し、新たな形で」開催することになったようです。展覧会名に「京の」と冠してあるのは、「京都の人や文化に関わる数多の名高い国宝、皇室の至宝」に絞り込んだ形での展観という趣旨になります。そして、「文化財のもつ不滅の魅力とその意義、またそうした貴重な品々を守り伝えてきた我が国の文化財保護のあゆみをご紹介します」という観点もこの展覧会の意図だと言います。(資料1)展示品の中でハイライトの一つは、この博物館だより表紙の上部に使われている長谷川等伯筆「松に秋草図屏風」(京都・智積院蔵)です。これは8/22までの前期展示です。このたより表紙には、2曲1双の右隻の部分図が使われています。 こちらは、同図の左隻の部分図で上掲博物館だよりからの引用です。冒頭の七条通に面した特別展案内パネルの右側にこの左隻の部分図が使われています。巨大な松が右から左斜め方向に大きく枝を伸ばしている中に秋の草花が大きく描かれています。この基本構図には狩野永徳の屏風絵の構図の影響が見られると言います。また、元は6面あった襖の内の4面を屏風に改装されたものと分析されています。画面に連続性が欠けるところがあるのはそこに原因があるとか。(資料2)かつて智積院内で拝見しましたが、久しぶり白い顔料が盛り上がったところや松の巨木の描き方を間近で眺めると迫力を感じます。後期の期間の前2/3は宗達の「風神雷神図屏風」に替わり、後1/3は蕪村の2作品に入れ替わるそうです。(資料3) 入口で体温チェックを受けて、平成知新館に向かいます。 定位置に、特別展へのウエルカム・パネルが設置されています。 展覧会のPRチラシ2つ折A4サイズのPRチラシです。この表紙にも、左隻の部分図が使われています。チラシに掲載の図も引用し、少しご紹介します。展示会場は平成知新館の3階から始まり、2階、1階へと各展示室を巡覧しながら下って行きます。「第1章 京都-文化財の都市」は、「<1> 文化財指定のあゆみと京都」という観点で、文化財保護に関わる京都府の行政文書類や古社寺保存法・国宝保存法関連文書などが展示されています。文化財保護への制度確立過程の記録文書類という舞台裏の開示です。研究者でない一般鑑賞者には、努力・経緯はわかりますが、ああ、そうか・・・くらいで、まあ、おもしろみには欠けるでしょう。変わり種は「ガラス乾板」つまりネガ・フィルムに相当するものが2枚展示されています。「神護寺蔵五大虚空藏菩薩坐像・安祥寺蔵五智如来坐像」(資料1)ポジの陽画も併せて展示されています。こちらは現物を見る興味が湧きます。続きに「<2> 最初の国宝-昭和26年6月9月指定」に移ります。 これは鑑賞後に購入した図録です。購入時点では表紙をさらりと見ただけで館内から出ました。自宅で見直して、この表紙・裏表紙に使われている絵が、絵第18号として、この昭和26年に指定された最初の国宝の一つであることを再認識しました。6曲屏風1隻が、文化財保護委員会名で国宝に指定されています。明治30年12月古社寺保存法の制定時点で、最初に国宝に指定されていて、昭和の文化財保護法に切り替わった時点でも、最初の国宝に指定された作品でした。 図録表紙には、屏風の第3扇・第4扇の箇所が使われています。平安時代(11世紀)の絹本着色で、唐絵の山水屏風です。草庵に座し詩作にふける老隠者を貴公子が訪れる、そんな場面を描いています。衣服は中国風。上部に遠くの山々が見え、広大な自然風景が描かれています。もとは、内裏あるいは貴族の邸宅の調度品だったものが密教寺院に持ちこまれ、東寺に伝来した品だそうです。「古来、密教寺院で潅頂に用いた屏風のことを『山水屏風』と呼んだ」(資料2)と言います。 第1扇の下部に描かれて部分図方向を考慮すると、老隠者を訪問した後、貴公子の帰路を描いているようです。剥落がかなり進行している感じ。従者のさす傘の白さがなぜか印象的でした。後期は有名な京都・退蔵院蔵の如拙筆「瓢鮎図」に入れ替わる予定です。 「御堂関白日記」自筆本も展示されています。前期は寛弘元年上巻の箇所です。後期は寛弘8年上巻に入れ替えられる予定です。料紙には一日三行どりの具注暦を使い、それに事細かく覚書が書き込まれています。所々に墨で塗り潰した箇所もあります。「第2章 京の国宝」は、<1>絵画、<2>書跡・典籍・古文署、<3>考古資料・歴史資料、<4>彫刻、<5>工芸品の5つのセクションで構成されています。<1>絵画上記長谷川等伯の屏風絵がここに展示されています。等伯が競い合った狩野永徳筆の国宝絵も勿論展示されています。京都・聚光院蔵の狩野永徳筆襖絵(38面)中の「琴棋書画図襖」4面が前期には展示されていました。後期は「花鳥図襖」に入れ替わる予定です。中国では士大夫は琴棋書画の四芸を嗜むことが必須とされたようです。この主題の絵は多くの人が描いています。永徳は狩野元信から継承した「細部まで丹念に描き込む真体手法に拠って」いて、その中に「やや面長で端正な面貌表現や樹木・岩の描法に永徳の個人様式が顕著である」と評されています。(資料2)永徳の絵に現れるダイナミックさは、未だ抑制されていて、松は繊細な描写の印象を受けました。一方で岩の描写には鋭さを感じます。久しぶりに雪舟筆「天橋立図」を鑑賞しました。後期は「山水図」に入れ替わる予定です。「法然上人絵伝」は過去から部分部分を鑑賞して来ていますが、この前期では第3巻を見ることができました。鎌倉時代(14世紀)の作品ですが彩色が綺麗に維持されています。後期は第9巻に入れ替わる予定です。他にも、「病草紙」「玄奘三蔵絵」や諸仏像画が出ています。<2>書跡・典籍・古文署「今昔物語集」、藤原定家筆「明月記」、「東寺百合文書」などの一端を見ました。実文書が残っていることに感心しながらも、その文面を判読できないことにいつものことながら残念な思いです。 こういう墨蹟で読めるのがあると親しめます。その筆致に筆者宗峰妙超の個性を感じる次第。中国・南宋時代の「禅院額字幷牌字」として「浴司」「普説」が出ています。豪快な書きっぷりです。後期は「方丈」「上堂」に入れ替えられる予定です。<3>考古資料・歴史資料奈良・金峯神社蔵の「金銅藤原道長経筒」と「金銅小野毛人墓誌」という良く知られたものが出ています。近江の「崇福寺跡」は探訪で訪れたことがあります。「崇福寺塔心礎納置品」を見ることができ、繋がってきました。また、「伊能忠敬関係資料」が出ています。その中の「東海道歴紀州及中国至越前沿海図(上)」はどれだけ詳細に地名などを書き入れているかがよくわかります。<4>彫刻 東寺(教王護国寺)蔵の「梵天坐像」がやはりハイライトの一つです。東寺の講堂内を荘厳する立体曼荼羅を構成する仏像群の中で、外側に護法神として配される6体の像の一つとしてこの梵天坐像が配されています。像高101.1cmの大きさの木像です。すぐ間近で様々な立ち位置から鑑賞できるのは、やはりいいですね。 宇治・平等院蔵の「雲中供養菩薩像」2体が、ガラスケースの中に展示されています。目の高さで細部まで鑑賞できるのがいい。安祥寺蔵「五智如来坐像」は今回の展示品になっていますが、寄託仏像としてここに常設展示されている国宝です。 京都・妙法院蔵の二十八部衆像の中から、この「摩睺羅(まごら)」像と「婆薮(ばすう)仙人」像が展示されています。二十八部衆は千手観音の眷属で、行者を守護する善神です。その尊名は典拠により小異があると言います。(資料4)<5>工芸品このセクションは前期と後期でかなり入れ替えが行われます。前期の密教法具は古神宝類と入れ替わり、前期展示の「春日大社若宮資料古神宝類」が、後期には4件の太刀・剣と入れ替えられます。 この「宝相華蒔絵宝珠箱」(京都・仁和寺蔵)は前期の展示品です。「方形入角被蓋(こうけいいりすみかぶせふた)造りの箱」で、「麻布を何枚も貼り重ねて成形した乾漆製で、箱の入角にみられるやわらかな曲線は、乾漆ならではの造詣といえよう」(p238)と説明されています。(資料2)角が内側に少し入り込んだ形になっています。装飾文様の宝相華は「中国、唐代に発達し、周辺諸国、ことに日本の奈良時代に流行。パルメット唐草などの諸要素を組み合わせた純粋な空想的花文様」(『日本語大辞典』講談社)です。蓋が本体をスッポリと覆う形になっているのがおもしろい感じです。 「熊野速玉大社古神宝類」の中の1点として出ている「菊蒔絵手箱」です。この古神宝類は通期で展示されますが、その内容に入れ替えがあります。この菊蒔絵手箱は前期の展示品です。後期は桐蒔絵手箱に入れ替えられる予定です。「第3章 皇室の至宝」の出展件数は前期、後期の入れ替えがありともに5件です。前期展示として「雲紙本和漢朗詠集下巻」を見ました。後期は小野道風筆「玉泉帖」に入れ替えの予定です。国宝の「春日権現記絵」は、通期展示ですが、前期は巻2、後期は巻7に入れ替え予定。絵は高階隆兼筆で、鎌倉時代(14世紀)の作品。彩色がきれいに維持されています。国宝ではありませんが、豪信筆「天子摂関御影」と岩佐又兵衛筆「小栗判官絵巻」は通期展示です。ただし巻の入れ替えが予定されています。前者は笏をを持ち、冠に束帯姿はワンパターンで、顔の線描で人物の特徴を捉えているのです。なかなか巧みな似絵です。岩佐又兵衛は浮世絵の元祖といわれる人。色鮮やかで人々が躍動しています。最後は「第4章 今日の文化財保護」というテーマで、<1>調査と研究、<2>防災と防犯、<3>修理と模造というセクション分けで展示されています。<1>にズラリと陳列された「金銀鍍宝相華唐草文透彫華籠」、<2>の金剛峯寺と東寺の仏像を撮ったガラス乾板、<3>の模造品の実物展示が特に印象に残りました。ひとつは模造複製された工芸品の文様の美しさです。もうひとつは複製され彩色された元の仏像の姿と長い歳月を経て現存する仏像とを対比したときの意識のギャップです。元の色彩にあふれた仏像はやはりすぐにはなじめません。だが、当時の人々は色彩豊かな仏像を眺めて信仰していたことを思うと、別次元のような気がします。平日の正午にまたがる時間帯に出かけたせいか、それほど来館者は多くはなく、静かに鑑賞できました。 平成知新館を出ると、例によって、次回の企画展の案内がウエルカム・パネルの裏面に大きく掲示されています。さて、最後は私的恒例の定点撮り。そう、ロダンの「考える人」を撮ることです。 「考える人」を遠望して、博物館から退出しました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1)「京都国立博物館だより 2021年7・8・9月号」 2) 図録『特別展 京の国宝 守り伝える日本のたから』 京都国立博物館 20213) 出品一覧・展示替え予定表 当日会場で入手4) 『図説 仏像巡礼事典 新訂版』 久野健[編] 山川出版社 p66補遺狩野永徳筆『琴棋書画図』(国宝) :「Japaaan」天橋立図 :「京都国立博物館」明月記 :「e國寶」国宝-考古|金銅藤原道長経筒[金峯神社/奈良] :「WANDER国宝」金銅小野毛人墓誌 名品紹介 :「京都国立博物館」法然上人絵伝 博物館ディクショナリー :「京都国立博物館」崇福寺跡 :「文化遺産オンライン」パルメット :「コトバンク」唐草文 :「コトバンク」唐草図鑑 象徴・文様・文化 ホームページ蒔絵 :ウィキペディア日本の伝統工芸を代表する技術|蒔絵 :「HEIANNDO」(漆器 山田平安堂)宗峰妙超 :ウィキペディア立体曼荼羅 :「東寺」天子摂関御影 :ウィキペディアをくり―伝岩佐又兵衛の小栗判官絵巻― :「宮内庁」 展覧会図録がダウンロードできます。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2021.08.22
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寝殿の北面に具現化された「絵合」の場面から、西側に回り込みます。西側の南側寄りには清少納言に因む有名な場面が具現化されています。番号8の箇所です。「香爐峰の雪」として知られているエピソードで、清少納言は『枕草子』第285段に記しています。簀子に置かれたものの上や高欄に雪が積もっています。「雪のいとう高く降りたるを、例ならず御格子まゐりて、炭櫃に火起こして集さぶらうに」(資料1、以下同じ)雪がとても高く降り積もっていたので、いつもとは違い、御格子をおろしたままで、炭櫃に火を起こして、大勢の女房たちが話をしつつ暖をとりながら、中宮定子の御前に侍っていますと、 「少納言よ、香爐峰の雪、いかならむと、おほせらるれば、」中宮定子は、降り積もる雪をふと連想し、「少納言よ、香爐峰の雪は、どうなんでしょうね」と語りかけたのです。 「御格子上げさせて、御簾を高く上げたれば」すると、お側に侍っていた清少納言は、黙ったまますっと静かに起ち上がり、まず閉じていた御格子を女房に上げさせます。その後自ら御簾を高く巻き上げました。そして、中宮様に外の雪景色をご覧いただいたのです。 「笑はせたまう」中宮定子は、我が意を得たりと微笑まれました。 人々も「さることは知り、歌などにさへ歌へど、思ひこそ寄らざりつれ。人々も「そういう詩のことは知っているし、歌などにも歌うけれど、(即座に中宮様のご要望を行動でお答えするなど)思いも寄らなかったわ。 なほ、この宮の人には、さべきなめり」と言ふ。「やはり、この中宮にお仕えする女房としては、しかるべき人のようね」と言い合った。中宮定子は、格子を閉じ御簾を降ろしたままの薄暗い中にいて、外の雪景色をちょっと見たいと思われたのです。そして、清少納言に謎掛け風に「香爐峰の雪」を口にされました。中宮定子と清少納言の間には、定子の語りかけたフレースで、白居易の『白氏文集』巻16に収録されている詩に詠まれた一節が共有されたのです。白居易は『香炉峰下新卜山居草堂初成偶題東壁』の一文で始まる5首の詩を読んでいます。(香炉峰下、新たに山居を卜し草堂初めて成り、偶東壁に題す)その第4首の中にに該当する詩句が読まれているのです。その箇所は『和漢朗詠集』にも採られていて、有名だったのです。第4首から抜粋します。(資料1,2)遺愛寺鐘欹枕聴 遺愛寺の鐘は枕を欹(そばだ)てて聴き香炉峰雪撥簾看 香炉峰の雪は簾(すだれ)を撥(かか)げて看(み)る「ちょっと、外の雪を見たくなったわ。格子を上げて、御簾を巻き上げてくれる」なんてストレートに指示しないところに、中宮定子らしさが溢れ出ています。漢詩に対する造詣の深さがワンクッションになっています。それは清少納言の漢詩に対する造詣と彼女の機転を試す謎掛けになっています。清少納言は「香炉峰雪撥簾看」の一節のことなどおくびにも出さずに、行動で示す機転の良さで答えました。手許の本では、「中宮の意図は、白詩の世界をこの後宮に再現することであったのである。『古今著聞集』に君臣一致の実例と引かれている有名な話である」(資料1)と補足で註釈されています。今回この展示の解説として入手したパンフレットに記載の興味深い観点をご紹介します。それは上掲の太文字にした第285段原文では判読できない点に関係します。(資料3)原文では「御格子」という言葉が使われています。格子には、1枚格子と2枚格子があります。格子は廂の柱と柱の間に設けられた格子状の黒塗りの建具です。上下に分けたものが2枚格子になります。この六條院・春の御殿では、直接目にするのは2枚格子がほとんどです。半蔀(はじとみ)とも称されます。清酒納言が「御格子」と記したのは、1枚格子なのか、2枚格子なのかが判然としないというのです。中宮定子と女房たちが、寝殿の南面に面する場所に居たなら、そこはたぶん1枚格子です。東西に面する場所に居たら2枚格子です。1枚格子ならば、建物の内側に引き上げて、その外にかかる御簾を巻き上げる形になります。一方、2枚格子ならば、上半分を外側(簀子側)に引き上げて、下半分をそのまま残すか、下半分を撤去するかに分かれます。2枚格子の場合は、御簾は上格子の内側にあることになります。この「香爐峰の雪」の場所は2枚格子のところを利用して具現化しています。しかし、下半分の格子を取り除いていますので、見た目には、1枚格子を引き上げた場合の外の見え方と同じになります。つまり、1枚格子を引き上げた場合の見え方をここで見せています。2枚格子で、下半分を残したままだと、この景色の左側の御簾を巻き上げた状態になります。御簾を巻き上げた時の雪景色の見え方が大きく変わってくることになります。おもしろい観点だと思いました。(資料3) 六條院春の御殿の西側には、板敷の間があります。六條院春の御殿のレイアウト図番号7の左側が右の襖障子あたりです。ここには、前面部分に「四季のかさね色目に見る平安王朝の美意識」というテーマで精巧にミニチュア化された衣裳が「自然の霊験をいただいた四季のかさね色目」として展示されています。これも定番展示の一つと言えます。以前に詳細にご紹介してますので、展示品を簡略にご紹介します。 梅かさね 菖蒲かさね 白撫子(なでしこ)かさね 捩り紅葉かさね 雪の下かさね 松かさね この展示を南東側から眺めた景色 上掲襖障子の北側にこれが常設展示されています。左は、蓮の繊維で作った蓮糸で織った織物「蓮糸織り」です。詳しい解説パネルが設置されています。右は「化学染料で染めた花橘かさね」です。こちらも解説パネルが設置されています。そして、最後の展示です。 板敷の間の南西側と南東側手前に衣裳が展示されています。 これらは「五節舞姫の装束」です。この解説パネルが設けてあります。 衣桁に掛けられた袿(うちき)の文様。上段は織文様、中・下段は刺繍文様に見えます。 蘇芳色の唐衣 白地地摺りの裳この裳には、様々な文様が地摺りされています。 頭部の飾り左右に日蔭の糸(蔓)、中央の上から心葉(こころば)、平額(ひらひたい)、櫛(くし)、釵子(さいし)と称されています。これらが頭部の玉髢(たまもじ)の飾りとなります。これで大凡全体を眺め、ご紹介したことになります。 (資料3)ご覧いただき、ありがとうございます。参照資料1) 『新版 枕草子 下巻 付現代語訳』 石田穣二訳注 角川文庫2) 白居易『香炉峰下新卜山居(香炉峰下、新たに山居を卜し~)』原文・書き下し文・現代語訳(口語訳)と解説 :「manapedia マナペディア」3) 当日頂いた今回展示の解説パンフレット「風俗博物館」(令和3年4月~展示)補遺藤原定子 :ウィキペディア白氏文集 :ウィキペディア白居易『香炉峰下新卜山居(香炉峰下、新たに山居を卜し~)』原文・書き下し文・現代語訳(口語訳)と解説 :「manapedia マナペディア」和漢朗詠集 :ウィキペディア『枕草子』の「香炉峰の雪」と『白氏文集』、『和漢朗詠集』の該当箇所を確認したい。 :「レファレンス協同データベース」藤原公任と白居易 : 『和漢朗詠集』における白居易の詩をめぐって 著者;黄 金堂 :「広島大学 学術情報リポジトリ」ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・下京 風俗博物館 2021年の展示 -1 豊明節会・五節の舞 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2021年の展示 -2 五節所(五節の局)へ観照 京都・下京 風俗博物館 2021年の展示 -3 「七夕」と平安女性の務めと へ観照 京都・下京 風俗博物館 2021年の展示 -4 遊び~絵合・碁・偏つぎ~、黒髪 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 京都・下京 風俗博物館 2020年の展示 -1 女楽~『源氏物語』「若菜下」より~ 4回のシリーズでご紹介観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -1 猫と蹴鞠(1) 6回のシリーズでご紹介観照 風俗博物館 2018年前期展示 -1 『年中行事絵巻』「祇園御霊会」 4回のシリーズでご紹介探訪&観照 風俗博物館(京都) -1 移転先探訪・紫の上による法華経千部供養 2016年 4回のシリーズでご紹介観照 [再録] 京都・下京 風俗博物館にて 源氏物語 六條院の生活 -1 3回のシリーズでご紹介
2021.08.17
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(資料1)前回同様、六條院の春の御殿のレイアウト図から始めます。東の対の南側を東に回り込みます。東の対は建物の一部をL字形に具現化されているだけです。部分的な具現化です。このシリーズの2回目に、「五節所(五節の局)」でご紹介した箇所をスキップして、東の対の北西角(番号4の箇所)まで進みます。 ここには平安時代の遊びでポピュラーだった「碁」を打つ場面が具現化されています。これは通常展示の定番になっているようです。上代に中国から伝来した盤上遊技の碁は男女を問わず愛好されたそうです。『源氏物語』には、物語の重要な場面で碁を打つ場面が描き込まれています。空蝉と軒端萩(空蝉)、玉蔓の大君と中の君(竹河)、今上帝と薫(宿木)、浮舟と少将の尼(手習)などが碁を打つ場面です。(資料1,2) これは、ColBaseから引用した「源氏物語扇面(空蝉)」です。(資料3)空蝉への思いをつのらせた源氏が邸に忍び込み、空蝉が軒端萩と碁を打ち合う姿を垣間見るという場面です。「幼き心地に、いかならんをりと待ちわたるに、紀伊守国に下りなどして、女どちのどやかなる夕闇の道たどたどしげなる紛れに、わが車にて率てたてまつる」という文から始まる箇所です。機会を窺っていると紀伊守が任国に下ったので、小君が自分の車で薄闇に紛れて源氏の君を空蝉の邸につれて行くところから始まります。暑いのに格子を下ろしていますので、小君が尋ねると、女房が「昼より西の御方の渡らせたまひて、碁打たせたまふ」と答えたのです。紀伊守の妹・軒端萩が来て碁を打っていると言います。源氏は「さて向かひゐたらむを見ばやと思ひて、やをら歩み出でて簾のはさまにいりたまひぬ。」源氏は向かいあって碁を打つ姿をみたいものと、妻戸から出て、簾の隙間に入ってしまいます。「隙見ゆるに寄りて西ざまに見通したまへば」ということで、空蝉と軒端萩が碁を打つ姿を垣間見し続けるのです。源氏が垣間見るその場面が手許の本では、2ページ余にわたり具体的に描かれて行きます。そして、「かくうちとけたる人のありさまかいま見などはまだしたまはざりつることなれば、何心もなうさやかなるはいとほしながら、久しう見たまほしきに、小君出くる心地すればやをら出でたまひぬ。」(このように気を許している女の姿ののぞき見などは、まだなさったこともないので、何の警戒心もなく、まる見えになっているのは気の毒とは思いながらも、いつまでもごらんになっていたのだが、あいにく小君の出でくる気配がするので、そっとその場をおはずしになった。)というところで一旦終わりますこの後、源氏は空蝉の寝所に忍び込んでいきます。(資料4)脇道に逸れました。元に戻ります。東の対の北面に回ります。 簀子に座る後姿が見えます。背中に胡簶(やなぐい)を負う武官です。巻纓(けんえい)冠を着けています。 武官が両手に持つ菖蒲には恋文(結び文)が結ばれています。誰に送ろうとしているのでしょうか・・・・・。東の対は寝殿と渡殿で繋がっています、渡殿には女房たちが日常生活を過ごす「局(つぼね)」があります。 局の一つでは、「偏つぎ」という遊びが行われています。女性や幼い子が漢字の知識を競い合う遊びです。偏と旁(つくり)に分けた札を使い、組み合わせて漢字をつくるゲームです。『源氏物語』では、「葵」の巻で源氏が紫の上と「つれづれなるままに、ただこなたにて碁を打ち、偏つぎなどしつつ日を暮らしたまふに」と描かれています。紫の上の利発な気性に源氏が気づいていくという契機になります。ストーリーの流れからするとそれが紫の上と新枕をかわす一つの動因になったようです。(資料5)その西隣りは、「平安女性の身嗜み・黒髪」についてです。 髢(かもじ)をつけているところです。髢とは「髪」の意の女房詞で、「髪の毛に添え加える毛。入れ髪。入れ毛」(『新明解国語辞典』三省堂)を意味します。解説パネルには、”Lady putting a hairpiece " と説明されています。 縮れ毛を繕っているところです。同様に、”A young lady having her servants straighten her frizzy hair" と説明されています。つまり、縮れた毛を真っ直ぐにしてもらっているのです。平安時代、黒髪は美人の条件とされました。『源氏物語』では、源氏や頭の中将が行った「雨夜の品定め」の論議の中で髪のことを論じています。また、髪については各所に記述があります。たとえば、末摘花の容姿は滑稽な描写でクスッとするところがありますが、髪だけは長く豊だったと描写されています。源氏は末摘花の黒髪について、「頭つき、髪のかかりはしも、うつくしげにめでたしと思ひきこゆる人々にもをさをさ劣るまじう、袿の裾にたまりて引かれたるほど、一尺ばかり余りたらむと見ゆ」(資料4)と評しています。平安時代の貴族たちはそれだけ黒髪に関心があったのでしょう。「偏つぎ」「黒髪」の場面も定番の場面です。 渡殿にある局の先は、寝殿の北面です。孫廂と簀子辺りの全景を東から眺めた景色です。 東廂に汗衫姿の童が座っています。 簀子の東側に座る童たちと孫廂の東側の端に控える女房これは「斎宮の女御と弘徽殿の女御の絵合」です。『源氏物語』の「絵合」の場面が具現化されています。 この絵合は、源氏31歳の3月20日余りの日に、清涼殿で行われました。中央の奥、北廂に御簾を境にして冷泉帝が着座されています。帝の御前には、女童6人ずつが左方は紫檀、右方は沈でできた絵の箱を担いで行き据えます。この場面は、左方は紫地の唐の錦の敷物の上に、蘇芳の華足の机、右方は青地の高麗の錦の敷物の上に浅香の机が置かれています。(資料1,4)絵合が既に始まっているのでしょう。それぞれの机の上には、置物風の飾り物が置かれています。これが何かは不詳。絵の箱はどこかに移されたのでしょう。絵合する作品をそれぞれがこの机の上に置いて、帝に披露するということでしょうか。 『源氏物語』では、「女房のさぶらひに御座(おまし)よそはせて、北南方々分かれさぶらふ」(資料5)と記されています。清涼殿内の女房の詰所である台盤所の御椅子を御座所として、北と南に分かれて絵合わせが始まります。冷泉帝に向かって左側の一番手前に堤中納言(かつての頭の中将)、右側の一番手前に源氏(内大臣)が座っています。つまり、冷泉帝からみて左方(さかた)が源氏側で、右方(うかた)が堤中納言側です。判者は帥宮(そちのみや)が行いました。帥宮は源氏の弟で、蛍巻の事跡から蛍兵部卿宮と呼ばれる人です。斎宮は六条御息所の遺児です。源氏31歳の年、源氏は斎宮を彼の娘分として冷泉帝の後宮に入内させました。それより早く権中納言の娘が入内していました。弘徽殿の女御です。斎宮が入内したことで、二人の女御は帝の寵愛を二分することになります。どちらが帝の寵愛を受けることになるかは、女御の背景に連なる人々の権勢に関わって行きます。冷泉帝は絵画を殊に趣味とされていたのです。斎宮は絵に堪能な女御。冷泉帝が斎宮に惹かれていくことに弘徽殿側は危機感を感じます。堤中納言は贅を尽くして絵画を制作させ、弘徽殿に届けます。二人の女御のそれぞれを後援する人々も名品を届けます。絵を蒐集する競い合いが生まれます。その結果、三月に冷泉帝の母、藤壺女院の御前で二人の女御が左右に分かれて物語絵合を試みたのです。どちらが優れた物語絵を披露できるかといういわば御前試合です。ところが、優劣がつけがたいという結果に。そこで改めて、帝前で絵合わせを行う仕儀になりました。後宮内での絵合という文化的な趣向を競う優雅な遊びに見えますが、その背後にはそれぞれの女御を後援する人々が権勢を争う渦が巻いているのです。 絵合で競われる絵巻などの作品が双方に置かれています。 弘徽殿側の列と堤中納言 座した背後に、下襲(したがさね)の裾(きょ)が折り重ねられながら後に伸びています。きっと誰かこの裾を形良く調える世話係がいるのでしょうね。少し興味を抱いたのは、腰の石帯と丸く差し込まれた石帯の上手です。さらに太刀をつける時の平緒が巻かれています。弘徽殿の女御 左は、弘徽殿の女御の傍に控える女房です。 弘徽殿の女御より左側、御簾の向こうに桐壺女院が事の成り行きを眺めています。『源氏物語』に「朝餉(あさがれい)の御障子を開けて、中宮もおはしませば」(資料5)と記されています。朝餉間に臨御されご覧になったということです。 絵合わせに出す作品を指示を受けて出し入れする担当係でしょうか。不詳です。この人の前に置かれているのは、「絵合」に記されている打敷「青地の高麗の錦」と推測します。打敷は華足の上を覆うものだそうです。(資料5) 斎宮側の列と源氏 源氏と堤中納言は薄紫束帯姿です。帝側に座る貴人には源氏や堤中納言のような下襲の裾がありません。直衣(のうし)姿ということでしょう。斎宮側の列の後ろにも、弘徽殿側と同じ役割を担う担当係がいます。彼は「打敷は葡萄染(えびぞめ)の唐の綺なり」と記されている打敷を両手に捧げていると推測します。 斎宮の女御(梅壺の女御) 斎宮の女御の近くにも女房が控えています。 上記の担当係の背後に、手箱を献げた女房がいます。この手箱の中身は何でしょう? 斎宮側の童たち これは左方の女童の前に置かれているものです。形は違いますが上掲の写真に見るように同種のものが右方にも置かれています。これが何で、何を意味するのか。私にはわかりません。手許の資料にも記述がなく不詳です。 左端には、多くの唐櫃が置かれ、白地の反物、御衣が積まれています。絵合が終わった後に帝からの賜り物に使われるのでしょう。「絵合」の終わりに近いところで、「・・・・めでたき朝ぼらけなり。禄どもは、中宮の御方より賜す。親王は御衣また重ねて賜りたまふ。」(資料5)と、判者になった帥宮が下賜を受けたことを記しています。 この絵合は、双方名品揃いのため優劣がつけがたく、判定は難航します。しかし、最後に出品された源氏の須磨の日記絵が勝敗を決しました。斎宮の女御の勝利となります。「左はなほ数ひとつある果てに、須磨の巻出で来るに、中納言の御心騒ぎにけり。・・・・・さまざまの御絵の興これにみな移りはてて、あはれにおもしろし。よろづみなおしゆづりて、左勝つになりぬ。」(資料5)それはまた、源氏が権勢が高まり、政界での栄華を極めていくことに繋がる契機となります。それでは、寝殿の西側にめぐりましょう。つづく参照資料1. 当日頂いた今回展示の解説パンフレット「風俗博物館」(令和3年4月~展示)2. 『源氏物語図典』 秋山虔・小町丹照彦編 須貝稔作図 小学館3. 源氏物語図扇面(空蝉):「ColBase」(国立文化財機構所蔵品統合検索システム)4. 『源氏物語 1』 新編 日本古典文学全集 小学館 p118-122, p2935. 『源氏物語 2』 新編 日本古典文学全集 小学館 p70-72、p385-393補遺第十七帖 絵合 渋沢栄一著 :「源氏物語の世界」源氏物語図屏風(絵合・胡蝶) 狩野養信筆 :「文化遺産オンライン」源氏物語文学セミナー十七帖 絵合 YouTube源氏物語「絵合(ゑあはせ)」(3) :「文楽と王朝と障害と」天徳内裏歌合 :ウィキペディア天徳四年三月内裏歌合(二十巻本) :「文化遺産オンライン」天徳内裏歌合から読み解く『源氏物語』 : 唐物・楽宴・衣装という文化環境(<特集>古代文学における<環境>) 河添房江 東京学芸大学 :「J・STAGE」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・下京 風俗博物館 2021年の展示 -1 豊明節会・五節の舞 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2021年の展示 -2 五節所(五節の局)へ観照 京都・下京 風俗博物館 2021年の展示 -3 「七夕」と平安女性の務めと へ
2021.08.14
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東の対の西面から南面に移ります。南西角辺りから南面の孫廂・簀子(すのこ)の全景を眺めた景色です。 (資料1) 六條院春の御殿の上掲レイアウト図の番号3のところに、七夕の祭壇が設けられています。7月7日の夜、牽牛星と織女星が年に一度、天の川を渡り逢瀬を楽しむという中国(漢代)の二星会合の伝説が日本に伝わり、『万葉集』の時代には、7月7日の夜を「ナヌカノヨ」と称し、二星会合の和歌を詠む日とされていたそうです。調べてみますと、『万葉集』には七夕に関連して詠まれた130首を超える歌が収載されているそうです。例えば、第八巻の「秋雑歌」に、「山上臣憶良の七夕の歌十二首」という詞書の後、歌(1518~1529)が列挙されています。(資料2)その幾つかをご紹介します。 天漢(あまのがは)相向き立ち手てわが恋ひし君来ますなり紐解き設(ま)けな 1518 風雲は二つの岸に通へどもわが遠妻の言(こと)ぞ通はぬ 1521 秋風の吹きにし日よりいつしかとわが待ち恋ひし君ぞ来ませる 1523 霞立つ天の河原に君待つといゆきかへるに裳の裾ぬれぬ 1528 天の河浮津の波音騒くなりわが待つ君し舟出すらしも 1529第十巻にも数多くの歌が収載されています。わかりやすいのを詠み人不詳の歌からいくつか抽出してみます。 天の川霧立ちわたり牽牛(ひこほし)の楫(かじ)の音聞ゆ夜のふけゆけば 2044 天の川河音さやけし彦星の速こぐ船の波のさわきか 2047 天の川波は立つともわが舟はいざこぎ出でむ夜のふけぬ間に 2059この二星会合の伝説がわが国古来の棚機(たなばた)つ女(め)の信仰と結びついて星祭という風習になりました。牽牛星は農耕の神、織女星は裁縫の神と理解したのです。さらに、中国(唐代)より起こった、織女星に機織や手芸の上達を願う「乞巧奠(きっこうでん)」の行事が日本にも伝わりこの行事が習合します。「タナバタ」というのは平安時代になってからだと言います。(資料1.3) 祭壇の飾り付けについて、この解説パネルが設置されています。七夕の夜は、清涼殿の東庭に祭壇が設けられたそうです。葉薦(はごも)を敷き、御燈明と香花や様々な品が供えらます。このパネルは清涼殿側から祭壇を眺めた配置図になっています。六條院の春の御殿では、寝殿の庭に祭壇が設けられたのでしょう。御殿側に和琴、その両側に蓮、上部に栃の葉が置かれています。写真の左側(御殿側からは右)の栃の葉には、金銀の針が置かれ、その穴を五色の糸が貫いています。正倉院には乞巧奠で用いられた針が残されているそうです。(解説パネルより)御殿からみて、牽牛は左、織女は右という位置関係になります。 左右の供え物は同じで、牽牛・織女にそれぞれ供えたということなのでしょう。写真の上段には右から左に、干鯛、大豆、桃、茄子が並び、中央に酒盃が置かれています。下段には右から左に、薄鮑、大角豆(ささげ)、梨、熟瓜(マクワウリ)が並んでいます。この七夕は、『源氏物語』「幻」を背景にしています。「幻」で源氏は亡くなった紫の上を追慕しています。その一場面が秋の七夕です。「七月七日も、例に変わりたること多く、御遊びなどもしたまはで、つれづれにながめ暮らしたまひて、星逢ひ見る人もなし。まだ夜深う、一ころ起きたまひて、妻戸押し開けたまへるに、善栽の露いとしげく、渡殿の戸よりとほりて見わたさるれば、出でたまひて、 七夕の逢ふ瀬は雲のよそに見てわかれの庭に露ぞおきそふ 」(資料4)これだけの記述です。源氏は、七夕の日には例年とは大きく異なり何もせずに物思いに沈む一日を過ごしたのです。七夕の星の逢瀬を一緒に眺める女人(紫の上)がいない淋しさに、ただ追慕するだけで過ごしたのです。そして、夜深の暗い頃にただ一人起きて、妻戸を開き、外に出て歌を詠んだのです。「七夕の逢瀬の喜びは雲の上の別世界のことと思われ、この地上では二星の別れを惜しむ涙の露のおく庭に、わたしの悲しみの涙がさらに降りそそいでいる。」(資料4)源氏は紫の上への追慕の涙を流します。『源氏物語』では悲しみ、追慕の場面として登場します。ここでは紫の上と源氏がともに七夕を迎えた夜に見立てて七夕の場面が具現化されています。 廂の内に、紫の上と源氏が並んでいます。一方、織女星に機織や手芸の上達を願う行事である側面をとらえて、平安時代の女性が担った務めである「裁縫の工程」の様子が、重ねられて具現化されています。 東の対の南面で前廂の西端、つまり南西角は、「伏籠(ふせご)」を使う作業場面です。衣服に香を焚きこめるために、火取の上に竹製の籠(伏籠)を伏せて、その上に衣服を掛けています。自分の好みに調合した香りを燻らすことは、その香りから趣味の良さを相手に伝える手段になったそうです。「火取とは、二階棚に置かれているもので、火取母(ひとりも)・火取籠(匙・箸付き)・薫炉からなり、銅製の薫炉に香を入れて焚き、火取籠をかぶせて使用する」(資料1)ものです。それでは、裁縫の工程を見ていきましょう。『源氏物語』には、紫の上が染色技術や裁縫の技術に優れていたことは、各所で賞賛されています。 <染める>工程 南西隅の庭では、染槽(そめぶろ)を使い染色作業が行われています。『宇津保物語』には装束を誂える各工程に専属の工房が設けられていたことがわかるそうです。例えば、この<染める>という工程は、「吹上・上」に女の子ども20人ばかりが作業する染殿の記述があります。(資料1) 左側は<縫う>工程清少納言は『枕草子』の第91段「ねたきもの」(癪にに障るもの)の中で、縫い物のことを取り上げています。その最初に書いているのが次の文です。(資料5)「とみの物縫ふに、かしこう縫ひつと思ふに、針を引き抜きつれば、はやく後をむすばざりけり。また、かへさまに縫ひたるも、ねたし」と。(急ぎの着物を縫うのに、うまく縫ってしめたと思ったのに、針を引き抜いたら、なんと糸のしまいを玉に結んでいなかった。また、裏返しに縫ったのも、しゃくなものだ。)この続きに、中宮が南の院に滞在中に、急ぎのお召物を分担作業で縫った時の失敗事例を具体的に書き込んでいます。おもしろいエピソードです。 こちらは、<ひねる>工程。「裏地のない単(ひとえ)仕立ての裁ち生地の端を、もち米で練って作った糊(続飯ぞくい)をつけ、絎(く)けずに「ひねる」という仕立てをしたもの。」(資料1)このひねりの作業は浮舟が巧みであったことが「手習」に記されています。 <綿入れ>の工程年中行事として、10月1日は冬の装束に改める「冬の更衣(ころもがえ)」の日です。綿入れはその前段階での衣裳の準備です。(資料3) <地直し>工程。地直しは反物の整理作業だそうです。徳川美術館蔵の国宝『源氏物語絵巻』の第48帖「早蕨(さわらび)」の絵には、右側の几帳の傍で、「地直し」の作業が行われているところを土佐光則は描き込んでいます。補遺をご覧ください。 これは、「裁縫の工程」を1枚の簡略な解説パネルにまとめたもので、この場面の傍に掲示されています。「地直し」については付記されている英文を読むと理解しやすくなります。”Treating cloth to prevent shrinkage or expansion" となっています。つまり、反物の生地が縮んだり、伸びたりするのを防ぐための処置、調整をする作業ということですね。 <布を裁(た)つ>工程。女房が刀子(とうす)を右手に持ち、裁板(たちいた)の上に体重をかけて布を裁つ作業をしています。 <打ち物>の工程。絹を砧で打って光沢を出す作業です。「きぬた」は「衣板」の略だと言います。「織物を織り上げたのち、織機から下ろしたままでは堅くてなじまないので、織目をつぶして柔らかくし、艶を出すためにする作業」(資料1)です。または、その道具をさします。「織上げた絹を円棒に巻き、軸を回転させながら木槌で何回も打って柔らかくし、艶を出した」(資料1)とのこと。これをまとめていて気づいたことがあります。南面の展示を眺めたとき、横に見るということで左から右に順次眺めて行きました。横書きの文章を読む習慣が身に付いてしまっているせいかもしれません。「裁縫の工程」を考えると、織り上がった生地(布)を起点としますと、その後の作業工程は、打ち物(砧)⇒裁断⇒縫う、そして伏籠となります。「染める」は織物の前の糸の段階が普通で、場合によっては織物にした後もあったかもしれません。冬衣の場合に、「縫う」の途中で「綿入れ」が並行作業となり、衣服が仕上がるまでに綿が入れられるのでしょう。地直しは反物として保管しているものに対する維持管理ですから、工程からは少し外れます。「裁断」の前段階に位置づけられる作業です。つまり、この場面の「裁縫の工程」としては、右から左に眺めていく方がよかったのかもしれません。頭の中で、ご紹介してきた流れを逆順でイメージしてください。余談ですが、砧打ちについて、幾つかご紹介します。1.たとえば『新古今和歌集』の巻第五「秋歌下」には、砧を詠み込んだ歌が所載されています。いくつか列挙します。(資料6) 秋風は身にしむばかり吹きにけり今や打つらむ妹がさごろも 藤原輔尹朝臣 475 衣うつみ山の庵のしばしばも知らぬゆめ路にむすぶ手枕 権中納言公経 477 秋とだにわすれむと思ふ月影をさもあやにくにうつ衣かな 藤原定家朝臣 480 雁なきて吹く風さむみ唐衣君待ちがてにうたぬ夜ぞなき 貫 之 482 みよし野の山の秋風さ夜ふけてふるさと寒くころもうつなり 藤原雅経 483 千たびうつ砧のおとに夢さめて物おもふ袖の露ぞくだくる 式子内親王 4842.葛飾北斎が「砧打つ女」や「詩歌写真鏡」に中の「在原業平」(ボストン美術館蔵)と題する絵の中に砧を打つ場面を描いています。3.葛飾北斎の娘、葛飾応為が「月下砧打の図」を描いています。 2,3については補遺をご参照ください。元に戻ります。 前廂の東端には、唐櫃が置かれています。裁縫の工程と関連付けると、衣類や反物を納める目的なのでしょう。 東の対の東南角から西を眺めた景色です。このフロアーの南西隅には、竹取物語の場面が具現化されています。以前にご紹介していますので、ここではスキップしました。既に掲載の拙ブログ記事をご覧いただけるとうれしいです。それでは、東の対を回り込み、東側と北側に参りましょう。つづく参照資料1) 当日頂いた今回展示の解説パンフレット「風俗博物館」(令和3年4月~展示)2)『新訂 新訓 万葉集 上』 佐佐木信綱編 岩波文庫3)『源氏物語図典』 秋山虔・小町丹照彦編 須貝稔作図 小学館4)『源氏物語 4』 新編日本古典文学全集 小学館5)『新版 枕草子 上巻 付現代語訳』 石田穣二訳注 角川文庫6)『新訂 新古今和歌集』 佐佐木信綱校訂 岩波文庫補遺七夕(たなばた)を詠んだ歌 :「楽しい万葉集」「七夕の歌」で知る万葉集、古今和歌集、新古今和歌集の違い :「令和和歌所」『源氏物語絵巻』 第48帖「早蕨」 土佐光則筆 :「徳川美術館」 「早蕨」は 13/35コマ目です。「砧打つ女」 :「JAPAN SEARCH」詩歌写真鏡 在原業平 葛飾北斎筆 :「みんなの知識 ちょっと便利」 葛飾応為「月下砧打ち美人図」 :「Japaaan」乞巧奠 :「コトバンク」展覧会紹介(2)乞巧奠(きっこうてん)の祭壇「星の座」:「朝日新聞」 冷泉家 王朝の和歌守展 2010年5月冷泉家 乞巧奠(きっこうてん) :「本寿院」“京・冷泉家と徳川家のコラボレーション” 2012年8月 :「静岡市美術館」乞巧奠 (きっこうでん)を再現いたしました。 :「子億歳文化理容美容専門学校」平安の七夕『乞巧奠』と平成の七夕『乞巧潜り神事』 :「大宮八幡宮」ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・下京 風俗博物館 2021年の展示 -1 豊明節会・五節の舞 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2021年の展示 -2 五節所(五節の局)へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 [再録] 京都・下京 風俗博物館にて 源氏物語 六條院の生活 -3観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -5 六条院の日常と竹取物語観照 京都・下京 風俗博物館 2020年の展示 -4 竹取物語・天徳内裏歌合
2021.08.13
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