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祇園祭・前祭の山鉾巡り(7/13)を行った後、烏丸通から六角通を東に抜けて河原町通に向かうことにしました。六角通を歩くならと、久しぶりに「六角堂頂法寺」に立ち寄ってみました。山鉾町での観光客の数に比べれば、参拝者をみかけましたが、頂法寺境内は静かなものでした。六角堂頂法寺の説明は以前にご紹介した拙ブログ記事をご覧いただければうれしいです。できるだけ重複を避け、視点を変え記録を兼ねてご紹介します。 六角堂の宝珠 今や六角堂は、高いビルに囲まれた谷間にひっそりと存在する感じ・・・・・。 とはいえ、お堂の手前に「へそ石」と称される石があります。六角堂は平安京の中心地に位置します。もとは門前の六角通にあったそうですが、明治時代初期に門内に移したそうです。(資料1)いくつもの理由から三々五々の参拝者・観光客は絶えないことでしょう。 上掲の屋根の写真で手前の屋根は、正面参道の左側(西)に位置する「手水舎」の屋根です。手水鉢の正面には「六角堂」と刻されています。参道の右側には「六角柳」が茂っています。今では「縁結びの柳」として有名だとか。寺の縁起では、聖徳太子の時代には、この地は山城折田郷土車里(くしだのごうつちぐるまのさと)と称したとか。太子が四天王寺造立のための材木調達の一環で、この地に留まられた時に、太子ご自身が念持仏として隨身されていた小さな如意輪観音から「願はくばここにありて永く衆生を利益せん」との夢告を得ます。東から来た老嫗が、傍らの大木の杉は霊木であると太子に教えたとか。「太子これを見給ひ、即ちきらしめ、他木一株も交へず六角の堂を営み給ふ」というのが、この六角堂の由緒だそうです。(資料2)創建は用明天皇2年(587)と伝承され、現在の六角形の本堂は明治10年(1877)の再建です。(資料1) 参道の左右にブロンズ製の灯籠が配されています。 本堂(六角堂)の前(南)に「拝堂」が位置します。 拝堂の正面に「頂法寺」の扁額が掲げてあります。正式名称は「紫雲山頂法寺」ですが、「六角堂」という通称で知られ、親しまれています。私自身も「六角堂」として知り、呼び慣れていましたので、正式名称を当初は知りませんでした。以降、呼び慣れている六角堂という名称を使います。 扁額の下には、束の間の欄間に双龍の透かし彫りが見えます。金網がない方が鑑賞には良いのですが・・・・。鳥害回避でしょうかね。 拝堂には、大きく観世音菩薩と墨書された赤提灯が吊されています。西国三十三所観音霊場の第18番であり、京の七観音のひとつです。六角堂は現在、天台宗系の単立寺院となっています。(資料1) 拝堂の西側の柱のところに置かれた「ふれあいの像」(お釈迦様) 拝堂の柱と礎磐 拝殿内で、南東側から眺めた景色右側の柱には、「華道叢祥之地」と陽刻した木札が掛けてあります。 本堂(六角堂)の正面六角堂の本尊は如意輪観世音菩薩。ホームページにはその大きさ等について記されていません。江戸時代に出版された『都名所図会』は「金像にて長(みたけ)一寸八歩なり」と説明しています。(資料1,2) 本堂に向かって、右側には「見真大師」の扁額が掲げてあります。見真大師とは親鸞聖人のことです。明治時代の勅諡です。こちら側に、親鸞像が安置されているのでしょう。親鸞聖人は29歳の時、範宴と称されていました。比叡山での修行に悩みを抱き、この六角堂に参籠されました。95日目に如意輪観音が聖徳太子として示現され、範宴は夢の中でお告げを得たとされています。それが吉水に法然をたずねる契機となったとか。(資料1,3)六角堂は、浄土真宗の開祖となった親鸞聖人の足跡からは欠かせない場所になります。浄土真宗の宗派の人々にとっては、訪れたい聖地の一つになるのではないでしょうか。 左側には、このポスターが貼ってありました。本尊の如意輪観音像のお姿なのでしょう。「ご本尊の宝冠には、阿弥陀如来が配され極楽へと導く来迎印を結ばれている。 観音様と阿弥陀様の法力が合わされた御姿である。 建仁元年(1201)には、浄土真宗の宗祖親鸞聖人の夢枕に観音様が立たれ『いつも傍に寄り添い助け極楽へと導く』と告げられた」(ポスター左端の文転記)こちら側には、聖徳太子が祀ってあるようです。それでは、境内を巡ってみます。 正面参道の左側(西)、一番近いところに北向きの「不動明王」を祀る小堂があります。「右手に剣をもち左手に羂索(けんさく)を握っておられます。これはふりかかる災厄を断ちきり、この世の迷いの世界で煩悩に溺れそうになっている私たちを引っ張り上げるため、しっかり握りしめておられるのです。」(説明文、部分転記) 不動明王像の西側に、東向きにあるのが、「石不動」のお堂です。 「そのお姿は大日如来が一切の悪魔を降伏せんが為に身を変じて忿怒の相を現し給える強い法力をもった佛さまです。」(説明文、部分転記)反時計回りに巡ります。 拝殿の南東側には、石段があります。 その傍に「一言願い地蔵」がいらっしゃる。「このお地蔵さまは、少し首を傾げられた姿をされていますが、これは悩んでいらっしゃるわけではなくお参りに来られた方の願いを叶えてあげようか、どうしようか、と考えておられるお姿なのです。 願いを聞き届けて頂けるかどうかは、あなたの信心次第です。欲張らず一つだけ願い事をして下さい。きっと叶えてくださることでしょう。」(駒札の案内文転記) 今回、お堂前までは行きませんでしたが、石段上の境内地に「親鸞堂」が見えます。「親鸞草履の御像」と称される立像が祀られています。 「十六羅漢像」です。次回に触れたいと思います。 本堂(六角堂)の東側には、ブロンズ製の立花像が建立されています。頂法寺二十世の専慶法師は立花を愛し、「木立興あるをば食をわすれ求め、深山幽谷のさかしきをもいとはず尋ね歩き、その心、切なるを当寺の本尊感じ給ひ、立花の秘密を霊夢に授け給ふ。これより代々その伝をつぎ、中興また専好といひしよりその風を改め、家本とす」(資料2)「池坊の立花」について、『都名所図会』はこのように記しています。つまり、六角堂は、華道の池坊流の本拠地です。自ずと訪れる人々が多いでしょう。 本堂の北東側、池の隅に浮かぶ形で「太子堂」があります。聖徳太子を祀るお堂で、「開山堂」とも称されるとか。(資料1)六角堂は、平安時代以降、京都で太子信仰が広まっていく拠点となっていきます。 このお堂の近く、池の中に石でできた井筒があります。そこは聖徳太子沐浴の古跡と伝えられる場所だそうです。その池の畔に僧侶の住坊が建てられていたことから、池坊と称されるようになったと言います。(資料1)現在、池は本堂の北側に長方形の形で広がっています。池の北辺に池坊会館のビルが建っています。 本堂の西側には多くのお地蔵さまが安置されています。これらお地蔵さんを眺めていきましょう。 こちらは「北向地蔵」と称されます。 「このお地蔵さまは京都御所を守るために北を向いておられます。当寺御所を守護することは人々の生活を守ることにつながっていました。このお地蔵さまは私達の生活を守っていただける霊験あらたかなお地蔵さまです。」(駒札転記) こちらは「わらべ地蔵」と称されています。「このお地蔵さまは特に小さな子供を守っていただく為このようなお姿をされています。ここに安置するお地蔵さまは寝たお姿をされていたり立ったり座ったりしておられますが、それぞれに行を修しておられ禅定のお姿で私達を常に守ってくださっているのです。」(駒札転記) 中央部分に五輪塔が安置されています。 様々な姿のお地蔵さまの大集合地です。今回は大凡のところを巡ってみるにとどめました。この辺りで区切りといたします。次回はちょっとマニアックな補足です。つづく参照資料1) 紫雲山頂法寺六角堂 ホームページ 2)『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p803) 【第6回】六角堂での夢告(むこく) :「専修寺」補遺西国三十三所巡礼の旅 ホームページ 六角堂頂法寺 ← 六角堂真上からの全景を掲載洛陽七観音(比較) :「京の霊場」池坊 ホームページ 立花(りっか)池坊専慶 :「コトバンク」池坊専好(初代)とはいけばな :「フィールド・ミュージアム京都」太子信仰 :「コトバンク」太子信仰 :ウィキペディア北向地蔵 :「宇部市」北向地蔵 :「保土ケ谷区」北向きじぞう :「浪漫街道 那須」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 京都・中京 久しぶりの六角堂 -2 十六羅漢・合掌地蔵ほか へこちらも併せてご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 京都・中京 六角堂頂法寺ふたたび -1 六角堂・ヘソ石・鐘楼堂 2回のシリーズでご紹介 ← 2019年の探訪スポット探訪 [再録] 京都・中京 六角堂頂法寺 ← 2013年の探訪
2022.08.12
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菊水鉾から室町通を北に上ります。錦小路通との四つ辻に立ち、室町通の北には「山伏山」、錦小路通の西には「霰天神山」、東には「占出山」です。まずは、錦小路通を東に入ると「占出山町」。冒頭の「占出山」を訪れます。 展示全景占出山では、町会所で懸装品等一式が既に公開展示されていました。細長い通路を奥に歩み、町会所の展示を拝見します。「占出山」は、神功皇后が肥前国松浦で鮎を釣って戦勝の兆としたという説話を題材にした山です。この説話は、『日本書紀』巻九、神功皇后の9年夏4月3日の条に出て来ます。釣針を垂れ神意をうかがう占いをして、竿をあげると鮎がかかったという場面です。(資料1)別名「鮎釣山」とも称されます。この山の御神体(人形)は神功皇后です。それでは右端から順次、拝見していきましょう。3266右端には、衣桁に着物が飾ってあり、その左に金幣が置かれています。壁面の上部には幕が真っ直ぐに伸ばして展示してあります。 幕の下には水引の「刺繍 三十六歌仙図」(天保2年/1831年)。これを復元新調したものが巡行当日に使われています。オリジナルの旧蔵品を鑑賞できるのは、宵山までの会所での展示だけとなります。以下も同様です歌仙図の下は、胴懸で綴織「松島図」(天保2年/1831年)。 前懸で綴織「宮島図」(天保2年/1831年) 胴懸で綴織「天橋立図」(天保2年/1831年)胴懸・前懸の間に、山の四隅に飾られる房飾りと扇形の房掛け錺金具が展示してあります。 胴懸・前懸の前の床には、房飾りや各種の部材・錺金具等が並べて展示されています。 錺金具右斜め上には、鮎を丸彫りして彩色した飾りがあります。竿にかかった鮎ですね。 胴懸のすぐ下には、山に使われる赤い傘が覆袋を被せて置かれています。その前に、見送を掛けるために使われる3本の丸柱があり、錺金具で装飾されています。その手前には山の前後に使われる欄縁があり、要所要所に錺金具で装飾されています。 通路側の近くに山の側面に使われる長い方の欄縁2本が置かれています。 見送 見送綴織「双龍宝尽額 牡丹に鳳凰文様」(寛政6年/1794)見送の前の床に展示されているのが何に使われるものなのかは不詳。 綴織「霞に新羅古鏡図」(明治23年/1890年)上辺に引っかける穴が沢山設けてあります。どこに使われたものでしょう。やはり見送か・・・。 通路の奥にある座敷に、巡行に使用される懸装品が展示されています。こちらはこの1枚だけ。ガラス戸の光りの反射等でうまく撮れず、あきらめました。壁面には日本三景図の復元新調品、座敷の両側には水引の三十六歌仙図の復元新調品が展示されています。座敷の中央に見送が置かれ、花鳥龍文様の綴錦。上掲「双龍宝尽額 牡丹に鳳凰文様」の復元新調品です。 通路奥に山の懸装品等の収蔵庫があります。 収蔵庫傍に小社(不詳) 側面にこの篇額を置いてある小社も。 懸装品や欄縁等を展示した座敷とは、通路を挟んで反対側の建屋に、御神体(人形)の神功皇后が祀ってあります。顔の部分が少し垣間見えるくらいですが。 「占出山」の櫓(躯体)の構造全体を側面から眺めてみました。こんなところで、町会所の展示を拝見して、次に霰天神山に移動します。錦小路通を今度は西に進みます。室町通を横断すると、その先は「天神山町」。占出山町も、この天神山町も、通りの両側が同じ町内になります。 この提灯が「霰天神山」に立っています。 ここも山建ての最終段階に入っていました。 櫓の斜めに渡した部材を藁縄で縛っています。ここの縛り方も仕上がりは異なります。 櫓の柱と桁と斜めの部材の藁縄縛りの仕上げがまだ見やすい段階でした。 こちらは下部。「永正年間(1504~1520)京都に大火のあったとき、時ならぬ霰が降り猛火はたちまちに消えたが、そのとき一寸二分(約3.6センチ)の天神像が降ってきたのでこれを祀ったのがこの山の起こりであるという。」(参照資料より一部転記)「霰天神山」は、「錦天神山」「火除天神山」とも呼ばれるそうです。この山ニは、朱塗りの鳥居が立てられ、唐破風春日造の神殿が安置されます。室町通に戻り北に上ると、占出山町と天神山町の北隣りが「山伏山町」です。 「山伏山」も同様に、山建ての最終段階でした。 藁縄とともに、ロープが併用されています。 藁縄の縛り方の仕上げを霰天神山と対比してご覧ください。楽しめると思います。 北側から 町会所の内部も同様に、懸装品や欄縁等の展示準備の最終段階でした。この山は、御神体(人形)の浄蔵貴所が大峯入りをするときの山伏姿を表現しています。そこから「山伏山」と呼ばれるようになったそうです。浄蔵貴所は、昔八坂の法観寺の塔が傾いたとき法力によってそれをなおしたと伝えられています。この後、烏丸通に出て、南を眺めても「孟宗山」が見えませんでした。後で調べてみますと、私が山鉾巡りをした翌14日の朝から山建てが予定されていたのです。見えないはずでした。前祭の山鉾のたつ位置で、少し飛地にある「保昌山」(東洞院通高辻下ル)も巡ることができませんでした。結果的に、四条傘鉾、保昌山、孟宗山を見ないで今年の前祭、山鉾巡りは終わりました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*山鉾について :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)1)『日本書紀 全現代語訳 上』 宇治谷孟訳 講談社学術文庫 p188補遺浄蔵貴所 :「京都通百科事典」浄蔵 :「コトバンク」特集 知られざる京都の文化財 3「祇園祭保昌山前懸胴懸下絵」 :「京都市文化観光資源保護財団」2022年 京都・祇園祭 山鉾巡行 「綾傘鉾」「占出山」 YouTube2022年 京都・祇園祭 山鉾巡行「蟷螂山・山伏山・芦刈山・伯牙山・太子山」 YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 祇園祭前祭 Y2022 山鉾巡り -1 長刀鉾・函谷鉾・鶏鉾・白楽天山 へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2022 山鉾巡り -2 岩戸山・船鉾・伯牙山・芦刈山・油天神山・太子山 へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2022 山鉾巡り -3 木賊山・蟷螂山・放下鉾 へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2022 山鉾巡り -4 郭巨山・曳き初め(船鉾・岩戸山)へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2022 山鉾巡り -5 月鉾・(鶏鉾・函谷鉾)・菊水鉾 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -1 御旅所と長刀鉾 9回のシリーズでご紹介観照 祇園祭 Y2018 前祭 -1 鉾建てを経て 鉾の姿(長刀鉾・函谷鉾・鶏鉾) 7回のシリーズでご紹介探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -1 長刀鉾の鉾建て (1) 胴組の初日 22回のシリーズでご紹介観照 [再録] 祇園祭 Y2014・前祭 宵山 -1 長刀鉾・函谷鉾・月鉾・舩鉾、岩戸山、木賊山、太子山 2回のシリーズでご紹介観照 [再録] 祇園祭 Y2014・前祭 山鉾巡行 -1 2番・芦刈山から9番・菊水鉾まで 5回のシリーズでご紹介
2022.08.10
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曳き初めを見た後、四条通を東に歩みます。最初に長刀鉾⇒函谷鉾⇒鶏鉾と巡った関係で立ち寄らなかった「月鉾」がすぐ近くです。ここの地名は「月鉾町」。 鉾頭が新月型(みかづき)「月鉾」の名はここに由来します。真木の中ほどの「天王座」には月読尊が祀られます。 西側の駒形に吊られた提灯。宵山に点灯されると祇園祭の情緒が一気に盛り上がります。 南西側から 西側の破風の装飾部分。波濤文様浮彫の間に、白ウサギが丸彫り彫刻されていて、その下には様々な貝殻と馬を彫刻した錺金具で覆われた桁が見えます。この軒桁貝尽くしの錺金具は松村景文(1779~1843)の下絵によるものだそうです。 こちらは東側で月鉾の正面になります。破風部分と屋根の軒裏です。波濤文様の間の白ウサギ等は正面と背面が照応しています。 東側(正面) 白ウサギの傍に、亀の錺金具が見えます。 西側屋根の軒裏は円山応挙筆「金地彩色草花図」(天明4年/1784年)です。 天井の一部 四条通南側歩道から月鉾の側面を見上げますと、扇面図が見えます。町内の住人岩城九右衛門筆「金地著彩源氏五十四帖扇面扇面散図」です。 四本柱の錺金具の一つ 埒の間から、この部分の藁縄による躯体の縛り箇所が撮れました。細めの荒縄の印象を受けます。 烏丸通側(東)から四条通を歩んでくれば、正面側をまず眺めることになります。月鉾から室町通の菊水鉾を経由してその北に位置する山を巡ることになります。折角ですので、室町通を南に入って、もう一度 鶏鉾の全景を眺めました。 室町通の東側から側面全景を撮っていなかったのです。透明カバーシートが被せてありますが、胴懸は比較的綺麗に見えました。これは御朱印船の図だったと思います。下水引は残念ながら判然としません。四条通を横断し、函谷鉾に少し立ち寄ります。折角戻ってきたので・・・・こちらも。 西側から 懸魚の上、破風の合掌部には、瑞鳥の錺金具が見えます。 破風と屋根の端部を覆う錺金具が華麗です。 四条通から室町通を北に入ります。函谷鉾町の北隣り、通りの両側が「菊水鉾町」です。 菊水鉾も、懸装品には透明のカバーシートが被せてあります。残念ですが・・・・。 東側の胴懸は比較的全体が見やすいです。正面はダメでした。これら前懸と胴懸は七福神をモチーフにしていると言います。 埒越しに眺めた車輪。車輪の輻(や)には「菊水鉾」と刻字され、車軸の先端のカバーには菊紋がレリーフされています。「菊水鉾」は町内に古くからあった「菊水井」に因んで名付けられたそうです。元治元年(1864)の兵火で焼失し、昭和27年に再興され、昭和28年(1953)6月に完工祭が行われた「昭和の鉾」です。 鉾の後部(北面)に見えるのは布袋と唐子たちの図です。 弁天さま 毘沙門天 東側の胴懸。こちらも大凡はその図柄がわかる程度には撮れました。 毘沙門天と弁天さまの図だそうです。 これまでにご紹介してきた長刀・函谷・鶏・放下・月の諸鉾と菊水鉾に違いがあります。菊水鉾は屋根が唐破風の形なのです。この1枚で違いはお解りになるでしょう。唐破風屋根には、彫師海老名峰彰作の鳳凰の懸魚が飾られています。軒下に翠簾が掲げられます。 四本柱の一つの錺金具 室町通の北からの景色正面もこちらも、駒形に吊られた提灯が障壁となり、唐破風の屋根の姿全体をみることはできません。ちょっと残念ですが・・・・。この辺で、切り上げて室町通を北上しました。北に位置する山を巡りましょう。つづく参照資料*山鉾について :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)補遺中京の山鉾 -山鉾の魅力細見- :「上京区」山鉾の魅力細見・細部の名称 :「下京区」2022年 京都・祇園祭 山鉾巡行 「鶏鉾・菊水鉾」 YouTube祇園祭2022 函谷鉾/鶏鉾/菊水鉾/月鉾曳き初め 7/12(火)Gion festival YouTube月鉾 月鉾保存会公式サイト鶏鉾 ホームページ函谷鉾 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 祇園祭前祭 Y2022 山鉾巡り -1 長刀鉾・函谷鉾・鶏鉾・白楽天山 へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2022 山鉾巡り -2 岩戸山・船鉾・伯牙山・芦刈山・油天神山・太子山 へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2022 山鉾巡り -3 木賊山・蟷螂山・放下鉾 へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2022 山鉾巡り -4 郭巨山・曳き初め(船鉾・岩戸山)へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2022 山鉾巡り -6 占出山・霰天神山・山伏山 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -1 御旅所と長刀鉾 9回のシリーズでご紹介観照 祇園祭 Y2018 前祭 -1 鉾建てを経て 鉾の姿(長刀鉾・函谷鉾・鶏鉾) 7回のシリーズでご紹介探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -1 長刀鉾の鉾建て (1) 胴組の初日 22回のシリーズでご紹介観照 [再録] 祇園祭 Y2014・前祭 宵山 -1 長刀鉾・函谷鉾・月鉾・舩鉾、岩戸山、木賊山、太子山 2回のシリーズでご紹介観照 [再録] 祇園祭 Y2014・前祭 山鉾巡行 -1 2番・芦刈山から9番・菊水鉾まで 5回のシリーズでご紹介
2022.08.08
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放下鉾の曳き初めの往路だけを見物した後、新町通を南に下りますと、四条通の南側には、既に船鉾の曳き初めの往路が終わり、復路に入る前の待機態勢でした。というのは、船鉾の南に位置する岩戸山もまたこの時曳き初めをするからです。待機している船鉾の直近の南側まで、曳き初めの往路として岩戸山が来ます。四条通の北側歩道を西に向かいます。 西洞院通の手前に、「郭巨山」があります。ここは前回ご紹介した蟷螂山のある蟷螂山町の南隣りで、地名は「郭巨山町」です。ここもまた、山建ての最終段階に入っていました。 傍近くから見上げた山の北面。この山には屋根が付いていて、屋根の上に真松が立てられています。胴懸には透明カバーシートが被せてあるので写真に撮ると殆ど図柄が分かりませんね。残念。この山は、中国『二十四孝』という教訓書に載る郭巨の釜掘りの故事を題材にした山です。『二十四孝』は、「中国古来の孝子24人。または、その伝記と詩を記した」(『日本語大辞典』講談社)書です。別名「釜掘り山」とも呼ばれるとか。「家が貧しく、母が食を減らすのを見て、一子を埋めようと思い、土にあなを掘ったところ、黄金一釜が現われ、その上に『天、孝子郭巨に賜う』と書いてあったという。」(資料1) 見送がかけてあります。四条通を横断中に撮ってみました。 南側歩道から撮った全景です。ここに見る胴懸や見送は、ホームページなどを参照するとたぶん巡行当日までの旧蔵懸装品の展示だろうと推測します。こういう機会でないと見られないものです。さらに西に行けば、「四条傘鉾」があります。今回は断念して曳き初めの雰囲気を味わいに戻りました。 船鉾がまだ復路の曳き初めまでの待機状態です。 岩戸山が既に船鉾のすぐ近くまで来ていました。船鉾と岩戸山の間で路上に帽子を被った一群の子供たちが大勢います。小学生ですので、授業の一環としての山鉾見学のようです。 「岩戸山」 車輪の傍に立つ人の法被には背に「岩」の字が見えます。 胴懸:唐草文様インド絨毯 下水引:鳳凰瑞華彩雲岩に波文様紋織 2番水引:緋羅紗地宝相華文様刺繍3番水引:紺金地雲三ツ巴五瓜唐花文様綴織 これらは復元新調品です。 前懸:玉取獅子図(中国絨毯) 岩戸山曳き初めの復路がスタートしました。復路は、山の後部が先頭になって元の定位置まで戻ります。この曳き方が見られるのは、曳き初めの機会だけだと思います。引き続いて、船鉾の曳き初めの復路が始まります。 艫櫓下の水引:緋羅紗地鳳凰麒麟雲文様刺繍(資料2)船鉾のご紹介の折に、艫の下に舵を取り付けていないと説明しました。その理由がわかりました。曳き初めにおいて、復路で音頭取りの人たちが艫側を使うからでした。多分、船鉾が定位置に戻ると、舵が取り付けられることでしょう。ここで1点補足修正させていただきます。船鉾のご紹介の折に、後懸という言葉を使いましたが、「艫隠(見送)」と称するそうです。その後資料を調べていて知りました。(資料3) 下水引:雲龍文様肉入刺繍 前懸:波濤に飛龍文様綴織 船鉾の先(南)に岩戸山が見えます。巡行当日の様子をイメージできます。大きな違いは山鉾の後部を先頭にして進んでいるという点です。山と鉾の曳き初めを見物して、四条通を東に戻ります。つづく参照資料*山鉾について :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)1) 郭巨 :「コトバンク」2) 船鉾の懸装品・装飾品・ご神体 :「祇園祭デジタル・ミュージアム 2021」3)艫隠(見送) :「祇園祭のデジタル・ミュージアム」補遺郭巨山 ホームページ二十四孝 :ウィキペディア祇園祭船鉾保存会 ホームページ山鉾の魅力細見・細部の名称 :「下京区」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 祇園祭前祭 Y2022 山鉾巡り -1 長刀鉾・函谷鉾・鶏鉾・白楽天山 へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2022 山鉾巡り -2 岩戸山・船鉾・伯牙山・芦刈山・油天神山・太子山 へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2022 山鉾巡り -3 木賊山・蟷螂山・放下鉾 へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2022 山鉾巡り -5 月鉾・(鶏鉾・函谷鉾)・菊水鉾 へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2022 山鉾巡り -6 占出山・霰天神山・山伏山 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -1 御旅所と長刀鉾 9回のシリーズでご紹介観照 祇園祭 Y2018 前祭 -1 鉾建てを経て 鉾の姿(長刀鉾・函谷鉾・鶏鉾) 7回のシリーズでご紹介探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -1 長刀鉾の鉾建て (1) 胴組の初日 22回のシリーズでご紹介観照 [再録] 祇園祭 Y2014・前祭 宵山 -1 長刀鉾・函谷鉾・月鉾・舩鉾、岩戸山、木賊山、太子山 2回のシリーズでご紹介観照 [再録] 祇園祭 Y2014・前祭 山鉾巡行 -1 2番・芦刈山から9番・菊水鉾まで 5回のシリーズでご紹介
2022.08.07
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太子山から仏光寺通に戻り、仏光寺通を東に入ると「木賊山」が山建て中でした。半ばまでは組み上がっています。お陰で躯体(胴組)の様子が良く分かります。ここは通りの両側が「木賊山町」です。 かつては、山は担がれて巡行しましたので、担ぎ棒が5本並んでいます。担ぎ棒の箇所は藁縄ではなくロープで縛ってあります。現在はご覧のように前後に回転するだけの小さな車輪が取り付けてありますので、直線道路では担ぎ手ではなくて曳き手により曳かれて行きます。四つ辻での方向転換の折に、曳き手が担ぎ手になって、くるりと方向転換するのです。四つ辻のその場で、数回山をクルクルと360度見物客に見える様に担いで回すというパフォーマンスをしてくれます。 櫓の床隅では、桁と斜めの補強材はホゾに木栓を打ち込み固定し、藁縄で縛ってあります。柱と斜めの補強材もまたホゾに木栓を打ち込み固定して、藁縄で縛ってあります。藁縄での縛りは同じ形です。 桁と斜めの補強材を荒縄で縛っています。柱の下部も同様です。車輪には木製の車止めがかませてあります。 櫓の柱を貫く横板がホゾに差し込んだ木栓で固定され、それと担ぎ棒がロープで緊縛されています。かつては、これが櫓の底部部分となったのでしょう。洛中洛外図屏風に描かれた祇園祭巡行場面と併せてイメージした私の推測ですが・・・・・。 町家の軒下に、覆屋のパーツが準備されています。「木賊(とくさ)山」は謡曲「木賊」に由来する山です。「我が子を人にさらわれて、一人信濃国伏屋の里で木賊を刈る翁をあらわしている」(駒札より)という場面を表現しているそうです。山建てを少し撮ったあと、仏光寺通を西胴院通まで歩み、西洞院通を北上します。四条通を横断し北に入れば、通りの両側が「蟷螂山町」です。 「蟷螂山」もまた、山建ての最終段階に入っていました。既に御所車が櫓の上に載っています。埒と覆屋を組見立てる作業がこれからなので、例年よりも御所車全体を間近に見上げることができました。 「蟷螂山」の蟷螂とはカマキリのことです。御所車の屋根に大きな蟷螂が乗っています。ここに由来するのでしょう。蟷螂には透明のカバーシートが被せてあり残念でした。これはカラクリ人形になっています。巡行中に要所要所で蟷螂の羽根や脚を動かすパフォーマンスが演じられます。 御所車は正面が南に向いています。正面の東側で目にとまりました。この龍頭、まともに見たことがありませんでした。ラッキー! 櫓の上に置かれた御所車の東面です。 丸彫りの降り龍が御所車の側面(袖の部分)を飾っています。車輪の輻(や)が細身です。支える重量を考えれば、それで十分なのでしょうね。 御所車の車輪は、鉾や曳山の車輪とは少し異なることがお解りいただけるでしょう。車輪の輪の部分の形状とそのパーツの組み方に違いがあるようです。この飾り用の御所車では輪にパーツを線描きしているだけですが。鉾の車輪とパーツを見比べて下さい。黒漆塗りの欄縁には、三つ巴紋を中央に唐草文様の錺金具と五葉木瓜紋の錺金具が使われています。これら二つを併せて八坂神社の神紋です。 欄縁の角の錺金具、その下には隅房掛の錺金具が取り付けてあります。房飾りがこれにかけられます。 蟷螂山は車輪が見える形です。車止めの道具が木賊山とは違うやり方です。止め具の上に車輪を乗せる形式です。埒があると見づらいところがよく見えます。裾幕には、「蟷」という漢字が上部一列に印字されています。 南側(正面) 北側透明のカバーシートを被せて、見送が既に取り付けてあります。残念ながら見送自体の絵を十分には楽しめませんでした。北の錦小路通を西に入り、新町通で右折して南にある「放下鉾」を目指します。そこは「小結棚町」です。 放下鉾の北面鉾の後部です。囃子方の人々が鉾に乗っています。 西面囃子方で鉦(かね)を叩く役割の人々(鉦方)が鉾の屋台の左右に揃うと、バチ(鉦スリ)の動きに連れてゆれ動く下げ緒(と呼ぶのかどうか不明です・・・・)が垂らし始められました。 南西側から「放下鉾」は真木の中ほどに設けられた天王座に放下僧の像を祀ることにその名が由来するそうです。放下僧について、次のような説明があります。「中世の芸能者で、輪鼓や玉・刀・などを放下する芸、つまり手玉に取る曲芸を演じたことからの称であり、田楽法師の流れを汲む者とされる。・・・・・放下僧は半僧半俗的なもので、出自を禅家に求め、禅法を口にすることを好んだというが、近世以後は仏教色が希薄になり、大道芸を売物にする全くの芸能民と化したようである。」(『仏教辞典』岩波書店) 下水引は栂尾高山寺の国宝「華厳宗祖師絵伝」を下絵にした綴織が、平成6年(1994)から使われています。絵伝に描かれた場面の中から、この下水引に一つのストーリーを構成する4場面が使われているようです。鉾正面は祖師が唐での修行を終えて船に乗り帰国する場面と思います。 再び鉾の側面にもどります。下げ緒はこんな感じ・・・・。前懸・胴懸には花文様のインドやペルシャの絨毯が使われています。下水引の下の三番水引は、駒井源琦の下絵による「青海波におしどり図」綴織ですが、現在はその復元品が用いられているそうです。 胴懸の下、こちらは白黒縦縞の裾幕が使われています。躯体の土台部分を縛っている藁縄の最後の仕上げ方はまた少し異なっています。船鉾の場合との違いを見比べてみて下さい。 私が放下鉾を訪れたタイミングは、曳き初めの少し前でした。計画していた訳ではなく、ふらりと出かけて、長刀鉾を見た後に山鉾巡りを思いつきルートで巡っていった結果での出会いでした。 鉾の正面に立つ音頭取りの合図で曳き初めが始まります。鉾建てされた場所から、新町通を四条通への入口まで、わすかの距離ですが、巡行本番の前に、鉾の試運転が行われるのです。 西側の下水引は、龍が描かれています。祖師の乗船した船を追いかける場面だったと思います。 鉾の四隅には、隅房掛の錺金具に房飾りがかけてあります。飾り結びが3箇所、中央が八坂結びだそうですが、上下の結び方は確認できず・・・・残念。 曳き初めが始まりました。ゴトゴトと3年ぶりの車輪の音を響かせます。(たぶん、そうだろうと・・・)囃子方もうれしいことでしょうね。鉾の後部(北面)の下水引は有名な場面です。祖師帰国の航海の無事を祈り、ある女性が海に投身しました。その女性とは、義湘に恋心を打ち明けた善妙です。「出航したあとにそれを知った善妙は、義湘のために取り揃えていた仏具(ぶつぐ)などを持って港に行きますが、船は遠くにかすんでいます。善妙は、仏具の箱を船に向かって投げ入れ、そして自分も海に飛び込みます。すると、善妙の心の深さのために、その身が龍に変わり、義湘の航海を守ることになるのです。」(資料2)鉾の正面(南面)は帰国の航海に出た義湘の乗る船。西面は善妙が龍となり船を追いかける姿です。 会所の2階と放下鉾を繋ぐ階段です。こんな写真を撮ったのは全く初めてでした。 ゆっくりと放下鉾が戻って来る態勢に。 今度は北面が先頭になって鉾が戻ってきます。車輪は前後方向に回転するだけですので、曳き初めの時だけは、背面を先頭にして元の定位置に戻る必要があります。本番の巡行日には、四条通まで出て、四条通新町の交差点で、辻回しをして四条通を東に進める態勢に入り、巡行に加わることになります。今年のくじ取りでは、放下鉾は第21番目、最後から3番目です。今までご紹介してきた範囲で言いますと、芦刈山-伯牙山-太子山-放下鉾-岩戸山-船鉾という順番で、今年の巡行の後尾が締められたことになります。 この辺りで、放下鉾を離れ、次に移動します。この時、同時並行で船鉾と岩戸山が四条通の南で曳き初めを行っていたのです。つづく参照資料*山鉾について :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)1) 祇園祭と八坂紋結び :「茶香房ひより diary」2) 華厳宗祖師絵伝 :「京都国立博物館」補遺木賊 とくさ:「謡蹟めぐり 謡曲初心者の方のためのガイド」木賊 (とくさ)華厳宗祖師絵伝 :「コトバンク」祇園囃子 :「祇園祭2022」祇園祭 放下鉾の名宝 :「京都文化博物館」飾り結びについて :「Pinterest」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 祇園祭前祭 Y2022 山鉾巡り -1 長刀鉾・函谷鉾・鶏鉾・白楽天山 へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2022 山鉾巡り -2 岩戸山・船鉾・伯牙山・芦刈山・油天神山・太子山 へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2022 山鉾巡り -4 郭巨山・曳き初め(船鉾・岩戸山)へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2022 山鉾巡り -5 月鉾・(鶏鉾・函谷鉾)・菊水鉾 へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2022 山鉾巡り -6 占出山・霰天神山・山伏山 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -1 御旅所と長刀鉾 9回のシリーズでご紹介観照 祇園祭 Y2018 前祭 -1 鉾建てを経て 鉾の姿(長刀鉾・函谷鉾・鶏鉾) 7回のシリーズでご紹介探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -1 長刀鉾の鉾建て (1) 胴組の初日 22回のシリーズでご紹介観照 [再録] 祇園祭 Y2014・前祭 宵山 -1 長刀鉾・函谷鉾・月鉾・舩鉾、岩戸山、木賊山、太子山 2回のシリーズでご紹介観照 [再録] 祇園祭 Y2014・前祭 山鉾巡行 -1 2番・芦刈山から9番・菊水鉾まで 5回のシリーズでご紹介
2022.08.06
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白楽天山から仏光寺通を歩き、一筋西の新町通りに向かいます。仏光寺通新町の四つ辻から新町通の北を見れば「船鉾」、南を見れば「岩戸山」です。まずは、少し南の「岩戸山」から巡ります。そこの地名は岩戸山町です。 一見、鉾と同じ姿にみえますが、こちらは「山」です。車輪をつけた曳山(ひきやま)です。前回、長刀鉾等の鉾では「真木」や「天王座」という言葉をご紹介しました。鉾には鉾柱が立っています。岩戸山は鉾柱の代わりに屋上に「真松」を立てています。天照大神が天岩戸から出現されるという日本神話から取材し、御神体として天照大神、手力雄尊の人形が安置され、さらに屋根の上に伊弉諾尊の人形が安置されます。そこから岩戸山の名称が由来するそうです。 正面の下水引と前懸です。水引は鉾と同様に3枚重ねてあります。前懸は「玉取獅子図」(中国絨毯)です。 巡行中には、この山の躯体の基礎となる部分を縛っているこの藁縄は多分見過ごされることでしょう。懸装品の華やかさや鉾や曳山のダイナミックな動き-囃子・音頭取り・曳き手など-に目が奪われるから・・・・・。縁の下の力持ちの役目を果たしているのが躯体の木組構造であり、この藁縄なのです。 側面の下部を観察しますと、藁縄の縛り方がまた異なります。 側面を見上げていきます。胴懸は唐草文様インド絨毯です。 下水引は「鳳凰瑞華彩雲岩に波文様紋織」です。これは2003年に復元新調されたそうです。その下の2番水引は「緋羅紗地宝相華文様刺繍」、3番水引は「紺金地雲三ツ巴五瓜唐花文様綴織」。この二つは2005年に復元新調されたそうです。 南面側から天井は前後が格子天井で、中央部には「白茶地五彩瑞雲文様」の天井幕が張られています。こちらは2011年に新調されたそうです。屋根を支える柱が見えます。学生時代から延々と毎年のように祇園祭の山鉾巡りや巡行見物を続けています。なぜ見飽きないのか。その一端は毎年、少しずつ山鉾の懸装品などに新陳代謝が見られるという要因があります。復元新調されるもの。新調として新たなものが加えられること。それまでの伝統的に長らく使われてきたものが、保存されそれもまた見る機会があること。山鉾巡行の長き歴史の背景と今後の継続への意気込みが見られることが楽しいのです。勿論この雰囲気が好きなのです。 屋根を支える四隅の柱は錺金具で覆われています。そして、黒漆塗りの欄縁に施された錺金具の意匠を見るのが楽しい。それぞれの山鉾により、様々な意匠の工夫がなされています。 屋根の前後には獅子口が使われています。 南面には梯子が掛けてありました。その理由が後でわかりました。この日、この岩戸山と船鉾は私の訪れたタイミングの後に、山鉾の曳き初めの行事が行われたのです。それは、他の山をいくつか巡った後に、曳き初めの途中を見ることができたので、ナルホドと。 埒で囲っていなかったので、山のすぐ傍で軒裏を撮る事ができました。前後の軒裏は中島華鳳筆「金地著彩鶺鴒図」(昭和6年/1931年)です。 車輪前後にだけ回転する車輪ですので、巡行では一つのパフォーマンスとしてどよめきが生まれる「辻回し」が必要になるわけです。これは見物(みもの)です。学生時代に四条河原町で一通り眺めていたことがあります。今や懐かしい思い出です。さて、新町通を北へ。私の好きな「船鉾」に参りましょう。そこは船鉾町です。 南面船鉾の艫の方になります。船鉾をイメージしやすいように、舳先側からご紹介します。 新町通を北から下って来ると、綾小路通を横切った先に船鉾が見えます。二人の子供が教えられながら、巡行の音頭を取る真似事をしていました。この頃から身近に馴染んで行けば将来はさぞや優秀な音頭取りができるでしょうね。 「金色の鷁(げき)」。宝暦年間(1751~1764)長谷川若狭の作とのこと。鷁は想像上の水鳥です。「水難除けに、その形を船首の飾りにする」(『日本語大辞典』講談社)という次第。平安時代に貴族が大池に船を浮かべて遊ぶという姿が『源氏物語』にも登場します。「龍頭鷁首」という言葉を思い出されるかもしれません。余談ですが、京都の神泉苑を探訪した時、池に「龍頭鷁首」の船が浮かべられていたと記憶しています。たぶん今もあるでしょう。嵐山の三船祭でも使われています。船上には唐破風入母屋造り屋根の屋形が設えてあります。この屋形の中に、神功皇后と陪従する磯良・住吉・鹿島の三神像の人形が巡行当日安置されます。 天水引の一部。鷁が刺繍されています。あるいは鳳凰かも・・・・・。 側面に回り、前後の車輪の間に見える鉾の土台部分の部材を藁縄で縛った仕上がりの形がきれいです。岩戸山との違いがおわかりでしょう。山鉾によってそれぞれ独自の手法・技法があるようです。 車輪車輪の基本構造は同じですが、軸受けの金具の形状はそれぞれ意匠が微妙にことなります。これも対比的にご覧いただくとおもしろいと思います。 艫にも独立した建屋が設けられています。船の舵取りをする人の持ち場です。ここの高欄の下部には、 舳先の鷁とは異なる想像上の動物が少しずつ異なる姿で丸彫りされた彫像が取り付けられています。「水龍」と称されていて、螺鈿細工で描き出された舵の水龍と呼応しています。 艫側の水引には金色の雲形文の間に想像上の動物麒麟が刺繍されています。 船尾の水引には瑞鳥が刺繍されています。鳳凰でしょうか、それとも鷁でしょうか。鷁と鳳凰の違いは何か。幾度も見ている筈なのに、今初めてひとつ、課題が残りました。 いつもなら、舵が取り付けられてその背後になるのですが、訪れた時には未だ取り付けられていなかったので龍文様の後懸の全体が見えました。残念なことに、透明カバーシートが被せてあったので、こんな写真に・・・・。残念ですが仕方なし。やはり興ざめですね。 艫側を正面から眺めた景色です。巡行までは覆屋根が設けてあります。右側(東)に会所の2階との間に出入りする階段が設けてあります。水引の下の凹部になったところに後懸が懸けられていて、その前に舵が据えられます。 後懸の下の部分です。後懸には数多くの飾り房が付いています。その下には水流文様の幕が張ってあります。この意匠が山鉾それぞれに異なっています。見比べていくだけでの楽しめます。船鉾の少し北に歩み、綾小路通を西に入ります。 西洞院通までの手前に、「伯牙山」があります。山建てが終わっていました。飾り付けはこの後か、明14日でしょうか。宵山までは最小限の懸装品や山形に提灯が並ぶはずです。周辺はひっそりしていました。観光客からすれば、なにもないという感じかもしれませんね。「別名『琴破山』ともいわれる。山の御神体(人形)は中国の周時代、琴の名人伯牙とその友人鍾子期との物語に取材、伯牙が鍾子期の死を聞いてその琴の絃を断ったという故事をあらわしている。」(駒札より) つまり、山の名は琴の名人伯牙の名に由来します。この伯牙山が建てられるのは矢田町です。綾小路通を西に、新町通から一筋西側の西洞院通を横切り、先に進みます。 見えて来るのは、「芦刈山」です。ここもほぼ山建てが終わったようですが、両側にはいまだ部材が置かれていますので、最終段階なのでしょう。 西側からの眺め「芦刈山」の櫓(やぐら、胴組・躯体)を見て、まだ新しいなと感じたので、後で調べてみますと、2015年になんと143年ぶりに新調されたとのことです。(資料1)「芦刈山」は謡曲「芦刈」を題材にした山です。そこに名称の由来があります。芦刈山が建つところは、通りの両側が芦刈山町です。芦刈山からさらに西に進むと、油小路通との四つ辻に至ります。油小路通を南に入ります。通りの両側が「風早町」です。 ここの山建てもほぼ最終段階でした。部材を運ぶ人を見かけました。ここは「油天神山」です。古くから町内(風早町)に祀られていた天神を勧請して作られた山だそうです。油小路綾小路下ルにあるところから、「油天神山」と称されるとか。また勧請の日がちょうど丑の日にあたっていたところから「牛天神山」とも呼ばれると言います。油小路通を南進します。一筋南は仏光寺通です。 四つ辻の南側に、太子山の提灯が設置されています。仏光寺通と一筋南の高辻通との間の油小路通の両側は「太子山町」です。 山の手前、通りの西側に「秦家住宅」があります。京都市登録有形文化財の町家です。江戸時代から薬種業を営んでいた家です。二階の額縁付き虫籠窓(むしこまど)の中央に屋根付き看板が掲げてあり、「奇応丸」というこの店が生み出した薬の名前が刻されています。 この銘板が掲示されています。当初の建物は兵火に罹災し現在の建物は、明治2年(1869)頃に再建されたものといいます。表の主屋が店舗部、その背後に玄関部でつないだ居住部が設けられた「表屋造り」の形式の町家です。この町家にて、太子山の御神体、懸装品などが宵山まで展示されます。秦家住宅は、事前予約が必要ですが有料で見学できる町家です。(資料2) ここは、山建てがまだ続いていましたが、ほぼ最終段階に入っているようでした。 埒に近づいて櫓(躯体)を眺めますと、ここは藁縄の代わりにロープが使われています。「太子山」は聖徳太子を祀る山であることから、この名が由来するそうです。ここで一区切りとします。つづく参照資料*山鉾について :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)1) 新着NEWS :「芦刈山」2) 見学 :「京都秦家」補遺祇園祭・岩戸山 岩戸山保存会 ホームページ祇園祭船鉾保存会 ホームページ京都祇園祭 伯牙山 公式ホームページ芦刈山 ホームページ祇園祭・太子山の胴懸新調 YouTube京都・秦家 ホームページ中国故事68 「伯牙絶絃」 :「やけい」演目事典 芦刈 :「the 能.com」鳳凰 :ウィキペディア鷁 :「コトバンク」車折神社 三船祭 :「ざ京都」京都嵐山 平安時代の船遊び 三船祭 -後編- YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 祇園祭前祭 Y2022 山鉾巡り -1 長刀鉾・函谷鉾・鶏鉾・白楽天山 へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2022 山鉾巡り -3 木賊山・蟷螂山・放下鉾 へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2022 山鉾巡り -4 郭巨山・曳き初め(船鉾・岩戸山)へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2022 山鉾巡り -5 月鉾・(鶏鉾・函谷鉾)・菊水鉾 へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2022 山鉾巡り -6 占出山・霰天神山・山伏山 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -1 御旅所と長刀鉾 9回のシリーズでご紹介観照 祇園祭 Y2018 前祭 -1 鉾建てを経て 鉾の姿(長刀鉾・函谷鉾・鶏鉾) 7回のシリーズでご紹介探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -1 長刀鉾の鉾建て (1) 胴組の初日 22回のシリーズでご紹介観照 [再録] 祇園祭 Y2014・前祭 宵山 -1 長刀鉾・函谷鉾・月鉾・舩鉾、岩戸山、木賊山、太子山 2回のシリーズでご紹介観照 [再録] 祇園祭 Y2014・前祭 山鉾巡行 -1 2番・芦刈山から9番・菊水鉾まで 5回のシリーズでご紹介
2022.08.04
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長刀鉾7月13日に祇園祭前祭の山鉾巡りをしました。記録の整理を兼ねたご紹介です。今年は巡行が決定されました。幸いにも当日はそこそこの天気になり良かったと思います。宵山と巡行を見に出かけるのは回避し、その前に山鉾を眺めに出かけた次第です。今回は駒札を参照する程度で、山鉾の写真での点描を中心にまとめてみたいと思います。末尾に今年の祇園祭案内チラシから切り出した図を掲載します。位置関係が分かりやすいと思いますので。冒頭の写真は四条通・北側歩道を東から傍近くまで行き撮ったものです。13日は曇空。 長刀鉾の前に神酒が奉納されています。懸装品に透明カバーシートが被せてあるかと思っていたのですが、それがなくてラッキーでした。北東側から見上げた景色です。 北面の前部 北面の後部 上掲、北面後部の下水引をズームアップしてみました。「五彩雲麒麟図刺繍」の図(復元新調品)です。 西面一番から三番まで水引が重ねてあります。 西側から、長刀鉾の真木を撮りました。鉾には疫病・邪悪をはらう大長刀(おおなぎなた)が取り付けてあります。これが鉾名の由来です。現在は複製品が使われています。真木のなかほどに「天王座」があり、そこには和泉小次郎親衡の人形が祀られています。 四条通の南側歩道に移り、南西側から長刀鉾の姿を眺めた景色です。四条通の北側を使って鉾が建てられていますので、自動車の往来が絶えません。烏丸通を横断し、再び四条通の北側歩道を西に少し歩むと、 「函谷鉾」が見えます。 北東側から雨除けの透明カバーシートがかぶせてあると、こんな感じです。写真を撮るには不適ですね。天候不順だと仕方が無いのですが、興が削がれます。 鉾の天井を見上げると、鶴が描かれています。 北西側から屋根の上には、覆屋根がかけてあります。勿論巡行当日は撤去されますが。 屋根裏の部分図今尾景年(1845~1924)筆「金地彩色鶏鴉(けいあ)図」が描かれています。 西側から中国の戦国時代、斎の国に孟嘗君という知略に長けた宰相がいました。彼は「函谷関」を鶏の声を真似させることにより、関所の門を開かせることができ、窮地から脱出できたのです。「鶏鳴狗盗(けいめいくとう)」の故事と言われます。「函谷鉾」はこの故事に因んで名付けられました。 鉾頭の月と山型は山中の闇を表しているそうです。真木のなかほどの「天王座」には孟嘗君、その下に雌雄の鶏をそえているとか。 四条通の南歩道に移動し、函谷鉾の全景を撮りました。シートが懸けてあると、懸装品がぼやけて見えて残念です。 室町通を南に入りますと、通りの西側に「鶏鉾」が見えます。池坊短期大学の学舎の傍に位置します。 この鉾も透明カバーシートがかぶせてありました。 北面の屋根裏と天水引は見やすいです。 この天水引は四条派画家の一人、下河辺玉鉉の下絵によるものです。 南西側から函谷鉾と同様に、鶏鉾も覆屋根が設けてあります。覆屋根の意匠が異なります。 南面の天水引には五彩雲の中に瑞鳥が描かれています。 南側から鶏鉾もその名は中国の史話に由来します。「昔、唐堯の時代に天下がよく治まり、訴訟用の太鼓(諌鼓)も用がなく苔が生え鶏が宿ったという故事によって、その心をうつしたものという」(駒札より)鉾頭がぎりぎりに写っています。形は三角形の中に円形。この円形は鶏卵が諌鼓の中にあるという意味で、鶏鉾の名の象徴となっているそうですが、詳細は不明とか。こちらの「天王座」には航海の神である住吉明神が祀られているそうです。室町通を南に下ります。綾小路通りを横切ると、白楽天町です。 「白楽天山」が見えます。山は建ち上がっていますが、懸装品等一式は会所に展示されていました。 山の躯体は藁縄で締められています。この仕上がった藁縄の形が美しい。山鉾それぞれに、縛り方締め方の特徴があるようです。こういう伝承も毎年継続していかないとその技術の維持伝承が困難になることでしょうね。囃子方が沢山乗る鉾の場合も同様に構造体の木組みが荒縄で縛り、締め付けているわけですので、これもまた高度な手技と言えます。 山の担ぎ棒の先端には錺金具が取り付けてあります。「白」という文字を陽刻した錺金具です。 白楽天山の会所には、正面中央に、山ニ乗る御神体の人形が祀ってあります。その左上には、「御山四番」の木札が掲げてあります。くじ引きの結果、山鉾巡行での山の順番が今年は四番を引いたということです。長刀鉾はくじ取らずの鉾で先頭を切ります。今年の鉾の一番は函谷鉾です。その結果、長刀鉾-孟宗山-保昌山-郭巨山-函谷鉾-白楽天山-四条傘鉾・・・・・という順番が決まっています。船鉾もまたくじ取らずでいつも最後尾を締めています。 白楽天白楽天は、唐織白地狩衣の衣裳に唐冠をかぶり、笏を持つという姿。 道林禅師道林禅師は、緞子地の紫衣を着て、藍色羅紗(らしゃ)の帽子をかぶり、手に数珠と払子(ほっす)を持っています。今は立ち姿ですが、二人が対面した時、道林禅師は松の枝の上に座していたと言います。白楽天山は、唐の官吏であり著名な白楽天(白居易)が道林禅師に仏法の大意を質問したという場面を表しています。 向かって左側 向かって右側余談です。白楽天は、松の木の上で坐禅をしているのは危険ではないかと道林禅師に問いかけたそうです。すると、あなたの方が危険に見えるよという返答。当然、白楽天は何の危険があるのかと質問します。道林禅師は心の穢れ、煩悩の燃え上がる火のことを指摘したとか。その後、白楽天は仏教の真髄とは何かを尋ねます。道林禅師は「諸悪莫作 諸行奉行 自浄其意 是諸仏教」と答えたそうです。『発句経』にも載る七仏通誡偈です。(資料1) 見送(みおくり):山鹿清華作「北京万寿山図」(毛綴錦) 昭和28年より使用 前懸(まえかけ):文化5年(1808)に新調された紺地雲龍文様刺繍裂と万延元年(1860)蟷螂山より買い受けた毛綴との三点継(つなぎ)。毛綴は「ギリシア神話を題材とした柄で、トロイ城陥落の時、アイネイアスが父を救出する場面を描いた優品」(駒札より) 欄縁:「金鍍(めっき)四君子模様」 野田嘉一郎製作 昭和51年(1976)新調 水引 胴懸水引と胴懸は、昭和53年(1978)にフランスから直接買い付けしたものだそうです。17世紀製作の毛綴。ベルギーフランドル地方産とのこと。 前懸の錺金具 山の隅飾り用の錺金具と飾り紐序でに、次の山鉾に移動する前に目に止まった石標が2つあります。 1つは「京都市立成徳尋常小学校跡」という石標です。室町通綾小路下る東側に立っています。「明治2(1869)年,新町通四条下る西側に開校した下京第九番組小学校は,同9年この地に移転し,成徳尋常小学校となった。昭和6(1931)年に下京区高辻通室町西入に移転し,同22年新学制のもと中学校となる。」(資料2) 2つ目は「松本宗悟邸址」の石標です。室町通仏光寺上る東側に立っています。「松本宗悟(生没年未詳)は,茶人村田珠光(1502~55)の門人で,十四屋宗伍として知られる。天文年間(1532~55)頃活躍し,歌人としても有名。」だそうです。(資料2) 山鉾のロケーション(祇園祭案内チラシより)つづく参照資料*各山鉾での駒札 京都市 1) 鳥窠禅師と白居易の問答 :「薬師寺」2) いしぶみデータベース :「フィールド・ミュージアム京都補遺万寿山 :「コトバンク」HT 白楽天と道林禅師 :「真宗出雲路派 八王子山 了慶寺」四君子 :「コトバンク」【着物の柄と種類】吉祥文様 ”四君子”について :「和音」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 祇園祭前祭 Y2022 山鉾巡り -2 岩戸山・船鉾・伯牙山・芦刈山・油天神山・太子山 へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2022 山鉾巡り -3 木賊山・蟷螂山・放下鉾 へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2022 山鉾巡り -4 郭巨山・曳き初め(船鉾・岩戸山)へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2022 山鉾巡り -5 月鉾・(鶏鉾・函谷鉾)・菊水鉾 へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2022 山鉾巡り -6 占出山・霰天神山・山伏山 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -1 御旅所と長刀鉾 9回のシリーズでご紹介観照 祇園祭 Y2018 前祭 -1 鉾建てを経て 鉾の姿(長刀鉾・函谷鉾・鶏鉾) 7回のシリーズでご紹介探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -1 長刀鉾の鉾建て (1) 胴組の初日 22回のシリーズでご紹介観照 [再録] 祇園祭 Y2014・前祭 宵山 -1 長刀鉾・函谷鉾・月鉾・舩鉾、岩戸山、木賊山、太子山 2回のシリーズでご紹介観照 [再録] 祇園祭 Y2014・前祭 山鉾巡行 -1 2番・芦刈山から9番・菊水鉾まで 5回のシリーズでご紹介
2022.08.02
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京都国立近代美術館 慶流橋南詰より 先月末にポンペイ展を見た後に、「没後50年 鏑木清方展」を鑑賞してきました。その覚書を兼ねて、ご紹介します。3階が展示会場でした。 神宮道歩道から 美術館側から京都国立近代美術館前のこれら展覧会PR看板がぱっと目を引きつけます。ここではこの形式のPRが多い気がします。京都国立近代美術館のコレクション展などで、時折鏑木清方の作品を眺めたことがありました。しかし、その全容を見たことがありません。そこでポンペイ展と併せて訪れた次第です。2022年は鏑木清方の没後50年目にあたるそうです。 PRチラシ 当日の入場券これらでイメージができるかもしれません。鏑木清方は上村松園と共に定評のある美人画家でした。日本画作品で構成する清方の大規模な回顧展をこの京都国立近代美術館で開催するのは、今回が初めてとのことです。かつ京都でこの規模の回顧展が開催されるのは、チラシのキャッチフレーズにあるとおり、「45年ぶりの、京都です」ということなので、私が見た記憶がないことを納得できました。 図録の表紙この表紙、上掲のPRにも使われています。美人! 「築地明石町」1927(昭和2)年 絹本着色 軸 173.5×74.0 cm 私は知らなかったのですが、「《築地明石町》44年ぶり発見」というニュースが数年前に美術界を賑わせていたと言います。京都での公開は95年ぶりだとか。 図録の裏表紙蛇の目傘が繊細かつ緻密に描かれています。ほっそりとしなやかな右手が添えられていますので、蛇の目傘をさして雨の中に歩み出すところでしょうか。あるいは、風に伴われ斜めに降りかかる雨を避けようとするところでしょうか。指先は艶めかしさすら表象しています。 「新富町」1930(昭和5)年 絹本着色 軸 173.5×74.0 cm 新富芸者を描き、背景には新富座が描かれているそうです。利休色の小紋縮緬の羽織が良い感じ。「浜町河岸」1930(昭和5)年 絹本着色 軸 173.5×74.0 cm これで近代美術館前のPRに見る3美人が出揃いました。「幻の三部作 初めての、関西です」がPRチラシ裏面のキャッチフレーズです。勿論、これは清方自身が「築地明石町」「新富町」「浜町河岸」を三部作としたと言います。築地明石町は当時は外国人居留地でハイカラな町だったそうで、清方は明治30年代によく明石町で遊んでいたと言います。新富座は清方が生まれた明治11年に新築された櫓のない近代的な建物で、新富町は清方の思い出深き町だそうです。浜町は明治末に足かけ6年暮らした町。上掲の絵には、踊りの稽古帰りの町娘が選ばれています。「この町には歌舞伎踊の振り付けで一時代を築いた二代目藤閒勘右衛門が家を構えていたからだ」(図録より)と言います。この三部作は東京国立近代美術館蔵です。全体の感想は、やはり日本画の美人画を満喫できたこと。美人画のオンパレードもたまにはいいものです。全体を眺めると、清方好みの美人顔が見られる気がします。作品展示は4章構成でした。<第1章 木挽町紫陽花舎・東京下町にて(明治)> PRチラシに使われているこの「雛市」(1901年)は、和服姿の親子と背を向けて雛を眺める裸足の女の子のコントラストが印象的でした。作品は絹本着色、額絵で 136.0×72.0 cm。「幽霊」(1906年)「朧駕籠」(1907年)という幽霊画2点がおもしろかったですね。前者は顔が見えませんが、後者はやはり美人顔です。前者は絹本着色で軸もの 95.0×34.0 cm。 後者も同様で、110.7×42.1 cm。「秋宵(しゅうしょう)」(1903年)は、ギリシャ風円柱の傍で、振袖・袴姿の娘がバイオリンを弾いている絵です。明治のハイカラというイメージが彷彿とします。勿論美人の乙女です。絹本着色の軸もの。154.4×70.8 cm。<第2章 本郷龍岡町・金沢遊心庵にて(大正)> 美術館前疎水端のPRパネルに使われているのが、「墨田河舟遊」(1914年)六曲一双の屏風です。江戸時代の大名の姫君一行が豪華な屋形船に乗り遊ぶ風景。かつては墨田川の一風景だったのでしょうね。屏風は、絹本着色で、各 168.0×362.0 cm。 「遊女」(1918年)清方の自己評価で「会心の作」とされるものです。泉鏡花著『通夜物語』の主人公・丁山を妖艶に描いています。この物語を読んだ人は、この絵からストーリーの場面を思い浮かべたのでしょう。この衣裳(打掛)の図柄に惹かれます。火鉢が時代を反映していますね。二曲一隻の屏風、絹本着色で、161.0×169.6 cm。「ためさるる日」(1918年)は絹本着色の軸もの(184.7×78cm)です。江戸時代に長崎丸山で毎年行われていた遊女の宗門改め(絵踏み)を題材にした作品。豪華な衣裳を纏った遊女が、素足で踏み絵に足をかけんとする直前の瞬間を凝縮しています。遊女の心の内は・・・・絵を見る人が、様々に想像しうる含みを残しています。これもまた清方の自己評価で会心のできだそうです。「夏の生活」(1919年)は紙本墨画淡彩の絵日記です。場面替えという形で一部を見ただけですが、別荘や村での場面を気軽に描いてあるのは、別の絵筆の側面が見えて親しめました。「暮雲低迷」(1920年)は着色絹本、六曲一双の屏風です。 各 139.0×290.0 cm山間の小村に暮れ方に雲が低く垂れ込めているひとときの雰囲気が描かれています。美人画が多い中でちょっと異色の作品展示でした。あ、こんなものも描いているのか、というインパクトがありました。清方自身は、まあまあの出来と自己評価しているようです。<第3章 牛込矢来町矢蕾亭にて(昭和戦前)>上掲の3部作は、このセクションに展示されていました。「一葉」(1940年)は絹本着色の軸物(143.5×79.5cm)です。図録の解説を参照すると、清方は樋口一葉の随筆「雨の夜」の一節に拠り、一葉がが「たけくらべ」を執筆していた頃の樋口一葉像を描いているそうです。一方で、「たけくらべの美登利」も描いています。こちらは額で58.0×72.8cmの大きさです。こちらの方は美人画です。数多い美人画の中で、紅一点ではなく黒一点風に「三遊亭円朝像」が展示されているのも異色な感じで目立ちました。清方の自宅にて、三遊亭円朝が書き取りの席で茶を飲んでいる場面を描いた肖像画だそうです。ちょっと上を見つめているという顔が、何かを思いついたような様子で印象的です。明治の大噺家三遊亭円朝(1839~1900)の創作人情噺を、清方の父の『やまと新聞』に連載するために幾度となく書き取りの席が設けられたそうです。録音機器がない時代の一コマになります。今ではちょっと考えられない作業ですね。絹本着色の軸物(138.5×76.0cm)です。黒一点でないのは、他に『藤懸静也博士寿像』(1941年)が展示されていたからです。絹本着色、軸物(129.0×68.0cm)。雰囲気が全く異なりますので対比するとおもしろい。<第4章 鎌倉、終の棲家(昭和戦後)>大佛次郎が復刊した大衆文芸雑誌『苦楽』の表紙原画を主体にした展示でした。勿論、大半が美人画です。そして、「朝夕安居」(1948年)という題で、朝・昼・夕の生活が3図構成となっていて、紙本着色、画巻として描かれています。明治20年代の木挽町、築地界隈の夏の一日だそうです。 朝 昼 この2枚は一連の絵として、夕を描く場面です。清方はこの画巻の場面について、自作自解の文を残しているそうです。明治11年生まれの清方にとって、「明治期、市井の人々の安らかな暮らし。清方の心のふるさと」(図録より)が描き出されたのです。少年時代の思い出が盛り込まれているのでしょう。そこに人生の原点がある。朝(42.2×124.0cm)、昼(42.2×60.5cm)、夕(42.2×158.6cm)。「先師の面影」と題する肖像画。先師が誰なのか、図録の解説にも記載がありませんので不詳ですが、数少ない肖像画の展示の中では、これも異色の部類です。こちらは端正な雰囲気を醸し出した作品でした。絹本着色の軸物(114.4×69.3)。もう一点「小説家と挿絵画家」(1951年)がおもしろい。肖像画と自画像を兼ねたような作品です。図録の解説を参照すると、「明治34年の夏に、泉鏡花が『三枚綴』の原稿を携えて、木挽町の清方の居宅を訪ねた光景を描いている」そうです。面白いのは、この頃、泉鏡花は新進作家として名が知られ、清方は芽が出たばかりの挿絵画家だったとか。小説家が直接に挿絵画家を訪れるという点がまずおもしろい。清方の自宅の一室の雰囲気がわかっておもしろい。対座する2人の雰囲気がごくまじめで、鏡花は少し神経質な感じすら受ける容貌で描かれているように見えます。この作品が描かれたのは1951年です。つまり、50年後にこの絵を描いているというところがさらにおもしろい。そこには泉鏡花と鏑木清方の親交の深さが感じられるから。これだけの作品が揃う展覧会は多分当分はないでしょうね。この時、4階では「令和4年度 第2階コレクション展」が併催されていました。京都国立近代美術館のコレクション・ギャラリーです。今回、セクションBでは、「『没後50年 鏑木清方展』によせて」というテーマで、日本画家のコレクション作品が展示されていました。昭和10年代に清方が描いた「砧」と尾崎紅葉原著鏑木清方絵「金色夜叉絵巻」の2点がこちらに展示されていました。展示目録を入手しただけですので、後は省略します。序でに、4階の休憩フロアー東側の全面ガラスウォールから東山連峰と岡崎の景色を眺めましょう。 左:北東方向をズームで。多分、金戒光明寺のある黒谷町あたりかと・・・・・。右:眼前の平安神宮大鳥居 神宮道の向こう側(東)は京都市京セラ美術館です。背景には東山連峰のなだらかな山並みが京の東を囲っています。東山三十峰と称されます。 左:美術館敷地の南側を西流する琵琶湖疏水と神宮道の慶流橋右:ガラスウォールからギリギリ南寄りの峰上をズームアップ。青蓮院将軍塚青龍殿か。天気が良いとこの4階からの展望は気持ちがいいです。 帰路は白川沿いに歩き、三条通に抜けました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*図録『没後50年 鏑木清方展』 2022 毎日新聞社・NHK・NHKプロモーション 東京国立近代美術館・京都国立近代美術館*出品リスト 没後50年 鏑木清方展 京都国立近代美術館補遺鏑木清方 :ウィキペディア鏑木清方 :「コトバンク」鎌倉市鏑木清方記念美術館 ホームページ清方の名作44年ぶり公開 東京国立近代美術館が収蔵 YouTube東京国立近代美術館「没後50年 鏑木清方展」 YouTube鏑木清方 絵画作品と所蔵美術館 :「気になるアート.com」青蓮院将軍塚青龍殿 :「京都観光Navi」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2022.07.30
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もう一つの説明パネルに掲載の邸宅図から始めます。この家は「悲劇詩人の家」と呼ばれています。この家からの出土品は「噴火前の輝き」として展示されています。前回同様に、邸宅図に色の丸を追記しました。この家は伝統的なアトリウム式住宅で、ポンペイ全体の中では中の上レベルの規模だそうです。それ故邸宅とまでは言えないかもしれません。前回ご紹介した「ファウヌスの家」や「竪琴奏者の家」と比べると遙かに小さいのですが、「例外的なまでに多くの神話画で彩られている」(図録より)という特徴があるそうです。所有者名は不詳。平面図に緑色の丸を付けた空間はタブリヌムと称する家父長の部屋で、客間としても利用されたそうです。そのタブリヌムの中央、丁度緑色の丸を追記した鋪床から「劇の準備」と称するモザイクが出土しています。今回の展示には入っていません。説明パネルの左下の左端のモザイク画です。この「劇の準備」に邸宅名が由来するそうです。1824年に発見された保存状態の良い家で、G・ブルワー=リットン著『ポンペイ最後の日』により、とりわけ有名になったと言います。 「家の模型」この写真だけは図録から引用しました。「悲劇詩人の家」の平面図がこの模型の家に使われているそうです。ただし「復元はポンペイの家の理想モデルを示すためのもので通常の他の模型と異なり、住宅の現実の状態を示してはいない。上部は想像で作られているし、実際の家は独立した構造ではなく、隣接した家と壁を共有して街区(インスラ)の一部となっている」(図録より)という前提があります。この模型は、入口の中央で模型を開いて、家の内部を見られるように作られています。会場には、次のように2分割して内部を見せる形で展示されていました。 A B小さいライトで照らしてありますので、正面からの写真は少し見づらいですが・・・・。Bを180度回転させてAに合わせると、引用した写真の家になるようです。 少し異なる角度からそれぞれ撮ってみました。 「猛犬注意」「悲劇詩人の家」のモザイクを複製シートにして会場の床面に敷かれていたものです。平面図に赤い丸を追記した箇所。この家のファウケスつまり玄関の戸口そばのモザイクです。「猛犬注意」については前回ご説明しています。玄関の通路を進むと、トスカナ式アトリウム(第4様式)の空間に入ります。この空間の壁面に様々な神話場面が描かれていたのです。 「ユピテルとユノの聖婚」 フレスコ 縦160cm、横139cm (黄緑色の丸を付けた箇所の壁面)ユピテル(ゼウス)とユノ(ヘラ)の聖なる婚姻の場面が描かれています。ユピテルは左手に笏杖(しゃくじょう)を持ち、右手でヴェールをかぶるユノの手を取っています。ユノの背後には伝令の女神イリスが従っています。右下隅に居るのは3人のクレテス(クレタ島の聖霊)だそうです。 「ブリセイスの引き渡し」 フレスコ 縦160cm、横139cm (紫色の丸を付けた箇所の壁面)アキレウスのもとから連れ去られるブリセイスを描いている場面だそうです。 アキレスのもとを去らねばならないプリセイスは涙を流し、 ブリセイスに顔を向けるパトロクロスの背中が描かれています。 大きな玉座に座り、左手に槍を持つアキレウスは憤然としてブリセイスを見つめています。そのプリセイスの背後から、フォイニクスが心配そうにアキレウスを見守っています。この絵は、「サモスのテオンの絵画(前4世紀)に基づいているのだろう」(図録より)と推定されています。 「ヘレネの略奪(あるいはクリュセイスの帰還)」 フレスコ 縦125cm、横66cm(マゼンタ色の丸を付けた箇所の壁面)パリスを従えて、ヘレネが船に乗り込もうとする場面だとか。一方で、この女性が既婚女性であることを示すヴェールをかむっていないことから、アガメムノンと別れて父のもとへ戻ろうとするクリュセイスと解釈する説もあるそうです。タブリヌムの空間の左側、茶色の丸を付けた空間はペリステュリウムです。ここの東の列柱廊に描かれているのが次のフレスコ画です。、 「イフィゲネイアの犠牲」 フレスコ 縦140cm、横138cmトロイア戦争にまつわるエピソード「アウリスのイフィゲネイア」が題材になっているそうです。 イフィゲネイアがアルテミスへの生贄として運ばれていくところです。右側に立っているのは祭司カルカスです。 右上に現れたのは弓を持ったディアナ。雌ジカを身代わりとしてイフィゲネイアを救おうとしています。雌ジカと共にニンフがこの場面に立ち合っています。左端の全身をマントで包み、悲嘆しているのはアガメムノンです。背後の円柱上の彫像は、2頭の雌ジカを伴う狩りの女神ディアナ(アルテミス)だとか。前5~前4世紀のキトノス島の画家ティマンテスの絵画に基づくフレスコ画だそうです。最後のセクション「第5章 発掘のいま、むかし」に進みましょう。このセクションでは、現在まで発掘が行われてきた地域を概観し、ピンポイントの展示をしていました。 会場に掲示されていたパネルです。黒丸を追記した地点がポンペイ。北西方向にナポリ(茶色の丸のところ)があります。ナポリ寄りの赤い丸がエルコラーノです。北東方向に▲で示されたヴェスビオ山が位置します。その先の青い丸がソンマ・ヴェスヴィアーナです。エルコラーノからの出土品はここまでのセクションでも展示されてきました。エルコラーノは古代都市ヘルクラネウムがあったところだそうです。1709年に、エルクラーノで井戸を掘っていた農夫が、大理石の円柱を発見したことから、このエリアでの発掘が始まる端緒となったそうです。 「ヘプロスを着た女性(通称「踊り子」)」 ブロンズ 高さ155cm(台座を含む)エルコラーノの街のすぐ外に位置し、「パピルス荘」と称される別荘遺跡からの出土 銀、銅を使い象嵌が施されています。目には骨と石が使われいるそうです。図録を見ますと、5体のブロンズ像が出土していてその写真が掲載されていますので、その内の1体になります。エルクラーノは、高熱の火砕流で一気に埋もれ、ポンペイよりもずっと硬い溶岩ではるかに厚く覆われているエリアだそうです。全体の4分の1しか発掘がされていないとか。 「燭台」 フレスコ 縦217cm、横28cm 「綱渡りのサテュロス」 フレスコ 縦44cm、横117cm これらは、18世紀にポンペイのエルコラーノ門外にある「キケロ荘」で発見されたものだそうです。会場では壁面をイメージしやすくするために、模倣した壁面環境にはめ込むようにして展示されていました。綱渡りするサテュロスだけでも12点発見されていて、それぞれは色、動きとも互いに異なるように描かれているとか。ポンペイの古代遺跡は、16世紀末には既に認識されていたそうですが、本格的な発掘が始まったのは1748年だそうです。発掘は着実に継続されているそうです。 「ペプロスを着た女性(ペプロフォロス)」 パロス大理石 高さ116cm(台座を含む) 「ヒョウを抱くバックス(ディオニュソス)」パロス大理石 高さ160cm(修復部分を含む)この2体は、ソンマ・ヴェスヴィアーナで発見された彫像です。このエリアでは、1930年代に最初の発掘調査が始まったそうです。準備段階を経た後、2003年から東京大学による本格的な発掘調査が開始され、今も継続されているそうです。また、開始当初から学際的な総合調査研究を目指す取り組みがおこなわれているとのこと。これからも、ポンペイを含むこの3地域での発掘調査がさらに進展すれば、ますます興味深い成果が生まれてくることでしょう。いつか、このポンペイ展のパート2を鑑賞したいものです。ローマ、フィレンツェ、ミラノ、ヴェニスは訪れたことがあるのですが、南部は未訪です。ポンペイに行ってみたいな・・・・・。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*図録『特別展 ポンペイ』 *ポンペイ展 出品目録 会場で入手した資料補遺ブリセイス :「コトバンク」アガメムノン :「コトバンク」アウリスのイフィゲネイア :「コトバンク」アウリスのイピゲネイア :ウィキペディアパロス大理石 ⇒ パロス島 :ウィキペディアエルコラーノ :ウィキペディアThe Herculaneum Society ホームページ「ポンペイとソンマ・ヴェスヴィアーナ」青柳 正規(国立西洋美術館長)1:平成18年度 軽井沢土曜懇話会 第2回 YouTubeStarzaReginasnc【イタリア:ソンマ・ヴェスヴィアーナでローマ時代の遺跡を発掘するヒト】 Twitterソンマ・ヴェスヴィアーナ :「Amphitheatrumめぐり」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都市京セラ美術館 ポンペイ展 -1 噴火と埋没、ポンペイの街と宗教 へ観照 京都市京セラ美術館 ポンペイ展 -2 ポンペイの社会構造と人々(富裕層)へ観照 京都市京セラ美術館 ポンペイ展 -3 人々の暮らし、モザイク画2点 へ観照 京都市京セラ美術館 ポンペイ展 -4 ポンペイ繁栄の歴史(1) へ
2022.07.29
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「ファウヌスの家」説明パネル「第4章 ポンペイ繁栄の歴史」に進みますと、壁面にこの説明パネルが掲示してありました。ポンペイがローマ化される以前の栄華を示すポンペイ最大の邸宅だそうです。前180~前170年に建設され、前2世紀末から前1世紀初頭に改築されたと言います。この邸宅から出土したもののいくつかは、この特別展のハイライト的展示品でもあります。図中の番号が読みづらいので、色つきの丸を重ねました。邸宅図の一番上は、ドリス式の回廊のある第2ペリステュリウムで、その下に黄緑色を追記したところはエクセドラ(ペリステュリウムから外側への張り出し空間)です。前回ご紹介した「アレクサンドロス大王のモザイク」がここの鋪床を、「ナイル川の風景」が敷居を装飾していたのです。 ペリステュリウムから外側へ張り出した空間で、円柱と円柱の間の敷居を飾っていたもう一つの「ナイル川風景」のモザイクです。 部分図を撮ってみました。邸宅図の底辺部に赤丸を追記しています。その辺りが邸宅の玄関部分で、赤丸の位置はファウケス(玄関廊下)です。 敷居にこの「葉綱と悲劇の仮面」のモザイクが描かれていました。縦48cm、横280cm。 あらためて図録を参照しますと、葉綱には様々な果実や葉が編み込まれています。ザクロ、リンゴ、ナシ、マツ、ブドウ、ケシ、オーク、キヅタ、プラタナス、ゲッケイジュ、オリーブです。3つの輪はヘレニズム時代の君主の円環状の冠に似ているとか。2つの悲劇用仮面が大きく描かれています。怒りの形相。「窪んだ眼窩に大きく見開いた目、大きく開かれた口、多量の前髪(オンコス)が特徴的」(図録より)だそうです。 「猛犬注意」モザイク 縦77.5cm 横78.5cm邸宅の玄関口の床には、このような白地に鎖に繋がれたイヌが表されていたそうです。これ自体は「ファウヌスの家」のものではありませんが、ポンペイの出土です。訪問者に対して邸宅内に番犬がいることを示すサインです。文字で注意喚起するだけでは、文字を読めない人には役立たない。悪者の侵入を脅かすためです。このあたり、2000年経った今も同じですね。今では、監視カメラが併せてその役割を担っていますね。 邸宅図に紫色の丸を追記したところです。トスカナ式アトリウム(応接用の広間)のアラ(翼室)の床、その中央部にはめ込まれていた「ネコとカモ」のモザイクです。これはこのシリーズの最初にご紹介しました。図録の裏表紙全体にこのモザイク画が使われています。この場面は何か? 「饗宴のための豪華な食材が棚に置かれた食料庫に、ネコがまんまと忍び込んだ」(図録より)という場面と考えられるとか。 「イセエビとタコの戦い」 モザイク 縦143cm、横143cm邸宅図に青色の丸を追記した箇所、トリクリニウム(食事室)の床モザイクのエンブレマ(象徴的な模様)です。「この主題は有名だったらしく、地中海全域で多くのレプリカが確認されている。おそらくアレクサンドリアの大きな絵画に由来するものであろう。」(図録より)とか。もう一つの食事室(マゼンタ色の丸のところ)には「トラに乗る有翼の童子」のモザイクが出土していているそうです。こちらは出展されていません。 「踊るファウヌス」 ブロンズ 高さ71cm この小像は、邸宅図の2つの翼室をもつトスカナ式アトリウムで発見されたもの。トスカナ式アトリウムとは「屋根を支える円柱がない形式のアトリウム」です。アトリウムは「古代ローマにおける一戸建て住宅の広間。内側に向かって傾斜した屋根の中心に天窓(コンプルウィウム)があり、床には天窓から落ちてくる雨水を受ける水盤(インプルウィウム)が設けられる。床下には雨水をためる貯水槽があった。」(図録より)両手を上げ踊るような足取りのポーズから「踊るファウヌス」と名付けられたそうです。髭をはやし、乱れた豊かな髪の間に、雄ヤギの角が生えています。「実際にはローマ神話におけるヤギ脚のファウヌスではなく、ギリシャ神話のサテュロスで」(図録より)あるとのことです。ファウヌスは古代ローマの森の神。ギリシャの牧神パンにあたり、農産物や家畜を守護する神です。一方、サテュロスはギリシャの野山の神。酒神バッカスの眷属です。サテュロスは上半身は人間ですが、ウマまたはヤギの耳、脚、尾を持ち、野性的・好酒・好色な性格の神だとか。(図録より) 尾があります!「ファウヌスの家」から出土した様々な器物が展示されています。順に見ていきましょう。 「湯沸かし器」 高さ100cm、最大直径36cm鉄製3本脚の本体。その内側にブロンズ製の鍋が差し込まれています。本体下部には燃料を入れるための扉が設けてあります。中間に、持ち運び用の把手が付いています。 「シトゥラ」高さ30cm、口縁直径25cm井戸水を汲み上げるバケツ。祭壇に液体をそそき神に捧げる儀式では、水以外にワインや牛乳を入れるためにも用いられたそうです。「三葉形注口水差」ブロンズ 高さ19.5cm、直径9cmワインを混ぜるために使われた水差しです。把手と胴部の接合部に、クピドが浮彫してあります。 「貝殻形カップ」ブロンズ 高さ5cm、長さ14cm宴会中に手を清めるため、あるいは私的な化粧をするために用いられたそうです。「料理保温器」ブロンズ 高さ55cm、直径31cm胴部の穴は最も膨らんだ部分に燃料を入れるためのものだそうです。出土品にはこんなものも・・・・。 「笛」 ブロンズ 長さ55cm、直径1.4cm 「ヘビ形ブレスレット」 金(鋳造、打ち出し、陰刻) 最大直径7.5cm 「指輪」 金(鋳造)、ザクロ石(陰刻) 左:直径2.6cm 右:直径2.6cmそれでは、次の邸宅に移りましょう。「竪琴奏者の家」です。 ここは、ローマのもとでの繁栄を表しています。同様に色丸を追記しました。この家は、前2世紀の家を核にして、前80~前30年頃に浴室群を拡張し、さらに「ラピナシウス・オピナトゥスの家」をつなげて、1軒にした大邸宅だそうです。邸宅図の外側に茶色の丸を追記しました。その結果、この大邸宅には3つの入口があります。この大邸宅には3つのペリステュリウムがあります。赤い丸の箇所が第1、下のマゼンタ色の箇所が第2、上のオレンジ色の丸の箇所が第3です。 「竪琴を弾くアポロ」 ブロンズ 高さ160cm 台座:最大直径46.5cmこのブロンズ像は第1ペリステュリウムからの出土とか。「前5世紀の様々なモデルから着想を得て前1世紀に制作された折衷的な作品」(図録より)だとか。 「竪琴奏者の家」と呼ばれる由来がこのブロンズ像にあります。この大邸宅は、正式にはポンペイで最も影響力のあった氏族の1つ、「ポピディウス家」の所有だったそうです。 この展示空間は、上掲邸宅図の第1ペリステュリウム(赤色の丸のところ)の一部をイメージして作られているようです。 「イヌとイノシシ」 ブロンズイノシシ 高さ58cm、長さ89cm イヌ 最大高さ43cm、長さ59cmイノシシの口から水が噴き出すように体内に水道管が通っているそうです。 「ヘビ形噴水」 ブロンズ 高さ47cm 「シカ」 ブロンズ 高さ63cn、長さ63.3cm 純粋の装飾用ブロンズ像 「ライオン」 ブロンズ 高さ45cm、長さ69cmこれらの像は、半円形水盤の縁を装飾していたと言います。 「ペルタ(小楯)型オスキルム(吊り飾り)」大理石 高さ13cm、長さ26cm、厚さ2.6cm 「サテュロスのオスキルム(吊り飾り)」 大理石 直径42.7cm、厚さ4cm「住宅のペリステュリウムにオスキルムを飾るのは、ギリシャで戦利品の金属楯を神殿の間に吊した習慣に由来している」(図録より)とか。列柱廊の柱の間に装飾品として吊されたそうです。 「詩人」 フレスコ 縦44cm、横44cmこれは、邸宅図に黒丸を追記した空間、つまり第1ペリステュリウムから外側に張り出した空間であるエクセドラの赤地の壁面に挿入されていたフレスコ画です。頭にはキヅタの冠をかぶり、黄色いヒマティオンをまとっている老齢の男性の肖像画です。詩人または哲学者と考えられているそうです。さらに大邸宅の他の空間から出土した展示品に移りましょう。 「女性胸像」 ブロンズ 高さ38cm アラ(翼室:黄緑色の丸の箇所、上側) 「男性胸像」 ブロンズ 高さ39cm アラ(翼室:黄緑色の丸の箇所、下側)エクセドラの左側には、入口に続くトスカナ式アトリウムの端に位置するアラ(翼室)から出土したブロンズ胸像です。胸像の下辺に数カ所穴が開いていますので、第2章でご紹介した作品と同様に、ヘルマ柱に固定されていたものと推定されています。これらの胸像はポピディウス家の一員を表しているものと考えられています。「ポンペイでは、家族の一員を表した胸像形式の肖像は7点しか見つかっておらず、限られた富裕者のみに許された贅沢だったことを示している。」(図録より) 「祭壇」 大理石 高さ25.5cm、幅20cm、深さ20.5cm 家庭での礼拝用第2ペリステュリウム(マゼンタ色の丸のところ)からの出土。「縁がレスポス式キュマで装飾されており、側面には、灌奠(かんてん)儀式用の水差しとパテラ杯、ゲッケイジュの枝(おそらくアポロを暗示している)、2人のクピドと葉飾りと花、そして2羽の鳥が描かれている。」(図録より) 「恋人たち(ウェヌスとマルスか)」 フレスコ 高さ291cm、幅167cmこの絵の主題については解釈に諸説があるそうです。説により絵の題名が異なります。邸宅図の第1ペリステュリウムの右側で、空色の丸を追記したオエクス(客間や居間として利用された空間)の壁面を飾っていました。 部分撮りしました。岩の上にマントを敷き座る裸体の男性の右には、ペタソス(旅人の帽子)とマントをまとい、座って居眠る少年と、立ち姿で恋人たちを見つめる白いトゥニカを着た人物が描かれています。この図は何を意味しているのでしょう・・・・・。次回はもう一つの邸宅から出土の展示に移ります。つづく参照資料*図録『特別展 ポンペイ』 *ポンペイ展 出品目録 会場で入手した資料観照 京都市京セラ美術館 ポンペイ展 -1 噴火と埋没、ポンペイの街と宗教 へ観照 京都市京セラ美術館 ポンペイ展 -2 ポンペイの社会構造と人々(富裕層)へ観照 京都市京セラ美術館 ポンペイ展 -3 人々の暮らし、モザイク画2点 へ観照 京都市京セラ美術館 ポンペイ展 -5 ポンペイ繁栄の歴史(2)、発掘今昔 へ
2022.07.28
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「ワイン用のアンフォラ」 土器「第3章 人々の暮らしー食と仕事」で最初に目に止まったのはこの土器です。高さ107cm、口径28cmでヴェスヴィオ山周辺で出土したもの。周辺地域はブドウの大規模栽培が前3世紀から知られているとの事ですから、運送用と貯蔵用の容器であるアンフォラが出土するのは当然かも知れません。この形状の容器をどのようにして運ぶのでしょうか。支持枠に嵌め込んでいくのでしょうか。横に寝かせて積み上げるのでしょうか。それについての説明は見かけませんでした。アンフォラの続きには、人々の暮らしに直結する調理具と食器類の出土品が展示されています。 「仮面のあるパテラ」 ブロンズ 高さ5.5cm、長さ38.5、直径25.5cm。フライパンのように見えますが、宴会の前に手を清めるために使われた容器。柄の端には、ライオンの皮をかぶった子どものヘラクレスが装飾されています。 「仔ブタ形の錘(おもり)」 ブロンズと鉛 高さ23cn、 長さ29cm 「アヒルのケーキ型」 ブロンズ 長さ35cm 「目玉焼き器、あるいは丸パン焼き器」 ブロンズ 長さ41.5cm 「南ガリア製の陶器(テッラ・シジッラータ)の杯」 土器 右の杯は、高さ12cm,直径24cm 左の杯は、高さ8cm、直径17cm。南ガリアはフランス南西部のことです。この地方で質の高い食卓陶器が大量に生産され、ヨーロッパ中西部で広く普及していたと言います。シジッラータという用語は、「共和政末期から帝政末期にかけてローマ世界全域で生産された、光沢ある赤色精製陶器の種類を指す」(図録より)そうです。 「瓶とケース」 ガラス、土器 ケース:高さ15cm、長さ22.5cm 一方、人々の暮らしに身近なものが家の壁面にフレスコ画で描き出されていたようです。その事例がいくつか展示されていました。 「雄鶏とカボチャ」「ユリア・フェリクスの家」のタブリヌム(家父長の部屋)出土 縦45.5cm、横56cm 「果物のある静物」 「シカの家」の回廊南翼で出土。 縦43cm、横128cm3点の静物画がブルボン王朝時代に1つの枠に嵌め込まれたそうです。 「パンのある静物」 エルコラーノ出土 縦22cm、横36cmここに描かれた食物は、ポンペイやエルコラーノで発見されています。 「炭化した食物の諸例」左上:「炭化したパン」 右上:「炭化した穀類」 左下と右下:「炭化した干しブドウ」ここに展示されているのは、ポンペイの住宅の台所内で見つかった食品のうちの数例で、古代ローマ時代の食品として最も完全な形で残ったものの事例の一つだそうです。次に、人々の仕事と道具類へ視点が転じられます。 「職人仕事をするクピドたち」「シカの家」クリュプトポルティクス出土 縦33cm、横169cmクピドとは、ローマの恋愛の神。愛の神ウェヌスの息子で、有翼の裸の子どもとして描かれます。キューピッドと同じでしょう。クリュプトポルティクスは、建物内あるいは地下に作られた有蓋歩廊を意味します。 鋳造工 土地測量官 靴職人 家具職人 「膣鏡」 ブロンズ 高さ31cm、幅13.5cm(開いた時) 医療検査用の器具だそうです。 左は「薬箱」 ブロンズ 高さ3cm、縦横幅7.6×5.6cm右は「外科器具入れ(箱入薬石、スプーン、探り針など)」 ブロンズ 長さ17.5cm、幅8cm数多くの外科器具入れが発見されていて、頻繁に使用する医療器具が収められていたそうです。また、作業の種類に応じて機能分化した器具・工具類が展示されていました。 「コンパス」 ブロンズ 長さ20cm、幅6cm 「下げ振り」 ブロンズ 高さ5.4cm、幅2.2cm 左の2ケは鑿(のみ)、中央は金槌付き手斧、右は金槌 鉄 (サイズ 省略) 「熊手」 鉄 長さ25cm、幅20cm 「ユピテル=アンモン形の錘付き竿秤」 高さ65cm、アームの長さ49.5cm、小皿の直径21cm この錘がユピテル=アンモンの頭部の形をしています。プレスリリース資料によると、「ギリシャのユピテル(ゼウス)とエジプトのアンモン(メン)が習合した」のがこのユピテル=アンモンのブロンズ頭部だそうです。(資料1) 「顔料の入ったテラコッタ容器」 土器、顔料左:青色顔料カエルレウム(エジプトフリット/エジプト青と呼ばれる) 人工顔料右:赤色顔料ルブリカ 赤色は様々の方法(天然/人工)から作られるそうです。壁面装飾のフレスコ画のための顔料がそのまま遺物となっていたということですね。2000年前の暮らしの一端が実感できました。機能を追求した道具の形は、2000年前も今もほぼ同じということを強く感じました。次のセクションに進む間に、休憩できるホールがあります。そこの床面には、ポンペイの建物内の鋪床に描かれたモザイク画を実感できるように、複製シートがフロアーの一画に敷かれています。 その一つが「アレクサンドロス大王のモザイク」です。このモザイク画については、次のセクションに移る前に、プロジェクション映像で反復プレゼンテーションされているブースが設けてありました。 これは、1831年に「ファウヌスの家」の談話室から発見された鋪床モザイクだそうです。アレクサンドロス大王率いるマケドニア軍とアケメネス朝ペルシャの王ダレイオス3世率いるペルシャ軍の戦闘場面です。「オプス・ウェルミクラトゥム」と呼ばれる緻密で繊細な技法で作られているモザイクだそうです。345×585cmという大画面を感じることができます。左の上半身が残るだけの人物がアレクサンドロス大王です。アレクサンドロス大王とダレイオス3世が戦場で直接対峙した機会が2度あるそうです。「イッソスの戦い」(前333年)と「ガウガメラの戦い」(前331年)。このモザイクの場面はこれらの戦いとどのように関わるのか。諸説あるそうです。(資料2,3,図録) もう一つがこの「ナイル川風景」です。 部分撮りしてみました。ナイル川風景を主題に、様々な動植物が鮮やかに表現されています。舗床のモザイクとい空間を体感したあと、次のセクションに移ります。つづく参照資料*図録『特別展 ポンペイ』 *ポンペイ展 出品目録 会場で入手した資料1) 「特別展 ポンペイ プレスリリース」pdf資料 特別展「ポンペイ」広報事務局 2) イッソスの戦い :「コトバンク」3) ガウガメラの戦い :「コトバンク」補遺イッソスの戦い :ウィキペディアガウガメラの戦い :ウィキペディア世界を制した若き英雄アレクサンドロス(アレキサンダー)大王|トルコを通って東方遠征! :「TURKISH Air & Travel」アレクサンドロス大王 :「世界の歴史マップ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都市京セラ美術館 ポンペイ展 -1 噴火と埋没、ポンペイの街と宗教 へ観照 京都市京セラ美術館 ポンペイ展 -2 ポンペイの社会構造と人々(富裕層)へ観照 京都市京セラ美術館 ポンペイ展 -4 ポンペイ繁栄の歴史(1) へ観照 京都市京セラ美術館 ポンペイ展 -5 ポンペイ繁栄の歴史(2)、発掘今昔 へ
2022.07.25
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「青い水指し」「千華文ガラス杯」 「黒曜石の杯」 「浮彫付きグラス」第2章は「ポンペイの社会と人々の活躍」というテーマです。とはいえ、出土品の展示では、やはり当時の富裕な市民たちの生活ぶりにまず焦点があたります。会場に掲示の解説と図録の解説などを参照し、理解した範囲で少しご紹介していきたいと思います。最初に展示されていたこれらの品々は、富裕な人々の暮らしを想像できる糸口です。当時のポンペイは、貧富の激しい階級社会であり、住民には多くの奴隷がいたそうです。だが、古代社会としては階層が固定化したものではなく、流動性が高かったそうです。他都市から流入する人々もいたし、解放奴隷でも金融業で財をなす人が生まれるという側面が一方である社会だったと言います。その事例の展示もあります。 「萼(がく)形クラテル」 ブロンズ製クラテルは饗宴においてワインと水を混ぜるために使われた混酒器。 テーブル エルコラーノ出土 天板は様式化された植物装飾が施され、 ライオン形の3本の脚が付いています。ライオンの頭部の上は葉状装飾が施されています。ただし、このテーブルはブルボン王朝時代(18~19世紀)に再構成されたものだとか。モザイクは元は鋪床の一部であり、脚部は別の出土品だったのです。パーツが当時のものということです。私は会場ではこれ自体が発掘されて復元されたのかなと思い込んでいました。図録を確認して知った次第です。ポンペイは前80年より前はサムニウム人が上流層を占め、前80年以降はローマ人植民者が上位に立ったそうです。使用言語はラテン語に。なお、権勢を誇るサムニウム人の家系は存在したと言います。 「ヘタイラ(遊女)のいる饗宴」 フレスコ エルコラーノ出土木製の3本脚の小卓が描かれています。 「エピクロスの胸像」 ブロンズエルコラーノの「パピルス荘」のタブリヌム(家父長の部屋)出土。エピクロスとは、哲学者でありエピクロス派を創始した人です。ヘレニズム時代の非常に有名な肖像のコピー作品だとか。「筆記具」 フレスコ 一番右の一部開かれたパピルスの巻物には、読み取れるエピグラム(警句)が書かれているそうです。「愛する者は健やかであれ。愛を逃れる者は破滅せよ」と。 「蓋と鎖付きのインク壺」 ブロンズ インク壺を吊り下げるための鎖が容器の側面3箇所に固定されています。円形のインク壺は典型的な筆記具で、カラムスと呼ばれるペンと一揃いになっていたそうです。展示品は高さ8cm、直径6.4cmという大きさです。 「哲学者たち」 モザイクポンペイの「ティトゥス・ミニウス・ステファヌスの別荘」出土。七賢人を主題としたモザイク画だそうですが、それが誰であるかについて、背景の建物との絡みで諸説あるようです。 当時のポンペイの富裕な人々は、ギリシャ文化に精通した教養人として振る舞うことが重要であったと言います。ならば、この種の胸像や絵が身近にあってあたりまえだったのでしょうね。それが特に上流階級の男性の知的生活の証であったそうです。不可欠の素養だったのですね。 「マトローナ」 モザイクマトローナは既婚女性という意味のようです。図録では、Married woman dressed in jewels と併記されています。「無名のマトローナの家」から出土したもの。応接用の部屋の鋪床にこの女主人の肖像をモザイクで複製したものと考えられています。この展示品の近くには、出土品で、地方貴族の既婚女性が身に着けたと想われる装飾品がまとめて展示されてます。 「エメラルドと真珠母貝のネックレス」 長さ34.5cm 金(鋳造、圧延、細線加工)、真珠母貝、エメラルド。貴重な作品の1つ。 「半球を繋いだグレスレット」 長さ20cm 金(鋳造) 「エメラルトの眼のヘビ形ブレスレット」 直径9.2cm 金(鋳造)、エメラルド 左「双頭のヘビ形指輪」 直系2.7cm 右「石付き指輪」 直径3.2cm 「三美神のカメオ」 アゲート・オニキス(彫玉) 縦3.6cm、横3.6cmローマの美と豊かさを司る3人の女神たち。ユピテルとエウリュノメの娘たちです。アゲート(agate)はメノウ、オニキス(onyx)はシマメノウを、カーネリアン(carnelian)は赤メノウ、紅玉髓を意味します。(資料1,『ジーニアス英和辞典』大修館書店) 「海獣と女神のカメオ」 カーネリアン・オニキス(彫玉) 縦3.19cm 横4cmこれらはヘレニズム・ローマ世界の神話主題を一般的な図像で表現しているそうです。 「淡水真珠のイヤリング」 金(鋳造、ローレット)、真珠 「クロタリア」と呼ばれるドロップ形のイヤリング。T字型の支持具にかけてあります。 ヘルマ柱型肖像 大理石、ブロンズ 通称「ルキウス・カエキリウス・ユクンドゥスのヘルマン柱」一転して、解放奴隷となった家系で、銀行業を営み、富裕層と呼べるまでの社会的な上昇を果たした人物を示す展示品です。「奴隷は主人の遺言により、あるいは金を支払い、奴隷身分から解放された。解放奴隷は自由民ではあるが、基本的に元主人の保護下にあり、高位公職には就けず、最高の栄達は皇帝祭司(アウグスタレス)になることだった。しかし解放されてから生まれた子には、十全の市民権が与えられた。」(図録より)ヘルマン柱とは「古代ギリシャのヘルメスなどの神像で、人物の頭部または上半身をもち、下部は角柱となっている。ローマでは肖像の一形態として用いられた。」(図録より) 「書字板(レプリカ)」 「ルキウス・カエキリウス・ユクンドゥス家」出土住宅内の文書庫跡から出土した書字板のレプリカです。銀行業の実務記録が135点出土したそうです。 「奴隷の拘束具」 大劇場の回廊出土 鉄 奴隷の刑罰用拘束具とのこと。 展示品の傍に、ビラネージ作「砦の牢獄」という想像図が参考掲示されています。彼は1770年にポンペイを訪れていて、1766年に出土したこの拘束具を見ていたのだろうと推測されています。上掲の「ルキウス・カエキリウス・ユクンドゥス家」の家を装飾していたフレスコ画が2点、展示されています。 「テセウスとアリアドネ」 縦135cm、横120cm フレスコ トリクリニウム(食堂として利用された部屋)の東壁中央に配されていた絵画作品。右下は花のベッドで眠りについたアリアドネ。彼女をナクソス島に残して、テセウスが船に乗り込もうとしている場面です。テセウスは、ギリシャ神話にテーセウスがクレタ島のミーノータウロス退治する話として出てきます。アテーナイの人々は毎年、ミーノース王の命令で、若者・乙女を7人ずつミーノタウロスの生贄に捧げ物として提供しなければならなかったのです。テーセウスが立ち上がり、生贄の一人に紛れ込みます。このテーセウスの姿を見たミーノース王の娘アリアドネーはテーセウスを恋します。「彼女は一ふりの剣を彼に与えて、これでミーノタウロスと戦うように告げ、また、糸玉を与えてこれを頼れば迷宮から出てくることができますからと言いました。お蔭で彼は首尾よくミーノタウロスを殺して迷宮から逃れ出ると、アリアドネーを連れて、自分が助けた仲間の者たちといっしょにアーテナイ指して出帆しました。途中、一行はナクソスの島に立ち寄りましたが、ここでテーセウスはアリアドネーが眠っているすきに彼女を置き去りにshてしまいました。恩人に対する彼のこうした不実な仕打ちの理由は、アテーナーが夢の中に現れて彼にそうせよと命じたからなのです。」(資料2)この最後の場面が描かれています。 「ヘルマフロディトスとシレノス」 縦53cm、横48cm フレスコこちらはある部屋の北壁の中央部分に描かれていた絵画作品。向かって左がヘルマフロディトスで、右手に松明をかざしています。右はタンバリンをたたいているシレノスだそうです。この二人の関係がどこに由来するのか、手許の本等で調べた範囲ではわかりませんでした。 「テーブル天板(通称「メメント・モリ」)」 縦55.5cm、横49.3cm モザイクこちらは「革なめし工房」の列柱廊、夏用トリクリニウム出土です。「メメント・モリ」は死を忘れるなという意味だとか。「ローマ社会は、どの社会階層の者にも死が平等に訪れることを強く意識していた」(図録より)と言います。髑髏の周りに描かれたものにはそれぞれ意味が込められているそうです。髑髏に向かって左側は富と権力を表象し、右側は貧困の表象です。髑髏は勿論死を意味します。運命の車輪が回り、そのすぐ上に蝶が描かれています。蝶ははかない命を隠喩しています。髑髏の上に描かれているのは測量用の水準器です。その道具の機能から死は平等であることを隠喩しているのでしょう。 「ブッラ(お守り入れ)」 エルコラーノ出土 長さ6.5cm 金(鋳造) 自由民として生まれた子を示す印。男児は生後9日目から青年期の終わりまで身につけたと言います。ブッラ内にはお守りの役割を持つ小さな魔除けが入っていて、それは男根の表象であることが多いそうです。 「金庫」 箱:木 上張り:鉄、ブロンズ(銅・ブロンズ・錫の象嵌加工) 「トリプトレモスの家」の広間出土。ユピテルへの奉納場面が表されている金庫。金庫は裕福な家の重要な調度品の一つ。 「アウレウス金貨」 金(打刻) 直径2.15cm、重さ7.84g 「デナリウス銀貨」 銀(打刻) 直径1.8cm、重さ3.89g留め具が重なり写っていて、少し見づらいですが、当時の通貨の一端がわかります。他に二種展示されていましたが、ボケた写真でしたので割愛します。これらは、アウグストゥス帝の権限に基づき皇帝直轄の造幣所で発行された貨幣。造幣所は、ルグドゥヌム(現フランスのリヨン)やヒスパニアなど属州に設けられたそうです。ローマの造幣所では、元老院による公式の許可の下に銅貨や真鍮製の流通通貨を発行させた。アウグストゥス帝は、クアドリメタリカと呼ばれる徹底的な貨幣改革を実行したと言います。次のセクションは、身近なテーマ、人々の暮らしへと移ります。つづく参照資料**図録『特別展 ポンペイ』 *ポンペイ展 出品目録 会場で入手した資料1) パワーストーン辞典 :「Pascle」2)『完訳 ギリシア・ローマ神話 上』 トマス・ブルフィンチ 角川文庫 p328-329補遺『ギリシア・ローマ神話』神名対照表 :「雑文堂 Sensory Sentence」ギリシャ神話の固有名詞一覧 :ウィキペディアギリシャ神話の神一覧 :「世界雑学ノート」ローマ神話の神々 :「名前辞典」テーセウス :ウィキペディアローレット :ウィキペディア書字板を作る :「妄想科學倶楽部」アウグストゥス :「コトバンク」ローマ帝国 :「NHK高校講座」ヘルマプロディートス :ウィキペディアシーレーノス :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都市京セラ美術館 ポンペイ展 -1 噴火と埋没、ポンペイの街と宗教 へ観照 京都市京セラ美術館 ポンペイ展 -3 人々の暮らし、モザイク画2点 へ観照 京都市京セラ美術館 ポンペイ展 -4 ポンペイ繁栄の歴史(1) へ観照 京都市京セラ美術館 ポンペイ展 -5 ポンペイ繁栄の歴史(2)、発掘今昔 へ
2022.07.24
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6/28、「ポンペイ展」最後の週に何とか行くことができました。上掲写真は会場へ向かう中央ホールの北壁面に掲示されていたパネルです。予約の入場時刻より早い目に受付に行けば、予約時間帯まで待つ必要がありました。 そこで、中央ホールを突き抜け東側の日本庭園を眺めに行きました。庭を眺めるのには、やはり青空がいいですね。今回はガラスウォール越しにしばらく眺めるだけでしたが。京都市京セラ美術館の館内は以前にご紹介しています。そちらもご覧いただけるとうれしいです。この展覧会でうれしかったのは展示作品を撮影することが許可されていたことです。大半の展示品はガラス越しに撮ることになり制約もありますが、記録に残せるのは便利ですし、うれしい限りです。記録としてまとめようと見直していて気づいたことは、京都市が主催者の一員に参画していますが、美術館側自体の企画展ではなかったことです。この展覧会を鑑賞に出かけた時は全く意識していませんでした。「ポンペイ展」の会場は、美術館の北回廊です。 中央ホールから、北側の中庭「光の広間」に入り、会場入口に向かいます。中庭には、こんな記念撮影用パネルが設置されていました。 鑑賞後に購入した図録。裏表紙には「ネコとカモ」と題されたモザイク画が使われています。 「ポンペイの市街地」を大きなパネルで示した地図が掲示してあります。イタリア・ローマの南西方向にナポリが位置します。そのナポリのやや南寄りですが西方向にヴェスヴィオ山があり、この山の南、ナポリからは南西の方向にポンペイが位置します。79年のある朝に、ヴェスヴィオ山の噴火が始まりました。ポンペイは火口から約10kmの距離だとか。2018年にポンペイ第Ⅴ区で発見された落書きに噴火が10月24日と記されていると言います。展覧会場は、5つのセクションで構成されていました。 序 章 ヴェスヴィオ山噴火とポンペイ埋没 第1章 ポンペイの街-公共建築と宗教 第2章 ポンペイの社会と人々の活躍 第3章 人々の暮らし-食と仕事 第4章 ポンペイ 繁栄の歴史 第5章 発掘のいま、むかし 序章の始まりです。 「女性犠牲者の石膏像」噴火物の堆積層に空洞を見つけると、考古学者は石膏を水に溶いたものを一杯になるまで注ぎ込み、石膏が完全に乾いてから掘り起こすそうです。その空洞が名にだったかを知るために。1863年以降、噴火の犠牲者にその手法が応用されるようになります。これは若い女性の遺体が石膏取りされた姿です。この姿勢で噴火物の中に埋没して死に至ったのです。冒頭からショッキングな事実事例展示です。「遺物が塊になったもの」もその横に展示されています。 「バックス(ディオニュソス)とヴェスヴィオ山」 フレスコ画これがヴェスヴィオ山を描いた唯一の作例だそうです。噴火前は単一峰で、頂上付近まで葡萄畑が広がっていたそうです。バックスはワインの神、ブドウの実をまとう姿で描かれています。 「 アウグストゥスの胸像」第1章に入ります。残念ながら鮮明には撮れませんでしたので、小サイズで・・・・。ポンペイとナポリの中間、少しナポリ寄りのエルコラーノ出土のブロンズ像です。多分、当時はアウグストゥス帝の様々な像が鋳造され、各地に建立されていたのでしょうね。 「フォルムの日常風景」 フレスコ画ポンペイの街を身近に感じさせる各種出土品が展示されています。 この日常風景は、「ユリア・フェリクスの家」のアトリウム(広間)の壁面装飾の一部だそうです。壁面一面に日常の風景が描かれていたのでしょう。 「香油壺とストリギリス(肌かき器)」 ブロンズ体育施設や公共浴場の常備品。右のストリギリスは運動後に体の汗や砂を落としたり、余分な油やクリームを払ったりするのに使ったとか。左は香油壺。 「ライオン頭部形の吐水口」 ブロンズ エルコラーノ出土。泉の吐水口です。 紀元1世紀には、水量を調整する「水道のバルブ」にブロンズを使うレベルに達していたのですね。ローマ人が水力学分野で高度な技術水準に達していた証拠です。説明無しに見せられたら、1世紀の製造品とは想像もしない・・・・。 「擬アルカイック様式のアポロ」 大理石「メナンドロスの家」の奥の中庭を囲む列柱廊からの出土とか。ポンペイには多くの神々が祀られていて、アポロ神殿その他の神殿もあったそうです。右脚のところにいるのは聖獣グリュプス。ギリシャのアルカイック様式を真似た作品。 水平型の「日時計」。大理石の長方形石板に時刻盤の目盛が刻み込まれています。様々な型や大きさの日時計が公私にわたる様々な場所から発掘されていると言います。 「食卓のヘラクレス」 ブロンズ 高さ90cm、台座はサルノ産石灰岩ヘラクレスも有名な神。アレクサンドロス大王のためにリュシッポスが制作した「食卓のヘラクレス」のコピー作品だとか。 「ミネルウァ小像」 ブロンズ 「竪琴奏者の家」のエクセドラ出土列柱廊から外側に張り出した空間(エクセドラ)からの出土で、このエクセドラは談話室として利用されたそうです。ミネルウァは住宅内のララリウム(神棚)に最もよく認められる神々の一人だとか。ミネルウァはギリシャ神話のアテーナーにあたります。(資料1) 「三美神」 フレスコ画「ティトゥス・デンタティウス・パンテラスの家」の家父長の部屋の南壁から出土。後のルネサンス期の絵画を連想しました。ボッティチェッリやラファエロへ引き継がれていく構図ですね。 「ウェヌス」 フレスコ画 エルコラーノ出土。いわゆるビーナスです。「モザイクのアトリウムの家」のエクセドラの壁面に描かれていた図の一部。前5世紀末のアテネの有名な彫刻、アルカメネスの「庭園のアフロディテ」を描いたものだそうです。 「イシス神官とハルポクラテス」 フレスコ画、以下の2つも同じ。ハルポクラテスは左に描かれた彫像で、豊穣の角を持つ神です。 「イシス神官」 「パピルスの巻物を持つイシス神官」これらはポンペイのイシス神殿の列柱廊から出土したものだそうです。ハルポクラテスはホーロスのギリシア名。ホーロスは太陽の神オシーリスの息子です。ホーロスは蓮の花の上にのり、指を口にあてた姿で、沈黙の神として描かれるとか。オシーリスの妻がイーシス(大地)です。オシーリスとイーシスがナイル河域の地上に下って来た時、イーシスが住民に小麦と大麦の使い方を教え、オシーリスが農具の使い方と牛に鍬を引かせて地を耕す方法を教えたとされています。このイーシスは彫像では頭をヴェールで覆った姿で描かれ、神秘の象徴となっているようです。イシス神殿はこの神を祀る神殿でしょう。(資料1) 「シストルム」イシス信仰に関連する儀式で使用される振って鳴らす楽器だそうです。ブロンズ製。どんな音がするのでしょう・・・・・。 この二人は「俳優」です。左は悲劇の若者役、右は女性役で、おそらく遊女の役だとか。ナポリやポンペイはカンパニア地方にあり、ここは仮面笑劇であるアテラナ劇発祥の地だそうです。一説では円形闘技場で行われる剣闘士試合もカンパニア地方が起源とされているとか。 「劇の準備」 モザイク 「悲劇詩人の家」の家父長の部屋(タブリヌム)から出土これはタブリヌムの広くて白い床の中央部分のモザイク画だそうです。 クラシック時代におけるギリシャ劇は、悲劇・喜劇・サチュロス劇と三区分されていたそうです。この図は、サチュロス劇の公演準備をする俳優たちの一団を描いているとか。 円形闘技場の景色を背景に、「パレード用の兜」が展示されています。大劇場の回廊から出土したもの。ブロンズ製。これは、ムルミッロと呼ばれた重装備の剣闘士により使用されたものだそうです。この兜の装飾は「トロイアの木馬」を題材にしているそうです。 「 ヘラクレスを表した肩当て」と「ユピテルとネプトゥヌスを表した脛当て」同様に大劇場の回廊から出土したもの。ユピテルはジュピターで、ギリシャ神話のゼウスです。一方、ネプトゥヌスはネプチューンで、ギリシャ神話のポセイドン、海洋の神にあたります。(資料1)モザイク画について少し補足をしておきましょう。「ポンペイ展」の新聞報道には、こんな記述があります。「ローマ化以前の豪華な家の壁は立体的なストゥッコ(しっくい)装飾を施され、モザイク画の多くは壁ではなく床に飾られていた。」(資料2)図録裏表紙のモザイク画を載せていますので、これとの関連について。この「ネコとカモ」のモザイク画は前1世紀のもので、「ファウヌス家」のアラ出土だそうです。アラは、古代ローマにおける一戸建て住宅の広間(アトリウム)の左右にあり、向かい合う2つの凹所をさす言葉で翼室という意味のようです。小談話室や先祖の肖像を保管する空間としてて利用されたとか。この「ファウヌスの家」の出土品は一級品として知られているそうです。つまり、この特別展でのハイライトとなる作品の部類です。「『ファウヌスの家』の細密なモザイク画は、天然石などをもとにした一辺数ミリのテッセラ(切り石)を用い、工房で時間をかけて作ったと考えられる。」(資料2)序でに、思い出した事例も補足としてご紹介します。滋賀県の信樂に MIHO MUSEUM という美術館があり、その南舘の床面に「ディオニソス・モザイク」が展示されています。3~4世紀、ローマ、伝シリア出土という作品です。縦352cm×横357cmという大きなものです。吹抜になっていますので、近くで眺めたあと、建物の2階から全体を鑑賞するのがよい作品です。(資料3)何度か訪れて、この床のモザイク画をその都度見てきているのですが、今回の報道記事で多くは床に飾られたという文を読み、なるほどと思った次第です。それでは、次のセクションに進みましょう。参照資料*図録『特別展 ポンペイ』 *ポンペイ展 出品目録 会場で入手した資料1)『完訳 ギリシャ・ローマ神話 下』 トマス・ブルフィンチ著 角川文庫 p160-1642) 「ポンペイ展 細密モザイク 富と知の輝き} 朝日新聞 朝刊 2022年5月29日 3) 図録『MIHO MUSEUM 南舘図録』 MIHO MUSEUM 1997 p146-150補遺ポンペイ :ウィキペディアポンペイ :「コトバンク」産卵前のカメの死骸発掘 伊ポンペイ遺跡 2022.6.25 :「AFP BB News」伊ポンペイ遺跡で2人の遺体発掘 ベズビオ火山噴火の犠牲者 2020.11.22 :「AFP BB News」National Archaeological Museum of Naples :「NaplesPompeii.com」ナポリを代表する国立考古学博物館の見どころ :「アーモイタリア」ナポリ国立考古学博物館 :「遺跡ときどき猫」サテュロス劇 :「Wikiwand」MIHO MUSEUM ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都市京セラ美術館 ポンペイ展 -2 ポンペイの社会構造と人々(富裕層)へ観照 京都市京セラ美術館 ポンペイ展 -3 人々の暮らし、モザイク画2点 へ観照 京都市京セラ美術館 ポンペイ展 -4 ポンペイ繁栄の歴史(1) へ観照 京都市京セラ美術館 ポンペイ展 -5 ポンペイ繁栄の歴史(2)、発掘今昔 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 京都・岡崎 京都市京セラ美術館外観を巡って観照 京都市京セラ美術館 館内巡り 観照 京都市京セラ美術館外観と日本庭園 細見
2022.07.22
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二条通を東進すると、琵琶湖疏水に架かる橋に至ります。西詰の欄干柱には平成11年3月完成と刻されています。 橋を渡った東詰には「二条橋」と名称が刻されています。 橋上から北方向を眺めた景色。橋の右側は、「ロームシアター京都」(京都会館)です。この地点で琵琶湖疏水は南から北に流れていて、この景色の突き当たりで疎水が西に方向を転じて行きます。冷泉通の北側を西に流れて行き、鴨川に合流する一方で、鴨川と平行して鴨川運河という形で南に方向を転じて行きます。 西詰に設置された地名表示と近辺の案内図です。ここは「二条通東大路東入」になります。 上掲写真から切り出した地図ですので、不鮮明ですが、位置関係をご理解いただく役には立つと思います。下辺が北になります。地図の中央部分の幅広の南北道路が「神宮道」です。中央の田の字部分の東西道路について、中央が二条通、上(南)側が仁王門通、下(北)側が冷泉通です。田の字の上辺から右辺、そして西へ転じている青色の線が琵琶湖疏水です。田の字の中央の交点から右下(北西)がロームシアター京都、右上(南西)が「みやこめっせ(市勧業館)、左下(北東)が「岡崎公園」、左上(南東)が「京都市京セラ美術館」です。そして、田の字の下(北)が「平安神宮」です。 すぐ傍にこのモニュメントと「延勝寺跡」の石標があります。平安時代、院政期には、この岡崎の地一体には、天皇や中宮の発願による6つの寺院が林立していました。この6寺院はいずれもその名称に「勝」という字が使われていましたので、「六勝寺」と総称されました。延勝寺はその一つで、近衛天皇(1139-1955)の御願寺でした。(資料1,2)余談です。現在の地図を見ますと、地名に六勝寺の名前が残っています。例えば、Mapionの地図をご覧いただくとよいでしょう。こちらからご覧下さい。寺院名が残っていますが、寺院跡地と地名にはズレがあるようです。序でに地名とその位置に所在するランドマークとなる施設名称等でご説明しましょう。岡崎西天王町 平安神宮 平安神宮とその南一帯が最勝寺跡。現冷泉通の南が岡崎最勝寺町岡崎最勝寺町 ロームシアター京都(尊勝寺跡)と岡崎公園(最勝寺跡)岡崎成勝寺町 みやこめっせ(延勝寺跡)と京都市京セラ美術館(円勝寺跡) 京都国立近代美術館(成勝寺跡)岡崎法勝寺町 京都市動物園(京都市京セラ美術館の東側、法勝寺跡)岡崎円勝寺町 仁王門通の南側。京都文教女子高・女子中、京都文教短大付属小 地名は残っていますが、「円勝寺跡」碑は美術館の北側に立っています。寺院跡地の石標が立つ位置は、「フィールド・ミュージアム京都」のいしぶみデータベースが便利です。(資料2)戻ります。延勝寺跡碑は「みやこめっせ(市勧業館)」敷地の北東隅に立っています。この近くには、異なる形の石灯籠が幾つか建てられています。 袖形灯籠 織部灯籠 植物の繁りに埋もれるように立つ石灯籠 ヴァラス噴泉複製パリの街角にあるシンボル。「1870年の普仏戦争、水の配給もままならないパリ市民の困窮を知った英国の慈善家リチャード・ウォーレス卿(Richard Wallace)により、“飲料に適した水を”とパリ市に噴泉が寄贈され」、1872年に最初の噴泉が据え付けられたと言います。(資料3) 「1988年、京都市・パリ市友情盟約締結30周年記念に合わせ、この複製がパリ市から贈られました。噴泉を囲む4体の彫像は、それぞれ純朴、善意、節酒、慈善を表しています」(資料3)とのこと。 みやこめっせの正面広場、西側には源氏物語に因んだモニュメントがあります。京都府石材業協同組合から寄贈された「源氏物語石像」と歌碑です。2008年は「源氏物語千年紀」でした。この年、京都では盛大なイベントが企画実施されました。その時、同組合結成30周年記念事業の一環として石青会より京都市に寄贈されたそうです。(資料3)『源氏物語』第十二帖「須磨」を題材としていて、光源氏と紫の上との一場面。朱雀帝の寵愛する朧月夜と光源氏が密会したことを原因として、26歳の春に光源氏は須磨に蟄居する羽目になります。紫の上を京に残し、何時までという期限もなしに須磨に旅立たねばならなくなります。その折、歌を詠み交わします。それが歌碑に刻まれています。光源氏 身はかくて さすらへぬとも 君があたり 去らぬ鏡の 影は離れじ (訳:たとえこの身は、地の果てまでさすらいの旅をつづけても、あなたの 鏡の面にはわたしのおもかげがとどまって、あなたと離れはするものか)紫の上 別れても 影だにとまる ものならば 鏡を見ても なぐさめてまし (訳:たとえあなたと別れても、恋しいあなたのおもかげがせめて鏡に残るなら 日がな一日この鏡を飽きずに眺め暮らしましょう)なぜ、この場面が選ばれたのでしょう・・・・。 少し東に、このオブジェ作品が設置されています。 抽象彫刻の第一人者・清水九兵衞(1922~2006)の作品で、アルミニウム合金を素材に使っているそうです。(資料4)また、1981年に七代清水六兵衞を襲名し、陶芸活動を再開した陶芸家でもありました。2000年に長男の清水柾博が八代清水六兵衞を襲名継承しています。(資料5) みやこめっせ(京都市勧業館)地下1階には、「京都伝統産業ミュージアム」と「日図デザイン博物館」があります。普段この館内に立ち寄ることがないので、私にとっては新たな気づきになりました。 みやこめっせ正面の東側には、市制100周年記念モニュメント「悠久」が設置されています。平成元年(1989)に建立され、モニュメント内にモニュメント設立協力金の協力者のメッセージが、モニュメント内のタイムカプセルに埋め込まれたそうです。このモニュメントは、京都市の自治の伝統、市民の連帯、その高揚を表しているとか。(資料3) 玄武(北) 朱雀(南) 白虎(西) 青龍(東)東西南北の四方位にデザインされた青龍、白虎、朱雀、玄武の四神が刻み込み描かれています。京都市は、明治22年が市制施行年です。一方、市民の手によって市長を選任し、専任の市職員を置き、市役所を開庁したのは明治31年だそうで、この明治31年を自治開始年としているそうです。(資料2) 北に目を転じますと、平安神宮の楼門が木の間越しに見えます。二条通と神宮道の交差点の南西側、歩道に近いところに、「ワグネル博士顕彰碑」の石標が立っています。少し南に下がったところに、 このモニュメントの全体が見えます。 ゴットフリード・ワグネル(Gottfried Wagener,1831~1892)はドイツの化学者で明治初期のお雇い外国人。明治元年に来日、明治11年京都府に招かれ、舎密局に新設された化学校の教授に着任。陶磁器、七宝、石鹸、ガラス等の製造を指導し京都の産業の近代化に貢献した人だそうです。大正13年(1924)にこの岡崎公園で開催された万国博覧会参加50年記念博覧会に際し、ワグネル博士の業績を顕彰するために建立されたと言います。(資料6)肖像の下には、銅鋳署名板が嵌め込まれていて、その下に横長の漢字カタカナ文で記された銅鋳碑文板が嵌め込まれています。カタカナ文は読みづらいのでひらがな漢字の文に変換し適宜句読点とルビを補い、以下転記します。(資料6)「ドクトル、ゴットフリード、ワグネル君は独逸(ドイツ)国ハノーヴェル州の人なり。維新の初、我邦に来り科学を啓導し工芸を掖(えき)進すること廿餘(二十余)年、主に本市に於て尤(もっと)も恩徳あり。明治十一年、君本府の聘(へい)に応じ来て、理化学を医学校に、化学工芸を舎密局に教授し、旁(かたわ)ら陶磁七宝の著彩、琺瑯(ほうろう)玻璃(はり)石鹸(せっけん)薬物飲料の製造、色染の改善に及び、講演実習並び施し、人才の造成、産業の指導、功効彰著(しょうちょ)。官民永く頼る。大正十三年本市東宮殿下御成婚奉祝万国博覧会【「東宮殿下御成婚奉祝」小字双行】参加五十年記念博覧会を岡崎公園に開く。初め本邦斯会に参加するや君顧問の任を帯びて本市に来り、頗(すこぶ)る斡旋する所あり。是に至て、市民益々君の功徳を思ひ、遂に遺容を鋳て、貞石に嵌(かん)し、之を会場の一隅に建つ。庶幾(いく)ばくは後昆(こうこん)瞻仰(たんぎょう)して長に旧徳を記念せむことを。京都市長従三位勲二等馬淵鋭太郎誌す。」 交差点に至れば、南西側に「京都市京セラ美術館」が見えます。横断歩道を渡り、右折すれば今回の目的地に到着です。「ポンペイ展」の鑑賞は、稿を改めてまとめてご紹介します。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 六勝寺 都市史 :「フィールド・ミュージアム京都」2) 左京区 地域別一覧 いしぶみデータベース :「フィールド・ミュージアム京都」3) みやこめっせ探訪 みやこめっせ館内 :「みやこめっせ」4) 清水九兵衞 / 朱鳥舞 :「@ART」5) 清水九兵衛 :ウィキペディア6) ワグネル碑 :「フィールド・ミュージアム京都」補遺ロームシアター京都 ホームページみやこめっせ(京都市勧業館) ホームページ源氏物語石像 みやこめっせ :「ガイドブックに載らない京都」みやこめっせの源氏物語像 :「office34」(excite.blog)パリ ヴァラス噴水 :「京都市情報館」ゴットフリード・ワグネル :ウィキペディアゴットフリード・ワグネル :「明治有田の偉人たち」愛知万博記念特別企画展 2004 おすすめ展覧会近代窯業の父 ゴットフリート・ワグネルと万国博覧会 :「うまか陶」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都 三条から京都市京セラ美術館へ -1 鴨川風景、二条大橋、妙伝寺 へ
2022.07.19
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6月下旬、会期の終わるほんの少し前に、「ポンペイ展」を予約して見に出かけました。京阪電車の三条駅を出てから、岡崎公園にある京都京セラ美術館までの往路をまずご紹介します。普段美術館に行く時とは少し経路を替えて見ました。通常は川端通から仁王門通を経由して美術館に向かいます。今回は二条通まで北上してから美術館に行くことにしました。入場時刻が設定されているので、あまり早く着いても仕方がないので・・・・。それと、たまには違う経路も気づくことがあるかもしれないし・・・・ということで。 冒頭の標識は、三条大橋から北へ1つめの御池大橋の東詰北側に立つ標識です。その下部には、鴨川に架かる上流の橋名並びに橋間の距離が明示されています。左下の草の葉に接するように見える赤丸の小さな点が現在位置です。二条通には二条大橋が架かっています。二条大橋までは0.2K、つまり200mです。 鴨川沿いの遊歩道を北へ。 御池大橋と二条通大橋間の景色、対岸を眺めます。対岸側には鴨川の中に堤防があります。その西側が「みそそぎ川」です。対岸沿いに立つ多くの民家には、みそそぎ川の上に、納涼床が架設されています。 二条大橋の中程で、下流方向を眺めた景色です。二条大橋の往復は、美術館に行くという目的からは反対方向の寄り道になります。 みそそぎ川 二条大橋西詰、南側には「二条大橋」の銘板が嵌め込まれています。 北東方向に、東山連峰を眺めた景色です。 北側には「鴨川」の銘板 上流側 みそそぎ川と鴨川本流 鴨川左岸(東側)の遊歩道。その東には琵琶湖疏水が鴨川と平行に流れています。 二条大橋東詰 遊歩道の傍に二条通の一筋北、冷泉(れいぜい)通の地点が、琵琶湖疏水が東西方向から南へ転じる箇所になります。この地点から三条大橋までは琵琶湖疏水が見えます。三条大橋から南は団栗橋の少し南まで暗渠になってしまいます。鴨川に添って流れる琵琶湖疏水は「鴨川運河」とも称されます。(資料1)川端通を横断して、二条通を東に進みます。 二条通と東大路通の交差点「東山二条」の南東角の築地塀。妙傳寺です。御所の方角に向かって立つ銅像は日蓮上人像です。築地塀は交差点の角地ですが角切りがしてあり、その前が庭園になっています。これは初めてみた景色です。いつごろ作庭されたのでしょう・・・・。時間のゆとりがあるので、久しぶりに立ち寄ってみました。以前にご紹介していますので、できるだけ画像等が重複しないように心がけます。 表門は東大路通に西面しています。「日蓮上人御分骨之道場」碑が建てられています。 上掲碑と門との間に、初回の探訪で気づかなかった石標「維新七卿 四條隆謌(たかうた)卿之墓」と刻されています。幕末の動乱期、尊攘派公卿の一人として活動し、「七卿落ち」と称される事件に関わった一人です。夫妻の墓がこの寺にあるそうです。「1886年8月18日の政変で、公武合体派に敗れて失脚した、尊攘急進派の公卿三条実美・三条西季知・四条隆謌・東久世道禧・壬生基修・錦小路頼徳・沢宣嘉が、京都を脱出して長州藩へ逃れた事件。翌年、再挙を図って『蛤御門の変』が起こった。」(『大辞林』三省堂) 表門を境内から撮った景色 降棟の鬼瓦。そのそばに桃を象った留蓋が見えます。 本堂山号は法鏡山。1477年(文明9)に日意(身延山12世)が、豪商・薬屋妙善の帰依を受け、当初一条尻切屋町に創建しました。日蓮の舎利を分骨して関西身延山と称したそうです。寺地の移転を重ね、1708年の宝永の大火後に現在地に移ったと言います。本尊は勧進様式曼荼羅です。 (資料2,3) 向拝の中央、龍を彫刻した蟇股と南側の象の前部を丸彫りにした木鼻 左はこれも蟇股のバリエーションと言えるのでしょうか。かなり意匠化されています。右は組物(斗栱)の形の見映えがいいですね。 本堂の桟唐戸には、連子に取り付けられた五七桐紋が光っています。 向拝の屋根からの雨受けの大壺。金色釉の部分懸けは遊びこころか・・・・。右斜め後の石灯籠の竿は神前灯籠の竿の形式です。その趣向がおもしろい。 本堂の北隣りには鐘楼があります。鐘楼の形が独特です。 装飾の少ないシンプルで小ぶりな梵鐘が架かっています。鐘楼の下半分は四方に開口部があり漆喰で固められ、龍宮門の下部に似た形式です。(資料4)形式として一番近いのが滋賀県にある石山寺の鐘楼です。 鐘楼の北側には、正面に「高祖舎利」と記された扁額を掲げたお堂(廟堂)があります。 向拝の木鼻 正面階段の右側に「仏足石」の石板が奉納されています。「佛所遊履 國邑丘聚、靡不蒙化。天下和順、日月清明、風雨以時、災厲不起。國豐民安。兵戈無用。崇德興仁、務修禮讓。」と、偈が上部に刻まれています。「仏説無量寿経」の一節のようです。(仏の遊履したまうところの国邑丘聚、化を蒙らざるはなし。天下和順し日月清明にして、風雨時をもってし災厲起こらず。国豊かに民安し。兵戈用いることなし。徳を崇め仁を興し、務礼譲を修す)(資料5)表門を出て、二条通に戻り、東に進みます。つづく参照資料1) 鴨川運河 :「日本遺産 琵琶湖疏水」2)『京都府の歴史散歩 中』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社 p83) 妙伝寺 :「京都」4) 門紀行:龍宮門 :「山聲」5) p.078 仏説無量寿経巻下 :「真宗大谷派」補遺西身延 本山 妙傳寺本山 妙傳寺開山 円教院日意聖人について :「青年僧侶のシャカリキ奮闘記」身延山 :ウィキペディア身延山久遠寺 ホームページ仏足石 :「コトバンク」石山寺鐘楼 :「石山寺」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都 三条から京都市京セラ美術館へ -2 二条橋、みやこめっせ、各種モニュメントほか へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都・左京 新洞学区内の寺院 -3 野風呂の句碑、旧武徳殿、妙伝寺、聞名寺 へ
2022.07.18
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先週の水曜日(7/6)、市の図書館に行く時、初蝉が鳴くのを耳にしました。その翌日、自宅で初蝉が鳴いているのを窓越しに聞きました。金曜日(7/8)、自宅の小さな敷地、南東隅の金木犀で、初蝉の鳴くのを聞くことに。どこに留まっているのか、目を凝らして探してみました。いた! デジカメを持ち出してきて早速初蝉撮りをしました。今年の記録。見つけたのは Only One !リビングルームの窓際にアサガオが緑のカーテンになり始め花が幾つか咲いてきています。今年のオーシャンブルーをいくつか撮ってみました。 先週から今週にかけ、曇り・雨の日がつづいているせいか、 蝉の鳴く音が弱々しく、元気さを感じません。ちょっと、さみしい・・・・・。蝉時雨と言えるほどに、蝉の鳴く日は何時になるのでしょう。
2022.07.16
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本堂の西側に「鐘楼」が見えます。この鐘楼の南西方向に楼門があります。楼門は既にご紹介しています。鐘楼の南西方向の境内地探訪から始めます。 まず、目に止まったのが「中興上人良恵大徳供養塔」石標が傍に立つ「五輪塔」です。 傍に、この「案内板」が設置されています。鎌倉時代、1253年頃に十三重石宝塔を再建し、西大寺叡尊上人発願の丈六文殊像を造立、伽藍の復興等を為し遂げたことで、中興上人に。これを機に、西大寺の末寺に属したそうです。 大塔宮在せし寺や百日紅 小牛 基壇を三段にした「五輪塔」が目にとまります。傍に「大塔宮護良親王供養塔」石標が立っています。供養塔の近くに、案内文も掲示されています。「護良親王は延慶元年(1308)、後醍醐天皇の第三の皇子として誕生。 6歳にして天台宗梶井門跡(京都東山岡崎)にて出家され、尊雲法親王と称される。 『大塔』の名の由来は岡崎の法勝寺九重大塔のほとりに門室を構えられたことによる。 17歳で三千院門主、19歳で天台座主となられる。『太平記』には武芸を好む異例の座主であったという。 元弘元年(1331)8月、後醍醐天皇の倒幕計画が漏れる『元弘の変』が起こり、天皇が笠置山に遷座籠城されると、宮は尊澄法親王とともに参戦される。しかるに、幕府の大軍に攻められ、笠置城が落城後、般若寺に潜伏される。幕府方の追手按察使候人好専が500の兵を率いて探索に来たとき、機転を利かし堂内にあった大般若経の唐櫃に潜み、危難を遁れられる。(『般若寺の御危難』) 宮様はその後、熊野へ落ちのびられるが、後醍醐天皇が隠岐島へ流された後も、天皇に代わり令旨を発して楠木正成や赤松円心などに倒幕挙兵を呼びかけられ、自らも吉野山で兵を挙げ転戦される。 吉野山では村上義光が親王の身代わりになり壮絶な最後を遂げた話が有名。 2年後、足利高氏らと幕府の出先政庁である京都六波羅探題を滅ぼし、新田義貞の鎌倉攻めとも呼応して倒幕に成功される。『建武の中興』 後醍醐天皇の建武の新政では征夷大将軍となられる。『宮将軍』 しかし足利尊氏と対立し、捕らわれの身となられ、鎌倉へ送られ二階堂谷東光寺土牢に幽閉される。そして、北条氏復活を企てた『中先代の乱』で、足利直義の命で殺害されたと伝える。(一説に、生き延びたとも)建武2年(1335)7月23日薨去、享年28歳の御生涯であったと。 明治に親王の御霊をまつるために建てられた鎌倉宮には、東光寺の土牢が復元され、親王に関する資料が公開されているが、『般若寺唐櫃』の複製が展示され、唐櫃から立ち上がられた親王の御姿の絵も掲げられている。 般若寺には大塔宮護良親王をしのぶ歌碑と句碑があります。 『般若寺は 端ぢかき寺 仇の手を のがれわびけむ 皇子しおもほゆ』 森鷗外 『大塔宮 在せし寺や 百日紅』 小牛 南都 般若寺 」(全文転記) 般若櫃うつろの秋のふかさかな 青畝 石塔と地蔵菩薩石仏。お地蔵さまの涎掛けには次の文が記されています。 「地蔵菩薩 おんかかかび さんまえい そわか 南無大師遍照金剛」 楼門の北側、築地塀の傍に、「平重衞 供養塔」石標とともに「五輪塔」が安置されています。 傍には、この案内文が設置されています。平重衡は、「以仁王の乱」を平定し、滋賀県園城寺を焼討した後、1181年12月25日、南都攻めに向かいます。興福寺衆徒7000人はこの奈良坂般若寺の地で、28日に平家勢4万を迎え撃つて戦いました。この戦の折に、般若寺の大凡が焼失します。その後、平家は源氏に敗れます。平重衡は囚われの身となり、一旦鎌倉に送られます。しかし、その後、京に送り返されます。「南都を焼いた張本人として重衡を恨んでいた南都の大衆は身柄を引き取り、木津川の河原で処刑、その首を持ち帰り般若寺の門前に晒したという。かつて般若寺の東の山麓に『重衡の首塚』と伝える塚があったが今では不明。」(一部転記)そんな経緯から、ここに供養塔が建立されたようです。 お地蔵さまが集まっていらっしゃる。 般若寺やほとけの庭に秋ざくら 明奎序でに、秋ざくら(秋桜)はコスモスのことなんですね。キク科の植物でメキシコ原産と言うことを初めて知りました。(『新明解国語辞典 第五版』三省堂)鐘楼辺に向かいましょう。 不動明王の銅像が石の上に建立されています。傍に「カンマン石」と題する案内文が設置されています。「カンマンは不動明王を象徴する種字(梵字)です。この石の突起部にお腹や背中を押しあてると健康が増進します。」(転記) 般若寺のつり鐘ほそし秋の風 子規 般若寺の石仏かざる水仙花 明奎 (資料1) 鐘楼は朱塗りで、子規の句に詠まれたとおり、すらりとした梵鐘です。記念写真用の顔出しパネルが設置してあるのがおもしろい。聖観音立像とコスモスの図柄のようです。 鬼瓦 鐘楼の北側の境内地です。 ガラス張りの電話ボックス様の覆屋の中に「平和の塔」が建立されています。南北側に千羽鶴が沢山奉納されています。 「平和の塔」案内板が西側に設置されています。 1989年8月3日に平和のシンボルとして建立されました。この平和の塔には、「広島の火」と「長崎の火」を合わせて「原爆の火」として保存しているそうです。その経緯が説明されています。 平和の塔の北側には、「石塔部材群 <鎌倉、室町、戦国時代>」が保存されています。「戦国時代、般若寺の近く(南西700m)に松永弾正久秀が築いた多聞山城(現在市立若草中学校敷地)という城があって、日本で最初の天守閣(四層櫓と推定される)を備え、壮麗な城構えはヨーロッパにまで名を知られたといいます。松永は織田信長に敗れ、城は信長の命令で打ち壊され、建物は京都へ、城壁石材は郡山城へ移されました。 石垣は寺の礎石や『般若野』(般若寺の南側にあった南都奈良の惣墓所)の墓石、石仏などが徴発利用され、今も郡山城に多数残っています。 般若寺境内に散在する五輪塔、宝篋印塔、石仏などの部材は多聞城跡の住宅地(城の北側空堀跡・現在の呉竹町など)から寺へ奉納されたもので、元の『般若野』から運ばれたものと推定される。現在も若草中学校の南入口近くには大量の石仏などが集められている。(階段下の右側にあり)」(案内文転記) 五輪塔ひっそりと 鎮守社と思われる小社があります。 もう1箇所、別の場所に覆屋が設けられた少し侘しさを漂わせる建物があります。傍に案内板が設置してあり、「鎮守社」だそうです。 境内地の北西隅に近い場所だったと記憶します。覆屋が設けられ、数多くの石仏が集められて祀ってあります。中央の地蔵菩薩立像は近年の造像のように見受けられます。他はかなり古い時代に作られたお地蔵さまのようです。これもまた、各所から奉納されてここに集まったいらっしゃたのでしょうか。 双体像形式のものが結構あることに気づきます。これは地蔵尊の双体型でしょうか。道祖神系の双体像が混じっているということも考えられるのでしょうか。不明です。いずれにしても、般若寺に石仏や石塔あるいはそれらの部材が数多く集まっていることを再訪して知った次第です。般若寺探訪では、見落とした箇所があることでしょうが、これで今回の探訪ご紹介を終わります。また、異なる季節に訪れてみたいと思っています。 般若寺を出た後、県道754号線を少し南に歩き、復路は般若寺バス停からJR奈良駅までバスを利用しました。バス停から般若寺への道路標識が見えました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 春の花だより 4・30 :「般若寺 花だより 住職BLOG」補遺コスモス寺開花情報 8・27 :「般若寺 花だより 住職BLOG」平和の塔 :「八女市」福岡県に広島原爆の残り火「平和の塔」8月6日の炎が燃え続ける場所 :「Tabetainjya」原爆の残り火「平和の火」 :「宝徳寺」長崎を最後の被爆地とする誓いの火 :「長崎市」ナガサキ誓いの火 原爆ノート :「NHK」多聞城 :「いかすなら」護良親王 :ウィキペディア護良親王 :「コトバンク」平重衡 :ウィキペディア奈良坂 :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照&探訪 奈良散策 -1 吉城園 ふたたび へ観照&探訪 奈良散策 -2 依水園(1) 寧楽美術館・清秀庵・挺秀軒ほか へ観照&探訪 奈良散策 -3 依水園(2) 氷心亭、後園(柳生堂・水車小屋ほか)へ観照&探訪 奈良散策 -4 依水園(3) 寄付、挺秀軒、前園、三秀亭 へ観照&探訪 奈良散策 -5 般若寺(1) 往路点描、楼門、紫陽花と本堂 へ観照&探訪 奈良散策 -6 般若寺(2) 笠塔婆・一切経蔵・十三重石宝塔・石仏 へ観照&探訪 奈良散策 -7 般若寺(3) 西国三十三所観音石仏 へ
2022.07.15
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本堂を東側に回り込みますと、本堂の東面に添って観音石仏が一列に配置されています。 本堂の東面を北から眺めた景色本堂の東側、石仏の傍に設置された案内板 通路を挟み、東側に並ぶ観音石仏(北側からの眺め) 石標の刻字を判読できません。 南側からの眺め 南無阿弥陀仏かな? 本堂の北面に回り込み、通路の途中で振り返った景色本堂の北から西側に回り込みます。 三尊仏をレリーフした石仏が目に止まりました。 三尊仏の続きに、本堂の西側に並ぶ観音石仏を北から眺めた景色 こちらには、「西国三十三所観音石仏」の石標が建てられています。 本堂を南西側から撮った景色これで、観音石仏巡りは一応終わりです。序でながら、私の頭の整理を兼ねた覚書をまとめておきたい所存です。「観音菩薩」は、正しくは「観世音菩薩」あるいは「観自在菩薩」と称されます。『法華経』の「観世音菩薩普門品第二十五」では、「観世音菩薩」と表記されています。一方、『般若心経』の冒頭は、「観自在菩薩 行深般若波羅密多時 照見五蘊皆空」から始まります。この「観自在菩薩」です。(資料1)この観音菩薩は、六観音と称されるように、造像されるときには異なる形式で表現されます。ふつうに観音といえば、「聖(しょう)観音」です。そして、「如意輪観音」「十一面観音」「千手観音」「不空羂索観音」「馬頭観音」という姿でも表現されます。真言系では、不空羂索観音の代わりに「准胝観音」を加えて六観音と称されます。結果的に、七観音の姿で造像された仏像の形式を見ることになります。(資料1)法隆寺の聖観音像には、夢違観音・救世観音・百済観音という愛称/通称で呼ばれる有名な仏像があります。観音菩薩は勢至菩薩とともに、阿弥陀如来の脇侍となり、阿弥陀三尊像として目にすることが多い菩薩像です。如来は衆生に対して悟りの法を説きます。一方、観音は衆生に現世利益の救済を施す存在と位置づけられています。それ故、観音菩薩が独自に信仰の対象となり、観音信仰が広まっていったのでしょう。西国三十三所の札所の本尊は、これら七観音のいずれかが本尊として祀られています。 括弧内は通称と札所の番号です。(資料2,3) 聖観音 :穴太寺(穴穂寺、菩提寺、21)、一乗寺(26) 成相寺(成相さん、28) 計 3寺 如意輪観音 :青岸渡寺(那智山寺、1)、龍蓋寺(岡寺、7)、石山寺(13) 園城寺・観音堂(三井寺、14)、頂法寺(六角堂、18) 圓教寺(西の比叡山、27) 計 6寺 十一面観音 :金剛宝寺(紀三井寺、2)、長谷寺(初瀬寺、8)、六波羅密寺(17) 観音寺(今熊野観音寺、15)、長命寺(31) 華厳寺(たにぐみさん、33) 計 6寺 千手観音 :粉河寺(3)、施福寺(槇尾寺、4)、葛井寺(藤井寺、5)、清水寺(16) 南法華寺(壺坂寺、6)、三室戸寺(御室戸寺、10)、総持寺(22) 正法寺(岩間寺、12)、行願寺(革堂、19)、勝尾寺(弥勒寺、23) 清水寺(播州清水寺、清水さん、25)、観音正寺(仏法興隆寺、32) 善峯寺(よしみねさん、20)、長命寺(31) 計 14寺 不空羂索観音:興福寺・南円堂(9) 計 1寺 馬頭観音 :松尾寺(まつのおさん、29) 計 1寺 准胝観音 :醍醐寺 上醍醐・准胝堂(11) 計 1寺まとめてみると、西国三十三所では、千手観音が一番数多く祀られています。 また、上記「観世音普門品」では、仏は無尽意菩薩に語ります。(資料4)「・・・・若し国土ありて、衆生の、応に仏の身を以て度(すく)うことを得べき者には、観世音菩薩は即ち仏の身を現して、為に法を説くなり。」から始まり、衆生に応じて観音菩薩が変化して、衆生の前に現れる姿を列挙説明していきます。経典によれば、観音菩薩は三十三の化身に変化すると説いています。瀬戸内寂聴さんは、それを整理して、自著に次のように記されています。 「聖者の三身」「天界の六身」「五種の人身」「四衆の人身」「四種の婦女身」「童男童女の二身」「八部身」「一身」の三十三身です。相手によって、相手のわかる方法、相手に最も必要な姿に化身して現れて法を説くというのです。(資料5)西国三十三所の三十三という数は、この三十三身に合わせた数のようです。そして、この三十三身に付会、つまりこじつけて俗信の観音を列挙したのが「三十三観音」です。(資料6)その中で、白衣観音が一番知られているのではないでしょうか。楊柳観音、龍頭観音、滝見観音、魚藍観音、水月観音などを仏像あるいは図像で目にしたことがあります。次回は境内探訪のつづきをご紹介します。つづく参照資料1)『図説 歴史散歩事典』 監修 井上光貞 山川出版社2) 西国三十三所巡礼の旅 ホームページ3) 西国三十三所 :ウィキペディア4) 『法華経 下』 坂本幸男・岩本裕 訳注 岩波文庫 p2525) 『寂聽 観音経 愛とは』 瀬戸内寂聴著 中公文庫6) 三十三観音 :「コトバンク」補遺観音菩薩 :ウィキペディア聖観音菩薩 :「MOA美術館」聖観音立像 :「奈良国立博物館」大宝蔵院と百済観音堂 :「法隆寺」如意輪観音坐像 :「e國寶」十一面観音立像 :「e國寶」千手観音像 :「e國寶」東大寺不空羂索観音立像 :ウィキペディア目黒の馬頭観音 :「目黒区」秘仏・馬頭観音菩薩立像(大安寺) :「祈りの回廊」准胝観音 :ウィキペディア霊山観音 :「京都観光Navi」魚藍観音 :「五島の島たび」全知全能感??美しすぎる仏像、水月観音像! :「ミライノシテン」木造 観音菩薩坐像 :「横須賀市」 ← 通称、滝見観音楊柳観音 :「大安寺」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照&探訪 奈良散策 -1 吉城園 ふたたび へ観照&探訪 奈良散策 -2 依水園(1) 寧楽美術館・清秀庵・挺秀軒ほか へ観照&探訪 奈良散策 -3 依水園(2) 氷心亭、後園(柳生堂・水車小屋ほか)へ観照&探訪 奈良散策 -4 依水園(3) 寄付、挺秀軒、前園、三秀亭 へ観照&探訪 奈良散策 -5 般若寺(1) 往路点描、楼門、紫陽花と本堂 へ観照&探訪 奈良散策 -6 般若寺(2) 笠塔婆・一切経蔵・十三重石宝塔・石仏 へ観照&探訪 奈良散策 -8 般若寺(4) 3供養塔、鐘楼、平和の塔、石造物群 へ
2022.07.14
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本堂正面の石段を降ります。石段の傍に、御詠歌を刻した歌碑が建てられています。 み仏のめぐみもふかき般若台ももの願いをかなえたまわむ 十三重石宝塔は、基壇の上に建立されていて、周囲が柵で囲まれています。柵に瓦屋根が付けられています。正式な名称は知りません。囲いの内側は夏コスモスが咲き誇り、柵の外側には紫陽花が咲いています。 石段を降りた後は左方向に歩み、時計回りに周囲を巡ってみました。 現在のこの十三重石宝塔は鎌倉時代の作。「観良上人が勧進し宋人伊行末、行吉らの手で建長5年(1253年)頃に再建された」(資料1)と言います。塔高は五丈(14.2m)。「塔身に膨らみをもたせ、初重笠石を大きくして安定感を見せる。大きな基壇は授戒式を行ったと推定される」(資料1)とか。鎌倉時代の十三重石塔でこの石塔と並ぶ代表的なものは、京都府宇治市、宇治川の塔の島に建立されている巨大な「浮島十三重塔」と、京都府相楽郡加茂町の「岩船寺十三重塔」があります。手許の書によると、広島県の「光明坊十三重塔」もその一例です。(資料2) 本堂の前を東方向に進むと、突き当たりに「笠塔婆」があります。鎌倉時代の作です。この笠塔婆を囲む柵は、十三重石宝塔と同じ形式です。 この笠塔婆は、「宋人石工伊行吉が弘長元年(1261年)に父伊行末の壱周忌にあたり、父母の供養のために建立。もと寺の南方、般若野と呼ぶ墓地の入り口にあったが廃仏毀釈で破壊され明治26年、境内に移転再建される。下部に264文字の銘文があり、東大寺再建に携わった宋人石工の事績が知られる貴重な史料」(転記、資料1)だそうです。能の演目『笠塔婆』の題材になったと言われています。(資料1)よく見ますと、壊され折れた石柱をつなぎ修復したことがうかがえます。正面は梵字で刻されています。 柵の傍にこの案内板が設置されています。 寺古りて野菊に立てる笠塔婆 素紅 (資料1)境内の各所に歌碑や句碑が奉納されています。それらも随時ご紹介していきしょう。見た印象として歌碑や句碑は近年に奉納されたものと受けとめました。 唐びとが月をろがみし笠塔婆 秋桜 双び立つ花野寺の笠塔婆 日月子余談です。江戸時代に出版された『大和名所図会』は、般若野について、「奈良坂より佐保川の石橋までをいふ。又般若路とのなづく。」と説明しています。(資料3)ネットのマピオンの地図で確認しますと、般若寺の所在地は般若寺町です。この北隣が奈良阪町。「奈良坂 南都北の入口をいふ。此町を奈良坂村ともなづく」と『大和名所図会』は説明していますので、奈良坂村が現在の奈良阪町になるのでしょう。般若寺楼門前の奈良街道(京街道)を北上すると、道路の西側に奈良豆比古神社があり、その少し北で、奈良街道が県道754号線に合流します。その合流地点に「奈良阪」のバス停があります。一方、楼門前の奈良街道を南に下って行くと、国道369号線との合流地点に至ります。そこは佐保川を横断する地点でもあります。地名でいえば今在家町。国道には「新石橋」と地図に記入されています。つまり、かつての般若野と呼ばれた地の広がりがイメージしやすくなります。元に戻ります。 笠塔婆の南に、西面する「一切経蔵」があります。元版一切経を収納する経蔵です。戦国時代の兵火の折にも焼けずに残った建物です。この経蔵には本尊として十一面観音像が祀られているそうです。(資料1)また、元弘の乱において、大塔宮護良親王がここ般若寺に潜伏していた折、この経蔵の唐櫃に隠れて危難を逃れたというエピソードが残されています。(資料1,4) 経蔵のかなしきえにし露の堂 敏子 (資料1) 経蔵前の通路を挟んで西側、十三重石宝塔との間に、「薬師如来」の扁額を掲げた拝所が設けてあります。 十三重石宝塔の軸部には、仏像がレリーフされています。ここには、南都仏教(顕教)独特の四方四仏が浮彫にされています。 拝所のある東方は薬師如来です。 南方は釈迦如来です。 西側に巡ります。南西隅には柵の内側に石造相輪が保存されています。最初の石宝塔の残闕でしょうか。 西方は阿弥陀如来です。 北方は弥勒如来が浮彫りにされています。序でに、宝篋印塔は様々なお寺で拝見します。その塔身に四仏がレリーフされているのを見かけます。この場合は、東方阿閦如来、南方宝生如来、西方阿弥陀如来、北方不空成就如来を配し、塔身の中央部を大日如来と見立てる金剛界五仏の形式が多いように思います。(資料2)この十三重石宝塔の傍にも歌碑がいくつかあります。目に止まったものをご紹介しましょう。 ちちろ虫十三塔をつつみ鳴く 一邑 般若寺は端ぢかき寺 仇の手を 逃れわびけむ皇子しおもほゆ 鷗外 うれしくも人と生まれて御仏の み名を称えて年を重ぬる かをる 本堂前の参道の途中、西からの眺め 楼門側に歩み少し離れた位置から眺めると、東の彼方になだらかな山並みが広がっています。 秋の日の十三塔や日は西に 素十 境内には石仏が花に囲まれるようにして点在しています。 花々、歌碑、句碑も合わせて点描してみます。 釈迦如来石像 釈迦如来石像の傍に集まった石仏 もう一軀の釈迦如来石像 阿弥陀如来石像 地蔵菩薩石像だと思います。 「霊石 まかばら石」があります。傍に説明文が掲示されています。「この石はいつの頃からか境内の片隅にあって、人の運気を上昇させる霊験があるといわれ、大切に守られてきました。 <オン・マカバラ・ウン>の呪文を唱え、石のいただきを右回りに三周なでてください。 名の由来は『光明真言』にあり、<オン・アボキャ・ベイロシャノウ・マカボダラ・マニ・ハンドマ・ジンバラ・ハラバリタヤ・ウン>を略して<オン・マカバラ・ウン>と言います。」(説明文転記) 本堂の東側に回り込むと、少し離れた東側に寂れた感じの門があります。この門に目がとまったのは、「秘仏白鳳阿弥陀如来」と刻された石標が門の近くに立っていたからです。門は開いていましたので、中には入れましたが、その先は立入禁止でした。そのため、この石標の事実は未確認です。 この門の門扉に掲示されていたのがこの境内図です。鎌倉時代、文永4年(1267)頃の般若寺の伽藍図と記されています。かつては、いわゆる七堂伽藍の大きなお寺だったことがわかります。本堂の東側から本堂の背後、西側という順に境内を巡ってみました。つづく参照資料1) 当日拝観受付でいただいたリーフレット「般若寺」2)『図説 歴史散歩事典』 監修 井上光貞 山川出版社3) 大日本名所図会. 第1輯 第3編 :「国立国会図書館デジタルコレクション」4) 護良親王 :ウィキペディア補遺護良親王 :「コトバンク」十三重石塔 :ウィキペディア岩船寺十三重石塔 :「石仏と石塔!」光明坊十三重塔 :「文化遺産オンライン」宝篋印塔の変遷と刻經の内容 :「備陽史探訪の会」宝篋印塔 :ウィキペディア宝篋印塔(ほうきょういんとう):「浄土宗 阿威山 大念寺」胎蔵四仏 :「コトバンク」胎蔵界五仏 :ウィキペディア光明真言 :ウィキペディア【浄化・厄払い】光明真言MUSIC / 薬師寺寛邦 キッサコ × 金剛院 YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照&探訪 奈良散策 -1 吉城園 ふたたび へ観照&探訪 奈良散策 -2 依水園(1) 寧楽美術館・清秀庵・挺秀軒ほか へ観照&探訪 奈良散策 -3 依水園(2) 氷心亭、後園(柳生堂・水車小屋ほか)へ観照&探訪 奈良散策 -4 依水園(3) 寄付、挺秀軒、前園、三秀亭 へ観照&探訪 奈良散策 -5 般若寺(1) 往路点描、楼門、紫陽花と本堂 へ観照&探訪 奈良散策 -7 般若寺(3) 西国三十三所観音石仏 へ観照&探訪 奈良散策 -8 般若寺(4) 3供養塔、鐘楼、平和の塔、石造物群 へ
2022.07.13
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依水園の正門前の道を北に進みます。しばらく歩むと、左(西)側に、「入江泰吉旧居」があります。公開されているようですが、次の機会に訪れることにして前を通りすぎます。道路の彼方に、石段が見えてきます。東大寺境内、戒壇院に至る石段道です。丘陵地に上るのを避け、少し手前で左折して、横道を辿り国道369号線に出て北上します。この道がかつての奈良街道に相当します。焼門前交差点を通り過ぎると、次は、 東側歩道より少し奥まったところに東大寺の「転害(てがい)門」が見えます。転害門前交差点はT字路で、西方向への道路は県道104号線です。転害門の北西側は国道の両側が「手貝町」という地名。「転害門」は以前にご紹介しています。 更に進むと、歩道に面して朱塗りの目板塀と鳥居が目に止まります。鳥居には「弁財天」の額が掲げてあります。更に道沿いに進むと、国道369号線の今在家交差点の分岐点に至ります。ここで、右(北東)方向に進む国道から外れ、北方向への道(奈良街道)を北上します。すると、もう一つ、分岐点が現れます。 角地に南に正面をむけたこのレンガ造の建物があります。 正面の上部に、「奈良市水道計量器室」と日本式に右から左に刻字されています。 鉄製門扉には「土木学会選奨土木遺産 2017」の金属銘板が取り付けてあります。 奈良県水道関連施設群の一つとしてこの建物が土木遺産に推奨されているのです。 右側の鉄柵にこの案内板が設置されています。この分岐点の右が奈良街道で、少し先で、更に道が分岐します。左の北方向に進む道路がかつての奈良街道です。北東方向にすすむ右の道は、後で地図を確認しますと国道369号線に合流する道でした。 北東方向に分岐する道路の南側にあるのが、「史跡 北山十八間戸」です。「西大寺の僧忍性(にんしょう)の創建とされ、当初は北方にある般若寺の東北にあったが、1567年(永禄10)の三好・松永の乱で焼失したものを寛文年間(1661~73年)に現在地に移し、1693年(元禄6)に修築された」そうです。細長く約38mの長さがある棟割り長屋で、1室2畳ほどの広さで18室に区切られていて、東端に仏間が設けてあるとか。切り妻造りの本瓦葺き。十八間戸の意味がこれで理解できます。ハンセン病などの重病者を保護・救済した福祉施設として設けられ、衣食住が提供されました。収容者の数は、延べ1万8000人といわれるそうです。(資料1)中・近世における社会事業史を考察するうえで重要な建物施設として、1921年(大正10)に国の史跡に指定されています。所在地:奈良市川上町この分岐点で、北方向に奈良街道の道を進みます。緩やかな坂道を上ることになります。逆にみれば、京街道とも呼ばれたようです。奈良坂と称される道です。この辺りの道は般若寺坂とも称されたようです。 しばらく進むと、「般若寺楼門」が見えてきました。 楼門は埒で囲まれています。拝観のための入口は寺地の反対側(東)に回り込む必要がある旨、掲示が出ています。その指示通りに迂回することに。後で地図を確認しますと、般若寺の東側を通る県道754号線に回り込み、般若寺境内の南側に設けられた駐車場を通り抜けると、寺の南側中央部に拝観受付の入口がありました。 境内に入ると、まず巨大な「十三重石宝塔」が目にとまります。その周囲には夏コスモスと紫陽花が咲き誇っています。花のコラボレーションはいいですね。十三重石宝塔については、別稿にてとりあげたいと思います。 本堂に向かう手前に立つ石灯籠。鎌倉時代の作で、花崗岩製、総高3.14mです。「古来『般若寺型』あるいは『文殊型』と呼ばれる著名な石灯籠。竿と笠部分は後補であるが、基台、中台、火袋、宝珠部は当初のもので、豊かな装飾性を持つ。火袋部には、鳳凰、獅子、牡丹唐草を浮彫りする。」(傍に立つ案内板の説明文転記) 鳳凰 獅子 牡丹唐草 火袋の火口写真を撮った時は全く気づかなかったのですが、写真をよく見ると、なぜかビー玉様のものが入れられた透明の立方体ケースが火袋の内部に置かれています。何でしょうね。不可思議・・・・・。般若寺型石灯籠の最古の作は東京椿山荘に現存するそうです。(資料2) 寂静や古都の月冴ゆ般若寺 水嶺 (資料2)本堂基壇への石段の手前に、 水かけ地蔵尊砂岩製の地蔵尊が安置されています。「十数年前、東の山中から発見された。銘によると奈良町の北嚢町住人の綿屋某が宝暦4年(1754)先祖供養のために造立した。」(傍に立つ案内板の説明文転記) 水かけ地蔵尊の北隣に置かれた「手水石船」(花崗岩製)「寬文7年(1667)に再興された現本堂(文珠堂)に寄進された。 (刻銘) 奉寄進般若寺 文珠堂御寶前 延寶 年八月吉日敬白(1673~1680)」(傍に立つ案内板の説明文転記)手水石船には、紫陽花が一杯に浮かべてあります。 石段の両端に並べ置かれた透明のボール型器に活けられた紫陽花が目を惹きつけます。器にぴったり収まっているのがおもしろい演出効果を発揮しています。 南面する本堂(文殊堂)現在の本堂は、江戸時代、寬文7年(1667)に再建されたもの。入母屋造本瓦葺の屋根です。外陣は吹き放しとする古様の形式を残しています。 向拝の柱には、「関西花の寺 第十七番 般若寺」の木札が掲げてあります。コスモス寺として有名です。入手資料には「日本最古のコスモス名所」と記されています。 御詠歌 み仏のめぐみもふかき般若台ももの願いをかなえたまわむ縁起によれば、「飛鳥時代に高句麗の慧潅法師によって開かれた。都が奈良に遷って天平7年(735年)、聖武天皇が平城京の鬼門を守るため『大般若経』を基壇に納め卒塔婆を建てられたのが、寺名の起こりとされる。」(資料1)とのこと。尚、慧潅(けいかん)法師の創建は舒明元年(629)という伝えに対して、白雉5年(654)蘇我日向臣の創建という説もあるそうです。(資料3)江戸時代に出版された『大和名所図会』には、 この挿絵が載っています。そして、「般若寺町東側にあり。聖武帝の御建立にして、勅書の大般若経を地底に納め、基上に十三重の塔を立て給ひしにより般若寺と称す」と説明しています。その続きに、境内に存在するものとして、「十三重石塔婆」という語句が記されています。(資料4)石造の卒塔婆を広義では石塔と称します。般若寺は真言律宗の法灯を継承維持するお寺です。本尊は「八字文殊菩薩騎獅像」で鎌倉時代の作。般若寺のホームページをご覧ください。「本像は元享4年(1324年)、後醍醐天皇の御願成就のため、文観上人が発願し大仏師康俊・康成、施主藤原(伊賀)兼光らとともに造顕した」(資料2)そうです。本堂には、江戸時代の作が多いですが、四天王像、不動明王坐像、賓頭盧尊者、弘法大師像など数多くの仏像も安置されています。平成に模刻された叡尊上人坐像も安置されています。 本堂正面の蟇股 降棟の鬼瓦 稚児棟の鬼瓦般若寺もまたその創建後、栄枯盛衰を経ています。(資料2,5)平安時代の頃 学問寺として千人の学僧を集めていた。1180(治承4)年 平重衡による南都焼き打ちの折、伽藍が灰燼に帰す。鎌倉時代 西大寺の叡尊により七堂伽藍の再建。寺観は旧に復す。室町時代,1467年 土一揆のために文殊院などを焼失 (1467年は応仁の乱の初年)戦国時代,1490年 兵火により、経蔵と楼門を残し、金堂他は焼失。江戸時代,1667年 本堂(文殊堂)を勧進により再建。明治初期 拝仏棄釈の影響を受ける。 現在は「花の寺」として知られています。春は山吹、夏は夏コスモスと紫陽花、秋はコスモス、冬は水仙と、境内には四季折々に花が満ちているようです。 本堂の南東方向の境内の通路は、両側に透明ボール器に活けられた紫陽花が列をなし、来訪者を誘っています。本堂側から通路を歩んで、振り返って撮った景色です。人を入れずに撮るには、来訪者が一時的途切れるのをしばし待つ必要がありました。 通路の先の建物の前には、奉納された「慈母観音像」が祀ってあります。 その上部には、紫陽花をあしらった風鈴が吊ってあります。境内地の咲く紫陽花だけでなく、紫陽花を優雅に印象づける工夫が各所に見られて楽しめました。境内を巡る前に、国宝の楼門を境内内部から眺めておきましょう。 境内には、この案内板が設置してあります。 境内から撮った楼門の組物(斗栱) 楼門に近いところに、この寺号標「南朝御聖蹟 般若寺」が建てられています。つづく参照資料1) 北山十八間戸 :「コトバンク」2) 当日拝観受付でいただいたリーフレット「般若寺」3)『図説 仏像巡礼事典 新訂版』 久野健[編] 山川出版社 p1404) 大日本名所図会. 第1輯 第3編 :「国立国会図書館デジタルコレクション」5)『奈良県の歴史散歩(上)』 奈良県歴史学会 山川出版社 p11補遺北山十八間戸 :「古寺巡訪」法性山 般若寺 ~コスモス寺~ ホームページ 寺宝 仏像 境内興正菩薩叡尊上人 :「西大寺」叡尊 YouTube叡尊 :「コトバンク」叡尊 :ウィキペディア真言律宗 :「西大寺」入江泰吉 :ウィキペディア入江泰吉記念奈良市写真美術館 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照&探訪 奈良散策 -1 吉城園 ふたたび へ観照&探訪 奈良散策 -2 依水園(1) 寧楽美術館・清秀庵・挺秀軒ほか へ観照&探訪 奈良散策 -3 依水園(2) 氷心亭、後園(柳生堂・水車小屋ほか)へ観照&探訪 奈良散策 -4 依水園(3) 寄付、挺秀軒、前園、三秀亭 へ観照&探訪 奈良散策 -6 般若寺(2) 笠塔婆・一切経蔵・十三重石宝塔・石仏 へ観照&探訪 奈良散策 -7 般若寺(3) 西国三十三所観音石仏 へ観照&探訪 奈良散策 -8 般若寺(4) 3供養塔、鐘楼、平和の塔、石造物群 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 東大寺境内散策 -2 戒壇院の北門・中御門跡・転害門・大仏池
2022.07.12
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後園の南側を水車小屋から西に進むと、この道標風の石標が立っています。 石標を正面から撮ってみましたが、私には残念ながら刻された文字を判読できません。たぶん何処かからこの庭園に移築されたものでしょう。 前回に触れました。池の中島に近い南岸畔に設けられた「寄付(よりつき)」(休憩所)です。右側の飛び石の道を歩めば、中島のある方向で池辺になります。左側の飛び石の道を鮎目が挺秀軒に至ります。 中島に架かる石橋。「関守石(止め石)」が置かれています。 寄付の西側面 歩いてきた通路を振り返った景色です。左側が池のある方向です。丘陵地に作庭して、草書の「氷」の字を表すという池を掘ったのでしょうね。ドローンで上空から撮ると、池の字形が鮮やかにわかるかもしれません。 それでは、挺秀軒を経て「前園」を巡りましょう。前園の全体図です。 池の向こうに「柳生堂」 こちら側の前方には「挺秀軒」が木々の間から見え始めます。 後園の池と前園の池を結ぶ小川に架かる石橋の先に、「氷心亭」が見えます。 これはたぶん茶室から少し離して設けられている「雪隠(せっちん)」と推測します。トイレです。 「清秀庵」に向かう境にある門が見えて来ます。この門は初回にご紹介しています。後掲の案内文を参照し、この門が「編笠門]という形式であることを知りました。 「挺秀軒」の東面東面には、縁が設けてあります。「この建物は、『挺秀軒』と称し、前園を作庭した清須美道清(きよすみどうせい)によって江戸延宝年間に建てられた煎茶の茶室です。明治に後園を作庭した関藤次郎(せきとうじろう)が茶室の待合にも使えるように東側に縁を取り付けました。」(案内文部分転記)この挺秀軒が待合を兼ねることにより、編笠門のこちら側が外庭、編笠門の向こう側が内庭となり茶室(清秀庵)に導かれます。挺秀軒の脇を小川が東西方向に流れていますので、外庭と内庭は隔絶された空間を形成することになります。編笠門が二つの空間を繋ぐことになります。「周りの茶庭は。明治33年(1900年)に裏千家12代宗匠又妙斎(ゆうみょうさい)によって設計され、厳格な監修のもとで造園がおこなわれました。」(案内文部分転記) 南面 「挺秀軒」の西面 丸窓のあるところは煎茶室だそうです。(案内文より) 井戸でしょうか。 上記に参照した案内文それでは前園を巡って行きましょう。 挺秀軒の西側から前園の池の南辺から西辺を撮った景色です。 上掲の右側に続く北西方向に、「三秀亭」があります。三秀亭もまた茶席(茶室)です。 池の南西隅から少し西まで進み、振り返った景色です。 池の南西側から依水園の中心となる建物を撮った景色です。 清秀庵と挺秀軒も池越しに見えます。 池の西辺を進むと、三秀亭の南面に至ります。 西方向には、正門から入ってきたとき、まず見えた三秀亭の門その門を庭側から遠望することになります。三秀亭の東面に進みます。 たまたま利用客がいませんでしたので、三秀亭の室内の一部を庭から撮れました。今は食事処として椅子形式で、この前園を眺めつつ、ひとときを憩うことができるようです。 石橋を渡って、三秀亭側を撮った景色です。 池の北西辺 池の北東辺 池の北辺から南方向を眺めた景色です。最後に、ここに設置されている前園の案内板の内容をご紹介して終わります。「前園のこの庭は『奈良坊目拙解』によると、古くは興福寺の別業の跡とされています。延宝年間(1670年代)奈良晒しを業とする清須美氏が、別邸として庭の趣向を替え、建物(三秀亭・挺秀軒)を建て、文人墨客を招いて花鳥風月を楽しんだことは、これが黄檗山万福寺二世木庵禅師によって、『三秀亭』と名付けられたことから推察されます。明治後期、原形を残したまま後園と巧みにつなぎ合わされて今に至ったものです。」(転記)この後、般若寺を訪れました。つづく補遺依水園 ホームページ編笠門(あみがさもん) :「茶室を学ぶ」裏千家[十二代] 直叟宗室 又妙斎 :「八光堂」奈良坊目拙解 :「奈良県立図書館情報まほろばライブラリー」奈良晒とは 工芸百科事典 :「中川政七商店の読みもの」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照&探訪 奈良散策 -1 吉城園 ふたたび へ観照&探訪 奈良散策 -2 依水園(1) 寧楽美術館・清秀庵・挺秀軒ほか へ観照&探訪 奈良散策 -3 依水園(2) 氷心亭、後園(柳生堂・水車小屋ほか)へ観照&探訪 奈良散策 -5 般若寺(1) 往路点描、楼門、紫陽花と本堂 へ観照&探訪 奈良散策 -6 般若寺(2) 笠塔婆・一切経蔵・十三重石宝塔・石仏 へ観照&探訪 奈良散策 -7 般若寺(3) 西国三十三所観音石仏 へ観照&探訪 奈良散策 -8 般若寺(4) 3供養塔、鐘楼、平和の塔、石造物群 へ
2022.07.09
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最初に「後園」の全体図をご紹介します。左端に描かれた茅葺き屋根の建物が茶席(茶室)「氷心亭」です。ここを起点にして、池泉回遊式庭園として作庭された「後園」を巡って行きます。 氷心亭清秀庵の露地から氷心亭側の庭を歩み、建物の南側を回り込んで東側に出ます。氷心亭の東方向には池を中心に広々と後園が広がっています。 池の西辺を時計回りに歩み、南西方向に氷心亭を眺めた景色です。この氷心亭は「明治期に数寄をこらした造りです。床の間は『桂離宮』の書院の一部を写し、天井は平・船・掛込の三種類を巧みに採り合せ、木材には新薬師寺の古材などの珍木・銘木を彼方此方にあしらった贅沢なものです」(案内板より一部転記)と説明があります。建物の内部が拝見できないのが残念でした。手前に大きな礎石が写っています。これが池との位置関係をイメージしやすくする基点に使えます。 氷心亭の端(北)に茶筅垣が設けられ、その前に蹲踞(つくばい)が見えます。氷心亭が茶席であることがわかります。 北東側に、「柳生堂」があります。この檜皮葺の建物は、「柳生家全盛期(16世紀後半)のもので、この庭を作った時、柳生村芳徳寺から移築し、現在『柳生堂』と称しています。」(案内板より一部転記) 池の北西隅から後園を東方向に眺めた景色遠くに春日奥山が見えます。「後園のここから見える山々は右から御蓋山・春日山・若草山」(案内板より一部転記)です。左手前に少し見える屋根は東大寺南大門だそうです。「草書の『氷』をなぞらえて掘った池をはさんで、右は氷室神社の森、左は東大寺塔中の林に囲まれ雑物が全く目に入らないこの優れた借景庭園」(案内板より一部転記)となっています。 池の南辺方向に目を転じて、眺めた景色それでは池畔の通路沿いに、池を周りを時計回りに巡って行きましょう。 上掲の礎石の少し先で振り返った景色柳生堂と氷心亭の位置関係がおわかりいただけるでしょう。 池中の中島を挟み、南側の岸辺には「寄付」の建物が見えます。寄付とは「[庭園などの]簡単な休み場所」(『新明解国語辞典』三省堂)です。 振り返って眺めた氷心亭と柳生堂 池の北側の通路を東に歩みます。休憩用のベンチがいくつか設置されています。 通路から北の方に少し奥には、いくつかの小屋が見えます。 さらに東に歩めば、池のほぼ東端の先に、朱色の覆屋が見えます。 「開運稲荷」が祀られています。稲荷社です。 稲荷社側から西方向を眺めた景色 池の東辺を歩み、南側に回り込みます。 一つの通路は、「関守石(止め石)」が置かれています。杭を打ち青竹を横に通して立入禁止を示すより、この方が情趣がありますね。清秀庵のところにも関守石が置かれたところがありました。関守石は「茶庭の飛び石の分かれ目に、棕櫚(しゅろ)で十文字に結んだ石。通り抜けできない意を示す。とめ石。」(『日本語大辞典』講談社)と説明されています。 通路が分岐する少し広い空間に出ます。 振り返った景色です。この景色の右側、岩を散見するあたりに、「臨渓庵」と称する茶室があったようです。 上掲の景色の右端にこの案内板が設置されています。 池側は少し小高くなり飛び石風の石段があります。そこを上ると、「依水園」と刻された碑が立っています。 池畔に「水車小屋」があります。 水車小屋の傍には、小さな滝が設えてあります。 水車小屋の傍を下る石段は、池中の飛び石を渡ることで向こう岸に繋がっています。反対側の岸から水車小屋を撮った景色です。 飛び石のところから池の西辺を眺めた景色です。 池の中島と南岸の間に架かる石橋この後、挺秀軒を経由して前園を巡ります。つづく補遺桂離宮 書院 :「宮内庁」芳徳寺 観光スポット :「NARA」芳徳寺 :「柳生街道~柳生の里」テーマ 「関守石(止め石)」 :「山崎造園」関守石の作り方(音声なし) 光匠園 YouTube関守石作成動画 YouTube庵の読み方・意味と類語・亭との違い・使い方|庵を結ぶ/庵点 :「Mayonez」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照&探訪 奈良散策 -1 吉城園 ふたたび へ観照&探訪 奈良散策 -2 依水園(1) 寧楽美術館・清秀庵・挺秀軒ほか へ観照&探訪 奈良散策 -4 依水園(3) 寄付、挺秀軒、前園、三秀亭 へ観照&探訪 奈良散策 -5 般若寺(1) 往路点描、楼門、紫陽花と本堂 へ観照&探訪 奈良散策 -6 般若寺(2) 笠塔婆・一切経蔵・十三重石宝塔・石仏 へ観照&探訪 奈良散策 -7 般若寺(3) 西国三十三所観音石仏 へ観照&探訪 奈良散策 -8 般若寺(4) 3供養塔、鐘楼、平和の塔、石造物群 へ
2022.07.08
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吉祥川を挟み、前回ご紹介した吉城園の北隣りに「依水園」があります。依水園の正門です。今年の1月に吉城園を訪れた時は時間的なゆとりがなく、この門前の写真を撮るだけで終わりました。今回はこの依水園を探訪の眼目にしました。 正門の左側に案内板があります。依水園の全体図が掲示されています。園内は、「寧楽(ねいらく)美術館」があり、基軸の建物群の西側に前園、東側に後園が作庭された広い庭が広がっています。前園は江戸時代前期に作られた日本庭園で、周りから隔絶された形の作庭になっています。一方、後園は明治期に作庭された日本庭園で、周りの景色を景観の一部に取り入れた借景庭園です。総面積は3,400坪(11,000㎡)だそうです。(参照資料より)依水園内を巡った順にご紹介していきます。 正門を入ると、幅広の砂利道が東に延びています。最初に右手前方の築地塀と門が目にとまります。「三秀亭」です。 イメージしていただきやすい様に部分図を再掲します。依水園の入園受付所は三秀亭よりも更に奥にあります。受付所の手前までは自由に入ることができます。三秀亭は江戸時代の建物ですが、前園を眺めながらの食事処として利用されています。 依水園の所在地はこの地図をご覧下さい。分かりやすくマゼンタ色の丸にしたところが依水園で、赤い丸が国道369号線に面する奈良県庁です。所在地:奈良市水門町74 三秀亭を通り過ぎ、東に進みます。 左(北)側に「寧楽(ねいらく)美術館」があります。 振り返って眺めた三秀亭側。この築地塀の内側が「前園」です。 右側の建物の受付で美術館の企画展と庭園を両方を拝見するチケットを購入しました。 チケット購入の折にいただいたリーフレット。ご紹介に参照・活用します。 この寧楽美術館は、「関家より依水園を買い受けた実業家中村準作が収集した美術品を園内で展示するために、昭和15年(1940年)に財団法人として設立されました。」(転記)現在のこの建物は、昭和44年(1969)に建築家、東畑謙三氏の設計により建築されたそうです。緩やかに彎曲する大和屋根をイメージして設計された建物です。中村準作・準一・準佑の三代にわたって、古代中国、高麗・朝鮮王朝時代、日本の美術品が収集されたそうです。鑑賞後、館内の担当者と会話して知ったのですが、収集された美術品は万を越える点数に及んでいたそうですが、第二次世界大戦の神戸空襲で大半が消滅したとか。この地に保管されていた二千数百点が被災を免れた結果、その収蔵品を定期的に企画展として、展示入れ替えされているそうです。 探訪時点では、「きこえる美術」という企画展が開催されていました。館内では写真が撮れませんので、残念ながらご紹介できません。美術品を眺めているとさまざまな”音”を感じさせてくれる。そんな美術作品の展示が今回のテーマでした。 寧楽美術館を出た後は、庭園への入口に向かいます。 「依水園」の扁額を掲げた建物の玄関口 玄関前からの眺め庭園へは、玄関口の右側の入口から入ります。入口を入ると、この辺りが案内所になっていて、どうぞという声が聞こえました。そのまま庭園内巡りに入ります。 庭への通路を進み、入口側を振り返った景色庭への入口に対し、向かって左方向に「前園」が広がっています。「前園」は結果的に最後の庭園巡りになりました。右の建物は茶席です。 この茶席「清秀庵」は裏千家の「又隠席」(重文)を写したものだそうです。 露地にこの案内板が建てられています。 「清秀庵」の建物自体の外周辺を巡ってみました。それでは、露地に目を転じてみます。 上掲の庭園への入口からの通路は、この門まで続いています。茶席への本来の入口はこの門のようです。 門の外から眺めた「清秀庵」 門を入って右手方向を眺めると、露地はこんな景色です。一方、清秀庵側から門の外に出ますと、そこには 茶席「挺秀軒」があります。この茶席は、上掲の全体図でご確認いただけますが、「前園」と「後園」のいずれとも繋がる位置にあります。 挺秀軒の露地であり、この先は後園に繋がっています。さて、清秀庵から東方向に歩みます。露地の垣根にある出入口を抜けると、 正面に、茅葺き屋根の「氷心亭」があります。これもまた茶席の建物です。 この建物の背面が「後園」に面しています。 南側面がガラス戸の建物は、そのまま東側面もガラス戸になっています。 部屋の外周に廊下が設けてあるようです。かなり大きな建物です。「氷心亭」の南側を回って、「後園」に向かいます。つづく参照資料*チケット購入時にいただいたリーフレット補遺依水園 ホームページ又隠(ゆういん) 今日庵 茶室・茶庭設計様式 又隠 :「東建コーポレーション株式会社」お茶室とは(お茶室のいろは) :「椿建築デザイン研究所」茶室 :「茶道入門」名古屋城内の茶席 :「名古屋城」いろいろな茶会と茶席 :「世界緑茶協会」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照&探訪 奈良散策 -1 吉城園 ふたたび へ観照&探訪 奈良散策 -3 依水園(2) 氷心亭、後園(柳生堂・水車小屋ほか)へ観照&探訪 奈良散策 -4 依水園(3) 寄付、挺秀軒、前園、三秀亭 へ観照&探訪 奈良散策 -5 般若寺(1) 往路点描、楼門、紫陽花と本堂 へ観照&探訪 奈良散策 -6 般若寺(2) 笠塔婆・一切経蔵・十三重石宝塔・石仏 へ観照&探訪 奈良散策 -7 般若寺(3) 西国三十三所観音石仏 へ観照&探訪 奈良散策 -8 般若寺(4) 3供養塔、鐘楼、平和の塔、石造物群 へ
2022.07.07
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今年の1月、奈良国立博物館に出かけた折、初めて「吉城(よしき)園」を探訪しました。吉城園は奈良市登大路町に所在します。6月奈良博で特別展「大安寺のすべて」を鑑賞後に、奈良散策を併せて行い、最初にふたたび吉城園を訪れてみました。異なる季節の庭を眺めたかったからです。冒頭の景色は、表門を入り受付所から庭に向かう石段のところです。紫陽花が咲いていました。 石段を上がると、目にとまった石灯籠。今回、整理してみますと、石造物と庭の花が中心になりました。 左側は小高い築山で「あずまや」が上に建てられています。 「あずまや」への石段の途中で眺めた「池の庭」の全景池の西側に「旧正法院住宅(吉城園)」が見えます。 池には石橋が架けられ、大きな岩が島となっていて、岸辺に石組が施されています。 大正時代の近代和風住宅が池の庭との落ち着いた調和を生み出しています。 池の東側の通路沿いに進めば、池の南端側に至ります。橋があり、その先に蔵が見えます。橋を渡って少し先までは進めます。 蔵の前は裏庭にあたる部分でしょう。火袋のない石灯籠がおもしろい。 池に面した建物の東側面の縁側。景色の中央が池で、右(東)方向が丘陵の傾斜地になっていきます。池の先に山麓が続く風趣でしょうか。 橋を戻り南東を見上げると、「十三重石塔」が見えます。 軸部に浮彫の四方仏が見えます。すぐ近くの通路を上がると、「離れ茶屋」がありますが、2022年11月中旬までは、耐震工事を含めた修復工事が始まっていて、立入禁止でした。そこで、庭を北辺の通路から回り込んで行くことにしました。 奇妙な石造パーツの組み合わせ この浮彫は人、しぐさは「言わざる」ですよね。吉城園の北側は吉城川が隣地との境となり、川沿いに北辺沿いの通路があります。その途中に数カ所、丘陵地の上部への石段道が設けてあります。その一つを上がって、東西方向に広々とした「苔の庭」に入ります。 離れ茶室の見える西方向の景色 これもおもしろい組み合わせ。上部は宝篋印塔の笠と相輪の一部。その下は不詳。 この苔の庭の通路沿いに東に歩めば、さらに一段高い位置にある「茶花の庭」に行けます。初回に歩いていますので、一旦北辺の通路に戻り、吉城園の敷地の東端への通路を歩いて茶花の庭に進むルートをとりました。 北辺の道を東に進み、東端を回り込む形で坂道を上って行きます。振り返って撮った景色です。 「茶花の庭」への入口(起点)です。 この茶花の庭には、中央部ですが、中央より少し西にズレた位置にもう一つの「あずまや」が設けてあります。吉城園の入口・受付に近い位置の「あずまや」よりも数倍大きな休憩所です。その周辺に様々な花が栽培されています。茶花に使える種々の花ということなのでしょう。 茶花の庭から苔の庭の東端に近い通路を歩いて、北辺の通路に出て、受付所に戻ります。 東側から眺めた苔の庭と石灯籠秋に訪れれば、また違った雰囲気の庭を眺められることでしょう。この奈良散策では、この後北に隣接する「依水園」を訪れました。つづく観照&探訪 奈良散策 -2 依水園(1) 寧楽美術館・清秀庵・挺秀軒ほか へ観照&探訪 奈良散策 -3 依水園(2) 氷心亭、後園(柳生堂・水車小屋ほか)へ観照&探訪 奈良散策 -4 依水園(3) 寄付、挺秀軒、前園、三秀亭 へ観照&探訪 奈良散策 -5 般若寺(1) 往路点描、楼門、紫陽花と本堂 へ観照&探訪 奈良散策 -6 般若寺(2) 笠塔婆・一切経蔵・十三重石宝塔・石仏 へ観照&探訪 奈良散策 -7 般若寺(3) 西国三十三所観音石仏 へ観照&探訪 奈良散策 -8 般若寺(4) 3供養塔、鐘楼、平和の塔、石造物群 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 奈良市 「吉城(よしき)園」3つの庭を楽しむ -1 池の庭 3回のシリーズでご紹介 観照&探訪 奈良 興福寺点描と奈良国立博物館・特別展「大安寺のすべて」
2022.07.06
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入場チケットの半券先月(6/16)、奈良国立博物館に出かけました。特別展「大安寺のすべて」の会期終了直前です。覚書を兼ね、ご紹介します。 南円堂いつも、三条通りから石段道を上り、南円堂前経由で興福寺の境内を通り抜け、奈良公園に向かいます。 石段道を上がると、右(東)側に南円堂の手水舎があります。参道の左(西)側が南円堂です。普段、手水舎をチラリと見て素通りしてきたのですが、ふと、その背後のフェンスの先が気になりました。 フェンスに近づきますと、こんもりとした塚です。「額塚」と刻された石碑が建てられています。築地塀の向こうに、五重塔が見えます。 北側から 南西寄りから今まで意識しませんでした。「額塚」って何?『大和名所図会』を参照しますと、次の説明があります。「額塚 南大門の西の脇にあり。一名茶臼山といふ。天平宝宇8年5月、南大門の芝に大なる穴出来て洪水路頭に溢れ、往来もなりがたく、諸人の歎(なげき)となりしかば、大衆議して占はせらるるに、南大門の月輪山の額水に縁(ゆかり)あれば、これをおろすべしと卜者の考により、即(すなはち)額をおろし、此所(このところ)に埋(うづ)みけるとなり。」(資料1) 同書に載る興福寺境内南半分の図です。赤丸を追記したところが「額塚」です。(資料1)これ以降、興福寺は山号を名乗らないとのことです。 南円堂前で左折して境内を東に向かいます。これは北円堂へ向かう道の手前に立つ石灯籠。「南圓堂」「御寶前」と竿の節(珠紋帯)の前後に刻されています。 再興された中金堂。中金堂を拝観したときの覚書はご紹介ずみです。 この案内板が柵の傍に設置されています。 いつの日か、廻廊と中門が多分再興されることでしょう。 中金堂に対して、南には南大門の基壇と礎石が復元されています。観光客が疎らだったので久しぶりにで基壇に上ってみました。基壇の北東側から南西方向を眺めた景色です。 興福寺境内を通り抜け、奈良公園に入ります。 見慣れた景色を眺めつつ、奈良国立博物館を目指します。 博物館西館の手前にこの案内図が設置されています。図の下辺が北になります。 西面 北面 この特別展のPRチラシ二つ折でA4サイズです。画像を切り出し引用するとともに参照します。ある史跡探訪講座に参加して大安寺とその周辺を探訪し、以前にご紹介しています。その折には境内と建物を中心に巡り、現在の大安寺境内と古代の大安寺境内の規模がどれだけ違うかを歩くことで体感しました。展示会場には、パネル展示で寺地がどれだけ縮小したかが対比的に説明してあり、再認識した次第です。この特別展は、大安寺の仏像を多く見仏できることを楽しみにして出かけました。特別展そのものは、大安寺の歴史について、寺宝、関連作品、発掘調査結果など多角的な観点で総合的な理解を深めることが試みられていました。<第1章 大安寺の始まり> <第2章 華やかなる大寺> <第3章 大安寺釈迦如来像をめぐる世界> <第4章 大安寺をめぐる人々と信仰> <第5章 中世以降の大安寺>という構成です。一般鑑賞者が一番惹きつけられるのは上掲の写真からもおわかりのようにやはり仏像や図像で、これらがハイライトになっています。私自身もまず見たかったのは仏像でした。章毎に覚書を兼ねて、ご紹介します。<第1章 大安寺の始まり> 最初の「聖徳太子像」(奈良国立博物館蔵、絹本着色)は剥落もあり殆ど容貌が不明。飛鳥時代の蓮華文軒丸瓦の展示があり、蓮華文の変化に関心があるかないかが展示品に対しての関心の別れ目になるようです。 古墳時代の「家形埴輪」(奈良市埋蔵文化財調査センター藏)がやはりこのセクションでのハイライトです。かつての寺域に入っていた杉山古墳からの出土品。この古墳を大安寺は池井岳と称して、これを背にして南側に大伽藍を造営していたのです。<第2章 華やかなる大寺> 博物館の北面に掲示されていた案内パネルです。ここに今回の眼目である大安寺藏の仏像群が使われていました。この右端の仏像は、上掲の写真にも出ています。「伝楊柳観音立像」(奈良時代8世紀、重文)です。 この仏像の横顔が、購入した図録の表紙に使われています。この図録の説明も随時参照します。楊柳観音という名称に少し違和感を感じました。というのは、この像は磐座に立つ忿怒の相貌で表現されているからです。楊柳観音は三十三観音の一つ。手許の辞典には「薬王観音と同体といい、様々な姿で古来、仏画に描かれてきたが、右手に楊柳の枝を持ち、左手に施無畏印を結ぶ像、または座右の花瓶に楊柳枝をさして水辺の岩の上に坐る姿が流布する。楊柳枝は衆生の願望にしなやかにそうこと、衆病を除こうとする誓いを表し、除病の利益があるものとして、唐以降、中国や日本で信仰された。遺例として、高麗時代の画像が、大徳寺や聖衆来迎寺などに伝えられている」(資料2)と説明されています。 上掲に併せて掲示されているもう一つの案内パネルの右端に位置するのが、 「伝馬頭観音立像」です。同様に、奈良時代(8世紀)の作。重文。こちらも、少しイメージが異なりました。馬頭観音というと、頭上に馬頭を載せ、胸の前で馬口印を結ぶ姿を想起するからです。仏像が定型化される以前の初期密教における馬頭観音像とみる説が有力だそうです。尚、文化財指定の名称は千手観音となっているという説明がおもしろい。この像も忿怒相です。 胸飾りと足元にヘビが巻き付いています。伝馬頭観音立像に対して、左端に立つのが「伝聖観音立像」です。上掲PRチラシの中央上部に立つのがこの像です。これも同様に奈良時代8世紀の作で重文です。PRチラシの方が像容が見やすいと思います。このPRチラシに採りあげられているもう一軀の仏像が「伝不空羂索観音立像」で、造立時期等は同様です。写真をご紹介できませんが「四天王像」4軀が展示されています。こちらも造立時期等は同様です。 「十一面観音立像」で、大安寺の本堂秘仏本尊です。残念ながら、後期には会場に写真パネルが掲示されえてていただけで拝見できませんでした。また、上掲PRチラシに載る「風鐸」と「鬼瓦」は出土品。鬼瓦(個人蔵)は重文だそうです。「奈良時代の初め、平城宮造立の頃から鬼神を表すものが登場し、以後主流となったため鬼瓦と呼ばれている」(図録より)とのこと。 このセクションでもう一つ珍しいのが、この「奈良国立博物館だより」に使われている「陶枕」(奈良文化財研究所藏)です。陶枕の破片が大量に大安寺旧境内から出土したそうです。火災で消滅した金堂跡周辺を中心に約300点もの陶枕片が発掘されているとか。 大安寺を建立した僧・道慈が唐から帰国の際多数の陶枕を持ち帰ったと言われています。唐三彩と絞胎陶の陶枕片が発掘されています。陶枕が日本でどのように使われたかについては諸説があるそうです。興味深いことは、陶枕については南都の諸大寺にも正倉院にも遺例がないとか。それは、かつての大安寺の壮麗さや国際色の豊かさに繋がる事例といえるようです。この「道慈律師像」(奈良国立博物館蔵、絹本着色)は室町時代14~15世紀の作で、 <第4章 大安寺をめぐる人々と信仰> に展示されていました。<第3章 大安寺釈迦如来像をめぐる世界> 大安寺の現在の本尊は上掲の通り、十一面観音立像です。しかし、かつては乾漆造で丈六の釈迦如来像が本尊だったとか。このことから釈迦如来像をテーマとするセクションが設けられたそうです。。奈良・長谷寺藏の銅製「法華説相図」(国宝、飛鳥~奈良時代、7~8世紀)が見応えのある作品でした。東大寺蔵の「倶舎曼荼羅」(絹本着色、国宝)は初めてみる曼荼羅図でした。倶舎宗に関わる諸尊を配した礼拝画像だそうです。普段見る機会のない図像です。 <第4章 大安寺をめぐる人々と信仰> 「義淵僧正坐像」(岡寺蔵、国宝、奈良時代8世紀)がまず目にとまりました。玄昉、行基、良弁など名だたる僧が師と仰いだと言います。上記の道慈も師と仰ぐ一人だったそうです。 京都・神護寺蔵の「弘法大師像」(絹本着色、鎌倉時代、12~13世紀、重文)をここで見ることができました。図録の解説によると、空海と大安寺の間には交流があったことが認められるそうです。 「虚空藏菩薩像」通期で展示されているものと前期・後期で入れ替えのあるものが並存します。この「虚空藏菩薩像」(東京国立博物館蔵、絹本着色、重文)は後期に入替で展示されていたものです。記憶力の増進を祈願する虚空藏求聞持法と呼ばれる密教修法のための本尊画像として制作されたと考えられているそうで、儀軌の記述に一致した画像と言います。 京都国立博物館の常設展示で見慣れている京都・西往寺蔵の「宝誌和尚立像」(平安時代、11世紀、重文)にこの特別展で出会いました。かつて大安寺にはもうひとつの宝誌和尚像があったこととの関連での出展だそうです。記録があるとか。面を裂いてその内側から仏身が現れるという姿を表現しているところに惹かれます。平安時代にこういう形で具現化するのがすごいとみるべきなのか、森羅万象魑魅魍魎を渾然と実感する感性が当たり前だった時代だから自然に生まれた造形なのか・・・・。おもしろいですね。虚空藏菩薩坐像が二軀展示されていました。文化庁蔵と奈良・北僧坊藏でいずれも重文です。文化庁蔵は、奈良時代8世紀、木心乾漆造・彩色の像で、蓮華座に半跏で坐し、施無畏印・与願印の印相を示し、光背の付いた像です。一方、奈良・北僧坊像は、平安時代9世紀、木造・彩色の像で、右手に剣、左手に宝珠を持ち、蓮華座に裙がかかり、左足を踏み下げている像です。かなり雰囲気が異なり、対比して見るとおもしろい。 「行教律師座像」(京都・神応寺藏、平安時代9世紀、重文)です。大安寺で密教と三論を学び、最澄の師でもある行表(724~797)に師事した僧です。行教は京都府八幡市に所在の石清水八幡宮を創建したと言います。石清水八幡宮は数度訪れていますが、このことは知りませんでした。この像、本来は僧形八幡神像として造立された可能性も指摘されていると言います。<第5章 中世以降の大安寺>ここには二組の四天王立像が展示されていました。大分・永興寺蔵と香川・鷲峰寺蔵のもので、いずれも鎌倉時代の作。ともに重文です。第2章に展示の四天王立像(大安寺像)と比べると、やはりその造形がダイナミックな動きを表すようになってきています。 ここで目を惹きつけられたのはやはり国宝「金銅透彫舎利容器」(奈良・西大寺蔵、鎌倉~南北朝時代、13~14世紀)です。 これは博物館の北面に掲示の案内パネルで、この舎利容器の部分を切り取り拡大した画像です。精巧で繊細な金工細工の粋が表出しています。「後世の修理時に補われた台座の補強板の銘により、もともと大安寺に安置されていたことがわかる」(図録より)そうです。大安寺の歴史がわかる特別展でした。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*図録『特別展 大安寺のすべて 天平のみほとけと祈り』 奈良国立博物館 2022*「奈良国立博物館だより 第121号 令和4年4・5・6月」 1) 大日本名所図会. 第1輯 第3編 :「国立国会図書館デジタルコレクション」https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9599062)『岩波仏教辞典 第二版』 中村・福永・田村・今野・末木 編集 岩波書店補遺額塚(興福寺) :「奈良寺社ガイド」大安寺 ホームページhand sign 馬口印(まこういん)とグロリオサの花 :「pamiko Blog」[仏像の見分け方]馬頭観音。最後の観音様 :「でーこんのあちこちコラム」倶舎曼荼羅 :「コトバンク」東大寺 倶舎曼荼羅図 :「奈良県国宝マップ」義淵 :ウィキペディア日本で最初の「僧正」 岡寺について :「岡寺」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 奈良・大安寺とその周辺を巡る -4 大安寺探訪 奈良・大安寺とその周辺を巡る -5 大安寺旧境内僧房跡・大乗院大安寺墓地・杉山古墳・杉山瓦窯スポット探訪 [再録] 奈良 興福寺国宝特別公開2013 南円堂・北円堂観照&探訪 奈良散策 -2 興福寺中金堂と諸堂の眺め 探訪 奈良・興福寺 境内のお地蔵さまほかと境内点描観照 奈良の夕景 興福寺諸堂・猿沢池からの遠望・率川地蔵尊・こんなお話探訪 奈良市 奈良公園周辺散策 -1 興福寺境内・荒池・青田家住宅・福智院ほか観照 奈良市 興福寺境内・奈良公園・奈良国立博物館をちがう目線で
2022.07.03
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北小路通を西に歩み、唐門を通り過ぎて、南西側から撮ってみました。東側の築地塀は修復工事のため覆われています。前面に埒(らち)があるので、唐門全体を撮っても、下部は見えません。唐門の外側はセンサーで常時監視されている表示とさらに立入禁止用のコーンも確か置かれていたので、傍まで近づくことができません。境内内よりアクセスは一層厳しい状態です。これはまあ、修復工事前からですが。少し離れた位置からの観察ですが、できる範囲で細見しつつご紹介します。 外側の木鼻も勿論、獅子像は阿吽形の一対になっています。 唐門の外側上部を正面から眺めますと極彩色が甦った美しさがよく味わえます。 唐破風の中央部の錺金具は、菊花を中心に同じ図柄の唐草文です。兎毛通の形は、猪の目懸魚を左右に引き延ばした様な感じのデザインです。 唐破風が中央の凸曲線から凹曲線に移っていく転換点辺りに、錺金具が取り付けてあります。こちらは中央に五三の桐、その両側に菊花の側面を文様にした形の意匠です。脇懸魚の形は兎毛通と同じです。 唐破風の屋根裏を見上げると、化粧垂木のそれぞれに錺金具が取り付けてあります。黒漆で修復されたばかりですので、表面に鏡面反射が生じて極彩色の装飾彫刻を映しています。 頭貫と虹梁の二段の間は透かし彫りでびっしりと装飾され、正に極彩色に塗り分けられています。 虹梁の上、向かって左(西)側に丸彫りされた獅子像 向かって右(東)側の獅子像は、頭部は丸彫り様ですが、胴部は亀甲文様の上皮部だけの透かし彫りを地の彫刻に重ねているようです。巧みな造形となっています。 中央部の組物(斗栱)は前回のご紹介通りです。組物の色の塗り分けも同一です。虹梁の上の透かし彫りは図柄が境内側とは異なります。対比してみてください。 また、虹梁に付けられた錺金具の文様に菊花がデザインされているのは同じなのですが、その図柄は微妙に異なります。これもまた、対比してみるとおもしろいところです。細見の楽しみなところといえます。 本柱と控柱との間の側面は、丸彫りと透かし彫りを併せた板彫刻で装飾されています。これは向かって右(東)側ですが、外側も中国の故事が題材になっています。「騎乗の黄石公(こうせきこう)が橋の上から沓を川に落とした場面」です。 向かって左(西)側には、「張良(ちょうりょう)が拾い上げた沓を馬上の黄石公に差し出す場面」です。こちらの二場面は、「張良と黄石公」の故事を表したものだそうです。黄石公はわざと沓を川に落とします。一方、張良は夢告によりその橋の下にくるように指示されて居合わせるのです。張良は落ちて来た沓を龍に乗って拾い上げ、黄石公に差し出します。黄石公はその態度を認め、張良に「太公望」の兵書を授けたと言います。(資料1)黄石公は中国、秦末の隠士です。張良は中国、前漢初期の政治家。韓の人。韓が秦に滅ぼされた時、始皇帝の暗殺を図り失敗したという前歴を持つ人。張良は「太公望」の兵書を読み、漢の高祖(劉邦)を助けて秦を滅ぼし、漢の建国・天下平定に尽くしたと言います。統一後、留候に封ぜられます。(資料1,2)唐門の外側と内側(寺の境内)では、中国の故事の取り上げ方の視点が異なります。この外側の故事は、俗世における苦難に耐えて目的を遂げる出世譚、願望成就という俗世の価値観を踏まえています。一方、唐門の内側、寺の境内に使われた中国の故事は、寺という出家後の世界、俗世の欲望からの解脱をめざす清浄な世界に照応した故事が採りあげられています。 これは、張良が沓を差し出す場面の反対側、つまり側面の外側(西面)とその上の豹の丸彫りです。この豹像は前回関連でご紹介しています。 角度を変えて撮ってみました。 頭貫の左右の錺金具の内、向かって右(東)側です。右側は上掲の写真に収まっています。これを前回の同じ位置の錺金具と対比してみてください。微妙に図柄が異なります。本柱と門扉は、埒のすぐ傍までは近づけないので、残念ながら角度的に部分紹介に留まります。 本柱の虹梁と頭貫の中央部です。錺金具の基本的図柄は前回と同様です。外側の頭貫の中央部には、頭貫の上面に孔雀像が丸彫りしてあります。今回は撮れませんでした。頭貫の下の箇所に目を転じてみました。 頭貫と幣軸との間の細長いスペースに龍の透かし彫りが施されています。 門扉が閉じた状態です。左扉の右上角と右扉の左上角は、錺金具が煌びやかな装飾となり、且角部分の補強にもなっています。幣軸の中央部に五三の桐を中央にした錺金具が取り付けてあるのは、前回ご紹介したのと同じですが、その左右の文様が異なります。 こちらが境内側に取り付けられている錺金具です。 向かって左側の扉を例にすると、埒のすぐ近くにもいけませんので、なんとか撮れたのが、埒の上に見える門扉の上端部分の透かし彫りです。通常では桟唐戸の上部は菱狭間や花狭間として、あるいは連子で造形されます。この唐門は、上部が透かし彫りの装飾彫刻に替えられています。それだけ豪華な仕様になっています。 左右の扉の透かし彫り装飾部分これを内側から眺めた透かし彫りとの対応関係を眺めるのも興味深いことと思います。 境内側でご紹介した写真から切り出してみました。透かし彫りの表裏の彫刻の妙を併せてご覧ください。匠の技がその意匠に反映しています。どちらからも自然に見える工夫がすごい。様々な視点からこの唐門を眺めて行くなら、時刻の移ろいとともに日射しの角度も変化していきますので、正に一日眺めていても見飽きないと言える唐門です。日暮門、「ひぐらしもん」とはうまく名付けたものですね。様々な分野の匠、職人の技がコラボしてはじめて完成できた唐門といえます。因数分解するように、この唐門の製作工程を分解し、溯っていけば、どれだけの種類の領域に分かれ、どれだけの匠の技、職人の技が関わっているのでしょう・・・・。逆からみれば、これらの文化財を維持伝承していくには、伝統工芸の知識・技術と伝統工芸の技の体現者の層の厚みを如何に維持発展させていけるか、という側面につながるのでしょう。久々に眺めた唐門です。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1)『西本願寺への誘い』 岡村喜史著 本願寺出版社 p1492)『大辞林』 三省堂補遺お西さん(西本願寺) ホーム-ページ浄土真宗本願寺派 西本願寺 :「真宗教団連合」錺職 :「コトバンク」金物を芳しい表情へと昇華させる錺師の巧手 日本遺産 職人 :「飛騨高山」江戸木彫刻 塩田彫刻店 :「葛飾区伝統産業職人会」大阪欄間工芸協同組合 ホームページ井波彫刻とは 日本全国工芸百科事典 :「中川政七商店の読み物」塗師(ぬし) :「コトバンク」塗師(ぬし) :「若林佛具製作所」東京の匠 #4 「漆塗り」 YouTube建造物漆塗 :「文化遺産オンライン」建造物彩色 :「文化遺産オンライン」建造物装飾 :「文化遺産オンライン」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 諸物細見 -23 京都・西本願寺 唐門 (1) へこちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 [再録] 京都・下京 西本願寺細見 -4 唐門~北小路通からの眺め~
2022.06.30
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ごく最近唐門の修復工事が終わっているということを知りました。調べてみると、文化財指定建造物修復工事として、2018年6月から始まり、2021年9月まで、3年4ヵ月の工期で修復が完了していました。(資料1)そこで、先日来ご紹介してきた2ヵ所のミュージアムでの鑑賞の後に、堀川通を西に渡って、西本願寺の境内に入り、まずは「唐門」を境内側から眺めました。唐門の修復工事の続きに、現在は築地塀の修復工事に入っていて、今は築地塀が囲われていて未だスッキリした状態ではありません。しかし唐門自体は殆ど眺めることができます。勿論、唐門の前には埒(らち)が設けてあります。つまり柵で囲われています。そこで、夾雑物をできるだけ撮りたくないので埒より上の部分の全体をまず撮りました。右下隅に一部が写っていますが、駒札が立っています。表面が透明シートで保護されていて、鏡面反射して建物を写しています。転記します。「唐門は、唐破風という中央が膨らんだ形の屋根をしており、檜の皮で屋根を葺く檜皮葺は唐破風の繊細で見事な曲線を表しています。本願寺の唐門は、二本の親柱の前後に支える控柱を持つ四脚門です。正面に唐破風がくる向唐門の様式となっており、さらにその上に門に平行して棟を作って側面に千鳥破風をつけるのが特徴です。黒漆の上に施された孔雀や唐獅子、麒麟、中国故事といった極彩色の豪華な彫刻や随所に施された錺金具に見入っていると、日が暮れたことも忘れてしまうということから日暮門ともよばれています。」序でに、英文ではどう紹介されているか。こちらもcopyしておきます。唐門は、 Karamon Gate と訳されています。「The Karamon Gate has a roof decorated with undulated karahafu gables. With its elegant curve, the gable thatched with cypress bark is set in the center of the front edge. This prestigious gate is supported by two columns as well as subsidiary pillars that stand in front and back of the main columns. In addition to the karahafu gables, slightly concaved gables are installed on the sides just below the roof ridge. The black lacquered base is decorated with elaborte metalwork and colorful carvings of animals, such as peacocks, and mythical creatures, such as, kirin (fiery house) and shishi (chinese lion). In the side panels, carvings based on Chinese folktales are an added feature. This gate is also called higurashimon or the "all day gate", as people enchanted with its beauty easily lose the sense of time and spend the entire day gazing at it.」 境内側の控柱は角柱です。木鼻は獅子像が彫刻されています。柱頭には大斗、肘木、巻斗が順番に組み込まれ、その上の肘木が屋根の軒桁と虹梁を支持しています。 正面から向かって左(東)側は吽形の獅子像です。 向かって右(西)側は阿形の獅子像です。 東西方向の頭貫の木鼻は牡丹でしょうか。 見上げると頭貫から唐破風の屋根までの全体は極彩色の彫刻で溢れています。 虹梁の中央部上の組物(斗栱)。虹梁の錺金具には菊花がデザインされています。 頭貫の中央部上の組物(斗栱)。頭貫には鳳凰を象った錺金具が取り付けてあります。 中央部の組物の左右は、透かし彫りや丸彫りの彫刻で一面に装飾され、豪華絢爛さを見せています。 頭貫上に空想上の動物がいます。ユニコーンと麒麟です。 頭貫の左右の錺金具は五七桐の文様がデザインされています。控柱と親柱でできる側面の左(東)を眺めると 上部に虎が丸彫りされ、下部には中国の故事の一場面が透かし彫りしてあります。透かし彫りが分かりづらいのは、引き続き築地塀の修復工事で幕が背後に設けてあるからです。これは、「巣父が牛を引いて帰る図」です。 こちらは右(西)側の中国の故事の別場面です。 右側は外側の面も眺めることができます。透かし彫りは丸彫りであることがわかります。こちらは「許由が穎水(えいすい)で耳を洗う図」です。両側の図は相互に関連する中国の故事に由来するようです。許由と巣父はいずれも古代の伝説上の高士です。まず、事の発端は、聖天子と仰がれた堯帝(ぎょうてい)が、許由が高士であることを聞き、天下を譲ろうと許由に言ったのです。いわゆる禅譲するという意思表示です。すると、許由は耳が汚れることを聞いたと、穎水にて耳を洗い、箕山(きざん)に隠遁してしまいます。一方、巣父もまた堯帝から天下を譲られようとして拒絶していました。その巣父が耳を洗っている許由を見て、その汚れた水を牛に飲ませることはできないと言って、牛を引いて帰ったと言います。この故事は栄貴を忌み嫌うたとえです。(資料2,3) 右側面の上部の虎 四脚門ですので、境内の外側にも同様に側面があり、これはその上の豹です。体の文様が異なります。 控柱の下側の貫-側面の下辺になる部分-に対する錺金具です。木材の端面を保護する機能もあるのでしょう。それでは、門扉とその本柱、つまり四脚門の中央部分に目を転じます。 唐破風屋根を支える親柱の頭貫上の蟇股とその左右の彫刻から細部を眺めて行きます。 褪色していた色彩、その極彩色が甦りました。錺金具は、唐草文様の中央に菊花がデザインされています。菊花が尊重されています。 頭貫の下、門扉の上の幣軸の箇所には、五三の桐紋を中央に置いた草花文様の錺金具が見えます。西本願寺がこの地に創建された経緯と豊臣秀吉の関わりがうかがえる気がします。 門扉は桟唐戸です。上部の狭間には咲き誇る花が透かし彫りにされ、表側の透かし彫りの背面になります。丸彫りの動物の裏面がさりげなく見える形です。 右側の門扉の狭間部分の透かし彫りを部分的にクローズアップしてみました。門扉の下部は格子状の区画で、そこには躍動する獅子の様々な姿がレリーフされています。 本柱は円柱です。下端部には錺金具が取り付けてあります。方形の礎石の上に柱が載っています。 境内側は、埒のすぐ傍まで行けますので、その上越しにあるいは埒の空隙から、唐門の細部を撮ることができました。この唐門は、かつては勅使門の役割を持っていたようです。(資料4)唐門の西側には「大玄関門」があります。通常はそちらが使用されたのでしょう。それでは、境内を一旦堀川通の西側歩道に出て、南に下り、境内の南端、北小路通に右折して、唐門を表から眺めます。北小路通は西本願寺とその南の興正寺との間の通りです。堀川通から一筋西の大宮通に抜けることのできるこの北小路通の途中までは両側に両寺の築地塀が続く静かな通りです。つづく参照資料1) 境内と建造物 :「お西さん(西本願寺)」2) 許由巣父 :「コトバンク」3) 『大辞林』(三省堂) 許由、許由巣父、巣父 4)『昭和京都名所圖會 5 洛中』 竹村俊則著 駸々堂 p378補遺お西さん(西本願寺) ホーム-ページ唐門 :「コトバンク」許由巣父図 重文 :「e國寶」許由巣父図 曾我蕭白 三重県立美術館蔵 :「文化遺産オンライン」唐門 中国故事の彫刻 :「いこまいけ髙岡」鎌倉の古建築(寺院編) 唐門 :「唐門の古建築」唐門(日光東照宮) :「THE GATE」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 諸物細見 -23 京都・西本願寺 唐門 (2) へこちらも御覧いただけるとうれしいです。修復工事前の唐門を撮っています。スポット探訪 京都・下京 西本願寺細見 -5 唐門 ~境内からの眺め~、中雀門
2022.06.29
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フロアーの北西隅に、『竹取物語』の「かぐや姫の昇天」場面が具現化され、常設展示されています。以前のブログ記事でご紹介していますので、併せてご覧いただけるとうれしいです。 「大空より、人、雲に乗りて降り来て、土より五尺ばかり上がりたるほどに、立ち列ねたり」と、かぐや姫を迎えに降りてきた場面です。 「飛ぶ車一つ具したり。羅蓋差したり」(飛ぶ車を一つ持ってきている。薄絹で張った天涯を差しかけている。)その車の前には、「王とおぼしき人」が立っています。 王と思われる人の冠を御覧ください。「冕冠(べんかん)」を参考にして具現化されているようです。右の冠は、孝明天皇の即位の儀まで使われてきた冕冠だそうです。(資料2) 一緒に雲に乗って降りてきた天人たちはそれぞれ肩に天の羽衣をかけています。 天人たちの額には、しるしが描かれています。余談ですが、これを見て連想したのが、インドの女性が額につけているしるしです。調べてみますと、「ビンディ」と称するそうです。もとは宗教的意味合いがあったそうですが、今では単なるファッションという色合いが濃くなりおしゃれとして楽しまれているとか。 (資料3) かぐや姫かぐや姫は、8月15日頃の月の出た夜に、自分が月の都の人であることを泣きつつ告白します。 悲嘆にくれる嫗(おうな) 竹取の翁(讃岐の造) 月へ帰って行くかぐや姫の場面がこのように描かれている例があります。(土佐広通、土佐広澄・画)(資料4)物語には、帝が高野大国を勅使に指名し、各役所に命じ六衛の役所を合わせて2000人を竹取の翁邸に派遣したと記していますので、このように描かれているのでしょう。 絵巻にした『竹取物語』の別の例からの抽出引用です。(資料6) 明治21年に出版された「つき百姿」に載る月岡芳年画の「月宮迎 竹とり」です。これもかぐや姫が月の世界に戻っていく様子を描いたものです。(資料4,7)『竹取物語』はかぐや姫の生い立ちから始まります。讃岐の造という竹取の翁が根元が光る竹を発見します。筒の中には三寸ぐらいの人が坐っていました。自分の子となる人だと、自宅に持って行き、小さいので籠に入れて育てます。不思議なことには3ヵ月ほどで適齢期の成人女性に成長します。竹取の翁は竹を取るたびに、黄金の入っている竹を見つけ、しだいに金持ちになり、有力者となっていきます。その子をなよ竹のかぐや姫と命名します。かぐや姫への求婚話に展開していきます。かぐや姫の前に、色ごのみの5人の貴公子が通ってきます。竹取の翁は、5人のいずれかとの結婚話を持ち出します。だが、かぐや姫は、貴公子それぞれに対し、かぐや姫が見たいものをもたらして欲しいという難題を投げかけます。勿論それは貴公子との結婚話を回避したいかぐや姫に作戦です。この課題に貴公子たちがどう立ち向かうかの顛末譚がこの物語のひとつのおもしろさです。5人の貴公子にかぐや姫が与えた難題を列挙しておきましょう。(資料8,9) 石作皇子 天竺の仏の御石の鉢 車持皇子 蓬莱山の玉の枝 阿部御主人 唐土の火鼠の皮衣 大伴御行 竜の首の五色の珠 石上麻呂足 燕の子安貝さらに、かぐや姫の容貌の美しさを聞いた帝は、内侍、中臣房子にかぐや姫を見て参れと命じます。そして、宮仕えをするように話をさせますが、かぐや姫は受けつけません。帝はかぐや姫への歌を詠み、手紙を書いてやりとりをされます。(資料9)5人の貴公子と帝からの求婚及びそれらへの対処プロセスが読ませどころです。最後に、かぐや姫の昇天までの経緯が語られて行きます。帝とのやりとりの間に3年ほどが経ちます。かぐや姫には思いにふける日々がやってきます。月の世界に戻る日が近づいてくるからです。かぐや姫は遂に、竹取の翁と嫗に事実を打ち明けます。帝は竹取の翁の邸を警護する2000人の人々を差し向けるという次第。遂に8月15日の夜が到来し、迎えの人々が車を備えて雲に乗り、天より降りてきます。天人がかぐや姫に天の羽衣を着せると、かぐや姫はそれまでのことを全て忘れ去ってしまいます。そして、月の世界に昇天して行く結果になります。この出迎から昇天までの経緯がストーリー最後の山場になります。(資料8)竹取物語は現存するわが国最古の作り物語で、作者は未詳。成立時期は9世紀から10世紀の初めと考えられています。学識豊かで和歌にも長けた男性が作者だろうと推測される程度のようです。竹取物語で、天人は「もの思ふ心」を持たないとしています。「心」こそが人間の象徴であり、「心」こそが人間と天人との大きな違いと作者は設定しているようです。(資料9)余談ですが、奈良県の広陵町が『竹取物語』のかぐや姫のふるさととして知られています。それは、かぐや姫の育ての親である竹取の翁・讃岐の造が広陵町に拠点を置く豪族であったと、『竹取物語』の出版書で註釈されるようになったことによるそうです。広陵町のホームページには、漫画家里中満智子さんの絵と文による『竹取物語』が掲載されています。勿論、ここにもかぐや姫の昇天シーンのイラストがストーリーのワン・シーンとして載っています。(資料10)最後に、フロアーの南西側にある展示空間に戻りましょう。 等身大の装束展示が行われているスペースです。今回は展示がガラリと変更されていました。3点の装束が展示されています。 「鶴岡八幡宮御神宝」の再現です。これは古神宝に知る十二単の姿だそうです。詳細な説明パネルが置かれています(ここでは省略します)。 唐様を変化させて、日本独自の十二単(じゅうにひとえ)の形式が、平安時代中期に完成したそうです。宮中における成人婦人の正装で、「女房装束」や「唐衣裳」姿といわれています。「十二単」というのは俗称だそうです。平安中期には20枚以上着用することもあったようです。平安末期から鎌倉時代には重ね袿(うちき)を5領までとする「五衣の制」が定められるに至ります。この五衣では季節に応じたかさね色目を装うことが美しさの条件にされたと言います。(説明パネルより) これは20枚の重袿(かさねうちき)を再現したもの。藤原道長の娘の一人、妍子(けんし)は三条天皇(在位:1011~1016)の中宮になりました。皇大后になっていた妍子が万寿2年(1025)正月23日に大饗を主催した時の様子が『栄華物語』巻24「わかばえ」に記されているそうです。万寿2年は、姉の藤原彰子と一条天皇の間の子敦成親王が即位し、後一条天皇(在位1016~1036)であった時代です。妍子は女房たちに柳・桜・山吹・紅梅・萌黄の5色から一人につき3色選ばせ、1色につき5枚ずつ、または6枚ずつ、多い者は7枚ずつも袿を重ねたので、重ね袿は15~20枚に及んだと言います。この重袿の再現は、 柳の重ね色目 (表:白・裏:青) 山吹の重ね色目(表:山吹・裏:黄) 紅梅の重ね色目(表:紅梅・裏:蘇芳)の3色を重ねたものです。 (説明パネルより) これで今回の展示を一巡したことになります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 竹取物語 [かぐや姫]「かかるほどに、宵うち過ぎて」 :「学ぶ・考える.com」2) 冕冠 :ウィキペディア3)おでこの真ん中についているアレはなんですか? :「インド家庭料理ラニ」4) 竹取物語 :ウィキペディア5) 竹取物語 [かぐや姫]「このことを帝、聞こしめして」 :「学ぶ・考える.com」6) 竹取物語.下 :「国立国会図書館デジタルコレクション」7) つきの百姿 月宮迎 竹とり :「国立国会図書館デジタルコレクション」8)『クリアカラー 国語便覧』 監修:青木・武久・坪内・浜本 数妍出版 p100-1019) 竹取物語 [かぐや姫](原文・現代語訳) :「学ぶ・考える.com」10) 「『竹取物語』のかぐや姫」と 広陵町 :「広陵町」補遺竹取物語絵巻デジタルライブラリ ホームページ(立教大学)貴重資料(九大コレクション):竹取物語絵巻 :「九州大学附属図書館」月岡芳年 :ウィキペディアなぜ広陵町が「かぐや姫のふるさと」とされるのか? :「広陵町」奈良のむかしばなし かぐや姫 :「県民だより」十二単の変遷 :「日本服飾史」(風俗博物館)十二単 :「コトバンク」【十二単着付け】千年以上続く着付け技術を特別公開 前編 YouTube【十二単着付け】千年以上続く着付け技術を特別公開 後半 YouTube平安装束体験所 - Heian Costume Experience Studio YouTube曲水の宴 十二単の行列 平安時代を再現 太宰府天満宮 平成31年3月 YouTube藤原妍子 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -1 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -2 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -3 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -4 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -5 へこちらも御覧いただけるとうれしいです。探訪&観照 風俗博物館(京都) -4 竹取物語・等身大の時代装束展示観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -5 六条院の日常と竹取物語
2022.06.27
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東の対の北西隅の局には、「平安の遊び」の一つとして、女房たちが碁を楽しんでいる場面が具現化されています。この後は、「五節句のルーツをたどる」というテーマから、平安時代の貴族社会での日常生活に視点を移します。その一つが、「遊び」です。 碁は上代に中国から伝来した盤上遊戯です。囲碁という言葉を使いますが、これは碁の漢語的表現です。辞典を引くと、「碁」とは「盤上に縦横それぞれ19本の線を引いて出来る361個の交点の上に、双方の競技者が黒と白の石を交互に置いて行き、最終的に自分の石で囲んだ領域が広い方を勝とする遊戯」(『新明解国語辞典』三省堂)と説明しています。平安時代には、男女を問わず盛んに行われたようです。『源氏物語』にも、各所で碁の場面が描かれています。「空蝉」の巻では、「なぞ、かう暑きにこの格子は下ろされたる」と問へば、「昼より西の御方の渡らせたまひて、碁打たせたまふ」という小君と年配の女房たちのやり取りを聞き、光源氏が碁を打つ様子を垣間見たくなります。光源氏は簾の隙間に入りこみ、空蝉と軒端萩が碁を打つ場面を垣間見ます。碁を打つ二人の様子が手許の本では2ページに及ぶ具体的な描写になっていきます。その後、光源氏は空蝉の寝所に忍び、空蝉には逃げられて軒端萩と契るという顛末になるのはご存知の通りです。(資料1)空蝉と軒端萩が碁を打つ場面を光源氏が垣間見る場面は、『源氏物語画帖』や『絵入源氏物語』などに描かれています。補遺を御覧ください。「竹河」の巻には、蔵人少将薫が、内侍の君・玉蔓邸で姫君たちの囲碁を隙見する場面が描かれています。姫君たちの容姿を描写した後に、「碁打ちたまふとて、さし向かひたまへる髪ざし、御髪のかかりたるさまども、いと見どころあり」(お二方が碁をお打ちになるというのでさし向いになっていらっしゃる。その御髪の、生えぎわや、垂れ下がっている様子などは、まったくおみごとなものである。)と記され、姫君の兄君たちが登場する場面になっていきます。(資料2)『源氏物語絵巻』「竹河」の巻には、次の場面が描かれています。(資料3) 左端に、姫君たちの碁を打つ姿が。それを蔵人少将薫が右端から隙見をしています。 部分拡大してみました。勿論、男だちも囲碁を楽しみます。『源氏物語絵巻』「宿木」の巻では次の場面が描かれています。(資料3) この場面では、右の方に碁を打つ場面が描かれています。「宿木」の巻の冒頭に近いところで出て来ます。帝が女二の宮の部屋にお出かけになり、女宮の行く末をどうしたものかと思い、女二の宮と薫の縁組についてお考えになります。また「碁など打たせたまふ」(帝は女宮と御碁などをお打ちになる)のです。男と女の間でも碁が打たれることが書き込まれています。日が暮れて行きます。帝は、ふと殿上に誰かいるかと尋ねられます。その時、3人が伺候しており、その中に中納言源朝臣(薫)がいたのです。帝は中納言源薫を呼び出します。藤壺女御が死去した喪中でもあり、時雨の日に管弦の遊びも気乗りしない故に、「『これなんよかるべき』とて、碁盤召し出でて、御碁の敵に召し寄す。・・・・さて打たせたまふに、三番に数一つ負けさせたまひぬ。」(「これがいちばんよかろう」とおっしゃて、帝は碁盤をお取り寄せになり、御碁のお相手に中納言をお召しになる。・・・・・三番のうち帝が一番お負け越しあそばした。)(資料2)つまり、帝と薫が碁を打っている場面です。この場合、垣間見をしているのは女二の宮ということになりますね。このとき、帝は薫と女二の宮の縁組を画策しはじめたようです。「『よき賭物(のりもの)はありぬべけれど、軽々しくはえ渡すまじきを、何をかは』などのたまはする御気色」(「よい賭物(かけもの)があるはずだが、そう軽々しくは渡すわけにもいかないのだから、さて何がよかろう」などと仰せになる御面持ち)と思わせぶりな帝の思いがここに挿入されています。(資料2)碁は宮中や貴族たちの日常の遊びに浸透していたようです。 局の一隅には、さりげなく「伏籠」(ふせご)が置かれています。これは女房たちの日常生活の一コマです。伏籠は衣服に香りをうつすための竹または金属でできた籠です。火取の上に籠を伏せ、その上に衣服を掛けます。火取は香を焚くための道具で、火取母(ひとりも)・薫炉(くんろ)・火取籠(ひとりご)から構成されています。種々の香料を調合したものが薫物(たきもの)です。(資料4)日常生活で香りが重視されていた証でしょう。たぶん西欧における香水の役割と同じような役割を担っていたのでしょう。 寝殿の北の孫廂に設けられた局の一つでは、女房が「偏つぎ」遊びに興じています。これは、主として女性や幼い子が漢字の知識を競い合った遊びです。偏(へん)と旁(つくり)が二分されていて、この分かれた札を使って遊ぶという教育的遊戯です。この遊びの実態については諸説があるようです。(資料4) *漢字の偏に旁を付けて、文字を完成させる。 *ある旁に偏をつけて訓みを答えさせる。 *偏や旁の一方を隠して漢字を当てさせる。 *詩文の中のある漢字を偏だけにしておいて解釈させる。 *ある偏のつく漢字を文中より早く拾い出す。 *ある偏の付く漢字を文中より早く拾い出す。 *ある偏の付く字をいくつ知っているか書き継がせて競う。などです。どれも実際に遊ばれていたように思えますね。 碁や偏つぎが、『源氏物語』「葵」の巻には、思わぬ文脈の中で書き込まれています。「つれづれなるままに、ただこなたにて碁打ち、偏つぎなどしつつ日を暮らしたまふに、心ばへのらうらうしく愛嬌づき、はかなき戯れごとの中にもうつくしき筋をし出でたまへば、思し放ちたる年月こそ、たださる方のらうたさのみはありつれ」(手持ち無沙汰に、ただこちらで碁を打ち、偏つぎなどをしては日を暮らしていらっしゃると、姫君は、ご気性が利発であふれるような魅力をたたえ、たわいない遊戯をしていてもみごとな筋をお見せになるので、そうした相手とは思ってもみなかったこれまでの年月は、ただ子供子供したかわいらしさだけを感じていたのだったが)(資料5)碁や偏つぎをする中で、光源氏の意識転換が起こるという文脈に位置づけられています。それが光源氏を紫の上と新枕をかわす形に導いていくという次第。 女童が両手に札を持っています。女房と一緒に偏つぎ遊びをしていたのでしょう。そこへ女房がお菓子を持ってきたようです。柏餅のように見えますが・・・・。 女房たちの日常で不可欠なのが、身嗜みです。この場面は展示の定番になっています。寝殿と東の対を結ぶ渡殿には女房たちの部屋・局(つぼね)が設けられています。女房たちが局で黒髪の手入れをしている場面です。平安時代の女性の美しさを評価する条件の一つとして、頭髪が大きな比重を占めていました。豊かで長く美しい黒髪がもてはやされたそうです。王朝女性の美の基準とされました。『源氏物語』「帚木」の巻には、頭中将が女の三階級論を語るところから雨夜の品定めが始まります。その論議の中に女の頭髪についても論じられています。(資料1)「また、まめまめしき筋を立てて、耳はさみがちに、美相なき家刀自の、ひとへにうちとけたる後見(うしろみ)ばかりをして」(そうかといって、家事一点張りで、額髪を耳挟みがちにして、美しげのかけらもない世話女房が、ただひたすら見ばえ抜きの世話ばかりして)額髪を耳挟みがちにする姿を美しくない、興ざめする例と、左馬頭が述べています。また、「初音」の巻で、光源氏が玉蔓を訪れた後、花散里のところに立ち寄り、二人の間に置かれた御几帳を光源氏が少し押しのけても花散里は隠れようともせず、そのままにいらっしゃるので、光源氏は花散里のお召し物と髪を眺めて、「御髪などもいたく盛りすぎにけり、やさしき方にあらねど、葡萄鬘してぞつくろひたあまふべき、我ならざらん人は見ざめしぬべき御ありさまを、かくて見るこそうれしく本意あれ」(御髪などもひどく盛りを過ぎているのだった。『みっともないというほどではないとしても、かもじを添えて手入れなさったらよかろうに。これが他の男だったら、連れ添う気持もさめてしまいそうな御様子であるけれど、こうして世話をしていることがうれしいのだし、それが自分としても満足なのだ』)と頭髪について感じているところが記されています。 (資料2) 「東屋」の巻にも黒髪を梳く場面が描かれています。 中の君が背を向けて黒髪を梳らせていて、浮舟を慰めるために、右近に詞書を読ませています。浮舟は思わず見入っていくという場面です。浮舟は偶然匂宮に見つけられて言い寄られ困惑するという事態の後の展開場面です。「絵など取り出させて、右近に詞読ませて見たまふに、向ひてもの恥ぢもえしあへたまはず、心に入れて見たまへる灯影、さらにここと見ゆるところなく、こまかにをかしげなり。」(姉君が絵などを取り出させて、右近に詞を読ませ、それをごらんになると、この妹君も向い合って、もう恥ずかしがってはいらっしゃれず、熱心に見入っておいでになる。) (資料5)今回の資料には、鎌倉時代の絵巻物『男衾三郎絵詞』が紹介されています。吉見二朗と男衾三郎の二人の物語です。三郎は兄が盗賊に殺されると、兄の領地を奪い、妻の言うままに兄の娘を下女として使います。赴任してきたばかりの国司が、その下女に目を止めます。国司がその下女を妻にと望むと、三郎の妻は自分の娘を着飾らせて引き合わすのです。それに対し、国司は年が明けても返事をしないというあらすじのようです。三郎の妻とその娘は、縮れ毛だったとして描かれています。当時の価値観では縮れ毛は醜女とみなされたというお話です。(資料6) これはウィキペディアからの引用です。縮れ毛の容姿がユーモラスに描かれています。それでは、七夕の節句、乞巧奠とも関連する、平安女性の務めだった装束の誂えである裁縫という側面です。これは以前にも採りあげられているサブ・テーマでもあります。その折ご紹介をしていますので、補完できる形で触れていきたいと思います。「帚木」の巻の雨夜の品定めで、左馬頭はすべてをまかせられる本妻ならということで、「はかなきあだ事をも、まことの大事をも言ひあはせたるにかひなからず。竜田姫と言はむにもつきならず、織女(たなばた)の手にも劣るまじく、その方も具して、うるさくなむはべりし」(たわいのない趣味上のことでも、あらたまっての要件でも、相談しがいがあり、染物の腕前は竜田姫といっても不似合いではなく、仕立物のほうもたなばた姫にも劣らぬくらい、そういう面でも堪能の、たいした女でございました。)と語っています。染物や仕立て、裁縫に秀でていることが平安女性に求められていたということでしょう。(資料1) 染槽(そめぶね)を使い糸を染める作業。(説明パネル、資料7。以下同じ) 左の女房は布を裁つ作業をしています。刀子を手に、栽板(たちいた)の上に体重をかけて布を裁つ様子です。右の女房は、砧を打つ打ち物の作業をしています。織り上げた絹の織物は、織機から下ろしたままだと堅くてなじまないので、円棒に巻き、軸を回転させながら木槌で何回も打って柔らかくし、光沢を出します。 この女房は「ひねり」という工程を担当。当時は、単(ひとえ)仕立ての裁ち生地の端を、もち米を練って作った糊(続飯)をつけ、絎けずに「ひねる」という仕立てをしました。『源氏物語』の中では、浮舟がこの「ひねり」を得意としたと記されています。 裁縫 女房2人が組みになって反物の整理(地直し)作業をしています。 こちらの2人は、防寒のために装束に綿入れするための作業をしています。細櫃に綿をひきかけて綿入れの準備をしているところです。 色とりどりに染められた反物が櫃に収められています。 『源氏物語』「早蕨」の巻での場面です。宇治の中の君が都の匂の宮の二條院に移ることになります。本文に具体的な描写はなさそうですが、地直しや新しい装束の縫い物など、移る準備の様子が描かれています。(資料3)六条院春の御殿を様々な場所、様々な季節に見立てた展示を一巡したことになります。つづく参照資料1)『源氏物語 1』 日本古典文学全集 小学館 p118-122, p63-64, p762)『源氏物語 3』 日本古典文学全集 小学館 p75-76, p376-3783) 源氏物語繪巻 :ウィキペディア4)『源氏物語図典』 秋山虔・小町谷照彦 編 須貝稔 作図 小学館5)『源氏物語 5』 日本古典文学全集 小学館 p69-726) 男衾三郎絵詞 :ウィキペディア7)「五節句のルーツをたどる・平安時代の年中行事」風俗博物館 当日入手の小冊子補遺風俗博物館 ホームページ源氏物語 巻三・空蝉 :「古典籍総合データベース」(早稲田大学図書館)男衾三郎絵巻 :「e國寶」砧 :ウィキペディア綿入れとは :「きもの用語大全」打衣とは :「きもの用語大全」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -1 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -2 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -3 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -4 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -6 へこちらも御覧いただけるとうれしいです。観照 風俗博物館 2018年前期展示 -3 七夕・文月の年中行事、局・女房の日常観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -5 六条院の日常と竹取物語観照 京都・下京 風俗博物館 2020年の展示 -3 歳暮の衣配り・平安王朝の美意識ほか観照 京都・下京 風俗博物館 2021年の展示 -4 遊び~絵合・碁・偏つぎ~、黒髪
2022.06.25
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9月9日の「重陽の節句」は現在、民間行事として行われることはほとんどないようですが、その一端は菊まつりという形で受け継がれています。中国の陰陽思想では、奇数は陽、偶数は陰とされます。9は最大の陽でめでたいのですが、9月9日はその9が重なり、重なると逆に邪気を生じるとして、それを祓う行事を行うようになったそうです。この重なりを重陽と呼びました。漢代にはすでに節会として確立していたと言います。宴会を行い、菊酒を飲んで茱萸(ぐみ)袋を身につけたそうです。(資料1)旧暦9月9日、宮中では「重陽節会(ちょうようのせちえ)」「九日節会」が行われてきました。日本では、「長久の意もあるとして珍重された」(資料2)という側面もあるようです。旧暦9月は菊の花が盛りの時季でもあり、菊と重陽が深く結びついていきます。この日の宴(うたげ)を「重陽の宴(えん)」といいます。菊の花を観賞したり、不老長寿の効果があると言われる菊酒を飲んだりします。「菊花の宴」とも言ったそうです。宴の間に、庭の舞台では国栖(くず)の奏、内教坊の舞技の奏等が披露されたと言います。また夜には、宮中に文人らが参集し詩歌を作りました。(資料1,2)「菊は中国の伝説によると、菊の露が落ちて流れる水が霊薬となり、その水を飲んだところ不老長寿を得たという。このことから、重陽に菊酒を飲み長寿を願うという習慣が始まったとされる」(資料1)そうです。観世流の能には「菊慈童(きくじどう)」という演目があります。「菊慈童」について「周の穆王(ぼくおう)に仕えた侍童。罪あって南陽郡の酈県(れきけん)に流され、その地で菊の露を飲み不老不死の仙童となったという。慈童」(『大辞林』三省堂)と説明されています。この伝説を脚色したのが能の「菊慈童」です。菊は不老不死と繋がっていました。 この場面では、寝殿の東の対が紀伊国(現在の和歌山県)にある吹上の宮で行われた菊花の宴に見立てられて、具現化されています。『源氏物語』より以前、作り物語の先駆けとなる一つ『宇津保物語』「吹上・下」の場面だそうです。嵯峨院と紀伊国牟婁郡の土豪である神南備種松(かんなびたねまつ)の娘であった女蔵人(にょくろうど)との間に、男児が生まれました。その子が源氏の君(源涼 みなもとのすずし)ですが、母が早逝し、祖父の神南備種松により養育されます。吹上の宮は、源氏の君のために建てられた絢爛豪華な邸宅でした。女蔵人が早逝したことで、嵯峨院は源氏の君の存在を知らなかったのです。吹上の宮の素晴らしさを聞いた嵯峨院は、その年の重陽をこの吹上の宮で過ごすことに決めました。それが父子の邂逅の場になるという次第。 背を向けているのは源涼です。 嵯峨院9月9日の早朝に、菊の花を献上した源氏の君(源涼)が嵯峨院の長寿を寿ぐ歌を歌っている場面が具現化されています。(資料1)その後、ここで「酒宴が始まり、文人たちが漢詩を作り、文書博士が講師の役を勤め詩を読み上げるという、重陽節会と同様の儀式」(資料1)が行われます。 菊酒が運ばれてきます。菊酒は、菊を浸したり花びらを浮かべたりしたお酒です。長寿を祝う習慣として飲まれました。菊は別名を「翁草」「齢草(よわいくさ)」などといい、古くから不老長寿の薬効があるとされてきました。(資料1) 高欄の傍に、引き出物が準備されています。 廂の間には、宴の準備や様々な下賜品となる品々が用意されています。 女官(女房)が控えています。藤原道長の『御堂関白記』の9月9日の条を抽出して行きますと、いくつかのことが分かってきて、興味深いものです。(資料3)以下、日付を省略して関連箇所を抽出してみます。寛弘元年(1004) 一条天皇は「出御は行なわない。重陽節会は、例年どおり行いなさい」 とおっしゃった。・・・・同四剋に宜陽殿の座に着した。 清涼殿において作文会があった。・・・・式部大輔が、詩題を献上した。「菊は、九日の 花とする」であった。寛弘2年(1005) 内裏で重陽節会の平座の宴を行なった。夜に入って、作文を行なった 題は、「菊は花の聖賢である」であった。寛弘4年(1007) 重陽節会は、常と同じであった。一条天皇の御製を初めとして、皆、 律詩を作った。師(藤原伊周)一人が、絶句を作った。寛弘7年(1010) 霖雨によって、重陽節会を停止した。・・・・然るべき者十余人が会合して 作文を行なった。題は「菊はこれ、花中の主である」であった。<心を韻とした.> 寅剋の頃、披講が終わった。(大江)為清朝臣が、序を作った。長和元年(1012) 「宜陽殿に重陽節会の平座が有った」ということだ。見参簿を奏さ なかった。これは諒闇によるものである。長和4年(1015) 「重陽節会の平座について、源中納言(源俊賢)が奏上して行なった ということだ。長和5年(1016) 源中納言(源俊賢)が参入して、重陽節会の平座を行なうことを申さ せてきた。いつものように行なうよう命じた。「蔵人頭たちに伝えるように」と云っ た。見産簿を奏上してきたことは、いつものとおりであった。見参簿を返給した。寬仁元年(1017)重陽節会の平座を、源大納言(源俊賢)を上卿として行なった。寬仁3年(1019) 重陽節会の平座に際して、後一条天皇の出御は無かった。このシリーズで『御堂関白記』を調べていて、気づいたことがいくつかあります。*宮中の節会においては詩歌を詠むのが行事になっているようです。それを道長は作文会と記しているようであること。*重陽節会でも道長が常に列席している訳ではなさそうであること。*「重陽の平座の宴」という表現が繰り返し出てきます。参照資料ではその日の条に重陽平座という見出しがつけてあります。「重陽平座」って何? 手許の『有職故実』を参照し疑問が解けました。 「当日、天皇、古くは神泉苑乾臨閣(けんりんかく)に出られたが、後には、紫宸殿に出御になり、群臣に宴を賜った。・・・・・この宴が停められた時は、上卿が宜陽殿の平敷の座に着いて、酒の中に菊花を浮かべた菊酒を、群臣に賜はった。これを平座といった。」(資料2)と説明されています。上記、1012年の条に伝聞記録としている箇所と一致して、なるほど・・・です。宜陽殿は紫宸殿のすぐ東側にある建物です。 「平安時代初期に節会として恒例化し、嵯峨天皇(在位:809~823)の時代に神泉苑で行われていた重陽節会は、次の淳和天皇(在位:823~833)の時代より紫宸殿で行われるようになった」(資料1)という説明もあります。 菊の着せ綿「平安時代、宇多天皇(在位:887~897)の時代から菊の着せ綿という習慣が始まった。これは前日の8日の夕方に綿を菊の花にかぶせ、その菊の露に濡れた綿で9日の朝に肌を撫でると、老を棄てるというものである。この風習は平安貴族の女房の間で多く行われてきた。」(資料1)つまり、菊の花そのものではなく、宿った露や菊を浸した酒が重要視されたことになります。菊の花に綿をかぶせることは、近世まで宮中で行われてきたそうです。(資料1) 几帳に掛けられているのは「茱萸(ぐみ)袋」です。端午の節句には、几帳に「薬玉」が掛けられました。重陽の節句の当日、「薬玉」は「茱萸袋」に掛け替えられるそうです。「この日、薬司から茱萸の実を献じ、これを盛った嚢を御帳の左右に懸け、5月5日の節会の時に懸けた薬玉と取りかえる。この日に、こんなに茱萸の実を珍重するのは、中国の故事に拠ったもの」(資料2)であるという説明もあります。茱萸袋は、呉茱萸(ごしゅゆ)というミカン科の植物の果実を赤い袋に入れたものです。呉茱萸の強い香りで邪気を祓うという意味があるとか。呉茱萸は山椒に似た実をつけ、現在も漢方薬として用いられているそうです。(資料1) 「菊の着せ綿」についてですが、江戸時代の頃になると綿をかぶせることに明確な規定が出来ていたそうです。『後水尾院当時年中行事』などに、「白い菊には黄色の綿を、黄色の菊には赤色の綿を、赤い菊には白い綿を覆う」という記述がみられるようになったとか。(資料1)なぜ、煩雑にするのでしょう・・・・・。菊の花の色を識別する必要があるのでしょうか・・・・。このフロアには、「東の対」の建物が部分的に縮尺再現されています。上掲「重陽節会」を具現化した場面は、孫廂と廂の一部が見立てに使われました。 こちらは縮尺再現された東の対の北側の部分です。今回、ここでは、「四季のかさね色目に見る平安王朝の美意識」というテーマで、平安王朝の女性の装束のミニチュアが展示されています。かさね色目の装束展示は、この風俗博物館の定番展示の一つです。今回は、以前に拝見し既にご紹介した装束以外にも、3点新規のかさね色目の装束が展示されていました。私にとって新規拝見の装束には、入手資料等を参照し説明を付記したいと思います。(他は以前にブログ記事でご紹介していますので重複記載を避けたいと思います。過去ブログ記事を御覧いただけるとうれしいです。)東の対の襖障子が開けられ西廂の側に展示されているかさね色目の装束を、四季の移ろいに合わせた展示に沿って、眺めて行きましょう。 打出かさね色目に関係しますが、最初に展示されているのがこれです。 女房が装束を着ている状態とまず対比して眺めてください。そこで「打出(うちいで)」についてです。(2019年2月撮影)このように、母屋や対屋の御簾の下から、女房装束の袖口などを少しはみ出させて、かさねの色目を見せて、華やかさを演出するのを「打出」というそうです。上掲の写真は打出に使う、いわば小道具です。几帳の柱を支えにして、重ねた装束を人が着ているかのように形づくっています。「帳(とばり)ごと几帳を抱え込むようにして絞り、左右の袖口から出した裳の紐(小腰)で結んでとめます。」(パネル説明を一部転記)その袖口などをはみ出させ、実際に着飾った女房たちと組み合わせれば、大勢の女房が居並ぶ華やかさが演出できますね。几帳がいくつもあるのは普通ですから、不自然にみえないセッティングはいくらでも可能でしょう。おもしろい工夫です。 着用時期 四季通用・祝い 松かさね 着用時期 旧暦11月~2月 梅かさね 着用時期 旧暦11月~2月 桜かさね表地が白、裏地が赤花のかさね色目。裏表の「布」のかさねで極めて多く用いられ、好まれたかさね色目。夕暮れに仄白く浮かんで見える桜の美しさを象徴的に表しています。裏地については、濃(こき)色・葡萄(えび)色・二藍(ふたあい)など諸説があるそうです。(パネル説明より) 着用時期 旧暦4月~5月 若菖蒲かさね端午の節句に使用するサトイモ科の菖蒲の「根」と「葉」の色の対比を表したかさね色目。緑に色づいた葉先より根に近づくに従い白くなり、根本は鮮やかな紅梅色となり、白い根に繋がるという色のかさね方です。菖蒲(しょうぶ)の音が「尚武」「勝負」に通じ、菖蒲の葉の形が剣を連想させることから、後世には男の子の成長を祝う行事になって行きます。(パネル説明より) 着用時期 旧暦7月~8月頃 女郎花(おみなえし)かさね秋の七草の一つになっている女郎花の花のような緑味を帯びた黄色を表しています。表が黄色で裏が青の袿(うちき)を5領重ねるというものです。(パネル説明より) 着用時期 旧暦10月~11月頃 黄菊かさね菊は二度愛でられます。最初は重陽の節句で、花盛りに厄除けの花として。二度目は、「移ろひ盛り」を愛でるのだそうです。花の盛りが過ぎて色が赤紫に変色していく、黄菊の移ろう様子を愛でるというもの。四季の花の霊験を願ったかさね色目だそうです。(パネル説明より) 着用時期 旧暦11月中旬~春頃 雪の下かさねさて、こんなところで、次は風俗博物館の定番といえる範疇の展示を眺めましょう。つづく参照資料1)「五節句のルーツをたどる・平安時代の年中行事」風俗博物館 当日入手の小冊子2)『有職故実 上』 石村貞吉 嵐羲人校 訂 講談社学術文庫 p329-3323)『藤原道長「御堂関白記」』 上・中・下 全現代語訳 倉本一宏 講談社学術文庫補遺重陽 :「ジャパンナレッジ」重陽の節会【虚空蔵法輪寺】 :「京都観光Navi」菊慈童/枕慈童 :「能サポ」(檜書店)演目事典 枕慈童 :「the 能.com」呉茱萸 (ごしゅゆ) :「季節の花300」茱萸 (ぐみ) :「季節の花300」呉茱萸湯(ゴシュユトウ) :「ツムラ」第60回 漢方処方解説(26)呉茱萸湯 :「名城大学」色彩と文様 代表的な重色目 :「日本服飾史」(風俗博物館)有職の「かさね色目」 :「綺陽装束研究所」【平安の色彩 かさね色目】 日本の伝統色 草木染 Threads dyed with plants - Japanese traditional color - YouTube【平安の色彩 かさね色目】 花橘かさね Layering of citrus colors YouTubeかさねの色目 小さなお話 :「虎屋」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -1 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -2 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -3 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -5 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -6 へこちらも御覧いただけるとうれしいです。観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -6 四季のかさね色目・「晴れの日の正装」観照 京都・下京 風俗博物館 2021年の展示 -5 香爐峰の雪、平安王朝の美意識
2022.06.23
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5月5日は「こどもの日」。そのルーツは「端午の節句」です。この端午の節句には、年中行事として、騎射(うまゆみ)が行われました。「左右に分かれて馬に乗り順次馬を走らせて弓で的を射る競技」(資料1)です。冒頭のこの写真は、説明パネルに載っている『年中行事絵巻』巻八騎射(田中家所蔵)を切り出したものです。 国立国会図書館のデジタルアーカイブスを調べますと、この騎射の場面を見つけました。(資料2)旧暦5月5日には宮中で「端午節会(たんごのせちえ)」が行われていました。葉が鋭い剣の形で香りが強い菖蒲が邪気を払うとされ、様々に用いられたそうです。「宮中では、節会において菖蒲で作ったかぶり物を頭につけたり、菖蒲や蓬(よもぎ)を材料に薬玉を作って柱に吊したりした。屋根に菖蒲を並べて葺くという風習は宮中から庶民に至るまで広く行われていた」(資料1)とのこと。『枕草子』第36段の冒頭に、清少納言は「節は、五月にしく月はなし。菖蒲、蓬などおかをりあひたる、いみじうをかし。九重の御殿の上をはじめて、言ひ知らぬ民のすみかまで、いかで、わがもとにしげく葺かむと、葺きわたしたる、いほめづらし。いつかは、異をりに、さはしたりし。」と述べています。(節供は、五月五日のそれに及ぶものはない。菖蒲や蓬などがともども高い香りを放っている風情がすばらしい。禁中の大きな御殿の軒をはじめとして、ごく下々の賤しい者の小屋にいたるまで、なんとかして自分の所にほかよりたくさん葺こうと、まるで競争のように、世間どこでも一面に葺きわたしている光景は、やはりなんと言っても、目馴れぬおもしろさだ。いつ、ほかの節供に、そんなことをしたろう。)(資料3)「節会」とは、「季節の変わり目の節目や重要な公事(くじ)のある日に諸臣を朝廷に集めて、天皇が出御して賜る宴会のこと」です。(資料1)「端午の『端』は初めの意味で、中国では月の初めの午の日とされ、後に『午』と『五』との音通などにより旧暦5月5日に定着した」と言います。中国では5月を悪月と考えていたそうです。「5日には百草を摘む野あそびや蓬で作った人形を門戸にかけて邪気を払い、菖蒲酒を飲み、競渡と称して競漕を行うなどして、様々な邪気払い行事が行われ、これが変化して日本に取り入れられた」(資料1)のです。 源氏36歳の夏源氏の邸、六條院夏の御殿(花散里が住む)には馬場殿と馬場が設けてあります。源氏は「端午の節句」にこの馬場で騎射の行事を催します。その準備に馬場殿(ばんばのおとど)に出向いてきます。源氏は、それにかこつけて西の対に住む玉蔓のところに立ち寄ります。 右近(玉蔓の乳母) 西の対を訪れた殿(源氏)に応対する乳母の右近源氏は直衣出衣(のうしいだしぎぬ)姿です。指貫(=袴の一種)は二藍又木文、直衣は二藍唐草文で、立烏帽子を被っています。『源氏物語』蛍の巻には、源氏の姿を見た玉蔓の感想を次のように記しています。「艶も色もこぼるばかりなる御衣に直衣はかなく重なれるあはひを、いづこに加はれるきよらにかあらむ、この世の人の染め出だしたると見えず、常の色もかへぬあやめも、今日はめづらかに、をかしくおぼほゆる薫りなども、思ふことなくは、をかしかりぬべき御ありさまな」(艶も色合いもこぼれるばかりのおみごとなお召物に直衣を無造作に重ねられた取り合わせも、いったいどこにどう付け加えられた美しさなのだろうか。とてもこの世の人間わざの染めあげたものとは思われないし、ふだんの直衣の色変りのない文目も、菖蒲の節句の今日は格別に目新しく感じられ、風情深い薫衣香の薫りなども、もしこうした心配事がないのだったら、どんなにかすばらしく感じられたにちがいない御有様であることか。)(資料4) 女童が贈られてきた薬玉(くすだま)を玉蔓の許に届けようとしています・ 女童は、正装の汗衫(かざみ)姿。濃(こき)小袖、濃長袴、表袴(うえのはかま)、単(ひとえ、濃色)、袿(うちぎ)、表着(うわぎ)、汗衫という衣裳です。 蛍兵部卿宮(=光源氏の異母弟)からは立派な菖蒲の根に結ばれた懸想文と薬玉が届きます。懸想文は「白き薄様に」(白い薄様の料紙に)奥ゆかしく記されていて、「例にも引き出でつべき根に結びつけたまへれば」(後々の語りぐさにもなりそうな、立派な菖蒲の根に結びつけてお送りになったので)と記しています。これはその薬玉。 玉蔓は袿(うちぎ)姿。濃(こき)小袖、濃長袴、五衣(いつつぎぬ)は白撫子(なでしこ)重ね、袿は赤地唐草文という衣裳です。 几帳に薬玉が掛けてあります。清少納言は上記第36段の続きに記します。(資料3)「空のけしき、曇りわたりたるに、中宮などには、縫殿より、御薬玉とて色々の糸を組み上げてまゐらせたれば、御帳立てたる母屋の柱に左右に付けたり。・・・・また薬玉は菊のをりまであるべきにやあらむ。されどそれは、皆、糸を引き取りて、もの結ひなどして、しばしもなし。」(空の一面に曇った、そんな天候がうってつけなのだが、中宮の御所などでは、縫殿から、中宮の御用の薬玉ということで、いろいろの糸を組んで垂らして献上するので、御帳台を立てた母屋の柱に、左右に掛けておく。・・・・・一方、この薬玉は、今度は九月九日の菊の時まで保存しておくべきものなのだろうか。けれどもこの薬玉の方は、その垂れた糸をみんな引っ張って取って何か結ぶのに使ったりするので、すぐなくなってしまう。) 武官束帯姿の若者が、恋文(結び文)を菖蒲に結んで持参しています。正式ではない形式で思いを伝える手段です。「恋文においては一般的に薄様と呼ばれる薄い紙を用いるのが良いとされ、・・・・・美しい色に染められた薄様に恋文を書き記し、季節の花に結びます。文を受けとった相手は文のないようだけではなく、その文そのものからも送り主の感性の美しさを感じ取るのです。」(説明パネルに文を部分転記) 少し巻き上げられた御簾の内側に座る女房の右側の角高杯には、粽(ちまき)が置かれています。これもまた端午の節句を感じさせる品です。粽は「糯米(もちごめ)を真菰(まこも)の葉で包み、煮たもの」(説明パネルより転記)です。端午の節句に食するものは、中国の故事から伝わったもので、宮廷では五色粽(かざり粽)を用いたと言います。『伊勢物語』第52段に、粽が登場します。(資料5)「むかし、男ありけり。人のもとよりかざり粽おこせたりける返事(かえりごと)に」(昔、ある男がいた。人のところからきれいに五色の糸でくくったりして飾った粽を送って来た返事に)として、和歌がつづきます。手許の本には、語釈として「かざりちまき」を説明しています。「洗ったもち米を、茅(ちがや)や菰(こも)、笹、あやめ等の葉でつつんでしばって蒸したもの。これを五色の糸などできれいにくくり飾って端午の節供に飾ったり贈り物にした」と。粽が現在の菓子のようになったのは江戸時代に入ってからだと言います。(資料1)寝殿の西廂側から北廂側に回り込みます ここでは、7月7日「七夕」のルーツになる「七夕の節句」が具現化されています。旧暦7月7日には、日本固有の公式行事として「織女祭(たなばたつめのまつり)」と「相撲節会」が行われていたそうです。「『織女祭』の『織女』は『棚機津女(たなばたつめ)』であり、神への衣服を織り、供えることで穢れを祓う神事が行われていたようである。この日は、牽牛星と織女星の二星会合について詩を作る宴が行われ、『万葉集』にはいくつも歌が残されている。この『織女祭』と中国から渡来した裁縫の上達を祈る『乞巧奠(きっこうでん)』という私的行事が結び付き、その主旨が詩を作ることから乞巧奠の行事へと変じていった」(資料1)これがルーツとなっているそうです。『万葉集』の時代、7月7日の夜は「ナヌカノヨ」と呼ばれ、二星会合の和歌を詠む日とされたのですが、二星会合と乞巧奠が集合し、七夕(ひちせき:7月7日の夕べ)=[織女星:裁縫の神]=棚機津女(たなばたつめ)=たなばたというつながりで、平安時代に入ってから七夕を「タナバタ」と呼ぶようになったようです。(資料1)『源氏物語』幻の巻には、七夕の深夜に、52歳になった源氏は独り逢瀬の後の別れの涙を歌うという場面が描かれています。その書き出しは次の通りです。「7月7日も、例に変わりたること多く、御遊びなどもしたまはで、つれづれに眺め暮らしたまひて、星逢ひ見る人もなし。」(7月7日も、例年と変わったことが多く、管弦のお遊びなどもなさらずに所在なく思い沈んで一日をお過ごしになって、七夕の星の逢瀬を眺める女人もない。) 廂の間には、二星会合と乞巧奠が集合した形の七夕行事の祭壇が具現化されています。北に向かって、右には牽牛、左には織女のための一式の飾り付けです。牽牛や織女に「貸す」ための楽器として琴が置かれています。箏(そう)または和琴(わごん)、琵琶などを並べたそうです。琴の傍には、願いを書き記すための「梶の葉」、供物として一晩中香を焚くための「火取」、清らかさの象徴である「蓮」が置かれています。手前は牽牛への供え物一式です。織女用のも左に同じ一式が供えられます。上列には左から茄子(なす)・桃・大豆・干鯛(ほしだい)が並んでいます。中央に酒盃が置かれ、下列には左から熟瓜(ほぞち)・梨・大角豆(ささげ)・薄鮑(うすあわび)が並べてあります。一品一品が神事や人々の生活との関わりにおいて意味を持つています。具体的に解説したパネルが掲示されています。たとえば、桃は「古代より邪気を払い不老長寿を与える植物として親しまれてきました」(説明パネルより)。お寺の山門の屋根の隅に、桃を象った瓦が広く留蓋として使われています。熟瓜は、「瓜の上に張られた蜘蛛の糸が密になればなるほど、裁縫が上手くなると信じられました。熟瓜とはマクワウリのことで、メロンの一種です。」(同上) 母屋には、生前、それも幼き頃の紫の上が若き頃の源氏とともに、具現化されています。幻の巻に出てくる源氏は、かつての思い出を想起しつつ、七夕の夜に涙したのでしょう。 源氏は何を眺めているのでしょう・・・・。 源氏の右手の前の机上には「梶の葉」が置かれています。説明パネルには、梶の葉について、説明しています。「梶の葉に和歌を書きます。 梶は古来より神に捧げる神聖な木とされていました。梶の葉は天の川を渡る船の舵になぞらえて乞巧奠には欠かせない植物とされました。七夕では梶の葉に和歌をしたためて祭壇に供え、詩歌や手芸の上達を祈ったといいます。その名残は現在、短冊に願い事を書くという形で受け継がれています。」(説明文転記) 幼き頃、紫の上は源氏をどのように受けとめていたのでしょう・・・・・己の未来の姿なぞ、思いもよらなかったことでしょうね。「相撲節会」は今回具現化されてはいません。以前に具現化された場面を掲載した解説パネルに詳しい説明がなされて、七夕関連の解説パネルと並べて掲示されています。ここでは省略いたします。補遺に参考情報をいくつか抽出しています。ご興味があればアクセスしてみてください。藤原道長の『御堂関白記』の全現代語訳を参照してみますと、道長は7月7日の七夕の節句と相撲節会には触れていません。これらの行事は道長自身が公務としては関わらなかった行事だということなのでしょうか。ただ、1回だけですが、長和4年7月7日の条に、「小南第の庭中で行なった乞巧奠祭は、常と同じであった。子剋の頃、雨が降った。そこで供物を中門の内に入れた。」(資料6)と記録しています。この小南第について調べてみますと、「土御門殿が、入内した道長長女の御所・里第となるに伴い、道長は小南第を儀式会場として、あるいは自身の御所そして儀式会場として用いたのである」(資料7)ということがわかりました。少なくともこの記録から乞巧奠祭自体は例年行われていたことが推測できます。一方で、「作文会(さくもんかい)」があったときのことが記録に残されています。道長にとっては、これが7月7日の七夕の節句における公務としての行事ということでしょうか。寛弘2年7月7日の条では、「物忌ではあったが、一条天皇の召しによって内裏に参った。七夕の作文会を行なった。題は『佳会は風を使いとする』であった。<知を韻とした。>」(資料6)と記録しています。曲水の宴では題を決めると、韻も決めるということに触れました。この記録から多少そのやり方が分かってきます。寛弘3年7月7日の条では、自身の体の不調を記した続きに、「『作文会を停止した』ということだ。」と伝聞記録を残しています。同4年、5年の両年は7月7日自体の記録が残されていません。寛弘6年7月7日の条には、「作文を行なった。題は、『織女が容色を理(ととの)える』であった。(藤原)為時が序を作った。」と記録されています。が、これ以降、日記の残る範囲では作文会には触れていません。(資料6)いずれにしても、7月7日の宮中での活動の一端がわかります。余談ですが、現在と「乞巧奠」をリンクさせるのは、京都に所在する和歌の家・冷泉家です。冷泉家では今もこの伝統的な行事が毎年行われています。マスコミでも報道されることがあります。補遺の情報を御覧ください。「乞巧奠」が裁縫の上達を願うという側面を持つ行事であることに因んで、この北廂の東半分の場所には、「裁縫の様々な工程」が具現化されています。ここでは、後ほどご紹介することとして、五節句の最後になる「重陽の節句」を先に眺めましょう。つづく参照資料1)「五節句のルーツをたどる・平安時代の年中行事」風俗博物館 当日入手の小冊子2) 年中行事絵巻考. 巻7 田中文庫 :「国立国会図書館デジタルコレクション」3)『新版 枕草子 上巻 付現代語訳』 石田穣二訳注 角川文庫 4)『源氏物語 3』 日本古典文学全集 小学館 p204-2055)『伊勢物語(上)全訳注』 阿部俊子著 講談社学術文庫 p195-196 6)『藤原道長 「御堂関白記」』 上・中・下 全現代語訳 倉本一宏 講談社学術文庫7)「藤原道長の住宅と儀式会場」 飯淵康一、永井康雄共著 日本建築学会計画系論文集 第599号 2006年1月補遺第21回 『年中行事絵巻』巻八「騎射」を読み解く ;「WORD-WISE WEB」年中行事絵巻(左近騎射) :「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」扇面古写経絵(模本) :「東京国立博物館 画像検索」 相撲の節 :「コトバンク」相撲節会図 :「宮内庁 書陵部所属資料目録・画像公開システム」七夕と相撲 :「日本相撲協会」1年に1度恋を詠む 和歌の家・冷泉家 乞巧奠 :「THE KYOTO」冷泉家 乞巧奠(きっこうてん) :「本寿院」800年にわたる和歌の家 冷泉家 YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -1 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -2 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -4 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -5 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -6 へ
2022.06.21
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3月3日は「ひなまつり」です。そのルーツが旧暦3月3日の「上巳(じょうし)の節句」。「元々は中国から渡来したもので、3月上の巳(み)の日という干支の行事だったが、魏の時代以降に『巳』と字音の通じる3日に行われるようになったため、3月3日付の行事となった」(資料1)と言います。 この場面は、邸の主人を関白藤原師実に設定してあります。藤原師実は賴道の六男で末っ子。養女賢子を白河天皇に入内させることで後宮政策を成功させたと言います。1075(承保2)年10月に関白になっています。(資料2)邸の主人の右側、寝殿の写真では手前の南廂に、この行事の後で主人から渡される引き出物が積み上げてあります。ここには2つの場面が見られます。 舞楽「春鶯囀(しゅんのうでん)」が奉じられています。「囀」は「さえずり」と読める漢字です。春に鶯が囀るという季節感を舞楽に仕立て春を言祝ぐ演目なのでしょう。「鶯のさえずりを模す精緻に整えられた名曲」と評されています。(資料3) 楽人 「春鶯囀」については、『源氏物語』花宴の巻に次の場面が描かれています。(資料4)「やうやう入日になるほど、春の鶯囀るといふ舞いとおもしろく見ゆるに、源氏の御紅葉の賀のをり思し出でられて、東宮、かざし賜せて、切に責めのたまはするにのがれがたくて、立ちて、のどかに、袖かへすところを一をれ気色ばかり舞ひたまへるに、似るべきものなく見ゆ。」(しだいに日の傾く時分に、春鶯囀という舞が、まことにおもしろく見えるので、東宮は源氏の紅葉の賀の折の舞をお思い出しになって、挿頭の花を御下賜になり、ぜひぜひと舞をご所望あそばすものだから、君も辞退しかねて、立ち上がって。静かに袖をひるがえすところを一くさり申しわけほどにお舞になるのが、それがたとえようもなくみごとな見物である。)また、『枕草子』の第206段に、清少納言は「弾くものは、琵琶。調べは、風香調。黄鐘調。蘇合の急。鶯の囀りといふ調べ。」と記し、春鶯囀を採りあげています。(資料5)上巳の節句では、水辺で穢れや災いを払う行事として「人形(ひとがた)流し」が行われました。紙で人形を作り、息を吹きかけて流すのです。武家社会においても3月3日の上巳の節句は祓えの行事として機能していたと言います。「人形流しと貴族の女児の遊びであった『雛(ひいな)あそび』とが結びつき、この日に雛人形を飾るようになった。雛人形は時代を経るにつれて豪華になり、やがて現代のひなまつりは雛人形を飾り、1年の穢れを人形に移すことで女の子の無事成長を祈る行事として受け継がれている。」(資料1)ひなまつりは、上巳の節句に行われた「人形流し」という祓の行事がルーツだそうです。『源氏物語』須磨の巻は、3月上巳の祓の日の光景を描写しています。源氏はこの日、勧められて祓えの行事を行います。だがその最中に暴風雨に襲われて、それが契機となり、明石に移るという展開になります。その冒頭が、「弥生の朔日に出で来たる巳の日、『今日なむ、かく思すことある人は、禊したまふべき』と、なまさかしき人の聞こゆれば、海づらもゆかしうて出でたまふ。いとおろそかに、軟障(ぜじょう)ばかりを引きめぐらして、この国に通ひける陰陽師召して、祓せさせたまふ。舟にことごとしき人形のせて流すを見たまふにも、・・・・」(3月の初めにまわってきた巳の日に、「今日という日は、このようにご心労がおありの方は禊をなさるのがよろしい」と、なまはんかの物知りが申しあげるので、海辺の景色もごらんになりたくておでましになる。ほんとにかりそめに軟障ぐらいを張りめぐらして、この国に通ってくる陰陽師をお呼びになって、祓をおさせになる。船に大げさな人形を積んで流すのをごらんになるにつけても、・・・)です。「人形流し」祓の行事の大型版がでてきます。 (資料6) この日、奈良時代の宮中では、中国から伝来した「曲水の宴」という行事が行われます。奈良時代には盛んに行われ、平安時代には一時廃されたそうです。嵯峨天皇(在位:809~823)に復活されますが、「やがて宴遊的要素が強まり、宮中の公式行事としての性格が薄れ、貴族の私邸で盛んに行われる私的行事へと変遷していった」(資料1)のです。村上天皇(在位:946~967)の時代にさかんに行われたようです。書聖として知られた王義之は『蘭亭序』に、中国東普永和9年(353)浙江省会稽山の北、蘭亭において曲水の宴が催されたことを記しています。 これはウィキペディアからの引用ですが、「蘭亭曲水図」が描かれてもいます。広く知られていたからでしょう。(資料8)現在は、京都の場合、伏見の城南宮と洛北の上賀茂神社(賀茂別雷神社)で「曲水の宴」の行事が行われています。藤原道長は『御堂関白記』寛弘4年(1007)3月3日の条に「土御門第で曲水の宴を催した」と記しています。途中で風雨が激しくなって宴は中断。対の内部に座を設けたことや、天気が晴れてから水辺に座を立て、土居に降りたことを記録しています。この時、詩題は式部大輔(菅原輔正)が出した「流れに因って酒を泛(うか)ぶ」を用いたと記しています。(資料9)そういう事情から、ここでは、寬治5年(1091)に藤原師通が行った曲水の宴を主に参考に、具現化が試みられたそうです。それでは、曲水の宴を眺めて行きましょう。 酒部所 酒部所は寒い時期に酒のお燗(かん)をしたところとか。右側の台に「火爐(かろ、金属製火鉢)が設置されています。平安時代初期の貴族・藤原冬嗣が、酒のお燗は旧暦9月9日から3月2日までと定めたそうです。それに準ずるとこの上巳の節句の日は寒酒ということになります。(説明パネルより) 酒部所から羽觴(うしょう)が水辺に運ばれて、遣水に流されます。 鳥をかたどった台に盃(さかずき)がのせてあります。これが羽觴です。別名は羽爵。觴には「さかずき」という意味があるそうです。 曲水の宴では、庭に曲線を描くように遣水が流れています。公家・殿上人、文人たちは曲水に沿って、それぞれの場所に座ります。水辺に座る参加者は、羽觴が流れてきたら盃を取り、酒を飲むという形です。 この時、公卿には盃を取って奉る侍者が付いていますが、文人等は自分で盃を取らねばならないそうです。 左大弁が漢詩のお題を作り白唐紙に書いて、尊客(左大臣)に御覧に入れているところです。尊客は漢詩のお題を見ています。ここでは、白唐紙に上記の藤原道長の選んだお題が記されています。 遣水を挟み、対岸の右端に座っているのは、開催者である邸の主人、ここでは藤原師通(もろみち)です。開催者である邸の主人がお題を読み、この曲水の宴のお題を決定します。漢詩に用いる韻も選ばれるそうです。 曲水の宴で漢詩を賦す殿上人 流れてくる羽觴を取ろうとする文人 曲水の宴で漢詩を賦す文人 文人等が座る「円座」が見えます。 曲水の傍で漢詩を賦す人々の背後に、楽器を奏でる公卿や殿上人がいます。円座の向こう側には、横笛を吹く公卿、和琴は弾く殿上人、右側には前に笏拍子でリズムをとる公卿、後に笙(しょう)を吹く殿上人が居並び、音楽を奏でます。一方で、前回ご紹介した池に浮かべた龍頭の舟に乗る楽人たちが合奏に加わります。冠には桃李の挿頭(かざし)をつけています。 寝殿の南廂には、前に講師がいます。人々が作った詩を読みあげる役を担います。後に座るのは序者です。漢文学に優れた儒者が代表して詩序を作ります。詩序とは、「詩稿の序文。漢詩、漢詩集につけるはしがきの文。」(『精選版日本語大辞典』)のことです。 邸の主人の奥方や女房たちは、寝殿から曲水の宴の様子を見物することになります。「雛あそび」と「雛人形」のその後の経緯はここでは省略いたします。会場には詳しい説明パネルが設置されています。また今回の展示について、まとめた小冊子(資料1)にも記載されています。それでは、端午の節句、七夕の節句の具現化場面へと進みましょう。つづく参照資料1)「五節句のルーツをたどる・平安時代の年中行事」風俗博物館 当日入手の小冊子2) 藤原師実 :ウィキペディア3) 壱越調:春鶯囀 :「文化デジタルライブラリー」4)『源氏物語 1』 日本古典文学全集 小学館 p3545)『新版 枕草子 下巻 付現代語訳』 石田穣二訳注 角川文庫 p876)『源氏物語 2』 日本古典文学全集 小学館 p2177) 蘭亭序 :「コトバンク」8) 曲水の宴 :ウィキペディア9)『藤原道長 「御堂関白記」 上』 全現代語訳 倉本一宏 講談社学術文庫補遺春鶯囀颯踏 Shumn dem Sattoh YouTube春鶯囀入破 Shumn dem Juha YouTube王義之 :ウィキペディア城南宮 ホームページ賀茂別雷神社(上賀茂神社) ホームページ雛まつりと人形 検索一覧 :「京都国立博物館」平安貴族の歌遊び再現 京都・城南宮で「曲水の宴」 YouTube2018 城南宮 曲水の宴 YouTube平安貴族の遊び「曲水の宴」再現 福岡・太宰府天満宮 YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -1 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -3 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -4 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -5 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -6 へ
2022.06.19
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龍谷ミュージアムで春季特別展を鑑賞後、すぐ近くにある風俗博物館に行きました。4月から始まった展示は「五節句のルーツをたどる・平安時代の年中行事」です。堀川通の東側に建つ「井筒左女牛ビル」5階に風俗博物館があります。龍谷ミュージアムから数十m北にあるビルです。 5階でエレベーターを降りると、まず最初に目にするのが、このシーンです。「五節句」の最初、1月7日の節句は「人日の節句」と称されたそうです。(資料1)1月7日に「七草粥(ななくさがゆ)」を食する習慣と言えばわかりやすくなり、身近なものとして結びついてくるでしょう。そこで、「五節句」です。私たちが知るこの五節句は、江戸幕府により年中行事が整備されて、公的な行事・祝日としてその内容が定められたそうです。正月7日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日が「五節句」です。そのルーツになるのが、奈良時代の『養老令』。ここに季節の変わり目を祝う日「節日」が定められています。正月元日・正月7日・正月16日・3月3日・5月5日・7月7日・11月の大嘗祭(新嘗祭)の日が「節日」に該当します。「節日」には膳が供されることから、室町時代には「節供」という言葉が使われるようになり、行事そのものが「節供」と呼ばれるようになったそうです。江戸時代に、「節供」が「節句」と書かれるようになったとか。季節の区切りという意識から節句になったそうです。(資料1) 時康親王(のちの光孝天皇) 『百人一首』に光孝天天皇の歌が採録されています。第15首です。 君がため春の野に出でて若菜摘むわが衣手に雪は降りつつこの歌に詠まれている「若菜」は、現在でいう「春の七草」に相当します。春は新春をさし、旧暦1月は新春です。季節的に雪が降っていてもおかしくはありません。光孝天皇は55歳の時、884年に即位し、887年に退位された天皇です。(資料2)時康親王が天皇になれたのは、政界の有力者藤原基経が強く推薦したからだとか。なぜか。「政治の実権を握りたい基経には、彼のおとなしい性格がコントロールしやすく好ましいと判断されたらしい。」(資料3)光孝天皇は在位4年で崩御されます。その在位中に基経は実質上の関白になります。皇位を継承するのは宇多天皇です。1月7日に「七草粥」を食して無病息災を祈る習慣が庶民にまで広まったのは江戸時代以降だそうです。その原形は平安時代に溯るということに・・・・・。(資料3) 「采女(うねめ)」が若菜を摘んでいます。各種の若菜が地に散在しています。この時代の若菜摘みは、正月7日の「人日の節句」に「供若菜(わかなをくうず)」という年中行事として行われました。(資料1) 「春の七草」がパネルで示されています。『源氏物語』の注釈書である『河海抄』で せり なずな ごぎょう はこべら ほとけのざ すずな すずしろ これぞ七種と指定したそうです。なお、二、三種について違う草の名を指定して七草にしている事例もあるようです。(資料4,5)ルーツをたどると、七種が確定していたわけではなさそうです。 東宮・道康親王(のちの文德天皇) ともに臣下ですが、左側は位階が五位、背中を見せているのは四位です。 東宮の斜め左前に坐っている臣下は二位時康親王の右斜め背後に、文德天皇の東宮時代という設定で、幕を巡らした一画に膳部が整えられた儀式の場面が具現化されています。 この場面全体は、絵画で使われる「異時同図法」を利用しています。文德天皇は第55代で在位期間は850年~858年です。一方の光孝天皇は第58代で在位は上記のとおりですから、「若菜摘み」⇒「七種粥(ななくさかゆ)」⇒「人日の節句」という風に、時間の流れを溯らせているようです。そこで、入手した資料をきっかけに少し学習したことも加えて、ご紹介します。まずは、「人日の節句」から。中国の『荊楚(けいそ)歳時記』に「人日」が載っているそうです。そこには、正月1日を鶏の日とし、狗(いぬ)・猪(いのしし)・羊・牛・馬がそれぞれ続きの日にあてられ、7日が人、8日に穀があてられました。1~6日は、それぞれの日にその動物を殺さない。人をあてた7日には刑罰を行わないことになっていたそうです。人は万物の霊長なので、この日を霊辰とも言うそうです。これが「人日」の由来とか。中国の人日の習俗は漢代からあったと言います。(資料1,6)手許の別の歳時記を参照しますと、「人日」を季語に掲載し、「東方朔の古書に『正月一日は鶏を占ひ、二日には狗を占ひ・・・・・七日には人を占ひ、八日には穀を占ふ』とあるのによる」と説明されています。(資料7)この「人日の日には7種類の若菜の羹(あつもの、熱い汁物)を食べ、春に芽吹いた七草の良い気をいただき邪気を払う」(資料1)という儀式を行ったと言います。この中国の風習が公家社会に取り入れられました。七草を粥に入れて食するようになるのは室町時代以降だそうです。一方、「七草粥」とは全く関係なく、正月15日には疫病除けに7種類の雑穀粥を食べる習慣がありました。「米の他、粟(あわ)、黍(きび)、胡麻(ごま)、小豆(あずき)などの穀物をいれた粥を食すると1年の邪気を払う」(資料1)とされていたそうです。『宇多天皇記』には、他のいくつかの歳時とともに、この民間の行事を宮中の歳時として取り入れるように指示されたとされています。(資料1)「この『七種』が「七草」と読めることから若草の七草と結びつき、現代に伝わる『七草粥』となっている」(資料1)これが「七草粥」のルーツという次第。手許の複数の歳時記を参照すると、季語としては「七種粥」で掲載されています。(資料6,7)展示に対し説明パネルが置かれています。そこには東宮と一緒に七種粥を食する儀式に列席する臣下の位階が記してあります。まず、臣下の位階により場所の設定が違います。椅子を御覧ください。東宮の傍にいる臣下(二位)は東宮と同じで、一人用の椅子に腰掛けています。一方四位・五位の臣下は長椅子に腰掛けています。もう一つ、なぜ臣下の位階が明記できるのか。説明はありません。多分、当然のことだからでしょう。調べてみますと、元正天皇の時代、718(養老2)年に『養老令』が刊修され、その中に服装について『衣服令』が規定されました。この場面は公式の儀式の席でしょうから、人々は衣服として袍を着ていることになります。臣下の着る袍の色目は位階に従って規定されていました。だからこの場面で臣下の位階を明記できるのだろうと思います。『令』の規定によれば、「一位は深紫(こきむらさき)、二位、三位は浅紫(うすきむらさき)、四位は深緋(こきあけ)、五位は浅緋(うすきあけ)、六位は深緑(こきみどり)・・・・・」という具合でした。殿上人は従五位以上の位階の人々です。(資料4)なお、一条天皇の寛弘(11世紀初)のころから、「位色の制が混乱し、四位以上は黒一色となり、これを橡(つるばみ)の袍といい、五位は緋に蘇芳(すおう)の気が加わった、赤黒い色となり、六位は緑となり、七位以下は事実上叙位の事もなく、事前位色も廃れ、結局、黒、緋、緑の三色となり」(資料4)という形に変化して行ったそうです。つまり、紫式部の生きた現実の世界では、袍は三色への転換点だったようです。『源氏物語』の世界は逆にカラフルに描き出されているということになりますね。さらに、別の観点があります。「子(ね)の日の遊び」です。正月の初子の日に野に出て若菜を摘み、小松を引くという行事が行われていたことです。そのままそこで宴を開き、若菜の羹を食し、和歌を詠じて楽しんだとか。(資料4,8)たとえば、『源氏物語』初音の巻には、次の描写があります。「今日は子の日なりけり。げに千年の春をかけて祝はんに、ことわりなる日なり。姫君の御方に渡りたまへれば、童、下仕など御前の山の小松ひき遊ぶ。若き人々の心地ども、おき所なく見ゆ。北の殿よりわざとがましく集めたる鬚籠(ひげこ)ども、破子(わりご)など奉れたまへり。」という場面描写です。源氏の君が紫の上の御殿から、明石の姫君の所を訪れた時に、初子の遊びが行われているのを見る場面です。小松の引き若菜が献上されるのです。(資料9)「若菜の羹は春の精気に満ちており、小松引きは長寿を願う信仰を有している」(資料8)のです。この初子の日の遊びの行事が、七種の草を正月7日に食べるという人日の節句の行事に変更されるようになったのです。それがいつかは今では判然とはしません。『公事根源』には、醍醐天皇の延喜11年(911)を初めとしているそうです。(資料4)清少納言は『枕草子』の第127段に「七日の日の若菜を、六日、人の持て来騒ぎ、取り散らかしなどするに、見も知らぬ草を子どもの取り持ちて来たるを、・・・・・・」と記しています。また、第2段では、「七日、雪間の若菜摘み、青やかにて、例はさしもさるもの目近からぬ所にもて騒ぎたるこそ、おかしけれ」と書きとめています。(資料10)清少納言の頃には、既に人日の節句としての若菜摘みや若菜の羹を食べる行事は定着していたのでしょう。『枕草子』は平安時代の中頃、1001年頃に成立したと考えられています。清少納言は上記の続きに、「白馬(あおうま)見にとて、里人は、車きよげにしたてて見に行く。」と記し、「白馬節会」の様子の描写に転じます。1月7日には「白馬の節会」という行事も行われていたのです。「白馬節会(あおうまのせちえ)は、旧暦正月7日、天皇が豊楽殿(のちに紫宸殿)に出御し、庭に引き出される白馬(あおうま)をご覧になり、群臣と宴を催す行事である。中国の陰陽五行説に基づいたもので、春に陽のものを見るとその年の邪気を避けることができるとされていた。春は青色(夏は赤、秋は白、冬は黒)、馬は陽の動物とされ、両者が結びついて春に青馬を見るようになったと考えられる。」(資料1)村上天皇(946~967)の時代に「青馬」が文献上「白馬」と書かれ始め、国風文化の発展の過程で、青よりも白を高貴な色として上位に置くようになったことに関係するようです。漢字では「白馬」と記しながら、それを「あおうま」と読むようになったと言います。(資料1)藤原道長が記した『御堂関白記』の最初の頃を部分的に調べますと、以下のような記録が残されています。 (資料11)長保二年正月七日 白馬御覧 内裏に参った。・・・・天皇に奏上して言ったことには、「左右の白馬を御覧になるべきであることは、先日、諸卿が定め申しましたが、天皇の仰せによりましょうか」と。天皇がおっしゃって云われるには、「早く召せ」と。大外記(滋野)善言を召して、御馬を召すよう命じた。・・・・御馬の数は、常と同じであった。寛弘元年正月七日 白馬節会 午二刻に参入した。三刻に天皇の出御があった。出御の後、標を立てた。寛弘二年正月七日 白馬節会 物忌によって、白馬節会に参らなかった。寛弘三年正月七日 白馬節会 内裏に参った。白馬節会は、常と同じであった。大将(藤原公季・藤原実資)、および内教坊別当がいなかった。そこで私が白馬奏と坊家奏を奏上した。右馬寮は頭が参ってこなかった。という具合である。白馬節会は例年行われていることがわかる。『源氏物語』ではどうか。少女の巻に次の一文が出てきます。「朔日にも、大殿は御歩きしなければ、のどやかにおはします。良房の大臣と聞こえける、いにしへの例になずらへて、白馬ひき、節会の日々、内裏の儀式をうつして昔の例(ためし)よりもこと添えていつかしき御ありさまなり。」(年の明けた正月にも、源氏の大臣は参賀のお出ましもないので、ゆっくりとうちくつろいでいらっしゃる。良房の大臣と申したお方の昔の例にならって、二条院に白馬を引き、節会の日には宮中の儀式を模して、その古例よりもさらに新たな行事を加えて、おごそかな御有様である。) (資料9)フィクションの中にも、白馬節会に関連した記述が出てきます。藤原良房という史実の人物を引き合いにだしていますが、史実としての所見はないようです。紫式部が読者がイメージしやすく、リアル感を増すために、初めて太政大臣・摂政に任じられた良房の名を使ったのでしょう。 人日の節句の具現化場面の左側、池の中に龍頭鷁首の舟の内、龍頭の舟を具現化してあります。少女の巻の上記の続きに、「楽の船ども漕ぎまひて、調子ども奏するほどの」(一対の楽の船があたりを漕ぎめぐって調子合わせの曲などを奏すると)という描写が出てきます。その関連なのかもしれません。 興味深いのは、龍頭の舟に補助の舟を横に連結させて楽人の舞台に仕立てていることです。双胴船の形式であることを連想しました。五節句を順番に眺めていきましょう。つづく参照資料1)「五節句のルーツをたどる・平安時代の年中行事」風俗博物館 当日入手の小冊子2)『日本史小事典』 日正社3)『こんなに面白かった「百人一首」』 吉海直人 PHP文庫 p66-674)『有職故実』上・下 石村貞吉著 嵐羲人校訂 講談社学術文庫 上・267-271,下・p355) 春の七草の短歌 万葉集、正岡子規他[日めくり短歌]:「短歌のこと」6)『合本 現代俳句歳時記』 角川春樹編 角川春樹事務所 7)『ホトトギス 新歳時記』 稲畑汀子編 三省堂8)『源氏物語図典』 秋山・小町谷編 須貝作図 小学館9)『源氏物語 3』 日本古典文学全集 小学館 p145, p70, p7210)『新版 枕草子 上巻 付現代語訳』 石田穣二訳注 角川文庫 p16-17,p166-16711)『藤原道長「御堂関白記」 上』 全現代語訳 倉本一宏 講談社学術文庫補遺平安貴族の正装の色の違いについて知りたい。:「レファレンス協同データベース」異時同図法と捨身飼虎図について :「つれづれ美術手帖」藤原良房 :ウィキペディア藤原良房 :「ジャパンナレッジ」船楽(ふながく) :「風俗博物館」双胴船 :ウィキペディア第20回 『紫式部日記絵巻』「龍頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)の舟」を読み解く :「SICTIONARIES & BEYOND WORD-WISE WEB」龍頭鷁首舟 :「いけばな嵯峨御流」賀茂別雷神社(上賀茂神社) ホームページ 1月7日に「白馬節会」を神事化したものとして「白馬奏覧神事」が行われます。住吉大社 ホームページ 1月7日に「白馬神事(あおうましんじ)」が行われます。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -2 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -3 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -4 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -5 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -6 へこちらも御覧いただけるとうれしいです。観照 京都・下京 風俗博物館 2021年の展示 -1 豊明節会・五節の舞 5回のシリーズでご紹介観照 京都・下京 風俗博物館 2020年の展示 -1 女楽~『源氏物語』「若菜下」より~ 4回のシリーズでご紹介観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -1 猫と蹴鞠(1) 6回のシリーズでご紹介観照 風俗博物館 2018年前期展示 -1 『年中行事絵巻』「祇園御霊会」 4回のシリーズでご紹介探訪&観照 風俗博物館(京都) -1 移転先探訪・紫の上による法華経千部供養 4回のシリーズでご紹介観照 [再録] 京都・下京 風俗博物館にて 源氏物語 六條院の生活 -1 3回のシリーズでご紹介
2022.06.17
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西本願寺前の堀川通を挟み、東側に位置する龍谷ミュージアムに今月(6月)上旬に行ってきました。 ミュージアムの正面には、横長の大きな春季特別展案内パネルが掲げてあります。「ブッダのお弟子さん」というタイトルに、「教えをつなぐ物語」というフレーズが続きます。右は入場券の半券です。 こちらはこの特別展のPRチラシ。会期はこの19日(日)までとなっています。あとわずかになってきましたが、覚書を兼ねて遅ればせながら少しご紹介します。案内パネルに載っている展示品例はPRチラシの裏面に紹介されているものと同じでした。チラシから切り出してご紹介に利用します。悟りを得てブッダとなったガウタマ・シッダールタ(釈尊)は、西暦前5世紀頃に、ガンジス川中流域でその思想を広めて行きます。それが仏教教団となり、数多くの弟子が集まり、釈尊のもとで修行し、釈尊の活動を支え、釈尊の涅槃の後にはその教えを様々に語り伝えて行ったわけです。この特別展では、その弟子たちに焦点をあてて、弟子像や経典類が展示されていました。この特別展、本当は2020年春に開催予定だったのですが、コロナ禍の影響を受けて開催が中止になり、今年改めて一部組み替えて開催されることになったのです。そこで、この特別展後に購入した図録はおもしろいことに、 本篇 別冊本篇と別冊の2冊になっています。展示品の入れ替わり等により、別冊が作成されたという次第。逆に、今回の展示から外れた作品を+αとして図録で楽しむことができます。展示は3階から2階へと巡っていく形で、5章構成になっています。<第1章 初めての仏弟子、そして釈尊に帰依した神々や人々>3階の会場に入ると、ガンダーラの仏立像が最初に目にとまります。最初に、ネパールの19~20世紀の作ですが、「五趣生死輪図」「六道輪廻図」が展示されています。日本でイメージする輪廻図とはかなり異なる図にまず違和感が生まれました。一種のカルチャーショックに通じるものです。観念的には同じなのでしょうが、「輪廻」の背景となるイメージについての文化差です。その違いが仏教の広がりと変容につながっているのでしょう。 釈迦の教えが流布される過程で、仏陀(釈迦)のストゥーパが建立され、そこに釈迦の生涯を描いた仏伝浮彫が装飾されます。その仏伝が人々にとっては仏陀の教えを知り信仰する対象にもなって行くようです。輪廻から脱する悟りを得た釈迦は、その内容は人に説明し伝えることはできないと考えたそうですが、「梵天勧請」を受けて、仏陀は活動を始めます。それがこの「初転法輪」の場面です。かつての5人の修行仲間に教えを説くという場面。この5人が最初の仏弟子になります。仏教僧団の誕生です。仏伝浮彫「梵天勧請」の場面も展示されています。このセクションで印象深かったのは、好花堂野亭著『釈迦御一代記図会』(1845年)です。一場面だけ見られたのですが、葛飾北斎画だったのです。ダイナミックな構図の場面でした。 ガンダーラのハーリーティ像です。日本では「鬼子母神」として知られています。かつては人の子をさらい喰らうという悪行三昧を重ねていました。釈尊は末子を鉢に隠すという形で、ハーリーティに我が子を探させるという体験をさせます。ハーリーティは釈尊の誡めと説法を受け、改心して安産と子育ての神となります。仏教の中に組み込まれていきます。こちらもかなり日本で祀られている鬼子母神像とはイメージが異なります。もう一つは、やはり「維摩居士像」が目にとまります。「維摩経」の主人公です。<第2章 釈尊の涅槃を見まもった仏弟子たちー釈迦からのメッセージ>岐阜・汾陽寺の「仏涅槃図」と併せて、和歌山・金剛峯寺藏の国宝「仏涅槃図」模写図を見ました。様々な涅槃図を今までに見てきていますが、金剛峯寺の仏像涅槃図原本は日本に現存する最古の涅槃図だそうです。大陸に存在する涅槃図と比較すると、この最古の涅槃図においても、登場人物が格段に増えていると言います。汾陽寺の「仏涅槃図」は一層描かれている人数が増えています。「国宝仏涅槃図模写」は図が明瞭にわかるというメリットがあります。<第3章 仏弟子から十大弟子> このセクションでのハイライトの一つは、この「木造十大弟子像」です。上掲の図録・別冊の裏表紙に使われています。京都・仁和寺の子院常楽院旧蔵で、今は京都国立博物館蔵です。10軀のうち、目連・羅睺羅は江戸時代の補作、それ以外は鎌倉時代の作とのことです。清凉寺式釈迦如来立像を中尊としてこの十大弟子が随侍している形だそうです。像高は50cm弱で、本尊の約半分に造像されています。経典には釈迦が常人の2倍の身長であるという記述があり、これによるのだろうと図録では説明されています。併せて、神奈川・称名寺蔵の木造十大弟子中、「伝舎利弗・伝目連立像」が展示されていました。当初は称名寺の十大弟子像が展示予定だったようです。 もう一つのハイライトがこちらです。和歌山・海雲寺蔵の「木造釈迦如来坐像および阿難・迦葉立像」です。南北朝時代・貞和3年(1347)康俊作です。展示品一覧表を見ますと、前期には掛幅の釈迦並びに十大弟子像がいくつか展示されていたようです。 絹本着色の「仏陀及び比丘像」(京都国立博物館蔵)、19世紀の作品が展示されています。東南アジアでは、一般的に舎利弗と目連が二大弟子と見做されているとか。これはタイの作品ですが、日本の三尊像とは図像と雰囲気がかなり異なります。一方で、仏教の広がりとともに、ガンダーラを起点とした図像の表現様式には共通点と相違点が生まれていきました。図像が変容している様を対比できることはおもしろく、興味深いところです。地域性や風土が自ずと表現方法、具現化プロセスで反映しているということなのでしょう。図像は補遺をご覧いただきたいのですが、絹本着色の「焔口餓鬼図」(京都・六道珍皇寺藏)が展示されていす。中国・明時代、1643年の作。焔口餓鬼は何とも奇妙でかつインパクトのある図像です。阿難が供養を始めると、方々から餓鬼が集まってきたという図柄です。描かれている阿難が中国風。盂蘭盆会などの死者供養の儀礼に使われる図と言います。<第4章 羅漢と呼ばれた弟子たち>上掲のPRチラシや図録(本篇)の表紙に使われているのが、描かれた「十六羅漢」の中の一人です。中国、北宋時代(11~12世紀)の作で、京都・清凉寺藏の作品。「第九 戌博迦(じゅばか)尊者」図です。後期に出かけましたので、会場で鑑賞したのは、第一、第十四尊者の2幅でした。 一方、こちらは東京国立博物館蔵の国宝「十六羅漢像」のうちの一幅です。「第九 戌博迦尊者」、平安時代後期(11世紀)の作品。日本で製作された現存最古の羅漢像だそうです。このセクションは、十六羅漢図がそれぞれ一組の中から数点ずつ抽出した形での展示になっています。京都・清凉寺藏、東京国立博物館蔵、愛知・妙興寺藏、岡山・長法寺藏の4種が展示されています。興味深かったのは十六羅漢の描写法がそれぞれ異なるところでした。 これは、PRチラシの中に掲載されています。岡山・長法寺藏の十六羅漢像中、「第一 賓度羅跋羅堕闍(ひんどらばっらだじゃ)尊者」の相貌です。たとえば図録の表紙の図像の描法とはかなり異なります。描法が違うと図全体の醸し出す雰囲気も異なり、おもしろいものです。会場では対比的に見比べるというおもしろさがありました。さらに、十六羅漢に対し、十八羅漢も展示されています。十六羅漢にさらに二尊が加えられたものだそうです。こちらは群像として描かれた図です。二種の作品が出ていましたが、いずれも「釈迦三尊十八羅漢図」です。岡崎市美術博物館藏のものは、中国・元時代(13世紀)のもので、一幅に描かれた作品。もう一つは、兵庫・東光寺蔵で、三幅でセットになった図です。中央の一幅に釈迦三尊が描かれ、左右の幅に9尊ずつ羅漢像が描かれた構図です。描法も構図もともに全く異なり、おもしろい。木造十八羅坐像のなかから、二躯が出ていました。京都・延暦寺蔵で、南北朝~室町時代(11世紀)の作です。表面は近年に修復され彩色が施されていました。造像当初はこんな感じだったのかと、その華やかさに対し、歳月を経て表面が褪色風化し木肌像の状態に親しんでいる目には異質さすら感じます。彩色された一尊は、見る角度によってなまめかしさすら漂わすものでした。<第5章 羅漢図より読み解く出家者の生活>ここでは、十六羅漢図から、さらには五百羅漢図まで登場します。上掲別冊の表紙は、京都・大徳寺藏の五百羅漢図中、「第44幅施食」の部分図です。6/7~6/19に展示予定の図でしたので、図録で見るだけです。これは池の魚に餌を施している図です。私が見たのは「第45幅裁縫」で、羅漢たちが縫い物作業をしている図でした。中国、南宋時代の作品です。出家者の生活が具体的に描き出されています。「四分律」という出家生活を律する文献や、香炉・水甁・木製曲彔・如意などの道具類の実物などが展示されています。私が興味を抱いたのは、岡山・清眼寺藏の「五百大阿羅漢図彙」でした。羅漢一人一人を白描した羅漢像の集成です。五百羅漢図を描く種本となるいわばアンチョコです。各羅漢に名前が記され、それぞれが様々な物を手に持ち、所作も異なり、様々な場面が切り取られて描かれています。やはり、こういう雛形絵図が作られていたのですね。お寺の探訪拝観に行き、羅漢像と出逢うことがあっても、チラリと見るだけに留まる程度でした。ブッダのお弟子さんそのものに焦点をあてて眺めてみるという視点もまた、ブッダ(釈迦)の教えがどのようにつながれ、流布されて行ったのかを考える上で、必要な側面と感じた次第です。こんなところで、この春季特別展のご紹介を終わります。ご覧いただき、ありがとうございます。参照資料*図録『ブッダのお弟子さん 教えをつなぐ物語』(2020)龍谷大学龍谷ミュージアム編*図録『ブッダのお弟子さん 教えをつなぐ物語 別冊』龍谷大学龍谷ミュージアム編*「ブッダのお弟子さん 教えをつなぐ物語」展示品一覧表補遺絹本著色 焔口餓鬼図 :「公益財団法人 住友財団」特別展 道教の美術 TAOISM ART :「大阪市立美術館」 焔口餓鬼図[面然大士]が案内事例として掲載されています。十六羅漢 :「コトバンク」十六羅漢像 :「e國寶」十六羅漢像 :「奈良国立博物館」十八羅漢 :「コトバンク」阿羅漢 :ウィキペディア30.十六羅漢と五百羅漢(1) :「一般社団法人 全日本少林寺気功協会」鬼子母神 :ウィキペディア鬼子母神 由来と歴史 :「鬼子母神~ようこそ」(法明寺)鬼子母神像 :「仏像彫刻原田」鬼子母神像 :「梅松山 円泉寺」我が宗における鬼子母神信仰について :「日蓮宗尾張伝道センター」妙経寺の鬼子母神信仰 :「妙経寺」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2022.06.14
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八幡堀に架かる白雲橋から始めます。大杉町と日牟禮八幡宮の境内を結ぶ橋です。 橋上から八幡堀の東方向の景色です。この堀の岸辺を歩くとお堀の情緒を味わう事ができます。 反対に、西方向を眺めた景色です。 明治橋間近に向かう観光船をズームアップわかりやすい白雲橋を起点に、日牟禮八幡宮の周辺のぶらり探訪を最後にご紹介します。白雲橋を渡ると境内側には、右側に老舗「たねや」のお店があります。「たねや日牟禮乃舎」の南東側の道路を入ってみました。この辺りから東側は探訪したことがありませんので・・・・・。 日牟禮八幡宮の境内の南東隅にこのモニュメントがあります。 これは、「八幡祭」に、絵馬殿に展示されている松明と共に奉納される「太鼓」をモニュメントにしたものと傍に立つ案内板に記されています。由緒ある祭を地域の民俗文化財として保存していく目的で、多賀町自治会が作成されたものです。太鼓の台に、「平成8年度 創意と工夫の郷つくり事業」の銘板が取り付けてります。八幡祭は、「現在は上之郷(市井、多賀、北之庄、鷹飼、中村、宇津呂、大林、土田)と下之郷(船木、小船木、大房、南津田)12郷のまつりとされています。」(資料1)各郷が祭に太鼓を奉納するそうで、その太鼓は「大きさ・御幣の有無、縄の結び目など、細部に個性が見られる」(資料1)とのことですので、太鼓を見比べることも祭の楽しみの一つと言えるでしょう。 少し先に歩むと、右側の角地に鳥居と社号碑が見えます。ネットのMapion地図で確認すると、「幸福稲荷神社」と表記されています。滋賀県神社庁では「稲荷神社」で登録されています。(所在地:近江八幡市多賀町) 鳥居の先に、拝殿が見えます。 右側手前には、手水舎があります。 拝殿を回り込むと、社殿が見えます。正面は唐破風屋根の拝所です。この屋根がそのまま本殿の前まで延びています。一間社流造の本殿の前が、幣殿になっているものと推測します。おもしろいことに、拝殿と社殿の間が南北方向に通り抜けられる道路を兼ねているようなのです。歩行者用だけなのかもしれませんが。この神社は、伝承では元三ケ村と称した多賀の東部の天井田という所に社殿があり、三ケ村のお部落の氏神だったようです。「徳川時代信仰者の希望により、多賀町内興隆寺に迎え、明治初年現在の地に移した。明治41年社殿を全て改修して悉く新築した」そうです。(資料2)余談ですが、江戸時代の『近江輿地志略』を参照しますと、「○多賀村 八幡山の北にあり」と記し、その村に位置するものとして、「○興流寺 八幡山の、東の方にあり、聖徳太子の開基なり、本堂は織田信長安土へ引きたり。今の浄厳院の本堂是なり」という記述があります。この興流寺が興隆寺のことだろうと推測します。(資料3)稲荷神社とは道路を挟み、北側の分岐点の角地には塀などのないオープンな境内になっています。 最初に目にとまったのが道路に面したこの石鳥居です。どこにも案内の掲示がなく、後で調べてみて「琴平神社」とわかりました。 左側を見ると西側の道路との境のブロック塀の前にお地蔵さまを集めた覆屋があります。 前一列だけに涎掛けがかけてありますので、お地蔵さまと思います。幾つか双体像が見受けられます。 北側に、手水舎があります。その前後、ブロック塀寄りに石灯籠が並んでいます。変則的な配置の感じです。 本殿の前は唐破風屋根の拝所になっています。唐破風の兎毛通の箇所に鳳凰が彫刻されています。 頭貫の上部は蟇股が龍の透かし彫りに代替されています。 木鼻にはきっちりと獅子像が彫り込まれています。祭神が何かは不詳。滋賀県神社庁に登録はされていない神社です。 拝所の右側の建物格子戸越しに内部を拝見しましたがあまりよく見えません。何が祀ってあるのかも不詳。調べた範囲では適切な資料に出逢えませんでした。 覆屋形式の地蔵堂があり、石造地蔵菩薩坐像が安置してあります。琴平神社の東隣りには、表門としては珍しい形式の門構えのお寺があります。 石鳥居の所から表門の屋根の妻側を撮ってみました。 門前から撮った境内の景色。正面に見えるのがたぶん本堂でしょう。後で調べてみますと臨済宗永源寺派のお寺「円満寺」です。本尊は木造十一面観世音立像(平安時代、重文)で、井上靖の小説『星と祭』に採りあげられている観音菩薩像として知られているそうです。(資料4)ここまでにして白雲橋に引き返しました。円満寺から道沿いにもう少し先に歩んでいれば「叢林寺」、さらにその先に「興隆寺」があったのです。このあたりが事前準備なしにぶらりと探訪した限界です。まとめていてちょっと残念な思いに・・・・。探訪時間のゆとりもなくなってきていたことも一因でしたが。 境内側から白雲橋を渡ると、大杉町通りを挟んで正面にこの建物が見えます。 門を入り、「白雲館」と称される建物の外観を眺めました。 道路沿いの垣根にこの駒札が設置してあります。この白雲館は、明治10年(1877)に八幡商人や地元住民の協力で建設された八幡東学校だそうです。その後、役場、郡役所、信用金庫等様々な使われ方を経て、平成6年(1994)に建設当時の姿に復元されたと言います。 左側の建物の前に、この碑が設置されています。「民意を生かした英断」という題で、八幡商人の活動を支えてきた八幡堀が現在の姿を残すために、その背景にどのような転変があったかが記されています。利用の減少による環境悪化(ヘドロと悪臭)⇒1972年行政が堀埋め立て計画を推進⇒近江八幡青年会議所を中心に堀の姿の復活・保存修景運動⇒埋め立て事業の中止⇒建設省への陳情⇒1976年3月に保存修景工事に着手⇒八幡堀の蘇りこんな経緯があったそうです。ここでは、省略しますが、建設省が1973年に策定した湖中堤計画を中止に持ち込み、「八幡の水郷」という景観を残した経緯も記されています。白雲館の中には入りませんでしたが、入館は無料で、観光案内所が併設されているそうです。次の探訪機会には内部を探訪してみたいと思います。大杉町通りの北側歩道を西に歩きます。南側歩道から撮った写真でご紹介します。 今回、気付いたのですが、西川の暖簾が掛かっている建物の右側の入口に立て看板が置かれています。「西川甚五郎本店資料館」への入口になっています。2021(令和3)年10月14日に開館したという資料館です。(入館無料、火曜日休館)近江商人を広く知っていただくことを開館目的としているとのこと。(資料5) 垣根が途切れて、屋根が一段低くなったところに入口があります。白い球状の玄関灯が設けてあり、右の柱には「西川甚五郎」と記された表札が掲げてあります。西川甚五郎本店として、初代から12代まではこの地に暮らしてきたそうです。(資料5) 左端は塀が面取りした形になっています。この部分は大杉町通りと魚屋町通りとの四つ辻になります。 四つ辻の北東角を回り込み、八幡堀側から、つまり北から眺めた景色です。こちらに面した通用門の傍に、「西川甚五郎本店 西川文化財団」の掲示がドアホンとセットにして設けてあります。余談あるいは補足ということになりますが・・・・。西川家は八幡山城築城の時に工務監督を務めた旧家だそうです。初代仁右衛門が天正15年(1587)に八幡に蚊帳・畳表などを商う店を開設しました。当初の屋号は<山形屋>だったとか。仁右衛門の4男甚五郎が寛永5年(1628)に2代目となります。製造や販売保法に工夫を凝らし西川家の基礎を固めました。ここが本店となります。現在は布団の西川で知られています。(資料6)元に戻ります。 通りを進みますと、八幡堀です。明治橋が架かっています。 橋上から東方向(白雲橋)を眺めた景色 橋上で振り返り、西方向を眺めた景色 橋の近くで、住所表示が目にとまり、傍に「勤王家西川吉輔宅址」と刻された石標に気づきました。 近くに、「西川吉輔」についての案内文が掲示されています。近江商人の家系の中にも、倒幕尊皇の活動に奔走した人がいたということを初めて知った次第。西川吉輔が32歳の時に「帰正館」という塾を開いたとき、伊庭貞剛がいたということに私は興味を抱きました。西川甚五郎本店を挟んで西側にW.M.ヴォーリズのブロンズ像が建立されています。既にご紹介ずみ。 ヴォーリズ像に近いところに、この碑が設置されています。左に絵図、右に横書きの案内文。「近江八幡のまちは天正13年(1585)豊臣秀次が、おじ秀吉の命により鶴翼山(八幡山)に城を築いた際、城下町として開かれた。 碁盤目状の町並みは、合戦に備えられたものではなく、琵琶湖の水運と結ぶ八幡堀を利用した□濱都市への成長を期待されたことを示している。 文禄4年(1595)秀次の自害の後、城は無くなるものの、町人自治を背景に、商業を中心に発展をとげ、今日へとつづく町並みが形づくられてきた。 町家は切妻造桟瓦葺き、平入りの中2階建てが基本で、正面の構えは格子(こうし)、出格子、虫籠窓(むしこまど)、からなり、軒下の壁に貫を見せる形式が特徴となっている。また、道路に面する庭の『見越しの松』が周囲の景観の風格を高めている。 この一帯は、近江八幡独自の都市空間を形成し、文化庁から重要伝統的建造物群保存地区の剪定を受け、市民の誇りとなっている。 平成11年(1999)3月 近江八幡市 」(碑文転記)(□の箇所の一文字不詳)ぶらり探訪はここまでとして、JR近江八幡駅に戻ることにしました。 魚屋町通りを南進していて撮ったお寺です。「正福寺」という名称が目にとまりました。このお寺の所在地は宇津呂町30番地です。真宗木辺派のお寺です。(資料7)この先へもう少し南進すれば、八幡商業高校の校門前に至ります。余談ですが、魚屋町通りと一筋東の為心町通りの中間、東西方向の京街道に面して「正福寺」があります。このシリーズで少し触れています。こちらは魚屋町元に所在します。浄土宗に属する哀愍山玉念院正福寺です。そこで調べてみると、近江八幡市牧町961にも正福寺が所在します。真宗佛光寺派のお寺。私が確認した範囲では近江八幡市に少なくとも3つ正福寺と称するお寺が存在するようです。同名のお寺は結構あるようですね。この辺で、近江八幡をぶらりと探訪したまとめとしてのご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 八幡まつり :「近江八幡観光物産協会」2) 稲荷神社(イナリ) :「滋賀県神社庁」3)『大日本地誌大系 近江國輿地志略 下』第六冊 大日本地誌大系刊行会 p534) 円満寺(近江八幡市) :「滋賀・びわ湖 観光情報」5) 西川甚五郎本店史料館 :「公益財団法人 西川文化財団」6)「滋賀近江八幡 水都八都 No.21」 特集近江商人 近江八幡観光物産協会7) 近江八幡市 :「セレモニーセンター双葉葬祭」補遺八幡堀 :ウィキペディア公益財団法人 西川文化財団 ホームページ絵図・地図一覧 :「近江八幡市立図書館」哀愍山玉念院正福寺 ホームページ正福寺 :「YAHOO! JAPAN ロコ」 滋賀県近江八幡市の「正福寺」 :「日本全国にあるお寺を調査・検索」西川吉輔 :ウィキペディア西川吉輔 :「コトバンク」伊庭貞剛 :「コトバンク」伊庭貞剛 その1 :「住友グループ広報委員会」高田義甫 近松文三郎著 :「国立国会図書館デジタルコレクション」たねや CLUB HARIE トップページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 滋賀 近江八幡ぶらり -1 近江八幡駅南口のモニュメント、ぶーめらん通り へ探訪 滋賀 近江八幡ぶらり -2 西光寺<1> 本堂、織田信長公供養塔、地蔵大菩薩ほか へ探訪 滋賀 近江八幡ぶらり -3 西光寺<2> 山門2ヶ所、鐘楼、鎮守社、地蔵尊 へ探訪 滋賀 近江八幡ぶらり -4 池田町周辺、八幡堀、佛光寺八幡別院、図書館 へ探訪 滋賀 近江八幡ぶらり -5 町名駒札コレクション(一部)へ探訪 滋賀 近江八幡ぶらり -6 日牟禮八幡宮 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 [再録] 滋賀・近江八幡 秀次の城と城下町 -3 八幡堀
2022.06.11
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近江八幡を訪れた主目的であるヴオーリズ建築巡りの見学ツアーでは、この日牟禮八幡宮の鳥居を横目で見ながら通り過ぎました。そこで、見学ツアー終了後に、この鳥居を潜り、久しぶりに日牟禮八幡宮を訪れてみました。この木造明神鳥居は滋賀県指定有形文化財になっています。明治41年の修理工事において、元和2年(1616)造営と判明したそうです。(資料1)明神鳥居の形式ですが、柱頭に台輪が付いているところが稲荷鳥居や両部鳥居に通じます。笠木の上に屋根が設けてあります。特異な形式でもあります。建立後に修理を繰り返しているそうです。近くで見ますと、修理が行われているのがよくわかります。八幡堀に架かる白雲橋を渡り、境内を進みます。正面には八幡山が見えます。 この楼門(随神門)は西面しています。コロナ禍の関係でしょうか、「疫病退散祈願」の幟が立ててあります。三間一戸の楼門で、木造入母屋造、銅板葺です。滋賀県大津市にある園城寺(三井寺)大門や京都の八坂神社西楼門と同類の形式と思います。楼門を飾る彫刻は見応えがあります。オリジナルは、近江守護職・佐々木六角が延文4年(1359)に造営に造営し、左甚五郎の彫刻が施されていたと言います。ところが、江戸時代、安政2年(1854)に左義長で楼門を焼失し、翌年に再建。昭和45年(1970)には八幡まつりで上部を焼失。翌1971年に、檜皮葺を銅板葺の屋根に改めて再興され現在に至るそうです。(資料1) 正面に向いた獅子姿の木鼻は阿吽形式で彫像され、眼球は緑色に彩色されています。中央・横方向の木鼻はシンプルな形ですが、透かし彫りが施されています。中央・頭貫の上は全面に亀と流水文が透かし彫りにされています。 「八幡宮」の扁額 亀に乗る仙人像と、蛙と戯れる童女像の丸彫り像が左右の頭貫の上に見えます。 象が丸彫りで造形されているようです。一般には龍像が多いと思いますが・・・・。 境内側から背面を眺めてみました。 楼門を潜り抜け、左右を見ると一対の狛犬像が配されています。 正面にまず拝殿があります。その左右に石段があり、本殿は一段高い境内地にあります。この建物も木造入母屋造で屋根は銅板葺です。間口三間、奥行三間。鎌倉時代、文治3年(1188)源頼朝の命により、佐々木六角が造営したそうです。江戸時代の元文2年(1737)と文化2年(1805)に改築が行われているとか。1978年に本殿と共に檜皮葺から銅板葺に改められたそうです。(資料1) 楼門を入ると右側に能舞台があります。ここも、木造入母屋造で屋根は瓦葺です。明治32年(1899)に新築されました。鏡板の老松の絵は北垣光鱗筆によるそうです。(資料1)舞台の手前左隅に”「能舞台」と能楽「日觸詣(ひむれもうで)」”と題した案内の額が置かれています。「能舞台改築竣工に当り明治33年(1899)11月24日当神社の能楽日觸詣でが完成。この舞台で初演されました。観世流の能であります。その後能舞台にて能楽や謡曲の奉納は実施されながら日觸詣は久しく演じられませんでしたが、平成5年7月、93年振りに薪能として荘厳幽玄に演じられました。」(転記) 石段近くに神馬像 拝殿右側の石段を上がりました。石段脇に異なる姿の石灯籠が奉納されています。下から2つめの石灯籠が一番目にとまります。おもしろい形です。石灯籠の笠が苔蒸しているのは、歳月の経過を感じさせます。 本殿は三間社流造で前面に千鳥破風の向拝が付き、屋根は銅板葺。祭神は譽田別尊(ほむたわけのみこと:応神天王の神霊)、息長足姫尊(おきながたらひめのみこと:応神天皇の母である神功皇后)、比賣神(三姫神の神霊、玉依姫とも)です。三姫神とは田心姫神(たごりひめかみ)・湍津姫神(たぎつひめかみ)・市杵嶋姫神(いちきひめかみ)です。江戸時代に出版された『近江輿地志略』には「八幡社」、『新撰近江名所図会』では「八幡神社」の見出しでそれぞれ説明されています。昭和41年(1966)に神社本庁別表神社に加列した際に、「日牟禮八幡宮」と改称されたと言います。(資料2)由緒によれば、一条天皇の勅願により「正暦2年(991)法華峰(八幡山)に社を建て、宇佐の神を勧請して、上の八幡宮を祀り、寛弘2年(1005)遙拝の社を麓に建て『下の社と号す』とあり、現在の社は麓の社に相当すると解することが出来」るそうです。豊臣秀次が八幡山に築城する際に、「上の八幡宮を麓の社に合祀し替地として日杉山に祀る計画」があったようですが、文禄4年(1595)に秀次が高野山で自害するに及び、「日杉山に社は建設されず、現在の如く一社の姿となった」(資料2)という次第。それ以来、数回に及ぶ修復造替を経て、現在に至るそうです。(資料1)さらに伝記では「第13代成務天皇高穴穂の宮に即位(131)の折、竹内宿禰に命じて、この地に大嶋大神を祀られた(地主神・大嶋神社)」ところまで神の鎮座の始まりが溯られるようです。(資料2)この地に日牟禮八幡宮が創建され、八幡さまが祀られたことから、八幡という地名となり、市制移行の折に「近江八幡」という市名になる由来がここにあるようです。 本殿は、右隣りの建物と渡殿で繋がっています。緩やかな反り橋状の弧を描いています。 右隣りの建物。建物の正面には「御祈祷所」の扁額が掲げてあります。石段脇には、石柱型の石灯籠が立ち、「八幡宮」「太神宮」と大きな文字が陰刻されています。八幡宮の上部には小さな文字で「日觸」と刻されています。 近くに、「左義長祭の由来」「八幡まつり(松明太鼓祭)の由来」についての詳しい説明板が設置してあります。現地でお読み下さい。 拝殿の傍で目に止まった番の金鳩像。金婚式記念に奉納されたようです。反対側にも同種のものが奉納されています。拝殿の正面右側にも奉納されています。私が気付いたのはこの3ヵ所です。他にもあるかは不詳。他の神社で目に止まった記憶はありません。ここだけかな・・・・。 本殿の左側に「岩戸神社」が鎮座します。天照大御神の荒御魂を称え奉った神社で、祭神は「橦賢木厳之御魂天疎向津姫命」です。これはとてもじゃないが読めません。「しきさかきいつのみたまあめさかるむけつひめのみこと」と読むそうです。特に近江の人は毎年伊勢神宮に参拝するとか。それができない年はこの大神に代参したと言います。(資料3)伊勢に詣でることを考えると、ここに代参する人がやはり多いでしょうね。駒札が立っているのですが、経年劣化で文字が判読できない部分があります。末尾の文は読めます。「真の御柱といって社殿の柱を祭神として伊勢信仰が生まれている。」興味深い一文です。 一般的な境内社とは少し形式が違います。少し興味深い所です。 本殿屋根棟 鬼瓦岩戸神社の少し先に、かつての八幡瓦製の鬼瓦が保存展示されています。「平成30年9月4日 台風21号により鬼瓦片方が落下破損。八幡瓦であったと考察。現在八幡瓦製作が皆無のため銅製で復興。八幡瓦全盛期の鬼瓦と察し此処に展示供覧する。 令和2年4月吉日 宮司識す 施工 匠大村 」(掲示説明転記)さらに北に歩むと、 3つの社が横一列に並んでいます。 中央の大きな社は、「天満宮」です。祭神は菅原道真。 右側に駒札(といっても長方形)が立ち、左には定番ですが、臥牛像が奉納されていいます。「元宮内町に独立して祀った。慶長6年(1601)勧請。大正5年(1916)現慰霊殿敷地から移建。昭和28年(1953)より現在の姿で祀る。宮内天神、庄六天神とも伝え、文麟の灯籠と鉄斎の一筆の牛が名高い。大正5年慈元天満宮を合祀す」(転記、西暦年は追補) 向かって右は「宮比神社」で、祭神は天宇受賣命(あめのうずめのみこと)です。「安政5年(1858)より稲荷山に祀ってあったのを、明治8年(1875)に移建した。古くより百太夫神社を合祀している。天河枝比賣は当社に祀られ本社との関係をもっている。」(転記、西暦年は追補)日牟禮八幡宮のホームページには、「宮比・子安神社」と表記して説明されています。祭神に子安大神が併記されています。この社殿は、令和3年10月に篤志家より奉納され移築造営されました。この時、子安大神を合祀したとのこと。(資料3) 向かって左は「常盤神社」で、祭神は天照大神・豊受大神・熱田大神・津嶋大神の4柱です。「天保13年(1842)、八幡が尾張領となったのを機会に惣年寄建設祭祀することを誓い、嘉永元年(1848)城山に創建、尾張地方に関係の諸神を祀ったのも八幡の歴史の一つである。明治20年(1887)2月繁元稲荷と共に今の境内に移建された」(転記、西暦年は追補) これら三社の南西側で、この境内地の西辺に屋形石灯籠が奉納されています。とは言え、竿が円柱や角柱でないところがおもしろい。この竿の形はどう表現するのでしょう。不詳です。 三社と記念保存の鬼瓦との間、この境内地の東辺にこの社が鎮座しまです。「愛宕神社」と「秋葉神社」です。共に火除けの神です。祭神は、愛宕大神と秋葉大神。平成30年(2018)1月の積雪による被災で、翌令和元年7月に新たに社が造営されたそうです。ここに祀られていた子安大神は上記の通り宮比神社に遷座されたのです。(資料3)手前の石柱には「愛宕大神」(右)、「秋葉山」(左)と刻されています。今回のぶらり探訪では訪れていませんが、「大島神社」「繁元稲荷」「八坂神社」「恵比須神社」が併せて境内社として祀られています。(資料3) 楼門に引き返します。楼門を入ったところから見ると、左斜め前方に手水舎があり、その先に社務所があります。手水舎の背後(北側)で社務所の西側には、絵馬殿があります。 絵馬殿に絵馬が掲げてありますが、内部には八幡祭で使われる松明が展示されています。 もう一つ、左義長祭での左義長が展示されています。「火のぼり」と称される赤色の御幣が目に止まります。 案内文左義長祭と八幡祭の詳細は、日牟禮八幡宮のホームページ並びに補遺をご覧下さい。日牟禮八幡宮のぶらり探訪をこの辺で終わります。後は、この周辺の探訪を続きに少し行いました。つづく参照資料1) 本殿以下主要建物 :「日牟禮八幡宮」2) 「日牟禮八幡宮略誌」3) 日牟禮八幡宮の末社 :「日牟禮八幡宮」補遺日牟禮八幡宮 ホームページ天下の奇祭 左義長まつり ホームページ 近江八幡左義長保存会左義長まつり :「近江八幡観光物産協会」八幡まつり :「近江八幡観光物産協会」【解説】大接近&大迫力の火祭り!近江八幡まつり・松明奉火《4月開催》:「おおむね観光」八幡総本社 宇佐神宮 ホームページ宗像大社 ホームページ北野天満宮 ホームページアメノウズメ :ウィキペディア伊勢神宮 ホームページ津島神社 全国天王総本社 ホームページ総本宮 京都 愛宕神社 ホームページ秋葉山本宮秋葉神社 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 滋賀 近江八幡ぶらり -1 近江八幡駅南口のモニュメント、ぶーめらん通り へ探訪 滋賀 近江八幡ぶらり -2 西光寺<1> 本堂、織田信長公供養塔、地蔵大菩薩ほか へ探訪 滋賀 近江八幡ぶらり -3 西光寺<2> 山門2ヶ所、鐘楼、鎮守社、地蔵尊 へ探訪 滋賀 近江八幡ぶらり -4 池田町周辺、八幡堀、佛光寺八幡別院、図書館 へ探訪 滋賀 近江八幡ぶらり -5 町名駒札コレクション(一部)へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 [再録] 滋賀・近江八幡 秀次の城と城下町 -2 村雲御所(本丸)、二ノ丸、日牟礼八幡宮
2022.06.09
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今回の近江八幡ぶらりは、ヴォーリズ建築巡りの見学ツアーに参加する前後の時間に行いました。これまでに目に触れていて取り上げなかったのが、町名について説明した駒札です。ここではブラリ散策と建築巡りを併せた中で、目に触れる度に撮った町名駒札を一堂にまとめてご紹介します。町中に設置されている駒札をすべて撮ったわけではありません。また、2012.12.22に近江八幡に来ています。この時は八幡山にグループで登ることが目的でした。その折に通過経路となった町中の駒札を撮っています。これも併せてここに載せたいと思います。2012年のものには、☆マークを付記しました。今回撮った駒札が経年変化で読みづらくなっているのもあります。一部併載もしてみました。近江八幡の城下町は、大雑把に言えば、北に城跡が残る八幡山があり、その南の裾野を八幡堀が囲むように流れています。その南に、八幡山に対して南北方向と東西方向に、碁盤の目状に町割りが区画されて通りが貫いています。(ネットでMapionやGoogleの地図をご覧いただくと、南北の道路は実際は北西~南東寄りです。)観光案内の地図を見ると、南北方向の通りには名称が記載されていますが、東西方向の通りには名称の記載はありません。ネットの地図も確認した範囲では同様です。ここでは観光案内地図に載るエリアを中軸にして拡げる形でご紹介します。冒頭に取り上げたのが南北方向の通りで一番東に記される「池田町通り」に掲示の駒札です。「安土の池田町を移したもの。元々、安土でその名前は織田信長の家臣の名前によるものといわれています。一筋西の寺内町と合わせて遊女茶屋8軒が建ち並んでいた一方、四町目の町年寄をつとめ、日記などを残している薬屋五兵衛家の資料のうち『池井蛙口記(ちせいあこうき)』(=治世悪口記)は町政の刷新をめざした自治活動の詳細な記録として広く知られています。」(転記)池田町はヴォーリス建築の「洋風住宅街」がある通りです。ご紹介済み。この池田町通りを起点にまずは、東方向に順次ご紹介しましょう。(入手した資料に載る観光案内の地図では、池田町通りの西の通りに名称の記載がありませんので、ここから始めます。資料1) 前回、本町橋付近にふれました。池田町通りから一筋東は「本町通り」です。「八幡町の中心の町という意味。城の正面にあたり、商業街の中ではほぼ中央にあたりますが、本町筋よりも街道筋にあたる横筋の京街道の方が繁華街となりました。同町三丁目の近江屋内池宗十郎、四丁目の扇屋中村四郎兵衛などは全国的な商業活動で知られました。」(転記)(☆)「小幡町通り」は本町通りの一筋東。現在では近江八幡駅前から「ぶーめらん通り」から中村町交差点を経て、この小幡町通りが、幹線道路の1つになっています。「八幡城下形成時に神崎郡小幡村(現:東近江市五個荘)の商人がこの地に移り住んで成立した町と伝えられています。この地の有力者であった西谷家も小幡出身です。また、八幡商人御三家の一つに称された同町の扇屋伴伝兵衛は全国的な商業活動で知られました。」(転記)小幡町通りの一筋東は「新町通り」です。この駒札には出逢えていません。この新町通りの南端に八幡商業高校の校門が位置します。ご紹介ずみ。 (☆)「魚屋町通り」は新町通りから一筋東。「うわいちょう」と読むのですが、難読の部類ですね。「多くの魚屋が軒を並べた町。『うわい』は魚市が変化したものといわれています。同町元(もと)にある浄土宗正福寺(しょうふくじ)は、多くの八幡商人を檀徒とし江戸期の朝鮮通信使の来町にあたっては随行する対馬藩主宗(そう)氏の昼食場所にあてられました。」(転記)魚屋町通りの北端角は,W・M・ヴォーリズが英語教師として着任した時、最初に住んだ家があったところ。「創の家」跡地。今は(株)近江兄弟社の建物があります。ご紹介済み。(☆)魚屋町通りの一筋東は「為心町通り」です。「町名は、城下町時代、豊臣家に仕えた為心斎(いしんさい)が居住していたことに因むと伝えられています。同町は多くの近江商人を輩出しており、同町元には江戸期松前藩(現:北海道松前町)の下請けとして蝦夷地(えぞち 現:北海道)開発に従事した惠比寿屋(えびすや)岡田彌三右衛門家の邸宅跡を示す石碑があります。また、同町上・中の一部は、かつて桶屋町(おけやちょう)として独立していましたが、昭和29年の市政施行と同時に同町に併合されました。」(転記)為心町通りには面していませんが、為心町中にはヴォーリズ建築の一つ、アンドリュース記念館があります。ご紹介済み。 為心町通りから一筋東は「仲屋町通り」。これも難読の部類で、「すわいちょう」と読みます。「八幡城下形成時に仲買商人の町として成立した町で、町名は商売の仲買を意味する『すあい』に因みますが、後には他の商人町と変わるところはありませんでした。また、”市助町”とも呼ばれましたが、これは豊臣秀吉奉行衆の一人だった一柳一助直末が居住していたことに由来するといわれています。」(転記)仲屋町通りには、ヴォーリズ建築の一つ、「元八幡郵便局」があります。ご紹介済み。仲屋町通りから一筋東は「永原町通り」です。ここも駒札には出逢っていません。 「博労町(ばくろちょう)通り」は永原町通りから一筋東です。「軍馬を売買することを仕事とする人が住んでいた町。秀次公の掟には、近江国(現:滋賀県)中の馬の売買は八幡以外では禁じていたことから、近江の国の馬のすべてがここで売買されていたと考えられます。また、路上で馬をつなぐために特に道幅を広くしてあります。」(転記)この通りを横切るときは道幅を意識していませんでした。駒札を撮っただけでした。 「慈恩寺通り」は博労町通りから一筋東です。「安土の慈恩寺から移住してきた人々によって作られた町だと考えられています。宝永4年(1707年)頃には隣接する市井村と合わせて47軒が蚊帳(かや)の製造内職に従事していたという記録があります。」(転記)博労町通りと慈恩寺通りについて、私が入手した資料にある観光案内地図に通り名が載っていません。(資料1)起点とした池田町通りから永原町通りまでが明記されています。多分観光地図としての表記の都合によるのでしょう。とはいうものの、宝永3年に作成された「八幡町絵図」を見ますと、この慈恩寺通りの東は、市井村との境界になり、城下町としての南北の通りの東端が慈恩寺通りだったことがわかります。(資料2)北から慈恩寺町元、慈恩寺町中、慈恩寺町上と南方向に並び、慈恩寺町上の南辺が京街道に面していて、ここの四つ辻から東一筋のところの角が「札辻」で、ここから京街道は南に転じています。逆に京に行くためのこの街道は、鍵型に屈折しながら八幡城下を通るように設定されていたのです。慈恩寺町上の四つ辻からは仲屋町通りに右折して、二筋北上し、そこで左折して、西に進み、池田町通りから二筋西の通りを横切りその先で城下町を外れ京に向かうというルートでした。(資料2)城下町に幹線道路を通すことで往来のコントロールを行うとともに城下町の繁栄も狙っていたのでしょう。脇道に逸れました。元に戻ります。この慈恩寺通りには、慈恩寺町元にヴォーリズ記念館があります。現在の地図を見ますと、慈恩寺町元、慈恩寺町中の東隣りは市井町です。市井町に近江兄弟社中・高のキャンパスが所在します。ヴォーリズ学園です。慈恩寺通りから日牟禮八幡宮に向かう時に東西方向の通りを歩いていて出逢ったのが この東西の畳屋町の駒札です。「畳大工職人が集まり住んだところ。大工町と共に工匠の保護という意味からその地子すなわち年貢を免除されていました。寛政4年(1792年)には畳大工仲間が公認され、同年の作法帳によれば仲間は八幡町全体12軒で組織されていました。江戸時代末期には、西畳屋町の松前屋藤兵衛をはじめ八幡町全体で24軒の畳大工職人が住んでいました。」(転記、両駒札は同文)(☆)「間之町(あいのまち)」は、西畳屋町から西に進み、永原町通りを横断した先にあります。「永原町と仲屋町の中間の意味と考えられます。『元禄絵図』(徳川時代)では”相之町”、『輿地志略』には”相町一町”と記されています。他に”間町”と記されたものもあります。江戸時代中期以降の仲間商人として灯心屋仲間と質屋仲間に所属する畳屋伝左衛門がいました。」(転記)(☆) 八幡堀に沿う一筋目の東西方向の通りは、少なくとも西の新町通りあたりまでは「大杉町通り」と呼ばれています。「八幡堀の対岸は日牟禮社(現:日牟禮八幡宮)境内で、元禄町絵図では同堀に架かる宮ノ橋が描かれています。日牟禮社の門前町的性格を有しており、町名は同宮境内の杉の木に因むといわれています。また、久兵衛町とも呼ばれていたこともあり、これは豊臣秀吉・秀次に仕えた田中久兵衛吉政が居住していたことに由来すると言われています。」(転記) (☆)大杉町から八幡堀に架かる白雲橋を渡ると、日牟禮八幡宮の境内です。ここの地名が「宮内町(みやうちちょう)」です。「宮内は、日牟禮八幡宮の領地で、秀次時代には武家屋敷が多くありました。これを『宮内』と呼ぶようになったのは徳川末期頃からで、それまでは決まった呼び方はなく、『宮ノ内』『宮村』などと呼ばれていました。八幡城下形成時には宮ノ橋(白雲橋)・本町橋・幸円橋(清四郎橋)の三橋で八幡各町と結ばれていました。」(転記)ここで、池田町通りの西側地域に戻ります。池田町通りの西側には、元城下町としては2つの南北方向の通りがありました。調べた範囲ではこれらの通り名が確認出来ません。 池田町1丁目の西側の南北の通りを挟む町が「佐久間町」です。「八幡城下形成時に安土城下の佐久間町を移して成立した町で、それまでは小船木村に所属する地であったようです。元々、安土でのその名前は織田信長の家臣の名によるものといわれています。北が八幡堀に面する当町は八幡浦の一角として栄え、元禄13年(1700年)には丸小船2隻・船株高397石をもつ舟屋喜十郎ら八幡浦船株仲間に入る船屋3軒がありました。」(転記)佐久間町の南方向は、元玉屋町、北元町、北末町と一貫性のない町名が連なります。そのため、私には的確な推測もできません。(☆)佐久間町の西隣は、一筋西の南北の通りを挟んで、孫平治町1丁目です。その南には孫平治町2丁目、西元町、新栄町が続きます。孫平治町1丁目の北辺側に位置するのが前回ご紹介した「佛光寺八幡別院」、旧名西方寺です。この町名駒札を2012年に撮っていたのは、ある史跡探訪に参加し、孫平治町2丁目にある「洞覚院」まで直接、東方から町中の通りを進んでここまで来たことがあったのです。その時1丁目のエリアには行きませんでした。「豊臣秀次の補佐である大名で水口城の城主である中村一氏の通称『孫平治』に因んだ町名です。一氏の領内から移住した人が住んだ町だと思われます。二丁目の浄土宗洞覚院は豊臣秀次の息女玉姫の位牌を祀っています。」(転記) 孫平治2丁目の南側が「西元町」です。西元町の東側隣りが「北元町」です。「西元町・西末町・北元町・北末町の4町は、明治維新までは総じて『寺内(じない)』といわれていました。この地にある本願寺八幡別院金台寺の門前町の意味です。八幡城下形成時に、元々安土にあった同寺と東寺内・西寺内の両町の住民を移してできた町です。現在の名称は町政の便宜上4分してこのように呼ぶようになりました。」(転記、両駒札は同文)北元町には「本願寺八幡別院」があります。上記の洞覚院の続きにこの本願寺八幡別院を訪れています。ご紹介済み。 この「日杉町」の駒札は、上記の「佛光寺八幡別院」を探訪したとき、八幡堀傍で目に止まり撮った駒札です。孫平治町1丁目の北西側に位置します。「日杉山の麓にあることからこの名がつけられました。『檜杉』と書くこともあったことから日杉山の名の由来は檜や杉が茂った山であったことからだと思われます。元禄町絵図いは町名が見えませんが、『輿地志略』には『日杉町一町』と帰されています。」(転記)国土地理院の地図で確認しますと、孫平治町1丁目、同2丁目、西元町と続く町並みの南北の通りが元城下町の町割りの西端になっている理由が一目瞭然です。この三町の西側がわずかの標高ですが小山なのです。地図には140という数字が記されていますので、標高を示すのでしょう。これが「日杉山」と称される山です。この小山が八幡城の城下町西側の防御線の一部になっているとも言えそうです。(資料3)参照資料1)「滋賀近江八幡 水都八都 ウィリアム・メレル・ヴォーリズ 近江八幡を愛した アメリカ人 」 No.20 近江八幡観光物産協会 2) 絵図・地図一覧 :「近江八幡市立図書館」3) 近江八幡 日杉町周辺 :「国土地理院」補遺中村四郎兵衛邸 :「4travel.jp」伴伝兵衛 :ウィキペディア岡田弥三右衛門 :ウィキペディア田中久兵衛吉政 :「コトバンク」近江八幡 八幡商人 :「近江商人のふるさと」八幡商人 :「小さな館 近江八幡」西川甚五郎本店史料館 :「西川文化財団」浄土真宗本願寺派 本願寺八幡別院 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 滋賀 近江八幡ぶらり -1 近江八幡駅南口のモニュメント、ぶーめらん通り へ探訪 滋賀 近江八幡ぶらり -2 西光寺<1> 本堂、織田信長公供養塔、地蔵大菩薩ほか へ探訪 滋賀 近江八幡ぶらり -3 西光寺<2> 山門2ヶ所、鐘楼、鎮守社、地蔵尊 へ探訪 滋賀 近江八幡ぶらり -4 池田町周辺、八幡堀、佛光寺八幡別院、図書館 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 ヴォーリズ建築 近江八幡市 -1 ウォーターハウス記念館・吉田邸ほか 3回のシリーズでご紹介探訪 [再録] 滋賀・近江八幡 秀次の城と城下町 -1 秀次館跡と秀次像、西ノ丸 5回のシリーズでご紹介
2022.06.07
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西光寺から小幡町通りに戻り、少し北に歩むと、「八商前」のバス停があります。通りを横断します。通りの西側には「近江八幡市小学校」があります。 八幡小学校は、「小幡上筋」交差点の南西角に位置します。ここで、左折して西に進みます。 通りに北面する形で、小学校の正面の建物が見えます。こちらが正門なのでしょう。 民家の敷地内の角に地蔵堂が祀られています。地蔵堂を見つつ進みます。 池田町通りです。北方向、通りの正面に八幡山が見えます。右折して、この通りを北上し、ヴォーリズ建築巡りの集合地であるウォーターハウス記念館の場所をまず確認しました。集合時刻にはまだ少しゆとりがありますので、通りを北に進み八幡堀まで行ってみることにしました。 この建物の角の柱に「池田町四丁目」の住所表示板が取り付けてあります。左は池田町通りを振り返った景色です。池田町は八幡堀側が一丁目で、順次南方向に五丁目まであります。 八幡堀に至るまでの途中の民家傍の地蔵堂です。ここのお地蔵さまはお顔に化粧が施されています。京都府以外では、お化粧顔のお地蔵さまを見たのは初めてのような気がします。 池田町通りの突き当たり、八幡堀の手前に地蔵堂があります。 八幡堀を久しぶりに眺めました。堀沿いに歩いて、こちらまで来たことはありません。 まずは八幡堀沿いに西方向に歩いてみることにしました。八幡堀を観光遊覧船が行き来していました。進んで行くとお寺の建物らしきものが視野に入ってきます。 定規筋の入った築地塀に「仏光寺八幡別院」の木札が掛けてあります。オープンな正面に本堂が見えます。 (所在地:近江八幡市孫平治町1-16-1) 築地塀の前には幅の狭い堀が設けてあります。 本堂 真宗佛光寺派のお寺です。本尊は阿弥陀如来。 本堂の手前には、一対の石灯籠が奉納されています。竿の正面に「濱御堂」と刻されています。竿の形はあまり見かけない形状です。この佛光寺八幡別院は、旧称が西方寺、濱御堂と称されていたと言います。石灯籠の刻字がこれで理解できます。(資料1)旧称で調べてみますと、縁起によれば、推古天皇27年3月に四箇寺の1つとして建立されたと伝わります。室町時代、永正7年(1510)の乱にて放火により灰燼に帰したそうです。その後坊を建て、天正19年には魚屋町に寺が移転。元禄14年(1701)春に現在地に移転し、今日に至るようです。佛光寺派での江州第一の坊(寺)だとのこと。(資料2)現在の本堂は、1718年に再建されたそうです、(資料1)右斜め後ろに、後脚をぐっと立ち上げた獅子像が置かれています。これもまた珍しいスタイルです。 本堂の左斜め前には、この水鉢が見えます。 本堂の正面は、三間にわたり桟唐戸が設けてあります。その両側はガラス格子戸になっています。御堂の正面に額を掲げていないのが意外でした。逆にスッキリした感じではあります。奥行(梁行)は確認できていませんが、間口(桁行)は7間。入母屋造、本瓦葺です。 本堂屋根の留蓋瓦。後脚を立ち上げている姿は石灯籠傍の獅子像と似ています。 向拝の木鼻金網で囲ってあります。鳥害除けなのでしょうね。 本堂の左側には通路があり、その先に廻廊の建屋が見えます。廻廊の下を潜った先は境内墓地のようです。「仏光寺八幡別院浄苑」と記された大きな木札が掲げてあります。一方、本堂の右隣りには庫裡があります。 境内地の北東角、八幡堀に近いところにこの建物があります。仮設の保護屋根が設けてあります。推測では太鼓楼かと思いますが不詳です。 その西隣りに鐘楼があり、さらに西側に庫裡が見えます。 鐘楼自体は比較的実質本位の建物という印象です。梵鐘の撞座の上の縦帯に蓮華座がレリーフされ、その上に「南無阿弥陀仏」と六字の名号が陽刻されています。 池ノ間には宗紋がレリーフされています。こちらの縦帯には「佛光寺八幡別院法什物」と陽刻されています。「什物」とは「私人がかってに処分してはならない、お寺の備品」という意味です。佛光寺八幡別院を出て、左折するとすこし先が八幡堀で橋が架かっています。 橋の上から八幡堀の東方向を眺めた景色堀沿いに引き返します。八幡堀沿いに戻る時、池田町通りからさらに一筋東側の通りまで歩いてみることにしました。 八幡堀の傍に祀られているお地蔵さま。こちらはお化粧なしです。 池田町通りの一筋東側は「本町通り」。八幡堀に架かるのは「本町橋」です。 橋の南詰に地蔵堂があります。 格子戸から内部を覗くと、厨子が収めてあり、お地蔵さまは拝見できませんでした。地蔵堂の脇には、石仏が集められています。宝珠様の石造物もあります。それらにも涎掛けがかけてあります。 地蔵堂の傍から八幡堀の岸に降りてみました。右は八幡堀の東方向の景色、左は振り返って本町橋を眺めた景色です。 本町橋を渡るとその先はT字路で、突き当たりに彫刻像があります。台座には「みずうみの詩」と記された銘板が嵌め込まれています。 八幡山側に見えるのは、「近江八幡市立図書館」です。余談です。近江八幡市立図書館のホームページを見ますと、「近江八幡市歴史浪漫デジタルアーカイブ」があり、「絵図・地図一覧」のページがあります。(クリックしてご覧ください)そこに古地図が公開されています。(資料3)「八幡町絵図3」は元禄11年(1698)の地図で、「近江国蒲生郡八幡町惣絵図」は宝永3年(1706)の地図です。これを見比べますと、前者の地図には上記の西方寺はなく、後者の地図には西方寺が記入されています。こういう対比ができるのも、おもしろいものです。集合時刻が近づいてきましたので、ここで一旦探訪を切り上げ、池田町通りに戻ります。ヴォーリズ建築巡りを終えた後で、ぶらりと巡る探訪を続けました。つづく参照資料1) 仏光寺八幡別院 :「神殿大観」2)『大日本地誌大系 近江國輿地志略 下』 巻之五十四 蒲生郡第一 p503) 絵図・地図一覧 :「近江八幡市立図書館」補遺真宗佛光寺派 本山佛光寺 ホームページ近江八幡市立図書館 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 滋賀 近江八幡ぶらり -1 近江八幡駅南口のモニュメント、ぶーめらん通り へ探訪 滋賀 近江八幡ぶらり -2 西光寺<1> 本堂、織田信長公供養塔、地蔵大菩薩ほか へ探訪 滋賀 近江八幡ぶらり -3 西光寺<2> 山門2ヶ所、鐘楼、鎮守社、地蔵尊 へ
2022.06.06
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西光寺の正門(表門)から巡っていきましょう。大きな寺号標が門前に立っています。北側面に「天正8年 織田信長公開基」と刻されています。前回ご紹介しましたが、当初は安土の城下に建立されました。八幡城下の此の地への移転は天正14年です。(資料1) この表門は新町通りに面しています。築地塀沿いに堀が巡らされています。山門は通りより一段奥まった位置に建てられていて、よく見ると門の両側の凹型の築地塀部分だけに定規筋が見えます。これは当初からこの形式だったのかどうかは不詳です。 表門は四脚門の形式です。正面に向かって右側に脇門が設けてあります。控柱は木組みだけで装飾金具などはなく質朴です。 留蓋瓦 蟇股 木鼻 門前で、門の木組みの構造を見上げます。 頭貫と虹梁の間には蟇股の代わりに、その空間に龍と雲文が彫刻されています。山門を入ると、参道は正面の本堂に延びています。途中に右折して北方向に分岐する参道があります。こちらの参道を辿ると、北門に至ります。山門を入った右方向、築地塀の内側に「鐘楼」があります。分岐した参道を少し進みます。 基壇の上に鐘楼が築かれています。背後に築地塀が見えます。 梵鐘をまず観察しました。表面に意外と装飾文様がほとんどない梵鐘です。後で写真をみていて気づいのですが、下段の写真の乳ノ間のすぐ下、右から2列目の下に半ば埋め戻されている小さな孔が見られることです。勝手な推測では、戦時中に金属供出され、後に戻されてきた鐘ではないかと思います。 鐘楼の天井が折上小組格天井になっています。周囲に天井支輪があり、格縁の中に小組が施されています。凝った天井です。(資料2)鐘楼の四周の蟇股の浮彫は見応えがありまます。 鐘楼内の基壇面には、かつての時代の火消道具が置かれています。保存という主旨でしょう。江戸時代の「竜吐水」と称された火消し道具(手押しポンプ)でしょう。(資料3) 鐘楼から参道を挟んで反対側(西)は玄関口が石畳の先に見えます。本堂と繋がる客殿の玄関口と推測します。 屋根の鬼板 こちらがもう一つの北門です。こちらは向かって左側に脇門があります。地図で確認沁ますと、この北門の前の通りを左(西)に行けば、小幡町通りに出て「八商前」バス停です。右(東)に進めば、八幡商業高校の校門前、魚屋町通りとのT字路に至ります。 木鼻や蟇股はごくシンプルな造形です。 北門を入ると、参道の先、突き当たりには前回ご紹介した地蔵大菩薩の地蔵堂覆屋が位置します。 参道の左側手前に見える石鳥居がこちらです。 基壇が高く、前面に石段が設けてあり、覆屋の中に小社が祀られています。 鎮守社のようですが、祭神は不詳。判断できるようなものは見当たりません。 鎮守社と鐘楼との間にお堂があり、その西側には地蔵菩薩立像が中央に、左右に三躰ずつ並んだ六地蔵とともに鎮座します。これらはブロンズ製だと思います。 六地蔵像の傍から眺めた鐘楼 本堂の右前、北東側は緑豊かな庭になっていますが、その中にこの小祠が祀ってあります。鎮守社かと思われますが、不詳です。柵があるので近づくこともできません。これで一応自由に巡ることができる範囲を拝見しました。引き返し、駐車場側から小幡町通りに戻ります。 歩道に戻り歩き始めて目にとまったのがこの「西光寺領」と刻した石標です。この小幡町通りが寺地の境界になっていたということでしょう。つづく参照資料1)『大日本地誌大系 近江国與地志略 下』(大正4年8月) p46-47 2)『図説 歴史散歩事典』 監修:井上光貞 山川出版社 p1813) むかしの消防道具 :「京都市消防局」補遺竜吐水 :ウィキペディア江戸の三火消しと消防技術 :「お江戸の科学」消防博物館~江戸の火消し~ :「お江戸の科学」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 滋賀 近江八幡ぶらり -1 近江八幡駅南口のモニュメント、ぶーめらん通り へ探訪 滋賀 近江八幡ぶらり -2 西光寺<1> 本堂、織田信長公供養塔、地蔵大菩薩ほか へ
2022.06.05
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中村町の交差点を横断し、小幡町通りの東側歩道を進むと、この看板が目にとまりました。「織田信長」「地蔵尊」「西光寺」という言葉に引きつけられました。お寺の駐車場があり、そこから境内に向かう人を見かけましたので、境内地を訪れてみました。ヴォーリズ建築巡りの集合地にはかなり近づいていて、時間のゆとりがありましたのでぶらりと。後で、地図を確認しますと、西光寺の正面は小幡町通りから一筋東側の新町通りに面していて、通りを挟んで八幡商業高校の西隣りに位置します。(所在地:近江八幡市中村町)西光寺には裏口から訪れたことになります。境内の南東部はわりと大きな境内墓地になっていて、駐車場は墓地に近いところです。 本堂の南側を通り、 右側の墓地域との間を歩むと、前方に手水舎が見えます。 目にとまったのがその先の「織田信長公」と記された看板です。「織田信長公供養塔」と刻した石標が建てられ、石造五輪塔形式で供養塔が建立されています。 駒札京都の寺町通の北に阿弥陀寺があり、そこには織田信長の供養塔が祀られています。ここは以前に探訪記をご紹介しています。阿弥陀寺第二代貞安により分骨されたとの伝えでこの境内墓地にも供養塔が営まれたそうです。1931(昭和6)年、信長の300年遠忌に際して供養塔がこの現在地に移されました。(駒札より) まずは本堂からご紹介しましょう。 西光寺の正門となる新町通りに面した山門を入ると、正面に東面する本堂が見えます。龍亀山大雲院西光寺と号し、浄土宗のお寺で、知恩院に属するそうです。開山は貞安上人。後で調べてみてなるほどと思いました。開山の貞安上人は、天正7年(1579)5月27日、織田信長の居城安土城下の浄厳院で行われた「安土宗論」(浄土宗と日蓮宗との論争)に浄土宗側の一人として加わった長老僧です。安土宗論は「安土問答」とも称されます。(資料1,2,3)『信長公記』巻十二「法花・浄土宗論の事」の箇所に、「関東の長老、安土田中の貞安長老二人、是も硯・料紙を持ち候て、出でられる。・・・・・田中の貞安、早口にて、初問を置かる。其れより互ひの問答を書き付くる」と記し、問答の初めの部分が一部記録されています。貞安上人の名前が載っているのです。(資料4)貞安は最初は能登の西光寺に住していたのですが、乱を避け近江に移ってきていたそうです。そして、この安土宗論に加わることになります。「信長信敬也。西光寺を建立す。始安土城大手の前田の中に御建立。天正7年己卯年11月5日釿始。同8年庚辰年9月成就す。」(資料1)信長が開基となり西光寺を安土に建立したのです。天正10年6月、本能寺の変で信長が死に、山崎の戦いで秀吉が勝ち、その後秀吉は天下を掌握します。天正13年には、正親町天皇の勅願所となります。天正14年、豊臣秀次が八幡山に城を築き、安土の町を悉く引き遷して、八幡に城下町を形成します。この時、西光寺も宇津呂村大字中(現在地)に移りました。豊臣秀次が祈願所として、寺の造営に援助したそうです。天正18年には後陽成天皇の勅願所となり、同19年に大雲院の勅額を下賜されたと言います。(資料1,2,5)本尊は阿弥陀仏坐像。余談ですが、現在、西光寺は中村町、東隣りの八幡商業高校は宇津呂町にあります。かつての地名が名を留めています。 本堂正面の桟唐戸は閉められていました。 扉の上部の扁額「西光教寺の横額は安井門主の御筆也」(資料1)の記述がありますので、「西光教寺」と記されているものと推測します。 両側の扉は開けてあります。 この透かし彫りが見られるように扉を開放してあるのかもしれません。 向拝の木鼻 蟇股には波の間から龍が顔を出している構図が彫刻されています。 獅子を彫刻した留蓋瓦本堂は間口(桁行)7間、奥行(梁間)5間、入母屋造、本瓦葺です。3間幅の向拝が付いています。西光寺は享保7年(1722)に本堂等主要な建物が焼失したそうで、現在の建物はその後に再建されたものと言います。(資料5)また、「江戸時代を通じ中村地内に高一一石四斗余りの朱印地を有し、四箇寺の末寺を擁した。触頭寺院であった。」(資料6)とか。 本堂の手前、参道の左右に一対の大きな石造水瓶が建立されています。 基礎の格狭間に刻されたレリーフに惹かれます。 文久4年(1864)3月の刻字が読み取れます。 本堂の南東側、境内墓地の手前にこの覆屋があります。 覆屋の中には、「地蔵大菩薩」の扁額を掲げた地蔵堂が収めてあります。 「南無地蔵大菩薩」と墨書された赤提灯が数多く覆屋内に吊り下げられています。地蔵堂覆屋の東側に沢山の供花がみえます。 傍まで行ってみますと、愛玩動物慰霊碑として、「生類供養塔」が建立されています。供花の多さを見ますと、ペットを飼い愛しんでいた人々が沢山いらっしゃるということでしょう。動物たちの安息地になっているようです。 地蔵堂覆屋の西側には地蔵石仏群があります。織田信長公供養塔がこの石仏群の南側に位置します。 石仏群のさらに西側にも覆屋があり、 ここにもお地蔵さまが祀られています。 宝珠様の石造物にも涎掛けがしてあるのが微笑ましい・・・・・。 さらに西側には、石造六地蔵立像が祀られています。右背後には、数多くの無逢塔が並んでいます。たぶん西光寺歴代住職の墓所域なのでしょう。ずっと拝見してくると、境内墓地の北辺は地蔵尊像がたち並び、それが墓地との境界にもなっている感じです。この後、正門に当たる山門や鐘楼などを巡ってみました。つづく参照資料1)『大日本地誌大系 近江国與地志略 下』(大正4年8月) p46-47 2) 新撰近江名所図会 :「国立国会図書館デジタルコレクション」3) 安土問答 :「Web版 新纂 浄土宗大辞典」4)『新訂 信長公記』 太田牛一 桑田忠親校注 新人物往来社 p257-2625) 滋賀県近江八幡市 西光寺 :「JAPAN GEOGRAPHIC」6) 西光寺 :「Web版 新纂 浄土宗大辞典」補遺西光寺 :「滋賀・びわ湖 観光情報」貞安 :「Web版 新纂 浄土宗大辞典」阿弥陀寺 :「Web版 新纂 浄土宗大辞典」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 滋賀 近江八幡ぶらり -1 近江八幡駅南口のモニュメント、ぶーめらん通り へこちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 [再録] 阿弥陀寺 織田信長の本廟所
2022.06.04
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先月(5月)、ヴォーリズ建築巡りに参加する目的で近江八幡市に出かけました。その折、前後の時間に、ぶらりと近江八幡の各所を歩いてみました。近江八幡には市主催のウォーキングへの参加も含めて幾度か来ています。その折は一応の探訪先は決めていました。今回は主目的以外は全く思いつくままのぶらり探訪です。だけど、それが思わぬ発見、出会いになりました。無計画にぶらりと町歩きするのも良きかな・・・・です。まとめて、ご紹介します。 このモニュメントはJR近江八幡駅の南口前のロータリーにあります。改札口を出て、うっかり南口に出てしまったお陰で、こんなモニュメントがあるのを知りました。少し調べてみましたが、詳細は不詳。 改めて北口から降りて、駅前の通りを北方向に(~方位としては北西寄りなのです~)進みます。近江八幡駅前の道路標識が見えます。左は振り返って眺めた近江八幡駅。 通りの左側歩道を歩き始めて、あるビルの入口そばで出会った彫刻像です。 いいですねえ。ちょっと、オシャレな感じ・・・・。今回初めて知った場所。 いつ頃に設置されたのでしょう・・・・。 路傍には、「ぶーめらん通り」と刻した道標が立っています。ネットのMapionの地図で確認すると、駅前から「中村町」の交差点までは、県道502号と表記されています。この交差点で東西方向の県道2号と交差します。ブーメラン通りを北上し始めて気づいたことは、この通り沿いに彫刻像が設置されていることでした。そこで、まずここから。完撮したわけではありません。取り残しもあります。部分的に写真に撮った作品をここでは列挙してご紹介します。 よみがえる力 協調 通りの先に八幡山が見えています。城下町として町並みが計画的に作られたことが感じ取れます。 ふたつの力 ”近江八幡上空より市街地を望む”所々に、近江八幡の地理・歴史に関わる古写真の類いなどが紹介されています。彫刻像群とこれらを丹念に眺めていけば、このぶーめらん通りを往復するだけで、けっこう楽しめる時間が過ごせると思います。 「中村町」の交差点と道路標識交差点を横断し、さらに北方向に進みます。この先は「小幡町通り」と称されます。このときの私の第一目印は「八商前」でした。往路は目的があり、ぶらりと歩いているわけにはいかず、写真を撮るのをかなりはしょりました。帰路に反対側の歩道を意識的に歩きました。以下は、その時に撮った作品群です。 光と風の窓 石のあしおと ひだまりの詩 希望 楽しみ (不詳) 近江八幡駅前に戻ってきました。次回は、小幡町通りのぶらり探訪から始めます。つづく補遺近江八幡駅 :ウィキペディア近江八幡駅 :「近江鉄道(電車)」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 [再録] 滋賀・近江八幡 秀次の城と城下町 -1 秀次館跡と秀次像、西ノ丸 5回のシリーズでご紹介探訪 [再録」 滋賀・近江八幡 琵琶湖の沖島と長命寺 -1 長命寺港、沖島(1) 6回のシリーズでご紹介
2022.06.02
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アンドリュース記念館を出て、仲屋町通り・永楽町通りを横切り、博労町通りとの辻に至ります。ここで左折して北方向に歩み、緑地の広場を斜めに横切って、さらに東側の慈恩寺通りに出ます。通りを少し北に歩むと、 この門扉が見えます。 門柱には、「財団法人 近江兄弟社一柳記念館」と記された表札銘板が掲げてあります。その下に「財団本部事務局・近江兄弟社湖声社・恒春園事務局・社友会事務局」という名称が併記されています。仕切り塀には「旧ヴォーリズ住宅」の案内板が設置されています。慈恩寺通りに面し、東側にあります。(所在地:近江八幡市慈恩寺町元11) 「旧ヴォーリズ住宅」、現在は「ヴォーリズ記念館」(滋賀県指定有形文化財)になっています。このヴォーリズ記念館の見学は無料とのことですが予約が必要と記されています。訪れる方はご注意ください。(TEL. 0748-32-2456) W・M・ヴォーリズの後半生の自邸となった建物です。1931(昭和6)年に建てられました。当初は幼稚園の教員宿舎として建築されたのですが、途中で自宅に変更され、引き続き和室部が増築されたと言います。洋室部は2階建、和室部は1階建です。外観は質素な感じですが、下見板張り、両開きの窓、暖炉の煙突があり洋風を感じさせます。(案内板より) 門扉から玄関口までのアプローチ アプローチの先の玄関は南面していて、すぐ傍に庭へと導くアーチ型の中門が設けてあります。 玄関前で、振り返って建物の南側面を撮りました。 玄関の左側に「一柳米来留(ひとつやなぎめれる)」と陽刻された表札が掲げてあります。内部をご紹介できないのが残念です。「広い居間と応接室をもち、全体に簡素なつくりであるが、奥に畳の和室二室を設けていることなどヴォーリズ夫妻の日常生活がみられるところである」と山形政昭教授は記されています。(資料1)1階の広い応接室には、ヴォーリズの日常生活に関連する様々な遺品や資料が保管・展示されています。メレル夫妻の写真も壁に掛けられています。ヴォーリズ自筆の書「神の國」の扁額も掲げてあります。これが「創の家」跡地の角地に建立されている「神の國」碑のソースなのでしょう。ヴォーリズは「建築物の品格は、人間の人格の如く、その外装よりも、むしろその内容にある」という考え・信念で建築作品を次々に生み出していきました。その実践はこの建物全体にも具現化されています。玄関から広い応接室に入ると、反対側に左右に開く観音開きのドアがあります。そのドアの先は和室部につながっています。また、玄関を入ると左側に背もたれのあるベンチが備え付けてあります。ちょっとすわって靴を履くのに楽で便利なように背もたれの角度に工夫が施されているのです。ぜひ、坐って試してみてください、というのが館長さんのお勧めでした。勿論、実体験してみました。 ヴォーリズ記念館を出て、今回の最後の探訪先ヴォーリズ学園に移動します。 北方向に少し歩むと四つ辻です。右折して道沿いに回り込むと、近江兄弟社中・高のキャンパスの南西側になり、門が見えます。右の門柱に「学校法人 ヴォーリズ学園」、左の門柱に「近江兄弟社学園」と記された銘板が嵌め込まれています。現在は教育会館の正門です。 仕切り塀沿いに通用門へ 門を入りキャンパス内の広がりを眺めてまずは右の2つの建物の間の通路を通り、左折しハイド記念館に向かいます。 建物の入口の上部に「ハイド記念館」と表示されています。国の登録有形文化財(2000年)。 構内の中庭から眺めたハイド記念館の全景1931年にヴォーリズの設計により、清友園幼稚園の園舎が建設されました。これはメンソレータム社創業者アルバート・アレキサンダー・ハイドの夫人から建設費用の寄付を受けたことによるそうです。ハイド記念館の名称の由来です。2003年3月まで幼稚園舍として使われていました。現在は館内に創立者ゆかりの品や絵画、パネルが展示されて、一般公開されています。(資料2,3,4) こちらが「教育会館」。上記A.A.ハイド氏の寄付により、1931年に建てられたヴォーリズ建築です。同様に国の登録有形文化財(2000年)に指定されています。建物内部は大きなホールです。かつては、教育活動や講演などの様々な催し物に使われていたそうです。舞台があることと併せて、室内競技ができ、階段式の観戦用座席もあります。校歌が、大きな額に日本語と英語でそれぞれ作成され、掲げてあるのが印象に残りました。「ヴォーリズが日本に紹介したと言われる古いハモンドオルガンがあり、今でも健在です。」(資料5)とのこと。補足的なご紹介です。ヴォーリズは1919(大正8)年に一柳満喜子と結婚しました。9年間留学し教育問題に造詣の深い満喜子は、結婚した翌年、1920年に自宅の庭を開放しプレイグラウンドと称して幼児教育の場を設けました。2年後に正式の認可を受けて、清友園を開設しました。これが現在のヴォーリズ学園の淵源になります。清友園の開設が、上記の1931(昭和6)年の幼稚園舍と教育会館の建設に発展したわけです。(資料6) ハイド記念館の2階から眺めた教育会館 教育会館正門から真っ直ぐに入って来ると、教育会館の玄関口に至ります。 入口ドアの上部には文化庁発行の「登録有形文化財 第25-0138号」銘板が掲示されています。 教育会館は現在の近江兄弟社中・高の校舎に繋がっています。 最後に中庭に触れておきましょう。 樹木の傍に、この案内板が設置されています。「学園のシンボル樹・メタセコイアの由来について」1954年の春休みに、近江兄弟社中学3年生が先生に引率され、京都大学理学部植物園を見学しました。当時米国から戦後初めて日本の皇室に贈られたメタセコイアを植物園で育てていることを植物園長から紹介され、その苗木の1本を学園にいただいたそうです。この苗木は、日本最初のメタセコイアの樹の第三世に当たるとか。それが今や大木に成長し、学園のシンボル樹になっているとのこと。(案内説明より) 近江兄弟社学園創立者として、一柳満喜子(1884-1969)の胸像が建立されています。 そして、このヴォーリズの碑も。これにはおもしろいエピソードがあるそうです。「創の家」跡地に「神の國」碑があります。そのオリジナルが上記ヴォーリズ記念館の応接室に掲げてあることに触れました。石碑に刻された「國」という字をご覧ください。一点が記されていないのです。最後の点が欠けていると指摘されたヴォーリズは、丸を書いて、その中に点を書き加えたと言います。そして、その点は、日本の中心がこの近江八幡なんだ、それを示すための点に使うのだよ、と言ったとか。ヴォーリズ記念館で扁額を見て確認しました。ヴォーリズが1934年に墨筆した「神の國」の扁額には國の字に点が記されていません。「ヴォーリズ」とカタカナで署名したした左下に、小さな丸が記され、その中に点が入っています。尚、「創の家」跡地の「神の國」碑を注意深く観察すると、これには1934という漢数字の年号は刻されていませんがカタカナ表記の名前の左下に小さな丸の中に点が刻されています。丸の中に点を記した、その拡大版がここに建立された碑です。今回のヴォーリズ建築巡りがこの地で解散となりました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1)「建築にみるヴォーリズと近江八幡」 近江八幡観光物産協会 (当日の配布資料)2) ハイド記念館・教育会館 :ウィキペディア3) ハイド記念館 施設紹介 :「ヴォーリズ学園」4) ハイド記念館 :「滋賀・びわ湖 観光情報」5) 教育会館 施設紹介 :「ヴォーリズ学園」6)「滋賀近江八幡 水都八都 ウィリアム・メレル・ヴォーリズ 近江八幡を愛した アメリカ人 」 No.20 近江八幡観光物産協会 (当日の配布資料)補遺公益財団法人近江兄弟社(ヴォーリズ記念館) ホームページ学校法人 ヴォーリズ学園 ホームページ財団法人近江兄弟社湖声社より、当館所蔵の『湖畔の声』について問い合わせ。 :「レファレンス協同データベース」近江兄弟社グループ :「近江オドエアーサービス」ウィリアム・メレル・ヴォーリズ 日本科学技術の旅:「OnLineJournalライフビジョン」近江八幡(近江八幡市) 通り名マップ :「まっちの街歩き」近江八幡の恒春園 :「ヴォーリズを訪ねて」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 ヴォーリズ建築 近江八幡市 -1 ウォーターハウス記念館・吉田邸ほか へ探訪 ヴォーリズ建築 近江八幡市 -2 旧近江八幡郵便局、アンドリュース記念館 へ
2022.06.01
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「創の家」跡地から大杉町通り沿いに東に。「日牟禮八幡宮」の鳥居を左に眺めつつ進み、次の「仲屋町通り」との交差点で右折し、仲屋町通りを南に進みます。 「旧八幡郵便局」と刻された扁額が正面入口の上部に嵌め込まれています。1921(大正10)年に増改築された近江八幡郵便局です。平成6年、7年、9年と続けて近江八幡市主催でヴォーリズシンポジウムが開催されたと言います。その後、地域における実践と行動をめざし、「当時何に使われる事もなく静かにくちてゆくだけだったヴォーリズ建築の旧八幡郵便局の保存再生を試みようと6人の有志でスタートしたことが一粒の会のはじまりであった。」(資料1)とか。ヴォーリズ建築保存再生運動「一粒の会」が結成され、建物の保存並びに一般公開・活用を行い現在に至るようです。余談ですが、ヴォーリズは伝道活動を行うとともに、キリスト教徒やYMCA関係者らに配布する伝道活動報告記を「マスターシード」と命名して発行したそうです。その「マスターシード」はイエスの例え話に由来します。新約聖書の「マタイによる福音書」13章31~32節です。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」 a mustard seed (一粒のからし種) (資料2,3,4)「一粒の会」の「一粒」はたぶん「一粒のからし種」の一粒に由来するものと推測しました。近江八幡郵便局の建物の増改築にヴォーリズが携わり、建物前面をこのスタイルにしました。「日本で本格的なスパニッシュミッションスタイルを使って建てられた建物としては初めてかもしれないと、建築史家でありヴォーリズ建築研究家の第一人者である山形政昭も語っておられた」(資料1)と参照資料に記されています。当時の人々はさぞかし驚いたことでしょうね。 南隣りの町家この町家が当時から存在したものとすれば、商人町筋にある純然たる日本家屋とのコントラストが歴然としてきます。郵便局が目立ったことでしょう。 日曜日であり、日牟禮八幡宮に近いこともあるためか、この周辺には結構観光客を見かけました。人の出入りのない瞬間を狙って撮った正面入口です。人を入れずに建物全景を撮りたかったのですが、通りを往来する人々がいて時間の制約もありここでは無理でした。入口の左の扉には、この建物の活用状況案内が記されています。「旧八幡郵便局」は建物内部の撮影について特に制約が無く、ここはこの探訪では別枠。限られた時間ですが内部は自由見学でした。保存再生されている現状の建物内部等を一部ご紹介します。 入口を入ると、左側の壁面に木札が掛けてあります。「NPO法人 ヴォーリズ建築保存再生運動 一粒の会」です。ここに事務局が置かれています。郵便局の窓口カウンター部分が保存維持されています。 1階の壁面にはこの案内パネルが掲示してあります。「局長はヴォーリズの生徒でした」という題がまず関心を引きます。左下に当時の郵便局長・小西梅三氏(889-1965)について紹介されています。小西氏は学校を卒業し14年後30歳で、大正7年2月に現在地で三等郵便局長(特定郵便局長)として就任しました。在任中の大正10年(1921)にヴォーリズの設計により郵便局の増改築が行われました。小西氏は県立商業学校でヴォーリズより直接英語を学んだ生徒の一人だったのです。前回ご紹介した吉田悦蔵氏は同級生の一人だそうです。1947(昭和22)年11月まで局長を務められたと言います。(案内パネルより) 1階平面図この図を見ますと、玄関とその周辺、つまり建物の前面がヴォーリズによる増改築部分だとか。 当時の電話機が壁に。郵便局窓口の左側に電話室があったようです。元「集配室」は「珈琲 ひとつぶの種」としてそれぞれ活用されています。 1階の窓口カウンターの内部は「事務室」です。当時はこの事務室が郵便・貯金・保険と電信・電話事業などの事務作業場所だったようです。郵便局と電話・電信事業が分離された時に、電話・電信事業の事務室は局長室内に移ったそうです。現在はかつての事務室がホールとして「貸館」に活用されています。2階を拝見に行きます。 ホールを通り抜けて裏側に出ます。テラスの先に中庭が広がっています。これは右壁面を撮った景色です。昔なつかしい郵便ポストが置かれています。 まず、2階の平面図を引用します。この2階部分は電話交換室と宿直室に遣われていたそうです。電話交換業務で働く女性たちが仮眠をとる場所として使われていたのです。 一旦、建物外に出て、テラスの先から階段を昇降する形です。 平面図と対比してご覧ください。階段を上がると廊下が延びていて、突き当たりの扉は宿泊室への入口。左側は電話交換室の後方部分です。 部屋に入り中央部から入口側を眺めた景色 見学者が立っている方が、電話交換室の前方部分だったところ。床面を見ると2つの部屋の境がほぼわかります。当時は、この2階で10名あまりの女性が働く活気あふれた場所だっとと言います。今回見学した時には、この2階で、ヴォーリズ建築写真が展示されていました。 電話交換室の前方、見学者の見えた辺りまで行き、左側の窓から覗いた景色です。通りから眺めた外観と併せてご覧いただくと興味深いと思います。 建物外観の左の文様は何でしょう・・・・不詳です。右の窓の上部のアーチ型の装飾がいい感じです。ここから、アンドリュース記念館に移動します。 仲屋町通りにも、他の通りと同様に駒札が掲示されています。この「仲屋町」について、冒頭ではルビを振りませんでした。「すわいちょう」と読むそうです。難読地名の一つと言えそう・・・・。ここは仲買商人の住む町として形成され、「町名は商売の仲買(なかがい)を意味する『すあい』に因みますが、他には他の商人町と変わるところはありませんでした」(駒札転記)この駒札の一箇所の言葉を覚えておいてくださいと、ガイド役の館長さんから注意喚起がありました。駒札には次の文が続きます。「また、”市助町”ともよばれましたが、これは豊臣秀吉奉行衆の一人だった一柳一助(いちやなぎいちすけ)が居住していたことに由来するといわれています。」(駒札転記) このアンドリュース記念館は正面が東方向に向いています。ここでガイドを担当された当館館長のミニ講義を聴講した後、館内を拝見しました。仲屋町通りの一筋西、為心町通りに直接には面していませんが、近江八幡市為心町中に所在しています。 ヴォーリズは、1907年(明治40年)2月10日に、この地にヴォーリズ建築として最初の建物を建てました。当初の会館は、「アンドリュース記念近江八幡基督教青年会館(YMCA)」と称されました。なぜ、アンドリュース記念なのか?ハーバート・アンドリュース氏は、ヴォーリズのコロラド大学時代の親友だったそうです。彼はヴォーリズに導かれキリスト教信者になったそうなのですが、やがて間もなく亡くなったのです。ヴォーリズはアンドリュース家から資金を贈られたことで、自らの預貯金を全て合わせて、無償提供を受けたこの地に福音伝道の拠点となる建物を建て、アンドリュース記念という名称を冠したと言います。(資料5)現在のこの建物は、1935(昭和10)年6月15日、当初の位置から12m東方向の隣接地に移築されたものだそうです。外部と内部のデザインはその時変更されたものの、全体の面積は同じで、古い資材は再利用されたとか。1987年にYMCA会館としての使命が終わり、会館が使用されなくなりました。建物の老朽化もはげしくなります。そこで、2007年2月10日で、会館竣工100周年を迎えることから、「近江兄弟社創立100周年記念事業」として、会館の保存再生が行われ、現在の「アンドリュース記念館」に至るとのこと。(資料5)建設当初は2階に、保存再生後は1機の同じ方向に移された「祈りの部屋」と称される記念室があります。ここがハイライトでもあります。「ヴォーリズが建設当時から7年間過ごしたひと間続きの書斎と小部屋は当時のまま保存しており、この部屋で捧げられた創立者たちの祈りから近江兄弟社は生まれたのであります。」(資料5)「祈りの部屋」には暖炉があります。建物正面の前面にその煙突部分が見えています。 記念館の正面の左、2階部分の窓は和風の感じが漂っています。建物の右方向に八幡山が見えます。 デジカメのズーム機能で撮ってみますと、八幡山のロープウェーの山頂駅が見えます。 北側面の外観を眺めると、こちらには2階の暖炉用の煙突が設けてあります。 南側面の外観を眺めると、2階はほぼ全面がガラス戸になっていて、和風の欄干が設けてあります。和風建築と洋風建築を融合させたデザインです。 アンドリュース記念館の西側に、教会の塔が見えます。「近江八幡教会」です。「同志社の創立者新島襄ら宣教師たちの近江伝道に始まります。1879年、この町にプロテスタントのキリスト教が伝えられると、信徒たちは聖書を講義する『八幡講義所』を創り、牧師を招いて伝道をし」たという経緯を経て、1901年に「八幡組合基督教会」が設立されました。それがこの日本キリスト教団に属する近江八幡教会の由緒だそうです。W.M.ヴォーリズが愛した教会でもあると言います。(資料7)この現在の建物はヴォーリズ自身との直接の関係はないようですが、縁はあるようです。1961(昭和36)年に「一粒社ヴォーリズ建築事務所」が大阪に拠点を移し独立しました。この一粒社ヴォーリズ建築事務所による1983(昭和58)年の建築作品です。(資料8)さらに余談です。ヴォーリズは1919(大正8)年に一柳末徳子爵の三女満喜子と結婚します。満喜子の兄恵三が廣岡家に養子入りしていて、その恵三がヴォーリズに東京の洋館や神戸の本邸の設計を依頼したことが縁となったとか。満喜子は9年間の留学を経験し、「教育問題には造詣が深く、近代女性にふさわしい主体的な生き方と思想を身につけて帰国した女性」(資料2)だったそうです。父の一柳末徳は、播磨国小野藩の第11代藩主(最後の藩主)であり、一柳家の家系を辿ると、美濃国出身の氏族で、豊臣秀吉に仕えたと言います。上掲の駒札に記されている一柳一助は、一柳家の系譜にあたる人物だそうです。ヴォーリズと結婚した満喜子の家系もまた、奇しくも近江八幡といささかの縁があったようです。注意喚起の一言は、この微妙なつながりがオチになっていました。世の中、おもしろい・・・・・。ヴォーリズは戦争のはじまった1941(昭和16)年に日本に帰化し、名字は妻の「一柳」を、名前は「米来留」と改名しました。そこに「米国から来て留る」という意を込めたそうです。(資料2,6)次は、ヴォーリズ記念館を巡ることに。つづく参照資料1) 広報「ヴォーリズミーティング 冬号」を発行しました。 :「ヴォーリズ建築保存再生運動 一粒の会 BLOG」 ヴォーリズミーティング 2)「滋賀近江八幡 水都八都 ウィリアム・メレル・ヴォーリズ 近江八幡を愛した アメリカ人 」 No.20 近江八幡観光物産協会 (当日の配布資料)3) からし種 :ウィキペディア4)『新約聖書』 NKJ/新共同訳 日本国際ギデオン協会5)「アンドリュース記念館の由来」近江八幡観光物産協会(当日の配布資料)6) 一柳氏 :ウィキペディア7) 近江八幡教会のあゆみ :「近江八幡教会」補遺特定非営利活動法人ヴォーリズ建築保存再生運動一粒の会 Facebookヴォーリズ建築保存再生運動 一粒の会 BLOG トップページ近江兄弟社 :ウィキペディア公益財団法人近江兄弟社(ヴォーリズ記念館) ホームページ一柳氏(直家系) :「世界帝王事典」近江八幡教会 ホームページ ーヴォ―リスさん作詞、作曲ー 讃美歌 「地の上にまことの(神の国) ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 ヴォーリズ建築 近江八幡市 -1 ウォーターハウス記念館・吉田邸ほか へ探訪 ヴォーリズ建築 近江八幡市 -3 ヴォーリズ記念館、ヴォーリズ学園 へ
2022.05.31
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池田町洋風住宅街のレンガ塀以前に滋賀県の近江歴史探訪企画でブロガー募集があった時、参加し探訪記事をブログに載せました。楽天ブログに移った時に、以前のサイトでの一連の記事を再録しています。それ以来、近江歴史探訪案内メール配信サービス(おうたんメール)を受信しています。その一環で、「ヴォーリズ記念館館長とめぐるヴォーリズ建築めぐり 」の案内を受けました。その最終回(5/15)に参加を希望して、数時間の建築めぐりを楽しみました。当日、その前後に久しぶりに近江八幡市内を巡っています。ここでは、ヴオーリズ建築関係に焦点を絞り、ご紹介したいと思います。 これは池田町通りに設置された駒札に併載の地図です。緑色のエリアが池田町です。小幡町通りの「八商前」バス停が最初の目印です。そこから、小学校の前を通り西方向に進むと、二筋目が南北方向の池田町通りです。冒頭のレンガ塀が目印になります。レンガ塀で囲まれた区域が洋風住宅街です。(所在地:近江八幡市池田町5丁目) 1905年にアメリカ人のウィリアム・メレル・ヴォーリズは、YMCAを通じて来日しました。キリスト教の伝道という目的を持っていたのですが、滋賀県立商業学校(現八幡商業高校)の英語教師として勤めることが直接的な目的でした。勤務時間外の活動は自由という契約になっていたそうです。そこで、ヴォーリズは自宅を利用してバイブルクラスを開催します。熱心にキリスト教伝道の活動をしたのですが、それが逆に大きく問題視されることになります。1907年に近江八幡YMCA会館(現、アンドリュース記念館)を建設します。しかし、同年、英語教師を解職されることになります。つまり、失業です。挫折と苦悩を感じる時が多分あったでしょうが、支援の手も差し伸べられました。1908年に京都三条YMCAの建築に関係して、現場監督依頼の仕事が入ったのです。当初大学に入り建築家を目指そうとしていたヴォーリズは、途中で海外宣教をめざす方向に切り替え、哲学科を卒業しました。元々建築に深い関心を持っていた人です。仕事の依頼を受けたヴォーリズは、建築設計管理事務所を開設します。この事務所が後にヴォーリズ建築事務所になります。これが建築家ヴォーリズとしての道を歩む契機です。(資料1,2,3,駒札)ヴォーリズは、1910年(明治43)、30歳でヴォーリズ合名会社を設立します。(資料2)この池田町の洋風住宅街は、ヴォーリズが大正期に手がけた初期の作品です。(駒札) 現在は、「ウォーターハウス記念館」という名称になっている住宅です。国登録有形文化財。 門扉は池田町通りに面し、通りの先、北方向に八幡山が見えます。ウォーターハウス記念館が今回の集合場所であり、建物内をヴォーリズ記念館館長に案内・説明していただき拝見しました。館内の撮影はOKだったのですが、私的利用を越えての外部への公開は禁止ということでした。そのため外観のご紹介だけになります。ウォーターハウスを巡りましょう。 玄関へのアプローチ 建物の南側面と北側面簡潔で明快なコロニアル・スタイルの住宅です。木造3階建、切妻造スレート葺き。門・塀はレンガ造。(資料4)建物が新しい感じでした。財団法人近江兄弟社が2008年6月より住宅の全面修復工事を行い、2009年1月竣工したとのことです。(資料2)1913年5月、ヴォーリズ合名会社はまず社宅2棟を建築します。その内の1棟に入居したのがウォーターハウス一家でした。「ウォーターハウス記念館」の名称の由来です。ウォーターハウス氏は米国のプリンストン大学文学科を卒業し、早稲田大学英語科の講師として来日したとか。ヴォーリズに出会って、彼の人格、活動に共鳴し、近江伝道に協力するために、米国ハートフォード神学校で3年間修行して、再来日して東京で1年間日本語を習得した後に、近江八幡に来たり、自給独立の近江ミッションに加入したそうです。 北西側から 南西側から ウォーターハウス氏は、4年半の伝道活動後一旦帰国、その後1922年に再来日して諸事情から1923年12月に帰国するまで、約6年間ここに居住したそうです。「神の国」運動の働き手となり、湖畔伝道船「ガリラヤ丸」の船長となり、巡回伝道をして福音の種を蒔いたと言います。(資料2) バックヤードのこの敷地にかつてはテニスコートが設けてあったと言います。建物の西側に、白ウサギの置物が残されています。ほほえましい・・・。 南隣りには、「吉田邸」があります。八幡商業でヴォーリズの教え子であった吉田悦蔵氏はヴオーリズの活動に参画して行った人です。現在もその子孫の方がお住まいと言います。住宅として現役の建物。この洋風住宅街(旧近江ミッション住宅地)における中心的建物です。(登録文化財)この吉田邸は1925(大正14)年、1930(昭和5)年の増築を経て今日に至るそうです。この洋風住宅街には、5棟の建物があったそうです。1914(大正3)年に建てられたヴォーリズ邸は現存しません。南の方に、1920(大正9)年、旧近江家政塾校舎が建ち、これは現存します。道路からその位置を確認するだけになりました。 池田町通りを北に少し歩むと四つ辻となり、東西方向の通りに面する側に、1921(大正10)年に建てられた「ダブルハウス」を見ることができます。この景色の左(南)側に見える建物です。この建物も、池田町通りとこの通りの交差する辻から眺めるだけに留まりました。木造2階建一部3階建、二戸一集合住宅。(資料4)中央のレンガ壁を境にして東西対象に計画された建物。現在も住宅として使用されています。このツアーで説明を聞き、おもしろいと思ったのは、こちらサイドにも続いているレンガ塀についてです。冒頭の景色のレンガが見やすいと思いますが、ここで使われているレンガはレンガ製造過程で生まれた不良品レンガが意識的に使われていると言います。合格した規格レンガだと、整然としたレンガ塀になるところです。凸凹として逆に風情がでている結果となっています。この不良レンガはどこで製造されたものか。不良品レンガ故にその解明が未だできていないというお話でした。コストをかけて遠方から搬入してきたとは考えられません。ならば、どこか。確定はむずかしいとか。この東西の通りを東に歩みます。道沿いに歩きながら、八幡山の方向の景色を撮ってみました。八幡山は北に、より正確にいえば北北西方向にあります。近江八幡は城下町であり、町は碁盤の目状になっています。 本町通り 小幡町通り 新町通り この魚屋町通りの四つ辻で、一旦、南の方向を眺めてくださいと言われました。 南端は突き当たりでビルが見えます。ヴォーリズとは深い関係があります。ヴォーリズが来日し、英語の教師となったのが八幡商業学校です。その学校が現在の八幡商業高等学校で、その建物という説明でした。この探訪ツアーを終えた後、個人的に建物の正面前まで行ってみました。 この建物は1938(昭和13)年に竣工した新校舎で、昭和62年に学校創立100周年事業として修復工事がなされたと言います。ヴォーリズは昭和9年に八幡商業学校の新校舎の設計を依頼を受け、翌年に新校舎建築計画を提案したそうです。「かつてのヴォーリズがよく用いた歴史的様式を払拭した手法は、当時主流となっていた機能主義的デザインによる」とのこと。一方で、「中央部を青磁タイルを使い垂直のルーバー状にデザインしたシッボリックなもの」にしています。(資料5) [2022.5.31 一部訂正と加筆]さて、その説明を聞いた辻から魚屋町通りを北に向かいます。県道多賀と魚屋町通りの大きな交差点に至ります。 交差点の南西角にあるのがこのビルです。右の景色は県道を北側に横断してビルの正面を撮った景色です。 角に「近江兄弟社発祥の場所『創の家(はじめのいえ)』と題する駒札が立っています。1905年2月2日に来日したヴォーリズは、県立商業学校の英語教師に就いたとき、この場所で日本の生活を始めたそうです。そして、放課後には上記のとおり、ここで「バイブルクラス」を開きました。ヴォーリズの人柄と熱心さに魅せられた多くの青年がキリスト教に導かれていったそうです。ヴォーリズの”「神の国」の理想郷”づくりについて語り合い町づくりに邁進していったと言います。(駒札より)「自宅を利用し開催したバイブルクラスでは着任わずか1週間で45名、2週間後に112名もの参加者が集いました」(資料1)とのこと。 魚屋町通り側に、ヴォーリズの書を写した「神の國」の文字碑が設置されています。ヴォーリズがウォーターハウスという賛同者を得て、拡げて行く「神の国」伝道活動です。 県道多賀の北西側にはブロンズ像が建立されています。 北東角には、この瀟洒な窓を適度に設けた下見板張り塀で囲われた屋敷があります。城下町の雰囲気が漂っています。西川甚五郎邸です。 上掲の駒札から切り出し拡大した地図です。少し見づらいでしょうが、位置関係をご理解いただくには便利でしょう。この地図では上辺が北方向です。 このブロンズ像は、この探訪ツアーが終了してから改めて写真を撮りに戻りました。ヴォーリズ関連として、ここでご紹介しておきたいと思います。ブロンズ像の建立とともに顕彰碑が建てられています。”名誉市民ウィリアム・メレル・ヴォーリズは、1880年(明治13年)10月28日、米国カンザス州レブンワース市に生まれた。両親の感化により信仰心の厚かった彼は、1905年(明治38年)2月、24歳のとき、国際YMCAから日本の近江八幡に遣わされた。 以来、1964年(昭和39年)83歳で亡くなるまでこの地を去ることなく、キリスト教精神に支えられた、愛に満ちた理想社会実現のため、彼を慕う多くの人々と力を合わせて、医療や教育事業を進め、建築に卓越した手腕を発揮し、キリスト教を伝道し、福祉や文化を高めるなど、多彩な社会貢献活動を展開した。 そして、これらの活動を経済的に支えるため、建築設計会社をはじめメンソレータム(現メンターム)で有名な製薬会社を興し、企業家としても大いなる成功を収めた。 外観よりも内容を重視したヴォーリズの西洋風建築は、大丸の心斎橋百貨店や関西学院大学をはじめ、住宅、教会など国内外に1600にも及んだ。 多くの協力者とともに成し得た数々の偉大な事業とその精神は、今もなお引き継がれ、近江八幡市民に広く深く息づいており、その評価は衰えることなく、ますます強く私たちにその人となりを慕わせずにはおかない。 「世界の中心は近江八幡にあり」と唱え、すべての人が幸せになれるまちづくりを目指した彼の足跡を、かけがえのない宝として近江八幡市民の名において永遠に顕彰するため、ここ「ヴォーリズ創めの家」ゆかりの地に記念の像を建立し、これからの郷土づくりの糧にしていきたい。 1999年5月 近江八幡市 " (碑文転記) 1958(昭和33)年、ヴォーリズは78歳の時に、近江八幡市名誉市民第1号に推されました。 この一画に、この碑も建立されています。 銘板のタイトルは、Levenworth , Kansas, USA です。”William Merill Vories was born in Levenworth, Kansas, USA in the year 1880.Levenworth's earth pioneers played an important role in the settling of the American West. Omihachiman is the origin of the Omi Merchants who had an infuluential role in early local society. The spirit of those who came from each city has had a termendous impact on the larger society about them. Thisspirit was shown in the work of Vories, who later became an important memberof the city of Omihachiman. In 1997 the cities of Omihaciman and Levenworth established a brother city affiliation to promote a civic exchange in honor ofVoies. October 13, 2000 Vories Committee " (転記) ”米国カンザス州レブンワース 1880年、ウィリアム・メレル・ヴオーリズはアメリカ西部開拓史誕生の地、米国カンザス州レブンワースに生まれた。 開拓者精神が根付くこのまちと、進取の気象で知られる近江商人発祥の地「近江八幡」は、ヴォーリズゆかりの市民交流をきっかけに、1997年兄弟都市提携を結んだ。 ヴォーリズ委員会 ” (転記)現在、近江兄弟社の本社があるこの地・銅像から、旧近江八幡郵便局に向かいます。つづく参照資料1) 「滋賀近江八幡 水都八都 ウィリアム・メレル・ヴォーリズ 近江八幡を愛した アメリカ人 」 No.20 近江八幡観光物産協会 (当日の配布資料)2) 「ウォーターハウス記念館の由来」近江八幡観光物産協会(当日の配布資料)3) ウィリアム・メレル・ヴォーリズ :ウィキペディア4) ウォーターハウス記念館 屋内展示の説明パネル5) 「建築にみるヴォーリズと近江八幡」 近江八幡観光物産協会 (当日の配布資料)補遺ウィリアム・メレル・ボーリズ :「コトバンク」Merrell Vories Hitotsuyanagi From Wikipedia, the free encyclopediaヴォーリズ,W.M. 関西学院事典 :「学校法人 関西学院」ヴォーリズの生まれ故郷レブンワース市 :「近江八幡観光物産協会」Leavenworth, Kansas From Wikipedia, the free encyclopedia日本YMCA同盟 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 ヴォーリズ建築 近江八幡市 -2 旧近江八幡郵便局、アンドリュース記念館 へ探訪 ヴォーリズ建築 近江八幡市 -3 ヴォーリズ記念館、ヴォーリズ学園 へ
2022.05.30
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神戸市立博物館で開催される特別展をみる目的で幾度も出かけています。JR三ノ宮駅で下車して、三ノ宮商店街、旧居留地、南京町あたりを歩くことになります。ふと思いついた時が2014年でした。メトロポリタン美術館所蔵品による古代エジプト展を見たくて出かけた時に、マンホールのふたや消火栓のふたなどが目に止まりました。神戸ではそれが撮り始めです。2014年12月、2017年2月、2022年4月にロード・ウォッチングで撮った写真をまとめて、ご紹介したいと思います。まずは冒頭の「おすい(汚水)」のふたからです。同心円で蜘蛛の巣を連想させるようなシンプルで機能的なマンホールのふたです。 このふたの中央に象られているのは、神戸市の市章です。この市章は1907年(明治40年)5月に制定されました。神戸の港は、もともとは「扇港」と呼ばれていたといいます。「兵庫」と「神戸」の二つの港が扇を並べたような形をしているというところに由来するそうです。神戸は旧仮名遣いでは「カウベ」と表記されました。扇を並べたような形をイメージして、「カ」の字を図案化したものがこの市章だそうです。(資料1)調べていて、わかりやすい図解説明に出会いました。”「神戸港」「兵庫港」で『二つ扇』”というページです。補遺をご覧ください。余談ですが、平清盛は誰もが知る歴史上の人物。その平氏は忠盛以来、日宋貿易に力を入れ、勢力を蓄えました。平清盛は12世紀後半に「大和田泊(おおわだのとまり)」に経ケ島を築き、港湾を大修築します。さらに瀬戸内海の要所の良好と航路の安全を確保し、九州の博多、宋を結ぶ貿易航路を築きました。この大和田泊が中世には「兵庫湊(ひょうごのみなと)」と呼ばれます。(資料2,3,4)『平家物語』巻五の「一 遷都の事」は、「治承4年6月3日、福原へ御幸なるべしと聞ゆ。『この日頃、都遷りみるべしと聞えしかども、たちまちに今明の程とは思はざりしものを』とて、京中の上下騒ぎ合へり」という書きだしで始まります。清盛は突然の号令で都を慌ただしく福原に移すという挙に出ました。(資料5)福原は、大和田泊を見下ろす山麓に置かれた都です。現在の神戸市中央区から兵庫区北部にあたるそうです。地名では平野あたりといいます。(資料6)戻ります。 同じ汚水のふたですが、こういう意匠のふたは地元色が出て楽しいです。神戸の特徴を示すものとランドマークとなるものがいくつも配置されています。例えば、神戸に遊びに出かけた時に撮っていた写真にこんなのがあります。 六甲山をズームアップで撮ったもの(2004.3.21撮影) 神戸ポートタワーと神戸市役所(ともにウィキペディアより引用) (2022.4.28撮影) メリケンパーク・ハーバーランドの景色このふたには、私自身では対象を識別できないものもみられます。 汚水のふたですが、こちらは地区限定のふたのようです。特注品でしょうか。「SANNNOMIYA TOWN 1st BLOCK」(三ノ宮街第1地区)という地名が表示されています。1年間の月名とローマ数字での時計の文字盤、更にその内側には、七曜(月~金)の略称が刻まれています。この意匠がおもしろい。「今日は何月何日、今何時?何曜日? ちゃんと分かってる?」なんて、問いかけるようなふたです。 冒頭の汚水ふたと同類型のデザインですが「圧雨水」と表記されたふたです。 「KOBE USUI」と記されていますので、雨水用のふたです。神戸で企画開催された「ルミナリエ」を記念する一環で造られた雨水ふたなのでしょう。1995年から実施を示す文字も刻まれています。(2014.12.4に撮った写真です。)この日、小雨が降ったのでしょう。しっとりと濡れています。 これも冒頭の汚水蓋と同類型の意匠です。HOKUSEI KOGYO という製造メーカー名称(北勢工業)と型番記号(HMA-S450) により調べるてみまと、防臭蓋です。(資料7) 同じメーカーのものですが、型番が異なります。MPS 600という型番は防水蓋をさすようです。MPSについて、中荷重回転ロック式防水防臭蓋と参照カタログには説明されています。(資料7) この2枚もマンホールのふたです。どちらにも「CCB」という文字が表示されています。しかし、上の方には「道路・通信」と記され、下の方は「電気」と判読しました。上のふたは路面の石板タイルに合わせて統一性を持たせるように装飾施工されています。下のふたは普通の標準仕様です。路上にはいろいろなふたが目にとまります。旧居留地の地区では情緒豊かな意匠のふたがあり、楽しめます。 消火栓のふた 消火栓のふたには、こんなバージョンも見つけました。 同じふたなのですが、地の色合いの違いで少し一見した雰囲気が変わります。こんな経年変化の差もおもしろいところです。このふたには、上掲以外に 旧居留地の外灯(2022.4.28撮影)や六甲山有馬ロープウェー(2019.8..30撮影) 神戸市風見鶏の館の風見鶏や神戸大橋(ウィキペディアより引用)、停泊する客船(2022.4.28撮影)などが取り上げられています。コックさんが描かれているのは、神戸には様々な国のエスニック料理を楽しめるお店があるからでしょうね。 さらに、小雨の日に撮ったバージョンがあります。 2014.12.4に撮ったときは、水に濡れていました。枯葉が一葉・・・・。 心理学テストじゃありませんが、すぐ上の2葉の写真と同一意匠です。しかし、こちらの方が、デザインの意図がよりわかりやすいと感じませんか。左側の曲線が、女性の横顔の輪郭線であることが、より鮮明に目に飛び込んでくるのです。目元にあたる箇所がピンポイントでそこがこちらのふたでは目につきやすいからだと感じます。如何でしょう・・・・。対比してみてちょっとしたことがおもしろい。情趣が変化します。 空気弁のふた「KOBE」という文字を装飾文様に変容させたデザインになっています。 「神戸市水道仕切弁」と陽刻されたものも目にとまりました。こちらは上水道の仕切弁です。 最後に、これをご紹介。ふたではありません。道路に敷かれた道標です。海側に500m行けば市立博物館、六甲山側に1050m行けば北野町・異人館と表示してあります。2022.4.28に「大英博物館ミイラ展」を見に出かけたとき、京橋筋の商店街付近で目に止まり撮ったものです。 2017.2.21撮影今までの神戸探訪の折に目に止まったのはこんなところです。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 神戸のシンボル :「KOBE」2)『詳説日本史研究』 五味・高埜・鳥海[編] 山川出版社 p1243) 大輪田泊 :ウィキペディア4) 昔の神戸 :「神戸市文書館」5)『平家物語 上巻』 佐藤謙三校注 角川文庫ソフィア p2306) 福原京 :ウィキペディア7) 製品カテゴリ別カタログ 02,03 :「HOKUSEI」補遺「神戸港」「兵庫港」で『二つの扇』 :「三井住友トラスト不動産」神戸港 :「KOBE」神戸ポートタワー :ウィキペディア神戸市風見鶏の館 :ウィキペディア風見鶏の館 オフィシャルサイト神戸市役所 :ウィキペディア神戸大橋 :ウィキペディア有馬四十八滝 :ウィキペディアFeel KOBE 神戸公式観光サイト ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 マンホールのふた見聞考 ウォッチング掲載記事一覧
2022.05.27
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烏丸通を南に下り、烏丸仏光寺の交差点で、烏丸通から西に入り、仏光寺通を進みます。通りの南側に昔ながらの京町家の外観を保つお店(京の老舗呉服問屋・啓明商事株式会社)があります。店を通り過ぎ、北西側から撮った景色です。(資料1)冒頭から余談ですが、「啓明とは『明けの明星(あけのみょうじょう)』の別名で、夜明けの東の空に大きく輝いている星を意味します。この星は、太陽系で地球の隣に軌道を持つ金星のことで、夕方西の空に見えるときは、『宵の明星』とも呼ばれ古代より世界の人々に広く親しまれ崇められてきた星です。」(資料1)とのこと。知らなかった表現です。手許の辞書を引くと、ハンディな『新明解国語辞典 第五版』(三省堂)、『現代国語例解辞典 第二版』(小学館)には載っていませんが、『日本語大辞典』(講談社)、『大辞林』(三省堂)の大型辞書には載っています。『角川新字源』というハンディな漢和辞典には載っていました。 このお店の前に、「与謝蕪村宅跡(終焉の地)」の石標と駒札が立っています。所在地は仏光寺通烏丸西入ル釘隠町です。石標は平成10年(1998)5月に建立されています。(資料2) この駒札には、京都市の表記がありませんので、石標と併せて個人が設置されたものと推測します。42歳で京都に戻った蕪村は姓を谷口から与謝に改め、その後妻帯し、数カ所転居を繰り返したようです。”『平安人物志』明和5(1768)年版に居所を「四条烏丸東へ入町」と記し,安永4(1775)年版には「仏光寺烏丸西へ入町」と記す”(資料2)とのこと。「仏光寺烏丸西入町」がこの地(釘隠町)になります。駒札の後半を転記します。”蕪村の幻の日記に次のようにしるされている。「安永3年11月某日(蕪村59歳の時)近くの日吉神社の角を東へ曲がって仏光寺通りにから南へ入って奥まったところに閑静の空家ありと、とも(妻)が見つけて、またその釘隠町へ身元保証の請状も通り、急に話がきまって三日前移転する。 狭いながらに前より一間多く猫のひたいの庭に緑も少々あって、画絹ものびのびと拡げられる心地なり。我が家の前で路地は行き止まり、つきあたりに地蔵尊一体おわします。あしもとに濃みどりのりゅうのひげなど生い茂る。」” 昭和36年までここに路地があり、路地の突き当たりに地蔵尊があった。その地蔵尊の前、一番南に与謝蕪村宅が位置していたそうです。 現在のこの店の北西角、仏光寺通に面して地蔵堂があります。駒札には、「釘隠町町内会の総意で現在地に移転される」と記されています。地蔵堂の格子戸越しに拝見すると、この地蔵堂もまた、内部にもう一つの扉がある形です。お地蔵さまは拝見できませんでした。更に西に歩むと、最初の辻が仏光寺通室町です。 南東角に見えたのが、この冠木門と源氏塀のある建物です。 開いている冠木門から中を覗くと、「日吉神社」の額を掲げた石鳥居が見えます。この探訪の目的地になります。現在は実にこじんまりした境内地です。この仏光寺通の南東角にある日吉神社から一筋南の高辻通まで、室町通の両側が「山王町」です。孫引きになりますが、『京羽二重大全』には、洛中に「庚申七ヶ所」が記載されていて、「山王宮(室町仏光寺)」として掲載されているそうです。それがこの日吉神社です。(資料3) ごく狭い間隔で、石鳥居、拝殿、本殿が東西方向に一直線に並んでいます。 本殿祭神は大己貴命、大山咋命、玉依姫命荒魂です。(資料4) 木鼻には獅子像が彫られています。かなり具象的です。本殿は一間社流造のようです。屋根裏の構造がすっきりと見やすい。白河天皇は自分がコントロールできないものが3つある。鴨川の水の流れ、双六のサイコロの目、比叡山の僧兵(山法師)だと語ったという有名な話があります。この神社の創建は白河天皇が白河上皇(1086~1129)として院政を始めた時代だそうです。「堀河天皇の御代(1086年~1107年)に、比叡山坂本の日吉大社の僧兵たちが強訴し、担いできた神輿を捨てた場所に、地元住民が祠を建てたことに始まるとされる」(資料4)と言います。神輿を破壊して処分するということはできなかったでしょうね。受け入れて祀りあげる。京の町衆が比叡山とWin-Winの関係を築くための外交的配慮を働かせた結果でしょうか・・・・・。五来重氏は、庚申と日吉山王神道との関係を考察して論じています。(資料5)日吉山王神道は「比叡山の地主神としての日吉社を中心とした神仏習合神道で、猿を神使とするが、同時に猿そのものを御神体とする場合もある。したがって庚申に結合しやすかったので、日吉山王二十一社の本地仏の二十一種字(梵字)を刻む庚申塔もできた。・・・山王二十一社は、上七社、中七社、下七社と七社ずつ分かれるところから、庚申と七の関係ができたと考えられるが、一説としては庚(かのえ)が十干の中で、甲乙丙丁戊己庚と七番目なので七を尊ぶともいわれる。しかしやはり庚申信仰の仏教化には、天台系修験の影響を考えるべきであろう。これは関西の庚申信仰の本寺が、天台宗の大阪四天王寺庚申堂だったことにも関係があるからである」と。とは論じながら、「しかしさればといって、庚申塔の三猿を天台教理の空仮中三諦に当てたり、山城西山金蔵寺の三猿を伝教大師作としたりするのは、行き過ぎであろう」と歯止めも述べておられます。いずれにしても、天台宗-日吉社-庚申信仰というつながりが日本で広がったのも事実のようです。この日吉神社もその範疇に含まれるということでしょう。なお、境内を拝見した印象として、私は庚申信仰絡みの雰囲気をあまり感じませんでした。 拝殿の屋根の獅子口が見えます。陽刻された文様はこの神社の神紋でしょうか。日吉大社の神紋は双葉葵ですので。(資料6,7) 「三ツ森稲荷」の額を掲げた朱色の鳥居が南面して立ち、稲荷社が勧請されています。 なぜか、稲荷社の東側に信樂焼の狸が居るところがおもしろい。 冠木門の北側に奥行の狭い地蔵堂があります。格子越しに内部を拝見しましたが、こちらも上掲の地蔵堂と同様です。堂内のお地蔵さまを見ることができませんでした。こんなところで、このアドホックな探訪を終わりにしました。太秦天神川の駅から地下鉄東西線で戻るとき、烏丸三条の駅で途中下車して、烏丸通を仏光寺通まで往復しました。お陰で、コロナ禍での運動不足をこの日はかなり解消できました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 啓明 ホームページ2) 与謝蕪村宅跡 :「フィールド・ミュージアム京都」3) 京都三庚申 :「京の霊場」4) 日吉神社 :「神社人」5)『石の宗教』 五来 重著 講談社学術文庫 p206-2076) 日吉大社の神紋が知りたい。 :「レファレンス協同データベース」7) 山王総本宮 日吉大社 ホームページ補遺与謝蕪村 :ウィキペディア与謝蕪村 :「コトバンク」与謝蕪村:「都島区」 蕪村略年譜 「与謝蕪村と都島」のデジタルブック白河天皇が頭を抱えた「鴨川・サイコロ・山法師」 :「歴史上の人物.com」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都・洛東を往く -1 祇園をぬけて八坂庚申堂(金剛寺)に探訪 京都・洛東を往く -8 あおくすの庭、尊勝院、粟田口 スポット探訪 京都・右京区 山ノ内 猿田彦神社
2022.05.25
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地下鉄東西線の西の終点、太秦天神川駅で降りて、地上に出ます。現在の京都三庚申の一つと称される、「山ノ内 猿田彦神社」を探訪するのが目的です。所在地は、右京区太秦山ノ内荒木町です。国道162号と府道112号が交差する天神川三条の交差点の南東側に位置します。太秦天神川からは、まず御池通を東方向に歩き、天神川御池交差点で右折して、天神川沿いに南に下ります。天神川三条の交差点で、冒頭の猿田彦橋を渡ればすぐです。 橋から社号を示す看板が見えます。道沿いに進むと、 道路沿いの右側、少し西寄りに奥まって東面する石鳥居と、その左手前に社号碑が見えます。 石鳥居手前の手水舎 石鳥居を通り抜けると拝殿があり、その背後(西)に社殿が見えます。 屋根の鬼板に「庚」の文字が陽刻されています。隅棟の鬼板はシンプルです。 まずは社殿を拝見。拝所前に立ち、格子扉越しに本殿を眺めようとしましたが、よく見えません。 拝所の左右に配置された狛犬石像 拝所の蟇股には猿の丸彫像が装飾されています。 脇の窓から、本殿側に提灯が見えます。墨書された神社名の傍に描かれた紋は、京都庚申堂(金剛寺)で目にした意匠と同種です。 拝所の右側には、当社の「由緒略記」が掲示してあります。「山ノ内庚申 猿田彦神社」と社名が表記されています。祭神は猿田彦大神です。洛西の旧社で、「山ノ内庚申」と呼ばれ、京洛三庚申の一社に数えられています。社殿はもとは安井村松本領(現・太秦安井松本町)にあり、明治18年に現在地に移築されたと言います。古図によれば、石鳥居は三条通り側にあったようです。いずれかの時に現地に移築されたということでしょう。(由緒より)庚申信仰に関連して次の事項が説明されています。(由緒より)*十干十二支で数えると、60日に1回、庚申の日が巡ってくる。*平安時代より庚申日に庚申祭りが行われて来た。*江戸時代より村人が集り、庚申待、庚申講を行った。 猿田彦大神、清面金剛の軸を掛け、七種の供物を捧げて夜を明かして萬福招来を祈願した 拝所の屋根の合掌部 大棟の鬼板 本殿の屋根 大棟の鬼板には、宝珠が陽刻されているようです。余談です。『古事記』上巻に記されているそうですが、猿田彦大神は、天孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が豊葦原中つ国(日本)に降りようとされたとき、天の八衢(やちまた)で待っていた猿田彦大神が光りを放ち先導することを申し出たと言います。「道を照らして先導した故事から、道祖神の信仰にも通じ、庚申の申をサルと訓ずるところから、猿に付会され、庚申信仰にも流れていき、道祖神、庚申に置き換えられて、集落や村などの道の辻に祀られたりしている。」(資料1)こんな経緯があるようです。これに加えて、庶民の庚申講には次のような説もあります。「猿田彦大神は『大田神』ともよばれて、『田の神』すなわち豊作の神とされることである。庶民のあいだの庚申講は、後世になるほど豊作祈願になった。そのために『田の神』と同格の猿田彦神を庚申講の本尊として拝んだ。」「日本人の固有信仰では『田の神』は山から降りてくるものであって、田圃の耕作が済めば山へ帰る神と信じられた。したがって冬は『山の神』となり、春から秋にかけては『田の神』として耕作を護る。これが『山の神・田の神交代説』という理論である。また猿は『山の神』の化身として山王ともよばれるので、猿田彦という神名は『山の神』と『田の神』の二面性をあらわし、豊作祈願の庚申講の神たるにふさわしいと考えられたのであろう」つまり、民衆は、庚申は豊作の神と信じていたと説いています。(資料2)本殿には木造の庚申猿が鎮座していると言います。(資料3)それでは、境内を巡ってみましょう。 拝所前からは、左(南)方向に大木(御神木)がそびえています。 「区民の誇りの木」(平成13年3月23日建設局決定)で、「庚申楠」称されています。樹令700年を経ているといわれ、高さ20m、幹回り360cmだそうです。 御神木を境内の南東側から眺めた景色です。 本殿の南側には、「大国主神社」の提灯が吊されたお堂です。 堂前に、大国主の石像が鎮座しています。 御堂の屋根の鬼板には中央に他とは異なった文様が陽刻されています。 その南側には、「役行者尊、聖観世音菩薩、不動明王、延命地蔵大菩薩」をズラリと並べて安置した覆屋があります。まさに、神仏習合の素朴な風景がこの境内に見られます。永年の間に培われてきた日本の宗教・信仰世界の原風景につながるのでしょう。顧みれば、明治の神仏分離というイベントこそ異常行動だったといえるのかもしれません。 聖観世音菩薩 役行者尊 延命地蔵大菩薩 つまり、お地蔵さま 不動明王 逆に、北側には朱色の鳥居が立ち 稲荷神社と秋葉大明神が勧請されています。 拝殿内を間近で見ると、白色の猿像の大きなパネルが置かれていました。祭神の猿田彦大神に仕える神使の猿像でしょうか。両手で御幣を捧げています。これは、普段は非公開とされている等身大の『白猿木彫像』のパネル写真だそうです。台風の被害で倒れてしまったご神木から彫像されたそうです。(資料3) 境内の一隅に、この碑が目に止まりました。「忠魂」と刻されているように見えました。定かではありませんが。神社の大小にかかわらず、境内地の一隅に忠魂碑をよく見かけます。明治以降の日清・日露戦争に出征し戦死した人々の霊を祀るという祈念(記念)碑が建立されているものと思います。(資料4)これで境内を大凡巡りました。一応、京都の三庚申の三つ目を訪れたことになります。ご覧いただきありがとうございます。地下鉄東西線の太秦天神川駅に引き返す途中で、折角東西線に乗るのだから、三条に向かう途中益で下車してみようとふと思いました。実は、この時一日券を購入していたのです。参照資料1)『日本の神様読み解き事典』 川口謙二[編著] 柏書房 p3502)『石の宗教』 五来 重著 講談社学術文庫 p204-2073) 山ノ内 猿田彦神社 :「西院 春日神社」4) 忠魂碑 :ウィキペディア補遺京都三庚申 :「京の霊場」猿田彦神社 :「京都観光Navi」猿田彦神社 京都府京都市右京区山ノ内荒木町 :「神社と古事記」猿田彦神社 庚申祭 福岡市 :「祭の日」福岡の猿田彦神社、今年初の庚申祭でにぎわう YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都・洛東を往く -1 祇園をぬけて八坂庚申堂(金剛寺)に探訪 京都・洛東を往く -8 あおくすの庭、尊勝院、粟田口
2022.05.24
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東山の円山公園のしだれ桜は有名です。5月6日に緑葉の桜を左に眺めながら南から北へと横切りました。 しだれ桜の前に、この鳩のブロンズ像があります。 この近くで、ふと目にとまったのがこのマンホールのふたです。京都市内で、ここで初めて目にしました。ほかにも同じふたが設置されているのかどうかは不詳です。逆にこれからロード・ウォッチングする楽しみができました。ポケモンという言葉は知っていても、あまり関心がなかったのですが、マンホールのふたに登場しているということで、ちょっと関心をもってみました。変な動機・・・・。おかげで、ポケモンのホームページがあるのを遅ればせながら知った次第です。観光都市京都の有名箇所の一つですから、このキャラクターをふたに採用したのでしょうか。これも観光客サービス?かな。 お子さんが喜ぶのはまちがいないでしょうね。まず気づいたこと。ちゃんとコピーライト(著作権)のマークが記されています。キャラクターに無知なので、ちょっと調べてみて気づいたこと。<ピイ> (資料1)*ピイはほしがたポケモンに分類されるんだ。*ピィは進化するようだ。 ピッピ、ピクシイーがお仲間。*だけど、額部分のくりっと巻いた毛(?)は、「ポケモンずかん」のピィとは巻き方がちがう。ピッピ、ピクシーとは同じ方向の巻き方になってる!*目の描き方がちょっとちがうね。まあ、いずれもありなんだろう。<ププリン> (資料2)*ププリンはふうせんポケモンに分類されるそう。*ププリンも進化するね。プリンとプクリンがお仲間。 耳が形成され、その形も変化している。額の部分も併せて変化しちゃうんだね。*ププリンは、<プリン、プクリン>とは瞳の色が違うんだ。 ふたのププリンの笑顔では、瞳の色はわからないけど。<ピチュー> (資料3)*ピチューはこねずみポケモンに分類されるのか。 こねずみだからチュー、チュウ?*ピチューもおなじく進化する。ピカチュウ、ライチュウがお仲間。 ピカチュウという名前をまず知ってた。ピチュー、ライチュウはこのずかんで知った!*ピチューのほっぺはでんきぶくろなんだ。たくわえたでんきはどうするのかな。 ずかんによれば、せいでんきをからだにまとうためのよう・・・。 さわったあいてをまひさせるためだって。なるほど、ぶきになるんだ。戸惑っていること。*参照した「ポケモンずかん」では進化の方向性が決まっているのだろうか。 左⇒右、右⇒左のように。 このずかんで遊んでみて、左⇒右がどうも進化の方向ではないかと推測しました。 左から右に行くほど、キャラクターの髙さと重さが増大していますので。*キャラクターに振られた番号と進化の方向とは無関係なのか? つまり、キャラクターは番号の割り振りとは無関係に創造された・・・・・。 門外漢の勝手な想像です。後半は、このふたから、ネット情報を利用してちょっと遊んでみたメモです。同じことなら、このふたのキャラクターを様々に変えたバリエーションができると、探す楽しみができるかも。だけど、それをしようとすれば制作コストが急上昇するから無理でしょうね。この1枚のふたからポケモン・ワールドはかなり広いことがちょっとだけわかりました。それが私にとっての副産物でした。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) Mo.173 ピイ :「ポケモンずかん」2) No.174 ププリン :「ポケモンずかん」3) No.172 ピチュー :「ポケモンずかん」補遺ポケモン オフィシャル・サイトポケモンずかん ホームページポケットモンスター テレビ東京公式アニメ【公式】アニメ「Pokemon Evolutions」第1話「ザ・チャンピオン」 YouTube【公式】アニメ「ポケットモンスター」第111話「モーンとリーリエ、雪原の再会」(見逃し配信) YouTubeポケットモンスター :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 マンホールのふた見聞考 ウォッチング掲載記事一覧
2022.05.22
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青蓮院の北隣りは「粟田口 あおくすの庭」という空間になっています。神宮道に面して鉄柵で仕切られ、扉は開かれています。この庭はいつも通過点になっていたので、今回は中に入ってみました。神宮道に面して、駒札と名称碑が立っています。駒札には、「ここは、市民のみなさんの憩いの場として利用するための場所です」と記し、利用上の一般的な注意事項が書かれています。 庭の正面に見える景色 こんな緑の広場が鍵型に広がっていました。私が庭を写真を撮りつつ歩いているときは、男女2人を見かけただけ。鉄柵には、閉門時間帯「午後5時から翌朝午前10時まで」の掲示があります。この憩いの場の北隣りの角地にはお寺の門が残るだけで、境内は取り壊されて空地になっていました。再開発地になっています。どのように変身するのでしょう・・・・。その案内掲示は見かけませんでした。 東に向かう道路の北側に「尊勝院庚申堂参道」の道標が立っています。庚申堂が少し小さめの文字で刻されています。ここが今回の第3の探訪目標です。上掲道標が最初の目印。緩やかな坂道沿いに東に進みます。 南に入る道路 道路には北側に歩道があります。上掲の坂道の少し奥に、「元三大師」と刻した石標が立ち、歩道側には京都一周トレイルの順路標識が立っています。「元三大師」石標が尊勝院への道標になっています。南に延びる坂道を登り、 ⇒ ⇒ 将軍塚への経路でも道沿いに登って行きます。坂道の勾配は少しずつきつくなり、道幅は狭くなります。 そして、中腹に境内地が広がります。 石段を登ったところ、右側に正面に「手洗水」と刻された水鉢があり、左前方にお堂が見えます。「尊勝院」の本堂駒札が立っていますが、残念ながら判読困難な状態に劣化しています。この本堂一棟は京都市指定有形文化財に登録されています。この日は残念ながら御堂の扉は閉じられていました。青蓮院に属する天台宗のお寺です。青蓮院の飛地境内である将軍塚へ向かう途中、粟田口から徒歩5分ほど登ったところで、粟田神社の背後になります。 保延2年(1136)に陽範阿闍梨が比叡山横川に尊勝坊を開創したことが始まりです。鳥羽天皇のために横川で尊勝法を修し、その恩賞として同地に尊勝坊(院)の号を賜ったそうです。僧行観の代に、尊称院の別院としてこの粟田口に尊勝院の別院として堂宇が営まれ同じく尊勝院と称され、青蓮院の院家筆頭の寺となったとか。応仁の乱で罹災し荒廃。文禄年間(1592~1596)に豊臣秀吉により本堂が再建されたといわれています。尊勝院の寺地がここに移転されたのは大正4年(1915)で、本堂のみが移築されたと言います。(資料1,2)本尊は元三大師が祀られています。上掲の「元三大師」石標がこの本尊を示すことになります。併せて地蔵菩薩像、青面金剛と庚申三猿像が安置されています。地蔵像は三条白川畔にあった金蔵寺の遺仏で、俗に「米(よね)地蔵」と呼ばれるそうです。体内に籾粒が納入されていることに由来し、この地蔵菩薩を信仰するものは米の食いはぐれがないと信じられたとか。(資料1,2)そして、今回の探訪目標とした「大青面金剛尊と三猿」です。三猿像(見ざる、聞かざる、言わざる)もまた金蔵寺の遺物で、俗に「お猿堂」「粟田の庚申堂」と呼ばれていたそうです、金蔵寺が廃寺となり、明治初年に尊勝院に合併されたと言います。江戸時代に出版された『都名所図会』(安永9/1780年)には「東三条金蔵寺御猿堂」という一項が記載されています。重複しますが、引用します。(資料3)「青蓮院御門跡の院内なり。三猿の像は伝教大師の作。当寺の本尊は米(よね)地蔵と号す。伝教大師唐土より将来し給ふとなり。(むかし貧女ありて、常にこの尊像を崇敬する事、年あり。菩薩これを感応し給ひて、糧乏しき時は米袋を持ち来つて夢中にあたへ給へり。故に永々貧窮をまぬかる。これによつて米地蔵と号すなり) 尊称院は南の丘にり。本尊は元三大師の坐像にして、自作なり」この記述で興味深いのは、庚申信仰という観点では、御猿堂と三猿の像という二語だけで人々には通じたということです。また、当時、一般庶民には、金蔵寺の方が有名であり、尊勝院は補足説明するという程度の比重だったような印象を受けます。この尊勝院が、八坂庚申堂(金剛寺)とともに、京都三庚申のひとつに挙げられています。もう一つが山ノ内庚申(猿田彦神社)です。(資料2、資料4)八坂庚申堂と尊書院は東山(洛東)にありますが、山ノ内庚申(猿田彦神社)は洛西に位置します。調べていて情報を得たのですが、『京羽二重大全』(1784)には、京都の庚申信仰霊場として上記3ケ所を含めて7ケ所が列挙されていると言います。(資料4) 北西側からの眺め桁行三間、梁行四間、本瓦葺の建物です。駒札によれば、「正面一間通りを外陣、奥寄りの方三間を内陣とし、内陣には中央に四天柱を立てて、背面に仏壇を間口いっぱいに設けて本尊元三大師像を祀る厨子を安置する。」(駒札より部分転記)内陣は常行三昧堂の形式であり、一間四面堂の構成で建てられているそうです。 本堂の棟の端部は獅子口です。 鬼瓦 蟇股 本堂前には、一対の石灯籠が配されています。なぜか神前灯籠の形式です。竿の正面には「常灯明」と刻されています。本堂内部は拝見できませんでしたが、小さなこの境内地を巡ってみましょう。 まず、本堂にむかって右(南)側の奥には、この覆屋が見えます。近づいてみると「水子地蔵尊」の木札が掲げてあります。 三体の異なるお姿の地蔵尊が安置されています。中央は合掌されている姿、むかって右側には右手は与願印、左手に宝珠を捧げる姿、左側は幼児を抱かれる姿です。足元に小さなお地蔵さまの奉納もみられます。 本堂の北東よりには小堂があります。 小堂内には7体の石仏と小さな五輪塔の残闕が納めてあります。お地蔵さまとして祀られているのでしょう。 ここが境内の北端だと思います。一旦下り坂となった道は、再び登り坂となり、東山山頂公園・将軍塚・清龍殿へ向かう登山道です。「清龍殿道 この先の木橋を亘ってお進みください 約30分」と記された駒札が近くに立っています。 本殿前から京都市内を眺めた景色 岡崎公園の平安神宮大鳥居や京都市京セラ美術館などが遠望できます。 ズームアップして撮ってみました。さて、この辺りで尊勝院探訪を終え、下山します。まずは、神宮道傍に立つ道標まで引き返します。 道標から少し北に、「京都市立粟田小学校」の新しい校門があり、その北斜め前に「粟田口」の道標と駒札が立っています。 奈良時代以前から開かれ、粟田氏が本拠地とし、粟田郷と呼ばれた地域です。平安京遷都以降、東国への交通の要衝地で、京都七口の一つに数えられました。三条通(旧東海道)の白川橋から東、蹴上付近までの広いエリアが粟田口と呼ばれます。青蓮院は粟田御所とも呼ばれる由来はこの地名にあります。 神宮道と三条通の交差点の南西側のビルの前に地蔵堂が見えます。 格子扉越しに拝見すると、お地蔵さまはすっぽりと涎掛けに覆われています。 涎掛けというよりも覆い布という感じです。 三条通を横断し、北側歩道を西に向かいます。ここでも地蔵堂が東面する形で祀られています。 こちらのお地蔵さまはいわゆる涎掛けで、お顔が見えます。 粟田口の西端になる白川(上流側)と現在の白川橋の東詰(南側)の景色です。これで、この探訪の当初の目標地を巡ることができました。最後に、余談です。白川橋東入ル(南側)にパークウォーク京都東山というマンションビルがあります。そこの北西角に、「坂本龍馬お龍『結婚式場』跡」という石標が2009年10月に建てられています。この辺りが、上記の金蔵寺が江戸時代末まであったところです。三条通南側歩道を歩かれたときにお確かめ下さい。(資料5)この時、時間のゆとりがありましたので、京都の三庚申の残り、猿田彦神社に足を向けることにしました。別項としてご紹介します。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1)『昭和京都名所圖會 洛東-下』 竹村俊則著 駸々堂 p31-322) 元三大師を祀る尊勝院 :「天台宗青蓮院門跡」3)『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p2874) 京の三庚申 :「京の霊場」5) 坂本龍馬お龍「結婚式場」跡 :「フィールド・ミュージアム京都」補遺あおくすの庭 ゆっくり桜を楽しむための穴場スポットNo.13 :「まいぷれ」粟田 尊勝院 尊勝院由緒記 ホームページ 米地蔵 庚申さま良源 :ウィキペディア疫病退散で知られる「元三大師」をご紹介します。 :「百済寺樽」第一第7話(7) 小田原教壊上人、水瓶を打ち破る事 付、陽範阿闍梨、梅の木を切る事 :「やたがらすナビ」京都三庚申 青蓮院院家 尊勝院 :「京の霊場」京の三庚申 ::「京の『ろうじ』を歩く」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・洛東を往く -1 祇園をぬけて八坂庚申堂(金剛寺)に へ探訪 京都・洛東を往く -2 八坂の塔(法観寺)へ探訪 京都・洛東を往く -3 二寧坂~ねねの道:歌仙堂・三面大黒天・月真院 へ探訪 京都・洛東を往く -4 円山地蔵尊、大雲院、芭蕉庵、西行庵、花月庵(西行堂)へ探訪 京都・洛東を往く -5 道元禅師荼毘御遺跡塔、持病平癒地蔵尊、双林寺 へ探訪 京都・洛東を往く -6 東大谷・京都祇園堂・長楽館・花園天皇陵・青蓮院 へ探訪 京都・洛東を往く -7 植髪堂(青蓮院境内)へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都・東山 合槌稲荷明神・青蓮院塔頭金蔵寺跡(龍馬・お龍「結婚式場」跡)
2022.05.19
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青蓮院拝観の表門となる薬医門を入り、後で気づいたことですが、左折するとこの景色の左側の石段があります。石段を下ってから振り返った景色です。拝観受付は薬医門を入り、右折して坂道を少しのぼって行く方向です。つまり、これからご紹介するお堂は拝観受付をすることなく、自由に参拝・拝観できるということです。 境内地ですが一つの独立した寺域の形で、この「植髪堂」が建立されています。境外仏堂という位置づけになっているそうです。このふと立ち寄ってみた探訪まで、オープンにアクセスできるお堂があることを知りませんでした。 お堂の正面に立ち、堂内を拝見した景色です。堂内は自由に参拝できるようでしたが、堂内には入らず、正面からの参拝・拝見にとどめました。 正面の右側手前に「植髪堂の由来」についての駒札があります。このお堂が親鸞聖人に関連して建立されたお堂だということをこの駒札を読み初めて知った次第です。事後に手許の本を見ると「青蓮院」中に「植髪堂」の一項がありました。「養和元年(1181年)親鸞聖人が9歳の時、青蓮院第三世門主慈鎮和尚のもとで得度した時に剃り落とした髪を、親鸞聖人の親族が保管し、張り子で造った親鸞聖人の童形像の頭上に植え、常に自分逹の傍に置いていました。まもなくこのお像は青蓮院に移され、永く蔵せられることになります。 親鸞聖人の教えが広まるにつれ、このお像のことを伝え聞いて礼拝を願う人々が数多く訪れるようになったので、新たに一閑張りのお像を造り、法衣を纏い、当院の末寺で一番近くにあった金蔵寺(明治に廃寺)の御供屋に安置して誰でも拝めるようにしました。」(駒札冒頭の転記)というのが始まりだそうです。慈鎮とは、鎌倉時代前期の天台僧で、4度天台座主となった慈円僧正の諡(おくりな)です。(資料2)当初、金蔵寺(粟田口三条坊町)の御供屋に植髪の親鸞童形像を安置宝暦9年(1759)金蔵寺の御供屋の東側に信徒が「阿弥陀堂」を建立。別称「植髪堂」 阿弥陀三尊像を祀り、その傍らに植髪の親鸞童形像を祀るその後三条粟田口付近を転々と ⇒ 華頂山上、定法寺町(神宮道三条上がる東側)等文化8年(1811)新堂建立(正月に立柱、3月に入仏供養)。現在の植髪堂。なお2回移転明治13年(1880) 現在地に移築昭和54年(1979)8月 10ヶ月に亘る長期大改修工事実施 (駒札、資料1)この尊像を安置する厨子は宝暦10年(1760)に造られたものといいます。(駒札より)江戸時代に出版された『都名所図会』(安永9/1780年)には、「青蓮院」の項はありませんが、「華頂山親鸞聖人植髪の尊像」という見出しの項があります。「仏光寺の廟所の東に隣る。・・・・・近年(追記:明和4年11月)この地をひらき給ひ、堂舎を遷し、華頂山堂と称す。宗旨は天台にして、親鸞宗義を椄(まじへ)て正信偈文・念仏和讃・御文章等の勤行あり」(資料3)と記しています。「本尊は阿弥陀仏の坐像を安置し、右の壇上の厨子にこの尊影を安んず」と記し、その続きにこの植髪の尊像の姿を記述しています。「長三尺にして立像なり。小葵の直衣に薄紅梅の御衣を召し、紫の亀甲形の指貫(さしぬき)を着し、繧繝縁(うんげんべり)の褥(しとね)に在(ましま)して、児童の御影なり。」(資料3) お堂の北側の景色 「親鸞聖人遺髪塔」と刻した石碑が大樹の傍に建てられ、遺髪塔の右手前に犬の座像が置かれています。 親鸞聖人遺髪塔 裏面には、2万人以上の人々の寄進により、昭和15年(1930)5月に青蓮院門跡が建立された旨、並びに「親鸞聖人得度遺髪納之」と刻されています。 親鸞遺髪塔の右斜め後ろには、線刻された観世音菩薩像が建立されています。 北西隅には地蔵堂があります。 涎掛けが4枚重ねってかけてあります。 地蔵堂から少し南には、「西本願寺法主御手植」と刻した石標が立つ大木があります。 この石灯籠が、植髪堂境内地西辺の鉄柵の外側に設置されています。石灯籠の基礎には「粟田」、竿には「親鸞聖人うへかみの御影」と刻されていると判読しました。この鉄柵側がお堂の正面であり、ここから出入りができます。石灯籠の前は神宮道に面した駐車場になっています。神宮道に戻り、第3の探訪目標である「尊勝院」に向かいます。つづく参照資料1)『昭和京都名所圖會 洛東-下』 竹村俊則著 駸々堂 p272)『岩波仏教辞典 第二版』 岩波書店3)『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p291補遺天台宗 青蓮院門跡 ホームページ青蓮院 :ウィキペディア慈円 :ウィキペディア慈円 :「Web版 新纂 浄土宗大辞典」出家得度 :「浄土真宗 親鸞会」【第2回】得度は9歳青蓮院で :「真宗高田派本山 専修寺」わずか9歳で出家された親鸞聖人|幼くして両親と死別し天涯孤独となる アニメ動画を併載 :「1からわかる親鸞聖人と浄土真宗」一閑張家元 ホームページ一閑張りとは :「一閑張り たなの」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・洛東を往く -1 祇園をぬけて八坂庚申堂(金剛寺)に へ探訪 京都・洛東を往く -2 八坂の塔(法観寺)へ探訪 京都・洛東を往く -3 二寧坂~ねねの道:歌仙堂・三面大黒天・月真院 へ探訪 京都・洛東を往く -4 円山地蔵尊、大雲院、芭蕉庵、西行庵、花月庵(西行堂)へ探訪 京都・洛東を往く -5 道元禅師荼毘御遺跡塔、持病平癒地蔵尊、双林寺 へ探訪 京都・洛東を往く -6 東大谷・京都祇園堂・長楽館・花園天皇陵・青蓮院 へ探訪 京都・洛東を往く -8 あおくすの庭、尊勝院、粟田口 へ
2022.05.18
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