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第3の探訪目標地に向かうために、東大谷祖廟の参道を西に歩み、ねねの道に出ます。振り返って祖廟のある東山の麓を眺めた景色です。祖廟の南、雙林寺(双林寺)の南東方向には東大谷墓地が広がっています。ねねの道の脇には車止めの柵が置かれ、そこに「東大谷」と明示されています。東大谷祖廟は以前にご紹介しています。次に目指す第3の探訪目標について、少し触れておきます。最初にご紹介した京都庚申堂(金剛寺)のことを知ったとき、少し調べてみて、京都における庚申信仰の記事に出会いました。その折、京都三庚申とか、京都の七庚申霊場があることを知ったのです。粟田口にある尊勝院が三庚申の一つだそうです。ここはかなり前に東山の将軍塚から粟田口に下山する途中で境内地を抜けたことがあります。ここが庚申信仰にも関係することをその時には全く意識していなかったのです。ということで久しぶりに東山の中腹まで逆に登ってみようと探訪目標に加えました。目標地に行くには、青蓮院前の神宮道を通り北に向かうことになります。まずは目標地に向かう途中で副次的に探訪した箇所をご紹介したいと思います。 ねねの道西側に建つまだ新しい感じの建物です。道沿いの南西隅に「京都祇園堂」の石標が立っています。 入口の右側にこの案内文が掲示されています。この付近には、白河法皇の寵妃・祇園女御の屋敷があったと言います。祇園女御は法皇の崩御後出家し、屋敷の隣接地に阿弥陀堂を建てて法皇の菩提を弔い余生を送ったとか。その女御の菩提を弔う祇園女御塚が置かれていたそうです。 京都祇園堂の前面北東隅に「祇園女御塔」と正面に刻した供養塔が安置されています。京都祇園堂の1階奥には、祇園女御の菩提を弔うために阿弥陀如来が祀ってあると記されています。(建物内部は未訪です。)『平家物語』巻六には「祇園女御の事」が記されています。「又古い人の申しけるは、清盛公は只人にはあらず、実には白河院の御子なり」という一文から始まり、永久の頃に、この祇園女御の「栖所(すまひどころ)は、東山の麓祇園の邊(ほとり)にてぞありける」と記され、この祇園女御のことが述べられています。(資料1) 祇園女御館の北に、「長楽館」があります。ここは円山公園内の南西隅に位置します。通常なら観光客を多く見かける場所なので素通りしてしまうのですが、人をあまり見かけなかったので、表門から建物までの前庭エリアに立ち寄ってみました。 正面の建物の前庭は、中央に低めの円筒型に整備された島が設けられ、大木が繁り、大きな雪見灯籠が置かれています。 正面には鉄骨造り、4階建(地下1階)の洋館があります。現在は、デザートカフェやレストラン、ホテルとして利用されています。明治の実業家で煙草王と称された村井吉兵衛が別荘を兼ねた迎賓館としてこの地に建てました。村井吉兵衛は明治28年(1895)東山馬町に工場を建て、日本で初めて紙巻タバコの製造をおこなった実業家。建物は、アメリカ人ジェームズ・マクドナルド・ガーディナーが設計監督を行い、6年の歳月を経て明治42年(1909)に竣工しました。竣工後間もなく、木戸孝允の墓参のために入洛した伊藤博文は、この別荘に宿泊して名士を多数招き宴を催したそうです。伊藤博文はその4ヵ月後、ハルピン駅にて暗殺されてしまいます。村井家の別荘でしたが、明治末年から大正にかけては、国賓として来朝した外国人の宿泊所としても提供されたと言います。内部の客室は、ルイ15世王朝の様式を真似た豪華な装飾が施されているそうです。(資料2) 表門を入ると、南側にこの建物があります。洋館の傍に石灯籠や石造五重層塔が置かれていますが、違和感はありません。 円山公園を縦断して知恩院の南門を通り抜け、「知恩院三門」を右に見ながら通過します。知恩院は既に幾度か視点を変えながら、ご紹介をしています。 青蓮院の手前で、表門が開いているのに気づきました。幾度もこの北に向かう神宮道を歩いていますが、閉まっているという記憶しかありませんのであまり意識することのない単なる通過点でした。門が開いていることに気づき、傍の案内板を見ると「花園天皇十楽院上陵」と記されています。そこで、立ち寄って探訪してみました。 門扉は桟唐戸で、連子様の狭間の中央に菊紋がレリーフされています。板蟇股は簡略な陰刻が施されています。 表門の屋根の軒丸瓦の瓦当にも菊紋がレリーフされています。棟積みの丸瓦にも菊紋が見えます。 表門を入ると真っ直ぐ参道が延び、右手に小ぶりな水槽風の石造物が置かれています。目的や機能は不詳です。水源はなさそうですが、手水鉢に相当するのかも・・・・・。 北隣りは青蓮院です。こちらの門に近い位置で、青蓮院の南西隅に「鐘楼」が見えます。 参道は緩やかな坂道から少し急な坂道に変わって行きます。築地塀が低めのため、歩むにつれて青蓮院の庭や御堂が垣間見えます。 坂道の前方に、警備詰所が見えてきます。坂道の最後は陵墓への石段が続きます。 石段を上がって眺めた陵墓の景色。北面する陵墓です。 正面から眺めた陵墓。向かって右側に陵墓名を刻した石標が立っています。十楽院とは何かという疑問が湧きました。十楽院は「安元2年(1176)後白河天皇中宮平滋子が、亡父平時信の菩提を弔うために、その墓側に建立された寺である。のちに青蓮院の院家の一つとなり、道玄法親王以下歴代青蓮院門主の住房となった。」(資料3)十楽院は廃絶となったお寺です。花園天皇陵は十楽院の跡地に設けられたことからその名が付けられたと推測します。 さて、御陵から出て先に進みます。 神宮道に面して、表門石段の北側に「花園天皇陵参道」の道標が立っています。今まで気づかなかったのが不思議・・・・・。 すぐ近くの見上げるところにあるこの青蓮院の石標に目が行ってしまうせいだったのかもしれません。「史蹟 青蓮門院𦾔假御所」。𦾔は旧、假は仮の旧漢字です。 神宮道に面したこの石段の上には、「四脚門」があります。宸殿の庭に直接入る門です。 神宮道からこの「長屋門」が右(南西)側に見え、 東の奥まった位置にこの門(薬医門)が見えます。 この門の右側に、駒札が立っています。青蓮院は天台宗延暦寺派の三門跡寺院の一つです。天台座主行玄が青蓮院と号して当寺の一世になります。鳥羽天皇の皇子覚快法親王が二世となることで、門跡寺院となります。1167年に三世を継承した慈円が青蓮院の基礎を築き上げます。慈円上人は生涯4度天台座主をつとめた台密の巨匠です。(資料2)かなり以前に青蓮院を拝観したことがありますが、ここはまた別の機会に再訪して細見してみたいと思っています。一方、どこに受付があったのか記憶が定かでなく、試しにその手前まで探訪してみることにして、門を潜ってみました。 門を入り右折して南に坂道を歩みます。正面に見えるのは「大玄関」です。宸殿への玄関です。大玄関の右(西)側の垣根のところが拝観後の出口になっています。 大玄関から北東方向に見える建物が入口で、拝観受付所に至るようです。大玄関の東側に庭があります。 南側、つまり宸殿の北面が生垣で、大玄関の東面は光悦寺垣風の垣です。反対側は垣根代わりに樹木が並んでいます。この空間に枯山水の庭が作庭されています。(資料4)この庭を眺めた後、坂道を下ると北側に御堂があるようで、真っ直ぐに下る石段道が見えますので、そちらに進んでみました。そこにはオープンに拝見できる「植髪堂」という大きな御堂がありました。今まで知らずにいた御堂です。つづく参照資料1)『平家物語 上巻』 佐藤謙三校注 角川文庫ソフィア p3012)『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p2304)『昭和京都名所圖會 洛東-下』 竹村俊則著 駸々堂 p283) 境内と庭園 :「天台宗 青蓮院門跡」補遺大谷祖廟 東本願寺 ホームページ長楽館 ホームページ天台宗 青蓮院門跡 ホームページ青蓮院 :ウィキペディア村井吉兵衛 :ウィキペディア村井吉兵衛 :「コトバンク」ジェームズ・マクドナルド・ガーディナー :ウィキペディアガーディナー ジェームズ・マクドナルド :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・洛東を往く -1 祇園をぬけて八坂庚申堂(金剛寺)に へ探訪 京都・洛東を往く -2 八坂の塔(法観寺)へ探訪 京都・洛東を往く -3 二寧坂~ねねの道:歌仙堂・三面大黒天・月真院 へ探訪 京都・洛東を往く -4 円山地蔵尊、大雲院、芭蕉庵、西行庵、花月庵(西行堂)へ探訪 京都・洛東を往く -5 道元禅師荼毘御遺跡塔、持病平癒地蔵尊、双林寺 へ探訪 京都・洛東を往く -7 植髪堂(青蓮院境内)へ探訪 京都・洛東を往く -8 あおくすの庭、尊勝院、粟田口 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都・東山 大谷祖廟(東本願寺) 観照 京都・東山 -2 知恩院三門の桜観照 諸物細見 -3 京都・東山 知恩院三門と桜スポット探訪 京都・東山 知恩院(大方丈・小方丈・方丈庭園) -1 3回のシリーズでご紹介スポット探訪 京都・東山 知恩院の境内を巡る -1 阿弥陀堂・大庫裏・黒門坂 2回のシリーズでご紹介スポット探訪 京都・東山 知恩院 ふたたび -1 名号松・納骨堂、層塔との出会い 4回のシリーズでご紹介スポット探訪 京都・東山 知恩院・勢至堂境内細見観照&探訪 京都・東山 知恩院 -1 瓜生石・黒門・大庫裏・集会堂・阿弥陀堂前の桜 3回のシリーズでご紹介
2022.05.17
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西行庵・花月庵の前の道を東に歩むと、このお店・菊之井無碍山房があります。 店の手前に小祠があります。石仏に涎掛けがしてあります。お地蔵さまの祠でしょうか。近づいてみると、双体像の石仏です。双体地蔵尊のように思えます。(道祖神の可能性も・・・・)この店の東側の南に向かう小径に右折します。 石を敷き詰めた円形に近い広場があります。道なりに南に進むと、 もう一度右折して西方向に歩む小径になります。 その先はこんな景色です。右に鉄柵が設けられ、前方は行き止まりです。前方の先は高台寺墓地です。 現地で位置関係を観察すると、丁度前回ご紹介した双林寺花月庵(西行堂)の南に接する位置になります。萱葺屋根がそれです。菊渓川の畔にあります。鉄の扉は施錠されていましたので、正面から拝見できませんでしたが、大凡第2目標は達成です。 ここが道元禅師荼毘所址です。手許の参照本は1980年6月発行ですが、「西行庵の南に接する菊渓川の畔にあって、近年整地して石塔を建てられた」と記されています。脚注には覆い屋がない露天の景色の写真が載っています。(資料1)少し前に、西洞院高辻西入ルにある道元禅師示寂の地の探訪記をご紹介しています。探訪後に調べていて、この荼毘所跡のことをネット検索情報としてまず知りました。その後で手許の本に「道元禅師荼毘所址」の見出しで載っていることを知った次第です。 木の向こうに見える石標がまず探訪目標でした。 斜めからしか正面の刻字が読めませんが、西面に「曹洞宗高祖道元禅師荼毘御遺跡之塔」と刻されています。その左側に、「永平七十一世遠孫比丘瓏仙教書」と印が刻されています。東面は残念ながら見られませんが、次の碑文が刻されているそうです。(資料2)曹洞宗高祖道元禅師は内大臣久我通親の子、十三才の春叡山に上り出家得度、天台の教学を修め、」更に内外の智識に道を訪ね遂に大宋国に渡って天童山の如浄禅師より釈迦年尼仏正伝の仏法を相続」して帰国せらる。後興聖寺、永平寺を開山日本曹洞の初祖也、建長四年秋病を発し翌年京に帰り西洞」院高辻の俗弟子覚念の邸に病を療ぜらるゝも八月廿八日御歳五十四才で遂に遷化せらる。直ちに」合龍を天神裏の小庵に移し遺弟等東山赤築地の当処に於いて荼毘に付す。爰に京都府下の法孫」報恩の微意を表し謹んで建之」 京都府曹洞宗宗務所長 維時昭和四十年八月廿九日 鷹峰龍乗この記述から整備された時期がわかります。垣間見る形でのご紹介です。 整備された遺跡塔の全容をこれで大凡イメージできると思います。道元禅師は、正治2年(1200)年生まれ、1253年に病気療養のために入洛し、同年に西洞院高辻の地で寂滅され、この地(東山赤築地)で荼毘に付されました。遺骨は永平寺に埋葬されています。(資料1,2) さて引き返します。元の道路に戻り、道路を挟んだ北側を眺めますと、 まず、「南無地蔵菩薩」の幟が目に入ります。ここは双林寺の境内になります。 地蔵堂に近づくと、「持病平癒地蔵尊」の扁額が掲げてあります。 格子扉越しに拝見すると、石造地蔵菩薩坐像が安置されていて、お地蔵さまその他の石造物も安置されています。 格子扉に「持病平癒地蔵尊」の由緒が掲げてあります。「そもそも、ここに安置し奉る持病平癒地蔵尊は、皇女綾御前が父、鳥羽天皇の菩提を弔うため自ら書写なされた金字法華経八巻を納める法華塔を建立されましたが、応仁の乱により、宸筆法華経と共に罹災したため、その跡地にその灰土を集めて一塊の塚とした『法華塚(本地蔵堂東隣石柵内)』を、明治5年8月、修繕したときに、地中より出現された地蔵尊であります。 その時、大阪の森田某なる人、永年に亘り持病にて難渋されていたので、持病平癒を一心に祈念されたところ、不思議にも数日を経て、全快を見られ、霊験のあらたかさを感得されて報恩感謝のために御堂を建立し、鷲尾町町内守護と共にこの地蔵尊をお祀りして、現在に至るのであります。 この地蔵尊は称号のように、一切の病気に霊験があり、ご利益を載かれた人数数知れず、今なお、御参詣の人絶ゆる日なく、難病も一百八編の御真言をお唱えすれば必ずご利益をいただけ、願望も成就させて戴ける有難い仏さまなのであります。 御真言 おん・かかか・びさまえい・そわか 」(説明文転記) 地蔵堂の東隣りが、雙林寺(双林寺)の参道入口です。右手前に石標が並んでいます。この刻字から、この地が「真葛ヶ原」と呼ばれていたことがわかります。真葛ヶ原はこの辺りから現在の円山公園を中心にして北は知恩院三門より南の東山山麓一帯の旧称でした。(資料1)その名の通り、真葛や薄、茅などが一面に生い茂るところだったそうです。 わが恋は松を時雨の染めかねて真葛ヶ原に風さわぐなり 新古今集、十一、恋歌一と天台座主慈円僧正は歌を詠まれているとか。(資料1)序でに、孫引きですがいくつか歌をひろっておきましょう。(資料1) 風渡る真葛ヶ原の寂しさに妻とふ鹿の声うらむなり (家集) 鴨 長明 吹き返す真葛ヶ原の秋風も恨みそめたる鹿の声 (家集) 俊成女 秋風よ恨みは深し真葛原月をば霄(そら)に吹きも返へさで (挙白集、二)長嘯子この双林寺も以前に少しご紹介しています。重複しますのでご紹介は写真に留めます。 参道を進むと、「伝教大師童形像」が建立されています。 やはり、布袋像に目がとまります。 本堂 金玉山と号する天台宗のお寺ですが、その寺運は盛衰が大きく変転し、一時期は時宗として寺運が栄えたときもあり、再び天台宗のお寺に戻ったそうです。今は本堂一宇を残すだけです。寺地が縮小していく背景には次のような経緯があるそうです。「1605(慶長10)年に高台寺、1653(承応2)年には、東大谷祖廟の造営にあたり寺領を献上し、規模を縮小しました。明治維新のときに天台宗に復し、廃仏毀釈や1886(明治19)年、円山公園造営のため、さらに多くの寺領を上地し、今は僅かに本堂一宇と飛地境内にある西行法師ゆかりの花月庵(西行堂)を残すだけとなりました。」(資料3)この後、双林寺の寺号標の右側の道を歩いたことがありませんので、探訪を兼ねて歩いてみました。それで位置関係が明瞭に繋がってきました。東本願寺・大谷祖廟の正面の石段下に繋がる道でした。道沿いに北に進めば円山公園内です。地図を参照すると大谷祖廟を含めて円山町という町域になります。第3の目標は、粟田口の尊勝院の再訪です。目標にした意図は後ほどご説明します。つづく参照資料1)『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p207-2082) 道元禅師荼毘御遺跡塔 :「フィールド・ミュージアム京都」3) 縁起書 :「雙林寺」補遺天台宗金玉山雙林寺 ホームページ祇園東山を流れた菊谷川・轟川・音羽川を求めて :「京都 失われた川」Kyoto Japan【4K】菊渓を歩く(東山山頂公園→菊渓→東大谷墓地→八坂神社)Walk from Higashiyama Mount Peak Park to Yasaka Shrine YouTube菊之井無碍山房 :「菊之井」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・洛東を往く -1 祇園をぬけて八坂庚申堂(金剛寺)に へ探訪 京都・洛東を往く -2 八坂の塔(法観寺)へ探訪 京都・洛東を往く -3 二寧坂~ねねの道:歌仙堂・三面大黒天・月真院 へ探訪 京都・洛東を往く -4 円山地蔵尊、大雲院、芭蕉庵、西行庵、花月庵(西行堂)へ探訪 京都・洛東を往く -6 東大谷・京都祇園堂・長楽館・花園天皇陵・青蓮院 へ探訪 京都・洛東を往く -7 植髪堂(青蓮院境内)へ探訪 京都・洛東を往く -8 あおくすの庭、尊勝院、粟田口 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 [再録] 京都・東山 円山公園南部周辺 -2 芭蕉堂・西行庵・花月庵(西行堂)・双林寺スポット探訪&観照 京都・下京 道元禅師示寂の地
2022.05.15
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「ねねの道」は南から北に上がると突き当たりとなり、T字路で右折して、少し先のT字路で左折し、北に上がると円山公園に到ります。冒頭の景色は左折するT字路の西側角です。 「円山地蔵尊」が建立されています。この辺りは以前にご紹介をしています。 地蔵尊の北側が「大雲院」という浄土宗のお寺です。ねねの道に東面する山門前には埒が設置されています。そこから本堂を眺めた景色です。お寺は移転を重ねて、1973年4月に現在地に移建されました。本堂は鉄筋コンクリート造りです。この大雲院の境内には、冒頭右の写真の背景に見えますが、高さ36mの「祇園閣」があることと、境内墓地に「石川五右衛門墓」があることで知られています。(資料1)元は、烏丸御池に貞安上人が本能寺の変でなくなった織田信長・信忠父子の菩提を弔うために一宇を創建して、開山したのが始まりだそうです。信忠の法名に因んで大雲院と号したと言います。山号は竜池山で貞安寺とも称され、浄土宗系の単立寺院です。(資料2)地図を参照していて再認識したのですが、この大雲院が「祇園町南側」という町域の東端です。南端が東大路通に位置する東山安井の交差点の北西側であり、この町域の広さに初めて気づきました。この祇園町南側に接するのが「鷲尾町」です。探訪の第2目標はここに所在することだけが手がかりでした。そのため、鷲尾町巡りをすることになりました。そこでかつて訪れた箇所もこの際再訪しながら、目的地探しを行った次第です。第2の目標は「道元禅師荼毘所跡」です。そこに行き着く前に、再訪した箇所をまずご紹介すます。ねねの道を挟んで大雲院の前、東側にあるのが円山音楽堂です。 大雲院の南東側にこの「芭蕉堂」があります。表門を入ると、すぐ右側に位置します。萱葺屋根の四阿風の建物です。天明3年(1783)に俳人高桑闌更が双林寺より借地して、この地に南無庵と称する一宇の草庵を営み、次いで天明6年(1786)に南無庵の南にこの芭蕉堂を建立したそうです。 堂内には闌更が新調した芭蕉像が安置されています。この像の胎内に森川許六自作の高さ24.5cmの芭蕉像が納められているそうです。(資料1) 余談ですが、この芭蕉堂の南奥に、レンタルきもの岡本があります。芭蕉堂の写真を撮っている時に、衣裳をいれた大きなバッグを搬出入している担当者を見かけました。 芭蕉堂の東に、「西行庵」があります。 この地に西行法師が葵華園院(さいけおんいん)を営み、終焉の地であったところと伝えられていたのですが、荒廃を極めていたとか。明治26年(1893)に富岡鉄斎、宮田小文法師、当時の京都市長内貴甚三郎らの尽力で、浄財を募り再建されたと言います。この萱葺の母屋「浄妙庵」は大徳寺塔頭真珠庵の別院を移築したもの。南側に茶室「皆如庵」があります。(駒札、資料1)鳥羽上皇に仕えていた北面の武士、佐藤義清は突然に出家しました。西行法師です。西行は出家した翌年、永治元年(1141)から双林寺の塔頭葵華圓院に止住したと言います。(説明文、資料1)西行法師の実際の終焉の地は、大阪府南河内郡河南町にある弘川寺です。(資料3) 母屋の東側に、この表門があり、左の門柱に「双林寺花月庵」と記された門灯が備えてあります。ここは雙林寺(双林寺)の飛地境内です。南にむかって参道が延びています。 参道を進むと、正面にこの萱葺屋根のお堂があります。初めて訪れた時は、途中に青竹を渡して立入禁止が示されていました。 今回はそれがなくて、お堂の前まで進むことができました。花月庵(西行堂)です。 正面の扉の上部中央に、「花月庵」の横額が掲げてあります。 扉のところに、この案内の額「花月庵(西行堂)」が掲示されています。堂内の厨子に西行法師僧像と頓阿法師僧像が祀られているそうです。(説明文より、資料1)頓阿(1289-1372)は南北朝時代の僧侶で歌人。「20歳前後に出家して比叡山で修学,のち四条道場金蓮寺に出入りした。東山双林寺に住んだこともあるが,晩年は洛西の蔡花園 (さいけえん) に住んだ」(資料4)そうです。「この花月庵のもとは、葵華園院の跡地に建立され、その後、享保21年(1731)に摂津池田にあった李孟寺の天津禅師により、現在の地に移築再興された。その後、明和7年(1770)冷泉為村が修繕した」(説明文一部転記)そうです。そして、「為村筆の扁額『花月庵』が掲げられた」(資料1)。一方、手許の書には、「萱葺きの瀟洒な西行堂はもと洛西双ヶ丘の麓にあった頓阿法師の葵華園を移して再興したものといわれ」(資料1)という説明と、「冷泉為村によって修繕されたが、再び荒廃し、明治26年(1893)宮田小文法師によって再建された」(資料1)と説明されています。 「円悟山 葵華園院 西行庵」と題する額も掲げてあります。西行庵の由緒がわかります。「此処、西行庵は西行法師が出家し初めて開山開基した葵華園院が起源で、西向きに建立された三十畳の本堂に阿弥陀如来三尊を祀り、南に隣接する五十畳近くの居住空間を擁するという、平安末期に一個人が創建した寺院としては東山屈指の伽藍でございました。西行の遺徳を偲ぶ様々な宗旨の僧侶が入山し、多様な変遷を遂げて参り、やがて正式名称の葵華園院を略し俗称の西行庵として人々に親しまれる様になりました。時は流れ明治維新の頃の廃仏毀釈の影響で二十年以上無住の状態が続き、かつて遺風を誇った伽藍は崩壊し、更地に帰します。明治二十六年政府発表の勧業会万国博覧会京都開催を受け、京都市議会派は現平安神宮を主会場に定め、清水寺に至る経路に適した界隈の再開発を円山公園整備事業として可決し、その一環として現在の西行庵が富岡鉄斎と宮田小文法師により再興されました。」(説明文転記 末尾一部略)これら説明の文脈を捉えますと、頓阿法師は晩年を過ごした草庵を葵華園と称していたこと。その建物がここに移築されたこと。西行堂を修繕した冷泉為村が花月庵と名付けたこと。それも後に荒廃したこと。現在の花月庵(西行堂)は明治期の再建であると理解できます。上掲のま新しい横額は実物を保存するために新たに複製が制作されたものと推測します。 西行堂の東側の建物の入口に「花月庵」の表札が掛けてあります。 西行堂の前面周辺と小径の左右を拝見していきましょう。 お堂の前に置かれ、上縁部が苔蒸した石造物。正面に如来像がレリーフされています。香炉なのか供花を捧げる器なのか・・・・。不詳。 目に止まった石造不動明王坐像 西行堂前の西側あたりだったと思いますが、これらの石碑が建立されています。ひっそりと碑が佇むばかりです。陰刻された文字を判読できないのが残念。 参道を表門に戻る時、西側で、垣根越しに垣間見える建物が茶室なのかもしれません。 参道を戻る途中で撮った景色をパノラマ合成してみました。西行堂への往路の景色と復路のこの景色、それぞれに写る雪見灯籠で位置関係が大凡イメージしていただけることでしょう。左端の透かし戸の向こうに見える萱葺屋根が西行庵の母屋です。 復路、右側(東)に墓所が見えます。宝篋印塔の左側の墓石には「頓阿法師」と刻されています。 参道沿いにこれらの墓石が一列に建立されています。以前の探訪記で触れていますので省略します。こんなところで、花月庵の境内を出て、いよいよ第2目標地点の探索です。鷲尾町の北域が円山音楽堂、花月庵までの西域がこれで消去されますので、探索域がかなり絞り込めます。つづく参照資料1)『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p205-2072)『京都府の歴史散歩 中』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社 p1273) 西行法師 :「河南町」4) 頓阿 :「コトバンク」補遺芭蕉堂 :「京都観光Navi」芭蕉堂 :「京都通百科事典」特集・コラム 京都・芭蕉堂 :「レンタルきもの 岡本」西行庵 :「京都通百科事典」西行 :「コトバンク」西行 :ウィキペディア西行 :「千人万首」頓阿 :ウィキペディア頓阿 :「千人万首」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・洛東を往く -1 祇園をぬけて八坂庚申堂(金剛寺)に へ探訪 京都・洛東を往く -2 八坂の塔(法観寺)へ探訪 京都・洛東を往く -3 二寧坂~ねねの道:歌仙堂・三面大黒天・月真院 へ探訪 京都・洛東を往く -5 道元禅師荼毘御遺跡塔、持病平癒地蔵尊、双林寺 へ探訪 京都・洛東を往く -6 東大谷・京都祇園堂・長楽館・花園天皇陵・青蓮院 へ探訪 京都・洛東を往く -7 植髪堂(青蓮院境内)へ探訪 京都・洛東を往く -8 あおくすの庭、尊勝院、粟田口 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 [再録] 京都・東山 円山公園南部周辺 -1 大雲院と祇園閣、円山地蔵尊探訪 [再録] 京都・東山 円山公園南部周辺 -2 芭蕉堂・西行庵・花月庵(西行堂)・双林寺
2022.05.14
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八坂の塔から八坂通を少し上ると、二寧坂(二年坂)への分岐点です。清水寺に向かえば、産寧坂(三年坂)を経て清水坂に到ります。二年坂入口のこのお店は、時季により色彩の異なる和傘を掲げているようです。以前に通り過ぎた時は、赤色の和傘だったと思います。 二年坂を下ります。GWの連休中は多分かなり混雑していたことでしょう。二年坂の中程、西側にある土産物店の一つは画家・詩人だった竹下夢二寓居趾(枡屋町)です。(資料1)寓居跡を示す碑が建ててありますが、意識せずに通過していました。 道沿いに下って行くと、「京の坂みち一念坂」(一年坂)の石標が立つ分岐点に到ります。左の景色は、一年坂への入口、南側角の景色です。このあたりの二年坂の東側はすっかり再開発されてしまいました。景観への配慮がなされていますが、まっさらという感じは否めません。初めての観光客はたぶんまったく気にはならないでしょうが・・・・・・・・。久しぶりに来たので、一年坂の小路を歩んで下ります。二年坂をそのまま下っても出るところは同じ道路。数十m東西に離れているだけです。 一年坂から東西の幅広い道路を横断し、「ねねの道」に向かいます。横断中に東を眺めた景色。幅広の道が分岐する地点です。北側のこの道路は高台寺の「霊山観音」に向かう道です。「高台寺」の大きな寺号標が立っています。南側の道路では石鳥居が東方向に見えます。「京都霊山護国神社」への道です。突き当たりで北に行けば護国神社境内、南に行けば「霊山歴史館」があります。また、護国神社の境内から、山に登れば「坂本龍馬の墓」があります。 「ねねの道」の北西角は「春光院」で高台寺の塔頭寺院。萱葺屋根の表門が特徴的です。「江戸時代初期、北政所の甥にあたる木下勝俊が、若くして亡くなった自身の娘、春光院万花紹三(しゅんこういんばんかじょうさん)の菩提を弔うために建立しました」(資料2)とのこと。また幕末に、この春光院にて尊皇攘夷派の僧・月照が西郷隆盛・有村俊斎・津崎矩子らと密議を重ねたとも言われています。(資料3)序でに、清水寺の南にある清閑寺の茶室郭公亭もまた、月照と西郷隆盛が密会した場所として知られています。(資料4) 表門の左側に石造摩利支天像が置かれています。「東山路傍の触れ仏」という案内板が傍に設置されています。「元はインドの神様。護身・得財・勝利などのご利益があり、武士を中心に信仰をうけました。勝負運などを上げたい方は右手もしくは両手で撫でてください。」(説明文転記)コロナ禍の現在、触れて撫でる人はいないでしょうね。余談です。摩利支天は梵名マリーチを音写したものです。漢名では陽炎・威光と訳出されます。元来はインドの民間信仰での神。猪の背に置かれた三日月の上に立つ摩利支天という姿で図像化もされています。東山では建仁寺禅居庵の摩利支天が有名です。平安時代に中国・唐に留学した密教僧により儀軌や図像が伝来されたと言います。「近世以降はとくに相撲界において土俵に臨むに際し、いずれも必勝祈願の神として信仰がなされた」とか。(資料5)現在の相撲界はどうなんでしょう。信仰も継承されているのでしょうか・・・・・・。元に戻ります。 門前から境内を眺めて。Mapionの地図を見ますと、左に見えるお堂に「勝利摩利支尊天」と尊名が表記されています。門前傍に、石仏像が置かれていることと呼応します。 ねねの道を北に歩みます。右側(東)は道路より一段高く、そこに「高台寺公園」があります。ご覧の通り、この道は御影石を敷き詰めてあります。スッキリした景色になっているのは、電線の地中化に伴う整備が行われ、1998(平成10)年にこの「ねねの道」となったそうです。(資料4) ねねの道を歩きはじめて、高台寺公園への石段傍で目に止まった顕彰碑です。 「京だんご 藤菜美」の入口南東隅で目に止めた水鉢(左)と高台寺公園へのメインの石段(右)です。石段手前左側に「高台寺公園」の表示碑があります。 公園入口の傍に、「高台寺塔頭全景図」が設置されています。色丸を追記しました。赤丸が全景図の設置場所。その右斜め上が公園です。茶色の丸が霊山観音、紫色の丸が高台寺のある場所です。マゼンタ色の丸が上掲の春光院の位置。これからご紹介するのは、青色の丸、空色の丸、黄色の丸という順番になります。 「圓徳院」(青色の丸)の入口です。これはたぶん長屋門形式の一つになるのでしょう。(資料6)この日は閉まっていました。圓徳院も高台寺の塔頭の一つです。(資料4) 門前から眺めた景色 北隣りにある門。幾度もこのねねの道を通りながら、この門前を素通りしていました。それはたぶん門前にお店の案内立て看板やお店の提灯が目に止まっていたせいでした。この時は往来する観光客がいず、「大黒天」の赤い提灯に目が留まり、ふと門を潜ってみる気になりました。犬も歩けばなんとやら・・・。門を潜ったお陰で、目標以外の探訪を広げることができました。 門を入ると右側(北)に宝形造の屋根のお堂があります。正面に「歌仙堂」と記された扁額が掲げてあります。堂内を拝見すると、手前の台上に「歌仙堂」についての説明が4枚の色紙に記されて立ててあります。文字が小さいので読みづらい。「『歌仙』とは安土桃山時代から江戸時代初期の武将・大名・歌人であった長嘯子(ちょうしょうし)のことです。 この歌仙堂には、彼の御位牌(大成院殿前四品羽林天哉長嘯居士)がまつられています。 長嘯子は、名を木下勝俊といい北政所ねねの兄、家定の嫡男として、1569年尾張に生まれました。幼い頃から秀吉公に仕え、19歳の時に龍野城主となり、1594年26歳で若狭小浜城主となりました。しかし、関ケ原の戦いの際、家族の情を優先してしまい、武人になり切れず、徳川家康に領地を奪われてしまいました。その後、出家して東山に隠棲し、文人として生きることを選びました。高台院が開いた高台寺の南隣りに挙白堂を営み、長嘯子と号しました。この隠棲地には『歌仙堂』と称する小閣があり、その二階には三十六歌仙図を掲げました。 長嘯子の歌風は感動の発露の中にいきいきとした清新さが息づき、近世和歌の革新の萌芽を内包していたといいます。ひとことでいうと、人としての感情、心の動きをありのまま奔放に表現していたのです。大名として最高の文化的素養を備えていた人物と言えます。これが木下長嘯子を『歌仙』と呼ぶいわれなのです。 1649年に死去しましたが、遺された和歌作品の数々は、弟子の山本春正らによって編集された歌文集『挙白集』に収録されています。[作品] *あらぬ世に身はふりはてて大空も袖よりくもる初しぐれかな *よしあしを人の心にまかせつつそらうそぶきてわたるよの中 *むらさきも朱もみどりも春の色はあるにもあらぬ山桜かな *枝も葉もかぞふばかりに月すめば影たしかなる庭のときは木 *露の身の消えてもきえぬ置き所草葉のほかにまたもありけり 」(説明文転記) 堂内の奥はこんな景色です。一番奥に木下長嘯子の位牌が安置されています。 歌仙堂の西側に手水舎があります。この西側に「三面大黒天」を祀るお堂があることと関係するようです。手水舎の背後が気になり、まずそちらに立ち寄ってみました。反時計回りに巡ってみました。 一番右にはこの句碑が建立されています。まず辞世と読めそうな文字。私には俳人名と句が判読できません。 建仁寺垣の前に、小祠が2つ。その左には石仏群。 涎掛けがかけてありますので、お地蔵さまとして祀られているのでしょう。 その左には、塚状にして石碑を集めたところがあります。右手前は句碑。私には判読できず、調べてみるとある記事に出会えました。(資料7) 大木の蔭をかなめの花うれし 文之助中央の大きな碑には、「扇□ 二代目 文迺屋文之助」と刻されています。二文字目は判読不可。調べてみますと、落語家の二代目桂文之助に関係する石碑のようです。明治33年に二代目桂文之助を襲名し、京都の寄席・笑福亭を拠点に活躍。高座を引退すると、高台寺門前で文之助茶屋を開き、茶店の主に収まったと言います。(資料8,9)「1910年、京都東山の高台寺に自身の扇子を奉納、1920年に完全に引退し高台寺に引退興行の代わりに石碑を建てた。」(資料8) この石碑がそれに該当するのだと思います。墓所はこの圓徳院にあるそうです。これもまた、調べてみますと、文之助茶屋は八坂の塔の東側、前回ご紹介した「八坂通り画廊」の東隣りのお店がそれでした。思わぬ形で繋がってきました。おもしろいものです。左側にあるのは扇を象った碑のようです。その背後には、碑文がありますが、私には判読しかねます。だけど、事後調査で大凡のことがわかり、探訪としては少しすっきりしました。この建仁寺垣の続きで、すぐ傍に「圓徳院」の出口用の門があります。 境内の奥(西)に進むと「三面大黒天御堂」が南面しています。(空色の丸のところ)三面大黒天の幟が立ち、正面から眺めると、唐破風の上に千鳥破風を重ねたような珍しい屋根になっています。唐破風屋根下の正面に「三面大黒天」の扁額が掲げてあります。 これは唐破風の方の獅子口ですが、五七桐紋がレリーフされています。上の獅子口も同様です。五七桐紋は豊臣秀吉の家紋です。 拝所前の香炉には、正面に菊華紋と五七桐紋が陰刻されています。 見上げるとこの扁額が掲げてあります。判読できません。残念。 正面奧に、小ぶりな三面大黒天像が安置されています。 豊臣秀吉は「三面大黒天」を出世守り本尊としました。大黒天・毘沙門天・弁財天の三天が合体した尊像です。圓徳院のホームページには三面大黒天のページがあります。それを参照すると、ここに安置されている三面大黒天は豊臣秀吉の守り本尊の模刻ではなさそうです。(資料10)別途造像されたものと思われます。余談ですが、私の探訪歴では、比叡山の大黒堂に祀られる三面出世大黒天と地元の宇治川の上流西岸にある興聖寺に祀られる三面大黒天が記憶にあります。 欄間にはこのちょっと不可思議なレリーフが見えます。龍に見えそうで、龍でもなさそう・・・・・・何を象っているのでしょう? 拝所に近い左側に置かれているもの。多分木魚だと思いますが・・・・。説明はありません。大黒天に向かって右面が毘沙門天という案内写真が傍に置かれています。三面大黒天の境内を出ると、道を隔てて東側に「月真院」(黄色の丸のところ)があります。ここは通常は非公開のお寺です。 山門前の右側には、「御陵衛士屯所跡」の石標や駒札が立っています。 慶長3年(1867)3月、伊東甲子太郎は新選組の隊長近藤勇と話し合い、新選組を脱退しました。同士14名とともに、この月真院を屯所に、禁裏御陵衛士として独立したのです。孝明天皇の墓を守護するという名目でした。だが、それは伊東甲子太郎が油小路木津屋橋で新選組により暗殺されるまでというわずか半年余の活動期間でした。彼らは「高台寺党」とも称されました。ここは維新史蹟の一つにもなっています。(駒札、資料1)中央に建立されている句碑を判読できません。調べて得た情報です。(資料7) 見あかぬよ 見ぬ日も無くて東山 芹舎八木芹舍(きんしゃ、1805-1890)という江戸時代後期から明治時代の俳人で、京都俳壇の実力者だったそうです。(資料7,11)右端に「鉄道先覚者 谷暘卿先生墓所」と刻された石標が立っています。調べてみますと、谷暘卿(ようけい、1817-1885)は「京都で漢方・蘭方折衷の産科,眼科を開業,九条家の典医もかねる」町医者だった人ですが、鉄道建白書を建議したという先覚者です。(資料12,13) 駒札の左側に布袋坐像が置かれています。 門を入り左折した先に庫裡が見えます。 その東側、仕切り塀の向こうが本堂のようです。 本堂には本尊として地蔵菩薩像が安置されていると言います。(資料1)「当寺は石見国(島根県)津和野の城主亀井茲政が亡父政矩の菩提を弔うため、元和元年(1615)三江紹益を開山として建立した高台寺の塔頭」(資料1)です。門前からは仕切り塀と中門が見えます。大木の傍の石碑の文字は判読できません。 中門から眺めた庭をパノラマ合成してみました。高台寺塔頭全景図と対比してみますと、庭の正面に見える不規則な石積みは池の縁になるようです。 表門を入ってすぐ右側には、石鳥居が立ち、「小稲荷大明神」と記された額が掲げてあります。稲荷社です。「名勝庭園 北政所御殿跡 圓徳院」の碑が築地塀の穴門傍にあります。ねねの道の西側で、三面大黒天御堂の北側になります。 「ねねの道」の道標が、この東に入る道とねねの道の角(南側)に立っています。この辺りで、ご紹介の一区切りと致します。この後が、この探訪の第2目標に関わってきます。つづく参照資料1)『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p1702) 京都 高台寺春光院風情ある茅葺屋根が魅力の高台寺塔頭寺院:「TRAVEL MAR-KER」3) 春光院 :「京都 Kyoto」4)『京都府の歴史散歩 中』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社 p144,p1585)『仏尊の事典』 関根俊一編 学研 p1696) 長屋門 :「コトバンク」7) 歌碑・文学碑巡り 京都東山 その7 :「あべしんのブログ」8) 桂 文之助(2代目) :「コトバンク」9) 桂文之助 :ウィキペディア10) 三面大黒天 :「圓徳院」11) 八木芹舎 :「コトバンク」12) 谷暘卿 :「コトバンク」13) 町医 谷暘卿の鉄道建白書の原文 :「北山敏和の鉄道いまむかし」補遺竹久夢二 :ウィキペディア弥生美術館 竹下夢二美術館 ホームページ竹久夢二寓居跡 :「京都観光Navi」圓徳院 三面大黒天のお堂 :「絶景かな.com」木下長嘯子 :「コトバンク」木下勝俊 :ウィキペディア木下長嘯子 :「千人万首」豊臣秀吉の家紋の意味は?政府が使っている理由について! :「歴史をわかりやすく解説! ヒストリーランド」【家紋】秀吉の「桐紋」、実は皇室由来? バリエーション豊かな「日本国」のエンブレム :「戦国ヒストリー」三面出世大黒天 参拝案内 :「比叡山延暦寺」鉄道にゆかりの深い寺院のこと :「DRFC-OB デジタル青信号」京だんご 藤菜美 ホームページ文之助茶屋 ホームページ京料理 高台寺 羽柴 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・洛東を往く -1 祇園をぬけて八坂庚申堂(金剛寺)に へ探訪 京都・洛東を往く -2 八坂の塔(法観寺)へ探訪 京都・洛東を往く -4 円山地蔵尊、大雲院、芭蕉庵、西行庵、花月庵(西行堂)へ探訪 京都・洛東を往く -5 道元禅師荼毘御遺跡塔、持病平癒地蔵尊、双林寺 へ探訪 京都・洛東を往く -6 東大谷・京都祇園堂・長楽館・花園天皇陵・青蓮院 へ探訪 京都・洛東を往く -7 植髪堂(青蓮院境内)へ探訪 京都・洛東を往く -8 あおくすの庭、尊勝院、粟田口 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都・東山 八坂神社前・霊山観音・利生堂を経て霊山歴史館へ、そして帰路に探訪 [再録] 京の幕末動乱ゆかりの地 -6 坂本龍馬・中岡慎太郎の銅像と墓、御陵衛士屯所跡、桂小五郎(木戸孝允)の墓ほかスポット探訪 [再録] 宇治 興聖寺細見 -3 ← 三面大黒天関連探訪 [再録] 京の幕末動乱ゆかりの地 -2 [道祖神社]・伊東甲子太郎殉難の跡・島原(輪違屋・角屋)
2022.05.13
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八坂庚申堂を出て、五重塔を見上げながら坂道を上ります。 正面の透塀(と称するのでしょうか?)に、「臨済宗建仁寺派 霊応山 法観禅寺」と「聖徳太子御建立」と記された2枚の木札が掲げてあります。ここは「八坂の塔」という通称の方がポピュラーだと思います。探訪当日は、五重塔の景色を数枚撮るだけで通過点になりました。この法観寺が特別公開された時に拝観して撮った写真を保存していましたのでそれをご紹介します。2003年2月に訪れた時の記録です。当時は撮影がOKでした。その後に特別公開された機会があったかは知りません。かなりの時が経っていますので、現時点では変化があるかもしれません。あくまで記録の整理を兼ねたご紹介です。法観寺の存続の長さに比すれば、ほんの少し前にしか過ぎないとも言えます。江戸時代の『都名所図会』は、「八坂法観寺」の項で、「上宮太子の草創なり。古は楼門・伽藍・鎮守等、厳重たり。破壊年経りていま僅かに残る。五重塔一基。・・・東のかたに太子堂あり。北のかたの小堂には薬師如来・弁才天・歓喜天を安置す。むかし浄蔵貴所この寺に住す。・・・」と説明しています。(資料1)この説明を読むと、この図会が出版された安永9年(1780)当時と現時点とを対比し規模的にはほぼ同じと言えそうです。「寺伝によれば、当寺は推古天皇の御代、難波の四天王寺建立の用材を求めて入洛された聖徳太子が、如意輪観音の夢告によって建立されたとつたえ、また一説に天武天皇の白鳳7年(679)の建立ともいわれる。いずれにしろ平安遷都以前の建立であることは間違いなく」(資料2)との説明があります。飛鳥時代様式の古瓦が当地から発掘されているそうです。参照書の著者は「おそらくこの地に蟠踞していた八坂氏が、その一族の菩提寺として建立したものであろう。往時は延喜式七ヶ寺の一つに加えられ、寺運も盛大であったが、平安末期に至って衰微した。はじめ真言宗であったが、鎌倉時代の仁治元年(1240)建仁寺の済翁証求の来住によって禅刹に改められた。」(資料2)と説明を加えています。 特別公開での拝観のメインは五重塔でした。五重塔は建立、焼失、再建を繰り返しています。現在の塔は永享12年(1440)足利義経により再建されたものと言います。(資料2) 外観の一部。連子窓風の意匠が施されています。 塔の外からまず見仏した阿閦如来坐像です。 塔内に入ります。阿閦如来坐像が安置される須弥壇の下に開口部があります。そこから五重塔の「心礎」と心柱の下端部が見えます。 心礎は創建当初の物。円形舎利孔、石蓋孔、四柱座のある三段式で飛鳥時代の様式を留め、丸い石蓋を今日まで残しているのは全国で僅か二例であり、その内の一つだそうです。長径九尺、短径七尺の松香石が据えられているとか。(説明文より) このとき、初層から急な階段を上り二層目を拝見できました。 二層目は塔の木組構造がストレートに見えます。 塔の中心に、心柱が通っています。心柱の説明文が掲示されています。「空高く聳える五重の塔、その中心を貫く『心柱』 初層の礎石から相輪の頂上まで通り、途中支えは一切使われていない。構造的には、この高い塔の重心をとっている。 機能的には、初層の礎石に納められた『仏舎利』と、頂上に据えられた釈迦の墓である『相輪』を結ぶ動脈である。 名刹、古刹と呼ばれるが、遠い昔、寺院の或いは釈迦の象徴として礼拝されていた棒杖ようのもの『刹苅』が五重の塔内で巨大化して奉られているとも思われる。故に飛鳥時代の創建は、初層の須弥壇、仏像はなく。この心柱を釈迦として奉られていたようである。」(説明文転記) 二層目の連子窓から、西側の夢見坂を見下ろした景色です。 こちらは東側の境内を見下ろした景色です。石鳥居が見えています。右は石鳥居の傍に立つ石標です。「八坂稲荷尊天」が祀られています。八坂稲荷社が鎮守社です。鎮守社の南側に庫裡があります。初層に降ります。初層の須弥壇は、大日・釈迦・阿閦・宝生・弥陀が安置されています。(資料2)残念ながら撮れなかった如来像があります。 釈迦如来坐像。五躰を金剛界五仏、五智如来ととらえると、不空成就如来が釈迦如来と同一視されるそうです。(資料3)塔の中央に心柱、その四方に四天柱があります。心柱と四天柱の間に須弥壇が設置され、心柱を囲む形で諸仏像が安置されてます。天井は小組格天井です。 大日如来坐像 天部の像が描かれています。 尾棰が突き出ていて、斗栱は三手先で組まれています。 風鐸と鰐口。ここも金の緒は備えてありませんが金環はあります。境内の北側を巡ります。 宝形造の屋根で正面に向拝があるお堂が南面しています。「太子堂」(京都市指定有形文化財)です。 正面扉が開かれ、半蔀の上部が内側に引き上げてあり、お堂の奥に厨子が安置されています。 聖徳太子の童形像が安置されています。 正面右手前に駒札が立っています。駒札によれば、太子堂は1663年に門前居住の町人の寄進により、当初は五重塔の東に建てられたとか。『都名所図会』の説明と一致します。明治時代に現在地に移されたそうです。 太子堂の東側に宝篋印塔が建立されています。 その東側に「薬師堂」(京都市指定有形文化財)があります。太子堂と薬師堂はともに、正面三間、側面二間、宝形造の屋根、本瓦葺という同じ規模、形式です。年代もほぼ同じで、当初から境内の仏堂として計画、造営されたと考えられいるそうです。薬師堂には、 薬師如来、日光菩薩、月光菩薩、夢見地蔵菩薩、さらに十二神将像が安置されていると言います(資料4)。 当日は未見です。 正確な場所を覚えていないのですが、一隅にこれらの墓があります。石塔の右側に「延喜式八坂墓」と刻した石標が立っています。近くに駒札がります。文字が小さいので転記します。「光孝天皇の外祖母・藤原敦子の墓。『延喜式』諸陵寮に『在山城国愛宕郡八坂郷墓地十町、墓戸一烟』と記され、八坂郡の一隅に光孝天皇の外祖父・藤原総継の墓とともに奉られていたものであろう。」(駒札より転記) 中央の石標には、「朝日将軍木曽義仲塚」と刻され、その後に小さな一石五輪塔が安置されています。駒札には、「木曽義仲公首塚」という見出しで説明されています。「源義賢の二男。父を源義平に殺されたのち木曽の中原兼遠に養育される。 1180年、以仁王の令旨を奉じて挙兵、平氏の軍を倶利伽羅峠に破り、叔父行家と呼応して、北陸道から入京。征夷代将軍となり源頼朝・平氏と全国を三分したが、後白河法皇を諫めようとして衝突。範頼、義経の大軍に敗れて近江粟津で敗死する。その首は家臣によりこの八坂郷に手厚く葬られた。」(駒札より転記)左端の小碑は、「時面大神」と刻されていると読めます(間違っているかも・・・・)。不詳です。 「法華塔」と刻されています。 境内の一隅に安置された石仏群四体いずれも法界定印を結ぶ如来形の石仏です。右から2つめは少し異質で、双体合掌像のように見えます。これは道祖神像でしょうか。推測ですが・・・・。五重塔の東側だったと思いますが、建物の一画に茶室があります。 おもしろい置物その途中の露地に丸瓦が埋め込まれ、瓦当に陽刻された「八坂塔」の文字が見えます。ちょとしたアクセントになっています。 露地 木の傍に設けられた蹲 瓦当に「建仁」と陽刻されたものもさりげなく。 茶室の小窓越しに 茶室内の景色こんなところで、拝観可能なところを一通り巡りました。 これは多分、境内の南西隅だと推測します。角地に大きめの石を敷き詰めて、そこに石仏が安置されています。一種の結界を形成している印象を持ちました。最後に、興味深い霊験談が伝わっていることに触れておきましょう。「天暦2年(948)に塔が西北方に傾いたとき、雲居寺の浄蔵貴所が塔に向かって祈念したところ、塔は忽ちもとに復したという」(資料2)。さて、5月6日時点に戻ります。 法観寺の南側、八坂通から眺めた五重塔です。この五重塔は高さ46m、方三間、本瓦葺です。現地で気づかなかったのですが、この五重塔、五層目だけに勾欄があり、四層以下はないとのことです。ただし、それは修理しなかっただけにすぎないと言いますが。それが逆に一つの特徴になっているとか。(資料2)今度、傍まで行った機会に確認してきます。 八坂の塔の東側にある民家のおもしろい光景をご紹介しておきます。源氏塀に一見異風な面、あるいは異様な雰囲気の面が数多く展示されているのです。いわば野外ギャラリーです。この家の入口に「八坂通り画廊」と表示が出ています。一見の価値があるマスク群です。現地でご覧ください。この後、八坂通を少し上り、二年坂に左折して北に向かいます。つづく参照資料1)『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p2582)『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p171-1753) 五智如来 :ウィキペディア4) 法観寺 :ウィキペディア補遺法観寺 :「京都観光Navi」五智如来 :「コトバンク」第6回 五重塔 :「東京医科歯科大学」雲居寺 :「Web版 新纂 浄土宗大辞典」浄蔵 :「コトバンク」浄蔵貴所(じょうぞうきしょ) :「京都通百科事典」京都で発見した個性的なギャラリー【不思議】 :「JASPER & JINX」八坂通り画廊 (Yasaka Street Gallery) :「imachika」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・洛東を往く -1 祇園をぬけて八坂庚申堂(金剛寺)に へ探訪 京都・洛東を往く -3 二寧坂~ねねの道:歌仙堂・三面大黒天・月真院 へ探訪 京都・洛東を往く -4 円山地蔵尊、大雲院、芭蕉庵、西行庵、花月庵(西行堂)へ探訪 京都・洛東を往く -5 道元禅師荼毘御遺跡塔、持病平癒地蔵尊、双林寺 へ探訪 京都・洛東を往く -6 東大谷・京都祇園堂・長楽館・花園天皇陵・青蓮院 へ探訪 京都・洛東を往く -7 植髪堂(青蓮院境内)へ探訪 京都・洛東を往く -8 あおくすの庭、尊勝院、粟田口 へ
2022.05.11
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暦上の連休が途切れた6日(金)に、いくつかの目標を持ち、京都市内を探訪してきました。暦上は平日ですので、私が巡った経路に関しては、やはり東山の特定スポットをのぞき、それほど観光客等の往来で混雑することはありませんでした。意識的に人通りが多そうな道を避けた側面も一部ありますが・・・・。冒頭の景色は、祇園・花見小路通に西から入る時に、角地で目に止まった一時置きの防止設備。さすが祇園花街の一角だけに、これなら風情がありますね。普通なら、赤色コーンと黄色黒色縞模様の棒を連結し、駐車禁止・立入禁止の警告表示に使うところでしょう。それではやはり場所がら無粋に・・・・。京阪電車祇園四条駅を出て、四条通を東に。そのまま東進するのを避けて、大和大路に右折し、一筋南の道で左折して東に向かいます。お寺の築地塀の間の道路を歩めば、花見小路に出ます。花見小路は観光客の集う道。右折して最初の筋で左折し、突き当たりまで東進します。この辺り、住所表示で言えば、祇園町南側です。最初の目標は八坂庚申堂ですので、めざす方向は「八坂の塔」が目印になります。今度はT字路で右折して南進です。この道は「祇園甲部歌舞練場」の背面(東)の道路になります。 歌舞練場の丁度背後、道路の西側に「崇徳天皇御廟」があります。かなり以前に初めてここを歩いた時は、御廟があることに意外な気がしました。 この御廟傍の東への道を通り抜けることに。 その時目に止まった地蔵堂。お地蔵さまはすっぽり涎掛けと衣で覆われていらっしゃる。東に進むと、北側に道が見え、角地にもう一つ地蔵堂がありました。道の反対側の掲示板には「東山区祇園南側」の住所表記が見えます。 こちらのお地蔵さまは格子扉の内部に、さらに扉があり拝見できません。先日もこのタイプの地蔵堂が続くのを見た後なので、やはりこの形式も各所にあるのだな・・・と。 地蔵堂の左側に道標らしきものが立っています。残念ながら私には判読できません。この通りは南北方向の幹線である東大路通に到ります。南をみれば「東山安井」の標識と交差点が見えます。後で地図を確認すると安井北門通です。この通りを東に進み、下河原通に出ます。下河原通は八坂神社の南楼門から真っ直ぐに南下する通りです。ここまで来ると、八坂の塔の上部が見えます。下河原通を南に下ります。道は突き当たりとなり、八坂の塔に向かうための坂道に出ます。東大路通から「塔の下商店街」を通って上ってくる坂道です。八坂の塔の紹介では、定番のようにこの坂道の下側(西側)から撮った写真や動画がテレビで放映されています。 坂道の南側に、最初の探訪目標「八坂庚申堂」の山門がありました。八坂の塔には幾度か来ているのですが、そのすぐ近くに庚申堂があるということを最近まで知らなかったのです。庚申信仰に関心を抱いた関連で、このお堂のことを知った次第です。八坂庚申堂という名称で知られているお寺ですが、正式には「金剛寺」と記した標札が山門の左柱に掲げてあります。大黒山延命院と号する天台宗のお寺です。(資料1)この写真の右手前に「夢見坂」と刻された石標が立っています。この門前の「東大路通から『塔の下商店街』を通って上ってくる坂道」が「夢見坂」と称されているそうです。(資料2)地図には表記がありませんので、たぶん通称なのでしょうね。 石標の後に「庚申」碑 山門に向かって左側には、「日本最古 庚申尊」と刻された碑が建てられています。碑の上部には、三猿(見ざる・言わざる・聞かざる)がレリーフされています。 山門を入ると、本堂に向かう参道の左手前に宝形造りの小堂があります。三方にはカラフルな球形上のものがびっしりと吊されています。正面上部に、「融通尊」と記された扁額が掲げてあります。 融通尊 この名称でネット検索して、いくつかのお寺のホームページを参照すると、如意融通宝生尊、如意融通尊、という名称が見られます。「融通さま」で親しまれている仏で、「融通」という言葉の由来になるそうです。境内の各所に吊されているカラフルなものはお守りで「くくり猿」と称されています。「くくり猿」は、「欲望のまま行動する猿の手足を縛ることで、わがままな自分の心を戒めるために作られたお守り」だとか。(資料3)余談ですが、このお守りについて、「ひとつひとつ手作りされていて、平日は100個、週末は300個の限定販売。なくなり次第終了」という説明を加えているサイトもあります。(資料4) 本堂の正面には「庚申堂」の扁額が掲げてあります。正面の扉は開いていますが、まるで衝立が置かれているように、様々なお守りがびっしりと吊されています。そのため本尊を見ることができません。ただ、本堂床面に、三猿像がこちらを向いて置かれています。江戸時代に出版された『都名所図会』は、「八坂庚申堂」の項で、「本尊青面(しょうめん)金剛にして長三尺五寸。大宝元年正月七日庚申に降臨し給ふ。日本三庚申中のその一なり。(摂州四天王寺・江戸浅草)脇檀に聖徳太子・大黒天を安置す。」(資料5)と述べています。 正面の階段手前に置かれた大型香炉・鼎を三猿が支える役割を果たしています。本堂床面に置かれた三猿像中の二躯が写っています。 拝所は唐破風屋根で、正面に鰐口が吊り下げてあります。鰐口の上部に円環が見えますので、鰐口の鼓面を打つための金の緒がたぶんもとは備えてあったのでしょう。木鼻はシンプルな造形です。 蟇股には、くくり猿のお守りを連想させる形が刻まれています。 こんな造形の蟇股も 拝所の左右、本堂正面の長押に額が掛けてあります。右側には「大聖歓喜天」、左側には7つの名称が記されています。「庚申青面金剛童子・天満宮・大辯才天女・大聖不動明王・大聖歓喜天・聖徳太子・浄蔵貴所」です。手許の資料には情報がありません。私はこの金剛寺に祀られている(/祀られていた)信仰対象が列挙されているのかなと推測しています。大黒天の名称がないのがちょっと不思議なのですが・・・・。現在は小規模な境内ですが、見るべきものは結構あります。 融通尊の小堂背後に石灯籠があります。 その火袋の各面に三猿が浮彫りに彫刻されています。 境内の西側にも石灯籠があり、この火袋にも三猿が刻まれています。 石灯籠の北隣りには、石仏のお地蔵さまを並べて祀ってあります。 その北側には、石造水槽が置かれています。手水舎に使われていたものかも・・・・。 水槽の北隣りに 干支を象った桟瓦が並べてあります。奉納されたものでしょうか。不詳です。 私はこの種の桟瓦を初めて見ました。また一つ、探求課題が残りました。 山門を入ってすぐ左側(東)だったと思いますがこの石碑が境内の隅に建立されています。 「青面金剛童子」と陰刻されています。つまり、庚申堂の本尊の名称です。過去の探訪経験で、「庚申」あるいは「青面金剛」と刻された碑を、数カ所で見ています。私は実像を未見ですが、路傍に立つ青面金剛の石仏像写真も見たことがあります。これらは「庚申塔」と総称されます。全国各地の路傍には、分布や密度にかなりの差があるようですが、庚申塔が祀られています。手許のいくつかの書を参照しますと、次のような説明があります。「青面金剛 庚申の日にまつられる夜叉(やしゃ)神」(資料6)「経軌に説かれる五帝夜叉のうち、東方をつかさどる青帝夜叉神を青面金剛と称する。悪病を流行させる神といい、このため病魔を退散させるために修される青面金剛法の本尊となる。」また『陀羅尼集経』中に青面金剛像の姿が記されている箇所が引用されています。(資料7)「庚申塔は『庚申』という文字を彫った石塔と『青面金剛』という忿怒形の密教的金剛童子を彫ったものとがある」(資料8)とあります。また、金剛童子については、「曼荼羅のなかの、金剛杵を持つ童子の姿をした忿怒尊で西方・無量寿仏の化身とされる。東密系の青色六臂の<青童子>と台密系の黄色六臂の<黄童子>がある。」(資料6)と説明されています。仏教経典の中に登場する青面金剛が中国の道教に取り入れられて、庚申信仰の本尊となり、それが日本にも伝来してきたという経緯があるようです。「庚申は中国の習俗として、十干十二支で年や日をかぞえる場合に、庚(かのえ)申(さる)に当たる年を60年ごとの庚申年とし、これに当たる日を庚申の日とした」(資料8)のです。中国の道教では、「人間の体には三尸虫(さんしちゅう)というものが棲んでおり、これが庚申の夜には体をぬけ出して天に上り、その宿り主の人間の60日間の行状を天帝に報告するという。そうするとたいていの人間は天帝の罰をうけるので、三尸虫が体からぬけ出さないように、一晩中睡らずに起きていなければならない。」そこで「庚申を守(も)る」または「守庚申」と言ったそうです。(資料8) 「日本では60日ごとの庚申の日に当番の宿に講中があつまって夜明かしをするのが庚申待ち」と称され、夜明かしで神をまつることを「待」と言ったそうです。貴族の間では「待」を話だけでなく詩歌管弦で過ごすようになり、庚申待が宗教行事でもなくなり遊びの口実に変容していくことにもなったと言います。(資料8) 『源氏物語』東屋の巻に、「よき若人ども集ひ、装束ありさまはえならずととのへつつ、腰折れたる歌合はせ、物語、庚申をし、まばゆく見苦しく遊びがちに好めるを」と記された箇所があります。「見目よい若女房が集まってきて、衣裳や身だしなみだけはなんともみごとにととのえては、下手な歌を合わせたり、物語や庚申の遊びに興じたりして、まともには見ていられぬくらいにみっともない有様で遊び事に熱中し風流がっているのを」と現代語訳される箇所です。(資料9) 清少納言もまた、『枕草子』の「五月の御精進のほどに」の中で「庚申させたまふとて」と、庚申にふれています。(資料10) 藤原道長は『御堂関白記』の寛弘元年六月七日庚申の条で、「御庚申待が有った。作文を行なっただけである。」と記録しています。(資料11) これらから、平安時代には庚申待が行われていたことがわかります。 山門を境内から眺めた景色です。 山門は高麗門の形式です。 桃を象った留蓋 お寺ですが、門が朱色に塗られているところはやはり特徴的な気がします。神仏習合が色濃く出ている印象を私は受けました。日本三庚申の一つに数えられるという大阪の四天王寺も伽藍は濃き紅色が基調になっていますね。屋根の棟の中央部に何かが置かれています。 正面からみると、三猿像です。なぜ三猿なのか。「伝教大師が三尸の虫に因み、天台の不見不問不言を猿に当てたものといわれ」ているそうです。(資料1)そして、この書の脚注にて、庚申待が「わが国では平安時代のはじめ頃、宮中においてすでにおこなわれた。庚申待は後世、申より猿を神使とする山王権現、また庚申塚より道祖神の信仰となり、仏教では青面金剛の信仰となって盛んとなった。」と著者は補足説明をしています。さて、この辺りで八坂庚申堂を後にして、「洛東を往く」を続けます。次の目標に向かう途中でのスポット探訪を重ねながら・・・・。つづく参照資料1)『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p174,1752) 夢見坂 :「坂のプロフィール」3) 金剛寺(八坂庚申堂) :「京都観光Navi」4) 「八坂庚申堂」とは?カラフルなくくり猿で京都一のインスタ映えスポットに!?営業時間や料金についても紹介 :「るるぶ&more」5)『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p258,2596)『岩波仏教辞典 第二版』 岩波書店7)『仏尊の事典』 エソテリカ事典シリーズ1 関根俊一編 学研 p2318)『石の宗教』 五来重著 講談社学術文庫 p179-2269)『源氏物語 6』 新編日本古典文学全集 小学館 p1910)『新版 枕草子 上巻』 石田穣二訳注 角川文庫 p13511)『藤原道長 「御堂関白記」』 全現代語訳 倉本一宏著 講談社学術文庫 p101補遺青面金剛 :ウィキペディア青面金剛 :「コトバンク」七福融通まつり (信貴山成福院) :「なら旅ネット<奈良県観光公式サイト>」和宗総本山 四天王寺 ホームページ小野照崎神社について ホームページ鰐口 :ウィキペディア庚申信仰 :「コトバンク」庚申信仰 :ウィキペディア【お城の基礎知識】高麗門 :「犬山城を楽しむためのウェブサイト」薬医門と高麗門 :「信州まちあるき」見ざる聞かざる言わざるの三猿の意味と使い方 :「おすすめ情報ランキングSite」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・洛東を往く -2 八坂の塔(法観寺)へ探訪 京都・洛東を往く -3 二寧坂~ねねの道:歌仙堂・三面大黒天・月真院 へ探訪 京都・洛東を往く -4 円山地蔵尊、大雲院、芭蕉庵、西行庵、花月庵(西行堂)へ探訪 京都・洛東を往く -5 道元禅師荼毘御遺跡塔、持病平癒地蔵尊、双林寺 へ探訪 京都・洛東を往く -6 東大谷・京都祇園堂・長楽館・花園天皇陵・青蓮院 へ探訪 京都・洛東を往く -7 植髪堂(青蓮院境内)へ探訪 京都・洛東を往く -8 あおくすの庭、尊勝院、粟田口 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 京都・東山 崇徳天皇御廟
2022.05.10
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次のセクションのフロアーに入ると幻想的な空間が広がります。3階の一区画です。これをまとめながら確認したのですが、ここが「MIYABI/和と灯の部屋」です。この空間に入る前に、少し前回のご紹介の補足をさせていただきましょう。2階の入口を入った後のご紹介に対して動線での後付けです。 「入場するなり、コレ!」とご紹介したセクションは「CAVE/はじまりの洞窟」 大型の水槽のあるセクションが「MARINE NOTE/生命のゆらぎ」 熱帯雨林の樹木を連想したセクションは「ELEMENTS/聖霊の森」 見上げる水槽とアートは3階の最初のセクションで「FOYER/探求の室」とそれぞれの空間に名称が付されています。アートか説明文かと戸惑った額は絵の左下に「MARINE NOTE/生命のゆらぎ」という表記がありますので、セクションを表示している案内でもあるようです。それにしても、アート(風)と言えそう。さて、この幻想的異空間のご紹介に移りましょう。 このフロアーの中央寄りのエリアは、床が透明の樹脂板でその下が池です。池の上を歩けるようになっていて、池を魚が泳いでいます。 池に鯉が泳いでいるのを傍で眺めるという箇所もあります。 冒頭のスポットの右側を進むと、欄干で囲まれた舞台に導かれます。壁には幻想的な開花シーンが映像演出されています。ホームページの解説によれば、「光の切り絵」と称されています。光の切り絵作家酒井敦美氏によるアトア・オリジナル作品「にほはしき時の巡り」。「四季が移りゆくなかで四季の鱗を持つ『花咲案内魚』が春の化身『櫻龍』へと姿を変える成長ストーリー」(部分転記)です。私が眺めたのは春の化身「櫻龍」の姿が現出している場面だったようです。 壁面に沿って、いくつかの水槽が設置されていて、様々な金魚を鑑賞できます。 ここにも金魚が泳いでいます。「雅」はこの空間「MIYABI」に照応していますね。 こんな和風の灯のコーナーも設けてあります。 外周の通路の側面の水槽 まさに、アクアリウム×アートがこのミュージアムの特徴です。ここも一つのセクションで「GALLERY/探求の画廊」と称されています。 次のセクションへ誘う表示 このアート(風)の額には、「PLANETS 奇跡の惑星」の表記が左下にあります。 フロアーの中央に球体型の水槽がでんと設置されています。 多くの人々は壁沿いに立ち、この水槽を眺めて写真を撮っています。 勿論、球体型水槽に近づくこともできます。 「PLANET/奇跡の惑星」と称されるセクションです。 地球の温暖化問題をテーマに図解したと思われる大型パネルが壁面に掲示されています。4階に上がります。「SKYSHORE/空辺の庭」と称される最後のセクション。 ペンギンの島が設けてあります。 その近くにこのプールも。画像検索するとカピバラのようです。「ルーフトップ」への階段が設けてあります。上がればそこは展望所です。 アトアのルーフトップから西を眺めると、第一突堤からの眺めとはまた一味違う景色を堪能できます。左右に眼を転じてみましょう。 パノラマ合成してみました。 東から南東にかけての景色です。パノラマ合成しています。第三突堤にフェリーが停泊しています。アトア(神戸ポートミュージアム)の館内マップはこちらからご覧ください。ホームページ内を捜していて見つけました。ミイラ展鑑賞後にふと思いついた探訪が、アトア探訪に導いてくれました。このアトア探訪で神戸市中央区での今回のご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*KPM公式サイトのフロアガイド補遺 KPM KOBE PORT MUSEUM 公式サイトMIYABI ― 神戸・劇場型水族館 アトア Image Video YouTubeWhat is カピバラ? :「伊豆シャボテン動物公園」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 神戸市中央区 -1 フラワーロードから神戸市立博物館に へ探訪&観照 神戸市中央区 -2 神戸市立博物館「大英博物館ミイラ展」(1)へ探訪&観照 神戸市中央区 -3 神戸市立博物館「大英博物館ミイラ展」(2)へ探訪&観照 神戸市中央区 -4 旧居留地点描 へ探訪&観照 神戸市中央区 -5 京町筋を歩く へ探訪&観照 神戸市中央区 -6 神戸ポートミュージアム(1)へ
2022.05.06
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前回取り上げたこの建物の外観から始めます。 京町筋を南に進み、京橋を渡ったその先、第一突堤への入口とは道路を挟み東側に位置します。見上げると上部には窓のような開口部がありません。一見ちょっと異様な建物です。海に向かって建てられた要塞の外壁という感じ・・・・・。もう一つの連想したのが「バベルの塔」の下層部です。 ブリューゲルの描いたバベルの塔をまず思いうかべ、その後でこの絵、ギュスターヴ・ドレ作「言語の混乱」という題名のバベルの塔の方がよりイメージが近い気がしました。(資料1)このミュージアムはその存在すら知ず、事前情報ゼロの状態で訪れました。第一突堤の先端から戻ってきて、道路を横断し建物の開口部に近づくと、建物南側のエスカレーターの手前にミュージアム案内らしきポスターが見えました。まずはエスカレータで上がることに・・・・・。到着フロアーには入館案内の受付所が見えました。このフロアーは建物の外と繋がっています。まずはちょっと外側を探検。 外から眺めるとこんな感じです。アクセスの仕方がいろいろあるようです。受付で入場チケットを購入しようとして気づいたのは、このミュージムが日時指定入場制の予約システムをとっていることでした。この日はたまたま、すんなりと待ち時間無しで入ることができました。 これが当日の入場券現代的といえば現代的。すごく機能的で素っ気ないと言えば素っ気ない。これを入口で駅の改札のようにセンサーで感知させるという方式です。ちょっと戸惑い、係員の人にサポートしてもらうことに・・・・。このチケット、よくご覧ください。「神戸ポートミュージアム」という名称はどこにも記されていません。「átoa(アトア)」となっています。なぜ? 疑問が湧きましたが、入場できればまあいいか・・・と疑問は後回しにして、館内を楽しむことに。 入場するなり、コレ! ミュージアムという語の既成概念をのっけから壊されました。若者志向になっていますね。 カーディナルテトラ 南アメリカ北部:オリノコ川上流域、ネグロ川流域 グッピー 南アメリカ北部:バルバドス、トリニダード・トバゴフロアーの最初のスペースです。水槽がゆったりと設置されています。係員の人に確認すると、フラッシュを使わなければ撮影OKということです。おもしろい試み! 画像がなければ、雰囲気の説明に困るミュージアムです。自宅に戻り、ホームページにアクセスすると、「AQUARIUM X ART」を意図したミュージアムなのです。「アクアリウムとアートが融合した新感覚の都市型水族館」と説明されています。「アトア」という言葉の意味づけが氷解しました。(資料2) ハナミノカサゴ 沿岸岩礁域、駿河湾以南;~インド洋~太平洋 次のセクションは、フロアーの中央にけっこう大きな円形水槽が置かれています。 ここは普通の照明でした。 壁面にはこんな額が掛けてあります。これ自体がアート? あるいは、この展示スペースの案内?画像と文字で創作したアートなんでしょうね。案内説明なら文章として読みづらい。海の合成空間に様々な言葉を散りばめて「生命のゆらぎ」に一働きさせているようです。 ヘコアユ 相模湾以南;インド洋~西太平洋 このセクションには、フロアーの中央に、熱帯雨林の樹木を連想させるような大きなオブジェがあります。 スカラレエンゼル 南アフリカ(南部を除く) 一隅に、カメがいます。 壁面には海に関連したアートが。 斜め上を見上げる形の大きな水槽もあります。 アジアアロワナ タイ、カンボジア、ベトナム、マレーシア、インドネシア 一隅に、オオシャコガイ 別の壁面にはこんな絵が描かれています。手前にはたしか方形の水槽があったと思います。 魚名説明を撮り忘れました。行かれたら水槽でご確認ください。ちょっと余談です。museum、ミュージアムについて。手許の英和辞典を引いてみました。まず原義です。「ギリシャ神話で文芸を司る女神たち、ミューズ(Muses)の神殿」だそうです。そして、訳語には、「博物館、陳列館、資料館、標本室;(米)美術館」が掲げてあります。(資料3)使われ方は幅広いのですねえ。再認識しました。インターネットで、Oxford Learner's Dictionaries で museum を検索しますと、a building in which objects of artistic, cultural, historical or scientific interest are kept and shown to the publicと説明されています。(資料4)次のセクションに移動しましょう。すごく趣向を凝らしたフロアーが現出します。光のアートというところでしょうか。勿論、魚もいます。つづく参照資料1) バベルの塔 :ウィキペディア2) KPM KOBE PORT MUSEUM 公式サイト3)『ジーニアス英和辞典 第5版』 大修館書店4) Oxford Learner's Dictionaries トップページ探訪&観照 神戸市中央区 -1 フラワーロードから神戸市立博物館に へ探訪&観照 神戸市中央区 -2 神戸市立博物館「大英博物館ミイラ展」(1)へ探訪&観照 神戸市中央区 -3 神戸市立博物館「大英博物館ミイラ展」(2)へ探訪&観照 神戸市中央区 -4 旧居留地点描 へ探訪&観照 神戸市中央区 -5 京町筋を歩く へ探訪&観照 神戸市中央区 -7 神戸ポートミュージアム(2)へ
2022.05.05
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神戸市立博物館を出た後、ふっと京町筋を海の方向へ歩いて見たくなりました。ワンブロック南が、京町筋と国道2号線(海岸通)の交差点です。横断歩道を渡り、交差点の南西側から山側(北)を撮った景色です。西角にポルシェのビルがあります。振り返れば、右斜め方向にもう海が見えています。 すぐ近くに「顕彰碑 網屋吉兵衛」碑が目に入りました。 傍にこの案内板が設置されています。かつて、兵庫の津周辺には、船底についた貝殻や船虫などを焼いて整備する「船たで場」がなかったそうです。二つ茶屋村(元町通4丁目付近)の呉服商綱屋吉兵衛が代官に申請して許可を得、現在の新港第1突堤の基部にある京橋付近(新港町)に3年余の年月をかけ「船たで場」を完成させたそうです。船たで場は乾ドックを意味します。当時とすれば船のメンテナンスが随分と便利になったことでしょうね。この石碑は、海の傍をメリケン波止場に向かう歩道の入口傍にあります。 南方向には、欄干が深紅色の「京橋」が架かっています。地図で確認しますと京橋上を横切る高架は「阪神高速3号神戸線」です。 橋の途中にある外灯外灯の台座正面には「きやうはし」とひらがなで刻されています。江戸時代には「きょうはし」とは発音しなかったということでしょうか・・・・。 阪神高速3号神戸線のすぐ南側を国道2号線の架橋が通っています。この辺りでは国道2号線が2つのルートに分岐してパラレルになっています。 こちらの国道2号線の丁度手前が京橋南詰です。改めて写真を見ますと、神戸市のマークが陽刻されています。道沿いに南に進みますと、右側に「京橋ポンプ場」という施設があり、 その先に、「ここは中央区新港町1」と住所表示され、観光案内地図が設置されています。 この地図の設置場所は第一突堤への入口付近でした。現在地が赤く表示されています。 道路の反対側(東側)にある建物を見て、上部に窓がまったくなく、円形台座のようなちょっと異様な外観が気になりました。地図を見ると、「神戸ポートミュージアム」とあります。勿論、ふとした思いつき探訪の序でに、ここも探訪しました。別稿として次回にまとめます。ふとした思いつきは、京橋筋から海へ行ってみることですから、当然第一突堤の先端まで行かなくっちゃ・・・・ということで。この突堤から見える海景色巡りとなります。 第一突堤 入口側から眺めた景色フラワーロードや神戸市立博物館付近、後で訪れた神戸ポートミュージアムのそれぞれでは多くの人々を見かけました。しかしこの突堤では釣り人2人と散歩する人数人を見ただけです。これは写真をパノラマ合成しましたが、人の居ない景色を撮れました。突堤を南に歩きながら西方向に目を転じて行きます。 海の向こうに、川崎重工業神戸工場付近のクレーン群、神戸メリケンパークオリエンタルホテル、メリケンパーク、神戸海洋博物館などが見えます。 第一突堤の先端部 手前の建物は「ラ・スイート神戸オーシャンズ・ガーデン」です。東を眺めた景色第三突堤に、カーフェリーが停泊しているようです。(資料1)その右側に神戸大橋が見えます。この橋は「兵庫県神戸市中央区にある本州側の新港第四突堤とポートアイランド間に架かる、日本初のダブルデッキアーチ型鋼橋」(資料2)です。 神戸大橋の先は「ポートアイランド」です。 第一突堤から南を眺めた景色さて、ここからJR三ノ宮駅に京町筋を引き返します。 突堤先端側から山側(北)を眺めた景色 第一突堤の入口に戻り、東に続く第二突堤が見えるところまで東方向に歩いてみました。 京橋を戻ります。 京町筋に「ミイラ展」のバナーが吊されています。京町は、京町筋の両側に跨がり、南は前町通、北は花時計線(裏町通)の間の地域です。神戸市立博物館は京町に所在します。この神戸旧居留地で見た限りでは、東西方向の道路が「通り」、南北方向の道路が「筋」と称されています。 京町筋と花時計通との交差点の北東角に家族の彫刻像が置かれています。 綿引道郎作「家族の詩(うた) 憩う時」 家族像の傍に、もう一つオブジェがあります。調べてみましたが不詳。 その傍を通り過ぎ、通りを横断すると、京橋筋商店街の入口です。 一つ北側の筋に至まで距離の短い商店街です。 商店街を抜けた正面が阪急電車の神戸三宮駅。これで京町筋探訪が終わりました。後はJR三ノ宮駅に向かうだけです。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*Mapionのインターネット地図1) 宮崎カーフェリー ホームページ2) 神戸大橋 :ウィキペディア補遺網屋吉兵衛 :ウィキペディアFeel KOBE 神戸公式観光サイト神戸海洋博物館 ホームページラ・スイート神戸オーシャンズ・ガーデン 公式サイト神戸港の第三突堤『神戸三宮フェリーターミナル』が新しくなってる。:「KOBE Journal」綿引道郎略歴 D棟 綿引道郎(彫刻) :「八千代の丘美術館」道路愛称 :「KOBE}(神戸市役所)ポートアイランド地区 :「KOBE}(神戸市役所)ポートアイランド :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 神戸市中央区 -1 フラワーロードから神戸市立博物館に へ探訪&観照 神戸市中央区 -2 神戸市立博物館「大英博物館ミイラ展」(1)へ探訪&観照 神戸市中央区 -3 神戸市立博物館「大英博物館ミイラ展」(2)へ探訪&観照 神戸市中央区 -4 旧居留地点描 へ探訪&観照 神戸市中央区 -6 神戸ポートミュージアム(1)へ探訪&観照 神戸市中央区 -7 神戸ポートミュージアム(2)へ
2022.05.04
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旧神戸居留地15番館神戸市立博物館は建物の東側が正面で京町筋に面し、南側は前町通、西側は浪花町筋に面しています。浪花町筋を挟み西側の角地に、冒頭の旧神戸居留地15番館があります。つまり、神戸市立博物館は、「神戸旧居留地」と称される地域の中央部に位置しています。事後に調べていて出会った便利な地図があります。「オープンストリートマップ」です。クリックしていただくと、この神戸旧居留地の地図を自由に閲覧できます。神戸旧居留地はいつ誕生し、どの範囲の地域なのか? 関心が生まれ、少し調べてみました。慶応3年(1867)4月13日、日本政府が諸外国の外交代表との間で「兵庫港並びに大坂に於て外国人居留地を定むる取極」を結んだことが契機となり、居留地の建設が始まります。居留地造成工事が完成したのは、慶応4年6月26日だとか。居留地の設計を担当したのはイギリス人のジョン・ウィリアム・ハートだそうです。居留地の中央に約20m幅の南北の道路が通されます。それが現在の京町筋。居留地内には南北路が4本、東西路が2本。居留地の外周を一巡できる道路が設けられます。一巡できる道路は、現在の地図でみますと、北境が裏町通(花時計線)、東境が東町筋(東町線)、南境が国道2号(海岸通)、西境がメリケンロードになります。南北路は、西から明石町筋・浪花町筋・京町筋・江戸町筋の4本、東西路は、北が仲町通、南が前町通です。「居留地全体は23街区、126区に分割されました。海岸通にはグリーンベルト(緑地帯)とプロムナード(遊歩道)が設けられ、各道路には歩車道区別が施され、下水道、ガス灯などの施設も整備されました。」(資料1)つまり、整然としたヨーロッパ風の都市空間が創出されたことになります。東町筋の東側には、かつては生田川が流れていてそこが居留地の東の境界でした。生田川が付け替えられ新生田川ができました。旧生田川の河川敷が現在のフラワーロードになったそうです。西側の一巡する道路の西側に鯉川が流れていて、それが居留地との境になっていました。(資料1,2)その鯉川が暗渠化され、その上が道路になり鯉川筋と称されます。さらに、現在の大丸神戸店の所から鯉川筋はメリケンロードと称されることになりました。南端になるところに米国領事館があったことに由来すると言います。メリケン波止場の北に位置します。その米国領事館の跡地は、現在神戸メリケンビル(旧神戸郵船ビル)になっています。(資料3,4)居留地の南西角が第1区です。現在、兵庫県農業会館があるところです。ここを起点に区画番号が振られて行きます。(資料5)参照資料をご覧いただくと、番号がどのように振られているかがお解りいただけます。一筆書き的に番号を追っていくと、けっこうおもしろい番号づけになっています。神戸市立博物館のある場所は、第13・14区と第23・24区の南側半分というあたりになります。北隣りは、地図に「神戸居留地25番館 オリエンタルホテル」と表記されています。 博物館の西側で15番になります。 浪花町筋に面した側に、居留地下水管の遺構が保存されています。同種の下水管遺構が市立博物館の1階常設展示の一隅にも展示されています。 敷地の南西隅に「旧神戸居留地十五番館」(国指定重要文化財)の案内板が設置されています。「慶応3年12月7日(1868.1.1)の兵庫開港により、126区、25.8haの外国人居留地が解説され、商館を中心として領事館やホテル、教会などがあつぎつぎに建てられました。 15番地のこの場所に、明治14年頃に建築されたこの建物は、神戸市内に遺された異人館としては最も古い建物で、木骨煉瓦造2階建、寄棟造、煉瓦葺で2階は南側両端にペジメントをつけ、コロニアルスタイルの開放されたベランダを持ち、外観は石造風意匠となっています。 神戸の旧居留地に現存する結い医何時の遺構として平成元年に重要文化財に指定され、平成2年7月から5年3月にかけて行われた修理工事により明治の面影を取り戻しましたがあ、平成7年1月17日に発生した阪神・淡路大地震により全壊してしまいました。 地震により液状化現象が生じた旧居留地内ではこの建物以外にも、20棟を超すビルが全壊しており、いかに激しい地震であったか窺い知ることができます。 全壊した15番館でしたが、震災後部材を回収することからはじまった復旧工事は、約3年の月日と関係者の努力と様々な人々の協力医より、震災前の姿を取り戻すことができました。 最新の耐震技術である免震工法を採用したわが国最初の文化財建築として甦ったこの十五番館は、今後の地震に対して充分耐えられるだけの耐震性能を持ち、今後も旧居留地の歴史を伝える第一の建物として私たちに明治の面影を伝えてくれることでしょう。 平成11年4月 神戸市教育委員会」 (全文転記) 目に止まったのが、隣接する15番館ビルの煉瓦敷の前面広場に設けられたこの童群像ズロンズ像です。 広場の南西角に朱色の鳥居に「正一位 稲荷大明神」の扁額を掲げた稲荷社が鎮座します。この一隅だけが純日本的でおもしろい。いつごろ勧請されたのでしょう・・・。 こちらのビルの南西角に、「外国人居留地時代の標柱」と題し、1983年10月に設置された遺跡説明碑があります。「この辺りには安政5年(1858年)締結されたアメリカ合衆国をはじめとする5箇国との修好通商条約により設けられた外国人居留地の跡です。居留地は西洋の都市計画手法により126区画に整然と分けられた敷地に、外国商館の近代洋風建築物が数多く建てられ日本の中の西洋とも言うべき特異な景観を呈していました。この標柱はその第15番と第16番区画の境界を表す石柱で、幢地区の歴史を語る貴重なものです。」(全文転記) 15番館から少し先に、中央区播磨町の住所表示で、観光案内地図が設置されています。要所要所に地図があり、観光客には便利です。 ビル街の所々に居留地時代の雰囲気を感じさせるプランターが使用されています。前町通を西に歩み、明石町筋との交差点で右折しました。 北西角で目に止まったのがこのオブジェです。これも一種の野外彫刻でしょうか。アスリートのトレーニングシーン? 体操選手のワンシーンを連想しました。北にワンブロック進みます。 仲町通の北西角がこのビルです。 通りに面して、西端にこれらの表示が出ています。旧居留地38番館です。38番館に対し、このブロックの南西角に現在は三菱UFJ信託銀行神戸ビルがあります。それ以外の敷地は大丸神戸店です。このブロックは、居留地時代の区画番号でで示すと 42 41 40 43 39 36 37 38こういう割り振りになっていました。 北東角は神戸御幸ビル角の柱には、上に「明石町筋」の道路標識、下に「44番」の区画表示が嵌め込まれています。明石町筋を挟んだ東側のブロックは 50 48 49 47 46 44 45という具合です。番号の振り方がおもしろい。 44番の表示が出ていたビルの東隣りが THE 45TH というビル。正に第45番区です。ここだったと記憶するのですが、通り過ぎるときに目に止まったのがコレ! 男性の横顔に見えました。 仲町通を東進し、神戸旧居留地中央の南北路にあたる京町筋で左折し、少し北上します。このブロックの中央辺りのビル。通り過ぎて北側から撮った景色です。 ビル前の南東隅に立つのがこれです。「外人居留地68番館の門柱」だそうです。地面に説明銘板が設置されています。 明治2年に競売でオランダ人ハルトマン・ヘルツが落札し、ここにレンガ造りの倉庫を建てたと言います。明治10年ごろには、エッチ・ジョニングの住居があり、その門柱だったと推定されているそうです。外国商館と倉庫という組み合わせでしょうか。仲町通の北には、北町通が東西の通りとしてありますが、この通りは当初から西端が浪花町通までになっています。外周の道路まで通貫する道としては計画されていませんでした。 京町筋と北町通の交差点の南西角に三宮第一生命ビルディングがあります。このビルの北町通に面した景色です。ビル敷地の北西隅に「外国商館跡の門柱」が保存されています。 ここにも上掲の門柱と同じ主旨の保存目的が説明されています。この北町通を東に進みますと神戸市役所の1号館の南側に出ます。つまり、市立博物館に行くために、最初に逆方向に歩いた通りになります。京町筋から一筋東側の南北路は江戸町筋です。 北町通と江戸町筋の交差点の南東角にあるのがこのビルです。 ここが旧居留地100番だという住所表示が掲示されています。実は、この表示は神戸市役所1号館傍から市立博物館に向かう時、旧居留地地域を歩いていて、一番最初に目に止まった表示でした。そこで、ミイラ展を鑑賞した後に、ふと久しぶりに旧居留地内を少し探訪してみたいと思った次第です。この辺りで、今回の神戸旧居留地点描を終わります。事後に調べていて、未訪の史跡等があることを知りました。次の機会に訪れてみるつもりです。市立博物館を出た時、もう一つ思いつきで歩いたのが市立博物館正面前の京町筋を海の方向へ歩いてみようという探訪でした。つづく参照資料1) 神戸居留地の誕生 神戸歴史年表 :「神戸市文書館」2) フラワーロードは昔、生田川だった :「KOBE」(神戸市役所)」3) 神戸外国人居留地 :ウィキペディア4) 神戸郵船ビル :ウィキペディア5) 神戸旧外国人居留地のいま~明治・大正・昭和の残影~:「神戸・兵庫の郷土史Web研究館」補遺神戸旧居留地 ホームページ 旧居留地エリアマップ 後で調べていて知った地図。次回は活用してみたい。ジョン・ウィリアム・ハート :ウィキペディア生田川 :ウィキペディア鯉川筋 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 神戸市中央区 -1 フラワーロードから神戸市立博物館に へ探訪&観照 神戸市中央区 -2 神戸市立博物館「大英博物館ミイラ展」(1)へ探訪&観照 神戸市中央区 -3 神戸市立博物館「大英博物館ミイラ展」(2)へ探訪&観照 神戸市中央区 -5 京町筋を歩く へ探訪&観照 神戸市中央区 -6 神戸ポートミュージアム(1)へ探訪&観照 神戸市中央区 -7 神戸ポートミュージアム(2)へ
2022.05.03
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ミイラ04は、テーベの中年の裕福な既婚女性だそうです。名前はタケネメト(別名タケブケネム)。第3中間期・第25王朝、前700年頃のミイラだとか。このミイラの内棺の頭部が、図録の表紙として使われています。小さくて見づらいと思いますが、このミイラには覆い布の上に、ビーズネットがかぶせてられた状態で展示されています。内棺が開けられたときの状態を示すのでしょう。数百個のビーズを編み込んで連ねた網です。「網のデザインは死んだタケネメトをオシリスと結びつけ、タケネメトの首元を飾るビーズは、日出の太陽神を象徴する有翼スカラベをかたどっている」(図録より)とのこと。木製の棺は入れ子式の三重構造で、内棺、中棺、外棺がそれぞれ展示されています。今回の会場の3D画像についての説明で知ったことですが、「骨盤前面にある恥骨結合面の形態は、タケネトメトはおそらく35歳から49歳くらいで亡くなったことを示唆している。」と述べ、恥骨結合面は信頼できる年齢推定法だと言います。(図録より)この絵ハガキの左下隅に「弓形ハープ」が紹介されています。「ハープの本体は木製で、響胴は繊細に装飾され先端は人物の頭部の形をしている。5本の弦(後世に新しく追加)は、ハープ本体に差し込まれた木製のねじに取り付けられている」(図録より)ミイラ05は、推定死亡年齢が3~5歳のハワラの子どもです。ローマ支配時代、後40~後55年頃のミイラと言います。この特別展で知ったのは、ローマ支配時代までは子どもをミイラ化することはあまりなかったということ。「それ以前の時代でミイラにされた子どもはほとんど例がなく、もしされたとしても社会的地位の高い家族の一員だったと考えられる。」(図録より)ローマ支配時代に、埋葬習慣に変化があった可能性が考えられるそうです。順番にミイラと3D画像の動画を見てきて、興味深かったのは、画像解析でミイラ本体に副葬されている様々な小さな護符を、CTスキャン画像の分析から、3Dプリンターで再現して展示されていることでした。ここでも最先端印刷技術がミイラ研究に活用されています。 これは実物展示品で「魚形護符」です。金と長石で作られた護符。「魚形護符は再生を意味し、身に着けた人間の生まれ変わりをうながすと信じられた」(図録より)そうです。第2会場の最後がミイラ06です。グレコ・ローマン時代の若い男性のミイラと副葬品などが展示されています。プトレマイオス時代後期~ローマ支配時代初期、前100~後100年頃だとか。このミイラ06その他の展示されているエリアが撮影OKでした。 若い男性のミイラは、カルトナージュ棺の形で展示されています。ミイラ化された上で、葬祭用マスクで顔を覆われ、カルトナージュの装身具を身にまとっています。このマスクと腹部を覆うカルトナージュの副葬品は包帯を何重にも巻いて固定されています。 大英博物館の所蔵品になった際に、この若い男性を納めていた木棺(本体)と考えられているものだそうです。 前回、イメージをご理解いただくために先取りでご紹介しており、重複しますが触れておきます。この若い男性のミイラも3D画像の動画で細部まで紹介されています。 カルトナージュの実例展示があります。 カルトナージュのミイラマスクこのマスクは、「死者が神-エジプトの神々は金色の顔に青い髪をしていた-に変身したことを象徴している。葬祭用マスクは、ローマ支配時代以前から使われていた。」(図録より) 上部はカルトナージュのミイラの部分覆い(胸飾り)、中部はホルスの4人の息子が描かれたカルトナージュのミイラの部分覆い、下部は有翼女神が描かれたカルトナージュのミイラの部分覆いです。 こちらもカルトナージュのミイラの部分覆いで、上部は脚部分、下部は足入れです。(図録より) 絵を描いたミイラの覆い布。ローマ支配時代には、このような覆い布はカルトナージュの副葬品に置き換えられる場合があったと言います。(図録より) ホルネジイトエフの「死者の書」:日出の太陽への崇拝 パピルス文書 「永遠を横切るための書」 パピルス文書 「トリフォーンの葬祭用ステラ」(石灰岩製) ステラは碑を意味します。 さまざまなミイラ札。死者の名前や祖先、出身地を記した短い文が書き込まれているそうです。埋葬場面を装飾として描いているものもあるとか。 黄金のカルトナージュのミイラマスク ディダスの娘、アフロディーテという名の女性のカルトナージュのミイラマスク 左は若い男性のミイラマスク。右は女性のミイラマスク ヘビ形の腕輪 球形装飾の耳飾り 三日月形装飾のある首飾り これらは、画像処理技術を駆使してミイラの肖像画を復元したものだそうです。「近年、ミイラ肖像画に使われた顔料の研究にさまざまな画像処理技術が利用されるようになった。こうした画像処理技術により、どのように彩色されたのか、その顔料の特定、隠された下絵の存在など、肉眼では見えないより多くの情報が解明されるようになった。」(図録より)参照ページには、コンピュータX線撮影、可視光励起赤外線蛍光(VIL)技術、紫外線誘発可視蛍光(UVL)技術という技術が駆使されているという説明があります。私には文字面を追うだけ・・・・なのですが。 第2会場を出たところに、「エジプトの主要遺跡」地図の大きなパネルが掲示してあります。遺跡の多さに圧倒されます。まだまだ新発見が続きそうです。 レプリカですが、このマスクが地図の左側に展示されていました。誰でも知っているツタンカーメン王の黄金のマスクです。 大英博物館ミイラ展を鑑賞した後、2階のコレクション展を併せて見てきました。今のコレクション展示室は初めて入った気がします。最近、黄檗山萬福寺とその周辺を探訪したあとでもあり、タイミングの良いことに、「美術」セクションで「隠元禅師と黄檗絵画」を見ることができました。この企画展示は2022年5月8日(日曜)までだそうです。「聖フランシスコ・ザビエル」セクションでは、「聖フランシスコ・ザビエル像」(重文)の実物展示を見ることができました。これも実物展示は5月8日(日曜)までとのこと。「桜ヶ丘銅鐸・銅戈 」を一堂に見ることができるのも良かったです。その他の展示室も一通り鑑賞して、1階の神戸の歴史展示室を久しぶりに巡ってから、退館しました。つづく参照資料*当日購入した図録 『大英博物館ミイラ展 古代エジプト6つの物語』 2021 2022 朝日新聞社補遺神戸市立博物館 ホームページThe British Museum ホームページThe British Museum :「Google Arts & Culture」古代エジプトの碑(ステラ)について語ってみた YouTubeツタンカーメン :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 神戸市中央区 -1 フラワーロードから神戸市立博物館に へ探訪&観照 神戸市中央区 -2 神戸市立博物館「大英博物館ミイラ展」(1)へ探訪&観照 神戸市中央区 -4 旧居留地点描 へ探訪&観照 神戸市中央区 -5 京町筋を歩く へ探訪&観照 神戸市中央区 -6 神戸ポートミュージアム(1)へ探訪&観照 神戸市中央区 -7 神戸ポートミュージアム(2)へ
2022.05.02
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神戸市立博物館の壁面にこの特別展の案内パネルが掲示されています。 こちらはこの特別展のPRチラシです。 神戸市立博物館での特別展を見にでかけるに当たって、予約優先制ということなので、待ち時間のリスクを避けるために、公式オンラインチケットを介してクレジットカード支払いで予約しました。これが予約の証となるシートです。パソコンから予約しましたので、プリントアウトして当日持参しました。画像処理で中段の左上の氏名と、右のQRコードをマスキングしています。3階の第1会場の入口でシートを提示しますと、QRコードが読み取られたあと、入場券の半券を渡されました。 入場チケットの半券当日は、第2会場(2階)、第3会場(1階)の入口でその都度入場券の提示をする必要がありました。この3つは同じデザインの変型バージョンと言えます。そこから読み取れることがいくつかあります。イギリスの大英博物館が所蔵する古代エジプトのミイラ群から6体がこの特別展のために搬入されてきたこと。今回の展示での最大のハイライトは6体のミイラに対して最新のCTスキャン技術を用いた画像解析が施され、高精細の3次元構築画像(3D)として、映像が動画化されていることです。6体のミイラにはそれぞれの来歴・個性があり、諸資料・情報の研究により、6人それぞれの物語が解明されていること。6体のミイラに関連する付属品等を含め、約250点が展示されているそうです。 市立博物館の正面には、特別展の大型PRパネルが展示されています。 左端 中央 これは当日購入した図録の表紙。裏表紙は金色無地での装幀です。正面の大型パネルの右端と同じです。内棺の蓋がこの図録に使われています。 実はこの図録、プラスチックのカバーがこのように被せてあります。 このプラスチック・カバーを図録を反転させて裏表紙に被せてみると、こんな映像になります。包帯に包まれたミイラをCTスキャンした結果の1枚がこのような骸骨の断面画像だということを表しています。これは今回の特別展示の特徴をシンボライズしているといえます。今回、展示会場では撮影禁止エリアと撮影可能エリアとが設けてあります。3階の第1会場は撮影禁止。2階の第2会場は一部撮影OK。1階の第3会場は撮影禁止エリアです。6体のミイラ展示は、第1,2会場です。第3会場は、2019年に日本の調査隊がサッカラ遺跡の発掘調査に入り、カタコンベ(地下集団墓地)を発見したそうです。現在も調査は続いているそうです。そのカタコンベを実寸大の部分模型で再現する独自の展示が行われています。 これは入場券の半券と一緒にいただいた絵ハガキです。展示されている6体のミイラと付属展示品をコンパクトに圧縮してあります。それでは、第1会場から鑑賞の印象を交えてご紹介します。撮影禁止エリアでの展示品については、上記公開資料などを引用します。 第1会場は、中年と推定される「01 テーベの役人、アメンイリイレト」から展示されて行きます。ここでは、遺体がミイラ化処理を施され分厚い層をなす包帯で厳重に包み込まれた形にしてある状態をミイラと称します。我々には、包帯でぐるぐる巻きにして水平に寝かされた物体(ミイラ)が見えるだけです。このミイラとともに、ミイラをおさめる内棺、さらには外棺が展示されています。その傍の壁面に設置された大型モニターに、3Dヴィジュアライゼーションした動画が映像として放映されます。包帯でぐるぐる巻きになった状態、我々がそこで目にしている状態の姿から始まり、3D映像からその包帯が取り除かれ、骸骨の骨格が見えていくのです。 これはミイラ01のものではありません。撮影OKエリアに展示されているミイラ06がCTスキャンにより3D化された動画の放映をコマ撮りしたものです。先にこちらでご紹介した方がイメージがしやすいでしょう。骸骨の映像を回転させて全方位からミイラ本体を眺めることができるようになっています。勿論頭蓋骨や骨盤部分の断層や内部も映像化されていて見える化されています。ミイラ化の処理のために内蔵はすべて除去されています。しかし、6体のミイラにはCTスキャンでの分析結果として、脳の一部が残っているのが確認されている事例があり、残っている証拠が映像に反映しているのがわかります。さらにミイラの骨の状態観察から、そのミイラがどのような病気に罹っていたかも予測できるそうです。(図録より)科学技術の発達が、まさに古代エジプトの謎の解明に大きく寄与していることを実感できます。例えば、ミイラ01のアメンイリレイトというテーベの役人は、骨の状態から中年(35~49)歳と死亡年齢が推定され、動脈内が狭くなっていることからアテローム性動脈硬化症があり、骨盤に認められる複数の溶骨性変化の状態から骨移転性癌が、また上顎歯の歯根尖部にある骨変化から歯周膿瘍が推定されるそうです。現代医学の知識と画像解析処理技術が驚くべき成果をあげているようです。ミイラの棺に記されたヒエログリフがミイラの生前の家系やその人のキャリアなどを語っています。つまり、古代エジプト人(ミイラ)について、3Dヴィジュアライゼーション技術と関連科学が、さらにその人の人生を物語るうえで寄与するようになったのです。 ミイラ処理の時に、内臓は除去されます。除去された内臓は香油と樹脂でミイラ化され、包帯をまかれて、普通はこのような「カノポス壺」に納められ、墓に一緒に埋葬されるそうです。このカノプス壺はジェドパステトイウエフアンクの墓から発見されたもの。(図録より) 胸飾り(ペクトラル)「ミイラ作りの神アヌビスが墓の形をした長方形の建造物の上に伏せた姿で描かれている」(図録より) ミイラ03「下エジプトの神官・ペンアメンネブネスウトタウイ」の近くに展示されている「猫の青銅製像」です。バステト女神は猫の姿で表されることが多いそうです。(図録より) 左端は、ミイラ04の近くに展示されているファイアンス製の「襟飾り」で、エジプトの典型的な宝飾品の1つ。ウセク(=幅の広いものという意味)という名で呼ばれるそうです。中央は、撮影OKエリアに展示されている「ヘビの形をした3柱の神々の指輪」です。右端は、「車輪のついた馬の玩具」彩色が施された木馬で、高さ7.6cm、幅11.5cm、奥行き7cmという小さなものです。ローマ支配時代、前30年以降のもの。 (図録より)撮影OKエリアの展示品をご紹介します。 左は「円盤付きの3柱の神々の指輪」。右は「バーが配された棺の模型」棺の模型はプトレマイオス朝時代、前332~前30年頃の彩色された木製の作品。高さ13.7cm、幅11cm、奥行21cm。蓋の中央のジャッカルはアヌビス神を表しているそうです。 プタハ・スカル・オシリス神像プトレマイオス朝時代後期の墓から出土の木製彫像。「こうした木製彫像のおかげで、死者は来世で復活を果たせると信じられていた」(図録より)つづく参照資料*特別展「大英博物館ミイラ展」PR用チラシ*当日購入した図録 『大英博物館ミイラ展 古代エジプト6つの物語』 2021 2022 朝日新聞社補遺「大英博物館ミイラ展 古代エジプト6つの物語」 神戸市立博物館 YouTubeミイラ :ウィキペディアミイラはなぜ作られた?古代エジプト人の死者への想い :「Coeurlien クリアン」ミイラの作り方 ― レン・ブロック YouTubeHow To Make a Mummy YouTubeHow to Make a Mummy! NATIONALGEOGRAPHIC KiDS古代王のミイラを「透視」 年齢や死因など初解明―エジプト :「JIJI.COM」エジプト 王などのミイラ22体が“引っ越し”(2021年4月4日) YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 神戸市中央区 -1 フラワーロードから神戸市立博物館に へ探訪&観照 神戸市中央区 -3 神戸市立博物館「大英博物館ミイラ展」(2)へ探訪&観照 神戸市中央区 -4 旧居留地点描 へ探訪&観照 神戸市中央区 -5 京町筋を歩く へ探訪&観照 神戸市中央区 -6 神戸ポートミュージアム(1)へ探訪&観照 神戸市中央区 -7 神戸ポートミュージアム(2)へ
2022.05.01
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昨日(28日)神戸まで出かけてきました。「大英博物館ミイラ展」を見るのが目的。週間天気予報で晴だったので、入場予約をしておいて出かけました。予報通りの快晴でラッキーでした。JR三ノ宮駅東口を出て、駅前の道路にかかる陸橋の階段を上り始めた時に、バスターミナルにド派手な絵が描かれたバスが駐まっていて、乗客が乗り込んでいるところを見ました。これほどイラスト満載のものを見たことがなかった! 陸橋上からJR三ノ宮駅を眺めた景色 駅前の時計は10時30分と告げています。 陸橋上から東方向の景色。すぐ前に見える陸橋は後で地図を確認しますと、ポートライナーの路線陸橋です。下は三宮東の交差点。 振り返って、西方向の景色陸橋を渡り、神戸阪急の角を回って、フラワーロードを横断します。三ノ宮センター街を通り抜けて神戸市立博物館に行ったことがありますが、今回はまずフラワーロードを海方向に向かうことにしました。 中央区加納町5丁目の住所表示と観光案内地図 神戸市役所の高層ビルまで南進し、右折して博物館をめざすことにしました。 道路脇には花壇に花々が咲き乱れ、裸婦像が置かれています。「国際会館前」交差点の北西側です。後で調べてみて、桜井祐一作「レダ」(1982年設置)とわかりました。(資料1) 交差点の北西側からフラワーロードの交差点南東方向の景色 道路を横断すると、フラワーロードと交差しているのは「三ノ宮中央通り」です。 交差点の南西側には、ブロンズ製の額縁風の彫刻が置かれています。面白いアイデア! その彫刻の傍に置かれた休憩所。花壇の中に置かれていますので、 これ自体がオブジェなのでしょうか。 この花壇で見頃の花々(12月~5月)の案内板があります。時季折々に咲く花を楽しみながら散歩できるようです。 三ノ宮中央通りを横断し、フラワーロードの西側歩道を南進すると、 ガラリと雰囲気が変わりました。西側歩道沿いにそって、再整備計画(新庁舎・にぎわい施設)が進行しているそうです。最初に目にとまったのが、この広場の西側の覆屋です。(資料2)その壁面を利用して、「ずーっといっしょ。 Ojizoo 70 70年ありがとう これからもよろしくね」というメッセージと動物たちの写真がたくさん貼られています。 観光客の記念撮影スポットになっています。 観光地図では、この辺りに花時計があるはずなのですが、仕切り塀で遮蔽されています。これも後で調べてみて知ったことですが、「こうべ花時計」は再整備計画に合わせ東遊園地へ移転したそうです。(資料2) 仕切り塀は殺風景にならないように、イラスト図や再整備後の建物のイメージ図を開示しているようです。 ツツジが真っ盛りです。 こんなイラスト図が建物イメージ図と併せて点描されています。 今度は竣工後のこの通りの景観を撮ってみたい・・・・・。Before/After の変化を知りいものです。 神戸市役所前の車道側で、「日本マラソン発祥の地 神戸」の記念碑が目に止まりました。「明治42年(1909)3月21日、神戸の湊川埋め立て地から大阪の西成大橋東端までの約32キロの『マラソン大競走』が行われました。日本で「マラソン」という名称を使ったのは、この大会が初めてと言われています。」とのことです。(資料3)また、神戸市役所前は、神戸マラソン(2011年11月20日実施)のスタート地点ともなったそうです。(資料3) 神戸市役所 1号館 神戸市役所前にも、観光案内地図が設置されています。 部分図を切り出し付記しました。現在位置がフラワーロードの市役所前です。赤丸が目的地の神戸市立博物館です。この地図の色分けでみると、市立博物館は「旧居留地」の地域内に位置しています。神戸市役所ビルの南側で右折し、東西方向の道路を西に向かいます。 市役所ビルの西側(裏側)の道路・東町線との交差点の北東角に、この裸婦像があります。南側の歩道から撮りましたので、誰の作品かは不詳。道路沿いに西に歩み、京橋筋との交差点で左折して南に行けば、市立博物館の正面に至ります。この時は、道の突き当たりまで行きました。京橋筋よりさらに一筋先です。左折して歩み始めると、ビルの壁面に「浪花町筋」の銘板が嵌め込まれています。浪花町筋を南に歩むことで、結果的に市立博物館を反時計回りに回り込んで、正面に至ることになりました。しかし、その道中での余禄はありました。 三井住友銀行の建物が浪花町筋の西側にあります。歩道に面して、 「春の海の作曲者 宮城道雄生誕の地」史跡碑が建立されています。 以前に市立博物館に来た折りに、周辺散策で一度この記念碑に出会っています。久々に見ることとなりました。 地図で確認すると、この景色の手前のビルが「神戸旧居留地25番館」です。三井住友銀行のビルからは交差点を挟み、南東側に位置します。この景色の先のビルが市立博物館です。さあ、いよいよ今回の目的地に到着です。つづく参照資料1) 花と彫刻の道 周辺 :「KOBE」(神戸市)2) 【三宮】神戸市役所本庁舎2号館再整備の状況 2021年5月 :「URBAN-NOTES」3) 「日本マラソン発祥の地 」 :「KOBE」(神戸市)補遺神戸三ノ宮 「野外彫刻鑑賞」 :「古都今昔」神戸市役所 本庁舎2号館を新庁舎に建替える再整備計画の最新状況 21.10【2025年以降完成予定】 :「Re-urbanization 再都市化」神戸市役所本庁舎2号館再整備事業者の公募について :「KOBE」(神戸市)お引越し「こうべ花時計」 東遊園地に”定住”へ :「神戸新聞NEXT」宮城道雄 :ウィキペディア春の海 :「コトバンク」Japanese Koto 春の海/Haru no Umi (Spring Sea) Composer/作曲者 Michio Miyagi/宮城道雄 YouTube春の海(Haru No Umi) 宮城道雄 YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 神戸市中央区 -2 神戸市立博物館「大英博物館ミイラ展」(1)へ探訪&観照 神戸市中央区 -3 神戸市立博物館「大英博物館ミイラ展」(2)へ探訪&観照 神戸市中央区 -4 旧居留地点描 へ探訪&観照 神戸市中央区 -5 京町筋を歩く へ探訪&観照 神戸市中央区 -6 神戸ポートミュージアム(1)へ探訪&観照 神戸市中央区 -7 神戸ポートミュージアム(2)へ
2022.04.29
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西洞院高辻から西洞院通を下り、五条通に出るつもりで歩いていました。万寿寺通と交差する辻の北東側には大泉寺、南西側にはマンションらしき建物。後で地図を確認しますと、こちらは八幡町です。このマンションの敷地の南東隅、西洞院通に面してこの小堂が目に止まりました。コンクリート造箱型の覆屋に鉄柵の扉が設けられ、その内部に、お地蔵さまの小堂が見えます。延命地蔵大菩薩と墨書した提灯が吊してあります。地蔵堂を確認するに留まりました。たぶん、マンションが建設される以前から、この辺りにお地蔵さまが祀られていたのでしょう。それでこの南東隅にきっちりとお地蔵さまが祀られたというところでしょうか。あくまで推測ですが・・・・。京阪電車の五条駅に出るつもりで五条通を東に歩き出しました。ふと思うと、京都駅に出てもそれほど歩く距離は変わらない。そこで方針変更。烏丸通の一筋西側の通りを南に歩くことにしました。普段は歩くことのない通りです。それが「諏訪町通」でした。後で地図を確認すると、室町通と烏丸通の中間にある南北の通りです。この通りは北端が高辻通、南端が花屋町通です。花屋町通は東本願寺の北辺の通りになります。五条通から南に2筋下がったところに神社が見えました。 北東隅の柱に、「諏訪町通鍵屋町下ル 鍵屋町」の住所標識が取り付けてあります。なつかしい仁丹のロゴが下端に付いています。 「諏訪神社」の石標と案内板 入口は黒木鳥居の形式で、ごく小規模な神社境内です。 鳥居の南側に駒札が設置されています。 鳥居を潜ると、右側に「忠魂碑」があり、その奥(西側)に手水舎があります。 左側に社務所があり、片流れの形でテントが参道上に設置されています。 拝所から、菱格子の扉越しに小ぶりな本殿が拝見できました。祭神は、案内板と後掲の駒札に記されています。建御名方神(たけみなかたのかみ)と八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)です。 征夷大将軍を拝命された坂上田村麻呂は蝦夷平定を為し遂げて801年に平安京に凱旋しました。御礼のために信州より諏訪大明神の分霊が勧請され、五条坊門の南に社殿を造営して祀られたのが、この神社の創始となるそうです。1864年の禁門の変(蛤御門の変)の兵火で社殿は灰燼に帰したと言います。孝明天皇より再建資金が下賜されて、1866年に神社が再建され今日に至るとか。 江戸時代に出版された『都名所図会』には「諏訪社」の項があり、「五条の南二町、諏訪町にあり。祭る所信濃国諏訪社と同神なり。」と簡明に記されています。面白いのは、その後に括弧付きで次の説明が補足されていることです。「(獣肉を喰ふものこの社の神箸(しんちょ)をうけて食す。汚穢(けがれ)なしとぞ)」(資料1)諏訪町通という名称はこの諏訪神社のあるこの地域の町名に由来するようです。「京都古地図」(1864年)を参照しますと、五条通から南には、「スワノ丁、下スワ、上柳丁、下田丁」と通り上に記され、下スワの西側の区画が色づけされて「スワノ」と記されています。これが当時の諏訪社ということでしょう。(資料2)『都名所図会』の脚注には、諏訪神社の所在地を下諏訪町と説明してあります。(資料1)現在の地図では、五条通から南に、上諏訪町・諏訪坊町・鍵屋町・下諏訪町・上柳町という町名が連なっています。ある時点で地名が変更されたということかもしれません。不詳です。 小さな境内ですが、弁財天を祀る小社が傍に設けてあります。普段歩く事のない通りを歩けば、神社に出会う。坂上田村麻呂という名前にこんな所で出会うとは思いもしませんでした。 これは七条烏丸の交差点脇に設置されている観光案内地図です。 部分図を切り出しますと、位置関係がおわかりいただきやすいでしょう。この地図では上辺が南で、下辺が北になります。諏訪町通を南進すると東本願寺に突き当たりますので、花屋町通を通って烏丸通に出て、京都駅を目指します。 京都駅前ビルの正面に、京都タワーが映じていました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p1562) 「京都古地図」 元治元(1864)年 竹原好兵衛(京都) 所蔵地図データベース :「国際日本文化研究センター」補遺坂上田村麻呂 :ウィキペディア信濃之国一之宮 諏訪大社 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都・山科 勧修寺・西野山を巡る -1 勧修寺宮墓地・藤原定方墓・醍醐天皇御母小野陵・坂上田村麻呂墓・中臣遺跡
2022.04.28
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「西洞院高辻」の交差点から高辻通を数十メートル西に入ります。(当日は、東中筋通を南方向から上り、高辻通で右折して東に向かうという形で現地に行きました。) 高辻通の北側歩道に面して、遺跡地が見える形で整備されています。「永養寺町」に所在します。 遺跡地の北端に「道元禅師示寂聖地」と刻された碑が建立されています。 南西隅の北側歩道から眺めた景色「道元禅師遺蹟之地」と刻した石標が道路傍に設置されています。 南東隅には、駒札が設置されています。 建長5年(1253)病の療養のために、道元禅師は弟子懐弉を伴って上洛され、この地にあった俗弟子寛念の屋敷に滞在されたそうです。そして、同年8月にこの地で満53歳の生涯を閉じられたと言います。 この遺跡地は大本山永平寺が管理されているようです。道元禅師はもともと京とは縁の深い人です。駒札に、正治2年(1200)京都で生まれと記されています。宇治市木幡の丘陵地に「松殿山荘」があります。現在は「松殿山荘茶道会」という財団法人の所有地ですが、この地はもと関白藤原基房が松殿(まつどの)という別業を営んでいたところだそうです。道元はこの松殿で生誕したとの言い伝えがあります。(資料1)道元は「内大臣久我通親(こがみちちか)(1149―1202)の子。一説に通親の子通具(みちとも)(1171―1227)の子ともいう。母は藤原基房(ふじわらのもとふさ)の女(むすめ)(三女の伊子(いし)(?―1207)と推定される)。」(資料2)なお、京都市伏見区久我には、「妙覚山誕生寺」と称し、曹洞宗を開いた道元禅師の誕生の地と言われる久我(こが)の地に建てられたお寺があります。以前に、ある史跡探訪講座の探訪先の一つとしてこの誕生寺を訪れたことがあります。道元は12歳の春に出家し、比叡山に上り修行に入ります。その後、京都・建仁寺にて栄西禅師の高弟・明全和尚に師事されます。そして、入宋し5年に及ぶ修行経て日本に帰国。1233年34歳の時に、京の深草の地に興聖寺を開山されます。この興聖寺が後に宇治に移ります。宇治川東岸に位置する現在の興聖寺です。(資料3,4)京都で没した道元禅師は、弟子等が東山赤築地で荼毘に付しました。そこには「道元禅師荼毘御遺跡塔」が設けられています。調べてみて知りました。(資料5)この地も探訪してみたいと思っています。道元禅師の墓はどこに?調べてみますと、大本山永平寺内の「承陽殿」がお墓に相当する廟だそうです。(資料6)序でに、この示寂地の地名は永養寺町ですがお寺はなさそうです。調べてみますと、寺町通高辻の東入ルに永養寺が所在します(恵美須之町)。北隣りは乗願寺、そして空也寺等とお寺が北に連なっています。高辻通を挟んで南には浄国寺があります。寺町通から想像できますね。豊臣秀吉が京都の大改造の一環として、鴨川の西岸に南北の寺町通を設けて、洛中のお寺を強制的に移転させたのです。有事の際には外敵防衛の第一線、拠点にするという狙いを持っていたのでしょう。浄土宗のお寺で、開創は不詳。1481年に再興され、1585年に寺町通に移ったと言います。(資料7)また1つ、探訪課題ができました。探訪は尽きません。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 公益財団法人 松殿山荘茶道会 ホームページ2) 道元 :「コトバンク」3) 道元禅師略歴 :「大本山永平寺」4) 道元禅師のご生涯 :「曹洞宗近畿管区教化センター」5) 道元禅師荼毘御遺跡塔 :「フィールド・ミュージアム京都」6) 開祖、道元禅師のお墓にあたります :「4travel.jp」7) 永養寺 (京都市下京区) :「お寺の風景と陶芸」補遺大本山永平寺 公式サイト道元 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 [再録] 宇治 興聖寺細見 3回のシリーズでご紹介。探訪 京都・洛南 久我・羽束師を歩く -2 誕生寺探訪 京都・東山 建仁寺境内と塔頭 -1 両足院(初夏の特別拝観) 6回のシリーズでご紹介。探訪 京都・東山 建仁寺塔頭 久昌院探訪 京都・東山 建仁寺再見・細見 -1 三門・法堂を巡り本坊に 5回のシリーズでご紹介。スポット探訪 京都・東山 初詣 建仁寺禅居庵 摩利支尊天
2022.04.27
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五条通を西に歩み、右折して西洞院通を北上します。 松原通西洞院に「五条天神社」があります。西洞院通に東面する形で石鳥居が立ち、四脚門と「五條天神宮」碑が見えます。松原通がもとの五条通ですので、五条天神という名称そのままです。 石鳥居を潜り、門を入ると、境内の正面に社殿が見えます。 拝所に近づくと、「五條天神」の扁額が掲げてあります。 拝所から眺めた本殿以前に、「探訪 [再録] 京都・下京 史跡めぐり -2 五条天神社、管大臣神社」としてご紹介しています。五条天神社自体については、こちらからご覧いただけるとうれしいです。あまり重複しない形で補足として書き加えます。 門を入ったすぐ左に手水舎があります。 社殿の南東隅手前に、この碑が立っています。この「皇國醫祖の碑」(皇国医祖の碑)は以前にご紹介しています。 今回、この案内が掲示してあることに気づきました。 読みづらいかも知れませんが、説明文を部分拡大してみました。 社殿の南西隅の近くに、「筑紫天満宮」の提灯を吊した小社が勧請されています。 松原通に面した門(北門)です。 門の傍に設置されたこの案内板の説明がご紹介事項と関係しています。 駒札の一部西洞院通の石鳥居の南側に立つ駒札の説明にも関連する記述があります。五条天神社は当初「天使の宮」(天使社)と称されていたと言います。ここがキーポイントなのです。また、駒札には「創社の頃は社域も広く」と記されています。江戸時代に出版された『都名所図会』の「五条天神宮」の項に、「古は宮殿巍々として東西四町、南北五町の神領なり。巡りには樹林森々たり」(資料1)と説明されています。それほど大きな社域が広がっていたのでしょう。さてそこで、現在の地図を見ますと、南北方向の西洞院通の西側2筋目が油小路通です。その中間に、北端が仏光寺通で南端が七条通までという1本の道路が通っています。手許の地図並びにネットのMapion地図には、この通りの名称が載っていないのですが、「東中筋通」と称するそうです。五条天神の北門を出て、松原通を西に進みます。 通りの左側(南側)に宝形造の屋根の地蔵堂が目にとまりました。 格子扉越しに内部を拝見すると、お化粧されたお地蔵さまが見えました。地蔵堂の少し先で左折して東中筋通を南に下ります。 五条通の少し手前まで一旦下り、この通りを引き返しました。南から北方向を眺めた景色です。 通りの東側に駐車場があります。そこに記されている地名が「天使突抜(てんしつきぬけ)」です。この奇妙な地名の現地を歩いてみるのがここに来た目的です。この地名にはあの豊臣秀吉が絡んできます。秀吉は京都の周囲に御土居を築くとともに、都の大改造を行いました。五条通を付け替えたのもその1つです。秀吉は都市改造の一環として、西洞院通と油小路通の間に、南北の通りを作ったのです。それが東中筋通になります。この道路は、このあたりに広大な社域を所有していた五条天神社つまり天使社の社域を突き抜ける形で設けられたのです。「天使突抜」という地名はそこに由来すると言います。(資料2,3)現在の地図を見ますと、五条天神社は天神前町に所在します。松原通の南北を挟んで町域が形成されています。松原通を左折し東中筋通を南に下ると、天神前町の南隣りが「天使突抜1丁目」、万寿寺通を境にその南側が「天使突抜2丁目」です。五条通を横断して南に下がると、さらに3丁目、4丁目が続きます。六条通が4丁目の南端になります。元治元年(1864)に出版された「京都古地図」(竹原好兵衛[京都])を見ますと、五条天神の西側の通り上に、松原通の北側に「天シツキヌケ」、南側に「一丁目」、さらに南に「二丁メ」「三丁メ」そして「金福寺」の西側に「四丁メ」の表記があります。(資料4)高辻通に出たいので東中筋通を北に上ります。 まずは天神前町まで戻り、さらにそのまま北上します。天神前町の北隣りが舟屋町、その北が高辻通の南側と北側を合わせて町域とする永養寺町です。 東中筋通を上り、高辻通に至る手前で見た掲示板の住所表記です。高辻通と油小路通を軸にして町名の表記が行われています。東中筋通という通り名が出て来ないのがおもしろい。京都の町中、洛中では、東西と南北の主要な通り名を軸としてその交点を述べて、そこから東(西)入ル、あるいは上(下)ルと説明する方がわかりやすいのです。町名すら知らなくても、場合によっては目的地付近までは十分にアプローチできます。例えば、大丸京都店なら四条通高倉西入ルです。高島屋京都店なら四条通河原町西入ルです。京都文化博物館なら三条高倉という具合です。勿論、それぞれ町名はありますが、意識したことがありません。今回は、おもしろい地名のご紹介でした。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1)『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p1582) 京都難読地名のひとつ「天使突抜」。その由来になった「五條天神宮」とは・・・?! :「ことりっぷ co-Trip」3) 天使突抜 秀吉のごり押しでできた地名? :「京都ブログガイド」4)「京都古地図」 元治元(1864)年 竹原好兵衛(京都) 所蔵地図データベース :「国際日本文化研究センター」補遺五条天神社 :「京都観光Navi」京都文化博物館 ホームページ トップページの最下段の住所表記をご覧ください。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2022.04.26
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京都国立博物館を出た後、運動不足の解消を兼ねて、少し京都の町中を歩いてみました。思いつきでのタウン・ウォッチングですので、いくつか個別にご紹介します。七条通を西に進み、今までに歩いた記憶がない鞘町通を五条通まで北上することにしました。鴨川に沿った川端通からは一筋東の通りです。通りを北上して行き、初めて知ったのは、西側に京都美術工芸大学の京都東山キャンパスがあることです(上堀詰町)。ここに大学のキャンパスがあることを今まで意識していませんでした。その先で、正面通を横断します。西に左折すれば鴨川に架かる正面橋。東に右折すれば道幅が段階的に広がり、耳塚を右に見ながら、豊国神社の石鳥居の前に至ります。かつてなら、方広寺の正面に至る道だったことでしょう。 通りの右側に小堂が見えました。 お地蔵さまのお堂です。格子扉越しに内部を拝見すると、内扉があり閉まっています。残念ながらお地蔵さまは見えません。正面通より幅の広い道路を横断します。 西方向の眺め。この道は川端通に合流するだけ。東に行けば本町通に合流するT字路で、本町公園に突き当たります。後で地図を確認すると、豊浦町・大阪町・鞘町1丁目を経て、五条通に出ます。五条通に至るまでに、 「地蔵大菩薩」の扁額がお堂の屋根より上に見える地蔵堂があります。 ここも、格子扉越しに内部を拝見すると、内扉がありました。お地蔵さまは見られず。 五条通に出る手前に、もう一つ地蔵堂がありました。こちらは地蔵堂に覆屋が設けてあります。これは比較的まれな形だと思います。 ここも、残念ながら内扉を設けた地蔵堂です。お地蔵さまは見られず。この形式の地蔵堂が3連続するのに出会うのは初めての経験です。五条通で左折し南側歩道を西に進みます。 川端通に出る前に、一筋南方向に延びる道路がありました。後で地図を確かめると「問屋町通」です。正面通が南端で、五条通が北端となる南北方向の道路です。五条通を越えた北側は「宮川町通」と名前が変わります。京都・五花街の1つ、宮川町の南端です。宮川筋4丁目まで北上すれば、「宮川町歌舞練場」があります。 五条大橋東詰、北側にはこの案内板が設置されています。五条大橋は、以前にご紹介しています。こちらからご覧いただけるとうれしいです。 五条大橋を西に渡ります。 五条大橋上で北を眺めると見えるのは「松原橋」です。かつては、この松原橋の架かる通りが五条通でした。豊臣秀吉が京の都の大改造したときに、五条通を南に付け替えてしまったのです。そしてもとの五条通を松原通と改称しました。江戸時代に出版された『都名所図会』は明確にこの点を説明しています。「五条橋 は初めは松原通にあり。則ちいにしへの五条通なり。秀吉公の時この所に移す。故に五条橋通といふ。実は六条坊門なり。欄干には紫銅(からかねの)擬宝珠左右に十六本ありて、北の方、西より四ツ目に橋の銘あり。」(資料2)六条坊門小路が五条橋通となり、ここに石橋が築造されました。西詰には、現在「五条公園」が整備されていて、石橋の橋脚の一部が保存されています。西岸に見える和風建築は京料理の老舗「鶴清」という料理旅館です。 鴨川の流れに沿って、すぐ西側にあるのが「みそそぎ川」です。五条から三条にかけて、夏季にはこのみそそぎ川の上に「納涼床」が設けられます。今では常設の川床を設けているお店もありますが。 地図を見ますと、鴨川の西岸に整備された鴨川公園の下の暗渠を経て、二条大橋の北、末丸町で姿をみせるみそそぎ川が、二条・御池・三条・四条と南下して、この五条大橋西詰が南端となり、鴨川に合流します。「『みそそぎ川』の名の由来は、古くから鴨川そのものが「みそぎ」をする川でありそこからきているのではないかともいわれています。(京都府河川課編集発行「わたしたちの鴨川」から)」(資料3)序でに「『みそそぎ川』は鴨川の河川区域西側を流れる水路で鴨川の一部です。その水路を鴨川とは呼ばずに”あえて”「みそそぎ川」と呼んでいます。」(資料3)とのことです。今回少し調べてみて、私自身、初めてこのことを知りました。それでは、みそそぎ川の始点はどこなのか? 賀茂大橋下流に取水口があるのです。そこを始点に鴨川公園の園路の下がトンネルになっています。そして上記の説明にリンクします。(資料3) 五条大橋の西詰、北側には「扇塚」が設けられ、「扇塚の記」という説明碑も設置されています。「扇塚の記 扇は平安時代の初期この地に初めて作られたものである。ここ五條大橋の畔は時宗御影堂の遺趾であり、平敦盛没後その室、本寺祐寬上人によって得度し蓮華院尼と称し、寺僧と共に扇を作ったと言い伝えられている。 この由緒により、扇工この地に集り永く扇の名産地として広く海外にまでも喧伝されるに至った。いまこの由来を記して、これを顕彰する。 昭和35年3月15日」(転記)ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 鶴清 京料理 鴨川納涼床 ホームページ2)『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p1333) 鴨川真発見記<37から42> :「京都府」 みそそぎ川に流れる水は何処から?(第38号) 補遺京都美術工芸大学 ホームページ豊国神社 :「京都観光Navi」京都 宮川町 公式ホームページ京都・宮川町の歌舞練場 ホテルと一体となって再開発へ 芸舞妓をホテルのレストランに招くプランも YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 [再録] 京都・下京 史跡めぐり -4 京都大神宮、天野屋利兵衛、五条大橋、河原院跡探訪 [再録] 京都(洛東・洛南) 旧伏見街道を自転車で -1 五条大橋、本町通を南へ探訪 方広寺と豊国神社、そして京博の庭から探訪 京都・東山 豊国神社 ふたたび -1 唐門・石灯籠・社殿ほか 2回のシリーズでご紹介。
2022.04.25
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七条通の北側歩道脇に掲示された特別展案内パネルの景色です。伝教大師1200年大遠忌記念特別展「最澄と天台宗のすべて」が4月12日(火)から5月22日(日)の会期で始まりました。20日(水)は天気が良かったので、5月の連休に入る前にと思い、出かけてきました。コロナ禍での企画展の中では相対的に多いめの鑑賞者数でしたが、特別展が始まったところであり平日の正午を挟む時間帯でもあったので、せいぜい各展示室で十数名くらいの鑑賞者が途切れない程度でした。各展示室でゆったりと鑑賞できました。 特別展入場チケット 南門を入ると歩道脇のツツジが咲きかけています。 平成知新館手前の案内パネル 平成知新館1階ホール正面の壁面。記念撮影用のパネルでもあります。 PRチラシ 京都国立博物館だより 2022年4・5・6月号 表紙これらから今回の展示品中のハイライトが何であるかがうかがえます。館内は原則撮影禁止です。上掲公開資料を引用しつつ、記録を兼ねて、今回の特別展の感想とご紹介を致します。今回は、5月2日(月)の休館日を境に前期・後期と区分され、一部展示替えが予定されています。特別展の展示は3階から始まり、順路案内に従って2階・1階へと降りながら鑑賞することになります。1階の常設展示フロアーの仏像群が撤去されていて、特別展の諸仏像が展示されています。今回は、平成知新館全フロアーが特別展仕様で展示されているようです。全体の展示構成をまずご紹介しておきましょう。 第1章 最澄と天台宗の始まり - 祖師ゆかりの名宝 第2章 教えのつらなり-最澄の弟子たち 第3章 全国への広まり-各地に伝わる天台の至宝 第4章 信仰の高まりー天台美術の精華 第5章 教学の深まり-天台思想が生んだ多様な文化 第6章 現代へのつながり-江戸時代の天台宗<第1章 最澄と天台宗の始まり>では、冒頭に「聖徳太子像」(国宝)と「最澄像」、「円仁像」、「天台大師(智顗)像」の掛幅が展示されています。 「最澄像」(国宝、兵庫・一乗寺蔵) 最澄像はこの特別展の図録表紙(左)にも使われています。右は裏表紙。購入した図録の表紙をよく見ますと、一部が折り込みになっていました。 表紙を広げると折り込まれた部分に、聖徳太子像が載せてあります。 裏表紙の折り込まれた部分。右端から二人目が前期に展示されている「円仁像」(一部)です。その他は天台高僧像。 やはり、興味深かったのは、「伝教大師入唐牒」(国宝、延暦寺蔵)です。最澄が渡唐した時に中国で発行された通行許可証の実物。今風に言えば、現地発行されたビザですね。767年近江国に生まれた最澄は13歳で出家、785年、20歳で僧となり、788年に比叡山に最初のお堂を創建。自刻の薬師如来像を置き、「不滅の法灯」を灯したと言います。804年に桓武天皇に支援され留学僧として渡唐します。そして、翌(805)年に帰国。最澄自筆の「伝教大師請来目録」(国宝、延暦寺蔵)も展示されています。806年に天台宗が日本の正式な仏教として認められ、全国に教えが広がることに。(資料1) 京都・法界寺(真言宗醍醐派)から寺外初公開の秘仏、薬師如来立像が展示されています。この仏像は「鎌倉時代に、天台座主慈円が実見した延暦寺根本中堂の本尊、最澄自刻で五尺五寸の薬師如来立像の姿に近い」(図録より)そうです。今回の展示にあたり、X線CT撮影が行われ、仏像胎内には薬師如来立像が納められているのが確認されました。その胎内仏像が3Dプリンターで再現されて併せて展示されています。代々の相伝で最澄自刻の三寸薬師如来像を納めたと言われてきたそうですが、現在の胎内仏像は最澄の自刻像とは異なるとか。いずれにしても最澄ゆかりの薬師如来立像です。今回他の仏像についても胎内の納入品を3Dプリンターで再現し展示するという新しい試みが行われていました。最先端科学技術を活用した展示品の併用は興味深いものです。もう1点、「天台薬師」と称される系統の薬師如来立像(京都・長源寺蔵)が展示されています。こちらも木造ですが全身漆箔像です。「天台薬師」には、「頭の上の盛り上がりがなだらかな形になっていることや額がせまいこと、衣文をY字に刻むなど」(資料1)の特徴があるそうです。 この「蒔絵唐櫃」は明治24年に新調されたものです。近世には延暦寺法華会が3~4年に一度行われ、勅使が勅封唐櫃内の寺宝を改める儀式があったそうです。維新の混乱で途絶えていたのを明治12年(1879)に復活させ、5年に1度行われるようになったとか。会場では今回の展示にあたり、その儀式の様子が録画され放映されています。併せて、納入品である「銅三鈷鈴」「金銅独鈷杵」や「細字法華経」などが展示されています。「細字法華経」は前期展示ですが、極小文字をどのようにして書いたのだろうかと驚嘆する経巻です。拡大図のパネルが併せて展示されています。<第2章 教えのつらなり-最澄の弟子たち>では、「高僧図像(乙巻)」(東京・大東急記念文庫蔵)がまず興味深かったです。各僧の個性溢れた図像が並んでいます。歴代の高僧たちについて、何を見て描いたのだろうとふと思いました。兼胤筆『入唐求法巡礼行記』(国宝)が展示されています。円仁が入唐したのは838年でそれから帰国するまでの9年8ヵ月間の記録です。写本としては現存最古の写本(鎌倉時代、1291年)だそうです。「五部心観(完本)」(国宝、滋賀・園城寺蔵)も印象深い図像です。曼荼羅・金剛界の五部の諸像が墨画され梵字で説明の記載が為されています。巻末には善無畏の像が描かれていると判明したそうです。 良成作「智証大師(円珍)坐像」(重文、京都・聖護院蔵)は頭の形が特徴的。私は「おむすび」を連想してしまい・・・・。会場には、「最澄・円仁・円珍の入唐求法の旅」ルート図のパネルが展示されています。図録にも関連地図として収録されています。こういう図の収録はありがたい。印象に残るのは、「浄土曼荼羅刻出龕」(重文、広島・耕三寺蔵)。高さ15cmの龕に、阿弥陀如来と両脇侍、10人の僧や数多くの菩薩などが細密に彫刻されています。「不動明王及び二童子坐像」(重文、延暦寺蔵)の制吒迦童子像は見る角度によりかなり印象が変わり、おもしろい。「護法童子立像」(延暦寺蔵)も同じ。こちらは、像内納入品が発見され、銅造鍍金で像高9.5cmの不動明王立像などが併せて展示されています。 延暦寺横川中堂の本尊「聖観音菩薩立像」(重文、延暦寺蔵)12世紀を代表する優品です。やわらかな容貌が素敵です。<第3章 全国への広まり-各地に伝わる天台の至宝>では、「金光明最勝王経金字宝塔曼荼羅図 第四幀」(国宝、岩手・中尊寺大長寿院蔵)にまず惹きつけられました。『金光明最勝王経』の経文を金字で宝塔の形に書写して、その宝塔の左右に如来・菩薩・天女や山景、州浜などが細密に描かれています。説明無しで何となく見ていたら、宝塔が金字書写によるとは気づかないと思います。「聖僧文珠菩薩坐像」(重文、滋賀・善水寺蔵)や慶快作「性空上人坐像」(重文、兵庫・圓教寺蔵)は異相の雰囲気を漂わす彫刻像です。異相故に惹きつけられるところがあります。 ここでのハイライトはやはり、この「菩薩遊戯坐像(伝如意輪観音)」(愛媛・等妙寺蔵)です。等妙寺では如意輪観音として信仰されているそうです。右脚を踏み下げて右手をついて岩上にくつろぐ姿です。このような坐り方を遊戯坐というそうですが、左膝を立て膝とするのは珍しいそうです。「運慶・快慶次世代の定慶の作風に近い」(図録より)とか。「中国宋代の影響下にあり、鎌倉時代の仏師肥後別当定慶に連なる慶派仏師の作で、造像年代は13世紀の第2四半期とみられています」と鬼北町のホームページで紹介されています。「60年に1回ご開帳の秘仏とされ、現在の等妙寺観音堂(如意輪堂・江戸中期・町指定)の厨子(江戸前期)内に安置されていますが、普段は尊顔を拝むことは叶いません」との説明も。(資料2)遊戯坐像について、少し事例をネット検索してみました。補遺をご覧ください。<第4章 信仰の高まり-天台美術の精華>で、特に印象に残るのは、「真如堂縁起 下巻」(重文、京都・真如堂蔵)と「法華経(浅草寺経)巻第七」(国宝、東京・浅草寺蔵)です。そして、「空也上人立像」(重文、愛媛・浄土寺蔵)口から阿弥陀仏が飛び出している姿の空也上人立像を見るのは、私にとってはこれが三例目になります。現在、東京国立博物館で特別展「空也上人と六波羅蜜寺」が開催されていて、六波羅密寺の空也上人像は2022年5月8日まで、東京にお出まし中です。(資料3)<第5章 教学の深まり-天台思想が生んだ多様な文化>で印象に残ったのは、「宮中御懴法講絵巻」(重文、京都・三千院蔵)です。典型的な「吹抜屋台」形式の描法をおもしろいと感じました。 それと、1階の普段なら仏像群が展示されている展示室の東端に、この「日吉山王金銅装神輿(樹下宮)」(重文、滋賀・日吉大社蔵)が展示されていたこと。見るからに大きくて重そうな神輿です。各部の大ぶりの錺金具には日吉社の神獣、猿(神猿)が様々な姿態で表現されているのが見どころです。<第7章 現代へのつながり-江戸時代の天台宗>では、「天海版一切経木活字」(重文、東京・寛永寺蔵)が興味深いものでした。経典の印刷のために版木を作るということの実例とイメージはあるのですが、一切経の印刷のために、一字単位の木製活字を作っていたというのを初めて知りました。木活字を用いた天海版一切経の出版事業は徳川将軍家光のもとで行われたと言います。(図録より)木活字を組み合わせて、経典を印刷する作業プロセス・・・・・漢字を識別すること自体がまず大変・・・・、校正作業は大変なことでしょうね。この特別展でもう一つのハイライトとなる箇所があります。1階の1展示室を使い、国宝延暦寺根本中堂の内陣中央を部分的に再現してあるのです。根本中堂の内陣の雰囲気を体感できるように・・・・・と。展示室に入ると、右側にこの案内パネルが掲示されています。 このエリアだけ撮影OKです。 パネルの上部には、根本中堂の内陣の写真が掲示されています。その部分を切り出しました。根本中堂の本尊は薬師如来像で秘仏。勿論、御前立像は薬師如来立像です。さて、撮影OKの再現された内陣風景に移りましょう。 再現された内陣の中央部分手前には最澄が灯して以来消えたことのない「不滅の法灯」が安置されています。根本中堂の3基の吊灯籠内の器には絶えず菜種油が注がれているそうです。(図録より) 向かって右端が「丑神立像」です。 その左は中央の御前立、薬師如来立像の左脇侍「梵天立像」 こちらは右脇侍「帝釈天立像」 向かって左端は「子神立像」です。元亀2年(1571)に織田信長が比叡山焼き討ちを行ったとき、根本中堂もろともに法灯も灰燼に帰しました。それなのに、なぜ「不滅の法灯」なのか。山形県立石寺(山寺)に灯明が分灯されていたそうです。中堂が再建された後に、分灯されていた灯明を再び移し戻すことで復興されたといいます。(図録より)これで特別展の鑑賞を終えて、平成知新館から退出しました。 7月30日から9月11日は特別展「河内長野の霊地 観心寺と金剛寺」が、さらに10月8日から12月4日は特別展「京に生きる文化 茶の湯」が企画されているそうです。 いつもの如く、ロダンの考える人を眺め、 西の庭を少し眺めてから博物館を後にしました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*当日入手した「最澄と天台宗のすべて[出品一覧・展示替予定表]」*図録『伝教大師1200年大遠忌記念特別展 最澄と天台宗のすべて』 2021-2022 編集 東京国立博物館・九州国立博物館・京都国立博物館・読売新聞社*「京都国立博物館だより 2022年4・5・6月号」 京都国立博物館1) 展示を楽しむための鑑賞ガイド「最澄さんと天台宗」 編集:京都国立博物館教育室2) 文化財~木造菩薩坐像(伝如意輪観音像)~ :「鬼北町」3) 東京国立博物館 ホームページ補遺京都国立博物館 ホームページ今年1200回忌 最澄の思い、延暦寺・根本中堂で見た 2021.3.26:「朝日新聞DIGITAL」宝珠山 立石寺 ホームページ立石寺 :ウィキペディア空中に浮いてるみたい!山形県「山寺」の絶景ポイントや見どころをレポ:「LIVE JAPAN」薬師如来と不滅の法灯 :「延暦寺会館」yuugeza 遊戯坐 :「JAANUS」地蔵菩薩遊戯坐像 :「文化遺産オンライン」文化財のヒ・ミ・ツ「地蔵菩薩遊戯坐像」 YouTube木造彩色 水月観音坐像 :「東慶寺」立て膝 中国の白衣観音 「鎌倉の仏像展」 :「大和古仏探訪」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2022.04.23
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黄檗山萬福寺の周辺として、萬福寺の東側は巡っていませんでした。そこで、別の日に図書館に行った時に、立ち寄ってみることにしました。これで萬福寺の四周を巡ったことになります。「黄檗霊園参道」道標の位置から始めます。北側を巡る時に触れています。この坂道を上ると突き当たりに「東宇治コミュニティセンター」があります。その中に東宇治図書館があり、しばしば訪れている図書館です。坂道を登り切ると右折して道沿いに進みます。 初めて気づいたのですが、このコミュニティセンターの南東隅に「黄檗山北界」の石標が立っていることでした。右折してさらに坂道を上るのですが、この道路が黄檗山の寺地の北辺なのですね。坂道の右側は幾つか黄檗霊園に入る石段道が設けてあります。 右折して坂道沿いに進み、ほぼ上り詰めると、右手前方に駐車場があり、その奥(東)に、黄檗山の境内東辺へのオープンな門(左の画像)があります。そこから振り返ると、駐車場の西に黄檗霊園の門がみえます。黄檗霊園の正門です。 黄檗山の山内への門を入りますと、ほぼ正面前方に、「メモリ-・ガーデン」が見えます。この辺りは以前にご紹介しました。 東辺に下る坂道坂道を築地塀沿いに南方向に下って行きます。築地塀が途切れて、開口部が設けてある境内地が右側に見えます。 境内地に入り、お堂を眺めると、そこが「威徳殿」(重文)です。元禄14年(1701)に建立されたそうです。 「徳川家の霊碑を祀っています。当山開基の大檀越である大将軍厳有院殿正一位徳川四代将軍家綱公の命日には、厳有忌が毎月行われています。」(資料1)桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、本瓦葺の建物で、前面に一間の向拝がついています。背面突出部があり桁行一間、梁間二間で寄棟造です。「伽藍の配置や堂舎の建築様式は、中国の明代末期から清代初期の仏教建築の影響を受けたもので、近世建築史上価値が高い」(資料2)そうです。 屋根を眺めますと、鬼板には三葉葵(徳川)の紋がレリーフされています。 坂道に戻り、少し下ると左(東)に「納骨堂」が見えます。 その屋上には、石造観音菩薩坐像が建立されています。基壇が納骨堂を兼ねているという方が相応しいのでしょうか。 その南側には、手前に「京都華僑墓地」の石標が立ち、 右斜め奥に「京都華僑霊園」の大きな門が見えます。門からは石段が真っ直ぐに丘陵斜面に延び上がっています。この石段を中央にして、丘陵斜面の南北に墓所が広がっています。以前に、こちらの霊園も拝見したことがあります。その時は、丘陵地の頂部側の出入り口から霊園を訪れました。その時初めて見る墓所の姿に異国情緒を感じた次第です。 「京都華僑霊園整備完成祈念碑(1989年~2004年)」 門の南側に「漢松堂」の扁額を掲げた建物があります。参道の両側は生垣です。松尾恒一氏の論文を参照しますと、この漢松堂には楊柳観音が祀られています。法要が行われた後で、「下げられた供物と供物に準じる酒食が用意され,子どもも交えた華僑の人々一同での食事となる」場所としても利用されるようです。(資料3)日本での法事の後に会食の席を設けるのと同じ主旨なのでしょう。萬福寺の東側に位置するこの京都華僑霊園は、京都華僑墓地委員会が運営・維持管理されているそうです。(資料4) 漢松堂前の参道から北を眺めた景色 漢松堂側の参道から西方向を眺めた景色 萬福寺境内との境界となる築地塀 威徳殿から下ってきた道路に戻り、南の方向に目を転じればに塔頭「長松院」が見えます。これで、前回のご紹介と萬福寺の周辺がリンクしたことになります。 上掲の築地塀傍から、遠望した萬福寺雄宝殿(本堂)の屋根です。大棟中央には火焔付き、二重の宝珠が置かれています。(資料1)これで黄檗山萬福寺とその周辺の探訪を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1)『最新版フォトガイドマンプクジ』 大本山萬福寺発行 p312) 萬福寺 威徳殿 :「文化遺産データベース」3) 「日本華僑の共同墓地と后土・土地神の考察」 松尾恒一 p221 国立歴史民俗博物館研究報告 第199集 2015年12月 4) 京都華僑墓地委員会 :「京都華僑総会・京都華聯旅行社」補遺黄檗宗大本山 萬福寺 ホームページ黄檗霊園 :「(有)山本石材店」京都黄檗山華僑霊園 :「Life」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 宇治市 黄檗山萬福寺とその周辺を巡る -1 宇治川岸から萬福寺総門前 へ探訪 宇治市 黄檗山萬福寺とその周辺を巡る -2 萬福寺の放生池と三門ほか へ探訪 宇治市 黄檗山萬福寺とその周辺を巡る -3 萬福寺の北周辺:獅子林院・真光院ほか へ探訪 宇治市 黄檗山萬福寺とその周辺を巡る -4 青少年文化研修道場・慈福院 へ探訪 宇治市 黄檗山萬福寺とその周辺を巡る -5 緑樹院、別峯院 へ探訪 宇治市 黄檗山萬福寺とその周辺を巡る -6 聖林院、長松院、瑞光院、法林院、東林院ほか へこちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -1 総門と門前点景 14回のシリーズでご紹介。探訪 宇治 黄檗山萬福寺 -1 霊園のツツジ、北向地蔵尊、宝蔵国師開山塔と諸石塔探訪 宇治 黄檗山萬福寺 -2 釈迦涅槃像を拝せる「黄檗の碑」観照 [再録] 観桜 -2 宇治・黄檗の丘陵にて
2022.04.09
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別峯院前から道沿いに北に進めば、十字路に至ります。右(東)を眺めると、赤い幟が目にとまりました。「みみづく地蔵尊 心願成就」と記された幟です。 萬福寺の総門と同形式の表門です。「聖林院」の扁額が門扉の上部に掲げてあります。 塔頭の北東側から眺めた全景です。 門前の右側で道路傍に「みみづく地蔵尊」が鎮座します。基壇の正面には、地獄から天上界までの名称が、六道輪廻として刻されています。こういうのもまた初めて見た形式です。みみづく地蔵尊はこの聖林院が発祥の地で、黄檗宗長岡山中央寺(和泉市)と徳蔵院(奈良県香芝市)にもいらっしゃるとか。(資料1) 竹垣には「お参りのしかた」についての説明板と真言が掲示してあります。 聖林院は慧極禅師の開基により寶永7年(1710)に創立されたそうです。明治8年(1875)に現在地に移転しました。(資料2)慧極道明禅師は、木庵禅師の印可をうけた長門(山口県)出身の日本僧です。「河内(大阪府)法雲寺をひらき,のち江戸瑞聖寺3世。元禄5年長門(山口県)萩藩主毛利吉就にまねかれ,東光寺をひらいた」そうです。(資料3)道路沿いに東へ坂道を進めば、右折した先はかなりひろい駐車場です。この駐車場の北東側に 塔頭「長松院」が位置しています。(前回ご紹介した緑樹院の東側に黄檗公園プールがあります。その東側の道路を北に入ると、この萬福寺駐車場に南から向かうことになります。) 長松院は鉄牛禅師の開基により延宝6年(1678)に建立された塔頭ですが、現在の長松院は平成元年(1989)に再興されたと言います。(資料2)鉄牛道機禅師も長門(山口県)の人で、長崎崇福寺で木庵禅師の法をつがれたそうです。「相模小田原紹太寺,江戸弘福寺などをひらく。鉄眼道光の黄檗版大蔵経の刊行をたすけ,下総椿海(千葉県)の干拓事業にもつくした」人です。(資料4) 門前傍の案内板 長松院の西側に見える萬福寺境内内の建物。駐車場側の桜が満開。 道を引き返し、聖林院前から十字路まで戻ります。十字路の南西角にこの築地塀が見えます。西に少し進みますと、 塔頭「瑞光院」です。 門前の右側に「玉青苑」と刻された碑が立っています。 門前に立つと、正面に見える建物です。2階の円窓と白壁がいいですね。瑞光院は即非禅師の開基により、寬文5年(1665)に建立された塔頭です。明治8年(1875)に現在地に移転したそうです。(資料2)即非如一禅師は中国僧で、生国は福建省福州の人。「準世代」と位置づけられる3人のうちのひとりです。(資料2)1650年に隠元禅師より印可を受け、1657年に来日。長崎崇福寺に住し、福岡の福聚寺を開山されています。木庵禅師と即非禅師は、「二甘露門(かんろもん)」と称されたそうです。(資料5) 門前から境内の左(東)方向を拝見すると、奥の方に広がる庭園が見えます。 滝の石組みが遠望できますので、この庭園が「玉青苑」と称されているのでしょう。建物に対して少なくとも鍵形に築庭されているのではと推測します。 右側には、筆塚が建立されています。向かって右側の門柱に、右方向の赤色矢印付きの案内板が立て掛けてあり、「黄檗開山隠元禅師念持仏 持咒感霊祥 佛母準堤観世音菩薩」と記されています。右方向には出入口があり、自由に拝観できるようでしたので、通路を歩み、お堂前の拝所から拝見しました。 お堂の正面の奧、内陣に「佛母準堤観世音菩薩」が安置されています。 ふと、見上げるとお堂の天井に龍が描かれています。 左右の鴨居には、天女を描いた額が掛けてあります。 お堂前面の桁には、扁額が掲げてあります。私には文字を判読できません。残念!道路を挟んで北側、ここは十字路の北西角になります。 塔頭「法林院」です。 門前から眺めた正面の景色 門前から左右を眺めると、庭がひろがっています。法林院は喝禅禅師の開基により寬文9年(1669)に建立された塔頭ですが、明治8年(1875)に現在地に移転したそうです。(資料2)喝禅道和禅師は、中国僧で生国は福建省福州の人。元禄10年(1697)伏見に善福寺を創立されたと言います。(資料6)法林院は十字路の北西角地に位置します。この十字路を北方向に少し歩むと、黄檗山萬福寺の境内地に入ってしまうようです。大きな鉄柵の門扉が設けてあります。 道沿いの北東方向、道路の北側に表門が見えます。 手前の一角が、塔頭「東林院」です。門扉近くから塔頭を眺めるに留まりました。東林院は、大眉禅師の開基により、寬文2年(1662)に建立された塔頭ですが、明治8年(1875)に現在地に移転したそうです。(資料2)大眉性善禅師は中国僧で、生国は福建省温陵の人。隠元禅師に随行して来日されたそうです。(資料6)瑞光院・法林院から少し先に、 「全日本煎茶道連盟」の木札を掛けた建物が見えます。 建物の西側には、北方向への通路が窟門まで続いていますが、この景色を撮った位置に鉄柵の門扉が設けてあり、この通路側は萬福寺の境内地です。左(西)側の築地塀の先に見えるのが「文華殿」。右(東)側の建物の背後、北東側に、「有聲軒」や「売茶堂」が位置することになります。ここでも、萬福寺の境内とつながりました。 なぜ、黄檗宗の数多くの塔頭が明治8年に現在地に移転したのか?「明治の初期に陸軍省の火薬貯蔵庫建設用地として、寺地の大半が接収され、多くの塔頭は移転・縮小を余儀なくされた」(資料2)という背景があったのです。現在の地図をご覧いただくと、萬福寺の南には、黄檗公園が広がっています。このあたり一帯がたぶん接収された寺地に相当するのでしょう。余談ですが、黄檗公園プールの北側の道路から萬福寺駐車場/長松院に向かう途中、東側に、「旧陸軍火薬庫の土塁とトンネル」の遺構が保存されています。これで萬福寺南側周辺の塔頭巡りを終わります。萬福寺の東辺を後日訪れています。次回、少しご紹介します。つづく参照資料1) みみづく地蔵尊 :「黄檗宗長岡山 中央寺」2)『最新版フォトガイドマンプクジ』 大本山萬福寺発行 p433) 慧極道明 :「コトバンク」4) 鉄牛道機 :「コトバンク」5) 即非如一 :「コトバンク」6) 黄檗東渡僧宝伝 :「国立国会図書館デジタルコレクション」補遺黄檗山塔頭 聖林院 ホームページ禅宗[黄檗宗]吉祥山 徳蔵院 ホームページ黄檗宗護国山 東光寺 ホームページ【県指定】広寿山福聚寺 :「北九州市」崇福寺 :「ながさき旅ネット」准胝観音 :ウィキペディア准提観音経 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 宇治市 黄檗山萬福寺とその周辺を巡る -1 宇治川岸から萬福寺総門前 へ探訪 宇治市 黄檗山萬福寺とその周辺を巡る -2 萬福寺の放生池と三門ほか へ探訪 宇治市 黄檗山萬福寺とその周辺を巡る -3 萬福寺の北周辺:獅子林院・真光院ほか へ探訪 宇治市 黄檗山萬福寺とその周辺を巡る -4 青少年文化研修道場・慈福院 へ探訪 宇治市 黄檗山萬福寺とその周辺を巡る -5 緑樹院、別峯院 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -1 総門と門前点景 14回のシリーズでご紹介。
2022.04.08
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塔頭「緑樹院」の表門は両側の壁が修復中でした。まずは部分撮影でのご紹介から始めます。 門前に立つと、向かって右側壁面の前に、「南無阿弥陀仏」と刻した笠塔婆様の名号碑が置かれています。禅宗の塔頭の門前でこの名号を見たのはここだけです。隠元禅師の禅が念仏禅を特色とするということと関係があるのでしょうか。不詳です。 門扉の上部に「緑樹院」の扁額が掲げてあり、両側の門柱には、向かって右に「宗目耀乾坤」、左に「祖風振大千」と記された頌が掲げてあります。どちらも「黄檗宗が広く浸透し繁栄しますように」という意味合いを詠んでいるそうです。(資料1)緑樹院は潮音禅師の開基により、延宝2年(1674)に建立された塔頭です。(資料2,3)萬福寺第2代住持の木庵禅師が紫雲院を開基されたのと同時期です。潮音禅師について、調べてみますと、いくつかのことがわかりました。潮音禅師は日本僧で、生国は肥前(佐賀県)、出家得度後、京に上り、江州(滋賀県)瑞石山の永源寺で修行されたそうです。27歳の時に備前に戻り、長崎にて隠元禅師に参じられたとか。だが、28歳で一旦隠元禅師の許から去り永源寺に戻り、34歳の時、黄檗に登り隠元禅師に再び参ずるという経緯があったそうです。38歳の時、木庵禅師に随行し江戸に出て、諸大夫との交わりが始まったといいます。それが契機になるのでしょう。各地で寺の開創に関わられています。木庵禅師は寬文4年(1664)に晋山され、萬福寺の第2代住持です。潮音禅師は1671年、44歳の時に木庵禅師から印可を受けられたと言います。1669年(42歳)に木庵禅師を開山として萬徳山廣済寺を開創。1671年(44歳)に隠元禅師を奉じて慈山小松寺を開山。1682年(55歳)に江戸福聚庵(泰耀寺)開創などの事績があり、また、臨済宗だった宝林寺は黄檗宗に改宗し、潮音禅師が第21代中興開山となられたそうです。(資料3)肥前佐賀の鍋島光茂候の息女(仙姫)が嫁入りし土井大炊頭利重の夫人となられたのですが、寛文12年6月23歳で死去されます(緑樹院殿)。塔頭「緑樹院」の名称はこの夫人に由来するそうです。生前、潮音禅師に帰依されていたことから、「日頃護持されていた観音菩薩とお金が潮音禅師のもとに届けられ」たのが契機となり、潮音禅師は「木庵禅師にお願いして黄檗山中に塔院地をいただくと、夫人の大祥忌(3回忌)に実弟の松平綱茂候(活水居士)が資金を出されて堂宇を建てられました。そこに本尊として観音菩薩を安置し、『緑樹院』の額を掲げて夫人の冥福をお祈りすることに」なったそうです。(資料4)黄檗山萬福寺開創の初期段階で、黄檗山萬福寺の住持に名を列していない潮音禅師が、黄檗山中での塔頭の開山になられたということに関心を抱き、調べてみて経緯が理解できました。 表門の鬼瓦 桃を象った瓦。留蓋 門扉が開いていますので、境内を拝見 正面は庫裡のようです。その手前で参道を左折し、振り返った景色です。 参道から境内地の南を眺めた景色 手前には獅子を象った瓦(留蓋)が置かれています。 境内には、「出世稲荷大明神」が祀ってあります。 この大きな宝篋印塔が目にとまります。基礎の正面には「三界万霊」と刻されています。 傍にこの案内板が設置されていて、「大宝篋印平和塔」と題して説明されています。残念ながら文は判読しがたい状態ですが、題から充分主旨を推測できることでしょう。 お地蔵さまが目に止まりました。 境内でもう一つ目にとまったのがこの石碑です。画像にノイズがでていて残念なのですが、この石碑には興味深い章句が刻まれています。 「人生に結論なし ただ創造の一途あるのみ 意味は発見し得る者にのみ輝く 石丸悟平 」私には判読しがたい文字がありましたので、曖昧さを含む形でネット検索して、章句に出会うことができました。石丸悟平は大阪府出身で、雑誌『人生創造』を刊行し、花園大学客員教授などを務めた宗教思想家だそうです。 豊中市熊野町には顕彰碑が建立されているそうです。(資料5)緑樹院を出る前に、もう1つご紹介しておきましょう。昭和55年(1980)に晋山され、萬福寺第57代住持となった村瀬玄妙禅師はこの緑樹院の住職になられました。そして、1971年に「青少年文化研修道場」を開かれたそうです。(資料6)前回記載したこととリンクしてきました。 緑樹院の表門に引き返します。門の向こうに、「青少年文化研修道場」のビルが見えています。 表門から少し西側に前回最後にご紹介したこの窟門があります。私には門の上部に嵌め込まれた右の文字を判読できません。どう読むのでしょう・・・・。この窟門は閉ざされていましたが、この門扉から境内を眺めると、上掲の大宝篋印平和塔の正面が見えます。 石段の最初の立ち位置には、慈福院の参道と同様に瓦が立てて埋め込まれていることに気づきました。こんなところにリンクがみられておもしろい。 緑樹院の前の道を東に進みます。右の景色は黄檗公園の入口手前です。このフェンスの西面と緑樹院の築地塀との間に、 北方向に回り込む小径があります。この小径を進みます。 築地塀と門が見えます。「別峯院」と記した扁額が見えます。 表門が開いていましたので、門から少し参道を入ったところで、境内を拝見しました。現在はごくシンプルな塔頭です。鉄文禅師を開基として延宝3年(1675)に建立された塔頭ですが、現在地に移転したのは明治8年(1875)だそうです。(資料2)鉄文禅師もまた、萬福寺の住持を継がれてはいない人です。ネット検索で調べてみますと、書道家として知られた日本僧で、九州の柳川藩の武士の子として生まれた人。長崎に来日した隠元禅師の許に参じ、隠元の隠居後は木庵禅師に仕え、黄檗十哲の一人に数えられるようになった禅僧だそうです。「柳川藩主立花家の菩提寺(現、柳川市奥州町)福厳寺(ふくごんじ)の中興開山として名高い高僧です」とのこと。(資料7) 境内から眺めた表門 萬福寺の南周辺を巡り、緑樹院の北側のエリアに塔頭が軒を連ねていることがわかました。つづく参照資料1) 潮音禅師とは :「黄檗宗萬亀山臨川寺」2)『最新版フォトガイドマンプクジ』 大本山萬福寺発行 p433) [潮音禅師物語]略年譜 :「宝林寺」4)[潮音禅師物語]vol.20 塔頭緑樹院を開く :「宝林寺」5) 石丸梧平顕彰碑 銅像モニュント :「とよエンジンhome」6) 村瀬玄妙 :「コトバンク」7) 2015 鉄文道智(書道家)「みやまの人と歩み」より :「千寿の楽しい歴史 」補遺 萬徳山廣済寺 ホームページ泰耀寺 :「東京の霊園.com」宝林寺 ホームページてくてく歴史散歩1・赤阪1丁目~栗ヶ丘町へ :「熊野田小学校」熊野田の人と作品 :「熊野田小学校」福厳寺 :「柳川市」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 宇治市 黄檗山萬福寺とその周辺を巡る -1 宇治川岸から萬福寺総門前 へ探訪 宇治市 黄檗山萬福寺とその周辺を巡る -2 萬福寺の放生池と三門ほか へ探訪 宇治市 黄檗山萬福寺とその周辺を巡る -3 萬福寺の北周辺:獅子林院・真光院ほか へ探訪 宇治市 黄檗山萬福寺とその周辺を巡る -4 青少年文化研修道場・慈福院 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -1 総門と門前点景 14回のシリーズでご紹介。
2022.04.07
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萬福寺の南側を巡るために、再び萬福寺の総門前を通ります。総門前の道路を挟み南西方向には、普茶料理の白雲庵があります。桜の花が満開でした。 白雲庵の門前から萬福寺の総門と築地塀を眺めた景色 龍目井の1つ龍の眼の片方です。白雲庵側は龍の左眼に見立てられることになるのでしょう。 総門前の道を南に進みます。この道は「こまかげの道」と称されています。「五ヶ庄大和田」の十字路に至ります。交差点の北東角にこの道標が設置されています。 北西角にコンビニがあり、その角には古くからの石造道標が立っています。 道標の東面 北面(萬福寺から来たときに見える面)十字路で右折すれば、その先に現在の府道があり、さらに西に位置する旧宇治街道につながります。左、つまり東方向に進めば、少し先で右折する道があり、みむろど(三室戸)への道につながります。 「すぐ おうばく」が道標の南面 南から来ると、北方向への道が「こまかげの道」、黄檗山萬福寺への案内になります。この十字路で左折して、黄檗公園のある東方向に進みます。 道路の南側に見えてくるのが「青少年文化研修道場」です。 「研修道場は禅宗である黄檗宗の教えを広く伝えることを目的とし黄檗山萬福寺の塔頭寺院が禅研修道場として昭和46年に建立されました。」(資料1)次回、ご紹介する塔頭「緑樹院」がこの研修道場を併設されたそうです。(資料2)コロナ禍の影響でしょうか、ひっそりとしていました。 歩道から建物を眺めると、敷地に入る角でこの碑が目に止まりました。「人生に夢を持て 若人よ 開拓者たれ 和田完二 」 (和田完二さんについては補遺をご覧ください。) この石碑のところから、敷地の奥(南)を見ると門が見えます。入口はオープンでしたので、この門を拝見に行きました。 朝鮮、李朝の王陵墓に見られる石人が門の手前、参道の両側に置かれています。 両側の門柱が補修されています。補修の仕方が独特です。宮大工さんの知恵なのでしょう。 門には、「慈福院」と記された扁額が掲げてあります。 門を入ると、すぐに左折する参道です。ふと見ると、参道は土中に瓦を立てて埋め込まれた形です。あまりみかけない形式です。 参道の右側に池が見えます。 ダイナミックな石組みの池です。 勇壮な印象を受ける池です。たぶん庭園が南に広がっているのではないでしょうか。池の向こう側は樹木に遮られて不詳です。 東に向かう参道の突き当たりにお堂が見えます。どこにも掲示がありません。 正面の扉の雲形に開けられた狭間から垣間見て、このお堂が塔所であるとわかりました。慈福院は黄檗山萬福寺の第7代住持悦山禅師を開基として、延宝3年(1675)に建立された塔頭です。ただし、今の慈福院は戦後に現在地に再建されたそうです。(資料2)堂内の正面中央に無縫塔形式の悦山禅師の墓石が祀られています。悦山道宗禅師もまた中国僧で、生国は泉州(福建)の人だそうです。「萬福寺のなかでも能書で、『書悦山』とよばれました。」と言います。(資料3)また、「萬福寺の雄渾で闊達な中国書法は、江戸時代の唐様書法の流行の原動力となりました」(資料3)とのことです。 塔所の左(北)側に平屋建ての家屋があります。研修道場のビルの一部に木造家屋が組み込まれたような形でひっそりと建っていました。外観を眺めただけ。慈福院の建物かどうかは不詳です。 参道を引き返し、門を出て気づいたのがこの石碑です。残念ながら私には判読できません。研修道場の道路に面した入口まで引き返します。 坂道の道路を挟んで北側には白亜の築地塀と既にご紹介の龍興院と同種の門が見えます。ここが塔頭「緑樹院」です。つづく参照資料1) 一般財団法人 青少年文化研修道場 ホームページ2)『最新版フォトガイドマンプクジ』 大本山萬福寺発行 p433) 七言絶句「茶磨山詩」 :「文化遺産オンライン」補遺黄檗宗大本山 萬福寺 ホームページ人物回想(その7) 和田完二さん :「箕鷹会」和田完二 :「但馬の百科事典」布袋図 河村若芝筆 悦山道宗賛 :「文化遺産オンライン」悦山道宗 :「コトバンク」黄檗宗資料集 黄檗宗僧侶名鑑 :「黄檗宗・慧日山永明寺HP」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 宇治市 黄檗山萬福寺とその周辺を巡る -1 宇治川岸から萬福寺総門前 へ探訪 宇治市 黄檗山萬福寺とその周辺を巡る -2 萬福寺の放生池と三門ほか へ探訪 宇治市 黄檗山萬福寺とその周辺を巡る -3 萬福寺の北周辺:獅子林院・真光院ほか へこちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -1 総門と門前点景 14回のシリーズでご紹介。
2022.04.06
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萬福寺の総門前の道路を北方向に進みます。道路に面してすぐ隣りにあるのが、塔頭「紫雲院」の表門です。1月に萬福寺を訪れた時はこの表門を見落としていました。紫雲院は満寿院と同様に木庵禅師を開基とする塔頭で、萬寿院より1年早く、延宝2年(1674)に建立されたそうです。ただし、場所はここではなかったようで、明治8年(1875)現在地に移転したとのこと。(資料1)この紫雲院は萬福寺の境内地の続きにあり、前回最後に載せた萬寿院の南西側に位置します。 萬寿院の表門(山門)傍の築地塀の開口部から紫雲院の庭を拝見することができました。北に向かう道路は紫雲院の先で西方向にカーブして行きます。道路沿いに塔頭が連なっています。「萬福寺細見」でご紹介しています。一番東側に「萬松院」があります。萬松院は元々ここに建立された塔頭です。西方向に「龍興院」「宝蔵院」が続いています。 「宝蔵院」は「鉄眼版一切経版木」で有名。 宝蔵院の西隣りが「宝善院」龍興院、宝蔵院、宝善院は、揃って、明治8年(1875)に現在地に移転しています。(資料1) 宝善院の表門を通り過ぎてから振り返った景色です。道路の北側には塔頭の白い築地塀が連なっています。宝善院の先を道沿いに進めば、府道に出ます。一方、宝善院の敷地の先に北方向への坂道があります。 坂道の東側に「黄檗霊園参道」の道標があります。 少し先に「獅子林院」の寺号標が立ち、急勾配の石段道が見えます。 石段の上には、一風変わった門があります。中央がオープンな通路で両側は腰板の上に花頭窓が付いています。 呵々大笑する布袋様でしょうか。つまり、萬福寺天王殿に安置された弥勒菩薩(布袋)坐像と同種と受けとめました。 中央の上部に「獅子林」の扁額が掲げてあります。 表門から境内を眺めると、前に水槽(?)と蛇口があり、その背後にお堂の正面が見えます。 水槽上に石造弥勒菩薩坐像 風変わりな表門を境内側から眺めた景色向かって右側の扉の上には、「東司 厠 道場」と記された額が掛けてあります。東司(とうす)は禅宗七堂伽藍の一つで、禅院における厠(かわや)・便所の呼称です。京都市内の事例で言えば、東福寺境内の大きな東司の建物が有名です。 左側には石造地蔵菩薩立像が安置されています。このお地蔵さま、「小便地蔵王菩薩」と名付けられています。背後の右側、腰板のところに、「小便地蔵王讚」が掲げてあります。 「六道能化苦海願 王 救難三昧遊 冥陽火焔度清涼 小便一礼 福寿 永無量 南無小便地蔵王菩薩」 さて、この讚の文意はどのように読解すればよいのでしょうか。 大きな石の上に、獅子、龍、蛙、亀などの置物が置かれているのがおもしろい。 この塔頭「獅子林院」は、萬福寺第4代住持の独湛禅師を開基として、延宝6年(1678)ここに建立されました。(資料1) 独湛禅師の生国は興化で、隠元禅師と共に来日され「長崎・興福寺から摂津国・普門寺、山城国・萬福寺と、師の隠元に随従」されてきた中国僧です。(資料2) お堂の右斜め前にこの掲示板が設置されています。独湛禅師は隠元禅師の最後の高弟にあたるそうです。隠元禅師渡来350年の記念(2004年)にこの獅子林院の地に108mの井戸を掘ったところ名水が出たと言います。これを「悟水の水」と称されたとか。この水を飲水その他色々の用途に使って下さいと末尾に記されています。 お堂の左側手前には石造不動明王像が安置され、 その左側には、なぜか羽ばたく鶴像が置かれています。 側面に回り込むと、この石標が建ててあります。 塔所全景お堂の背後に位置する本瓦葺六角堂。萬福寺境内に設けられた隠元禅師の「寿蔵」と同じ形式です。 六角堂の基壇正面には「黄檗第四代獨湛老和尚塔」と刻された石板が建てられています。その左側には石灯籠、石造層塔と二つの墓石が並んでいます。 基壇の左右には、獅子が配されていて共に咆哮しています。 露盤の格狭間に見える獅子らしき浮彫 鬼板にも同様に獅子らしき浮彫が見られます。空想化された獅子でしょうか。 この六角堂・塔場前に立つと、右方向に少し歩んだ場所にこの石造三尊立像が建立されています。 両脇侍は蓮華座上に立つ菩薩像です。この脇侍を普賢菩薩と文珠菩薩、あるいは薬王菩薩と薬上菩薩と考えると、中尊は釈迦如来立像で釈迦三尊形式です。黄檗宗は禅宗ですから中尊を釈迦如来とみることができます。萬福寺の大雄宝殿(本堂)には、釈迦如来坐像を中尊として、迦葉尊者立像と阿難尊者立像を脇侍とする三尊形式で、釈迦如来像が安置されています。一方、向かって左側の菩薩が蓮の茎を手に捧げていらっしゃるので、両脇侍を観音菩薩、勢至菩薩と考えると中尊は阿弥陀如来立像で阿弥陀三尊形式とみることもできます。黄檗禅には、隠元禅師の招来による念仏禅という特色があるそうです。「独湛は、当麻曼荼羅に感動して『日本大和州当麻寺化人織造藕糸西方聖境図説』を著わし、浄土宗に属する義山や忍澂と交流した。」(資料2)とのことですので、阿弥陀三尊形式と考えてもよさそうです。さて、どちらなのでしょう。阿弥陀如来立像のような気がするのですが・・・・・。 さて、境内をもう少し巡りましょう。 お堂の右隣りに建物があります。正面には「般若の面」が掲げてあります。正面右側の柱に、「画匠直入 画堂」と記された木札が掲げてあります。そして、左の柱には「立芍薬坐牡丹歩姿百合花」の木札が掛けてあります。こちらは良く知られたフレーズです。「立てばシャクヤク、坐ればボタン、歩く姿はユリの花」。扁額を私は判読できません。この建物の南西側で、傾斜地の一段低い場所にもう一つの建物が目に止まりました。 ちょっと下って眺めると、「放生」の扁額が正面に掛けてあります。 「佛鶏の金言」と題した案内文が掲示してあります。 獅子林院の境内の北側にこの開口部があります。道路側から境内を眺めた景色です。石段を上らずに、坂道をまっすぐ上がって右折すればこの開口部に至ります。道路を東に少し歩むと、 南に入る道があります。突き当たりには、寺号標と お地蔵さま。 右側に表門があります。「真光院」の扁額が掲げてあります。獅子林院の東隣りにある塔頭です。ここは境内を拝見できません。 門前から眺めた境内の景色真光院は、萬福寺の第8代住持悦峰禅師が正徳元年(1711)に創立された塔頭ですが、明治5年(1872)に現在地に移転したとのこと。(資料1)悦峰禅師もまた、生国が杭州の中国僧です。黄檗山の歴代住持一覧を見ますと、隠元禅師の後、第21代大成禅師までは、途中4人の日本僧を除くと16人の中国僧が住持となられました。第22代以降は日本僧が住持を継承されています。 表門の屋根の棟は組棟で、弧状の瓦を重ねた青海波と菊丸(菊花紋)が組み合わせてあります。降棟には牡丹を彫刻した装飾瓦、留蓋が置かれています。 頭部に厚みがあるわりには、お地蔵さまの容貌は平板な彫刻に留められています。この行き止まりの道の東側にも、家屋があります。一見したところは普通の民家のような印象を受けました。塔頭なのかどうかは不詳です。道路に引き返し、道沿いに坂道を上っていくと黄檗霊園に続いて行きます。この霊園は以前に訪れています。一旦、ここで萬福寺の北側周辺は切り上げて、南側の探訪をつづけることにしました。つづく参照資料1)『最新版フォトガイドマンプクジ』 大本山萬福寺発行 p432) 独湛性瑩 :ウィキペディア補遺黄檗宗大本山 萬福寺 ホームページ寶蔵院 ホームページ宝藏院 文化庁京都へ ホームページ黄檗宗大本山塔頭 宝善院 ホームページ悦峰道章 :「コトバンク」黄檗宗資料集 黄檗宗僧侶名鑑 :「黄檗宗・慧日山永明寺HP」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 宇治市 黄檗山萬福寺とその周辺を巡る -1 宇治川岸から萬福寺総門前 へ探訪 宇治市 黄檗山萬福寺とその周辺を巡る -2 萬福寺の放生池と三門ほか へこちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -1 総門と門前点景 14回のシリーズでご紹介。
2022.04.05
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壇王法林寺境内 昨日(4/3)、岡崎の京都観世会館に出かけていました。曇り空で時折小雨でしたので、満開の桜も心なしか冴えない表情でした。それでも満開の桜気分を満喫することはできました。 冒頭の景色とこの写真は、京阪三条駅のすぐ近くに在る壇王法林寺境内の桜です。本堂の西隣りに保育園があります。川端通~御池大橋~仁王門通~岡崎公園の琵琶湖疏水縁~慶流橋~京都観世会館 というルートを桜を眺めつつ歩きました。桜の点描をご紹介します。 御池大橋傍の琵琶湖疏水と桜。橋から南は暗渠になります。 鴨川の対岸(西岸)の景色 鴨川と琵琶湖疏水の間、堤防上の遊歩道の桜 仁王門通では「頂妙寺」の表門のすぐ左側、塔頭「松林山妙雲院」前の桜が見事です。東大路通を横断し、琵琶湖疏水が西から北に流路をかえる地点まで進みます。 琵琶湖疎水の屈折箇所の対岸に「みやこめっせ、京都伝統産業ミュージアム」があります。 琵琶湖疏水、東方向の景色。赤い橋が慶流橋です。 北への流れに目を転じれば、二条橋が架かり、「岡崎公園ロームシアター京都」の建物が見えます。 みやこめっせの東隣は「国立近代美術館」です。 まずは、慶流橋上まで進みましょう。 琵琶湖疎水の下流側(西方向)の景色 仁王門通の南側に、京都観世会館があります。その西隣りには「有鄰館」があります。建物の屋上の中国風八角堂の屋根が桜越しに見えます。慶流橋まで来ますと、平安神宮の方から列をなして歩いてくる特異な衣裳を着た若者集団の幾組かに出会いました。ダンサーたちの集団。鴨川さくらまつりの一環として行われた「京都さくらよさこい」でパフォーマンスを演じ終わってきた帰路のようでした。 慶流橋の東側歩道に横断します。琵琶湖疎水の上流側の景色 「京都市京セラ美術館」敷地の桜を慶流橋の北詰から少し眺めて、引き返します。 仁王門通に戻り、最後に白川沿いの桜を眺めて、 仁王門通に引き返し、この日の目的地に向かいます。五番仕舞の後の狂言は「伯母ヶ酒」で、能の演目は「鵺(ぬえ)」。「杉浦能公演 春」のチケットを頂いたので、久しぶりに観能することができました。桜点描、ご覧いただきありがとうございます。補遺壇王法林寺 ホームページ聞法山頂妙寺 :「日蓮宗」京都さくらよさこい :「祭の日」京都観世会館 オフィシャルWebサイト藤井斎成会有鄰館 :「京都ミュージアム探訪」能楽師 杉浦豊彦 ホームページ伯母ヶ酒 :「コトバンク」出演者によるお話付き|狂言「伯母ヶ酒」(和泉流) ダイジェスト(2020年/普及公演「横浜狂言堂」より) YouTube演目事典 鵺 :「the 能.com」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2022.04.04
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総門前に立ちますと、正面突き当たりの白い築地塀の前に桜が咲いています。1月に訪れた時と雰囲気が一変。「春風咲万花」(しゅんぷうばんかさく)(資料1)総門が開いていると、三門までの境内地は自由に拝見できますので、放生池周辺と三門前の景色を眺めに入りました。総門を入ると右側(南側)に「放生池」があります。今回は池を反時計回りに巡って、三門前に行くことにしました。 放生池の北西側からの眺め 放生池の西辺に立ち、池越しに三門を正面から眺めて 放生池の北東角方向に目を転じた景色 池傍の桜 放生池を南東方向寄りに眺めた景色 放生池から背後を振り返り、境内の小径と道路に面した築地塀の間にある池と傍の桜を眺めて。 南の方が少し高くなっていて、こちらの小池にせせらぎの水が注がれてきます。 放生池の南西辺からの眺め 放生池の南辺沿いに歩み、南東角を回り込むと、南には塔頭天真院の門が見えます。 桜の木の傍が憩い所になっています。切り株に花々のご接待。いいですね・・・。 桜を満喫いたしましょう。 天真院の山門は、萬福寺の総門と同じ形式です。延宝7年(1679)にこの場所に建立され、了翁禅師の開基です。(資料2)拝観できない塔頭ですが、門前付近は「萬福寺細見」の折にご紹介しています。 桜一木 視点を変えると雰囲気も動きます。 三門の前、放生池の東辺から眺めた景色 1月には閑散としていた萬福寺にも、桜が咲くと、参拝者か観光客かは定かではありませんが、三々五々、三門を通りすぎます。三門を傍で撮るのをやめました。 三門の北側に位置する松隠堂の築地塀と屋根を眺めて。 人を撮らずに、三門と桜を撮りたいと・・・・。 桜の枝を主に、南に天真院の門を眺めて。 総門を入り、参道を真っ直ぐに歩めば、この大きな山内案内図があります。 その傍に、「放生池」の駒札が立っています。 池の北辺から池の東辺と南辺を眺めた景色放生池を反時計回りに一周してきました。 最後に、総門の内側に位置する塔頭萬寿院の山門を眺めて終わりです。こちらも延宝3年(1675)この場所に建てられた塔頭で、第2代住持・木庵禅師の開基です。(資料2)今回は「萬福寺細見」の折に訪れなかった萬福寺の周辺に所在する塔頭巡りです。つづく参照資料1)『禅ごよみ365日』 枡野俊明著 誠文堂新光社 p1032)『最新版フォトガイドマンプクジ』 大本山萬福寺発行 p43補遺黄檗宗大本山 萬福寺 ホームページ放生池 :「コトバンク」現代の生活に根付く隠元禅師の教えと黄檗文化:「九州と諸外国の交流ストーリー集2019」了翁道覚 :ウィキペディア木庵性瑫 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 宇治市 黄檗山萬福寺とその周辺を巡る -1 宇治川岸から萬福寺総門前 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -1 総門と門前点景 14回のシリーズでご紹介。
2022.04.03
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「岡屋の津」碑から始めます。江戸時代の安永9年(1780)に初摺本が出た『都名所図会』には、「岡屋」という項目が載っています。「木幡の西なり。宇治川の東にて民村あり。古の街道筋なり」と説明し、『夫木和歌抄』から読人知らずの一首を取り上げ、鴨長明『方丈記』の一節を紹介しています。(資料1) これは、『宇治川両岸一覧_乾』にこの地が紹介されている箇所です。(資料2)ここの説明文は上記『都名所図会』の説明とほぼ同じ。『都名所図会』には記載が無く、『宇治川両岸一覧_乾』に一項として上がっているのが「黄檗渡口」です。「俗にいんげんのわたしという」と末尾にあります。つまり・・・というところで、冒頭の石碑の傍に立つ案内碑をご紹介します。 現在の地図をご覧いただくと、宇治市五ケ庄の地区に岡屋という地域があります。宇治川に架かる「隠元橋」の東側の地域です。かつては、巨椋池に臨む岡屋の浜であり、鎌倉時代にはこの辺りは近衛家の所領で、別荘が営まれていたそうです。豊臣秀吉が槇島の堤(西岸側)を築いて宇治川の流れを伏見の方向に付け替え、巨椋池とは分離しました。宇治川の川岸となってからも、岡屋の津として物資流通の要衝地の一つになっていたようです。 これは現在の隠元橋。東詰の景色です。現在の橋は西詰に銘板が嵌め込まれています。平成19年7月に竣工した橋です。何と、ここに最初の橋が架けられたのは、昭和24年(1949)4月で木造の橋だったそうです。この案内板を読んで初めて知りました。黄檗渡口=いんげんのわたし=隠元橋というつながりで、隠元とは隠元禅師の名前に由来します。 隠元橋東詰の下流側(北側)の川岸 隠元橋を西に渡り、西詰から東を遠望した景色です。1948年以前はこの辺りは隠元の渡として、渡し船が使われていたということになりますね。 2018年1月に宇治川太閤提跡の現地見学会に参加した折、この説明パネルを見ています。豊臣秀吉が宇治川の流れを強引に付け替えた頃から江戸時代を通じて、西側の槇島堤の高さは巨椋池と分離でき、宇治川の流れを維持できる実用的な高さだったのではないか。現在の西岸の堤防は、槇島堤をベースに堤防が随時補強され、嵩上げされる形で築堤されたものと理解しています。一方、東側は堤防というものはなく、流水と村地の高低差を設ける程度の護岸だけで、港ができていて、岡屋の村とは地続きになっていたのかなと想像しています。隠元橋を引き返します。 東詰から東方向に道路が延びていて、今では自動車の往来がけっこう多い道路になっています。道路の南側は陸上自衛隊宇治駐屯地の敷地で、周囲に桜の木が植えられ、花盛りです。(3月30日時点)道路の北側には、宇治川と併行して南北の道路がこの隠元橋まで続き、隠元橋から南方向は堤防上が道路として使われています。 南北の道路の東側に、これらの史跡碑が建立されています。冒頭の「岡屋の津」碑の隣りに、 「黄檗開山隠元禅師登岸之地」と刻された記念碑が2008年3月に建立されました。 記念碑の前に、説明碑が萬福寺により設置されています。「万治2年(1659)、将軍・家綱公から寺領を賜ることとなった隠元禅師が、新寺の候補地探しのため船で宇治川を溯られこの付近に来られた際、東方の山(妙高峰)裾からニ羽の鶴が舞い立つのを見られ、縁起良しとして下船され、萬福寺の建立地を決定されたとのことです。 建設予定地の風景は、渡日直前まで住持をされていた中国福建省・黄檗山とよく似、また日本に滞留しても故郷を忘れないようにとの思いから、新寺の名称を同名の黄檗山萬福寺と名付けられました。 この石碑は、禅師の偉業を称えるため、禅師出身地から石材を取り寄せ、中国古来の伝統形式である亀趺(きふ)の形に仕上げ製作したものです。 黄檗宗大本山黄檗山萬福寺 」(転記) 石碑は亀の形をした台座の上に立てられています。既にご紹介していますが、萬福寺の境内にも亀趺の形式による石碑が建立されています。 石碑の上部にも注目して下さい。正面から眺めた龍が彫像されています。 側面へ 裏面へ この記念碑の建立には、日本各地の華僑総会や同郷会などに集う人々が数多く協力されたことが背面からわかります。隠元禅師登岸の地から、東への道を歩みましょう。 少し東に進めば、道の北側に「許波多神社」の参道が見えます。江戸時代17世紀にはここに神社はありません。この許波多神社は木幡山の山中にあり、ここにはお旅所があったそうです。明治9年(1876)10月、この黄檗の地に旧陸軍が火薬庫の増設をするにあたり、神社を東方の地からここに遷座させたのです。(資料1) 道沿いに東に進めば、「五ケ庄寺界道」の道標が設置されています。「寺界道遺跡は、宇治市五ヶ庄、野添、大林一帯に広がる縄文時代から奈良時代にかけて展開する集落遺跡です。」(資料3)以前にご紹介したことがあります。当時はそんなことを考える人はたぶんいなかったでしょうね。 そして、四つ辻に至ります。南北方向の道は旧宇治街道です。左折すれば、北の木幡を経て六地蔵、伏見へ。 右折すれば莵道を経て宇治に。 四つ辻の南東側に3つの建造物が見えます。右には「五ケ庄西浦広徳地蔵尊」の小堂、中央には「宇治村道路元標」、左には道標。正面に「西」という字が刻されています。 東に進めば、JR奈良線の踏切です。その先に、陸橋が設けられた道路、府道7号線が北西から南東に向けて通っています。 この踏切は、「黄檗街道」と称されています。宇治川の東岸から進んできた道は黄檗山萬福寺への道です。府道を横断し、そのまま道沿いに坂道を上っていけば、塔頭「宝蔵院」ほか建ち並ぶ塔頭の門前を通り過ぎて、萬福寺の総門に至ります。一方、府道の東側歩道に右折して数十m歩むと、東へ突き抜ける道があります。 萬福寺側には、案内板にこの道の道路標示が記されていますが、府道側には表示があったかどうか意識していませんでした。なかったような・・・曖昧です。道路の突き当たりに、萬福寺の築地塀が見えます。 T字路の突き当たりの斜め右側に萬福寺の総門が見え、 南方向の築地塀越しに桜が咲き誇っていました。 1月時点の萬福寺細見の時とは、雰囲気が様変わりしてきました。明日、4月3日には、黄檗開山・宗祖隠元禅師祥当忌である「開山祥忌」が執り行われます。今年は隠元禅師の350年大遠忌にあたります。昨年来幾度も黄檗山周辺で見てきた幟に該当する日です。(資料4)ホームページをみますと、コロナ禍の影響で、当日の法要は萬福寺関係僧侶のみで執り行うという決定がされたそうです。つづく参照資料1)『都名所図会 下巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p103、補注42(p297)2) 宇治川両岸一覧 2巻. 1 :「国立国会図書館デジタルコレクション」3) 寺界道遺跡について :「京都平安文化財」4) 隠元禅師350年大遠諱 :「萬福寺」補遺宇治川 角川日本地名大辞典 :「JLogos」岡屋津(古代~中世) 角川日本地名大辞典 :「JLogos」宇治村道路元標 :「フィールド・ミュージアム京都」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -1 総門と門前点景 14回のシリーズでご紹介。探訪 京都府宇治市 太閤堤跡発掘調査現地説明会と周辺散策 -1 2回のシリーズでご紹介。
2022.04.02
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平成知新館は、平成25年(2013)8月に竣工し、平成26年(2014)9月に開館しました。「設計は、ニューヨーク近代美術館 新館、東京国立博物館 法隆寺宝物館、豊田市美術館などを手がけた世界的建築家、谷口吉生氏です。」(京博 ホームページより)平成知新館は南面する形で、東西方向に長い建物です。序でに、京博の南門も谷口吉生氏の設計によります。こちらが先で2007年です。 平成知新館の外観を様々な視点からご紹介するとともに、館内からの眺めを可能な範囲でご紹介します。(今まで部分的には幾度も建物の景色を記事に載せてはいます。) 平成知新館の正面入口前で右折して、右側の池の南東隅から撮った景色 北側に目を転じますと、平成知新館の中央のフロアーから東側に博物館の管理並びに研究エリアの建物が広がっています。 池を回り込み、入口付近の東側面を眺めた景色です。 南西方向に目を転じるとこんな広がりとなっています。 池の北側に、テラスがあり、休憩スペースになっています。 東エリアの1階部分は庭に向かって全面ガラス・ウォールになっており、通路と来訪者の休憩スペースを兼ねています。 平成知新館内からテラス側を眺めた景色 この四角形の池ですが、 池中に金属製の円柱形の環がいくつか埋め込まれています。このエリアが発掘調査されたその成果を記録に残す円柱跡の位置を示しています。入口の近くに案内板が設置されていますので、来館されたらご確認ください。豊臣秀吉がかつて建立した方広寺の歴史にリンクしていきます。 入口前で西方向を眺めます。 建物の前面、西側には長方形の池が建物のほぼ西端まで広がっています。 レンガ造りの正門が柱越しに見え、京都タワーも遠望できます。 西側の1階通路には、綴プロジェクトの高精細度複製屏風が展示されていて、撮影可能です。ちょっと拡大解釈してこの通路の景色も撮りました。たぶん、許容範囲かと・・・。西側の通路も外に向かってはガラス・ウォールです。 建物内部から、庭の東西方向を眺めた景色です。入口前から、西方向に通路を歩みます。 平成知新館の南西側、建物の傍から眺めた景色 長方形の池の前面には、少し低めにした石垣が延びています。この石垣を積まれた位置が確か方広寺跡の発掘調査とリンクしていたはずです。 建物の西側エリアの前面の西端には石段が設けてあります。 平成知新館の西側面です。この西側1階の館内にレストランがあります。 平成知新館の北面は、現在の豊国神社の築地塀が敷地境界になっています。 レストランのガラス・ウォールから眺められるこの庭エリアの北西隅に「馬町十三重塔」が移設されて保存されています。この石塔は以前にご紹介しています。 この庭の外周通路を石段のところまで引き返します。 西の庭側から、噴水の広場を挟み、平成知新館の西側を眺めた景色 前回ご紹介した、紅白の梅が咲き石造地蔵菩薩坐像の安置された場所から戻る時に眺めた平成知新館 ツツジの咲く生垣越しにみる平成知新館。生垣は噴水の広場エリアと西の庭との境界にもなっています。 ロダン作「考える人」の左側(南)から眺めた平成知新館の景色 石造物のことで再確認したいことがあり、最後に少時、東の庭にも立ち寄りました。その後、出口に向かう折に明治古都館の建物の南西隅から眺めた平成知新館の景色です。平成知新館の詳しいフロアマップは京博のホームページからPDF版をダウンロードすることができます。 これはホームページに掲載の平成知新館フロアマップの引用です。この図は平成知新館の西側エリアを示しています。建物内部を少しはイメージしやすくなるでしょう。これで平成知新館のご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料京都国立博物館 ホームページ補遺谷口吉生 :ウィキペディア谷口吉郎・吉生記念 金沢建築館 ホームページ谷口吉生 :「建築系検索エンジン KenKen!」谷口建築めぐり~金沢が育んだ世界的建築家谷口吉郎・吉生親子の建築~(金沢アーキテクチャーツーリズムモデルコースNo.2) :「金沢旅物語」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都国立博物館 -1 特集展示、名品ギャラリー & 噴水広場・西の庭 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都国立博物館 建物と庭 -1 平成知新館・明治古都館・噴水のあるエリア探訪 京都国立博物館 建物と庭 -2 馬町十三重石塔・正門・西の庭探訪 方広寺と豊国神社、そして京博の庭から
2022.03.21
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3/9、京都国立博物館に出かけて来ました。 恒例の特集展示「雛まつりと人形」を今年も見たいと思ったからです。特別展ではなく平常展の範疇です。平日の昼前に入館したこともあり博物館への来訪者は少なかった時間帯です。お陰で平成知新館前の庭全体を無人の状態で撮ることができました。館内展示品は撮影禁止ですので、その点は残念ですが仕方ありません。 南門の入口を入ると、右手前方に「明治古都館」が見えます。来館者を入れずに建物全体を撮るという機会がなかなかありません。今回はチャンスでした。 西の庭 南西方向の景色 噴水のある広場を西に眺めた景色 噴水の手前に設置されたロダン作「考える人」の背面、噴水、赤レンガの正門です。 平成知新館に向かいます。いつもの通り3階まで上り、名品ギャラリーを順番に見ながら下って行きました。ここでは、最初に特集展示「雛まつりと人形」をご紹介します。1F-2での展示です。展示は明日、3/21まで。まとめるのが遅くなってしまいました。 展示室入口で入手した「京人形を楽しむための鑑賞ガイド」リーフレット。2つ折のA4サイズです。この表紙の雛人形は「古式享保雛(元禄雛)」(当館蔵)です。 これは鑑賞ガイドからの引用ですが、冒頭の七条通に面して掲示されたPRパネルに使われています。江戸時代、1844年頃の「御殿飾り雛」(寄贈・当館蔵)です。 今回、「御殿飾り雛」はもう一式展示されていました。こちらも1843年(天保14)頃の作品です。出品一覧には所蔵先が空白ですので、個人蔵の展示なのでしょう。おくどさん(台所)や調理道具が飾りに加えられています。上方、つまり関西地方では、この「御殿飾り」が主流で、雛段は二段程度だったそうです。(鑑賞ガイドより)雛人形としては、上掲以外に、立雛(銀杏頭、次郎左右衛門頭)、室町雛、寛永雛、享保雛、次郎左衛門雛、享保雛風古今雛、古今雛、有職立雛(狩衣姿)が展示されていました。(出品一覧より) これは、「見立石橋」(当館蔵)と名付けられた「御所人形」です。御所人形は16躯展示されていました。御所人形は1躯ごとに名前がついています。御所人形は表情としぐさがかわいい。豆御所人形が合計25躯展示されています。 こちらは「賀茂人形」で「雀踊り」(当館蔵)と称されます。他に賀茂人形5躯が展示されています。さらに衣装人形が2躯展示されていました。雛人形の付属品や屏風なども出ていました。さて、平常展示の名品ギャラリーの展示から、覚書を兼ねて印象深かったものをご紹介します。3F-2 考古:「特別公開 四国の弥生土器と弥生・古墳時代の生産-辰砂と鉄ー」の展示を見ることができました。2F-1 絵巻:「地蔵信仰」の絵巻として、矢田寺と壬生寺の本尊として篤く信仰されるそれぞれの地蔵の縁起絵巻が展示されていました。一度見て見たいと思っていた縁起絵巻なのでラッキーでした。2F-3 中世絵画:「天神のすがた」として、束帯天神像と渡唐天神像が展示されていました。渡唐天神像を以前に数回見たことがありますが、ズラリと並ぶと対比して眺められるおもしろさがありました。2F-4 近世絵画:長沢芦雪筆「月下桜図屏風」(2曲1隻)を見ることができました。芦雪は興味を持っている絵師の一人です。これもラッキー。1F-1 彫刻:「四天王と毘沙門天」のテーマで大小様々の毘沙門天像を楽しめました。図像学的な形式は同じでも、甲冑の細部の意匠や腕や手の動きの違い、足下の台座、邪鬼の彫刻の相違などがおもしろい。各展示室を出た後、西の庭と噴水広場を少し散策することに。 紅白の梅が咲いていました。私の印象では、3/9時点で4,5分咲きと感じました。今頃は満開かもしれません。 最後は、私的恒例の定点撮影的に「考える人」へ・・・・。 来館者はあっても、この庭周辺に人が居ないという絶好の機会になりました。平成知新館自体をこのときとばかりに撮ってみました。次はそのご紹介に移ります。つづく参照資料*「京人形を楽しむためのガイド 雛まつりと人形」 京都国立博物館*「特集展示 雛まつりと人形 出品一覧」* 京都国立博物館だより 2022年1・2・3月号補遺京都国立博物館 ホームページ享保雛 吉徳これくしょん :「吉徳大光」次郎左衛門雛 :「文化遺産オンライン」御所人形 :「文化遺産オンライン」御所人形について :「伊東庄五郎 御所人形の世界」賀茂人形 :「文化遺産オンライン」木目込人形の歴史 :「真多呂人形」賀茂人形 :「さがの人形の家」賀茂人形 :「コトバンク」人形辞典 ホームページ ひな祭の歴史 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2022.03.20
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酒解神社から再び山頂を目指します。登山道図でもあと少しということがわかります。 「天王山頂上 0.1km」の道標が設置されています。 さらに登ると分岐点があり、道路標識が設置されていて、わかりやすい。矢印は登山道図の黄色の道へ進む方向を意味していることになります。あとわすか。山頂をめざす途中で道標の地点を振り返った景色 山頂部に到ると第6の「秀吉の道」陶板画がまず目にとまります。 絵に描かれているのは秀吉と利休です。 テーマは「秀吉の『天下人への道』はここからはじまった」です。余談ですが、JR山崎駅の駅斜め前方にある禅刹妙喜庵に、千利休が創作した「待庵」という茶室(国宝)があり有名です。この待庵は、「天正10(1582)年、秀吉が利休に命じて山崎城内に造らせた茶室であるとも伝えられるが確証はない」(資料1)「待庵は書院の南に接続して建っているが、接続の不自然さなどから、移築されたと推察される」(資料1)というところがあるようです。 陶板画の周辺 時計回りに目を少し転じますと掲示板のようなものが見えます。 近くまで行くと「天王山歴史マップ」が掲示されています・ さらに時計回りに目を転じていきます。この平らな広がりの中で前方が少し高くなっています。 青色の幟が立つていますが、左側の木の先に 標高を示す木標が立っています。ここが天王山の山頂です。 木標の傍に、「天下分け目の天王山」の幟が立ててあります。幟の上端に見えるのは、明智光秀の「桔梗紋」と羽柴秀吉が馬印に使った千成瓢箪に通じる意匠のようです。(資料2,3) 「山崎城跡」案内板も設置してあります。この広がりが山崎城跡なのです。南北朝時代以降、大山崎周辺が戦場になると、天王山に城が築かれたそうです。 現在の山崎城跡は、天正10年(1582)6月、山崎の合戦で勝利した羽柴秀吉が、翌7月に山崎城を築き,大山崎を城下町として保護した時の城跡になります。 天王山歴史マップの左側に曲輪に下る道があります。 ここは一段低い曲輪の跡のようです。けっこうな広さがあります。 ここからの展望 この曲輪の一隅に井戸があります。 駒札によれば、30年ほど前には深さ5mほどだったようですが、円形石積井戸と伝えられているそうです。雨水を溜めて利用していたのではないかと言います。 井戸枠改修を示す札。平成26年に改修されています。 陶板画を遠望した後、下山しました。これで終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1)『お茶人の友 [必携]千利休事典』」 世界文化社 2) 【家紋】”是非に及ばず” と言わしめた明智光秀の家紋「水色桔梗」は珍しいカラー紋だった! :「戦国ヒストリー」3) ここが秀吉の馬印・千成びょうたん発祥の地!それは信長との秘密の合図 :「Masayan」補遺天王山山頂 山崎城跡 :「大山崎町観光サイト」山崎城 :ウィキペディア【連載:おはかもん】炎の中で花開いた桔梗は、盛りわずかに散りゆく ? 明智光秀 :「いいお墓」馬印 :ウィキペディア戦国武将の旗印・馬印(馬標) :「刀剣ワールド」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&登る 京都府 天王山と周辺 -1 駅前~アサヒビール大山崎山荘美術館付近 へ探訪&登る 京都府 天王山と周辺 -2 遠回りして:大念寺、宝積寺(1) へ探訪&登る 京都府 天王山と周辺 -3 遠回りして:宝積寺(2) へ探訪&登る 京都府 天王山と周辺 -4 宝積寺裏の登山口~旗立松展望台 へ探訪&登る 京都府 天王山と周辺 -5 十七士の墓、酒解神社 へ
2022.03.20
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この登山道図から始めます。旗立松展望台、第3・第4の「秀吉の道」陶板画の所からさらに坂道を登ると、道が分岐し、左の道は「十七士の墓」で山頂へは近道という案内が出ています。勿論、近道をとります。 最初に目にとまったのはこの石標です。「十七士没後百二十年祭記念碑」と刻されていて、墓所の側面に建てられています。 「禁門の変と大山崎(天王山の十七烈士)」と題する説明板が設置されています。 幕末の1863年、公武合体派の策略で、「八月十六日の変」が起こります。この結果、長州藩寄りの七卿が追放され長州に、「七卿落ち」と称される事態です。失脚した長州藩は再起を期す立場になります。1864年6月に池田屋事件が発生。これに憤激した長州藩の急進派が中心となり、7月に藩兵を率いて攻め上り、禁門の変(あるいは蛤御門の変とも)が勃発します。しかし長州藩は敗退し、追われる立場になります。久留米水天宮宮司の真木和泉守保臣は主戦派の一人でしたが、開戦に出遅れ、上京軍の責任者として敗残兵をまとめて大山崎に引き上げ、兵を国許に帰還させます。一方、真木は最後に残った16名とともに天王山山中に立て籠もり、郡山藩兵・新撰組と一戦を交えた後、山中の小屋で爆死を遂げたと言います。「十七士の墓」は真木を筆頭とした勤王17烈士を祀る墓所として建立されたものです。 右側の百五十年祭記念碑 墓所の中央には、周囲を正面の石扉と石柵で囲まれた中に、上部に「烈士墓表」、下部に氏名を列挙して刻した墓碑が建立されています。 墓表の外周には、左右に各5名、背後に7名の墓標が並んでいます。「墓表」背後の7名の墓標の中央に「真木和泉守平保臣之墓」と刻した墓標が建立されています。この墓所を通り抜け近道を進むと、 覆い屋の中に、3つの小社が並んでいます。「三社宮」です。向かって右から 天照大神 月読大神 蛭子神道沿いに進むと、 第5の「秀吉の道」陶板画が設置されています。山頂側から撮りました。 テーマは「明智光秀の最後 ◆古い常識人の敗北」です。 道沿いに、石灯籠、刻字が判読できない石碑や石柱が立っています。 その先に見えたのが「酒解神社」の社殿です。 拝所から見た社殿の正面 大棟の獅子口 正式には「自玉手祭来酒解神社」と称し「たまてよりまつりきたるさかとけじんじゃ」と読むそうです。「邪気を祓う神社」と記されています。主祭神は大山祗神(別名 酒解神)。「酒解神は辟邪神(へきじゃのかみ)(塞の神:サイノカミ) 辟邪は虎、獅子、麒麟、羊、象などの形をとり、それらは一般に邪悪を避ける想像上の動物 祓いの神 山を司る神」 (掲示案内文転記)相殿神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)(別名 午頭天王 ごずてんのう) 防疫神素戔嗚尊他九柱が祀られているそうです。「相殿神スサノオノミコトの名から江戸末期まで、天王社(山崎天王社、山崎八王子社、牛頭天王社、八王子天王社 等)と呼ばれていた。 天王山はあこの神社から名前を取った。」(掲示案内文転記)平安時代の延喜式神名帳に明神大社であることが記され、旧名を山崎社と称し、養老元年(717)建立の棟札があったと言います。離宮八幡宮の勢力が強大になったことで、この山上に遷座したという経緯があるそうです。(駒札より)ちょっと興味深かったのは、本殿の前の建物です。 建物の構造がよくわかるところがおもしろい。 本殿に向かって右側面には、本殿の側面に面する形でこの小社が祀ってあります。傍に、「後見社 大己貴命(オオナムチノミコト)」の木札が立っています。後見社という表記を私は初めて見た気がします。(後見という言葉は知っていますが・・・) この境内地には、「嚴島社 市杵島姫命」の木札を立てた小社もあります。市杵島姫命は宗像三神の一つです。酒解神社の境内地を通り抜けて、山頂をめざします。つづく補遺国が大きく分かれた文久3年。「八月十八日の政変」で何が起きなかったか:「warakuweb」29.七卿落ち インターネット歴史館 :「高槻市」池田屋事件 :「コトバンク」禁門の変 :「コトバンク」真木保臣 :ウィキペディア真木和泉 :「コトバンク」長州征伐 :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&登る 京都府 天王山と周辺 -1 駅前~アサヒビール大山崎山荘美術館付近 へ探訪&登る 京都府 天王山と周辺 -2 遠回りして:大念寺、宝積寺(1) へ探訪&登る 京都府 天王山と周辺 -3 遠回りして:宝積寺(2) へ探訪&登る 京都府 天王山と周辺 -4 宝積寺裏の登山口~旗立松展望台 へ探訪&登る 京都府 天王山と周辺 -6 天王山山頂(山崎城跡)へ
2022.03.19
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宝積寺の本堂前から弁天池の前を通り過ぎ境内端まで行きますと、最初にこの道標が目にとまりました。「十七士埋首地」(首ではなくて骨かも・・・)まで7丁と下部に刻されています。 その傍にこの掲示板があります。この先が宝積寺境内から天王山山頂への登山口でした。 登山道に入ると、少し先に「天王山総合案内図」の登山道図で言えば、黄色い道からピンク色の道に変わる分岐点を通過します。この分岐点は一方が山頂へ、他方が大山崎山荘美術館前に向かう箇所です。つまり、このシリーズの第1回にリンクすることになります。 登山道を進むと、「大山崎町観光案内図」が設置されています。 傍に反り橋があります。 道は右折し、坂道を登ります。 少し先で振り返ると、こんな景色です。 「天王山山頂 小倉神社柳谷 方面」と記された道標 竹薮の間から見下ろした眺望 まず「青木葉谷広場」の木標が入口に立つ場所に至ります。上掲の総合案内図には「三川合流展望広場」と表記されています。 広場の反対側に2番目の「秀吉の道」陶板画が設置されています。 ここには、堺屋太一作「秀吉の中国大返し」を読む事ができます。 入口を入り、広場を左に進むと、広場の端は展望によい位置になります。柵には「青木葉谷展望広場」の表示が出ていますが、ここが「三川合流展望広場」です。 ズームアップして大山崎を撮ってみました。三川の合流が見えます。 対岸に見える高層ビル 坂道を登ります。 第2の「秀吉の道」陶板画から先の登山道図 坂道をさらに登ると、分岐点に至ります。道標によれば、宝積寺からは500mほど、JR山崎駅には1.1kmの地点です。 もう一つの登山道は、観音寺(山崎聖天)に降る道で、こちらもここから500mの距離。分岐点から少し登ったところに、 「旗立松展望台」があります。 ここでもズームアップして撮ると、こんな景色が広がっています。 この展望台も「乙訓景観10景」の一つです。 展望台傍の松の木の横に、駒札「旗立松(天正山崎合戦の史跡」が設置されています。文字が読みづらくなっていますので説明文を転記します。「天正10年6月2日、洛中本能寺に宿泊していた織田信長公は、家臣である明智光秀の手によって暗殺された。信長死去の知らせは備中高松城(現岡山県)を攻略していた羽柴秀吉の元にも届き、秀吉は急ぎ毛利氏(城主清水宗治)と和議を結び京都へと向かった。一方明智光秀は秀吉の帰洛に撓え御坊塚(下植野)に本陣を敷き、6月13日夕刻天下分け目の天王山の戦い(山崎合戦)の火ぶたは切っておとされた。 羽柴秀吉は天王山へ駈け登り、味方の士気を高めるために松の樹上高く軍旗を掲げた。これを見た羽柴軍は一気に敵陣内に攻め入り明智軍はその結果防戦一方になり総くずれになってしまった。これによって光秀は僅かの手勢を従えて近江へと落ちていくのであった。 その初代と伝えられる松も明治中頃まで木の姿をとどめていたが朽ちてしまい、その後3回の植樹をへた昭和63年、再び枯れたため、国民体育大会を機に五代目の旗立松を植樹し今日に至っている。 平成元年3月 大山崎町文化協会 」 「山崎の合戦」についての案内板も設置されています。 展望台の先に「酒解神社」と記す石造扁額をが掲げた大きな石鳥居が見えます。 石鳥居をくぐると、第3、第4の「秀吉の道」陶板画が並べて設置されています。 「天下分け目の天王山 ◆勝負は川沿いで決まった 」もう一方は 「頼みの諸将来たらず ◆明智光秀の誤算」です。これら陶板画を眺めつつ、坂道を登ります。この先にも分岐点があります。つづく補遺「天下分け目の天王山」ハイキングコース :「大山崎町観光サイト」山崎合戦の地を歩くコース :「大山崎町観光サイト」「境野一号墳」と「光秀本陣跡」 :「山崎観光案内所 山崎私的観光案内」明智光秀本陣跡(境野1号墳) :「歴史の場所&地図」恵解山古墳(明智光秀本陣跡) :「歴史の場所&地図」御坊塚陣所(京都府乙訓郡大山崎町) :「滋賀県の城」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&登る 京都府 天王山と周辺 -1 駅前~アサヒビール大山崎山荘美術館付近 へ探訪&登る 京都府 天王山と周辺 -2 遠回りして:大念寺、宝積寺(1) へ探訪&登る 京都府 天王山と周辺 -3 遠回りして:宝積寺(2) へ探訪&登る 京都府 天王山と周辺 -5 十七士の墓、酒解神社 へ探訪&登る 京都府 天王山と周辺 -6 天王山山頂(山崎城跡)へ
2022.03.18
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山門(仁王門)から真っ直ぐの参道の石段を上ると、正面に本堂が見えます。 石段を上がった境内地の右側に立つ石灯籠 石灯籠の中台と火袋には分厚い浮彫が施されています。それぞれの形を何と呼ぶのか知識がありません。一つは小槌のようです。おもしろい彫り物です。 石灯籠の右側には手水舎。左に石造の亀が置かれ、手水の注ぎ口が亀の口なのでしょう。 本堂の正面には山号「天王山」の扁額が掛けてあります。 本堂の向拝の左側に駒札が立っています。一般には「宝寺」として知られ、寺伝によれば奈良時代に聖武天皇の勅願寺として僧行基が開創したと伝わり、今は真言宗智山派のお寺です。この大山崎町では最も古い歴史のあるお寺だそうです。山崎合戦の折には、羽柴秀吉が一時この寺を陣所とし、合戦後もこの寺を山崎城の一部として利用したとの伝えがあるそうです。(駒札より)堂内に提灯が吊されています。本尊は十一面観音立像です。 向拝の頭貫上の蟇股は獅子が丸彫り・透かし彫りで装飾されています。その下には鐘が吊り下げてあります。 木鼻には簡略な象が造形してあり、象の頭頂が組物の大斗を支えています。 大棟 降棟 稚児棟 稚児棟 本堂の屋根の鬼たちです。 本堂前の石灯籠竿の右側面の陰刻から天明二年の建立とわかります。 本堂に向かって斜め右前方向に閻魔大王を祀る「閻魔堂」があります。上掲駒札に記載の閻魔大王坐像、木造司録坐像、木造司命坐像、倶生神坐像、闇黒童子坐像はこのお堂に祀られています。重要文化財に指定されています。(資料1,2)司命は閻魔大王の前で、罪状を読み上げ、司録は判決文を記録する役割を担う書記官です。(資料2)倶生神は「天部に属し、人の生まれるとともに従って、その人の善悪の行為を閻魔王に報告するという。また閻魔王の持ち物である人頭幡に混じ、また地獄の獄卒と混じる。」(資料3)と説明されています。闇黒童子は調べてみた範囲では不詳。ウィキペディアの「宝積寺」に記載される図像学的視点での説明は興味深いところです。 本堂にむかって右側には少し離れて池があります。池の中島へと「福智橋」が架かり、中島には 「弁財天社」が祀ってあります。池は「弁天池」ということになります。 弁天池の左畔に「水掛不動」 水掛不動の左側に石標が建てられていて、本堂と弁天池との間の奥に鳥居と小社が見えます。石標には、「豊太閤 眞木和泉守 木像」と刻されています。 この小社に木像が安置され祀られているということでしょう。 本堂の左側に向かいます。 本堂の外縁の中程に、「賓頭盧尊者坐像」が安置されています。 風雨にさらされた尊者の相貌に惹かれるところがあります。 奥にあるのは、「石造五重塔(鎌倉時代)」(大山崎町指定文化財)との案内木標が傍に設けてあります。後の時代に九重塔に改造されたそうです。聖武天皇の供養塔だと言います。(資料1) 初層の軸部は四方仏が浮彫にされています。本堂前から左方向に歩むと、 大黒天神と記された幟が立ちならび、唐破風屋根の拝所が設けられたお堂があります。「小槌宮」です。「聖武天皇が夢で竜神から授けられたという『打出』と『小槌』を祀っております」(資料4)とのこと。そこから小槌宮という名が由来するようです。『一寸法師』の話には「打ち出の小槌」が登場します。「振ればどんな願いごとでもかなうという小槌」(『日本語大辞典』講談社)です。ところが、ここでは、『打出』と『小槌』という形で並列の記述になっています。「打出」って何でしょう。祀ってあるものを拝見してはいませんので、この言葉をネットで検索してみました。「うちいで」と読んで、「金、銀、銅などをたたいて箔に延ばすこと。」という意味がありますので、箔に伸ばした金、銀、洞などをも意味している可能性があります。また、「うちいで」「うちで」と読み、「うちいで(打出)の衣(きぬ)〔満佐須計装束抄(1184)〕」を意味するとも。さて、どちらでしょうか。私は、後者の「打出の衣」の意味で使われている可能性が高いのではという気がします。平安時代には褒賞として衣や生地を与えるということが行われていたようですし、それ以前の時代を想像すると、貴重な衣と小槌という組み合わせがなじみやすいなと勝手に想像を巡らしました。(資料5) 唐破風屋根の拝所前に進みます。 頭貫上の蟇股には「宝船」が彫刻されています。 正面に「小槌宮」の扁額が掲げてあり、堂内には数多くの大黒天と墨書した赤提灯が吊りさげてあります。 拝所から正面奧の様子は十分には分かりません。手前の両脇の外陣右には宝船が飾ってあり、左には大黒天像が安置され、小さな大黒天像が幾つも奉納されています。宝積寺では、この小槌宮に訪れる参拝者が一番多いのかもしれません。宝積寺の寺院案内で最初に掲載されているのもこの小槌宮の建物ですから。(資料4) 本堂の背後だったと記憶するのですが、もう一つ、鳥居を建て、石柵で周囲を囲んだ瑞垣の内に小社が祀ってあります。 調べた範囲では何が祀られているのかは不詳です。 この小社の左斜め前に、役行者像が安置されています。 柔和な相貌の役行者像です。こういう行者像もいいですね。この石像のことを考慮すると、役行者を祀る小社かも・・・・。 宝積寺の最後に、この木柵で囲まれた石にふれておきましょう。通称「出世石」です。たしか本堂の左斜め前あたりです。説明の駒札などはなかったように思いますが、見落としていたかもしれません。「山崎の戦いの際、羽柴秀吉がこの石に腰を下ろして采配を振るったという。これ以降秀吉が出世して関白、天下人になったことからこの石は『出世石』と呼ばれるようになった」そうです。(資料1)これで宝積寺のご紹介を終わります。弁天池と閻魔堂の間の境内を端まで歩いて行き、左折すると、そこから先に、天王山山頂への登り口がありました。つづく参照資料1) 宝積寺 :ウィキペディア2) 閻魔王とその従者たち 博物館ディクショナリー :「京都国立博物館」3)『新・佛教辞典 増補』 中村元監修 誠信書房 4) 天王山宝積寺 ホームページ5) 打出 :「コトバンク」補遺「打ち出の小槌」とは? どんな意味や効果があるの? :「日本文化研究ブログ」閻魔王 :「コトバンク」地獄、三途の川、閻魔大王、独自に進化を遂げた日本の風習 :「AERAdot.」大黒天 :「コトバンク」天下分け目の天王山 :「大山崎町」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&登る 京都府 天王山と周辺 -1 駅前~アサヒビール大山崎山荘美術館付近 へ探訪&登る 京都府 天王山と周辺 -2 遠回りして:大念寺、宝積寺(1) へ探訪&登る 京都府 天王山と周辺 -4 宝積寺裏の登山口~旗立松展望台 へ探訪&登る 京都府 天王山と周辺 -5 十七士の墓、酒解神社 へ探訪&登る 京都府 天王山と周辺 -6 天王山山頂(山崎城跡)へ
2022.03.16
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前回の部分図Aから始めます。大山崎山荘美術館の前から、この図にある坂道を上がった後のピンク色の登山道には進まず、一旦最初の分岐点まで下り、左の坂道を上りました。 左の坂道を上り始めると、この案内板「この付近で見られるおもな野鳥」が設置されています。 坂道の先、右側に少し急な勾配の石段がぐんと迫り上がっています。お寺の山門が上に見えます。勿論、石段を上ります。 「勅願所見佛山大念寺」と刻された石標が立っています。石段を上りきると、山門は改修された結果と推測しますが、鉄製門扉が従来の門に取り付けてあります。宗紋が中央部に見えます。 山門を入ると正面に本堂があります。 本堂の正面、今風の引き戸の上部に扁額が掲げてあり、本堂の右側に庫裡があります。 本堂屋根の降棟の先端は獅子口で、綾筋の下に宗紋が浮彫にされているようです。 庫裡の手前、参道脇にこの駒札が立っています。前回ご紹介した「天王山総合案内図」には、「1555(弘治元)年、知恩院の徳誉光然(とくよこうねん)を開山として、井尻長助が建立した浄土宗の寺院です。寺宝に鎌倉時代作の阿弥陀如来立像があり、国の重要文化財に指定されています」と簡略に説明されています。(転記)この駒札によれば、その仏像は西山往生院の証空上人の念持仏として作られたものと言います。証空上人は、浄土宗西山派の派祖となった僧です。(資料1)知恩院は浄土宗総本山ですが、浄土宗鎮西派の中心となる寺院と私は理解しています。大念寺が知恩院の末寺とすると、駒札に記された「数奇な経路をたどって」というのも興味深い表現と思います。(資料2) 山門を入ると、左斜め前に石灯籠と鐘楼があります。 割と細身の梵鐘が吊されています。撞座の上の縦帯の部分には、レリーフされた蓮華座の上に「南無阿弥陀佛」と名号が陽刻されています。下帯には音楽を奏でる天女群がレリーフされています。石段の上の山門とは別に、西側にもう一つの出入り口がありました。そちらから出て、さらに坂道に沿って上ります。 道路の右側斜面面上の樹木の傍に「聖武天皇」と刻された石標が見えてきます。 回り込むと、「宝積寺(ほうしゃくじ)」の山門(仁王門)が石段の先に見えます。大きな赤い球形の正面に「大黒天」と墨書された提灯が吊してあります。山門の右斜め前に、先ほど見えていたのが「聖武天皇勅願所」の石標とわかります。 石段の下、左側に、歴史街道の一環として、「大山崎 宝積寺」案内板が設置されています。「寺伝によると、奈良時代に聖武天皇が僧行基に命じて建立したといわれる古寺です。境内は広く、山門から直線にのびる参道の右側には桃山時代の建築で重文の三重塔、さらに進むと本瓦葺きの堂々とした本堂があります。寺宝も多く、特に仏像彫刻に見るべきものがあり、本尊十一面観音立像、金剛力士像、閻魔王坐像、倶生神坐像、暗黒童子座像、司録座像、司命坐像が重文に指定されています。また、本堂横にある小槌の宮には大黒天が祀られ、打出と小槌によって福徳がさずけてもらえる祈祷が行われ、現世利益を願う人々でにぎわっています。年間行事に見るべきものが多く、節分祭や鬼くすべなど興味深いものがあります。」(案内文転記)宝積寺は真言宗智山派のお寺で、山号が「天王山」です。通称は宝寺。(資料3) 「仁王門」の扁額寺門に立つ金剛力士は「仁王さま」として身近な存在です。運慶・快慶が造像した東大寺南大門の金剛力士像が最も有名でしょう。『大宝積経』には転輪聖王の王子の一人が仏法を護るために金剛力士となったと説かれているそうです。そして、金剛力士は独尊の執金剛神(しゅこんごうしん)と同体とみられているとか。(資料4)その執金剛神は、『増一阿含経』『大宝積経』『発句譬喩経』に、釈迦の周囲につねに独尊で侍して金剛杵をとると説かれていると言います。(資料5)序でながら、東大寺法華堂の執金剛神立像(国宝)が有名です。一度拝見したことがあります。 阿形の金剛力士像 吽形の金剛力士像本来独尊で釈迦の警護にあたっていたのが、「やがて仏およびその聖域(仏を安置する空間=仏壇あるいは寺院)を守護するために阿・吽一対に分化して表される場合」(資料5)が出て来たのです。それゆえ、「二王」または「仁王」の別名を持つようになったと言われています。この金剛力士像は鎌倉時代の作で、国指定重要文化財だそうです。(資料3) 仁王門を入ると、背面に正面と同じ空間があります。かつてはここにも何かの像が置かれていたのでしょうか。これではっきりとわかるのは、この山門が三間一戸八脚門という形式の門であることです。門を入ると、参道は真っ直ぐにのびています。 参道の左側に、鐘楼が見えます。駒札には「待宵の鐘」と記されていて、左に室町時代と記されていますので、梵鐘の制作年代のことでしょう。右には平成10年2月吉日と記されています。こちらは現在の鐘楼の竣工時期を示すものかと推測します。 ここの梵鐘もスラリとした細身の形です。装飾が少なくスッキリとしています。 まず参道の左側前方に、「大聖不動明王」と墨書した提灯を吊り下げたお堂が見えます。 近くの建物の側壁傍に、これらのおもしろい像が並べてあるのが目にとまりました。なんでしょうね・・・・・。 参道をさらに歩むと、参道の右側。少し奥まった位置に「豊臣秀吉 一夜之塔」と記した駒札が右前方に立つ「三重塔」が建てられています。ホームページには鎌倉時代の建立と記されています。国指定の重要文化財です。(資料3)歴史街道の説明と差異があることに気づきました。諸説あるのでしょうか。 駒札の近くにこの駒札も設置されています。この辺りの景色が「乙訓景観十景」に選定されているそうです。アサヒビール大山崎山荘美術館の敷地にある流水門を通り過ぎたすぐ左側に繁る樹木の向こう側にこの三重塔の背面が垣間見えるという位置関係になります。三重塔の細部を眺めていきましょう。 相輪 二層目組物は二手先で、二ツ斗と三ツ斗が使われています。高欄は連続したものではなく、正面中央部分は間隙が設けてあります。現地で眺めていたときは意識していませんでした。写真を眺めていて気づきました。見ているようで見ていないんですね・・・・。 鬼瓦 正面は、板唐戸で左右に連子窓が設けてあります。初層は漆喰壁で、間斗束が使われています。 三重塔傍の石灯籠 句碑 殉国十七士墓天王山の山頂までの途中にも「十七士墓」があります。そちらの方で触れたいと思います。山に上らずに墓参ができるように設けられたということでしょうか。不詳です。この背後は墓地になっています。 墓地の手前に立つ六地蔵参道に戻ります。 参道は途中で石段に変わります。参道左側に、門があります。境内配置図がありませんので、この門と築地塀の内側が何かは不詳です。 降り棟の先端付近に菊の飾り瓦が見えます。最近学んだことですが、これは単なる魔除けや飾りというだけでなく、留蓋という名称の瓦で、「隅巴と呼ぶ軒丸瓦の後部の雨仕舞いの都合上、ここを覆わねばならない」(資料6)という実質的な機能を持っていることを知りました。 門屋根の棟には鯱が置かれています。次回は、宝積寺のパート2として続けます。参考資料1)証空 :「web版 新纂 浄土宗大辞典」2) 浄土宗鎮西派規則 :「web版 新纂 浄土宗大辞典」3) 天王山宝積寺 ホームページ4)『比べてもっとよくわかる仏像』 熊田由美子著 朝日新聞出版社 p1785)『仏尊の事典』 関根俊一編 エソテリカ事典シリーズ1 学研 p1566)『瓦 ものと人間の文化史 100』 森郁夫著 法政大学出版部 p50補遺歴史街道 ホームページ閻魔王とその従者たち 博物館ディクショナリー :「京都国立博物館」解説「組物」 :「AONIYOSHI」伝統工法の真骨頂「枓栱」 :「社寺建築の豆知識」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&登る 京都府 天王山と周辺 -1 駅前~アサヒビール大山崎山荘美術館付近 へ探訪&登る 京都府 天王山と周辺 -3 遠回りして:宝積寺(2) へ探訪&登る 京都府 天王山と周辺 -4 宝積寺裏の登山口~旗立松展望台 へ探訪&登る 京都府 天王山と周辺 -5 十七士の墓、酒解神社 へ探訪&登る 京都府 天王山と周辺 -6 天王山山頂(山崎城跡)へ
2022.03.14
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アサヒビール大山崎山荘美術館に行った日(2022.3.3)、この際にと、続きに天王山に登りました。その気になったのは、一度は登ってみたいと思っていたことと、標高270mという低山だったからでもあります。これなら時間的に充分登れると。ここでは、天王山を登るという形で少し編集してまとめてみます。(当日は駅前から美術館までの往路に送迎バスを利用。登山後は駅までウォーキングしました) JR山崎駅の改札を出ますと、左斜め前方に「大山崎町観光案内板」が設置されています。 観光案内図の右には、大山崎町の歴史年表が記されています。その右に「天下分け目の天王山」のキャッチフレーズが見えます。この大山崎町の年表から、史実をサンプリングしてみますと 紀元前2万年頃 天王山麓に人々が住み始める 653(白雉4)年 孝徳天皇、山崎宮を造る 725(神亀2)年 行基が淀川に山崎橋を架ける 861(貞観3)年 山崎河陽離宮を山城国府とする 874(貞観16)年 山崎津など、検非違使の監督下に置かれる 1376(永和2)年 この頃、京都の油販売は大山崎神人が独占する 1471(文明3)年 この頃、大山崎惣中の名が登場する 1582(天正10)年 羽柴秀吉、山崎合戦で明智光秀を破る 秀吉が山崎城を築き、利休らと茶会を開く 1601(慶長6)年 徳川家康、大山崎を神領とし、自治を認めるこの大山崎が交通の要衝地であり、栄えていたことが推測できます。国鉄山崎駅が開業されたのは1876(明治9)年だそうです。 案合図から部分図を切り出しました。赤丸を追記した位置が現在地です。ここから、線路の北側の先、図の左斜め上の黒三角が記された天王山の頂上に向かいます。 この案内板には、天王山ハイキングコースには、頂上を含めて、6基の「秀吉の道」陶板画が設置されている旨の説明が載っています。 山崎駅舍を出ると左折して線路沿いの歩道を30mほど行けば踏切です。道路の反対側の歩道には、この道路標識が立っています。踏切を渡れば坂道です。 坂道を少し上った左側に、「天王山登り口」の石標が立っています。 この石標の近くに、「この付近 霊泉連歌講跡」と刻された石標と石碑が設置されていています。 「山崎宗鑑冷泉庵跡」と題した駒札が立っています。足利将軍義尚に仕えていた支那範重(=宗鑑)は、将軍義尚が佐々木高頼との合戦に敗れた後、世の無常を感じ剃髪して入道となり、ここに隠棲したそうです。山崎宗鑑は室町時代後期の連歌師・俳諧作者です。俳諧撰集『犬筑波集』を編み、俳諧の祖と言われています。駒札には「八幡宮社頭で月例会として開かれていた連歌会の指導や、冷泉庵での講を主催」したそうです。宗鑑の庵がここにあったということでしょう。霊と冷、一字のことで少し印象がことなります。昔は漢字の使い方は大らかだったということでしょうか。なお、出自・経歴は諸説あるようです。(駒札、『日本語大辞典』より) また、近くには「歴史街道」として、この「天王山観光案内図」が設置されています。坂道を上ると、道が分岐します。右側の道を上って行きます。こちらの道がアサヒビール大山崎山荘美術館に至る道でもあります。 坂道を上ると、左側に「天王山総合案内図」が設置されています。案内地図を挟み、左右にはこの天王山周辺に所在する寺社などを簡略に紹介しています。後ほど適宜参照していきたいと思います。 部分図Aを切り出してみました。現在地の表示があります。 案内図の右側中央に、このハイキングコースの案内が記載されています。 道路の右側、家屋の切れ目から南方向を遠望した景色さらに坂道を上りますと、大山崎山荘美術館の入口トンネルの少し手前に、 句碑と駒札が見えます。 宝寺の隣に住んで櫻哉 漱石 駒札「夏目漱石の山荘訪問」夏目漱石は1915(大正4)年4月15日、桜花爛漫の大山崎山荘を加賀正太郎の招きで訪れたそうです。汽車で山崎駅に着いた夏目夫妻は籠に揺られて山荘の門をくぐったとか。そんな時代だったんですね。山荘での昼食後に隣の宝積寺を訪れているそうです。句碑の一句は、後日、漱石が加賀正太郎に出した礼状に添えられていた句だとか。(駒札より) 入口のトンネルから山荘前の道路を挟んで反対側に、最初の「秀吉の道」1基が設置されています。左上のタイトル「秀吉の道」のところに、作:堺屋太一、画:岩井弘と記されています。 日本地図が縦向きになっていますが、当時の勢力関係図が明示されています。上辺には上杉景勝(赤色)、北条氏政(空色)、下辺には毛利輝元(赤色)、長宗我部元親(空色)が大きく勢力圏を広げています。中央のベージュ色の太線で囲まれた白い領域が羽柴秀吉の勢力圏という図示です。 山崎を中心にした部分を切り出せば当時の勢力関係が見えてきます。さて、この「秀吉の道」陶板画の設置された地点は、上掲部分図Aに白抜きの数字1と記された場所です。ここからピンク色に塗られ道が天王山への登山道になります。 大山崎山荘美術館の入口トンネルを横に眺めつつ通り過ぎ、坂道沿いに上って行きますと、坂道はフェンスに突き当たります。そこから左折する道が登山道の実質的な起点になっています。 登山道を登ると、T字路の分岐点です。右に行けば天王山山頂への登山道。左に行けば宝積寺の境内地に至ります。分岐点には、道標があり、大山崎山荘という表示が出ています。この写真は道標の位置から少しこの道に入り、山側から見下ろした登山道です。(実は、天王山から戻って来た時に、この道を降りました。)つづく補遺大山崎町観光サイト 山崎宗鑑 :ウィキペディア山崎宗鑑 :「コトバンク」山崎宗鑑 芭蕉ゆかりの俳人 :「私の旅日記~お気に入り写真館~」犬筑波集 :「コトバンク」新撰犬筑波集 (しんせんいぬつくばしゅう) :「新日本古典籍総合データベース」アサヒビール大山崎山荘美術館 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&登る 京都府 天王山と周辺 -2 遠回りして:大念寺、宝積寺(1) へ探訪&登る 京都府 天王山と周辺 -3 遠回りして:宝積寺(2) へ探訪&登る 京都府 天王山と周辺 -4 宝積寺裏の登山口~旗立松展望台 へ探訪&登る 京都府 天王山と周辺 -5 十七士の墓、酒解神社 へ探訪&登る 京都府 天王山と周辺 -6 天王山山頂(山崎城跡)へ
2022.03.12
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第1回目にご紹介した施設案内図を載せます。山荘を出て庭を巡るご紹介をするにあたり、現在位置をご理解いただきやすいと思いますので。山荘を出ますと、 入口のすぐ近くの一隅にさりげなくこの石造物が置かれています。これを見て連想したのは京都国立博物館の東の庭です。ここには、寄贈された「李朝墳墓表飾石造遺物」が一括して野外展示されています。この中に「石造方台(魂遊石)」8基が展示されています。ここに置かれた石造物がこの石造方台と同種なのです。 この門を再掲します。左の方に、朝鮮形の石灯籠が置かれています。李朝墳墓にこの形式の石灯籠が見られるので、上掲の石造方台と照応しているとみることができます。 今回、この門の斜め左前に置かれたこの石像に触れて起きましょう。これもまたさりげなく置かれている感じです。見落としていく人もいるかもしれません。3人の童像です。 門から南側に池から流れ出る小川が見えます。ここに春日灯籠タイプの石灯籠も置かれています。小川の傍から、冒頭の施設案内図に青丸を追記したところ、橡ノ木茶屋まで戻ります。 橡ノ木茶屋の南側には、庭園に降って行くための入口があります。 山荘入口への前庭は、この辺りでは前庭と庭園との間に高低差があり、茶色の洋瓦屋根の塀が境界となっています。上掲の小川は前庭を横切り、この塀に設けられた開口部に至ります。 前庭から見ると平屋に見える茶屋は、高低差をうまく利用して建てられた2階建てであることがこれでよくお解りになるでしょう。1階は手洗所で、2階が茶室となっているそうです。 上掲の小川は、塀の開口部を過ぎると滝となって、庭園の池に水が流れ込んで行くようです。池のメンテナンス中でしたので、石が見えているだけですが。 茶屋の1階から塀沿いの通路を下って反時計回りに、庭園内の池畔を回り込んで行きます。 池を回り込むと、北辺に「地中の宝石箱(地中館)」の通路が見えます。今は木々の葉が落ちていますので、安藤忠雄の建築の特徴であるコンクリート打ちっぱなしの通路がはっきりと見えますが、樹木の葉が生い茂ると、ほぼその陰に隠れてしまうようです。こちらの池も水が抜かれていて池底が見えています。 こちらの庭園にも朝鮮形の石灯籠 庭園の南端側に、このモニュメントが置かれています。 円い穴があれば、その先を覗いてみたくなります。 このモニュメントから西方向にあるレストハウスに向かう通路です。このシリーズの第1回にご紹介した景色とつながります。向こうの坂道から眺めた道がこれ! もう一基、朝鮮形の石灯籠 庭園内の池を結ぶ小川には頑丈な石橋(反り橋)が架けてあります。 地中館への通路を東側から眺めた景色右側には円柱形の地中に埋め込まれた建物部分のコンクリート壁面の一部が見えます。 樹木の向こうに、東屋(休憩所)が見えます。石橋に引き返し、通路沿いに東屋に向かいます。 東屋の手前は楕円形の広場になっていて、バリー・フラアナガン作のブロンズ像「ボールをつかむ鉤爪の上の野兎」(1989/90年)が置かれています。 東屋(無料休憩所) 東屋の傍に置かれた石灯籠手許の本では雪見変型という名称で同種の石灯籠図が載っています。 冒頭の施設案内図に紫色の丸を追記したところがもう一つの小さな池です。池の反対側に山荘の本館が見えています。こちらの池には少し水が残っていますが、東屋の傍を通りこの池につながる小川は河底が見えています。小川にある大石の配置もよくわかります。小川と池との間に境界が設けてあるのは水の流れ、堰き止めとの関係でしょうか・・・・。 小径をたどり、山荘本館の側面に近づきました。1階展示室2の側面が見えています。 樹木の葉が茂れば周辺はこんもりと木々の緑に覆われてしまう形になります。 枝折戸が閉じられていてそれ以上は近づけませんでした。 こちらにも雪見変型の石灯籠 池畔に戻り、 レストハウスに向かう通路を辿っていきます。そこからは坂道を下るだけです。 坂道を上るときには左側の景色ばかりを見ていました。逆に、坂道を下るときに庭のある左側を眺めると、庭の斜面には水仙らしき花が群生しています。 ズームアップして撮ってみました。地中館への通路が花々のさきに少し見えています。これも樹木が緑の葉を繁らせると坂道からは見えなくなることでしょう。 レンガ造りの入口に戻ってきました。内側には「天王山悠遊」と刻されている石板がアーチの上部に嵌め込んであります。最後の文字はその字体から私の類推した判読です。間違っているかもしれません。この入口の正面には、「琅玕洞」と刻されていました。ガイドブックにもこの語句の意味説明は記されていません。手許の辞典を引きますと、「琅玕」は「1.玉に似た美しい石。 2.美しい竹の異名。 3.美しい文章のたとえ。」(『角川新字源』)という意味だそうです。「洞」には、つらぬく、通りぬける、という意味やほら、ほらあなの意味があります。(同上)これで大山崎山荘美術館の建物群と庭のご紹介を終わります。四季の折々にこの山荘を訪れると、その都度異なった表情、風情をみせてくれ、楽しめそうです。ご覧いただきありがとうございます。参照資料* 当日入手したリーフレットと館内順路案内図*『アサヒビール大山崎山荘美術館 ガイドブック』アサヒビール大山崎山荘美術館*『和の庭図案集』 design book 建築資料研究社補遺アサヒビール大山崎山荘美術館 ホームページユネスコ世界遺産をめぐる 朝鮮王朝の王の墓 王陵 :「KOREAPR.jp」西五陵 :「SEOL navi」朝鮮王陵物語ー東九陵(トングルン) :「TORAKOREA トラさんの韓国ガイド日誌」バリー・フラナガン :ウィキペディアバリー・フラナガン :「三重県立美術館」常設作品紹介 バリー・フラナガン :「彫刻の森美術館」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪&観照 京都府・大山崎町 アサヒビール大山崎山荘美術館 -1 へスポット探訪&観照 京都府・大山崎町 アサヒビール大山崎山荘美術館 -2 へ観照 みうらじゅんマイ遺品展 at アサヒビール大山崎山荘美術館,京都府 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都国立博物館 建物と庭 -3 東の庭(李朝墳墓表飾石造遺物を中心に)
2022.03.10
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それでは、大山崎山荘の外観を中心に眺めて行きましょう。これは橡ノ木茶屋、大きなアラカシの木のところから山荘に近づいたときに目に止まる外観景色です。 「みうらじゅんマイ遺品展」で入手した山荘内の展示室順路図を利用し、画像処理した図です。追記した青丸が橡ノ木茶屋の位置です。建物の大凡の位置関係をご理解いただけると思います。 山荘の入口側に回って西端から眺めてみますと、 ここが入口「みうらじゅんマイ遺品展」の飛び出し坊やが置かれています。 煙突の背後に見える3連の白い窓のところが「展示室4」、その左がテラスです。 この煙突、本館2階のテラスから眺めると、こんな感じで屋根から突き出ています。 入口・受付のある建物。入口を入ると、すぐ受付があり、その近くにミュージアムショップが併設されています。 この建物の側面がこれ。側面を正面から眺めた景色です。 購入したガイドブック表紙がちょっと洒落ていて、渦巻き状の光るデザインの部分が被さる形になっています。右に広げると、 秋はこんな感じの景色に山荘周辺と庭は四季折々、変化して行きますので、違った時季に訪れる楽しみがありますね。「大山崎山荘は、チューダー・ゴシック様式ならではの特徴がいくつか見られます。外壁は、木骨を見せるハーフティンバー方式をとりいれ、急勾配の屋根には数本の煙突が設けられリズムを生み出しています。また、建物全体の構成が非対称で、玄関は脇についています。」(ガイドブックより転記) 山荘の入口で目にとまりました。 玄関先の屋根の支柱の手前にこの頭部だけを彫刻した石柱が埋め込まれています。微妙に表情が違うんですね。さて、山荘内は撮影禁止です。展示室を順路順に進み、本館2階の展示室4を見た後、テラスに出てみました。 展示室4からテラスに出られる扉 外壁を見上げた景色 テラスの南側からの景色 北東隅に藤田重良右衛門作「輪積み焼締大壺」が置かれています。越前たいら焼です。 テラスの北西隅に案内板が設置されています。テラスから白い塔のような建物が遠望できます。1953年(大正4)に完成した木造三階建ての建物。「栖霞楼(せいかろう)」あるいは「白雲楼(はくうんろう)」と称するそうです。(赤丸のところ)「栖霞楼は、大山崎山荘(現在の美術館本館)に先駆けて建てられました。加賀正太郎は、この塔の上から敷地全体を見渡して山荘を設計し、工事を監督したといわれています。」(案内説明転記) 登録有形文化財になっていて、非公開です。 案内板の傍から北方向を見下ろすと、安藤忠雄設計による「夢の箱」(山手館)と名付けられた展示室に行く通路と「夢の箱」が見えます。2012年にこの山手館が加わりました。この山荘を建設した加賀は、この山荘に蘭を栽培する温室を設けていて、その温室に行く通路がこの景色です。山荘が美術館に変身した後に、その通路の先に四角形を基調とする「夢の箱」が建てられました。 テラスから眺めた栖霞楼周辺の全景 テラスから北方向の眼下を眺めると、池が広がっています。睡蓮池だそうです。丁度この時は、池の水が抜かれ、池ざらえのメンテナンスが行われていました。そのお陰で池の底面が見えています。 目を南の方向に転じると、池の対岸の樹木の先に家屋らしい姿が垣間見えます。「彩月庵」と称する茶室でしょう。持仏堂としても使われていたと言います。 南側の直下に門の屋根が見えます。前回、最後にご紹介した門です。ガイドブックにはこの門の内側の景色が載っています。門を入ると、そこにはすぐ池が広がっています。当時は池の敷石を渡って茶室に入ったとのこと。風情がありますね。本館2階の展示室3・4から中央通路の空間を挟み、反対側の部屋は喫茶室に使われていて、その先に大きなテラスがあります。ここは喫茶室を利用しないと入れませんのでパスしました。当日入手したリーフレットの説明では、こちらのテラスは木津川、宇治川、桂川の三川や、石清水八幡宮のある男山を一望できる位置に設けられていることになります。快晴の暖かい頃に、このテラスから眺める大山崎は絶景でしょうね。さて、本館の1階に戻ります。本館の中央部には、「山本記念展示室」があります。山本とはアサヒビールの初代社長山本為三郎(1893-1966)氏のことです。元の山荘所有者加賀正太郎氏との関係は既にふれました。山本為三郎は、民藝運動のよき理解者で、柳宗悦、河井寛次郎、バーナード・リーチらの活動を支援したそうです。そして陶磁器、漆器、染織などをコレクションされたと言います。この部屋は通常、山本為三郎コレクションを展示する部屋として使われているようです。入口側から見るとこの記念展示室の右側に通路があり、この通路は展示室2に至ります。展示室2の上層が上記の行かなかったテラスという位置関係になります。 通路の途中に、「地中の宝石箱」(地中館)へのガラス張りの通路に向かう扉があります。また、この通路の端に通路の外側に出入りする扉が設けてあります。これは地中館にエレベータを使って降りられるように、バリアーフリーが組み込まれているためです。エレベータへの通路を歩み、ウィング(通路)部分と本館の外観を撮った景色です。 山荘入口の建物の背面とウィング(通路)。こちらからは見えませんが、ガイドブックによれば、建物とウィングの間の空間に小さな睡蓮の咲く池が設けてあるようです。この池からの流れは、やがて滝となり、斜面下の庭園にある大きな池に流れ込むようになっているそうです。次回、訪れる機会には、この見落とした箇所を眺めてみたいと思っています。このウィングは地中館へ降るための階段がある通路ですので、1階と地下1階の2階分の高さの吹抜けになっています。 これはウィキペディアの「大山崎山荘」から引用しました。地中館への通路の中で撮られた景色です。外から見るのとイメージが変わることでしょう。 樹木の先に、本館の端部分が見えます。 エレベータの側からの眺め ウィング(通路)は南方向へ延びています。 エレベータ エレベータの傍から見た円柱形の「地中の宝石箱」(地中館)の上部です。傾斜地に半ば埋め込み周囲の景観を壊さないように配慮されているようです。こちらも安藤忠雄氏の設計です。 エレベータの傍に置かれた彫刻。「鳥彫刻 南アフリカ」と表示されています。 エレベータへの外側通路の扉の近くの彫刻は、流政之作「サムライの涙」です。これで大山崎山荘美術館の外観を中心にしたご紹介を終わります。美術館を出た後、庭を探訪・散策してみました。つづく参照資料* 当日入手したリーフレットと館内順路案内図*『アサヒビール大山崎山荘美術館 ガイドブック』アサヒビール大山崎山荘美術館補遺アサヒビール大山崎山荘美術館 ホームページ 山本爲三郎コレクション STRUCTURES 建築民藝とは何か 民藝運動について :「日本民藝協会」柳宗悦 :ウィキペディア河井寛次郎 :ウィキペディア河井寛次郎記念館 ホームページバーナード・リーチ :ウィキペディア安藤忠雄 :ウィキペディア建築家・安藤忠雄のページ+作品リンク集 :「Het architecture」安藤忠雄建築研究所 Tadao Ando ホームページ流政之 :ウィキペディアアサヒビール大山崎山荘美術館 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪&観照 京都府・大山崎町 アサヒビール大山崎山荘美術館 -1 へスポット探訪&観照 京都府・大山崎町 アサヒビール大山崎山荘美術館 -3 へ観照 みうらじゅんマイ遺品展 at アサヒビール大山崎山荘美術館,京都府 へ
2022.03.08
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JR京都線の山崎駅で降り、改札を出て左方向に歩むと、 この「大山崎山荘」の案内板が設置されています。ここが、山崎駅と大山崎山荘間のシャトルバス発着所になっています。高齢者優先の無料送迎バスが運行されています。傍にバスの運行時刻表が掲示してあります。往路はタイミングが合いましたので便乗しました。 「琅玕洞(ろうかんどう)」と刻された石額を埋め込んだ小さなトンネルが大山崎山荘の入口です。 トンネルを抜けて振り返った景色先日、藤田令伊著『企画展がなくても楽しめるすごい美術館』(ベスト新書)を読みました。日本に1000を越える美術館があるそうですが、その中から著者が90に絞り込み紹介しているヴィジュアル新書です。「第4章 建築や庭が見事な美術館」に12館の紹介があり、そこに「アサヒビール大山崎山荘美術館」が取り上げられていました。かなり以前に一度この美術館での企画展を見にきた記憶があるのですが、建物や庭については、掲載写真で何となく・・・・という程度でした。そこで改めて訪ねてみようと動機づけられました。ホームページにアクセスして、「みうらじゅんマイ遺品展」の終了間近と知ったことは前回ふれました。そこで、これを機会にこの山荘美術館と庭そのものを意識的に眺めてきました。美術館の建物と庭を探訪するという側面で、少し整理して覚書を兼ねてご紹介します。 入口からも坂道が続きます。 トンネルから少し先に、「施設案内」が設置されています。これはその部分図。大山崎山荘の全体図として利用させていただきます。色丸3つは私の追記です。 坂道の途中、庭にこの石の道標が立ててあります。「右 天王山」、「左」は判読できませんでした。 坂道の左側の斜面に、ここは山荘の敷地内と思いますが建物が見えます。 坂道の左側に朝鮮形の石灯籠が置かれています。(資料1) 左側の先には、左の家屋が見えます。坂道の右側斜面には「美術館」への案内標識があり、坂道沿いに進むよう誘導しています。 振り返えった景色 南方向を見下ろせる展望が開け、淀川の流れの対岸にビルが遠望できます。大山崎は、天王山と男山に挟まれた狭い平地で、木津川、宇治川、桂川が合流し淀川となる地点。交通の要衝地です。羽柴秀吉と明智光秀が、天下分け目の天王山、山崎の戦いを行い、雌雄を決した史上有名なところです。 ここは天王山の一角、南麓です。中腹とまでは言えませんがかなりの高みです。 緩やかな円弧を描く坂道の先に、「レストハウス」があります。1階は無料休憩所として開放されています。ここに無料のコインロッカーが設置されています。(大きな荷物は美術館内には持ち込み禁止です。) これは、チューダーゴシック様式で建てられた旧車庫だそうです。 レストハウスを通り過ぎてから眺めた南側方向の景色です。上ってきた坂道の右側には弧状に生垣が続き、その東側に芝生の広場があります。 ゆったりとした道幅の緩やかな坂道を上ります。車で山荘入口まで行くことを前提にした坂道の広さです。 坂道の右側に庭園への道が東方向に延びています。 先の方に見える物体を、デジカメのズーム機能で撮ってみました。 後ほど、庭を巡ったときに触れたいと思います。 先に見えるのは「流水門」 ここには「かつては車のタイヤについた泥を落とすため、水が流れていました」とのこと。山荘への中門という感じですね。このあたり、カエデの木がたくさん植えられているそうです。晩秋の景色がよさそう。 流水門を入った右側の景色 道の左側に目を転じますと、生い茂る樹木の先に、宝積寺の三重塔の姿が見えます。門内は大山崎山荘の入口までのアプローチであり、前庭です。 まず、目に飛び込んでくるのがこの「橡の木(とちのき)茶屋」(非公開)です。立礼式の茶室だそうです。 この建物、平屋建てに見えますが、斜面に建てられた二階建てです。傍に石段道があり、1階を見ながら、庭園に下っていく小径につながります。 茶室ですので、傍にこの蹲が設けてあります。 茶室のすぐ傍に、庭の中央に大きなアラカシの木が植えられています。この木の反対側に周り、そこから茶室を眺めた景色です。 蹲の先には斜面の際に生垣が境界となっています。その先に見えるのは、「地中の宝石箱」(地中館)へのウィングです。本館から南方向へ2階の高さに相当する通路が延びているのです。この通路から、地中に埋め込まれた構造の円柱形ギャラリー「地中の宝石箱」に降りて行くことになります。安藤忠雄氏の設計です。「地中の宝石箱」には、クロード・モネの<睡蓮>連作が常設展示されています。今回、この展示室に入ったときには、モネの睡蓮3点の他にセザンヌの絵、小品2点が展示されていました。(本館の鑑賞者が多いわりには、ここに来る人は少なかった。私がしばらく眺めている間の来訪者は数名だけ。逆に良かった!)さて、流水門の所に戻って、この前庭の反対側を眺めて行きましょう。 先にご紹介した施設案内図に、「みうらじゅんマイ遺品展」で入手した順路図を少し画像処理してみた建物のレイアウト図を追加します。両図に青丸を付けたあたりに、上記の茶室があります。つまり、前庭の反対側というのは、この図で言えば青丸の左斜め上一帯ということになります。 ぼんやりと三重塔の姿を見た続きには、小川に架かる土橋の向こうに建仁寺垣と枝折戸が見えます。残念ながら、枝折戸には通り抜け禁止の掲示が見えます。 樹木の向こう側に、庭があるのでしょうね。細い竹に囲まれるようにして、濡鷺形の石灯籠が垣間見えます。(資料1) 小川というより、谷川と呼ぶ方がふさわしいのかもしれません。天王山の自然の谷川の流れを庭に取り込んだのか、庭に谷川風に小川を設けたのか、定かではありませんが・・・・。 さらに先にはこんな景色がつづきます。 樹間越しに眺めると、少し高い位置に建物が見えます。 この門の姿と風情から考えると茶室だと想像しました。当日購入した『アサヒビール大山崎山荘美術館 ガイドブック』を参照すると、「彩月庵」と称する茶室のようです。「山荘から山手側、睡蓮池そばの木立の中に位置しています。当時は、池の敷石を渡り茶室に入りました。持仏堂としても使われていました。」(資料2)とのこと。(登録有形文化財)この門の近くまで行くと、右側(東)に、大山崎山荘の本館が見えます。 この大山崎山荘は、関西の実業家・加賀正太郎(1888-1954)の別荘として、大正から昭和にかけて、すべて本人の設計により建設されたそうです。加賀正太郎は、日本山岳会に入会するなど登山を趣味とし、スイスの名峰ユングフラウに日本人として初めて登頂した人だとか。大学卒業後、家業を再開。証券仲買業、山林経営など多くの事業に取り組んでいます。大日本果汁(ニッカウヰスキー株式会社の前身)設立において出資もしています。亡くなる直前に、深い親交があった朝日麦酒(現アサヒビール株式会社)社長の山本為三郎にニッカウヰスキーの株式を譲渡したそうです。この山荘が加賀家の手を離れ、幾度かの転売をへて、老朽化が進んだことから、取り壊しと大規模マンション建設計画が持ち上がったと言います。それに対し地元の有志の方を中心に保存運動が起こりました。「京都府や大山崎町から養成を受けたアサヒビール株式会社が、行政と連携をとりながら、山荘を復元し美術館として公開することになります。現在のアサヒビール大山崎山荘美術館は、1996年(平成8年)に開館しました。」(資料2)加賀正太郎と山本為三郎の親交と株式譲渡がこの美術館誕生の淵源になるようです。大山崎山荘美術館の内部は撮影禁止でした。次回はこの山荘の外観を眺めていきます。つづく参照資料* 当日入手したリーフレットと館内順路案内図1)『和の庭図案集』 design book 建築資料研究社2)『アサヒビール大山崎山荘美術館 ガイドブック』アサヒビール大山崎山荘美術館補遺朝鮮燈籠 :「京都府造園協同組合」高麗型朝鮮灯籠 :「マイベストプロ」(神戸新聞社)濡鷺型灯籠 :「いずみストーンワールド」中庭の濡鷺型燈籠 :「奈良の宿 料理旅館大正楼」立礼式 (読み)りゅうれいしき :「コトバンク」立礼のお点前【裏千家 茶道】 YouTube加賀正太郎 :ウィキペディアHISTORY :「アサヒビール大山崎山荘美術館」山本爲三郎コレクション :「アサヒビール大山崎山荘美術館」山本為三郎 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪&観照 京都府・大山崎町 アサヒビール大山崎山荘美術館 -2 へスポット探訪&観照 京都府・大山崎町 アサヒビール大山崎山荘美術館 -3 へ観照 みうらじゅんマイ遺品展 at アサヒビール大山崎山荘美術館,京都府 へ
2022.03.07
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昨日(3/3)標題の展覧会を見てきました。これは美術館で購入した今まででは最も薄っぺらい図録に属する類いの図録の表紙です。「みうらじゅんマイ遺品展」、びっくりさせるようなネーミング。みうらじゅんは現時点では勿論健在で大活躍中です。これがそのままPRチラシの表にも使われています。3月6日で開催期間は終了です。実は、この展覧会の情報は前日まで知らなかったのです。大山崎山荘美術館自体を見たくてホームページにアクセスして知った次第。この展覧会は、当美術舘の開館25周年記念の企画展になったそうです。みうらじゅん氏の出身地が京都ということにも関係しているとか。『見仏記』で、みうらじゅんを知り、関心を抱いていたので、行くなら一挙両得でおもしろそうと思って急遽出かけました。 美術館の表門 当日入手のリーフレットこの山荘が美術館になっています。天王山の山麓にあり、宝積寺の近くに位置します。本人がピンピンしているのに、「マイ遺品展」とはこれ如何に? 館内で入手した展覧会PRチラシの裏に この「はじめに」の原稿用紙文が載っています。これがそのままで図録の「はじめに」にもなっています。みうらじゅんのコレクション、すべてオープンという趣向です。「お遊び精神」が爆発したおもしろい展覧会でした。まずは、この企画展に的を絞って、覚書を兼ね、ご紹介します。 門を入り坂道を上って行くと、みうらじゅんをもじった飛び出し坊やがお出迎え。 レストハウス傍にも飛び出し坊や 大山崎山荘美術館の入口この傍にも勿論、飛び出し坊やがいます。この山荘がいまは美術館となっています。 受付を済ませたとき、入手したのがこの館内順路図です。山荘の本館は2階建てで、山荘内の各部屋が展示室として使われています。本館から2つのウイングが出ています。右斜め上に延びるウィングは「夢の箱」(山手館)につながり、左斜め下に延びるウィングは「地中の宝石箱」(地中館)に至ります。美術館内は撮影禁止だったのですが、山手館の展示室内だけは撮影OKで、一定条件付きですが写真の公開・利用もOKですので、この山手館での展示品を中心になります。今回の企画展、一言でいえば、みうらじゅんのグッズ・コレクションの大公開というものです。それはそれは「お遊び精神」一杯のコレクションが満載されていました。みうらじゅん氏が買い集めたグッズに自分で作った品々も加え、テーマ毎に山荘内の部屋に展示されていました。観光地でのおみやげグッズや、あるブームで様々な意匠で作られたグッズなど、その多様さがおもしろい。例えば、番号1の山本記念展示室には、次のテーマ(観点)でのグッズ・コレクションが整理して展示されています。曰く、金プラ ブーム(プラ=プラスチック)、ユノミン ブーム(ユノミン=湯のみ茶碗)、プリ貝ブーム(貝殻姫と磯の動物たち)、ヤシやんブーム(椰子の実人形)、ひょうたん君ブーム、ヘンザラ ブーム(ヘンな灰皿)、ヘンヌキ ブーム(いちびった形の栓抜き)、メダリオン ブーム、ヌートラ ブーム(ヌードトランプ)、ヌードペン ブーム、ロッキン ブーム(小さなロッキングチェアに乗る多様なもの)、まだまだありますが、以下省略。こんな具合です。山荘の各部屋に、多少ヘンな、奇妙で、あっとおもしろいグッズ・コレクションが澄ました顔して並んでいます。個人の家でコレクションを見せてもらっているというアット・ホームな感じがしておもしろかったです。これがもし、美術館の大規模な展示室内に整然と列をなした陳列ケースを設置し、鑑賞者が順路に沿って整然と見ながら進んで行くとしたら、異様さと滑稽さが増すかもしれません。それでは、撮影OKだった「夢の箱」に飛びましょう。展示室の入口を入ると、正面に展覧会名が記されたパネルが仕切りとなっていて、右から反時計回りに巡る順路になっています。 「フィギュ和ブーム」全国各地の昭和の香りが漂う人形が雛壇にズラリ勢揃い。よく集めたな・・・・が第一印象。 「ゆるキャラ ブーム」が根付いて蔓延していますね。「かなりゆるゆるのキャラクターを『ゆるキャラ』と呼ぶことにした」その名づけ親がなんと、みうらじゅん氏だったんですね。この展示室で初めて知りました。遅れてる~~。振り向くと、「バッグ・オブ・英字ブーム」、帽子を集めた「ギャップ ブーム」 「自ら、ゆるキャラ制作ブーム」として、郷士ラブちゃん、スーパーマンと、この部分撮りしたたいりょうほうさくクンが並んでいます。 大きな「ツッコミ如来立像」が立ち、その両側に「菊人形ブーム」。如来立像の右側にはカエル菊人形が置かれ、 左側には、自分自身の菊人形が置かれています。まあ、順当な発想か。その傍には、この如来さんのオリジナルについて、「縁起」をみうらじゅん氏が記しています。仏師トットリ作。このツッコミ如来立像のオリジナルが展示室2に展示されていました。本物は小ぶりな如来立像です。「この仏像がもしかして千年後も残っていたとして、その時代の人間が発見した時、何を思うのだろう?かつて仏像美術界に類を見ないポーズ。もちろんその由来すら文献にも載ってない。 平安時代あたりに、いったい誰が何を目的で作ったものなのか?未来の学術調査団の頭を痛めはしないだろうか? ある者は、かつて隆盛を極めた新興宗教のシンボルであったと唱え、またある者は海外から伝来した仏像であったと仮説をたてる。何はともあれ、この仏像のとっているポーズの意味に終始、興味が注がれることだろう。『そうなると、やはり重要文化財か?国宝!未来の博物館の陳列ケースに入るってわけだ』 ボクはなんだかワクワクして、鼻息を荒くした。『ツッコミ如来立像』、これがこの仏像の正式名称。人間の生み続けるボンノウに対し、漫才師のように『もう、エーかげんにしなさい!』と、ツッコミを入れて下さる如来様だ。」(転記) 右側壁に「アウトドア般若心経ブーム」街の看板から般若心経の字句を見つけて、「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時正見五蘊皆空・・・・・」の写真経をまとめたそうだ。何とおもしろい発想・・・・・。その下には「般若心経ブーム」「ゴムヘビブーム」のコレクションが展示されている。 振り返ると、パネルには、神社で見かけたムカつく絵馬のコレクション。「それはさすがに神様に失礼だろう!」がコレクションのきっかけだそうだ。写真一枚、パチリでパス。 私が一番興味を持ったのがコレ!「コロナ画55(ゴーゴー)」。入口から一番奥の壁に、 こんな感じで・・・図録に記された言葉「コロナ禍で描きあげたキャンバスF-10号の連作で、多分、みうらが死ぬ前に見るだろう走馬灯の作品。展覧会までにその数55枚。ゴーゴーと呼びたいがために頑張った。」ゴーゴーの部分を切り出してみます。 まあ、大体の位置関係は推測がつくでしょう。そういう切り出し方をしたつもり・・・・・・。 「甘えた坊主ブーム」四国に仏像を見に行った時に目にしたものからコレクションが始まったそうだ。 下のコレクションはゆっくりと回転していた。 全国各地で撮られたと思われる写真が山積みになっていた。 「テングー ブーム」周囲の天狗面が山の土産物店での購入品という。 テングーなるキャラを考案し、テングレンジャーを作ったのですって。彼らの合言葉は「山をナメんなよ!」 こんなコレクションも。みうら曰く「そこまで飛び出さなくてもいいだろ!」「やたら立体感があったり、見る角度で絵が変化したりする印刷物の名称は『レンチキュラー』が正しい」(図録より)という。この用語、この展覧会で初めて知った。 「冷マ ブーム」冷蔵庫にびっしりと貼られた宣伝用マグネット。ウチのポストに繰り返し投げ込まれているのは水道工事の宣伝用マグネット。嫌になる・・・・即、燃えないゴミに仕訳しなくっちゃならない。無駄なアクションがいる!都会にはどんな類いのマグネットが多いのだろう・・・・・。 入口の片方隅には檻があり、ここは「ワニック ブーム」みうらじゅんの人形が中に一緒に入っている。ワニによるパニックを縮めてワニックだとか。この人形の表情の意味は? こんなところで、山手館はぐるりと多様なブームを楽しみました。これが一部なんです。ホントに雑多なコレクション。しかし、そこに社会諷刺の意味を含む、あるいは楽しんで集めたもののコレクションが満ちていました。楽しさとおもしろさと、一方でアイロニーがつまっています。ある観点でコレクションすると、そこに意味がカミングアウトしてくるんですね。あるいは、意味を涌出させたいためのコレクションなのか。ただ、おもしろいだけの楽しみなのか。興味深い。 本館2階のテラスから。その傍には行けないタワー風の「栖霞楼」に近いところで目にとまった飛び出し坊や。もう1ヵ所、東屋(休憩所)に近い広場に置かれた彫刻像の近くにも。 後日ご紹介する予定ですが、美術館から出た後、この山荘の庭園を散策しました。東屋の方向に散策する途中で、地中館へのウィングの端が見える通路を進みます。 その時、上掲の鑑賞の順路で言えば、番号7の位置に、一体だけ置かれた彫刻の背面が見えました。デジカメのズーム機能で撮ったのがこれです。「ヌー銅ブーム」として、この一体が展示されています。背面からは想像できないでしょうが、正面からこの像を眺めると、「何故か顔は僕で、体がタレントのMEGUMIちゃん。」(図録より)というヌー銅です。上掲のいくつかの写真を参照して、イメージを作って見て下さい。みうらじゅん氏はヌードの銅像をヌー銅とよぶことにしたそうです。他にどのようなヌー銅がコレクションされているのだろう・・・・・。展示室2には、みうらじゅん氏が少年時代から始めたという各種のスクラップブックが様々なブームごとに展示されていました。「仏像スクラップブーム」として展示されていたスクラップブックに特に関心を持ちました。小学4年の時から始めたというから驚き。「スクラップ帳に拝観券やパンフから切り抜いた仏像写真を貼り、感想を添えた」というものです。色もかなり褪せ年代物と感じさせるスクラップブックでした。それらが底辺に蓄積されていて、『見仏記』という、いとうせいこうとみうらじゅんの二人三脚による仏像見聞(検分)シリーズが花開いているんだな・・・・・納得! 少年時代から培われた感性が脈打っているんですね。これで「お遊び精神」一杯、もちろんそれだけではない「みうらじゅんマイ遺品展」のご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料当日入手したリーフレットと館内順路案内図図録「開館25周年記念 みうらじゅんマイ遺品展」 アサヒビール大山崎山荘美術館発行補遺みうらじゅん OFFICIAL WEB SITE PROFILE みうらじゅん :ウィキペディア開館25周年記念「みうらじゅん マイ遺品展」 :「アサヒビール大山崎山荘美術館」ゆるきゃらグランプリ OFFICIAL WEBSITE ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2022.03.04
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吉城園のご紹介で載せた写真です。ここを起点に吉城園周辺の現在の景観を点描風に補足してご紹介します。 吉城園の傍を流れる吉城川の北側には、「依水園」があります。川を挟んで、南北に隣り合っています。いずれこちらも探訪してみるつもりです。この園内では、寧楽美術館と庭園を拝見できます(有料)。 吉城園を出て、築地塀沿いに西に進みます。少し西に歩むと、「吉城園」の扁額を掲げた表門がありました。ここは閉まっています。 更に、西に進んでから振り返ると2022年1月時点での景色はこんな感じです。依水園・吉城園の背後には若草山が見えます。手前はわりと幅のひろい道路です。この道は北方向へ屈折して続いています。右側の築地塀の所に、赤いコーンが置いてあり、その先にも白いカバーを掛けたものが置かれています。実は現在、この築地塀の南側は整備工事が進行中なのです。 築地塀の傍に工事内容を掲示してあります。そこに載せてある「土地利用計画図(配置図)」を写真に撮りました。周辺の点描風案内のため、加筆加工してご紹介に利用します。小さな赤色の丸(追記、以下同様)が冒頭の吉城園の受付所前の門で、空色の丸が扁額を掲げた表門。南西方向の庭園が吉城園(Y)です。Yの文字の南側が茶花の庭。黒い線の北側のIの文字辺り一帯が依水園。空色の丸の南西側は、この周辺の整備計画の一環として建つ予定の新築建物群です。つまり上掲の赤いコーンが置かれている築地塀の南側。この辺りが2階建て規模のホテルになりそう。(資料1)2022年の後半、このあたりの築地塀はそのまま残っているのでしょうか。道路環境もリノベーションされているのでしょうか。築地塀沿いに国道369号線手前の歩道まで歩きます。 国道に出る手前で、北方向には池のある景色が広がります。大きなマゼンタ色の丸を追記した所です。このエリア、「みとりゐ池園地」と称されています。池の名は「みとりゐ池」。この名前は、この場所から春日大社一の鳥居が見渡せたことに由来するそうで、「見鳥居」池とも。(資料2)また、後世に「みとゐ池」や「みどり池」という呼び名に転じたという説もあります。(後掲の案内板より) 歩道を北に少し進み、池の西側から東を眺めた景色。時代劇のロケ地になりそうなシーン。この景色、どれくらい時代を遡れる景色でしょう・・・・。 池の畔に「轟(とどろき)橋」と刻された石碑が立っています。 近くに、「京街道と南都八景」というタイトルでの案内板が設置されています。 少し北には、「雲井阪」と刻したもう一つの石碑が立っています。案内板の説明とその他資料を併せて簡単にまとめてみます。 掲示の地図を切り出してみました。現在の国道369号線は、奈良時代の都である「平城京」の東端「東七坊大路」が南北に通じていたところをそのまま踏襲しているそうです。この東七坊大路は、平城京の「外京」と称されたエリアの東端になります。別名「東京極大路」です。外京のエリアに現在の奈良市が位置している対応関係になります。この大路の東側は東大寺の境内、西側は興福寺の境内が広がっていたようです。(資料3,案内板)そして、江戸時代には「京街道」とも称され、奈良と京都を結ぶ主要道路の一つとなっていたそうです。江戸時代に出版された『大和名所図会』(寛政3年編纂)には「轟橋」の項があり、「東大・興福両寺の中間、押明門の南にあり」と簡単な説明を加えています。そして、 打渡る人めも絶えず行く駒のふみこそならせとどろきの橋 多宗 『奈良八景』と詠まれた歌を掲載しています。(資料4)京街道を往来する人々が途切れることなくこの轟橋を渡っていたと歌に詠まれています。このみとりゐ池から流れ出る小川が京街道と交差する所に「轟橋」が架けられていました。この橋「東西4間4尺(約8.5m)、南北1尺1寸(約0.4m)の小さい橋」(資料5)だったと言います。雲井坂は、「とどろきの橋の北にあり」(資料4)と『大和名所図会』は明記しています。そして、次の歌を載せています。 村雨の晴間に越えよ雲井坂三笠の山は程ちかくとも 藤原為重 『奈良八景』現在の国道は緩やかな道になっています。これは昭和初期に道路が整備される時になだらかに改良された結果だそうです。(資料5)江戸時代の「当時は荷車を押して上がらなければならないほどきつい坂だった」(案内説明より)と言います。 『絵本通宝志』には、こんな絵が載っています。享保14年(1729)発行・安永8年(1779)再刻の再刻版。(資料6) 左は「轟橋行人」図で、右は「雲井坂雨」図です。この絵の橋のイメージと上記轟橋の橋幅の説とは整合しない印象が残ります。時代による違いがあるのかも知れませんが。雲井坂はちょっと厳しい坂だったというイメージは整合しますね。雲井坂には、怪物にまつわる話が伝承されているそうです。孫引きになりますがご紹介します。「一、今は昔、理源大師が、大峰山に登ったとき、大蛇が現れ、雲井坂まで追ってきました。このとき、黒雲が大師の前を覆ったので、雲居坂と呼ぶようになったと言います。その時、鈴谷左近将監が剣で大蛇を退治したので、大師はその霊をまつったということです。 二、今は昔、東大寺西大門があったころ、この門に掲げられた額を舐めに毎夜のように龍が舞い降りました。この龍が雲を巻き上げたことから雲居坂の名がついたと言うことです。 三、今は昔、蜘蛛が空中から降り、額を舐めるのを弘法大師が鎮めたため、その後は異変が起こらず、蜘蛛降坂とよんだとか。」(資料5)『大和名所図会』に記す「押明門」はどの辺りかと調べてみましたが不詳です。雲井坂の石標のある近くに、上掲の地図を見ますと、「押上町」のバス停が表記されています。地名「押上町」の押上と「押明門」の押明がひょっとしたら転訛という形でリンクしているのかもしれないな・・・・ふと、そんな気がしてきました。ここでも課題が残りました。さて、この辺りで「登大路町」交差点に戻り、ここから歩道沿いに「県庁東」交差点まで南進します。 登大路町交差点から南西方向の景色 南に歩み、振り返った景色。東側の白い築地塀の向こう側は、登大路町交差点に近い側に「知事公舎」があります。一方、県庁東交差点に近い側に、塔頭寺院旧世尊院があります。こちらの既存の建物は改修整備されるようです。旧世尊院は多目的ホールとしての活用されるとか。古都の景観を壊さずに、どのように変貌するのでしょうか。この松林一帯はそのまま維持されるようです。 「県庁東」交差点に近いところで、築地塀前に石柵で囲まれた石碑が建立されています。石柵の前に駒札が建ててありますが、褪色して読みづらくなっています。駒札が「中村直三農功之碑」と記されていることがかろうじて判読できます。顕彰碑が建立されているようです。水原民造著『中村直三農功之碑 : 附・略伝』が国立国会図書館に所蔵されているのが分かりました。(資料7) こんな道標が歩道脇に立っています。「右 大坂 □せ 左 うぢ □」(私には二文字を判読できません。) 交差点の地下歩道入口傍に、万葉仮名で刻された万葉歌碑がぽつねんと立っています。 見渡者 春日之野邊尓霞立 開艶者桜花鴨何とか文字を識別するとこんな文字列が刻されています。手がかりになりそうな部分を判読して、調べてみると、 見渡せば春日の野辺に霞立ち咲きにほえるは桜花かも 巻10-1872という歌です。巻10の春雑歌、花を詠める20首の19番目に載っています。(資料8)、何の説明もないので、多くの人には意識の外にある石造物に過ぎなくなっているかもしれません。意識的に写真を撮っていなかったら、私も多分気づかずに、スルーしてしまっていたでしょう。 築地塀の南端傍に「拍子神社」があります。春日大社の境外末社です。(青色の丸を追記した所)かつてはこのあたりも境内の一部だったあのかも知れません。祭神は拍子神(ひょうしのかみ)。「南都楽所の祖で鎌倉時代の雅楽の達人狛近真をお祀り申し上げる御社」(駒札より部分転記)だそうです。諸芸発達の神様です。吉城園周辺がどのように変貌するのか・・・・想像しつつ、いつか対比的にその変化を確認できることを楽しみにして、現状の周辺観察を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1)【奈良市】森トラスト 吉城園周辺地区保存管理・活用事業 2021年4月 :「URBAN-NOTES」2) みとりゐ池園地 :「奈良公園」3)『新選 日本史図表』 監修 坂本賞三・福田豊彦 第一学習社4) 大日本名所図会. 第1輯 第3編 :「国立国会図書館デジタルコレクション」5) 旧京街道と押上町、今小路辺り :「奈良きたまち~歴史のモザイクのまち~」6) 『絵本通宝志』 日本古典籍ビューア:「人文学オープンデータ共同利用センター」7) 中村直三農功之碑 : 附・略伝 :「国立国会図書館デジタルコレクション」8)『新訓 万葉集 上巻』 佐佐木信綱編 岩波文庫 p407補遺平城京 :ウィキペディア大和名所図会. 巻之1-6 / 秋里舜福 [著] ; 竹原信繁 画:「早稲田大学図書館」【轟橋(南都八景)】歩道に埋め込まれた石材が小さな橋の唯一の面影 :「奈良まちあるき風景紀行」中村直三農功之碑 :「グルコミ」中村直三 :ウィキペディア中村直三 :「コトバンク」第十巻 : 見わたせば春日の野辺に霞立ちも :「たのしい万葉集」万葉の古都奈良 :「菊一文珠四郎包永ブログ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 奈良市 「吉城(よしき)園」3つの庭を楽しむ -1 池の庭 へ観照 奈良市 「吉城(よしき)園」3つの庭を楽しむ -2 離れ茶屋と苔の庭 へ観照 奈良市 「吉城(よしき)園」3つの庭を楽しむ -3 茶花の庭と戻り道 へ
2022.02.16
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苔の庭から「茶花の庭」へはこの道標が誘いとなっています。 吉城園の3つの庭の配置図を再掲します。苔の庭の北東隅が起点になります。 階段道を上って行くと、「あずまや」が見え始めます。 小径沿いに進むと、コンクリート製の素朴なベンチが置かれています。 回り込むと、「あずまや」の全景が見えます。中央の柱をベンチがロの字形に囲み、周囲をぐるりと見わたせるふつうのあずまやです。庭園の公開にあたって整備されたあずまやという印象を抱きました。この茶花の庭は、その名のとおり茶席に添える季節感のある草花などが植えられているそうです。全体は素朴な雰囲気の庭になっています。今は冬涸れという感じですが春、夏、秋と季節に応じた花々が咲き、瑞々しい一輪の花が離れ茶室の床に生けられるのでしょう。あずまやの周囲を眺めてみましょう。 茶花の庭の南西側からの眺めです。 左側の小径を歩み、あずまやに近づいた景色です。小径沿いに枯山水の川の流れが作られています。春の景色がいいでしょうね。 あずまやから少し離れて 庭の一隅に立つ石碑が目にとまりました。 近づいてみますと、「ことり塚」と刻されています。小鳥たちの供養墓として建立されたのでしょうね。茶花の庭は、春・秋には華やかさを加えた庭に変貌するのだろうなと想像しながら、受付所の方に戻ることにしました。 苔の庭を東側から眺めた景色。西端に離れ茶室が見えます。 石灯籠の位置からどの辺りになるかをご想像ください。茶室側からこの苔の庭を散策する人が来ます。 この石灯籠、火袋は東西方向だけに火口があけられています。 苔の庭の小径をこの先で右折します。 吉城川沿いの石敷道に出ます。これらは振り返って撮った景色です。道の高さに近い位置に築地塀の瓦屋根が見えています。吉城園の吉城川沿いの境界塀です。川を挟んだ北側は「依水園」です。 石敷の小径を進行方向で撮った景色です。 苔の庭からは一段低い位置になる北辺を歩いていることになります。 この辺りも築地塀の屋根が小径とほぼ同じ高さになっています。 振り返った景色。右斜め上方向の先に、離れ茶室の萱葺き屋根が見えています。 受付所のすぐ近くの「あずまや」を見上げながら、その傍の小径を進みます。 吉城川沿いの築地塀が、小径よりも高く普通の築地塀の位置関係に見える形になってきました。 その先に受付所の背面が見えてきました。これで、偶然に出会った庭園「吉城園」のご紹介を終わります。いずれ季節を替えて、花の咲く時季の景色を、リピーターとして再訪したいと思っています。ご覧いただきありがとうございます。参照資料当日、受付所でいただいた「吉城園」(園内案内)のリーフレット補遺隠れた奈良公園にある日本庭園『吉城園』|奈良観光コンシェルジュが奈良市の庭園をご紹介:Yoshikien Garden in Nara City|Nara YouTube奈良の庭園 依水園 ホームページ奈良県)県立奈良公園2カ所に高級宿泊施設 公共空間の利用、経済力の有無が左右 県が富裕層狙い誘致 2017.12.15 :「ニュース 奈良の声」【奈良市】森トラスト 吉城園周辺地区保存管理・活用事業 2021年4月 :「URBAN-NOTES」奈良)奈良公園ホテル、開業は2022年夏ごろに延期 :「朝日新聞DIGITAL」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 奈良市 「吉城(よしき)園」3つの庭を楽しむ -1 池の庭 へ観照 奈良市 「吉城(よしき)園」3つの庭を楽しむ -2 離れ茶屋と苔の庭 へ
2022.02.15
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順路の分岐点に戻り、離れの茶室への石段道を上ります。 石灯籠、そしてその手前に手水鉢が置かれています。 萱葺き屋根の離れ茶室の玄関口に向かうと、 正面の板戸の向こうに広がる庭が目に入ります。 玄関口の板の間左側は一部が竹の柵で囲われ、その前に「羅浮山(らふさん)」という題の案内板が設置されています。「板張り床の向こうに、騎馬武者を描いた杉戸絵があります。その上に掲げられた扁額は『羅浮山』と書かれています。『羅浮山』とは、中国・広東省増城県北東の大洞窟のある仙術修験の山です。後水尾天皇の第16皇子の真敬親王(1649~1706)が、彼の姉で、第1皇女の文智女王に長く仕えた、上臈尼が所蔵していた手水の立石(後にこの茶室の玄関の左手にしつらえられた)のたたずまいを、ご覧になって、『羅浮山』と命名されたと言われています。」(転記) この案内文に2つの注釈が付けてあります。「・真敬親王は一乗院門跡、興福寺別当を務められた。御陵は吉城園北東500m、東大寺境内の一乗院墓地である」この最初の注釈は先日、スポット探訪としてご紹介した陵墓に祀られている法親王の一人ということで思わぬ繋がりがありました。「・文智女王は、1610年の21歳で、尼寺の円照寺(山村御殿)を開かれた。」 玄関で少し右方向に目を転じますと。説明にある扁額と杉戸が見やすくなるとともに、この離れ茶屋の間取りも大凡が解り始めます。玄関の土間から建物内部を拝見するだけなのが残念でした。(この茶室は手続きして茶室利用料金を支払えば利用できるそうです。) 玄関口からのズームアップで 玄関口から東に広がる苔の庭への散策路の景色をズームアップしてみました。この離れ茶室を外回りで拝見してみましょう。 玄関の土間を出て、左側を眺めた景色 玄関へのアプローチの途中、少し右奥側にある門扉 斜めからの屋根の眺め 離れ茶室から少し西に離れて、散策路の分岐点からの眺め 少し離れた位置の散策路を回り込むとき、北側からの景色 離れ茶室の西側に回り込みます。 建物に近づき、北側面から眺めた景色。軒を支える柱は、丸木の自然の歪みをそのままに利用されています。 鉄製吊り灯籠が素朴な風情を漂わせています。 西側からの全景 苔の庭(西側)の散策路から離れ茶室に近づきます。 自然石敷きの小径の間に大きな建物の礎石に使われたような加工石と飛石が置かれ小径のアクセントになっています。さて、ここで垣根を入った路地側は、まず東端まで行った景色から順次ご紹介していきます。 表側の門扉から露地伝いに入ってくれば、まずこの待合に至り、ここに留まる形でしょうか。 待合側に立って、離れ茶室の南側面を眺めた景色 右側は離れ茶室の南側面です。左側の簡易な竹垣を挟み、南側には 蹲が設けてあります。かなり苔蒸している手水鉢です。細い丸竹で水が引きこまれています。後には奇妙な形の石灯籠が置かれています。由緒のあるものかも・・・・・。 こちらが茶室の躙り口のようです。 離れ茶屋を南東側から撮った景色それではこの分岐点の標識を起点に、「苔の庭」へと歩みましょう。 庭園の北辺寄りの道を進むとこんな感じで苔の庭に進んでいくことになります。 離れ茶屋に近い散策路を起点に進むと、 苔の庭は、小雨気味の方が瑞々しさが際立ってくるかもしれません。何種類くらいの苔が使われているのか不詳ですが、東西方向に平坦な地形と起伏のある地形が巧みに組み合わされて広い空間となり静寂さを漂わす庭が広がっています。人影を見ることなく広い苔の庭を散策できてハッピーな時間でした。苔の庭の南西隅から「茶花の庭」に向かいます。こちらは地形が高まって行きます。吉城園では一番高い位置になる場所です。つづく参照資料当日、受付所でいただいた「吉城園」(園内案内)のリーフレット補遺吉城園 :ウィキペディア【円照寺(山村御殿)】内部は非公開の「日本を代表する門跡寺院」の一つ :「奈良まちあるき風景紀行」(奈良)「正午の祈り」続ける圓照寺の萩原道秀門跡に聞く:「朝日新聞DIGITAL」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 奈良市 「吉城(よしき)園」3つの庭を楽しむ -1 池の庭 へ観照 奈良市 「吉城(よしき)園」3つの庭を楽しむ -3 茶花の庭と戻り道 へ
2022.02.14
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これも意図せぬ偶然のうれしい出会いです。 わかりやすい道筋でその位置(奈良市大路町60番地の1)をまずご説明しましょう。奈良県庁北側の東西の道路と国道369号線との交差点「登大路町」を横断して、東に進みます。道路は突き当たりで左(北)方向にカーブします。道路右側の築地塀ぞいに歩けば、この案内板が設置されています。案内板に庭園図が載っています。その先に冒頭の門が見えます。まず、入園料が無料という案内に目がとまりました。奈良県立美術館や国道369号沿いは幾度か来ていますが、こちらの奥の道まで足を向けたことがありませんでした。 こちらは当日受付所でいただいたリーフレットから切り出した園内案合図です。この場所には「興福寺古絵図」によれば興福寺子院「摩尼珠(まにしゅ)院」があったそうです。明治に民間の所有となり、平成元年(1989)4月1日より、「吉城(よしき)園」として、庭園鑑賞と茶会利用のために開園されたと言います。(資料1)開園当初は入園料が必要だったそうですが、2020年4月より無料公開になっています。現在は奈良県が所有。(資料1,2) 門を入ると、目前に受付所があります。その右傍に順路標識が立ち、石段の小径です。 石段を上ると、すぐ左に割と急な石段道があり、頂上に「あずまや」が見えます。このあずまやは池の庭全体から見れば、築山に相当する位置づけで、築山にあずまやが建っているというところです。自然の地形が巧みに利用されています。 東屋の天井には竹が使われています。竹の褪色が歳月を感じさせます。 あずまやから「池の庭」を見おろした景色です。池の東側に「旧正法院家住宅」(吉城園)が見えます。この邸宅「吉城園」は正法院寛之という実業家により、大正8年に造られたと言います。正法院氏は、かつて東大寺の僧侶の家柄だったと推察されているそうです。(資料3)平成23年3月、大正期の近代和風住宅として、奈良県有形文化財に指定されています。(資料1) あずまやから南側の石段道を下ります。 振り返って石段道を撮ってみました。 池の北辺を回り込み、主屋側を拝見。砂利の庭に飛石が敷かれていて、建物の縁側に誘う小径が設けてあります。住宅は非公開。 旧正法院家住宅(吉城園) 池の北辺側から眺めた景色 池の東側を順路にそって歩み、途中で振り返って、北西方向を眺めた景色 池の西側の景色 庭園内の小径は、「苔の庭」への道(順路)と「離れ茶室」への道に分岐します。 まずは離れ茶室側に行きます。途中、池の庭の南西側への小径をまず探訪。 池の南辺側は深く切り込まれた渓谷の風情を漂わせて、南端に滝が設けてあります。 主屋の南側に回り込むと蔵が建てられています。この先で行き止まり 池の南から北方向を眺めた景色 池の畔に、石灯籠の残闕(中台・火袋・笠)が置かれています。火袋の一面には、楽しげな唐子が浮彫にされているような印象を受けます。 離れ茶屋への小径に進む前に見かけた「十三重塔」です。石塔の背後に茶室の藁葺屋根が見えています。離れ茶室のある場所は、池の庭より一段高い位置になります。丘陵状の地形の起伏を巧みに取り入れた作庭が施されています。つづく参照資料1) 当日、受付所でいただいた「吉城園」(園内案内)のリーフレット2) 吉城園 :ウィキペディア3) 奈良の名庭園邸宅「吉城園」~近代和風と寺院様式の織りなす名建築~ :「ABS朝日」補遺吉城川 ― Yoshiki-river ― :「奈良観光.jp」奈良県景観資産-奈良公園内を流れる吉城川- :「奈良県」奈良公園を流れる川 吉城川水系 :「川を訪ねる旅」吉城川の想い出(1) :「安達正興のハード@コラム」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 奈良市 「吉城(よしき)園」3つの庭を楽しむ -2 離れ茶屋と苔の庭 へ観照 奈良市 「吉城(よしき)園」3つの庭を楽しむ -3 茶花の庭と戻り道 へ
2022.02.13
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1月に奈良国立博物館を訪れた後、東大寺境内に足を向けました。南大門と仁王像を眺めて北に歩みます。見慣れた参道を進むのはおもしろさに欠けます。東大寺総合文化センターに沿った北側の道は今までに歩いたことがありません。 北側の築地塀の姿に惹かれて、築地塀沿いに西方向にずっと延びるこの道を歩いてみることにしました。砕片瓦が壁土の層と一定間隔で均等に埋め込まれて積み上げられています。版築という技法を使っての築地塀とはたぶん異なる技法なのだと想像しますが、定かではありません。元々は壁土で表面が化粧されてすらりとした土塀になっていたのが、風雪により表面が剥離して地が露出してしまった・・・・・そんな印象を抱いています。いずれにしても、この塀に沿い人通りのない静かな道を歩くのはなかなかいい。 道路で目に止まったマンホールの蓋。汚水用の蓋です。桜の花と「奈」の文字がデザイン化されています。後で地図を確認しますと、この東西の道路の西端までのおよそ3分の1位進んだところに、 この門が設けてあります。四脚門です。 当日は全く意識していなかったのですが、記録写真を見ていてはたと気づきました。門の左右の壁を見比べて見て下さい。西側は築地塀の表面を綺麗に塗って均質な土壁に仕上げてあります。東側は意識的に塀の内部構造がわかるようにそのままにしてあるということなのでしょう。私個人的には、東側の壁に惹かれます。歳月の風趣を感じます。 門前に立ち、境内を拝見。北に延びる参道の先にお堂があり、東側に建物が見えます。地図によれば、「勧学院」の建物群です。 参道脇にこんな道標が置かれています。以前はどこかに道角に建てられていたものでしょうね。右方向に行けば大佛、二月堂ですよと示しています。ここにあるのがちょっとユーモアか。 西側を眺めると、築地塀の姿が截然と変化します。塀の高さ自体が半減します。塀の表面も変わります。この築地塀の境界がたぶん寺域の境界でもあるのでしょう。境内の東側にこの建物が見えています。地図によれば、「真言院」です。真言院は「大和北部八十八ヶ所霊場」の第12番札所のようです。(資料1)しかし、この「大和北部八十八ヶ所霊場」の公式サイトを見ますと、そこには公開されていないことがわかりました。(資料2) 真言院の築地塀の西端まで歩くと、道路脇に宮内庁の案内板が設置されています。「尊覚親王墓以下二墓、一乗院宮墓地」とあります。こんなところに陵墓があるのは知りませんでした。 思いつきの初道歩きですから、勿論立ち寄ってみることに。北方向に真っ直ぐの参道が延びています。これも後智恵なのですが、この左、西北方向のだいぶ先ですが少し高めにこんもりとしています。地図をみて、東大寺の西塔跡がその辺りに位置するということがわかりました。現地には説明板など見かけていません。 墓域に近づくと、参道の右(東)側に広い空間が見えます。 墓石群は墓域の東辺が一段高く造成されていてそこに祀られています。参道脇に石柵以外に鉄網の門扉が設けて有り、閉ざされています。 墓は五輪塔形式で設けて有り、二基が石柵に囲われていて、その左横に3基の五輪塔が並んでいます。他にもかなり離れて左右に2基の五輪塔が見えます。墓所へ導く砂利道の途中に、標石が建てられていて「後陽成院天皇皇子 尊覚法親王御墓 後水尾院天皇皇子 真敬法親王御墓」と刻されています。つまり、石柵で囲われた2基の五輪塔をさすのでしょう。そこで一乗院宮墓地という名称はなぜ?という疑問にぶつかりました。調べてみますと、一乗院は興福寺一乗院を意味します。奈良市登大路町に970年定昭が創建した塔頭です。それが歴代の門跡寺院になり、大乗院と並ぶ巨大な組織となっていたそうです。門主になった法親王は順次一乗院宮と称されることになりますね。明治維新後に門主が還俗し春日社大宮司となるに及んで、一乗院は廃絶となりました。(資料3)一乗院宮墓地という名称の陵墓はもう1ヵ所ありました。喜光寺に所在する一乗院墓地です。こちらには五輪塔が4基祀ってあるそうです。(資料4) 門扉から少し北まで進みました。だが、その先は行き止まりの感じでしたのでここで引き返すことにしました。自宅で地図を確認しますと、貫通した道が付いているようには記載されていません。一方で、北側からこの一乗院宮墓地にアプローチする道が途中まで描かれています。その道は北方向に進めば、「指図堂」の西側を通る道です。これで思いつきの散策探訪のまとめを終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 大和北部八十八ヶ所霊場 :ウィキペディア2) 大和北部八十八ヶ所霊場 ホームページ3) 一乗院 :「コトバンク」4) 一乗院墓地(喜光寺) :「奈良寺社ガイド」補遺法相宗別格本山喜光寺 ホームページ東大寺真言院・勧学院(2013年1月3日参拝):「Gomaler's~神社仏閣巡り~癒やしを求めて」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2022.02.11
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1月に奈良国立博物館に出かけたことは既に拙ブログに書き込みました。JR奈良駅から三条通を東に上って行き、猿沢池の北西辺が見え始める辺りで、道路の左側に見える興福寺への石段道を上り、南円堂を眺めつつ右折して興福寺境内を横切って行き、奈良公園に向かいます。それがいつもの私の往路ルートです。冒頭の景色は、石段の途中から三重塔へむかう道を撮った景色。この日、久々に三重塔への道に何気なく足を踏み入れました。三重塔までは幾度も行っています。手前の大木の前に立つ板碑には、右から「救世観世音菩薩 出世地蔵尊 延命能師地蔵尊 水子地蔵尊」と刻されています。ここには数多くの石仏が祀られています。 地蔵尊の傍に小児が寄り添うように立っています。台座の正面には「延命地蔵尊」と刻まれています。この辺りの石仏等は以前にご紹介していますので省略します。 少し先に、「三重塔」があります。 その手前で北方向への坂道 南方向はというと、境内の門が閉まっています。扉の隙間から撮った景色。三条通へ出られる坂道です。ここはずっと閉鎖されていますので、今まで気にしたこともありませんでした。この北への坂道を歩くことがありません。遠回りになるのを承知でこの坂道を上がって、普段と違った視点からの景色を見つつ、興福寺境内を横切ることにしました。 この三重塔は普段は非公開。一度、特別公開の機会に運良く出くわし拝観したことがあります。調べてみますと、「7月7日のみ内陣公開」と公開情報の記載がありますので、その日だったか、あるいは何らかの特別公開期間に該当していたのでしょう。この三重塔婆は国宝です。平安時代末期の1143年、崇徳天皇の中宮の皇嘉門院聖子が建立しましたが、1180年に焼失し、間もなく再建されたと言われています。鎌倉時代の建物で、平安時代の建築様式を伝えているそうです。興福寺の伽藍の中では、北円堂と共に最古の建物になります。(資料1)丘陵上の境内地では一番低い位置に立地する建物です。通常の年に中金堂や五重塔あたりに観光客を大勢みかけても、この三重塔前ではあまり観光客を見かけません。 坂道を途中まで上ると、正面に見えるのが「北円堂」だとわかります。坂道の左側は築地塀、右側は木柵です。 右に「南円堂」の普段は目にしない背後からの景色が移ろっていくのを眺めつつ坂道を歩むと、正面には北円堂が少しずつ大きく見えてきます。 北円堂運慶一門が作った本尊弥勒菩薩坐像とその脇侍される無著・世親の像が安置されていることで有名です。創建堂とその後2回の焼亡と再興の時代は藤原氏、氏人の追善供養堂でしたが、平重衡の南都焼き討ちで焼亡しました。その後28年の歳月をへて鎌倉時代に現在の北円堂が再興されました。その時には法相宗祖「弥勒の太閤」と位置づけられ、僧侶達の宗祖師堂へとその機能が変容していったそうです。(資料2) 北円堂の南側の道路から、「中金堂」と北側の「仮講堂」を眺めた景色。まだまだ周辺の整備作業(/調査)進行中のようです。 北円堂の南側の道を進み、右折して南円堂の方に戻ります。定規筋の入った築地塀と門が見え、その南側に二階建の建物「納経所」が見えます。納経所の右側にみえる八角形の屋根が南円堂です。その間に低く見える寄棟造屋根の建物が「一言観音堂」(興善院)です。三条通から石段を真っ直ぐに上がってくると、境内地の突き当たりに一言観音堂、斜め左側手前に南円堂、一言観音堂の右側に納経所の建物という景色が目に入ります。この納経所まで戻れば、左折して無料休憩所の前を過ぎ、左側に中金堂の南面を眺めながら五重塔前まで横切り、さらに東金堂と五重塔の間の道を東進することになります。一言観音堂は「霊験七観音巡拝所」の一つです。一言だけ願いを聞いてくださる観音さまだそうです。「古くから霊験あらたかにして諸々の願い事を一つづつ聞き届けて下さる御仏であります。一度に多くを願わず成就すれば次のお願いをするようにしましょう」という説明が掲示されています。(資料3)奈良には、葛城一言主神社があります。一言主神への祈願と同じような祈り方ということになりますね。この一言観音堂は4月17日の「放生会」の法要が行われるお堂でもあり、貫首が金魚たちに仏教の戒律を授けるというユニークな儀式をおこなって、猿沢池に放つそうです。(資料3) 奈良公園に入れば、奈良国立博物館常設の展示案内板です。 奈良公園内の道を奈良博に向かって歩き途中で立ち止まって前方と振り返った景色を撮ってみました。平日の昼間だったとはいえ、こんな様子です。コロナ禍の影響が大きく影響しています。 少し先で、北東方向を見ても、人の姿は見えません。右奥に見えるのは奈良国立博物館の旧館です。北側の大きい建物が「なら仏像館」と現在は名称を変えています。中央の大きなホールを軸にして、南北に張り出した建物の部分が展示スペースと回廊になっています。それに繋がっている一番手前の建物が「青銅器館」として使われ、中国古代青銅器<坂本コレクション>の常設展示室となっています。(資料4) 新館の手前まで来ても、こんな感じで休館かと勘違いしそうな閑散さでした。あとは、奈良博の西新館の1階テラスからの庭の冬の景色を、記録を兼ねご紹介します。 プシュ式のスライド・ドアからテラスに出ると、ほぼ長方形の池が庭園内の池と繋がる形で存在し、庭園公開時以外は、庭側の門扉が閉まっています。外に出た辺りで南東側から南西側を眺めた景色です。 立ち位置を少しずつ変えて眺めて行きます。 池に水草がないので、庭園内の池との接合部もスッキリと見え、少し位置を変えることで、水面に映る樹木や空が変化し、雰囲気も変化します。 萱葺き屋根の建物は茶室「八窓庵」です。テラスには、「八窓庵」の案内が設置されています。江戸中期に創建され、草庵式・入母屋造萱葺平入屋根、柿葺の土間庇という様式で、古田織部好みの茶室です。「もとは興福寺大乗院の庭園(現在の奈良ホテルの南)に建っていた古茶室。奈良の篤志家たちにより、明治25年(1892)に博物館に寄贈、移築された。一名、含翠亭という。 東大寺四聖坊にあった隠岐録(おきろく、東京に移築、戦災で焼失)、興福寺慈眼院の六窓庵(東京国立博物館に移築)と併せて「大和三茶室」と称された。創建当初の姿を良く保っており、茶室(四畳台目)に相の間(四畳)と水屋(三畳)が附属する。織部好みとされるこの茶室は、千利休の好む極端に狭い茶室から、小堀遠州が好んだ四畳半台目のゆったりとした茶室に移行する中間のきわめて貴重な遺構である。」(転記) テラス側のほぼ長方形の池と、庭園内の池とはこのように繋がっています。 西新館側から庭に入り、宝篋印塔が置かれた手前の小径を西に歩めば、上掲の平石の架け橋に至ります。 池の奥側つまり南側には、もうひとつの木橋が架けてあります。 木橋の東詰には待合の建物が立ち、橋を西に渡ると茶室への門扉が見えます。門扉から八窓庵の躙り口までの景色を奈良博の「茶室 八窓庵」のページに360度の展望ができるように工夫してあります。こちらからご覧ください。(今回、調べていて気づきましたので・・・・ご紹介) テラスから、八窓庵の妻側(側面)の眺め 手前に、「宝塔(国東塔)」が置かれています。石製で鎌倉時代14世紀の作とのこと。(資料5)この宝塔の姿を関西では殆ど見かけません。ユニークさに溢れる形状です。法華経見宝塔品に基づく一種の宝塔で、天沼俊一博士により「国東塔」と命名されて以来、これが愛称されるようになったと言います。塔身の首部に穴が作られていること。塔身の直下に蓮華座や反花よりなる台座があること。相輪の頂上に火焔のあることなどの特徴を持っています。九州の国東半島に分布し、その周辺にも点在すると言います。ある時点での酒井富蔵氏の調査結果によれば、有銘32基、無銘113基計145基に及んでいるそうです。西三郷(西国東)に圧倒的に多くが分布し、東三郷(東国東)には数量は少ないが優秀品が集まっていると言います。鎌倉末期から南北朝期に有銘塔が多く、室町期には殆ど無銘塔になるとか。石材は一部凝灰岩を除き、ほとんどが角閃安山岩だとか。銘文の調査によれば、納経、供養、逆修(生前供養のため)、あるいは墓標として建立されています。国東仏教文化遺産の代表としては弘安6年(1283)造顕の岩戸山国東塔(重文)があります。岩戸寺は六郷山・末山本寺の名刹です。(資料6) 西新館の南西隅から北方向の景色。 南西隅から東方向を眺めた景色。テラスに沿い設けられた池は西新館の北、西、東の三方を囲っていることがわかります。 同じ位置から庭側を眺めた景色そして、 小ぶりな石造物が木の根本にちょこんと置かれているのに気づきました。これは何? 人物像のように見えますが、石塔の欠損部材でしょうか・・・・正体不明。課題が残りました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 三重塔 :「興福寺」2)『比べてもっとよくわかる仏像』 熊田由美子著 朝日新聞出版 p1953)[興福寺一言観音堂]放生会の会場にもなる小さなお堂で「一言」の祈りを捧げる :「奈良まちあるき風景紀行」4)なら仏像館 建物について :「奈良国立博物館」5) 宝塔(国東塔) 画像データベース :「奈良国立博物館」6)『国東文化と石仏』 文 大嶽順公 写真 渡辺信幸 著 木耳社 p92-93,p98補遺興福寺 ホームページ 境内案内葛城一言主神社 ホームページ一言主神社(御所市) :「いかすなら」妙法蓮華経見宝塔品第十一 :「広済寺と近松門左衛門」国東塔 :ウィキペディア岩戸寺(国東市) :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)1月の奈良博での特別展については、こちらをご覧いただけるとうれしいです。観照 奈良国立博物館 名画の殿堂 藤田美術館展 -傳三郎のまなざし-
2022.02.10
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1階南辺の回廊に回ると、北側壁面に「綴プロジェクト」製作の高精細複製品6曲1双の屏風が2組展示されています。 回廊の南側はガラス壁面で京博の明治古都館、ロダン作考える人像、西の庭が一望できます。庭に出てから眺める景色とはまた違った雰囲気を味わえます。ここに展示されている「綴プロジェクト」が製作された高精細複製品の屏風は、京博に寄贈された作品です。日本のデジタル複製技術の高度な水準が発揮されています。「海外に渡った日本の文化財」を一般美術愛好者として手軽に傍近くで鑑賞できて有益です。たとえば、京都・建仁寺・方丈の襖絵、海北友松筆「雲龍図」も現在は高精細複製品で代替され、原本の絵は文化財保護の観点から軸仕立てにされて保存管理(京博への寄託)されています。建仁寺で代替後の襖絵を眺めました。ここにも綴プロジェクトが関わっています。「雲龍図」の絵と雰囲気を味わうには遜色ありません。高精細の美術書を楽しむのと変わらない。それより、現地現物の建物空間の中で本来の襖絵(障壁画)として鑑賞できるという点がいいし、写真撮影が可能になっていたのもうれしいことでした。(拝観時点の話。今も多分同じだと思いますが。)回廊に展示された屏風は撮影OKでしたのでご紹介できます。 右隻 式部輝忠筆「四季山水図屏風」(サンフランシスコ・アジア美術館所蔵) 左隻室町時代、16世紀の作品 傍にこの案内板が設置されています。それでは各隻を、右側から順次二扇ずつ部分図として眺めていきましょう。 第1・2扇 山水図は多くの場合、その絵の要所に人や馬、舟などが点描されています。その小さな点描が山水の風景の広がり、大きさを相対的に引き出し、さらにその情景にストーリー性を付与するのでしょう。鑑賞者がその点描された人に同化していくことによって・・・・。この山水図には、第1扇の下部、小径の途中に一人の人物と従者が描かれています。 第3・4扇 第5・6扇この右隻から左隻に目を転じていきましょう。 左隻第1扇と右隻第6扇に注目するとこのように連続していきます。 目を移動させていくことで、雄大な山水風景が広がっていきます。 第1・2扇 第3・4扇 第5・6扇細部を見ていくと、要所要所で人がいることに気づきます。その箇所をクローズアップしておきましょう。 全景の中のどの辺りかお確かめください。 回廊の西側から眺めた屏風の全景西側の屏風に移ります。こちらは以前にも撮っており、各隻全体の写真をうっかり撮り忘れました。右隻から二扇ずつ、眺めていきます。 第1・2扇 第3・4扇 第5・6扇左隻に移ります。 第1・2扇 第3・4扇 第5・6扇こちらは、伝狩野宗芳筆「韃靼(だったん)人狩猟・打毬(だきゅう)図屏風」(サンフランシスコ・アジア美術館所蔵)、桃山時代、18世紀の作品です。右隻が打毬図、左隻は狩猟図です。韃靼人はモンゴル高原で活躍した遊牧民族をさします。韃靼と言えば、司馬遼太郎が『韃靼疾風録』という歴史長編小説を書いていますね。1988年に第15回大佛次郎賞を受賞し、また司馬遼太郎の最後の長編小説になった作品です。(資料1) 馬に跨がった人々が先端部が弧状になった棒を使ってチームで行動しています。打毬とは「騎馬で二組に分かれ、まりを叉手(さで)網ですくって穴の中に投げ込みあう。ポロに似た昔の球技。」(『新明解国語辞典』三省堂)です。上掲の案内文には、「西洋のポロの一種)と付記されています。「打毬は,馬術競技の『ポロ』とその起源を同じくし,中央アジアの一角に発したものであろうといわれています。 西に流れたものがヨーロッパに伝えられて『ポロ』となり,一方,東に流れたものが中国で打毬となり,やがて朝鮮半島を経て,8~9世紀頃我が国に伝わったようです。」奈良・平安時代には、宮中で端午の節会の行事になっていたとか。江戸時代に八代将軍徳川吉宗が武技として推奨したと言います。(資料2)平安時代といえば『源氏物語』。打毬に関連する箇所があるだろうか?調べてみますと、蛍の巻の一節に「打毬樂、落蹲など遊びて、勝負の乱声どもののしるも、夜に入りはてて、何ごとも見えずなりはてぬ。」という記述があります。<打毬楽、落蹲などの舞楽を奏して、勝負の乱声など大騒ぎであるが、それも夜になってしまうと何もかも見えなくなった。>(資料3)手許の本の頭注に、打毬楽について説明が加えてあります。「唐楽で、騎射・競馬・相撲の時に行われる。四人の舞があり、唐人の装束で、毬(まり)を打木で掻きながら舞う。左楽。」(資料3)舞楽の一つを通して、少なくとも打毬というものの概念・イメージは宮廷の人々に認識されていたということでしょう。 狩猟図には、虎が追い込まれた場面も描かれています。これも「寅づくし」のプラス1件に連なりますね。 この屏風も何人が描かれているか、その描写の対比をしつつ、数えてみるのもおもしろいかも・・・・。時間がなくてしませんでしたが。 こちらも回廊の西側から屏風全景を撮ってみました。平成知新館から退場した後、定点観測じゃないですが、やはりロダンの考える人を撮ってみました。 これで終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 韃靼疾風録 :ウィキペディア2) 打毬 :「宮内庁」3)『源氏物語 3』 新編日本古典文学全集 小学館 p207補遺Canon 綴TSUZURI 文化財未来継承プロジェクト ホームページ 作品紹介建仁寺 ホームページ 建仁寺ギャラリー式部輝忠 :ウィキペディアAsian Art Museum San Francisco ホームページサンフランシスコ・アジア美術館における仏像調査 :「東京文化財研究所」サンフランシスコ:アジア美術館 :「わたしの気まま日誌」打毬 :ウィキペディア打毬 :「コトバンク」ポロ :ウィキペディアポロ :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都国立博物館 -1 往路点描、「京博のお正月」と2つの特集展示 へ
2022.02.01
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これは今回のPRチラシです。先週、1月26日(水)に京都国立博物館に行きました。主目的は恒例の干支づくしの新春特集展示を鑑賞するためです。今年は勿論「寅づくし -干支を愛でる- 」です。 当日平成知新館で入手した「京都国立博物館だより 2020年1・2・3月号」です。現時点では、併行して企画されている3つの特集展示を平成知新館で鑑賞できます。一つは、上記の「寅づくし」で2月13日までの期間です。併せて特集展示として「新収品展」(2月6日まで)と「後期古墳の実像 -播磨の首長墓・西宮山古墳-」(2月13日まで)を開催中です。当日入手の諸資料も参照・引用し、私の覚書を兼ねたご紹介をしたいと思います。まずは京博への往路の一部を少し点描風にご紹介することから始めます。私は京博に行く時、通常はJR奈良線の東福寺駅で下車して、本町通を北上し、大谷高・中学校の正門前の道路を北上し、JRの軌道上の陸橋を経由して、三十三間堂の南端の築地塀(太閤塀)が面する塩小路通まで出ます。塩小路通りを東に進み、「南大門」を通り抜けて、北方向に転じて京博に至ります。 南大門を通り過ぎ、少し東にすすむと、塩小路通の北側に駐車場のフェンスが見えます。その南西隅にこの石標が建てられています。 傍の壁面に歴史地理史学者・中村武生著によるこの案内銘板(2010年5月)が設置されています。「当地東山には、ながく『大仏』がありました。豊臣政権が造営し、徳川政府が維持したものです。その寺の名を、江戸時代以後、方広寺といいました。 現在も同寺は現存しますが、当時はいまと比較にならない広さで、三十三間堂(蓮華王院本堂)や法住寺、養源院などもその境内に含まれていました。現在地はその南限にあたあります。蓮華王院南大門(正しくは『大仏南門』)と太閤塀はそのなごりです。その前(南側)の道も、一般には塩小路通とよびますが、『大仏南門通』と別称されています。付近にある『大仏変電所』の名もそれゆえです。 幕末期、この大仏南門近くに、坂本龍馬ら土佐出身の志士が住んでいました。ここで龍馬は、妻楢崎龍(のち鞆。龍馬の死後再婚して西村ツル)と出会うことになります。たまたまその母貞(てい)と末娘君江が同所で賄いをしていたからです。 このことはお龍(りょう)の晩年の回想録『反魂香』に記録されています。すなわち『<大仏南の門の今熊の(野)道>の河原屋五兵衛(瓦屋の五郎兵衛の意か)の隠居所を借りて、<中岡慎太郎、元山(本山)七郎(北添佶摩)、松尾甲之進(望月亀弥太)、大里長次郎(大利鼎吉)、菅野覚兵衛(千屋寅之助)、池倉太(内蔵太)、平安佐輔(安岡金馬)、山本甚馬、吉井玄蕃、早瀬某、等』と同居していたといいます。 が、これが事実かどうか、ながくわかりませんでした。これを裏づけたのが、お龍の回想にも出てくる北添佶摩の書翰でした(元治元年<1864>5月2日付、母宛)。そこに『私義は此節は、洛東東山近辺瓦町と申す処へ居宅を借受け、外に同居の人五・六人も之れあり不自由なく相暮らし居候』とあるからです。当地の南向かいの地名はいまも『本瓦町』で、北添が龍馬らと暮らしていた地であったにちがいありません。 当地は同元治元年6月5日、新選組を有名にした池田屋事件の際、龍馬や北添らの住居であったため、京都守護職などの役人に踏み込まれます。龍馬らは不在でしたが、貞や君江が連行されました(まもなく釈放)。ちなみに北添はこの事件で戦死します。その後の8月初旬、帰ってきた龍馬は、お龍と青蓮院塔頭金蔵寺(現東山区三条通白川橋東入ル南側)で内祝言(内々の結婚式)を挙げることになります。 以上の理由から、当地を重要な幕末史蹟として建碑し、顕彰するものです。」(転記) 石標の東面には「大仏(方広寺)旧境内地南限」と刻されています。塩小路通の東から西方向を眺めた景色です。 南大門を通りぬけると、道路の西側は三十三間堂(蓮華王院)で、東側には「法住寺」があります。 法住寺の北隣りは「養源院」です。左は養源院の表門を通り過ぎ、養源院の北西角付近から撮った景色です。南大門から北に歩むとき、見かけたのは一人だけ・・・・、三十三間堂の境内地も静かなものでした。 七条通の横断歩道を渡れば、京都国立博物館です。壁面にこの特集展示案内の大きなパネルが設置されています。平成知新館の3階まで上り、名品ギャラリーを順路表示に従って順番に鑑賞しつつ、下の階に移動していきます。<3F-1陶磁>は、[梅を愛でる][日本と東洋のやきもの]、<3F-2考古>では、[特別公開 四国の弥生土器と弥生・古墳時代の生産-辰砂と鉄-]というテーマで展示されています。2Fの1~3が[新春特集展示 寅づくし -干支を愛でる-]です。当日、入手した出品一覧表では会期中の展示総数は36件。25日以降の展示は34件です。2F-1は「強いトラ、かわいいトラ、どんなトラ?」というテーマが設定されています。 会場の入口で入手したのが「さがしてみよう! こんなトラ」というシート。京博の教育室が準備され、子供たちに展示作品に興味を持たせるための補助手段、ワークシートです。対象年齢は「6歳頃~」と記されいます。勿論、成人も対象のうちで、楽しむことも自由です。日英版と中韓版が準備されています。「つよそうなトラ、よわそうなトラ、かわいいトラ、かっこいいトラ、・・・・・」みつけたら、このシートにあなをあけてね、というものです。 また、「博物館 Dictionary No.225 虎-見たことがない生き物を描く」という解説シートも準備されています。 出品一覧のトップに載っているのがこれ! 尾形光琳筆「竹虎図」です。意図的にかわいい感じで行儀のよい虎を描いているのでしょう。ユーモアのあるトラです。上掲のNo.225には、この竹虎図を紹介し、併せて川柳を紹介しています。 猫でない証拠に竹を書いて置き京博では、ゆるキャラの「トラりん」が公式キャラクター。「実はね、ボクはこの『竹虎図』から生まれたんだリン」と公開されています。トラりんには「虎形琳ノ丞」という名前もあります。(資料1) 「青銅虎符」(中国の秦~前漢時代、紀元前3~紀元前4世紀)と称された虎も出ています。「符」という漢字が使われています。この虎、2つの半身に分かれる「割符」なのです。普段は半身が別々に所持されていて、それが合体するときは戦を始める合図になる、そんな主旨の説明が展示品の傍に掲示されていたと記憶します。メモをしていませんでしたのでちょっと曖昧! ネットで調べてみますとと、「虎符とは、虎の形に作った銅製の割符で、参戦する将軍が徴兵時の証明として、天子から与えられる兵符のことである。」(資料2)という解説に出会いました。これから吼える虎になるというところか・・・・。ここでは、陶磁器の鉢や香炉、香合に描かれた虎、印籠やたばこ入れを帯にはさむために紐の端につける根付と呼ばれる細工物に虎を彫像した「虎根付」が展示されています。根付は小さな細工物ですが様々な意匠があっておもしろい。「虎蒔絵沈箱」(京都・神光院蔵、江戸時代17世紀)という名称のものが展示されています。沈箱というのは「沈香を入れておく箱」のことで、沈香はジンチョウゲ科の常緑高木から採取された天然香料。この香料の優良品が伽羅(きゃら)と称される品だそうです。(資料3,4)「十二類絵巻」(重文、室町時代15世紀)の三巻のうち巻中に描かれている虎の箇所が展示されています。6曲1双の大きな屏風が二種展示されています。横山華山筆「虎図押絵貼屏風」(江戸時代19世紀)と単庵智伝筆「龍虎図屏風」(重文、室町時代15~16世紀、京都・慈芳院蔵)です。 これは、「龍虎図屏風」(左隻)の虎図です。やはり、竹が描かれています。 伝李公麟筆「猛虎図」(朝鮮半島・朝鮮時代、16世紀、京都・正伝寺蔵)これは伊藤若冲がモデルにした虎図と言います。若冲の虎図はエツコ・ジョウ プライス コレクションの一つになっています。この京博で若冲の没後200年特別展覧会が開催された時に、若冲の虎図が展示されていました。この猛虎図を見て、ナルホド!です。ほかにも逸品が展示されています。2F-2は「トラと一緒に」というテーマでの展示です。こちらでは、根付ではなく印籠そのものに龍虎あるいは竹林・虎を題材にした意匠を施してあります。江戸時代、19世紀の作品が3件展示されています。見応えがあるものです。 「竹に虎文様掛下帯」(江戸時代、19世紀、部分図)武家の女の人が身につけた帯に虎と竹が刺繍されています。武術の嗜みもあるきりっとした女性がこの帯を締めているのを想像してしまいます。この部屋にはさらに横山華山筆「四睡図」(江戸時代、19世紀)が展示されています。四睡図というのは、豊干禅師、虎、寒山と拾得の4者が眠る場面を描いた絵です。禅画として一つのテーマになっているようです。(資料5)羅漢さんと虎を描いた「十六羅漢図」(中国・元時代、13~14世紀、重文、京都・高台寺蔵)や「達磨・豊干・布袋図」(中国・南宋時代、13世紀、重文、京都・妙心寺蔵)に虎が描かれている図も展示されています。明治時代の作ですが、田村伎都子コレクションで京博蔵の「龍虎文様火消半纏」が展示されています。リバーシブルの半纏で、消火を完了したら半纏を裏返して龍虎文様を表にするというおもしろいものです。心意気でしょうか。京都・法金剛院蔵の後陽成天皇宸翰「龍虎」の墨書は凄く迫力を感じる文字です。2F-3は「本当のトラは・・・・・」がテーマです。この部屋には、京博に寄贈された作品2件が展示されています。一つは、展示品の中では最も現在に近い作品。20世紀の中国・中華民国時代の作品です。梁鼎銘筆「挿虎図」。勿論、本当の虎を熟視した上での虎が描かれています。 これがもう一つの作品。岸駒筆「虎図」(江戸時代、19世紀)「生きた虎を見るのが難しいので、虎の頭蓋骨に虎皮をかぶせてスケッチしたり、虎の足の剥製を手に入れて、関節の位置や仕組みを調べたり」という「リアルな虎を描くために様々な努力をして」いたと言います。「でも残念ながら、目は猫をお手本にするしかなかったようで、昼間の猫のような縦長の瞳で描いています。虎の瞳は、実際には丸くて、縦長にはならないのです。」(博物館 Dictionary No.225より)それでも、虎の気力を感じさせ迫力が溢れていると感じます。私は岸駒が様々に描いている虎図が好きですね。「寅づくし」はこれで終わり。2F-4近世絵画は、「平清盛没後840年 盛者必衰-『平家物語』と源平の合戦」(2月13日まで)の企画展示として、合戦図の屏風が展示されています。眺めていて、その合戦場面に描き出された人間を数えていけば、何人描かれているのだろ・・・・と思った次第です。すごい数の兵士たちが描き出されています。2-F5中国絵画は、「清時代の絵画」(2月13日まで)というテーマで展示されています。1階に降りますと、常設の諸仏像以外では「四天王と毘沙門天」「日本の彫刻」が2月21日までの期限で展示されています。 これは、今回の特集展示の一つの図録です。この展示を見て初めて知った古墳。播磨の首長墓だそうです。1F-2の部屋に展示されています。これも展示は2月13日まで。兵庫県たつの市西宮山古墳という横穴式石室をもつ前方後円墳の発掘調査結果と共同研究の成果をあわせて、ここにその実像を紹介するという試みでした。展示された一つの古墳の全貌を観察できるというのは、深堀りするような感じを味わえて興味深いものです。1Fの3~5が最後の特集展示「新収品展」です。新たに博物館の収蔵品となった作品の展示です。ここ2年の年度における様々な分野の収蔵品から約40件の紹介です。 伊藤若冲筆「百犬図」が収蔵品となったということだけ触れておきましょう。若冲のこの作品をここで見られる機会がたぶん増えるだろうということは、若冲好きの私にはうれしいことです。1F-6漆工には「中国と琉球の漆芸」というテーマで展示されています。様々な堆朱の作品を鑑賞できます。新春特集展示「寅づくし」を中心にご紹介しました。ご覧いただき、ありがとうございます。つづく参照資料*「新春特集展示 寅づくし-干支を愛でる- 出品一覧」*「京都国立博物館だより 2022年1・2・3月号」*「博物館 Dictionary No.225 虎-見たことがない生き物を描く」1) 2015年10月 はじめまして!トラりんだりん :「京都国立博物館」2) 倣秦青銅虎符 :「ギャラリー解説」3) 沈箱 :「コトバンク」4) 沈香 :「コトバンク」5) 四睡図 :「e國寶」補遺京都国立博物館 ホームページ 博物館ディクショナリー 虎(とら)―見たことがない生き物を描(えが)く PDF版のダウンロードができます。天台宗 法住寺 ホームページ洛東 養源院 公式サイト蓮華王院 三十三間堂 ホームページ十二類絵巻 :「京都国立博物館」東京ステーションギャラリーで「見ればわかる 横山華山展」を観た!:「とんとん・にっき2」 「虎図押絵貼屏風」右隻の図版を掲載横山華山 :ウィキペディア岸駒 :「コトバンク」虎図 岸駒 :「文化遺産オンライン」猛虎之図 :「東京富士美術館」虎木彫根付 :「文化遺産オンライン」虎猿牙彫根付 :「JAPAN SEARCH」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2022.01.31
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1月20日、会期が23日までという直前に、奈良国立博物館に行きました。2019年春に「国宝の殿堂 藤田美術館展」を鑑賞しています。今回はその続編という位置づけで、藤田美術館所蔵の絵画が紹介された特別展です。覚書を兼ねて、少しご紹介します。展示会場のパネルで藤田美術館の告知を見ました。昨年(2021)10月19日に美術館の建替工事が竣工しており、来る2022年4月に所蔵品を展示してリニューアルオープンする予定だそうです。 この展覧会のPRチラシここに掲載の作品図版を引用しつつまとめてみたいと思います。 展覧会チケットの半券 やはり、この竹内栖鳳筆「大獅子図」が異彩を放つという感じでした。一隻の屏風絵です。後でご紹介する今回の図録表紙にもこの絵が使われています。展示会場に入ると、入口に向かって右側壁面前のケースに納まっていました。縦239.0cm、横281.8cmというサイズです。迫力があります。 ライオンの頭部と上半身がグンと迫ってくる感じ。下半身の描写とはかなりアンバランスな第一印象を抱いたのですが、じっと眺めているとやはりバランスはとれている。どのアングルから獅子を見ているかという立ち位置が大きく関係しているようです。あるいはそれだけライオンの相貌にまず引き寄せられていたということかも・・・・・。やはり「藤田家の蒐集を代表する近代絵画の名品」(図録解説より)という位置づけにある作品だそうです。竹内栖鳳は明治34年に渡欧から帰国し、直後に新古美術展に獅子図を出展しました。そのとき「金獅子」として話題を呼んだそうです。これは明治35年頃に描かれた作品とか。 大獅子図の手前に、羽織・袴の和装で座布団に端座する肖像彫刻、「藤田傅三郎坐像」が置かれていました。その坐像の頭部です。数少ないと言われる肖像写真とは少し雰囲気が違います。彫刻像の方が良い感じ・・・・です。会場の説明パネルで印象に残ったのは、藤田傳三郎は自分の好みの絵画をコレクションするという指向ではなく、美術史的な視点で幅広く名品を蒐集したそうです。上掲チラシを後で読みますと、「藤田美術館の絵画コレクションには、日本絵画史を通史的に把握するに十分な作品が擁されています」と記されています。リニューアル・オープン後に、新しい藤田美術館そのものの見物を兼ね、所蔵品の展示を改めて眺めに行く機会をつくりたいと思う次第です。会場は7章構成で、当日入手の展示品リストによれば、会期中の展示品は総数74件。期間限定展示が時期をずらして2件。1件でも鑑査状、付属書、あるいは模本が付加されているものが数件あります。1件でも二幅、三幅の作品や画帖の展示がありますので、実際の展示数は異なります。同様に入手した「奈良国立博物館だより 第120号」(令和4年1・2・3月)には、「展示作品中、初公開作品が23件、藤田美術館外での公開が初めてとなる作品が19件を数えます」と記されています。章ごとに少し印象などをご紹介します。「第1章 藤田傳三郎の視点」11点の展示品中、初公開品が6点。上掲の藤田傳三郎坐像も初公開でした。岩下清周著『藤田翁言行録』(大正2年)が展示されていました。これも初公開。ネットで検索すると古本として高い値段で取引されているようです。蒔絵・金具・螺鈿で表現された尾形光琳作「桜狩蒔絵硯箱」が目を惹きつけました。「浄土五祖絵 善導巻」(重文)は絵巻の一部分ですが、善導(だったと思います)が泳ぎ渡ろうとしているおもしろい場面を見ることができました。「第2章 やまと絵の伝統」7点展示中初公開1点。まず興味を抱いたのは「華厳五十五所絵巻残闕」(重文)です。平安時代の作品。善財童子が仏道を求めて、延べ55人の善知識を訪ね歩き法を授かるというその場面を描いたもの。『華厳経』の『入法界品』が典拠なのですが・・・・。いつか読んでみたいと思うストーリーの一つです。 鎌倉時代の高階隆兼筆「玄奘三蔵絵 巻四」(国宝)の一場面です。「灯光城の龍窟で、礼拝を続けると釈迦らの姿が浮かび上がった」という場面がPRチラシに紹介されています。この巻四は、玄奘が仏頂骨城で釈迦の頂骨を拝する場面から、中天竺の阿踰陀国で海賊に遭い、海賊が改心する場面までが描かれてます。(図録より)鎌倉後期の宮廷絵所の絵師高階隆兼筆のもう一つの作品「春日明神影向図」が展示されています。御車に乗った束帯姿の貴人が現れる様を描くという説明があったのですが、貴人は見えません。束帯の一部が御車の内部にほんの一部描かれているだけです。それだけで貴人を想像させるようです。改めて、図録の解説を読み直し、関白鷹司冬平が庭に影向した春日大明神の姿を夢に見たので高階に描かせたという絵だから、逆にそれで良かったのかも・・・と、後で理屈づけした次第。「第3章 宋元絵画憧憬」(伝)貫休筆「豊干寒山拾得図(羅漢図)」(南宋、3幅)と(伝)梁楷筆「寒山拾得図」(元、1幅)。寒山拾得図は良く描かれるテーマです。絵師によりかなり異なる雰囲気で寒山と拾得が描き出されるのが、いつもおもしろいと感じます。(伝)黙庵筆「白衣観音図」(室町時代)は、突き出た岩に寄りかかりのんびりとくつろぐ姿がこちらをもリラックスさせるような絵です。白衣観音は斜め上方の先を眺めています。絵には描かれていない瀑布を眺めているのだとか。見る人にその景色の広がりを想像させるという絵です。(伝)牧谿筆の作品を2点みることができました。「松樹叭々鳥図」と「樹下猿猴図」です。前者は「ははちょう」と読むそうです。後者は初公開の作品。牧谿の猿猴は別図を見たことがあります。印象深い猿の描き方です。この牧谿猿は日本の多くの絵師たちに影響を与えています。私が好きな長谷川等伯もその影響を受けた一人です。「第4章 中世水墨画」 当日購入した図録。表紙は大獅子図 一方、裏表紙は、初公開作品です。(伝)狩野元信筆「芦鱸藻鯉図(ろろそうりず)」二幅のうちの左側の絵です。 PRチラシでは、左右の二幅が紹介されています。鱸という漢字を辞書で引きますと、「すずき。浅海の魚で、春夏に川にのぼる。幼魚をせいご、中ぐらいのものをふっことよぶ。」(『角川新字源』)と説明しています。図録の解説には、一幅には鯉、ハゼ、鯰。もう一幅にはケツギョとカワイワシが描かれているとあります。魚たちは細密に描き込まれています。ここでは展示品の半数が狩野派の絵が占めていました。室町時代の作品で、71歳の「雪舟自画像(模本)」が展示されていました。原本は既になく、模本ですが原本に最も近いと考えられているそうです。雪舟を想像するのに役立つ絵です。「第5章 近世絵画」狩野山雪筆「夏冬山水図」(2幅、江戸時代)は、人物を点景として描きいれた雄大な山岳の景色の構図に惹かれました。初公開の作品です。 この3幅構成の(伝)長澤蘆雪筆「幽霊・髑髏・仔犬白蔵主図」が印象に残りました。中央の幽霊は美人です。長澤蘆雪は円山応挙の弟子であり、幽霊図は応挙の描いた幽霊を手本にしているそうです。右の仔犬と髑髏の取り合わせがちょっと奇妙でおもしろい。また白蔵主は左の一見僧侶に見える人物のことです。よく見ると狐の容貌です。この白蔵主は狂言の『釣狐』に登場するそうです。狐が白蔵主に化けているのだとか。図録の解説を読みますと、『絵本百物語』には、右と左の絵を関連付けられる話が載っていると言います。幽霊・髑髏・仔犬白蔵主のそれぞれが、画面の枠に納まっていずにそこから少し出て来た形で描かれているのがもう一つのおもしろいところです。 これは、鳥文斎栄之筆「吉原通図」という絵巻の部分図です。男性2人が猪牙舟(ちょきぶね)に乗り隅田川を行き、舟を降りて徒歩で吉原を目指す行程は水墨画で描かれ亭増す。そして、吉原の中での場面は華やかな彩色画に転換するという趣向です。宮川長春筆「美人文珠普賢図」もおもしろい絵です。文珠と普賢を女性(遊女)で描いているのです。最初は見立ての図かなと思いました。が、左幅の女性は謡曲『江口』がもとになって描かれているそうで、『江口』は仏教説話集である『撰集抄』などに載る話だと言います。(図録の解説より)「第6章 近代日本画」明治時代の日本画が展示されていました。図帖、名所図、画帖形式の作品が半数です。これらは一部しか見られないのが残念。図録には図版が小さくなりますが全図掲載されているようです。私が惹かれたのは、森寛斎筆「絶壁巨瀑図」です。絶壁上の岩端ぎりぎりのところから虎が瀑布の滝壺の激しい波を見つめているという図です。斜め上から見下ろした感じの高度感を感じさせる構図が魅力的です。虎の目線で眺める感じになります。「第7章 奈良の明治維新」ここだけ章立ての様子が転換します。「藤田傳三郎は、明治維新によって衰退する社寺から貴重な宝物が散逸することを回避する意識を持って、奈良の社寺に伝えられた品々を多数収蔵しました。」(図録より)とのこと。その収蔵品からの展示です。 右の図がその一例の部分図です。「阿字義」(1巻、平安時代、重文)の中の阿字観の実戦描いた絵図の部分です。左は、第3章に展示されていた(伝)馬麟筆「鍾呂伝道図」です。「八仙」中の2人、鍾(しょう)と呂(りょ)が対話をする場面を描いているとか。これも初公開作品でした。「近年藤田美術館と奈良国立博物館が共同で行った所蔵絵画の調査で確認された隠れた名品群」の一つだそうです。(「奈良国立博物館だより 第120号」より)この最終章で一番印象的なのは、やはり「小野小町坐像(卒塔婆小町)」です。初公開の彫刻像(安土桃山~江戸時代、16~17世紀)で、老いさらばえた乞食の小野小町の姿を彫像にした作品です。観阿弥作『卒塔婆小町』に登場する小野小町の彫像だとか。「花の色は移りにけりな・・・・」の行き着いた姿を表現しているといえます。実際の小野小町はどのような老境を過ごしたのでしょう・・・・。もう一つは「空也上人立像」(室町時代)です。京都の六波羅密寺の空也上人立像が有名ですが、同種の木造彫像です。口から六体の阿弥陀仏が飛び出しているのがやはり印象的、「南無阿弥陀仏」です。図録の図版と六波羅密寺の図像とを対比的に眺めてみようと思っているところです。これで終わります。絵画、彫像等の実物は、リニューアル・オープンする藤田美術館におでかけいただき、ご覧ください。ご覧いただきありがとうございます。参照資料展示品一覧表「名画の殿堂 藤田美術館展 -傳三郎のまなざし-」図録 『名画の殿堂 藤田美術館展 -傳三郎のまなざし-』 奈良国立博物館 2021「奈良国立博物館だより 第120号」(令和4年1・2・3月)補遺藤田美術館 公式サイト藤田伝三郎 近代日本人の肖像 :「国立国会図書館」藤田伝三郎 :「コトバンク」藤田傳三郎と藤田神社 :「藤田神社」牧谿 :「コトバンク」牧谿 :「日本歴史的人物伝」鳥の名前「叭叭鳥(ハハチョウ) 」とはどういう鳥なのかを知りたい。 :「レファレンス協同データベース」ハッカチョウ :ウィキペディア円山応挙ゆかりの幽霊図~「返魂香之図」 :「護國山観音院 久渡寺」釣狐 狂言の演目と鑑賞 :「文化デジタルライブラリー」絵本百物語(桃山人夜話)一 :「ARC古典籍画像ポータルデータベース」演目事典 江口 :「the 能.com」阿字観 :「総本山智積院」撰集抄 :「コトバンク」演目事典 卒塔婆小町 :「the 能.com」小町坐像を初公開 藤田美術館所蔵の名品 奈良博 :「中外日報」色あせぬ歌 移ろう美貌 随心院の卒塔婆小町座像(時の回廊) :「日本経済新聞」重要文化財一覧 :「六波羅密寺」明治初期まで奈良に? - 英国からの確認で判明 隔夜寺に旧蔵の可能性/大阪・藤田美術館の空也上人立像 :「DIGITAL 奈良新聞」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2022.01.30
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萬福寺の境内から少し離れた周辺に塔頭がいくつもあります。幕末には32ケ院あったそうですが、現在は19ケ院になっていると言います。(資料1)そのうちの北西側周辺にあって今回立ち寄ってみた塔頭を最後にご紹介します。萬福寺総門前の道路を北方向に進み道路が左折して西に向かう道路沿いにある塔頭です。冒頭の景色は左折するあたりの北辺です。道沿いに進めば、隠元禅師がこの地に足を踏み出された宇治川の畔に到ります。 駐車場の北側の東端に見える表門門前の右側には、「黄檗山萬松院 金成不動尊」と刻された寺号標が立っています。財運の不動尊として「金成不動尊」と称され知られているお寺(塔頭)です。左側は比較的新しい「萬松院」の石標のようです。この石標に刻まれた内容から、この表門と天光塔が京都府の文化財指定を受けていることがわかります。 表門を入ると北東方向にあるのが不動堂です。金成不動尊が祀ってあります。 お堂の右斜め前に立つ石灯籠。宝珠・笠・中台は火袋・竿・基壇と比べて古い感じです。組み合わせて石灯籠にしたようですね。火袋には鹿のほぼ半身が浮彫りにされています。 お堂の西側には、童形の六地蔵尊が祀ってあります。 石造の「水掛・願掛 不動明王」像と脇侍の子安二大童子像が造立されています。衿羯羅(こんがら)童子と制多迦(せいたか)童子です。 不動明王坐像の背後には、滝の石組があります。 石段を登って行くと、 「天光塔」と記された額が掲げられた「開山堂」(天光塔)があります。開山堂は平成4年(1992)4月14日に文化財に指定されています。(文化財指定掲示板より) この萬松院は龍渓性潜禅師を開基として、寬文11年(1671)に建立されました。龍渓禅師は、即非と同様に準世代と位置づけられている禅師です。準世代にはもう一人、又梅亨運禅師が列挙されています。(資料1)調べていて知ったのは、龍渓禅師の弟子・東厳禅師が萬松院を開創したそうです。(資料2) 堂内にはこの石塔が安置されています。龍渓禅師の塔(墓石)。この開山堂が塔所です。 これを判読できれば、経緯詳細が理解できるのでしょうが・・・・残念。 西側の円窓から東を眺めた景色 上掲の石造不動明王坐像の右斜め後方の位置にあるこの句碑が目に止まりました。 綿を摘む 崑崙山に いつも雲「平成3年10月に、一行9名がシルクロードの天山南路、ホータン、カシュガルを訪ねた。 ホータンは丁度、綿摘みの最中で、見渡す限りの白い花を敷きつめたような綿畑の果に、標高五千米をこす崑崙山の雪の山脈ご雲をかぶってつらなっていた。 行沢雨晴(ゆきざわうせい) 雪解 同人、俳人協会評議員 俳誌 懸巣(創刊 植原抱芽)主宰 藤沢禅会30周年記念の句碑 (1997年7月20日) 」(掲示案内文転記) もう一つ目に止まったのがこの地蔵尊石像群です。 この萬松院には、西側に本山境内に見られるのと同形の門があります。直接この寺の本堂に向かう門になっています。 西隣りには黄檗風の表門に「龍興院」と記されたお寺があり、地蔵菩薩立像が見えています。門前の左側に「出世地蔵尊」と刻された石標が立っています。 門前から見えるのがこの石造地蔵菩薩立像です。 唇が紅く塗ってあります。白毫の箇所も紅がつけてあります。白毫は「眉間に生えている、右回りに渦巻く白い毛のこと。常に光を放っており、伸ばすと1丈5尺にもなるとされる。本来は仏の三十二相の1つだが、如来となることが約束されている菩薩にもしばしば表される」(資料3)というものです。 門を入って上掲地蔵尊の手前を右に折れて、狭い通路を少し奥に行くとこの地蔵堂があります。 一見、普通のお地蔵さまという感じです。この地蔵堂の傍に駒札「出世地蔵尊の由来」が立っています。「この地蔵尊は昭和35年龍興院の寿塔修理の際に、崖の土中から転がる如くに御姿を現はされましたことから『出世地蔵』と申し上げ親しみ深い菩薩さまとして大切に祀られております。 当時専門家に依る鑑定の結果千年以上経た石佛であることが證明されました。(数千年前から奈良街道であったことの表れか)」(駒札説明文転記。平成17年6月に龍光院住職により設置された駒札です。) 門内から境内を眺めた景色 門を入るとすぐ傾斜地で階段の参道の先にお堂があるようです。参道右側は塀です。門近くの塀越しに見えるのが寿塔かもしれません。萬福寺の門前に位置する白雲庵内にある自悦堂からの推測としての印象です。(資料4)龍興院は慧林性機禅師を開基として宝永2年(1705)に建立された塔頭ですが、明治8年(1875)に現在地に移転したそうです。(資料1) 続いて西側に「宝蔵院」があります。 門を入ると石段の先に玄関口が見えます。宝蔵院は鉄眼道光禅師を開基として寬文11年(1671)に建立され、寬文13年に移転し、さらに明治8年(1875)に現在地に移転したと言います。(資料1)鉄眼は道号です。肥後(熊本県)の出身で、はじめは浄土真宗の僧となり、のちに禅に転じて木庵禅師の法を嗣いだ黄檗宗の僧。大蔵経刊行の決意をし、講経僧として全国を行脚し、刊行資金を集め、黄檗一宗の協力を得て、現在「鉄眼版一切経版木」と呼ばれるものを制作しました。寬文9年(1669)から始めて天和元年(1681)に完成したそうです。「日本において近代的な仏教研究が生まれる母胎となった。鉄眼は経典の説くところはすべて禅宗に帰着するという教禅一致の考えに立ち、また神秘家的側面を有する事業家的才能の持主であった。開版事業終わってのち飢饉救済に身を投じ、その途中に没した。」(資料4)大蔵経刊行のための資金集めに行脚している期間に、飢饉が起こった際にはその浄財を放出するという行動もとりつつ、刊行を完成させたと言います。(資料5)わが国の明朝体文字はこの版木の書体の由来するそうです。また、原稿用紙が400字詰めであるのは、鉄眼一切経の版木の文字組みに由来するとか。門前の案内板にも「原稿用紙のルーツ」というフレーズが使われています。なお、この点については諸説あるようです。 「鉄眼版一切経版木」収蔵庫 玄関口の左手前に、石造の地蔵菩薩立像が建立されています。台座の正面には、「寶地蔵尊」と題して一文が刻されています。判読不詳箇所があり省略。 宝蔵院の西隣りは「宝善院」です。門前、左に「守本尊 干支の寺」と刻した石標が立っています。宝善院は独振性英禅師を開基として元禄3年(1690)に建立された塔頭です。明治8年(1975)現在地に移転したそうです。(資料1)守本尊干支とは何か?宝善寺のホームページにその説明が載っています。「干支の守本尊八佛とは、皆さまにはご自身の生まれ年の干支によって、守護してくださる佛様が定まっております」(資料6)とのこと。干支と守本尊の関係は次のとおりです。 子年生まれの人 千手観音菩薩(縁日18日) 丑・寅年生まれの人 虚空藏菩薩 (縁日13日) 卯年生まれの人 文珠菩薩 (縁日25日) 辰・巳年生まれの人 普賢菩薩 (縁日24日) 午年生まれの人 勢至菩薩 (縁日23日) 未・申年生まれの人 大日如来 (縁日 8日) 酉年生まれの人 不動明王 (縁日28日) 戌・亥年生まれの人 阿弥陀如来 (縁日15日)余談ですが、これをまとめていて思い出しました。宇治川右岸、宇治橋東詰にほど近い「橋寺放生院」の境内にも「十二支守本尊」八仏が安置されています。以前に探訪したとき拝見しています。こちらからご覧ください。 (スポット探訪 [再録] 宇治 橋寺放生院) 宝善院の築地塀の西端にこの石標があります。そこからオープンに境内地の奥に入れるようになっています。お堂の背後が墓地になっているようです。少しアプローチあたりを探訪してみました。 これは坂道の突き当たりの景色です。 この地蔵菩薩は「数珠掛け地蔵さま」と称されていて、水子供養のお地蔵さまとして祀られているようです。後で調べていて説明をみつけました。(資料7) 石造の観音菩薩像が安置されています。 墓地と思える区域への入口に地蔵菩薩立像が安置されています。ここまでの拝見で引き返しました。最後に、今回ご紹介した萬福寺の塔頭のいくつかがなぜ明治8年に同時に移転しているのかです。明治8年(1690)に、現在の黄檗山萬福寺の境内域の東側の境内地が明治政府により上地(接収)の対象にされたのです。明治政府は、そのエリアを陸軍省の火薬貯蔵庫建設用地にしたそうです。現在の地図では、萬福寺の東の「黄檗公園」となっているあたりです。(資料1,8,9)この辺で一旦ご紹介を終わります。萬福寺に関係する周辺の探訪はいずれ続編としてご紹介したいと思います。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1)『最新版フォトガイドマンプクジ』 萬福寺発行 萬福寺売店にて購入した小冊子2) 萬松院 :「京都 Kyoto」3)『仏像の見方 ハンドブック』 石井亜矢子著 池田書店 p1374) お庭 :「白雲庵」5)『岩波仏教辞典 第二版』 中村・福永・田村・今野・末木[編集] 岩波書店6) 守本尊干支について :「宝善院」7) 数珠掛け水子供養 :「宝善院」8) 黄檗山萬福寺塔頭「宝善院」 :「宝善院」9) 大阪陸軍兵器補給廠 宇治分廠 :「大日本者神國也」補遺黄檗宗大本山 萬福寺 ホームページ龍渓性潜 :ウィキペディア龍渓性潜 :「コトバンク」慧林性機 :ウィキペディア慧林性機 :「コトバンク」鉄眼道光 :ウィキペディア鉄眼 :「コトバンク」宝蔵院 公式ホームページ 重要文化財を未来につなぐ鉄眼プロジェクト このページに「一切経木版印刷・民救済~鉄眼禅師」動画・YouTubeが掲載あり400字詰め原稿用紙の由来について :「レファレンス共同データベース」鉄眼(てつげん)禅師荼毘(だび)処地 :「大阪市」宇治十三社寺 :「京の霊場」 萬松院 <万松院>(京都府宇治市) 萬福寺塔頭 宇治十三社寺まいり:「お寺の風景と陶芸」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -1 総門と門前点景 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -2 総門(2)・影壁・放生池・三門ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -3 三門(2)・菩提樹・鎮守社・天王殿前境内 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -4 天王殿(ほていさん・韋駄天・四天王)へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -5 売茶堂・聯燈堂・鐘楼ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -6 伽藍堂・斎堂(禅悦堂)・雲版 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -7 斎堂の開?・月台・大雄宝殿ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -8 大雄宝殿 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -9 大雄宝殿の十八羅漢像と隠元禅師像 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -10 法堂・東西の方丈・慈光堂・禅堂ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -11 祖師堂・鼓楼・合山鐘・石碑亭・寿蔵ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -12 開山堂・松隠堂・通玄門 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -13 文華殿と塔頭(天真院・万寿院)へこちらもご覧いただけるとうれしいです。一覧表 宇治(探訪・観照)一覧
2022.01.21
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三門から天王殿に向かう石條(参道)から分岐して通玄門に向かう参道脇に数多くの鉢が並べてあります。通玄門側から三門方向を眺めた景色です。これらの鉢の植物が咲く頃は境内の雰囲気がまた変わることでしょう。 境内を横切って南に向かうと、この白亜の門があります。右側手前に「黄檗文華殿」の石標が立っています。この石標の東面に「黄檗文化研究所 黄檗山萬福寺宝物殿」と刻されています。門の向こうに、西向きに立つ同種の門が見えます。 こちらの門の左側に「賣茶堂」の石標が立っています。門の向こうに見えたのは売茶堂の門です。 門をくぐり、文華殿を通り過ぎて南側から眺めた文華殿の全景です。 文華殿は、黄檗山萬福寺の宝物・資料の収蔵保管と展示を目的として、開山隠元禅師300年大遠諱を記念して、昭和47年(1972)に建立されました。今年が350年大遠諱ですから、50年が経ったことになります。(資料1)黄檗宗がもたらした文化の集積がここで見られる。黄檗文華の殿堂ということです。私はまだ拝観したことがないのですが、年に2回、春と秋に特別展が企画されて一般公開されているそうです。今年は多分特別展にも力が入るのではないでしょうか。私にとっての次の機会はこれかな・・・・・。手許の小冊子には、隠元禅師の画像を多く描いた喜多元規の作品、伊藤若冲や池大雅の名画、隠元禅師の遺品、中国伝来の品々などが収蔵されていると説明しています。既にご紹介したものとして、范道生作韋駄天像と二代目の魚?も収蔵されているとのことです。 文華殿の正面階段の左側(南)で目に止まったのがこれです。表面が鏡面になって築地塀が映り見づらいですが、嵌め込まれた顕彰碑文の上部に歌が刻まれています。 ゆきの原雪をしとねのゆきまくら 雪をくらひつゆきになやめる 「雪山道人河口慧海西蔵旅行歌碑」が平成25年(2013)6月に建立されています。 河口慧海(1866~1945)が仏典を求めてチベットを探査したという程度は何かで読み知っていたのですが、黄檗宗僧侶だったということは、この歌碑の碑文から初めて知った次第です。「黄檗版大蔵経を読み漢訳の不備を感じ、サンスクリット語原典と、漢訳より忠実なチベット語訳の仏典を求め、ネパール・チベットへ入国し、大量の仏典・仏像・仏画・植物標本・民族資料などを蒐集請来した。帰国後、チベット・ネパール・インドの宗教・社会・歴史・地理等を紹介し、仏典を邦訳し、啓蒙書を著述し、日本のチベット学の基礎を作った」(碑文を一部転記)のです。「チベット旅行は明治30年より大正4年かけて二度亘り、足かけ19年におよんだ」(転記)そうです。河口慧海は日本最初のヒマラヤ踏破者になりました。(資料1)月台の傍にある2本のヒマラヤ杉は、慧海の帰朝(大正4年)と隠元禅師250年大遠諱(大正6年)を記念して植樹されたものだそうです。当初は月台上に左右一対として植えられ、後に下に移植されました。(碑文、資料1)文華殿前から三門に戻ります。三門を出て放生池前から南の方角を探訪してみました。 真っ直ぐに進むと、築地塀に挟まれた通路があり、その南端に総門と同じ形式の門が見えます。 「天真院」と記された扁額が掲げてあります。黄檗宗の塔頭の一つです。門前に、天真院の「客殿・経蔵・表門(江戸時代)」が京都府指定文化財に登録されているという京都府教育委員会の掲示板が設置してあります。天真院は、延宝7年(1679)に了翁道覚禅師を開基として建立されています。(資料1)了翁道覚(1630~1707)は、弟5代高泉禅師を師と仰ぎ、法統は仏国派の僧侶で現在の秋田県出身の人です。(資料2)まとめていて一つ気づいたことがあります。塔頭を通常「たっちゅう」と発音しています。手許の辞書も「たっちゅう」で載っていますが、黄檗山で購入した小冊子には「たっとう」とルビが振ってあります。辞書を再読しますと、「ちゅう」は「頭」の唐音だと付記されています。(『新明解国語辞典』三省堂)隠元禅師は明時代の中国文化を導入されたので、漢字の発音も異なるということなのでしょう。 ここは拝観できない塔頭でした。門前から境内の景色を撮りました。ここの参道の石敷もまた趣の違うもので、おもしろい。 お堂の屋根の摩伽羅(まから)と鬼瓦 天真院へは両側が築地塀の通路を進むのですが、東側築地塀の北端寄りにこんな門があります。 門をくぐると、左斜め先に三門が見えます。「銀杏庵」と表示が出ています。すぐ右に転じて歩むと、 京都国立博物館の東の庭で見る事ができる石像と同種の像「石人」が出迎えてくれました。 砂利敷きの庭の先に暖簾のかかった建物が見えます。赤い毛氈のかけられた床几も置かれています。景色を眺めて、引き返しました。調べてみると、ここも普茶料理のお店でした。「黄檗山萬福寺伝統の四季折々の宇治の里の野菜を使った精進料理」(資料3)と記されています。「中国風の境内でゆっくりと・・・・」と説明されています。総門を入り、三門までの区域の南端にありますので、もとは塔頭だったところかと推測します。今度は逆に、再び三門前を通り過ぎ、総門を左に眺めつつ参道を横切って、北に向かってみました。 こちらも両側が築地塀。左の角に「黄檗二代木庵老和尚塔所」と刻された石標が立っています。 門の手前に木標と鬼板があります。褪色して文字が読みづらくなっています。後で写真を観察すると「京都府指定文化財 萬寿院表門」と記されています。観光行政を考えるなら、こういう表示は定期的にリニューアルしてほしいですね。 こちらも総門と同じ形式の表門です。 表門の屋根の摩伽羅が見やすいです。対で撮ってみました。(2016.4.10 撮影)こちらは大阪城を探訪した時に撮った天守閣の屋根に置かれた鯱(しゃちほこ)です。対比的に見ると興味深いです。 降棟の先端は鬼板で、文字が陽刻されています。「万寿院」の壽(寿)という文字を図案化してあるのでしょうか。傍に獅子の飾り瓦が置かれています。これも桃の実と同様に魔除けの機能を担っているのでしょう。 向かって左側に置かれている獅子の飾り瓦。 表門の両側の柱には聯が掛けてあります。内容は判読できません。残念なことに額を取り忘れました。たぶん、塔頭名の万寿院と記されているのでしょう。 正面に玄関口が見え西側にお堂が見えます。東側に庫裡が配置されているようです。万寿院は第2代木庵禅師を開基として延宝3年(1675)に建立されました。ところが調べてみますと、満寿院の南西側に位置する紫雲院もまた木庵禅師を開基として、万寿院より1年早く、延宝2年(1674)に建立されていると説明があります。(資料1)そうすると、築地塀の角に立つ石標に記された「木庵老和尚塔所」はいずれなのでしょう。塔頭は「高僧の墓所に建てられた塔、あるいはそれを守る小庵」「祖師の塔所の域内に建てられた子院をいう」(資料4)とのことです。塔所が墓のある場所と考えるなら、墓はどちらの塔頭にあるのでしょうか。調べてみた範囲では、木庵禅師は法系としては「万寿派」と考えられています。塔頭万寿院が塔所だそうです。(資料5)角に石標が立ち、その道を直進すれば、満寿院の表門ですからやはりそうでしょうね。 境内には入れそうでしたので、内側から表門を拝見。総門とはことなり、裏面に円相は象られていないようです。 門の構造が分かりやすくて参考になります。満寿院も表門の近くを拝見しただけで、萬福寺境内と直近の場所の探訪を終えました。萬福寺の北西側に位置する塔頭も序でにいくつか訪れてみました。つづく参照資料1)『最新版フォトガイドマンプクジ』 萬福寺発行 萬福寺売店にて購入した小冊子2) 了翁道覚 黄檗宗僧侶名鑑 黄檗宗資料集 :「黄檗宗・慧日山永明寺」3) 銀杏庵 ホームページ4)『岩波仏教辞典 第二版』 中村・福永・田村・今野・末木[編集] 岩波書店5) 木庵性瑫 黄檗宗僧侶名鑑 黄檗宗資料集 :「黄檗宗・慧日山永明寺」補遺黄檗宗大本山 萬福寺 ホームページ黄檗山萬福寺文華殿 :「京都府ミュージアムフォーラム」黄檗山萬福寺第二文華殿 :「TAKENAKA」(竹中工務店)塔頭 :「コトバンク」木祖忌 :「萬福寺」隠元・木庵・即非像 いんげん・もくあん・そくひぞう :「文化遺産オンライン」【県指定】紙本著色木庵画像 1幅 :「北九州市」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -1 総門と門前点景 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -2 総門(2)・影壁・放生池・三門ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -3 三門(2)・菩提樹・鎮守社・天王殿前境内 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -4 天王殿(ほていさん・韋駄天・四天王)へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -5 売茶堂・聯燈堂・鐘楼ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -6 伽藍堂・斎堂(禅悦堂)・雲版 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -7 斎堂の開?・月台・大雄宝殿ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -8 大雄宝殿 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -9 大雄宝殿の十八羅漢像と隠元禅師像 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -10 法堂・東西の方丈・慈光堂・禅堂ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -11 祖師堂・鼓楼・合山鐘・石碑亭・寿蔵ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -12 開山堂・松隠堂・通玄門 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -14 北西周辺の塔頭(萬松院・龍興院・宝蔵院・宝善院)へこちらもご覧いただけるとうれしいです。一覧表 宇治(探訪・観照)一覧
2022.01.19
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寿蔵を右に見つつ西へと回廊を歩めば、開山堂の正面に到ります。頭上に見える幕を通り過ぎ、正面の回廊中央部から振り返った景色です。開山堂の正面のそれぞれの柱に聯が掛けてあります。こちらは右(東)半分。 同様にこちらは左(西)半分の柱に掛けられた聯です。まずは開山堂の正面を東(右)から眺めて行きましょう。 正面の桁の上に、第2代木庵禅師の書による「開山堂」の扁額が掲げてあります。その名称通り、この堂(重文)は黄檗開山隠元禅師をお祀りしているお堂です。三門をくぐるとすぐ左にこのお堂が位置しています。延宝3年(1675)に建立されました。 正面の扉は半扉の桃戸です。桃の実が板戸に線彫りされています。桃の実は魔除けとされています。(資料1) 堂内には桃の実を中央にあしらった幕が吊されています。真っ先に目に止まります。 このお堂も床は四半敷の敷瓦で舗装され、正面の奥に隠元禅師像が安置されているようです。諸儀式のために、堂内中央に礼盤が置かれ周囲に円座が配置されています。 八角燈籠が吊されていて、喝という文字、達磨大師、草花が描かれているのがわかります。このお堂の柱はすべて角柱で、堂内の柱にも聯がかけてあります。 正面の半扉の左右の柱に掛けられた聯 回廊を見上げると、開山堂も蛇腹天井の形式になっています。 正面、左(北)半分の柱に掛けられた聯。沢山の聯があるのですが、これらの内容を理解するための資料がないのが残念です。聯の文字を判読する力がないのが残念です。 開山堂の北西側に、この鐘が設置されています。開山堂正面の回廊の北端から先は立入禁止です。つまり、鐘の設置された場所から少し手前のところまで。その先にも通路がありますが、屋根の形も変化します。 開山堂の北側に、庭を挟んで白壁で統一された建物群が南北方向に連なっています。 開山堂の回廊には卍の勾欄が設けてあります。法堂では卍くずしの文様が勾欄に使われていました。お堂を出て、開山堂の外観を眺めましょう。 屋根の棟に置かれているのは、摩伽羅(まから)なのでしょう。 鬼瓦 開山堂の正面の上層には、隠元禅師の師である費隠禅師の書による「瞎驢眼」の扁額が掲げてあります。難しい文字です。「瞎」は「①めくら。めしい。盲目 ②かため。片方の目がみえないこと ③でたらめ」という意味(『角川新字源』)。「驢」は「うさぎうま。ろば(驢馬)。馬より小さく、耳が長い」(同上)という意味です。さて、この語句、何を意味するのでしょう・・・・・。調べてみますと、臨黄ネットにズバリ「瞎驢眼」という題で「法話」が載っています。詳しくは参照資料をお読みください。(資料2)字句通りの意味は「未だ目の開かない驢馬の眼」です。この言葉、禅の師匠が未熟な弟子を叱咤激励する際に使う厳しい言葉の一つだそうです。文中に『臨済録』の一章句「誰か知らん、吾が正法眼蔵、這の瞎驢辺に向かって滅却せんとは。」が引用され、その解釈と絡めた説明となっています。この言葉、反語的表現の使い方のようで、「禅独特の、大変高度な言葉の用い方」につながっているとか。この法話は、「人は誰でも、自分に対して厳しい言葉や激しい言葉を向けられるのはいやですし、避けて通りたいことですがほんとうにそれでよいのでしょうか」(資料2)という一文で結ばれています。(資料2)また、一休宗純禅師はいくつもの号を使われています。「狂雲子」は良く知られています。「瞎驢」も号として使われていたそうです。(資料3)つい脇道に逸れました。もとに戻ります。 このお堂は、大雄宝殿と同じ「歇山重檐式(けっさんじゅうえんしき)」の建物です。柱はすべて角柱が使われています。宗紋の三葉葵の紋を白抜きにした紫地の幕が張られています。「毎月1・15日には山内の僧が祝拝し、3日には開山忌を営みます。祥忌の4月3日には、他山からの僧を招待して厳粛に執り行われます。毎日のお勤めは、塔頭寺院の院主が1年ずつ輪番で(塔主=たっす)で行っています」(資料1)とのこと。 開山堂の正門から開山堂までの石畳の姿は「氷裂文」と称され、同じ形の石がまったくない組み合わせで作られているそうです。(資料1)おもしろい発想・・・・。お城の野面積みの石垣を連想します。氷裂文の石畳は人の世を象徴しているのかもしれません。深読みしたくなりますね。 開山堂の南西側に、白壁の塀に囲まれた「松隠堂」があります。関備前守長政夫人の寄進によるとか。書院造の和様の建物だそうです。寬文3年(1663)に庵として建立されました。隠元禅師が本山住持を退かれた寬文4年から、寬文13年(延宝元年1673)に示寂されるまで、松隠堂で過ごされたと言います。隠元禅師の寂後は客殿として使われ、元禄時代に現在地に移転増築されて、現在に至るそうです。(資料1) 玄関の唐破風屋根の獅子口 玄関口の右側の白壁、円窓のある壁面分割が素敵です。 正門の内側 開山堂の正門には、隠元禅師の書による「通玄」の扁額が掲げてあります。(資料4,5)この門は「通玄門」と称されています。 通玄門にも聯が掛けてあります。これも内容は不詳です。 通玄門の鬼瓦 通玄門は重要な結界の一つとして位置づけられているそうです。そのため、柱は円柱となっています。通玄門は「奥深く玄妙なる真理=仏祖の位に通達する門」(資料1)とされています。通玄門の右側に、「中和門院御宮址」と刻された石標 が立っています。中和門院と宮址については、前回「中和井」の箇所でご紹介しています。回廊づたいに萬福寺の七堂伽藍ほかを拝見してきました。後日に手許の小冊子と境内図を見ていて、舎利殿を訪れていないことに気づきました。舎利殿前にいけるのかどうかもさだかではありません。この点も課題として残りました。さて、境内を横切って、文華殿のある一画に向かいます。つづく参照資料1)『最新版フォトガイドマンプクジ』 萬福寺発行 萬福寺売店にて購入した小冊子2) 法話 瞎驢眼 :「臨黄ネット」(臨済禅 黄檗禅 公式サイト)3)『岩波仏教辞典 第二版』 中村・福永・田村・今野・末木[編集] 岩波書店4)『都名所図会 下巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p106-1105) 黄檗山萬福寺(万福寺) 都名所図会 :「国際日本文化研究センター」補遺黄檗宗大本山 萬福寺 ホームページ一休宗純 :「コトバンク」一休さんとは、どんな方ですか?【元服の書㉒】 :「禅・羅漢と真珠」近衛前子 :ウィキペディア中和門院 :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -1 総門と門前点景 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -2 総門(2)・影壁・放生池・三門ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -3 三門(2)・菩提樹・鎮守社・天王殿前境内 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -4 天王殿(ほていさん・韋駄天・四天王)へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -5 売茶堂・聯燈堂・鐘楼ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -6 伽藍堂・斎堂(禅悦堂)・雲版 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -7 斎堂の開?・月台・大雄宝殿ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -8 大雄宝殿 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -9 大雄宝殿の十八羅漢像と隠元禅師像 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -10 法堂・東西の方丈・慈光堂・禅堂ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -11 祖師堂・鼓楼・合山鐘・石碑亭・寿蔵ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -13 文華殿と塔頭(天真院・万寿院)へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -14 北西周辺の塔頭(萬松院・龍興院・宝蔵院・宝善院)へこちらもご覧いただけるとうれしいです。一覧表 宇治(探訪・観照)一覧
2022.01.18
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