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【ブラッド・ワーク】「妹の命は人を救ったの。それで充分だわ」「いや、俺は心臓はもらったが、本当に生き返ってはなかった」「どういう意味?」「俺は何かをなくした。だが君と出会い、調査を始めてから、その何かが戻って来たんだ」現代ドラマなのに西部劇のイメージが色濃く残るクリント・イーストウッド。だが、それもこの役者さんの持ち味である。クリント・イーストウッドが一部の映画ファンだけでなく、大衆にも認知されるまでに押し上げたのは、『ダーティハリー』シリーズだ。乱暴で無骨な男ながら、徹底的に悪を憎み、正義を貫くというキャラクター設定に成功している。このキャラクター像こそ、イーストウッドの生涯一貫した映画人としての生き様につながるものかもしれない。 『ブラッド・ワーク』においても、そのキャラクターは生かされている。主人公のテリー・マッケーレブという人物は、命を懸けて犯罪者に挑み戦う姿が、ほとんど西部劇におけるヒーローにしか見えない。この人物は、心臓発作を起こしたことで心臓移植手術を受けており、FBIを退職後は港に停泊した船上でのんびりと余生を過ごすはずだった、、、なのに、己の正義感がそれを許さなかったのだ。 ストーリーはこうだ。元FBIのベテラン心理分析官テリー・マッケーレブは、港に停泊する船を自宅代わりにして余生を過ごしていた。というのも、現役時代に犯人を追う最中、突然の心臓発作に見舞われてしまったからだ。不幸中の幸いにもドナーが現れ、心臓移植手術を受けることができ、何とか寿命を延ばせた。そんな中、マッケーレブのもとに、妹を殺した犯人を探して欲しいという女性グラシエラが現れる。マッケーレブは、「探偵業はやっていないから」と一度は断るが、よくよく話を聞いてみると、何と、マッケーレブに心臓を提供した女性が事故や病気などではなく、不可解な事件によって殺されたことを知る。マッケーレブは、若くして亡くなったグラシエラの妹を不憫に思う気持ちと、持ち前の正義感から独自に捜査を始めるのだった。 クリント・イーストウッド作品には、度々男を支配しようとする女性が登場する。これが何を意味するのかは視聴者の考え方しだいだが、『ブラッド・ワーク』においても女性のドナーのおかげで心臓移植手術を受け、その執刀も主治医である女医によって行われ、さらにはグラシエラという女性との恋愛によって主人公マッケーレブは救われている。「救い」というものが、誰かの「支配」のもとに差し伸べられる行為だとしたら、「支配」という圧力的な意味合いの言葉にも、絶対的な神の存在が感じられる。クリント・イーストウッドは女性に対し、尊敬と畏怖の念を強く抱いているのかもしれない。『ブラッド・ワーク』は、実は、繊細で紳士的な側面を持つ男のドラマだ。 2002年公開【監督】クリント・イーストウッド【出演】クリント・イーストウッド、ジェフ・ダニエルズ※吟遊映人のクリント・イーストウッドの過去記事は以下をご参考ください。『許されざる者』『ヒアアフター』『スペース・カウボーイ』『インビクタス~負けざる者たち~』『アイガー・サンクション』『J.エドガー』『ダーティーハリー』『ダーティーハリー2』『ダーティーハリー3』『ダーティーハリー4』『ダーティーハリー5』『真夜中のサバナ』『ザ・シークレット・サービス』『チェンジリング』『ファイヤーフォックス』『夕陽のガンマン』『荒野の用心棒』『トゥルー・クライム』
2015.06.27
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【杉山登志郎・岡南・小倉正義・共著/ギフテッド天才の育て方】◆突出した認知能力の開花が天才を生む!今年大学生となった息子が、クレペリン検査のような心理検査を受けた。(医療系の大学として特徴的なのは、一つでも多くのサンプルを必要とするらしく、全学部の新入生が受けた。)GW明け、結果が下された。息子が地雷を踏んだのだ。心理検査に引っかかったのは息子だけではなかったが、大学に常駐の臨床心理士に呼ばれた。そこで面談の結果、息子はいわゆる視覚優位型の発達凸凹ではないかと言うのだ。*発達障害は、この発達凸凹に社会的適応障害がプラスされたものを言う。よくよく話を聞いてみると、何とそれは、私自身にもあてはまるではないか! 私事で恐縮だが、私は幼いころ、絵本というものを読まずに、ただただ見ていた。見るのが楽しくて仕方がなかったのだ。だから、文字を覚えるのが比較的に遅かった方だ。また、複数の人々が話をすると、内容を即座に理解することができなかった。(一対一の会話なら問題ない。)人の話が音楽かBGMのように聴こえてしまい、認知できなかったのである。なので、度々人の話をまともに聞いていないという失態があった。そういう失敗の連続は、自分を追いつめる原因にもなり、「私は人の話を理解する力が不足しているのだ」と、自己嫌悪に陥ることも多々あった。 その一方で、私はデザインや空間のレイアウトが得意で、ちょっとしたスケッチを描くのは朝飯前である。自慢ではないが、中・高校時代、いくつもの絵画コンクールで入賞し、賞状やら記念品をたくさんもらった。また、中学の時、英単語は見て覚えていたので、書いて覚えたことはない。今になって考えると、単語を模様として認知していたからではないかと思う。高校に入学し、几帳面な友人たちが単語を必死にノートに書いて覚えているのを見て、「ヤバイ!私の勉強のやり方は間違ってた!」と、あわててみんなのマネをした。すると、英語の成績はみるみるうちに下がっていった。今ならその原因が分かる。私は視覚優位型なので、中学のころのように単語を模様のように見て覚えれば、あるいは高校の成績も違っていたかもしれない。 今、息子の話から私と全く同じような経験をし、苦悩していたことを知った。遺伝的要因が強いことから言っても、息子に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。だが、こういう問題がクローズアップされるようになったのは、90年代に入ってからなので、まだまだ日本では発展途上の精神医学の領域なのである。私が学生時代のころは、視覚優位型とか発達凸凹、あるいはアスペルガーなどが話題になったことはなく、もちろん、テレビや雑誌などで取り上げられることもなかったので、そんな特異タイプがあることなどとうてい知る由もない。 この一か月間、私が心を整えるためにどれほど気を揉んだか、それは、同じような立場の方々ならお分かりだろう。私の自分自身に対する認識というものが、大きく変わる瞬間でもあった。人は、“自分さがし”という漠然とした目的で旅に出る行為が、なによりの特効薬のように推奨される。もちろん、それも一つの方法・手段には違いない。だが、精神医学の見地から自分を分析してみるというのも、アリなのではなかろうか。むしろ、その方が自分というものが明確になる。私は今回のことで、ずいぶんと悩み、落ち込みもしたが、今は目の前の霧が晴れ、清々しささえ感じられる。 ここまで視覚優位型についてあれこれ語って来たが、反対に聴覚優位型というのもある。これは、国語が得意で言語的論理で物事を考えるのが優れているタイプだ。もっと突っ込んで言えば、絵を描いたり文字という視覚入力による提示は苦手とするが、音声からの認知が突出して優れている人間を言う。この手のタイプは、会話からその筋を的確に捉え、相手が何を言おうとしているのかを先回りすることができる。言葉を最大限に駆使し、自分の考えをだれかに話すことによって、認知機能が高まり、整理することができるのだ。言葉に対する感受性が強いという特徴もある。 これら発達にかたよりのある特異タイプについて、これまでは十把一絡げに“発達障害”と診断されて来ていた。ところが最近では、“発達凸凹”という枠組みと区別されるようになった。なぜなら、もしも発達障害という括りだけで療育のパラダイムを片付けようとするのなら、かのアインシュタインも、マイクロソフト社のビル・ゲイツでさえもが発達障害になってしまうからだ。このようなことを一つ一つ分かり易く、また臨床医としての立場から適切に解説しているのが『ギフテッド天才の育て方』である。著者は杉山登志郎先生と、他2名の先生方の共著だが、とりわけ杉山先生は障害児教育の第一人者である。現在は、浜松医科大学で教鞭を取っておられる。この本は、能力の谷と峰を持つ子どもたちの才能の見つけ方や伸ばし方が、丁寧に解説されており、大変興味深い。 “自分とは何ぞや?”と、苦悩するあなた、旅に出る前にこの著書を読んで、新たな可能性を探っていただきたい。最後に、息子にこの著書を読むことを勧めて下さった臨床心理士の某先生、この場をお借りしまして厚く御礼申し上げます。 『ギフテッド天才の育て方』杉山登志郎・岡南・小倉正義・共著★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2015.06.20
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【シー・オブ・ラブ】「私は一人 人里離れた森の中の 一軒家のように 私の心に手を触れる者はなく 木枯らしが吹く 温かい手よ この冷たい心を 温めておくれ 優しいほほえみと甘い歌で この家を満たして」今回は20年以上も前の旧作を見た。サスペンスとしては定石ながら、主役のアル・パチーノが若くて機敏で生き生きしていて、とにかくカッコイイ。ヒロインはエレン・バーキンだが、あれ、このコンビはどっかで見たなぁと考えた。そうそう、『オーシャンズ13』にもこの2人が仲良く出演していたっけ。悪役のアル・パチーノを補佐する有能秘書役として、エレン・バーキンが出演したのだ。とすると、ソダーバーグ監督がねらったのは、この『シー・オブ・ラブ』へのオマージュ(?)だったのだろうか。 それはともかく、この作品で特に注目してもらいたいのは、アル・パチーノの一つ一つの動作だ。フツーのオジサンがお酒を飲むシーンなんて、それほど様になるものじゃない。それがどうだ、アル・パチーノがグラスを手にした瞬間、中年男の悲哀とか孤独が画面を覆い尽くすのだから不思議だ。しかも、酔っ払って相手に絡むシーンなんか、せつなくなるほどのやるせなさを感じる。さらに、アル・パチーノの目力にも注目だ。冷酷なまでの威圧感を漂わせ、相手に付け入る隙を与えない。とにかくスゴイ。 ストーリーはこうだ。舞台はニューヨーク。ある日、全裸の男がうつ伏せになって銃で撃ち殺されるという事件が起きた。ニューヨーク市警に勤続20年の刑事であるフランクが担当することになった。被害者の傍に残されていたのは、口紅のついたタバコ、それに繰り返し流れるドーナツ盤のレコード「シー・オブ・ラブ」であった。その後、ブロンクスの分署に勤務するシャーマン刑事から、同様の手口で事件が起きていたことを知り、2つの事件は同一犯の仕業ではないかと捜査を始める。手がかりは、2つの事件の被害者らは、どちらも雑誌に詩を掲載し、恋人募集の広告を出していたのであった。フランクとシャーマンは、その雑誌に同様の広告を載せることでおとり捜査に踏み切った。2人は私書箱に寄せられたたくさんの手紙の差出人である女性たちと、コンタクトを取ることにした。そして、分刻みでカフェバーに現れた女性たちとデートし、グラスに着いた指紋を現場に残されたものと照合するのだった。 主人公フランクに扮するのはアル・パチーノだが、このキャラクターというのが、妻と別れて孤独な日々を過ごし、職場の同僚に絡んだりして、ちょっと残念なオジサンなのだ。だが、おとり捜査の際、たまたま出会ってしまった一人の女性、ヘレンに恋をし、容疑者であるにもかかわらずのめり込んでいく。この時の濡れ場がイイ。戸惑いながらもヘレンに惹かれていく自分を抑えられない男の悲哀が、烈しい欲求を伴って表現されている。サスペンスだが、もう最初の方で犯人は分かってしまった。それでも私はこの作品が好きでたまらない。古い作品だが、後味の良い結末に安心して鑑賞できる佳作だと思う。 1989年公開【監督】ハロルド・ベッカー【出演】アル・パチーノ、エレン・バーキン、ジョン・グッドマン
2015.06.13
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【車谷長吉/蟲の息(漂流物より)】◆生きることは「苦」であり「行」であるバッハの楽曲には「身・口・意・生のすべてによって神を讃えることを主題にした宗教音楽」がある。バッハはたまに耳にするが、間違いなく神聖で崇高なメロディーだ。一方、釈迦の教えでは、「人の身・口・意が行なうすべてのふるまいを業と言い、業は次ぎ次ぎに因果を呼び込む苦」である、という。さしあたり車谷長吉は、その業を背負ってこの現よを彷徨っている作家と言えるかもしれない。残念ながら、彼はバッハのように、文学を通して何かを讃えるなんてことはできなかった。むしろ「人の生死には本来、どんな意味も、どんな価値もない」ことを、冷静に教えてくれる。人は皆、自分という存在に意義や意味を持たせたがる。自分が誰かに必要とされて、この世に生を受けたのだと思い込もうとする。そうでなければ自己を喪失してしまうからだ。偶然の連続によって自分が誕生したに過ぎないと分かったら、空虚で、思考の停止を余儀なくされるに違いない。ところが車谷は平然と、「鳥獣虫魚の生死と何変ることはない」と言ってのける。こういうことをちゃんと小説にできる人は少ない。本物の作家である。 『漂流物』は、短編が7篇おさめられている秀作だ。とはいえ、どれもが奇形的で酷さを感じさせ、ヒリヒリするような情念が感じられる。最下層の人々の中を、ギリギリの状況で、這うようにして生きる姿は、ほとんど生の美学である。 釈迦の言うとおり、すべてが空だとしても、「人が生きるためには、不可避的に生きることの意味を問わねばならない」と、車谷は矛盾を承知でペンを取る。私も文学の意味とか意義は、そこにあるのだと思う。 私が7篇の中でとくに気に入ったのは、「蟲の息」だ。これは主人公の「私」が勤務する会社で、やくざ者まがいに会社が横車を押され、「私」がその解決を一任されるという作品だ。それは、相手を怒らせることなく、かと言って会社サイドはびた一文払わずに済ませるという難題だった。にもかかわらず、あえて「私」は自ら苦を選んだのだ。 「四日に一度ぐらいの割りで相手の事務所へ出向き、さんざん怒鳴られ、脅され、せっつかれ、詫び、泣きを入れ、ほめそやし、ひたすら平伏し、併し色よい返事は与えず、はぐらかし、空とぼけ、決して言質を取られないように細心の意を払いながら」 という手段に出たのである。これはほとんど「行」であろう。そんな苦行をなぜわざわざ「私」は自らすすんでやる必要があったのか。落ちるところまで落ちてやるという破滅思考のなせるわざだったのだろうか。 「蟲の息」のラストは、何とも言いようのない、細い一筋の光が射し込む。ある時、「私」がほんの慰めにくずの葉を摘んで花瓶に活けたところ、葉の裏に虫が止まっていた。細針亀虫だった。だが不憫にも、この虫の前足は一本欠損しており、5本しかなかった。決して鳴かないこの虫を切なく思いながら、「私」はそのままくずの葉に止まらせてやったのだ。この虫がキーワードとなっているのは言うまでもない。私は作中の主人公である「私」と共鳴し、この不憫な亀虫に仏の姿を見た。 捨て身の覚悟がない人間は、どうにかこの世と折り合いをつけて生きていくしかない。私はまじめに、ただひたすらまじめに生きていこうと思った。 車谷長吉氏は、先月17日に亡くなった。衷心より車谷長吉氏のご冥福をお祈り申し上げる。 『漂流物』より「蟲の息」 車谷長吉・著※なお、吟遊映人の過去記事 車谷長吉「赤目四十八瀧心中未遂」はコチラから☆次回(読書案内No.164)は未定です、こうご期待♪★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2015.06.07
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【J.エドガー】「ニクソンのような相手は初めてだ。私がこれまで盗聴した連中は、心にやましいことを抱えているから脅されたと感じて、私の言いなりになった」「そんなことはどうでも、、、」「じゃ、何だ? 何が言いたいんだ?」「我々もそろそろ引退の潮時だよ」歴史上の人物について興味を持った時、現代ならさしあたりネットで検索したりして、おおよその輪郭は掴むことができる。勤勉な方なら、本を読んで調べるという手間も惜しまないだろう。だが、なかなかフツーはそこまではしない。めんどうくさいというのがホンネだ。そこで私がオススメしたいのは、なるべくドラマ化、映画化された作品を視聴してみることだ。もちろん、脚色されているだろうが、人物の生い立ちとか功績などは、概ね捉えることができるに違いない。『J・エドガー』も実在の人物である。FBI初代長官で、大物政治家たちを震え上がらせた影の支配者なのだ。この人物について興味を持った方は、『J・エドガー』をご覧いただきたい。 ストーリーはこうだ。FBIのジョン・エドガー・フーバー長官は、老いていよいよ半生を振り返ろうと思った。部下に命じ、口述タイプさせた。それは、自らの過去の記録であり、苦悩でもあった。1919年、アメリカは共産主義や運動家の過激派によるテロが活発化していた。24歳のフーバーが、特別捜査チームの責任者に抜擢される。彼はまず、国会図書館の蔵書をインデックス化し、検索時間を大幅にカットすることに成功。また、アメリカ全土から大卒の優秀な人材を採用することで、FBIのレベルを向上させた。(しかし有色人種はほとんど起用しなかった。)さらには、FBIの記録とは別に、政治家たちの情報をファイリングすることで、自らの権力を揺るぎないものとした。一方で、フーバーは生涯、独身を貫いた。彼のアシスタントであり、40年以上の付き合いがあったクライド・トルソンとは、毎日、ランチかディナーを共にする間柄だった。トルソンもまた、生涯独身だった。(*フーバー自身のファイリングが残されていないので、確証はないが、あるいは同性愛者だったかもしれない。)フーバーは、常に黒い疑惑やスキャンダラスな噂がつきまとったが、それもこれも、国家を守るという絶対的な信念によるものだった。 監督はクリント・イーストウッドだが、欲を言えば、もう少し盛り上がりがあっても良かったような気もする。始終、主役のレオナルド・ディカプリオのナレーションで淡々と進んでいくので、クライマックス的なシーンがぼやけているように思えた。とはいえ、50年近くも政府機関の長を務め、世界で最も恐れられた男をディカプリオが好演。圧倒的な存在感で視聴者を魅了する。まずまずの作品だと思った。 2011年(米)、2012年(日)公開【監督】クリント・イーストウッド【出演】レオナルド・ディカプリオ、ナオミ・ワッツ、アーミー・ハマー
2015.06.02
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