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飲ませてぇ~。セクシーな街である。トンネル横丁、JR環状線の下にあり。西九条は庶民の町であり、その分、夕方からは酒屋は賑わうが、夜は早い。ソフトマシーンというバーは、レコード充実。60's~70'sロック、ジャズ、ソウル、フォーク多数!!特に、プログレ、サイケ、ジャパニーズロック&フォークありって感じのお店。以前にも紹介の安治川トンネル 戦中は車も通ってたんだぜ。トンネルのなか上部は川。アジ川トンネル商店街九条の松島は、多分、飛田新地についで2番目ぐらいに大きい遊郭ではなかろうか。思いもよらず、一帯は広かったのであった。昼間だというのに、呼び込みがあるが、そんなことでフラフラ寄っていく私ではない、ビジネスに勤しむ私は、写真の10枚程度を素早く取り込み、徒歩3分の九条駅に向かったのであった。白雪温酒場 は、メニューがない。メニューはないので、何を頼んでいいか分からないので、常連客が頼んでいるのをつられて頼むか、目に飛び込んできたものを頼むといった按配である。
2006.06.30
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無事18歳となった私と、同時に18歳になったSは、中学3年の時の同窓会を催すことにした。随分前の昨日に書いた続きである。 順調に18歳に育った私と、追い抜かれないように18歳になった同級生のSであった。Sは、蛙の白骨化事件の前から、自分自身が骨皮筋衛門と言われていたように、骨と皮で身体の90パーセントを占めていたが、主食はアルコールであった。そう、18歳になったので、私も彼もアルコール解禁となったのである。 そんな訳で、彼は、順調にコックの道を進みながらも、時々外れてはアルコールにはまっていくのであるが、そんな訳もあって、是非、中学校3年の同窓会でもしようや、ということに2人の合同協議会(ただの酒飲みの場で)で粛々と決定されたのである。あの頃の女の子をいっぱい呼んで、なにやらほにゃらら致すという下心が1パーセント以上はあったかも知れないが、この場を借りて言うと、クラスメイトにはその対象者は存在していなかったのである。プレイメイトである。とにかく、酒を飲める聖人になったということで、本当のところの本音を語り合おうじゃないかという趣旨であった。 しかしながら、幹事はつらいものがある。幹事は何せ、連絡をしなければならず、当時はパソコンメールも携帯電話もないので、各家に1件1件苦渋の決断をして電話をしなければならないのである。BCCにして、メール一斉送信仕事量0.5秒ではないのである。おまけに、告白するわけでもないのに、女の子の家に同窓会のお誘いの電話をするのは、緊張するのである。告白する訳でもないのに、家族、特に父親という家庭では疑うことが仕事である鬱陶しい陰鬱な存在を突破しなければならないこともあるのである。彼女まで届くのは、遠い遥か3000里の世界なのである。そんな事情もあって、正座して石を積まれる思いで、ようやく同窓会のお誘いなどしてみた結果、40人のクラスメイトのうちプレイメイトを除く(含んでもいいのだが)10人から15人ぐらいを無理やり居酒屋に動員することができたのである。 そして、同窓会当日のことについては、これは、もう20年近くたったので、すっかり忘れてしまったのである。どんなメンバーが来たのかも忘れたのである。強いていえば、私がどんな服を着ていったかも忘れたし、財布にいくら入れていったかも忘れたのである。もしかしたら、知らないうちに太っ腹で全員分の支払いをしたかも知れないし、もしかしたら緊張のあまり、服を着ていくのを忘れて出かけたかも知れない。 まあ、実は同窓会はどうでもいいことで、前置きが長くなったが、すっかりSの何のことを書こうかと思ったかもてっきり忘れてしまったのであるが、後日同窓会の様子の写真ができたのである。つまり、Sか私がカメラを持っていったということである。当時は写るんですが出始める夜明け前直前だったと思うので、恐らく彼が持ってったものと責任を擦り付けておく。何せ、私が1ガンレフを購入するまでまだ1年半の月日を待たなければならないのである。それまでは、母親が密かにもっていた簡単カメラがあったが、その簡単カメラは、タイのサムイ島で、砂が入って機能しなくなるのもあとちょうど1年を待たねばならないのである。(サムイ島の対岸の町、スラタニーの写真屋でカメラが壊れたと見せると、店員は電池を入れ替えてみて、それでも動かないので、もう駄目だというすこぶるシンプルで諦め肝心のオープンマインドな処置をしてくれたのであった。) 何を思ったのか、Sは、暇に任せて、勝手に顔の写っている人数分だけ焼き増しをし、酒の勢いに任せて、1件1件持っていこうということになり、いちいち連絡していくのは面倒だということになり、夜討ち夜掛けで、一方的に家宅捜査し、本人がいなくても家族から焼き増し料をふんだくると言う仏も黙る割り切り型押し付け売りつけ営業を行ったのである。 それでも家の分からない人が2軒あり、1軒は近くの公衆電話からその女性の家に電話したのであるが、母親との話がどうも合わない。うちにはそのような子はいませんよ、というのである。狐に包まれ狸に騙された気になったが、根気よく交渉を重ね、状況を説明し、怪しいものではないと身分を白日の下に晒し、年齢から学年から性格から当時の担任の先生まで暴露していたころ、ようやく、私が、名前の漢字を読み違えていたとう新事実が判明した訳であった。親の金と庇護の下、百選練磨の受験勉強に身を委ねてきた私であるが、小学生低学年から彼女を知っていたが、10年以上、彼女の下の名前を間違えて思い込んでいたのである。もう一度、百字帳からやり直すかベイベー、というところで、壮大な交渉はクライマックスを迎えたのであった。危うくカタストロフィーしちまうところであった。 もう一軒であるが、これも、曲者であった。何せ、トイモイ理論によると、(3年前ぐらいに披露したとは思うのだが)、人生に一瞬3度モテモテになることがあるのである。それは、一瞬に過ぎない儚い夢のような出来事であるが、そして、3度とっくに使い果たした私であるが、その2回目が中学校卒業前後1週間だったのであった。何故か、卒業前に急に中学校3年間モテにもてなかった私の下に、正確にいうと忘れてしまったのであるが、連続連日5件程度のインターコースな申し入れがあったのは事実なのである。そのうちの一人は特に猛アタック、モスキートアタックのような絨毯攻撃を受けたのである。 実は、前置きが長くなったがその子の家なのであった。細い道をバイクで抜け、その子の家に着いた時には、母親が対応してくれたのであるが、母親いわく不用意に語ったのである「あの子は今、お風呂にはいっているのよ」そういいつつ、玄関の真横に面した窓の奥が風呂場であり、先程から、お湯をかぶる音がジャージャー鳴っていたのである。しかし、母親がその言葉を発した、おおよそ0.5秒後、電気のついた奥の湯の音がピタリと止まったのである。脳髄が沸騰し始め、それまでペチャクーチャ喋っていた私とSの声もぴしゃりと押し殺すように、止まり、静寂が訪れたのであった。こうなったら闇夜に一撃である。私とSは無言で母親に一例し、取り立てる金も取らず、キックスターターレバーを思い切り足蹴りし、エンジンを闇夜に吹かし、照れから逃げるように、穢れなき純粋無垢なナイスヤングな我々は去って行ったのであった。 それから、その夏、風呂に入っていると一匹の蚊が風呂を飛んでおり、何となくその蚊が私の優美な裸体の周りを羨ましげに飛び回るのを見て、これはあの子の分身ではないのか、と恐怖し、畏怖し、風呂の洗い場のタイルの上を危うく滑りかけたのであった。何せ、風呂場の蚊は反響が手伝って不快な羽音降るスロットルである。私は、敢えて、涙を飲みながらも、無情にも、その後に風呂に入る家族のために、その蚊を一撃で絞めてやったのであった夏の思い出である。
2006.06.29
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またもや、全然関係のない話なのであるが、中学生の頃、夏休みの研究で、カエルの解剖をした。近所に住む、2年後にコックの見習いとなるSとの純朴たる共同作業である。蛙自体は、近所の池で(2,3度頭から落ちたことがある)ヨモギで釣ってきた大型殿ざまガエルである。 まずは、麻酔からである。しかし麻酔は無いので、氷につけて仮死状態にしてから、メスを入れる。入れて見るが、どうやら夏休みのため、真夏である。速攻で仮死状態から意識を取り戻した蛙は、手足を釘で止めていたにも関わらず、イテエよお~と断末魔火事場のクソ力を発揮し、釘を振りほどいて、逃げ出した。腸が飛び出たままである。オッケー、気色悪さオッケー、しかし、Sは親の敵の如く、蛙を全身全霊で捕まえ、再び磔台に戻し、気合一発入れなおして、分解を始めた。 私の頭の中には、内臓がバラバラにさせ、感想させた立派な標本を想像した。想像したものの、なかなか綺麗に内臓は部門別に分かれて剥がれてくれないのである。短気が取り柄でもあるSは、将来のコック像に相応しく、滅多切りにして、最後に心臓だけになった。ハナクソ大の心臓は、他の内臓がなくなったというのに、トックントックンやたら忙しそうに動いていた。科学の進展のためにはこういった犠牲が付きものであると、我が心の内なる道徳心を発起させながら、私は見守りながらも、もっと昔の少年時代の頃を思い出していた(といっても、中学校なので、この頃もいわば少年時代でもある) 少年時代は、蛙の肛門にストローを突っ込み、膨らませたり、泥と蛙と爆竹をミックスチャーしては、破裂させてみたりと、子供なりの残虐な遊びに興じたりなんかはした。だから命の大切さを今に知るという言い訳が粛々と成り立っていたりなんかもする。 今の時代もそうなのかも知れないが、差別してはいけないのだが、あえて区別していうと、近所の子供達が数人集まると、やはり、1人ぐらいはちょっとオツムの弱い少年というのが、大抵順調に1人ぐらいは混じっていた。私は、時々、小心者ながら、ただ年長者というだけで、親分肌を気取り、蛙の肛門にストローをつっこみ、しばし、少し膨らませ、自慢した挙句に、オツム君に「やってみろ」と言ったものだ。 順番が一番に回ってきて大ヨロコビの彼は、キラキラした目で、蛙を受け取り、ストローを嬉しそうに口に含んだ。 私は次の瞬間叫んだ!「オイ!吸うんじゃねえ!」 長い長い、今にしては瞬間でしかない8月を終え、中学校の2学期の始業式があった。蛙の実験の件については、私の頭脳明晰な頭の中からは忘却の彼方になり、実験もそこそこにSの家を満場一致で実験半ば志半ばで辞したことさえも記憶から懸命に消しており、私自身の理科の実験の宿題さえも、すっかり忘れてしまっていたのであった。 Sは、満面笑顔で、裸電球6セット入りの空箱のようなものを持ってきていた。それを後生大事そうにあけると、女性陣がスカートをめくられたときよりも満面恐怖で血の気が引き、逃げまとった。そこには、出鱈目にアロンアルファで強力に箱の底に引っ付けられた何の説明書もないただの骨だけが、あった。おまけに異臭を順調満風に走らせ、9月のまだまだ暑い教室の中を更に熱狂の渦に陥れたのであった。 2年後、彼は、再び包丁を握り、コックの道を歩み始めたのであった。(前半終わり。後半は無いかもしれない)
2006.06.28
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香港チェクラックコック新空港開港記念時(1998年7月6日)から1週間以内に、この空港を利用してキャセイパシフィックのビジネスクラス以上に搭乗した人に記念に配られていた記念品の写真立てです。 証明書
2006.06.27
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ヤボヨウで大阪市福島区に行ってきた。福島区は、梅田の隣である。JRで120円、阪神電車で140円である。占いは売らない地域である。まあ、それはいいとして、商店街を歩きながら、ふと、チェンマイのことを思い出した。 その時、バンコクからチェンマイに着いたのは、早朝であった。駅から連れて行ってもらったゲストハウスに、眠気から、無条件で泊まり、昼間で寝ている。中庭に出てきたのは昼過ぎであり、そこには水槽があり、ノンビリしている日本人のおっさんがいた。暇に任せておっさんは喋った。おっさんはタイも長いという。おっさんは、要はかいつまんでマトメテ言えばロリコンであった。鬼畜である。チェンマイで幼女を囲っていたおっさんが摘発されていたが、このおっさんもその一味なんだろうか。幼女趣味以外の趣味は、まあ、本人の勝手だからいいのだが、これは問題である。おっさんは、それでも笑える迷言を吐いた。「少女が女になったらもう駄目だ。チェンジだ」と。毛が生え始めたら駄目だそうである。それから、言い訳がましく、言うのであった。「囲っているだけだよ、セックスはしないからねえ」「じゃあ、何するんですか」「舐めるだけだね」ナメ専のこのおっさんに対して、ひとつの疑問が浮かんだ。「あのう、どうやったらフィニッシュなんですか」オヤジは、またしても迷言を吐いた。「いやあ、こればかりは、キリがないんだよねえ・・・」不謹慎ながら、私は噴出してしまった。その時、私は頭の中で全然違うことを思い出していた。例の3軒隣に住んでいた、その12年後に東京大学に入学する友達(当時の得意技:ハナクソ食べ)が、ある日、自慢気に昆虫採集セットの箱を持ってきた。中を開けると、カブトムシとクワガタに加え、銭亀の剥製が入っており、何故か神経質に透明接着剤1本丸まる使ってガビガビに箱に貼り付けていた。彼は何事もなかったようにまた蓋を閉め、ズボンの後ろから手を入れ、もぞもぞして、また手を出してきて、「臭っ~」と言った。肛門手入れも彼の趣味と知ったのはその日であった。
2006.06.27
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梅雨ということである。私は大富豪ゆえに、傘は2本持っている。1本は、車検に出した時にディーラーがプレゼントでくれたものだ。もう1本は某メーカーショールームに見学に行った時にもらった3段式折り畳み傘である。3段式なので、常備カバンに収められている。晴天の日も、勿論、朝から雨の日は、カバンにはいったまま、ディーラーにもらった傘をさして家を出る。特に捨てるものはないのである。持っているというと、随分精算したのではあるが、銀行カードとクレジットカードの数々である。その中でも一番古いのが、20年前に作った三和銀行カードである。勿論、何故か、今も三菱東京UFJ銀行で使えるのである。勿論、20年前に作ったので、印鑑も通帳も既に紛失の彼方である。 先日リフォームをしたので、まとまった金を下ろすついでに、銀行移動させようと、定期預金大金を下ろそうとしたのだが、顔パスできないどころか、窓口でないと対応できないとなんかぬかしやがり、すぐに下ろせず、銀行に資産を凍結されてしまっているのである。そういえば、同じ旧三和銀行のある支店から、10年ぐらいお取引がないのですが、このままでは資産凍結しますと宣告葉書がきた。大富豪なので、資産32円を銀行にくれてやることにした。何せ、それも、更新のための印鑑も通帳ももうないのである。案内はゴミ箱に捨てた。 証券会社からも返送されてきた。現金のやり取り口座をも手数料のかからない銀行に変えようとしたのであるが、印鑑が違うとのことである。違うといっても、その陰影のコピーがあったが、そんな印鑑はもう存在しないのである。面倒なので、そのままゴミ箱に捨てた。 淡路島の開発事業団からお手紙がきた。何と5年以上前に人にあげた車(赤い日本製ポルシェ)が相当期間前より、放置されているとのことだった。これは大変である。えらいこっちゃといいながら、またゴミ箱に捨てた。
2006.06.26
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今日は、特段毎日の平常の中、昨日の夕日画像に合わせて、というわけではないのだが、3丁目の夕日を鑑賞した。東京タワーのできる昭和30年代前半の話であり、ミゼットが走り、金持ちの家に冷蔵庫や洗濯機、テレビが入り始めながらも、大雑把に全員が貧乏な時代の物語であり、ところどころに時代の一こまが挿入されている。コカコーラの導入、フラワープ、タバコ新生、5円がメインの駄菓子屋・・・私には懐かしさはないのだが、多分、私の父母世代に絶大な懐かしさがあるのであろう。私が知っている、父親の子供の頃のエピソードはたったひとつである。農家の7番目に生まれた父は、農作業に駆り出される子供時代であったが、ある日、家の牛が盗まれ、何日後かに、裏山で肉が剥ぎ取られた屍骸を発見したというものだけであった。私が知っている、母親の高校の頃のエピソードは。たったふたつである。すべての体育の授業をサボったこと、コカコーラというのが輸入されて友達と飲みに行って薬みたいやなまずいな、と言ったことである。
2006.06.25
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おじいちゃんが死んだ日の夕日 そもそも、私が、インドに行ったのは、やはりそれなりに理由があって、きっかけがあったわけである。高校を卒業するまで、絶対に海外には行かないと決めていた私であるが、理由は、外国語が話せないということ以外大きな理由はなかったのである。「インドで飲めるのはフレッシュジュースだけだ」という友達の嘘の金言を信じ感動し是非行ってみたいと思った18歳であったし、金持ちと貧乏の距離が1秒というのを聞いて見てみたいと思った18歳であった。(こちらは本当であった。カルカッタの高級ホテルオベロイやボンベイの高級ホテルタージマハルホテルを1歩出ると、もはやそこには、水溜りに乞食の大群であった) 三島由紀夫が「インドは人それぞれに行く時期がある」なんて名言を無視し、嘲笑い、早く行けば行くほど良いと思い、ひたすら、アルバイトに性を出し、旅行代金を稼ぐ18歳であった。おじいちゃんが燃えて小さくなった翌日の夕日 そんな中、一族郎党でインドに行ったことがある人物がいた。おじいちゃんであった。おじいちゃんは仏壇店を経営していたので、70年代ぐらいに、巡礼のインドの旅に出ているのであった。なんていえばかっこいいかもしれないが、70年代といってももう年齢は60代後半であったので、当然バスの団体旅行である。そんでもって、おじいちゃんは、「インドにいったぞ」という以外のエピソードは何も無いのである。たった一枚とても下手糞なインド絵巻物を写した写真を引き伸ばして置いていただけだった。おじいちゃんは、とにかく町一番の新し物好きで、万年筆や一眼レフカメラや電卓など、新しいものがでると兎に角すぐに買うという癖があった。周りは農家であり、収穫期には皆忙しくしており、世間体が悪いからと、一家で外にも出ず、家ごもりをしていたようである。母は、同級生が農作業に借り出されている時に、意味もなく世界文学全集や、サルトルを家にこもって読んでいたのであった。そんな訳で、18歳の私は、70歳代のおじいちゃんに「インドに行くよ」と報告したら、「そっか」とだけいい、ビールジョッキに日本酒を入れて飲んだだけだった。30年後の自画像 追記 おじいちゃんが台湾に言った時のお土産であった掛け軸。家に飾っていたが、妹がチューリップをキレヨンで書いて、母親にしばかれていたのは、もう30年前の話である。
2006.06.24
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私の住んでいる地域は、人口が130万人しかいない小都市なので(中国と比べてだが)、いのししが出るのは勿論のこと、たぬきやいたち、あらいぐまや猿も出没することがある。そんな訳で、最近、ふてぶてしい狸がマンションに巣を作ったとのことで、役所に撤去依頼するために連絡すると、「狸ですかアライグマですか」ということを聞かれ、どちらかによって捕獲セクションが違うのだという。そんなのは、一瞬では分からないのであるが、たらいまわしにされているうちに、手続きが狸の方が簡単だということが判明し、「狸です」と答えておいた。 もし、アライグマだったら、タヌキ担当役人が来て、これはあらいぐまですねえ、といって帰るのであろうか。電話を待つ間、私の頭の中には、タライの中をぐるぐる回るアライグマと責任を何が何でも排除するタヌキ役人という姿が脳裏をさまよい続けた。 そういう訳で、脳裏続きになるのであるが、1日中線路踏み切り近くでヤボヨウで仕事をした。3分に1回は鳴る遮断機音であるが、一緒に仕事をしていた仲間は、「今晩の夢に音が出てきそうだ、気が狂いそうだ」といっていたが、私はぼーっとしているので、次第に馴れて気にならなくなってきてしまった。 高校の頃、テープレコーダーを持って、いろんな街の音を拾って遊んでいた時期もある。海の波の音、ウシガエルの鳴く音、駅のアナウンス、鳥の囀り、そして踏み切り音。そんな音に、更に後ろから音楽を入れて聞いていたりなんかした。今日の踏み切り音を聞きながら、2児の父親となった心斎橋ワタル氏のかつての家の近くの山陽電車の踏み切り音に、シカゴのHard To Say I'm Sorry(素直になれなれなくて)を入れて聞いていたのを思い出していた。おまけに、中学校の時、担任の先生が、第2子を産んで、女子達が、ニジの父親になったと騒いでいたのを聞いて、ずっと2次の父親って、つまり産ませた女性が違うってことかなと大学に入るまで思っていた私自身のことを思い出していた。シカゴは、素直になれなくてみたいなポップ路線ではなく、それ以前の曲がスゴイのであった。ジミヘンやジャニスジョップリンもお気に入りとのことであった。今もメンバーは入れ替わりながらも健在だそうである。それにしても遮断機のある線路沿いのアドレスは、何と昨日オークションで落札してもらったものを送った町名であり、こんなんやったら、歩いてポストに入れて送料かましたらよかったと思った夕刻の紳士であった。
2006.06.23
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私はテレビを見ないので、良く知らないのだが、「ギャルサー」というドラマが流行っていると何かで読んだ。本当に流行っているかは知らない。パラパラであろうか。パラパラという踊りも息が長いものだと思う。もう10年ぐらいは長く流行っているのではないだろうか。多分、振付師の真似をすればよい、体全体でリズム感を表現するのではない、というところが、日本人にぴったりなんだろうか。振り付けといえば古くはピンクレディー、最近ではマツケンサンバであろうか。 私は新聞も精読しないので、良く知らないのだが、「半分冗談」というキーワードが流行っていると何かで読んだ(かも知れない) 例えば、だるまマウスとかも流行っているらしい。まア、本当にフィギュア人形を机の上に飾っておくと、オタクに見られるけど、一応実用品なので、冗談半分で抵抗感が少なくなるといった感じなのであろう。なんちゃってデジタル文具品雑貨品なんだろう。 50歳以上が国民成人の半分を超えてくると、市場も劇的な変化が起きると、何かで読んだ気がする。何だか、街中歩いていても、「50歳からの旅行」とか50歳からの基礎化粧品とか、映画も50歳以上は半額とかが目に付き始めた気がする。昔は、あまり年齢を出したり、ビビッと線引きをするのはあまり無かったような気がする。若い頃から、古い習慣と新しいライフスタイルの狭間で、いろいろ遣り残した団塊の世代の女性を中心に市場は回るのであろう。(団塊の男性が、こんなはずじゃなかったと思ったのは、若い頃ではなく年をとってからであろう) 素人ながら、ファッションについても簡単に調べてみた。ニュールック、アイビー、スーツ、ミニスカートと緊張服、フーテン、サイケデリック、アングラ、ジーンズ、マキシスカート、タンクトップ、サーファーとダラダラ服。そして、ハマトラ、DCブランド、ボディコンと緊張服、そして黒人ファション、モテ服、エロガンスといった混沌期、ラクチン服・・・流行というより、社会が階層化してきたからなんだろうか。 そういえば、最近、旅行で流行りは、パワースポット系、スピチュアル系らしい。フーン。 そういえば、コンビニに欲しいものには、携帯電話の充電や、デジカメプリントに加え、買った食品を食べられる畳部屋とか昼寝部屋というのも結構要望があり、くつろぎ系に拍車がかかっているのか。 そういえば、良く売れている車のキューブは、雑貨系車である、自分のお部屋といったコンセプトだったような。家出である。
2006.06.22
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お葬式の朝、近くの手柄山まで行く。昭和41年の手柄山での博覧会にためにできたモノレールであるが、僅か8年で廃線である。私の中に走っている姿の記憶は無い。路線は 姫路-大将軍-手柄山 のわずか2駅間、1.6キロ。詳しくはここにある。思わず、全文読んでしまった。 当時の交通事情が偲ばれる。姫路モノレールはロッキード社の技術を採用したが、ロッキード社辞退がモノレールに事業に再三が採れず、撤退、交換などできなくなったため、廃線を早めたとある。大将軍駅。ビルの途中にある。手柄山 まあ寝不足と気疲れのため、今日は、この辺で勘弁しといたろ。
2006.06.21
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兎に角、漏れも多いが、古い順に紹介する訳である。第一回海岸ビルヂング(旧兼松商店本社屋、旧日濠会館) 明治43年(1910)商社の現兼松、兼松江商の前身である兼松(ややこしいな)本社ビルとして建てられた。戦災で大きな打撃を受け、戦後行われた修復工事で、以前の面影とはかなり違ったものとなったそうだ。頂上部にペディメントがあったそうだ。がしかし、その時の工事の際に耐震補強を施してあったため、震災では煉瓦壁にひびが入ったものの、倒壊には至らなかったそうだ。海岸ビルと同じ設計者であり、名前も似ていて、距離もわずか。裏に行くと、時々行くバーがある。先日行った風景まであるのである。海岸ビル ( 旧・三井物産神戸支店 ) 大正7(1918)年海岸ビルヂングの6年後に同じ設計者により建てられる。この建物の下層部は、震災で被害を受けた海岸ビルの外壁を復元したものであり、上層部は最新式の高層ビルとなっている。中に入ってみると外壁と高層ビルとの空間が、レトロビルの高さまでの吹き抜け構造となっている。みるからに危なそうに見える。神戸郵船ビル( 旧日本郵船神戸支店 )大正7年(1918)当初は銅葺きの屋根と円形ドームを戴いていたが、1945年の神戸大空襲で焼失したが、外壁はほぼ昔のままの姿を残しているそうだ。偶然にも、震災1年前に耐震補強の改修工事を行っていたため、ほとんど被害は無かったそうである。
2006.06.20
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湯潅の方は、若い女性であった。借金苦か元看護婦か、と少し考えてしまう。死に化粧をしたら、30歳ぐらい若返り、精悍な顔つきになり、10年前に亡くなった長男(おじちゃんの息子)にそっくりに見えた。移動台。18時。通夜開始。19時半ころから親族で食事後、急激に暇になった。親族が集まるのは、誰かが結婚した時か、誰かが亡くなった時ぐらい。孫たちの名前は、私も含め、全部、おじいちゃんが坊さんと相談して決めたことが、判明。但し、おじいちゃんには4人の子供がいるが、4番目の子供の下の子供だけは、その子供の旦那の初恋の子の名前を密かにとったことが判明。大笑いの後、少し重い空気。(その旦那は故人)夜、今日は、亡きおじいちゃんと同じ部屋で、会館に雑魚寝で泊まる。それとなく、テレビをつけ、皆で日本クロアチア線を鑑賞する。私の家と違い、テレビは映る。しかし、2人を除いて、皆、途中で寝てしまう。私も寝てしまい結果は分からず。昨日はおじいちゃんが亡くなった介護用ベッドで、これキモチイイね、と言ったまま、その上で気を失うように、1時間私は寝ていた。よって睡眠不足から来る。酒も進むと思われたが、昨晩に朝まで飲んだので、もうあまり入らない。夕食を食べ過ぎた。それでもまた、サッカーの試合が終わると、起きて、線香を絶やさぬように炊く。従兄弟が、いろいろ車の話をしてくるが、私は車は見栄だけで超高級車に乗っているので、詳しく分からないので、「ホウホウそうだね」を連発する。おじいちゃんは、タイでかつてよく走っていた3輪車ミゼットを乗り回し、姫路から神戸まで50キロをブイブイいわせていたらしい。ついでに、事故で死に掛けたらしい。7時半。朝は比較的、結構暇だったので、会館の前にネットカフェがあったので、ヤフーオークション3つ落札されていたのをチェックした。その後、母の弟と、喫茶店に行き朝食を取る。結構、ベランメイ口調の優しいおっちゃんで、何をいっているかよく分からないが、気が合う。13時、告別式。花を添える。おじいちゃんの想い出は、やはり小さい頃しかあまりなく、すごく小さくなってしまったなあと思う。30年前、父親の母の葬式の出棺のときに、親父が涙したことがあり、それだけが唯一の親父のみた涙であったが、後で「皆、涙しているからもらい泣きしてもたわ」と照れて言い訳していたのを思い出し、私も思わず、貰い泣き寸前であった。14時。出棺。棺を運ぶ6人のうちの1人であった。軽い。更に軽くなるんだ。火葬場の煙突から煙が出るだろう。一度、会館に戻り、食事。16時10分。2時間で焼ける。骨入れ。各部位の説明がある。おばあちゃんが気丈に見える。今まで何度か見たシーン。差し歯の金属が見えた。 死ぬ日におじいちゃんは、ボケが一瞬治り、皆が誰だか分かった。 死ぬ間際にも、おじいちゃんは、手を歯に持って行った。母親が「歯が痛いのか、気になるのか」というと、おじいちゃんは頷く。母親が、「じゃあ、今から歯医者行こうか」というと、イヤイヤと首を振る。そんなことが数回繰り返された。脈が途絶え始めても、歯は気になってたみたいだ。 今日は16の火葬場のうち午後でも13が焼いているところであった。隣の人の骨入れの入口で、若い女の子が号泣していた。手には小さなぬいぐるみが握られていた。友達が慰めにきた。子供だったのだろう。ソレを見て、何故か貰い泣きしてしまった。17時。お寺にお骨をもって行き、再度お経をあげる。9年前にこの寺の彫り物の入れ替えをした。(何を隠そう、実家は仏壇屋である)18時。自宅に戻り、本を見ながらお経をあげる。遺影は息子の遺影の隣に飾られる。
2006.06.19
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初めての携帯メール日記 お通夜である。一段落すると暇である。
2006.06.18
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昨晩夜中、車を飛ばす。 昨晩夜中、車を飛ばす。 昨晩夜中、車を飛ばす。50キロの彼方へ。 お爺ちゃん往生。 また車を飛ばし、家に戻り、仕事を少しして、今からまた戻り、お通夜に行く。
2006.06.18
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「心斎橋ワタル(仮名)さんに聞く“おもひで”とは何か」聞き手 心斎橋さん、はじめまして。心斎橋 はい、どもども。聞き手 本日はお忙しい中、旧友の急な依頼に応えていただきありがとうございます。心斎橋 いえいえ。…ま、ワタシの11万6079ヒットのときはどんなに忙しくても彼に出てもらうということで…(笑)。聞き手 郡山ハルじさんがインドで死にかけたことを書いていて、キミが、「インド通」ででているよ、というこをお知らせしたんですよ。聞き手 そうですか、ありがとうございました。心斎橋 …あ、あ、ここのチャイの支払いよろしく。(さっと席を立って出口に急ぐ)
2006.06.17
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正論は正論のままだ。異論はない。でも正論は結構誰に向けても発信していない。 よく、世界が平和でありますように、といろんな所に貼っている。あれって何だろう。そらそうやな、といって終わりである。意味が無い。人に届かなければ意味が無いよね。 西洋人は(映画を見ていてだけど)「愛している」を連発している。「俺は本当に、突き詰めて考えれば、キミを愛しているか分からないんだ。愛しているという意味もよく分からないんだ。定義できないんだけど、俺は、本当に、多分愛しているんだということを正直に言っている真摯な姿だけは認めてもらえるかな。」とは言っても仕方ない。 どうやら、「愛している」とか「好きだ」いう言葉を発することによって、やはり何となくではあるが、そういうものがムクムクと創造されて熟成されていくのだろう。はじめに、言葉ありきなんだろう。 しまった!恋愛指南博士であることがばれてしまった。決して、「君が俺のことを愛したことはもう何回も聞いたから、もう分かったので、別の話しようよ」なんてヤボなことをいってはいけないのである。エッヘン。(疲れた)
2006.06.16
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テレビとインターネットは相互乗り入れしている。昼の番組なんかである商品がテレビで伝えられると、番組終了後、その商品の検索がアップし、仮想店舗やオークションに殺到する。そんな訳で、旬のものを目ざとく察知するのが、私の役目でもある。 そんな訳で、私は、いろいろ、流行を調べてみるのである。俄かトレンドウオッチャーなので、全くの受け売りっぽいのもあるのである。そう思ったのも、昨日の日記の最後の数行で、朝飯の大問題に果敢にも挑んだからである。人口分布性別年齢学歴収入などによる数字分析と、ライフスタイル分析の2点から大きくマーケッティングできるのだが、案外数字数字化見やすさで、数字分析に偏りがちであるが、理由が何となくのライフスタイル分析も悪くないとか何とか言うのはまあどうでもいいが、最近は朝専門食品が結構出ているそうなのである。勿論、朝飯を食わない私には関係ない。 何だか、朝果汁とか朝ゼリーとか朝ワンダコーヒーとか、ヘルスケアビスケットとかフルーツ朝食とか、朝チョコとか何だかあるようである。朝にコンビニに寄り、持ち歩けて、一切れづつ食べられ、ふたが閉まる、そして大人の味。都会男性ビージネスマンのアンケートによると、朝飯は自宅が4割弱、通勤途中が2割、会社が3割だそうだ。私は、新入社員の頃、気にせず、会社で朝飯食ってたら、怒られた記憶があるのだが、今はネクタイしなくていい会社を中心に許容されているのであろう。とか何とか、これから流行のオンパレードを素人の私が披露しまくっていく予定であったが、おかんからメールが入った(時代だネエ)おじいちゃんが危篤であるという。おじいちゃんは、死を恐れていない。というか、今、自分が生きているのかもよく分かっていない。昨年、片目が見えなくなっていたことも気がついていない。去年、一度危篤に陥ったが、復活して、ブラブラ歩いていた。おじいちゃんは95歳であるという。 計算高い私は、即座に引き算や足し算を駆使した。私が生まれたときはもう50歳を越えて居た訳だ。私は24ノ時の子供なので、母は、おじいちゃんが30を越えた頃の子供である。 おじいちゃんが、一方通行を逆走して捕まって、警官に「こんな道に一方通行作りやがって~」と食いかかっていたのも考えれば65を越えていたのであるし、ジョッキで日本酒をガブガブ飲んでいたのも75歳を越えていたのだなあ、と今、気がつく。おじいちゃんが急に元気がなくなったのは、10年ほど前に息子(母の兄)が死んでからではなかったのではないだろうか。皆でお経を唱えるはずなのに、1人早口でお経を唱え、おばあちゃんに、また自分勝手にと注意されていたのは80を超えていた。 そんな訳で、もしかしたら今週お葬式かも知れない。
2006.06.15
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Sセガールの御バカ映画「イントゥザサン」をみた。さすがに5年間大阪に住んでいただけあって、日本語が無茶苦茶でしかも流暢で聞き取りにくく、適当な映画に輪をかけていた。!「今日はね~、人切るよ~」「タタッコロシテヤル」「クルナトユウタヤロ」「センセイ、チョットスイマセン」「人キレマスヨー、コレ」「マア、ヘロインデスカ」。他の俳優も肩の力抜けまくりで、大沢たかお、伊武雅刀、豊原功補、寺尾聡、皆さん、力抜けまくりで演技もいつもと違って下手。Sセガールの恋人訳なんて、英語が何だかやたら流暢なんだけど、よくみたら口パクだったりなんかして、笑えてしまう。まあ、ストーリーはライジングサンには劣るのだが。 今回主役の名前はトラビスであったが、トラビスといえば、「タクシードライバー」のデニーロだ。あの映画で、一番想い出があることばは、トラビスが、娼婦訳のジョディフォスターに名前を聞いたところだ。Jフォスターは答えた。「イージー」なんて悲しいんだ。(香港行くけ) 悲しいといえば、7歳の時のことを思い出した。(前にも書いたことがあるが)授業参観で、あぶり出しの授業があって、皆で、果物を持ち込んで、絵を描こうという主旨のものであった。 友達は、それぞれに、みかんやリンゴ、ぶどうなどを持ち込んでいた。いまでこそ、皆と違ってなきゃ嫌だと思うのだが、小学校2年生の私にとって、皆と一緒でないと嫌だという感覚があって、私はランドセルの中にある果物をなかなか取り出すことができなかった。 バナナであった。私は母を恨んだ。皆が、そのままや、卸がねで擦って、ガーゼに落とし込み、汁を溜めた。私はバナナであった。擦ろうが、ガーゼで絞り込もうが、ぐにゃりとなるだけで、汁が出てこなかった。出てきたのは涙であった。友達や友達の母親の視線が痛々しかった。モスクワは涙を信じないが、私は、バナナを信じない、しかし、私は、幼稚園まではそうでもなかったのだが、小学校ともなれば、友達に涙を見せるのが、死ぬほど恥ずかしく、勝手に出始めた悔し恥ずかし涙を隠す為に、そこにあった布で顔を当て、涙顔を見られないように、顔と涙を拭いた。勿論、それはタオルだと思った。友達のお母さんはびっくりした。涙には気がついていなかった。「あんた、それは、雑巾よ」「アー」私は時速百キロでどこかへ駆け抜けて行った。イワンのバカ、でなく、バナナのバカ!オカンのバカ!(俺には未来は見えないが、色魔には見えるぜ) 長い間朝食を採っていない。朝食を採っていると遅刻するという諸事情もあるのだが(約束の時間から逆算して起きるので、いつでも)、すっきりした朝というのを迎えたことが、残念ながら日本ではない。何故なんだろうか。腹は減っていないし、食べるには気分は悪い。朝食を食べなければならないと言われているが本当なんだろうか、それさえ疑問に思っている。いや、多分、朝食というより、起きてすぐ食べるのは多分、体によろしくないのであろう。確かに、起きてから1時間ぐらいすると腹が減ってくる。そんな訳で、毎日、時間があれば大抵、11時過ぎに昼食を採っている健康的な日々である。チーン。(パトカーも駐禁じゃ。民間業者に連れていかれんかい)
2006.06.14
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昔、映画館までわざわざシンドラーのリストを見に行ったことがある。無感動主義者の私は、泣ける映画ではなかったが、その狡猾なやりくりと知恵にいいなあと思ってみたのに、最後にお涙頂戴シーンでしらけてしまったのである。杉原チウネには、その本を読んで涙した無感動主義者であった。 ナチス占領下にリトアニアに逃亡してきた多くのユダヤ人に日本領事館に通過ビザを求めて殺到した。ユダヤ人難民のほとんどは受給資格を欠いていたが、彼は日本政府の指示に背いて、日本通過ビザを無制限に発給乱発した。ソ連政府や本国から再三の退去命令を受けながらも、1ヶ月の間におおよそ6000人分のビザを発行した。その後、国外脱出を果たしたユダヤ人たちは、シベリア鉄道からウラジオストク経由で敦賀へ上陸し、ユダヤ系ロシア人のコミュニティがあった神戸に辿り着く。そのうち、1000人ほどはアメリカやパレスチナに向かい、残りは後に上海に送還されるまで日本に留まったということだ。一方、リトアニアに残されたユダヤ人犠牲者は20万人近くに上るとされている。 彼は、戦後、外務省を辞職に追い込まれている。しかし、こんなことを言っては何だが、日本政府は、彼のビザ発給に対して黙認に近い立場だったのかもしれない。戦中のドサクサで構ってられなかっただけかもしれない。彼の作ったビザは本来無効のはずだから、もし本当に日本政府がユダヤ人を通過させることを拒否するならば、できたはずである。しかし、実際は多くのユダヤ人たちが神戸まで辿り着き、ほとんどが、そのまま、日本の勢力下で終戦を迎えるまで過ごしていたのだ。 また、彼が日本政府の意に反するビザ発給を行った後も、プラハやブカレストで働き続けているのである。普通なら速攻で辞任させられるはずである。まあ、彼が語学に堪能でソ連事情などにも通じていたからかも知れないが。その辺は、よく分からないのであるが、とにかく、ユダヤ人にとって一番感謝されている日本人である。 さて、本題である。シンドラーのリストとは、この世界第2のシンドラー社のエレベーターを採用しているマンションやビルの一覧のことである。 エレベーターのメンテナンス会社は、メーカー系と独立系がある。エレベーターメーカーは、三菱が多く、その他オ-チス(松下系)、フジテック、日立、東芝で8割ぐらいを占める。とにかくメンテナンスは独立系はメーカー系の6割ぐらいで安い。ほんの少し前まで、メーカーは独立系に交換部品の納品を遅らせるとか、技術を教えないとかで嫌がらせをしてきた。独立系もその安さのために忙しく、独立系同士で、仕事の回しあいをしていることも多い。更に、コストを下げたいならば、フルメンテナンスでなく、POG契約がある。Parts Oil and Greaseの頭文字で、消耗部品付契約のことで、定期点検、管理仕様範囲内の消耗品の交換は含まれるが、それ以外の部品の取替え、修理は別途料金となる契約であり、これにすると、とりあえず、新しいうちは、コストが更に6割ぐらいになる。つまりメーカー系フルメンテナンス契約から独立系POG契約にすると、エレベーターのランニングは約4割になる。 何がいいかは分からない。分からないが、メーカーにとって、新築ならフルメンテナンスはとてもおいしい契約であろう。勿論、POG契約から年数がたって、フルメンテナンス契約に移すことはとても難しい。また独立系からメーカー系に移すことも難しい。どちらもその逆なら簡単に変更できる。まあ、そういうことである。 エレベーターには閉じ込められたことがある。その瞬間、どう思ったかというと、「トイレに行きたくなったらどうしよう」という第一次生理的欲求問題であった。 23時40分、私は、ツタヤに行った。そこですごい光景を見た。あの広い店舗に、店員しかいなかった。客もネズミもいなかった。
2006.06.13
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今日は、何を隠そう、忙しくもなかったのだが、夕食しか食べていない。ということは、朝食も昼食も食べていないし、アルコールの体内注入もない。但し、コーヒーは15杯は飲んだ。多分コーヒージャンキーである。 ということで美食家で自分の中だけで名が通っている私は、ふと思い出したのが、2,3年前だったか、ミシュランだったかゴーミヨー(フランスのレストランガイド)だったかの評価格下げを苦にして(本当かどうかは知らないが)自殺したシェフがいたことを思い出した。震災前の神戸シェラトンに店を出していたし、弟子がグーグルをグルグル撃てとかグーグル先生に聞けとかたわいのないグーグル機能の第3弾である。企業のホームページをいきなし見たい。 「企業名」を入れて、「I am Feeling Lucky」の方のボタンを押す。古かったり、ページが閉じられてもうなくなっているページも下部の、「キャシュ」を押すと見られる可能性が高い。グーグルが保存してくれているようだ。結構、過去の古い情報を検索するときに役立っている。この機能は、割と使う方である。“検索名”で探すと、一体化して探してくれる。“北朝鮮のホームページ“といれると、普通、北朝鮮、ホームページとばらばらに出てくるが、この文字が一体化して出てくる。とかグーグルアース はすごい。ダウンロードして使うのだが、いやはや、自分の家の屋根が見えちまう(雲がかかってなかったらね)
2006.06.12
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実は、電車代まで払って、大丸に行ってそのまま帰るような腑抜けな私ではなかった。抜かりない。建築シリーズは、大阪オフィス街だけでなく神戸にも及ぶのである。しかし、神戸の場合、大正から昭和戦前に建てられた近代洋風建築も、阪神大震災によりかなり被災してしまったのである。 震災前に残っていた神戸旧居留地周辺の戦前に建てられた近代洋風建築は20棟が11棟に激減してしまい、海岸ビル、朝日ビルは外壁を復元して上部に新棟が建っている。大丸神戸店の本館部分など8棟が全く新しいスタイルに変わり、1棟が更地となっている。 創建当時のスタイルそのままの建物は38番館、同和火災海上、商船三井ビル、神港ビル、15番館、神戸市立博物館、チャータード銀行の7棟と旧居留地とはずれるが、郵船ビルと住友銀行神戸支店の9棟だけとなった。外壁だけが残されたのは、大丸南2号館、朝日ビル、海岸ビルだけである。 明海ビル、常盤ビル、大興ビル、フィリピン領事館、日本ビル、第一楼などの懐かしい建物はフィリピン領事館を除いて全て新しい建物になった。フィリピン領事館は移転した。フィリピン領事館には、学生の頃、ビザを取りに行ったり(3週間以上の滞在はビザが必要であった)、卒業論文資料が欲しくて行ったりしたものであった。領事館なのに、フィリピンの英雄的ポップスター、フレディアギラの「バヤンコ(祖国)」がかかっていたりなんかして、ラテンぶりを発揮していた。震災後、フィリピン領事館跡地の土地が売り出されたが、大変複雑な権利関係であった。兎に角、漏れも多いが、古い順に紹介する訳である。 神戸旧居留地15番館 ( 旧アメリカ領事館 ) 明治14(1881)年 震災の数年前に修復工事が終ったばかりだったとのことであるが、それだというのに順調に完全に倒壊した。部材を回収することから始めた復旧工事により、約3年後に蘇った。建物は南側に吹き抜けの柱廊やベランダをもつコロニアルスタイルで玄関ホールはイオニア式の柱とアーチによる結界がある。現在、内部はカフェレストランとなっている現存する一番古い居留地の商館である。しかし、何だかすごく新しく見えてしまうのは何故か。ちなみに隣の16番地(今はないけど)は、日本初の洋服店をガイコクジンが開いたそうである。 兵庫県公館(旧兵庫県本庁舎) 明治35(1902)年 戦災で内部を焼失したが外壁は残った。修復後、昭和の終わり近くまでの間、県南庁舎として使用されてきた。その頃に、煉瓦壁を鉄筋コンクリートで補強・改装して兵庫公館となる。ロの字型の中庭を持つネオロックのこの建物は、迎賓館および県政資料館として使用されている。設計者はこの建物の中で結核で死んだという。敷地が広く、緑に囲まれており、敷地内で子供を遊ばせている母親がおり、公園デビューならぬ迎賓館デビューもあるのかも知れない。神戸市都市交通みなと元町駅(旧第一銀行神戸支店~旧大林組神戸支店) 明治41年(1908) 赤いレンガと白い御影石を使った、東京駅を設計した設計者による建造物。震災時は大林組神戸支店だったのだが、外壁ファサードを残すのみとなる大きな被害を受けたそうだ。(建物は外から見て立派に建っていたのだが、内部に致命的損傷があったため後解体された)。その外壁を修復して一部を神戸市営地下鉄の出り口として使用しているぜいたくな交通施設である。結構、ハリボテみたいで悲しい感じはするのである。以後、続く・・・次回を待て(誰も待っていない)
2006.06.11
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目的は2つ。大丸に行ってきた。1年がまた過ぎてしまい、大丸の積み立てが満期になったのだ。毎月の積み立ての上限は1万円に過ぎないが、されど1万円である。1万円を毎月積み立てていると、1年で12万円になるのは掛け算が得意なら分かるはずだ。しかし、そのときに1万円分の商品券をくれるのだ。1万円÷12万円=8パーセント以上である。割り算が得意なら分かるはずだ。銀行金利は0.02パーセントである。8÷0.02=400倍であることは微分積分が苦手でも結構分かりやすい差であろう。1年で大丸で13万円も買い物しないぜえ!なんていう私のような野郎はどうすればいいのか、詳しく考えなくても、全部商品券に換えて、金券ショップなり、ネットオークションで売り払えばいいのである。少なくとも12万9000円にはなる。1年で9000円も利息がつけば、利息だけで優雅な生活ができるのである。数日は。これは考えなくても、自分の生活費やおこづかいとにらめっこすれば分かるのである。大丸が嫌いなら、阪急でも近鉄でも阪神でもそごうでも高島屋やっているのである。(阪急、近鉄は確認したがあとも多分やっているだろう)毎月、マックスが10万円の積立でもOKなら金利が8パーセントより安ければ、借りてきてでも積み立てしたいものである。 そうして、ポケットが、商品券でパンパンになった私は、キャパ写真展を見に行った。カラー写真が大量にでてきたので、これまた金儲けのネタになるのだと思ったかどうかは知らないが、写真好きや報道好きなら憧れるキャパである。800円の入場料も友の会カードを提示するだけで600円である。 もう20年前になるが、「ちょっとぴんぼけ」を読んで、キャパが好きになったのである。戦争写真家であるが、本当は子供が撮りたかったんだろうな、ということも分かるのである。戦争カメラマンは、石川文洋だって、澤田キョウイチだって、一ノ瀬タイゾウだって、その本のことで、理想的すぎる高尚な戦争反対論なんか出していない。そして命を削るスリルある生活のためと、功名心だってチラホラ見え隠れするところが、結構人間臭くて好きなのである。ベトナム戦争時代、サイゴンの安全な所では、自称戦争カメラマンという何もしないブラブラしている奴らがいっぱいいたことは有名な話である。そういえば、死の瞬間を捕らえた非常に珍しい写真
2006.06.11
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昭和5(1930)年築の、農林会館というのが心斎橋にある。戦前のモダン建築、旧三菱商事大阪支店。当時の農林水産省OBが出資してビルを買い取ったことでこの名になったという。まあ、なので農林関係の仕事とは全然関係ないビルである。 この中には、今はあるかどうか知らないが、このビルの中に「ひるねや」というのがあり、リーマンが少しさぼるときのスペースのようだったのである。勿論、スーパーただの忙しリーマンである私は、チラリと覗いたことがあるが、何かリラクゼーションスペースになっておった。当時は、そういうのはなく、テレビでも紹介されていたのを憶えている。 実は、当時、当時といっても当時なのだが、とあるヤボヨウでテナントを探しており、ここが第一候補になっていた訳であり、天井高いし、壁ぶち抜いていいというし、何だかいい感じだった。しかし、冷暖房と土日の管理が難しく断念したまでである。 大阪難波の高島屋は昭和7年建築。当初は高島屋と南海電鉄が入っていたが、駅は今はずれて高島屋だけになっている。同じく昭和7年竣工の大阪歌舞伎座。 綿業会館 が、まあ、大阪オフィス街では中身もごっついかも知れない。・・・なんだか、今日はオチがないのである。なんだか寂しくなってきたのである。
2006.06.10
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淫猥と笑いの混在、美を愛でられながらも嫌悪される存在、そんな多面性を持ったもの・・・尻。伊太利亜語の尻はラテン語からきているらしい、それは座るという意味。尻の中でも最も唾棄されながらも愛されているANUSもラテン語であるが、これもサンスクリット語の座る、からきているらしい。昔、某ビール会社で、ジアース(The Earth)であるが、これは英語圏の人に受けたな。ASSの語源はギリシア語で尾っぽのことらしい。 我慢する苦痛と、解放する快感、このアンビバレンツな感覚。汚れを曝け出したくないと言う消極性と、汚れるからこそ早くだしてしまいたいという積極性の混在。昔、貴族達の多くが、食いすぎと運動不足による慢性的便秘により、医療行為としての浣腸のレベルを超え、一種の流行にまで発展した。優雅な装飾を施した
2006.06.09
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666・・・悪魔の数字と言われているが、最近の研究では616ではないかといわれている。666の数字を知ったのは小学校のときに流行った「オーメン」であるが、学校では、頭髪をかき回して、666の刻印を探し合ったものである。当時私は、学習塾に行っていたが、塾の先生が、テレビで「オーメン」を放送している日に、「あんなものを見ていると受験に失敗する」と揶揄しながら、「ちょっと見たが、首チョンパのシーンがあった」とまんざらでもない紅潮した先生の顔が微笑ましかった。 そういえば、ビデオのなかった時代、テレビで有名な映画をやるともなれば、結構、皆、学校では興奮していたように思う。スターウォーズ、ジョーズ、明日に向かって撃て、エクソシスト・・・携帯電話番号“666-6666”が3億円で落札される(ドーハ)カタールの国営電話会社Qtelがこのほど、とっておきの携帯電話番号666-6666をチャリティオークションにかけた。オークションは、日本人にはサッカーワールドカップの予選敗退で馴染み深い同国の首都ドーハで行なわれ、9名から応札があった。応札価格はどんどん吊り上がり、結局、10万リヤル(日本円で3億8百万円相当)もの高値で落札した。落札者の氏名は明らかにされていない。収益金は、湾岸アラブ諸国のうち、経済的に恵まれていない某国の下水整備事業に寄付されるという(イラクのことかもしれないが、国名は具体的に明かされていない模様)。原油埋蔵量世界第3位と言われるカタールは、ここ最近、原油高騰のおかげで未曾有の好景気を謳歌している。そのおかげで、たった1つの携帯電話番号に3億ものお金を投じる人が現れたりもするということなのだろうか。しかし、その数字が666-6666である。キリスト教世界では、特に不吉と言われる数の並び。イスラム世界のカタール国営電話会社があえてこの番号をオークションに出したことに裏の意図があるのかどうかは不明である。 「おい、この番号は誰が買ったんや」この番号に電話する人が増えそうである。500円玉、100円玉、50円玉、10円玉、5円玉、1円玉・・・合わせると666円ではある。 郵便番号が666なは兵庫県川西市。 年賀状を出すときに、悪魔的数字やなあ、と思いながら書いた覚えはアル。宝塚は665、私の実家は655、少しばかりややこしかったような気もする。NHK大阪第一の周波数は666。今日の日付は「666」、「地獄」でパーティー楽しもう・・・ミシガン州ヘルヘルという名前も不気味だが、微笑ましいイベントが開催されたようである。──聖書に書かれている悪魔の数字「666」となる今年06年6月6日、米国ミシガン州の「地獄」町では、様々なイベントが予定されている。目玉は、子どもの遊び場に設置された、高さ2.4メートルの「地獄門」。燃えさかる炎で出きた様に見え、閉めると「悪魔の頭」になるという。 デトロイトから西へ約100キロほどにある、「地獄」という意味そのままの町「Hell」では、土産物店を経営する自称町長のジョン・コロンさんらが、「666」の当日に向け、余念がない。コロンさんは、「666」と書かれたTシャツやマグカップなどを準備。「それぞれ666個ずつしか発注していないから、売り切れたらそれで終わり」と話している。 インターネットを表すwww(WorldWideWeb)が666を示す。ヘブライ語におけるWが6を指し示す 。ニューヨーク5番街のロックフェラー財閥所有のビルに「666」の表示 。ところで、シンガポールでは6年6月6日の結婚式が多かったようである。ということは、7年7月7日、8年8月8日はもっともっと増えるであろう。土地情報総合システムというこの5月より制度ができ、不動産の実勢価格を見ることができるようになった。と思ったら、そのお尋ね調査がきた。届いたらそれはそれで鬱陶しい。本当の不透明な不動産価格は知りたい、でも自分のは教えたくない或いは知りたくない、そいつが人間か。よく考えたら、今日は6月6日越えてたよ。
2006.06.08
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とか何とか行って、1杯引っ掛けてきた。ジュークボックスがあったので、見ると、インターネット配信だという。何だかつまらなかったが、100円を入れて、ボブディランの「ライクアローリングストーン」をかける。かけてみて、回りを見渡すが、だれも気がついていない。少し寂しい。われめ昔、フィリピンのミンダナオ島のサンボアンガで、ジュークボックスのある店に行った。スコーピオンズのWhen The Smoke Is Going Downをかけた。店には、アテ無しにビールだけ飲んでいる私と、アテ無しにビールを飲んでいる青年の2人だけだった。彼は、にやりと笑い、ボトルを手にしてこちらに寄って来た。彼は、ポケットからもぞもぞと、瓶を取り出した。トランキライザー。「なあ。コレ飲んで、ちょっと、港を、全力疾走しないか?いっちまうぜ」と彼は言った。 店を出た。
2006.06.07
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地獄と天国、どちらが想像しやすいか。ソウ考えると、地獄である。我々、現世はどちらに近いか考えれば分かる。遠い方が想像力をかきたてられる。アフリカアジアの飢餓地域では、ふんだんにある食卓を想像するだけで天国である。癌病棟では、家族とスポーツすることを想像するだけで天国である。今享受している快楽よりもっと幸せで楽しい天国を想像する・・・には、悲惨な地獄を想像するよりは、ネタがない。 ところで、日本人へのアンケートで、どんな環境で死にたいか、というのがあり、一番多いのは、自宅の畳の上というのが多い。若者もそうらしい。(私は野垂れ死に)部屋の窓から緑が見え、最後に見たいものは、青空。 実際は9割以上が病院で亡くなっている。 自然の中で死にたい・・・これはアメリカではほとんど言及されない。このあたりには日本人の自然に包まれて一体となっているという生命観があるのかも知れない。 そういえば、脳死問題で、アメリカ人が理解できない日本人の主張がある。「脳死に反対するのは、それが自然ではないからだ」という主張である。自然ではないという理由から反対するアメリカ人はほとんどいないとのことらしい。 身近な例でもある。西洋医学や最先端医学を、自然ではないという理由で治療拒否する日本人は多いではないか。 とにかく、最後に見たいのは「青空」、そこに軽い眩暈を覚える感動が何となくあるんだなあ。 OECDの学力調査で世界で事実上トップの成績を収めているフィンランドの教育とはどんあものか。親世代、一般国民の教育レベルの高さ、修士をもっていないと教員になれない教員のレベルの高さ、小人数をさらに小グループにわけて、わからないところを残さない面倒見のよい授業システム、そして大学院、給食費をふくめてすべて無料という教育の機会均等が効いているなどがあるようだ。 赤ん坊を含めて、国民一人当たり年間30冊の本を図書館から借りる国民性、くだらないバラエティ番組はほとんどなく、一番人気が討論番組、二番人気がニュース番組、そしてドキュメンタリーという親世代の知的レベルの高さが、子どもにも伝播しているのだ。親世代の教養レベルの高さと教育熱心さ、国民総中流ともいえる貧富の差の小ささ、そしてバカのいない国。これらがフィンランドの強さの秘密のようだが、これはまさに団塊の世代が学生時代を送り、活躍した60年代から80年代までの日本の姿であったのかもしれない。全否定ではなく、いいところは継承していかねばなるまい。それにしても、最近、世界的に大学を出ても就職できない人々が増えているらしい。日本も来年から大学の募集人数が受験生を上回るらしい。もうディナーテーブルの役目果たしてないよ・・とほほP.S ニコラスケイジ主演、マーチンスコセッシ監督の「救命士」を観た。スコセッシの「タクシードライバー」のカメラアングルとマイケルクライトンの「ER」のテンポのよさと、とジョニーデップの「ラスベガスをやっつけろ」のはチャめちゃぶりを3で割ったような感じであった。あ、ラスベガスより、Dリンチの「ワイルドアットハート」だな。PS ソドムの市 パゾリーニ。ストーリーと救いのないこの映画、20年近く観ていないが、ビデオ屋に行くと、またふと、怖いもの見たさで、時々、手にしてしまう。大金持ちファシスト4人が、快楽の奴隷としての美少年・美少女狩りを開始し、それぞれ数十人ずつ集め、そして、その中から投票で少年・少女9人ずつ選び、狂宴の舞台となる館へ運んだ。フンニョウ、消費社会、佐渡マゾ、ソドミー、さつ陣、ファ沈む、歩もれず、ゴー門の戦慄残酷寓話絵巻のオンパレード。頭髪を剥ぎ、焼き印を押し、なぶり殺しにする。この地獄図を窓から双眼鏡を覗きながら辞意にふける男たち。グヘー。問題作中の問題作ですな。モノ化され商品化され、無惨にも消尽されつくして醜悪な肉塊と化した、現代の人間存在を徹底的に描いたこの作品は、豊かな暗黒の金字塔とも言えよう。いや、そんな堅苦しい解釈は不要、20年たっても、あの大統領の皿にしたウンチ、それを食べさせられた美少女、男の尻を集めた美尻大会、目をスプーンでえぐるサド、パゾリーニ監督自身、この作品を撮ったあと、激しく殴打され失神した後、パゾリーニ自身の乗用車を用いて轢殺されたという逸話。 観たら、きっと夢みるよ。悪夢・・・・
2006.06.06
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昔、一緒に働いていた友達から連絡があり、「それなら、今から俺、行くよ、茶しばこか」とギャグをかますことにした。4時間後に新宿で。ということで、取り敢えず、文庫本を手にして、出発する。・ ・・キーーィン。大阪東京間の飛行機は1時間に1本である。 不思議なことに、私は男性であるにも関わらず、街で女性に軟派されたことが、何度か短い人生においてあるのである。あるが、ほとんどがオーバーフィフティーハデハデばあさんで、それを除くと、集団で軟派もされた。あれは何だったんだろう。まあ、そんなことはどうでもいいが、今日も軟派されてしまった。百貫デブである(差別用語か。)その巨漢にあとずさりまでした私であった。第一声もしゃれていた。「ねえねえ、テレフォンカード持ってませんか?」 まあ、そういった訳で、無事ナンパされてついて行ったことはない。パークハイアット東京から。全室が42階よりはじまる200部屋以内のホテル。客単価は最低4万円を越えるという。西のリッツ、東のパークハイアットなどと呼んでもいいと思う。(他をよく知らないから)パークハイアット図書室で読書・・・・はしてない。都庁にパークハイヤット手前のセンチュリーハイアットホテルには泊まったことがある。1500室を越えるマンモスホテルではある。そのあと、渋谷のセルリアンタワーホテルで茶をしばく。40階建て。東急の本社跡に建てられおり、就業5年目である。地下2階には能楽堂があり日本伝統芸能を楽しめる。とりわけ外国人観光客には好評であるはず。 そんな訳で、その友達の親父は、某温泉で有名な町長をしており、選挙嫌いの、政治嫌いに立派に育っているので、彼とは、政治の話はせずに、近況報告などをさくっとして、また家路を急いだのであった。 ところで、統計が出たので紹介してしまう。全世帯の平均収入は、54.7歳、平均年収645万円、貯蓄1728万円、負債501万円(うち住宅434万円)、引き算して純貯蓄1227万円。・・・・家以外に70万円程度何かを借りているわけか。ちなみにリーマンは719万円の平均年収で、純貯蓄は676万円。 勿論、1728万円以上あるのは3分の1の世帯であり、中位数(世帯数のちょうど真ん中の世帯の貯蓄額)は1052万円である。また、最も世帯数の多い階級は200万円未満で、前年に比べて増えている。実際は、300万円以上400万円未満の201世帯が最も多く、100万円以上200万円未満も193世帯であり、20代は200万円未満の人がほとんどである。当然、貯蓄を多く持っているのはほとんど60歳以上の人が占めているので、すげえな、いいなと羨ましがることもないのである。
2006.06.05
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いよいよ、このシリーズも最後である。私を含め、アクセス数とコメントの多さを見ると、皆さん子供のように、ウンチ、ハナクソ、耳クソ系の話がお好きなことが実証された。 さて、目やに、目くそであるが、これは、ハナクソに比べて話題性が低く、耳クソに比べて地位が低い。目くそハナクソを笑うといった50歩100歩という意味の諺もあるが、よく考えれば、ハナクソが目くそを笑っている訳ではないので、多少はめくその方がエライと考えられる。いかんせん、目糞は量が少ないのが一番の問題である。ビョーキにならないと大量に取れないのである。涙は、上まぶたの内側にある涙腺の管を通って出てくるわけだが、涙は、目に入ったゴミを洗い流し、目がしらに寄せる。これが乾燥したものが、簡単にいうと、目やに(目くそ)である。泣かなくても、涙は悲しいかな出ているのである。実は、その後、目がしらに寄せられた涙は、また管を通り、鼻への通路へ行ってしまうのである。そして、鼻の中へと流れてゆく。これが鼻の中をで常に潤わせている。吸気中の塵やほこり、皮脂腺からの分泌物、そして粘液が混合し乾燥したものが鼻くそとなるわけだ。簡素にいえば、はなくそはめくその熟れの果てなのであり、ルーツは同じで親戚なのである。仲良くしなければならないのである。 目くそには残念ながらウハウハエログロナンセンス悲話はないのである。年をとってきて20代よりは涙もろくなったかもしれないが、さすがに子供の頃はよく泣いた。おまけに純朴であった。泣きながら歩いていると、横の例の東大に行った友達が、グリコをくれて「ほら、この箱に書いているのみてみ。明日強くなるって書いてるやろ」私は本気で、明日、強くなると思ったのであった。勿論、科学者志望であったとはいえ、グリコーゲンが元気の元とは知らなかったが、公園横の、階段での夕刻の話であった。 それにしても、目糞、ハナクソをほじくる行為は見苦しいもので、例えば夫婦生活でも恋人生活でもそういうのはタブーなのであるが、(私の場合、屁もタブー)、1人密かにそのグルーミングする行為は神聖な行為でもあるのだ。結局、汚いところをきれいにするには自分が汚くなる覚悟で汚い部分に臨まなければならないし、何かを改善するためにはうまくいってないところまで入り込んで多くのエネルギーを注ぎ、解決していかなければならない、ということなのである。自分が手を汚さずに、楽をしてすんなり解決、なんてことは実際にはあまりない、それはただの奇麗事、戯言なのである。「自ら進んでトイレ掃除をする行為」といった美しい行為なのである。(ちなみに結婚時代も独身時代も私はトイレ掃除大臣でもある) 以上、シリーズ終了サプリメント大王の真言を終える。
2006.06.04
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私の美的感覚からすると、インセストタブーに近いものがあるが、結構、耳クソ掃除はナンギなのである。大人になってからなのだが、耳の奥と、喉の奥が、頭脳の奥で繋がったようで、耳かきを耳の奥に入れるとえずくのである。吐きそうになるのである。 何を隠そう、私は、実は、母親とは、全く口も利かなくなったりした青春時代であったが、金をせびるときと。耳掃除をしてもらうときだけ、母親に声をかけていたのであった。高校生にもなって、最後までどこの大学を受けるか母親に言ったことのなかった私であるが、耳掻きをせびる私の、母親の膝枕姿はきっと醜態であったことだろう。 関東から以北東方向出身の人の耳くそは、水分を多く含んでいる傾向があり、猫耳といわれる耳クソの方々が多く、関東から以南西方向出身の人の多くはみみくそは、水分がほとんどなく、カサカサしていると聞いたことがある。私は、カサカサ耳クソである。 一歩進んで、耳を舐めると嫌がるのが関東人で喜ぶのが関西人であるという仮説もあるほどだ。(嘘) 私は、高校生の頃から、商売の才覚があり(嘘)、大学に入れば、是非、企業家をしたいと思い、いろいろアイデアを錬っていたのであるが、クラスメイト全員に披露、紹介したのが、「イヤークリーンセンター」であった。女性を雇い、5分500円から1,000円でクイック耳掃除をするという趣向である。これは必ずやヒットすると思われた。 しかしではある。翌年、無事、大学に入学した私は、商売の事などすっかり忘れ、インドに行った。ニューデリーのコンノートプレース広場などで、変な日本語でやってくる耳掃除屋集団に囲まれた。 「キムチイーヨー、ジェンブで100ルピーね」といってしつこい。無視していると、ノートを差し出し、「ホラ、イッパイノ、日本人、キモチイイねー」といって差し出す。ノートには「こいつに、ごるぴー以上払うな」とか「あとからトラブルになるから値段交渉してすぐ金を払うこと」とか書いてあり、100ルピーというインドで何日も暮らせるほどの金額を払った奴は単なるバカかぼられに過ぎないことを確認する。 それでも無視すると、そのインド人はウンコ座りして私の耳に棒を入れてくる。「ネー、キモチイでしょー」というので、鬱陶しいので、1ルピー渡して、これで1時間してくれという。耳掃除が終わって3分もしないうちに次の耳掃除屋がくる。「キムチイイヨー、ジェンブで100ルピーね」以下、繰り返し。 それにしても、ベタッとしてないだけ、耳クソの地位はハナクソよりも高い。高貴であるがゆえに、なのか、ハナクソは子供の大好物であるが、耳クソを食する子供はあまり聴いたことが無い。きっと体内の何の味もブレンドされないからであろう。強いて言えば、目くそは、何とか、子供の好物の一つにはなりそうである。しかしながら、子供の好物のチャンピオンはカサブタではないだろうか。 いずれにせよ、耳クソの地位は、ハナクソ目くそより格段に上にされておるのである。耳掻きという文明の利器、専用ツールまであるのである。耳掻きだけは、他人に頼むことができるのである。大きなものがとれても耳クソだけは他人に見せて自慢できるのである。顔周辺でも生まれながらにして残念ながら不平等なんである。ただ、耳クソハナクソ目くそとも、体から離れた瞬間に死を迎え、すぐに捨てられるのである。しかし、子供だけは違う、3者の立場が最後に逆転するのである。体から離れたハナクソは、再び体内に還っていくのである。ロマンである。 ところで、本当は、一生耳掃除しなくてもいいそうなのである。不要物は、スパイラルしながら耳の外に押しやられていくそうである。というより、本当は耳掃除はしない方がいいのである。まあ、垢をとるぐらいか。耳掃除は、鼻ほじりと同様、趣味なのである。ドラッグと同じように常用性のあるものなのである。
2006.06.03
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美しくない話であるが、痰系の風邪をひいているようなので、仕方なく告白するが、昨今、そのせいでハナクソが溜まって仕方ない。多分、軽症蓄膿症のようなものなので、ここ30年来、鼻のどちらかが詰まっている。多分、脳に膿がどっさり溜まっていてそのうち、えらいことになるのではないかなどとも思っている。思っているが、これは風邪とは関係ない。おまけに、最近、年のせいではないとは思うのだが、鼻毛に白髪が3本程度あるが、何度抜いても同じ所からその白髪が生えてくる。これも風邪とは、多分関係ない。しかし、頭髪はまだまだ黒々しており、探せばあるのだが、先日数年ぶりに会った人にも、「全然変わりませんなー、白髪ないですなあー」と言われた。「あんたは金髪に染めているけど、白髪だらけなんやろ」というと素直に「そう」と答えていた。多分、そんな会話も風邪とは関係ないと思われる。 ずっと以前にも書いたことであるが、実家の3軒隣の幼馴染の同級生は、灘中灘高経由東京大学に行った。幼い頃、毎日遊んでいたが、ある日、彼は私の耳元で「ぼくの秘密教えてあげるよ・・・ハナクソ食べ」そんなことを言っていた。 私が、平仮名で「げんきもりもり」と書けなかった頃、彼は「元気」と漢字で書いた。小学校2年で彼は、付属の中学校に転校していったが、ガリ勉タイプで、黒ブチ眼鏡をかけ、思春期にはニキビでぶつぶつで、ヤンキーに絡まれていて、助けて逃げた経験もある。 やがて、彼は東京大学で、古文に目覚め、就職もせず、その後の消息は知らない。 ハナクソが溜まるといえば、中高と陸上競技をしていたのだが、試合で、陸上競技場に行くと、必ずといっていいほど、凄くハナクソが溜まって参った。オールウエザー型になったとはいえ、凄く砂埃が舞っていたのであろう。 長期の旅行に出かけて、以外と便利なのが、爪切りとハサミであった。ハサミは何かと使うのだが、たまには鼻毛も切っていた。(鼻毛きり用ハサミではない)鼻に突っ込む恐怖感はあるのだが、やはり、アジアは日本に比べ、都会は排気ガス、田舎は砂埃で順調に伸びた。心なしか、爪も伸びた。 テッシュは貴重品であった。お尻は、現地に見習って左手を駆使して紙は使わないので、お尻には優しいし、いわばウォッシュレット(正確にはトイレシャワー。ウォッシュレットはTOTOの登録商標)のようなものであった。世界人口で、実は紙で尻を拭く人口は水で洗う人口より少ない。なあ、番長。サプリメント番長
2006.06.02
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先日に続き、大阪オフィス街レトロを爆走してきた。散歩どころではない。私は、ヤボヨウの通りがかりで、大阪淀屋橋周辺から北浜を越え、天満橋に至ったのだが、食後の散歩であり、全然腹が減ってなかったので、頭の中にある、戦火を逃れ、まだ潰されていないいくつかの近代建築を巡るめく巡ったのである。巡っただけで、詳しい説明はないのである。疲れたので終了。北浜のミツイスミトモギンコー。古典様式の銀行建築の最後の姿。昭和11年建築。青山ビル 大正6年。個人の住宅として建てられたスパニッシュ風の建物だが、今は老舗の喫茶店や中華料理店として使われている。蔦が正面全体を覆っている。この中華料理店に文庫本を忘れてきたことがある。伏見ビルディング。昭和3年。青山ビルの隣。大川の中ノ島の端っこ。奥は、堺や太一事務所がある。元民間大臣のこの人が「団塊の世代」という言葉を作ったんだよね。大阪証券取引所。株式の立ち売りがなくなり、この取引所は役目を終えた。現在この建物は解体修復を終え、2004年12月にグランドオープンし、何とかファサードだけ保存したとのことであるが、一番の売りであるこの正面玄関だけ残しておけばあとは何でもいいやという考えである。新井ビル 大正11年。旧報徳銀行。現在めしや。新井ビルのHP見て、飯食いに行ったことがあることを思い出した。辻調理師専門学校 大正15年。元大林組の本店。現在、大林組は道の向かいにある。これは新しい。多分、エセ近代建築。敵塾、いや適塾。適塾は全国から駆けつけた塾生にあふれ、談論風発の気風はその後の明治維新の激動の中、日本の運命に大きく貢献した多くの人材を輩出している。そんな塾生には福沢諭吉、大鳥圭介、橋本左内、大村益次郎、長与専斎、佐野常民、高松凌雲などがいる。今は、前に車も路駐である。
2006.06.01
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