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『鎌倉散策 目次』👈リンク円覚寺の拝観を終え、県道を左手に進む。200メートルほど行くと右手に東慶寺があり、さらに200メートル程真っ直ぐに進むと、横須賀線の踏切が見えて来た。その50メートル程手前の右手に浄智寺への道が。浄智寺 MAP。浄智寺惣門(高麗門)「寶所在近」の文字が掲げられた惣門。高麗門は2本の本柱の上に切妻の屋根をのせ、本柱の後ろに控柱を立てて、両柱間に小さな切妻屋根を付けた形状の門。その前の池には苔むした石の反橋がかかり、その脇に鎌倉十井のひとつ「甘露ノ井」がある。杉林に囲まれた参道は鬱蒼としていて、その先に鎌倉では珍しい唐様の鐘楼門(山門)が。手前の鎌倉石の階段も美しく、すり減った鎌倉石が歴史を刻む古刹の佇まいをみせてくれていた。入山のチケットを購入し浄智寺境内へ。浄智寺は、鎌倉市山ノ内にある禅宗の寺院。臨済宗円覚寺派に属する。鎌倉五山第4位。山号を金宝山(きんぽうざん)と称する。中世から江戸時代にかけて「金宝山」と「金峰山」が混用されてきたと。本尊は阿弥陀如来・釈迦如来・弥勒如来の三世仏で、それぞれ過去・現在・未来を象徴。境内は「浄智寺境内」として国の史跡に指定されているのである。2007年に再建された高麗門・鐘楼門は「山居幽勝」の額が掲げられ、花頭窓のある上層には1649年(慶安2年)の梵鐘が吊るされている。曇華殿(どんげでん)と呼ばれる仏殿。本属は珍しく室町期作の木像三世仏坐像で県指定重要文化財。向かって左から阿弥陀・釈迦・弥勒の各如来で、過去・現在・ 未来の時を代表しているのだと。鎌倉地方に多い衣の裾を台座に長くたらした様式が見どころと。鎌倉仏の特徴をよく表しているとのこと。脇にも仏像が。左が二祖国師・孤雲懐奘禅師真像?右は宗覚禅師像か?曇華殿前の境内には散り落ちた銀杏の葉が一面に。丸い石のオブジェは、世界平和の碑。こちらの銀杏の老木にはまだ真っ黄色の葉が残り陽光を浴びて輝いていた。陽光の当たり方でここまで落葉の時期が違うのか?人間も同じかとふと。曇華殿裏の竹林。寺の裏手には谷戸が広がり、鎌倉ならではのやぐらも見ることが出来た。 そしてやぐらの中には墓石が並んでいた。 かつて、水を貯めていた横井戸。 東慶寺奥の墓地の峰まで最短距離でトンネルを掘ろうとしたらしいのだと。狸塚。浄智寺に狸が三匹いるのだ。田舎の宿屋や酒屋、一杯飲屋の店頭に置かれている「信楽」風の陶器。大きな一体が親爺、一粒種の子供がその足下に一体そしてその前に母親が。背後には穴が開いていて、此処が狸家族の棲家のよう。ネット情報によると『浄智寺裏山には、タヌキやハクビシンが生息していて、時々、車にはねられたりして死んでいる。そんな動物たちを葬ったのが狸塚。』と。布袋様への参拝路の小さな素掘りトンネル。素掘りのトンネル内の階段を上る。トンネルを出ると右手に美しい紅葉が迎えてくれた。陽光も射し込んで。江ノ島鎌倉七福神、布袋尊。裏手には谷戸に江ノ島鎌倉七福神のひとり、愛嬌のある布袋尊が。この布袋様は鎌倉七福神の一神。参拝客に撫でられたお腹と胸は黒光り。そして私も布袋様のお腹を撫でて、その後自らのお腹にも手を。しかし決して腹黒にはならぬようにと戒めつつ。境内裏手の紅葉を暫し楽しむ。 そして珍しいものを発見。三角カラーコーンには地蔵様の姿が。調べてみると『2015年に行われた「鎌倉のお寺さんに地蔵コーンを寄進した~い」プロジェクト(http://iikuni-kamakura.jp/pj/IknT4514023)』活動の品と。客殿から庭への眺めも絶景。浄智寺の紅葉もこの週が見納めか。棟門。書院から出口に向かうところにある門。2本の柱と控え柱に屋根がのり扉の付いた棟門。棟門前の渋柿。扉に葵の紋が付いているが、どうやら家康公がちょくちょく旧鎌倉郡の野庭城~玉縄城周辺に鷹狩に来た際に、浄智寺に山門を寄進したそうで、それ以来、葵紋の使用を許されたのだと。棟門前からの境内。浄智寺境内の今年の紅葉散策もこれが見納め。浄智寺は葛原岡ハイキングコース登山道への入り口となっていた。鐘楼門を横目に裏山に進んで行く。竹塀( 建仁寺垣)と門。こちらは民家の門か?美しい淡いピンクのサザンカの花。皇帝ダリアと紅葉。急な山道に差し掛かる前に見かけた大変趣のある門。こちらは濃いピンクのサザンカの花。葛原岡神社への標識。木々の根っこが露出して、ここが階段の如き細い山道を上って行った。 更に急な坂道を上り終わり、今度は坂を下って行くと真っ黄色な銀杏の大木が迎えてくれたのであった。
2017.12.26
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今年も九州・佐賀・伊万里にお住まいの親友が天然牡蠣がを送って下さいました。天然牡蠣ですのでやや小ぶり、殻が厚いですが、その分美味が濃縮されているのです。天然牡蠣(岩牡蠣)は深場に棲んでいるので敵も多く、殻もごつごつした非常に厚い殻となるとのこと。一方真牡蠣は浅瀬に棲んでいて殻も岩牡蠣に比べると薄いのだと。何年ものなのでしょうか? そして早速妻が匠の技で殻を開け、もちろん生牡蠣を楽しんだのです。ケチャップとレモン汁を軽く掛け、口に入れると海の潮の香りがパーと拡がったのです。。天然ものの方がコクがあり濃厚。養殖ものもクリーミーでもちろん美味ですが、天然ものと比べると少しあっさりとした?印象を受けるのです。次回は焼き牡蛎、それとも牡蠣フライで、いやいやまだまだ生牡蠣でと。そして近くに住む孫達にもと。そして同じ日に、これも毎年の事ですが妻が購入した活き「松葉ガニ」が到着。これもクール宅急便で送られて来た、発泡スチロールの蓋を開けると、身動きせず。長旅で「活き」松葉ガニではなくなってしまっているのかと思いましたが、その内に妻から動き出したと。顔をズームで、やや不気味な姿。TAGには「島根県・隠岐 松葉ガニ」の品質保証書?がしっかりと取り付けられていました。箱の中には(株)丸八水産のパンフレットも。『松葉ガニや越前ガニは、そのズワイガニ(本ズワイガニ)を水揚げ産地によって呼び分けた名前で、種類としてはズワイガニであるとのこと。松葉ガニは、山陰地方の京都府から島根県の漁港で水揚げされる雄蟹ズワイガニ。越前ガニは、越前地方(福井県)の漁港で水揚げされる雄ズワイガニであると。ズワイガニの別名で特に有名なのが、松葉ガニと越前ガニだが、その他、石川県の加賀・能登地方で水揚げされる加能ガニ、北海道で水揚げされる北海松葉ガニ、山形県の庄内地方で水揚げされるヨシガニといった別名もあるのだと。 また、最近は漁港ごとで差別化(ブランド化)をはかるために、松葉ガニの中でも呼び名が細分化されており、香住ガニ・間人ガニ(たいざガニ)・柴山ガニ・津居山ガニ・大善ガニという名で売り出しているところもある。 ズワイガニはオスとメスで大きさがかなり違うため、多くの漁港では性別でも違う名前が付けられており、オスには上記のような、松葉ガニ・越前ガニ・香住ガニ・間人ガニなど、メスにはメガニ・オヤガニ・コッペガニ・コウバコガニ・セコガニ・セイコガニ・クロコといった名前が付けられている。』とネット情報から。そして妻が早速大きな鍋で塩茹でに。お皿の上で鎮座。不気味な顔からやや不満顔?に。そして妻と2人で、暫し会話も無く蟹を楽しむ沈黙の時間が。そして蟹味噌(蟹味噌様)もたっぷりと。蟹味噌の味は、ズバリ「蟹が濃縮」された味なのです。しかし折角の活きた松葉ガニですので、次回は刺身にも挑戦してみたいのです。そして先程、近くに住む孫達が活きた松葉ガニに御対面している姿の写真も娘から送られて来ました。4歳と2歳の孫達ですが、怖がることもなく笑顔の姿が。そして同じく茹でガニで楽しんだ模様。そして「2人にだいぶ取られました」との文字が。 そして昨夜は、牡蠣フライで楽しみました。更にクリームシチューも。牡蠣の他は全て我が菜園から。焼き牡蛎でも楽しみました。濃厚な焼き牡蛎も堪能させていただきました。Nさん、いつもいつもお心遣いありがとうございました。口に含んだ瞬間に広がる海の香り、内側から溢れるようなジューシーな食感、クリーミーで濃厚な味わいを多いに夫婦で楽しませていただきました。 そして、何と今度は塩釜産の殻付き牡蠣が元同僚からも。生食用のむき身の牡蠣も一緒に送って下さいました。袋には「万石浦(まんごくうら)」の文字が。この宮城県石巻市の万石浦(まんごくうら)湾や牡鹿半島に位置する荻浜湾は「世界の牡蠣王」と呼ばれた「宮城新昌」が牡蠣の種苗・養殖の最適地として研究・開発に取り組んだ地であり、この地で行った養殖研究は今や世界の食用牡蠣の80%が石巻にルーツを持つと言われるとのこと。早速、こちらも生でご馳走になりました。北上川の恵みで育つ石巻産の「万石浦カキ」はとろりととろけるようなミルキーそのもの。さすがに食べきれませんので、我が実家と姉にお裾分けしたのでした。Tさん、いつもいつもそしていつまでもお心遣いありがとうございました。
2017.12.25
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『鎌倉散策 目次』👈リンク円覚寺境内の最奥?の黄梅院(おうばいいん)まで行きここから引き返す。右手に仏日庵(ぶつにちあん)。8代執権北条時宗の廟所(開基塔)。9代執権貞時・14代執権高時も合葬されている。本尊は地蔵菩薩。北条氏滅亡後は衰退したが、室町時代に鶴隠周音が再興して塔頭とした。本堂には地蔵菩薩坐像(鎌倉地蔵霊場十四番)と鶴隠周音像を安置。開基廟には十一面観音坐像(鎌倉観音霊場第三十三番)と北条時宗・貞時・高時の木像を安置。再び正続院(しょうぞくいん)・舎利殿入口まで戻る。正続院は開山である無学祖元(仏光国師)の塔所。舎利殿の他、その奥に開山堂(非公開)が。右に禅堂(正法眼堂)がある。禅堂は関東大震災で倒壊したのち1930年に再建したもの。奥の舎利殿(国宝)はかなり頭でっかちな建物。手前に正続院の唐門。今年の国宝・舎利殿の特別公開は11月3日を含めた3日間行われたようである。方丈(ほうじょう)。方丈は元来は寺の住持の住む建物を指すが、現在では各種儀式・行事に用いられる建物となっていると。方丈 百観音。江戸時代、拙叟尊者(せっそうそんじゃ)が境域に岩窟をうがって百体の観音像を祀ったことに由緒を発す。その後荒廃したが、明治21年渋川禅師が発願して西国三十三体の観音像を新らたに刻み、補陀落迦観自在窟と 名づけて境内の一部に安置した。百観音霊場の由来は、養老二年(718)徳道上人が開設した西国三十三観音霊場と、鎌倉時代、観音信仰に篤かった源頼朝が開いた坂東三十三観音霊場と、その後に出来た秩父三十四観音霊場の総称とされていると。西国33+板東33+秩父34=100観音であるようだ。昭和五十八年この地に移し多くの人々に参詣して頂くことになったと。円覚寺派宗務本所。方丈の唐門。天保十年 (1839) の建立で、桁行きはおよそ3.3m。彫刻が見事。唐破風の懸魚には菊の花と葉、大瓶束の両側には亀に波、その上には雲形が彫られている。台輪と虹梁の間には鳥と松などが見られ、対する奥側には龍が。両扉にある龍・雲・波濤の彫り物も見事。方丈は書院や庫裏と言った建物で構成されているようだ。方丈唐門手前の紅葉。仏殿横に安置されていた比較的小さな鐘。この鐘は本来は何処にあった鐘なのであろうか?居士林前の紅葉も見事。陽光がここにも射し込み赤の世界が拡がっていた。石仏も紅葉の美しさに感嘆の表情を。赤の輝きをズームで。再び選仏場。座禅道場である選仏場内部。内部には薬師如来立像(南北朝時代)を安置。仏殿側から三門(山門)。仏殿正面。仏殿の釈迦如来像。天井に描かれた白龍図。仏殿内部の仏像。右が無学祖元禅師座像、左が達磨大師座像と説明板から。三門(山門)を境内入口側から。天明5年(1785年)、大用国師誠拙周樗が再建したものと。「円覚興聖禅寺」の額字は伏見上皇の筆。楼上には十一面観音、十六羅漢像などを安置。弁天堂・鐘楼へ続く階段はかなり急。弁天堂。北条貞時は、洪鐘鋳造の成功に感謝して弁天堂を建立。江ノ島にあった弁財天が円覚寺の鎮守として祀られた。弁財天は弘法大師の作ともいわれ、江ノ島の弁財天とは夫婦弁天と呼ばれている。弁天堂 内部。鐘楼。梵鐘は、1301年(正安3年)の刻銘のあるもので、「洪鐘」(おおがね)と呼ばれている。大旦那は九代執権北条貞時で、鋳物師は物部国光。総高259.4cm、口径142cmで、鎌倉時代の代表的な形態を表している(鎌倉で最大の梵鐘)。昭和28年11月14日、建長寺の梵鐘とともに国宝に指定されていると。眼下に東慶寺が。この後訪れるつもりであったが紅葉は既に終わっているようであったので止めることを決めた。円覚寺総門下の紅葉を再び。ズームでこれでもかと。白鷺池の逆さモミジは、陽光そして青空を背景に輝きが増していた。円覚寺から踏切を渡り浄智寺に向かう。そして振り返って。いやここは未だ円覚寺境内。そして次の訪問地の浄智寺に向かう。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2017.12.24
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『鎌倉散策 目次』👈リンクブログアップが遅くなりましたが、今月上旬に晩秋の鎌倉紅葉巡りに行って来ました。小田急線、JR東海道線、横須賀線を乗り継いで8時前に北鎌倉駅に到着。下車するとホームは通学の学生で溢れていました。そして円覚寺総門下に。円覚寺は、鎌倉市山ノ内にある寺院。山号を瑞鹿山(ずいろくさん)と称し、正式には瑞鹿山円覚興聖禅寺(ずいろくさんえんがくこうしょうぜんじ)と号する。臨済宗円覚寺派の大本山であり、鎌倉五山第二位に列せられる。本尊は宝冠釈迦如来、開基は北条時宗、開山は無学祖元である。調べてみると、新たに寺院を建立することを「開山(かいさん)」といい、その初代住職のことも同じく「開山」と呼ぶ。その際に経済的、政治的援助をした人物、つまりいわゆるパトロンのことを「開基(かいき)」と呼ぶとのこと。なお、寺名は「えんがくじ」と濁音で読むのが正式であると。階段下の紅葉。漸くモミジ葉に朝の陽光が。しかし未だ総門は閉門中。しばし円覚寺前を散策。いや下記の如くここも境内である事を知ったのであったが。踏切を渡り山門に向かってシャッターを押す。総門前の白鷺池(びゃくろち)の水面に映る逆さモミジ。横須賀線の踏切を渡った向かい側に位置する池で、円覚寺境内の一部であると。明治時代、軍港横須賀に通じる鉄道(現・JR横須賀線)の建設にあたって、無理やり円覚寺境内に線路を通過させたため、このような位置関係になっているのだと。「白鷺池」の名前は、開山無学祖元が鎌倉入りした際に、鶴岡八幡宮の神の使いが白鷺に身を変えて案内したという故事に因むという。総門前の階段を清掃する僧侶の姿が。陽光が更にモミジに射し入って来て美しさを増す。円覚寺の総門には、山号の「瑞鹿山」(ずいろくさん)の額が掲げられている。鎌倉時代当時、ここには縁起物(瑞獣、ずいじゅう)とされる希少生物・白鹿が群れを成して生息していたことによるもの(瑞鹿山→めでたい鹿の山)らしい。そして定刻の8時に開門。先程階段を清掃していた僧侶が門を開けてくれた。チケット売り場で拝観料300円を支払い入山。総門を円覚寺境内側から。絵になる光景。円覚寺境内MAP。円覚寺山門。山門前の左の階段に進む。こちらの階段にも清掃する僧侶の姿が。桂昌院の背の山の上部の紅葉は既に終わっていた。選仏場。元禄12年(1699年)建立の茅葺き屋根の建物。坐禅道場である。内部には薬師如来立像(南北朝時代)を安置する。仏殿が再建されるまでは、この堂が仏殿を兼ねていたと。選仏場の角のモミジの紅葉。居士林(こじりん)前。夢窓疎石の直弟子であった円覚寺56世曇芳周応(どんぽうしゅうおう)の塔頭で正式には済蔭庵(さいいんあん)と言うと。 現在は禅道場「居士林」として在家の禅道場として有名。 居士(こじ)とは在家の禅の修行者のこと。円覚寺の奥に向かう境内参道を進む。寿徳庵(じゅとくあん)に向かう階段途中の紅葉。第66世月潭中円(げったんちゅうえん)の塔所。山号は南山。本尊は聖観音。正面に仏日庵、そしてその前の見事な紅葉が見えて来た。妙香池(みょうこうち)、その左上が正伝庵(しょうでんあん)。妙香池は夢窓疎石作と伝える庭園の遺構。正伝庵は第24世明巌正因の塔所。本尊は宝冠釈迦如来。方丈庭園。方丈背後のこの庭園には心字池が配されている。心という字をかたどっていることからこのように呼ばれ、禅宗様式の庭となっていると。舎利殿への入口の紅葉。続燈庵(ぞくとうあん)入口。第30世大喜法忻(だいきほうきん)の塔所。山号は万富山。本尊は観音菩薩。黄梅院(おうばいいん)入口、山門。第15世夢窓疎石(夢窓国師)の塔所。山号は伝衣山。本尊は千手観音。文和3年(1354年)、華厳塔(三重塔)の跡地に夢窓の弟子の方外宏遠が開創。聖観音堂。美男蔓(ビナンカズラ)、実蔓(サネカズラ)の実。キイチゴを大きくしたような真っ赤な丸い集合果。瑞々しく旨そうであるが食べられるのであろうか?境内の立像仏。こうありたいと。こういうあなたでも。黄梅院の山門から仏日庵方面を。 ・・・つづく・・・
2017.12.23
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『鎌倉散策 目次』👈リンク箱根、江の島探索でブログ掲載の順序が逆になってしまいましたが、12月4日に鎌倉の紅葉散策に行って来ました。そしてこの日の最後の訪問場所は11月25日(土)~12月10日(日)まで行われていた長谷寺の紅葉ライトアップ。到着時間はまだ明るい16時。大きな提灯と「門かぶりの松」が迎えてくれました。山門の親柱は直径40センチもある四脚門で、鎌倉市内の四脚門では建長寺、円覚寺、妙本寺に次ぐ大きさ。長谷寺は、浄土宗系統の単立寺院。山号を海光山、院号を慈照院と称し、長谷観音と通称されている。本尊は十一面観音、開山は僧侶の徳道上人とされる。坂東三十三箇所観音霊場の第四番札所である。伝承では長谷寺の創建は奈良時代とされているが、中世以前の沿革は明確でなく、創建の正確な時期や経緯についても解明されていない。寺伝によれば、天平8年(736年)、大和の長谷寺(奈良県桜井市)の開基である徳道を藤原房前が招請し、十一面観音像を本尊として開山したという。山門に巨大な赤い提灯が掛かっていて、長谷寺と白抜きで書かれて遠くから目を引くのです。チケットを購入し、暫しチケット売り場の裏の喫茶店で暗くなるのを待つ。そして16:30になり入山。長谷寺境内案内図。ライトアップまで境内散策。工事中の為か大黒堂の入り口近くにいつもある「さわり大黒天」の姿はなかった。堂内にあった大黒様。こちらは弁天堂の福徳弁財天。書院の枯山水庭園。そして点灯開始は16:40。暗くなるにつれて境内の庭園の妙智池と放生池の2つの池の逆さモミジが美しさを増して来た。放生池のライトアップされたモミジを別の角度から。階段を上り地蔵堂前まで。地蔵堂裏に安置された無数の小さな地蔵(千体地蔵)も美しくライトアップされて。更に観音堂のある上の境内に向けて階段を上っていくと、モミジ葉の間からブルーの濃い光が。ブルーにライトアップされた鐘楼は神秘的な光景。ブルーの阿弥陀堂の中に黄金色の阿弥陀如来様の姿が。ここ長谷寺の阿弥陀堂に安置されている「阿弥陀如来像」は、源頼朝が42歳の厄除けのために建立したという伝承から「厄除阿弥陀」と呼ばれ、青く光る扁額にも。鎌倉六阿弥陀の一つ。この「阿弥陀如来像」は、もとは廃寺となった誓願寺の本尊だったと。当初の阿弥陀堂は、現在の地蔵堂付近にあったとのこと。観音堂も青く染められて。長谷寺の本尊は、「木造十一面観音」。721年(養老5年)、開山の徳道の願いによって、稽文会(けいもんえ)と稽主勲(けいしゅくん)という二人の仏師が、一本のクスノキから二体の十一面観音像を彫り上げたと。一体は奈良の長谷寺に安置されたが、もう一体は「有縁の地に出現して人々を救うように!」という願いから、行基によって海に投げ入れられたのだと。その観音像が15年後、三浦半島の長井の浦に流れ着いたことから鎌倉に遷座されたのだと伝えられているのだと。しかし、現在安置されている「十一面観音像」は、徳道の時代のものとは言い難く、室町時代以降の作と考えられると。「十一面観音像」は、高さ9.18メートルで日本最大級。オレンジと青のコラボ。空も青く染まって。釈迦如来座像を正面から。ブルーに光る観音堂を背景に横から。反対側から。釈迦如来坐像その四隅に仏教の守護神・四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天)が。四天王は怒気すさまじい形相で邪鬼を踏みつけて、お釈迦様の東西南北を護っている。増長天(ぞうじょうてん、ぞうちょうてん)は、四天王の一体、南方を護る守護神。経蔵手前の紅葉。見晴台からの由比ヶ浜海岸、材木座海岸そして海の向こうにリビエラ逗子マリーナが。再び観音堂の青き輝き。経蔵奥の竹林も美しくライトアップ。これこそ日本だけしか見ることが出来ない世界か。材木座海岸の灯りを背景に水子塚。青の世界の中に吸い込まれるが如し。観音ミュージアム入口にあった金色の観音様はやさしい微笑みで。ライトアップの影も美しく。再び観音堂を大きな石灯籠の前から。老松もブルーに染められて。かきがら稲荷。長谷寺の境内にある稲荷神社で、本尊の観音像が海を漂っている際、像に不着して当地に導いたという「かきがら稲荷大明神」を祀っている。階段を下りながら宝生池を見下ろす。再び宝生池を覗き込むが如きモミジ。地蔵も可愛らしく。3人仲良く。こちらは1人であるが笑顔で。妙智池とその池の麓に立つ石灯籠。最後に再び宝生池の逆さ紅葉を今年の見納めに。完全に暗くなり水面の逆さ紅葉も輝きを増していた。そして長谷寺を出て再び山門と松の緑が輝くライトアップを。強大な提灯も更に赤の輝きを増して。長谷観音バス停からJR藤沢行きのバスに乗り帰路に。そして藤沢駅南口ロータリーのイルミネーション。木々は太い幹の部分のみ。 その後ろに青のイルミネーションが輝く。地上の植栽も様々な色に輝いていた。2階コンコースに上がって。青のイルミネーションが輝いていた。今や冬のイルミネーションに欠かせない「青色発光ダイオード」。2014年のノーベル物理学賞は、この青色に人生を捧げた男達に輝いたのだ。世界が「青」を求めてから、実現するまでにかかった時間は確か30年以上。そして小田急線に乗り帰宅の途へ。
2017.12.22
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『鎌倉散策 目次』👈リンク明月院のアジサイを楽しんだ後は北鎌倉駅に向かう。この日は17:30集合で茅ヶ崎駅での飲み会の予定。時間があるので、最後に執権北条泰時ゆかりの寺・常楽寺(じょうらくじ)を訪ねることとし、大船駅方面に向かって更に徒歩で進む。そして道路沿いに植えられていた様々なアジサイを更に楽しんだのであった。 そして北鎌倉駅から徒歩20分強で常楽寺入口に到着。 「粟船山 常楽禅寺」と刻まれた寺標が左手に。常楽寺は、鎌倉市大船にある臨済宗建長寺派の寺院。山号は粟船山(ぞくせんざん)。本尊は阿弥陀三尊。嘉禎3年(1237年)の創建で開基は北条泰時。この泰時が妻の母の菩提を弔うため、栄西の弟子の退耕行勇(たいこうぎょうゆう)を開山として、創建した粟船御堂(あわふねみどう)がその前身。泰時の没した(1242年)後、孫の時頼(五代執権)が蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)を住持として迎え、寺名も泰時の法名をとり『常楽寺』としたのだと。常楽寺(じょうらくじ)1237年、鎌倉幕府三代目の執権北条泰時が、妻の母の供養のため建立した粟船御堂がはじまりで、寺の名である常楽寺は、北条泰時の法名「常楽寺殿」からとられたものといわれています。仏殿には、本尊の阿弥陀如来像、脇侍の観音・勢至菩薩像の三尊仏が安置されており、天井には狩野雪信が描いた龍の図があります。また、仏殿の裏へまわると、北条泰時の墓もあります。国指定重要文化財に指定されている鎌倉最古の梵鐘は、鎌倉三大名鐘のひとつであり、現在は鎌倉国宝館に預けられています。 ● 宗 派:臨済宗建長寺派 ● 山号寺号:粟船山常楽寺 (ぞくせんざん) ● 建 立:嘉禎三年 (1237) ● 開 山:退耕行勇 (たいこうぎょうゆう) ● 開 基:北条泰時山門。17世紀ごろの建立で鎌倉市の指定文化財。歴史を感じさせる茅葺の四脚門。山門の扁額には山号「粟船山」 の文字が。創建当時は密教系寺院、また、浄土系寺院でもあったとされているが、次第に禅宗色が強まり、後に臨済宗の寺となったと。建長年間、時の執権・北条時頼によって宋の禅僧、蘭渓道隆が鎌倉に招かれた。蘭渓ははじめ常楽寺の住持となり中国風の禅宗を広め、寺には多くの僧が蘭渓の教えを乞うために訪れたと。境内のガクアジサイ。 永年の風雪に耐えてきた大銀杏の老木の前には「涼蔭」 と刻まれた石碑が。大銀杏は大風や地震で傾き、昭和13年の暴風で完全に倒れ、これを有志で復旧したと石碑に。なるほど銀杏の木は中心部分は枯れているが、周りに新しい若枝木が育ち繁茂していた。「凉蔭之是銀杏樹開山禅師御手植也大正六年秋大風の為に傾斜大正十二年大地震の為に更に傾斜〇後支柱を施す然に年々傾斜の度を増す昭和十三年八月三十日夜暴風の為に全く倒尽す〇に於て檀信及有志の援助を仰き以て復旧す 時昭和十四年一月 建長曇〇時保書 現常楽禅寺〇道建」仏殿(神奈川県文化財)。 本尊は阿弥陀三尊像。阿弥陀如来像、脇侍の観音菩薩像、勢至菩薩像のほか、蘭渓道隆像が安置。天井には狩野雪信筆の「雲龍図」が描かれていた。文殊堂。 蘭渓道隆ゆかりの文殊菩薩坐像が安置されている。鎌倉や北鎌倉と離れた大船にあるため訪れる人は少なく、ひっそりと静寂そのもの。仏殿背後に墓石塔が三基並ぶ事が刻まれている石碑が。 石碑には、中央 再中興龍淵胤和尚墓 安政四年(1857)三月二十日左 圓通大應國氏師墓 延慶元年(1308)十二月廿九日右 開基北条泰時公墓 仁治三年(1242)六月十五日右側が北条泰時公の墓。北条泰時は義時の子、1183~1242年。父・義時の没後三代執権に就任(1224年、41歳)鎌倉時代を代表する名執権と言われ、執権在任18年に及び、数多くの足跡を残していると。右は龍淵和尚、左が大応国師(南浦紹明)の墓と。龍淵和尚は中興開基と伝えられ、大応国師は建長寺十三世を勤めた高僧。 本堂。 庫裏。 常楽寺を後にし、大船駅に向かう。途中右手に大船警察署が。 途中、岩瀬あじさい公園があり立ち寄るが・・・。 草ぼうぼうの荒れ果てた公園。アジサイの姿は皆無であった。 そして鎌倉市の今泉、今泉台、岩瀬、大船を流れ、柏尾川と合流する砂押川沿いを歩く。 桜並木の下のアジサイを楽しみながら歩く。以前はここ岩瀬には資生堂・鎌倉工場があり、その近くに我が卒業会社の独身寮が当時あり、私も何度かその独身寮の同僚の部屋を訪ねた事を懐かしく想いだしながら大船駅に向かったのであった。そして2000年までここ鎌倉市大船にあった映画スタジオ・松竹大船撮影所は、現在、鎌倉女子大学と鎌倉女子大学短期大学部の大船キャンパスとなっていたのであった。
2017.06.26
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『鎌倉散策 目次』👈リンク東慶寺から明月院まで徒歩にて10分弱で到着。平日の金曜日でしたが、流石に明月院(めいげついん)へ向かう観光客は多かったのです。明月院は、鎌倉市にある臨済宗建長寺派の寺院。山号を福源山と称する。本尊は聖観音、開基(創立者)は上杉憲方、開山(初代住職)は密室守厳(みっしつしゅごん)。アジサイの名所として知られ、「あじさい寺」の通称があるのです。明月院入口。 明月院 配置図。総門。 明月院境内に咲く縁が赤紫色のアジサイの花 アスチルベ?深紅のバラ。 この青い花は? フウリンソウの様な気もしますが・・・。黄色のバラ。 北条時頼公廟所。 北条時頼公墓所。緑に囲まれた月笑軒というカフェが。明月院のあじさい カフェでは、「抹茶と和菓子のセット」やジュースなどが楽しめるようであった。境内の青のアジサイ。 明月院の境内にある木の橋・桂橋には多くのカメラマンが。なるほど橋の上から見る鎌倉石の参道のあじさいは絶景であった。これぞ「明月院ブルー」 縁が赤紫色のアジサイ。 白から赤への変身の過程を自ら示してくれていた。 「明月院ブルー」のガクアジサイ。紫と白そして青の競演。 カシワバアジサイ。 「花の寺 明月院」。明月院のあじさいは95%が姫アジサイで、ガクアジサイなど他の品種は所々で見かける感じ。この時期のアジサイは花菖蒲、つゆ草と共にこの季節の「心の化粧色」であると。開山堂。禅興寺の明月院境内にあった宗猷堂を後に開山堂としたもの。堂内中央に開山密室守厳の木像,向かって左に最明寺,禅興寺,当院の歴代の住持の位牌が祀られていると。開山堂前の花想い地蔵。この地蔵さんはいつも季節の花を抱えていると。 地蔵さんの立て看板には、『人は離れしも はかない花の思い出の中に生きています 大切な人との別れ いとおしい物との別れ そんな時 ふと目に止まった花が どんなにか心を慰めてくれたことでしょうか いつくしみ深き花地蔵』との文字が。やぐら。開山堂の裏手の山腹に,間口約7m,奥行き約6m,高さ約3mのやぐらが。鎌倉で最大級のやぐら。 やぐらの壁面中央には,阿弥陀如来像,多宝如来,両側には十六羅漢の浮彫りが彫られていた。やぐら中央には宝筴印塔(上杉憲方の墓)が。 小さな祠に入った六地蔵も「明月院ブルー」の涎掛けを。六地蔵の手前には「明月院ブルー」のアジサイが。 「詫び寂び」の世界に誘うが如き竹扉。大小の地蔵様が並ぶ。 手入れの行き届いた枯山水庭園。 枯山水とは石と砂で山水の風景を表す庭園の形式。明月院のこの枯山水は「須弥山(しゅみせん)」を形どり仏教観を表現していると。本堂の一番奥にある丸窓は「悟りの窓」。 丸窓の向こうにはハナショウブ。ハナショウブが咲いている間は、本堂裏の庭園が公開されていた。明月院の撮影ポイント「丸窓」までは長い行列が。 水かめ(睡蓮鉢)にはこんなアートな作品が。金魚は作り物ですが、涼しげな雰囲気。 「明月院ブルー」 へあと少し。こちらのガクアジサイも。 散策路の竹林。 竹林には、「福源山」と刻まれた瓦などが無造作に置かれていました。 総門から中門への参道を人がいない瞬間に遭遇し慌ててシャッターを。ここは「明月院ブルー」のカオス。 明月院ブルーと一言でいっても、淡い青から濃い青まで様々な青色が。 そして「明月院ブルー」 のZENITHへ。
2017.06.25
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『鎌倉散策 目次』👈リンク妙本寺の総門を潜り、帰路を真っ直ぐ進むと正面に大きな山門が見えて来た。ここは本覚寺(ほんがくじ)。本覚寺は、日蓮宗の本山(由緒寺院)。山号は妙厳山。本尊は釈迦三尊像。身延山の久遠寺にあった日蓮の遺骨を分骨したため「東身延」とも呼ばれると。二代目住職の日朝上人にちなんで通称「日朝さま」。日朝上人は、眼病の治癒で非常に信仰を集めたという。その理由は激務がたたり、日朝上人は65歳の時に両目を失明。ところが「まだやり残した仕事がある」と一日に一万回「お題目」を唱えるなどして願を掛け、3年後に奇跡的に視力を取り戻したのだと。また、若宮大路に向けて入り口を作ってはいけない規則が当時あったため、本覚寺は小町大路(辻説法通り)に入り口を向けているのだと。そして山門(仁王門)の手前に「夷堂橋(えびすどうばし) 」 と白く書かれた石碑が。この橋は鎌倉十橋のひとつ。ここには昔、夷堂があったと言います。碑文には「この川は現在は滑(なめり)流といいますが、 昔は場所によって多くの呼び 名がありました。上流では胡桃(くるみ)川といい、浄明寺 門前では滑川といい、文覚 (もんがく)屋敷跡の辺りでは 坐禅(ざぜん)川といい、この辺りでは夷堂川と呼び、延命寺の辺りはすみうり川と言い、閻魔(えんま)堂址の辺は 閻魔川と言いました。」 と。山門(仁王門)の阿形像。 吽形像。 山門(仁王門)からの境内そして本堂。 1274年(文永11年)、佐渡流罪を許されて鎌倉に戻った日蓮は、夷堂を拠点として活動し、その後、日出が日蓮ゆかりの地に本覚寺を建てたと。そのときに、夷堂も仁王門近くから本覚寺の中に移されたという。 明治になると神仏分離令が出され、夷堂は移転して蛭子神社に合祀されたが、1981年(昭和56年)、本覚寺内に再建されたのだと。夷尊堂と書かれた扁額。屋根には九輪が載る。 「人形塚」の碑。毎年10月の第一日曜日に行われる人形供養は、「物を大切にする」という考え方から始められたものと。本堂で供養法要が行われた後、人形のお焚き上げがあると。手水舎の見事な対の龍。 鐘楼。応永17年(1410年)銘の梵鐘。創健者の一条院日出が木更津八幡宮の別当寺で法論に勝ち、従者に持ち帰らせたと伝えられていると。 本堂。大正時代の創建。本尊は釈迦如来。赤い帽子と前掛けをしている「しあわせ地蔵」が境内に。願い事をとなえながらその頭をなでると願いがかなうと言われていると。そして境内の紫陽花。 ご朱印を頂きました。「眼病救護」という文字が印象的。 そして再び鎌倉駅へ向かう。途中のマンホール。中央に時計塔そして鎌倉市の木はヤマザクラ、市の花はリンドウ。 そして鎌倉駅から横須賀線に乗り北鎌倉駅で下車し東慶寺(とうけいじ)に向かう。東慶寺は、鎌倉市山ノ内にある臨済宗円覚寺派の寺院。山号は松岡山、寺号は東慶総持禅寺。開基は北条貞時、開山は覚山尼と伝える。現在は円覚寺末の男僧の寺であるが、開山以来明治に至るまで本山を持たない独立した尼寺で、室町時代後期には住持は御所様と呼ばれ、江戸時代には寺を松岡御所とも称した特殊な格式のある寺であった。また江戸時代には群馬県の満徳寺と共に幕府寺社奉行も承認する縁切寺として知られ、女性の離婚に対する家庭裁判所の役割も果たしていたのだと。 山門に向かう途中の庭には各種アジサイが開花。カシワバアジサイ。白い花は円錐状あるいはピラミッド型に付く独特の形状。 そしてとりどりのアジサイが開花中。 そして階段の上には藁葺き屋根の山門が。 山門を潜って左側に茅葺屋根の鐘楼が。 現在の鐘楼は大正5年のもの。関東大震災で唯一倒れなかった建物であると。梁に大震災のとき梵鐘が揺れてめり込んだ跡が残ると。東慶寺には鎌倉時代末期に造られた梵鐘があったが今はここになく、静岡県韮山の本立寺にある。現在の梵鐘は南北朝時代の1350年に鋳造されたもので神奈川県重要文化財に指定されている。そして再びアジサイが迎えてくれた。 右手に仏殿。もともとは、鎌倉尼五山第一位で廃寺となった太平寺の木造聖観音立像(土紋装飾が施された仏像)を安置するために建立されたのだと現在、木造聖観音立像は松ヶ岡宝蔵に安置。)。現在の仏殿は1935年(昭和10年)に建立されたもので、旧本堂(仏殿)は横浜市の三溪園に移築されているとのこと。本堂横の水月堂には、木造水月観音半跏像が安置されていると。 仏殿は、「泰平殿」と呼ばれ、本尊は釈迦如来坐像(南北朝時代)。本尊の左には二十世天秀尼像、右には開山覚山尼像と五世用堂尼像が安置されていると。 境内の中央に鎮座する金仏そしてその後ろに花菖蒲田が。本堂前に鎮座するこの露座佛の視座は一直線に時宗の眠る廟の方角を捉えて瞑想しているのであった。もちろん視線の先は山門の遥か向かいの山、円覚寺の時宗の廟。この書院は、大正期の建立。それ以前の書院は、1634年(寛永11年)、徳川忠長屋敷から移築されたものだったが、1923年(大正12年)の関東大震災で倒壊。現在の建物は、その当時の間取りで再建されたものであると。 緑煌めく世界、そして秋には紅煌めく世界に。 東慶寺は鎌倉の花菖蒲の名所。 色とりどりの花菖蒲が咲き乱れていた。 そして境内の奥の山道の岩肌にはイワタバコが開花中。この時期、鎌倉の花といえば真っ先に紫陽花が思い浮かびますが、寺の裏山などの岩肌に紫色の星形の花を咲かせるイワタバコこそ鎌倉らしい花なのかも。残念ながら仏殿(本堂)裏の岩肌を覆い尽くすイワガラミはこの日は公開されていなかった。そして再び山門を潜り明月院に向かったのであった。あるく
2017.06.24
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『鎌倉散策 目次』👈リンクJR鎌倉駅東口 から若宮大路を横断し海岸方面に歩き、鎌倉郵便局前の交差点を左折し進むと10分ほどで妙本寺(みょうほんじ)総門が見えて来た。妙本寺は、神奈川県鎌倉市大町にある、日蓮宗の本山(霊跡寺院)。山号は長興山。この地は比企能員一族が住む谷戸(やと)であったところから「比企(ひきが)谷(やつ)」と呼ばれている。しかし、比企一族は建仁3年(1203年)に権力保持を目論む北条一族によって滅ぼされたのだ。その争いを「比企の乱」と呼ぶと。比企能員邸址と刻まれた石碑。 妙本寺は、日蓮聖人を開山に仰ぐ、日蓮宗最古の寺院。開基は、比企能員の末子で、順徳天皇に仕えた儒学者比企大学三郎能本。総門を潜ると右手に大円坊、現在は比企谷幼稚園となっている。 妙本寺境内案内図。方丈門奥の紫陽花が迎えてくれた。方丈門から本堂への階段通路は閉鎖中のため横の参道を二天門に向かって進む。 参道の木漏れ日も清々しく。 杉木立の参道を上ると正面に「二天門」。仏教の守護神である四天王のうち、持国天と多聞天(毘沙門天)を安置していることから「二天門」と呼ばれている。ベンガラ塗りの鮮やかな色が印象的であったが逆光。 2011年(平成23年)9月に保存修理が終わり、美しい姿が蘇っていた。 二天門の欄間の飛龍(右側の龍)。ここだけ極彩色。この下で手を叩くと龍の声が聞こえるという言伝えがあると・・・・????。 向かって左側が多聞天。北を守護、毘沙門天とも。右側が持国天。東を守護。境内には大きな日蓮聖人説法像が。日蓮聖人は、貞応元年(1222年)、安房小湊(千葉県小湊)に生まれ、12歳で清澄寺に入り、16歳で出家、仏教諸宗が様々広まっている中で、天変地異や飢餓などで人々が苦しんでいる有様に心を痛め、仏の真実の教えを求め続けて、32歳まで鎌倉諸大寺、高野山、そして比叡山と諸宗の諸大寺に遊学し、遂に「一切衆生を救う教えは法華経である!」との確信を得て、今から760数年前、建長5年(1253年)4月28日、立教開宗の宣言。これが日蓮宗の始まり。日蓮聖人は、当時政治文化の中心であった鎌倉の町の辻々に立って教えを説き、「法華経こそお釈迦さまの真実の教えである!目覚めよ、人々!」と説いたと。この銅像は、平成14年、第79世 加藤日暉貫首の代に日蓮聖人立教開宗750年ならび鎌倉布教750年を記念して建てられたのだと。 手水舎。 祖師堂。祖師堂は、妙本寺の中心的な建物で、日蓮、日朗、日輪が祀られている。第二祖の日朗の創建。現在の建物は、天保年間(1830~1843年)に、第四十七世日教によって再建されたと伝えられている。鎌倉最大級の木造仏堂建築で 桁行 (正面) 五間、梁間 (奥行) 六間で、瓦葺き入母屋造り。正面は約 18.7m、奥行きは 約 19.7m の堂々とした建造物。 祖師堂の向背の彫刻も見事。 向背下の龍の彫り物。 獅子の彫り物。 格子の蔀戸(しとみど)(ガラス入り)。祖師堂内部の厨子。日蓮聖人像が祀られていると。祖師堂前にはドクダミの花が。 何と八重のドクダミの花。 密集した葉の間から4枚の白い花弁状の苞をパッと広げ、苞の真ん中からとんがり帽子のような花序を覗かせる八重の花を開かせているドクダミ。八重のドクダミの花を見るのは初体験。祖師堂の廻り縁に腰掛け暫し休憩。目の前には新緑のモミジ葉が陽光を浴びて輝いていた。 向背内部の手挟み(たばさみ)の部分には花の彫刻が。 廻り縁から境内そして二天門を見る。 祖師堂の左側に石段があり山へ上って行く道が。その石段の上り口脇右に「万葉集研究遺蹟」の碑が。石碑の上部に篆書(てんしょ)という書体で記されていた。この地にはかつて新釈迦堂があり、そこの供僧(ぐそう)の仙覚(せんがく)は、新釈迦堂とその僧坊で寺務のかたわら万葉集の研究をしたと。仙覚は「万葉集」の本文校訂など業績をあげ「万葉集」の研究者。建仁2年(1203)の生まれと推測され、出生に関しては不詳だが比企氏ゆかりの者とも。境内の墓石には城の如き立派なものも。 比企氏一族の墓。石垣で一段高くなった所に五輪塔が4基並んでいた。その、右側のものは妙本寺開基の日学夫妻の供養塔、左側のもの比企能員夫妻の供養塔と。日学は比企能員の末子能本の法名とのこと。寿福院の逆修塔。比企氏一族の墓の並び右手にある立派な大五輪塔。逆修塔(ぎゃくしゅとう)とは生前に死後の冥福を祈って建立した供養塔。塔の各部に「妙・法・蓮・華・教」の五文字が刻まれ、側面に「加賀太守宰相卿之御母公 寿福院殿日栄逆修」と刻まれていた。(1624建立)。寿福院は千代といい、加賀前田家藩祖の前田利家の側室で利常を産んだ。利常が藩主(三代藩主)になると、慶長19年(1614)藩主の生母として、芳春院(利家の正室「まつ」)と入れかわりに人質としてに江戸へ下ったと。その後、寛永8年(1631)江戸藩邸にて没した。日蓮聖人説法像の反対側、墓地前の一画に竹矢来で囲まれた場所が在ります。一幡袖塚。3代将軍を約束された一幡は、母親である比企能員の娘若狭の局と共にこの比企邸で暮らしていたが、北条氏の焼討に遭い討死した。死体は見つからなかった。そこで、焼跡から見つかった一幡の着物の袖を埋めて墓とした。小さく可愛らしい五輪塔であった。一段高い場所には鐘楼が。妙本寺本堂。総門と祖師堂の中間あたりにある本堂。社務所が右手に。 ご朱印を頂きました。 左手は書院。そして人の少ない境内の紫陽花の花をゆっくりと楽しんだのであった。 そして最後に蛇苦止堂(じゃくしどう)を訪ねる。蛇苦止堂は若狭局(わかさのつぼね:讃岐局(さぬきのつぼね)と同一人物と。)を祀っている。1203年(建仁3年)、比企能員が北条時政邸で暗殺され、比企ヶ谷の比企一族は、北条義時らに攻められ滅ぼされた(比企の乱)。二代将軍源頼家の側室であった若狭局(能員の娘)は、家宝を抱えて井戸に飛び込み自害したと伝えられている。後に文応元年(1260)のその日の夕刻、後の執権・北条政村の娘が突然錯乱しそして語り始めた。娘の口をかりて話始めたのは「讃岐局」を名乗る怨霊。「われは大きな角の生えた大蛇となって比企ヶ谷の土中で火炎のごとき苦を受けている」と。その場にいた者たちは身の毛もよだつおもいで恐れおののいたと。その後政村は経典を写し讃岐局を供養した。また加持祈祷をして政村の娘を癒したと。そこで妙本寺建立にあたって、若狭局(=讃岐局)の怨霊を鎮めるため、蛇苦止大明神として祀ったと。
2017.06.23
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『鎌倉散策 目次』👈リンク葛原岡神社を出て銭洗弁財天に向かう右手には小さな公園が。所々に既に?紅葉したモミジの木々が。 そして5分ほど坂を下ると右手に銭洗弁財天(ぜにあらいべんざいてん)宇賀福神社の入口が。銭洗弁財天宇賀福神社は、お金を洗うと何倍にも増えて戻ってくるといわれる霊水「銭洗水」が湧く神社。銭洗水は境内の洞窟(奥宮)で湧き、ご利益にあずかろうと多くの参拝客が訪れる。 また、弁財天の縁日である巳の日は特にご利益があるとされ、一段と賑わいを見せる。平安末期、鎌倉は災害が続き貧困にあえぐ庶民のために,源頼朝が世の救済を祈願したところであると。巳の年の文治元年(1185)の巳の月、巳の日の巳の刻、宇賀福神から「この地に湧き出す水で神仏を供養せよ、そうすれば天下泰平の世が訪れる」と源頼朝の夢にお告げがあり、そこで源頼朝はこの地に社を建てて宇賀福神を祀った。その後、世の中の混乱は収まったと伝えられている。この話が発展していつの頃からか、その霊水でお金を洗うと倍になると言う信仰が生まれた。鎌倉五名水の一つである。洞窟の口もとに社があり、社は宇賀福神で洞窟の中の社は銭洗弁財天である。四方を急峻な崖で囲まれており、入り口は隧道(トンネル)になっている。 まるで洞窟のような素掘りのトンネルをくぐって境内に。 手水舎。 トンネルを抜け出ると、続いては数多の鳥居が並ぶトンネルへ。これらの鳥居は過去の様々な人々によって奉納されたもの。 鳥居を潜らず見に行くとあるのが七福神社。こちらは商売繁盛のご利益があると。 下之水神宮。こちらには「水波能売命(みずはのめのかみ)」という水の神様が祀られていて、湧き水が小さな滝のように流れていた。上之水神宮。こちらも下之水神宮と同様に「水波能売命」という水の神様が祀られていると。 境内案内図。休憩所の裏にも鳥居が続いていた。 社務所で100円を納め、線香とろうそく、ざるの3点セットを分けてもらい、ろうそくの火を点けてから線香を立て、その後に社にお参りをするのだと。 銭洗弁財天 本社へお参り。ざるを持って「奥宮」と呼ばれる洞窟の中へと。この洞窟の中には水が湧き、この場所で銭(お金)を清めるのです。丁度小学生の遠足?と重なり奥宮内部は大混雑で賑やかであった。子供達も硬貨や1000円札を必死に!清めていた。私もざるの上に財布から出した1000円札を置き、柄杓で汲んだ湧き水をかけて必死に!!清めたのであった。周囲を見渡してみると、千円札や硬貨だけでなく、1万円札など、財布の持ち金を全て?出して清める若者の姿も。更には、宝くじやクレジットカードまで清める若い女性の姿も。社務所でご朱印を頂きました。 休憩所で水分補強。境内の土産物屋は子供達で混雑。 そして再び隧道を潜り神社を後にする。 銭洗弁財天から5分ほど進んだところに、右折すると佐助稲荷、真っ直ぐ進むと鎌倉駅への分かれ道があった。佐助稲荷を目指すことにし右折。そしてさらに緩い上り坂を歩いて行くと、佐助稲荷神社の幟旗が現れた。そして左手に佐助稲荷神社の下社が。 社殿の右手には、十一面観世音菩薩と書かれた祠が。「相州鎌倉隠里 佐助稲荷神社由緒当社は源頼朝公の再建せし古社にして御祭神は宇加御魂命(うかめみたまのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)、佐田彦命(さるたひこのみこと)、大宮女命(おおみやめのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)。往古頼朝公伊豆蛭ヶ小島の配所にて、平家討伐を日夜念じをりし折、稲荷の大神気高き老翁の姿にて夢に現れ給い、挙兵をうながし、その時期を啓示し給えり。頼朝公天下一統の礎を固めし後、稲荷神霊の加護に感謝し畠山重忠に命じ、佐介山隠れ里の霊地を選び社殿を造建せしむ。人々の信仰きわめてあつく、出世稲荷としてその御神徳は広く関東一円に拡がりたり。さらに寛元の頃(13世紀中)鎌倉に疫病流行せし時、佐介稲荷の大神再び奇瑞を現し給い、霊種をして薬草を生ぜしめ病苦の者、ことごとく癒し給いぬ。以来、神威更にかがやき、商売繁盛、病気平癒、大漁満船、学業成就の霊験顕然たり。例祭 2月初午 正午縁結び十一面観世音菩薩徳川時代、足柄郡の尼寺から縁あって当地に安置された木像十一面観音は、良縁にうすく、諦めて仏門に入られた美しい姫君、赤松幸運がこの世の若い男女に良縁あらんことをと祈りつつ彫られたと伝えられています。」更に山の奥にある、佐助稲荷神社の拝殿を目指す。正面に赤い鳥居そして幟が幾重にも続いていた。 連なる赤い鳥居をくぐりながら参道を更に進む。 参道横の小さな祠にも多くの陶製狐が鎮座。どうやら縁結びの神様らしく、キツネ達もすべて一対(ペア)。社務所を越えてさらに右手の奥に進んだ先に、「霊狐泉(れいこせん)」と書かれた建物が。昔から麓の田畑を潤してきた水源で、霊狐の神水と称えられている湧水とのこと。 近くにユキノシタの花が咲いていた。 花は5弁で、上の3枚が小さく濃紅色の斑点があり基部に濃黄色の斑点があり、下の2枚は白色で細長い。子供の頃、このユキノシタの葉は山菜として、天ぷらで食べた記憶があるが最近は無し。階段の上には拝殿が鎮座。源頼朝が伊豆の蛭が小島にいる時、宇迦御魂命が翁の姿で夢枕に立ち、平家討伐の挙兵をするのは、今だ! 勝利は間違いないであろう、というお告げがあった。そして頼朝は冶永四年(1180)8月17日に挙兵し、平家討伐を果たした。頼朝は幕府を開いて、初期の目的を達成したお礼として、畠山重忠に命じて、建久年間(1190)に、ここを霊地と定めて稲荷の社殿を造営させたと。頼朝は若い時、兵衛佐であったので佐殿と言われていた。その佐殿を助けた神と言うことで佐助稲荷と言われたのだと。 拝殿内部。 拝殿に向かって右手が開けたスペースになっていて、そこに社務所が。 ご朱印を頂きました。さらに上がると本殿があった 本殿への階段を降り、拝殿の左側には苔むした数々の石灯籠と鎮座する白い可愛い狐像が数え切れないほど奉られていた。銭洗弁天の近くだが、あまり訪れる人がいないようで圧倒的に空いていた。ゆっくり雰囲気を味わうには穴場。そして鎌倉駅西口に向かって歩を進める。途中「蓮華寺阯」の碑が。「蓮華寺ハ仁治元年(1240)北条常時ノ創元ニカカリ 僧良忠ヲ開山トセシガ 寛元元年(1243)之ヲ材木座ニ遷シ 寺号ヲ光明寺ト改メシ由伝ヘラル 又一説ニ蓮華寺ハ経時ノ菩提ノ為 建長三年(1251)北条時頼之ヲ建立シ 後弘安二年(1279)ノ頃 武州ヘ遷セリトモイフ 此谷ヲ佐介ヶ谷(さすけがやつ)ト唱フ」【蓮華寺は、1240年に、僧侶の良忠(りょうちゅう)を開山として、北条常時(つねとき)が、建てました。 1243年に、この寺を材木座に移し、寺の名前を光明寺と改めたと伝えています。また一説によると、蓮華寺は経時(つねとき)の菩提(ぼだい)のため、 1251年に北条時頼(ときより)が建て、その後、1279年の頃に、武蔵(東京都)へ移したともいわれています。この谷を佐介ヶ谷(さすけがやつ)と言います。 昭和九年(1934)三月 鎌倉町青年団建 「この石碑は、 昭和九年に鎌倉町青年団により蓮華寺跡と思われる松が谷内(登記所西側谷戸)に建てられたものですが、藤沢-鎌倉線の開通に伴い、この場所に移されたものです。従って現在地は遺跡ではありません。】蓮華寺は、1240年(仁治元年)、四代執権北条経時が開山に然阿良忠を迎えて創建した寺院。1243年(寛元元年)には、材木座に移され光明寺と改められたという。光明寺の裏山には北条経時の墓があるとのこと。そして鎌倉駅西口に到着。西口広場にある鎌倉駅旧駅舎の時計塔。現在の駅舎に改築される際に市民の要望によって保存されたと。地下道を利用して東口に向かう。地下道の壁には『フクちゃん』などで知られる戦後日本を代表する漫画家,横山隆一氏による壁画が。かつて1934年から1962年まで続いた祭り「鎌倉カーニバル」がモチーフになっているのだと。 横山氏は鎌倉市名誉市民でもあり,かつては鎌倉市役所付近に邸宅を構えていたのだと。 そして東口にも美しいアジサイが咲いていた。 鎌倉駅東口を振り返る。
2017.06.22
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先週末に鎌倉のあじさい巡りを兼ねて鎌倉の神社仏閣を散策してきました。まずはJR大船駅からバスにて約25分で桔梗山へ。 ここから目指すは葛原岡神社(くずはらおかじんじゃ)。桔梗山のバス停から葛原岡神社へ向かう山道沿い、そして境内は多くのアジサイが楽しめる鎌倉のアジサイ見物の穴場なのです。長谷寺や御霊神社、極楽寺、明月院等はアジサイ客で平日でも大混雑である事をニュースで知り、これを避けたのです。 バス停近くの住宅の法面で、様々な色のアジサイが迎えてくれたのです。 そして山道を登りながら進んでいくと、様々な種類、色のアジサイが次々と。 そして急な階段が迎えてくれましたが、励ますかのように真っ青なアジサイが階段途中に。 そして山道を上ること20分、葛原岡神社の鳥居前に到着。 葛原岡神社は後醍醐(ごだいご)天皇の忠臣として鎌倉幕府倒幕に活躍した日野俊基(ひのとしもと)卿をお祀りする神社。境内の池には花菖蒲も開花中。 赤い睡蓮も。 別の場所から。縁結び石。縁結びの利益があり、良縁に恵まれるとされる「縁結び石」は平成二十二年冬に良縁の願いを広く叶えるために「男石」「女石」に御霊をお迎えして祀っったのだと。社務所で縁結びのお守りを授かると赤い糸のついた五円玉が頂け、それを自分の手で縁結び石のしめ縄にしっかりと結びつけるのだと。 「縁むすび絵馬」「恋みくじ」。 境内にある合鎚稲荷社(あいづちいなりしゃ)。 鎌倉時代の鍛冶職人(刀工)、五郎入道正宗に縁のある稲荷社だと。戦国時代、正宗の子孫は北条氏綱から無量寺ヶ谷に土地を与えられ、そこを屋敷とした。その屋敷跡とされる場所に大正時代に建てられたのが合鎚稲荷社。2013年(平成25年)にこの葛原岡神社へ移された(現在の建物は新たに造られたもの)と。 葛原岡神社への手水場。主神である日野俊基が祀られている神社の本殿はこじんまりとした建物。華やかさはないが、周囲の木々に守られるように鎮座している様子は神さびていた。本殿の脇には、旧本殿に飾られていた昇運の神龍が。雲をかきわけて上昇していく神龍は、開運のご利益があると評判と。120年間本殿を守ってきた石の彫刻で、神社の中では歴史があるのだと。立身出世を望む方はお参りするのがおすすめと。 日野俊基の終焉の地の石碑。 俊基卿終焉之地と刻まれていた。日野俊基は、「元弘の変」で捕らえられ、1332年(元弘2年)6月3日、ここ葛原ヶ岡で斬首された。明治時代になると、日野俊基は倒幕の功労者として評価され1887年(明治20年)、日野俊基を祭神とするこの葛原岡神社が創建されたと。境内の池には湧き水が竹を伝って流れ落ち涼しげ。境内のアジサイ 鳥居の隣にある「魔去る石」。 「魔が去る」が転じて「勝(まさる)」ということで、幸せを勝ち取る石と呼ばれていると。魔が去るように願いを込め、盃をこの石に当てて割れれば、幸せを勝ち取れるのだと。盃が割れない時は、拾って砕けるまで投げていいと。 社務所。 ご朱印を頂きました。 葛原岡神社の鳥居の傍らに建てられている「藤原仲能之墓」碑。「此処ハ道智塚或ハ阿古耶尼(アコヤニ)ノ塚ト伝ヘラレシモ 海蔵寺伝ニ拠リ 藤原仲能ノ墓所ト考察セラル 仲能ハ従五位下前能州大守ニシテ鎌倉幕府評定衆 タリシガ 後年 海蔵寺中興ノ大檀越(檀家長)トナリ 建長八年(1256)十二月九日寂シ 道智禅師ト称(タタ)ヘラレシモノノ如ク 其位牌同寺ニ現存ス」【この場所は、道智(どうち)の塚または阿古耶尼(あこやに)の塚であると伝えられていますが、 海蔵(かいぞう)寺の伝えによりますと、藤原仲能(なかよし)の墓と考えられます。 仲能(なかよし)は、鎌倉幕府の重臣でしたが、その後、海蔵寺の発展に尽くしました。 1256年12月9日死に、道智禅師と言われたらしく、その位牌がこの寺に現存しております。】藤原仲能は、鎌倉幕府の評定衆を勤めた人物で、1253年(建長5年)、六代将軍宗尊親王の命によって、七堂伽藍を有する寺院を建立し、海蔵寺の中興に尽くした。死後、道智禅師といわれたと。この場所は、「道智の塚」または「阿古耶尼(あこやに)の塚」と伝えられていたようであるが、海蔵寺の言い伝えでは「仲能の塚」となっているらしい。海蔵寺には、仲能こと道智禅師の位牌があるとのこと。 葛原岡神社前の「こもれび広場」で水分補給。銭洗い弁天に向かって進むと直ぐに、国指定史跡 日野俊基墓入口が右手に。日野俊基は、1324年(正中元年)、後醍醐天皇の倒幕計画に参加した罪で捕らえられ、日野資朝とともに鎌倉に護送された(正中の変)。この時俊基は許されたが、資朝は翌年佐渡に流された。後醍醐天皇は、万里小路宣房を鎌倉へ派遣し、「告文」をもって弁明したことにより罪に問われなかった。「告文」とは、天皇が告げ申す文で、武家に出すことは前代未聞だったと。 繰り返しになるが、1331年(元弘元年)、後醍醐天皇は再度倒幕計画を企てるが、これが露見し、日野俊基は再び捕らえられ、翌年6月3日、ここ葛原ヶ岡で処刑された(元弘の変)。俊基は、鎌倉に入ることなく仮粧坂の葛原ヶ岡で斬首されたと伝えられている。同じ頃、佐渡に流されていた日野資朝も処刑され、後醍醐天皇は隠岐に流されたと。
2017.06.21
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『鎌倉散策 目次』👈リンク鶴岡八幡宮境内配置図。 齋館入口(中央)そして神苑ぼたん園の券売所と入口(右)。源氏池の岸には多くの鳩が。 源氏池の島の中にある旗上弁財天社。 そして流鏑馬馬場を通り、中央参道へ。 手水舎。 舞殿。 舞殿は、1193年(建久4年)に新造された唐破風の入母屋造りの建物。下拝殿とも呼ばれ、各種儀式が行われているのです。酒樽。多くの日本酒酒造メーカーの樽が並んでいます。左下にはビールも。そして本殿に向かう階段手前の左側には大銀杏の切り株が。2010年3月の強風で樹齢1000年の木が倒れてしまったのであった。倒れた幹の根元から新しい枝が伸びています。 階段上には本宮(上宮)が。1180年(治承4年)、鎌倉に入った源頼朝が遷座した鶴岡八幡宮は、1191年(建久2年)3月4日の鎌倉大火によって焼失。しかし、頼朝はすぐさま鶴岡八幡宮の再建に取りかかり、若宮の再建とともに本宮(上宮)を造営し、1191年(建久2年)11月21日、改めて京の石清水八幡宮の祭神を勧請した。本宮は、町で起こった火災から防ぐため、大臣山の中腹を削り造営されたと。毎年、12月16日に行われている「御鎮座記念祭」は、頼朝が催した石清水八幡宮の「神霊を迎える儀式」(遷宮の儀)を再現したもの。現在の本宮は、1828年(文政11年)、江戸幕府十一将軍徳川家斉の命により水野忠成を奉行として竣工したもの。1923年(大正12年)の関東大震災で倒潰したが修造された(国重文)。本宮祭神は応神天皇(おうじんてんのう)、比売神(ひめがみ)と神功皇后(じんぐうこうごう)。本宮(上宮)楼門に掲げられた額の「八」の字は、神聖な神の使いとされている二羽の鳩で表現されている。神仏混淆であったため「八幡宮」の下に「寺」という字があったが、明治の神仏分離によって消されているとのこと。 鶴岡八幡宮の象徴「随身門」の入り口両側には、仁王様でなく、随身(=平安時代以降、貴人護衛にあたった武人)が鎮座している。随身門の守護者である随身像は、向かって右の随身像(阿形)は刀を持って鎮座。向かって左の随身像(吽形)は矢を持って鎮座。 本宮にて参拝。本宮の巨大な正月用のお賽銭箱。 再び楼門下から舞殿を見下ろす。 御祈祷受付所。 御朱印を頂きました。 参道にあった「一筆書」の店。 一筆書きの蛇が幸運・開運の絵として人気があると。参道の巨大石灯籠。1862年(文久2年)、江戸と大坂の砂糖問屋が砂糖船の航海の安全を祈願して奉納したもの。左側が大坂でこの右側が江戸のもので、それぞれ「砂糖店」と刻まれている。左手には鎌倉七福神めぐりの旗上弁財天社への入口。源頼朝の旗挙げに際しては、家運長久の守護神として弁財天が現れ、霊験があったと伝えられ、旗上弁財天社は、北条政子が建立したものとも伝えられている。弁財天は仏教の守護神であることから、明治の廃仏毀釈で破壊されたが、1956年(昭和31年)に再興され、現在の社殿は、鶴岡八幡宮創建800年にあたる1980年(昭和55年)に、文政年間の古図をもとに復元されたもの。太鼓橋。太鼓橋は、1182年(寿永元年)、源平池が造営されたときに架けられたものと考えられていると。将軍家が鶴岡八幡宮に参拝するときは、この橋で輿を下乗したという。当時は朱塗りの板橋であったことから、「赤橋」(あかはし・あかばし)と呼ばれていた。鎌倉の古絵図にも「赤橋」と記されていると。 帰路は小町通りを歩き鎌倉駅へ。先日、旅友のSさんが宴を楽しんだイタリアンレストランの店を確認。小町通りは若宮大路から一本鎌倉駅寄りにある鶴岡八幡宮までの長さ360メートルの商店街。鎌倉のメインストリート的存在で、レストラン・カフェ・お土産・雑貨・ブティックなど250以上の店舗が軒を連ね、多くの観光客で賑わうのです。蜂蜜の杉養蜂園の出店。マヌカ蜜と書かれた幟が店頭に。マヌカとは灌木種の一つで、ニュージーランドにのみ自生するフトモモ科の低木。ニュージーランドの原住民であるマオリ族が薬として使っていた木で、この木の花から集められた花蜜から作られるはちみつをマヌカハニー又はマヌカ蜜と呼んでいるのです。そして鎌倉駅に到着。
2017.01.30
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『鎌倉散策 目次』👈リンク牡丹は中国の国花。赤い花が最高とされていたが、種子から育てると同じ色にならないため接木で増やされたので、牡とみなされ、牡(おす)丹(赤色)から牡丹という名前になったとのこと。それを音読みしてボタンと呼ぶようになったと。花言葉は「王者の風格」「富貴」「恥じらい」「高貴」「壮麗」。そして神苑ぼたん庭園で、様々な名前のついた牡丹が楽しめたのです。「島錦」 「連鶴」「白玉獅子」 「新日月」「百花殿」「紅輝獅子」「紫紅殿」「聖代」 手前の「八千代椿」と奥の「連鶴」「島錦」紅に白絞りの入る美しい花。日本で誕生した突然変異種「島錦」。「島大臣」 「八千代椿」 手入れされた牡丹園。 「富士の峰」 「連鶴」純白色で子房も白色となる千重・抱え咲き品種。 手前の「島錦」と奥の「太陽」 「島錦」 「太陽」 「聖代」 「明日香」ここにも「富士の峰」 湖石の庭。湖石の庭を別角度から。中国蘇州市園林管理局・蘇州市古典園林建築公司の技術者によって自然の太湖石を使って造成された庭。太湖石(湖石)とは、中国江蘇省の太湖という湖の底から掘り出された石灰岩に属する天然の名石。中国の名のある庭園には、必ずといってよいほど湖石の石組がみられるそうです。我が国でも古来より「牡丹には太湖石」を描いてきたようです。絵画では日本人に親しまれてきたものの、実物を見ることができませんでしたが、1984年(昭和59年)、宗之光・李清中国駐日大使夫妻のはからいでここ鶴岡八幡宮の「神苑ぼたん庭園」に寄贈されたのだと。牡丹園の先にある「齋館」とその庭。大きな祭典に奉仕する献幣使をお迎えしたり、神職がお籠りをする館。鎌倉・鶴岡八幡宮の境内の東南部、源平池に沿って造られた廻遊式日本邸園に100品種、1,000株の今が見ごろと咲き誇っている牡丹の艶やかな姿を大いに楽しんだのです。
2017.01.29
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『鎌倉散策 目次』👈リンクこの日は何故か花に誘われ、熱海の梅、桜の帰りに鎌倉まで足を延ばしたのです。鎌倉駅東口から「バス通り」に出ると、南北に伸びた幅広い道路が。左手に朱の大きな二の鳥居があり、その下に段葛(だんかずら)が見えた。治承4年(1180)10月6日、鎌倉入りした源頼朝は都市つ造りに着手。先ず由比郷にあった八幡(元八幡)を小林郷(現在の鶴岡八幡宮)に移し造営。若宮大路は、養和2年(1182)3月、京の朱雀大路に倣って築造が開始された。若宮大路は、由比ガ浜の一の鳥居まで、1800mに渡って続いている。鎌倉の町造りはこの大路を中心に造られて行ったのだ。狛犬 右 阿像。 狛犬 左 吽像。二の鳥居。 段葛は、頼朝の夫人・北条政子が、二代将軍・源頼家を懐妊した時、安産を祈って養和2年(1182)3月、北条時政以下の御家人と共に、土石を運んで築いた。段葛は、道の中央に段2檀を築き緑石を兼ねる葛石を並べて一段と高い道と云うもので段葛の名はこの段の葛石にちなんでいると。2014年(平成26年)11月から、参道を支える石積みのひび割れ修復と、立ち枯れが目立ち始めた桜の植え替えのため、平成の整備工事が実施され、2016年(平成28年)3月30日に竣功。道は、鶴岡八幡宮に向かって近つ”くほどに狭くなる遠近法を利用して、軍事上長い道と錯覚させる為と云われているのです。 遠くに鎌倉・鶴岡八幡宮が。ズームで撮影。 段蔓の両側に新たに植えられている桜の木々の幹径は約10cm。昔の姿には程遠いが、今春には花を咲かせてくれるであろう。段蔓の両側には寄進された石灯籠が並んでいた。 そして段蔓の中央付近左右には、両側の道に出られる場所が唯一1ヶ所。現在の段葛は二の鳥居から三の鳥居までの約500m。三の鳥居そしてその先に舞殿(下拝殿)そして鶴岡八幡宮(本宮)が。三の鳥居前も交差点。 その先に太鼓橋が。 段葛から大鳥居の傍を通って境内にはいると、すぐ右手に神苑ぼたん庭園が。鶴岡八幡宮の源氏池畔の神苑ぼたん庭園では、「正月ぼたん」と「春ぼたん」が楽しめます。神苑ぼたん庭園は、鶴岡八幡宮の創建800年を記念して造られた回遊式庭園。約100品種1000株の「ぼたん」が植えられていると。 入場料は500円。藁囲いの下に正月ぼたんが。この日は1月19日、大部分の正月ぼたん(冬ボタン)が見頃を迎えていた。これには理由があるのでした。ネット情報によるとここ鶴岡八幡宮の冬ぼたんは鎌倉で栽培管理しているのではなくて、島根県の大根島で育成した冬ぼたんを秋に鎌倉に数千株持ってきて、そして順調に開花したものを神苑ぼたん苑に植えているとのこと。赤も時間とともに変化しているのです。 花の前には、牡丹の名前の札が置かれていた。白いや純白。 大輪のバラのごとし。 正月ぼたんの特徴は それぞれのぼたんが藁囲いで包まれておりその景観は冬季でしか楽しむことが出来ない独特な美を持っているのです。藁囲いは雪が似合うのであるが。 今後もし積雪があれば、藁囲いに雪が積もり、白川郷の合掌造りの如く独特の美が期待できるのです。鎌倉地域に積雪があれば、写真愛好家の方々がカメラ片手に押し寄せること間違いなしなのです。様々な花を順番に楽しんだのです。
2017.01.28
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『鎌倉散策 目次』👈リンクこの日は鎌倉・寿福寺を訪ねました。横須賀線の鎌倉駅で下車。西口に出ると右手に小さな広場がありそこに時計台が。時計台は、1916年(大正5年)に建てられた旧駅舎の象徴だったもの。長い間、「とんがり帽子の時計台」として市民に親しまれているのです。鎌倉駅西口を出て駅前正面のロータリーを鎌倉市役所方面に進み、約100m先の「市役所前」の信号を右に曲がり、そのあと道なりに進むこと約10分で寿福寺に到着。寿福寺は、昨年に続いてこれで何回目の参拝となるのでしょうか。鎌倉五山第3位の寺格の寺。その他鎌倉十三佛霊場の第4番「普賢菩薩」、鎌倉三十三観音霊場の第24番、鎌倉二十四地蔵の第18番の古寺なのです。臨済宗建長寺派、寺号は詳しくは亀谷山壽福金剛禅寺(きこくさんじゅふくこんごうぜんじ)。道路脇には多くの庚申塔が並んでいた。 庚申塔には慎みの象徴の三猿や庚申信仰の本尊、青面金剛(しょうめんこんごう)などが刻まれていた。「弘法大師相模二十一ヶ所」という霊場巡礼があるようなのですが、最近ではほぼ廃れてしまったと。しかし寿福寺はその第7番札所のようだ。 「勝の橋」碑。「勝の橋」といっても、橋らしきものは?。よく見ると道路の脇の石塔の中に、石の橋標があるので、なんとかここが勝の橋なんだと確認できるのであった。そもそも、勝の橋は、寿福寺の隣にある英勝寺の開基となった徳川家康の側室「勝の局」がこの橋を架けたことに由来していると。この英勝寺の敷地は、江戸城を築いた太田道灌の屋敷跡。鎌倉市扇ケ谷1ー17ー7にある寺。 寿福寺の惣門。惣門は、横(桁行) 3.3m、奥行(梁間:外側の柱の間) 2.65m。 惣門には「亀谷山(きこくさん)」の額が掲げられていた。寿福寺 境内図 をネットから。 【http://amigokamakura.sakura.ne.jp/02-temple-gozan/g3-jufukuji.html】より惣門から中門まで、まっすぐな石畳の参道が続く。静かで緑に囲まれ、とても美しい参道。この日は日曜日であったが、人の数は殆どなし。源頼朝の妻、北条政子が頼朝の死後、明菴栄西を招いて、頼朝の父、義朝の居舘があったこの地に頼朝の菩提を弔うために正治2年(1200)創建したと言われています創建当時は、七堂伽藍、十四の塔頭を有する大寺院であったとのこと。寿福寺境内 案内板。 中門。中門は、横(桁行) 2.6m、奥行(梁間:外側の柱の間) 2.1mの比較的小型のもの。中門には「寿福金剛禅寺」の扁額。寿福寺は、正月など特別な場合を除いて、境内の公開をしていないため、中門から本殿(仏殿)を覗きました。 1664年の再建。籠釈迦と呼ばれる本尊釈迦如来像、文殊・普賢の両菩薩像、神仏分離で鶴岡八幡宮より移された、仁王像、源実朝像、栄西像(県文)を安置していると。鐘楼。かつての梵鐘は、栄西が宋から持ち帰った「いぼなし鐘」といわれるものだったと伝わる。豊臣秀吉の小田原攻めで、後北条氏によって銃弾に転用されたといわれる。 中門前に「一般観光者はこれより先には入れません」「納経(朱印)及び寺に御用の方は内玄関の受付まで御出下さい」と書いてありました。中門の右手にある庫裏・納経所に御朱印を頂きに向かう。インターホンを押したが中々、応答がなかったが、少し遅れてインターホンから声が。「御朱印を頂きたい」と伝えると住職の奥様?が来られて、住職は体調がすぐれない為御朱印帳への直接書き込みは出来ず、すでに書き込み済みの半紙に参拝日をこの日を奥様が記入したものしか対応できないと。やむなく?それを頂くこととしました。この寺のみ?は、1回に1種類の御朱印のみの対応で、鎌倉十三佛、鎌倉観音、鎌倉五山等何回か尋ねる必要があるのでした。鎌倉五山の御朱印をなんとか頂くことが出来ました。境内を後にして裏山にある「やぐら」という横穴墳墓を訪ねました。裏山に直登する階段は、崩れていて危険との事で閉鎖されているため、裏手の横穴墳墓へは、中門の前で左折して、反時計廻りに大きく歩いて、迂回することで辿りつくのでした。ひたすら山の「崖下」を目指して坂道を上る。 墓地の最奥を右手に折れると多くの「やぐら」が並んでいた。『「やぐら」とは横穴を掘りやすい鎌倉石という砂岩の自然条件の中で、鎌倉時代の中期頃から室町時代の中頃にかけて、巌堂、岩殿寺のような岩窟寺院をヒントに作られた中世の横穴式墳墓。 平地の少ない鎌倉が人口数万から十万人とも推定されるほどに都市が膨れあがったことや、墓所への思い入れの変化、奈良・京都の石工を含む職能集団の進出を背景に山頂や斜面に作られた納骨を兼ねた供養堂である。 従って鎌倉周辺にしかなく、また鎌倉周辺であっても人口が密集した鎌倉の外にでると急激にその数を減らす。 そして鎌倉が都市でなくなるとともに作られなくなり、その役割は人の記憶から消えていった 』・・・ウィキペディア・・・より。そして最奥手前に北条政子の「やぐら」。 鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室。伊豆国の豪族、北条時政の長女。子は頼家、実朝、大姫、三幡。兄弟姉妹には宗時、義時、時房、阿波局、時子など。伊豆の流人だった頼朝の妻となり、頼朝が鎌倉に武家政権を樹立すると御台所と呼ばれる人物の墓。夫の死後に落飾して尼御台(あまみだい)と呼ばれた。法名を安養院(あんにょういん)。頼朝亡きあと征夷大将軍となった嫡男・頼家、次男・実朝が相次いで暗殺された後は、傀儡将軍として京から招いた幼い藤原頼経の後見となって幕政の実権を握り、世に尼将軍と称された。 五輪塔には多くの花が手向けられていた。すぐ近くには源実朝のものと伝えられる五輪塔も。 源実朝は北条政子と源頼朝の4男で、鎌倉幕府の第3代征夷大将軍。ただ、源実朝は頼家の子、公暁に鶴岡八幡宮で暗殺されたので、秦野にあるのが首塚とされていますので、ここ鎌倉のは胴塚と言う事に?。 源実朝の五輪塔があるこのやぐらは、牡丹唐草の文様が彩色されていることから、「唐草やぐら」または「えかきやぐら」と呼ばれているとのこと。他にも外務大臣・陸奥宗光、俳人・高浜虚子、作家・大佛次郎などが眠る墓があるとのですが、標識などがある訳ではなく、よく判らなかった。 そして源氏山公園への道を進む。険しい山道が目の前に。特に寿福寺墓地から裏山への入り口部分は隘路になっていてかなりの悪路であった。険しく狭い水路の如き道。大木の根が階段を形成、その先は石段に。そしてここが「太田道灌公の墓」「太田道灌公の墓江戸城築城で有名な太田道灌資長はこの地で生まれ、扇谷上杉家の家宰として活躍しました。その曾孫である太田康資の娘梶(後に勝)は、徳川家康の側室として水戸徳川家の初代徳川頼房の養母となり、徳川家を支えました。彼女は出家後に英勝院と号し、三大将軍家光よりここ源氏山一帯を賜って英勝寺を開きました。この太田道灌公の墓は文政九年(1826年)に水戸徳川家の子孫である英勝寺住職が以前の墓を再建したものです。」ここまでとして、帰路も寿福寺横の細道を戻る。 生誕八百年記念の「源 実朝をしのぶ」と刻まれた源 実朝 顕彰碑。 実朝の事蹟を表面下部に銅版を貼り、之に碑文を記し、裏面には寿福寺前住職であった内田智光師の自筆の漢詩が刻まれていた。平山郁夫書とも表面左下に。再び総門を右側から。門前の石柱には「寿福金剛禅寺」と刻まれていた。帰路も再び鎌倉駅に向かう。帰路の右手にあった八坂神社。八坂大神は、建久3年(1192)千葉常胤の子相馬次郎師常が自宅の守護神として勧請したといい、相馬天王とも呼ぶと。その後、浄光明寺裏山にある網引地蔵付近の岩窟へ、壽福寺本堂脇への移転を経て、この地へ移転。明治維新の神仏分離令により八坂大神と改称、明治6年には村社に列格したと。左手に巽神社。巽神社は、801年(延暦20年)、征夷大将軍に任ぜられ蝦夷征伐に向かう途中の坂上田村麻呂が葛原ヶ岡に勧請したのを始まり。1049年(永承4年)には源頼義が改修し、のちに現在の地に遷座されて壽福寺の鎮守として崇敬された。壽福寺の巽の方角にあることからこの名が付けられたのだと。この蔵・「結の蔵」は秋田県湯沢市に建てられていた造り酒屋の酒蔵。それをほぼ原型のまま移築し、歴史都市鎌倉で土壁等伝統技術を使い、再生させた建物とのこと。 今日は暇だなあ・・・と駅前で人力車の客を待つお兄さん達。JR鎌倉駅・西口とその右に江ノ電鎌倉駅。
2017.01.22
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『鎌倉散策 目次』👈リンク北鎌倉駅から大船駅に近づいていくと車窓左手前方に大船観音の白き姿が ズームで。そして大船駅で東海道線に乗り換える予定を急遽変更し、大船観音に向かうことを決断。大船駅西口に出て、柏尾川(かしおがわ)を渡る。柏尾川は、神奈川県南部を流れる二級河川。境川の支流。戸部川とも呼ばれる。全長は戸塚区柏尾町から藤沢市川名で境川と合流するまでの約11km。大船観音入口の表示。 この坂が大船観音の入り口。左に「大船観音参道」 と刻まれた石碑が。数分上ると大船観音山門が現れる。 正式名称は『大船観音寺』 であると。大船観音は1929年(昭和4年)、地元有志の発起により、護国観音として築造が開始され、1934年(昭和9年)には輪郭が出来上がっていたが、戦局の悪化により、築造は中断。その後、20年以上放置される。第二次世界大戦後、財団法人大船観音協会が設立され、1960年(昭和35年)4月に完成。なお、大船観音協会には、曹洞宗管長の高階瓏仙(たかしな ろうせん)や、東京急行電鉄の初代社長・五島慶太の名前を始め、各界の著名人の名が見える。財団法人大船観音協会は、1981年(昭和56年)11月30日に解散し、宗教法人大船観音寺と改称され、現在に至る、との説明が。「大船観世音」と刻まれた石碑の横には戦没慰霊碑が建てられていた。鎌倉空襲というアメリカ軍による無差別爆撃が鎌倉でもあったのだと。 碑の横から石段を上って行った。観音様が目を細め、じっと私を見つめているように感じながら・・・・・。階段の両脇には「南無観世音菩薩」 と書かれた赤地に白き文字で書かれた旗が並んでいた。純白の大船観音の大きさは、高さ25m、幅19m、重さ1915tとのこと。鎌倉大仏は、台座を入れても高さ13.35mなので、鎌倉大仏よりも10m以上大きいサイズ。子供の頃、「大船観音の下半身は山中に埋まっている」という噂もあったと記憶しているのですが・・・・・・。青空に純白のお顔は映えていました。ふっくらした顔立ちと優しい微笑みを浮かべながら私を見下ろしている姿。 少し横に廻って見上げて、露出変更してズームで1枚。 観音様の後ろ側へ回ってみると、胎内に入ることが出来るようになっていたのですが気が付きませんでした。胎内には平安期の十一面観音が安置されているほかに、観音像が建築されているときの写真なども展示されいるとのこと。そして山中に胴体は埋まっていないことも確認出来たのでしたが、次回にはと。通路沿いのアジサイも観音様の白さと競うような姿。 別の階段を降りていくと前方にお堂が姿を現した。 聖観世音菩薩が祀られている慈光堂。 慈光堂を後に、坂を下る途中には子寶地蔵尊が。 こちらは延命地蔵尊。 原爆の火の塔。8月15日、終戦の日の広島での残り火。被爆45周年にあたり、大船観音寺の境内に平和の塔から分火されたものが、この原爆の火。火は灯篭型の塔内に灯されており、灯篭には「被爆四十五周年 原爆の火 神奈川県知事長洲一二」と刻まれた石板が嵌め込まれていた。原爆犠牲者慰霊碑。昭和45年4月18日、神奈川県原爆被災者の会が、大船観音寺の境内に「原爆犠牲者慰霊碑」を建立。平和祈念塔には「核兵器もない、戦争もない 平和な世界を」と刻まれていた。 慰霊碑に爆心地の西蓮寺から地蔵尊の土台石、長崎の浦上天主堂からも石が寄贈され、それぞれの被爆石は千羽鶴が刻まれた筏にのせられ、その台座には被爆者が平和の丘に向かう姿が描かれているのだと。 そしてその後ろにも多くの千羽鶴が奉納されていた。神奈川県原爆被災者の会の熱きメッセージが日本語と英語で刻まれていた。 戦没者慰霊碑。 大船観音寺【白衣観音】の御朱印を戴きました。そして帰路に山門より大船駅方面の景色です。 50年以上前に訪れた記憶だけがあるのですが、具体的に何歳頃、遠足?誰と?が全く想い出せないのです。記憶が正に「完遠様」なのです。
2016.07.27
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『鎌倉散策 目次』👈リンク浄智寺を後にし北鎌倉駅方面に向かう。踏切の向こうに円覚寺(えんがくじ)の入口が見えた。 円覚寺は、鎌倉市山ノ内にある寺院。山号を瑞鹿山(ずいろくさん)と称し、正式には瑞鹿山円覚興聖禅寺(ずいろくさんえんがくこうしょうぜんじ)と号する。臨済宗円覚寺派の大本山であり、鎌倉五山第二位に列せられる。本尊は宝冠釈迦如来、開基は北条時宗、開山は無学祖元である。調べてみると、新たに寺院を建立することを「開山(かいさん)」といい、その初代住職のことも同じく「開山」と呼ぶ。その際に経済的、政治的援助をした人物、つまりいわゆるパトロンのことを「開基(かいき)」と呼ぶとのこと。なお、寺名は「えんがくじ」と濁音で読むのが正式である。(ウィキペディアより) 円覚寺境内MAP。 緑の屋根の階段を上る。 総門。人のいない時を見つけてシャッターを押す。 瑞鹿山の額が掲げられている。 開山無学祖元の創建開堂にあたっての法話に、山中から白鹿が出てきてこれに連なったことから、この名が付けられたという。円覚寺案内。総門から境内に入ると石段の上に3間1戸二重門の三門が。天明3年(1783)当山中興の大用国師誠拙和尚が再建。天明5年(1785年)、大用国師誠拙周樗が再建したものと言われる。 山門は「三門」とも呼ばれ、三解脱門の略。涅槃に至るまでに通過しなければならない三つの関門、空・無相・無願を表すと。 伏見上皇の宸筆「圓覚興聖禅寺」の額がかけられ、楼上には聖観音菩薩像と十六羅漢像が安置されているが、拝観はできない。三門の見事な木組みと彫刻を見上げながら、しばし楽しんだ後は首の運動もしばし。そして仏殿へ。昭和39年(1964年)再建で、コンクリート造りだが、元亀4年(1573年)の仏殿指図(さしず、設計図)に基づいて建てられていると。仏殿の扁額「大光明宝殿」は、後光厳天皇の勅筆と伝えられる(1378年(明和4年))。 しばし、仏殿内部の椅子に座り、ご本尊を見つめながら心と体を鎮める。ご本尊の両側には梵天、帝釈天像が安置されていた。宝冠釈迦如来坐像。宝冠と胸飾りをまとうおごそかな姿は圧巻。 天井画の「白龍図」は前田青邨の監修で日本画家守屋多々志が描いたもの。 佛心と書かれた大きな屏風。 力強い作品を生み出し続け、「天使の書家」とも呼ばれるダウン症の書家、金澤翔子さん(30)の書展「心」が16日、鎌倉市山ノ内の円覚寺で始まった。同寺は金澤家の菩提寺(ぼだいじ)で、この日は52歳で亡くなった父・裕さんの十七回忌。翔子さんは席上揮毫(きごう)で、心を込めて「佛心(ぶっしん)」と書き上げた。参拝者ら約200人が見つめる中、1メートル数十センチ四方の紙2枚に書を書き上げ、「元気とハッピーと感動を、心を込めて書きました」と笑顔で話したと 神奈川新聞が報道。 居士林。在家修行者のための専門道場。「居士」とは一般在家の禅の修行者を指すと。妙香池(みょうこうち)。妙香池は、方丈の後ろ側、正続院(舎利殿)の入口下の放生池。夢窓疎石の作庭と。1978年(昭和53年)に江戸時代の絵図に基づいた大改修が行われ、岩盤を景観の中心として復元。露出した岩は「虎頭岩」と呼ばれ、波浪の浸食に模して造られているとのこと。舎利殿(国宝)。円覚寺の舎利殿は、当初のものは弘安八年 (1285) の頃 または 延慶二年 (1309) に建立されたと。 再三火災がありましたが、なかでも永禄六年 (1563) には円覚寺が全焼。復興に当たって、舎利殿として 鎌倉尼五山の一つであった大平寺の仏殿を、天正 (元年は1573) のころに移築したとのこと。選仏場(せんぶつじょう)。元禄12年(1699年)建立の茅葺き屋根の建物。坐禅道場。内部には薬師如来立像(南北朝時代)を安置する。仏殿が再建されるまでは、この堂が仏殿を兼ねていたと。 松嶺院(しょうれいいん)。第150世叔悦禅懌(しゅくえつぜんえき)の塔所。本尊は釈迦如来。もとの不閑軒。観光的には牡丹の名所として知られ、開高健(作家)、田中絹代(女優)、佐田啓二(俳優)など著名人の墓があることでも知られる。有島武郎はこの寺にしばしば逗留し、『或る女』などを書いた。寺内は通常は非公開だが例年春と秋に期日を限って公開されると。 桂昌庵(けいしょうあん)。桂昌庵は、第四十九世承先道欽(しょうせんどうきん)の塔所。本尊は矢柄地蔵。木造十王像が祀られていることから「十王堂」または「閻魔堂」とも呼ばれ、十王蔵像は、鎌倉十橋の一つ十王堂橋付近にあった十王堂に安置されていたものと。寺務所で御朱印を戴く。 鎌倉二十四地蔵尊【南無地蔵尊】 萬年山 正續院。総門越しの額縁に入った緑の光景。 そして階段を下り北鎌倉駅に向かう。
2016.07.26
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『鎌倉散策 目次』👈リンク亀ヶ谷切り通しの峠を越え、浄智寺(じょうちじ)に到着。浄智寺は、神奈川県鎌倉市山ノ内にある禅宗の寺院。臨済宗円覚寺派に属する。鎌倉五山第4位。山号を金宝山(きんぽうざん)。鎌倉五山とは建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺。鎌倉五山とは、鎌倉時代に中国の五山制度にならって鎌倉の禅寺に設けられた五大官寺のこと。北条氏は、南宋にならい五山制度を導入、鎌倉の 主な禅刹を五山と呼ぶようになり、鎌倉幕府滅亡後の室町初期には鎌倉・京都それぞれに五山が定められ、それに次ぐ十刹と緒山が選ばれこの制度が定着したと。太鼓橋。そして奥に見えているのが、鎌倉十井のひとつに数えられる甘露の井。先へ進むとすぐに浄智寺の総門が見えて来た。 総門に掲げられた右から「寶所在近」という文字。そのまま読めば「寶のある所は近くに在る」ということだが、「寶所」とは悟りの世界の彼岸のこと。すなわち「彼岸はそう遠いところにあるものではない。立派な僧侶になるための努力をせよ」という修行僧へのメッセージなのだと。五代執権北条時頼の三男宗政の菩提を弔うため、夫人とその子・師時が創建(宗政は師時の父)。開山に招かれたのは、南洲宏海(なんしゅうこうかい)であったが、任が重いとして、師の大休正念(だいきゅう しょうねん)を迎えて入仏供養を行い、既に世を去っていた師の兀菴普寧(ごったんふねい)を開山としたことから、三人の名が連ねられている。兀菴(ごったん)はよく揉め事を起こし、「ゴタゴタ」の語源となった和尚とのこと。 浄智寺の山門は、中国式鐘楼門といわれる珍しい様式の門。花頭窓がある二階には梵鐘が吊るされている。本尊の三世仏を安置する曇華殿(どんげでん)と呼ばれる仏殿。 安置されている本尊は、「三世仏坐像」という三人の仏様。阿弥陀・釈迦・弥勒の三如来は、それぞれ過去・現在・未来の三世を表しているのだと。 仏殿の横に建っている平和塔。 コウヤマキ、鎌倉市指定天然記念物。樹齢不明と。 浄智寺の奥にある「やぐら」と呼ばれる洞穴墓所。 「やぐら」がここにも。横井戸の入口は苔むしていた。 三体の狸の置き物がぽつりと置かれていた。 布袋様に会うためにトンネルをくぐる。やぐらの中の観音様。 墓地の前を更に進む。境内奥の、洞穴の中に立っている布袋さまは、「鎌倉・江の島七福神めぐり」の布袋和尚(ほていおしょう)。「布袋尊(ほていさん)のお腹(おなか)をなでて上げて下さい。元気がもらえます。」と書いてあった。すなわち、お腹をさするとご利益があるとされ、皆が触っていくので、お腹のあたりが、黒光り。 円楽師匠も負けそうな黒さ。布袋様が指差しているのは『幸せは、あなたのすぐそば、すぐそこにいるよ』という意味であるのだと。布袋様の後ろの石仏。弁天様?弥勒様?観音様いやマリア様のような・・・・・・。私も忘れないでと静かに訴えていました。浄智寺書院入口。書院の部屋越しの庭園の見事な光景。 鎌倉・江の島七福神【布袋尊】の御朱印を戴きました。 そして帰路の総門を寺の内側から。
2016.07.25
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『鎌倉散策 目次』👈リンク寿福寺を後にし海蔵寺に向かうと左手に英勝寺(えいしょうじ)の惣門 が現れた。 英勝寺は、山号は東光山。鎌倉にある唯一の尼寺(浄土宗)。開基は英勝院尼。英勝院尼は、太田道灌の子孫で、徳川家康に仕え「戦には必ず勝利をもたらした」ので「お勝の方」と呼ばれ、家康の命により水戸家初代の徳川頼房の養母となった女性とのこと。「英勝寺(えいしょうじ)初期の江戸城を築城した太田道灌の子孫で、徳川家康に仕えたお梶の方(英勝院)が道灌の屋敷跡に建てた尼寺です。お梶の方が一緒に行くと戦いに勝利したことから、改名してお勝という名になったそうです。お勝の方は、水戸徳川家の初代頼房の養母であったことから代々水戸家の姫が住職を務めています。江戸時代は水戸御殿と呼ばれたほど格式が高く、総門には三葉葵の紋を掲げ、さながら武家屋敷のような境内でした。仏殿、祠堂、唐門、鐘楼は江戸時代初期の建築で、これだけよくそろい、当時のままで残っている寺は少なく貴重です。 ● 宗 派:浄土宗 ● 山号寺号:東光山英勝寺 ● 建 立:寛永13年(1636) ● 開 基:英勝院尼」英勝寺の道路沿いにある、江戸城を築いたことでも知られている太田道灌屋敷跡の石碑。 『此の地は武略文藻兼備へ忝くも 武蔵野は萱原の野と聞きしかどかかる言葉の花もあるかな テフ叡感にさえ預りたる道灌太田持資が江戸築城前の邸址なり 寛永十一年今の英勝寺と為る其の創立者水戸藩祖頼房准母英勝院は道灌の嫡流太田康資の女なるより晩年将軍家光より特に此の地を授りて之に住するに至れるなり 孤鞍雨を衝いて茅茨を叩く少女為に遣る花一枝 の詩趣ある逸話は道灌が壮年猶此に在りし日に於て演ぜられし所のものなり (鎌倉市青年團)』【http://www.ktmchi.com/2006/0315_ES_01.html】よりこれは英勝寺の近くにある阿仏尼(あぶつに)の墓。阿仏尼は、鎌倉時代中期の女流歌人で十六夜日記(いざよいにっき)の作者。 内容に所領紛争の解決のための訴訟を扱い、また女性の京都から鎌倉への道中の紀行を書くなど、他の女流日記とは大きく趣きを異としている。鎌倉時代の所領紛争の実相を当事者の側から伝える資料としても貴重とのこと。稲荷大明神。 「お稲荷様世にお稲荷様と申し上げている稲荷神社は、倉稲魂神(うがのみたまのかみ)をお祭りしたもので、今から約1300年の昔 和銅4年の2月の初午の日に、京都の伏見に稲荷神社が鎮座したのが始まりです。この神は稲がなるイナリの別名が示すように、五穀の生育やすべての産業を育成する広大な御神徳のある神ですからあらゆる人々の信仰をうけ全国各地の神社や邸内に祭られています。鎌倉で由緒ある稲荷は隠里稲荷で、鎌倉風土記によると源頼朝が伊豆の蛭が小島にいたとき病の床につき三晩続けて同じ白ひげの老人の夢を見ました。その老人の言うとおりに薬を飲みますと病はなおり、これが縁で幕府を開くことが出来たということです。この白ひげ老人が穏里稲荷の化身であったということです。お稲荷様は大切にお祭りしましょう。 英勝寺」岩船地蔵堂。源頼朝の娘大姫の守り本尊といわれる岩船地蔵が祀られていますが、こちらも海蔵寺が管理しているとのこと。「岩船地蔵堂(いわふねじぞうどう)亀ヶ谷辻に建つこの堂は、古くから頼朝の娘大姫を供養する地蔵堂と言い伝えられてきました。木造地蔵尊の胎内の銘札にも『大日本国相陽鎌倉扇谷村岩船之地蔵菩薩者當時大将軍右大臣頼朝公御息女之守本尊也』との記述があり、続けて元禄3年に堂を再建し、あらたに本像を造立した旨が記されています。『北条九代記』にも、許婚との仲を裂かれた姫が傷心のうちに亡くなったこと、哀れな死を悼む北条、三浦、梶原など多くの人々が、この谷に野辺送りしたことが記されています。このたび堂を再建し、本仏石造地蔵尊を堂奥に、今なお、ほのかに虹をさす木造地蔵尊を前立像として安置し、供養いたしました。心ある方は、どうぞご供養の合掌をなさって、お通りください。 平成13年11月 吉日 海藏寺」緩やかな坂道を上り、海蔵寺入口に漸く到着。 右手にはあった底脱の井(そこぬけのい)。名前の由来は室町期に扇谷上杉家の尼が水を汲んだ時に桶の底が抜けて悟りが開け、『賤の女がいだく桶の底抜けてひた身にかかる有明の月』と言う唄を読んだからとも鎌倉時代中期に安達泰盛の娘がやはり水を汲んだ時に桶の底が抜けて、『千代能がいただく桶の底抜けて水もたまらねば月もやどらじ』と詠んだ事にちなむとも。心の底が抜けて、わだかまりがとけ、悟りが開けたという解脱の歌と。中央に金子一峰の句碑 「十六の井その名所やをほろ月」「底脱の井(そこぬけのい)この井戸は、鎌倉十井の一つです。中世の武将の安達泰盛の娘・千代能が、ここに水を汲みに来た時、水桶の底がすっぽり抜けたため、「千代能がいただく桶の底脱けて、水たまらねば月もやどらず」とうたったことから、この名がついたといわれています。井戸の底ではなく、心の底が抜けてわだかまりが解け、悟りが開けたという投機(解脱)の歌です。 平成11年12月」海蔵寺は臨済宗建長寺派の寺。この寺は、建長五年(1253)に鎌倉幕府六代将軍宗尊親王の命によって、藤原仲能(道知禅師)が願主となって、七堂伽藍の大寺を建立したが元弘三年(1333)5月、鎌倉滅亡の際の兵火によって全焼。室町時代の応永元年(1394)になって、関東菅領・足利氏満の命により執事の山内上杉憲定が再興。薬師如来を本尊とする大寺で盛時には谷戸一帯に塔頭が立ち並ぶ程であったが、今はことごとく廃絶。本尊は薬師如来(胎内に啼薬師を納めている)。 「海蔵寺(かいぞうじ)鎌倉時代、七堂伽藍を持つ規模の大きな寺があったと伝えられていますが、鎌倉幕府滅亡時に焼失し、その後、応永元年(1394)に鎌倉公方足利氏満の命で、上杉氏定が心昭空外を招いて再建され、扇ガ谷上杉氏の保護を受けて栄えました。この寺には多くの言い伝えがあります。空外は「那須の殺生石」の話が有名です。仏殿の薬師如来坐像は「啼薬師」「児護薬師」といわれ、胎内に仏面を収めており、啼薬師伝説があります。門前には、「千代能が いただく桶の 底脱けて 水たまらねば 月もやどらじ」と歌われたと伝えられる「底脱の井」や、鎌倉時代の遺跡である「十六の井」もあり、水の寺といわれています。 ● 宗 派:臨済宗建長寺派 ● 山号寺号:扇谷山海蔵寺 ● 建 立:応永元年(1394) ● 開 山:心昭空外(源翁禅師)」「文学案内板海蔵寺は、臨済宗建長寺派に属し、開山は心昭空外。足利氏満の命により、上杉氏定が建立したと伝えられています。寺の入り口右手には、鎌倉十井の一つ「底脱の井」があり、本堂左手道筋の崖下には、鎌倉期様式のやぐら(洞穴)に清水をたたえた「十六の井」があります。ここでは境内の文学ゆかりの事柄についてご案内いたします。〇 金子一峰句碑(十六の井戸前) 十六の井その名所やをほろ月 一峰 (昭和6年4月建立)〇 「十六の井」を詠んだ歌に、歌碑はないが、四賀光子の次の歌もある。 錠あけて外の光のさし入れば 古井の水の匂ひたちくる 四賀光子 (歌集「朝月」より)〇 清水基吉句碑吉(山門横) 侘び住めバ八方の蟲四方の露 基吉 (昭和58年8月、日矢俳句会建立)〇 底脱の井(又は無着如大)歌碑(底脱の井戸横) 千代能がいただく桶の底ぬけて 水たまらねば月もやどらず (明治27年5月建立)詳細は鎌倉文学館にお尋ねください 鎌倉市教育委員会、鎌倉文学館」山門に向かう階段を上がると、この寺で人気の萩が左右からぎっしりと。既にピンクの花が開花を始めていた。 山門の扁額「扇谷山」。正面に龍護殿とよばれる比較的小さな本堂があり、開山の心昭空外坐像が祀られています。「本堂」。「本堂内陣」「屏風」。左手には、薬師堂と呼ばれる仏殿が。 薬師堂の中央には、本尊の薬師如来坐像と両脇に、向かって右手に日光菩薩、左手に月光菩薩像が。そしてその両側に十二神将像も。海蔵寺境内の裏山沿いに、鎌倉時代の「やぐら」が。やぐらには五輪塔や武士の墓が並んでいた。 半夏生の花の集落。 やぐらの中に小さな鳥居も。 「本堂」裏の庭園は非公開。庭園は現住職の企画であると。庫裏から脇門を見る。 庫裏に御朱印を戴きに行く。庫裏玄関には、『ふたらくの ちかひもひろき うめがやつ いろかおもなし のりのすがたそ』と書かれた御詠歌?が掲げられていた。鎌倉二十四地蔵15番【岩船地蔵尊】 の御朱印。そして鎌倉十三仏7番【薬師如来】の御朱印も戴きました。寿福寺と異なり、気持ちよく二種類の御朱印を下さったのです。鐘楼。 脇門より境内を後にする。 海蔵寺には、もうひとつの鎌倉十井「十六ノ井」があり、それを見に脇道を進む。岩穴をくぐりました。十六ノ井は、岩のがけの中に掘られた部屋の中に。直径70cm、深さ50cmほどの穴が16個並び、きれいな水が湧いていました。中央の像は観音菩薩、その下の小さな像は弘法大師とのこと。海蔵寺を後にし、来た道を戻り亀ヶ谷切り通し方面に歩を進めると、大乗山薬王寺入り口の角に石碑が。 参道入り口の門前法界塔。「南無妙法蓮華経法界」?と刻まれていた。薬王寺は日蓮宗の寺。本尊は久遠本師釈迦牟尼仏 「薬王寺(やくおうじ)もとは真言宗梅嶺山夜光寺と称していました。日像上人(日蓮の孫弟子)が住職と論難の末、日蓮宗に改宗させ、薬王寺に改称したと伝えられています。徳川三代将軍家光の弟、駿河大納言忠長公の供養塔や、松山城主蒲生忠知公(家康の孫)の正室と息女の墓所があり、徳川・蒲生家と縁が深く寺紋に三葉葵が用いられるなど格式の高い寺でした。明治初期の廃仏毀釈により荒廃しましたが、後に日振、日照が再興に尽力し現山容を整えました。本堂正面の日蓮坐像は、第十一代将軍家斉公の命により幕府が造立、説法形の口を開けた珍しい像です。 ● 宗 派:日蓮宗 ● 山号寺号:大乗山薬王寺 ● 建 立:永仁元年(1293) ● 開 山:日像上人」「本堂」を正面から。「駿河大納言徳川忠長公供養塔」「駿河大納言徳川忠長公供養塔駿河大納言徳川忠長公(三代将軍 家光公弟)は、粗暴な性格を理由に高崎に幽閉されたのち、28才で自刃せられ所領も没収された。悲歎やるかたない奥方 松孝院殿(織田信長 次男信雄の息女)は、時の当山三世恵眼院日珖上人に懇願し、悲惨な最期を遂げた夫君忠長公の供養を法華経により営み追善供養の為に当供養塔を建立した。 昭和49年4月 鎌倉市文化財指定」手前の「祈珠之塚』は身につけていた念珠を供養し大自然にお返しするため建立された念珠の供養塔であると。さしのべさん (本名 毒消し薬王菩薩)かのうすい(叶水)祈珠之塚「本堂」「扁額」は「大乗山」。「内陣」。「一蓮観音廟」は動物たちの供養碑「動物たちの供養碑「一蓮観音廟」われわれ人間の 食として命を ありがとう 進歩のために命を ありがとう 身体を支えてくれて ありがとう 家族として癒しを ありがとうこの碑は人間の為に尽くしてくれたすべての動物たちに感謝し慰霊をするための碑です。来世は霊山浄土で同じ蓮華の上に生まれ合わせられますよう家族たちはここに眠れます日蓮大聖人第737遠忌 御報恩会式之砌 平成30年11月3日 第53世 大埜 慈誠 」観世音菩薩を祀る「釈迦堂」「鐘楼」が眼下に。鎌倉独特の「やぐら」には小さな石塔やぐらの中に座る「永代供養墓」「法界萬霊」「源氏山」方面に向かう「亀ヶ谷坂」を歩く。「鎌倉七口」と言われる場所の一つで、いわゆる『切り通し』。しかし思ったほど急な坂道ではなかった。「田中智学獅子王文庫趾」と刻まれた石碑。明治期から昭和初期にかけての宗教家だとか。神社の石碑で良く見かける「八紘一宇」と言う言葉を作り出した人物と。 亀ヶ谷切り通しの途中右手にある高級住宅入り口。 しかし切り通しではなくミニトンネル。この奥にはマンション扇ガ谷鎌倉コートハウスがあって、関係者以外進入禁止の立て看が。亀ヶ谷切り通しは鎌倉七切通しのひとつ。建長寺、円覚寺などの大寺院が建立された山ノ内と亀ヶ谷(現在の扇ガ谷)を結ぶ重要な道として13世紀中頃には整備されていたと。切り通しの最高地点の峠が見えて来た。 切通し道の頂部付近では切通し壁の岩が露出していて、これぞ鎌倉切通といった趣が。そして下り坂の左側岩壁を背にして立つ六地蔵像。そして亀ヶ谷切り通しを制覇し、長寿寺の横に出たのであった。長寿寺は足利尊氏の四男で、初代鎌倉公方の足利基氏の創建の寺。山門の扉が閉じられており、普段は非公開の寺。 拝観は春(4月~6月)と秋(10月~11月)の週末限定で公開を行っている模様。時間は10~15時、写真撮影を目的とする拝観は禁止と。
2016.07.24
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『鎌倉散策 目次』👈リンク長谷寺からは再び江ノ電に乗り鎌倉駅に戻るそして鎌倉駅西口から歩いて「寿福寺~英勝寺~海蔵寺」と徒歩で巡る。まずは寿福寺。「亀谷山 寿福 金剛禅寺」の銘のある石碑の後ろに赤塗りの惣門が。寿福寺惣門前に立っている源氏山の碑。「源氏山は初め武庫(むこ)山と云ひ 亀ヶ谷(かめがやつ)の中央にある形勝の地なるを以て 又亀谷山とも称せり 源頼義 義家父子 奥州征伐の時 此山に旗を立てたるより 或は旗立山と名付く 山の麓寿福寺境内附近は 爾来(以後)源氏世々の邸宅たりし地なりと云ふ 源氏山の名称は之に起因せるか 旗竿(さお)を建てしと云ふ故址(こし:旧跡)は今尚ほあり」内容は「源氏山はその前は武庫(むこ)山と言っており、また亀ヶ谷(かめがやつ)の中央にあって、形が勝れているため亀谷(かめがやつ)山とも言っておりました。源頼義(ともよし:988-1075)、源義家(よしいえ:1039-1106)の親子が東北地方に征伐(せいばつ)に行く時、 この山に旗を立てたことにより、旗立山ともいいました。 山の麓(ふもと)の寿福(じゅふく)寺付近は、昔から代々源氏の邸宅であったと伝えられています。源氏山の名前はそこからきたのかも知れません。 旗竿(はたさお)を建てたと伝えられる跡が今なお残っております。」と。寿福寺惣門脇の「実朝をしのぶ碑」(書は故平山郁夫1992) 。寺の裏には源実朝の墓地と伝えられている五輪塔があるのです。「源実朝(1192 ~ 1219)建久3年、源頼朝の次男として誕生12歳で鎌倉幕府第三代将軍となる。蹴鞠、管弦、和歌に秀でた文化人で金槐和歌集は有名である。寿福寺との関係は深く、開山栄西禅師が実朝に献上した喫茶養生記をはじめとする由縁の品々も、この寺に伝えられている」寿福寺は臨済宗建長寺派の寺。この寺は鎌倉五山の第三位。この地は、昔、奥州征伐に向かう源頼義が勝利を祈願した云われる源氏山を背にした源氏家父祖伝来の地である。また源頼朝の父・義朝の居館があった所。頼朝が落馬が原因で建久10年(1199)に亡くなると妻・北条政子が夫の菩提を弔うため,正治二年(1200)に明庵栄西を招いて義朝ゆかりの土地に創建した。墓地には源実朝、北条政子の墓と伝えられる五輪塔がある。本尊は宝冠釈迦如来。裏山の墓地には明治時代の外部大臣・陸奥宗光や俳人高浜虚子、作家・大佛次郎などの有名人の墓が。 「寿福寺(じゅふくじ)源頼朝が没した翌年、妻の北条政子が明菴栄西を開山に招いて建立した鎌倉五山第三位の寺です。鎌倉幕府三代将軍の源実朝も、再三参詣しました。栄西は日本に初めて臨済宗を伝えた禅僧で、『喫茶養生記』を著すなど、お茶を飲む習慣を日本に伝えたことでも知られています。裏山の「やぐら」(中世の横穴墳墓)には、源実朝、母・政子の墓といわれる五輪塔があります。墓地には俳人・高浜虚子や作家・大佛次郎などが眠っています。 ● 宗 派:臨済宗建長寺派 ● 山号寺号:亀谷山壽福金剛禅寺 ● 建 立:正治2年(1200) ● 開 山:明菴栄西」寿福寺 境内図。 【http://www.kcn-net.org/kokenchiku/jufukuji/jufukuji.html】より寿福寺惣門から中門を望む。惣門から中門まで60~70メートルの石畳は両側の杉林に挟まれ、閑静な禅寺の雰囲気。「国指定史跡「寿福寺境内 (じゅふくじけいだい) 」 昭和41年3月22日 指定亀谷山寿福金剛禅寺(臨済宗建長寺派)は、正治2年(1200)に頼朝夫人政子が、明庵栄西禅師を開山として建てたもので、鎌倉五山の第三位の寺であります。この地は、もと源頼朝の父義朝の館があったといわれ、鎌倉入りした源頼朝はここに館を造ろうとしましたが、岡崎義実が義朝の菩提を弔うお堂を建てていたのでやめたといわれています。墓地にあるやぐらには、源実朝、北条政子の墓と伝わる五輪塔が二基あります。現在伽藍は外門、山門、仏殿、鐘楼、庫裡などですが、外門から山門に至る敷石道は静寂感が漂い、また仏殿前に四株の柏槙があり、往時のおもかげを残しています。 平成8年3月30日」突き当たったところにある中門の奥にある仏殿。中門より内は一般人非公開の模様。右手に折れ、庫裏に向かう。庫裏にて鎌倉二十四地蔵尊・延命地蔵の御朱印を戴く。併せて鎌倉五山の御朱印もお願いしたが、一回に一御朱印のみとのこと。鐘楼。かつての寿福寺の梵鐘は、中国から伝来した「いぼなし鐘」と呼ばれたものだったと。しかし、1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原攻めが起こると、後北条氏(小田原北条氏)によって取り上げられ、鉄砲の弾に使われてしまったと伝えられていると。「いぼなし鐘」は、栄西が宋より持ち帰ったものとも伝えられているのだと。中門の前を左手に曲がり、すぐ右に曲がって仏殿のある敷地に沿って奥にすすむと墓地が。ここには、"やぐら"といわれる岩を掘った空間に北条政子や源実朝の供養塔があり、大仏次郎、高浜虚子などの著名人の墓も。北条政子慰霊塔。 三代将軍 源実朝の墓俳人・高浜虚子の墓そして帰路には大仏次郎の墓地も。
2016.07.22
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『鎌倉散策 目次』👈リンク長谷寺はあじさい(紫陽花)の花でも人気の寺。あじさい小路MAPを片手に散策開始。 あじさい小路の表示板が。あじさい眺望散策路では40種類約2500株のあじさいが鑑賞できると。大野万木の歌碑。「観音の慈顔尊し 春の雨」。大野伴睦(俳号:大野万木)は戦後活躍した政治家。 先手観音菩薩。 あじさい小路からの由比ヶ浜海岸。 花の峠は越えていたが、まだまだ様々な色のアジサイが。白のアジサイ、これから色を変えるのであろうか?アガパンサスの青い花も。 小さな石仏が草陰に。 こちらは青いアジサイに囲まれて。 ここにも多くの石仏が。観音堂のある境内まで下り、階段に向かうと右手の藤棚の下にミスト・シャワーが。 私もしばし涼を取ったのです。階段の降口の横には私に似たお腹の石像が待っていてくれました。布袋様 (長谷寺は江ノ島七福神では大黒様)。 「和み地蔵」、思わずほほえんでしまいます。 出世大黒天堂。大黒様を撫でるとお金が溜まるのだと。皆に撫でられて顔も膝も手も光っていました。 書院の庭の美しい枯山水庭園。書院は写経道場として平成25年9月に竣工。毎日写経・写仏が出来るのだと。 不動明王座像。弁天石像。 弁天窟入口。下の境内の放生池を過ぎた辺りに、弘法大師参籠の地と伝わる弁天窟があり、その名にちなみ窟内壁面には弁財天とその眷属である十六童子が彫られているほか、弁財天と同じ神様であるとされる民間信仰の宇賀神(人頭蛇身)もお祀りされていた。弁天窟十六童子 一覧。 善財童子。 弁財天。 腰をかがめて洞窟の先へ進んだのです。 小さな弁天様の人形に願いを込めて奉納できます。ひとつひとつにそれぞれの願いが・・・。 境内には左に妙智池、右に放生池とふたつの池が並んでいた。紫陽花に負けじと花菖蒲が池を彩っていた。そして最近竣工した『観音ミュージアム』 は上の観音堂の横にあることを聴き再び階段を上り直して到着。2015年10月18日(日)正午 オープン。シアターに映し出された木造 十一面観音菩薩立像。 ズーム画面。 十一面観音菩薩立像のある部屋に観音菩薩の化身とされる三十三の姿、観音三十三応現身立像が立ち並ぶ展示が照明の効果もあってこの世ならぬ世界が広がる空間となっていた。そして帰り道の最後に鎌倉・江の島七福神の【大黒天】の御朱印を戴いたのです。
2016.07.21
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『鎌倉散策 目次』👈リンク御霊神社の後は近くにある長谷寺へ向かう。鎌倉・御霊小路(ごりょうこうじ)を歩く。御霊小路は、御霊神社の脇から収玄寺の脇を通り、長谷寺参道の入口に繋がる長谷通り(県道32号藤沢鎌倉線)に出る小路のこと。長谷寺参道に入ると鎌倉オルゴール堂が右手に。 長谷寺山門が正面に。 長谷寺は観音山の裾野と中腹に分かれた2つの境内を持ち、下境内は回遊式の庭園を持つ浄土宗の寺院。境内にはさまざまな花木が植えられ、一年を通して絶えず多くの花が。また、境内からは海を望むこともでき、山と海と両方の美しさを楽しめるのです。山門の前に十一面観音とお地蔵さんが。 山門の大きな赤提灯は長谷寺のシンボルで、記念撮影には最適の場所。飲み屋の赤提灯より流石にかなり大きい。長谷寺境内MAP。境内に入り階段を上って観音堂に向かう。 観音堂への石段途中の良縁地蔵。いたるところに和み地蔵が。眺めているだけで心和む時間。地蔵堂手前の右手には奪衣婆(だつえば)と懸衣爺(けんねおう)が座っている「卍池」が。 なるほど池の形が卍の形。千体地蔵。水子や先亡諸霊のために奉納されたもの。3月と9月の18日には彼岸会が行われると。 不幸にしてこの世に生まれることのできなかった子供たちのために、無数のお地蔵様が供えられていた。更に階段を上がると鐘楼が。 梵鐘は文永元年(1264)鋳造の銘を持つ、鎌倉でも3番目に古いと。昭和28年に国の重要文化財に指定され、現在は宝物館において収蔵展示中。かきがら稲荷。ここ長谷寺の十一面観音像は、721年(養老5年)、徳道の願いによって彫られた二体の観音像のうちの一つ。一体は奈良の長谷寺に安置されたが、もう一体は有縁の地で人々を救うようにと、行基によって海に投げ入れられたのだと。それから15年後、体に付着した「かきがら」の導きで、三浦半島の長井の浦に流れ着いた観音像。間もなく鎌倉に移されたのだと伝えられていると。鐘楼横のこの「かきがら稲荷」は、「観音さまのお導きがあるように」と祀られたもの。阿弥陀堂。鎌倉幕府初代将軍である源頼朝が、自身の42歳の厄除けのために建立したものと。 阿弥陀如来像を外から望遠で。 観音堂。その創建は本尊である長谷観音流着の縁起に由来し、天平8年(736)まで遡ると。当山が鎌倉でも有数の古寺に数えられる所以。その後、関東大震災による長谷寺の罹災は甚だしく、旧来の建物は止む無く建替えとなり、災害から本尊をお守りするため、鉄筋による再建が進められた。そして、昭和61年、罹災から実に60年以上の歳月を費やし現在の堂宇は完成したと。本尊である十一面観音像は、錫杖を右手に携え、岩座に立つ独特の像容。 【http://www.hasedera.jp/about/】より転載。久米正雄胸像と右手に聖観世音菩薩尊像。 久米正雄は、1934年(昭和9年)から始まった「鎌倉カーニバル」の開催に尽力し、1936年(昭和11年)には、「鎌倉ペンクラブ」を結成して初代会長を務めた。関東大震災時には長谷にいて、長谷寺に避難。大地震の模様を『鎌倉震災記』に記した人物。長谷寺展望台から由比ヶ浜方面を望む。遠く相模湾の先に逗子マリーナが。 石造釈迦如来坐像のまわりの四天王。周囲に色鮮やかなあじさいの花が。 四天王はそれぞれ守る位置が決まっていると。持国天:東 増長天:南広目天:西 多聞天:北。持国天は右手に剣 。広目天。右手に筆、左手に巻物を持つ。 増長天。足下に邪鬼を踏みつけ、左手に戟(げき)を持ち、右手を腰に当てた姿。石造釈迦如来坐像は青いあじさいの花を抱いていた。仏足石。釈迦の足跡を石に刻み信仰の対象としたもの。大黒堂前に立つ石造聖観世音菩薩尊像。そしてこの下には高浜虚子の句が。経蔵。経蔵は一切経を収める建物。経蔵内にある「輪蔵」と呼ばれる回転式の書架を一回転させると、全ての経を読んだのと同じ功徳があるといわれている。ネパールに行った時、多くのネパール仏教寺院で廻したマニ車の巨大番の如し。現在は「輪蔵」保護のため、回転させることができるのは観音様の縁日である18日に限られているのだと。 経蔵脇の竹林が夏の風に揺れて、ここだけ涼しげ。
2016.07.20
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『鎌倉散策 目次』👈リンクおんめさま(大巧寺)で安産祈願の御札を戴いた後は、江ノ電鎌倉駅まで戻る。そして長谷駅に向かいました。長谷駅から徒歩5分ほどで目的地の『御霊神社(ごりょうじんじゃ)』手前に到着。そしてこの角を右折。鎌倉市にはこの名前をもつ神社が2か所あるが、ここは鎌倉市坂ノ下にある、通称(鎌倉)権五郎神社((かまくら)ごんごろうじんじゃ)として知られている神社。江ノ電の小さな踏切と御霊神社の大鳥居が同時に見えて来た。平安時代後期創立の古社。鎌倉・湘南地帯を開拓、鎌倉権之守として「鎌倉武士団」を率いた領主・鎌倉権五郎景政公を祀る神社。踏切を渡ると直ぐに大鳥居が。現在の大鳥居は、2011年(平成23年)に建て替えられたもの。鳥居のすぐ前を江ノ電が走る珍しい神社。江ノ電の踏切が一の鳥居?そして江ノ電の窓から大鳥居が手の届くほどの近さ。右手には社務所。 境内には、この神社の祭神に関係のある神や、この土地に祀られていた神を祀る摂社や、それ以外の神を祀る多くの末社が鎮座していた。こちらは稲荷神社。伏見稲荷大社より勧請。食物、とりわけ稲の生産と豊穣を司る宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)を祀る。 須佐之男命(すさのおのみこと) と神大市比売(かむおおいちひめ)の子であり、日本にて最大の神社の数を誇る稲荷神社の代表的な神。お稲荷さんとして親しまれており、その呼び名を知らない人は少ない神様。秋葉神社(あきばじんじゃ)。火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を祀る。火之迦具土神はその名の通り火の神。明治初期にここ坂ノ下集落が大火に見舞われ、大半が焼失した際に、静岡県浜松市の秋葉山本宮より火災鎮護を願って勧請したのだと。御霊神社 大鳥居と書かれた木札が立っていた。建て替えられる前の大鳥居は、1850年(嘉永3年)に建立され、1923年(大正12年)の関東大震災では、2本の石柱に「ひび」が入ったが倒壊は免れた。しかし、安全性を鑑み、新しい鳥居に建て替えられたのだと。かつての鳥居は、境内に大切に置かれていた。御霊神社の宝物庫には、鎌倉・江の島七福神の一つ福禄寿が安置されていた。福禄寿は、例大祭で行われる面掛行列(めんかけぎょうれつ)の福録の面にちなむもの。面掛行列は鎌倉権五郎景政の命日にあたる9月18日の御霊神社例大祭。神奈川県の無形民俗文化財に指定されているのだと。面掛行列の十人衆の面が全て置かれているとのこと。七福神と書かれた白い旗が宝物庫の手前両側に。 鎌倉市指定天然記念物 タブノキ(椨)。海岸近くに多く照葉樹林の代表的樹種のひとつで、各地の神社の「鎮守の森」によく大木として育っていると。樹高20m、推定樹齢350年に達し、冠状に広がった樹枝が見事。神奈川県選定「かながわの名木100選」にも。本殿への階段を上る。丁度、ニュージーランドからの撮影の一団が本堂前に。しばし、撮影終了を待つ。 かつて、鎌倉近辺には平氏の五家(鎌倉、梶原、村岡、長尾、大庭)があり、この五家の祖を祀る神社として五霊神社(御霊神社)が建てられたと。この五家の祭神としていたが、いつしか、武勇で名高い領主の鎌倉権五郎景政公一柱だけを祀るようになったとのこと。権五郎景政は、敵の矢を目に受けながらも奮戦したことから、目に御利益があると。近年は「紫陽花(あじさい)」が綺麗に咲き乱れる神社としてテレビなどでもよく取り上げられて人気の神社。軒下の垂木、彫刻、床下の木組み等が見事。弓立の松。鎌倉権五郎景政が領地を見廻る際に弓を立てかけたと伝わる松とのこと。 神輿舎。 御霊神社拝殿に向かって左側に。夫婦銀杏。樹齢400年ともいわれる古木。雌雄そろって聳え立ち、毎年多くの実を結ぶことから、夫婦円満・家内安全・子宝安産のシンボル。袂石、手玉石。 鎌倉権五郎景政が手玉にとって袂に入れたという石。袂石(右)約60kgと手玉石(左約105kg)。祖霊社(それいしゃ、みたまや)。日清・日露および第二次世界大戦で戦没した氏子の霊を祀る。 第六天社(だいろくてんしゃ)。 神による天地開闢の後、第六代の神、面足尊(おもだるのみこと)と訶志古泥神(かしこねのかみ)を祀ると。御嶽社(おんたけさん)。長野県にある御嶽神社の三神を祀ります。天地開闢、最初の天下造化を行った国常立尊(くにのとこたちのみこと)、日本の統治に力を尽くした大穴牟遅神(おおなむろのかみ)/大国主命(おおくにぬしのみこと)、国土経営の神、少名毘古那神(すくなひこなのかみ)の三神。 庚申塚(こうしんづか)。 石上神社(いそのかみじんぐう)。 海岸線近くが埋め立てられる前、海岸線はもっと御霊神社の近くにあった。そこにあった巨石によって舟の座礁が続いたため、その石を引き上げてその一部を祀ってあるのだと。金比羅杜(こんぴらさま)。海上安全の守護神、金比羅様を祀ります。 江ノ電とあじさいのBEST MIX。 鎌倉・江の島七福神 『福禄寿』 の御朱印を戴きました。
2016.07.19
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『鎌倉散策 目次』👈リンク長谷寺、鎌倉オルゴール堂を後にし、海蔵寺へ向かう。途中、道路左手の寿福寺の紅葉に眼を奪われた。 寿福寺の総門。寿福寺は臨済宗建長寺派の寺。この寺は鎌倉五山の第三位。この地は、昔、奥州征伐に向かう源頼義が勝利を祈願した云われる源氏山を背にした源氏家父祖伝来の地である。また源頼朝の父・義朝の居館があった所。源実朝、北条政子の墓と伝えられる五・・・扇ヶ谷のJR横須賀線ガード近く亀ヶ谷坂の入口に、源頼朝の娘大姫の守本尊を祀る岩船地蔵堂が。守本尊とされる石造地蔵尊(岩船地蔵)は、舟形光背をもつもので、岩船地蔵の名の由来となっているのだと。鎌倉武士の衣装を纏った二人の男性を発見。 海蔵寺前の紅葉道にたどり着く。紅葉道の脇の小川には、様々な色合いの落葉したモミジ葉が。 陽光を浴び輝く竹林の背景に赤の色が映えていた。 鐘楼。 海蔵寺本堂。海蔵寺は扇ガ谷(おうぎがやつ)にある臨済宗建長寺派の寺院。山号は扇谷山(せんこくざん)。本尊は薬師如来。 寺の裏手の岩を刳り貫いた洞の中には赤い鳥居が。そして天井からは多くのシダがぶら下がっていた。 再び鐘楼前の紅葉。 紅葉もすばらしいが、四季折々の花も美しい人気の扇ヶ谷最奥の寺。 門前にある底脱の井に浮かぶモミジ葉。安達泰盛の娘がここで水を汲むと桶の底が抜けてしまっったと。ここから悟りを得たため、この名となったとのこと。井戸の底ではなく、心の底が抜けて悟りが開けたというありがたい井戸であると。 人のいなくなった海蔵寺山門をこの時にと。 様々な色のモミジ葉の芸術作品。 海蔵寺を後にし、来た道を戻り 神奈川県立近代美術館鎌倉館に辿り着く。この美術館を眺めるのは、十数年?ぶり。平家池の紅葉。この平家池には四つの島が。そいて源氏池には三つの島が。これは源氏の発展を願う「産」と平家の滅亡を願う「死」をかけたものであったといわれていると。なるほど、またまた勉強になりました。 鎌倉八幡宮はかなりの参拝者がひっきりなしに。 旗上弁天社入り口の橋より。源氏池の鴨?。 何と言う樹木であろうか、紅葉の色の波動が見事。ハナノキ??源氏池に映り込んだ紅葉の姿も感動的。 太鼓橋の両側には橋が架けられているが、当初は左側の橋のみだったとのこと。太鼓橋の左側の池を「平家池」と呼ぶが、「平家を踏みつぶす」という意味で架けられた橋であったらしい。後に右側の橋も架けられたと。現在は柵で締め切られているが昭和時代までは自由に通行可能できたと。 こちらは黄葉。 参道の中央に一段高く造られたのが段葛で、若宮大路の造営と同じ時期に造られたものと。しかしこの日は工事中で立ち入り禁止中。 改修工事は、参道を支える石積みにたるみやひび割れが目立つようになったことや、大正初期の改修で植えられた桜の老化が進んだことから行われるもの。工事は2016年3月までの予定とのこと。昭和初頭の若宮大路の絵画を発見。 赤い太鼓橋近くの鎌倉彫り店の駐車場で見かけた大看板。突き当りに、三の鳥居と今は無き大イチョウが描かれているのです。杉養蜂所内では多くの観光客が試食中、もちろん私も。 そして小町通りを歩く。 そして鎌倉駅に到着。 横須賀線、東海道線、小田急線を乗り継ぎ、鎌倉散策を終了し帰宅したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2014.12.14
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『鎌倉散策 目次』👈リンク長男の結婚式の翌日は、妻と鎌倉散策・紅葉見物に行ってきました。やはり我々夫婦二人は「紅葉の時期」なのでしょうか。何故か紅葉が気になる二人なのです。長谷駅までは、江ノ電にて。海岸線に出ると江ノ島の姿が現れました。 そして長谷駅で下車。 長谷寺に向けて歩き出す。長谷寺入り口の交差点を左折。 鎌倉オルゴール堂。鎌倉市で唯一のオルゴール専門店。 長谷寺(はせでら)に到着。長谷寺は、浄土宗系統の寺院。山号を海光山、院号を慈照院と称し、長谷観音と呼ばれているのです。御本尊は十一面観音。山門の前には見事な老松が。山門に赤い提灯が掛かっていて長谷寺と書かれていました。そう言えば浅草観音の浅草寺にも雷門に赤い大きな提灯が掛かっています。 境内は紅葉の真っ盛り。 長谷寺の山門をくぐった先には、左に妙智池、右に放生池とふたつの池が。こちらは放生池。鎌倉の銀杏は今がピークの紅葉。 モミジの下には多くの観光客がカメラを空に向けて。 地蔵堂の近くには、卍池という小さな池が。「卍」(まんじ)は幸運のシンボルなのだと。たくさんの小さなお地蔵様の像が置かれていました。 千体地蔵と呼ばれているとのこと。観音堂。長谷寺のご本尊は木像の十一面観音菩薩立像。像高が9.18メートルもあり木像としては日本有数なもの。観音堂に一歩足を踏み入ると、その大きさに圧倒されたのです。上境内の見晴台よりの材木座海岸。きらきらと光る鎌倉の海にヨットが。 ズームすると葉山マリーナも見えました。鎌倉の長谷寺の四天王。手前の巻物をもっているのは広目天か? 「経蔵」の中に入る。 経蔵内の輪蔵を1回転させると、一切経(いっさいきょう)というありがたいお経を読んだのと同じ功徳があるといわれているのです。輪蔵を回してみたい欲求がありましたが、禁止とのことで、ここは我慢して「摩尼車」を回して来ました。上境内から宝物館の脇をさらに上へと眺望散策路を登る。手前が由比ヶ浜海岸で向こう側が材木座海岸。観音堂の屋根とモミジ。 かきがら稲荷。721年(養老5年)、徳道によって彫られ、行基によって海に流されたという長谷寺の十一面観音像は、体に付着した「かきがら」の導きで三浦半島の長井の浦に流れ着いたと伝えられている。阿弥陀堂の阿弥陀如来像。弁天堂 千手観音。和み地蔵。和み地蔵の笑顔をみていると、ほっとする気分にさせてくれたのです。まさに癒しのお地蔵さん。慈光殿・枯山水庭園そして長谷寺を後にして、再び鎌倉オルゴール堂内部に入る。 ステンドグラス風のランプ。京浜急行バスのレトロ調バス「京急りんどう」は鎌倉駅と大仏の間を運行。 ・・・つづく・・・
2014.12.13
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