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新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。さていきなり昨年の話で間抜けですが(^^;)、昨年のコンサートのまとめを書いてなかったので、書こうと思います。 まずはマーラーのコンサート。 -----------------------------------------------------------------------2番 エッティンガー/東フィル 4月4日 オーチャード 金/神奈川フィル 5月29日 神奈川県民ホール インバル/都響 6月19日 サントリー3番 インバル/都響 3月30日サントリー 同上 3月31日 サントリー 金/神奈川フィル 4月23日 横浜みなとみらい 斉藤/水星響 5月1日 東京文化会館 シュピーラー/PE0 8月7日 サントリー 尾高/札響 9月17日 キタラ 同上 9月18日キタラ ヤンソンス/コンセルトヘボウ 11月21日 ミューザ川崎 同上 11月22日サントリー (メータ/イスラエル 11月4日東京文化会館 バレーの伴奏:第4,5,6楽章) (カンプルラン/読響 11月29日サントリー ブリテン編曲による第2楽章のみ)5番 ビシュコフ/N響 2月13日 NHKホール 上岡/ヴッパータール 10月18日 サントリー6番 アシュケナージ/N響 6月17日 サントリー メッツマッハー/新日フィル 11月 6日 すみだトリフォニー7番 セーゲルスタム/読響 2月19日 サントリー 高関/新響 7月18日 東京芸術劇場8番 レナルト/東フィル 3月 4日 新宿文化センター大地 カンプルラン/読響 7月 8日 サントリー9番 大友/東響 2月14日 東京芸術劇場 ブロムシュテット/N響 4月10日 NHKホール ゲルギエフ/ロンドン響 12月 1日 サントリー10番 飯森/東響 1月30日 ミューザ川崎歌曲 藤村実穂子(メゾ)/リーガー(ピアノ) 11月11日 紀尾井ホール--------------------------------------------------------------------------------- 2010 年は3番を沢山聴けた年でした。ヤンソンス&コンセルトへボウのサントリー公演を筆頭として、インバルの3月31日公演や、札響の演奏会など、印象に残る 数々の3番を聴けました。しかもメータ&イスラエルによるベジャールのバレーの伴奏としての3番や、ブリテン編曲の第2楽章という、滅多に聴けない稀少な ものまで聴けて、うれしい限りでした。稀少といえば、10番全曲を飯森&東響で聴きました。演奏は、良くも悪くも優しいマーラーで、物足りなさはありましたが、やってくれるだけでもありがたいことです。(そういえば昨年秋にバルシャイ氏がなくなられましたね、御冥福をお祈りいたします。) 3 番以外ですばらしかったマーラーは、エッティンガー&東フィルの2番、ビシュコフ&N響の5番、セーゲルスタム&読響の7番、カンプルラン&読響の大地の 歌などです。エッティンガー以外は記事に書きそびれてしまいましたが、特にカンプルランの大地の歌は、読響の精妙な音と、エカテリーナ・グバノヴァさんと いうロシアのアルト歌手がすばらしい歌で、非常に聴き応えがあり大満足しました。それからこれも書きそびれてしまいましたが、2009年に 続いて紀尾井ホールでリサイタルを行った藤村実穂子さん。2009年はシューベルト、マーラー、ワーグナーで、2010年はシューマン、マーラー、ブラー ムスでした。2年ともマーラーが入っているのがうれしいところです。しかも今回のピアノは前回と違ってウォルフラム・リーガーさんでした。2003年に トーマス・ハンプソンによるオール・マーラー・リサイタルをサントリーで聴いたときに、このリーガーさんがピアノを弾いていて、本当にすばらしいピアノで 感激したことが強く印象に残っています。今回もこのリーガーさん、深い詩情をたたえたピアノで、藤村さんとともに、絶品の歌を聴かせてくれました。 2009年も素敵なリサイタルでしたが、今回はそれを上回る、すばらしいリーダーアーベントでした。2010年は大植、コバケンの両巨頭が マーラーをやらない、と思っていたら、コバケンは4月に自らの誕生日コンサートで復活を演奏したのでした。しかし僕がこの演奏会の存在を知ったのは比較的 遅くて、もはや都合をつけられず、聴けなかったのが残念でした。それ以外には僕の知る限りコバケンがマーラーを振ったのは、唯一おおみそかのジルベスター コンサートでカウントダウン演奏で復活の終楽章をやったくらいです。来年はもう少しマーラーをやってくれるとうれしいのですが。。。さて 2011年は、どんなマーラーが聴けるのでしょうか。大地の歌の演奏ラッシュが目立つなかで、なんといっても大植さんの大地の歌がはずせません。あと名古 屋のアマオケによるマーラー音楽祭というのが始まりますね。このすごいイベント、少しでも聴きに行きたいと思っています。
2011.01.02
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12月3日サントリーホール、ドレスデン聖十字架合唱団ほかによる、バッハのマタイ受難曲を聴きました。合唱、独唱、器楽、指揮、みなみなすばらしく、感動のひとときでした。ドレスデン聖十字架合唱団ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団指揮:ローデリッヒ・クライレ(聖十字架教会カントール)ソプラノ:ユッター・ベーネルトアルト:マルグリート・ファン・ライゼンテノール(福音史家):アンドレアス・ヴェラーバス(イエス):クラウス・メルテンスバス:ヘンリク・ベームバッハのマタイ受難曲。この音楽を初めて聴いたのは、タルコフスキーの映画「サクリファイス」の冒頭場面に流れるアリアでした。もう20年以上前、まだバッハの声楽曲にはほとんどなじみがない頃で、この音楽の意味がわからないばかりか、音楽自体にもそれほど心に響くものを感じませんでした。僕が一番最初にバッハのマタイを生で聴いたのは、その少し後の頃だったと思います。オーチャードホールで、ロッチュ指揮、聖トーマス教会合唱団ほかによる演奏会でした。マタイ受難曲をほとんど聴いたことがないまま、ともかくご当地の演奏だから聴いてみようくらいの気持ちでした。少年合唱のコラールの響きがとても美しかったです。でもその他のことは良く覚えていません。まだ当時の自分には、マタイを受容する準備が整っていなかった、ということです。その後、ガーディナー盤のCDを買い、少しずつマタイを聴きました。それでもなかなか僕にとってはなじみにくい音楽でした。大きな転機になったのは、90年代半ばに出版された礒山雅氏著の「マタイ受難曲」を買ったことです。とてもわかりやすく書かれたこの本を読みながら音楽を聴いていくことで、ようやくマタイの意味がわかり、音楽が少しずつ心に響いてくるようになりました。そしてマタイと言えばもう1冊、柳田邦男氏著の「犠牲 サクリファイス わが息子・脳死の11日」を丁度その頃に読んだことも、僕にとっては大きい体験でした。この本の中で重要な位置を占めるマタイ受難曲、その音楽の大きさ、深さを、マタイになじみつつあった僕は、漠然とながらも強く実感しました。この2冊の本との出会いがなかったら、マタイへの興味・共感を持つのにもっともっと時間がかかった事は間違いなく、その意味で僕にとって貴重な出会いでした。次にマタイを生で聴いたのは、2003年4月のバッハ・コレギウム・ジャパン。彼らのアメリカ・ツアー終了直後の凱旋公演として、カザルスホールでヨハネ受難曲、東京オペラシティでマタイ受難曲、カザルスホールでマタイ受難曲と、3日続けての演奏会が行われときでした。丁度このときは、僕自身の仕事が大きく変わったときで、自分にとっての大きな節目のときでした。そのときにこの演奏会を3日続けて聴いたことで、またこれから頑張って行こうという自分の気持ちの区切りにもなりました。その後、バッハ・コレギウム・ジャパンの定期会員になった関係で、彼らの演奏によるマタイを毎年聴くようになりました。一昨年には東京オペラシティで、聖トーマス教会合唱団ほかのマタイを、約20年振りに聴きました。回を重ねるたびにマタイの理解が深まる、かどうかはわかりませんが、マタイにだんだんと慣れ親しんできているのは確かです。信仰とは縁のない自分ですが、マタイの音楽の素晴らしさが、じわじわと体にしみてきています。そして今回聴いたドレスデン聖十字架合唱団ほかによるマタイ。飾らず、ひたむきな、素晴らしい音楽でした。自分のマタイ体験の中でも、格別に感動的なものでした。今回、親切に字幕があって、意味が分かりやすくて、良かったです。(バッハ・コレギウム・ジャパンの演奏会では字幕がありません。プログラムあるいは解説書などの日本語訳を見ながら聴けばわかるのですけど、それだとついつい手元ばかり見てしまいがちです。折角の演奏会なので演奏者も見ながら聴きたいと思う僕にとっては、字幕はやはり直感的に理解しやすくて、とても良いです。)アルトは、カウンターテナーでなく女声のアルトでした。カウンターテナーもいいですが、僕はこの曲のアリアは良いアルトで歌われるのが好きです。今回のアルト歌手は、少しこもった感じの独特な声質で、ちょっと神秘的で、この音楽にあっていて、とっても気に入りました。この人、マーラーの大地の歌のCDを録音しているそうで、聴いてみたいと思います。福音史家は、美声で、切々とした情感がこもっているかと思えば、ときに非常に劇的な迫力の表現もあり、熱唱にひきこまれました。イエスは、福音史家と対照的に、劇的な表現を抑え、静かな威厳と気品が保たれていて、とてもよかったです。そして少年合唱が、すばらしかったです。この合唱団は、なんと800年!の歴史を持ち、現在は9歳から19歳までの男子150名からなるということです。彼らだけでソプラノ、アルト、テノール、バスの全パートが歌われました。とりわけコラールの響きは、このような少年合唱で歌われると、もうなんとも言えない響きです。指揮の聖十字架教会カントールのクライレさんは、ゆったりしたテンポで、間合いをとって、音楽をじっくりとまとめてくれていました。こういうバッハ、僕はとても共感を覚えます。演奏終了後、残響が消え、まだ指揮者が手をあげたままのときに、拍手がぱらぱらと始まりかけました。しかしその拍手はすぐに止んで、ホールは再び静寂につつまれ、しばらくして指揮者が手を下ろしてから、拍手が始まりました。その後温かな拍手が続き、スタンディングする人も少しずつ増えていき、僕も立って、彼らに感謝の拍手を心から送りました。ありがとうございました。バッハ・コレギウム・ジャパンによるマタイは、毎年毎年新しい試みとして版や楽器の工夫を凝らしています。鈴木雅明さんのたゆまぬ研究意欲と情熱には頭が下がりますし、演奏者の超ハイレヴェルな技術(とりわけ器楽陣)から生まれる繊細で緊張感ある音楽は実に聴き応えがあります。彼らの音楽は、どちらかといえばとんがった方向、といったら語弊があるかもしれませんが、なにかしらユニークなものを生み出そうという姿勢(もちろん良い意味で)が感じられます。それと比べると、今回のドレスデンのマタイは、素朴というか、より自然体です。親から子へ、またその子へと脈々と受け継がれてきている、信仰と生活の共同体。その基盤の上で、日々ひたむきに修練することで、はじめて生まれ出てくる音楽。生活が伝統に根付いていて、その中から形作られてくる音楽。その音楽が、共同体を超えて、世界の人々の心に滲みていく。
2010.12.23
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もう今年もあと2週間あまり。今年行ったコンサートで感想を書いておきたいものを、少しでも書いておこうと思います。古いものも出てくるかもしれませんが、ご容赦を。11月27日、ユベール・スダーン指揮、東京交響楽団によるブルックナーの8番を聴きました。東京交響楽団第583回定期演奏会、サントリーホール。ノヴァーク版第2稿(すなわち従来からの通常のノヴァーク版)による演奏でした。スダーンのブルックナーは、今年7月に同じく東響を振った9番を聴いたのが初めてで、今回は2回目です。9番のときは、引き続いてテ・デウムを演奏するという趣向でした。(第三楽章の終了後に、休憩なしで声楽陣が入場してきてテ・デウムが演奏されました。)演奏には非常に気合いが入っていて、その意気込みの強さと真剣さには敬意を抱きましたが、如何せんテンポの変化が激しくて、煩わしくて落ち着かず、僕としては不満な9番でした。今回の8番も同じようなスタイルになるだろうかと想像して、あまり期待しないで来場しました。ところが9番とはまったくスタイルが違って、早めのテンポを基本としつつ、テンポを大きく動かすことがなく、実にきっちりと引き締まった8番で、東響の音も充実していて、満足できるブルックナーが聴けました。スダーンさんは、第一楽章出だしから、本当に集中して気合いが入っていました。僕はP席でスダーンさんの向かい合わせで聴いていたので、スダーンさんの息遣いというかつぶやきというか、ささやきが良く聴こえてきました。「ささやき」と書きましたが、ふつうのささやきとは違って、口を大きく動かし、「しょわーっ!、はわしゅわーっ!」というような、ちょっと異様なもので、結構な大音量で、ほぼひっきりなしに口ずさまれていて、結構驚きました。しかし、そんなことは問題に感じないほど、音楽には緊張感があり、充実していました。第二楽章になると、さらに音楽が引き締まって来て、隙のない音楽が続いていき、このあたりから「この演奏は凄いぞ」と思い始めました。ティンパニを控えめに打たせていたのも、音楽の内的緊張感を高めていて、いいな、と思いました。そして第三楽章からが、さらに凄かった。相当早めのテンポで開始され、そのままゆるむところがなくぐいぐいと進みます。かといってインテンポで突き進むわけではなく、ツボを押さえた微妙なアゴーギグがあるので、せせこましい感じが全くしません。これは素晴らしい。シューリヒトを思い出す、古武士のような、潔くも美しいアダージョで、すっかり音楽に引き込まれました。終楽章も同じような早めのテンポです。金管群の充実は素晴らしく、オケの音は本当に良く鳴っていて、力強いですけれど、決して力任せでないんです。程よく抑制が効いていて、力と品格を兼ね備えています。そして最後の最後に、ホルンが第二楽章の主題で入ってくるところで、ホルン隊が突如のベルアップ!このベルアップの効果は、圧倒的でした。音楽のタイミング的に最高のときでしたし、視覚的にも、ベルがしっかり上がって揃っていて、毅然としていてかっこよかったです。そして何より音響的に、もともと堂々として素晴らしかったホルン隊の音が、より一段とパワーアップして、決然と、雄渾に、格調高く響きました。この音には、しびれました!(今回の僕の席はPブロックで、上がったベルが比較的こちらの方に向いていたという場所の効果も良く作用したのは間違いありませんが、それにしても今回のベルアップはぴしゃりと決まっていて、全曲引き締まって進んできた演奏の最後を締め括るのにふさわしい、絶大な効果をあげていました。最後の音の余韻が消えてからも、スダーンさんがタクトを降ろすまでの何秒かの間、ホールは静寂と緊張に包まれていました。古武士の潔い演奏に、聴衆も正しく礼を尽くした、貴重なひとときでありました。ところでプログラムにはスダーンさんと音楽評論家舩木篤也氏の対談が載っているんですが、それによるとスダーンさんはノヴァーク版第1稿は一度も検討していない、というか、見たことがないようで、舩木さんの持参したノヴァーク版第1稿の楽譜を初めてみるような会話が載っていて、「第2稿の方がずっといい。ずっとリアルだ」というスダーンさんの言葉があったりして、なかなか興味深いです。僕は、シモーネ・ヤングさんの第1稿のCDがとても気に入っていて、第1稿による演奏がもっともっと増えて欲しいと思っています。しかしそれはそれとして、今回の8番の演奏スタイルは、早めのテンポでスケールは大きくないけれど、きっちりと引き締まった硬派のブルックナーという感じでした。この演奏スタイルであればノヴァーク版第2稿が、音が切りつめられているという点で、一番最適な版だなぁと思いました。今回の素晴らしい8番を聴いて、スダーンさんのブルックナー演奏に対する認識を新たにした次第ですし、近頃の東響の充実ぶりも、改めて実感しました。ありがとうございました。
2010.12.15
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ヤンソンス&コンセルトヘボウのマーラー3番レポート、最終回の今回は、ヤンソンスを中心に書いてまとめてみようと思います。ヤンソンスのマーラーを聴くのは、僕は今回が初めてでした。結論からいうと、マーラーに特別な濃い思い入れは感じられませんでしたが、最初から最後まで、実に丁寧な音楽作りで、高い次元でバランスのとれた、名演奏のマーラーを聴けました。ヤンソンスの第一楽章は、テンポの取り方に特徴がありました。基本テンポは普通でしたが、じっくり表現したいフレーズにさしかかると、その中でだんだんとテンポを落としていく傾向が目立ちました。その結果、シャープでスマートなスタイルではなく、どちらかというと後ろに後ろにと腰が残っていく重いスタイルでした。僕としては基本的にはこういうスタイルは好きですが、ところによっては、もっと流れるような流麗さが欲しいと、ややもどかしく感ずることもありました。もっとも3番の場合、第一楽章の表現はかなり難いと思います。第一楽章は、すこぶる多種の「美味しい」内容が、ごっそりと含まれている音楽ですから、1回の演奏ですべてを表現し味わい尽くすのは不可能だろうと思っています。その中からどういう内容が強調されて出てくるかという、主に指揮者の解釈面での方向性が重要です。それと別に、オケの音響的な乗りの良さ(出だしなので、エンジンの回転がうまく上がって良い音が出ているかどうか)という問題も大切です。この両方とも高次元で充実している演奏には、そうなかなか遭遇できないです。大雑把に言ってしまうと第一楽章には、重く厳しい面と、明るく喜ばしい面とがあると思います。凡庸な演奏では、どちらの面も出てきません。重く厳しい面は、優れた演奏によりしっかりと表現されることを、ときどき体験してきました。その筆頭が2001年のベルティーニ&都響です。ベルティーニの第一楽章は、終楽章までの一貫した設計が完全にできている中でぴしっと位置づけられていて、非常に厳しい、峻厳そのものの息詰まる音楽、背筋がぴんと伸びるような音楽でした。(これはこれで本当にすごかったですが、楽しくのびやかな表現がもう少し前面に出るときがあってもいいなと思いました。)一方、明るく喜ばしい面を充分に表現している演奏は、そう滅多に出会えません。だいぶ以前で細部の記憶はありませんが、1994年のコバケン&東響はその貴重な例のひとつです。近年では、何といっても2005年の大植&大フィルが抜群に素晴らしかったです。夏の行進が、これほどいきいきと楽しく喜ばしく演奏されるのを聴いたことがなく、うきうきと心がはずんでくる第一楽章でした。反面、重く厳しい面に関しては、重さは出ていましたが、やや鈍重な感じで、厳しさの表現までには至っていませんでした。また、当時の大フィルのホルンとトランペットの非力さは、結構悲しいものがありました(今ではかなり進化をとげています)。でも、これまでに僕の体験した第一楽章のマイベストは、この演奏です。それから、忘れがたい名演のひとつ、2002年のシャイー&コンセルトヘボウに関して言うと、特に東京公演の第一楽章は、オケのエンジンがかからず、しかもホルンとトロンボーンの鳴りが不調で、これがコンセルトヘボウの音かと疑うような貧弱なものでした。シャイーの棒も、何を表現したいのかまとまらず、不完全燃焼の第一楽章でした。このように本当に違いが大きく出る第一楽章です。今回のヤンソンスは、ベルティーニのように徹底して厳しい音楽ではなく、大植さんのように喜び・楽しさに溢れた音楽でもありませんでしたが、その両者の面がどちらも程良く表現された、バランスの良い好演でした。サントリーでは第一楽章からオケが本来の実力を発揮していましたので、オケサウンドでの充実という面でも、横綱級の貴重な第一楽章でした。第二楽章、これもある意味むずかしい楽章です。安易に演奏されてつまらない音楽になってしまうことが少なくないです。この楽章をきちんと演奏してくれるかどうかに、3番全体に対する指揮者の姿勢が如実に現れると思います。ヤンソンスは、しっかり丁寧に演奏してくれて、良かったです。第三楽章は、ポストホルン篇に書いたように、ポストホルンの左右への振り分けがユニークな試みだったのと、ポストホルンの音色のゴージャスさが圧巻で、稀有な魅力の第三楽章となっていました。第四楽章で、オーボエ・ソロで「自然音のように、引き上げて」という指示のある、スラーのついた三度音程の上昇音型が出てきますね。この音型が3回繰り返して出てくるところが、楽章の初め頃、中頃、終わり頃の3箇所あります。ヤンソンスはその3箇所すべてで、2回目の音量を1・3回目よりも一段下げてppで演奏していました。これはなかなか印象的で、このあたりの音楽の陰影を深めていました。とても良かったのであとでスコアを見たら、そういう指定は特に書いてなかったので、ヤンソンス独自の考えと思われます。(このオーボエの音量変化は川崎、サントリーとも同じに実行していました。)結局第三、第四楽章は、ロイビンさん(ポストホルン)、ラーソンさん(アルト)という豪華助っ人(^^)が存在感たっぷりの演奏をくりひろげ、かつヤンソンスの細心な工夫もみられて、新鮮な魅力ある、とても聴き応えある音楽になっていました。またサントリーではPブロックの不手際事件というアクシデントがありましたが、終わってみれば声楽陣の配置、入場、起立・着席などに、ヤンソンスは特別な奇策はとらず、川崎、サントリーともにほぼ通常の方法を手堅く実行して、引き締まった良い結果をもたらしていました。終楽章。これもバランス良く、オーソドックスに丁寧に歌い込まれた演奏で、オケの力とあいまって、すばらしい名演でした。(今回のヤンソンスの終楽章は、僕にとっては、比類なき高みに達していたベルティーニやシャイーの終楽章と肩を並べるまでには至りませんでしたが、ここまで充実した終楽章なら、大々満足です。)レポートの最後に、3番の終結の音、終楽章の最後に長~く伸ばす主和音(第328小節。この最後の和音はとても長いですが、スコアではたった1小節で、全音符にフェルマータがついて書かれています。)について、書いておきます。この長い和音、普通は開始時の音量のまま、最後までクレッシェンドせずに演奏されますね。スコアで見ても、この少し前からの最後の3小節は、木管と弦がff、金管とティンパニがfというシンプルな音量指定のままで、最後まで音量変化の指示はまったくありません。さてこの最後の主和音ですが、ヤンソンスは川崎では、音の後半をクレッシェンドというか、約3段階で音量をあげていってフィニッシュしました。ここをこのように音量増大して締め括る演奏は珍しく、CDで僕が認識しているのは二つだけです。ひとつはパーヴォ・ヤルヴイ&フランス国立管のCD-R(2002年演奏)。もう一つはスヴェトラーノフ&ロシア国立響のCD(1994年録音)です。特にスベトラーノフは非常に個性的で、最後の3小節を、1小節ずつ段階的にクレッシェンドしていくという感じの豪快な方法で締め括ります。しかしこういうクレッシェンドは、僕としては違和感があります。3番の音楽は、そのように音量をあげて力をこめて終わるのはそぐわない音楽のように感じています。力は抜けていて、自然体で、いわば大自然と繋がっている喜びを感じているような音楽に思えます。(バーンスタイン&ウイーンフィルやアバド&ルツェルンのDVDに見るここの指揮ぶりは、まさにそういう感じがします。バーンスタインの指揮ぶりには茶目っ気さえ感じるし、アバドの表情は、内からのよろこびがにじみ出ている何ともすばらしい表情ですね。)なので、川崎でヤンソンスのこのクレッシェンド方式を目の当たりにしたとき、ちょっと違和感を感じていました。ところが、ところがです。ヤンソンスはサントリーでは、やり方を変え、あまりクレッシェンドしなかったのです。(僅かにしたようにも思いましたが、川崎のような目立つやり方ではなく、ほんの僅かでした。)それで僕としてはとても自然に、違和感なく聴けました。衛星放送された2月のアムステルダムでの彼らの3番演奏を後日見て確認したところ、やはりクレッシェンドしない、通常方式でした。ですのでヤンソンスは、川崎でクレッシェンド方式を試してみた結果、やはりクレッシェンドしない方が良いと判断して、元のやり方に戻したのだろうか、と想像しています。この想像を押し進めると、ヤンソンスは、おそらく他のもっと微妙な目立たない箇所でも数々の新しい方法を試みて、より良い演奏をたえず目指しているのではないか、と思ったりします。そのような意欲と努力の結果が、今回のような充実したマーラー演奏に結実しているのだろうなぁ、と想像して感心している次第です。いろいろ波乱がありましたが、終わってみれば全編にわたって素晴らしい名演。またひとつ、かけがえのない3番体験ができました。ヤンソンス、ロイビンさん、ラーソンさん、コンセルトヘボウの皆さん、ありがとうございました。
2010.12.01
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ヤンソンス&コンセルトヘボウのマーラー3番、続いてはポストホルン篇です。ポストホルンパートの吹かせ方に、今回ヤンソンスは斬新なアイデアを盛り込んでいました。ポストホルンの登場場面は大きく前半、後半のふたつにわけられますね。川崎、サントリーの両公演ともに、前半は向かって右方から、後半は向かって左方からと、違った場所(方向)からポストホルンを響かせていたんです。なかなか興味深い試みです。もしかしたら、郵便馬車がポストホルンを吹きながら遠くを右から左にゆっくりと通過していく、というふうなノスタルジックなイメージからの発想なのかもしれません。これに相当するような、日本人が郷愁を呼び起こされるサウンドスケープを挙げるとしたら、チャルメラのラッパの音が遠くの方でゆっくりと移動していくという情景でしょうか。もっともこれだと冬の寒い夜になってしまいますが(爆)。さて、まず川崎公演でヤンソンスが実際にどうやったかと言うと、前半は舞台上手の、舞台裏に通じるドアを開けて、そのすぐ裏で吹かせ、後半は舞台下手のドアを開けて、そのすぐ裏で吹かせていました。しかしこれは、どうにも距離が近すぎました。舞台のすぐ裏から吹いているのがもろに聞こえてきてしまい、マーラーの指定の「遠くから」という距離感が、まるでありません。これではあたかも、右隣の家で吹いていたポストホルンが、次に左隣の家に移ってそこで吹いているのを聴いている、という感じです。(僕は比較的舞台に近い席で聴いたので、「近さ」を強く感じやすかったということはありますが、それにしても近かった。)この点(近すぎたということ)を除けば、他は素晴らしかったです。音色はこれぞポストホルンという美しいものだったし、音程も、歌い回しも、申し分ありません。ただただ、惜しむらくは、この距離感の欠如でした。近すぎると、どんなに名人が吹いても、音のアタック時に微妙な雑音成分が、ときにかすかに聞こえて来ることが避けられません。そのために、何と言ったらいいでしょうか、自分の居場所と、奏者の居場所が、同じ空気で直接つながっている空間だということがあらわになり、すなわち「現実世界からの音」になってしまいます。ある程度の距離感は、そういう現実のつながりをなくすために必要なのだと、僕は思います。マーラーにおける「遠くからの音」は、ポストホルンに限らず、6,7番のカウベルにせよ、復活でのバンダにせよ、そのための最低限の距離感が必要だと思うんです。ただドアの裏でやればいいというものでは決してない。そういう意味で、川崎公演のポストホルンは、技術、音色は実に素晴らしかったですが、至近距離すぎるために、現実世界の音として響いてしまい、郷愁のような感興が喚起されてこず、僕としては非常に残念でした。。。(念のため書いておきますと、距離感については、聴く座席の位置によって相当印象が異なってくることはもちろん承知しています。比較的舞台に近い席で聴いた一聴衆の感想ということで、ご理解ください。)翌日のサントリー公演。僕の座席は川崎よりも舞台にさらに少し近い席でしたが、川崎よりも明らかに、遠くからの音として聞こえてきました。そしてホールの空間にたっぷりと響いていました。そのため、前半は右から、後半は左から、という違いが川崎ほど明確には区別しがたく、前半はちょっと右寄りかな、後半はちょっと左寄りかな、という聞こえ方でした。これはなかなかいい感じです。サントリー公演のポストホルンは、これまで僕が聴いたなかでは、近距離の部類にはいるものでした。けれど、川崎公演よりは遠くから聞こえてきて、「現実世界とのつながりのない音」として響いていました。僕にとってはこれはすごく大事な点です。ポストホルンはこうでないと。これでこそ、今回の奏者の技術の高さ、音色の美しさが、充分に生きてきます。ポストホルン独特の魅力にあふれた美しい音が、遠くからやってきて、ホールに豊かに柔らかく響き渡り、素晴らしかったです。(今年3月のインバル&都響のときに惑わされてしまった僕(注1)が言う資格はありませんが、ポストホルンにしか出せない音色の美しさに、久しぶりにどっぷりと浸らせていただきました。)距離感という点でいえば、今年9月の尾高&札響での福田さんの演奏(「尾高/札響のマーラー3番(2日目)を聴く」の記事をごらんください)が、充分に遠距離からの響きで、最高(最遠)でした。それに対して今回のポストホルンは、音色の豊麗さが圧倒的でした。響きのゴージャスな美しさという点では、最高のポストホルンでした。これほどゴージャスでなくても良いから、こういう感じの音色で、もうちょっと遠くからの響きだったら、それが僕の理想のポストホルンかもしれないです。ところで一つわからなかったことがあります。僕の席からは、サントリー公演でどこのドアを開けて吹いたのか、確認できませんでした。2階客席部分のドアは、わかる範囲では開いていませんでした。舞台上の、舞台裏へのドアのうち手前(客席に近い方)側のドアも、開いていませんでした。サントリーには、舞台裏に通じるドアが舞台の奥の方の左右にもあるので、もしかしたらそこのドアを開けたのかもしれません。どなたかご存じの方がいらしたら、教えていただけると大変ありがたいです。そして、奏者のことを書かなくては。この美しいポストホルンを吹いた奏者は、僕は当然、先日のNHKの衛星放送で放送されたアムステルダムにおけるヤンソンス&コンセルトヘボウの3番演奏時に映っていた、めがねをかけた奏者だと思っていました。ところが川崎で演奏終了後、カーテンコールで呼び出されたポストホルン氏を見て驚きました。それと違う、あの人でした!今回、演奏終了後にバルブ付きのポストホルンを持って登場したのは、DVDで良く見覚えがある人でした。2007年のアバド&ルツェルン祝祭管との3番のDVDで、ポストホルンを持って登場している方です!この方は、1998年のアバド&ベルリンフィルの来日公演の3番でもポストホルンを吹いていました。(この公演はその後テレビ放送され、それを録画して見ていたので、良~く見覚えがありました。)この方、バイエルン放送交響楽団の首席トランペット奏者ハーネス・ロイビン氏だそうです。アバドの信頼あつく、そして今回もヤンソンスが、3番のためにわざわざ満を持して連れてきたのですね。まさに最強のポストホルン請負人!アバド&ルツェルン祝祭管の3番のDVDには、最後に画面に各パートの首席奏者の名前がずら~っと出てくるのに、驚くべき事に、ポストホルンのハーネス・ロイビン氏のお名前は出てきません。DVDのブックレットにもお名前が載ってません。また今回のコンセルトヘボウのツアープログラムにも、ロイビン氏のお名前がまったく載っていません。これほど大活躍するポストホルン氏なら、お名前を出してしかるべきなのに、なんで出さないのでしょうか、謎です。。。ロイビンさんが遠慮深くて、名前を載せるのを固辞しているのでしょうか?そこで、この素晴らしきポストホルン奏者に敬意を表して、バイエルン放送交響楽団のサイトのメンバー紹介のページにリンクを張っておきました。ここにロイビンさんが写真入りで紹介されています。これでポストホルン篇を終わります。次はヤンソンスですね。ちょっと疲れてきましたが(^^;)、頑張って書きます。-------------------------------------------------------注1:インバル&都響のときに、ポストホルンパートの使用楽器についてまんまと惑わされてしまった僕のくやしくも悲しい体験については、「ところでポストホルン?(インバル/都響のマーラー3番追記)」の記事をごらんください。
2010.11.26
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ヤンソンス&コンセルトヘボウのマーラー3番、まだまだ書きます。これからは川崎・サントリーの両公演を一緒に、声楽のこと、ポストホルンのこと、ヤンソンスのことなど書いてみたいと思います。まずアルト独唱のアンナ・ラーソンさん。声の質が深く、言葉の発音がデリカシーに満ちていて、引き込まれずにはいられない名唱でした。アルト用に書かれているこの曲は、メゾソプラノでももちろんいい歌唱はありますが、やはり本来のアルトで歌われてこそ真に深い味わいがでるということを、まざまざと実感させてくれる、すばらしい歌でした。このラーソンさん、1998年のアバド/ベルリンフィルの来日公演の3番でも歌っていらっしゃいました。また、2007年のアバド&ルツェルン祝祭管の3番のDVDでも歌っている人ですね。アバドの信頼があついのも、充分納得できました。3番の第四楽章の歌で僕がこれまででもっとも感銘を受けたのは、2005年に大植&大阪フィルと歌ったアルトの坂本朱さんの歌唱でした。そのときのことが思い出される、ラーソンさんの深い歌でした。独唱者の配置も、良かったです。オケの中で、ヴァイオリンと木管(ピッコロおよびファゴット)の間あたりに位置していました。このようにオケの中に独唱を配置する方法は、たまに見かけます。マーラーの指定は、合唱、ベル、独唱をともに「高いところ」ですので、それとは異なるわけですが、独唱者がオケに囲まれてオケと自然に一体化したような感じがして、これはこれでとても好きな方法です。独唱者の登場の仕方も、この配置の特徴を生かした、自然でさりげない登場でした。第一楽章と第二楽章の間合いで、なんとなくまだ雰囲気がざわざわしているときに、すっと出てきて、オケの中の席にすっと座りました。もちろんヤンソンスもこういう登場をさせようと思っていたわけでしょう、ことさらに独唱者を迎え入れるという態度をとることなく、ヤンソンスがふつうに楽章間の小休止をとっているときに、独唱者がさりげなく入ってくると言う、両者の息があった、「心得た」入場でした。川崎ではここで僅かに拍手が起こってしまいましたが、サントリーではここで拍手が起こりませんでした。ここで拍手が起こらないと、緊張感が保たれていいものです。あと細かなことですが、いつものように起立と着席のタイミングについても書いておきます。独唱者の起立は、第三楽章と第四楽章の合間に、ヤンソンスの合図で立つという、ごくオーソドックスな方法でした。一方、着席のタイミングは普通より早めで、第五楽章の自分の出番が終わって少ししたときに、第五楽章の途中で座りました。この曲の第五楽章は、独唱者の出番が終わるのが意外に早く、楽章の真ん中をちょっと過ぎたところなんです。以前3番の別の演奏会で、独唱者が自分の出番を歌い終わってすぐにさっと座ったことがあり、音楽の流れをまったく顧みない感じで、ちょっと違和感がありましたが、今回は歌い終わったあと少し間合いをとって、音楽の流れを配慮したところで座りましたので、まったく違和感がありませんでした。座り方ひとつでも、差が出るものですね。本当にラーソンさん、すべてにおいて素晴らしかったです。あとこれは冗談ですが、ラーソンさんはかなり背が高いので、オケの中で立って歌っても、「高いところで」というマーラーの指示に、多少は近かったかもしれません(^^)。次に合唱についても、細かなことですが、いつものように書いておこうと思います。(ここから先はかなり細かい話なので、ご興味ない方は読み飛ばして下さい。)合唱団の入場と、起立・着席のタイミングは、川崎、サントリーとも全く同じです。演奏開始前に入場し着席して待機。そして第五楽章の開始時に、まず少年合唱団がばっと勢いよく起立すると同時に「ビムバム」と歌い始め、2小節ほど遅れて女声合唱が起立して、その後歌い始めました。第五楽章開始時に合唱が起立すること自体はわりあい一般的な方法ですが、その場合普通は、児童合唱と女声合唱は同時に立ち、そして立ち上がってさらに歌う体勢を整えるまでの時間として1~1.5秒位の時間をとり、その後に第五楽章が開始されます。しかしヤンソンスは、この時間をとることを嫌って、立ち上がってすぐに歌うというリスキーな要求を児童合唱にしたわけです。そのため、出番が少し遅れて始まる女声合唱は、無理にそのときに同時に立たせず、ちょっと時間差をおいて立たせたのでしょう。ばっと起立して間髪をいれず歌い始めるというのは子ども達は大変だったろうと思いますが、良く頑張ってきっちりとこの開始をこなしていました。ヤンソンスのこだわりには敬意を表しますが、この方式よりは、僕としてはやはり、第四楽章の開始時にあらかじめ立たせておく方法(2002年のシャイー&コンセルトヘボウがやっていた方法)が、安全で、かつ第四・第五楽章間の移行の静謐と緊張感が最大限に保たれて、ずっと良いと思います。合唱団の着席のタイミングは、ごく普通で、終楽章が始まって少しして、音量がやや盛り上がったところで普通に座りました。あと合唱団の配置です。川崎では、舞台上に全員が乗って、女声合唱が舞台の奥の正面で、児童合唱が舞台の下手奥に並びました。チューブラーベルは児童合唱のそばでした。川崎では、雛壇があまり高くなかったので、児童合唱も女声合唱も、比較的低い位置で歌っていました。そのせいもあってか、児童合唱は音量的にちょっと小さめで、聞こえにくかったです。サントリーでは客席(Pブロック)を使いましたので、高い位置からとなり、児童合唱も比較的良く聞こえてきました。(ただしチューブラーベルは川崎と同じに、普通に舞台上で、下手奥でした。)女声合唱(新国立劇場合唱団)は、いつもどおり、力ある安定したいい合唱を聴かせてくれました。今回、児童合唱が30人ちょっと、女声合唱が40数人でした。音量バランス的には、さらに児童合唱を増やすか、それが難しければ女声合唱を少し減らした方が良かったかもしれない、と思いました。ところで、マーラーの指定は「少年合唱」ですが、日本の演奏では、多くは少年少女合唱団で歌われますね。今回のTOKYO FM少年合唱団は、日本では貴重な少年合唱団のひとつで、マーラー3番にもメータ/バイエルン、ゲルギエフ/キーロフ、アルミンク/新日フィルその他、数々の出演歴がある合唱団です。おそらく日本の少年合唱団で一番多く3番演奏に参加していると思います。これからも頑張ってください。声楽陣はこれで終わります。次はいよいよポストホルン!次の記事に書きます。
2010.11.24
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11月22日、サントリーホールでヤンソンス&コンセルトヘボウ、マーラー3番を聴きました。彼らの本領発揮、実に見事な3番で、大々感動でした!指揮:マリス・ヤンソンスアルト独唱:アンナ・ラーソン女声合唱:新国立劇場合唱団児童合唱:TOKYO FM少年合唱団管弦楽:ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団サントリーホールところで昨日のミューザ川崎では、広い舞台を利用して、声楽陣を含む全演奏者が、ステージ上に乗って演奏しました。P席(パイプオルガンと舞台の間の席)は、普通に客席として使用されていました。合唱団は、オケの入場と一緒に、あらかじめ舞台上に上がって、着席して待機していました。本日、舞台がそれほど広くないサントリーで、どう配置するのだろうか、そう思いながらホールにはいってみると(今回は開演より大分時間のゆとりをもってホールに入場しました)、昨日同様にPブロックにお客さんがぱらぱらと座っています。それでは合唱はやはり舞台上か?しかし舞台を見ると、舞台一杯に打楽器やら椅子が並んでいて、とても合唱団がはいるスペースはありません。あれ、それでは客席の他のブロックだろうか、そう思ってホール内の客席をぐるっと見渡しましたが、どこにもお客さんが普通にはいっていて、合唱のスペースを特別に確保している様子はありません。うーんそれでは合唱団は途中から入場して立って歌うのだろうか、しかしそれでは昨日とあまりにやり方が違うなぁ??等と疑問に思っていると、どうもPブロックの様子が変です。Pブロックの前から3列までの席にお客さんが着席すると、係員が近づいて来て声をかけ、しばらく話しあって、お客さんをどこか他の席に誘導していきます。これ、チケットをうっかり売ってしまったものの、あとからPブロックの前方3列を合唱に使うことに気が付き(あるいはその席を合唱に使うことに方針変更され)、そのために当日に、急遽お客さんに席の移動をお願いしているようです。異例の不手際です。昨夜のオケの乱調といい、この座席不手際事件といい、今夜も波乱含みの演奏会になるのか、と心配しました。そういえば、記憶があいまいなのですが、2002年のシャイーとコンセルトヘボウによるサントリーホールでのマーラー3番のとき、確か合唱団を含む全演奏陣が舞台上にぎっしりと乗って演奏していて、珍しい方法だな、と思った記憶があります。シャイーがそれを望んだとは考えにくいので、主催者がPブロックのチケットを売ってしまったのでシャイーはやむなく全演奏者を舞台上に乗せて演奏したのかもしれないです。今回は、ヤンソンスが譲らなかったのかもしれないです。(まったく想像で、真相はわかりません。)いずれにせよ誘導する係員の緊張はさぞやだったと思います。なんとか開演時刻のころには無事にPブロック前方3列のお客さんの移動が全員おわって、空きスペースが確保できました。Pブロックの4列目から後方は、普通にお客さんが座っています。オケの入場とともに、合唱団がPブロックに入場してきました。そして前方3列の、向かって左側に少年合唱、向かって右側に女声合唱が着席しました。入りきれなくて通路に座った合唱団員もいました。ともかくなんとかそこのスペースにおさまり、4列目から後ろは普通にお客さんが座っているという、異例の光景になりました。そのようにして始まった今夜の演奏会でしたが、演奏はすこぶる充実していました。音の鳴りっぷりが、昨日と全く違います。これが彼らの本気の演奏ですね。大感動です!ただし彼ら自身としては、おそらくこれでもまだ決して満足な出来ではなかったと思います。冒頭のホルンのユニゾンに約1名(?)、僅かな音のはずしがありましたし、第一楽章のピッコロには危うさを感じる時が少なからずありました(曲の後半ではなんとか復調しました)。アンサンブルも、僅かな乱れがないことはない(木管の音の出がわずかに遅れたり、ハープのタイミングが今一つ決まらなかったり)。・・・こんなことばかり指摘していると、あら探ししながら聴いているイヤな聴衆だ、と思われたらとても心外なので、一応弁明しておくと、何しろ昨日のことがありますから、ついついいつもより、ミスが出ないか気になってしまうという聴き方にはなっていたと思います。しかし今日のは、ほとんど気にならないミスなんです。ミスそのものの程度が、昨日より格段に小さいですし、何よりも、昨日とは気合いが違うんです。本気でひいている彼らに、もはや何の不満があるはずがありません。最後近くの静かな金管コラールのトランペットのハイトーン(練習番号26、第257小節)の超難所、ここは、皮肉にも昨日の川崎ではきっちり決まっていたのに、今夜ははずしてしまいました。でも、こういうミスはいいんです。これは仕方ない事故。昨日、今日と連続で聴いた人間としては、昨日との気合いの差があまりにも大きすぎて、何故に昨日もっと真剣にやってくれなかったのか、ということがちょっとだけ腹立たしかったですが、それはそれ、きょうの素晴らしい音楽をじっくりと堪能させていただきました。大感動のひとときでした。今年の3番の演奏会ラッシュの最後を締め括るにふさわしい、大横綱級の名演でした!まだまだ書きたいこといっぱいあります。アルトのこと、ポストホルンのこと、ヤンソンスのこと。きょうはこのくらいにして、また次の記事で書きます。
2010.11.23
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昨日(11月21日)、ミューザ川崎で、ヤンソンス&コンセルトヘボウのマーラー3番を聴きました。きょう(11月22日)夜に、サントリーで同演目の演奏があります。その前日の演奏会でした。指揮:マリス・ヤンソンスアルト独唱:アンナ・ラーソン女声合唱:新国立劇場合唱団児童合唱:TOKYO FM少年合唱団管弦楽:ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団ミューザ川崎シンフォニーホール何よりも、オケが、信じられないほどの乱調でした。。。ワタクシ、オケのミスには寛大なほうの聴衆だと思っています。ちょっとやそっとのミスがあっても、それでがっかりしたり、感動が損なわれたり、ということはほとんどありません。もちろん技術的に完璧な演奏というのはすばらしいことだし、その価値はとても高いし、できれば高い技術の演奏を聴きたいです。でも音楽の感動の本質は、そことは異なるところにあると思います。だからこそアマオケの演奏からもこの上ない感動を受けることがあるのだし、そういう、技術以外のところを大切に受け止めたいと思っている聴衆の一人です。特にこの曲は、ポストホルンを筆頭として難しいところが多々あるし、そういうところで音がひっくり返ったり、あるいは音が出なかったりすることは、ある程度致し方ないことだし、その手のミスは演奏の価値とはほとんど関係がない、と常日頃思っています。しかし、今回はミスが多すぎました。しかも、難所での、ある意味仕方のないミスではなく、ごく普通のところの凡ミスの連続です。第一楽章序盤のトランペットの音欠落、ピッコロの音欠落、第三楽章のトランペットのミス、などなどが続きました。それでもまだ、こういう種類の管楽器の発音のミスは、1歩譲って、しかたない部類のミスにいれても良いかもしれません。しかしそれだけではないのです。アンサンブルの乱れ(縦の線の乱れ)が発生して音楽がほころびかけることが、少なからず繰り返されます。そしてさらに、第二楽章の途中、ヴァイオリンの一部が入りのタイミングを間違えて早く入りかけるし、第四楽章のホルンの一部も、やはり間違えて早く入りかけるという始末。これ、世界のトップオケとして、天下のコンセルトヘボウとして、ちょっとひどすぎると思います。こういうミスが繰り返されるというのは、単なる好不調の波というのを超えて、オケの気合いが抜けているのでは、と疑ってしまいます。ようやく第五楽章以降は目立つミスはなくなり、曲が良いだけに美しい瞬間が訪れてくるようになりましたが、なんとなくぴしっとしきれないうちに曲が終わってしまいました。サントリーの前日の公演。まさかまさか、手抜きということは、、、、、今夜、サントリーでまた3番を聴いてきます。今年1年の3番コンサートラッシュの最後を締め括るにふさわしい演奏を、コンセルトヘボウの名に恥じない演奏を、期待して行ってまいります。とりあえずオケの乱調のことだけ書いておきたくて、急いで書きました。ヤンソンスのこと、ポストホルンのこと、声楽のこと、その他のことは、後日あらためて書こうと思います。
2010.11.22
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コンサートでの余韻の話の続きです。(前回はこちらです。)前回は、余韻の第一段階を物理的な残響、第二段階を心理的な余韻(音楽モードから通常モードへの移行)とすると、このごろ、第一段階の余韻は割合大事にされる事が増えてきた、ということを書きました。それから、第二段階の余韻は主観的なものなので、人によってその長さが異なる、ということも書きました。さて音楽が終わって、ある聴衆が、第二段階の余韻が自分はもう終わった、もう音楽を聴くモードでは完全になくなった、というときに、もしすかさず拍手をはじめたら、ブラボーを叫んだら、その人にとっては、別に問題ないでしょう。でも、そのときにまだ、もし第二段階の余韻が終わっていない人がいたら、その人にとってはどうでしょうか。まだ音楽の心的余韻をかみしめている、そのときに拍手・ブラボーがわき起こったら、その心的余韻を味わう重要なひとときは、断ち切られてしまいます。「じゃあどうすればいいのか。まわりの人が、第二段階の余韻が終わったかどうかなんて、わからないではないか、いつまでたっても拍手できないではないか、」という反論が来そうです。聴衆としての答えは明らかですね。「演奏者にあわせる。」ということです。僕たち聴衆は、演奏家の奏でる音楽を聴きにきているんですから、音楽の終わりも演奏者にあわせようではありませんか。音楽がはじまるとき、というのは、物理的な音が鳴りはじめたときではもちろんありません。演奏者が楽器を構えたとき、すなわち演奏者が心理・身体的に音楽モードに入ったときです。このときにすでに演奏者にとっては音楽は始まっています。このときに物音をたてる聴衆は、普通いませんよね。たまにいるけど(T-T)。音楽の始まりは、聴衆はきちんと演奏者にあわせてるんですよね。音楽の終わりも、それと同じにしたいものです。演奏者にとって音楽が終わるのは、物理的な音が消えたときではなく、演奏者が心理・身体的に音楽モードから脱したとき、演奏者の第二段階の余韻が終わったときです。演奏家の音楽を聴きに来ている(聴かせていただいている)我々聴衆としては、演奏者にとっての音楽が終わるまで、拍手・ブラボーを差し控えるのが、演奏者に対する基本的な礼儀だと思うんです。たとえ自分の第二段階の余韻が終わっても、演奏者がまだ見るからに音楽モードから抜けきっていないときは、それが終わるまで、拍手を控える、ということ。これが演奏者に対するマナーでもあるし、そのまま他の聴衆に対するマナーでもある、と僕は思います。きょうはこのあたりまでとして、この続きはまた後日にします。
2010.11.17
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11月4日、モーリス・ベジャール・バレー団他によるバレーを観ました。演目は、ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」と「春の祭典」、そしてマーラーの「愛が私に語るもの」でした。マーラーのは、交響曲第3番の第4、5、6楽章をバレーに振り付けしたものです。このマーラーのバレーのDVDは持っていて、いつか生舞台を見てみたいと思っていたのが、ついにその機会が到来しました。しかも今回、音楽演奏陣が豪華メンバー!なので、楽しみにしていました。僕が観たのは、二日連続公演の二日目でした。11月4日 東京文化会館大ホールモーリス・ベジャール・バレー団、東京バレー団振付:モーリス・ベジャール指揮:メータ管弦楽:イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団(以下マーラーで)メゾ・ソプラノ独唱:藤村実穂子児童合唱:東京少年少女合唱隊女声合唱:栗友会合唱団プログラムは、ペトルーシュカ(40分)、休憩(20分)、マーラー(50分)、休憩(20分)、春の祭典(35分)というヘヴィーなものでした。最初は東京バレー団によるストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」。ペトルーシュカの分身(3つの影)が出てきたり、鏡が効果的に使われた舞台装置で、普通にストーリーを追うのではなくて、ペトルーシュカの内面にスポットをあてたという踊りでした。東京文化会館大ホールは、かなり響きがデッドでなところで、しかもオケがピットに入っているので、音響的にはあまり期待していなかったのですが、オケは思ったよりも良く音が鳴っていて、十分に楽しめました。これなら次のマーラーも相当期待できそうです。そしていよいよ、モーリス・ベジャール・バレー団による、マーラー「愛が私に語るもの」。今回はバレーの舞台なので演奏陣の配置は気にしなくてもいいのですが、一応書いておくと、舞台上の左右両端の、幕よりも前の部分(オケピットの左右両端のあたりで、ピットよりもすぐ後ろ、左右に開いた幕のすぐ前の部分)に並びました。上手に児童合唱団、下手に女声合唱団が並びました。鐘はさすがにピットの中でした(^^)。そして独唱の藤村さんは、女声合唱のすぐ前に、目立たない感じで立ちました。「愛が私に語るもの」は、バレーの意味は良くわからないけれど、バレーと音楽とに引き込まれ、不思議な感動に包まれたひとときでした。メータの3番の通常のコンサート形式の演奏は、2005年にバイエルン国立管弦楽団とのものをサントリーホールで聴きましたが、そのときは終楽章のテンポの動かし方が不自然に大きくて、ちょっと違和感を感じました。今回は、そのときよりもずっと感動してしまいました。今回もテンポそのものはメータは比較的動かすのですが、バレーの威力でしょうか、違和感なく、素晴らしい音楽が伝わってきました。弦、特にチェロは美音でしたし、金管も、半分だけの演奏なのでスタミナ充分で、最後のコラールもばっちり美しく吹いてくれました。なお第四楽章での藤村さんの歌唱は、かなりドラマティックな歌い方でした。コンサートで聴いたらどう感じたかはわかりませんが、今回のバレーの舞台にはあっていて、良かったと思います。それにしてもベジャールはすごいものを作ってくれちゃいました。今日はもうこれで、おなかいっぱい、3番のあとに音楽は聴かない方が良いんだけど・・・などと思いましたが、帰ってしまうのは勿体なさすぎる(^^;)ので、休憩後の「春の祭典」ももちろん見ました。これはモーリス・ベジャール・バレー団と東京バレー団の合同出演でした。パワーと迫力あるバレーと音楽で、これも堪能しました。終演後、盛んなカーテンコールが続き、何度も緞帳があがったりさがったりします。そしてこれで最後かなと思ったとき、幕がもう一度あがると、ステージ上にはイスラエルフィルの人たちも上がっていて、全員集合です!上からは沢山の紙ふぶきが舞い降りてきて、金色にきらきら光って、みなを祝福するようで、とても素敵な光景となり、ホールは一段と高い拍手となって、幕を閉じました。もう本当に大満足の、バレーと音楽体験でした。・・・ところで、「愛が私に語るもの」のDVDを観た人はご存じでしょうけど、このバレーは、舞台装置の類はまったくなにもなくて、唯一最後の方に舞台の背景に赤い大きな丸い太陽が出ます。DVDだと、画面が変わったときに突然もう出ているので、どのように出てくるのか(下から出てくるのか上から降りてくるのか)わからないのですが、今回舞台をみて、わかりました。太陽は、上方からゆっくりと降りてきて、そして最初は黄色で、そのあと赤になりました。そして赤いまま一点に静止して、それで幕を閉じました。なるほど、これは日の出ではなくて、日の入りです。マーラーが3番を書いたのは、30歳代半ば、野心と若いエネルギーに満ちていた時代、後年のさまざまな苦悩が生ずる前の時代です。3番の音楽は、青年の音楽で、マーラーの音楽としてはもっとも生命肯定的な、前向きの音楽と思います。(8番がちょっと無理して生命肯定、愛肯定を主張しているのに対して、3番はもっと自然に生命肯定している音楽、と思います。)この3番の終結部について、村井翔氏は、ニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」の末尾の夜明けのシーンとの関連を示唆しています。とても興味深いので、そこの部分を引用しておくと、”ティンパニが四度音程の連打を続けるコーダは、曲頭に有名なティンパニの四度連打があるシュトラウスの『ツァラトゥストラがこう語った』との不思議な照応を感じさせるが、シュトラウスが描くのが『ツァラトゥストラ』冒頭の夜明けの場面だとすると、この交響曲のコーダが描くのは『ツァラトゥストラ』末尾の夜明けのシーンだろうか。 「これは私の朝。私の昼が始まるのだ。昇ってこい、さあ昇ってこい、おまえ、大いなる真昼よ!」 ー ツァラトゥストラはこう語って、彼の洞窟を後にした。暗い山から昇る朝日のように、燃えさかり、力強かった。”(村井翔著、作曲家◎人と作品シリーズ「マーラー」 音楽之友社、209ページ。)僕はニーチェ哲学のことはさっぱりわからないし、『ツァラトゥストラ』も読んだことないですけど、確かに3番の終結部のイメージを、もし日の出か日の入りかと二者択一を迫られるとしたら、僕は迷わず「日の出」をとりますし、おそらく多くの人もそうだろうと思います。しかしベジャールは、あえて日の入りとした。DVDの解説に「愛が私に語るもの」についてのベジャールの言葉が載っていて、そのあたりのベジャールのイメージがわかります。そこを引用すると” ひとりの男が、今やその一生を終えようとする時、生涯の過程をふり返る ー 出会い、闘い、愛。暗闇から現れた男は、あたかも影のような女に従われて、太陽と光のなかへはいっていきます。この交響曲の最終楽章は、当初、「子供が私に語るもの」と題されるはずでした。ここに、マーラーの意図をはっきり読みとることができます。葛藤、悲しみ、そして成功に彩られた苦悩の半生を経て、彼は、長く苦しい人生のカオスを超越するこの楽観的な発想を、童心の中に見たのです。”(DVDビデオ、「モーリス・ベジャールと二十世紀バレエ団の芸術」の解説、7ページ。)ベジャール(1927-2007)がこのバレーを作ったのは1974年ということですから、47歳。マーラーが3番を作曲した30代半ばよりは年長ですが、まだそれほど歳をとったというほどではないです。けれど、ベジャールは、青年の音楽というよりも、人生の最後というイメージでこのバレーを作ったわけで、それが最後の「日の入り」に象徴されているんですね。DVDビデオ、「モーリス・ベジャールと二十世紀バレエ団の芸術」には、ボレロと、アダージェット(マーラー5番のアダージェット)、そして「愛が私に語るもの」が収録されています。
2010.11.15
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先日の場内アナウンスの一件で、コンサートでの余韻について、ちょっと考えてみました。つまらない話ですけれど、お付き合いくださればうれしいです。僕が初めてコンサートに行ったのは、1971年の年末、ベートーヴェンの第九でした。中学のときでした。その後のコンサート体験は、ごくたまにオーケストラのコンサートを聴きに行くだけでしたが、その範囲での経験では、演奏終了後には間髪を入れずに拍手やブラボーが沸き起こることがかんり多く、半ば当然のことだったように記憶しています。特にマーラー・ブルックナーなどで素晴らしい演奏だと、残響のザの字も聴けない、それが当たり前でした。そういうフライングブラボーにうんざりして、僕らの仲間うちではTBS(東京ブラボーサービス)などと言って揶揄していたものです。FMで海外の演奏会の録音放送を聴くと、終了後に残響が消えるまで拍手が起こらずきちんと余韻が聴けることが、大変に羨ましく、日本での野蛮な状況と彼の地との、如何ともしがたい格差の大きさを感じていたものです。それがいつのまにか、東京の聴衆は随分と進化しました。演奏のあと、残響が消えるまで拍手が起こらないことがかなり増えてきました。最近は、残響が消えないうちに拍手が起こることは、ソロや室内楽など小編成ものではほとんどなく、オケのコンサートでも半分以下くらいの確率かという印象です。70~80年代と比べたら、格段の進歩です。それだけ、残響を味わおう、余韻を味わおうという聴衆の意識が向上してきたのでしょう。しかし喜んでばかりはいられません。まだまだ、理想的な状況にはほど遠いです。そこでちょっと「余韻」について考えました。余韻を、時間軸に沿って、大きく3つに分けてみます。第一の余韻は、物理的な音の残響です。全ての楽器の発音あるいは発声が終わってから、それらの音がホール内を反響しながら音響エネルギーが減衰していきゼロになるまでの時間。約1~2秒という時間。第二の余韻は、音楽が終わった直後の心理的な余韻です。これは、ある程度身体的な状態とも連動したものです。特に演奏者にとってはそう。演奏者が演奏している時には、楽器あるいは自分の声帯から音を出すための姿勢と運動が、いろいろな筋肉の緊張と弛緩のバランスの変化によって進んでいっています。これが演奏モードとすれば、発音が終わった瞬間から、それが非演奏モードにうつっていく。掲げていた楽器を降ろしていくとか、発声のための姿勢から普通の姿勢に変わっていく。指揮者で言えば、上げた指揮棒をおろしていく。こういった身体的状態の変化を含めて、心理的状態が、音楽を演奏するモードから、非演奏モードへに移行していきます。この移行が完了するまでが、第二段階の余韻です。聴衆にとっても、音楽を聴いているモード、すなわち音楽に「耳を傾けている状態」あるいは「音楽に身をゆだねている状態」など、一種特別な心理・身体的状態から、通常のモードに戻っていく過程があるわけです。この過程が一段落するまでが、余韻の第二段階になります。余韻の第二段階の長さは、音楽の性質によって随分ことなります。そしてこれは主観的なものですから、各人ひとりひとりによってことなります。演奏者の場合だと、その人の性格や考え方、またその日の調子によっても大分ことなるでしょう。短い場合は、たとえば喜びあふれる音楽を会心の出来で威勢良くジャンとひき終わってそのまま一連の動作の流れで楽器をおろすなどです。こうした場合には、第一段階の余韻が終わるのとほぼ同時に終わるでしょうし、場合によっては第一段階の余韻よりも早く終わってしまうこともあるかもしれません。一方長い場合には、たとえば余韻にこだわる指揮者が、マーラーの9番を演奏したあと、その指揮者にとってはこの段階が1分以上かかるかもしれないですね。聴衆のひとりひとりにとっても、この時間の長さは異なります。その人の性格、考え方、体調、そのときの音楽から得た感動の度合い、などによって大きく異なることでしょう。そして余韻の第三段階は、そのあとしばらくの間心の中で感動あるいは興奮が残って、気持ちが幾ばくか高揚している心理的状態のことです。聴衆の立場で言えば、たとえばコンサートホールからの帰りの電車の中で、「あ~今日の演奏はすばらしかったなぁ、今日の音楽は美しかったなぁ」、とコンサートを思い出しているときです。凄く強く感動したときには、この第三段階の余韻は数日間以上にわたって続くこともありますね。僕は、強く感動したときはしばらく音楽を聴きたくない、この余韻を大切にしたい、という気持ちになります。逆に自分にとってつまらなかったコンサートの時は、この段階は、まったくなかったりします。この第三段階の余韻については、アフターコンサートのことなのでさておいて、演奏直後のコンサート会場ではもっぱら、第一段階の余韻(物理的な残響)と、第二段階の余韻が問題になります。さきほど東京の聴衆は進歩してきている、と書きました。これを上の言い方で言うと、第一段階の余韻の重要性を皆がかなり意識するようになり、それが終わる前に拍手・ブラボーを始めてしまう人がかなり減ってきた、ということになります。もちろん、皆無になったというわけではなく、ときどき起こりますが、昔よりは随分減って、明らかに進歩しています。問題は第二段階の余韻です。これは心理的すなわち主観的なもので、一人一人によって長さが異なりますので、ややこしい問題になってきます。きょうはこのあたりまでにして、この続きはまた後日にします。
2010.11.07
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10月25日、都響定期演奏会で、ブルックナーの4番を聴きました。クレーというドイツ人指揮者です。都響第705回定期演奏会 10月25日 サントリーホール 指揮:ベルンハルト・クレー チェロ:ボリス・アンドリアノフ エルガー:チェロ協奏曲 ホ短調 作品85 ブルックナー:交響曲第4番 変ホ長調「ロマンティック」前半のエルガーは、美音のチェロでしたが、わたくし大半が深い睡眠の海に沈んでおりました。終わる1分くらい前には浮上したのですが、、、すみません。さて後半のブルックナー4番。プログラムを見ると、予定演奏時間として、64分と書いてあります。これは相当ゆっくりした4番が聴けそう、と期待しました。果たしてそのとおり、悠揚としたテンポのブルックナーでした。弦が対抗配置で、第一Vnと第二Vnの掛け合いが良く描き出されていて、良かったです。弱音部分はとても丁寧でじっくり歌われましたし、また強音部分でもテンポを速めることなく、実に力強く、堂々たるブルックナーでした。終演後のブラボーは本当にすさまじく、ホールがブラボーで揺れるような錯覚におそわれるほどの、怒涛のブラボーでした。立派で、真摯なブルックナーでした。こういうブルックナーもあって良いでしょう。こういう路線を目指しても、なかなかこのように充実した演奏にはならないことが多いと思います。そういう意味では貴重なブルックナー演奏のひとつと思います。・・・しかし僕としては、僕の求めるブルックナーの方向性と違うものだったので、楽しめませんでした。マーラーとブルックナーを長いこと愛好して聴いてきて、このごろ感ずることは、マーラーに関しては自分が受け入れられる演奏の幅が結構広がってきたように感じます。中学や高校の頃は、バーンスタインをはじめとする一部の指揮者以外のマーラー演奏は、ことごとくつまらなく感じていました。歳をとるにつれ、それぞれの良さを感じ、こういうマーラーもおもしろい、そういうマーラーもなるほどね、とある程度は受け入れられるようになってきました。しかし一方、何故かブルックナーに関しては受け入れられる範囲がほとんど広まっていきません。朝比奈、マタチッチ、うまくいったときのヨッフム、シューリヒト(9番)などで育ってきた自分ですが、他にあまり広まっていかないです。チェリビダッケ、ヴァント、スクロヴァチェフスキなどの一部の指揮者が加わってきた以外には、受け付けられないブルックナーが山のようにあって困ります(苦笑)。もしも歳をとるにつれて自分の許容範囲が広がって、いろいろなブルックナー演奏に感動できるようになれば、音楽聴生活の幸せ度が上がって良いだろうなぁとは思います。でもこればかりは仕方ないことです。今回のクレーさんのブルックナーは、ある一点を目指す、そこに向かってすべてが凝集していく、堂々たる頂点を築く、いわばベートーヴェン的な音楽でした。フルトヴェングラーのブルックナー演奏と(テンポ設定などは随分違いますが)、そういう意味では共通のブルックナーでした。最近だと、東響を振っているスダーンさんなども同じ方向性のブルックナー演奏です。こういった方向性のブルックナーが好きな方にとっては、今夜のクレーさんの演奏はものすごくすばらしいものだったに違いありません。そして多くの聴衆がそれに感動したことが、あのものすごいブラボーに現れていました。だけどこういった方向のブルックナー演奏は、残念ながら僕はだめなんです。抽象的ないいかたですが、僕が好きなブルックナー演奏の方向性は、一点に凝集していかない、拡散していく音楽なんです。強い音の頂点では、力の限りを出すのでなく、むしろ力は抜けて、広い宇宙にふわーっとエネルギーが開放され拡散していくような、そういうブルックナーが好きなんです。そういう意味で、今回のクレーさんの演奏会は、その立派さ、真摯さはわかりましたが、自分にとっては楽しめないものでした。
2010.10.31
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ところで10月16日のスクロヴァチェフスキ/読響の定期演奏会(ブルックナー7番)のとき、ちょっとびっくりする場内アナウンスがありました。これについて詳しく書いておこうと思います。開演少し前に、いつものように場内アナウンスが流れ始めました。「携帯電話の電源をお切りください云々」という、いつもの放送でしたが、アナウンスの最後に、「拍手は、指揮者が手を下ろすまでお控えくださるようお願いいたします。」と放送が僕の耳に飛び込んできて、びっくりしました。近頃はこういうアナウンス、時々あるのでしょうか?僕は初めて気が付きました。このアナウンスを聞いて、5年前のスクロヴァ&読響の7番の演奏会での、とある事件の記憶がまざまざと甦ってきました。「スクロヴァ7番大フライングブラボー事件」です。話は5年前にさかのぼります。2005年のスクロヴァ&読響のブルックナー7番は、今回と同じ二日連続の公演で、4月17日日曜日が特別演奏会、翌18日月曜日が定期演奏会。両日ともサントリーホールでした。僕は二日目を聴きに行ったのですが、ホールに行ってみると、「残響が消えるまで拍手はお控え下さい」という内容の張り紙が張り出されていて、とても驚きました。異例の張り紙です。何でこんな張り紙が出たのか、あとで誰となく伝え聞いたことなので確証はありませんが、どうも前日の演奏のとき、相当ひどいフライング・ブラボーがあったらしいんです。そのための張り紙処置だったようです。もともと読響の定期会員の方々は見識のある方が多く、指揮者が手を下ろすまで拍手をしない習慣がかなり守られていました。僕は読響の定期会員になったことはありませんが、当時読響の定期演奏会に行くと、終わりのマナーが非常に良くて、指揮者の手が下ろされるまできちんと充分な静寂が得られることが多くて、感心していたものです。そのような状況下で、ひどいフライング・ブラボーがあったのだとすれば、絶大な破壊的効果を発揮したことは必至で、他の聴衆から相当なクレームが上がったでしょうし、もしかしたらスクロヴァ自身も不快感を抱いたのかもしれません(注1)。そのための二日目の異例の張り紙処置だったのか、と想像しました。5年前、僕の聴いたこの二日目のときは、この張り紙の効果で、幸いにもひどいフライング・ブラボーはありませんでした。しかしやはり、まだ残響が消えるか消えないかのうちに、少なからずの人のフライング拍手が始まりかけてしまいました。このときは、張り紙の効果でか、始まりかけた拍手が、その直後(1~2秒か)に一度、ほぼ鎮まりました。そこまでスクロヴァはずっと指揮棒を上にかざしたまま静止していましたが、拍手が鎮まりかけたそのあとすぐに手をおろし、そこからあらためて拍手が始まりました。結果として、出鼻をくじかれたような、中途半端な拍手の始まりかたになってしまいました。もちろんひどいフライング・ブラボーよりは格段にましでしたが、これがもし、普段の読響での演奏会のように、指揮者が手を下ろすまで静寂が保たれていたら、この日の極めて充実した演奏を締めくくって讃えるにふさわしい、はるかにすばらしい「場」が成立していたことでしょう。このような5年前の事件を踏まえ、今回の演奏会、おそらくスクロヴァ自身、5年前のような事態になるのを避けたかったのではないでしょうか。ましてや今回は録音するわけですから、CDとして売り出すのにも邪魔なフライングは困る、という楽団側の事情もあったのかもしれません。それでこういったアナウンスを流したのでしょうか。無粋といえば無粋ですが、フライング・ブラボーでぶちこわしになる恐れを回避するためには、やむを得ない処置でしょう。さて今回、最初に演奏されたシューベルトの未完成では、演奏終了後、一応残響は消えるまで拍手はおこりませんでしたが、スクロヴァが手をおろしはじめるまえからぱらぱらと拍手がはじまってしまいました。休憩後、後半のブルックナーの開演前に、もう一度だめ押しのアナウンスが流れました。「拍手は、指揮者が手を下ろすまでお控えくださるようお願いいたします。」いよいよブルックナーが終わったとき、誰一人拍手を始めず、スクロヴァはしばし指揮棒を上にかざし、残響も完全に消え、完全な静寂のひとときが、ホールに訪れました。ほんの何秒かだったと思います。そしてスクロヴァが指揮棒をおろし、それから嵐のような拍手とブラボーが始まりました。アナウンスの効果は絶大でした。こういったアナウンスによる静寂のアピールは、「強制された静寂」として嫌う向きもあろうかと思います。僕も正直そのあたりは、複雑な心境です。本来なら、こんなアナウンスなどなくとも、聴衆が自主的なマナーとして実行すべきことです。現に、何年か前の読響定期では、それが実現していたのですから。でも一部の心ない、というか、悪気はないのでしょうけれど、配慮のないフライングの拍手・ブラボーは、わずかひとりいただけでも、終演後の貴重な静寂の瞬間、かけがえのないひととき、それをもってこそ音楽の受容が完結する、その重要な静寂が失われてしまうわけだし、実際に5年前にはそういう事件が起こったのですから、現状ではやむをえない、必要な処置かと思います。もうこの際開き直って、野暮だろうが無粋だろうが、一時期こういうアナウンスを徹底して流したらどうでしょうか(爆)。この習慣がマナーとして定着するかもしれません。そしたらすごく良いことだと思います。これは主義とか考え方による個人の好みで決めて良い事柄ではなく、基本的なマナーだと思うんです。「オレは音楽が終わってから間髪をいれずに拍手したい」という人もいるでしょう。だけど、「音楽が終わってから静寂がほしい、拍手はそのあとから」と思う人が(おそらくかなりの多数)いるんです。その(おそらくかなりの多数の)人たちのために、ほんの何秒か拍手を差し控えていただくのは、「強制」ではなく、マナーだと、思うんです。拍手は指揮者が手を下ろし終わってからする、これが演奏会の基本的マナーとして定着することを強く期待します。折角コンサートに行くんです。音楽が、静寂からたちのぼり、静寂に帰っていく。それを一緒に見届け、いや聞き届けようではありませんか。-----------------------------------------------------------------(注1)スクロヴァは、このあたりについて、かなりこだわりがあると思います。2007年9月、スクロヴァがやはり読響でブルックナーの3番を振ったときのことでした。第二楽章の見事な演奏が終わったときのことです。曲が静かに豊かな余韻をたたえて終わり、残響が消え去った瞬間に間髪をいれずに、客席から咳払いが起こりました。良くある普通の咳払いの程度の音量でしたし、残響が鳴っているときではなく、一応消え去ったとほぼ同時くらいの咳払いでした。ですので、それほどめくじら立てるようなノイズではありませんでした、ただ、できることならもう少し時間をあけてから咳払いして欲しいなとは思うような、咳払いでした。そしたら、なんとスクロヴァは、左手を上に突き上げ、不快感を表したのでした!さすがに客席の方を振り向きはしませんでしたが、それは明らかに、早すぎる咳払いへの不満のアピールでした。舞台上でこういう怒りの表明を指揮者がするのを見たのは初めてで、驚きました。スクロヴァが、いかに音楽の終わったときの心的余韻を大事にしているかがわかりました。
2010.10.27
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スクロヴァチェフスキ&読響のブルックナー7番を聴きました。本当にすばらしい7番でした。10月16日 読響第497回定期演奏会。サントリーホール。 シューベルト 交響曲第7番「未完成」 ブルックナー 交響曲第7番前日には同じ曲目が東京芸術劇場で特別演奏会として演奏されていたので、二日連続公演の二日目にあたります。僕は、ブルックナー大好きです。ブルックナーの中で一番好きなのが、7番です。(ブルックナーファンで7番が一番好きというのは、多分変わり者なのでしょう。)そして今回の演奏を聴いて、日頃なんとなく思っていた思いが、確信に変わりました。僕にとってスクロヴァこそ、現存指揮者で最高の7番を聴かせてくれる指揮者だと。僕がスクロヴァチェフスキの7番を最初に聞いたのは、NHKのFM放送でした。N響を振った演奏会を生中継で放送している番組でした。多分、現在AltusからCD化されている1999年の演奏会だと思います。そのころの僕は今ほどコンサートに足繁く通う習慣がなく、朝比奈御大以外のブルックナーのコンサートには滅多に行くことはありませんでした。このスクロヴァのときも、行くつもりはなく、当日の夜家で、あっそういえば今日ブルックナー7番をやってるんだっけ、N響のコンサートだから生放送しているかもしれない、と軽い気持ちでFMのスイッチをつけたら、第一楽章の途中が流れてきました。それがあまりにも美しく、自然な流れで、すっかり聴き惚れてしまい、感動するとともに、「あぁ聴きに行くべきだった!」という悔しさを強く感じたことを、良く覚えています。スクロヴァのブルックナーを初めて生で聴いたのは、2002年4月にN響を振った9番(NHKホール)でした。この演奏会、僕にとっては朝比奈とヴァントが相次いで没した衝撃から立ち直った、というと大袈裟な言い方ですが、「またブルックナーを聴いていこう」というひとつの気持ちの区切りがついた、特別なものになりました。その後、スクロヴァのブルックナーはできるだけ聴くようにしてきました。うち7番については、これまで3回聴いています。 2003年11月 ザールブリュッケン放響(東京オペラシティ) 2005年 4月 読響(サントリー) 2006年 5月 N響(オーチャード)これらのうち、なんといっても圧倒的な感銘の記憶が残っているのは、2005年の読響との演奏会でした。本当に素晴らしく、朝比奈以来の感動を受けたものでした。このときの7番を端緒として、今年春の読響の音楽監督退任までの5年間に、スクロヴァが読響と演奏したブルックナーを0番から9番までひととおり聴けたのは、タイミング的にとてもラッキーで幸せなことでした。そして今回再びスクロヴァの7番がきける、これを非常に非常に楽しみにしていました。さて、当日会場に来てみると、ホワイエでは発売されて間もない、今年3月に演奏されたばかりのスクロヴァ&読響のブルックナー8番のCDが売られています。そしてホールに入ってステージを見ると、マイクが沢山たっています。8番と同様に録音してCD化されるのでしょう。本日の公演は早々と完売していたということで、客席は満員です。まず最初にシューベルトの未完成。この日の僕の体調は寝不足でかなり疲れていたので、「シューベルトはもし眠ってしまっても、次のブルックナーのためにはやむなしかなぁ、ごめんなさいです」などと不埒なことを考えていました。しかしシューベルトが始まると、あまりの素晴らしさに疲れも眠気も吹き飛んで、聴き入ってしまいました。テンポはやや速めで、さりげないスタイルですが、中身の濃いことこのうえないです。読響は精妙でデリカシーある、美しい音を出してくれます。演奏終了後、ブラボーも結構沢山飛んでいて、会場の盛り上がりはすでに相当なものです。そしてブルックナー7番。もう、いうことありませんでした。スクロヴァのブルックナーは、みな良いですけど、とりわけ僕は7番が一番あっていると思います。自然でゆったりとしたうねりがあります。このうねりがどこから来るのか。フレーズのひとつひとつが丁寧で味わい深いのはもちろんですが、フレーズ間のあるべき関係性がしっかり存在していることが大きいのかなと思います。突出しすぎるところが全くないし、ないがしろにされるところも全くない。すなわち曲のすみずみまで、全体を見通すパースペクティブが充分に浸透している感じです。これがたとえばスクロヴァの5番や8番だと、僕にとってはところどころ作為的でやや不自然に感じられるところがあり、それによって全体の大きな流れが妨げられてしまう感がぬぐえないのですが、7番にはそれが微塵もなく、うねりに浸れるんです。もうちょっと具体的に、僕の好きなこの曲の演奏スタイルなどについて書いてみます。この曲は、第一楽章と第二楽章に内容の中心があり、そこに重点を置いた演奏でないと、おかしいことになってしまいます。第三楽章と第四楽章は、音響的には重要でも、意味内容としては、付け足し、というと語弊があるかもしれませんが、もはや語るべき一番大事なことは語り終わっている上での音楽だと思います。たまにある、第一楽章と第二楽章をやや軽めに流し、後半のふたつの楽章をやたら力をいれるという演奏(最近だと尾高忠明氏とN響の演奏が典型的でした)は、まったくこの曲の意味をはき違えている、と僕は思います。もちろん、だからと言って後半の楽章を軽く流してはだめで、前半の楽章の重みを受けとめられるバランスとしての重さが必要です。あと部分的に特に僕がこだわりたいのは、第二楽章の第二主題部の扱いです。ここ、短調で重厚な第一主題と対比的に明るく軽やかに演奏されてしまうと、興ざめしてしまいます。ゆっくりと、そして対位法の深みをじっくりと掘り下げてくれる演奏だと、この曲全体の深みがぐんと増します。それから第三楽章のトリオも同様に、急いで通りすぎてしまっては台無しで、しかるべき重みをもって演奏されると、非常に美しい音楽が響いてきます。とくに、トリオから主部に戻る直前は僕にとってきわめて重要です。とりわけ、短い部分ですけど、フルートがソロを吹く部分の直前の、弦楽5部による経過句(117~124小節)。この弦楽合奏がじっくりと丁寧に奏でられると、静かな感銘とともに、第三楽章の存在意義が格段に心に沁みてきます。他にも僕のこだわりっているところは多々ありますが、スクロヴァはそういうところがいずれも文句なく素晴らしかったです。読響も、実に見事なアンサンブルを聴かせてくれました。極上の7番体験でした。(1箇所、僕が気に入っているホルンの音が聞こえてこない部分があり、あれ?と思いました。今回のホルンは全曲にわたって大健闘でしたし、ここも多分ホルンのミスではないと思います。これについては項を改めて書きます。)
2010.10.27
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連休の今日、ちょっと風邪気味で行動も限られるので、TSUTAYAからDVDを借りてきて、見ました。映画「シャッターアイランド」。実におもしろい!1950年代のアメリカの、とある孤島。ストーリーについてはネタバレになるので一切ふれませんが、実に面白かったです。そして、音楽がすごく良いのです!映画が始まって間もなく、主人公と相棒が入っていった部屋に、レコードがかかっています。憂いを帯びたピアノカルテットです。相棒が、「ブラームス?」と尋ねると、部屋の主は「いや」と答えます。少し間をおいて、主人公が考えつつ「マーラー」と。そう、マーラーのピアノ四重奏曲断章なのです!(一応マーラーファンとしてつっこみをいれておくと、1950年代にこの曲のレコードは出ていないと思いました。最近音楽の友社から出たマーラーのコンプリート・ディスコグラフィーを見てみると、この曲の草稿は1973年に発見され、初録音は1973年と記されています。やはり、これはありえないレコードでした。)しかしそんなことはどうでも良いのです、この曲が実に効果的に使われています。しかもこれだけではないんです。全編にわたって、音楽のセンスが実に良いんです。抑制のきいたしずかな音楽が、あるときは不気味に、あるときは悲しみをたたえて、鳴っています。これは本当にすばらしい。それで映画が終わって、エンドクレジットを注意して見ていると、映画に使われた音楽の曲名がずらずら出てきます、その選曲のマニアックなこと!ざざっとあげると、リゲティ:ロンターノ, Two Etudes から HarmoniesIngram Marshall:Fog Tropes, Prelude - the Bayペンデレツキ:交響曲第三番, Fluorescencesケージ:Music for Marcel Duchamp, Root of an UnfocusNam Jine Paik:ジョン・ケージへのオマージュシェルシ:Quattro Pezzi, Unaxuctumフェルドマン:Rothko Chapel 2シュニトケ:賛美歌第二番(チェロとコントラバスのための)ハリソン:Suite for Symphonic Strings から Noctureアダムズ:Christian Zeal and Activity, 「僕のお父さんはアイブスを知っていた」から The LakeRobert Erickson:Pacific SirensTim Hodgkinson:Fragorすごいですね。中にはまったく聞いたことのない名前もいますが、多分ここまでは皆さんクラシックの作曲家だと思います。さらに、ブライアン・イーノ他:The Last Day, Lizard PointChurchill Kohlman:CRYMax Richter:On the Nature of DaylightClyde Otis:This Bitter Earthなどなど、おそらくクラシック以外と思われる人たちの作品も使われていました。最後の「This Bitter Earth」という曲は、エンドクレジットの後半に、弦楽を伴奏にした女性ボーカルが、しずかな悲しみをたたえて歌っていて、とても印象的です。エンドクレジットには、Music Supervised by Robbie Robertsonと大きく出ましたので、このRobertsonさんが音楽の責任者と思われました。しかしさらに良くみていたら、あとの方でずっと小さく、Music Research by Jared Levineという名前も出てきました。良く知らないけど、普通 Music Research なんて出ないですよね。もしかしたらこのLevineさんが現代音楽マニアで、映画にあいそうな曲をいろいろと考えて、Robertsonさんに提言したのかも、などと想像しました。それにしてもこの選曲のセンス、ほんとにナイスです。マーラーファン必見とまでは言いませんが、上記のあたりの音楽が好きな方には、おすすめの映画です。---------------------------以下、追記です。マーラーのピアノ四重奏曲断章の出版年代ですが、上記した音楽之友社の「コンプリート・ディスコグラフィ・オブ グスタフ・マーラー」に、浅里公三氏によるさらに詳しい記述がありましたので、引用しておきます。(同書213ページ)”この曲は1964年にニューヨークでニューリン校訂版が出版、復活初演されるまで忘れられていた。広く知られるようになったのは、1973年にルツィチュカ校訂版がハンブルグで出版されてからである。最初に行われた録音も、同年に行われたサルヴァトーレ・アッカルドが主宰するナポリ国際音楽祭でのライブであった。”ということで、そもそもは1960年代だったようです。いずれにしても映画の設定よりはあとの時代であることは一緒です。僕の持っているこの曲のディスクは、浅里氏が紹介しているクレーメルらによるものと、エッシェンバッハのピアノ他による演奏(ライブ録音)です。映画をみたあとしばらくはまって、聴いていました。クレーメル盤が11分4秒、エッシェンバッハ盤が13分23秒!後者の緩急の幅の極端な広さも良いですが、やはりクレーメル盤はすばらしい。(2010年10月17日追記)
2010.10.11
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昨夜から一夜あけ、きょうは札響マーラー3番二日目。この日は15時開演でした。開演までの時間、近くを少し観光しようと、北大のポプラ並木を見に散策に出掛けました。北大キャンパス内にはいったところです。広い敷地で緑が多く、空気が爽やかで、とても気持ち良いです。のんびり歩くこと10分くらいで、ポプラ並木に着きました。由緒あるこのポプラ並木、老朽化がすすみ、台風被害で倒れてしまったものも多いということですが、まだまだ沢山のポプラが立ち並んでいます。長い年月の風雪に耐えた背の高いポプラの梢が風に揺らぎ、葉がざわめくさまを近くで見上げていると、あたかも年老いた賢人がちょっと不機嫌にぶつぶつ言っているような、独特の重い存在感があります。青い空で良い天気ですが、天気雨がたまにほんのわずかぽつぽつと、水しずくが垂れるように、落ちてきます。これは北大博物館、中では恐竜の展覧会をやっているようでしたが、今回は素通りです。キャンパス内は芝生も多く、小さな子供を連れて芝生で軽食を食べている家族などもちらほら見かけ、市民の憩いの場になっているようでした。気持ち良い散策を終え、ホテルに戻ってちょっと仮眠をとって休んだあと、いよいよホールに出掛けました。キタラは、中島公園という広い公園のなかにあります。池のほとりの小路を歩いていくと、キタラに到着です。正面エントリー。ホワイエ。きょうの僕の座席は、昨日と反対サイド、2階左のLAブロックのかなり後方寄り、サントリーで言えばLBブロックとLCブロックの境目くらいです。席に座ってみると、きのう見えなかったパイプオルガン右横のドアは、ここからもやはり見えませんでした。演奏は、尾高さんもオケも、初日よりも慣れた感じで、テンポは、はっきりとはわかりませんが、第一、第三、第六楽章は、初日よりもわずかに速めかなと思いました。昨日と同じ、丁寧な音楽づくりでしたし、オケの音は昨日よりこなれたという感じで、特に管楽器は総じて初日よりもスムーズな音が出ていたように思います。ただ僕としては、初日の慎重さからくる緊張感、テンポの遅さ(特に終楽章)などから、初日の方が大きい感動を受けました。福田さんのポストホルンパートは今日も美しく、完璧です。特に距離感に関しては、僕の席の位置関係から、初日よりもさらに遠くから、とてもとても遠くからのように響いてきました。僕がこれまで生で聴いた中でおそらく最長不倒距離(^^)です。というのは今回ポストホルンは、通常通り、ステージ下手側のドアを少しあけてその外で吹いていましたので、僕の昨日の右サイドの席からは、開いたドアが見えて、そこからの直接音成分が聞こえてきました。それに対して今日の席は左サイドで、ステージ下手のドアは見えず、間接音成分だけで聞こえてきたからです。曲が終わったとき、きょうも残念なことに、最後の主和音の残響がまだまだ大きく響いているうちに、盛大なブラボーと拍手が始まってしまいました。そしてカーテンコールもきのうと同じ、卒業されるクラリネット奏者への、尾高さんからのスピーチと花束贈呈と、それに対するクラリネット奏者のスピーチがありました。きょうはいよいよ二日目で本当に最後のステージということもあって、奏者のスピーチも感興が一段とこもった熱いもので、聴衆もあつい拍手を送りました。そしてそのあとには、きのうと同じく、尾高さんによる欧州演奏旅行の案内のスピーチがありました。尾高さんは、キタラは本当に素晴らしいホールであり、札響はここを拠点とするからこそこのような発展を遂げてきている、しかし札幌の皆さんはキタラの良さを良くわかっていないかもしれない、今度の欧州旅行ではヨーロッパの各ホールで演奏するので、是非演奏旅行に一緒にきていただきたい、そうしてヨーロッパのいろいろなホールの音をきいたら、ヨーロッパのホールもいいけれど、キタラはもっといいな、と感じてもらえるかもしれない、ということをお話されていました。これを聞いて僕は、もし曲が終わって残響が完全に消え去るまで拍手が起こらなかったら、キタラの良さがさらに鮮やかに生きてくるだろうな、そのようになってほしいなと、ちょっと思いました。それと、きのうも感じたことですが、尾高さんは照れ屋なのでしょうか、カーテンコールが短すぎるのが残念でした。僕たち聴衆が折角すばらしい音楽に感動して拍手を送っているのに、尾高さんはそれを相当早めに切り上げてしまい、卒業される奏者への感謝のスピーチと花束贈呈にはいってしまうんです。こちらとしてはもっと拍手して、今しがた終わった演奏そのものを称えたい、これを演奏した皆さんを称えたいと思うのに、それが充分にできずに終わってしまう、という感じがしました。もちろん定期演奏会ですから、長年演奏された奏者の方が卒業されるというのは相当な重みがあることですし、それについて花束贈呈し、多くの定期会員を含んだその場の聴衆全員が惜しみない拍手と感謝の念をおくるのは素晴らしいことだと思いますし、たっぷりとやってほしいことです。でも、今回の演奏そのものに対する拍手喝采を受け止めてもらう時間があまりにも短すぎます。もっと充分にその時間をとってから、そのあとで花束贈呈の段階にはいって欲しいと思いました。さて演奏会が終わり、一緒に聴きにきていた長年の友人とともに、福田さんのサインをもらうために、きのう確かめておいた楽屋出口にむかいました。古くからのマーラー・ブルックナーファンで、今回も一蓮托生で札幌遠征に来た友人です。(話がそれますが、彼が二日目の終演後に素早くオルガン後方の通路の様子を見に行ったところ、すでに鐘は撤収されていて、指揮者を見るためのモニターだけがまだ置いてあったそうです。)福田さんが都響在籍時代に、福田さんの素晴らしさを僕に教えてくれたのもこの友人です。それでふたりとも今回の札幌遠征の目的の一つが福田さんを聴くことでしたし、さらにできればサインをもらおうと考えていたわけです。出口で待つことしばらくして、福田さんが現れ、我々に快く、淡々とサインしてくれました。また折角の大好機ですので、使用楽器についてお尋ねしてみました。今回のポストホルンパート使用楽器は、C管のコルネットということでした。さらにベルティーニとの3番演奏時のポストホルンパートについてもお尋ねしたところ、ベルティーニとは2回やっていて、最初はヤマハのポストホルンを使ったが音程があまり良くなかったので、次のときはフリューゲルホルンを使った、と教えていただきました。最初のが1998年、次のが2001年で、僕は両方とも聴いてますが、この後者のとき(2001年横浜)、実演でこれほど完璧なポストホルンが聴けるんだ!と完全にノックアウトされたことを今でも鮮烈に覚えています。福田さんが演奏のたびにいろいろな楽器を試されているということがわかり、超貴重な収穫でした。福田さんの今後のますますのご活躍を応援しています。そしてそして、まことに勝手で贅沢なお願いですが、願わくば、いつかマーラー3番を、ポストホルンで再び演奏していただける日が来ますよう、願っています。ところで札響は来年に創設50年を迎えるということです。定期演奏会のパンフレットには、「2011 札響50年」へ、という楽団の歩みをたどる連載が載っていました。今回は7回目で、丁度、元トランペット首席奏者の杉木さんという方を迎えて、前首席で現副首席の松田さんと、現首席の福田さんとが3人で語るという、僕にとって実にタイムリーな記事でした。70年代~80年代の札響の金管を率いた杉木さんは、名手モーリス・アンドレの弟子だったそうです。そして福田さんはアンドレの弟子が札響にはいるというニュースに感動して、函館から札幌に通って杉木さんのレッスンを受けたということなど、いろいろと興味深いことが語られていました。この9月から芸術監督になられた尾高さんとともに、札響がさらなる発展・充実を遂げることを願いつつ、実り多かった札幌遠征のレポートを終えることにします。
2010.09.28
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(これはすぐ前の記事の続きです。)拍手は残念ながら、残響が終わらないうちに、始まってしまいました。拍手喝采の途中で尾高さんがマイクを持って登場し、この定期演奏会で卒業(定年退団)となるクラリネット奏者に花束を贈呈するというひとこまもありました。その後尾高さんは、ふたたびマイクとともに登場し、今度札響が欧州への演奏旅行に行くことなどをお話され、それでお開きとなりました。聴衆がホールを出始めたとき、僕は少しホール内で場所を移動して、ステージをのぞきこんだりして、鐘を探しましたが、鐘はどこにもありません。ステージ上にも、Pブロックにも、その周辺にも、どこにも見あたりません。はて一体鐘はどこにあったのだろう、と疑問に思いながら、ゆっくりとホールを出て、もうお客さんもほとんど帰って人もまばらになっているホワイエを歩いていると、たまたますぐそばで、合唱指揮者の方がどなたかと会話されていました。これは絶好の機会と思い、会話が終わるのを待ち、思い切って合唱指揮者の方に、鐘の位置をお尋ねしました。すると、パイプオルガンの向かって右手の、ホール後部のドアを開けて、その外の通路で鳴らしたということでした!まさかホールの外に鐘を置いたとは思いませんでした。教えていただけてラッキーでした。(さきほどのキタラの座席表をみていただくとわかるのですが、このホールの後部のドアは、一方がオルガン、もう一方が客席(Pブロックの後方部分)に挟まれた狭い通路の奥の方にあり、ホールの大半の座席からは見えない作りになっています。僕の席からも見えず、それで第五楽章のときにドアが開けられたことがわかりませんでした。)それにしても尾高さん。さまざまな点の周到なこだわりと、きわめて丁寧な音楽づくり、終楽章のゆったりしたテンポなど、とても素敵でした。はるばる札幌まで聴きに来た甲斐がありました。そしてキタラの響き。キタラの響きはあくまでクリアで明晰です。サントリーホールの響きが、熟成された香りとコクのある豊穣な音、極上のウィスキーのような音だとすれば、それとまったくちがい、「水のような」極上の日本酒にたとえられるかもしれません。どちらも、ゆったりと酔える音です。僕は海外の名ホールはまったく聴いたことないのでわかりませんが、国内でオーケストラの響きが好きなホールをあげよ、と言われたら、迷わずサントリーとキタラをあげます。また明日、ここでもう一度この3番が聴けるといううれしさをいだきつつ、キタラをあとにしました。
2010.09.23
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またまたマーラー3番を聴きに遠征してしまいました。今回は札幌です!9月17&18日第531回札幌交響楽団定期演奏会指揮:尾高忠明メゾソプラノ:手嶋眞佐子女声合唱:札響合唱団児童合唱:HBC少年少女合唱団合唱指揮:長内勲管弦楽:札幌交響楽団札幌コンサートホール キタラ キタラを訪れるのは、今回が2回目です。数年前、ルイジがPMFを振ったマーラー6番を聴いたのが、はじめてでした。そのときこのホールの響きの良さが強く印象づけられたので、そのキタラで3番が聴けるのが楽しみでした。もうひとつの大きな楽しみは、札響の首席トランペット奏者の福田善亮氏でした。北海道ご出身の福田さんは、以前都響在籍時代に、ベルティーニとのマーラー3番でポストホルンの名奏を聴かせてくれた方です。今回ふたたび福田さんの演奏でこの曲を聴けるということがとても楽しみでした。まずは初日、17日のレポートです。この日は19時から開演でした。余裕を持って昼過ぎには札幌入りしました。良い天気で陽射しは強いですが、空気がかわいていて、さらっとした風が肌にとても心地よいです。タイミング良くこの日から、市中央の大通り公園で秋の味覚フェスタが始まっていたので、そこで北海道の名物料理を、(演奏会前ですので)ちょびっとおなかに入れ、(演奏会前ですので)ノンアルコールビールで喉を潤し、ホテルで一休みして、良い体調で会場に足を運ぶことができました。この日の僕の座席は2階右のRAブロックの中程、やや後方寄りです。サントリーで言えばRAブロックのRB寄りあたり、ほぼ指揮者の真横くらいでした。いつもは座る前にステージ上の打楽器などを視認するのですが、この日は慣れないホールで緊張していたためか、特にステージを眺めずに座ってしまいました。座ってから気が付いたのは、このホールはサイドの席だと比較的死角が大きいということです。僕の席からだと、ステージの上手側(向かって右側)の1/3位は見えませんでした。3番の場合、鐘の位置が気になりますが、僕の席から見えるステージの範囲には、鐘が置いてありません。また合唱団がはいると思われるPブロック(ステージとオルガンの間の客席)やその周辺にも、見える範囲には鐘が置いてありません。ですので、鐘はおそらく大きな死角になっているステージの上手側に置いてあるのだろうと推測しました。尾高さんの簡単なプレトークがあり、そのあと少ししてから、オケの入場に先立って、Pブロックに女声合唱と児童合唱が入場してきました。曲の最初から児童合唱も含めた全合唱団を入場させるという気合の入った方法は、比較的少なく、2002年のシャイー/コンセルトヘボウの来日公演、2005年のチョンミョンフン/東フィル(オーチャードホール)、同じく2005年の大植/大フィル、そして今年のインバル/都響の3月30日公演があげられます。(シャイー以前は、そこまで細かくチェックしていなかったので、わかりません。)しかも今回嬉しいことに、児童合唱の配置にひと工夫があったんです。この曲では、女声合唱と児童合唱の位置関係は、児童合唱が前方になり、その後ろに女性合唱となることが普通です。しかし今回は、前方に女声合唱、その後方に児童合唱という配置でした。ここから先は、ご興味ある方はキタラ大ホールの座席表http://www.kitara-sapporo.or.jp/seat/index.htmlを見ながら読んでいただけると、よりわかりやすいと思います。まず女声合唱が、Pブロックの前寄りの2列(第3列と第4列)に着席しました。続いて児童合唱が入場しはじめ、女声合唱の後方に並んでいきました。このとき、最初児童合唱は、女声合唱のすぐ後ろの2列(第5列と第6列)に並びはじめました。確かに、このように間をあけずに並ぶのが普通の並び方です。しかしこれはこどもたちが並び方を間違えたようで、すぐに誘導の係の方が出てきて、児童合唱をその一列後方(第6列と第7列)に並び替えさせました。このホールのPブロックのセンター部分の最後列は、第7列です。(座席表をみていただくとわかりますが、Pブロックの左右よりの部分には、さらに後方の第8~第11列がありますが、そこは今回客席として使用され、お客さんがはいっていました。)すなわち尾高さんは、Pブロックのセンター部分のなかで、できるだけ児童合唱を高いところに配置しようとする意図があったわけです!(そうでなければ第5列と第6列に並ばせたはずです。)これまでの3番の記事で繰り返し書いているように、この曲のスコアには児童合唱と鐘を高い位置に置くように指定されています。しかしそれを実行しようとする指揮者は数少ないのが現状です。今回、スコアの指定に従って児童合唱を少しでも高い配置にしたという尾高さんのこだわりが嬉しくて、演奏への期待が増しました。もっとも、鐘はステージ上かと推測していたので、「鐘も高いところに置いてくれたらさらに良いのになぁ。」と思っていました。しかし実は、鐘はステージ上ではなく、驚くべきところに設置されていたということが、あとになってわかりました!!このことは後述します。続いてオケが入場し、そして尾高さんがはいってきて、演奏がはじまりました。冒頭のホルンの斉奏が、すごく力強く立派なひびきでした。そしてその後の第一楽章は、終始やや遅めのテンポで、とても丁寧に、慎重にと言っても良い感じで、進められていきます。キタラの響きはやはりすばらしいです。とてもクリアです。木管の小さな音でも、その音色やニュアンスが、他の音に埋もれずにはっきりと伝わってくるので、聴いていて新鮮な響きが多々感じられます。また弦楽の弱音も本当に美しく、きちんと響いてきます。クリアでいろいろな楽器の音がそれぞれ良くきこえてきて、しかも全体としての響きがまとまっている、そういう響きです。第一楽章が終わったところでオケはチューニング。そしてチューニングが終わって会場が静まったあと、独唱者がしずしずと登場し、指揮者のすぐ左横に着席しました。会場からは拍手が起こってしまいました。(尾高さんはここで拍手が起こることにはこだわらなかったようです。)それにしてもこのタイミングの独唱者入場というのは割合に早いタイミングです。合唱団の早い入場とあわせて、後半の楽章のアタッカの扱いに関して相当考えての判断であろう、と期待が高まります。第二、第三楽章も、同じように丁寧に丁寧に進められていきます。第三楽章の途中、ポストホルンのパートが近づいてきたあたりで、それまでステージ上で1番トランペットを吹いていた福田さんが、ポストホルンパートを吹くために、ステージ下手側に退場していきました。そしてポストホルンの部分が始まりました。さすがは福田さん、音程や歌い回しは本当に完璧です。ただその音色からは、ポストホルンではなく、トランペット系の楽器を使っていると思われます。また今回のポストホルンパートで特筆すべきは、その距離感です。充分に遠くからきこえてくるかのようで、広い空間を感じられ、とても魅力的でした。またこのとき、ステージ上のオケの出す音も素晴らしく、とくに弦楽器の弱音が、非常に繊細で美しい音で、素晴らしかったです。ポストホルンの部分が終わると、福田さんはステージ上の元の席に戻ってきて、また1番トランペットを吹き始めました。さて第三楽章が終わったあと、第四楽章が始まる前に、独唱者が立つのに合わせて合唱団が起立しました!これはすごい方法です。第四楽章が終わったあとすぐ静寂のまま第五楽章がそのまま始められるように、あらかじめ第四楽章の始まる前に立たせておくというこの周到な方法を、僕がはじめて見た(意識した)のはシャイー/コンセルトヘボウのときでした。そして大植/大フィルもそうでした。しかしそれ以外には見たことがありません。この周到な方法を、尾高さんは採用したのです。そしてその効果は充分にあり、第四楽章が静寂のなかに終わった直後、あざやかに第五楽章が始まりました。このとき驚いたことに、鐘の音が、ステージのある下の方向からではなく、かなり高いところからきこえてきたのです!鐘は一体、どこで叩いているんだろう?しかしやはり、僕の席から鐘は見えません。それでこのときは、おそらく僕の席からは死角になっているPブロックかその近くに配置したのだろう、と思いました。それにしても、児童合唱と鐘が高いところから響いてくると、本当に素敵です。そのように指定したマーラーはすごいなと思う一方で、その指定をきちんとこだわって実行する指揮者が本当に少ないのは、残念な限りです。尾高さん良くぞやってくださいました。(何度も書きますが、三河/小田原フィルはこの点で最高にすばらしかったです。)なお女声合唱45名と児童合唱48名の歌唱自体も、かなり高い水準で、素晴らしかったです。児童合唱はやはりこれくらいの人数がいると、余裕を持ってきこえてきます。今回の演奏、第一楽章から第四楽章まで、とても丁寧で、魅力的な演奏ではありましたが、この第五楽章で、一段ぐっと魅力を増したように感じました。そして合唱団の座るタイミングも、僕が理想的と考える「シャイー方式」でした。つまり第五楽章の一番終わりにビムバムを歌うその直前、練習番号10の頭の2小節ちょっとの休みの間に合唱団は素早く着席し、その後の部分は座って歌う、という方式でした。三河/小田原フィルでも採用していた方式です。このシャイー方式でうまく演奏されると、第五楽章と第六楽章がこのうえない静寂と緊張のうちにアタッカで続くので、効果が絶大です。ただし今回は、独唱者はここでは座らず、第六楽章が始まってすぐに静かにゆっくりと座りました。充分に気を使っていた座り方で、音楽の妨げにはなりませんでしたが、どうせなら、合唱団と同時に座れば、さらに良かったかと思います。そして終楽章の音楽は、素晴らしかったです。非常におそいテンポで、じくりと歌いあげられました。特にチェロは美音でした。また最後近くの金管コラールでは、福田さんが、申し分ない美音と安定感で、すばらしい歌を聴かせてくれました。大感動の終楽章でした。(プレトークで尾高さんが、演奏に1時間45分くらいかかるかもしれない、とおっしゃっていましたが、確かにこのテンポなら、そのくらいかかっていたかもしれません。)(長々とした駄文になってしまい、ひとつの記事に載せられないので、続きは次の記事にわけて書きました。そちらもごらんください。)
2010.09.23
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暑さといそがしさでふーふーばたばたしていた8月も終わり、賑やかだったセミの鳴き声もめっきり減り、夜ともなれば虫の声が盛んです。木々の緑にもわずかな黄色っぽさを感じるようになりました。コンサート通いもほぼ一月ご無沙汰しているうちに、ブログは1ヶ月未更新!秋のシーズンのはじまりとともに、またぼちぼちと書いていこうと思います。僕の秋のシーズンの聴き初めは、東京室内歌劇場によるオペラ「火の鳥」ヤマト編でした。あの手塚治虫の火の鳥です。これがオペラになっているとは、まったく知りませんでした。青島広志氏の作曲で、25年前に同じ東京室内歌劇場で初演されているそうです。これが作曲者の指揮で再演されるわけです。東京室内歌劇場 第127回定期公演オペラ「火の鳥」ヤマト編原作:手塚治虫台本:加藤直作曲&指揮:青島広志演出:恵川智美9月11日、東京芸術劇場中ホール。(ダブルキャスト公演の第1日。)ところでオペラをみに行くとき、怠惰なワタクシは、いつもはほとんど予習せず、直前にウイキペディアなどであらすじをちょろっと見るくらいです。しかし今回は気合をいれ、真面目にしっかりと予習しました。(つまり、原作の漫画を読みました。)手塚治虫の火の鳥は、10数年ほどまえに、朝日ソノラマからB5判の大きな本で復刻されたときにシリーズ全巻を買って、読みました。時空をまたぐ壮大なスケールの物語を夢中で読みました。今回ヤマト編を読み直してみると、主人公が笛の調べを火の鳥に毎夜毎夜聴かせる場面や、王の墓に殉死として生き埋めにされた民衆による地底からの合唱の場面など、音楽が重要そうな場面が多々あり、どんなオペラになっているのか楽しみでした。オケ編成は、一管編成というのでしょうか、Fl,Ob,Cl,Fg,Hrn,Trp,Trbがひとりずつ、銅鑼・木琴そのほかのいろいろな打楽器、ピアノ、あと弦5部(5-4-3-3-2)の総勢26人が、オケピットにはいっています。指揮者青島氏が、黒い奇妙なTシャツ姿で登場し、独特の笑顔であいさつをし、きりっとベレー帽をかぶって演奏を始めました。ベレー帽は手塚治虫へのオマージュでしょうか?しかし暑さのせいか、いつのまにかベレー帽をさっさと脱いで指揮していた青島氏でした。曲は2幕構成で、第1幕は主人公ヤマト・オグナがクマソに侵入し火の鳥と出会うまで、約80分。冒頭のけらい二人と民衆の歌の場面は音楽的な緊張感があり聴き応えがありました。それ以後は、ストーリーの展開は原作の漫画にかなり忠実で、漫画にあるギャグネタも登場し、さらに台本でのギャグネタも加わって、面白いことは面白いです。けれど、音楽がなくて台詞だけの部分が長くて冗長で、オペラをみているのか演劇をみているのかわからなくなる感がありました。また肝心の音楽も、冒頭の合唱以外にはあまり印象に残るものがなく、ちょっと退屈に感じてしまいました。しかし第2幕約65分は、オグナと火の鳥の場面をはじめとして、音楽が美しく、とても充実してきました。そして物語の最後に、第一幕冒頭と同じ、けらいふたりと民衆の歌がもう一度出てくるという仕掛けは見事でした!この歌とともに、愛し合うオグナとカジカが息絶えていく場面はかなり印象的でした。歌手陣が、総じて今ひとつの歌唱だったのが残念でした。特に火の鳥は、人智を超えた圧倒的な存在感が欲しい役だけに、落差が大きく感じました。そんな中でカジカ役のソプラノは頑張っていて、特に第2幕での熱唱を称えたいです。演出・照明は地味でおとなしい路線でした。もうちょっと派手な路線でも良いかと思いました。演出が一番派手目になった場面は、クマソの長老が火の鳥の記憶を語る場面で、なぜか金色の紙吹雪が降り注ぎ、盛り上がりを見せていました。こういう感じの場面を他にもいくつか散りばめれば、さらにおもしろく見れるのでは、と思いました。青島氏は、「火の鳥」の黎明編もオペラにしているそうです。火の鳥全11編、いずれもオペラにしがいがある題材ですから、他の作曲家の方々も、オペラ化を目指してほしいものです。吉松さんあたりが、未来的な音楽をどかんと書いてくれないかな。
2010.09.13
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(これはすぐ前の記事の続きです。)休憩の終わり頃にホール内に戻ってみると、オケの入場にさきがけて、合唱団が先にはいってきていました。通常通りP席部分で、前の方に児童合唱、後方に女声合唱が座りました。そしてオケが入場し、そのあと独唱者とともに指揮者が入場してきました。当然のように盛大な拍手がわきおこりました。(というより、関係者が舞台裏から拍手を始めていました。)ま、休憩後ですからこの拍手は仕方ないといったところでしょう。そして独唱者は指揮者のすぐ左の位置に立ちました。第4楽章。ここではコンマスのソロが、深みのあるいい演奏でした。先行楽章のソロはやや不調だったのですが、休憩で気持ちが切り替えられたのか、とても良かったです。第5楽章、合唱がしっかりしていて好演でした。そして前述したチューブラーベルの位置がユニークであることに、このとき初めて気が付きました。細かなことですが、以下に書いておきます。以前の記事にも書いたように、この曲のスコアには、第5楽章の冒頭に、チューブラーベルと児童合唱を高い位置で、と明白に指定されています。しかしこの指定を守る指揮者は、コバケンや、三河/小田原フィルなどのごくごく少数派で、ほとんどの演奏では普通にステージ上に他の打楽器と同じような位置に置かれて演奏されてしまいます。今回も、演奏前に見たときには、ステージの雛壇の一番後ろの段に、他の打楽器と並んで配置されているだけのように見えたので、ごく普通の方法だな、と思っていました。しかし第5楽章が始まっていざチューブラーベルが叩かれ始めたのを見ると、チューブラーベルの位置が妙に高いことに気が付きました。当然、ベルを叩く奏者の位置も妙に高いです。僕の席は1階の真ん中あたりだったんですが、そこから見ると、他の打楽器奏者の頭の位置よりも、ベルの奏者の頭は身の丈半分ほど高いところに位置していました。(丁度、ベルの奏者の頭が、P席最前列の児童合唱の頭の高さと他の打楽器奏者の頭の高さの中程あたりに位置していました。)このあたりのことを確かめるために、演奏が終わってから舞台に近づいて見てみると、チューブラーベルは、ステージの雛壇の一番後ろの段の上に、通常よりもかなり高く設置されていました。そしてそこには、ベルを叩く奏者が登るための2段の段が置かれていました。チューブラーベルを良く見ると、1本がかなり長くて、このくらいの高さがないと、床につっかえてしまい吊せない状態であったことがわかりました。シュピーラーさんが果たしてスコアの指定に従うためにベルを高く配置したのか、それともただ単に長い1本を吊り下げるために高くしたのかはわかりませんが、結果的にはスコアの指定にやや近づく(児童合唱の高さに近づく)配置となった(^^;)わけでした。第4、第5、第6楽章はスコアの指定通りアタッカで演奏されました。ここでもうひとつ細かなことですが、いつもどおり、声楽陣の起立・着席のタイミングについても書いておきます。今回、特別な工夫は何もなく、普通に、第4楽章が終わるとすぐに合唱団を立たせ、第5楽章が終わるとすぐに声楽陣全員(合唱、独唱とも)を着席させるというシンプルな方法でした。この方法、シンプルではありますが、第4楽章の終了とともに合唱団が起立、というのは良くみかける一方で、第5楽章の終了とともにすぐ着席、というのはかなり珍しいです。普通は、第5楽章と第6楽章の間の一瞬の静寂を重要視して、そこの静寂・緊張を妨げないために、その部分では着席せず、ある程度第6楽章が進行した途中で座る、という方法が取られます。シャイー/コンセルトヘボウや三河/小田原フィルなど、熟慮してさらに洗練された方法をとる指揮者も少数ながらいます。逆に、いつどなたの指揮だったか忘れましたが、第5楽章と第6楽章のアタッカを放棄してしまい、第5楽章が終わってから指揮棒をおろし、合唱団をよっこらしょと着席させ、そのあとであらためて第6楽章を始めるという無神経きわまりない演奏に遭遇したこともあります。ここの方法はさまざま、まことに指揮者次第です。さて今回は、第5楽章が終わってすぐの着席ですから、終楽章が開始される重要な瞬間に、やはり多少なりとも視覚的あるいは聴覚的なノイズが発生しました。しかし今回は不思議にも、そのノイズがほとんど気になりませんでした。着席によって生ずるノイズが、音楽の流れを妨げる感じがせず、ノイズを含んだその場全体が、音楽の世界に自然に溶けこんでいるような感じでした。こんなことは滅多にない体験です。このシュピーラーさん、相当すごい人なんじゃないかと思います。第6楽章。ゆったりとしたテンポで、しなやかに雄大に、マーラーの音楽が歌い上げられていきます。途中からはもうすっかりシュピーラーさんの音楽に身を任せ、安心して音楽にどっぷりと浸ることができました。オケの頑張りも見事で、素晴らしい3番でした。このオーケストラ、弦の音が明るくて素敵でした。特にチェロは、アマオケとしてかなりの美音でした。一方管は、細かなところの正確さにはやや乏しかったですが、総じて雰囲気は良かったです。なかでもトロンボーン隊は、かなり力があって良かったです。またトランペット隊も最後まで本当に頑張っていて、明るい良い音色で聴かせてくれました。蛇足ながら、トランペット隊5人のカーテンコール時にシュピーラーさんは、1番ラッパを吹いた奏者(むかって一番右側)を立たせるより先に、右から5番目(向かって一番左側)の奏者をまず立たせていましたので、この方がポストホルンパートを吹かれた方だと思います。会場でブラボーをいいそびれたので、この場を借りてブラボーです!ホルン隊はややパワー不足のところを、人数を増やすことで補っていました。すなわち曲の指定は8人ですが、プログラムには12人出演!とありました。実際に舞台上に12人いたかどうかははっきり視認できませんでしたが、少なくとも10人はいたようでした。これはホルンをパワーアップするために賢明な措置だったと思います。それにしても指揮のシュピーラーさん、いい意味で職人気質かな、と思います。これだけのマーラ演奏をやってしまう人なので、おそらく、マーラーに相当こだわりを持っていると思います。しかし、憶測ですがこのシュピーラーさんは、そのこだわりを無理に押し通さず、実際面(演奏者の技術面など)と突き合わせ、現実的に一番いい音楽ができる方法をとったのではないでしょうか。曲半ばでの途中休憩しかり(理想的には休憩を入れたくないが、休憩を入れることでオケの調子を整えられるし、合唱団の入場もしやすくなるメリットあり)、声楽陣の起立・着席のタイミングしかり(シンプルにすることで合唱団が歌唱に集中しやすくなる?)、またホルンの増員しかりです。フィルハーモニックアンサンブル管弦楽団は、もちろんアマオケですから、出てくる音としては気になるところはいろいろあります。でも、今日のような演奏を聴くと、そんなことはまったく小さいことだとつくづく思います。音そのものは、もちろん大事です。少しでも良い音の方がいい。しかし音楽にはそれよりももっとずっと、大事なことがある。音の背後の意味を響かせようとする思いが、指揮者とオケにあるかどうかで、音楽って決定的に違ってくるのだなぁと、あらためて感じます。そのような意味で、きょうの演奏は本当に素晴らしかった。プログラムをみると、このオケは芸術顧問が小松一彦氏ということです。これまでにマーラーを、小松氏とは3番と5番を演奏しています。そして近年のマーラーは、コバケンと2番を3回演奏していて、なんと、うち1回はウィーンで(2007年)、もう1回はコンセルトヘボウで(2009年)演奏しているというのですから、驚きです!なるほど小松氏やコバケンの薫陶があるからこそ、マーラーの音楽にこのように共感し、その意図をひたむきに表現しようと志向するオケなのかと、納得させられました。素晴らしい3番演奏を、ありがとうございました。---------------------------------------------------------------なお、これまでのマーラー3番演奏会の記事の一覧をあげておきます。2009/11/ 8 三河/小田原フィル (小田原)2009/11/28 井上道義/OEK&新日フィル (金沢)2009/11/29 井上道義/OEK&新日フィル (富山)2010/ 3/30 インバル/都響 (サントリー)2010/ 3/31 インバル/都響 (サントリー)2010/ 4/23 金/神奈川フィル (横浜)2010/ 5/ 4 齊藤/水星響 (東京文化会館)このうちチューブラーベルの配置については、主に 三河/小田原フィル(小田原)および井上道義/OEK&新日フィル(金沢)を、第三楽章の練習番号30,31の楽節については、主に 井上道義/OEK&新日フィル(金沢)およびインバル/都響(3/30)を、ご参照ください。
2010.08.12
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8月、アマオケによるマーラー3番を、また聴くことができました。素晴らしい3番でした!フィルハーモニックアンサンブル管弦楽団 第50回演奏会8月7日 サントリーホール指揮:カルロス・シュピーラー独唱:岩森美里(メゾソプラノ)合唱:ヴェル・パン・プラージュ、ゆりがおか児童合唱団管弦楽:フィルハーモニックアンサンブル管弦楽団このオケは立教大学交響楽団OBが母体ということです。1993年にマーラー3番を、小松一彦氏の指揮で演奏しています。その演奏会は聴いていませんが、ライブ録音のCDを持っています。以前CD屋で普通に売られているのを、たまたま見かけて買ったものです。このCDに聴く3番、小松氏の情熱によって導かれたオケが、マーラーへの共感に満ちた暖かな演奏を聴かせてくれて、非常に気に入っている演奏です。今回このオケが17年振りに3番を演奏するというので、指揮者は小松氏ではないものの、楽しみにしていました。なお水星交響楽団も、1993年にマーラー3番を演奏し、今年5月に17年振りに再演しました。どちらのオケも、奇しくも同じ、17年振りの再演になるわけです。また、インバルが都響を振って3番を演奏したのが1994年で、今年3月に、16年振りとなる再演をしたわけです。あたかも3番をもたらす彗星が16~17年周期で太陽系を周回していて、今年ふたたび地球のそばを通るかのようです。偶然の一致なのでしょうか、それとも何かのつながりがあるのでしょうか?会場に来てプログラムを見ると、途中で休憩がはいると書いてあります。それも第1楽章のあとでなく、第3楽章が終わったあとに休憩をとるという、珍しい方法です。これを見たときには、どんな演奏になるのか、ちょっと心配になりました。しかしそれは無用の心配でした。オケがステージにはいってきました。弦は対抗配置でなく普通の配置です。P席(オルガンとステージの間の席)はがらっと空いていますので、のちほど合唱団がはいるのでしょう。また、ヴァイオリンの第一プルトと指揮台との距離が長めに取られていましたので、のちほど独唱者がここに来るのだと思われました。あと、チューブラーベルは、残念ながら普通に、ステージ上に配置されているように見えました。(ただ、実はこの配置は一工夫されていたんです。そのことに第5楽章の演奏中に気が付きました。詳しくは後ほど書きます。)第1楽章の序盤、低弦が速い上行音型を繰り返すパッセージが、きっちり立体的に力強く表現されていて、これはいい演奏になるな、と感じました。その後のトロンボーンのソロのモノローグは、前半部はパワー全開で、後半部は一転かなり抑え気味にして内省的にと、変化の幅が大きくなかなか味のあるソロを聴かせてくれます。そしてやってきた夏の行進、これが生き生きと喜ばしく表現されていて、いい感じです。シュピーラーさんの指揮は、めりはりがあって、かつ歌謡性も充分で、つぼを抑えたマーラーです。(冒頭のホルン主題が再現されるところでは、シンバルを3人に増やして叩かせるなど、こだわれるところはきっちりこだわってくれてました。)第2楽章は、ややテンポが速めでした。第3楽章の開始は、さらにテンポが速くなってしまい、このままだとちょっと僕はついていけなくなるかと思いましたが、ポストホルンがはいってから、ゆったりとした音楽になりました。このポストホルン、良かったです。音色から判断するに、ポストホルンではなく、トランペットを使ったのだと思いますが、かなり暖かく柔らかめの音色で、トランペットでここまでの音色を出すのは相当すごいことだと思います。そして距離感も充分です。舞台のドアのすぐ後ろでなく、はるか遠くからのように。きちんと聞こえてきます。楽章後半部のポストホルンは、さらにゆったりと歌うようになり、夢のような美しさにひたれました。傷がないわけではなかったですが、感動的なポストホルンでした。(距離感に関して言うと、第1楽章のホルン主題再現の直前の舞台裏の小太鼓も弱めで、遠くからの響きを意識していました。こういったところのシュピーラーさんの的確な気配り、いいです。)そして最後近くの練習番号30~31の、のどかな雰囲気がにわかに変わり、ハープがかき鳴らされ、そしてトロンボーンとホルンの斉奏までの部分。以前の記事にも繰り返し書いているように、「神の顕現」の重要な楽節ですが、ここが本当に素晴らしかったです。久しぶり(昨年の三河/小田原フィル以来)に、ここが満足できる演奏でした。ひとえに、シュピーラーさんとオケの人たちが、ここの音楽の意味をわかっているということに尽きるのだと思います。充実の第3楽章が終わり、ここで休憩がはいりました。(文が長くなりすぎてひとつの記事として載せられないので、続きは次の記事にわけて載せました。そちらもご覧ください。)
2010.08.12
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高関健/新交響楽団のマーラー7番を聴きました。7月18日 東京芸術劇場大ホール 新交響楽団第210回演奏会ドビュッシー 「管弦楽のための映像」よりイベリアマーラー 交響曲第7番輝かしい歴史と伝統を持つアマオケ、新交響楽団。このオケは、近年ではマーラーを、高関氏の指揮で、2007年に9番、2009年に6番、そして今回の7番と演奏しています。かねてから新響を聴いてみたいと思っていたもののなかなか都合がつかず、今回初めて聴けました。楽譜にこだわりを持つ高関さんは、今回もプログラムに特別寄稿を載せていて、7番に関して、数百箇所にわたる楽譜の疑問点を国際マーラー協会とやりとりして、きたるべき新校訂版に含まれるはずの訂正個所を盛り込み、さらに補筆した楽譜で本日演奏する、ということが書かれてありました。オケは定評どおり、うまくてきれいな音で、アマオケであることをほとんど忘れて聴いていました。こういう演奏を年4回も定期演奏会でやっているというのですから、本当にすごいオケです。高関さんは6月には京響で7番を演奏したということで、そのときにぐすたふさんがブログに書かれていた「庭師」らしさを、きょうも発揮していて、丁寧なマーラーでした。特に第2楽章ののびやかな歌と、終楽章のきっぷの良さが印象に残りました。そしてカウベルが良かったです。第二楽章の舞台裏のカウベルが、舞台の下手と上手の両方の扉をあけて、「舞台裏の両翼配置」で鳴らしていて、効果をあげていました。カウベルの音自体も、輪郭がはっきりした、どちらかというと明晰な音で、普通の田舎風のガランゴロンというものとは一線を画した、いい音でした。この「カウベルの舞台裏の両翼配置」は、昨年の井上喜惟/JMOの6番でもやっていて、非常に効果的だったことが思い出されます。今後この方式が普及することを期待してやみません(^^)。カウベルは、終楽章では舞台上で、なんと途中最大5人(多分)が手に持って、盛大に鳴らしていて、実に気持ちよい鳴らしっぷりでした。そしてそして終楽章の一番最後、鐘も加わったところがすごかった。鐘は普通のチューブラーベル1人でしたが、その他に、多分吊り下げたカウベルだか何かを乱打する人が、(僕の席からははっきりと確認できませんでしたが)多分2人いました。この他にもカウベル担当者がいたのかもしれませんが、ともかくこういった人たちが、一斉にそれはそれは派手にグワンゴワンと鳴らしたのです。吊り下げている台がぐらぐら揺れて倒れそうになったくらいです。ここの豪快な鳴らしぷりは本当に気持ちよいサウンドをもたらしてくれて、見事なフィニッシュの効果をあげていました。高関さんのナイスなこだわりでした。----------------------------------------以下は2010年8月30日の追記です。音楽の友の9月号に、マーラーの交響曲を聴くという特集が載っていたのでぱらぱらと見ていたら、ちょうど7月18日のこの新響の演奏会の日に行われたという高関さんのインタビュー記事があって、何枚か写真が載っていました。(63ページです。)この中に、吊り下げられた金属製のごつい板の写真がありました。これですこれです、これが曲の最後にグワンゴワンと鳴らされた諸打楽器のうちのひとつです。当日会場ではカウベルなのか金属板の鐘なのか良くわからなかったのですが、これで見て、板であることが明瞭にわかりました。ということは、曲の最後にチューブラーベルとともに板の鐘も乱打したということです!(このほかに手で持ったカウベルも乱打されたわけです。)マーラーのいろんな曲で鐘が出てきます。通常はチューブの鐘を用いますし、曲によっては板の鐘を使って効果を挙げている演奏もあります。しかしチューブの鐘と板の鐘の両方を同時に豪快に使うという方法に出くわしたのは、僕は初めてでした。あらためて高関さんのこだわりに感服したので、追記しておきます。
2010.07.28
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梅雨があけて、蝉が鳴き始めました。僕、何故かセミの声が好きです。うちのまわりからセミの鳴き声がじーじーと聞こえてくると、何故かうれしいです。音楽きくよりもぼーっとセミの声を聴いていたいと思うことも多く、音楽を聴く時間がかなり減っています。コンサートに行くこともめっきりすくないこの頃です。そんな中で、ルイサダのリサイタルは、素敵でした。7月17日 紀尾井ホールフォーレ 前奏曲第11番、第2番、第6番。ショパン バラード第1番、2番、3番。 ー 休憩 ーシューマン 蝶々ショパン アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ当初の予定ではバラード全曲ということでしたが、行ってみるとルイサダの希望で第4番は演奏中止ということでした。この秋にバラード全曲の新録音(日本で録音)が発売される予定というチラシがはいっていましたので、4番は今どう弾くか、まだ納得のいく結論が出ていないのでしょうか。ルイサダ、初めて聴きました。ヤマハのピアノを用いていました。僕はこのあたりの曲は皆、ちょろっと聴いたことがあるくらいですので、雰囲気的なことしかわかりませんが、素晴らしかったです。何しろ音がきれい。中音域の音が充実していて、新鮮な果実から絞り出したばかりの果汁がぷつぷつと粒立っているような、明るくて立体的な音です。そして音楽が良いです、自由で豊かな詩情があります。フォーレも、シューマンも良かったし、特にショパンは本当に良かった。アンコールは、ショパンの4つのマズルカ(作品24)、ノクターン第2番を弾いてくれたあと、鳴りやまぬ拍手に答えて、最後に意表をつくバッハ、フランス組曲第5番からサラバンド。これが非常にゆっくりしたロマン的なバッハで、リサイタルの最後をこれで締めるとは、心憎いばかりの選曲です。バッハのひそやかな抒情にホール満場が聴きいった、濃密なひとときでした。ルイサダのピアノ、いろいろ聴いてみたくなりました。
2010.07.26
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大植英次/大阪フィルによるブラームスの演奏会を聴きました。来年2月まで4回にわたって行われる、交響曲4曲と協奏曲4曲のブラームスチクルス、その第1回。ブラームス:ピアノ協奏曲第1番 (ピアノ:ジャン=フレデリック・ヌーブルジェ)ブラームス:交響曲第1番7月2日 ザ・シンフォニーホール折しも7月1日から3日まで出張で名古屋に来ていたので、ならば大阪の19時開演はぎりぎり射程距離、すきあらば大阪へ、と考えていました。なんとか強引に足を伸ばして聴きにきた次第です。大植さんとピアニストの歌心でブラームスをじっくり味わえた貴重なひとときでした。ピアノ協奏曲は、第二楽章アダージョの詩情が絶品でした。そして第三楽章の躍動感も立派なもので、充分に聴き応えのあるブラームスでした。アンコールももちろんブラームス、六つの小品(作品118)の第二曲の間奏曲。じつに暖かみのある演奏で、思わず涙がにじんできてしまいました。この若いピアニストの歌心に脱帽しました。休憩のあと、第一交響曲。第二楽章と、ゆっくりめに演奏された第三楽章、このふたつの中間楽章が、暖かく豊かな歌で歌われ、うっとりと魅了されました。大植さんの魅力全開!大阪フィルの木管は本当にすばらしいです。さらに特筆すべきは、第二楽章最後近くのコンマス長原さんのソロの凛とした圧倒的な美しさ。本当に心打たれました。一方両端楽章は、なんとなく重厚で粘る演奏を予想(期待?)していたのですが、それに反して、第一楽章の序奏は軽めにあっさりと始まるし、また第四楽章の第一主題をゆっくり歌わせて、もしかしてこのまま遅いテンポで突き進むのかと思うと急にギアチェンジしてテンポを速めたり、終結部のトロンボーン隊を筆頭とするコラールもややパワーセーブ気味(?)で、全体として重厚さあるいは突き抜けたパワーを目指すのとはまったく違った路線でした。特にその傾向が如実に現れたのが、曲の終結でした。一番最後の最後の長い主和音を、アタックのあとすぐにかなり音量をさげて(!)、短めにあっさり切り上げて終わりました。ちょっと肩透かしをくらった感じでした。うーんこの曲の最後は重厚に鳴らしきって締めてほしかった、と思う僕が古い人間なのでしょうか(苦笑)。曲が終わって、カーテンコールがすすみ、さて大植さんが団員をひとりずつ立たせようというとき、真っ先に立たせようとしたのがコンマスの長原さんでした。大植さんもあの第二楽章のソロにきっと深く感動し、それで最初に立たせようとしたのでしょうか。長原さんは遠慮して、他の人を先に立たせるべきだとかなり一生懸命粘って断っていましたが、最後にはやむなく(^^)立ち上がりました。きょうはちょっとハードスケジュールでしたが、心にじわっとしみてくるブラームスをたっぷり聴けて、聴きにきた甲斐がありました。大植さんと大阪フィル、それにヌーブルジェさんに、感謝感謝です。
2010.07.05
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仕事で1週間ほどロンドンに行ってきました。海外行きのチャンスはそうそうないので、できれば少しでもその地で音楽を聴きたい。今回ロンドンですので、コンサートやオペラにも期待できますが、何と言ってもケンブリッジやオックスフォードなどのカレッジの少年合唱の聖歌隊をご当地の教会で聴きたい、という長年の希望がかなうかもしれない、そう思って事前に調べておきました。ケンブリッジ・キングズ・カレッジの聖歌隊は有名なだけあってネットでの情報が充実していて、なんとか聴けるチャンスがあるかもしれないことがわかりました。それでケンブリッジへの電車(ロンドンから1時間ほど)の時刻表などを印刷しておき、あとはスケジュールとの兼ね合い次第、と思っていました。これが第一希望。他に限られた日程の中で行けそうなものは、ウエストミンスター大聖堂(ロンドン市内)でのオルガン・コンサート(トーマス・トロッター)を見つけ、これが第二希望でした。これらの他、ロンドン市内でのコンサートホールやオペラ公演は、日程的に聴けそうなものは僅かでしたがそれをピックアップしておきました。そしてロンドン滞在。残念ながらケンブリッジ行きは諸般の事情であきらめざるを得ず、ウエストミンスター大聖堂のオルガンコンサートも聴けず、かろうじてひとつだけコンサートを聴くことができました。第三希望と思っていたものです。フィルハーモニアの演奏による、ヴォーン=ウィリアムスとアラン・ホヴァネスの作品ほかのコンサート。6月13日の日曜夜19時30分から、クィーン・エリザベス・ホールというところで行われました。このホールは、有名なロイヤル・フェスティバル・ホールに隣接する建物の中にあり、その建物には他に「パーセル・ルーム」という素敵な名前の室内楽ホールもありました。パーセル・ルームでも同じ日にリサイタルがあり、こちらも興味ありましたが、曲目などからフィルハーモニアの演奏会を選びました。このコンサートについては日本であらかじめネットで空席状況を調べることができ、出発直前に見てみたら、すかすかに空いていましたので、これなら当日券でも充分入れるだろうと思っていました。当日夕方17時頃、テムズ河畔に建つホールに出向き、チケット売場に行ってみると、やはりすかすかで(笑)、1階センターの良い席を難なく買えました。25ポンドでしたので、約3600~3700円程度というところ。割合に安い価格です。この日は青い空のいい天気で、開演までの時間を、ロンドン在住者や観光客でにぎわう日曜夕方のテムズ河畔のテラスで、サンドウィッチとコーヒーでのんびりすごしました。この時期イギリスは日没が21時過ぎで、22時ごろまで明るいのです。19時頃、ホールにはいることにしました。ホールのある建物の入り口です。建物内部です。本棚のようなモニュメントがあったりしました。写真の右端がパーセル・ルームの入り口、その少し左がクィーン・エリザベス・ホールの入り口です。チケットは日本のように半券をもぎるのではなく、チケットに少し破り目を入れるという方式でした。この日の演奏会は、定期公演でなく、ちょっと変わったシリーズの一環のようで、プログラムはヴォーン=ウィリアムスとアラン・ホヴァネスの作品を主に、民謡編曲ものもあるというものです。曲目は、ヴォーン=ウィリアムス:タリスの主題による幻想曲(弦楽合奏)ホヴァネス:日本の版画による幻想曲(木琴とオーケストラ) ー休憩ー民謡2曲(ジェームズ・クラッブによる編曲、アコーディオンとヴァイオリン)ホヴァネス:聖グレゴリーの祈り(トランペットと弦楽合奏)ヴォーン=ウィリアムス:「富める人とラザロ」の五つの異版(弦楽合奏とハープ)ホヴァネス:オーマル=ハイヤムのルバイヤート(語り手とオーケストラ)客席は1階だけの中規模のホールで、客席の勾配がかなり急についていますので、どの席でも眺めは良い感じです。座席は革張りのクッションで座り心地は悪くないですが、背もたれが低く、ゆったりとは出来ないシートです。僕が入場したときには会場にはまだ客はほとんどいず、舞台上にはハープ奏者がひとりでチューニングしています。そのチューニングしているハープの音に、うっとりしてしまいます。今回のイギリス出張にアイポッドは持ってきていたのですが、忙しいのと疲れとで、連日ベッドにはいるやいなやバタンキューの睡眠で、ここ数日間まったく音楽を聴いていなかったので、久しぶりにきく楽器の音に、癒されます。開演時刻が近づくと、お客さんも結構はいってきて、センターブロックは後方を除いておおむね埋まりました。1曲目の「タリス」のために弦楽オーケストラが入場してきました。第一群の弦は通常配置で、第二群の弦9人は舞台上手奥の雛壇上におさまりました。チューニングが終わった後、若い指揮者ともう一人、コメンテーターがはいってきて、指揮者とふたりでひとときのトークがありました。内容はほとんどわかりませんでしたが、ウィットある解説のようで、会場からは笑いがときどきあがっていました。ヴォーン=ウィリアムスの「タリス」がイギリスの古い響きを再現し、一方ホヴァネスは「日本の版画・・」で、オケの楽器を使って日本の古い響きを出そうとした作品であるというような解説のようでした。ときどきトークに出てくる「Japan」という単語だけが良くわかりました。そしてトークが終わり、コメンテーターは退場し、演奏が始まりました。タリスの主題による幻想曲。この曲を生で聴くのは、何年か前の大友直人&東響、今年1月の藤岡幸夫&東京シティフィルに次いで3度目です。速めできびきびした指揮による演奏でした。さすがにフィルハーモニア、弦の響きに潤いがあってとても良いです。ホールも適度な響きでなかなか良く、しばし聴き惚れました。この日の演奏会は、前半の「タリス」、後半の「富める人とラザロ」というヴォーン=ウィリアムスのふたつの弦楽合奏の名曲をじっくりと聴かせてくれたのが何と言っても聴き応えありました。加えて、休憩後に演奏された民謡編曲が素晴らしかったです。アコーディオン奏者とヴァイオリン奏者の二人だけによる演奏でした。このアコーディオン奏者による編曲ということで、クラシックのコンサートの中では異色の、完全にケルト音楽調の乗りで、フィドルとアコーディオンの二重奏という感じで、とってもかっこ良かったです。これらに比べると、アルメニア系アメリカ人のホヴァネスの諸作品は、音楽のできとしては凡庸な印象は否めないものの、それぞれ編成が変わっていて、そこそこ楽しめました。最初の「日本の版画による幻想曲」は、なるほど、木管が雅楽のような音を出したりして、おもしろい曲でした。次の「聖グレゴリーの祈り」は、弦楽合奏をバックにトランペット1本がしっとりと祈りを歌う曲で、なかなか良かったです。最後の「オーマル=ハイヤムのルバイヤート」という何がなんだかわからない題名の曲は、舞台の前に一人登場したのが歌手だと思いきや、語り手で、オケの音楽をバックに語っていく作品でした。ヴォーン=ウィリアムスにもこのような語りとオケの曲があるのをCDで聴いたことがあるのを思い出しました。意味がさっぱりわからず、さすがにちょっと眠くなってきたりしているうちに終わってしまいました。この演奏会は、曲はホヴァネスの珍しい作品が主というマニアックなものでしたが、最初のトークだけならず、曲の合間に指揮者による解説もあったり、民族音楽風の民謡あったりと、肩の張らない趣向でした。聴衆の乗りは相当なもので、演奏が終わって「ブラボー」なんていう人は誰もいなくて、「ヒュー!」とか「ヘイ!」という掛け声が盛んに飛び交っていました。でもでも、フライングで叫ぶ人などおらず、きちんと、余韻が消えて、その後指揮者が手をおろしてから、拍手とともにそのような掛け声が飛び交い始めるのですから、さすが、ロンドンっ子の粋を目の当たりにしました。演奏会が終わったのが21時40分頃。ホールを出て「Riversideへの出口」を出ると、外はまだまだ、ようやく薄暗くなった感じでした。そのとき撮ったテムズ川の夜景です。ご当地イギリスでヴォーン=ウィリアムスの名曲が聴けて、良い記念になりました。
2010.06.17
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5月21日すみだトリフォニーホールで、ドビュッシーのオペラ「ペレアスとメリザンド」をききました。二日公演の初日。アルミンク&新日フィルの定期演奏会で、年1回行われているオペラのセミステージ形式の上演です。セミステージ形式とはいっても、毎回工夫された舞台設定で、かなり見応えのある上演をやってくれるこのオペラ定期、今回はどういう舞台になるのか、楽しみにしていました。この曲はCDでも聴いたことなくて、今回初めて耳にする音楽です。前日にウィキペディアであらすじだけ、にわか勉強して臨みました。架空の王国のアルケル王の孫ゴローが妻にしたメリザンドが、ペレアスと愛し合い、悲劇の結末へという物語。演出良し、音楽良し、歌手良しで、大満足のオペラ上演でした。演出:田尾下哲ペレアス:ジル・ラゴンメリザンド:藤村実穂子ゴロー:モルテン・フランク・ラルセンアルケル王:クリストフ・フェル合唱:栗友会合唱団指揮:クリスティアン・アルミンク管弦楽:新日本フィルハーモニー交響楽団舞台の背後ほぼ全面に巨大なスクリーンが設置されています。その分舞台の奥行きは短くなっていて、オケはスクリーンの前に横長の長方形に並びます。弦は下手から第一Vn、第二Vn、Vc、Vaでコントラバスは後ろに横一列という変則配置で、ホルンが一番上手の前(客席側)に位置し、良く見えます。ハープ2台が下手奥。序奏が始まると共に、スクリーンに映し出されたのは深い森の中。霧が立ち込める中に木々が仄かに浮かび上がり、それがゆっくりと横方向に移動していく神秘的な映像です。それにタイトルやら指揮やら出演者の名前が次々に映し出されていくさまは、ほとんど映画そのもの。映画館の大スクリーン上映を見ている感じです。それをバックに新日フィルが奏でるドビュッシーの音楽は密やかで精妙な響きで、いやこれは素晴らしい音楽です。この映像と音楽に、いきなり引き込まれてしまいました。今回は舞台装置は何もなく、この巨大スクリーンに白黒の背景映像が映し出されるだけのシンプルなもの。この映像、オケの間奏的な箇所で森が映しだされるときはゆっくりと横方向に移動していきますが、それ以外は固定した映像です。でも単なる静止画像でなくて、たなびく霧、漂う蛍(?)、松明の揺らぎなどがたくみに表現されているので、不思議な臨場感があって、実に良くできています。ひたすら繰り返して映し出される暗い森の場面や、洞窟や、城の中の暗い部屋などが、登場人物達が置かれている閉塞した状況を良く現しています。唯一、第一幕の途中で、海を見下ろす小高い丘で遠くに城が霧の中に浮かんでいる画面が映し出され、ゆっくりとたなびく霧の動きから、風が海に吹き抜けていく広がりが感じられました。しかしそこでも、ゴローの母が、私はもう40年もここで生活していると歌い、この物語の閉塞性というか、霧と森に包まれたこの世界から逃れることの困難さを示していたのが印象に残りました。歌手の動線は、スクリーンのすぐ前(つまりオケのすぐ後ろ)の少し高くなったところの横一線と、舞台の一番手前(オケのすぐ前)の横一線、この2つだけという、これもシンプルなものです。シンプルですが手前と奥と2箇所をうまく使い分けることで、充分な遠近感と緊張感が生じるという、巧みな舞台設定でした。この演出、日本人ならではの幽玄の世界観をたくみに現し、それがこの作品の雰囲気と非常にあっていて、絶妙と思いました。演出が自己主張しすぎて音楽を妨げるようなことがなく、あくまで音楽に奉仕して音楽の効果を高めながら、結果として演出の存在感も際立つ。これぞオペラの演出でしょう。新国立劇場のトーキョー・リングの奇抜な演出と正反対です。それにしてもドビュッシーのオペラがこれほど素敵な音楽とは知りませんでした。劇の展開につれて不可解さを増す登場人物の屈折した心理が、繊細な音色の変化で描写され、まったく弛緩するところがありません。なにしろ初めて聴く音楽ですので、演奏の特徴などはさっぱりわかりませんが、アルミンクにはきっと、このあたりの近代物がとってもあっているのだろうと思います。歌手もみな素晴らしかったです。メリザンド役の藤村実穂子さんは、劇中の大半はうつむきがちで控えめな歌唱に徹しつつ、第三幕冒頭、城の塔で歌う無伴奏のアリアでは圧倒的な存在感をみせつけてくれました。このオペラの一番の聴きどころと思われます。ペレアス役のジル・ラゴンという方の繊細な歌と味わいある演技にも、すっかり魅了されました。第三幕でペレアスへの愛を歌うところの内に秘めた情熱など、とても良かったです。この歌手は当初の予定からの代役で、チケットを買うときに係の人から「歌手が代わったけれどよろしいですね?」と念をおされたりしたので、あまり期待できないのかなと心配したりしましたが、無用の心配でした。アルケル王を歌った方も、本来は日本人歌手の予定が直前に代役になった方ですが、優しく包容力ある感じが出ていて、陰鬱な劇の展開の中で、一服の癒しのような味わいの歌を聴かせてくれました。メリザンドの夫ゴローは、メリザンドとペレアスの仲に疑念と苛立ちと怒りを大柄な体躯で激しく表現していましたが、粗暴さだけが目立って単調になってしまい、全体の雰囲気にややそぐわない感じを受けました。また声の乗りも今ひとつで、他の3人に比べるとやや不調という感じでした。アルミンクは藤村さんを気に入っているようで、新日フィルのオペラ定期では2008年の「ばらの騎士」のオクタヴィアンに続いて、今回のメリザンド、そして来年の「トリスタンとイゾルデ」にもブランゲーネ役で登場する予定ということです。藤村実穂子さんのホームページで今年の活動予定を見ると、バンベルグとフィラデルフィアでマーラー3番、バイロイトでフリッカ役、バーミンガムでマーラー8番、ベートーヴェン第9をティーレマン/ウィーンフィルおよびシャイー/ゲヴァントハウスでと、目もくらむような予定が乗っています。日本でもこの秋にメータ/イスラエルとのマーラー3番が予定されていましたが、曲目が巨人に変更されてしまい、まったく残念です。ところで蛇足ながら、ウィキペディアのペレアスとメリザンド(ドビュッシー)によると、デュカスのオペラ「アリアーヌと青髭」には、青髭公に幽閉された5人の妾のうちメリザンドと名乗る女性が登場し、ドビュッシーのオペラでのメリザンドが青髭公の城から逃げてきたと思わせるようになっている、という興味深い指摘がありました。なるほど、メリザンドが青髭公の城から逃げてきたという設定とすれば、トラウマによるメリザンドの屈折した台詞とふるまいが多少は理解できるような気がしますし、劇全体を包む閉塞感という点も「青髭公の城」と共通していて、なにか納得させられます。「青髭公」の続編として鑑賞するのもおもしろいな、と思いました。今年4月、新日フィルのサントリー定期演奏会で、井上道義の指揮でバルトークの「青ひげ公の城」が演奏されたんです。そうかこのバルトーク定期は、今回の「ペレアスとメリザンド」への布石だったのかと、アルミンクの年間プログラミングの妙に感心しました。この井上道義の「青ひげ公」も、かなり良い演奏でした。できればその感想も忘れないうちに書きたいと思っています。
2010.05.31
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引き続き、ちょっと前のコンサートの感想を書きます。4月4日オーチャードホールで、エッティンガー/東フィルによるマーラーの交響曲第2番「復活」を聴きました。エッティンガーの常任指揮者就任記念演奏会です。指揮:ダン・エッティンガーソプラノ:平井香織アルト:カティア・リッティング合唱:新国立劇場合唱団管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団3月22日の日記「楽劇ジークフリート(新国立劇場)」にちょっと書いたように、エッティンガーのマーラーは2007年に東フィルを振った4番をオペラシティで聴き、とても良かったので、今回是非聴きたくて、やってきました。オーチャードホールは舞台が狭いですので、舞台が前にせりだし、奥行きを深くしてあります。(客席の最前列は6列目。)オケは両翼配置。そして舞台の上には、普通より太めのチューブラーベルが置いてありました。そう、この太いベルです。この太いベルには、見覚えがあります。2006年4月、ハーディングが東京フィルを振った演奏(東京オペラシティ)でした。僕が東フィルによる復活を聴いたのは、このときが初めてでした。ハーディングの指揮はフレーズとフレーズの合間に緊張感が満ちていて素晴らしかったです。また北欧出身のふたりの独唱者が、合唱団と同じ高いところ(パイプオルガンのすぐ前)に位置するという素晴らしい配置で、かつ透明度が高くて気品ある歌唱を聴かせてくれました。そしてこのハーディングの復活のとき、僕がもっとも印象深かったのが、鐘の音でした。終楽章の最後のところの鐘が、教会の大きな鐘をがらんがらんと叩いているのをイメージさせるような、実に豊かないい音色で響いたのです。このとき僕の席は1階のかなり後方の席で、鐘が良く見えなかったので、演奏が終わってから舞台にちょっと近づいて見たところ、普通よりも太いチューブラーベルがぶら下がっていました。なるほど、こういう太いベルがあるんだ、これでああいう素晴らしい響きを出したのか、と感心しました。こういう太いベルを見たのは初めてだったので、オケのものなのか、それともハーディングがこだわって何処からか調達したのだろうか、などいろいろ想像を巡らしたものでした。そして今回、舞台の上にはそのときと(おそらく)同じ、太いチューブラーベルがありました。そうか、このベルは東京フィルが持っているものだったのか、そしたら今回はどういう鐘の音が聴けるのだろうか、と楽しみになりました。舞台にオケと合唱団がびっしりと入場し、演奏が始まりました。エッティンガーのマーラーは、やはり素晴らしいです。何が素晴らしいかと言えば、一つはテンポ感覚です。基本テンポの土台がしっかりしていて、そしてそこからのアッチェレランドが絶妙。マーラーのアッチェレランドは、やりすぎるとスケール感が損なわれ、足りないと鈍重になってしまうところを、必要にして十分、スケール感と迫力とを兼ね備え、マーラーのツボをおさえているという感じがしました。もう一つは、尖った性質のアタックにかなり神経を使っていて、ところによって尖った感じを非常に強調していて、なかなかの効果をあげていました。たとえば第一楽章の最後近くのヴィオラの短い下降音型(練習番号26のスフォルツァンドの指示の箇所)などです。そしてオケの頑張りは特筆すべきでした!非常に良い、立派な音を出しています。僕は東フィルをそれほど沢山聴いていませんが、これまで聴いた印象を払拭する、すばらしい演奏ぶりでした。特にホルンをはじめとする金管セクションの頑張りは相当なものです。ハーディングによる復活のときは、トロンボーン隊はみごとでしたが、ホルン隊の力不足が目立っていました。しかし今回はホルンも含めて申し分ない立派な演奏でした。プログラムの解説によると、東フィルは節目節目で復活を演奏していて、得意曲にしていると言うことです。プログラムに列挙されているそれら節目での復活の演奏は、 1978年5月 第200回記念定期演奏会(尾高忠明) 1989年8月 オーチャードホールこけら落とし公演(尾高忠明) 1992年4月 大野和士常任指揮者就任披露公演 2001年1月 合併前の旧・東京フィルの最後の定期演奏会(沼尻竜典) 2001年6月 新星日響と合併しての最初の定期演奏会(チョン・ミョンフン)なるほど大事な節目に演奏しています。今回のオケの頑張りは見事で、さすがに得意曲というだけのことはあります。こういう得意曲があるオケって、いいですね。さて、鐘です。鐘は、最終楽章の中程と、最後のところで活躍しますね。今回のエッティンガーは、鐘を力を込めて強くはっきりと叩かせてました。はっきり聞こえたのはいいんですが、硬質のきつい音色で、ともすれば鍛冶屋が金属を鍛える音みたいで、ちょっと曲調にあってない感じがしました。この鐘にはもっと高貴で崇高なものを感じ取れる響きがほしいところです。おそらくハーディングも同じベルを使っていたのだと思いますが、会場や座席の位置が違うにせよ、ハーディングのときにあれほど素晴らしい響きだったのは、やはりハーディングの非凡さのなせる技だったのだろうか、とあらためて感心した次第です。しかしながら総じてエッティンガーのマーラー解釈は、奇をてらったところがなく正攻法で、すばらしいと思いました。オケの頑張りとともに、満足できた復活でした。今後ともエッティンガーのマーラーに期待したいです。
2010.05.23
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カザルスホールの閉館がいよいよ迫った3月は、31日まで連日のように、最後を惜しむ数々のコンサートが開催されていました。その中で僕が日程的に行けるのは3月10日のボッケリーニのスターバト・マーテルなどのコンサートだったので、これを聴きに行くことにしました。3月10日がやってきました。今回は音楽もさることながら、カザルスホールにお別れを告げることがメイン目的でしたので、早めに行って、写真をとることにしました。御茶ノ水駅から歩くこと数分、ホール前に到着したのが、ちょうどたそがれの頃でした。表通りのあたりから、奥に少し引っ込んだエントランスの方を臨んだ写真です。ホールは、上の写真で正面の入り口を入って右に進んですぐ、写真右手の建物の中です。写真中央遠方に立つ高層ビルは日大の建物かと思います。このあたり一帯が日大の御茶ノ水キャンパスで、ホールの周りには時間貸し駐車場や、広い空き地やグラウンドが不規則にあって、なるほどいかにも再開発前の土地です。。。ホール入り口です。まだ開場時刻の少し前なので人はほとんどいませんでしたが、このあとほどなく、開場を待つ人が大勢この前に集まり始めました。さて今夜の演奏会は、オール・ボッケリーニ・プログラム。キアラ・バンキーニ(音楽監督、ヴァイオリン)アンサンブル415(古楽アンサンブル)マリア・クリスティーナ・キール(ソプラノ)前半は弦楽五重奏曲(2Vn,1Va,2Vc)が2曲で、後半はそれにソプラノ独唱が加わった編成で、スターバト・マーテルでした。ボッケリーニの曲はメヌエットくらいしか聴いたことなかったです。プログラムの解説によると、ボッケリーニは自身が卓越したチェロ奏者で、彼が長く仕えたスペインの宮廷には優れた弦楽四重奏団があり、それで自らが参加して演奏できるように、チェロ2台という編成の弦楽五重奏曲が多いということです。なるほど。そしてスターバト・マーテルは、第1稿がソプラノ独唱と弦、改定稿がソプラノ、アルト、テノールの3人と弦、という編成ということです。これほど小さな編成のスターバト・マーテルがあるとは知りませんでした。今回の日本公演の企画・招聘元のアレグロミュージックのチラシに掲載されているインタビューによると、アンサンブル415の創設者バンキーニさんは、ボッケリーニの音楽が大好きで、このスターバト・マーテルの第1稿を含む数々のボッケリーニの曲を録音しているそうです。バンキーニさんはスターバト・マーテルについて、「この作品の編成は本当に独特です。人の声はあたかも6番目の声部のようになっています。第1チェロのソロが歌に対して同じ強さで応答します。」と語っています。前半の弦楽五重奏曲も良かったですが、休憩のあとのスターバト・マーテルがなんといっても圧巻でした。キールさんというソプラノ、とっても素敵です。弦楽器五つと独唱という小編成による祈りの音楽は、このホールならではの長く豊かで自然な残響がふさわしく、じんわりした感動に浸ったひとときでした。演奏が終わって、盛大な拍手喝采が起こりました。演奏者に対してのみならず、ホールへの感謝の気持ちをもこめて拍手したのは、きっと僕だけではなかったでしょう。やがて拍手が鳴り止み演奏者が退場したあとも、名残を惜しむようになかなかホールから出ようとしない方々が大勢います。そしてホールの係の方も、いささかも帰りをせかそうとせず、そういう人々の想いを暖かく見守ってくれています。ホールの写真をとる方も少なからずいて、係りの方はそれもにこやかな笑顔で見守っています。僕はコンサートが終わった後でもホール内の写真撮影はいつも差し控えています。今回もホール内部を撮るつもりはありませんでした。けれど、このような特別な雰囲気の中で、今回ばかりは内部を撮らせていただいても良いかなぁと思って、ホールを出る前に1枚撮らせていただきました。(舞台上にいるのは譜面台などを片付けに出てきたステージマネージャーさんと思われます。)これは帰り際に撮った、ロビーの壁にある定員511名の表示です。そしてこれは入り口を入って目の前の壁にある、カザルスホールのマークです。素敵なマークですよね。そうそう、ホールの開演5分前を告げるベルは、カタロニアのあの「鳥の歌」を、低い鐘の音で重々しく歌ったもので、意味深く印象的な響きでした。あの音ももう耳にすることはないのでしょうか。。。僕の古い机の引き出しに眠っていた、カザルスホールフレンズの会員証です。右下の紙は、2010年3月31日、カザルスホール最後のコンサート「カザルスホール331」のチラシの一部です。8年前には、再会を信じつつ、ひとまずさようならをしたカザルスホール。今度は本当にさようならでしょうか。。。数々のすばらしい音楽を、ありがとう。
2010.05.18
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2010年3月末、ひとつの名ホールが惜しまれつつ、とうとうその歴史を閉じてしまいました。東京お茶の水、カザルスホール。民営による日本初の室内楽専用ホールとして、1987年に完成。サントリーホールの音響を手がけた永田音響設計による豊かな残響の美しさとともに、頭脳集団アウフタクトによる数々の好企画が、とても貴重な魅力を持つ小ホールでした。僕はそれほどしばしば通ったわけではありませんが、一時期はカザルスホールフレンズの会員にもなっていました。草色と藤色の背景に、鳥が音符を加えて飛んでいるロゴマークが描かれた素敵なデザインのフレンズの会員カードは、僕の古い机の引き出しに今もずっと眠っています。カザルス夫人の許可をもらってつけたその名にふさわしく、ピアノでは長めの残響でやや音が濁る場合もありましたが、ソロあるいは小編成の弦楽には極上の響きを実現してくれました。僕がその頃の、いわばこのホールの歴史の前半で、とりわけ印象に残っている体験は、1994年のクリスマスイブに聴いた藤井一興さんのメシアンの「幼子イエズスに注ぐ20の眼差し」のリサイタル(2009/6/10の日記をご参照ください)、1995年ヒンデミットの生誕100周年を記念して行われたヒンデミット・ヴィオラ・フェスティバルでカシュカシアンのヴィオラを聴けたこと、それから同じく1995年、ハンガリーの児童合唱団カンテムスを初めて聴いてその響きの美しさに圧倒されたのも、ここカザルスホールでした。1997年にはオルガンも設置され、ますます充実していくかにみえたカザルスホール。しかし、赤字に耐えながらこのホールを運営してきた主婦の友社が、経営難から資産整理のため、2000年にはホールを有する建物の売却を計画、アウフタクトも廃止されました。カザルスホールはどうなるのか、単なる貸しホールになってしまうのか、といった議論がわき起こり、これが世に言う「カザルスホール2000年問題」でしたっけ。そして、カザルスホールは2002年秋に敷地・建物ごと日本大学に売却されることが決まりました。当時は日大は、ホールの保存・継承に意欲的で、学長がカザルス夫人を表敬訪問したそうです。そしてホールの建物はそのまま残し、周囲の建物を大学施設の高層ビルに作り直し、将来は6割を学内の教育活動として利用し、残りは貸しホールとして一般公開する、という方針が発表されたりしました。いよいよ日大に売却されるためホールが閉じるという、その数日前に聴いた、今井信子さんほかによるバッハのゴールドベルグ変奏曲の弦楽三重奏版も、忘れがたい感銘を受けた演奏会でした。ホールに深く関わってきた今井さんのヴィオラが要となって、滋味深い音楽が、ホールへの惜別の辞のように美しく響いたひとときでした。一体このあとこのホールはどうなるのだろうか、カザルスの名に値する内容を維持していけるのだろうか、という懸念が渦巻くなかで、カザルスホールの前半史はひとまず閉じられたのでした。しかしその後、「日本大学カザルスホール」として復活し、新たな歴史が脈々と続いて行ったのは、とてもうれしいことでした。僕がこの新生カザルスホールを初めて訪れたのは、2003年4月、バッハ・コレギウム・ジャパンによるバッハのヨハネ受難曲とマタイ受難曲でした。丁度BCJがアメリカツアーから帰った直後の凱旋公演で、彼らとしても気合が充実していたのだと思います、本当に素晴らしい演奏でした。こんなにも早く、しかもこんな素晴らしい形でカザルスホールと再会できたことを、とてもうれしく思ったものでした。その後、僕はこのホールを訪れる頻度が少なくなっていましたが、なんと今度は2010年3月末をもって、ホールが閉館されてしまうとは!そのことを知ったときは、いささかショックでした。日本大学によれば、ホールを有する建物を含んだ広いお茶の水キャンパスの敷地を再開発するためということです。ホールの閉館後のことは決まっていないということですが、建物ごと取り壊されてしまうのでしょうか。。。それでその歴史が本当に閉じられてしまう前に、最後にもう一度、是非ホールを訪れておこう、そう思って足を運んだのが、2010年3月10日、ボッケリーニのスターバト・マーテルの演奏会でした。・・・この続きは、また近いうちに書こうと思います。------------------------------------------------------------追記:ボッケリーニのスターバト・マーテルのコンサートは、当初3月16日と書き込みしましたが、3月10日の間違いでしたので、訂正しました。(2010/5/18 訂正&追記)
2010.05.13
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3月のインバル&都響、4月の金聖響&神奈川フィルに引き続き、今度は水星交響楽団(アマオケ)のマーラー3番をきいてきました。これほどの3番ラッシュは久しぶりで、実に有難いことです。5月1日土曜日、東京文化会館大ホール、同楽団の第43回定期演奏会でした。指揮:齊藤栄一アルト独唱:小川明子合唱:オルフ祝祭合唱団児童合唱:すみだ少年少女合唱団管弦楽:水星交響楽団水星交響楽団。いい名前です。宮沢賢治のセロ弾きゴーシュに出てくるオケが金星音楽団という交響楽団ですから、それにあやかったのでしょうか。金星よりさらに太陽に近い水星。略して水響(すいきょう)、これ「酔狂」に通じる、お洒落でアマオケにふさわしい素敵な略称ですね。常任指揮者の斎藤栄一さんという方が、「振っても書いてもしょせん酔狂」というご著書を書かれていると言うことです(^^)。プログラムによると、一橋大学管弦楽団出身者を中心としたオケということです。水響は17年前にも3番を演奏しているそうです。さて土曜日の午後、仕事をなんとか早めに切り上げ、上野の文化会館に着いてみると、開場時刻よりずいぶん前なのに、すでに結構な行列ができていて、それがどんどん長くなっていきます。それで10分ほどの繰り上げ開場となりました。もらったプログラムがまた良いです。団員の方が書かれた堂々5ページにわたる楽曲解説が素晴らしいです!歌詞もご自分で訳出していて、ニーチェ哲学との関連まで詳しくわかりやすく書かれていて、とてもためになります。そしてその解説の次には、「私のマーラー3番」と題して、独唱者と団員数名の方のこの曲への思いが書かれていて、今回1番トロンボーンを吹く方の熱い想いの文章などがあり、これもとても興味深いです。昨年の小田原フィルといい、今回の水響といい、こうしたこだわりと愛着が満載のアマオケのプログラムって、素敵です。歴史と伝統ある東京文化会館の大ホール。ここは旧来型のホールで、舞台の後ろや横には座席がなく、広い1階と、2、3、4、5階の左右と後部の座席からなり、座席数2303席です。僕は1階に座りましたので上の方は良くわかりませんが、開演前にはほぼ満員になったのかもしれません。すごい盛況ぶり。オケの配置は、弦は左から第一ヴァイオリン、第二ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスという通常配置。ベルは舞台上でした。舞台奥に合唱団用とおぼしき何段かの雛壇。そして独唱者用の椅子は、指揮者のすぐ左側に用意されています。この独唱者の位置は、以前は標準的な配置でしたが、近年は採用されることが少なくなっていて、久しぶりに見ました。オケのみが入場し、声楽陣は入場せず、この状態で演奏が始まりました。アマオケらいし、いい演奏が続いていきます。トロンボーンソロは、このソロを吹くのがうれしくてたまらないという感じでパワー全開。途中(練習番号54)の舞台裏の小太鼓は、距離感充分です。また、冒頭のホルン主題のところのシンバルが二人だったのに対して、後半でこの主題が再現されるところでのシンバルは三人と、細かなところもしっかりこだわっています。第一楽章の後半は、オケにも勢いが出てきて、かなり立派な演奏でした。第二楽章も、適度な歌心があって、良かったです。第三楽章のポストホルンパートは、明らかにトランペットの音色でしたけれど、これも距離感充分で、ちゃんと遠くから聞こえてきたのが良かったです。後半ちょっと疲れが出たポストホルンを、応援しながら聴いていました。第三楽章演奏途中の合唱団入場もなく、ごく普通に第三楽章が終わってから、合唱団が入場してきました。やはりこの入場方式が、一番無難な方法です。(これ以外の入場方法をとるのであれば、余程の目的意識、志、演奏水準を持っている必要があります。そうでないと先日の金聖響&神奈川フィルのような意味のない途中入場になってしまいます。)舞台奥の雛壇の下手側に児童合唱、上手側に女声合唱が並びました。そして合唱団の入場が完全に終わってホールが静まり返ってから、独唱者がしずしずと入場しました。これは「拍手してください」と言っているような入場の仕方で、当然のように比較的大きな拍手がわき起こりました。指揮者も独唱者も拍手が起こることを良しとしている、というか、拍手がおこることを当然のこととして想定しているようにお見受けしました。。。このごろ、演奏者も聴衆も意識が高く、ここで拍手が起こらないでしんと静まり返っている演奏会が比較的多く、その場が引き締まるような感じで、とてもいいものです。やっぱりここは指揮者がそういう意識を持って、拍手を起こりにくくする工夫を少しでもしてほしいな、と思います。たとえば合唱団の入場と合わせて一緒に独唱者を入場させるということだけでも、拍手が起こりにくくなりますし。さて第四楽章。この独唱は、深く、抑制のきいた歌唱で、素晴らしかったです。この歌に聴き入っているうちに第四楽章がすぐ終わってしまうように感じました。第四楽章の終わる少し前に、指揮者の合図とともに合唱団がすくっと起立しました。第五楽章も、悪くないです。ところで独唱者は、ご自分の歌う部分が終わるとすぐに、すっと着席されました。これ、第五楽章のほぼ半分くらいのところです。これほど早い着席タイミングも珍しいです。合理的といえば合理的ですけど、何かちょっと違うような気も。。。それから合唱団の着席タイミングも書いておきます。第五楽章は立ったままで歌いきり、終楽章が少し進んでから、指揮者の指示で座るという、これも普通の方法でした。ただ、終楽章開始後、割合に早い時期に座らせ、それがすごく自然なタイミングの指示で、しかも皆さんが静かにすっと座ったので、音楽を妨げない、とても良い着席でした。終楽章は、かなり速いテンポですすんでいきます。適度な歌があり、なかなか良い演奏ですが、もう一段の歌い込みが欲しい感じはします。オケは良く頑張っています。テンポ的にちょっとユニークだったのは、最後の盛り上がりが終わって鎮まっていくところ(練習番号30の後半あたり)、ここで一度、かなり歩みを遅めていき、そして最後のティンパニーの歩みのところでは再びテンポを速めました。(スコアには確かにそういう指示がありますが、それを極端に実行したという感じです)演奏全体を通じて、アマオケとして立派な演奏でした。もちろん技術的にはいろいろな限界がありますが、アマオケとしてこれくらいの演奏を聴かせてくれれば充分でしょう。第一楽章後半の鳴りっぷりは相当なものでしたし、第二、第三楽章の指揮者の歌心、伝わってきました。そして第四、第五楽章は独唱者の力がオケを引っ張っていき、いい音楽を奏でてくれました。終楽章のテンポ設定が自分の好みとは異なりましたが、ひたむきなマーラー3番を聴かせてくださいました。ありがとうございました。そしてカーテンコール。ポストホルンパートを吹いた奏者の方が、トランペット、すなわちご自分の吹かれた楽器を持って登場しました。そう、この心意気が大切なんです!僕は思わず、より一層の力をこめて精一杯の拍手を送りました。ありがとう。これでこそ、これでこそ拍手喝采をおくる甲斐があるというものだし、奏者の方もその喝采を、晴々しい気持ちで受け止められたことでしょう。こちらも清々しい気持ちになりました。ポストホルンパートで大切な事って実に沢山ありますね。テクニック、スタミナ、音程、歌心。音色、距離感。そして何よりも、心意気。
2010.05.04
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金聖響&神奈川フィルでマーラー交響曲第3番を聴きました。4月23日、みなとみらいホール。指揮:金聖響メゾソプラノ:波多野睦美合唱:神奈川フィル合唱団児童合唱:小田原少年少女合唱隊管弦楽:神奈川フィル金氏のマーラーは、2007年春にN響を振った巨人を聴いたとき、僕の好むマーラーとかなり離れていたのですが、果たして今回はどういう3番になるのでしょうか。独唱者に、古楽を中心に活躍する、僕の敬愛する波多野睦美さんを起用というのも珍しく、興味津々です。ホールに入って楽器配置を眺めると、オケは両翼配置、しかしチューブラーベルは残念ながら舞台上です。合唱団用とおぼしき長椅子が舞台奥に何列か並んでいます。このホールはサントリーホールと同じように、パイプオルガンと舞台の間に数列の客席があり、この曲ではそこを合唱団席として使うのが普通です。しかし今日は客席として使われ、普通にお客さんがはいっています。オケと女声合唱が入場し、女声合唱が舞台上の長椅子に座りました。これで舞台上はほぼいっぱいのようです。とすると児童合唱がいつどこに登場するのでしょうか。オルガンの前の席はお客さんがはいっていますので、もしかしたら舞台すぐ横の3階、高いところに位置する客席だろうか、などとあれこれ想像をめぐらしながら開演を迎えることになりました。ついで指揮者とともに、鮮やかな青い衣装をまとった波多野さんが登場しました。波多野さんは、女声合唱よりも少し前、オケの中(ティンパニの前あたり)に座ったようでした。(僕の席は1階の前寄りだった関係上、立ち位置をあまりはっきりとは視認できませんでした。)このように独唱者がオケの中に座るやり方は、以前アバド&ベルリンフィルの来日公演でも見かけました。第一楽章が始まりました。ピシッとした、すごく気合いがはいった良い感じです。N響との巨人のときより、ずっといいです。トロンボーンのソロも強弱の陰影濃く、立派でした。ただ、第一楽章を聴き進むうちに、音楽がちょっと勇ましすぎる感じがし始めました。夏が来る浮き浮きするような喜びある行進であって欲しいのに、ちょっと軍隊調の厳めしい勇ましい曲調になりすぎて残念です。それから、冒頭のホルンの主題が再現される直前、舞台裏の小太鼓が目立つ部分(練習番号54)がありますね。この小太鼓を、舞台の上手のドアを開けて、確かに舞台裏で叩かせてました。しかし、おそらくドアのすぐそばで叩いているのでしょう、姿こそ見えないけれど音がすぐそばから大きくはっきりときこえてきて、距離感がまるでないんです。これではオケの中で叩くのと変わらないです。この小太鼓、スコアには「遠くに設置された小太鼓」と指示されています。舞台の裏で叩けばどこでも良いと言うものではなく、ある程度の距離感を感じられることが大事だと思うんです。このような点が引っ掛かりましたけど、第一楽章はオケも頑張っていて、引き締まった、それなりに聞き応えのあるものでした。しかし第二楽章は、魅力乏しく、ちょっといただけない演奏でした。オケの練習不足なのかなぁと思いました。第三楽章、ポストホルンは、明るめの、なかなか素敵な音色で聴かせてくれました。僕はポストホルンの音色っぽいかなぁ、と思いましたが、友人はトランペットの音ではないか、と言っていました。インバルの一件(「ところでポストホルン?」を参照ください)以来、自分の耳にすっかり自信がなくなってしまいました(^^;)。まぁ何の楽器を吹いたにせよ、音色としては、かなり魅力ある音色でした。演奏自体には傷が多少あったけれど、このような音色で聴ける喜びは大きく、いい演奏でした。ただし、惜しむらくは、先程の小太鼓と同様、距離感が感じられなかったことです。今回ポストホルンの音は、ホールの右奥の高いところあたりから響いてきました。おそらく会場の右奥の、2階か3階の客席と廊下の間のドアを開けて、そのすぐそばで吹いたのかと想像します。舞台裏とはいえ、すぐそばで吹いている感じで、遠くからという感じがしませんでした。このポストホルンは、遠くから聴こえてくる感じがしてこそ、胸にせまります。(大植&大フィルのポストホルンの距離感は本当に素晴らしかったことを思い出します。)さて曲は進み、ホルンとトロンボーンの斉奏の楽節(練習番号30、31)です。ここは普通に通過しました。しかしその直後の練習番号32、楽章の最後に向けて音楽が徐々ににぎやかになり始めるところから、児童合唱が入場し始めました。ホール2階の奥の左右から続々と素早く(小走り気味に)入ってきて、パイプオルガンの前の通路に立ったまま横一列に並び始めました。そして第三楽章の終結までの短い間に、慌ただしく並んでいきました。それでも第三楽章の終結音が鳴り止むタイミングまでには間に合わず、そのほんのわずか直後に、最後の児童が整列し終わりました。児童合唱をこのように入場させるからには、そのままアタッカで第四楽章を始めるのだろう、と思いきや、指揮者は指揮棒を下ろして、小休止をとったのです!うーん、ここで児童合唱を入れるんですか。。。そしてそれは一体何のためなんでしょう!?もし、どうしても第三楽章の演奏中に児童合唱を入れなくてはならないのだとしたら、この32からというタイミングはそれほど致命的ではないと思います。昨年秋の井上道義/OEK&新日フィルの金沢公演では、この直前の30、31のホルンとトロンボーンの斉奏の真っ最中、まさに神が姿を現しつつある音楽の真っ最中に、合唱団がぞろぞろ入場し始めるという、最悪のタイミングでした。それに比べれば今回の入場開始のタイミングは、僅かにうしろにずれただけとはいえ、音楽の内容的には神が現れ終わったあとの部分なので、音楽の受ける被害は随分小さくてすみ、多少はましです。(しかしこのタイミングだと第三楽章の終わりまでの時間が短いので、児童合唱が大勢入場する時間はとれません。)しかし、そこまでしてわざわざ児童合唱を音楽の演奏中に入れる目的は、そもそも何なのでしょうか。スコアには指定がない、第三楽章と第四楽章をアタッカで演奏するため、としか考えられません。それなのに今回の金氏は、第三楽章が終わったあとに指揮棒を下ろして間合いをとったんです。ここで間合いを取るのであれば、わざわざ演奏中に合唱を入場させず、第三楽章が終わってから普通に入場させた方が、音楽を損なわずにすむので、はるかに良いのに。。。意味不明の演奏中の児童合唱入場でした。いよいよ波多野さんが起立し、第四楽章です。波多野さんは、楽章前半はノンビブラート唱法でひそやかに歌い、途中のソロヴァイオリンとの掛け合いのところからぱっと歌の表情を変え、内なる情感のほとばしりを表現していて、その切り替えが見事でした。ただ全体的には、マーラーに波多野さんという組み合わせは双方に勿体ないかな、と思いました。曲は第四楽章からアタッカで第五楽章へ。パイプオルガンの前に横一列にずらっと立ったまま並んでいた児童合唱が、ぱっと照明に照らし出されるのと同時に歌い始めました。そしてそれに少し遅れて第四小節あたりで、女声合唱がすくっと立ち上がり、歌い始めました。この女声合唱の起立のタイミングは、昨秋の三河氏&小田原フィルもやっていた方式であり、かなり良いタイミングと思います。この第五楽章は、児童合唱の人数が少ないせいか(20人前後でした)弱めで、声があまり聴こえてこなかったのが残念でした。小田原少年少女合唱隊は、プログラムをみるともっと大勢いる合唱団のようですから、もっと大勢で歌った方が良かったと思います。第五楽章が終わって、児童合唱の照明が落とされ、そのまま終楽章がはじまりました。なお、声楽陣の着席のタイミングについても触れておきます。児童合唱はそもそも椅子がない通路に立っているので、そのまま終演まで立ちっぱなしでした。女声合唱は、終楽章の途中で音楽がある程度盛り上がったときに座る普通の方法でした。そして波多野さんはおそらくそのときに一緒に座るタイミングを逸してしまったのか、しばらく一人で立っていましたが、そのあと少ししたところで静かに着席されました。さて、細かな事をつらつらと書きましたが、肝心の聴こえてくる音楽について書きます。第一楽章は勇ましすぎでした。第二楽章以降はどうも今ひとつ歌心を欠くというか、隔靴掻痒の感が持続しました。終楽章が始まってもそれは変わらず、うーんやっぱり金氏のマーラーは僕の求めるマーラーとかなり異なるのかなぁと思いながら終楽章を聴いていました。ところが、女声合唱が着席したあたりから、俄に音楽の彫りが深まり、輝き出してきました。ここに来てついに金氏の本領発揮なのでしょうか、それまでとうって変わった充実ぶりです。最後近くの静かな金管コラールは、傷は少なからずありましたが、妥協のないゆっくりとしたテンポが良かったですし、最後のティンパニーの大いなる歩みも、かなりゆっくりと悠然とした音楽を聴かせてくれました。終楽章後半の音楽は、相当素晴らしかったです。中間楽章からこのレベルの演奏になっていたら、かなりいい線の演奏になったと思いますが、ちょっと遅きに失しました。。。この曲、終わり良しなら帳尻があうという曲ではなく、やはりそこまでの長い道のりが充実していないと、深い感動がわき上がってこないです。コンマスの方のソロは、個性的で濃い味が良かったです。なおカーテンコールでは、真面目そうな奏者の方が、バルブなしのポストホルンを持って出てこられました。この楽器で吹いたのではないと思います。都響の方みたいに冗談という感じは微塵もなく、誠実な感じの方でしたが、これはやっぱり残念です。ご自分の吹かれた楽器を持って出てきて欲しいと、切に思います。金氏はマーラーに思い入れがあるようで、これからの1年で神奈川フィルと、今日を含めて順に3、2、4、5、6番を一挙に演奏されるそうです。その思い入れは歓迎したいですが、きょうの演奏を聴くと、そんな短期間で大丈夫ですか、と心配になります。かのベルティーニも、最後の都響とのマーラーチクルスに3年くらいかけてました。。。
2010.05.02
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ところでインバル/都響の3番で気になることがあり、追記します。第三楽章のポストホルンについてです。今回のインバル/都響の演奏会で、初日(30日)にポストホルンのパートの演奏が始まったとき、いつものポストホルンの音色と違うように感じました。普通耳にするものと比べて、線が細いというか、硬めというか、やや暖かみに乏しいというか、そういう音色でした。それで、あれ?今回の楽器は、ポストホルンでないのだろうか、と思いました。このパート、現在のスコアによるマーラーの指定はB♭管のポストホルンですが、ポストホルン以外の楽器(フリューゲルホルンやトランペットなど)で演奏される場合もあるようです。熊本音楽院オーケストラのトランペット奏者香川茂三氏のレポート(記事の最後にリンクを張っておきました)には、このあたりについての詳細な解説と美しい写真がいろいろと載っていて、とても参考になります。それによると、マーラーの指定は最初はフリューゲルホルンで、版の改訂の際にポストホルンに変更された、それはおそらくマーラーの音色に対するこだわりからであろう、と記されています。僕はこれまでに1回だけ、ポストホルンでなくてフリューゲルホルンを用いたことがはっきり確認できた演奏会を聴いたことがあります。2006年コバケン/日フィルの演奏会です。コバケンは僕の知る限り、いつもこのパートを舞台裏でなく会場内で吹かせます。このときは、チェコフィルのトランペット奏者ケイマル氏が、ホール内、パイプオルガンの向かって左手の隅でフリューゲルホルンを吹きました。柔らかい音ですがどうも音色的にしっくりきこえず、僕としては、やはりこのパートはポストホルンの音色で聴くのがいいなぁ、としみじみ思ったものでした。(このときケイマル氏は、演奏後のカーテンコールでももちろん、その楽器を持って舞台に登場されていました。)僕がこれまで少なからず聴いてきた3番の中で、ポストホルン以外の楽器で演奏されたのをはっきり確認しえたのは、このときだけです。もっとも、コバケンのように会場内の見えるところで吹かせるのは例外的で、通常は舞台裏で吹かれ、演奏中の姿は見えません。したがってどんな楽器で吹いていたかの最終判断は、もっぱら演奏が終わってカーテンコールのときに出てくる奏者が持っている楽器を見て判断するしか方法がありません。そこで今回も聴いていて、多分ポストホルンではないだろう、終演後にどういう楽器を持って出てくるのか注目しよう、と思いながら聴いていました。演奏そのものは、先日の日記にも書いたように、すばらしいです。音程はまったく正確だし、節回しの歌いぶりも、歌心が充分で、見事です。ただ、音色が、いつも聴くものと何か違う。あの暖かく、懐かしいような、郷愁をそそるような音色と違うんです。それで通常ならわき起こってくるはずの感動が、生じてきませんでした。演奏が終わって奏者が登場するのを注目していたら、何やら丸い楽器を持って出てこられました。遠くなので、丸いということ位しか見えないんですけど、それがポストホルンだ、ということはわかりました。それで、「へ~、ポストホルンだったんだ、自分の耳もあてにならないなぁ。ポストホルンを使ってテクニック的にあそこまで吹いたのなら、音色は今ひとつだったけれど、大健闘の演奏だな」と思って、惜しみない拍手を送りました。二日目(31日)も同様で、テクニックと歌謡性はすばらしく、本当に感心しましたが、音色の違和感は同じで、やっぱりそれほどの感動はありませんでした。この日ももちろん終演後に丸い楽器をもって登場されたので、ポストホルンだと信じきっていました。ところがつい先日、30日の演奏会を聴いていた友人と話していたら、その友人から、「あの日のポストホルン、音色がポストホルンと違っていたね、しかも終演後に持ってきたポストホルンはバルブがなかったよ、変だと思わない?」と言われたので、とても驚きました。音色の違和感を感じていたのが僕だけでなかったことと、しかもバルブがないポストホルンを持ってきていたとは!ポストホルンというと、郵便配達に使われていた本来のものはバルブなしで、倍音しかでないものです。この曲のこのメロディーを、バルブなしの楽器で唇のコントロールだけで吹くことは、まず不可能でしょう。(往年のモーリス・アンドレほどの神様的名人だったら可能かな?)そこで実際にコンサートで使われるのはバルブ付き、すなわち指で押して音程を変えられるものです。これまで僕がカーテンコールで見てきたものはおそらくこのバルブ付きのポストホルンだったはず、です。(もっとも、演奏会で遠くの客席から見ている場合だと、カーテンコール時に楽器の細かな様子までわかりませんので、バルブの有無まで必ずしも確認できませんけど。)さて、それなら今回のインバル/都響は一体どういうことだったのだろうかと、他の方々のブログを検索してみると、吹けるはずのないバルブなしのポストホルンを持ってきたのは奏者のジョークで、それを見た他のトランペット奏者達は大笑いしていた、と書かれているのを見つけました!え~っ、そういうことだったんですか~!・・・なんだかがっかりです。なんだか腹立たしいです。紛らわしいことはやめてほしい。ここは仲間うちの宴会ではなく、公式の演奏会の場です。僕のような一般の聴衆が、どんな楽器で吹いたか、注目して見ているんです。ご自分の吹いた楽器を持って出てくるか、あるいはせめて何も持たないで出てくるかに、してほしいです。結局、今回何の楽器を使ったのかはわかりません。あの音色から考えると、まずポストホルンは使わなかったのだろう、と推測します。やや硬めの音色だったので、フリューゲルホルンというよりはトランペットの可能性が高いと思いますが、ともかくポストホルンではないだろう、と思います。まぁ実際に使ったのがどっちにしても、結局大事なのは、結果的にどういう音色で聞こえてくるかということです。もしもポストホルンを使っていてあの音色だったのなら、その奏者の力量がそこまでだったということです。もしポストホルンを使わなかったのであれば、あの音色はある意味当然の結果ですけれど、それにしてももうちょっと、音色に対する配慮・工夫の余地があったのでは。。。今回ここの部分の音楽を聴いていて思ったのは、テクニックや歌心ももちろん大切だけれど、音色が心に響いてくるかどうかということが、感動にはとても大きいことなんだなぁ、だからこそマーラーはポストホルンを指定したのだろうなぁ、と思いました。ポストホルンによる演奏は、フリューゲルホルンやトランペットよりもずっと難しいのだろうと想像しますが、それでも多くの奏者がその楽器を使うのは、やはりあの音色を出したくて、ということなのでしょう。実際これまでいろいろな演奏会を聴いてきて、ポストホルンを用いて、音色も含めて完璧と思える演奏に接したことが何回かあり、本当に得難い感動を得ることができました。また、(おそらく)ポストホルンを用いて、必ずしも完璧でない演奏にも沢山接してきましたが、それでも感動を得られる体験を何回もしています。楽器の選択は、奏者、あるいは指揮者が、技術面、あるいは感性・考え方から総合的に判断して決めるものでしょうから、それについては、いいんです。別にポストホルンでなくても、それに文句を言うつもりはまったくありません。今回、もしもポストホルンの使用を避けたのだとすれば、音色はある程度犠牲にしても、正確に演奏することを優先したという選択なのでしょう。それはそれでいいんです。ポストホルンを使わなくとも、いろいろな方法で音色をある程度工夫することは可能なはずです。結果として、あの音色で良しとしたその奏者、あるいは指揮者インバルの感性が、そういうものであった、ということです。そうだとしたら、僕が大事にする3番の部分と、インバルのそれとは、やっぱりちょっとずれているんだなぁ、ということになりますが、それはそれとして別に僕が文句を言う筋合いではありません。じゃあ何故僕はがっかりしたのだろう、腹立たしいのだろう。目で見てポストホルンだと信じこんでしまった、自分は所詮その程度の耳でしかないという腹立たしさもあります。でもそれだけではないです。僕が腹立たしく思うのは、ご自分の吹いた楽器でないものを持ってきて聴衆の喝采にこたえるという姿勢です。これジョークにならないです。真面目に、傷はあっても懸命にポストホルンで演奏している他の奏者に、そして真剣にマーラーの音楽を聴きたいと思っている聴衆に、失礼ではないでしょうか。ともかく、ポストホルンでも、フリューゲルホルンでも、トランペットでも、ご自分がそれと決めて吹いた楽器を、カーテンコール時に堂々と聴衆に示して欲しい。それが奏者としての矜持ではないでしょうか。こんな風に思う僕は偏屈すぎるでしょうか。。。------------------------------------------------------------------以下、追記の追記です。熊本音楽院オーケストラのトランペット奏者香川茂三氏のご許可をいただきましたので、香川氏のポストホルンの解説にリンクを張っておきます。トランペット奏者のための技術工房「Toshi TP Atelier」のコンテンツの中の「マーラーレポート」に、香川氏の参加された、熊本音楽院オーケストラによるマーラー全交響曲チクルスのお話があり、その中にポストホルンのとても興味深い解説がありますので、ご覧ください。(2010.04.14 追記)
2010.04.11
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3月31日サントリーホール、昨日に続きマーラー3番を聴きました。昨夜が定期演奏会で、今夜は都響スペシャルとしての演奏会です。昨夜の演奏会の記事に書き忘れたのですが、沢山のマイクが立っていました。CDを出す予定なのでしょう。僕は「昨日はちょっとCDにできる演奏ではないだろう、もし今日も同様だったら、CDはおそらく出ないだろうな」と思いながら、会場にやってきました。楽器配置は昨日と同じで、コンマスの四方恭子さんへの変更、トップサイドが矢部さんというのも同じです。昨日と違うのは、演奏開始前に合唱団の入場がなく、P席が空の状態で始まったことです。おそらくインバルは昨日の経験から、全曲通しての演奏は最初から断念し、第三楽章が終わったら間合いをとろう、と決めたのでしょう。そしてその間合いで合唱団を入場させることにしたのだと思います。第一楽章は速めのテンポでしたが、こちらも昨日の体験から覚悟して臨んだせいなのか、昨日よりはついていけました。(あるいはテンポ自体、昨日より若干遅かったような気もしますが、良くわかりません。)そして何よりも今日は、普段のインバル/都響のコンビらしく、アンサンブルがぴしっと決まっています。きのうと雲泥の差です!これが本来の都響でしょう。第三楽章のポストホルンは、昨日も良かったけれど(おそらく)それ以上に、たっぷりと歌ったすばらしい吹奏ぶりでした。そして今日の聴衆は、昨日と違って無神経なノイズをたてる人がいないのも幸いでした。昨夜は定期演奏会、それに対して今夜はスペシャルですので、やはりこの演奏を積極的に聴きたいという人が集まったことの現れかもしれません。第三楽章が終わったあと、昨日と同様にインバルは指揮台から降りて、さっさと舞台裏に引っ込みました。その後、合唱団がP席に入場しはじめました。合唱団の入場が終わったあと少しして、インバルと、独唱者が入場してきました。きょうは独唱者の入場時に、聴衆のひとりも拍手しないで迎えました。これも昨日とは違うところです。そして第四、第五楽章とすすんでいき、第五楽章から終楽章へのアタッカの部分も、昨日のような信じがたいノイズを出す聴衆は皆無で、静寂と緊張が保たれたまま、終楽章が始まりました。この終楽章が、第一級のすばらしい演奏でした。テンポは、はっきりとはわからないけれど、昨日よりかなり遅いと感じました。じっくりと音楽が歌われていき、自然の息吹を美しく伝えてくれます。これがインバルかと驚くばかりです。初めてインバルの3番に感動しました。今日はおそらくインバルの体調が昨日よりは回復したのでしょう。そしてオケも昨日の演奏に、これではいかん、と自ら奮起したのではないでしょうか。これでこそマーラー演奏の伝統を誇るオケに値する演奏です。(コンミスの四方さんを横で支えた矢部さんの奮闘ぶりも光っていました。)そして聴衆も、良かった(というか、昨日が悪すぎた)です。指揮者、オケ、聴衆の3拍子が揃ってこそいい演奏が生まれるということをあらためて実感しました。・・・それにしても、二日続けての同一演目の演奏会で、二日目が出来が良いのはよくあることだと思いますが、これほど天地の差ほど違うのには、本当に驚きました。天国のベルティーニも、きょうの演奏には「都響よ良くやった」と喜んでいることでしょう。インバル/都響のマーラーは、2008年4月のプリンシパル・コンダクター就任演奏会の8番もすばらしい演奏でした。そして今回の3番も、逆転サヨナラ勝ちの名演。インバル見事です。しかし今回ちょっと気掛かりなのは、3番の演奏途中に間合いをとられたことです。もしも体調が芳しくないのだとしたら、それが一時的なことであってほしいです。お元気に、そして都響と新たなマーラー全集を目指していってほしいです。こまかなことをひとつ。都響のプログラムには、現時点での楽団員の名前が出ているだけで、その日のメンバー表がなく、その日の演奏者がどなたなのかわかりません。そして今回、ポストホルン奏者の名前が出てないんです。ポストホルンが都響の方だったのか助っ人奏者だったのかはわかりませんが、どちらにせよポストホルン奏者の名前はなんらかの形でプログラムに載せても良いのでは、と思いました。
2010.04.07
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3月30日、31日とインバル/都響のマーラー3番を聴きました。両日ともサントリーホールです。 指揮:エリアフ・インバル メゾソプラノ:イリス・フェルミリオン 女声合唱:晋友会合唱団 児童合唱:NHK東京児童合唱団僕がインバルの3番を聴くのは、1994年、東京芸術劇場での演奏会以来です。オケは同じく都響でした。その時、強烈なネガティブな印象が、胸に焼き付いてしまいました。とりわけショックだったのは、第3楽章最後近くでのホルンとトロンボーンの斉奏の楽節(練習番号30~31)の演奏中に、独唱者が入場してきたことです。しかもここで独唱者は、遠慮がちにしずしずと出てくるのではなく、風を切るように実に堂々と登場してきました。その光景が目に焼き付いてしまいました。こういうやり方に出くわしたのはこのときが初めてで、とても驚きました。(その後にも、ごくわずかしか遭遇していません。)この楽節、アドルノが「神の顕現」と呼んだところです。僕としても非常に重要視しているところで、そのあたりの思い入れは昨年の日記に書きました。(この日記の最後にリンクを張っておきましたのでご参照ください。)ともかくこの1994年のときのインバルは、演奏中に独唱者を入場させることで、ここの音楽の意味を意図的に破壊しているのではないか、と僕は感じました。また、ここだけでなく、演奏全体としても、自然というか愛というか、そうした崇高なものを讚美する方向と正反対の方向、そういう崇高なものへの志向性を否定するような方向の音楽づくりが随所に強く感じられ、僕は大きな違和感を抱きました。その音楽づくりがもっとも凝縮された形で僕の心に突き刺さったのは、終楽章の最後近くの静かな金管コラールの直前、フルートソロからピッコロソロに受け継がれるパッセージ(練習番号25)です。ここがまるで、戦禍か何かで廃墟と化した都市の瓦礫の中から立ちのぼるような空虚な響きにきこえ、僕には衝撃的でした。もしかしたらインバルは、何か、「現代社会に生きる我々はもはやマーラーの描いた自然讚美に安穏と浸って暮らしてはいられないのだ」という、現代社会の状況に警鐘を鳴らすというメッセージを込めたのではないかと考えたりしました。果たしてインバルの意図がそのようなものだったのかどうかはわからないし、僕のまったく的はずれな感想なのかもしれませんが、ともかく僕にはそのように聴こえてしまったんです。そしてよりによって3番という、マーラーの中でもひときわ生命肯定的な曲で、そういうメッセージを伝えなくてもいいのではないか、こういう3番は僕は聴きたくない、と思ったものでした。それから16年ぶりです。インバルの3番がそのときと同じような方向を目指すものなのかどうか、いささかの不安を抱きつつ、今回の3番演奏会にやってきた次第です。まず今回は、30日の演奏会(都響第695回定期演奏会)について書きます。ホールにはいって楽器配置を見ると、チューブラーベルは残念なことに舞台上に普通に置いてありました。このベルをスコアの指定通り児童合唱とともに高いところに置く指揮者は本当に少なく、コバケンと、昨年小田原フィルを振った三河正典氏などがその貴重な例です。さて配られたプログラムを見ると、紙がはさまれていて、コンマスは当初の矢部さんから四方恭子さんに変更、となっています。矢部さんは体調でも崩されたのだろかと思いましたが、オケが入場してきたのを見ると、矢部さんはトップサイドに座っていらっしゃいました。変更の理由は不明です。オケの入場とともに、合唱団がP席部分(舞台とパイプオルガンの間の席)に入場してきました。第一楽章の開始前に合唱団が入場するのはかなり珍しいです。全曲を集中して一気に演奏しようと言う意気込みがなければしないことでしょうから、これはインバル相当気合いが入っているなと思いました。P席の前2列に児童合唱が座り、そのうしろ3列に女声合唱が座りました。そしてP席最前列の中央は一つだけ座席があけてあります。独唱者が座る場所でしょう。その独唱者はまだ登場せず、インバルだけが登場し、いよいよ演奏開始です。第一楽章が始まりました。これがものすごい速さ!オケはいささかついていけず、ティンパニーは1箇所かなり目立つところで入り損なって抜け落ちたり、木管のアンサンブルが結構乱れがちになったり、浮き足だった感じでした。続く第二楽章も相当な速さで、落ち着きがありません。ようやく第三楽章は通常範囲のテンポになりました。そしてポストホルンはうまいし、これで演奏が落ち着いてくるかと思ったのですが、なんだか今ひとつしっくり来ません。。。さらにこの日の聴衆には無神経な人がいて、ポストホルンが美しい歌を歌っているときに飴の包み紙をがさがさとあける音が響き渡りました。やれやれ。第三楽章最後近く、演奏中での独唱者入場はなく、ちょっとほっとしました。第三楽章が終わったあと、異変が発生しました。インバルが指揮台から降りて、舞台裏に引っ込んでしまったんです。これは異例なことです。前もって合唱団を演奏開始前に入場させておいたくらいですから、もともとはここで引っ込むつもりはなかったことでしょう。それが何らかの理由(体調不良など?)が発生して、裏に引っ込んだのだと思います。オケ、合唱団、聴衆の皆が待つこと2~3分でしょうか、ようやくインバルが再登場してきました。それとともに独唱者がP席部分に現れました。このとき、聴衆の若干名から拍手がおこってしまいましたが、すぐに鳴りやみ、あとはずっと静かなうちに独唱者が最前列中央に到着しました。このあと第四楽章ですから、独唱者は座らず、立ったままです。そしてここからの第四、第五、第六楽章はアタッカでと指定されています。アタッカの緊張感を保つためには合唱団の起立・着席のタイミングが重要で、指揮者の工夫が現れるところです。今回のインバルは、合唱団の起立のタイミングは第四楽章の終わり近く、独唱者が歌い終わる少し前でした。そして着席のタイミングは、第五楽章の最後近く、児童合唱が最後のビンーバンーのフレーズを歌い始める直前の約2小節の休み(練習番号10の冒頭部分)のときでした。以前書いたように、この着席のタイミングはシャイーがやっていた方法で、僕がもっとも理想的と考えているタイミングです。(なお合唱団が座るときに独唱者も一緒に着席しました。)この着席のタイミングは、いうまでもなく、第五楽章から第六楽章へ、静寂と緊張感を最大限にたもったまま移行するための方法です。インバルはそれを目指した。ところがところが、この大事なところでも、またまた飴の包み紙をがさがさあける音がホール内に響き渡ってしまいました。いくらなんでも、ここで飴を出しますか?!勘弁してほしい。。。そして終楽章。各奏者は一生懸命弾いているし、管の首席の皆さんなど、かなりいい音を出していて、部分部分では感心します。そして16年前に僕が感じてしまったような意図的な否定的メッセージ性は、さいわいにも感じられなかったです。しかし、それなら良い演奏だったかというと、音楽が何故かまとまらず、ちっとも盛り上がらないんです。そしてそのまま、曲は終わってしまいました。。。これほど自然の息吹が感じられない3番は、ちょっとないほどです。どうしたことでしょうか。16年前とは違った意味で、またしてもがっかりしてしまいました。やはりインバルに3番は合わないのだろうか。。。結局きょうのインバルは、気合はすごくはいっていましたが、体調がものすごく悪かったのではないかと推測します。きっとそのために、オケのアンサンブルが乱れてしまったのではないでしょうか。インバルが指揮する都響のマーラーは、いつもはすごくアンサンブルがぴしっとしているのに、今回ほどぴしっと決まらないのも珍しいことです。(と言っても、すごく目立つミスは第一楽章のティンパニの落ちくらいで、あとは大きな乱れはないのですが、ともかく音楽がまとまらず、ふくらまないんです。)そして悪循環的に、一部の聴衆の無神経なノイズが、事態をさらに悪化させてしまった。そういう演奏会でした。・・・これでは明日も期待できないなぁ。都響とともに3番の超名演を聴かせてくれたベルティーニも、草葉の陰で泣いているのでは、、、などと思いながら、足取り重く帰路につきました。ところが、ところがです。翌31日の演奏会は、これとまったく違いました!!これについては改めて近いうちに書きたいと思います。------------------------------------------------なお、第3楽章演奏中での独唱者の入場については、2009年12月6日の記事「井上道義/OEK&新日フィルのマーラー3番その1金沢公演」を、また合唱やチューブラーベルの配置、および合唱団の着席のタイミングについては、2009年11月9日の記事「小田原フィルによるマーラー3番」および、2009年12月10日の記事「井上道義/OEK&新日フィルのマーラー3番その2富山公演」を、ご参照ください。
2010.04.05
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もう1ヶ月以上前のことですが(汗)、楽劇ジークフリートを観たことを書きます。2月17日、新国立劇場。指揮:ダン・エッティンガー演出:キース・ウォーナージークフリート:クリスチャン・フランツミーメ:ヴォルフガング・シュミットさすらい人(ヴォータン):ユッカ・ラジライネンアルベルヒ:ユルゲン・リンファフナー:妻屋秀和エルダ:シモーネ・シュレーダーブリュンヒルデ:イレーネ・テオリン森の小鳥:安井陽子管弦楽:東京フィル2003年の同劇場での指輪の再演ということで、演出はそのときと同じものだそうです。その当時は僕は新国立劇場への関心がまったくなく、指環をやっていることすら知りませんでした。昨年オペラ好きの友人にお声をかけられたのをきっかけに新国立劇場にたまに足を運ぶようになり、折しもその頃に行われた指環前半の2演目、ラインの黄金とワルキューレを観ました。今年は後半2演目が行われ、まずジークフリートが上演されたというわけです。昨年のとき、この演出の奇抜さにのけぞりました。噂やチラシの写真から覚悟はしていましたが、ワルハラ城をまるでハリウッドの看板のような巨大な大文字アルファベットの看板で表示したり、舞台が未来風の奇妙な室内だったり、恐ろしく大きな矢印が何本もでてきたり、ワルキューレたちが救急病院で忙しく走り回る看護婦だったり、ともかく「変」です。僕としては、神話的世界の雰囲気をそのまま伝えるような舞台装置の中で、それらしい厳かな衣装をまとった、普通の演出で見てみたいものですが、それがかなうあてもなく、ともかくも指環に接することができる貴重な機会なので、演出には目をつぶって観るようにしました。オペラ初心者にもかかわらずそのときの勝手な感想を言わせてもらうと、ワルキューレでの、ジークリンデの歌唱が堂々としてすこぶる素晴らしかったのが一番印象に残っています。あとラインの黄金でのアルベリヒが、悪党の貫禄たっぷりで良かったです。しかし肝心のヴォータンが声量が小さめでちょっと弱々しかったのが残念で、あとブリュンヒルデも、悪くはないけれど、ちょっと物足りない・・・という感じでした。そのため総合感銘度としては、ワーグナーの音響世界に文句なく圧倒されつつも、今一つ欲求不満が残りました。その点今回のジークフリートは良かったです!演出の奇抜路線は相変わらずですが、慣れるとそれほど気にならず、音楽に浸れます。今回何と言ってもヴォータンが好調で、パワーもあり、気持ち良く聴けました。やはりヴォータンはこうでなくっちゃ。この人、きっと昨年は調子が今一つだったのでしょう。そしてブリュンヒルデ。僕は当然昨年と同じ人が歌うのだろうと思いこんでいたら、見た目も、歌唱も、昨年のブリュンヒルデと随分違っていたので、あれ?と思ってプログラムをあとで良く見たら、違う人でした!スケジュールの都合なのか、あるいは降ろされたのか、代わった理由はわからないですけど(主要なキャストで昨年と歌手が代わったのは、ブリュンヒルデとミーメだけでした)、今回のブリュンヒルデ役はパワーと輝きがあり、すこぶる良かったです。またアルベリヒは前回同様に、憎たらしい味が良~く出ていて存在感ありましたし、ジークフリートもまずまず。このほかの歌手陣も皆よかったので、とても満足できました。やっぱりオペラは歌手の好不調が大事なんだなぁ、と実感した次第です。ワーグナーの楽劇はCDでもちゃんと聴いたことはほとんどなく、管弦楽名曲集や名場面集でなじんでいる程度ですので、ダン・エッティンガーの楽劇の指揮ぶりがどのような傾向のものだったかはわかりませんが、指揮とオケにはまったく不満なく、ワーグナーの音響に充分気持ち良く浸ることができました。何年か前に、このエッティンガーさんが東フィルを振ったマーラー4番を聴きました。とても素晴らしい演奏でした。かなりゆっくりとしたテンポで、マーラーのつぼをきっちりおさえ、東フィルから驚くほど繊細な音を引き出していて、極上の4番だったんです。エッティンガーさんは、この4月から東フィルの常任指揮者に就任するので、この先が楽しみです。しかし常任とは言っても、来期の1年間で東フィルを振る予定は、4月の就任記念のマーラー復活の他は、8月のこども用のコンサートと、12月のベートーヴェンの第9だけのようです。ちと少なすぎ?
2010.03.22
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アルド・チッコリーニを聴きました。チッコリーニをはじめて聴いたのは2005年の来日、ファツィオーリをわざわざ持ってきてのリサイタルでした。その後、2008年の来日時にはリストのリサイタルと、コンチェルト(一晩でシューマンとラフマニノフ2番の2曲!)を聴きました。今回の来日もリサイタルとコンチェルトの2本立てでしたが、リサイタルの方は残念ながら都合がつかず、コンチェルトの方だけ聴きに来ました。3月16日、すみだトリフォニーホール。ハウシルト指揮、新日フィルで、曲目はベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番、第4番です。会場に来てみると、ロビーのあちこちに「本日の休憩は30分です」と掲示されていました。3番のあと、30分の休憩をはさみ、4番というプログラムです。3番が始まりました。冒頭の長いオケの伴奏が、日頃の新日フィルの音よりも、格段に精妙で美しいです!これは弦がノンビブラート奏法で、落ち着いた透明な響きであることの効果が大きいと思いますが、木管も柔らかい音色で弦とのアンサンブルが絶妙です。僕の持つ普段の新日フィルのサウンドイメージは、弦も管も、きっちりとしているけれどやや硬質で、うっかりすると金属的な音になりかねない、という感じです。けれど今日の音はそれとまったく違って、柔らかく繊細です。多分これは指揮者ハウシルトさんの指導効果なのかもしれません。(新日フィルのホームページに載っているベテランオケマンたちの音楽談義によると、ハウシルトさんはものすごく耳が良くて、音程や音色をびしびし的確に修正し、きれいに掃除してくれるような感じで、氏の棒で演奏するのはとても気持ち良いのだそうです。)このオケの前奏を聴いていて、きょうの演奏会はものすごいことになるのでは、という予感が生じました。そしてチッコリーニのピアノがはいってきた瞬間、それは確信になりました。84歳になられたチッコリーニのピアノは、指を立てて鍵盤をじんわりと深く押すような弾き方で、表面は滑らかだが確固とした芯がある音です。そしてその音楽!一見何気なく、特別変わったことは何もやっていないように思えるそのピアノに、どうしてこんなに感動させられてしまうのでしょうか。ベートーヴェンの書いた音楽の素晴らしさが、かって経験したことがないほど、身に滲みてきます。ベートーヴェンってこんなにも素晴らしいんだ、音楽ってこれほどまでに純粋なんだ、ただただそう思いながら、立ち現れては流れていく音楽に、ひたすら耳を傾けるばかりです。今ここで、この音楽を体験できているという幸せとともに、その音楽があまりにも高みにあるので、息苦しさも感ずる、そのような体験でした。3番が終わりました。濃い内容だったので、今夜はこれ1曲で終わっても充分満足、という充実した疲労感がありました。休憩30分という長さは、チッコリーニの休養のためかと思っていましたが、実は聴衆の気持ちの切り替えと心的エネルギー補填のためにも必要な長さだな~と思いました。そして4番も、同じく素晴らしかったです。これぞベートーヴェン、という音楽を、じっくり聴かせてくれました。チッコリーニの至芸はもちろんのこと、ハウシルトさんと新日フィル(コンマスは崔文洙さん)も本当に見事な演奏でした。なりやまぬカーテンコールにこたえてアンコール。シューベルトのクーベルワイザーワルツという静かで瞑想的な曲を弾いてくれました。・・・友人が読んだチッコリーニの本によると、チッコリーニは、初めて弾く曲も、既に前から良く知っている曲も、毎回毎回、なんと二年前から、ゼロから勉強を始めるそうです。そうやっていつも新しい目で、二年の時間をかけて作品に近づくというのです。すごいことです。この日の演奏会、僕がこれまで体験したチッコリーニの演奏会の中でも、格別な高みに達しているような奇跡的な体験でした。まさに求道の精神を貫く天才だけがなし得る至高のベートーヴェン。チッコリーニさん、ありがとうございました。
2010.03.18
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寒かったり暖かかったりとめまぐるしいこのごろ、いつのまにかもう3月ですね。だいぶ日にちがたってしまいましたが、2月に聴いた素敵なリサイタルのことを書いておこうと思います。2月6日 武蔵野市民文化会館 小ホールレオン・ベルベン チェンバロ&オルガン・リサイタル(バッハと、スペインの古楽)プログラムの解説によると、レオン・ベルベンさんは1970年オランダ生まれの若い人で、あのムジカ・アンティカ・ケルンのチェンバロ奏者を数年間勤めたということです。プログラムの前半はチェンバロ独奏で、バッハのフランス組曲、半音階的幻想曲とフーガなどが演奏されました。使用楽器は、18世紀初頭のドイツのモデルにならって1995年に制作されたチェンバロということでした。装飾が少なく黒を基調とした、いわばピアノ的なイメージの外観で、それに似てチェンバロとしては割合につやつやした感じの美音でした。後半がオルガン独奏による、スペインの古楽(カバニーリェスという17世紀のバレンシアの作曲家の作品)とバッハ。僕はこのオルガン演奏に、とっても魅力を感じました。この小ホールは残響が長めで、中型のパイプオルガンがあります。ここでパイプオルガンの国際コンクールが定期的に催されているほどですから、ホールとしてもかなりオルガンを重要視していると思います。僕はここのオルガンを数回程度しか聴いたことがありませんが、それらのいずれにも、音色そのものにあまり魅力を感じたことがありませんでした。オルガニストによってはきつくうるさすぎたり、あるいは単調な感じがして飽きてしまったり。。。そういう体験が続いたので、ここのオルガンは僕とはあまり相性があわないのかなぁと思ったりしていました。ところがレオン・ベルベンさんが弾くオルガンは、とても魅力的な音色で響いてきます。ストップの選択のセンスがいいということなのでしょうか。良くわからないけれど、ともかくオルガンの規模と特性を良くわかって、それをふまえて楽器に無理をさせず、しかし決して妥協しているというのではなくて、その楽器の良さを充分に出して、豊かに鳴らしているという感じです。このオルガンはストップの組み合わせをあらかじめ記憶させておいて瞬時に切り替えるという機能がないようで、ベルベンさんは曲のちょっとした間合いですばやく沢山のストップを押したり引っ込めたりして、それはそれは忙しそうでした。そういう動作も見えるため、ベルベンさんが作っている音色なんだなぁ、すごいなぁという思いを、ことさら強く感じたのかもしれません。美しい音色によるスペインの古楽の響きにうっとりと浸ったひとときでした。終演後、ロビーで何枚か売られていたベルベンさんのCDを見ていたら、「ウィリアム・バードの鍵盤音楽を、古いオルガンで」と題された1枚が目を惹きました。ジャケットには、小型のいかにも古そうなパイプオルガンが写っています。帯の解説には、「500年も前からある素朴なパイプオルガン。ヨーロッパに現存する歴史的教会オルガンでも最古の部類に属する、一段だけの手鍵盤とごく限られたストップしかない楽器」と書いてあります。ベルベンさんならきっと、こういう古くて小さいオルガンの魅力を十分に出せるのではないかと思って、このCDを買い求めました。レーベルと番号は、RAMEE (ラメー) RAM0704 です。曲は、バードの、通常ならヴァージナルやチェンバロで弾かれることが多い鍵盤作品ということです。聴いてみると、とても素晴らしい音楽です。もとからオルガンのために書かれたと言われても納得してしまうような、オルガンの魅力にあふれた音楽で、これが古い小さなオルガンなのだろうかと驚くほど豊かな深みのある音色です。500年の長きにわたって、ひとつの楽器が、何人もの奏者たちによって弾き継がれてきてるんですね。。。
2010.03.07
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2月20日サントリーホール。大植英次/大阪フィルの東京定期を聴きました。曲目は、シューマンのピアノ協奏曲と、R.シュトラウスのアルプス交響曲。大植さんとソリストが颯爽と登場し、協奏曲がはじまりました。協奏曲を振る大植さんの立ち居振る舞いには、ソリストを温かく包みこみ、ソリストと一体となって音楽を作る姿勢がきょうも良~く現れていて、ほれぼれします。大植さんを見るのはハノーヴァーとのマーラー9番以来です。あのときより一層若返ったような、血色良く元気満々の姿を目の当たりにして、とても嬉しかったです。若いピアニスト(フランチェスコ・ピエモンテーシさん)は弱音のニュアンスが豊かで、素敵でした。ホルンが弱すぎたのがもの足りませんでしたが、大植さんらしい歌心がこもった、いいシューマンでした。アンコールの1曲目はガーシュインのEmbraceable Youという曲。華麗な響きと、ラフマニノフ風の憂いとを持った素敵な曲で、素敵な演奏でした!続いて、大植さんに背中を押されるようにして(^^)アンコールの2曲目。ストラヴィンスキーの火の鳥の最後の部分(ホルンの主題が静かに奏でられるところから徐々に盛り上がっていて終わるまで)のピアノ編曲という珍しいもの。これも、とってもとっても良かったです。そしてさらにアンコール3曲目もやってくれました。モーツァルトのピアノソナタ(K282、第一楽章)をひいてくれました。休憩後はアルプス交響曲。まったくすばらしかったです。秋月さんのトランペットは今回も冴えまくっていました。そしてオケの響きは充実そのもの。山頂の圧倒的な輝き、嵐の激烈さ、そしてその後の部分の信じがたい美しさ。この曲がこれほどまでに美しい曲とは思いませんでした。そのあとにアンコールもやってくれました。大植さんが指揮台上でオケの方に「Morgen」と大きな声で言って、すぐに演奏が始まりました。オケの伴奏の上に独奏ヴァイオリンと独奏チェロが美しい旋律をゆったりと奏でる、詩情豊かな曲でした。あとで表示をみたら、R.シュトラウスの「4つの歌」作品27の4曲目「Morgen」という曲でした。歌のパートをチェロが弾いたのでしょうか。アルプス交響曲のあとのアンコールとして、とてもふさわしい曲でした。大植さんは拍手にこたえて何度か出入りするたびに、舞台の端のほうでホール全体を何度もゆっくりと見渡していました。丁度1年前の大植/大阪フィルの東京公演、凄絶の限りのマーラー5番のあと、祈りの込められたアンコール、そしてそれが終わって最後に舞台を去るときに、大植さんが万感の思いをこめたように振り返ってホール全体をぐるっと見渡したことが、まざまざと思い出されます。あれからもう1年がたったんですね。この1年いろんなことがありました。こういう最高の形で今回の大植/大阪フィルの東京公演を聴くことができて、本当に幸せです。大植さんと大阪フィルに、心からブラボー!
2010.02.21
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ベルリン古楽アカデミーによる、バッハのブランデンブルグ協奏曲全曲演奏会を聴きました。2月12日トッパンホール。1番2番3番を順にやって休憩、4番5番6番を順にやって終わりという、ドイツのグループらしい実直で長いプログラムでした。1番は、奏者総勢17人のうちチェロが3人という低音に厚い編成で、重い低音の上にヴァイオリン隊がザッ、ザッと尖ったアタックで硬い音質で切り込むように弾くのが強い印象でした。ヴァイオリン隊にもっとも顕著だったこの切り込むような音楽づくりは、2番以降でもずっと同じで、このグループ全体の性格を決定しているように感じました。すなわち音の美しさではなく、「俺達はこういうバッハを弾くんだ」という信念で勝負という、硬派軍団といった感じ。(視覚的には、にこやかな女性奏者もいたりするんですけど。。)管楽器は概して抑え気味のバランスでした。1番に出てくるナチュラル・ホルンは実に渋い音色で、このグループのポリシー(?)に相応しかったです。しかし管のソロが活躍する曲(特に2番、5番)では、管のソロが控えめすぎて、聴いていて欲求不満を感じました。特に2番でのトランペットは、音量的にもニュアンス的にも地味すぎて、物足りなかったです。(かと言ってこの曲、朗々と大きく吹きすぎて他の楽器を圧しても困るので、難しいところでしょうけれど。。)5番でのフラウト・トラヴェルソも、うまいし弱音のニュアンスなどに素敵な瞬間もあるんですけれど、やはり全体に控えめすぎで、もうちょっと名人芸を披露するという感じでやって欲しいと思いました。もっともこれが、このグループの目指すバッハなのでしょうか。そんな中では2番でのオーボエが、ほど良く歌い、ほど良く目立っていて、これは素敵でした。というわけで個人的に一番良かったのは3番でした。ヴァイオリン隊3人とヴィオラ隊3人のお互いの掛け合いと、それぞれの3人の中での掛け合いが、尖ったアタックで生き生きと立体的な掛け合いになっていて楽しめました。あと4番のフィナーレも、ソロヴァイオリン(日系と思われる女性奏者)が女剣士という風情でとがった演奏を聴かせてくれて、聴き応えがありました。ドイツの居士たちによる、華はないが意地を聴けというブランデンブルグ全曲の通し聴き、さすがに聴く方も(もしかして弾く方も?)疲れてきて、最後の6番(ヴィオラ2、ヴィオラ・ダ・ガンバ2、チェロ1、チェンバロ1、コントラバス1)が終わったときは「ふーっ、修行が終わった~」という感じでした。この演奏会もNHKでテレビ収録してました。クラシック倶楽部でいずれ放送するのだと思われます。
2010.02.13
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1月23日ティアラこうとうで、藤岡幸夫指揮による東京シティフィルの定期演奏会をききました。曲は、 ヴォーン=ウィリアムス:タリスの主題による幻想曲 吉松隆:鳥たちの時代 メンデルスゾーン:交響曲第三番「スコットランド」吉松作品を積極的に紹介している藤岡さん。僕は藤岡さんを聴くのも、吉松さんのオーケストラ作品を聴くのも、これが初めてのコンサートで、しかも「タリスの主題による幻想曲」も聴けるので、楽しみにしていました。土曜の午後3時開演で、良く晴れた青い空の下、会場に到着しました。川縁の広い公園の一角にあり、都会の中にしては閑静で落ち着いた雰囲気があり、なかなか良い立地です。ホワイエは大きなガラスで採光良く、近代的ながら温かい雰囲気がして、素敵な空間です。客席は1200弱で大きくはありませんが、割合に良く響き、いい感じのホールです。「タリス」がすばらしかったです。通常の弦楽合奏配置の後ろ、少し高くした段の上(通常は金管とかが乗る位置)に、総勢9人の第2群の弦楽合奏が配置されていました。この第2群の奏でる静かな和音の響きに、教会風の雰囲気がとても感じられ、第1群の弦楽合奏とのバランスもうまくいっていて、魅力的でした。この曲を以前に確か大友/東響で聴いたときは、これほどの印象はありませんでした。今回はちょっと驚くほどの美しさ。藤岡さんは、音楽が高ぶる所ではやや加速するスタイルで、音楽の流れをうまくまとめていました。続いて吉松さんの「鳥たちの時代」。吉松さん初期の、鳥の3部作の最後を締める作品です。第1作の「朱鷺によせる哀歌」が弦楽合奏とピアノ、第2作の「チカプ」がフルートの大合奏です。そしてこの「鳥たちの時代」は、ピアノや沢山の打楽器を含む3管編成の大きなオーケストラですから、前2作を統合してスケールアップした編成ですね。しかもこの曲の冒頭の、翳りを帯びた弦の和音と、それに続く木管のさえずりは、それぞれ「朱鷺」と「チカプ」の冒頭を思い起こさせます。すなわちそれら2作品をふまえてから、その先に歩み出すという感じでしょうか。この曲、とにかく響きが気持ちよいですし、内容的にも前向きのパワーが強く感じられ、大好きです。しかし今回の演奏は、なにか推進力というか、はじけるようなパワーがあまり感じられず、期待したほどの感銘が得られないままに終わってしまいました。あとで手持ちのカメラータのCDを聴き直したら(こちらは大友/日フィルによる1988年の録音です)、うんうん、確かに何かぐいぐいと進む推進力を感じ素晴らしいです。ということではからずも藤岡・大友対決となった「タリス」と「鳥たちの時代」は、仲良く1勝1敗でした。さて「鳥たちの時代」の演奏終了後、藤岡さんの招きに応じて、客席から吉松さんが立ち上がり、舞台に登り、藤岡さんと握手を交わしました。吉松さんの席が自分の席のかなりそばだったので、あれっ吉松さんすぐそばだったんだ!とびっくりしました。ここでプログラムの前半が終了して休憩となり、吉松さんはそのままお帰りになりました。休憩後のメンデルスゾーンは、ちょっとオケの弱さが出てしまった感じでした。コンサートが終わってホールを出ると、もう陽射しはだいぶ傾いていました。少し回り道をして、公園の中の小径を散策していると、ほどなく夕闇がせまってきました。吉松さんの「鳥たちの時代」は、日フィルの委嘱により、1986年に作曲されました。作曲者自身のプログラム・ノートによると、「現代音楽の混沌の森から飛び立ち新しい翼を模索する鳥たち、そして、日本フィルという鳥たちに寄せる頌歌」ということです。1986年といえば丁度、先日のぐすたふさんのコメントにあったように、ペルトが注目されはじめ、タルコフスキーが逝った、あの時代ですね。僕がカメラータのCDでこれら吉松さんの作品を初めてきいたのは、多分90年代前半だったと思います。それまで耳にしなかった斬新な響きに、強烈な印象を受けたものでした。作曲からまもなく四半世紀がたとうとしています。吉松さんは、独自の音楽で混沌の森から見事にはばたき、今や日本を代表する作曲家のひとりとして飛翔していますね。そして現代音楽自身は?難解の袋小路のどんづまりから、80年代以降、吉松さんのいう「世紀末抒情楽派」をはじめ、いろんな作曲家が、さまざまなやり方で、なんとか現代音楽の絶滅を回避しえたのは、何よりのことでした。21世紀、現代音楽の不死鳥のような飛翔を願いたいものです。そしてオーケストラは?日フィルに限らず、オーケストラをとりまく事情は、80年代の当時も厳しかったのでしょうけれど、今は、もっともっと厳しそうです。。。今回の「鳥たちの時代」の演奏に、パワーというか、勢いというか、そういったものが今ひとつだったとすれば、こういう時代のせいもあるのかもしれません。鳥たちが逆境にめげず、さらなる高みへの飛翔を続けていける未来を、願うばかりです。
2010.02.04
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コンチェルト・コペンハーゲンという、北欧の古楽グループによるバッハの世俗カンタータを聴きました。1月15日、王子ホール。ラース・ウルリク・モルテンセン (指揮&チェンバロ)マリア・ケオハナ(ソプラノ)トマス・メディチ(テノール)ホーヴァード・ステンスヴォルド(バス・バリトン)コンチェルト・コペンハーゲン(器楽)前半はコーヒーカンタータです。器楽は、第1ヴァイオリン3、第2ヴァイオリン3、ヴィオラ1、フルートトラヴェルソ1、あと通奏低音は、指揮しながらの弾き振りで中央におかれたチェンバロと、チェロ1、コントラバス1。以上総勢11人でした。これにソプラノとバスとテノールの独唱が加わっての演奏でした。歌手は適度な演技もまじえながら、コーヒーカップを持って飲みながら(もちろん飲むふりです)歌うという茶目っ気ある演出でした。ところでおもしろかったのは、コーヒー好きの娘がコーヒーを飲むのは当然として、それを苦々しく思って娘にコーヒーを禁ずる父親も、コーヒーを飲みながら歌っていたんです。ということはこのお父さん、自分はコーヒー好きなのに、娘には「はしたない」として禁じたということかな。なんとなくお父さんはコーヒー嫌いなのかと思っていたので、ちょとびっくりしました。あとであらためて歌詞を見ても、お父さん自身がコーヒー党なのかアンチコーヒー党なのかは、謎ですね。コーヒーカンタータの演奏は、ソプラノがまだ調子が出ないみたいで、器楽もなんとなく地味で、悪くはないですが今一つ冴えないままに終わってしまいました。その中でチェロの女性奏者は、きびきびしたいい演奏で素晴らしかったです。後半は、農民カンタータです。器楽にはナチュラルホルンがひとり加わりました。後半になって俄然ソプラノが調子をあげ、声に輝きが出てきました。器楽も生き生きとしてきて、前半地味だったフルートにも華やかさが出てきて、ようやく彼らの本領発揮という感じで楽しめました。農民カンタータは、農民の男女二人がなんということもない話をしたり歌を歌ったりして、最後は酒場に向かうところで終わるという他愛ない話ですけど、バッハの音楽は本当に素敵です。このコンサート、NHKで録画してました。衛星放送で3月24日のクラシック倶楽部で放送されるそうです。コーヒーの飲みっぷりに注目?
2010.01.17
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「アバター」をみました。3DのSF映画ということ以外、ほとんど何の予備知識なしに見てきました。映画館に来たのは、多分「ソラリス」のリメーク版をみて以来だと思うので、なんと数年ぶりですね。3Dと言っても、目の前に何かが飛び出してくるようなこけおどし的な効果を狙ったようなシーンはなく、自然な奥行き感があって、いやーすごく良くできて、美しいです。目も思ったより疲れず、3Dも進歩してるんだな、とびっくりしました。2時間42分というからソラリス(タルコフスキーの方)とほとんど同じ、長~い上映時間なのに、まったく飽きないし、眠くなる暇もなく、ストーりーにぐいぐい引き込まれていきました。戦闘シーンのテンポも良く、はらはらどきどきで、娯楽作品として実に良くできてました。エンドクレジットで、監督がジェームズ・キャメロン、女性科学者役がシガニー・ウィーパーと出て、おー、そうだったのか、とうれしくなりました。キャメロンというと世間ではまずタイタニックの監督ということになるようですが、SFファンの僕にとっては断然「エイリアン2」。シガニー・ウィーパーとともに、強烈な印象でした。今回のこの二人の顔合わせは、なんと「エイリアン2」以来23年ぶりだそうです。で、エイリアン2に出てきたモビール・スーツまがいの機動戦士が、今回も登場するし、最後の戦闘シーンのテンポの良さ、のりの良さは、まさにエイリアン2を思い出します。そういえば、資本主義社会の大企業の論理の冷徹なエゴ(利益追求のみ)という舞台背景も、エイリアンシリーズと同じです。しかししかし、この映画ただの娯楽SF大作ではなかった。ただめがねをかけて立体映像を楽しむ映画ではなかった。単なるエイリアン2の延長線上のバトル・サバイバル映画ではなかった。SFというジャンルを超える主張が、熱く示されていて、そこに強く共感しました。わたくし、こういうSF映画こそ深く敬愛してやまない、いちSFファンであります。ここから先は、ネタバレというほどでもないんですけど、ちょっとストーリーの展開にも関わることを書きますので、これから見ようというかたは読まないでください。この映画では、地球から遙か彼方のとある惑星に住む先住民の大切な「母なる木」に、大企業に雇われた軍隊がレアメタル欲しさに攻撃をしかけて、倒しにかかります。このシーンをみていて、だいぶ以前にテレビでみたシーンと完全に重なり合いました。もう数年、いや10年くらい前になるでしょうか、お正月のテレビの特番でした。女性シンガー・ソングライターのEPOさんが、世界のさまざまな文化・民族・史跡などを旅する番組で、お正月にふさわしい見応えがありました。その中で、インディアンたちが大事にしている神聖な木を、どこかの会社がその土地の所有権を主張して、開発か何かに邪魔だから切り倒す、というシーンがありました。やめてほしいと祈るように懇願するインディアンたちが見守るなか、無惨に切り倒されていく木。EPOさんも涙ながらにそれを見つめていました。この木は誰のものなのか。。。アバターは、キャメロンが監督のみならず脚本も書いています。キャメロンがアバターで描く先住民は、映画が進んでいけばいくほど、インディアンとの類似性が明確になっていきます。キャメロンさんがこのインディアンの木のシーンを見たのかどうかはわからないけれど、このシーンと同じようなことはアメリカのそこら中で起こっていたのだろうし、今も起こっているのだと思います。それに対するキャメロンさんの静かな怒り、自分たちの利益・繁栄しか考えない人類(先進国の人々)のおごりに対する、それでいいの?というきびしい問いかけがこの映画のメッセージ、と僕は感じました。この映画で、先住民たちは自分たちの命だけではなく、すべての生き物の命を敬い、自然とともに調和した生活をしています。そういった方向を目指さないと、人類はもうダメだよと。宮崎駿さんの「ナウシカ」を、映画でなくて漫画の方を読むと、人類固有の利益にとらわれることがいかに小さいことで、人類の存亡なんてどうでも良いこと、そういった大きなスケールの視点から描かれています。ガイアというともはや陳腐かもしれませんが、そういった大きな視点を早々と示した宮崎さんの、先見の明ですね。このアバターも、そういった視点でナウシカと共通するところがあると思います。ところで、そのEPOさんの正月特番の番組テーマ曲に使われたのが、EPOさんの「満ち行きて」。その音楽に感動してしまって、後日CDを探して買いました。オリジナルのアルバムは1997年の「聖き彼の人」だそうですけど、僕の買ったのは、EPOさんのベストアルバム「TRAVESSIA/EPO」です。このアルバムの13曲目に、この「満ち行きて」がはいっています。とってもいい曲です。歌詞を途中まで書きましょう。天のふちから見守られて生きるもののはじめと終わりあなたの指を握りしめることに力つきても私はどこかでまた産まれ見えない糸をたぐりよせる満ち満ちて 満ち満ちてさんさんと さんさんと光はそそぎそれぞれに それぞれに営みをくりかえす命のさざ波(EPO「満ち行きて」より)
2010.01.06
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2009年My Favorite CD、4枚目です。○"Misterioso" (シルヴェストロフ、ペルト、ウストヴォーリスカヤ作品集) / リュビーモフ(P)、リバコフ(Cl) ほか ECM New Series 1959 476 3108ひそやかに悲しみと孤独を湛えたシルヴェストロフの音世界、好きです。このCDは店頭でみかけ、シルヴェストロフの名がはいっていて、しかも ECM New Seriesですので、迷わず購入したものです。シルヴェストロフ目当てに買ったCDでしたが、ペルトが大当たりでした。僕は寝る前のひとときに、布団にはいって部屋を真っ暗にして、CDをヘッドホンで聴きます。いつもちょっと聴くとすぐ眠くなるので、あまり長いことは聴けないのですが、これも僕の貴重なひとときです。このCDもそんなふうにして聴き始めました。シルヴェストロフらしい音世界を聴きながら、この夜は珍しくなかなか眠れないので、じっと聴いていました。やがて少しまどろみかけたころ、新しい曲がはじまりました。ピアノの単純な分散和音の上にクラリネットが、やはり単純な上昇音型、下降音型を静かに奏でる音楽で、奇跡的に美しいです。美しすぎて、すっかり目が醒めてしまいました。これもシルヴェストロフ?そう思って、短いその曲が終わったあと、灯りをつけてジャケットをみると、ペルトの「鏡の中の鏡」でした。そうかこれがかの有名な。だけどこの曲はCDを持っていたはずだけど、こんなにも美しい曲だったかな?そもそもどういう曲かあまり覚えてないし。。。そんなことを考えながらいつしか眠りについたのでした。後日CD棚を探してみると、確かにペルトの「鏡のなかの鏡」、ありました。ECM New series のペルト作品集「Alina」でした。久しぶりにそれを見てみると、この曲の演奏が3つはいっています。ヴァイオリンとピアノ版が2種類、それからチェロとピアノ版が1種類、あわせて3つです。あらためて聴いてみると、すばらしい曲です。数年前に聴いたときには今ひとつピンとこないで、そのまま忘却していたようです。このペルトの「鏡の中の鏡」、あらためてすっかり気に入り、繰り返し聴きました。「Alina」にはいっている演奏は、スピヴァコフのヴァイオリンらによるもので、9~10分ほどのゆっくりとしたテンポで、素晴らしいです。それに比べると、今回のCDにはいっているクラリネットとピアノによる演奏は、かなり速いテンポで、演奏時間7分半ほどです。一時期は、「Alina」の方の遅いテンポの演奏が断然いいと思ったのですが、そのうちまた、クラリネットとピアノの方にも独特の素晴らしい魅力を感じ始めました。大きな違いとして、ヴァイオリンにせよチェロにせよ、弦楽器だと音に揺れがありますよね。ビブラートをかすかにかけているのかどうかは僕の耳ではわかりませんけど、ビブラートをかけてない場合でも、弦楽器で相当な弱音で弾くとわずかな音の揺れというか強弱のぶれが生じますよね。(それが弦楽器の音の魅力のひとつでもあります。)それに対しクラリネットの方は、そのような音の揺れがまったくありません。そのため、より透明感が出て、「鏡」のような雰囲気が強まり、それがこの曲の場合にはすごくいいんです。7分半という速めのテンポも、慣れてくると妙にいい感じです。この曲、もともとは1978年の作曲ということです。クラリネットの方のCDを見てみると、1978/2003 とありますので、作曲から25年後にペルトがクラリネット用に編曲したのでしょうか。(といっても音符自体は全く同じような気もしますが・・・。)もし音符が同じでもわざわざクラリネットとピアノの版を作ったのだとしたら、ペルト自身もクラリネットによる演奏が、弦楽器とは違う魅力を持つと感じてのことなのか、と推測したりしますが、そのあたりの事情はわかりません。ともかくこのクラリネットとピアノのヴァージョンによる「鏡の中の鏡」、素晴らしいです。なお、そのあとにブリリアントのCDで、「鏡の中の鏡」が、ヴァイオリンとピアノ版、チェロとピアノ版のほか、ヴィオラとピアノ版で収録されているのを見つけました。(Brilliant Classics 8847) これで聴くヴィオラとピアノ版も、すごく素敵で、僕としてはヴァイオリンとピアノ版よりも好きです。もう今年もあとわずか。今年の聴き納めは、この「鏡の中の鏡」のクラリネットとピアノのヴァージョンとしようと思います。僕にとって今年は、大植さんのマーラー5番の衝撃からブログを始めたということが一番大きな出来事になりました。筆無精と遅筆ゆえ、2週間に一度程度の更新というきわめて怠慢なブログですが、読んでくださる人が少しでもいらっしゃるとすれば、何よりもうれしく思います。来年も、このようなゆるゆるペースでブログを続けようと思っています。今年1年ありがとうございました。皆様良いお年をお迎え下さい。
2009.12.31
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2009年My Favorite CD、3枚目です。○ハイドン ピアノ三重奏曲 全曲集 / ボザールトリオ Philips 454 098-2ハイドンのアニヴァーサリーイヤーだった2009年、交響曲や弦楽四重奏曲までには進出できませんでしたが、ピアノトリオにはかなり愛着の強まった年でした。ハイドンのピアノトリオは、ブリリアントから出ている安い全集を3年ほど前に買って聴いていました。Van Swieten Trio という人たちによる演奏で、悪くはなかったですが、フォルテピアノによる全集でした。現代ピアノによる全集も聴きたいと思っていたところ、ボザール・トリオのものがあるときいて、それなら良い演奏に違いないと思い、ハイドンイヤーで安く売られていたのを首尾良く見つけてゲットしました。1970年代の録音です。さすがにボザール・トリオ、生き生きとした活力のある音楽が溢れていて魅力的です。9枚組のCDで、(こればっかり続けて聴いているとさすがに飽きてしまうので、)通勤の車の中で少しずつ、2ヶ月ほどかけて聴き、じっくりと味わいました。つい先日の12月17日に、武蔵野市民文化会館でハイドン・トリオ・アイゼンシュタットによるハイドン等のピアノ三重奏曲の演奏会がありました。この人たちはブリリアントからハイドン編曲によるスコットランド民謡集などを出していて、僕はかなり気に入っていたので、楽しみに出掛けたのですが、いまひとつ精彩にかける感じでした。もしかしたらボザール・トリオのすばらしい演奏に耳がなじんでしまったためかもしれません。このディスクをガイドに、ハイドンの広大な海にようやく漕ぎ出し始めたという感じの年でした。この先に漕ぎ進むのはまだまだ時間がかかりそうです。
2009.12.31
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2009年My Favorite CD、2枚目です。○ダニエル・ブレル 憂愁の道は四つ Alpha Alpha509これもCD屋の試聴機で聴いて完全に惚れ込み、買いました。ル・ポエム・アルモニークという古楽集団と、ダニエル・ブレルという作曲家兼バンドネオン奏者のコラボレーションによる、しっとりとしたインストルメンタル・アルバム。作曲者ブレルが自ら奏でるバンドネオンと、ヴィオラ・ダ・ガンバやテオルボの音色が繊細に絡み合い、静かで憂いを帯びた大人の音楽がしっくりと奏でられます。ピアソラ風でもあり、シャンソン風でもあり、近代音楽風でもあり、古楽風でもあり、どこか懐かしい感じが漂います。夜にひとり静かに聴くと、ことさらその独特の世界に引き込まれます。これ、白いジャケットも素敵です。αレーベルの「白シリーズ」というのだそうです。このアルバムが素晴らしかったので、ほかの「白」も何枚か買いましたが、まだ聴いてません。来年の楽しみのひとつです。
2009.12.31
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いよいよ大晦日。きょうは1年の締めくくりとして、今年買ったCDですごく気に入ったものを書きます。ここ1~2年、CDを買う量、聴く量が随分減っています。たまにCD屋を訪れるとある程度まとめ買いをするんですけど、買ってから聴くまでが、また随分時間がかかったりします。自分の音楽聴取エネルギーが減退しているのかなぁ。CDを聴く機会が一番多いのは、車通勤の行きと帰りで、僕にとって貴重な時間です。しかしちょうど朝の通勤時間は、気ままにクラシックなど、NHK-FMのクラシック番組と時間が重なっているので、FMでおもしろいのをやっていると、ついそちらを聴きたくなり、CDを後回しに、ということでなかなかCDの消化が進まない、という日々です。そういった日々の中で、今年気に入って繰り返し良く聴いたものを、いくつかあげます。最初の1枚。○ルーナ・エ・チンクエ ルネッサンス ~愛の歌~ DreamLife DLCA 4001CD屋の試聴機で聴いて気に入って買いました。イタリアの5人のアカペラ・グループで、ジャズ、クラシック、ポップス、ゴスペル、イタリア民謡など幅広いレパートリーを持っているということです。このアルバムは、ガストルディ、ゲレーロ、ダウランドなどのルネッサンスの声楽曲を歌ったものです。クラシックの曲とは思えない、自由でポップな感覚が新鮮でかっこ良く、しびれます。何度聴いたかわかりません。とくにイギリス音楽好きの僕としては、5曲目のヘンリー8世の「Pastime with Good Company」など、本当に気に入って、完全にはまってしまいました。このCDで日本デビューというルーナ・エ・チンクエ(L'Una e Cinque)、今後が大注目!
2009.12.31
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2009年もあと二日。きょうは、今年のコンサートで、マーラー・ブルックナー以外で特にすばらしかったものをあげておきます。()内はブログ記事の日付です。--------------------------------------------------------------------- 1月24日 プッチーニ/蝶々夫人 新国立劇場大劇場 2月 7日 リゲティ/ル・グラン・マカーブル 新国立劇場中劇場 2月 8日 パーセル/ダイドーとイニーアス ほか 横須賀芸術劇場 5月 1日 ショスタコーヴィチ/ムツェンスク郡のマクベス夫人 新国立劇場大劇場 ( 5/4) 5月15日 モンテヴェルディ/ポッペアの戴冠 新国立劇場中劇場 ( 5/17) 5月28日 ノルディック・ツリー 武蔵野市民文化会館小ホール ( 5/28) 6月 9日 藤井一興/メシアン/幼子イエスに注ぐ20のまなざし 東京文化会館小ホール ( 6/10) 6月10日 バッハ・コレギウム・ジャパン第85回定期演奏会 東京オペラシティ 7月30日 プロムジカ合唱団 東京オペラシティ( 8/2) 9月 5日 ナイマン/妻を帽子と間違えた男 ほか 第一生命ホール ( 9/7)10月 1日 シェレンベルガーら オーボエ&ハープリサイタル ハクジュホール (10/24)12月11日 プッチーニ/トスカ 新国立劇場大劇場12月12日 ウォン・ウィンツァン ピアノソロ 浜離宮朝日ホール---------------------------------------------------------------------僕のブログ開設は今年の2月22日でしたので、その前の3公演について少し書いておきます。○プッチーニ 蝶々夫人オペラは長いこと敷居が高くて、ようやくここ数年、ぽちぽちと聴くようになりました。今年はオペラ好きの友人からのお誘いで、初めて新国立劇場に足を踏み入れました。それが蝶々夫人でした。その音響の良さに、驚きました。これまでの僕のオペラ体験は、東京文化会館大ホールやNHKホールという、オケピットはあるけれどかなりデッドなホールか、あるいはオケピットのないコンサートホールでのセミ・ステージ形式での上演、どちらかのことが多かったです。前者はデッドすぎて音楽そのものが楽しめないことが多く、それに対して後者ではそこそこ楽しめることが多かったので、セミ・ステージ形式も悪くないなぁと思っていました。あるときオペラ好きの友人から、オケピットのないコンサートホールでセミ・ステージ形式でオペラを聴くと、オケの音が響きすぎて声が聴きにくくなりがちで、あまり満足できないことが多い、と言われました。そのときは、「うーんそうなのかもしれないけど、どのみち僕は言葉の意味はわからないで字幕を観ているし、オケの音響に浸るのは好きだから、まぁいいんじゃないかなぁ」といった程度の認識しかできませんでした。しかしそのあとにこの蝶々夫人で新国立劇場のオペラを初めて体験し、オペラのために作られたホールの音響効果の良さを、はじめて認識しました。デッドすぎず響きすぎない、ほどよい響きの空間の中で、充分に広く余裕のあるオケピットにはいった大編成のオケから出てくるワンクッションおいた音響をバックに歌われる声がいかに素晴らしいものか、なるほど友人の言っていたのはこういうことだったのか、と即座に合点がいきました。僕は荒川静香のトゥーランドットではじめて好きになったというにわかプッチーニファンですが、プッチーニの音楽には、マーラーばりの大袈裟で派手な音響のオケと、世にも美しいメロディーの歌との合体という、マーラーファンにとってはすごく親しみやすい魅力を感じています。今後もゆるゆると、プッチーニのオペラを聴いていきたいです。○リゲティ/ル・グラン・マカーブル (日本初演、東京室内歌劇場実験オペラシリーズ 、指揮:ウリ・セガル、演出:藤田康城)蝶々夫人に続き、今度は新国立劇場の中劇場に初めて足を踏み入れたのが、このリゲティでした。この曲、CDでは持っていましたが、ちょっと聴いただけでほとんどわけわからずにお蔵入りしていました。今回、日本初演ということで行きたいとは思っていましたが、直前までチケットを買う決心がつかずにいました。蝶々夫人で新国立劇場大劇場なるものを気持ちよく初体験できたので、よしそれでは中劇場にも行ってみよう、と決意してチケットを買おうとして主催の東京室内歌劇場に電話をしたら、「すみませんが売り切れです、もしかしたらチケットピアならまだ残券が少しあるかもしれません」と言われて、えーーっ、そんなに人気あるんですか!とあわててチケットピアに問い合わせたら、かろうじて僅かに残っていた券を買えました。当日行ってみると、なるほど、どこから集まってきたのか、客席は大入り満員です。これ、観てもやっぱり意味は良くわからなかったけれど(^^;)、音楽とか舞台は、実におもしろかったです。リゲティの音楽のすごい力に惹かれたし、途中ミラーボールを使った舞台演出も効果的でした。東京室内歌劇場なる集団、今回はじめて知りました。今年創立40周年になるという、古楽オペラから現代オペラまで、精力的に活動しているすごい団体なんですね。このリゲティが良かったので、9月にナイマンのオペラを観にいき、これも感銘を受けました。(9/7の記事を参照ください。) 東京室内歌劇場、来年以後も、おもしろそうな演目を観にいこうと思います。○パーセル/ダイドーとイニーアス、モンテヴェルディ/タンクレーディとクロリンダの戦い(横須賀芸術劇場開館15周年記念オペラ、演出:弥勒忠史、指揮:江崎浩司、管弦楽:トロヴァトーリ・レヴァンティ、ダイドー&魔法使い:林美智子、イニーアス:与那城敬 ほか)今年はパーセルのアニヴァーサリーイヤーでしたが、東京近辺で大規模な公演はこれくらいだったでしょうか。僕はパーセルの音楽大好きです。ダイドーとイニーアスは、演奏会形式の上演で一度聴いただけで、舞台での上演はこれが初めてだったので、非常に楽しみにしていました。バッハ・コレギウム・ジャパンなどで活躍する弥勒さんが演出で、なんとバリ風の衣装・舞台設定でした。多分あれもやりたいこれもやりたいという気持ちからでしょう、いろいろと演出過剰気味でしたけれど、良かったです。色彩豊かな装飾の衣装がとてもきれいでしたし、ラストで、上から赤い薔薇の花びらがひらひらと、横たわるダイドーの上にそっと舞い降りてくるという、切なくも美しい見事な演出、強く心に焼き付きました。パーセルの音楽は本当に素晴らしいです。来年は2月にニケが横浜でアーサー王をやるので、今から非常に楽しみにしています。あと最後に、12月に行われたピアノソロコンサートのことを。○ウォン・ウィンツァン ピアノソロコンサートニューエイジのピアニストで、即興演奏がすばらしい人です。この人のコンサートに臨んだのは2回目です。前回はインプロヴィゼーションは短かったですが、今回はコンサートの後半に、数十分のインプロヴィゼーションを弾いてくれました。今年で60歳になられたというウォン・ウィンツァン。これからも心に響くピアノを聴かせてください。
2009.12.30
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続いて2009年のブルックナーのコンサートです。()内はブログ記事の日付です。ほとんどの感想をブログに書いてなかったので、駆け足で書いておきます。---------------------------------------------------------------------1番 スクロヴァチェフスキ/読響 3月 9日 サントリーホール4番 コバケン/日フィル 4月24日 サントリーホール シャイー/ゲバントハウス 11月 2日 サントリーホール7番 ハイティンク/シカゴ響 2月 3日 サントリーホール デプリースト/都響 12月18日 サントリーホール8番 ブロムシュテット/チェコフィル 11月23日 サントリーホール9番 スクロヴァチェフスキ/読響 9月24日 サントリーホール (10/4)---------------------------------------------------------------------以前から気になっていて一度聴いてみたかったコバケンのブルックナー、今年はじめて聴きに行きました。4番、どこがどうというのは覚えてないんですが、やはりコバケンはマーラーがあっている、という思いを強く抱きました。もうひとつの4番はシャイー/ゲバントハウス。シャイーのブルックナーも今年はじめて聴きました。第一、第三楽章はテンポが速くせわしなく、管楽器の音などかなりきつめの表現で、ブルックナーとしてはちょっとなじめませんでした。しかし第二楽章などの弦の渋い味わいはさすがにゲバントハウスで、素晴らしかったです。終楽章は、それまでと一転、じっくりとした遅いテンポで進み、巨大な世界が作られていきました。とくにコーダは、さらに一段とテンポを落として、壮大なクライマックスが立ち現れ、凄かったです。終わってみると、部分的に鳥肌がたつようなところがいくつかありましたが、全曲通しての一貫した音楽の揺るぎなさのようなものがなく、中途半端な印象になってしまったのは残念でした。それにしてもシャイーのやろうとしている方向には、もっと機能的現代的なオケが相応しいと思いました。この組み合わせは、指揮者にも、オケにも、どちらにも勿体ないことかも、と思ったりしました。ハイティンクの7番は、オケが二日前のマーラー6番の大味な演奏とは違って、良く鳴って、アンサンブルもぴしりと引き締まり、まことに立派な音響世界を構築してくれました。音響的には完璧といっていい音の大伽藍でした。しかしハイティンクの作るブルックナーの世界は、今回は地味すぎるというか、淡泊すぎて、ちょっと物足りなく思いました。(2004年にサントリーで聴いたドレスデンシュターツカペレとの8番は神がかり的な演奏で凄かったのですが。。。)こうして書いていて、シャイーがシカゴを、ハイティンクがゲバントハウスを振ったら良かったのかも、などと勝手なことを想像したりしました。今年もう一つの7番はデプリースト/都響。前半のふたつの楽章は、スケール感こそないけれど、早めのテンポのなかにそれなりにゆったりとした味わいがありました。フレーズの出だしはもったいをつけずにあっさりと入り、フレーズの後半に少しテンポをゆっくりとしていき、音楽が若干うしろに引っ張られていく感じでした。(音楽が前に前にとつんのめっていくブルックナーは僕はもっとも敬遠したいですので、こういう感じは、悪くないです。)ちょっと驚いたのは第一楽章のコーダ。それまでの早めのテンポから一転、朝比奈御大ほどではないがそれを思い出すような遅いテンポとなり、コーダが演奏されました。朝比奈/都響のブルックナー演奏の伝統に敬意を表したのだろうかなどと思いましたが、それは考えすぎでした。(終楽章のコーダが第一楽章のそれと呼応するゆっくりしたテンポではなく、速くあっさりと終わってしまいましたので。)ともかく、前半のふたつの楽章は、小ぶりだが抑制の利いた上質の7番という感じで、かなり好感を持ちました。しかし後半のふたつの楽章は、ほど良い抑制の感じがなくなってしまいました。オケから強い激しい音を出させようとしたときに、浅くうるさい響きになってしまいました。前半が良かっただけに残念。デプリースト/都響の演奏は数えるほどしか聴いてませんが、以前聴いたマーラーの2番でもやはり同様な、大きな音のところでのきつさ、荒さが目立ってしまい、聴いていてしんどかったです。ブロムシュテット/チェコフィルの8番は、余計なことをしないで、曲そのものに語らせるというような、匠の技を感じました。オケは、すべてのパートが必要以上に突出することなく、引っ込みすぎることもなく、すばらしいアンサンブルでした。これに凄みのようなものが加われば、さらにすごいブルックナーになったとは思いますが、それはそれとして、極上のブルックナーのひとつを聴けたと思います。ところで余談ですが、友人が、この演奏会のときバボラークに良く似た人を客席で見かけたと言っていました。バボラークの後任のホルン首席というと、2005年にマーカル指揮でマーラー5番を演奏したときに、若い人が、圧倒的な大音量で鳴らし、チェコのホルン健在なり、と強烈な存在感を放っていました。その人が今回もホルン首席でしたが、今回はそのときとは違い、完全なバランスを取ることに徹した、素晴らしい音を出していました。来年もまた、どんなブルックナーが聴けるのか楽しみです。
2009.12.29
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もうすっかり年末ですね。12月18日サントリーホールのデプリースト/都響のブルックナーの7番が、僕の今年の最後のコンサートでした。このコンサートが終わった途端、もう風邪をひいてもいいやと気がゆるんだのでしょうか、風邪をひき、ぜこぜこしながらなんとか12月の仕事を慌ただしく片づけていたら、もうあっという間に年末です。今年行ったコンサートを振り返ってまとめてみようと思います。まずは2009年のマーラーのコンサート。()内はブログ記事の日付です。---------------------------------------------------------------------1番 シャイー/ゲバントハウス 10月27日 サントリーホール2番 西本/東響 3月12日 所沢ミューズアークホール3番 三河/小田原フィル 11月 8日 小田原市民会館 (11/ 9) 井上道義/OEK&NJP 11月28日 石川県立音楽堂 (12/ 6) 同上 11月29日 富山オーバードホール (12/10)5番 大植/大フィル 2月17日 サントリーホール ( 2/22) ティルソン・トーマス/PMF 7月29日 サントリーホール ( 7/31) 高関/読響 8月26日 サントリーホール ( 8/30)6番 ハイティンク/シカゴ響 2月 1日 サントリーホール レック/東響 6月13日 サントリーホール ( 7/ 8) 井上喜惟/JMO 7月12日 ミューザ川崎 ( 7/13)9番 アルミンク/新日フィル 6月16日 サントリーホール 大植/ハノーファーNDR 6月21日 シンフォニーホール ( 6/21) 同上 6月26日 静岡グランシップ ( 6/27) 同上 6月28日 サントリーホール ( 6/28)リュッケルトの詩による5つの歌曲:藤村実穂子(メゾ) 3月 3日 紀尾井ホール---------------------------------------------------------------------丁度去年の年末頃には、「2009年は、来る2010-11年の連続マーラーアニヴァーサリーイヤーの前年だから、各オケはマーラーをある程度控えるのではないか、だとしたらあまり期待できない年になりそうだなぁ、まぁ2010年まで忍耐の年かなぁ」と思っていました。しかしうれしい大誤算でした。今年はなんといっても大植さんのふたつのマーラー、5番と9番を聴けたこと、これに尽きます。魂を揺さぶられた、究極のマーラー体験でした。生きていて良かった。2010-11年のマーラーイヤーにも、これほどのマーラーは聴けないだろう、と思います。おまけに、昨年に続き今年も聴けないだろうとあきらめていた3番が、秋にうれしくも3連続で聴けました。しかも三河/小田原フィルが、すばらしい名演でした。ハイティンク/シカゴの6番は、オケが大味で、それほどの感銘は受けませんでしたが、カウベルを吊って静かに叩かせたのは秀逸でした。(7/8の記事参照。)あとレック、井上喜惟の6番もそれぞれ味わいあって充実した演奏でした。それから、藤村実穂子さんのリサイタルをブログに書きそびれたのでちょっと触れておきます。「ドイツ・ロマン派の心をうたう」というテーマで、シューベルト、ワーグナー、R.シュトラウス、マーラーというプログラムで、マーラーのみならず全て、すばらしい歌を聴かせてくれました。藤村さんが自ら訳した歌詞をプログラムと一緒に配るという気合の入りようでした。ただ、「Ich bin der Welt ・・・」は、もう少しゆったりとしていたらさらに浸れた、と思いました。こうしてみると僕にとって、2009年のマーラーは大々豊作の年でした。来年はどんなマーラーが聴けるのでしょうか。
2009.12.28
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北陸3番ツアー、11月28日土曜日はそのまま金沢に一泊し、翌29日、金沢から特急に乗り、40分ほどで難なく富山駅に到着しました。きょうの会場は富山駅前のオーバードホールです。ここを訪れるのは初めてです。事前にネットでホール内部の写真を見てみたら、古い市民会館のホールのような雰囲気でした。しかし来てみると全然違っていて、新しくてきれいで、本格的な音楽ホールだったので驚きました。ホールの奥行きは短く、2,3,4階とも舞台からあまり遠くなく、残響もどちらかというと短めの方で、オペラなどに適したホールという印象を持ちました。ただし舞台は小さめでした。僕は1階平土間のセンター、やや前よりに座りました。開演前には、昨日と違って事務局の方々は登場せず、赤いジャケットを着た井上道義氏が出てきて、曲目解説その他のプレ・トークをしてくれました。その中で合唱団の配置についても説明がありました。本日は舞台が狭くて合唱団が乗るスペースがないので、客席を使います、ということでした。井上氏の声かけに従って左右の客席を見ると、なるほど、2階、3階、4階の左右のブロック全部に、お客さんをまったく入れていません。そしてそれら6つのブロックには、それぞれ最前列だけに、女声合唱の団員がずらりと並んで座っています。これはなかなか壮観です!井上氏は続けて児童合唱の配置についても披露してくれました。4階のセンターブロックに、児童合唱団員が、横にずらっと並ぶ予定だということです!まだ入場していないということでしたが、振り返って下から見上げてみると、4階のセンターブロックは高く、そして結構幅が広く、あそこにずらっと並ぶのはすごいだろうなぁ、とびっくりしました。いやぁこれは、すごく贅沢な配置です!お客さんは1階席全部と、2,3階のセンターブロックだけに入れて、残りの広大な部分(2,3階の左右の席すべてと、4階席すべて)を全部合唱団に割り振っているわけです。この配置で歌ったら、歌声で会場全体を包みこむような効果が期待できそうです。ただ残念なのは、きょうもチューブラー・ベルは舞台上でした。もしこれでベルを児童合唱と同じ高い位置におけば、合唱関連の配置に関する限りでは史上空前の最強の布陣と言って良いでしょう。また、合唱団は舞台に乗らないわけですから、きのうのように第三楽章の演奏中に合唱団が舞台にぞろぞろはいってくることはない、ということがわかって、とっても安心しました。井上氏はさらに、第一楽章と第二楽章の間で、オケの奏者の席がOEKとNJPのメンバーでオモテとウラが替わるということも、身振りを交えてわかりやすく話されていました。これなら聴衆も安心して聴けるというものです。井上氏が引っ込み、オケが出てきて、着替えた井上氏が登場し、ついに演奏が始まりました。きのうと同じで、オケはなかなか良く鳴っています。今日は僕の席はほぼセンターの前よりだったので、ヴァイオリンの両翼配置の効果をかなり実感できました。第一・第二のヴァイオリンが掛け合うフレーズがかなり多いので、やはり両翼配置でこそマーラーの意図が良く現せるなぁ、マーラーは両翼配置が絶対いいなぁと、あらためて思いました。第三楽章、きのうかなり不調だったポストホルンは、きょうはまずまずの演奏を聴かせてくれて、ほっとしました。そしてきのう悪夢のような合唱団入場があったホルンとトロンボーンの斉奏の箇所は、本日は独唱者だけが舞台下手から出てきて、舞台一番奥の中央に立つという方法がとられていました。昨日に比べればずっとましですが、それでもやっぱり、ここでの独唱者の入場はありえない選択だと、僕は思います。ここの音楽をもっと尊重してほしいです。(かつてこの箇所で独唱者を入場させる演奏に遭遇したことは2回あります。1994年のインバル/都響と、2005年のチョンミュンフン/東京フィルの文京シビックホールでの演奏でした、特にインバルのときは初めてだったので、僕は大きなショックを受けました。このときのインバルの演奏については、いずれまた別の機会に書こうと思います。)合唱団を起立させるタイミングは、第四楽章の演奏中で、楽章が終わる直前でした。井上氏はそこで客席側を振り向いて、合唱団を起立させる合図をしました。このタイミングは昨日と同じでした。第五楽章は、合唱団の立体的配置がやはり音響的に非常に優れた効果をあげていました。ちょうど僕の席がいい位置だったこともあり、正面の舞台の方を向いて聴いていると、左右~後ろの上方から、合唱に包み込まれるような、すばらしい体験でした。ただしきのうと同じ「Bi--mm、Ba--mm」の発音は大いに残念。。。ところで、きのうの金沢公演について書き落としたことが一つあります。声楽陣の座るタイミングです。多くの演奏では、第六楽章が始まって少しして、ある程度音量的に盛り上がったところで、声楽陣全員が座ります。シャイーとか先日の三河/小田原フィルとか、指揮者によってはすばらしい工夫をして、音楽の流れをさらに損なわない他のタイミングで着席させることがあります。さてきのうの金沢公演では、第五楽章で歌った声楽陣全員(独唱、女声合唱、児童合唱すべて)が、終楽章が始まってもそのまま立ちっぱなしで、曲の最後まで立ちっぱなしでした。これは異例のことです。井上氏が合図をし忘れたのか、それともそういう意図だったのか?まったくの想像ですが、前者のような気がします、だって入場や起立のタイミングから考えて、わざわざ最後まで意図的に立たせておくほど、井上氏が着席に関して神経を使っているようには思えないからです(失礼でしたらごめんなさい)。でも実際のところどうなのかは、わかりません。きょうの富山はどうしたかというと、合唱団については僕の視野の外なので、わかりません。(着席のタイミングを確認するために左右や後ろを見るつもりは全くありませんから。)従って僕のわかったのは舞台中央奥の独唱者のことだけです。これ、お世辞にもいい着席とは言えませんでした。普通は、さきほども書いたように、終楽章が始まってしばらくしてから座ります。第五楽章の最後の音が静かに消えていき、ごく短い静寂のあと、弦の主題が静かに歌われ始めるところ、とても大事なところですよね。ですので弦の主題がしばらく歌われて、ある程度経過したところで座る、というのがまぁ常識的な座り方です。しかし今回の独唱者は、終楽章が始まるやいなや、すぐに、本当にすぐに、着席したのです、しかもあろうことか、椅子を動かす音が、小さからぬ音で響いてしまいました。この無神経さにがっかりです。これもまったくの推測ですが、独唱者は、井上氏がきのう合図を忘れて最後まで座れなかったので、きょうはさっさと自分で座ってしまおうと思ったのでしょうか(^^;)?終楽章の演奏そのものは、きのうと同様、良かったです。盛大な拍手・歓声がひとしきりあったあと、井上氏が手をあげて会場を静め、話し始めました。「金沢・富山の未来を担うこどもたち!」(良く覚えてないので違った言葉だったかもしれません。)と言って、4階席センターの児童合唱団を讃えました。会場は盛大な拍手。井上さん、また拍手を鎮めて、「そして金沢・富山の・・・」ここでちょっと言い澱んだあと、ちょっと照れ笑いしながら「・・・おかあさんたち!」と言って、今度は2,3,4階のサイドの女声合唱団を讃えます。また盛大な拍手。同じようにオケを讃えたあと、またまた拍手を鎮めました。今度は自分自身の指揮のことをいうのかと思ったら、大きく片膝をついて客席に両手を差し出しながら、「そして何よりも、お客様!!」またまた盛大な拍手。井上道義、役者ですね。これでお開きとなりました。井上氏はきっと、このOEK&NJPの合同演奏会を、一大イベント、お祭り的な感じで実行したのだろうと思います。そしてそれはそれで意味が大きいことだと思います。ですのであんまり細かなことにぶつくさ不満を述べるのも野暮というものですね。いろいろありましたが、それなりにおもしろい北陸3番ツアーでした。ありがとう。おしまい。
2009.12.10
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