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「ここはもちろん王子公園、見あげるとマリア様!」 徘徊日記 2026年2月15日(日) 王子公園あたり 2026年の2月半ばの日曜日です。王子公園の体育館に来ています。見上げるとあのマリア様!です。その昔、彼女が首をかしげるとかの都市伝説で盛り上がったことがありましたが久しぶりにお姿拝見です。 ゆかいな仲間のトラキチ君とその仲間がバレー・ボールの試合に出るというのです。おチビちゃんだったコユキ姫もお友だちと一緒に参加するというのですからジージとしては心躍りますね(笑)。 というわけで王子公園の体育館あたりをうろついています。 体育館の北側、山の方にある子ども広場のツバキです。広場は間もなく閉鎖されるようで寂しい限りですが、生け垣になっているツバキの木が花をつけ始めていました。 これって、ツワブキっていうんですかね、いかにも、閉鎖される公園の淋しさの姿でした。 試合は面白かったですね。たくさん見ました。トラキチ君とその仲間くんたちとの20年ぶりの再会もうれしかったですね。参加している市民の皆さんの元気な声とプレーにも思わず拍手!でしたよ。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうで34
2026.02.28
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中嶋梓「ブーニン 天才ピアニストの沈黙と再生」シネリーブル神戸 言わずと知れた天才ピアニスト、スタニスラフ・ブーニンのドキュメンタリーです。まあ、それだけで封切り日に見ました。 中嶋梓という監督による「ブーニン 天才ピアニストの沈黙と再生」です。 始まった早々から、1曲、1曲、涙がこみ上げてきそうな映画でしたが、とどのつまり、メンデルスゾーンの「甘い思い出」、で、最後のバッハ「主よ、人ののぞみの喜びよ」に至って、声をあげて泣きそうになりました。 音楽映画としての音響のクオリティーもさることながら「音楽」を追い続ける天才の指の動きと、そこから、今、生れ出てくるように聞こえる「音の世界」のすばらしさ!は、ちょっと言葉では言うことができませんね。 ブーニンという天才が、80年代の中ごろ登場したことは覚えています。まあ、グールドかぶれだったこともあるのですが、CDだったかレコードだったか忘れましたが、あまりの超絶技巧に、かえって関心を失って40年です。彼が左肩と左足の障害のために演奏ができなくなっていたというようなこともこの映画で初めて知りました。 この作品では、19歳当時の、「ものスゴイ」としかいいようのない演奏も聞くことができましたが、やはり、胸を打ったのは復活後のショパンの練習曲であり、シューマンの「色とりどりの小品」でした。で、最後にメンデルスゾーンとバッハだったんです! 演奏に対しては、もう、拍手!しかありませんでしたが、美しい音楽を求め続ける天才ピアニストの真摯な姿には、「すごいなあ…」という感嘆のことばしかありません。やっぱり、拍手!ですかね(笑)。 映画は、なんというか、NHKふうの作りですが、下にリストを貼りましたが、それぞれの演奏シーンを途中できっていないのがよかったですね。これだけ聴かせてくれる映画って、なかなかないと思いますよ。拍手!バッハ 平均律クラヴィーア曲集 第1巻から 第22番 変ロ短調 (1993年 八ヶ岳高原音楽堂)ショパン ノクターン 嬰ハ短調 (遺作)モーツァルト 「8つのメヌエット」から 第5曲 ヘ長調ショパン ワルツ ヘ長調 「猫のワルツ」ハイドン ソナタ ヘ長調 Hob.XVI:23から (1986年 国技館)ショパン ワルツ 変イ長調 作品42から (1986年 国技館)ショパン ピアノ協奏曲 第1番 第3楽章から (1986年 昭和女子大学人見記念講堂)ショパン 幻想ポロネーズ (2023年 川口総合文化センター リリア)シューマン 「色とりどりの小品」から 「5つの音楽帳 第5曲」シューマン 「色とりどりの小品」から 「3つの小品 第1曲」シューマン 「色とりどりの小品」から 「行進曲」プーランク 「8つのノクターン」から 第8曲 「終曲にかえて」ショパン 練習曲 変ホ長調 作品10第11ショパン 前奏曲 嬰ヘ長調 作品28第13ショパン 前奏曲 変ニ長調 作品28第15 「雨だれ」ショパン 練習曲 変ホ長調 作品10第11 (1999年 サントリーホール)ショパン マズルカ ホ短調 作品17第2ショパン マズルカ 変ニ長調 作品30第3ショパン マズルカ 嬰ハ短調 作品63第3ショパン ワルツ 変イ長調 作品69第1「告別」シューマン アラベスク ハ長調 作品18メンデルスゾーン 無言歌集 第1巻から第1曲 「甘い思い出」バッハ チェンバロ協奏曲 第4番 第2楽章からバッハ作曲(マイラ・ヘス編曲) 主よ、人の望みの喜びよ監督 中嶋梓撮影 宮崎剛編集 髙木健史音楽監修 スタニスラフ・ブーニンキャストスタニスラフ・ブーニン中島ブーニン榮子小山実稚恵ジャン=マルク・ルイサダ桑原志織反田恭平亀井聖矢2026年・111分・G・日本・KADOKAWA2026・02・25・no040・シネリーブル神戸no362追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.02.28
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岩井俊二「花とアリス」109シネマズ・ハット 元町とかの繁華街は連休の最中で、しかも、南京町は春節ということで、とても近寄る元気はありません。 で、109ハットならと人の少なそうな所で調べると岩井俊二監督「花とアリス」というプロぐラムを見つけました。岩井俊二かあ・・・、なんか懐かしい名前やなあ。 で、109ハットですが、20年ほど前の作品だと、たかをくくってやってきたのですが、案外、若い人とかで混んでいて????でした。その上、なんと老人割引がないんです???。ポスターもチラシもありません。栞みたいな、上に貼ったカードが配られただけです。 で、まあ、見たんですが、面白かったですね。花ちゃん役の鈴木杏という方は、ちょっと大きめの顔立ちに覚えがあって、見たことあるなあでしたが、彼女の親友(?)のアリスちゃんが何度か出てくるうちにようやく、あの、蒼井優さんだとわかって「ええーっ!蒼井優やん!」でした。 この写真ですね。 ボク、彼女、好きなんですよね(笑)。「花とアリスというの見てきた。面白かったで。知ってる?」「蒼井ゆうちゃんでしょ。」「えっ?何で知ってるの?」「テレビでやってわよ。監督、ラブレターの岩井俊二やろ?」「人気あったん?」「知らんけど、そやから映画になってるんチャウの?」 帰って来てからのチッチキ夫人との会話ですが、何にも知らなかったのはボクだけだったようですね。よくわかりませんが、こういう企画だったようですね。 映画?はい、もちろん、面白かったですよ(笑)。 花ちゃんとアリスちゃんの高校生ぶりに加えて、雅志くんのトテチンぶりが笑えました。相田翔子さんがアリスちゃんのお母さんで出てきたのには驚きましたが、ボクでも知っている20年前の人気者大集合!の趣で、まあ、大沢たかおさんには気づけませんでしたけど、岩井俊二さん、うまいものですね。拍手!監督・脚本・プロデュース・音楽 岩井俊二撮影監督 篠田昇撮影 角田真一キャスト鈴木杏(花)蒼井優(アリス)郭智博(雅志)相田翔子(アリスの母親)阿部寛(アリスの母親の恋人)平泉成(アリスの父親)木村多江(バレーの先生)大沢たかお(カメラマン)広末涼子(雑誌編集者)ルー大柴アジャ・コング伊藤歩中野裕之大森南朋2004年・135分・日本・東宝2026・02・23・no038・109シネマズ・ハットno76追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.02.27
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スティーブン・ソダーバーグ「ブラックバッグ」シネマ神戸 シネマ神戸の2本立ての、2本目です。1本目の「アイム・スティル・ヒア」で、十分堪能したので、帰ろうかなとか思いながら番組表を見ていると、監督がスティーブン・ソダーバーグという「オーシャンズ」シリーズの人らしいので見ました。見たのはスティーブン・ソダーバーグ監督の最新作「ブラックバッグ」です。正解でした(笑)。面白く作るもんですねえ・・・ まあ、そういう感想です。登場人物はイギリスのNCSCとかいう諜報機関で働いている、まあ、いってしまえば全員がスパイさんたちで、中に一人、国家機密を売った人がいるんですね。まあ、スパイというのは嘘をつくのが仕事なわけで、その集まりの中で、誰が本物の噓つきか?を探す映画でした。 どこが、どうとか喋り始めると全部ネタバラシみたいな作品ですね。愛する妻とかいっても、愛していることになっている妻という設定ですからね。ある意味、やたらめんどくさいわけですが、まあ、そこが面白いところなんですよね。 ケイト・ブランシェットという女優さんが、この前見たときはオーケストラの指揮者だったんですが、今回は、その「愛する妻」の役で出ていらっしゃったんですが、なんとなく、その「愛する」とかに収まりきらない「ウソっぽい」ムード!が、なんともいえず面白かったですね。 夫を演じていたハウスマイケル・ファスベンダーさんともども、まあ、嘘つきの皆さん全員にですが、拍手!でした。監督 スティーブン・ソダーバーグ脚本・製作総指揮 デビッド・コープ撮影 ピーター・アンドリュース美術 フィリップ・メッシーナ衣装 エレン・マイロニック編集 メアリー・アン・バーナード音楽 デビッド・ホームズキャスティング カルメン・キューバキャストケイト・ブランシェット(キャスリン 妻)ハウスマイケル・ファスベンダー(ジョージ・ウッド 夫)マリサ・アベラ(クラリサ・デュボース)トム・バーク(フレディ・スモールズ)ナオミ・ハリス(ゾーイ・ヴォーン医師)レゲ=ジャン・ペイジ(ジェームズ・ストークス大佐)ピアース・ブロスナン(アーサー・スティーグリッツン)2025年・94分・G・アメリカ原題「Black Bag」2026・02・18・no034・シネマ神戸no029追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.02.26
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レオス・カラックス「汚れた血」元町映画館 2026年の元町映画館、最初に見たのが「ボンヌフの恋人」というパリの橋の上で暮らすアレックス(ドニ・ラバン)という火吹き男とミッシェル(ジュリエット・ビノシュ)という若い女性の絵描きの卵の純愛映画でした。 レオス・カラックスというフランスの監督の「アレックス三部作」の最終話だということでしたが、今回見たのは「汚れた血」という作品ですが、そのシリーズの第2話だそうです。1986年の作品だそうです。 愛のないセックスで感染する奇妙な病気STBOが蔓延するパリ! まあ、そういう設定の、一瞬、2020年のコロナを思わせるSFノワール仕立ての作品であるかの触れ込みですが、純愛映画でした(笑)。 あれこれ入り組んでいて、それでどうなるのという引っ張り方が、なんだか意味ありげで、メンドクサイんですけど、プロットを動かす小技のシーンがしゃれていて目を離すわけにもいかないという展開なんですね。 その上、出てくる役者さんたちが個性的というか、芸達者というか、たとえば、「アメリカ女」と呼ばれていて、名前もない悪役を演じているキャロル・ブルックスさんなんて「凄い!」としか言いようがない表情と存在感で、唸りましたね。 1月に見た「ボンヌフの恋人」のドニ・ラバン演じるアレックスくんが、やっぱり、超絶マジシャンのアレックスとして面白がらせてくれますし、チラシに写っていますが、ジュリエット・ビノシュという女優さんも、名前こそ、マリアで別人ですが、信じられないくらい「美しい女性!」としてアップ・シーンの繰り返しで、ホント、ポカーンとしてしまいましたよ(笑)。 なんというか、監督さんが好きなように撮っている映画という印象で、意味不明ながら、圧巻のラスト・シーン! いや、ホント、このシーンはスゴイです、見ながら、思わず拍手!してしまいましたね(笑)。 まあ、ここからネタバレですが、チラシ写真のシーンがラストシーンなのですが、最終話にも登場したアレックスくんは、このシーンの前に死んじゃいます。で、ジュリエット・ビノシュ扮するマリアがアレックスの血にまみれた顔のまま走り始めるんですね。ただ、ひたすら、走るんです。 不思議なことに、この、意味の分からない疾走を見ながら、見ているこっちは、この映画で何が描かれていたのかようやく腑に落ちてくる気がしたんですね。もっとも、「汚れた血」という題名の意味は、やっぱり分かりませんけどね(笑)。 まあ、それにしても、たしかに、レオス・カラックスという人は鬼才と呼ばれるにふさわしいかもですね。 というわけで、拍手!拍手!でした。監督・脚本 レオス・カラックス 製作 アラン・ダアン フィリップ・ディアス撮影 ジャン=イブ・エスコフィエ美術 ミシェル・バンデシュタイン トマ・ペクル ジャック・デュビュス衣装 ロベール・ナルドーヌ編集 ネリー・ケティエキャストジュリエット・ビノシュ(アンナ)ドニ・ラバン(アレックス)ミシェル・ピコリ(マルク)ハンス・メイヤー(ハンス)ジュリー・デルピー(リーズ))キャロル・ブルックス(アメリカ女)ボリスユーゴ・プラット1986年・120分・フランス原題「Mauvais sang」2026・02・22・no037・元町映画館no347追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.02.25
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柴崎友香「きょうのできごと」・「きょうのできごと十年後」(河出文庫) 「読書案内」復刻版です。2018年ころの記事です。今の楽天ブログの前に利用していたブログサイトに載せた記事が出てきたので載せなおしです。毎日出勤する仕事がなくなったころの記事です。文中にある「~年前」とかいうのは、その時点からで、今からだとプラス8年ということになって、自分で読みなおしながらやたら感慨深いです。 映画になった「寝ても覚めても」を観て、「きょうのできごと、十年後」(河出文庫)が気になり始めて、買ったはずなのか、買ったつもりなだけなのか、どこを探してもなかったので新刊を買ってきて、まず、読んだ。すると、2000年に出て、映画も、たしか見た「きょうのできごと」(河出文庫)が気になってしまって、探すと、これは書棚にあって、もう一度読んだ。 「きょうのできごと」は、一応、柴崎のデビュー作ということだから、読み始めて18年もたつんだと思って、今、読み終わった文庫本をしげしげという感じで眺めていると表紙の写真が妻夫木聡と田中麗奈という、映画のコンビ。ぼくでも名前を知っている数少ない俳優なのだけれど、田中麗奈という女優さんはほかの場所で見てもすぐにわかるとは思えない。文庫の後ろの方を見ていると映画化は2004年だとわかって、ぼくの柴崎初体験は14年前だとあらためて気づいた。年齢でいえば、50歳の時で、とても、そんな年になってから出会った作家だとは思えないのだが、事実は事実ということのようだ。 解説は保坂和志が書いていて、柴崎についてだけでなく保坂自身にもつながる、まあ、当たり前だけど、大事なことを言っているのだけれど、そこで出てくるジャームッシュという映画監督をぼくは知らない。《未来はもうかつて信じられたみたいな“特別な”ものではない。それを私たちはよく知っている。だから、「ストレンジャー・ザン・パラダイス」を境にしてフィクションの時間はもう未来に向かってまっすぐ進まなくなってしまった。それはフィクションの構造にも、展開にも、両方にあてはまる。未来に希望も絶望もないけれど、今はある。見たり聞いたり感じたりすることが、今この時に起こっているんだから、フィクションだけでなく、生きることそのものも、過去にも横にも想像力を広げていくことが出来るのではないか。もしそれが未来に向かったとしても、過去やいま横にあることと等価なものとしての未来だろう。》 今読んでみると、十年以上も前のことだけれども、この文章を読んだことは確実で、ボク自身が柴崎の小説の案内を書くときに、作品の「今この時」にこだわっていて、《今ここにいるということがなにげないことなのに、哀しい。》というふうな感じになるのは、保坂のこの文章に、理解しているかどうか、あやふやだけど、あきらかにインスパイア―されている。 「きょうのできごと、十年後」と、「きょうのできごと」に話を戻すと、20代の始めだった人たちが、10年後に再会するという設定で、複数の登場人物の、一人称の語りという描き方は同じ。だから、当然なのだけれど、二つの小説の登場人物は、ほぼ重なっていて、十年後では、10歳、年を取っている。 登場人物の中の「かわちくん」という青年と「けいと」という女性の絡みの描写がそれぞれの小説の中にある。 こたつの部屋の隅っこで、けいととかわちくんが並んで座ってお酒を飲んでいた。(略) 思った通り、けいとはかわちくんに一生懸命話しかけていた。「あんなあ、酔うてるときって、卵の中におるみたいな気がせえへん?せえへん?」「卵ですか?」(略)「そう、卵の中。でも、卵っていうても鳥の卵じゃないねんで。あんな固い殻じゃないねん。殻のない卵。」「気にせんでもいいで、かわちくん。それはけいとの酔うたときのねたやから」「そうなんですか」(略) けいとはわたしのほうをちょっと睨んでから話し続けた。かわちくんに話しかけるたびに短い外はねの髪の毛が揺れて、しっぽを振る犬みたいだと思った。「ええやろ、べつに。ほんまにそう思うんやから。卵やの、卵。柔らかい、水みたいのに包まれる感じせえへん?声とかも水の中でしゃべってるみたいにこもって聞こえるし、感覚とかも鈍くなるやん。触っても、あんまり感じへんくって。きっと卵の中におるのって、こんな感じなんやろうなあって思うねん。鳥の卵じゃなくて、おたまじゃくしの卵とか、そういうのやで」「おたまじゃくしの卵ですか」 かわちくんは素直に聞いて、考え込んでいる様子を見せた。けいとはかわちくんの反応を、期待を込めた目をきらきらさせて待っていた。わたしは目の前にあった、袋の底に少しだけ残っていたポテトチップスを食べながら、けいとってかわいいなと思った。「なあ、かわちくん、そんな感じせえへん?おたまじゃくしの卵の中みたいやって。おたまじゃくし。どう?」 かわちくんはまじめな顔をして、テーブルの上の氷だけになったコップの底にたまった水を少し飲んでから言った。「おたまじゃくしの卵って、変じゃないですか?かえるの卵でしょう?」「えっ?」 けいとは予想外の答えに戸惑って、何を聞かれたか理解するのに少し時間がかかっているみたいだった。わたしは、固まっているけいとの顔がおかしくて笑ってしまった。(「きょうのできごと」真紀のモノローグ) 「今日の出来事」の一節ですが、続けて「十年後」の一節。「もおーっ、暗いなあ!あかんあかん、せっかくの男前がもったいない」 けいとさんは、今度はぼくの肩をゆすった。今、ぼくが考えていることは、この人にはわからない。ぼくが何をしてきたのか、この人は知らない。十年ぶりに会った、他人のこの人には、ぼくは実際よりも少しましに見えているのだろう。「別に、こんな顔、役に立てへんし・・・・・・」「立つよ!今も、目の保養させてもらってるし。癒されてるよ」 真剣な口調が、うれしかった。「やさしいですね、けいとさん」「ほんま?やさしい?」 けいとさんの二つの目は、潤んで、そばにある変わった形のライトを反射していた。鳥の羽みたいな不思議な服。どっどっどっ、と音楽の一部が響いてきた。誰かの声も聞こえる気がする。「けいとさんは、素敵な女性やと思います。あの・・・・、かわいいし」 けいとさんは、こっちに手を伸ばした。そして、ぼくの顔を触った。頭から顎に向かって、そっと撫でた。細い指で、温かい手だった。だけど、感じたのはそれだけだった。「あー、なんでやろなあ」 けいとさんは、ぼくから離れ、赤い椅子にどさっと持たれた。「それ十年前に言うてくれたらよかったのに。そしたらわたし、素直によろこんで、っていうかぎゃーぎゃーうるさかったと思うけど、かわちくんになんでもしてあげたのになー」 けいとさんは笑っていた。懐かしい友だちみたいな笑いかただった。「けいとさんは、イマイチ男性の趣味が悪いのかもしれませんね。見る目がないというか」「ええっ?」「ほら、ぼくとか、もしつき合っても、全然おもしろくなかったと思いますよ」「せやなあ。恋愛に関してはろくなことなかったし、確かに、そうなんかも。かわちくんも、こんなぐだぐだやしなあ」「すいません」「謝らんでいいって。謝りすぎ」「それもよく言われます」 あはは、と声を上げて笑ったけいとさんは、眠そうに見えた。(「きょうのできごと、十年後」かわちのモノローグ) ここまで読んできた人には、「十年の歳月」ということが、人に何をもたらすのかということを、この作家が書き込んでいることに気づいていただけたのではないだろうか。 10年後の「今、ここ」が、単なる時間の経過の結果としてあるわけではなくて、そのとき、そのときの「今、ここ」が重層的に重ねられた経験として人の中に積もってゆく。すこしづつ、その露頭を垣間見せながら、「きょうの」会話が構成されていく。何が変わって、何が変わらないのか、自分でもよくわからない。しかし、口調や物腰、外の世界の見え方の中に、否応なく露出してしまう。 10年前の「きょうのできごと」にも「かわちくんのモノローグ」は書かれている。そこでは、「その日」のかわちくんの「悲惨な、きょうのできごと」と、酔っ払って口説くけいとの「おたまじゃくしの卵」にたいするかわちくんの強烈なリアクションの描写に、「今、ここ」の「分厚さ」があったと思うのだが、「十年後」のかわちくんが、やはり酔っぱらって口説くけいとに「やさしいですね、けいとさん」と答える会話のシーンには、10年前に掘ったの井戸から、新たな湧き出した水を汲みだして口にしたような深い味わいがある、と、ボクは思うのでした。 とかで、「きょうのできごと」・「きょうのできごと、十年後」(河出文庫)。是非、続けてお読みください。 ここからは2026年2月時点で追記です。 この記事を書いた後のことですが、ボクはジム・ジャームッシュの映画は、ここで話題になっている作品も含めて見ましたが、問題はその映画の方の記憶というか印象が、すっかり忘れられていることですね。2026-no024-1239追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.02.24
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トニー・パーマー「Cream Farewell Concert1968」キノシネマ神戸国際 1970年代の初めころ、すでに伝説だったバンド「Cream」のラストコンサートの映画をキノシネマ神戸国際という映画館でやってました。 ボクが高校生になったのは1970年でしたが、友達の部屋のステレオセットで初めてハード・ロックという音楽ジャンルに出会って興奮したのが、その時代です。ビートルズとか、ローリングストーンズとかは、さすがに、すでにFMラジオで聞いていましたが「Cream」を聞いたのはいつだったのか定かではありませんが、その頃です。大学生になって初めてステレオセットを手に入れて買ったレコードの1枚が「カラフルクリーム」だったと思うのですが、ヘッドフォン越しの「サンシャインラブ」は鮮烈でした。で、映画はこの曲で始まりました。見にきた甲斐がありましたね(笑)。 というわけで、今回、見たのはトニー・パーマー監督の「Cream Farewell Concert1968」です。 1966年に結成して、たった3年で解散したバンド「クリーム」のロイヤル・アルバート・ホールで行われた最後のコンサートの映像とジャック・ブルース、ジンジャー・ベイカー、そして、エリック・クラプトンのインタビューを構成した映画でした。 コンサートシーンで聞こえてきた最初の曲は「サンシャインラブ」、で、「ホワイトルーム」、「クロスロード」、「トップ・オブ・ザ・ワールド」、「アイム・ソー・グラッド」、えーっと、それからなんだったっけ、でした(笑)。 ドラムスのジンジャー・ベイカーのインタビューとソロ演奏がすばらしいを超越していて印象的でしたね。 若き日のクラプトンは、これがクラプトンか!というか、後年の彼とは別人のようですし、ベースのジャック・ブルースも若いですね。 この写真を見て、名前が言えたのはジンジャー・ベイカーだけでした。 20代の、ある時期、繰り返し聞いた彼らのレコードは我が家の棚のどこかに眠っているのでしょうが、「彼ら三人が、その時、演奏していた」シーンと大音響の、たとえば「クロスロード」は、今日、ここだけを感じさせてくれる体験でしたね。 それは、なんというか、2026年の2月21日のキノシネマ神戸の今日というべきなのか、1968年11月26日のロンドンのこの日というべきなのか。薬中で苦しんだというクラプトンこそ、かえって、今でも、まだ、お元気なようですが、ジンジャー・ベイカーも、ジャック・ブルースも、もう、この世の人ではありませんね。 でも、50年前のあの頃の彼らが、その時から何年か後、六畳の下宿で、ヘッドフォンをかぶっている大学生のボクの上に降臨するかのシーンを、今日、映画館の座席にもたれて眺めている、それぞれの今日が浮かんでは消えていく不思議な体験でした。 古い作品を見たり読んだりしているときに、初めて見た頃に引き戻されることはよくあることですが、サイケデリックに構成されている映像のせいもあるのでしょうが、なんといっても音の迫力が理由なのでしょうね。なんだか、えらくサッパリした気分で見終えました。 今さらですが、クリームの3人とトニー・パーマー監督に拍手!でした。監督トニー・パーマー製作 ロバート・スティグウッドキャストエリック・クラプトンジャック・ブルースジンジャー・ベイカー1969年・83分・G・イギリス・アメリカ合作原題「Cream Farewell Concert」2026・02・20・no036・キノシネマ神戸国際no58追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.02.23
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佐藤慶紀「もういちど、みつめる」元町映画館 題名とチラシの雰囲気に誘われて見ました。佐藤慶紀という監督の「もういちど、みつめる」です。森を舞台に、少年院を出所した若者と生きづらさを抱えた彼の叔母との「心の触れ合い」を描く チラシのキャッチです。作っている監督とかの、今という時代を生きている人間たちに対する真摯な気持ちはよくわかる作品でしたが、森の描き方、主人公の少年に限らず、少年たちの姿、どれも上滑っている印象でしたね。繰り返し見あげる木立の向こうの空が映し出されるのですが、なんだか、思い入れの押し売りでした。 チラシに「生きづらさ」とか、「心の触れ合い」とか、ある意味、分かるようで、実は何の意味も伝えない使い古された、流行りのキャッチコピーの文句が並んでいることに見終えてから気づきましたが、実は、そういうところから抜け出さないと主人公のユウキ君とか、叔母さん典子さんとかの本当の姿は描けないんじゃないでしょうか。 見終えて、なんだか、ザンネンな気持ちがわだかまった作品でした。監督・脚本・プロデューサー 佐藤慶紀プロデューサー 小林良二撮影 喜多村朋充 大渡仁編集 佐藤慶紀音楽 中野晃汰キャスト筒井真理子(典子 叔母さん)髙田万作(ユウキ 甥っ子)にしやま由きひろ2025年・113分・PG12・日本2026・02・19・no035・元町映画館no346追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.02.22
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ウォルター・サレス「アイム・スティル・ヒア」シネマ神戸 ほぼ、1年ぶりのシネマ神戸でした。2本立てのプログラムの1本、ウォルター・サレス監督の「アイム・スティル・ヒア」がお目当てでした。 映画の舞台は1970年代のブラジルです。以来50年、軍事独裁政権下の弾圧を生き抜き、告発し続けたエウセニ・パイヴァという女性の半生を描いた作品です。 伸び伸びと明るく育っている5人の子どもたちがいて、愛する夫がいて、しっかり者の妻がいる幸せそのもの家族の姿が写っている家族写真が印象的でした。 長女のヴェラの誕生日の記念写真です。 夫ルーベンスが拉致され、エウセニ自身と二女エリアナも拘禁、投獄され、厳しい尋問のシーンが映し出されていきます。 写真に写っている家族のしあわせが軍用機と装甲車で武装した国家権力によって踏みにじられていくという、想像を絶した人生を生きたエウセニ・パイヴァという女性とその子供たちの「アイム・スティル・ヒア」の姿!を描いた、心に残る作品でした。 拉致から20数年後、こっそり殺害されていた夫、ルーベンスの死亡通知書を掲げて笑う妻エウセニの笑顔の哀しさは忘れられないでしょうね。 エウセニを静かに、明るい意志の人として演じたフェルナンダ・トーレスという女優さんに拍手!でした。 この作品はブラジルの1970年代を描いていましたが、当時、南アメリカのいろんな国で軍事独裁のあらしが吹き荒れていたことも、多くの民主運動家たちが闇に葬られるように殺されていたことも知りませんでした。 共産主義を仮想敵にしたアメリカの世界戦略の結果的事態だと思いますが、2010年代以降はアジアですね。アメリカの尻馬に乗って隣国バッシングに精を出し、平和憲法までかえてミサイル基地を作ることの正当化に夢中のアホな政治家を「イイネ」とはしゃいでいる国がありますが、結果的に奪われるのは家族の小さな幸せだというを思い起こさせる作品でした。 この作品を撮ったウォルター・サレス監督のこころにあるのは悪夢の時代の再来に対する危惧でしょうね。拍手!監督 ウォルター・サレス原作 マルセロ・ルーベンス・パイヴァ脚本 ムリロ・ハウザー ヘイター・ロレガ撮影 アドリアン・テイジード美術 カルロス・コンティ衣装 クラウヂア・コブケ編集 アフォンソ・ゴンサウベス音楽 ウォーレン・エリスキャストフェルナンダ・トーレス(エウニセ・パイヴァ 妻)セルトン・メロ(ルーベンス・パイヴァ 夫)フェルナンダ・モンテネグロ(エウニセ 老年期)バレンチナ・ヘルツァジ(ヴェラ 娘 思春期)マリア・マノエラ(ヴェラ 成年期)ルイザ・コソフスキ(エリアナ 娘 少女期)マルジョリエ・エスチアーノ(エリアナ 成年期)2024年・137分・PG12・ブラジル・フランス合作原題「Ainda estou aqui」2026・02・18・no034・シネマ神戸no028追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.02.21
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田村文「いつか君に出会ってほしい本」(河出書房新社) 続編の「いつかあなたに出会ってほしい本」(河出書房新社)という本を先に読んで、案内しましたが、こちらが正編というか、田村文さんの「読書案内」の始まりの1冊ですね。 158冊だそうです。14歳の世渡り術の1冊ですから、ターゲットは中学生ですね。ただ、出てくる本を果たして今の中学生が読むのかな?という疑問はありますね。 1987年晩秋のある夜、その電話はかかってきた。 小説好きの友人からだった。東京の実家で暮らす大学3年生だった私は、電話線をのばして自室に引っ張り込めるようにしていて、自室でその電話を受けた。まだ携帯電話が普及していない時代の話である。 「『ノルウェイの森』読んだ?」。彼女は私にそう訊ねた。読んでいないと答えると、彼女は続けた。「絶対に読むべき。明日、本屋に買いに行って」 翌日、上下2冊を同時に手に入れた。上巻は赤一色の表紙で、下巻は緑色。村上春樹という作家の名前は知っていたが、読むのは初めてだった。(P13) 「はじめに―本には読むべき「とき」がある」と題された文章の書き出しです。70歳を過ぎた老人には「そうか、春樹のノルウェイの森は1987年だったか。」 そう思いながら、40年以上昔の、あの頃を思い出させる逸話です。というのは、我が家の棚には田村さんが紹介なさっている単行本に加えて、のちの装幀のデザインが変わった文庫本2種類、合計6冊の「ノルウェイの森」が揃っていたことがあります。出版されたときに買ったのは覚えています。それから十数年の間に3回新しく購入したんでしょうね。映画も見ました。何が、そんなに良かったのか、田村さんの紹介を読んでも思い出せませんが、感じたことは今の中学生はこういう体験談をどう読むのだろう?ということでした。 ボク自身、かつては高校生に向けて、最近では20歳の女子大生に向けて、「読書案内」と称して読書のすすめをプリントにしてくばったりしているのですが、2010年を過ぎたころから「語り方」がわからなくなってしまったのですね。 田村さんは、1冊の本の書き出しで村上春樹を持ち出していらっしゃるのですが、果たして、今、現在、二十歳の女子大生の方の中で、一時、ノーベル文学賞の有力候補として騒がれた村上春樹をお読みになったことがある方がどれくらいいらっしゃるのでしょうね。100人にお1人いらっしゃれば、ボクはホッとしますが、多分いらっしゃらないでしょうね。まあ、ボクの意固地な老人的偏見もあっての現状認識ですが、その20歳ではなくて、14歳に対して、果たしてこの古典的な読書体験の思い出は通じるのでしょうか。 まあ、そんなふうに感じちゃうわけですね。でもね、やっぱり、14歳といわず、いろんな世代の人に手に取ってもらいたい本なんですね。「へえー、そんな話なの?」 それで充分ですね。で、「読んでみようかな。」と原本に進む人が100人に一人いればいいんです。やっぱり、楽観的だとは思いますが、若い人たちに「いつかどこかで」本に出合ってほしいというのが、老人の夢ですね。「あの本読んだの?面白かった?」そういう言葉で、もう一度つながりたいじゃないですか。まあ、そいうわけで、この本もあるよ!の案内でした。2026-no022-1237追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.02.21
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パク・ホンジュン「ただ、やるべきことを」元町映画館 前日はキノシネマで韓国のSF映画でしたが、今日は元町映画館で韓国の社会派映画です。パク・ホンジュンという、多分、若い監督の長編デビュー作「ただ、やるべきことを」という作品です。 パク・クネ大統領の退陣を求める「ろうそくデモ」の時代、だから今から10年ほど過去の韓国社会を背景に、リストラのあらしが吹き荒れる造船会社の人事課に務めている、20代の青年社員カン・ジュニくんの姿を、会社員として「ただ、やるべきことを」やれという命令の元、首切りリストを作成していく業務に対して、素直な疑問の集積の日々を生きる人間として描いている、とてもいい作品でした。 現代という時代の中で生活を支えるために、誰しも働いています。仕事をしながら、これはあかんのんチャウかとか思いながらも、ルーティーンとしての仕事内容に従って、「まあ、いいか」とか、「まあ、しょうがないか」とか、心の中で言い聞かせながら、40年ほど働くと、とりあえず、退職金の年齢になって、無事これ名馬とばかりに映画館徘徊老人っとかに成りすまして、あほブログに記事を投稿しする日日に「それでいいのだ!」という暮らしに浸りながら、こういう映画を見ると、さすがにギョッとします。 恥ずべきことをしている。 主人公のカン・ジェニ君が呟くそのことばが、見ているボクの中で反響します。現代という社会で「労働」が、「生産」とか、「消費」とかいうシステムの中で部品化していることをあざやかに言い当てた一言だと思いました。 この社会で「人間」であり続けるにはどうしたらいいのでしょう。若いこの監督が、今という時代にどんな映画を撮っていきたいのかを強く感じる作品でした。 働き始めたばかりの、若いカップルの温かいヒューマン・ドラマの向こうに、鋭い社会批評の視線を感じさせる秀作でした。拍手! 造船所の風景の映像は、50年ほども昔、六甲の高台から見えた神戸製鋼所の昼夜燃え続けてた溶鉱炉の火を思い出させてくれて、懐かしかったですね。韓国の2010年代を背景にした作品でしたが、神戸の空を24時間照らし続けていた、あの火が消えたのは90年代、地震のあった後だったでしょうか。 その当時、「ただ、やるべきことを」やった人たちが、ボクのように「恥ずべきこと」がなくなったかのような新しい街を歩いていらっしゃるのでしょうか。監督・脚本 パク・ホンジュン撮影 チェ・チャン美術 カン・ダヨン衣装 キム・ジョンミ編集 チョ・ヒョンジュ音楽 イム・ミンジュキャストチャン・ソンボム(カン・ジュニ代理)ソ・ソッキュ(イ・ドンウ次長)キム・ドヨン(チョン・ギュフン部長)キム・ヨンウン(ペ・ホグン部長)チャン・リウ(ソン・ギョンヨン代理)イ・ノア(ホン・ジェイ)カン・ジュサン(チャン・イルソプ部長)キム・ナムヒ(イ・サンス課長)2023年・101分・G・韓国英題「Work to Do」2026・02・17・no033・元町映画館no345追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.02.20
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フリオ・リャマサーレス「黄色い雨」(木村榮一訳・ソニー・マガジンズ) 今日の読書案内は、今では河出文庫で読むことができますが、ソニーマガジンズから2005年に出た本で読みました。スペインの作家フリオ・リャマサーレスの「黄色い雨」(木村榮一訳・ソニー・マガジンズ)です。 最初のページにこんな文章が記されています。 アイニェーリェ村は存在している 村は一九七〇年に完全に廃村になった。けれども、家々は徐々に崩れながらも、ソブレプエルト呼ばれるウエスカ地方の山の中で、忘却と雪に包まれて、今も沈黙したまま建っている。 しかしこの本に登場する人物はすべて作者の純粋な想像から生まれてきた。にもかかわらず、作者自身は気づいていないが、彼らが実在の人物である可能性は大いにある。 これを書いているのはこの作品が書かれた当時、33歳だったフリオ・リャマサーレスという、スペインの作家です。詩を書いていたそうですが、小説を書き始めた初めころの作品だそうです。もちろん、まだ、生きていらっしゃる現役の作家です。 ボクは友人にすすめられて、初めてこの作家を知りました。書き出しからしばらくのあいだ読むのに難渋しました。こんな書き出しです。 彼らがソブレプエルトの峠に着く頃には、たぶん日が暮れはじめているだろう。黒い影が波のように押し寄せて山々を覆って行くと、血のように赤く濁って崩れかけた太陽がハリエニシダや廃屋と瓦礫の山に力なくしがみつくだろう。以前そこにはソブレプエルトの家が一軒ぽつんと建っていたが、家族のものと家畜が眠っている間に火災に見舞われて、今は瓦礫と化している。一行の先頭に立っている男がそばで足を止めるだろう。そして廃墟とひどく暗くて寂しいその場所を眺めるだろう。男は何も言わずに十字を切ると、他のものが追いついてくるのを待つだろう。その夜は全員がやってくるだろう。ホセ・デ・カサ・パーノ、レヒーノ、チュアノルース、炭焼きのベニート、アニエートと二人の息子、ラモン・デ・カサ・バーサ。寂しくもの悲しいこのあたりの山を知り尽くしている勇敢な男たち。しかし、その夜の彼らは棍棒と猟銃で武装しており、不安げな足取りで歩くその目にはおびえたような表情が浮かんでいるだろう。彼らも焼け焦げた廃屋の崩れた壁にちらっと目をやり、その後仲間の一人が手で指し示した方をみるだろう。 男たちの視界の向こうに見えているのがアイニェーリェ村です。で、この書き出しを語っているのが、いったい誰で、どこにいて、何よりも、いったい何が起ころうとしているのか、アイニェーリェ村を目指して峠を下って来たらしい彼らは何者で、何故、棍棒や猟銃で武装しているのか、それは、ここから180ページ読み終えることによってようやくわかることです。 訳者の木村榮一氏は巻末の「解説」の中でこんなふうにいっていらっしゃいます。 死が深々と暗い影を落としているというのに、この作品には哀切で透明な美しさが漂っている。どこにも出口のない悲惨で絶望的な状況におかれた農民の姿を描いた作品といえば、すぐにメキシコのファン・ルルフォの「燃える平原」やロシアのプラトーノフの短編が思い浮かぶし、死者の語りということなら同じルルフォの「ペドロ・パラモ」という作品がある。しかし、これらの作品も正直言って「黄色い雨」から受けたほど大きな衝撃と感動をもたらしてはくれなかった。(P193) これ以上、いうことはありませんが、降りしきる「黄色い雨」という描写とともに、題名のことばの意味していることが「ああ、そうだったのか!」とわかった瞬間のなんともいえない「哀しさ」こそがこの作品の世界のすべてでした。読んでいる自分自身が、語り手と、ほぼ、同じ年齢であるからこその「哀しさ」の実感であることは疑いないのですが、その作品を1955年生まれですから、実は、ボクより一つ若いこの作家が、なんと、33歳の時に「純粋な想像」によって書いていることに心底驚きました。 作品が描いているのは、お読みになればわかることですが、スペインの山の中の村で一匹の犬とともに暮らしてきた老人のひとりごとの世界です。 もしも、この作品を50歳の時に読んで、こんなに打ちのめされたかどうか、まあ、そういう作品でした。 世界には、まだまだ、恐るべき作家がいて、驚くべき作品があるんですね。 2026-no016-1231 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.02.19
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バート・レイトン「クライム101」109シネマズ・ハット なんとなく、見たい映画が見つからなくてフラフラしています。今日は、「スカッとできるんじゃ?」 と、まあ、適当に見当をつけて109ハットです。バート・レイトンという監督の「クライム101」という作品です。監督も出ている俳優さんも知りませんでしたが、スカッ!としておもしろかったんです。 ロサンゼルスだかの国道(?)101号線界隈で起こっている「ダイヤモンド強奪強盗事件」 はい、まあ、現金だってあれば持っていくようですが、とりあえずダイヤです。 犯人はデーヴィスくん(クリス・ヘムズワース)、大金持ちを狙い続けてノーミスの一匹狼です。で、追いかける刑事さんは、上役はもちろん、同僚からも見捨てられて、こちらもわが道をとぼとぼと行くタイプの、何だか冴えない、ルー刑事さん(マーク・ラファロ)。要するに二匹の一匹狼の追っかけっこなんですけど、なんだか、だんだん、ややこしくなっていくんですが、このお二人がいい味出していらっしゃるんですよね。 見ているこっちは「誰がエエもんで、誰がワルもんなん?」というありがちといえばありがちな????で引きずり込まれていくのですが、この「それで、どうなるの?」連発!の面白さ、いつだったか、どこだったか、まったく思い浮かばないのですが、知っている雰囲気なんですね。 で、結末は、「やっぱり、そうやろ!」だったわけで、監督にも、犯人にも、刑事さんにも、拍手!、拍手!だったのですが、満足して帰りながら、映画のレビューサイトを見ていてわかりました。 原作が、なんと、ドン・ウィンズロウだったんです。「ハアー、この人まだ元気なんや!」 失礼極まりない驚きですが、実は、確か、ニール・ケアリー君が頑張る「ストリート・キッズ」・「高く孤独な道を行け」(それぞれ創元文庫)あたりから「犬の力」シリーズ(角川文庫)あたりまで、我が家では同居人ともどもハマった人ですね。 この作品の原作は知りませんが、味はウィンズロウ!でしたね。面白いに決まってました(笑)。あてずっぽうでも、こういうこともあるんですね(笑)。監督・脚本・製作 バート・レイトン 製作 ティム・ビーバン エリック・フェルナー デリン・シュレシンジャー ディミトリ・ドガニス シェーン・サレルノ クリス・ヘムズワース ベンジャミン・グレイソン原作 ドン・ウィンズロウ撮影 エリック・アレクサンダー・ウィルソン音楽 ブランク・マスキャスティングアビ・カウフマンキャストクリス・ヘムズワース(デーヴィス)マーク・ラファロ(ルー刑事)バリー・コーガン(オーモン オートバイのワル)モニカ・バルバロ(マヤ 恋人)コーリー・ホーキンズ(ティルマン刑事)ジェニファー・ジェイソン・リー(アンジー)ニック・ノルティ(マネー ダイヤ密売人)ハル・ベリー(シャロン・クームス 保険会社のオネーさん)2026年・140分・G・アメリカ・イギリス合作原題「Crime 101」2026・02・14・no031・109シネマズ・ハットno75追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.02.18
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チェ・ドンフン「超時空英雄伝エイリアノイド PART1神剣激突」キノシネマ神戸国際 まあ、そうだろうなと思って、でも、そういうのが見たいなと思って、見に行ったんですけど、案の定、ポカーン・・・でした(笑)。 御覧の様に、これがチラシの見開きですが、「最強クロノバース・エンターテインメント爆誕!」ですからね。 見たのはチェ・ドンフンという監督の、邦題によれば「超時空英雄伝エイリアノイド PART1神剣激突」という韓国のSFエンタメ映画です。 現代社会と14世紀の高麗の時代が錯綜します。時代劇に現代人が登場するというのが、老人にはなにが、なぜ、そうなっているのか分からなくて「ポカーン!」です。そんなことになる大きな理由は、まあ、見方によりますが主人公が宇宙人で、宇宙人対宇宙人の闘いが、なぜか地球を舞台に繰り広げられるというというのがドラマの主筋なんだということに気づくまでに、プロットとしてはあれこれ起こるわけで、伏線と、その回収といえば聞こえはいいのですが、実は、わけわかんないまま、あれこれ、面白そうなことが起こっちゃうんですけど、なんでそうなるの?が、ちょっとわかんないんですよね。にもかかわらず、場面、場面はそこそこ面白くて飽きずに見ちゃうわけです。まあ、そうはいっても、筋運びとか、かなり大雑把な印象で神剣の役割もよくわかりませんし、人類滅亡の危機とかもあんまりリアルじゃないですし、終わり方も、えっ?ここで終わるの?ですしね。 こればチラシの裏で、宇宙船です。いろいろケチつけてますけど、実は、こういうのって、嫌いじゃないんですよね(笑)。 まあ、そういうわけで、結構疲れましたけど、これが第1部ということですからね、やっぱり第2部も見ちゃいそうですね。だって、「それでどうなるの?」わからないままですからね。監督・製作・脚本 チェ・ドンフン製作 キム・ソンミン撮影 キム・テギョン美術 リュ・ソンヒ イ・ハジュン衣装 チョ・サンギョン編集 シン・ミンギョン音楽 チャン・ヨンギキャストムルクリュ・ジュンヨル(ムリク 道士)シン・ジョングン(右往ウワン ムリクの猫)イ・シフン(左往ジャワン ムリクの猫)キム・ウビン(ガード 宇宙人のロボット)キム・デミョン(サンダー 宇宙人のロボット)キム・テリ(イアン 少女)ソ・ジソブ(ムン・ドソク)ヨム・ジョンア(黒舌フクソル 仙術使い)チョ・ウジン(青雲チョンウン 戦術使い)キム・ウィソン(自蔵チャジャン)イ・ハニ(ミン・ゲイン)チン・ソンギュ(ヌンパ)2022年・142分・G・韓国英題「Alienoid」2026・02・16・no032・キノシネマ神戸国際no57追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.02.17
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高橋源一郎「丘の上のバカ」(朝日新書) 2025年の秋から続いた、まあ、個人的な話なんですが、佐々木幹郎ブームが2026年の1月半ばに少し収まりましたが、続けて高橋源一郎ブームです。なんか、時代に遅れてますねえなもですが、今回の案内は「丘の上のバカ」(朝日新書)なんですね。 佐々木幹郎が1947年、高橋源一郎が1951年の生まれです。ボクにとっては、所謂、「親」の世代ではなくて、「兄・姉」の世代です。姉、弟の弟、虚弱で、且つ、頭でっかちだった小学生時代から、まあ、教員だった父親が嫌いだったこともあって、「兄」の世代に憧れていました。 高校生の頃、ちょっと難しい本を読むようになって、最初に憧れたのが吉本隆明という詩人で思想家だったのですが、彼が父親と同い年だということを知ったときには愕然としましたが、4歳年上の高橋源一郎が「さようならギャングたち」で登場して、吉本隆明を読んできた作家だと知ったときは嬉しかったですね。 もっとも、少し年上の村上春樹の描く、いかにもな世界にくらべると「わけわかんない!」 まあ、そうとしか言いようのない世界を描き続ける高橋ですから「あんた、マジメにやってんの?ついていけんわ!」 まあ、そうはいいながら後についてトボトボやって来たのですから、好きなのですね(笑)。ラジオとか週刊誌とか、メディアにしきりに登場して人気者をしていらっしゃって、ちょっとめんどくさい気分の時期があったんのですが、そんなゲンちゃんと、2026年のはじめに、辻信一との共同研究シリーズ「弱さの思想」、「雑の思想」、「あいだの思想」(それぞれ大月書店)と市民図書館の棚で偶然出会ってしまったことが、切っ掛けですが、ハマりなおしています。 というのも、吉本隆明、鶴見俊輔という「親」世代の思想家たちがいなくなってしまった今、彼らの「深さ」と「広さ」を引き継ぐ仕事を続けているのは誰だろうと考えると、やっぱりこの人なんですね。 で、久しぶりに、2016年の新刊ですから、10年前の本ですが、だから、もちろん、古本で、購入して読み終えて、書棚を見上げるとありました。実は、あの頃、もういいかなと思った本なのですね。 10年ぶりに読みなおして心に残ったところはこういうところでした。 だが、わたしは恐れていたのだと思う。間違うことを、である。 文学の世界に閉じこもっているなら、間違える心配はなかった。その世界で価値を持つ「自由」という名前の小さな「正しさ」に引きこもっていることさえできるなら。だとするなら、わたしもまた、あの「若者」が嫌った、なによりも自分の「正しさ」を大切にする人たちと同じだ。しばらくして、わたしは、少しづつ、政治や社会について考え、論じるようになった。どれほど注意しようと、どれほど避けようとしても、やはり、そこには誤りが生まれるだろう。そして、それに気づかず、あるいは、気づいたとしても、けっきょくわたしは、わたしの「正しさ」を主張するようになるのかもしれない。だが、それを恐れていてはなにも語ることはできないのだ。(P229) 「丘の上のバカ」と題された、最終章の一節です。そうはいいながらも、年がぼくより上なのですから、もう少しの時間なのかもしれませんが、この人が「語る」ことに、耳をかたむけ続けてもいいかなと思いました。 ちなみに、高橋源一郎が「丘の上のバカ」として語っているのは、彼自身の、おそらく20代の姿です。若い方がお読みになると、なんだか、変わった学生運動家のことのようにお感じになるかも知れませんが、ほんの少し年下の世代のボクのような人間には、自分自身も含めて、そこいらじゅうにいた、まあ、アホな青年の姿なんですね。 後から考えると、時代というか、社会というかは急速に変化していた時代だったわけで、多分、ほんの数歳の違いで、そんな青年の姿なんて見たこともないという時代へと移りかわっていったのですが、そういう人たちには、高橋君のことばも、もちろん、鶴見俊輔や吉本隆明の名前も刺さってはこないんでしょうかね。 20代、30代の頃には思いもよらなかったことなのですが、この、なんというか、老人の繰りごと感を越えて、いや、それでも、という場所を探している今日この頃ですね(笑)。 まあ、それにしても、古い人ばっかりですが「思い直し読書」 読むことがやめられません。2026-no023-1238追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.02.16
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滝口悠生「高架線」(講談社) 滝口悠生という作家の最新作、「たのしい保育園」に感心して、少しさかのぼってみようと読んだ作品が、この「高架線」(講談社)です。 こんな始まりです。 新井田千一です。私の実家は池袋駅から西武池袋線で下って行って埼玉に入ったあたりで、幼少期から二十歳までそこで過ごした。池袋から西武線で下って、という言い方は、実家からも西武線の沿線からも離れて久しい今現在になってからの言い方で、かつては西武池袋線を上って池袋に出る感覚だった。高校が家から近くて自転車通学だった私は、都内の大学に通うようになってはじめて毎日電車に乗るようになった。それまで近所で済んでいた行動範囲が、一気に大きく広がったような気がしたものだった。(P3) ここでの語り手は新井田千一という男性のようですが、この小説の語り手というか、書き手は彼ではありません。ここから、次々と語り手が変わるのですね。それが、この小説の型なのですが、それに気づくには、ここから180ページほど読みすすむ必要があります。作品は、それぞれの人物の「語り」を紹介し続けますが、「語り」を聞いて、それを書き留める人、あるいは録音して文章化する人がいないまま、「小説」はうまれませんね。 そのことに読者であるボクが気付いたのは、そろそろ読み終えるという時点でした。要するに、例えばここで語っている新井田さんに、話を聞いている人がいるわけです。それがわかったときに、この小説の何とも言えない面白さを感じました。 で、最近読んだ田村文という方の「いつかあなたに出会ってほしい本」(河出書房新社)の中でこの作品についてのこんな案内を見つけました。独特な語りが魅力 誰かが何かを思い出しながら語っている。話の流れは行きつ戻りつするし、脱線やごまかしもあるだろう。そんないいかげんさが、語りの本質なのかもしれない。 滝口悠生(1982年~)の「高架線」は、語りによる小説である。東京の西武池袋線・東長崎駅近くのおんぼろアパート「かたばみ荘」を舞台に、その住人と関わりのあった男女7人がリレーしていく。2001年に始まり、11年の東日本大震災を挟んで16年間の物語だ。 語り方が独特だ。「新井田千一です」などと名乗って登場し、話の途中でも繰り返し名乗る。「私は話をするのがたぶん下手で、人によく回りくどいとか冗長だとか言われる」と自分の語りに言及することもある。 かたばみ荘には4室あり、家賃は月3万と格安だ。住人は部屋を出るとき、次の入居者を連れてきて大家に紹介する。だから同じ部屋の住人たちはゆるやかにつながっている。 前半の核は2号室の住人だった片川三郎の失踪をめぐる謎だ。三郎の前に2号室にいた新井田千一、三郎の幼なじみの七見歩やその妻の視点から三郎の不器用な生き方が映し出される。三郎だけではない。語り手たちはみな不器用ゆえの不満や怒りを抱えていて、それが語りににじむ。 後半、大きな地震に脅え、日常を揺さぶられる。最後の方にはなぜか映画「蒲田行進曲」のあらすじを延々と説明する人物が登場する。読み手もついつい引き込まれる。本書の最大の魅力は語りそのものであり、話の中に出てくる風景や音といった細部の描写だ。高架線の下に広がる町に、平凡だが愛すべき者たちの営みがある。彼らの冗長なおしゃべりの中のこだわりや屈託にゆったりと耳を傾けたい。(P260) うまいものですね。この小説の特徴を「語り」の面白さで捉えていらっしゃるのは、その通りで、これ以上いうことはないのですが、「語り」を小説化しようとすると、あの、漱石の傑作「こころ」の第三部がそうであるように、例えば「手紙」にしたり、「日記」にしたり皆さん苦労なさるわけですが、さて、この小説で語り手たちは誰に向かって、なにを語っているのでしょうね。 まあ、そのあたりはお読みいただく他ないわけですが、滝口悠生という作家が現代という社会をとらえる眼差しのたしかさは、そのあたりにもあるとボクは思うのですね。面白い作家だと思いますよ(笑)。2025-no124-1197 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.02.15
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アンヌ=ソフィー・バイイ「私のすべて」シネリーブル神戸 今日は金曜日で、神戸の映画館は金曜日、土曜日がプログラムの変わる日なのですね。で、シネリーブル神戸なのですが、見ようかなと思ったのはこの作品だけでした。昨日見た河瀨直美さんの「たしかにあった幻」と同じような問題意識でつられている作品だと思うのですが、今日見たのは、アンヌ=ソフィー・バイイというフランスの若い女性監督の作品「私のすべて」です。 一応、世間で使われている言葉を使いますが、「知的障害」のあるカップルの妊娠、出産をめぐる物語でした。 ようするに、生まれてくる子供についての養育能力をめぐって、フランスという社会では、どんな考え方で、どんな判断を下すのだろうというのが、ドラマが始まってから終わるまでの興味の焦点でした。 ボクは、日本という社会で、この映画が描いている出来事について、この映画が描いている協同の思想、だからまあ、お互いの助け合いですね、そういう、本来、普通の考え方や行動がドンドン失われていっているという絶望感の中で暮らしていますから、この映画の結末は、映画という絵空事であるにもかかわらず、「こっちが、本当だよな!」と、ホッとしながら見終えました。 映画は障害のある息子をシングル・マザーとして育ててきた女性モナに焦点を当てながら描かれていました。息子ジョアンが、職場で出会ったオセアンという、やはり障碍者である女性と愛し合い、彼女が妊娠したことから、二人で暮らして子供を育てるというジョアンの決意を、母親であるモナは受け入れることができません。そこからの、モナの葛藤の描写が映画のドラマの柱ですね。 モナの拒否感は、彼女が育ててきたジョアンが障碍者であるということに根ざしているように見えますが、ジョアンを育ててきたモナの30年の暮らしが、ジョアンにささげる愛の暮らしだったにもかかわらず、「ひとりぼっち!」だったことの、彼女とジョアンにとっての「意味」を、一人立ちするジョアンの行動が根底から揺さぶっていることを描いているこの作品の監督はスルドイ!ですね。 ジョアンとオセアンの間に生まれてくる赤ん坊にこそ、新しい出会いと愛の可能性の光があることを、なんとしても描こうとしたアンヌ=ソフィー・バイイという監督に拍手!でした。 今日は2月13日だったのですが、とてもうれしいことがありました。いつも、映画を見終えた後、ちょっとした感想を聞いていただく映画館のTさんという女性からチョコレートをいただいちゃったんですね。「バレンタインは明日ですけど(笑)」 この映画を見終えて会場を出ようとすると、ニッコリ微笑みながら差し出されたプレゼントだったのですが、こんな素敵なことがあるんですね(笑)。 映画の結末もよかったのですが、思い出に残る作品になりそうです。Tさん、ありがとう!監督・脚本 アンヌ=ソフィー・バイイ撮影 ナデル・シャルーブ美術 クレマンス・ネイ衣装 フロリアンヌ・ゴーダン編集 カンタン・ソンブステイ フランソワ・キケーレ音楽 ジャン・テブナンキャストロール・カラミー(モナ 母)シャルル・ペッシア・ガレット((ジョエル 息子)ジュリー・フロジェ(オセアン 息子の恋人)ヘールト・バン・ランペルベルフ(フランク)レベッカ・フィネ(ナタリー)アイサトゥ・ジャロ・サニャ(セヴリーヌ)パスカル・ダンカ(ガブリエル)ジャン・ド・パンジュ(クリストフ)2024年・95分・R15+・フランス原題「Mon inséparable」2026・02・13・no030・シネリーブル神戸no360追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.02.14
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河瀨直美「たしかにあった幻」シネリーブル神戸 今週は見たい作品がないんですね。で、しようがないのでやって来たのが河瀨直美監督の「たしかにあった幻」です。 重篤な心臓病を患っていいて、臓器移植の順番を待っている子供たちの病院院に務めているフランス人の女性コリーという人を主役として描いた物語でした。決して、一言でつまらないと裁断するような内容ではありません。何せ、臓器移植という方法以外に生きのびる可能性を閉ざされた子供たちの世界を描いていらっしゃるわけで、見ているこちらも。やっぱり、オロオロしてしまうわけで、それだけでも、この作品には価値があると思うのですが、映画としては描き切れていないというか、河瀨直美という監督さんに「それで、あなたはどうお考えなのですか?」 まあ、そんなふうに問い詰めたくなる結末でした。 フランスからやって来たコリーという女性は、医師ではなく、臓器移植のコーディネーターというポジションのようですが、病院で子供たちや付き添いの大人たち、病棟の関係者たちがフランス語で応答するシーンで始まりましたが、ボクには。それが、まず、異様でした。 その後のシーンで、迅という日本の青年と彼女が出会うのですが、屋久島の山の中で出会ったその青年が、やっぱりフランス語を喋るんですが、そこでポカーンです。 その後の生活の描写では。コリーの片言ニホンゴが出てきてホッとしましたが、「夢」であろうと「幻」であろうと、映画全体の非現実性というかについて文句を言う気はありませんが、映画が、真摯な外国人を登場させることで「日本」という社会の中で「臓器移植」とか、「行方不明者」とかがどう考えられているかという、かなりヴィヴィッドな話題を、法であるとか、死生観であるとかいう、背景を際立たせながら展開させていっているわけで、そのあたりのチグハグ感はちょっと驚きでしたね。 愛し合っていたはずの人が、突然消えてしまったという当事者の姿も、臓器移植において提供する子どもや家族、それを受け取る子ど本人や家族の姿は、それぞれ、映画として語るには、かなりな物語だと思うのですですが、「目をつむれば、そこにあの人がいる」 まあ、そういう纏め方で描くというのは、ちょっとした賭けというか、蛮勇というかという印象を受けました。 ただ、海であるとか、森であるとか、光であるとか、イメージ喚起映像を駆使することで描き上げた監督の荒業ともいえる作品でしたが、話題が話題だけに、移植された心臓が少年の胸で動き出したシーンには、やっぱり、胸撃たれました。 高校時代に実家を失踪した迅という少年の義母の役で出ておられた中島朋子さんのお顔を見たときには、ちょっと震えましたね。「北の国から」のじゅんとホタルの兄妹は、ボクの中では永遠の子どもたちなのですね。監督・脚本・編集 河瀨直美撮影 鈴木雅也 百々新編集 ティナ・バス音楽 中野公揮キャストビッキー・クリープス(コリー)寛一郎(迅)尾野真千子北村一輝永瀬正敏中野翠咲中村旺士郎土屋陽翔中嶋朋子2025年・115分・G・日本2026・02・12・no029・シネリーブル神戸no359追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.02.13
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高橋源一郎・辻信一「『あいだ』の思想」(大月書店) ホント、久しぶりに高橋源一郎を読みました。相変わらずの論の展開でホッとしました。読んだのは辻信一という方との共同研究と銘打った対談集で「あいだの思想」(大月書店)という本です。 「あいだ」という概念をめぐって、かなり刺激的な対談で、参考文献もあれこれあって、まあ、読む本が増えて困るといえば困るのですが、納得でした。 明治学院大学での同僚であるらしい、文化人類学の辻信一との「共同研究」と銘打っての対談を「弱さの研究」(大月書店2014年)、「雑の研究」(大月書店2018年)と続けてこられて、この本は2021年に出された第3弾のようです。 副題にセパレーションからリレーションへとかありますが、まあ、よくわかりません。とりあえず、辻信一が「はじめに」と題して書いている文章の中にこんなことを書いているのがヒントです。 われら近代人は長い間、西洋文明の中で育まれ、世界中に浸透した、利己的で、貪欲で、競争的で、疑い深く、暴力的な人間像を各自の意識の底辺に住まわせてきた。 ホッブスの「万人の万人に対する戦い」から、リチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」に至る、暗く悲観的な性悪説が、現代世界の主流である経済学や政治学を支えている。そこでは、ホモ・サピエンスの「サピエンス」は「ずる賢さ」としての知へと貶められている。 一方、ルソーに代表される性善説は、「楽観主義」「ロマンチシズム」「非現実主義」として、「幼さ」や「女々しさ」、「ナイーブさ」として批判や嘲笑に晒されることが多かった。 どうやら我々はいつのまにか、信じたくないことを信じさせられて、しまいには、そう信じることを自分が望んだと信じてしまったかのようなのだ。今や「知的」であることと、シニカルであることは切っても切れない関係にあるらしい。世界中にさまざまな「陰謀説」がはびこるのも無理はない。環境活動や社会変革運動の中にさえ、性悪説やシニシズムから来る絶望感が広がっている。こうした自己否定の泥沼こそ、分離(セパレーション)の物語が行きついた場所だ。 「進歩」と「発展」によって、地域、コミュニティ、自然生態系といった制約から一つずつ人間が解き放たれ、“自由”になって飛び立っていくという物語―言い換えれば、「人間」ということばの「間」を取り除いていったことの結果だ。その果てに、人類はいよいよ存亡の危機に立たされている。 世界各地でベストセラーになっている「ヒューマンカインド―希望の人類史」が教える通り、人間孫座の本質を「愛」「親切」「友情」「助け合い」「信頼」と言った関係性に見出す新しい時代の性善説が、今、生物学や人類学をはじめとしたさまざまな分野で勃興している。「あいだ」という非西洋近代的な概念の井戸から汲み出される思想が、「分離からつながりへ」の転換という人類史的な事業に寄与する可能性をボクは信じ始めている。(P13~14) ボクなりに、要約して言うと、西洋近代的な思考の、まあ、日本でいえば明治維新以後の150年間、学校で教えられてきた「科学的」「論理的」なあらゆる概念が、現象を区切ることで理解する定義だったといえるのですが、行き詰まりに直面している今、区切るんじゃなくて、「あいだ」を考えてみませんか!という論旨ですね。 この年になって気づいたことですが、ボクの「読む」ということの根っこにある興味は、例えば、作家が言葉で文章を書くときに、作家と言葉の「あいだ」にあるものは何だろうというようなことですね。形のはっきりしない意識に「コトバ」が与えられることで、他者からはもちろん、自分でも「わかる」世界が出現するのですが、その世界と書き手の「あいだ」にあるのは何かということです。 「映画」とか見ていても、「ああ、映画を作っているこの人はウケたいんだな」とか感じると、やっぱり、ちょっとシラケてしまうんですが、まあ、そういうことも一つあります。 そういうわけで、興味を持って読みました。辻信一は初めて出会う名前でしたが、高橋源一郎とは旧友再会の気分です。ボクの興味と完全にマッチしたことが語り合われているわけではありませんでしたが、たとえば、高橋源一郎が書いている「おわりに」のこんな文章に、やっぱり、ハッとして頷くのでした。 ここからは、私事になる。 ぼくは六〇年代に本を読み、まねごとのようになにか書くようになった。その際、もっとも影響を受けたのは日本語で書く現代詩人たちだった。固有名をあげるなら、谷川雁と吉本隆明である。彼らは、二人とも、単に詩人であるだけでなく、優れた批評家であり、また、同時に、社会運動の実践者であり、新しく社会思想を作ろうとした人たちでもあった。その時代に、なにかをしたいと思う若者たちにとって、もっとも輝かしいロールモデルが彼らだった。 六〇年代、まず先鞭をつけたのが谷川雁であり、吉本隆明がその後に続いた。日本社会への影響という点で、単に「詩人」であることの枠を超えた存在が、この二人であった。のくの書くものの中にも、いまでもこの二人の考え方、ことばの作られ方が深く刻み込まれている。吉本隆明は最晩年に至るまで、影響を与え続けたが。思想家としても詩人としても、谷川雁の仕事は、ほぼ六〇年代に終了している。鮮烈な記憶を残して彼は消え去ったのである。 ぼくは作家として、一九八一年にデビューした。さまざまなことばがぼくの中に流れこんでいたが、そのもっとも直接的な影響は藤本和子が翻訳したリチャード・ブローティガンだったように思う。七〇年代に始まった藤本和子のブローティガンを日本語に翻訳する試みは、翻訳の世界にとって、戦後最大の事件の一つだった。それは、彼女のことばは、翻訳である以上に、あまりにも独特の魅力をもった日本語だったからである。二葉亭四迷のロシア語からの翻訳が日本近代文学を成立させたように、藤本和子の翻訳は日本語に新しい世界を付け加えたのである。 だが、藤本和子の日本語の奥には、「ブルースだってただの唄」があった。アメリカ黒人女性の聞き書きがあった。そして、藤本和子の聞き書きのさらに奥には、森崎和江の「からゆきさん」における、性を売らねばならなかった戦前の日本女性、「まっくら」における、筑豊炭鉱の女坑夫からの聞き書きがあった。いううまでもなく、「苦海浄土」における石牟礼道子の水俣病患者の聞き取りも、その一つだった。 森崎和江こそ、戦後最大の労働運動となった三池闘争を背景に九州の炭鉱でサークル運動を繰り広げていた谷川雁のパートナーであり、その運動の中に石牟礼道子もいたのである(やがて、森崎も石牟礼も、運動から離れていく) 六〇年代、谷川や森崎や石牟礼が見つめていた世界、そこから生まれたことばと、数十年後、なにも知らずに対面していたのである。 おそらく、森崎や石牟礼は、政治や社会を動かす「男」たちのことばの本質的な欠陥に気づき、もっと弱い者たちのことばに耳をかたむけることかた、すべてを始めたのだろう。その仕事は、半世紀以上のときを超えて、今に伝わっているのである。 高橋源一郎は一九五一年の生まれで、ボクより4歳年上です。彼が現代詩に熱中したのは中学生の頃だそうですから、高校時代にその世界に出会ったボクとは、ほぼ、10年の時間差がありますが、谷川雁、吉本隆明、ここでは出てきませんが、哲学の鶴見俊輔といった人たちを読みふけったという体験はピタリと一致するんです。それが、彼の作品を読み続けてきた、まあ、今回もこの本を手に取った大きな理由なのですが、谷川、吉本の向こうに、森崎和江、石牟礼道子が出てくるこの論の展開には、正直、マイッタ!でした。 若い人たちにとって、このラインアップを読み始めるの大変かもですが、70年代に十代、二十代を過ごした老人には「自分のことば」と自分との「あいだ」の再確認のようなことですね。どうせ、ヒマなわけで、ゆっくり辿りなおそうと思います。 で、高橋君の結論はこうです。 政治・社会・文学・生活、それらすべてが混沌と混ぜ合わさっていた頃、そう、なにもかもが、「雑」然としていた時代に生き、やがて、「弱い」者たちのことばに耳をかたむけ、遠く隔たった者たちを、「翻訳」また「通訳」という「あいだ」の仕事によって結びつけてきた者たちがいた。彼ら、彼女らの仕事を受け継ぎ、ぼくたちは、さらに前に進まなければならないのだ。 お元気そうでなによりですね。「弱さの思想」(大月書店)、「雑の思想」(大月書店)と、お二人で論じてこられた現代社会に対する論及シリーズの結論ですが、ボクはとりあえず、その二冊を読むことから始めたいと思いますね。 とりあえず、本書の目次を貼っておきます。はじめに 辻信一第一章 さまざまな「あいだ」第二章 「あいだ」を広げる二つの視点(田中優子・山崎亮)第三章 「あいだ」は愛だ第四章 「あいだ」で読み解くコロナの時代第五章 「弱さ」×「雑」×「あいだ」おわりに 高橋源一郎 2026-no012-1227 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.02.12
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アビシャン・ジービント「ツーリストファミリー」シネリーブル神戸 今週は見たい映画が思い浮かばないんですね。でも、出かけないで寒さをかこっているのの嫌なので出かけて見たのがアビシャン・ジービントというインドの若い監督のデビュー作「ツーリストファミリー」です。「どうせ、お客もいないだろう。」とタカをくくってやってきたシネリーブル神戸だったのですが、思いのほかの人数で、「評判イイの?」「よくわからないんですが、初日から大入りで、高齢者の方がほとんどなんですけど。」 はい、映画館が老人の集会所になっているのは、ここ数年のパターンなのですが、それにしても、まあ、なかなかの盛況でした。 で、見終えて納得でした。面白いんです(笑)。 どこで、評判になているのか、何の関心もない徘徊老人ですが、よくできた作品でしたよ。 インドという国というか、社会の様子の描写は、まあ、デフォルメもあるのでしょうが、えらく暴力的で階級差別的で、それに加えて、昨今、流行りのフェミニズムなんてどこ吹く風の家族描写が一方にあって、そこに、「国と国より、人と人!」というチラシのキャッチの言葉通りの「人間」と「人間」の正直な出会いが作り出していく「つながり!」が、実に生き生きと描かれていくわけで、シンプルそのものの論旨なのですが、そこがこの映画の良さですね。 おそらく、現地の人が聞けばすぐにワカル「ことば」のちがい、加えて、貧富、職業、性別、年齢の違いを超えて「語り合い」が作り出していく人と人のつながりを、やっぱり、そこはインド映画ですね、踊りながら作り出していく、この若い監督のセンスに拍手!でした。 無骨なお父さんも、いしだあゆみさんに似ているお母さんも、少年も少女も、やっぱり(笑)、みんな踊って、それが、何ともいえずいいのですが、それだけで済まさないところがいいですね。ホントにご機嫌な気分で見終えました。出てきた皆さんに拍手!です。監督・脚本 アビシャン・ジービント撮影 アラビンド・ビシュワナーダン編集 バラト・ビクラマン音楽 ショーン・ロールダンキャストシャシクマール(ダルマダース 夫)シムラン(ワサンティ 妻)ミドゥン・ジェイ・シャンカル(ニドゥ 長男)マレーシュ・ジャガン(ムッリカ 次男)ヨーギ・バーブ(プラカーシュ)2025年・127分・G・インド原題「Tourist Family」2026・02・09・no028・シネリーブル神戸no358追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.02.11
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リュドミラ・ウリツカヤ「子供時代」(絵ウラジミール・リュパロフ・沼野恭子訳・新潮クレストブック) 市民図書館のロシア文学あたりの棚を徘徊していて題名に目が留まって借りてきました。リュドミラ・ウリツカヤという女性の作家の「子供時代」(絵ウラジミール・リュパロフ・沼野恭子訳・新潮クレストブック)です。 ウラジミール・リュパロフという人が絵を描いていらっしゃる絵本です。ただ、小説というか物語の内容に合わせた挿絵が描かれているのかというと、どうもそういうわけではなさそうです。小説は小説、絵は絵、というわけのようですが、まあ、読む人によるかもですが、ボクには、そこが、この本の、なんだかとても面白かったところの一つでした。 小説の内容は、下に目次を貼りましたが、それぞれの物語すべて、少年に限りませんが、ともかくも子供たちが、ほぼ、主人公として登場する六つのお話です。 例えば「釘」という物語の書き出しはこんな感じです。 その夏、妹のマーシャが生まれるとき、セリョージャは田舎に預けられることになった―他の子供たちはおじいさんのうちにやられたけれど、セリョージャはひいおじいさんのところに行かされた。ひいおじいさんは遠い田舎に住んでいたので、たどり着くのに大変な道のりだった。父親とふたりでまず汽車に乗り、それから小さな蒸気船に乗り換え、それから長いこと歩いた。 夜更け近くにようやく村にたどり着いた。丈の低い雑草がもさもさ生えている狭い道の両側に、大きな灰色の家々が建ち並んでいる。中には窓に釘を打ちつけた家もある。道の中ほどを、足の細い毛むくじゃらの動物がのんびり歩いており、それを見たセリョージャが「変てこな犬!」と言った。父は笑いだした。「羊のこともわからないのか!ほら、羊飼いがいるだろ!」 そう言ってセリョージャより少し年上の少年を指さした。裸足で、暖かそうな帽子をかぶっている。それもまた変てこだった。(P59) で、お父さんはさっさと帰ってしまって、そこから、まあ、お婆さんはいらっしゃるのですが、ひいおじいちゃんとひ孫のあいだで「釘」をめぐる物語へとお話が始まるわけです。他の作品もそうなのですが、一つ一つの物語を読み終える度に、70歳を越えた老人は、静かに頷きたくなるんですね。 果たして子供向きに書かれている童話なのかと言えばちょっと違う気がしますが、「絵本」でもあって、表紙も裏表紙もそうですが、ウラジミール・リュパロフという方の、お話の内容とちょっと違う不思議な絵が数ページごとに出てきて、これがまたいいんですね。 ヴォーヴァとふたりで子供時代の思い出をあれこれ並べてみたら、素晴らしくぴったり合うではありませんか。私が子供時代を過ごしたカリャエフスカヤ通りと、ヴォーヴァが住んでいたシチポーク通りは驚くほどよく似ています。それに、家や中庭、ネコ、家の前の小さな庭が似ているだけでなく、私たちが子供時代を過ごした界隈に住んでいた人たちまでそっくりだったのです。 1943年生まれのお二人の「お話」と「絵画」による「子供時代」、あの国では大祖国戦争と呼ばれた、第二次世界大戦の貧しい戦後を生きている子供たちの世界が、哀切に、しかし、生き生きと浮かび上がってきます。 こちらが裏表紙ですが、落書きはお二人の名前だそうです。 ボクは知りませんでしたが、リュドミラ・ウリツカヤUlitskaya,Ludmilaという方は1943年生れで、モスクワ大学(遺伝学専攻)を卒業して研究者だったらしいですが、1980年代頃から「ソーネチカ」(新潮クレスト)とかいう作品で脚光を浴びている人気作家のようです。最新作の「緑の天幕」(新潮クレスト)をはじめ、けっこうたくさんの作品が邦訳されています。 もっとも、プーチンのロシアでは戦争反対を呼びかけたことが理由で弾圧されている反体制作家だそうで、そのあたりも気になる方ですね。 とりあえず、「緑の天幕」(新潮クレストブック)を読み始めました。700ページを超える大作ですが、ただ今100ページあたりを通過中です。「少年時代」の子どもたちの世界が長編小説として描かれていて、傑作の予感に促されながら読みすすめています。 とりあえず、「子供時代」の目次を貼っておきますね。 目次序文キャベツの奇跡蠟でできたカモつぶやきおじいさん釘幸運なできごと折り紙の勝利2026-no020-1235追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.02.10
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ミヒャ・レビンスキー「役者になったスパイ」シネリーブル神戸 この作品の監督は、確かドイツの方ですが、作品の舞台はスイスですね。ベルリンの壁がなくなった時代のスイスのようです。永世中立国ということしか知らない、スイスという国の冷戦時代って、どんな社会だったんだろう? まあ、そういう興味で見ました。見たのはミヒャ・レビンスキー監督の「役者になったスパイ」です。「へえー、そうだったんだ!」 中立国とはいいながら、いや、だからこそなのかもしれませんが、ワルシャワ条約機構の国々を仮想敵とした軍備の維持が火急の政治課題になっている様子を見ながら、50年ほど昔の、それもヨーロッパの人たちの発想を、初めて知って、驚きました。 映画のストーリーは、案外、図式的で、ちょっと残念でしたが、この監督さん、以前見た「まともな男」という作品もそうでしたが、こういう描き方がお好きな方のようですね。監督・脚本 ミヒャ・レビンスキー製作 アン=キャサリン・ラング オリビエ・ツォプリスト脚本 プリニオ・バッハマン バルバラ・ゾマー 撮影 トビーアス・デングラー編集 ベルンハルト・レーナー音楽 エフレム・リュッヒンガーキャストフィリップ・グラバー(本名ヴィクトール・シュエラー 偽名ヴァロ・フバッハー)ミリアム・シュタイン(オディール・ヨーラ)マイク・ミュラー(ハンス・マロッグ)ミヒャエル・マールテンス(カール・ハイマン)ピーター・イェックリン(レーマン大佐)シュテファン・シェーンホルツァー(クロード・バッハマン)ゼバスティアン・クレーヘンビュー(ベアート)デニス・ビンチュ(モニカ)ファビアン・クリューガー(レト)エバ・バイ(マルゴット・ピスチェック)オリアーナ・シュラーゲ(クラーラ)2022年・102分・G・スイス原題「Moskau Einfach!」2026・02・05・no026・シネリーブル神戸no357追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.02.09
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茂木綾子「フィシスの波文」元町映画館 題名に聞き覚えがあって気になって見ました。2023年のドキュメンタリーのアンコール上映だそうです。茂木綾子という写真家の方が監督としてお撮りになった「フィシスの波文」という作品です。「フィシスってなんやねん?」 見ながら、ずっと、そう思っていました。見終えて映画館の支配人(?)のTさんと目が合ったので尋ねました。「フィジクスが物理やから、自然ちゃいます?」「はい、それは、ボクも、まあ、わかっているつもりなんですけど。」 地球なり、宇宙なり、まあ、人間がここに存在する、この場所で、人間を取り巻いている人為的なものではないものすべてが「人間」に及ぼしたものを、人間はどんなふうに受け取ってきたのか? まあ、それを考え始めると目の前にある襖に描かれた文様だったり、織物の図柄だったりに、人間が人間をし始めた頃から受け取ったフィシスの形が時間を越えて残されているんじゃないかっていうんです。これって、すごくない? まあ、そういう作品でした。一番すごいなあと思ったのは、今でも江戸時代とおんなじ絵柄を襖紙に刷っていらっしゃる唐長さんという京都の職人さんが、ばれんとかじゃなくて素手で紙を擦っていらっしゃったことですね。 色むらが出たり、ズレたりするんじゃないかと思うんですが、そこが、多分、肝なんですね。古くからの版木があって、石や植物から作った顔料があって、その年、その年の楮の和紙があって、それを手で擦る。そこに浮かび上がってくる文様こそが「フィシスの波文」というわけなのですね。今、この時の「フィシス」が作り出す「文様」は時間を越えるんですね。 今回のアンコール上映では、元の作品のエンド・ロールのあとに映画の「音」を演奏していたフレッド・フリスという方の音を作っていく過程を撮ったフィルムが加えられていました。これが、素晴らしかったですね。 ピアノとかギターとかの音を電気的に造形していくプロセスなのですが、そこまで映画が描いてきた、太古以来のフィシスを思いおこさせる映像と、一歩間違えれば雑音でしかないような、電気的に作られていく音が、見事に共鳴していくさまには唸るしかなかったですね。 いや、ホント、いいものを見ました。拍手!監督・脚本・編集 茂木綾子プロデューサー 河合早苗サウンド ウエヤマトモコ音楽 フレッド・フリスタイトル考案 中沢新一宣伝美術 須山悠里キャスト千田堅吉(唐長主人)千田郁子(唐長夫人)鶴岡真弓(人類学者)ピエール=アレクシィ・デュマ(エルメス・ディレクター)戸村浩(造形家)皆川明(デザイナー)門別徳司(アイヌ漁師)貝澤貢男(アイヌ工芸師)2023年・85分・G・日本2026・02・06・no027・元町映画館no344追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.02.08
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保坂和志「魚は海の中で眠れるが鳥は空の中では眠れない」(筑摩書房) 市民図書館の棚を徘徊していて見つけました。保坂和志「魚は海の中で眠れるが鳥は空の中では眠れない」(筑摩書房)です。2012年の本で、筑摩書房の「ちくま」に2010年2月~2011年9月に掲載されたエッセイ集です。実はこの本は、ボクの棚のどこかにあるはずなのですが、年のせいもあってでしょうが、混乱のきわみ、だから誰の本がどこにあるかわからない状態の本棚を思い浮かべて「借りたほうが早いな・・・」 で、借り出して読みました。 まえがき この本に収録した文章は雑誌「ちくま」に『寝言戯言』というタイトルで、二〇一〇年二月号から一一年九月号まで全部で二十回毎月連載したものの中の十八回分で、二回分がどうしてここに収録されなかったかは特別な理由があるわけではないのでいずれ別の機会に別の本に収録することになると思う。 そういうわけなので文中に「昨年」ともし出てきたらそれは現時点からみた「昨年」でなく文章が掲載されたときからみた「昨年」ということだけご理解いただきたい―と、こういう風にわざわざ書かなけれならない、いわゆるエッセイという文章の縛りとはどういうものなのか。この連載が終わりに近づいたところで三月十一日の地震と津波があった。福島第一原発の事故もあった。私は当然それについて書くことになるのだが、それはそんなに“当然”だったんだろうか?私はあの地震のことも津波のことも原発のことも本当に書かないではいられなかったんだろうか。そのとき私の関心は他のほとんどの人と同じくそのことしかなかったんだからそういう意味で当然なのだが、それでもやっぱりそのことが私の心のすべてを占めていたわけではないことを考えると、結局私はまわりの人というよりもむしろ私自身に向かって、「俺だって考えてる。」と、言い訳をしたりポーズを取ったりしていただけなんじゃないか。今回、一冊の本としてまとめるにあたって全体を通して読むと、地震・津波・原発絡みの文章でわたしは退屈した。たぶんたいていの読者にとっては、地震以後に書かれた文章の方がかなりわかりやすいだろうし、その部分の方が本として「読んだ」という実感になるだろうが。そこがいけない。一二一ページのニーチェのくだりで批判したことをまさに私は実践してしまった。(P7~8) 図書館の棚で、この本を手に取って読み直してみようと思ったのは、まえがきこのくだりを読んだからですね。まえがきに何を書いているんだ? まず、そう思いましたが、これが保坂和志なんですね。だから、その「ニーチェのくだり」を、とりあえず写してみます。「肉体は一つの大きい理性である」とか、「ひとの血を理解するのは、たやすくできることではない。わたしは読書する怠け者を憎む。」とか、「おまえは小さな手でお前のカスタネットを鳴らした、ただ二度。―するとっもうわたしの足は舞踏に熱狂してゆらぎはじめた。」とか、 ニーチェが何者であるか知らずにこんな言葉を読んだら、「バカなんじゃないの?」と思う方がふつうだ。だからエッセイとうのはとてもよくない。書き手は「バカなんじゃないの?」と思われないような拘束あるいは自主規制みたいなものの中でしか書くことができない。それに気づかず、バカじゃない範囲で滔々と、いちいち根拠を示して正しいことばかり書いている人は本当のバカ、というかニーチェ的に言うなら卑屈な飼い犬だ。なんて喩えは犬に申し訳ない。が、そういう書き手ばっかりだ。正しさなんてその場かぎりで、時代と場所が変われば正しさも変わる。(P121) いかがでしょうか。ついでに地震の後の文章も紹介しようかとも思ったんですけど、興味のある方は、本書を手に取ってお読みください。 まあ、もう一つ言えば、この本は題名がいいですね。そこもやっぱり保坂和志です。 で、まあ、地震騒ぎの中で彼が書いた文章が入っている「パチンコと残り野菜の漬物」という章の結語を引いておきます。 私たちは自分を責めるのをやめて、何よりもまず主体性が奪われていることに気づくべきだ。この社会に私たちが責任を負う必要がない!そう考えればアクションはずっと起こしやすい。(P208) イミわかんないという人は、多分、読んでもわかんないかもですが、まあ、手に取ってみてください(笑)。2026-no017-1232追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.02.07
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河合健「みんなおしゃべり!」元町映画館 先日「ぼくの名前はラワン」という、イラクから難民としてイギリスにわたり、イギリスの聾学校で手話を学ぶことで「ことば」を見つけた少年の映画を見て、いい年まで生きてきた自分がわかっていないことがたくさんあることに気付かされました。「ことばってなんだろう?」 たぶん、それが、一番、大元にある疑問なのだろうと思いますが、ろう者vsクルド人‼日本手話×クルド語 史上初の言語大合戦ムービー誕生! この映画のチラシに踊っているこんなキャッチ・コピーを見て「見てみようか・・・」ですね。で、やってきた元町映画館です。見たのは河合健という監督の「みんなおしゃべり!」でした。ハッとさせられる作品でした。 お父さんの古賀さんは耳がきこえません。で、町の電気屋さんのご主人です。お嬢さんの夏海さんは聞こえてしゃべることができます。お父さん、弟さんとは手話で話します。弟さんの駿君は聞こえません。聾学校の小学部に通っています。お母さんが接客とかなさっていたようですが、亡くなって3年ほどたつようです。 そのお店に、この町にやって来てお店を出そうとしている男性が登場します。日本語がわからないようです。トルコから難民としてやってきたクルド人のルファトさんです。 接客に出てきた古賀さんが、ルファトさんの足元で商品の電球が割れているのを見つけます。見ているこっちは、先ほどのシーンで、古賀さんとやり取りがあった少女が落として割ってしまったことを知っていますが、古賀さんは手話の通じない「外人」を疑います。疑われた「外人」は「ことば」が全く通じない上に、自分を犯人扱いする「日本人」に腹を立てます。というわけで、日本手話対クルド語の闘い勃発です。 戦いの原因を作ったのは、町おこしとかを宣伝して回っている沖田という男性の軽率な判断と行動ですが、彼は「現代日本社会」のダメさを象徴する顔として大活躍です。この映画には、もう一人、駄目さの象徴を演じる人物が登場します。駿君の担任の山際先生です。二人に共通しているのは、他者に対する「わかったつもり」という傲慢です。 で、この映画は、「わかってもらえない者同士」の闘いの終焉の描き方がいいですね。町おこしから見捨てられたルファトさんがやっとんことで開店にこぎつけたお店の電気がつきません。電気仕事のプロの古賀さんに頼るしかありません。で、古賀さんは仕事についてはプロです。電気で困っている人をほっておくわけにはいきません。というわけで、キライな外人を恩讐を越えて助けます。そのシーンには「コトバ」の向こうにあるものが輝いていました。 聞こえる人は関心を持たない手話であろうが、自国で禁じられたクルド語であろうが、話すのは人間だ!ということですね。描かれているのは人間同士の出会いでした。 この映画には、あと二つ人間同士の出会いが描かれています。 一つは、手話でしか話せないお父さんと弟と暮らす夏海ちゃんと、難民としてやってきた国で、頑固に日本語を拒否するお父さんに育てられた日本生まれのヒワ君の宇宙語の発見です。 もう一つは、聾学校でいじめられ続けている駿君の「ラクガキ語」の発明ですね。クラスのみんなは新しい言葉での「おしゃべり」に夢中です。 もちろん、正しい日本語しか頭にない山際先生には理解できません。 お父さんとして映画に出ている毛塚和義さん始め、出演者の皆さんに、まず拍手!。それから、この作品を製作し、おそらく上映映画館を探し回ったであろう河合健監督に拍手!ですね。ああ、それから上映している元町映画館にも拍手!。 監督・脚本 河合健脚本 乙黒恭平 竹浪春花キャスト長澤樹(古賀夏海 娘)毛塚和義(古賀和彦 父)福田凰希(古賀駿 息子)ユードゥルム・フラット(ヒワ 息子)ムラト・チチェク(ルファト 父)那須英彰(江田 友人)今井彰人(竹田 友人)板橋駿谷(沖田 町おこし職員)小野花梨(山際先生)閉じる2025年・143分・G・日本2026・01・30・no021・元町映画館no341追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.02.06
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ネリー・カプラン「海賊のフィアンセ」元町映画館 元町映画館がやっている「ネリーに気をつけろ!」という特集ですが、ゴールしました(笑)。 4本目に見たのが「海賊のフィアンセ」、1969年の作品で、ネリー・カプランさんの長編デビュー作だそうです。 これが、どうやったら「海賊のフィアンセ」というお話になるのかと、訝しがりながらラストまで見続けて、「ああ、そうなんですか!」 と、まあ、感心するというか、呆気にとられるというか、エライもんですねえ・・・と感嘆でした。 4本見終えて、ボクの好みは「シャルルとリシュー」でしたが、実は、あの作品が一番「凡庸」というか、まあ、ありがちなストーリーを追っていたことが、まあ、この年の老人には「そうか、そうか・・・」だったわけで、残りの3作品というのは、どの作品もラジカルというか、率直というか、感想のコトバに困る作品ばかりで「ワッ!ワッ!ワーァ!」だったわけで、ネリー・カプランという監督の才能というより、思想性に仰天しながらも、大いに楽しみました。 思想の直接的でラジカルな表現ということが、わかりやすく角を立てないという風潮の中で失われているのが現代社会の特徴なのかなということを残念に思いながら映画館を徘徊している老人としては、「そこまでいっていいんかい!」と思わせてくれたネリー・カプランという表現者を知ったことは大きな収穫でした。拍手! いやはや、何とも痛快な特集を組んでくれた元町映画館に拍手!でした。男性諸君、くれぐれもネリーカプランにはご用心!ですよ(笑)。 監督・脚本・製作 ネリー・カプラン製作 クロード・マコフスキー脚本 クロード・マコフスキー ミシェル・ファブル撮影 ジャン・バダル音楽 ジョルジュ・ムスタキ主題歌 バルバラキャストベルナデット・ラフォン(マリー)ジョルジュ・ジェレアンリ・ザルニアックルイ・マルクレール・モーリエジュリアン・ギオマール1969年・107分・フランス原題「La fiancée du pirate」2026・02・04・no025・元町映画館no343追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.02.05
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佐々木幹郎「田舎の日曜日」(みすず書房) あれこれ「案内」してきた佐々木幹郎のエッセイ集です。「田舎の日曜日」(みすず書房)。副題にツリーハウスという夢とついています。佐々木幹郎さんの嬬恋にある山小屋の庭のクリの木に「ツリーハウ ス」が出来ていく時間に沿って書かれたエッセイの集大成です。その時、その時に撮られた写真もたくさん載っています。 2007年から2010年に渡って、みすず書房の「みすず」に連載されていた文章です。 その年、その年の春、孟宗竹を支柱にした竹のブランコ、ネパールの村にあるブランコを模したものらしいですが、そのブランコが出来上がって、ネパールの厄除けの儀式があったり、子どもたちが乗り初める話題とかもあります。 2010年の春の文章でしょうね。「クレッソンの春」と題された最後のエッセイがこんなふうに結ばれて終わります。 ツリーハウスの工事は、ついに屋根の三分の二まで、銅板を葺き終わった。棟梁のトクさんと床屋のナカザワさん、それにわたしの甥のジュンジがひさしぶりにやってきて、銅板貼りを手伝った。VOICESPACEのミズモトさんも手伝った。若い奴隷が二人も増えると、オジサンたちは勢いづく。なかでも今回は女性の奴隷が一人いたので、トクさんもナカザワさんも動きがきびきびしている。作業が滅法早い。「あの二人、わっかりやすい性格してるなあ」とジュンジが笑いながら言った。 オダ・トモミは木の上に登るのが好きだ。それを真似て、サワムラ・ユウジも木の上に登り、バナナを食べた。彼が盲目であるということを、こんなとき信じられなくなる。 ツリーハウス工事の後、二階のデッキで、ナカムラ・ユミがメロディオンを演奏し、ユリカ、モエ、マミちゃんの三人が、宮崎駿のアニメ「となりのトトロ」の主題歌「風のとおりみち」を合唱した。風景にぴったりだった。たしかにここは、風の通り道なのだ。ツリーハウスも山小屋も。(P261) 先だって案内した「雨過ぎて雲破れるとこる」(みすず書房・2007年)の続編です。で、「瓦礫の下から唄が聴こえる」(みすず書房・2012年)はこのエッセイ集の続編です。「旅に溺れる」(岩波書店・2010年)は、ほぼ、同時期に発表されたエッセイ集ですね。 どれもこれも、読んでいて風の音が聞こえてくるかの文章です。2026-no006-1221 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.02.05
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ジェレミー・ペラン「マーズ・エクスプレス」シネリーブル神戸 さて、2月です。映画館徘徊、月の始めはアニメでした。フランス製らしいです。見たのはジェレミー・ペランという監督の「マーズ・エクスプレス」、舞台は2200年の火星でした。うーん、これってアトムとなにが違うん? それが、率直な感想でした。 絵柄も嫌いじゃないし、展開も悪くないのですが、筋立ての論旨が古いんですよね。要するにロボット対人間という設定だとボクは感じました。で、子どもころに読んだ鉄腕アトムの論旨を越えることができていないという印象でした。「人間が私たちを捨てたんじゃない わたしたちが捨てる」 チラシが謳っている言葉は、あの頃のアトムには思いもよらなかった、今だからこその、ロボットの側の主体性の主張なのですが、映画は果たしてそうだったのかという疑問ですね。 現代の社会の論旨、要するに、徹底的に監視されている資本主義的な全体主義社会が宇宙の果ての火星でも繰り広げられているという、いわば、終末世界を描いたマンガなのですが、登場する女性探偵と、彼女の助手であるアンドロイドの関係性だけが、妙に近代的な言葉遣いでの、所謂「人間的関係」であることがストーリーを支えていましたが、結局、通用しないんですよね。 要するに、人間という存在の定義の問題だと思うのですが、60年前に手塚治虫が描いたロボットと人間の相互理解の不可能性を脱却する論旨はフランスの方にも見つからなかったようですね。 でも、アニメとしても、ドラマとしても、飽きずに見ることができましたよ(笑)。こういう、試行錯誤って、キライじゃないんですよね。監督・脚本 ジェレミー・ペラン製作総指揮 ディディエ・クレスト脚本 ローラン・サルファティ 編集 リラ・デジル音楽 フレッド・アブリル フィリップ・モンタエキャスト声優アリーヌ・ルビー(レア・ドリュッケール)カルロス・リヴェラ(ダニエル・ンジョ・ロベ)クリス・ロイジャッカー(マチュー・アマルリック)ロベルタ・ウィリアムズ(マリー・ブーベ)サイモン・ゴルドー(セバスティアン・シャッサーニェ)ベリル(マルト・ケラー)2023年・89分・G・フランス原題「Mars Express」2026・02・02・no024・シネリーブル神戸no356追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.02.04
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田村文「いつかあなたに出会ってほしい本」(河出書房新社) 市民図書館の新着の棚で見つけました。田村文「いつかあなたに出会ってほしい本」(河出書房新社)です。「14歳の世渡り術」というシリーズの1冊です。「面白すぎて積読できない160冊」だそうです。 週刊読書案内とか名づけて本の紹介をやってきた老人としては、ちょっと手に取らないわけにいかな本ですね。 ページを繰ると、最初の1冊が中島敦の「山月記」(岩波文庫)で、2冊目が夏目漱石の「こころ」(新潮文庫)です。いいですねえ、ボクにとっては、それぞれ、40年ほど仕事にしていた作品です。 ちょっと「こころ」の紹介の一節を引いてみます。 学生時代、先生は親友Kと同じ女性を愛した。先生がKを出し抜き女性との結婚を決めた直後、Kが自ら命を絶つ―。友情か恋愛か、三角関係の苦悩、嫉妬、友の死による罪悪感・・・・。倫理よりエゴを優先させた自分を、先生は許せなかった。 だが先生は徐々に、Kの自殺の理由は失恋だけではないと思い始める。「世の中にたった一人住んでいる」との思いでいる先生は、Kも淋しさのせいで死を選んだのではないか気づくのだ。 先生はかつて私に言った。「自由と独立と己れとに充ちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないのでしょう」 現代を生きる私たちも、この淋しさと無縁ではない。自立した自由な精神を持とうすれば、その代償として孤独や淋しさと向き合うことになる。だからこの小説は今もなお、生々しく、切実なのだ。(P25) いかがでしょうか。読者として想定されているのは14歳ですから、中学2年生くらいの方に対して語っていらっしゃる紹介だと思いますが、高校3年生の授業で、ここまでたどり着くのはなかなか難しかったですね。 著者の田村文という方は1965年生まれで、共同通信社という新聞社の文化部の記者をなさっている方のようです。 まあ、口調と分析がよくできる国語の先生を思わせるところがあって、ちょっとメンドクサイのですが、読みたい本を探すには便利かもですね(笑)。 パラパラと目を通してみると、160冊のラインアップも文学史的スタンダード作品に、読むと面白い実力作家、詩人、それに中村哲とか、宮脇俊三とかも抜かりなく入っていてジャンルを横断しています。要するに、本好き育成計画というわけで、好感を持ちましたよ。 できれば、この本で見つけて、オッ!と思って原本を手に取る人が増えることを祈ります。ホントは160冊のラインアップを貼りたい所なんですけど、ちょっと面倒なので、一応、目次を貼っておきますね。目次第1章 読み継がれるのには訳がある第2章 異世界を歩く第3章 詩歌の言葉にノックアウト第4章 旅があなたを鍛える第5章 人も社会も多様性に満ちている第6章 芸術の深淵に触れる第7章 読み始めたら止まらない第8章 豊かに流れる子どもの時間第9章 外国の物語に浸る第10章 文学という愉楽2026-no019-1234 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.02.04
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リエン・ジエンホン「サリー」シネリーブル神戸 2026年の1月の31日、土曜日です。夕方から50年前の同級会です。どうせ三宮に出るなら映画を、と思って出かけましたが、三宮は昨日から始まったルミナリエで、ちょっとした人の波です。映画館も、少々混雑していました。というわけで、久しぶりに前から2列目でした。見たのはリエン・ジエンホンという台湾の監督の「サリー」です。 ニワトリと、「サツマイモ」という名前のワンちゃんと、時速20キロでひよこの配達にやってくるトラクターが楽しい作品でした。 お話は、台湾の山間の村で鶏を飼っていらっしゃるフィジュンさんという38歳で独身の女性がマッチング・アプリとかで知り合ったつもりのフランス人男性を探しにパリまで出かけて、まあ、あれこれあって、結局、帰ってきて、愛しの雄鶏を抱きしめて終わりました。面白かったですね。 まず、飼い犬のサツマイモくんが庭先でゴロゴロしながらナツクのがいいですね。その次に、育ってみると卵は産まないし、肉も堅いという、多分、養鶏業では見捨てられている立派な雄鶏がすばらしい。赤い鶏冠と冷たい眼差し、いやー、ヤクシャやのう!でした。 それから、弟ウェイホンくんの幼馴染、ハオくんが乗ってやってくるトラクターですね。先ごろデビッド・リンチの「ストレイト・ストーリー」を見て印象的だった、あの乗り物が、この映画でもナカナカな仕事ぶりでした。 台湾の田舎とパリの風景のギャップ、占いですべてを決めるオバサン、叔母さんの田舎に逃げてきた不良高校生、そして、愛しの雄鶏を求めてパリまで旅する「ひよこちゃん」の主人公。皆さんに拍手!ですね。 劇場を出てみると、近くのルミナリエが点灯し始めていて、募金を募る声が響いていました。いつもは人出を恐れて近づかないのですが、一巡りすればちょうど約束の時刻ということで、久しぶりに東遊園地まで歩きました。なつかしかったですね。監督・脚本 リエン・ジエンホン脚本 エッセイ・リウ製作 アマンダ・ツァン・レイナート ワン・ウェイレン デニス・ウー リア・リー撮影 リャオ・チンヤオキャストエスター・リウ(リン・フイジュン 38歳・独身・女性)リン・ボーホン(リン・ウェイホン 弟)タン・ヨンシュイ(シンルー 姪)リー・インホン(ハオ 弟の幼なじみ)ヤン・リーイン2023年・105分・G・台湾・フランス合作原題「莎莉」・英題「Salli」2026・01・31・no023・シネリーブル神戸no355追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.02.03
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スヴェトラーナ・アレクシェーヴィッチ原作・熊谷雄太「チェルノブィリの祈り(4)」(白泉社) 2026年1月のマンガ便、第2弾でやってきたスヴェトラーナ・アレクシェーヴィッチ原作・熊谷雄太「チェルノブィリの祈り」(白泉社)の第4巻です。熊谷雄太によるコミカライズ完結編です。 第18話・第19話・第20話は「孤独な人間の声」と題されています。語るのはワレンチナ・チモフェヴナ・アパナセヴィチさん。チェルノブイリ事故処理に召集された作業員の奥さんです。お子さんがいらっしゃいます。生まれてすぐに病院に収容され、外に出ることを禁じられているお子さんです。面会に行かれると「パパはどこ」って、5歳のまなざしでお聞きになるお子さんです。事故から10年以上の年月が経っています。 第21話「人生を理解するには」を語るのは写真家の男性です。で、第22話「まったく未知なるものが忍びこみつつある」を語っているのはアナトリイ・シマンスキイというジャーナリストです。それぞれ、出来事を報道するという第三者の立場と視点の持ち主たちです。彼らを追いつめたのが何だったのか、ソビエト体制の社会に限らず、現代社会の真相が浮彫りになっていきます。 第23話「なにをなすべきか、だれが悪いのか」を語っているのはウラジミール・イワノフという党の地区委員会の第一書記の方です。政治家です。中央政府の命令に従い、地域のソビエトの団結を訴え、結局、なにを失ったのか。彼が発する最後の呻きがこのことばです。「わたしはただ自分の時代の人間なのです・・・・。犯罪者ではない・・・・。」 で、最終話、第24話の「見落とされた歴史」を語るのが、本書を世に問うたスヴェトラーナ・アレクシェーヴィッチさん自身です。 現場を歩き、多くの人の証言を記録していた彼女がたどり着いた言葉が、「わたしは未来のことを記録している。」でした。 ボクには、彼女が予言しているのは全世界の人間の「未来」であると感じました。福島での大きな事故に遭遇し、この作品で証言している多くの人たちと同じ悲惨な体験されている方が、きっと、たくさんいらっしゃるということは、この国でも、やはり公にはされていません。いわば、偽りの解決の中で、各地の原子炉が再稼働しているのではないでしょうか。 これで、「チェルノブイリの祈り」(白泉社)、全4巻完結です。熊谷雄太による、このコミカライズ作品が多くの人に読まれて、ボクたちが安穏と暮らしている社会と時代への警鐘になることを祈ります。 2026-no013-1228追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.02.02
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ネリー・カプラン「愛の喜びは」元町映画館 元町映画館がやっている「ネリーに気をつけろ!」という特集にハマっています。今日は3本目で「愛の喜びは」です。1991年の作品だそうです。イヤ、ハヤ、参りましたね。「はあ・・・、そうですか!?」 この作品で、「愛の喜び」とかにいたぶられるのはド・ビューラドールという、多分、自分で自分がカッコよくてモテると思い込んでいるらしい、詩人気取りのインチキ野郎ですね。 なんで、彼がそこにいるのかわからないんですが、地獄の窯とか呼ばれている火山の火口に飛び込んで死んでしまったらしい男が残した「家庭教師契約書」を、火口に残された遺品から見つけて、南の島の富豪の令嬢の家庭教師代理として乗り込んで、そこで待っていたのが祖母、娘、孫という不思議な女性集団だというのが話の発端ですが、その三人の美女相手に「モテる男」の自惚れ全開で、破滅への道を突っ走ります。イヤ、ハヤ、女性は怖い!ですね(笑)。 なんか、それ以上いう言葉が浮かばないのでこれで終わります。 それにしても、ネリー・カプランという監督は面白いですね。根性が坐ってますよ。もう1本、やっぱり見ちゃいますね。監督・脚本 ネリー・カプラン製作・脚本 ジャン・シャポー 製作 クロード・マコフスキー撮影 ジャン=フランソワ・ロバン音楽 クロード・ボランキャストピエール・アルディティ(ド・ビューラドール 詩人・家庭教師)フランソワーズ・ファビアン(ドー 母)ピエール・デュクスドミニク・ブラン(クロエ 娘)セシル・サンス・ド・アルバ(ジョゼフィーヌ 孫)ハインツ・ベネント(ラファエル)ジャン=ジャック・モロー1991年・106分・G・フランス原題「Plaisir d'amour」2026・01・30・no022・元町映画館no342追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.02.02
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ネリー・カプラン「シャルルとリュシー」元町映画館 「ネリー・カプラン特集」、第2弾です。 1本目に見た「パパ・プティ・バトー」の「そりゃ、ちょっと、あんまりやろ!(笑)」につられて2本目は「シャルルとリュシー」、1979年の作品らしいです。ボクは、こっちの方が好きですね(笑)。 大金が手に入るとかいう欲に目がくらんで、遺産詐欺に騙されて放浪するオッサンとオバはんの、すっとこどっこいな逃避行、とどのつまり、お二人ともパンツまで毟り取られる、パンツとられて素っ裸という徹底性!が何とも言えない味なのですが、もちろんコメディです。こういう、ドタバタ大好きです(笑)。 で、ちょっと気になったのはお客さんの数なんですね。最近の映画館のお客さんというのは、まあ、8割が老人なんでが、この日は、その老人もいらっしゃらなかったんですね。若い方が片手ほどということだったんですけど、ネリー・カプランという監督って、ボクなら20代ののころの方なんですけど、ボク自身もそうだったのですが、当時のフランス映画と言えばヌーベルバーグのビッグネームがもてはやされて、わかろうがわかるまいがゴダールであり、トリュフォーだったわけで、ボクも結構見ましたけど、ネリー・カプランなんて人、ボクと同世代、あるいは少し上の人でも、まったくご存じないんじゃないかという気がしましたね。惜しいですねえ(笑)。こんなに面白いのに。 まあ、しようがないですね。映画なんて好きずきですから(笑)。 何はともあれ、シャルルとリュシーのご夫婦を演じていらっしゃるダニエル・チェカルディさんとジネット・ガルサンさん、占いのおねーさんに扮して自らも登場なさる、監督のネリー・カプランさんに拍手!、拍手!でした。 監督・脚本 ネリー・カプラン製作・原案・脚本 ジャン・シャポー 製作・脚本 クロード・マコフスキー撮影 ジルベール・サンドス音楽 ピエール・ペレキャストダニエル・チェカルディ(シャルル 夫)ジネット・ガルサン(リュシー 妻)ジョルジュ・クレースネリー・カプラン(旅の占い師)1979年・98分・G・フランス原題「Charles et Lucie」2026・01・26・no019・元町映画館no340追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.02.01
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