全39件 (39件中 1-39件目)
1

「チューリップ成長記」 ベランダだより 2026年3月29日(日)ベランダあたり もう、3月も終わろうかという29日の日曜日の朝です。ベランダからチッチキ夫人の声です。「ちょっとおー、赤いほうが咲いちゃったけど、こっちも首が伸びたわよおー!」 ベランダのチューリップの話です。 20日ほど前の10日過ぎ、写真は3月17日ですが、にはこんな姿でした。これは、ちょっと姿勢を正し始めた姿です。 首のない、お座りチューリップでした。10日ほどたって、ようやく、「わたしにも首があるんです!」 とでもいいたげな、頑張りが始まりました。 下の写真が、その10日後、3月26日の姿がこれです。「どう、チューリップでしょ!」 ちょっと、見得を切っていらっしゃいます。なんというか、のんびりしていらっしゃいます。ここまで蕾が開き始めて2週間以上たってます。 とはいうものの、お隣の蕾にも首はありません。今から3週間がかりでチューリップらしくおめかしなさるのでしょうか?にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうで(笑)
2026.03.31
コメント(1)

「いよ、いよ、花盛りの団地!」 徘徊日記 2026年3月29日(日)団地あたり 2026年の弥生、三月もあと三日。外に出るのにセーターはいらんかな? 風が暖かくなってきて、いよいよ団地は花盛りの森です(笑)この花を見ると思い出します。「これは、レンギョオー!」 ゆかいな仲間たちが小学生だった頃、小学校のMセンセーが子供たちを引き連れて叫んでいらっしゃった。近所にあった小学校は廃校になってしまい、子どもたちの喧騒は聞こえませんが、今年も咲きました(笑)。 桜も咲き始めましたよ。 こちらはボケ! ボクはこの花好きです。 自宅の前の桜。お天気がちょっと残念ですが、遠くにいるゆかいな仲間たちにはなつかしい光景でしょうね。向こうに見えるのは彼らが通った小学校の校庭です。 団地が花でいっぱいの季節がやってきました。ワクワク、ウロウロ、キョロキョロ。 いい季節です(笑)。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうで(笑)
2026.03.30
コメント(1)

ディラン・サザーン「フェザーズその家に巣食うもの」シネリーブル神戸 ベネディクト・カンバーバッチという、主演しているらしい男優さんに興味があって見ました。イギリスの俳優さんで、ナショナル・シアターとかでも、お見かけしたことがある、お芝居の上手な人という興味です。 見たのはディラン・サザーンという監督の「フェザーズその家に巣食うもの」でした。海の向こうの人気小説の映画化のようで、妻を亡くした男のこころの様を、怪奇仕立てで描いた、まあ、スリラー映画でした。 最愛の配偶者を失った「おとこ」というのはこうなるのかなあ? まあ、そういう疑問が最後まで解けない作品で、先日見た「両親が決めたこと」という作品の夫の振る舞いにも首をかしげましたが、この作品の主人公のオロオロぶりもちょっと怠かったのですが、最後まで飽きずに見終えました。 まあ、映画としては、カラスがさほど怖くないところが残念なのですが、ボクは怖い映画というのは苦手なので、この程度が適度でしたね(笑)。 双子にしか見えないのですが、ママを亡くしたお兄チャンと弟の兄弟が可愛らしくて拍手!、カンバーバッチさんも、まあ、マジメに演じていらっしゃって拍手!。 ボクは原作を読んだことがあるわけではありませんが、マンガ家である主人公が描くカラスの絵に、リアリティというか、迫力というかを感じられないところが、なんとなく原作小説の筋書きに寄りかかっている印象で、ちょっと物足りなかったですね。監督・脚本 ディラン・サザーン製作 アンドレア・コーンウェル アダム・アクランド リア・クラーク原作 マックス・ポーター撮影 ベン・フォーデスマン美術 スージー・デイビス編集 ジョージ・クラッグ衣装 ソフィー・オニール音楽 ゼベディー・バドワースキャスティング シャヒーン・ベイグキャストベネディクト・カンバーバッチ(妻を失った男)・製作指揮リチャード・ボクサル(息子)ヘンリー・ボクサル(息子)ビネット・ロビンソン(アマンダ 息子の学校の先生)サム・スプルエル(ポール 弟)レオ・ビルデビッド・シューリスエリック・ランパール(クロウ)2025年・98分・G・イギリス原題「The Thing with Feathers」2026・03・28・no057・シネリーブル神戸no368追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.03.30
コメント(1)

ローラ・カレイラ「オーロラの涙」シネリーブル神戸 先日、団地を歩いていると、同じ団地の住人であるお友達と出くわして、立ち話でした。「どこ行くの?」「うん、バス乗って舞子。で、明石の図書館まわりで映画。元町。」「図書館は垂水じゃないの?」「神戸市の図書館は予約がうるさいから、明石。本も新しいし。」「映画は何見るの?ケン・ローチとか?」「ケン・ローチはまだやろ。」「エッ、始まってるよ。」「ホント?ボクは中央アジア。ウズベキスタンって知ってる?」「うーん、ボク、一応、ロシア語なんだけど(笑)。」「あなたー、お昼よー。パスタ伸びちゃうわよー。」「ああ、これは、どうも、じゃあ行くね。」「うん、気をつけて。」 で、本日の映画、ローラ・カレイラ監督の「オーロラの涙」の会場で彼と再会したのでした。 聞くところによると、彼は、この作品を、あのケン・ローチの新作だと思い込んでやってきたようです。たしかに、ケン・ローチの作品の製作スタッフが参加した作品のようですが、監督はローラ・カイレラという、ポルトガルからイギリスにやって来た女性監督のようです。 見終えて、近くの席に知人がいることに戸惑いました。感想を聞かれたら困るなあ・・・ まあ、そんな感じです。 で、ボクと彼の二人は映画館の出口で再集合。同じ駅から、同じ電車、同じバスで同じ団地まで、近況とか語り合いながら帰り着きました。 二人とも、さっき見た映画について一言も口にしないで別れました。 「監督、ケン・ローチじゃなかったね。」「うん、勘違いしてた(笑)。」 別れ際の挨拶、ホッとしました。 なにを、そんなに、まあ、そういわれてしまいそうですが、ボクは、故国ポルトガルからイギリスにやって来て、朝早くから夕ぐれまで巨大な倉庫で働き、シェアハウスの共同炊事場で質素な食事を作り、好物のチョコレートを買うことにも躊躇する財布と、事あるごとにのぞき込むスマホと暮らしているオーロラという主人公の女性の姿に心底打ちのめされて、ことばを失っていたのです。 「オーロラの涙」という題名ですから、「いつ、泣くのだろう?」 まあ、そういう興味で見ていたのですが、彼女が、確かに、涙をにじませたシーンを見つめながらローラ・カレイラという女性監督の人間の存在の根底を描こうとする意図を素直に演じるジョアナ・サントスという女優さんの、号泣へと崩れ落ちそうな哀しい顔に、涙しながら目を瞠ったのでした。「語るべきわたし」が「わたし」のどこを探しても見つからない。 一言でいえば、それが、この映画のすべてで、まれに見る傑作でした。 神戸に限らないのでしょうね。街には分厚い靴底、きらびやかな爪、ファッショナブルな衣装、どなたも同じに見える様々な髪の色や、マンガの主人公のようなメイクの女性や男性が溢れています。映画で繰り返しアップされるオーロラの表情とは対照的ですが、街を歩く彼女や彼たちに「語るべきわたし」はあるのでしょうか。 現代という社会が、そこで、今、学んだり、働いたりして生きている人間から何を奪い取っているのか。 まあ、ボクなりにまとめるとですが、そういう、深い問いかけを、淡々と描いた傑作!でした。 オーロラを演じたジョアナ・サントスの静かな演技、あくまでもドラマチックを排除した監督ローラ・カレイラに拍手! 監督・脚本 ローラ・カレイラ製作 ジャック=トーマス・オブライエン マリオ・パトロシニオ撮影 カール・キュルテン美術 アンディ・ドラモンド衣装 キャロル・ミラー編集 エルベ・ド・ルーズキャスティング ララ・マンワーリングキャストジョアナ・サントス(オーロラ)イネス・バズニール・ライパーリア・マクレーピョートル・シコラ2024年・104分・G・イギリス・ポルトガル合作原題「On Falling」2026・03・23・no055・シネリーブル神戸no366追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.03.29
コメント(1)

マイリス・バラード リアン=チョー・ハン「アメリと雨の物語」シネリーブル神戸 3月になって2本目のアニメーション映画でした。マイリス・バラードとリアン=チョー・ハンというお二人が監督されているらしい、フランス製のアニメ、「アメリと雨の物語」です。 まあ、アニメについて、具体的にここがこうだといえるわけではありませんが、ヨーロッパ・アニメらしいというか、以前見た「ロング・ウェイ・ノース」とかと似た絵柄で始まったのですが、舞台が日本だと気づいて、ちょっと、驚きました。 アメリちゃんという赤ちゃんというか、ちびっ子が主人公で、彼女が0歳から3歳のお誕生日まで、どんなふうに「世界」と出会うか?ということを描いた、お話なのですが、家族はベルギー人でフランス語のようですが、お手伝いさんのニシオさんとか、大家さんは日本人で日本語でしゃべるという、ある意味、独特な作品でした。 物語の時代と場所は1960年代の二ホンです。お手伝いさんのニシオさんがいつもかけているラジオからザ・ピーナッツの「恋のバカンス」という曲が聞こえてきて、「えーっ、この映画、あの時代なの…」 そう気づいて、ハマりました。 まだ、戦後と呼ばれていた日本で、ヨーロッパから赴任した外交官の娘として生まれたアメリちゃんが、二つの文化、二つのことばの狭間で出会う世界を描かんとする方法論に、ちょっと無理があるのですが、まあ、そこを、何とかファンタジーとして乗り越えようと頑張っている印象でした。 だから、まあ、これを見るフランスの方は、例えば精霊流しのシーンなどで、まだ戦後であった極東の敗戦国の人々の姿などに、異文化との出会いというエキゾチズム体験をなさることもあると思うのですが、少々、図式的でしたね。 その種の図式化による歴史の浮遊化は、最近の日本映画の方がひどいのかもしれませんから、この作品の描き方は、むしろ、マジメといっていいかもしれません。 まあ、60年代当時の社会を描きながら、主人公を3歳に満たないオチビさんにしていることに、そもそもの無理があるわけでしょうが、ボクは、かえって、そのあたりが面白かったですね(笑)。 だって、0歳から3歳なんて、いってしまえば宇宙人みたいなものですからね。なんでもありなんです(笑)。その上、子どもは可愛いですからね。アメリちゃんが無事3歳のお誕生日を迎えられて、大好きなニシオさんに再会できて、拍手!でした。 上で、少し触れましたが、この映画で一番はっとしたことは「恋のバカンス」でした。映像中のラジオから、この曲が聞こえてきた途端に、実に、不思議なことに、映像の印象が変わったんです。 アメリちゃんという主人公のちびっ子がボクの妹に見えてきたんですね。この曲は1963年ころラジオから聴こえていの曲だと思いますが、その頃、ボクは9歳、妹は4歳だったでしょうか。この映画では、家族を先の戦争で喪ったニシオさんや大家さんが登場します。大人たちにとって、戦争はつい先ごろの記憶だったのでしょうが、子どもだったボクにはにはわからなかったですね。むしろ、日々の貧しくて質素な暮らしの思い出しかありません。アメリちゃんの成長を見ながら、妹を思い出した理由は、彼女が6歳の誕生日を迎えることなく急性肺炎で亡くなってしまったからですね。映画って、そういうことを70歳を過ぎた老人に思い出させることもあるんです。アメリちゃんが息を吹き返したラストシーンに、こころがら拍手!でした。よかった、よかった・・・(笑)監督・脚本 マイリス・バラード リアン=チョー・ハン原作 アメリー・ノートン脚本 エディン・ノエル音楽 福原まりキャスト声優ロイーズ・シャルパンティエビクトリア・グロボアユミ・フジモリ2025年・77分・G・フランス原題「Little Amélie or the Character of Rain」2026・03・25・no056・シネリーブル神戸no367追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.03.28
コメント(1)

池澤夏樹「されく魂 わが石牟礼道子」(河出書房新社) その2 池澤夏樹の石牟礼道子論集成というべき「されく魂 わが石牟礼道子」を案内し始めたのですが、ああ、これは・・・という気持ちで写し始めたのが、本書の表題になっているこの追悼文です。 されく魂 ― 石牟礼道子一周忌に寄せて 石牟礼道子さんがお果てになってから一年が過ぎた。 太陽を一巡りして地球は同じ位置に戻ってきた。 また寒い時節。 一年前、容態が悪いと聞いたのは取材で行っていた小樽の先の車の中。札幌の家に戻った翌朝に、亡くなったと報せがあった。今も札幌はあの日と同じ雪景色。最高気温は零下五度。いつもの冬である。 作家や詩人が身罷った後、悼むのにすべきは著作を読むことだ。ご本人はいなくともその思いと考えは本の中に残っている。いわば永遠の命。 ところがこの一年、なぜか石牟礼さんの本を読む力が湧かなかった。どの文章も一行ずつが生々しくて、強烈で、ページを開いても弾かれてしまう。少し読んでわかった気になる自分を認めたくない。まして人前でしたり顔で石牟礼道子を論じるなどとてもできない。一度だけそういう場に立ったけれど、ひたすら作品の抜粋を朗読してお茶を濁した。 お目にかかった時の姿や声、それに対してあれだけの作品群を生んだ膂力、この二つの像の間で途方に暮れている。この人を自分の中でどう位置づけていいか今もってわからない。気の利いた言い回しで賞揚すればいいというものではないのだし、そういう役割は一通り済ませた。これ以上はなにかする分だけ自分の中の石牟礼道子が減ってしまう気がする。 熊本で刊行されている「アルテリ」というリトルマガジンの七号に石牟礼さんの詩が載っていた。草稿のまま残ったものが発掘されたのだ。これを読んで、書いている途中で新しい想を得て流れをがらりと変える、石牟礼道子の創作の技法に何百回目かにまた驚いた。渡辺京二さんはこれを「脱線」と呼ぶ(「脱線とグズり泣き」『預言の哀しみ』)。 脱線なのだろう。筆の貧しい者は足りない素材を無理に使い回して紙面を埋める。ぼくはものを書く自分は井戸であると思っている。水の湧出量は限られていて、性急に汲み上げると涸れてしまう。しばらくまた滲み出すのを待つしかない。(このイメージの背後には「星の王子さま」のあの滑車がきしむ井戸があるのだが)。 石牟礼道子の場合は水は奔放にとめどなく溢れ出て、地形を侵食し、勝手に流路を変える。 「アルテリ」の詩は死者のことから始まる― よみがえる死ながい小暗い原っぱをお月さまばっかり背にして五十年も歩いたいくら死人(しびと)だとはいえ歩きつかれたと云っているだけどもわたしは原っぱだから死者たちのゆく原っぱでしかないから一度死んだら二度死ぬことはできないおまえたちよむろばっかり抱いていていちどもあたたまったことのないわたしだって生きるとも死ぬとも誰もきめてくれずただ永劫であるわたしはこころが蒼いというだけでおまえたちにはもっともふさわしいものなのだ 死んで(おそらく)浄土に向けて歩み続ける死人たちはわかる。薄暗い道をとぼとぼ辿る。宮沢賢治ならば「ひかりの素足」で一郎が弟の楢夫を連れて仏に出会うまで歩むあの道。 しかし、そこでどうして主役を原っぱの方へ切り替えられるのだ?この飛躍、この脱線が石牟礼道子である。 運動感、融通無碍、捉えようとするとするりと躱(かわ)してずっと先に行ってしまうダイナミズム。 それを考えていて思い至ったのが、心と魂の違いということだ。ここ数年は日本文学の古典に親しんでいるのでこういう方角に思いが向かう。 水俣の言葉に由来する石牟礼道子のキーワードが三つある。 「のさり」は天の恵み。患者の杉本栄子さんは最後には病気をさえ恵みと読み替えた。 「悶え神」は他人の不幸を己のものと受け止めて、何の助けにもならないのに共に悶える、そういう気質を持った人。本が好きな叔父国人は「書物神」。精勤に励む人は「働き神」。 そして最も大事なのが「されく」という動詞。「さまよう」であり、ありていに言えば「ほっつき歩く」である。石牟礼さんは「漂浪く」という漢字を当てる。方言を共通語化するための工夫。ここも彼女の詩を引用するのが話が早いだろう― 糸繰りうた日は日に昏(く)るるし雪ゃあ雪降ってくるしほんにほんに まあどこどこ漂浪(され)きよりますとじゃろ夜も日も明けずわが魂のゆく先もわからんみんみんぜみのごたるみぞなげなおひとでございます。 「わが魂の行く先もわからん」というところに鍵がある。みんみんぜみが飛ぶように魂は飛ぶ。どこへ向かうか知りようがない(「みぞなげな」は「かわいそうな」の意、と渡辺京二さんにご教示いただいた)。 魂は自由だから肉体から離れることができる。「魂(たま)」は「体内から抜け出して自由に動きまわり、他と交渉をもつことができる遊離霊で、肉体が滅びてもこの世にとどまって人を守るとされた」と「古典基礎語辞典」にある。 「魂」に対するのは「心」という言葉だ。同じく「古典基礎語辞典」によれば、「はじめは心臓とその鼓動を意味し、そこから、肉体に一つの場所を占める、あらゆる精神活動の主体と、その精神活動そのものを表す。」ものである。だから心は一個の個体から離れることができない。それがエゴイズムの根源であり、故に夏目漱石はあの名作に「こころ」という題を付けた。 魂の動きについてわかりやすいのは― もの思へば沢の蛍もわが身より あくがれ出づる魂かとぞ見るという和泉式部の歌だ。 あるいは「源氏物語」の「葵」の帖。六条御息所の魂は(ここでは生霊と呼ばれるが)、肉体を脱けて出産の褥に横たわる葵の上に取り憑く。 この「糸繰りうた」は母親が子供を、あるいは妻が夫を思っているように読めるけれど、実は自分の魂の行方を自分で案じているのではないか。民謡のようなだいがついているが、実態は自分を哀れむ繰り言なのではないか。 昔、心とエゴイズムについて真剣に考えたことがあった。 人はみな自分という塔の上にいる。そこは広い平野で間をおいて塔がたくさん並んでいる。それぞれの屋上に一人ずつ人がいて、手を振って合図したり言葉を交わすことができる。それは手旗信号でもいいしLINEでもいいが、しかし人は臆病だから塔を降りて隣の人と抱擁することができない。孤独とはそういうことだ。この嘆きをもとにぼくは「帰ってきた男」という短編を書いた。一本の境界線がある。そこを越えれば個の埒を超えて人格の融合が実現する。エゴイズムからすっかり解放される。しかし、それは人格の消滅かもしれない。二人の男がその境界線を前にして議論し、一人はそこを越えて彼岸にゆく。もう一人は越えられず「帰ってきた男」になる。 塔の上の人という問いをインドの山奥でダライ・ラマ法王に直接問うたことがある。いきなりこんなことを問われても猊下も戸惑われて、まああたりさわりのない答えが返ってきた。申し訳ないことをしたと思う。 それで考えるのだが、これを心の問題と考えるから解が得られないのだ。これは本来は魂に属する問題である。 魂であれば己を保ったまま他と融合できる。「椿の海の記」で語り手のみっちんは狂った祖母おもかさまと融合している。 祖母はしばしばさまよい出す。孫が探しにゆくと降りやんだ雪の中に立っている。「世界の暗い隅々と照応して、雪をかぶった髪が青白く炎立っていて、私はおごそかな気持ちになり、その手にすがりつきました」という先、祖母に抱きしめられたみっちんは「じぶんの体があんまり小さくて、ばばしゃんぜんぶの気持ちが、冷たい雪の外がわにはみ出すのが申しわけない気がしました」。これが魂の融合ではないか。 あるいは権妻であるもう一人の祖母おきやさまが語る浄瑠璃の「葛の葉」の狐忠信に惹かれて、大廻(うまわ)りの塘(とも)で四、五歳の女の子が「いま狐の仔になって、それから人間の子に化生している自分とおもえばただならぬおもいがする。野菊の咲き乱れている足元がふっと暗くなり、この世は仮りの宿りとつぶやいて、えたいもしれずさまよい出したわが魂におどろいて見あげれば、もう色の変わった海の風がするするとうねって来て、逆さ髪の影絵のような芒のあいに、赤いおおきな落日がぽっかりとかかっているのだった」 魂がさまよい出す。ほっつき歩く。 それはそのままこの作家・詩人の魂が水俣病の患者たちの魂と融合できるということである。だから彼らの思いを深いところで捉えて、彼らの言葉として「苦海浄土」を紡ぎ出すことができた。それは軽薄な読者が聞き書きと思い誤るほどうまくいった。共感能力と言ってもいいけれど、しかしそれは「されく魂」の力なのだ。Sympathyもcompassionも語源は共にpathosを共有するといういう意味である。 若い時、石牟礼道子は生きるのが辛かった。世間と折り合いが悪く、何度か自殺を試みたほど辛かった。 その思いをとりあえず短歌にした。結婚に際して(!) 何とてやわが泣くまじき泣けばとて尽くることなきこのかなしみをと詠んでいる。 短歌はミニサイズの私小説である。それで苦しさを表明したけれど、それは心の問題であった。やがて歳月を経て彼女はエゴの砦を出る力を蓄え、心ではなく己の魂に率いられるようになった。その萌芽は戦災孤児を引き取って面倒を見る「タデ子の記」などに見ることができる。他者への関心が生きる力となった。 後に水俣病の患者たちに出会った時、彼女はそこに魂の同胞を見出した。近代は、チッソは、魂を拒絶する。無限に増える数字の壁で魂を押し伏せようとする。 柳田国男は「我々は皆、形を母の胎に仮ると同時に、魂を里の境の淋しい石原から得たのである」と言った。(ぼくはこれを福永武彦の「忘却の河」の第七章の扉で知った。柳田の原典は「神を助けた話」という赤子塚の話らしい。)。近代はこの「淋しい石原」をブルドーザーで壊してしまった。魂はみな寄る辺なき身になった。 こういうことを書きながら、こんな風に石牟礼道子の世界を要約してどうするのだという思いも湧いてくる。いくら解説したところで彼女のオリジナルの一行にはかなわない。第一、この種のことならば渡辺京二さんがすっと先行してずっと的確に書いておられる。この人の石牟礼道子論を読むたびに自分が何も読めていなかったことに気付いて息をつく。石牟礼道子は存在自体が一つの文学的な奇蹟だが、その近傍に渡辺京二がいて彼女を支え、読み解き、世間との間を繋いだこともまた文学の奇蹟だった。彼の「もうひとつのこの世」と「預言の哀しみ」があればぼくのこの小論などとんと無用なのだ。この二冊を全文引用すればそれで済む。 そもそもこの文章は引用が多すぎる。資料に依って論を構築するのは理系の手法である。化石に頼る古生物学のようなものだ。他ならぬ石牟礼道子のしなやかな文業に対してそういう途からしか近づけない自分を恥じると同時に、しかし生半可に彼女の文体を模したセンティメンタルな悪文を書かない抑制くらいはあると自覚する。 「高ざれき」の癖がひっついた者、という言い回しを彼女はどこかでしていた。どうやら京二さんにもぼくにも、石牟礼道子がひっついているらしい。 ではまた著作を新しい目で読もうか。「椿の海の記」と「苦海浄土」、どちらを先にしよう。「十六夜橋」も「あやとりの記」も読んでくれとせがんでいる。傍らには京二さんの本と並べて米本浩二の「評伝 石牟礼道子―渚に立つひと」を置いておこう。 池澤夏樹の言葉に誘われて、ボク自身も、もう一度、「新しい目」で石牟礼道子や、彼女のまわりにいた人たちをたどりなおせたらと思います。2025-no104-1177 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.03.27
コメント(1)

温又柔「台湾生まれ日本語育ち」(白水Uブックス) 日本語で書く台湾人である温又柔さんの「台湾生まれ日本語育ち」(白水Uブックス)という、2016年に第六十四回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞したエッセイ集を読みました。 わたしの二ホン語事始め はじめまして。ということで、まずはわたしについて紹介いたします。 姓は、温。名は又柔。合わせて「おん・ゆうじゅう」と言います。 続けて言うと「おんゆうじょう」。 ちょっぴり、おまんじゅう、に似ているのが自慢です。 昔は、自分の名前があまり好きではありませんでした。こんなへんてこな名前なんかではなく、もっと日本人っぽい、ふつうの名前だったらよかったのになあ、と思っていたのです。子どもの頃のわたしにとって、「ふつう」とは、「日本人っぽさ」のことでした。 わたしは、一九八〇年に台北で生まれました。生まれた台湾には、ほんの三年足らずしか住んだことがありません。(P8) 本書の最初に収録されているエッセイの冒頭の自己紹介です。下に目次を貼っておきますが、二十数篇のエッセイが載せられています。すべて「コトバとは何か?」という、考えてみれば堂々巡りする他はない「問い」を問い続けるかの、堂々巡りエッセイ集です(笑)。 見事なもんです。もちろん、貶しているのではありません。ほとんど絶賛しています(笑)。 彼女のモチーフは、本書の一番後ろに収められた「Uブックス版に寄せて」という、まあ、あとがきにこんなふうに記されています。 Uブックス版に寄せて 子どもの頃を含めると、あなたの母語は何ですか?と数えきれないほど訊かれてきた。同じ質問をされるのが苦痛な時期もあったが、いまのわたしは、待ってました、とばかりにほほ笑む。 ―タイワン語とチューゴク語の織り交ざったこの二ホン語のことです。 この答えにたどり着けたのは、約四年の月日をかけて、“失われた母国語”を求めつつ、自分にとって言葉とは何かと徹底的に考えぬいた成果なのだと思っている。 わたしにとって言葉について問うことは、いま、この瞬間もそうなのだが、なぜ自分は日本語でものを考えているのかということについて、そして、自分から少なくとも三代遡った台湾人たちの「国語」を考察することと直結していた。本書は、わたしが言葉とむきあってきた“物的証拠”であると同時に、わたしのこれからの作家活動の“基盤”ともいえる。(P307) 「言葉とは何かと徹底的に考えぬいた」人の「ことば」が、やがて、タイワン語とチューゴク語の織り交ざった二ホン語による「小説」という世界を紡ぎ出していきつつあるのが、たとえば、ボクが先だって読み終えた「恋恋往時」とかなのでしょうね。 失われた母国語という問題意識が引き寄せる、過去100年に渡る台湾、中国、そして日本という、それぞれの国とそれぞれのぶつかり合いの歴史と、その結果、今、そこにある社会とを土台にし、その社会で生きてきた、生きている人間の姿を、ことばを問い詰め続けることで描こうとしている!彼女の小説世界の、まあ、ボクにとっての面白さ背景が語られている名エッセイ集でした。 ボクが、今さらいうまでもないことですが、エッセイスト・クラブ賞、当然!ですね(笑)。おススメですよ。目次Ⅰわたしのニホン語事始めなつかしさよ、こんにちはピンイン様の逆襲眠る中国語ママ語の正体南方訛りⅡペーパーガイジン「投票」したい台湾総統選挙を控えて台湾総統選挙の日わたしの国々Ⅲ母「國」語の憂鬱幻の原稿龍の年祖国語、母語、娘語永住権を取得した日Ⅳイマジナジア―馬祖への旅(1)台湾海峡の彼方へ―馬祖への旅(2)「国語」を抱きしめて―馬祖への旅(3)Ⅴ失われた母国語を求めて終わりの始まりⅥ台湾総統選挙を終えて「ママ語」で育ってよかった!―日本エッセイス・クラブ賞受賞のことば生い繁ることばの森へあとがきUブックス版に寄せて このエッセイ集を読んでしまえば温又柔という作家の小説は、まあ、読まんでもいいんじゃない?そんな印象をお持ちになる方もいらっしゃると思いますが、そうでしょうか?彼女の小説はここから始まるのですが、エッセイの向こうにたどり着きたいという、作家の意志は小説にこそ表れつつあるとボクは思うのですよね(笑)。2026-no028-1243追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.03.26
コメント(1)

ヨルキン・トゥイチエフ「ファリダの二千の歌」元町映画館 元町映画館がやっている「中央アジア今昔映画祭 vol.3 ウズベキスタン特集」の4本目です。2020年の製作ですから今回見ることができる作品としては、一番新しいウズベキスタン映画ですが、作品が描いていたのは、ほぼ、100年前のロシア、ウズベキスタンでした。 見たのはヨルキン・トゥイチエフ監督の「ファリダの二千の歌」です。 農夫としか見えない老年の男が、ロバが引く幌付きの荷車で岩ばかりの荒涼たる平原を進みますが、幌の後ろにかかっているのは女性のドレスらしくて「なんだこれ?誰か乗ってるの?」といぶかしんでいるうちに映画が始まりました。 荷車が止められて男がピユーって指笛鳴らすと、草むらの向こうに人が現れて、その向こうに土の家が見えてきます。どうやら、到着したようです。 家には母親ふうの女性と姉妹に見える二人の女性が暮らしているようです。幌からファリダという名の若く美しい女性が降りてきました。 で、荒野の果てのような土の家での五人の暮らしのはじまりです。遠くの山のほうから美しい歌声が響いています。 一夫一婦制の習俗しか知らないボクには、なにが起こっているのか意味不明ですが、カミルというらしい、この家で、ただ一人の男性である、老農夫が何を考えているのかもポカーンです。その上、毎日、遥か彼方の山のほうから聞こえてくる歌声が、最初は「風の音よ」という、一緒に暮らす女性の一人のセリフに納得していましたが、この歌声が、ただのBGMではなくて、誰かが、山にいると気づき始めて「うーん…???」でした。 歌声の主は、山の洞くつに鎖でつながれている一人目の妻で、カミルが連れ帰ったファリダが5人目の妻でした。 で、その五人目の妻ファリダが、カミルの初めての子どもを身籠ったらしいというあたりから、映画は揺れ動き始めます。 まず、ロシア帝国の崩壊とボルシェビキの進軍という、おそらく、ウズベキスタン史上の大事件が、荒野の土の家に襲いかかります。 ファリダの妊娠、逃走する白軍による家財の没収、4番目の妻の不倫、逆上するカミル、騒然とした混乱が映画を包み始めた、とどのつまり、3番目の妻である女性が逆上する夫カミルに逆らい、家を出ます。物語は終盤に差し掛かっているようです。 カミルは残っている女性たちを家から追い出し、山の洞窟につないでいた最初の妻の鎖を解きます。 で、ついにやって来た赤軍の兵士たちの前に、なんと、ロシア帝国の高級軍人の軍服に身を包んだカミルが登場するにいたって、見ているこっちの驚きはほとんどピークです。最初の写真のシーンです。 しかし、話はそれでは終わりません。とどのつまりは、赤軍協力者として再登場した三番目の妻の構えた銃口が、かつての夫に向けられ、銃声がタジキスタンの山々に響き渡ってラストです。 最後の山場として映し出されたそのシーンを見ているボクは「うーん!?」と唸って座り込むほかありませんでしたね。「ファリダの二千の歌」という題名が意味することは何だったんだろう?そんな困惑が頭のなかでぐるぐる回ります。 帝政ロシアからボルシェビキ革命へと揺れ動くロシアという大国の、あるいは、今、ソビエト連邦から独立した辺境国家ウズベキスタンを描いた歴史映画だったと思うのですが、一夫多妻の妻の一人が、夫であった帝国軍人を銃を向ける。 実に象徴的な事件ではあるのですが、それもまた、山々にこだまし続ける二千の歌の一つだということでしょうか。 荒涼たる広大な自然と、旧弊な生活、そこに響く夢のような、しかし、哀しみに満ちた歌声の世界の、突然の切断としての銃声。 整理しようとして困惑は深まるばかりという、わかったとはとてもいえない作品だったのですが、それはそれで、興味深く、面白い作品でした。拍手!監督・脚本 ヨルキン・トゥイチエフ撮影 バホディル・ユルダシェフ美術 ベクトシ・ラジャボフ編集 フルシド・アリホジャエフキャストサノバル・ハクナザロワバフロム・マチャノフイルミラ・ラヒムジャノワユルドゥズ・ラジャボワマルジョナ・ウリャエワ2020年・110分・ウズベキスタン原題「Faridaning ikki ming qo'shig'i」2026・03・20・no053・元町映画館no353追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.03.25
コメント(1)

自宅の前に水仙郷です! 徘徊日記 2026年3月24日 団地あたり いよいよ2026年の三月、弥生も下旬に差し掛かりました。 自宅の前の緑地に水仙郷です(笑)。ここだけなぜか大柄な花をつけていて、前に座ってスマホを構えると、なんとなく表情があって面白いです。 水仙で、春というイメージがボクにはありません。団地でも、ほかの場所の水仙は1月の終わりころから咲いています。遅いんですけど、愛嬌があるのがいいんです。 玄関出たところの、この白い花は雪柳です。団地の生け垣の花で、咲き始めると「春」を実感します。 で、その隣は山桜桃梅です。花を見ると透き通った可愛いい赤い実が思い浮かびます。 いや、ホント、そうはいっても、もう、「春」ですね。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうで(笑)
2026.03.24
コメント(1)

リュドミラ・ウリツカヤ「ソーネチカ」(沼野恭子訳・新潮クレストブック) 「子供時代」という童話のような絵本のような作品を読んで、現代ロシア文学を代表する作家だということを、まあ、実に遅ればせながら知って、最新作「緑の天幕」に仰天したリュドミラ・ウリツカヤですが、続けて読んだのが、この「ソーネチカ」(沼野恭子訳・新潮クレストブック)でした。ウリツカヤの作家としてのデビュー作のようです。なんという悲しみ、なんという幸福感 翻訳家の柴田元幸が初版の腰巻に載せたホメ言葉です。 本作を、お読みになればおわかりだと思いますが、さすが柴田元幸!というか、「お上手」としか言えない一言批評です。 で、書き出しはこんな感じです。 赤ちゃんなのか子供なのかわからないような幼いときから、ソーネチカは本の虫だった。気の利いたことを家族にいうのが得意な兄のエフレムは、いつもお決まりの冗談をくりかえしたものだ(もっとも、兄が初めて口にしたときにはもう使い古しといった感じだったけれど。)「本ばかり読んでるから、ソーネチカのお尻は椅子みたい、鼻は梨みたいになっちゃったんだ。」(P4) ついでに、まあ、いきなりで申し訳ありませんが、最後はこうです。 夜ごと、梨の形をした鼻にスイス製の軽量メガネをかけて、ソーネチカは、甘く心地よい読書の深淵にブーニンの暗い並木道に、ツルゲーネフの春の水に、心を注ぐのだった。(P133) 最後はパーキンソン病のふるえる手で本を持っている主人公の姿なのですが、読み終えたボクに浮かんできたのはなんという幸福感!でしたね。「なんという」が、ただの感嘆でも、疑問でもないところが凄いんですよね。 本の虫で梨の鼻のソーネチカが、一回り以上年上の反体制的な芸術家ロベルトに見初められ、結婚します。まあ、夫のせいですが、流刑地を移動しながら、貧しくも幸せな生活を送る中で、一人娘ターニャが大きくなり、ヤーシャという美少女と友達になって家に連れてくるようになります。で、そこから、・・・。はたして、本書の紹介にある「神の恩寵に包まれた女性の、静謐な一生」と言えるのかどうか、「なんという悲しみ」としかいいようのない女性の一生です。 本が好きだということは、実は、哀しいことなのかもしれませんね。本好きを自認なさっている、あなた、まあ、お読みになってみて下さい。 2026-no031-1246追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.03.24
コメント(1)

ヨアヒム・A・ラング「ジョン・クランコ バレエの革命児」シネリーブル神戸 先日「パリに咲くエトワール」という、1910年代、だから大正時代にパリに渡って夢を追ったた二人の少女の姿を描いたアニメ映画を見ましたが、少女の一人がバレリーナに憧れてるというお話で、柄にもなくバレエって?と、生れてはじめて興味を持ちました。 で、バレエの革命児ジョン・クランコという文字が踊ている、まあ、ジャスト・ミートのチラシの映画にとびつきました。 見たのはヨアヒム・A・ラングという、多分、ドイツの監督の「ジョン・クランコ バレエの革命児」です。 ボクはまったく知らない人ですが、1960年代に活躍し、1973年、3度目のニューヨーク公演で成功をおさめた帰りの機内で亡くなったという、実在の人物が主人公の作品でした。 ダンスシーンが、主人公の内面描写と重ねられている構成で、繰り返し現実場面に重ねられて映し出されます。普段のボクなら、少々めんどくさい!と感じたに違いないシーンの連続なのですが、ダンスそのもの美しさ!に、その手の素養のまったく縁のないボクの目も釘付けという印象で、退屈どころか、「ダンスってすごいね!」という満足で見終えました。 映画に登場しているダンサーのレベルも、きっと、高いんでしょうね。まあ、そのあたりを見きわめる眼力はないわけで、そこが、ちょと残念でした。 この映画のポイントはもう一つあって、ジョン・クランコという人がゲイなんですね。で、彼が心を奪われる恋人役とか、彼の周辺にいる男性たちがいろいろ登場するのですが、その顏の見分けがつかなくて困りましたね。女性ならわかるのかと言われれば、実はその場合でも怪しいわけなのですが、そういう見分けのつかさなさを最近スクリーンを見ていて痛感するわけで、何とも哀しいですね。 まあ、なにはともあれ、舞台上のバレエであれ、主人公の幻想に重ねられたダンスであれ、いいものはいい!という感想で、拍手!でした。監督・脚本 ヨアヒム、・A・ラング製作 ティル・デレンバッハ ミヒャエル・ソービグナー撮影 フィリップ・ジヒラー美術 アストリッド・ペーシュケ衣装ユリアーネ・マイヤー クリスティアン・ロアーズ編集 ヤン・プッシュ音楽 バルター・マイアキャストサム・ライリー(ジョン・クランコ)ハンス・ジシュラー(支配人シェーファー)ルーカス・グレゴロビッチ(ヘーファー)マックス・シンメルフェニッヒ(ディーター)フリーデマン・フォーゲル(ハインツ・クラウス)エリサ・バデネス(マルシア・ハイデ)ビルギット・カイルロシオ・アレマンジェイソン・レイリー(レイ・バーラ)2024年・138分・G・ドイツ原題「John Cranko」2026・03・21・no054・シネリーブル神戸no365追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.03.23
コメント(1)

リュドミラ・ウリツカヤ「緑の天幕」(前田和泉訳・新潮クレストブック) 「子供時代」(新潮クレストブック)という絵本というか、童話というかを、偶然、手にして、「この人、凄いんじゃないか?!」と思ったリュドミラ・ウリツカヤという、現代ロシア文学の女性作家ですが、市民図書館の蔵書を検索して、彼女の一番新しい作品らしいと見当をつけて「緑の天幕」(新潮クレストブック)を予約して借り出してみると、なんと700ページをこえる分厚い本でたじろぎました(笑)。 で、読み始めたのですが、これが、ボク好みというか、凄かった!ですよ。 タマーラは水っぽいスクランブルエッグの皿を前にして、まだ夢見心地のままそれを口に運んでいた。 母ライサ・イリイニシナは、目の粗い櫛を彼女の髪に差し、この生きたビロードを傷めないように、この上なく優しい手つきで梳っていた。 ラジオから流れる音楽は荘厳だがそれほど大音量ではなかった。仕切りの向こうでは祖母が眠っていた。ふと音楽が止んだ。長すぎる間が、何か意味ありげにしばらく続いた。それから誰もが知っているアナウンサーのおなじみの声が聞こえてきた。「みなさんこんにちは、こちらはモスクワ放送局です。ソヴィエト連邦の全ラジオ局共通放送により、政府の発表をお伝えします・・・・・。」 タマーラの髪をとかしていた櫛が止まった。タマーラもはっとして、スクランブルエッグを飲みこんでしまうと、寝起きのかすれ声で言った。「ねぇママ、たぶんちょっとした風邪でも引いただけなのに、すぐそれを国中に・・・・・」 彼女は最後まで言い終えることができなかった。というのも、不意にライサが力いっぱい櫛を引っ張ったので、タマーラの頭は後ろにぐいっとのけぞって、歯と歯がかちんと音を立てたほどだったからだ。「静かに!」ライサは声を押し殺して言った。 書き出しの最初のページです。1953年3月のある朝の出来事です。そういうと、すぐにピン!とくる人には、この作品はチョーおススメです。 タマラはユダヤ人の中学生です。物語は、その時、すでに制服を着ていたガーリャ、この日、風邪をひいていて学校を休んだウリツカヤという、それぞれ中学生だった少女の家庭のその日の喧騒を描いて始まりますが、ここから700ページ余りを読み終えた最後のページはこんな記述で終わります。 1996年1月28日の夜中の1時過ぎだった。その夜、詩人ブロツキーはこの世を去ったのだった。 詩人ブロツキーというのは、1987年にノーベル文学賞を受賞したロシアのユダヤ人詩人、ヨシフ・ブロツキーのことです。ブレジネフ政権下で投獄、流刑され、作品は西側での地下出版で知られた人です。ついでに、最初の引用でニュースになっている人物はヨシフ・スターリンですね。レーニン亡き後のソビエトの政治家で、20世紀の世界史上、まあ、ボクの偏見かもですが、ヒットラーとどっこいの悪人です。 ボクがこの作品を手にしたのは2026年ですから、小説の始まりから73年、終わりから30年の年月が流れています。小説が描いているのは二人のヨシフの死に区切られているソビエト・ロシアの40数年の「現代史」でした。 物語はこの3人の少女たちと、彼女たちが通っている中学校の3人の少年たち、写真機を持って走り回るイリヤ、自らの詩的感性に翻弄され続けるミーハ、ピアニストを夢見続けるサーシャという、あわせて6人の少年、少女たちの、1950年代から1990年代に至る40数年の時間を群像劇として描いています。 物語を支え続けるのは、彼らが中学校で出会い、彼らの感性を育ててくれたシュンゲリ先生、孫のサーシャの音楽的感性を讃え、孤独なミーハを可愛がるアンナおばーちゃん、彼らの両親たちといった前世代の大人たち、ウリツカヤの子どもであるコースチャをはじめとする次世代の若者たち、まあ、ボクにはとても覚えられない数の人たちが登場しますが、20世紀のソビエト・ロシアという社会を生きた「普通の人々」の物語でした。 作者のリュドミラ・ウリツカヤは1943年生れ、モスクワ大学で遺伝学を学んだ科学者だそうです。 1990年代に発表した「ソーネチカ」(新潮クレスト)によって世界中から注目され、今では現代ロシア文学を代表しノーベル文学賞の候補にも挙げられている方で、2026年には83歳でご存命だそうです。 嬉しい限りですが、2010年に発表されたこの作品は彼女自身が生きてきた人生を、登場する一人一人の「生と死」の姿として描き込んだ、集大成ともいうべき傑作だと思います。 訳者の前田和泉さんの巻末の解説によれば、この作品には二つの題名があるそうです。 一つは、邦題になっている「緑の天幕」ですね。プロローグに始まって、8番目の章に付けらている題名ですが、三人の少女の一人であるウリツカヤという秀才少女の有為転変が描かれています。作家が書き始めたときに付けた題名だそうです。 もう一つは「イマーゴ」です。本書で600ページをこえたあたり、全部で33章で構成されている作品の、28章目、最後のエピローグまで、あと4章という章の名です。三人の少年の一人、ユダヤ人でもある詩人を夢見たミーハが人生から退場していく姿が描かれています。ヨーロッパで出版されている本作には、こちらの題名がつけられているそうです。「イマーゴ」という章段の哀切さは、700ページを越える、この大作の中でも群を抜いていて、題名として採用されていることに、繰り返しうなづきながら読み終えました。 久々に700ページを越える大作を読み終えることができたことが、何よりも、まず、嬉しかったのですが、「子供時代」という、ほぼ、70年前の子どもたちの姿を、古びて黄ばんではいるけれど、それぞれが鮮やかな輪郭をのこしているスナップ・ショットの写真のように描いた作品で出会ったリュドミラ・ウリツカヤという作家が、その写真に写っている子供たちの、きっと、隣に立っていたに違いない、少年や少女たちの人生を700ページに渡って描き切っている迫力に、グイグイと引き込まれて読み終えた爽快さは、最近味わったことのない快感でした。 彼女はノーベル文学賞の有力候補の、お一人だそうですが、賞をとろうがとるまいが、この作品は傑作だ! とまあ、それが結論ですね(笑)。 2026-no029-1244追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.03.22
コメント(1)

ズリフィカル・ムサコフ「UFO少年アブドラジャン」元町映画館 「中央アジア今昔映画祭 vol.3 ウズベキスタン特集」にハマっています(笑)。「やさしさ」、「熱いノン」と見ての3本目です。一本目の「やさしさ」が1966年、2本目「熱いノン」が2018年、で、この作品が1992年の製作で、まさに、ウズベキスタン映画の今昔を行った来たりしています。 で、見たのはズリフィカル・ムサコフという監督の作品なのですが、題名が「UFO少年アブドラジャン」なんですけど、まともや題名に躓きました。「UFO少年ってなんやねん?」ですよね。まあ、そう思って坐ったのですが、すぐにわかりました。 下に貼った原題にStivenu Spilberguとありますが、あのスティーヴン・スピルバーグのことで、この映画はスピルバーグの1982年の傑作E.T.を見て興奮したウズベキスタンの、たぶん、少年がスピルヴァーグにファンレター書くんです。「ボクのところにも宇宙人来たよ。」って。 で、映画は彼の村にUHO少年がやって来て、やがて去っていかざるを得なくなったいきさつを、書いた当人が、手紙の文面をそのまま読み上げた物語なのです。そのあたりの「語り物」として構成している方法論が、まず、うまい!ですね。 その上、出来事は宇宙人到来のSF的事件の連続なのですが、これが何というか、ウズベキスタンって、こんなところなんだね・・・という、中央アジアそのものというか、田舎丸出しで笑えます。 今回のこの映画祭で上映される6本の作品のうち、この作品だけが以前公開されたことがあるようで、「たぶん、90年代の終わりだと思いもいますが、ソビエト製のカルト映画として、評判になったとおもいますよ。」 元町映画館のWくんのことばですが、納得ですね。ボクもそうですが、好きな人は、きっと好きです(笑)。まあ、いわずもがなの余談ですが、ボクが一番笑ったのは、裸ん坊で登場した宇宙人の少年と出会った農夫のバザルバイさんの最初の会話ですね。「なッ、ない!」「高知能生命体のぼくたちには、そんなものは必要ないのです。」「えーっ、もったいない。」 少年に、なにがなかったのかは想像にお任せしますが、そのあと、服を着せたり、名前を付けたり、隠し子騒ぎで大わらわになったり、シッチャカメッチャカの奇想天外が始まるのですが、奥さんのホリーダ(多分)さんともども、役柄を心得た名演技で拍手!拍手!でした(笑)。 上のデカいスイカの写真をご覧になればおわかりだと思うのですが、SFとはいいながら、実にロー・テクというか、今どきの映像に慣れていらっしゃる方は、きっと、バカにさせるであろうレベルなのですが、それが「物語」とマッチしていて、笑いが盛り上がるん気さえするんですよね。 いやー、この監督、ただものじゃないですね。拍手!監督・脚本 ズリフィカール・ムサコフ脚本 リフシボイ・ムハメジャーノフ撮影 タリアト・マンスーロフ音楽 ミルハリル・マフムードフキャストラジャブ・アダシェフ(バザルバイ 農夫)シュフラト・カユモフ(アブドラジャン UHO少年)トゥチ・ユスポワ(ホリーダ)トゥイチ・アリポフ(議長)ウラジミール・メニショフ(ナフロブチコ将軍)1992年・88分・ウズベキスタン原題「Abdulladzhan, ili posvyashchaetsya Stivenu Spilbergu」2026・03・19・no052・元町映画館no352追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.03.21
コメント(1)

ウミド・ハムダモフ「熱いノン」元町映画館no351 元町映画館です。「中央アジア今昔映画祭 vol.3 ウズベキスタン特集」です。2本目です。見たのはウミド・ハムダモフという監督の「熱いノン」でした。「ノン」ってなに? 最後にわかって、胸がジーン・・・でした(笑)。 お父さんとお母さんが別れたらしくて、一人で寄宿学校暮らしらしい、たぶん、中学生くらいの少女ズリフィヤちゃんに、お母さんと暮らせると報せが来て。それを聞いて大喜び、迎えに来たおばーちゃんとバスに乗ってわくわくですが、なぜか、街で暮らしているはずのお母さんの方角からバスは遠ざかるばかり、おばーちゃんの田舎に向かって走っていて、遂にマジ切れした少女の絶叫で映画が始まりました。 おばーちゃんの家で暮らしているのは、これまたどこかに行ってしまった叔父さんのお嫁さんである叔母さんと、いとこの少年二人、合計4人です。その連れてこられたのがズリフィヤちゃんです。「話が違うわ、お母さんと暮らすはずの私はどうなるの?」 何とか、祖母、隠された電話、壁土を子どもたちが足でこね、大人の叔母さんが手で塗りつけるような貧しい住居、黙々と家事をこなす、婚家に取り残されたような叔母さん。「お母さんにはそのうちあわせるから、まずは家事手伝いの技術とお行儀と勉強!」 おばあちゃんの命令と田舎の村に閉じ込められている境遇から、何とか脱出しようとするズリフィヤちゃんの怒りとあがきの日々。 夫が亡くなり、跡取りの息子が出奔し、家長として、旧態依然の態度で「家」を守り続ける祖母、夫が出奔したにもかかわらず、嫁ぎ先にとどまり、姑の命令に従い、文字通り「嫁」としての役割を黙ってこなす叔母。「うーん、なんなんですかね、この古さは・・・。」 見ているこっちは、60年以上も昔の子供時代に暮らした田舎の情景を彷彿としながら、2018年に作られたはずの、この作品の切り口を探します。 ありました! 黙って、一家の日常を支え、叱られっぱなしの少女をそっとかばう、なにを考えているのかよくわからない叔母さんです。 力を込めてパンをこねている彼女の前に少女は苛立ちと怒りに涙を浮かべて立っています。彼女はこねる手を休めることなく、ボソボソと独り言のように語りかけます。なにを言っているのか、よく聞き取れないような言葉です。 でも、少女は気づくのです。叔母さんは、オバーちゃんに命じられているからそうしているのではないということに。 「熱いノン」を、そう、ノンというのはパンのことだったんです! 毎日、家族のみんなに、熱くて、おいしい!ノンを食べさせることが、彼女の人生を支えているということを。 ここから、何とかして出ていきたかったはずの少女が、叔母さんが練っているパン生地に、一緒に手を突っ込んで、涙でぬれた目で手伝いはじめたラストシーンには唸るほかありませんでしたね。 ボク自身にとっては、ちょうど祖母、母、そしてボク自身の世代が重ねられていて、フェミニズムとは何かという問いの一番奥にあったはずの、男女を問わず、「生きるとは何か」と静かに問いかける作品でした。拍手! 叔母さんとお祖母ちゃんは上のチラシでペンキを塗っているお二人です。お二人とも、ああ、それから少女、本当は、みんな哀しくて、そこのところが、実にリアルでよかったですよ。もう一度、拍手!です。 監督さんの素朴ですが、確かな問いかけにも納得です。拍手!監督・脚本 ウミド・ハムダモフ撮影 ジャホンギル・イブラギモフ美術 アリシェル・ウザコフ音楽 タイル・クジエフキャストザリナ・エルガシェワムナバル・アブドゥラエワフェルザ・サイドワロラ・エルタエワラジズ・ラブシャノフ2018年・87分・ウズベキスタン・ウズベク語原題「Issiq non」2026・03・17・no051・元町映画館no351追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.03.20
コメント(1)

原泰久「キングダム 78」(集英社) 2026年3月のマンガ便で届いた原泰久「キングダム 78」(集英社)です。 77巻で韓を無条件降伏で退けた秦ですが、いよいよ趙との最終決戦です。上に貼った表紙にはメンバー勢ぞろいで、いったい、この中の誰がこの戦いで消えていくのだろう・・・ まあ、そんなふうな思いを掻き立ててくれていますが、マンガは決戦に臨む両国の内情、軍事力の紹介、周辺諸国の思惑、と、これから始まる長い戦いを予感させる出だしでしたが、決戦の火ぶたが切って降ろされた本巻後半、まさに開戦と同時でした、いきなり大事件勃発!です。 な、なんと、山の民を率いる将軍楊端和が中華十弓中第一位といわれる、趙軍の弓の名手青華雲の狙撃に倒れるのです。表紙の上の三人のお一人、金髪で刺青、叫んでいる方です。 秦軍の中で、ボクとしては、もっとも贔屓にしている女性将軍が開戦と同時に倒れるという、思わぬ展開にドギマギですね。 劣勢の闘いの展開の主導権を握らんとする趙の名将李朴の深慮遠謀の結果ですが、マンガの展開としては、俄然、面白くなってきたわけで、次号を期待しますね。 だって、青華雲の、次なる標的は王信、そうです、飛信隊を率いる将軍、主人公の信ですからね。ああ、大丈夫だとは思うのですが、今からドキドキです。 本巻の最後のページには「作者 あとがき」があって、キングダム連載20年の喜びとともに、原泰久さんの健康状態を報告したうえで、2025年、若くして亡くなられた箱石達さんというお弟子さんの冥福を祈る言葉が記されています。 「キングダム」は原泰久というマンガ家の代表作として知られていますが、おそらく、多くのお弟子さんたちとの共同制作の賜物であるに違いありません。原さん自身の仲間を思う気持ちが伝わってきて胸うつ「あとがき」です。1975年生まれの原泰久さん、50歳です。頑張ってください。2026-no035-1250追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.03.19
コメント(1)

エリヨル・イシムハメド「やさしさ」元町映画館 先週の土曜日、2026年の3月14日から「中央アジア今昔映画祭 vol.3 ウズベキスタン特集」を元町映画館がやっています。ボクは、元町映画館の、まあ、こういう、マイナーな特集には、できるだけ行くことにしています。学生時代から長い間映画から遠ざかっていたこともあって「エッ、なに、これ?どこの、いつの映画?」 まあ、そういう驚きというか、発見というかが、なんだかとても嬉しいんですよね。 で、今回はウズベキスタン映画です。「ウズベキスタンってどこ?」 まず、そこから???なのですが、ここらしいです。 中央アジア、アフガニスタンと国境を接する旧ソビエト連邦の国ですね。 で、最初に見たのはエリヨル・イシムハメドフという監督が1966年に作った「やさしさ」という作品です。全編白黒映画でした。 映画は少年サンジャルくんの片思いの恋を発端して、年上の女性レーナさんと、その恋人ティムールくん、彼に憧れる少女マムラちゃんの登場というふうに錯綜して展開する、それぞれが哀しい恋の物語でしたが、中央アジアの川遊び、カーニヴァル、音楽、ダンスが盛り込まれていて見ていて楽しい作品でした。 で、ボクが「えっ!」と声をあげそうになったのは題名になっている「やさしさ」の物語が、レーナさんに求婚を断られて、失意のティムールくんがマムラちゃんに苦しみを語るシーンの中で、「地獄」(岩波文庫)の作家アンリ・バルビュスの名前が出てきたことですね。「それって、本当の話?」「いや、バルビュスという作家の小説。」 ボクには覚えがない話でしたが、ティムールが語るには、愛していた男性の求婚を断った女性が、その翌日、自ら命を絶ちながら、数十年に渡って、知人に托した手紙を相手の男性に送り続け、自らの死を気づかせなかったという、バルビュスが書いたらしい「やさしさ」という物語の逸話でした。 映画はバルビュスの物語をなぞるように、思春期の、実に無邪気な少年や少女たちが、明るく盛り上がるカーニヴァルの喧騒の中で「愛」の哀しさに気付いていくという結末を迎えます。それは、それで、深いのですが、フランスの作家バルビュスを下敷きにした作品が、中央アジアの国で作られているということに唸りました。 大勢の少年たちが、川遊びで使う、タイヤ・チューブに空気を入れた大きな浮き輪を、それぞれが町の道路を転がして川まで走っていき、川に着くと、今度は上に乗っかって川を下って行くという、「なんだろうこれは?」と見入ってしまう、実に印象的なシーンで始まった作品ですが、ゆったりと流れる川の流れにのんびり浮かんだり、高い橋の上から跳びこんだり、浮き輪から落ちてもがいたりというのは、少年たちの人生、いや、人が生きている姿だったようです。 シルクロードといえば思い浮かぶタシケントという町を舞台にしていて、海のない中央アジアの水辺の風景がまぶしくて、とてもいい作品だと驚きました。拍手 こうなると、この中央アジア今昔映画祭、残りの作品も見ないわけにはいきませんね(笑)。監督 エリヨル・イシムハメドフ脚本 オデリシャ・アギシェフ撮影 ディリシャト・ファトフリン編集 R・ハムラエワ マリヤ・チモフェエワキャストマリヤ・ステルニコワロディオン・ナハペトフログシャン・アグザモフマイヤ・マフドワサイダ・ボロディナ1966年・70分・ソ連・ロシア語・原題Nezhnost」2026・03・16・no050・元町映画館no351追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.03.19
コメント(5)

小林まこと「JJM女子柔道部物語 社会人編04」(EVENINGKC講談社) トラキチ君の2026年の3月のマンガ便に入っていました。なつかしい!(笑) 社会人になった神楽エモちゃん編、第4巻です。2026年2月の新刊ですが、2巻、3巻を読んでいない気がします。音羽海上という実業団のチームに入ったのは覚えていますが、本書の最初に右腕を痛めているらしいエモちゃんが、休暇を取ってのことのようですが、お母さんのところに帰ってきているのを見てびっくりです。 もともと、このマンガは恵本裕子という、アトランタで金メダルをとった女子柔道の名選手がモデルですから、まあ、そういうこともあったんだナァ・・・でしたが、東京に帰ったエモちゃんを待っていたのがお父さんの訃報で、そこから、彼女が、実は3人姉弟、姉、弟、妹の長女で、彼女だけがお母さんと暮らしていたという、いかにも実話そのもののお話が始まり、十数年ぶりに、三人が再会するという展開には、ちょっと、胸うたれました。エモちゃん、ただのヘンテコな女の子ではないようです。 後半は、復活した神楽エモ選手が、いったいどんな選手に成長していくのか、目の前の大会でどんな結果を残すのか、あおりにあおって、さわりで終わるという、小林まこと得意の次号買ってねパターンでしたが、なかなか面白かったですよ。 これが裏表紙です。やっぱりヘンテコな女の子ですね。 次号が楽しみです(笑)。2026-no033-1248追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.03.18
コメント(1)

谷口悟朗「パリに咲くエトワール」キノシネマ神戸国際 今日はアニメです。日曜日ですが出かけました。1912年のパリ! チラシのこのウタイ文句の1912年が気になったんですね。「1912年?パリって?この絵って、ジブリ?」 まあ、そのあたりの興味に引っ張られてやって来たキノ・シネマでしたがすいてました。 1912年って、ご存じですか?あの、乃木希典夫婦が亡くなった年です。もう、おわかりですね(笑)。 明治が終わって、大正が始まった年ですね。関係ありませんが石川啄木が26歳で夭折した年でもあります。 で、今日、見たのは、その1912年に「憧れを追いかけて」パリに渡った女の子を描いたアニメ映画、谷口悟朗監督の「パリに咲くエトワール」でした。ちなみにエトワールというのは「星」ですね。 絵柄はジブリでしたが、ジブリ作品ではありませんでしたが、ボクはこの絵柄というか、キャラクターのイメージが好きなので抵抗感はありません。 さて、この作品でパリに渡ったのは絵描きになりたい継田フジコさんと、薙刀という武道家の跡取り娘で免許皆伝の腕前でありながら、なんと、バレリーナを夢見ている園井千鶴さんのお二人です。 具体的なモデルである人物が、実際にいらっしゃるのかどうか、そのあたりはわかりませんが、たとえば、夏目漱石がロンドンで苦悩したのが1900年ですが、それから10年です。「そりゃあ、そういう女性もいただろうな。」 それが、この作品を見ながらイイナ!とボクに実感させたリアリティですね。 お金も伝手もない東洋人の少女が、住んでいる貧乏アパートの同宿の住人としてロシア人の母子と出会うという設定も面白いですね。 ヨーロッパの芸術の粋であるバレーと音楽についての教えを受けたロシア人バレリーナ、オルガとその息子でピアニストのルスランの存在です。 映画「戦艦ポチョムキン」で有名ですが、帝政ロシアの末期、革命の嵐が吹き荒れ始めた祖国からパリへ逃れてきたに違いない、まあ、今でいえば難民親子です。その親子と日露戦争で勝って、一気に沸き立った欧化の、飛び散るアワブクのようにパリへやって来た極東の島国の少女が、エッフェル塔がそびえるパリで、「バレー・音楽・芸術」を介して出会う!という筋書きにワクワク!でした。 加えて、このアニメは1912年という時代背景に近代ヨーロッパが体験する初めての世界戦争、第一次世界大戦の始まりの予感を描いていて、少女たちの夢の舞台が、飛行船ツェッペリン号によるロンドン空爆が、次は…と、戦争の拡大に脅える人々の町パリだというのも、近代日本の欧化思想の捉え方として、なかなか目の付け所がいいなあと、老人を喜ばせた、このアニメのキモですね。 なんだか、理屈っぽいというか、メンドクサイ話ばかり書きましたが、作品がめんどくさいわけではありません。筋が通っていて面白かったことを言いたいんですね(笑)。 たとえば、盆踊りではない、ヨーロッパのダンス、バレリーナに憧れた千鶴ちゃんが、なんと薙刀の名手で、武道とダンスの体感のズレとか、体が覚えているリズム感の東西の違いに悩む姿や、絵を志すフジコちゃんがアール・ヌーボー真っ盛り、天才画家たちの巣窟であったパリで「ヤリタイことがあるって素敵だと思うの」と、東洋人として自分なりの画風を見つけていくプロセスは、マンガの展開のための作り事ではない面白さに充ちていて、拍手!でした。 アニメの感想なのに理屈ばっかりこねてますけど、要するに、期待以上に面白かったんですよね。まあ、人それぞれですが、ボクは拍手!でした。監督・原作 谷口悟朗原作 BNF ARVO脚本 吉田玲子キャラクター原案 近藤勝也キャラクターデザイン・作画監督 山下祐撮影監督 江間常高編集 廣瀬清志音楽 服部隆之主題歌 緑黄色社会アニメーション制作 アルボアニメーション声優キャスト當真あみ(継田フジコ)嵐莉菜(園井千鶴)早乙女太一(ルスラン)門脇麦(オルガ)尾上松也(若林忠)角田晃広(エンゾ)津田健次郎(矢島正一)榊原良子(千鶴の母)大塚明夫(千鶴の父)甲斐田裕子(フジコの母)父藤真秀(フジコの父)2026年・119分・G・日本 松竹2026・03・15・no049・キノシネマ神戸国際no60追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.03.18
コメント(1)

片桐健滋「ゴールデン・カムイ網走監獄襲撃編」109シネマズ・ハット 野田サトルの傑作マンガ「ゴールデン・カムイ」は全31巻で数年前に完結しました。全部読んだはずですが、主人公が日露戦争帰りの不死身のスギモトくんとアイヌの少女アシリパちゃん。で、自在に関節が外せる元囚人、脱獄王の異名を持つ白石君と新選組の土方歳三がわき役だったこと以外、ほとんど忘れていますが、面白かったことは覚えています。テレビ・アニメにもなっているようですが、それは、まったく見ていません。しかし、映画は見ます。第一部が2024年に作られたのですが、もちろん見ました。なかなかリアルで面白かった記憶があります。 で、今回は第2部です。監督が久保茂昭という人から片桐健滋という人にかわっていて、「ゴールデン・カムイ網走監獄襲撃編」という題名です。映画館で配っていたカードを上に貼りました。原作漫画のキャラクター勢ぞろいです。映画は実写でポスターはこんな感じ。チラシは手に入りませんでした。 前作はマンガの出だし数巻のエピソードでしたが、今作は原作の6巻くらいから14巻くらいに展開されていた、お話の実写映画化です。 網走監獄に囚われている囚人の身でありながら、自らが手に入れたアイヌの金塊の隠し場所の地図を、同じ囚われの身の囚人たちの背中に刺青した「ノッペラボー」と呼ばれている男の正体を突き止めるために、主役のスギモト・アシリパコンビと、白石、土方、牛山、キロランケ、ええッと、名前は忘れましたがロシア系の狙撃手とかが、まあ、金に目がくらんでという流れで、百鬼夜行ならぬ、百鬼野合的に徒党を組んで網走監獄を襲撃するという、バイオレンス・アクションとしては、絶好ともいえる、このマンガの山場の映画化でした。 もちろん、封切り日に見ました(笑)。まあ、前作もそうでしたが、マンガの実写化ということのせいかどうか、ちょっと怪し感じもしますが、若い役者さんたちの、いってしまえば学芸会芝居に、最初はちょっと引きますが、見終えた感想は悪くないですね。 ただ、第2作目ということで、このカードの裏面に描かれている登場人物たちのキャラクター紹介というか、この人だれ?に応えるプロットの描き方が雑な印象で、アシリパちゃんと、その父親の出自とか、このマンガではかなり大切なところだとおもうのですが・・・、まあ、ボクは原作を読んでいて、あやふやながら覚えていましたから、そんなに困ったわけではありませんが、初めて見る人には、ちょっと、訳わかんないでしょうね。まあ、そうはいいながら夜空を飛んでいけ♪ 壊れて消えるまで♪朝まで一人なら♪ それでもかまわない♪という主題歌のサビを鼻歌で歌いながら見終えるという、まあ、かなりご機嫌な映画でした。拍手!(笑)監督 片桐健滋原作 野田サトル脚本 黒岩勉撮影 一坪悠介録音 久連石由文編集 和田剛音楽 やまだ豊 出羽良彰主題歌 10-FEETキャスト山﨑賢人(杉元佐一 不死身)山田杏奈(アシリパ アイヌの少女)矢本悠馬(白石由竹 脱獄王)舘ひろし(土方歳三 新選組)眞栄田郷敦(尾形百之助)玉木宏(鶴見中尉)工藤阿須加 栁俊太郎 塩野瑛久 稲葉友大谷亮平 高橋メアリージュン 桜井ユキ 勝矢中川大志 北村一輝 國村隼 池内博之 木場勝己和田聰宏 杉本哲太 井浦新2026年・122分・PG12・日本 東宝2026・03・13・no048・109シネマズ・ハットno77追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.03.17
コメント(1)

吉本隆明「夏目漱石『こころ』」(「日本近代文学の名作」より) 2012年に87歳で亡くなった詩人で文芸批評家、いや、まあ、思想家という方がいいのかもしれませんが、ボクにとっては10代から、まあ、勝手にかぶれ続けてきて、現実の波に翻弄される日々の中で灯台の光のような人であった吉本隆明の文章を読み返しています。 今日は「日本近代文学の名作」(新潮文庫)に収められた、たぶん新聞紙上に掲載された「夏目漱石『こころ』」という短いエッセイを読みました。夏目漱石「こころ」 明治以降の近代文学の中で、夏目漱石と森鴎外は飛び抜けた、超一流の文学者という感じがする。資質も作品の傾向も違うが、世紀に一度とか二度しか出てこない作家だ。 漱石でまず驚くのは、初めの「吾輩は猫である」から最後の「明暗」の途中で亡くなるまで、一度も停滞していないことだ。たるみの時期がない。技術的にも冴えてゆくし、内容もだんだんと重みと深さを増してゆく。その時期ごとの切実な課題を突き詰めていって、精神的に言えば、きっとだんだん苦しくなるばかりだったろうが、最後まで一歩一歩登っていくばかりで倒れたと感じさせる。そのたゆみない歩みの持続性は日本の近代文学の歴史で他に類例がない。 例えば「三四郎」を読むと、そのころ地方の高等学校を出て大学に入るために東京へ上京して来た青年がどんなことを考え、どんな感じ方で学生生活を送ったか、教師や若い男女との交友を初めて体験し次第に成長してゆく当時の青年の意識がとてもよく描かれている。とくに、文明開化の波を浴びたモダンでしっかりした若い知的な女性が登場して、同じ世代の男性よりはるかに大人びていて、主人公の青年を手玉に取りそうな様子もよく見すえられている。要するに、新時代の若い都会の女性や、知識の時代性に初めてもまれる地方出の若い男性がそれとかかわり合う青春の風景が、見事に描き出されている。 作家としては、英文学の特徴でもある人間臭い倫理性を当初から持っていた。そういうかなり重たい人道主義的な倫理性が、漱石の作品の中心課題になっている。日本の文学で、他に作品全体が人道主義的なにおいを持っているのは有島武郎ぐらいだと思う。たいていの作家は同じような主題を扱っても、日本的な情念にまみれた倫理になってしまい、漱石のように本格的な人間関係の葛藤を作品のモチーフして書き続けることはできなかった。 フランス文学の影響を受けた人たちからは、そういう人道主義的な倫理を中心とした漱石の作品は得てして「高等講談だ」と悪口を言われた。時として通俗的な正義感や倫理を表芸した作品と誤解されたからだろう。確かに、作品として複雑な物語やモチーフが盛られているかという点からは複雑なニュアンスを微妙に描いた作品は漱石には少ない。それを弱点として見られないこともない。つまり、物語の出来栄えとしては単調とみなせるからだ。「こころ」もまた、いわば登場人物の手記を並べているだけの形式だから、物語として単純だと言える。しかし、単純な筋で単純な手記の寄せ集めをやると全体が軽くなってしまうものだが、「こころ」はだれでもが相当大きなショックを受けるほどの作品としての重さがある。すると、その重さと単純さを併せ持っているという意味合いで、「こころ」が一番取っ付きやすく、しかも取っ付いてみるとすごい重さを持った作品だということで感銘を受けることになるのだと思う。それが「こころ」がたくさん読まれる一番大きな理由なのではないか。「こころ」で一番大きいと思えるのは、主人公の「先生」が自分の親友と同時に下宿先の娘を好きになってしまって、友人のほうに先に「好きなんだ」と告白され、それに刺激されて、その友人には内密のまま自分のほうが娘と結婚できる状況を作ってしあうところだ。 男女問題としていえば、現在なら「お前がぼんやりしているからいけないんだ」と言えば済んでしまうぐらい何でもないことだ。それが、親友から打ち明けられたんだから自分が橋渡しをしてやるのが友達として当然なのに、逆に出し抜いてしあったということが一生の負い目になって、その娘と結婚しても終始憂鬱な状態でいて、遂には自殺してしまう。 一般的には一生気になるほどのことではないはずだが、物語としては不自然と思えるところまで倫理性を徹底的に突き詰めていって、結局主人公を死に至らしめるところまで持っていってしまう。それは漱石の作家的特徴で、漱石にもともとあった倫理観というより他ない。「こころ」がそうであるように、漱小説は三角関係(不倫)が主な主題だ。どうしてそれに固執したのか、漱石の生涯に自伝的な痕跡があるのかと考えてみるが、どうしてもそれらしい事実はない。フィクションだという以外ない。西欧の近代小説にも三角関係はあるし、一人の女性を二人で好きになってという筋なら「万葉集」の真間の手古奈の伝説以来日本にもたくさんある。例えばレーニンが好きだったと言われるトルストイの「アンナ・カレーニナ」などそうだ。しかし、それらは漱石ほど主たる主題としてあることはない。 漱石が資質的に持っている過剰でかつ本格的な倫理性がこういう主題、物語を作らせたと言えるだろうと思う。それは、ある意味では伝統的と言っていい古い道義心の延長線にある倫理観だが、そこから日本的な情緒性を排除したものだったとも言えよう。 また違う解釈もできる。本当は親友を出し抜いてしまったという問題ではなくて、一緒に下宿していた親友と自分が同性愛的な親密さを持っていた。それが、たまたま女性の介在を経験して破れる形になってしまったことのほうが主人公にとっては大きなショックだった、という裏の解釈だ。 つまり、こういう親友の関係というのは、人間関係の原型だと思えてくる。原型的な関係というのは、二人だったらAとBが同性であろうが異性であろうと男女関係、性の関係であり、三人だったら性の関係ではないことになりそうに思う。 ものすごい親友がいて、そこに第三者が現れて片方と仲良くなってしまったら、そう一方が感じることは第三者が男でも女でも同じだ。「こころ」の描写で言えば、それが女性でなければ成り立たないということはない。かえって親友との関係のほうが女性との間よりはるかに親密であるし、相互によく分かっていると感じられる。それは男同士の問題であると解釈できると思える。 だから、下宿の娘はごく普通の平凡な女性というだけで性格などについては書かれていない。そういう意味では、恋愛小説とはいえないのかもしれない。しかし、三角関係はこういうところから始まるという意味合いでは、初めの原型をちゃんと書いている。 漱石の晩年の弟子である芥川龍之介には「開化の良人」「開化の殺人」という作品がある。どちらも漱石の主題のまねをして三角関係を扱っている。 例えば「開化の殺人」の主人公には子供の時から仲のよかった従妹がいたが、留学から帰ってみると従妹は結婚していた。ところが、その夫は放蕩者で、結婚したのに女遊びをしたりして従妹をちっとも構わない。それを見て、主人公は憤慨し従妹の夫を殺してしまう・・・・。 だけど、芥川が書くと、いかにも作り物にしかならない。漱石のように本格的な倫理性ゆえに、読んだら引き込まれていってしまうような深刻さは出てこない。ただ、芥川が優秀だと思うのは、「開化」、つまり明治以降の日本の近代化という問題が結局、漱石の三角関係を主題とする小説を作った、漱石は近代の人間を描こうとしたからそういう主題になったと見抜いたことだ。 三角関係を主題とする漱石文学の最も初期の形態を原型までさかのぼって書いたのが「こころ」だと見なせる。登場人物の構成からいえば、二人の学生がいて女性がいてという、不倫の過程はこういうところから始まるというような、一番最初の典型を示している。 社会の在り方や時代の考え方が変われば男女の関係の形態も変わるから、こんな倫理性に固執するのは明治人だけだ、今の若い人は好きな人が同時に何人いようが平気だというのはその通りだが、精神的にみた男女関係にはもう一つあって、好きな異性ができて胸を躍らせるというのは「万葉」やギリシャの時代からちっとも変わらないということも言える。人間関係の中で、こんなに形が変わってしまうのかというのと、ちっとも変わらないということの両方を持っている典型が、男女関係という気がする。 その点、「こころ」は構成が簡単で、「変わっていない」ところの倫理性が強烈だから、少し読み始めたら引き込まれてしまう。だから、一番読まれやすいのではないか。 また、「こころ」の主人公の自殺は乃木希典夫妻の殉死がきっかけとなっていた。明治天皇の後追い自殺をした乃木夫妻の事件は漱石にも鴎外にもショックだった。この古い倫理性とは何なのか、近代的な人間性に反するのではないかということだ。鴎外も歴史小説で殉死する侍を描いているし、似た問題意識があった。 漱石の「こころ」に描かれた主人公の倫理性は「開化の倫理性」であるが、乃木将軍夫妻の殉死は封建時代の倫理性であるといえる。けれど突き詰められ方としてはよく似ていて、同じように徹底的な姿をもっている。漱石の倫理観には、江戸時代からそう変わっていない儒教的な部分と、西欧に留学して得た近代的なものの両方があった。漱石は乃木夫妻の明治近代になってからの殉死に、自分のなかのこの二つの倫理性をゆさぶられ、「こころ」の主人公自殺に托したのではなかろうか。 漱石と鴎外は乃木の殉死に親和感をもち、芥川龍之介は「将軍」という作品で否定的に扱ったのは興味深い。小林秀雄は再び乃木殉死に肯定的で芥川の「将軍」を批判した。巨匠たちのショックの受け方の交替する姿は乃木殉死の意味の重要さを語っている。 ひょっとすると、吉本隆明、最後の漱石論です。何もいうことはありません。写し始めたらとまらなくなりました。 2025-no113-1186 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.03.16
コメント(1)

石塚真一「Blue Giant Momentum 7」(小学館) トラキチ君の2026年3月のマンガ便で届きました。石塚真一の「Blue Giant Momentum 7」(小学館)、3月4日の新刊です。 第6巻で、セントルイスでしたっけ、テナー・サックスのコンペティションに行ってたんですよね。で、コンペが終わって、バスで18時間、やっと帰り着いたニューヨークです。 ここから、新しい活躍が始まるんですよね。 で、大ちゃんが最初にやって来たのがバイト先です。音楽に専念するという大ちゃんに店長さんから「オレの店より長く持てばいいな。」というやさしくも、厳しい言葉に、ちょっとグッときます。 で、同僚の方たちとの、お別れのお茶です。 遠くまで武者修行に行って、結果を出した土産話というか、決意表明というかの様子です。「コンペには凄いプレーヤーが集まってて!全米どころか、世界中から!」「だからこそ、オレはこれから楽器だけで戦うよ。」「優勝した者の責任デューティてヤツか?」「いや、勢いモメンタムです。」 ナルホド!ですね。これで7巻目になる大ちゃんのアメリカ、ニューヨーク・シリーズが「ブルージャイアント・モメンタム」と題されている意味がようやく分かりました。 というわけで、いよいよ、本格的なレコーディングとかライブとか、ピアノのアントニオ、ドラムスのゾッド、ベースのジョー、サックスの大ちゃん、そして、この巻からエージェントのマイクが加わっての5人組の苦闘の始まりです。 大ちゃんカルテットの勢い=モメンタム、どこまで続くのか楽しみですが、この巻の後半で、いきなり始まりましたよ。コンペに勝った大ちゃんに、どこか遠慮している三人のメンバーの演奏と戦う大ちゃんの姿、なかなか壮絶で、とどのつまりはマンガの紙面から音が聞こえてきそうな、4人のライブ・シーンです。 いよいよ、楽しみな展開が始まりました。次号も期待できそうですね。2026-no032-1247 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.03.16
コメント(1)

カルロス・マルケス=マルセット「両親(ふたり)が決めたこと」元町映画館 全身麻酔とかの影響なのか、二日間ベッドに転がっていたからなのか、歩いていて、なんとなく眩暈がする徘徊・・・なのですが、家で寝ているのは余計に気が沈むので二日連続の元町映画館でした。 昨日、「シヴァ・べイビー」を見たときに映画館のお友達が「シヴァのほうは若い娘の話ですが、こっちはシマクマさん気に入ると思いますよ。」 まあ、そういわれてやってきたのがカルロス・マルケス=マルセットというスペインの監督のデュオ安楽死とかを描いた「両親(ふたり)が決めたこと」です。 80代のご夫婦のようで、奥さんのクラウディアさんが、いわゆる、末期がんの患者さん、容体は急変を続けていて、見ているこっちも落ち着かないご様子なのですが、実は、このお二人、お相手があの世にというときには、ご一緒にというお約束をなさっているカップルだというのが映画の骨子でした。「死ねば、死にっきり。」 まあ、そう思ってきたはずのボクですが、ゆかいな仲間たちがみんな出ていってしまって、同居人のチッチキ夫人との二人暮らしというこの年齢になって、こういう作品を見ると、ちょっと心が動きますね。ただ、「死」に対する葛藤の描き方という点において、ご当人が女優さんで、という役柄もあって「死の舞踏」的ダンスシーンが意表をついたり、お二人の決意のズレが微妙だったり、面白いといえば面白いのですが、お二人に関してもですが、お子さんたちの描き方も、こうなってしまうのは、まあ、仕方がないのかなとか思うのですが、案外、ありがちというか、頭で考えた展開というか、何だかチグハグな気がして、まあ、最後まで意地悪バーさんだったクラウディオ役のアンヘラ・モリーナの何とも言えない、老いの表情には拍手!でしたがノリ切れませんでしたましたね。 最近ですよね、ゴダールだったかのニュースが、どこからともなく伝わってきて、とどのつまりに自ら「死」を選ぶということに関心が広がっているのを感じました。また、この映画ではヨーロッパのキリスト教社会での、究極の「愛のかたち」、あるいは「生の原理」が背景にあることを感じさせて、そこで演じられている死の迎え方には興味は持ちましたが、どんな形であれ、「生の切断」には疑問を感じましたね。 やっぱり、死ねば死にっきり。ですね。ボクは、まあ、成り行きに任せます(笑)。 いろいろ考えさせられる作品ではありましたが、前日、受付のIさんのおっしゃったこれは面白い!とは、ザンネン!ながら思えませんでした(笑)。監督・脚本 カルロス・マルケス=マルセット脚本 クララ・ロケ コーラル・クルス撮影 ガブリエル・サンドル美術 ライア・アテカ衣装 パウ・アウリ編集 キアラ・ダイネーゼ音楽 マリア・アルナルキャストアンヘラ・モリーナ(クラウディア 母・女優)アルフレド・カストロ(フラビオ 父 演出家)モニカ・アルミラル・バテット(ヴィオレタ 次女)パトリシア・バルガロ(レア 長女)アルバン・プラド(マヌエル 長男)マヌエラ・ビーダーマン2024年・106分・G・スペイン・イタリア・スイス合作原題「Polvo serán」2026・03・12・no047・元町映画館no350追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.03.15
コメント(1)

「アーモンド、咲いてます!」 徘徊日記 2026年3月12日(木)北長狭あたり 病院に、三日、まあ、最終日は朝の10時に帰宅しましたから、実質二日いただけで、歩いていても、何だかフラフラするのですが、老人気分にひたるのも嫌なので。映画館通いの生活を再開しました(笑)。 で、今日も元町映画館を出て北長狭通に来てみると咲き始めていました。アーモンドです! このあたりは中央分離帯の左右それぞれ2車線、どちらも西向きの一方通行ですが、中央分離帯に植えられているアーモンドの木です。 左に見えるのがJR神戸線の高架で、モトコ―の5丁目から4丁目あたりです。 今日はお天気が良くて青空が広がっていて、でも、風が冷たくてマフラーとか巻きなおしながら、ヨタヨタ歩きの徘徊老人は中央分離帯を東に向かって歩き始めました。 春ですね。元気を出さないと!ですね(笑)。 本当は元町ケーキをお土産に、神戸駅から帰るつもりでしたが、ケーキ屋さんはザンネンながら定休日、仕方がないのでこっちからと思って来てみて正解!でした。 咲き始めたアーモンドの花に元気をもらって、元町駅にUターン、お土産は垂水でたい焼きでも買おうかなとご機嫌でした。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうで(笑)
2026.03.14
コメント(1)

高橋源一郎「『不適切』ってなんだっけ」(毎日新聞出版) ここのところ高橋源一郎ブームに突入しています。昨秋から年の始めがが1947年生まれの佐々木幹郎でしたが、2月に入って1951年生まれの「ゲンちゃん」です(笑)。 佐々木幹郎の案内の時にも書いたことですが、ボク自身は、いわゆる「シラケ世代」ですが、彼らは「団塊の世代」ですね。実年齢でいえば2026年の今、70代の後半の人たちです。 20代から30代だったボクの目には、中上健次とか村上春樹が先頭で走っていて、その背中を追いかけるように登場した人たち。ボクはそれを競技場の外から見ていた印象で、あとを追いかけるなんて考えもしなかったのですが、なんとなく眉に唾をつけて、でも、目が離せない人たちでした。だって、こっちはシラケ世代ですからね。団塊の人たちって、なんとなく信用ができなかったんです。それが、なぜか、70歳を越えた今、気になってしようがないんですね。何故なんでしょうね? で、今日の案内は「不適切ってなんだっけ」(毎日新聞出版)です。2021年から2024年に「サンデー毎日」誌上に連載された「これは、アレだな」というコラムが単行本化されていて、そのシリーズの3冊目です。2024年に出た本ですね。 内容は、まあ、時事絡み、流行り絡みのエッセイですが、ボクは「読書案内」として読んでいます。たとえば「老人はみんな死ぬ」と題された話では「PLAN75」という早川千絵監督で倍賞千恵子さんが主演なさった映画の話題なのですが、その映画と倍賞千恵子の演技についての批評が、なかなかいいんですね。 この映画で、ミチを演じる倍賞千恵子の演技が素晴らしい。というか、その「老い方」があまりにあまりにリアルなのだ。顔や口もとの皴、たるんだ皮膚、鈍い動き、そのすべてが「老人とはこういうものだ」という現実を突き付けてくる。とりわけ、朝起きて、布団で寝たまま、自分が生きているのを確かめるように、ミチが我が手を伸ばして見つめるシーンがある。観客も、ミチと同じ気持ちになって、その手を見つめる。その手はひどく老いているのだ。 ね、こういうふうに感想が書けるといいなと思うのですが。で、まあ、その後、主人公が「プラン75」の施設に向かうのシーンについてはこうです。 画面を見つめながら、わたしはどこかで見たことがあるような風景だと思った。そして、最後に気づいた。それはナチスの強制収容所(の映像)で見かけた風景なのである。(P40~P41) 実は、この映画、封切当時ボクも見たのですが、演じている倍賞千恵子さんが可哀そうというか、全体に漂う客観性の冷たさに、ひどく疲れた印象しか残っていなかったのですが、さすがゲンちゃん、スルドイなあ・・・ですね。 で、ゲンちゃんの話は「棄老」へと展開して、深沢七郎「楢山節考」(新潮文庫)なんですね。文庫はもちろんですが坂本スミ子さんがおりん婆さんを演じた今村昌平の映画も見た記憶があります。今さら読み返したりするのかという気もしますが、20代で読んだ傑作小説ですが、今、読みなおしたら・・・・? まあ、そういう年齢にボク自身が差し掛かっているわけです。本書で紹介される、もちろん読んだことのない本とかマンガとかもそうですが、こういう、知っているつもりの作品について、読みなおしというか、再読を誘う誘惑が漂っているのですね。そこが、まあ、高橋源一郎のこの手の本のやばいところなんですよね(笑)。 お読みになったことのない若い方たちにとって、老人の繰り言になりますが、読むべき、今や、古典であることは言うまでもないことなのですが、70歳を越えた、今、読んだら?という作品名が出てくるところがゲンちゃんの、まあ、ボクにとってに過ぎないかもなのですが、凄いところなんですね。 本書の中には、他にも、いろいろあって、ここの所、あれこれ読むのに大忙しなのですが、そのうちボクなりの読書案内で紹介したいと思っている次第です。その時はヨロシク!2026-no030-1245追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.03.13
コメント(1)

エマ・セリグマン「シヴァ・ベイビー」元町映画館 今週の日曜日から三日間、病院にいました。釘抜き手術です。で、退院して家にいてもふさぎ込みそうなので元町映画館です。エマ・セリグマンという監督の「シヴァ・ベイビー」というアメリカ映画みたいです。なんの予備知識もありませんが、短そうな作品で、とりあえず映画館に行けば元気になれるかなという目論見です。 嬉しいことに、受付には馴染みのWくんとIさんがいておしゃべりしてくれました。「シヴァ・ベイビーって面白い?」「えーっ、そこは人それぞれで、何ともいえませんが、チケットはもう返しませんよ(笑)。」「だって、題名の意味だって分からないまま当てずっぽう、出たとこ勝負なのですから、その返事はないよね。」「それより、シマクマさん、顔色がさえないですね。」「うん、入院しててん。やっぱりヘン?」「はい、いつもより元気ないですね。」 まあ、そういう会話がうれしいのがこの映画館なのですが見終えてガッツ!でした(笑)。「映画の構成というか筋立てはヘタクソというか、なにやってるのかワカンナイけど、この人若いの?」「はい、学校の卒業制作みたいですよ。」「でも、現代社会批判というか、視点は鋭いよね。ボク、また、映画見る元気出ちゃった(笑)。 題名の「シヴァ・ベイビー」というのは、「シュガー・ベイビー」とかのモジリのようですね。そんな言葉知りませんでしたが、日本語では「パパ活」とかいうそうで、ようするに、女子学生とかの合意売春(?)のことをアメリカではそういうらしいですね。 映画は「シュガー・ベイビー」で稼いでいるらしい女子学生が主人公です。「シヴァ」というのはユダヤ教の葬儀のことらしいですが、誰だか知らない、遠い親族の葬儀に参列して、その場で彼女のウソだらけの実態が暴露していくお話で、ある種、ドタバタコメディ設定の心理映画の展開なのですが、その場を作っている、まあ、通俗そのもののユダヤ人社会の描き方といい、秘密にしているパパ活と口から出まかせのウソで、優秀な女子大生を装っている主人公、ダニエルという女子学生の、まあ、この年の老人からみれば「哀れ」としかいいようのない有様といい、ただのコメディ映画ではなかったですね。 ダニエルを演じたレイチェル・セノットという女優さん、だんだんウソが暴かれていく、しかし、見ているこっちには、なにがどうなっているのか、わけのわからない展開の中、パニックっていく、実は純真な女子大生役、なかなかいい演技でしたよ。拍手! 性的であれ、社会的であれ、モラルも規範もない平等と自由、名目的・経済的な結果がすべての自己責任が横行する現代を「ただの女子大生」の姿で描こうとしているこの監督は期待できますね! コメディという触れ込みですが、この作品を笑える人は、よっぽど能天気なバカか、いい度胸で開き直っている人である気がしますね。ボクたちは、この作品が描いているクソな現実に生きているわけで、笑っている場合じゃないでしょう(笑)。 とりあえず、この、エマ・セリグマンとおっしゃる若い監督の才気に拍手!でした。ノンビリした後味はありませんが、ちょと、元気が出ましたよ。監督・製作・脚本 エマ・セリグマン製作 キーラン・アルトマン ケイティ・シラー リジー・シャピロ撮影 マリア・ルーシェ美術 シャイアン・フォード衣装 ミシェル・J・リー編集 ハンナ・パーク音楽 アリエル・マークスキャストレイチェル・セノット(ダニエル)モリー・ゴードン(マヤ)ポリー・ドレイパー(デビ―)ダニー・デフェラーリ(マックス)フレッド・メラメッド(ジョエル)ダイアナ・アグロン(キム)2020年・78分・G・アメリカ・カナダ合作原題「Shiva Baby」2026・03・011・no046・元町映画館no349追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.03.12
コメント(1)

木内昇「奇のくに風土記」(実業之日本社) 木内昇という作家の作品を初めて読みました。紹介していただいた方から「女性の直木賞作家よ。で、これは泉鏡花賞ね。」「ああ、泉鏡花か」、と、まあ、そう思って市民図書館で借りて読み出して、すらすらと最後まで読み終えて、いい気持になりました。 鶏の鳴かぬうちに、十兵衛は忍び足で母屋を出た。 薄藍色の空にはまだ星がまたたいており、紀ノ川の流れる音が清かに伝わってくる。西からの風は、常と変わらぬ潮の香りを運んできていた。 慣れ親しんだ音やにおいに安堵して、草鞋で固めた足を東へ向ける。 ―岩瀬のお山には行ったらあかんのやして。あっこたしおとろしさけ。 十兵衛が物心つくかつかぬかのうちから、事あるごとに母にはそう言い聞かされてきた。けれどこの繰り言が皮肉にも、十兵衛の内に巣くう好奇の虫を騒がせることになったらしい。年が明ければ元服というこの秋、ついに辛抱たまらず、ひとり山を目指すことにしたのだった。 紀伊国は、見渡す限りどこもかしこも美しい。(P9~10) 久々の「語り小説」の始まりです。当然ですが、読者であるボクは、耳をかたむけながら「何が起こるのだろうか?」と、待ちかまえます。 少年は、元服というのですから10代半ば、まあ、中学生ぐらいであろうと見当をつけて、語り手の声を聞く気分で読んでいます。 少年が向かっている岩瀬のお山というのが、和歌山城下から三里ほどの低山という言葉が続き、その程度の場所かよ・・・とかたかをくくっていましたが、何せ、第1章の題が「天狗」、紀州弁で「てんぎゃん」というのですから、期待もあります。 十兵衛は立ちすくみ、耳を澄ます。 出ましたね(笑) 隈笹の葉の隙間から小さな緑の目が覗いているのに気付く。これまでに接したどの生き物とも異なる形をしている。十兵衛は一歩後退った。 ―ほんま、獣やろか。 恐ろしさより興味が勝って目を凝らした刹那、藪を突くようにして、ぬっと大きな赤い鼻が現れたから、 「やっ」 うっかり大きな声をあげてしまった。 「やっ」 と、相手も同じく声をあげる。童のような、甲高い声だった。やがて隈笹を分けて、のっそりとそれは姿を現した。 十兵衛は声を飲む。 天狗(てんぎゃん)だ。 と、まあ、こうして、のちに、幕末の紀州の本草学者として、ボクはこの作品で初めて知りましたが、知る人ぞ知る奇才、畔田翠山(くろだ すいざん)として名をのこすことになる、少年十兵衛のビルドゥングス・ロマン、成長の物語が語られていきます。 読んでいて楽しいのは、声として聞こえてくる紀州なまりですね。まず、母の声、そして父、先生とそのお孫さん、朋輩たち、声に限らず少年が出会う自然の音が少年の成長を励ましていく描き方に、語り手である作家の素直な人柄を感じさせて面白く読み終えました。 主人公の十兵衛君が、天狗の眷属であることが物語を描くにあたっての作家のアイデアで面白いのですが、まあ、作家自身がその世界の人なのでは!と思わせる鏡花の作品の幻想性には、ちょっと及ばないですね。 しかし、素直で楽しい作品でしたよ。いかがですか(笑)。2026-no026-1241追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.03.11
コメント(1)

「釘を抜いてもらいました!」 徘徊日記 2026年3月10日(火)掖済会病院あたり 実は、これは2026年3月8日、日曜日の多聞東中学校のグランドです。向こうに少し校舎の上側、たぶん4階の教室と体育館の屋根らしきが見えているのが舞子高校です。 朝の10時から、ベッドに寝転がってこの風景をぼんやり見ています。「今日から2泊3日で入院したで。」「おとなしいしとりよ。」 四国の松山にいる、愉快な仲間の一人との大将くんと交わしたラインです。彼は、あの高校が母校です。 2025年の8月に肩の骨を折って、その時埋め込まれた「釘」をやっぱり抜いてしまいましょうというのがこの日、この部屋のベッドに寝転がって、実は近所の風景を、こうして眺めている理由です。もちろん、持ち込んだ本などを次々に眺めながらオトナシクシテいました。 まあ、それにしても、病院というところは不思議な場所ですね。うとうとして、半分眠っている状態なのですが、聞こえてくる足音やピーとか、プアプアとか、話し声に気を取られて読書どころではありません(笑)。 で、1時間ほどの全身麻酔の結果がこの写真です。翌日の今日、3月10日の朝、主治医のK先生から手渡されました。「はい、これが釘です。来週、また、会いましょう。」「はい。リハビリもそれからですね。」「そうですね。風呂に入るのはいいですが、患部は濡らさないで下さい。腕、動きますか?」「はい。8月より。ずっとましです。」「そりゃあ、8月は釘を入れたり、あちこちいじってますから。今回は抜いただけです。でも、骨には穴が開いている状態ですから、あんまり、力を入れたりしないようねですよ。」 もちろん、抜いてくださったのは大工さんではなくて、整形外科のお医者さんでした。というわけで、本日の朝9時に退院できました。事故以来、いろいろ心配してくださったみなさま、ありがとうです!全快に向けておとなしく、精進いたします(笑)。 さて、明日からは、やっぱり、映画の日々ですね(笑)。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうで
2026.03.10
コメント(1)

高橋源一郎・辻信一「『雑』の思想」(大月書店) 「弱さ」から始まって「あいだ」へたどり着いた高橋源一郎と辻信一の共同研究が、「弱さ」を考える思考の過程で、「あいだ」にたどり着く前に、まず、見つけたのが「雑」だったようです。 「雑然」の「雑」ですが、近代以降、その時代、時代の「現代」を考える思想や理念の多くが、それを取り去ることでスマート化してきた、まあ、世界史的に見れば200年ほどの「合理主義」の歴史があるわけですが、その近代思想が合理化して整理したり、纏められないから捨てたりしてきた世界としての「雑然」の世界あったわけで、まあ、そこを振りかえってみようという目論見です。 「弱さ」から「雑」へと、お二人の研究というか、興味・話題は広がっていったのですが、ボクは「あいだ」から「雑」へと、お二人の思考の流れを遡ってきました。要するに、「あいだの思想」を面白がって、続けて読んだのがこの本でした。 というわけで、今日の案内は「雑の思想」(大月書店)です。 まず、面白かったのが、「雑を深める・広げる」と題されて、第3章に登場されている田中優子さん、法政大学の総長をされた江戸文学、江戸文化のエキスパートですが、彼女が紹介されている、この「寺子屋の図」でしたね。 渡辺崋山の「一掃百態図」の中にある絵ですね。 で、田中さんは「寺子屋の絵です。寺子屋の絵はたくさん残っているのですが、どれを見ても驚くのは、子どもがみんな先生のほうを向いていない(笑)。前を向いてもいなければ、同じ方向をむいていない。いわば学級崩壊状態です。」「最高ですね、これ(笑)。」「まさに「雑」でしょう?ラーニング、習うということは本来「雑」なんです。一人ひとり違う学習者に合わせた「アダプテッド・ラーニング」という概念もあります。」(P63) と、まあ、こういうところから現代の大学教育あたりに話が進んでいくのですが、それは、ともかく、ワクワクするのは、この寺子屋の様子の面白さ!ですね。 高橋さんの「不適切ってなんだっけ」(毎日新聞出版)という本だったと思いますが、「6ヵ国転校生」(集英社)という本が紹介されていて、そこで、世界の小学校の教室の机の配置の話が出てきて、実は、教卓に教員が一人立って、生徒がきちんと方形に配置された机で、全員、同じ方向を向いて坐るという形式は世界的にはロシアと日本だけなんだそうですね。なんで、明治の日本とソビエト・ロシアの小学校が同型の教室教育なのかという問題は、また別の権力形態の相似性とかを浮かびあがらせてしまいますが、それ以前の、この「雑」の在り方の面白さが、江戸という時代にあって、この寺子屋の図です。 子供の時以来、40年に渡る仕事上でも、それが当然だと思い込んできたわけですから、愕然!というか目から鱗!というか、でしたね。 「考える」ということを育てるのが教育の目的の一つだと思いますが、軍隊型の一方向注入システムに何の疑いも持つことなく「自分らしい感じ方を」とか口にしていたわけですからねえ。 そういえば、まあ、映画の中ですけど、ヨーロッパの小学校の教室のシーンとか見て「????」とか感じたりすることがあるのですが、疑うべきは己の思い込みですね。 で、二つ目が、最終章での鶴見俊輔「限界芸術論」(ちくま学芸文庫)、鶴見和子「南方熊楠」(講談社学術文庫)をめぐる会話でした。 鶴見和子さんの南方熊楠、「限界芸術論」の柳田国男、柳宗悦、宮沢賢治。 鶴見和子、鶴見俊輔の姉弟もそうですが、今や、忘れられつつある四人のお名前がスゴイですね。ご存じですか? 近代日本の「はみ出し者」の四人(笑)!それぞれ、熊楠なら「生物学」、柳田は「歴史学」、賢治は「文学」、柳宗悦はうーん、何だろう?やっぱり「歴史学」かな。とにかく、収まりきらない凄さの四人です。この四人を取り上げた鶴見俊輔と鶴見和子についてのお二人の発言も、ボクには刺激的でした。さあ、もう一度読み始めてみようか。 まあ、老いの読書の杖のような対談ですね。一応、目次を貼っておきます。はじめに……辻 信一第1章 「弱さ」から「雑」へ 複雑なものを複雑なままで 相模原事件に「雑」を見る 「雑」へと抜けだす介護 「雑」を捨てさる危険性 生きること自体が雑である第2章 「雑」なる民主主義・「雑」なるエコロジー 空のかなたでなく、足下にある 民主主義は「雑」なんだ ローカルに息づく「雑」 「雑」の研究の道筋 「雑」は調和である第3章 座談で「雑」を広げる・深める(田中優子×山崎亮×高橋源一郎×辻信一) 「雑」なる世界、江戸の豊かさ コミュニティは「雑」そのもの ぼくらはもともと「雑」をもっていた 「雑」の思想と「シェア」の経済 いつも「雑」を忘れないでいる第4章 「雑」に向き合う宗教・「雑」を取り入れる経済 親鸞が向き合った「雑」 還元主義に抵抗する「雑」 雑の権化、南方熊楠 「雑」を受け入れる女性と植物第5章 「雑」の思想は深まり広まる 「雑」としての限界芸術 「雑」、その美しきカオス 「雑」の発想で経済を見直す ぼくたちを人間にしてくれる原理おわりに……高橋源一郎2026-no025-1240 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.03.09
コメント(1)

「ここは、原田の森美術館!」 徘徊日記 2026年3月4日(水)灘あたり これは原田の森ギャラリー東館の、玄関の横あたりにいる鳩です。 こちらは、石の塊をお人形たちがよじ登ってます。向こうには王子公園の機関車が見えます。なぜか、今日は王子公園の前にある原田の森ギャラリィーに来ています。初めてです。 東館の入口です。 芦屋の写真協会の会員さんたちの作品の展覧会が原田の森ギャラリィーの東館で開かれていると聞いて、いや、ホント、柄にもなくやってきました。 こういう会場に来るのは初めてです。入口の受付で聞きました。「あのー・・・知り合いの方の作品が展示されていると聞いてきたんですけど。」「ええー、それは、それは。で、どなたの?」「Tさんとおっしゃるかたなんですけど。」「はい、はい。」「あのー、写真とか撮ってもいいですか。」「はい。まあ、風景としてならですけど(笑)。」というわけで、Tさんの作品を、ちょっと離れたところから写真に収めました。 この写真です。ヨーロッパのどこかの水車小屋だかの写真です。誰だったか忘れましたが、有名な絵にある気がしました。写真って、スゴイですねえ・・・。 こうして写真に撮って見直してみると版画にしか見えないんですかから。 初めての体験で、他の作品にもカンドーしました。いろいろな方法を感じさせる不思議な写真もたくさんありました。ボクにとっては新しい世界でした。誘ってくれたTさん、ありがとう!でした。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうで(笑)
2026.03.08
コメント(1)

キリル・セレブレンニコフ「死の天使ヨーゼフ・メンゲレ」シネリーブル神戸 久々のナチス映画です。見たのは、キリル・セレブレンニコフというロシアの映画監督の、たぶん最新作「死の天使 ヨーゼフ・メンゲレ」です。原題は「Das Verschwinden des Josef Mengele」で、「ヨーゼフ・メンゲレの失踪」ですね。 アウシュヴィッツ収容所で「人体実験」を繰り返して、まあ、ボク程度の知識でも「ああ、あの人か…」と、名前を知っている医学者ですが、ナチス崩壊後、南アメリカに逃亡して生きのびた人物の逃亡生活を描いた作品でした。「暗いだろうな・・・。」まあ、そう、覚悟して見たのですが、情け容赦なしに暗くて圧倒されました。「皆さんもご覧になったら、楽しいよ。泣けるよ。」 最近、そういう映画を観たがっている徘徊老人なのですが、まあ、真反対でした。しかし、映画としても、メンゲレの描き方としても、実によくできた作品だと思いました。 1940年代の、あの時代から202年代の今に至る80年の時間を重層化させた構成で、プロット、プロットでのモノクロ画面とカラー映像の使い方も、主人公、メンゲレの記憶、そして、その底にある思想性を抉り出す演出意図に基づくものであることを感じさせて、「目をそむけたくなる美しいカラー映像」が、監督の情け容赦のない断罪の意志を感じさせてド迫力!でした。 映画は、今や歴史的存在であるヨーゼフ・メンゲレと、逃亡生活をしている父を探し出した再会する息子ロルフ・メンゲレという、「父と息子」の物語を枠組みとして描かれているのですが、メンゲレを演じているアウグスト・ディールという俳優さんも、息子のロルフ・メンゲレを演じているマックス・ブレットシュナイダーさんも、いいお芝居でした。 老いさらばえて、逃げ続けている父親を支えているのがアウシュヴィッツでの栄光の記憶であるということを知る息子、見ているこっちも驚くしかない「父と息子」の出会いと別れの物語には言葉がありませんでした。 最近、あれこれ見る映画の中で、わがままな自己主張を続ける、老いたる「父親」像に、自分を重ねて見ることがよくあるのですが、この作品の父親には、驚くばかりで、自分を重ねたりすることは、ちょっと無理でしたね。むしろ、和解の可能性に断念して去っていく息子の姿に同情しましたね。 というわけで、暗い気持で拍手!です(笑)。 帰り道、監督のキリル・セレブレンニコフという名前を呟きなおしていて、ようやく思い出しました。数年前に見て困惑した「レト」と「インフル病みのペトロフ家」の監督です。実は彼はプーチンのロシアでは弾圧の対象だったはずです。この映画も、たぶん、フランスかドイツで作っているようで、だから、これってドイツ語の映画ですよね。 で、やったと気づきました。 この情け容赦のない、批判的視線の向こうにあるのはロシアなんじゃないかって。そう思うと、いろいろ謎が解ける気がしますが、今、あれこれ言う力はボクにはありません。でも、この監督は見続けますね。拍手!です。 監督・製作・脚本 キリル・セレブレンニコフ製作 シャルル・ジリベール イリヤ・スチュアート 原作 オリビエ・ゲーズ撮影 ウラジスラフ・オペリアンツ美術 ウラジスラフ・オガイ衣装 タチアナ・ドルマトフスカヤ編集 ハンスヨルク・バイスブリッヒ音楽 イリヤ・デムトスキーキャストアウグスト・ディール(ヨーゼフ・メンゲレ)マックス・ブレットシュナイダー(ロルフ・メンゲレ)デビッド・ルランド(ゼードレマイヤー)マルタフリーデリーケ・ベヒトミルコ・クライビッヒ(アロイス・メンゲレ)ダナ・ヘルフルト(イレーネ)カーロイ・ハイデュク(ミクロス・ニースリ)ブルクハルト・クラウスナー(カール・メンゲレ)2025年・135分・R15+・フランス・ドイツ合作原題「Das Verschwinden des Josef Mengele」2026・03・06・no045・シネリーブル神戸no364追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.03.08
コメント(1)

中野量太「兄を持ち運べるサイズに」パルシネマ新公園 久しぶりにパルシネマの2本立てを見ようと思って出かけましたが、映画館でお友達と出会って、1本見て帰ってきた映画がこの作品です。中野量太監督の「兄を持ち運べるサイズに」ですね。 村井理子という方の「兄の終い」という、評判になったらしいエッセイを原作にして作られた作品のようです。 なんだか、なつかしい柴崎こうさんとオダギリジョーくんの妹と兄というコンビで、「家族」の再確認!を描いたヒューマン・コメディーというわけですが、なんだか、それで?という印象が残った作品だったですね。 見終えて、本来ならもう1本というところなのですが、朝から2本見たお友達が、まあ、当然ですが、帰るというおっしゃるので、久しぶりにおしゃべりもしたいしという気持ちも募って、一緒に席を立ちました。 映画に関しては、眼鏡をかけた「作家さん」(まあ、この言い方が作中でも出てきてアホらしくなったのですが)の役を演じていらっしゃった柴咲コウさんが、ある時期の桃井かおりさんに似ていらっしゃるということに対する驚きだけが記憶に残りましたが、物語として描かれている、家族の肖像の薄っぺらさというか、たとえば、この上のチラシの写真は、残された息子のリョウタ君が、突然亡くなってしまったお父さんとの思い出の場所の一つとして、「キリン」と呼んでいる多賀城の港のクレーンを、叔母さんにあたる理子さんと眺めるという、とてもいいシーンなのですが、映画としては何かが足りないというか、説明過剰というか、なんとはなしに物足りない印象が残ってしまうんですね。もしかしたら、理子ちゃんには、あの人の知らないところがあるのかな? お兄さんの奥さんだった加奈子さんがふと口にするセリフなのですが、相手のことを知らないのが理子ちゃんなのか、死んでしまったお兄さんだったのか、それはともかく、たとえ、親子、兄妹、夫婦であっても知らないことしかないんですよね。そういう意味では、いいところをついているんですけど・・・。 多賀城という東北の海沿いの町の震災後の復興の姿を、死者をめぐって家族との確執に苦しむ、親子、兄妹、夫婦のこころに重ねている構成も、わるくはないのですが、なんだか、ご都合主義がにおいましたね。 分かりやすさが「深さ」を失っていくというと、言いすぎでしょうか。いい話なのですが、なんだか、上滑りする現代社会そのままの印象で、疲れる作品でした。 「オダギリジョーって、ああいう役、よく似合うね(笑)」 神戸駅まで歩いた帰り道で、ボクなんかより日本映画とかもよく見ていらっしゃる、お友達がおっしゃった言葉ですが、ナルホドですね。映画はその余裕で見ないと面白くないんですよね。 監督・脚本 中野量太原作 村井理子撮影 岩永洋編集 瀧田隆一音楽 世武裕子キャスト柴咲コウ(村井理子)オダギリジョー(兄)満島ひかり(兄の妻だった人)青山姫乃(兄の長女)味元耀大(兄の長男)2025年・127分・G・日本2026・03・05・no44パルシネマ新公園no50追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.03.07
コメント(1)

ジョエル・コーエン「ファーゴ」元町映画館 一般にコーエン兄弟として知られているらしいお二人の映画を初めて見ました。ジョエル・コーエン監督の「ファーゴ」という作品です。イーサン・コーエンとの共同脚本で、当時のアカデミー賞で最優秀脚本賞を取った作品だそうです。ファーゴって? まあ、そう思って見始めたのですが、ミネソタ州の町の名前、五大湖の西側、カナダと国境を接するような田舎です。 その田舎町の借金まみれの小心男が仕組んだ、まあ、茶番としか言いようのない「狂言」誘拐計画が大事件になってしまうという、なんだか見ていて疲れる犯罪映画でした。「これが脚本賞か?!」 正直いって、そう思いました。 ただ、そう思ったのは2026年の「今」見ているからかもしれません。 というのは、この映画の、たぶん、優れているところは「心理描写」というか、人間の行動の外面と内面のギャップを、出てくる登場人物全員に、実にあからさまに演じさせているところだと思うのです。しかし、おそらく、映画が作られた90年代当時には斬新だったんじゃないかと思わせる、その人間造形は、2026年の、今、この作品を見る老人には、ある意味、ありきたりで、暗いだけの印象しか与えないんですね。いや、ホント、何とかしてよ!と言いたくなる作品でした。 というわけで、見ている老人にとっての救いは事件を追う警察署長の役でフランシス・マクド―マンドさんが出てきてくれたことです。 ある意味、彼女が主役のようでしたが、そこだけホッとしました。彼女は1957生まれだそうですから30代最後の姿かもですね。 臨月のおなかを抱えた妊娠中の警察署長の役ですが、アメリカの田舎には産休とかなかったんでしょうか?登場人物の中で、まあ、彼女の演じている役柄も、内と外、心と行動、私生活と公務、同じパターンの演出なのですが、彼女だけには「深さ」のようなものを感じられて、まあ、ヒイキだからかもですが、ホッとしました。拍手!でしたね。 監督・脚本 ジョエル・コーエン製作・脚本 イーサン・コーエン撮影 ロジャー・ディーキンス美術 リック・ハインリクス音楽 カーター・バーウェルキャストフランシス・マクドーマンド(マージ・ガンダーソン ブレーナード警察署長)ジョン・キャロル・リンチ(ノーム・ガンダーソン マージの夫・画家)スティーブ・ブシェーミ(カール・ショウォルター 「変な顔」と呼ばれる誘拐犯)ピーター・ストーメア(ゲア・グリムスラッド 無口な誘拐犯)ウィリアム・H・メイシー(ランディガード 自動車販売会社営業部長)ハーブ・プレスネル(グスタフソン 社長 ランディガードの義父)1996年・98分・G・アメリカ原題「Fargo」2026・03・04・no043・元町映画館no348追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.03.06
コメント(1)

高橋源一郎・辻信一「弱さの思想」(大月書店) その当時、それぞれが明治学院大学の先生であったお二人、文化人類学の辻信一さんと小説家の高橋源一郎さんが2010年4月から「弱さの研究」というテーマで始められた共同研究は、「弱さの思想」、「雑の思想」「あいだの思想」(それぞれ大月書店)という、3冊の対談集に纏められて10年がかりで完結していたようですが、2026年の、今になって、研究のゴールにあたる「あいだの思想」の面白さにハマって、「雑の思想」、「弱さに思想」と逆方向から読みなおしました。 というわけで、今日の案内は、出発点にあたる「弱さの思想」という対談集です。 社会的弱者と呼ばれる存在がある。たとえば、「精神障害者」、「身体障害者」、介護を必要とする老人、難病にかかっている人、等々である。あるいは、財産や身寄りのない老人、寡婦、母子家庭の親子も、多くは、その範疇に入るかもしれない。自立して生きることができない、という点なら、子どもはすべてそうであるし、「老い」てゆく人びともすべて「弱者」にカウントされるだろう。さまざまな「差別」に悩む人びと、国籍の問題で悩まなければならない人びと、移民や海外からの出稼ぎ、といった社会の構造によって作り出された「弱者」も存在する。それら、あらゆる「弱者」に共通するのは、社会が、その「弱者」という存在を、厄介なものであると考えていることだ。そして、社会は、彼ら「弱者」を目障りであって、できるならば、消してしまいたいなあ、そうでなければ、隠蔽するべきだと考えるのである。 だが、ほんとうに、そうだろうか。「弱者」は、社会にとって、不必要な、害毒なのだろうか。彼らの「弱さ」は、実は、この社会にとって、なくてはならないものなのではないだろうか(かつて、老人たちは、豊かな「智慧」の持ち主として、所属する共同体から敬愛されていた。それは、決して遠い過去の話ではない)。 効率的な社会、均質な社会、「弱さ」を排除し、「強さ」と「競争」を至上原理とする社会は、本質的な脆さを抱えている。精密な機械には、実際に必要のない「可動部分」、いわゆる「遊び」がある。「遊び」の部分があるからこそ、機械は、突発的な、予想もしえない変化に対処しうるのだ。社会的「弱者」、彼らの持つ「弱さ」の中に、効率至上主義ではない、新しい社会の可能性を探ってみたい。(P11~12) これが高橋源一郎さんが大学に出された研究の趣意書だそうです。 2010年当時の、まあ、今でもそうだと思いますが、いわゆる「新自由主義」的な、競争・効率を至上主義としたグローバル社会という風潮が蔓延し始めた時代の中で、競争に勝つ「強さ」に対して、「弱さ」に着目した鋭さが研究のキモですね。 面白いのは、研究が始まって1年後、「強さ」を自惚れていた現代社会が東日本大震災という自然の「強さ」の前に、その「脆さ」を露呈するという事態が、お二人の研究に深さと広さを与えているところですね。 「社会」と「個人」という二項対立を前提とする「強さ」と「弱さ」という、言ってしまえば人間様様的な概念そのものの構造が「自然」の「強さ」の現前によって、実に、あっけなく、ひっくり返るという出来事によって二人の研究は、重層的な深さを獲得することことになったといえばいいのでしょうか。 ちょうどその時代に「弱者」である退職老人生活に突入し、70歳を越えた老人には、お二人の対談、フィールドワークとして出てくる「べてるの家」をめぐる考察、「祝島の反原発」の姿、まあ、他にも知らなかったことがいろいろ報告されていて、まあ、実にタイムリィーで、一から十まで「うん、うん、そうそう。」「へえー、そういう活動しているんだ!」の連発でした。 70年間、何の気なしに暮らしてきた社会に対して、初めてかもしれません。「自然」の中で生きてきた自分自身もふくめた人間社会の諸相について、マジメに、具体的に考え始めるモチベーションを与えてくれる面白い本でした。 とりあえず、目次を貼っておきます。はじめに第一章 ぼくたちが「弱さ」に行きつくまで第二章 ポスト三・一一~「弱さ」のフィールドワーク第三章 「弱さ」の思想を育てようおわりに2026-no026-1241追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.03.05
コメント(1)

キウィ・チョウ「幻愛 夢の向こうに」シネリーブル神戸no363 なんか、題名の「幻愛」とかいう変な言葉をみてちょと引いたんですけど、香港の映画ということで見ました。 ボク自身、その病気の具体的な症状について、まったく知らないのですが統合失調症という病気である青年と、見ていて、こっちの方が大変なんじゃないかという気がした、対人的な関係に対して、かなりな精神的「障害」を患っていらっしゃるとしか思えない女性との、まあ、映画的にいうのであれば純愛メロドラマで、面白かったのですが、、今どきの「生きづらさ」とかいうはやり言葉に沿えばヒューマン・ドラマと呼ぶべきでしょうか。 主役の二人、いや、三人を演じたテレンス・ラウとセシリア・チョイというお二人が、そのまま、映画の世界じゃなくて、現実においても結ばれてしまったというイワクつきの作品だったようで、ちょっとびっくりでした。 感じたことは、こういう病気ネタというのを、まともに物語化するのは勇気がいっただろうなということでした。大体、邦題を、多分、中国語的には問題はないのでしょうが、「幻愛」なんていう日本語にはない用語をそのまま使っているところに「なんだかなあ・・・」だったのですが、主人公の「幻覚」の映像化が、はたして、ホントにこういうことってあるのかな?と疑わせる内容だったことにも疑問を感じながら見ていました。主人公の幻覚に登場するヤンヤンという女性との出会いのエピソードはともかくも、黒ヤギと少年のエピソードは、幻覚の物語の解釈のプロットとしてはよくできているのですが、はたして、ホントにこういうシーンが主人公に湧くものかどうか、こういう映画とかで、この病気のことをわかった気になるための作り事である印象が残って、考えちゃいましたね。 ただ、映画全体のというか、メロドラマとしての物語の展開と結末には涙がこぼれました。こんなふうに苦闘して生きている人が、きっといらっしゃるわけで、青年を演じたテレンス・ラウという俳優さんも、ヤンヤンちゃん、ラムちゃんを演じたセシリア・チョイという女優さんも気に入りました。拍手!ですね。 見終えて、家に帰って来て同居人にチラシを見せながら、えっ?でした。「今日は、これ。テレンス・ラウとセシリア・チョイとい人らしい。やっと、香港のスターの名前を覚えられそうや。」「テレンス・ラウってこの男の人?」「うん、この前見た九龍城とか長安のライチとかにも出てたらしいけど、今日のでしっかり覚えた(笑)。」「この人村上春樹読んでるやん。」「えっ?」 そうなんです。電車で主人公が読んでいたのは村上春樹だったんです。映画では、電車の中での、二人が顔をくっつけ合うシーンがあったことは覚えているんですが、主人公が手にしていた本の著者には気付けなかったですね。 で、同居人とふたりでチラシをにらんで、この本が村上春樹の『が走ることについて語るときに僕の語ること』であろうということにたどり着きました。そういえば、主人公はジョギングをしてましたし。でも、映画を見ながら気づきたかったですね(笑)。まあ、映画の物語と村上春樹に関係があるのかどうかはわかりませんけど。監督、脚本、製作 キウィ・チョウ脚本、製作 フェリックス・ツェン製作 ウィニー・ツァン アンドリュー・チョイ撮影 ダニー・シト音楽 インターミュージックプロダクション美術、衣裳 アルバート・プーン編集 エミリー・リョンキャストテレンス・ラウ(レイ・ジーロック)セシリア・チョイ(ヤンヤン/イップ・ラム)パウ・ヘイチンプン・チャンリョン2020年・119分・G・香港原題「幻愛」・英題「Beyond the Dream」2026・03・02・no042・シネリーブル神戸no363追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.03.04
コメント(1)

温又柔「恋恋往時」(集英社) 2026年になって、最初に読んだ小説がこれです。初めて読む作家です。読んだのは温又柔「恋恋往時」(集英社)です。 名前は「おん ゆうじゅう、Wen Yourou」と読むそうです。台湾の台北市で1980年に生れて、3歳から日本で育った、多分、台湾の人です。 ウキペディアによれば「日本の作家」とされていますが、日本語で書く作家であることは間違いなさそうですが、日本の作家と呼ぶべきなのかどうか、ちょっと疑問です。 空港にいる。出国審査場は三つのゾーンに区切られていた。右端には、出国する日本人が並ぶための列が複数用意されている。中央のゾーンには、日本に来ていた旅行者や渡航者が帰国の手続きをするためのカウンターに続いていた。そのどちらでもなく、ベルトパーテーションで隔てられた最も左側にある、一つしかない列の最後尾に私はつく。すぐ前に並んでいたのは、小学生ぐらいの二人の子どもとその両親という家族連れだった。偶然にも、四人は私と同じパスポートを手にしている。それで、つい耳をそばだてる。幼い兄と妹は日本語で話しているけれど、彼らの両親は中国語で喋っている。妹の声が甲高くなると、ウルサイヨ、と母親が日本語でたしなめる。父親も子どもたちの方を振り返り、あんまり騒いでたら台湾のお祖父さんにお前たちはいい子じゃなかったと伝えるぞ、と中国語で言い聞かせる。だってお兄ちゃんが笑わせるんだもん、と言い訳する女の子は日本語のままだったが、ぼくは声を出していないから祖父ちゃんに叱られるのはこいつだけ、とおどけてみせる男の子は流暢な中国語になっている。この家族は普段からこんな感じなのだろう。それぞれが、自分にとって最も喋りやすいことばで喋る。家族が相手なら、何語を喋っても伝わるはずだとお互いに信じているのだ。空港に来ると、こういう家族をよく見かける。(P8~9) 本書の最初に収録されている「二匹の虎」という作品の書き出しです。ちょっと長くなりますが引用を続けます。 日本のパスポートは持っていないけれど、日本に住んでいる私たちの列は短く、たちまち彼らの番になる。まずは、父親と息子。つつがなく通過する。続いて、母親と女の子の番だ。審査官が何か質問をしている。それをカウンターの向こうに移った父親が心配そうに見つめている。いいえ、と、審査官と話す母親が中国語訛りの日本語の声が大きくなる。「この子、日本で生まれました」 少し長引いたものの、ほどなく母娘も通過を許される。四人の家族が出国カウンターのあちら側で再び合流する様子が見える。幼いあの兄妹のように、台湾のパスポートを持ちながら日本で育ったという境遇を分かち合えるきょうだいが私にもいたら、今、ここに一人ではいなかったかもしれない。こちらより一段高い位置に座った入国審査官と目が合う。私は一歩前に進み、パスポートだけでなく、在留カード―運転免許証とほぼ同じ形―も同じタイミングで差し出す。何度も繰り返してきたことだった。それなのに、毎回、この瞬間はやけに緊張する。台湾のパスポートと日本の「永住者」であることを証明する在留カードをじっと眺められるのを、ただ待つしかない間が特に。幸い、審査官が想定外の質問をすることはなかった。通過してしまえば、あっさりしたものである。カウンターを通り抜けて、つい数秒前まであちら側だったこちら側で私は、自分のパスポートに新たに加わったスタンプの文字を見つめる。IMMIGRATION出国DEPARTED入国審査官‐日本国HANEDAA.P.13.MAR.2023 そのすぐ隣には、前回―もう三年も前のことだ―の「再入国」記録がスタンプされていた。上陸許可(再)12.JAN.2020HNEDAA.P.入国審査官・日本上陸許可。毎回のことながら、仰々しい表現と思う。三歳になったばかりの頃の初上陸以来、私は日本への「再入国」を四十年近く繰り返してきた。(P11) 本書には、この作品のほかに「被写体の幸福」、「君の代と国々の歌」、そして表題作の「恋恋往時」の三作、合計、四つの作品が収められています。 「二匹の虎」から引用した、上の場面で、書き手である「私」は祖父母が暮らしていた、台湾にある父の実家に帰るために羽田空港で飛行機を待っている場面です。 で、書き手である「私」がここから書いていくのは、台湾での一族再会のシーンとか、そこで繰り広げらる中国語、台湾語、日本語という三つの言葉がぶつかり合う、「私」が生きている世界です。 小説中の「私」が、この作家の創作であることは、まあ、お読みにならばわかると思いますが、よく似た情景を描いている四つの作品の「私」が、必ずしも同じ人物ではないことから明らかです。 描かれている時間は、西暦2000年を過ぎたあたり、戦前の大日本帝国による植民地支配の中で「日本語」を公用語として学校で学んだ世代が「私」の祖父母、戦後、国民党が「北京官話=中国語」を話す人たちとして登場した時代に育った人たちが、父母、伯父、伯母として、その次の世代がいとこたちと、姪とか甥として暮らしている「現代」です。 それぞれの作品に登場する「語り手」である「私」に共通しているのは、引用にある子供たちのように、まあ、「日本語」に限りませんが、複数のことばで暮らしてきたことです。 温又柔という人は、「台湾生まれ日本語育ち」(白水Uブック)という本で「国語」ということに対して語り、高く評価された人です。この小説は、読みようによれば、その論議、あるいは、思考の小説化というふうに読めると思います。そう読むことに、格別の異論があるわけではありません。しかし、それぞれの作品で描かれる「家族の会話」のシーンには、この作家の小説家としての力量が輝いているとボクは思うのです。こんなシーンです。 従兄と私の母親はどちらも寅年。だから私たちは、兩隻小虎(二匹の子虎)と言われた。走るのがものすごく速い虎たちの歌は、そんな私たちが歌うのにぴったりだった。 ―かわいい二匹の子虎ちゃんだこと!あんたたちのお母さんは、どちらも寅年だものねえ。 私たちにそういった時の大叔母は上機嫌だった。ずっとあとになってから私は知る。大叔母の赤ん坊も、寅年に生まれるはずだったのだ。 ―あの歌、きらいよ。耳や尻尾ががないからって、二匹の虎はちっともおかしくないのに。 「兩隻小虎」についてはそう言っていた母が、まったく同じメロディーで、グーチョキパーで、グーチョキパーで、と歌うのはとても楽しんでいた。私は、突然思い出す。石頭と剪刀と布が日本語ではグーとチョキとパーと言うのだ知った日に、私は母に教えたのだった。 ―カタツムリは蝸牛のことなんだよ。 幼稚園の先生が、蝸牛の絵を示したので、私はそれがカタツムリと呼ばれているのを知った。四歳から五歳になる時期の私は、そんなふうにして少しずつ日本語を身につけていった。 中略 石頭(グー)と剪刀(チョキ)と布(パー)で、いろんなものを作ることができるのを示すために私は、教わったばかりの歌を母に向かって元気よく歌ってみせた。私の右手と左手で出来上がったカタツムリに母は拍手してくれた。得意になった私は次々といろんなものを作る。チョウチョ、カニ、もう一度、カタツムリ・・・・そのつど、母に教える・・・・(「二匹の虎」P71) 旅先での会話と、その場での回想のシーンです。子供の頃を思い出すシーンには異なった言葉を生きている母と娘という「台湾生まれ日本語育ち」の作家の創作意図があることは明らかですが、家族の姿の描写には、ボクの好みの小説家が潜んでいると思います(笑)。たぶん、続けて読んでいくと思うのですが、皆さんいかがでしょう。2026-no015-1230追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.03.03
コメント(1)

「オッ!さんぽ 寒かった二月も終わります。」 徘徊日記 2026年2月28日団地あたり 団地の梅の花です。写真は少ないですが、一面、梅林状態で、梅の名所を訪ねて電車に乗る必要は感じません。 こっちは紅梅です。こちらは玄関の横に咲いている椿です。満開です。 はて?落ちた花を並べたのは誰でしょう。この棟には、こんなふうに遊んでくれる子ども姿が、ほとんど見えなくなって久しいのですが。 そういえば、ここのところ、玄関にも椿でしたが、落ちた花はこうなってました。 2026年の2月、如月が終わりますが、神戸でも雪が舞った日もありましたね。写真があったので載せておきます。 さて、いよいよ春、弥生ですが、暖かい日が続いてほしいですね。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうで
2026.03.02
コメント(1)

ハ・ジョンウ「ロビー!」キノシネマ神戸国際 つい先だって、年に一度の旧友交歓会の席で、同い年の友人がゴルフ三昧の楽しい日々の暮らしについて語りながら「シマクマ君もゴルフどう?楽しいよ(笑)。」 まあ、そんなふうにいわれても、ボールがどんなボールかぐらいは知っていますが、バットじゃなくて、クラブっていうらしいですが、触ったことくらいはありますが、ただの一度も振ったり、当てたりしたことすらないわけで、その時は「ふーん、そうなん?」と、無関心を決め込んでいましたが、キノシネマのプログラムを見ていて「これって、ゴルフやん。」というわけで、見てきました。 ハ・ジョンウという韓国の人気俳優さんが監督・脚本・主演で頑張っていらっしゃる「ロビー!」という作品です。 ボクには縁のない世界ですが、多分、日本にもあるでしょうね、接待というのでしょうか、商売している人が、お役人に便宜を図ってもらいたくてゴルフ場でよいしょする!という映画でした。 こういう行動を「ロビー活動」と呼ぶということを初めて知りましたが、邦画だったら見なかったし、笑えなかっただろうなという作品でした。 無責任なようですが、韓国という社会の映画ということで、実に純情なチャンウク社長やゴルファーのジンちゃんに共感したり同情したりできますが、どうせ、こういうことが日本とかでも横行しているんだろうなとか、まあ、そう思うからこそ、邦画だったらアホらしくて見てられなかったでしょうね。 まあ、これを見ていて、ゴルフというのが、個々の他者との付き合いを前提にしたスポーツであるようで、めんどくさいな!でした。 やっぱりボクは、なるべく誰も見ないような映画とかを、一人で見に出かけるのが性に合っていますね(笑)。監督・脚本・主演 ハ・ジョンウ脚本 キム・ギョンチャン 撮影 ソ・ジョンオ編集 キム・サンボム キム・ホビン音楽 タル・パランキャストハ・ジョンウ(チャンウク 青年社長)キム・ウィソン(チェ室長 政府の役人)カン・ヘリム(ジン 女性プロゴルファー)イ・ドンフィ(パク ワイロ斡旋記者)パク・ビョンウン(グァンウ ワイロ付きのライヴァル社長)カン・マルグム(チョ長官)チェ・シウォン(マ・テス 意味不明の俳優)チャ・ジュヨン(ダミ ゴルフ場の社長の妻)パク・ヘス(オーガストゴルフクラブ社長)クァク・ソニョン(キム理事 社長の部下)オム・ハヌル(ホクシ 社長のいとこ)2025年・106分・G・韓国英題「Lobby」2026・02・28・no041・キノシネマ神戸国際no59追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.03.02
コメント(1)

極私的アーカイブ パルシネマ新公園 2022※それぞれの題名かチラシをクリックしていただければヘボ感想記事に行けると思います。2022・03・24 ロブ・マーシャル「シカゴ」 パルシネマno422022・11・12 パーシー・アドロン「バグダッド・カフェ」 パルシネマno432022・11・12 アキ・カウリスマキ「街のあかり」 パルシネマno442022・11・28 バズ・ラーマン「エルビス」 パルシネマno462022・11・25 是枝裕和「ベイビー・ブローカー」 パルシネマno492022・12・19 ブルース・ベレスフォード「ドライビング・MISS・デイジー」 パルシネマno512022・12・19 バリー・レビンソン「レインマン」 パルシネマno502022・12・27 フランク・ダラボン「ショーシャンクの空に」 パルシネマno512022・12・27ヨアン・マンカ「母へ捧げる僕たちのアリア」パルシネマno52 ※2022年の記録。追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.03.01
コメント(1)

ヨアキム・トリアー「センチメンタル・バリュー」シネリーブル神戸 予告編を見ていてこれは見よう!という気持ちで待っていました。 ヨアキム・トリアーというスウェーデンの監督の「センチメンタル・バリュー」です。 「父と娘」、「姉と妹」、「家族と家」、「監督と女優」、「舞台と映画」、思い浮かべていた「~と~」が全部出てきて、ちょっとビックリ(笑)。 「家」に至ってはナレーション役までしていて、映画の中で、「Sentimental Value」という英語に「愛着のあるもの」という邦訳がつけられているのを見て「ナルホド、家か!」と納得して見終えました。 「妻」と「娘たち」を捨てて出ていった「父」が、「母」の葬儀の日に「家」に帰って来たところからストーリーは始まりました。 見終えたボクは「姉と妹」の物語として胸うたれたのですが、見ていてハッとしたことは、見ているボクが、今まで感じたことのない視点で見ていることでした。 今までであれば、女優である姉のノーラか、家庭を持った学者の妹アグネスの立場で見ていたはずのこの作品の成り行き、だから「子」の眼で「父」を見ていたに違いない「親子」の物語を、映画の中盤、父親グスタフの年齢が70歳であるとわかるシーンがあるのですが、その瞬間に、ボクが父親の彼に心を重ねて見ていたことに気づいたのです。 子供の頃に母親を失ったグスタフ少年が、70歳になった、今、幼い日に、この家で体験した母の自死という忘れられない体験を、自ら捨てた娘ノーラにあてがきしたシナリオを持って娘たちの前に帰ってくるという、娘たちの立場からみれば許しがたい物語なのですが、ボクにとっては、この父親、そして、70歳の老人にとっての「センチメンタル・バリュー」こそが、リアルで、実によくわかるという展開に見えたわけで、まあ、年齢に対する思い入れにすぎないのかもなのですが「これって、なんなの?」だったわけです。 「親と子」という視点からみれば、母親の描き方があまりにも希薄な印象が残りましたが、最後になって、なにかを取り戻そうとする、まあ、自分勝手な父親の生きざまの哀しさには打たれました。 ああ、それから、お姉さんのノーラのレナーテ・レインスベもすごくいいのですが、妹アグネスを演じたインガ・イブスドッテル・リッレオースの表情がとてもよかったですね。拍手! 舞台がノルウェーなんですね。背景にある北欧の風景、これもいいですね。拍手!監督・脚本・製作総指揮 ヨアキム・トリアー脚本 エスキル・フォクト製作 マリア・エケルホフド アンドレア・ベレントセン・オットマール製作総指揮 レナーテ・レインスベ ステラン・スカルスガルド エスキル・フォクト 撮影 キャスパー・トゥクセン・アンドレセン美術 ヨルゲン・スタンゲビー・ラーセン衣装 エレン・ダーリ・イステヘーデ編集 オリビエ・ブッゲ・クエット音楽 ハニャ・ラニキャストレナーテ・レインスベ(ノーラ・ボルグ 姉・女優)ステラン・スカルスガルド(グスタフ・ボルグ 父・映画監督)インガ・イブスドッテル・リッレオース(アグネス・ボルグ・ペッテルセン 妹)エル・ファニング(レイチェル・ケンプ 女優)アンデルシュ・ダニエルセン・リー2025年・133分・G・ノルウェー・フランス・デンマーク・ドイツ合作原題「Affeksjonsverdi」2026・02・25・no039・シネリーブル神戸no361追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2026.03.01
コメント(1)
全39件 (39件中 1-39件目)
1

![]()
![]()