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このところ、お墓ばかりをご紹介しています。もう少し続きますが、ご容赦を。さて、京阪本線・鳥羽街道駅から東へ700メートルほど、徒歩8分のところに、このような階段があります。階段を上って左に折れると、その先はさらに上り坂になっています。途中に、「崇徳(すとく)天皇皇后聖子(きよこ)月輪南陵」と書かれた陵があります。崇徳天皇は平安末期の天皇で、その皇后・聖子は、摂政関白太政大臣・藤原忠通の長女です。崇徳天皇と聖子との間には子ができなかったそうです。保元元年(1156年)の保元の乱では、父の藤原忠通と夫の崇徳上皇が敵として戦い、崇徳上皇は敗れて讃岐に流され、聖子は出家しました。さらに奥へと歩いていくと、「仲恭天皇九條陵」があります。仲恭天皇は鎌倉時代の天皇で、順徳天皇の第一皇子です。承久3年(1221年)の承久の乱(じょうきゅうのらん)で、討幕の兵を挙げて敗れた後鳥羽上皇や順徳上皇などが流罪となります。わずか4歳で即位した仲恭天皇でしたが、このとき天皇の位を譲り、後堀河天皇が即位しました。仲恭天皇の在位78日間は、歴代天皇の中で最短です。そもそも仲恭天皇は即位が認められていなかったのですが、明治になって認められ、仲恭天皇と追号されたという経緯があります。
2013年10月27日
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京阪本線・鳥羽街道駅の東300メートルほどのところに、南明院(なんめいいん)という寺院があります。山号は凌雲山で、南明禅院とも呼ばれます。東福寺の塔頭のひとつです。門の前の石碑には「徳川家康公正室旭姫墓」と書かれていました。旭姫といえば豊臣秀吉の妹。秀吉によって無理やり離婚させられ、天正14年(1586年)、徳川家康の正室になったという話は有名ですね。ちなみに天正16年(1588年)には母親(大政所)の病気見舞いを口実にして聚楽第に住んだとか。天正18年(1590年)に没しました。寺院内の旭姫の墓所です。徳川家康の正室になる前のことは、あまりよく知られていないようです。 京都市東山区本町15丁目京阪本線・鳥羽街道駅より東へ徒歩5分
2013年10月22日
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京阪本線の鳥羽街道駅から東へ、細い道を抜けて行くと、とある道の角に、石碑が立っていました。「五條三位俊成卿 兆殿司 墓道」と書かれています。五條三位俊成卿」とは、藤原俊成(ふじわらのとしなり)のことです。千載和歌集(文治4年=1188年)の編者として知られております。「しゅんぜい」と呼ばれることも多いですね。邸宅が五條京極にあったこと、正三位の地位にあったこと、のちに出家したことから、五條三位俊成とか、三位入道とも呼ばれていたそうです。ちなみに、墓地はというと、一番上の写真の左奥、民家のガレージシャッターの前を右に曲がって階段を上がったところにあります。かなり予習してから行かないと、なかなか見つけることは難しい場所でした。階段を上がって墓地の奥に進むと、一段高い場所に塀で囲われた墓所があります。正面左側に2つの五輪石塔が建っています。向かって右側が藤原俊成の墓、左側が浄如禅尼の墓と言われています。浄如禅尼は、俊成の娘だとも言われています。正面の大きな石は、室町時代初期の僧で東福寺第百十一世・業仲明紹上人の墓です。南明院(この墓所の北側にあり、東福寺の塔頭)を開山した人でもあります。右側の五輪石塔は、南明院の二世であり画僧として知られる吉山明兆の墓です。明兆は室町時代初期に活躍した絵師で、東福寺に入って画僧となりました。東福寺でのお役目が殿司(でんす)だったことから、「兆殿司(ちょうでんす)」とも呼ばれていました。京都市伏見区深草願成町京阪本線・鳥羽街道駅から南東へ徒歩8分
2013年10月20日
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公私ともに多忙で、1か月以上ご無沙汰してしまいました。ブログ更新もままならない状況ですが、元気でやってますので、どうぞご心配なく。さてさて、少し前になりますが、重要な仕事のため、4泊5日で香港に出張しておりました。夜9時も30分ほどすぎたころでしょうか、とつぜん、ドアをノックする人が。ドアののぞき穴から見ると、ホテルのボーイが手にケーキを持ってドアの前に立っています。ホテルからの誕生日ケーキの差し入れでした。普通なら「うれしい」のでしょうけど、まったく予期していなかったことで、ただただ「びっくり」。下に敷いている紙がほぼCDほどの大きさでしたから、直径12センチくらいですね。高さ2~3センチのチーズケーキでした。その夜は、食事をしたあとでしたけど、4分の1ほどおいしくいただきました。残りは備え付けの冷蔵庫に。翌朝、朝食の代わりに2分の1を食べて、残り4分の1は、残念ながら残してしまいました。
2013年10月14日
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