全5件 (5件中 1-5件目)
1
![]()
本著は、ハウツー本の類では決してなく、完全なるエッセイです。 もちろん、定年後の暮らしの中で、色々なことを試みられているので、 それらを参考にすることは出来ます。 でも、それは著者独自の行動であって、読者の行動に直結するものではありません。 本著は、2010年8月に発行されました。 なので、ちょっとだけ昔の状況として読む必要があります。 著者は京大卒業後、大成建設で理事まで務めた方ですが、 そんな経歴をちらつかせることなく、淡々と定年後の生活を綴っています。 もちろん早めに会社に見切りをつけて悠々自適を楽しむ方、 請われて転職する方もいますが、 ほとんどの人は「曖昧な役職定年」「厳しくなった定年再雇用」という流れで 会社人生のエンディングを迎えます。 昔のように会社に片足を置きながら、次の生活を準備するという余裕は 会社にも当人にもなくなっているいるようです。 どちらかといえば会社人生を「引っ張れるだけ引っ張る」ことになります。 定年近い会社員はこれからのことを考え、 もっと自分本位になっていいような気がします。 会社は「再雇用社員の業績評価」まで始めて 少しでも働かそうとしているようですが、どうなのでしょうか。(p.35)会社人生を「引っ張れるだけ引っ張る」。これが多くのサラリーマンにとって、選択可能な唯一の現実ではないでしょうか。新たな収入源を、他の場所で得ようとする勇気や気力はもう湧いてこない。会社に片足を置きながら、次の生活を準備することは、実際にはそう簡単ではない。かと言って、収入が途絶えてしまうことには大いに不安が残る。そうやって、思うような正解に辿り着けず、悶々としながら時間を浪費していくうちに、「引っ張れるだけ引っ張る」しかない状況に追い込まれていくのです。まぁ、これも「引っ張れる」状況があればこその、贅沢な悩みですが。 Hさんからは「定年後のサラリーマンは『エンジョイ・ハード、Enjoy Hard』。 自分一人では遊べない、遊び方・楽しみ方を知らない、金の使い方を知らない、 意味のない時間の過ごし方がわからない」と言われました。 Mさんからは、「こんな生活をしていて息が詰まらないですか」と言われました。 本書が半分くらい書き上がったときに見ていただいた先輩方の意見です。 また「何かしないといけないという、強迫観念に囚われてはいませんか」 とも言われました。(p.176)私が本著を読みながら感じていたことを、西さん周辺の方々も、同じように感じられたことが分かりました。しかし、私も、何もせずダラダラと時間を過ごすのは苦手です。「もったいない」「これではいけない」と思ってしまうのです。西さんと同じようになってしまう可能性が高いような気がします。 ただ、定年後八年経ったいま思いますに、 積極的に人の輪を広げよう、 やりたいことはなんでも首を突っ込んでみようと思いやってきたのは、 定年後五、六年ぐらいかなと感じています。 その後は、自分に合ったやりたいことをよりまじめに、 付き合いたいと思う人との付き合いをより深くと、 軸足が変わってきたように感じています。 何もしないで、一日ボーッと過ごすのも 我々の大きな楽しみであり特権と思っています。(p.192)これは、本著の草稿を見てもらった際に、西さんの先輩であるNさんが残したコメント。定年後の月日を重ねる中で、こういった境地に、誰もが至るものなのでしょうか。
2018.02.12
コメント(0)
![]()
私が読んだのは2017年11月に発行された新装版だが、 文庫本は1992年6月、単行本は1986年12月に発行されており、 初出は『文藝春秋』1985年3月号~1986年2月号である。 ちなみに、塩野さんが『ローマ人の物語』を書き始めたのは1992年から。 しかし、この一冊、もうどこをどう切り取っても塩野さんなのである。 1970年に再びイタリアに移り住んでから十数年、 年齢もアラフィフの頃の文章だから、当然と言えば当然なのだが、 「塩野節」は既に確立されており、現在も揺るぎない。私の「塩野作品」への入口は『ローマ人の物語』だった。そのため、私の中では「塩野さん=ローマ」という印象が極めて強烈で、ローマ史以外の歴史上の人物について、塩野さんの思いや考えを知ることが出来る本著は、なかなか興味深く、面白い一冊だった。それでも、本著に登場する14人の男たちの記述の中で、一際目を引くのは、ユリウス・カエサルに関するもの。クレオパトラへの恋文と言う形で記された一文は、塩野さんの彼に対する並々ならぬ思い入れが結実した名文。また、コシモ・デ・メディチについての一文は、現地で生活を営む塩野さんならではのもの。そして、アグリッパについての記述は、オクタヴィアヌスの生涯についての記憶を、久々に私の中に呼び起こしてくれた。ローマ以外の人物では、毛沢東に関する記述が面白かった。『毛主席語録』からの「戦争は別の手段による政治の継続である」、「政治は血を流さない戦争であり、戦争は血を流す政治であるといえる」という引用部分には、私も大いに興味をひかれた。そして、次の部分には、塩野さんがどんな考えの持ち主なのかが、端的に記されていると感じた。 ある国際シンポジウムで、私は、民主主義は欧米の輸出する最後の宗教か、 とやって列席の欧米人たちから大反撃をくい、 主催者側の日本人を恐縮させたことがあったが、 百五十以上もある世界のすべての国に民主主義を押しつけるのは、 欧米人の傲慢だと思っている。 その国には、その国にふさわしい政体があってよいのだ。(p.158)これは、次の記述にも通じていくものである。塩野さんらしい。 ペリクレスの死後、アテネの衆愚政治はじまる、とは、 高校の世界史の教科書にも書いてある。 それで、私などは考えてしまう。 民主政治とは、優れた能力をもつ人びとがその他多勢をリードする制度であり、 衆愚政治とは、その他多勢が自分たちの考えで行う制度であるのか、と。(p.21)
2018.02.12
コメント(0)
![]()
私は、日々のあれこれに、基本こんなスタンスで接している。 世間に出回る情報というものは、断片的かつ表面的なものに過ぎず、 真に核心的な事実は、表に出てこないケースも多々ある。 タブーとされる裏事情がそこにあれば、なおさら。 さらに、そこには商業ベースや思想信条に由来する発信者の思惑と、 それを受け取る側のニーズが大きく関与する。 これらのことが相まって、私たちが普段得ている情報の多くは、 程度の差はあれ、事実とは異なったものになっている可能性が大きい。 *** しかし、「週刊文春」が証言を得た「ホテル関係者」が 「ホテル従業員」である保証はまったくない。 むしろ、週刊誌業界の仕事の裏側を知っている人ならば 「ホテル関係者」≠「ホテル従業員」であることはすぐわかる。(p.75)このレベルのことなら、当然承知の上で週刊誌に接するべきだとは思うが、残念ながら、こういったことを世間に知らしめてくれる場は、ほとんどない。そして、ここに生じる誤った認識が、誤った世論形成に繋がる可能性は否定できない。さらに、そういった状況を意図して導き出そうとしている情報発信者もいるかもしれない。 インターネットが非難や罵声で埋め尽くされているように見える「炎上」も、 実態は数人~数十人が騒いでいるだけ、という指摘だ。 その程度の規模の人数が、あたかも社会の多数であるかのように自分を偽装し、 ブログを閉鎖に追い込んだり、記者会見をさせたりしうる、という話である。(p.80)『ネット炎上の研究-誰があおり、どう対処するのか』(勁草書房・2016年)という、計量経済学者の田中辰雄・山口真一両氏による著作から例を引き、述べた部分であるが、これも「一人の発信者が複数のアカウントから発信することができる」ことを知っていれば、「さもありなん」と、冷静に受け止めることが出来るのではなかろうか。 ゆえに私は、旧メディア・インターネット問わず、 現実の人間を「善人」「悪人」「英雄」「勇者」「偉人」「達成者」など 一面的な記述をする情報ほど、疑う。 「まったく信じない」というほどでもないが、警戒して読む。 「ウソは言っていないが、本当のことも言っていない」と考える。 複雑で、ねじれて、矛盾した記述の方が「現実的」である。 つまり「事実に近い」可能性が高い(p.146)著者は、人間を、その中に全く正反対の、時には矛盾する資質を同居させ、ベクトルが真逆の行為することもある矛盾した存在であるとしたうえで、その相反する両面を「等しく」「公平に」みる「フェアネス」の重要性を説く。単純で理解しやすい話は、「現実」から遠ざかっている可能性が高いのだ。 新聞やテレビの第一報は、「午前中~昼ごろ」「午後~午前0時ごろ」という 半日×2回の締め切りのサイクルで事実を切ってしまう。 そして一度報じた事柄は振り返らない。 だから「半日間だけ有効の事実」しか出てこない。 インターネットのニュースに至ってはもっと更新のサイクルが細かい。 個々の記事はきわめて小さなピースに断片化されてしまい、 相互のつながりも、全体像も見えない。 短時間の作業なので誤報や誤記は最初から織り込んでおいたほうがいい。 後から訂正されることも多々ある。(p.242)改めてこう書かれると、少々ショックである。新聞やテレビ、インターネットから流れ出る情報は、この程度のものなのである。真実の全貌が明らかになるのは、随分と時間がたってから。しかし、世間の多くの人たちは、それに接する機会を積極的に得ようとはしない。
2018.02.12
コメント(0)
![]()
岩崎弥太郎に始まる「三菱」の歴史。 戦後の財閥解体を経て、1950年代に入ると再集結開始。 2017年3月期における、グループ上位10社の総資産額は400兆円超。 グループ全体38社だと、推定450兆円に達するという。 三菱油化の天下り受け入れ拒否から三菱化成との合併劇まで 1993~1994年当時の金曜会の会員企業数は現在より1社多い29社。 その顔ぶれには若干、変化が見られるが、 この間、変わらずに中枢をなしてきたのが 三菱重工業、三菱東京UFJ銀行、三菱商事の御三家なのである。(p.50) 現在の主要企業は三菱地所、三菱東京UFJ銀行、三菱マテリアル、三菱電機、 三菱ケミカル、日本郵船、明治安田生命保険、東京海上日動火災保険、旭硝子、 キリンホールディングスの10社。 外様は三菱自動車工業、三菱UFJ証券ホールディングス、ニコンなど15社。(p.72)本著は、この三菱グループの強さの秘密を明らかにしようというものだが、第1章は、なぜか「三菱自動車の行方」。本著は2017年7月の発行なので、新しい情報も掲載されているが、内容的には2016年09月発行の『不正の迷宮 三菱自動車』の方が、当然詳しい。そして、第3章が三菱東京UFJ銀行、第4章が三菱商事、第6章が三菱重工業と、御三家について、現在の状況が述べられている。三菱東京UFJ銀行について述べられる、旧三和銀行や東京銀行出身者の立場や、三菱UFJ信託との関係は、まるで池井戸潤の世界。また、三菱商事については、住友や伊藤忠、三井物産とのせめぎ合いよりも、ローソンに関わる記述の方が興味深かった。さらに、三菱重工については、造船業や小型ジェット旅客機の厳しさよりも、原子力事業の不調の方が気になった。そして、本著の核となるべき内容が記されているのは、第2章の『最高意思決定機関「金曜会」の秘密』と、第5章の『三菱を動かす慶応ねとワーク』ということになるのではなかろうか。本著のタイトルからすれば、この部分にもう少し力点を置いてほしかった。
2018.02.04
コメント(0)
![]()
2011年11月、一人の女性が交番に駆け込み助けを求めた。 これを機に発覚した「尼崎連続変死事件」。 当時、マスコミでも連日さかんに取り上げられていたはずだが、 私の記憶には、詳細な情報がほとんど残っていない。 それは、この事件があまりにも複雑で、全体像を掴めなかったからだろう。 本著のp.39、53、55、57には、事件に関係する人々が系図で示されているが、 それは、角田家、皆吉家、谷本家、橋本家、猪俣家、川村家、大江家の7家にも及ぶ。 読書開始早々の段階では、これを見ただけで大いに戸惑い、混乱してしまうものだ。しかし、著者の粘り強い取材によって明らかになっていく事実を読み進めるうちに、この複雑な人間関係が、読む者の頭の中で次第に整理されていくことになる。もちろん、最初の段階では、これらの系図と照らし合わせながら読まないと理解不能。(p.342には年表、p.352には主要関係者一覧、p.366には人物相関図が掲載されている)これまでにも、事件を扱った作品は色々と読んできたが、本著ほど、そこに描き出される光景に、気分を悪くさせられた作品はなかった。そして、「何故?」と思わずにはいられない作品もなかった。さらには、人間の弱さや脆さを感じさせられた作品もなかった。美代子に家や家族を絡み取られた人々は、なぜそこから逃げ出そうとしなかったのか?あるいは、逃げ出すことが出来なかったのか?それは、美代子の狡猾さ故なのか、それとも追い詰められた人間の弱さ・脆さ故なのか。特に、川村さんなどは、そんな風になりそうもなさそうな人なのに……本著にしばしば登場する「民事不介入」と言う言葉。これも、とても恐ろしいものだった。意を決し、警察に駆け込み窮状を訴えても、この一言で片づけられてしまった。もし、どこか早い段階で警察が動いていればと考えるのは、私だけではあるまい。新版で追加された『文庫版補章 その後の「家族喰い」』は、2013年に出版された単行本を既に読んだという方も、この部分を読むためだけに、本著を再度購入して、読む価値があるもの。瑠衣の変貌ぶりには、この事件のもつ怖さを、改めて認識させられた。
2018.02.04
コメント(0)
全5件 (5件中 1-5件目)
1
![]()

![]()